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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その367

b0083728_13205673.jpg個人的経験:
シューベルトの
宗教曲について
考えているうちに、
古い聖歌の「名曲集」を
聴きだして見て、
私は、かなり戸惑っている。
「グレゴリオ」などと呼ばれ、
何だか特別な音楽にも思えるが、
つまるところ、キリスト教の
典礼音楽に他ならないからだ。


したがって、キリスト教あるところに、
必ず、この音楽があり、
時間的にも空間的にも、
それから唱法や旋法など、
様々な視点からの鑑賞が可能となる。

前回までは、様々な曲種分類を学んだが、
今回は、それが演奏された機会ごとに
分類されたCDを聴いてみよう。

このCDは、様々なレパートリーで人気の
アメリカの男声アカペラ・アンサンブル、
「シャンティクリア」が録音したもので、
12人の男たちが草原に立った解説書写真は、
「EXILE」にしか見えない。

表紙写真は、ゴシック風の教会の前に、
神父のようなおっさんが立ちつくし、
かなりお洒落な感じである。

私は、こうした成りすまし系のCDには、
別に、興味がなかったのだが、
安く売られているのを見つけ、
買って、聴いて、割と満足している。

おそらく、素晴らしくうまく、
様々な音色を感じさせる声に変化があり、
そして、録音も良いということなのだろう、
非常に、耳あたりがよく、
まさしくヒーリング効果満点となっている。

TELDECレーベルの、
DAS ALTE WERKシリーズであるし、
単に、BGMであるわけはなく、
ドイツ・キルヒウェルバーというところの、
聖ベルンハルト教会の録音。
しかし、もう20年も前のものだった。

写真で見ると、瀟洒なチャペルで、
これは、ぜひ、この空間を妄想して聴きたいものだ。

表題に「Mysteria」とあるが、
これは、日本では、ミステリーを連想させて、
「グレゴリオ聖歌の神秘」などと
訳されているが、どうなのだろうか。

この語句でネット検索すると、
多数のグレゴリオ聖歌が検索されるから、
これは、むしろ、「儀式」と訳す方が正しかろう。

このCDは確かに、
そのような儀式ごとの分類が特徴になっていて、
・灰の水曜日とレント(Track1~3)
・枝の主日(Track4)
・聖木曜日(Track5)
・聖金曜日(Track6~8)
・聖土曜日(Track9~10)
・復活祭(Track11~15)
・聖母マリアのためのアンティフォナ
(Track16~19)
などと記されている。

これらの祝祭日は、
我々には極めて馴染みのないものだが、
「キリスト教と音楽」(金澤正剛著、音楽之友社)
には、このあたりの事が、最初から書かれている。

キリスト教音楽の理解に重要なことなのだろう。

クリスマスと並んで重要なのが復活祭(イースター)で、
この前にある四旬節(回心の意思表示をする40日)
という期間の中に、
これらの特別な日の解説がある。

・灰の水曜日(四旬節(受難節)の始まり)
・枝の主日(復活祭の前の日曜日、重要な週の始まり)
・聖木曜日(最後の晩餐の日)
・聖金曜日(イエスが十字架にかけられた日)
・聖土曜日(葬られ、墓の中ですごした日)
・復活祭(復活した日)

ということで、
最後の木曜日から復活祭までの
四つは続けざまに来る日であるが、
灰の水曜日は、ずっと前である。
復活祭は春分の頃なので、
まさしく灰色の寒い日かもしれない。

この聖なんとか日に先立つ、
「枝の主日」は、
シューベルトもこれのために作曲しているものだ。

第二ヴァチカン会議で、「受難の主日」という風に、
書き換えられたようなのでややこしい。

シューベルトの作品表を見ていて、
なにこれ、と思っても当然と言えよう。

さて、このCDは、このように、
トラックごとに日を変えて聴かないといけなさそうだが、
解説を読むと、さらなる主題が隠れていることが分かった。

Richard Crockerという人が書いている。

「グレゴリオ聖歌は、
ミサ(聖餐式)や
聖務日課(朝課、賛歌、晩課など)のためのもので、
ローマ・カトリック教会の典礼の、
典型的なラテン語の歌として捉えられている。
現在のレパートリーは、
数百年にわたる期間からのもので、
少なくとも、以下の、
三つの音楽ステージに分けられる。
(1)いわゆるグレゴリオ聖歌(だいたい700-850)
(2)カロリング王朝期(850-1000)
(3)中世(1000-1300)
ここでは、すべての時期のものが取り上げられている。」

ということで、以下、これらの三つの時期について語られる。
では、今回は、この(1)の部分を見て行こう。

「最初の時期からのものは、
厳密な意味でのグレゴリオ聖歌で、
手にしうる最初期の聖歌集にあって、
900曲くらいが残っているが、
どこに、だれによって、
どのように歌われ始め、
どのように作曲され、
どのように発展したのかは分からない。
フランク王国(フランスとドイツ)によって、
レパートリーとして定着したことは注目すべきで、
最初の唱歌集は900年頃のものである。
ここには、入祭文、グラデュアーレ、詠唱、
アレルヤ、オフェッルトリウム、聖体拝領唱など、
ミサのための500-600曲があり、
続く中世期、さらに現代にいたるまで、
聖歌集ごとに小さな編曲が生まれた。」

これで終わるのではなく、
このディスクでの対応音楽が書かれているのが良い。
が、トラックナンバーは書いていないので、
必死で探す必要がある。

「このディスクでの、この種の聖歌の例は、」
と以下の曲名が列挙され、
それらに説明がついているので、
それも含めて聴いてしまおう。

Immutemur(Track1)
・アンティフォナ「衣服を変えよう」
「懺悔の時期の表現力豊かな合唱のアンティフォン。

これは、いかにものグレゴリオ聖歌である。
あまり音楽に装飾がなく、音の幅が狭い。
以下の解説を読んでいくと、
グレゴリオ聖歌の「不規則性」という言葉が出てくるが、
同じ水の流れに、時折、水しぶきがあがるような、
それだけといえば、それだけの音楽だが、
これが、きっと癒しになるのだろう。

曲別解説には、「暗い表現力のあるメロディ」とあるが、
内省する時期のはじめに相応しい。

Dominus Ieus(Track5)
アンティフォナ「ダヴィデの子にホザンナ」
「イエスの行いと言葉についての福音の話の
もう一つのアンティフォン。」

これも、Track1と同様、
地味系で、いかにもグレゴリオ聖歌。
教会の厚い壁に反響する木霊のような音楽。

「聖木曜日」の音楽とあるように、
最後の晩餐の時のエピソードを語るもの。
荘厳で表現力豊かなメロディとあるが、
こうしたシーンでは、なるほどと思わせる。

ヨハネ伝13章からとあるが、
「聖書」を紐解くと、
晩餐の時、イエスは、弟子たちの足を洗ったが、
ペテロは、なぜ、そんなことをするのですか、
と尋ねるシーンがある。
「いまにわかります」と、
イエスが答えるまでが歌われている。

このCDには、歌詞が付いているので、良く分かった。

Laetatus sum(Track3)
グラドゥアーレ「なんと喜ばしいことか」
Alleluia Ⅴ、
Pascha nostrum(Track12)
・アレルヤ「われらの過ぎ越し」
Iubilate Deo(Track14)
・オッフェルトリウム「すべての土地よ」
「これらは、メリスマ的と呼ばれる程、
非常に装飾されたもので、
メリスマとは、一つのシラブルに、
多くの音符がつくものである。」


「Iubilate Deoや、
アレルヤⅤ、さらに恍惚とさえした、
Laetatus Sumにおいて、
このスタイルは、歓喜に沸く感じである。
これは典型的に独唱に向いているが、
Iubilate Deo(Track14)
の最初のように、合唱でも歌われる。
これらの聖歌は、グレゴリオ聖歌の頂点にある。」

Track3.グラドゥアーレ「なんと喜ばしいことか」は、
「法悦の高度に装飾された」とあるが、
独唱者が長い独唱部を、高らかに、
すこし華やかに歌いきると、
合唱がすこし控えめに続く。
「ローマ聖歌の特徴」だそうだ。

Track12.アレルヤ「われらの過ぎ越し」
イースターのミサ用の特別アレルヤ。

これもまた、独唱者が高らかで華々しく、
メリスマは、非常に英雄的ですらある。
合唱は、リーダーに付き従う感じ。

イースター(復活祭)に相応しい、晴れやかな感じ。

Track14.オッフェルトリウム「すべての土地よ」
これは、解説にあるとおり、
合唱部からして華やかなメリスマを駆使。
「詩篇」のテキストによる、精巧な作品とある。
最も印象的なローマ風とあるが、
極めて異教風と聞こえなくもない。

神を讃え、神を恐れよ、と歌われるが、
非常に男性的なたくましさを感じさせる。

「あまりメリスマ的でない、
しかし、それでも精巧で表現力豊かなものは、
修道院の夜のお務めのための
他の二曲のレスポンソリウム
Tenebrae factae(Track6)
(レスポンソリウム「大地は暗くなり」)
Christus factae est(Track9)
(レスポンソリウム「キリストはわれらのために」)
である。」
解説で、最初期のものは5曲、と書き出した割には、
ここで、さらに2曲が追加された。

Track6.レスポンソリウム「大地は暗くなり」
この歌詞は、シャルパンティエなども作曲している。
まさしく、イエスの受難の場面。
聖金曜日そのままである。

モノトーンの合唱が、
「十字架上のイエスの最後の叫び」を伝える。

解説には、「劇的に作られたメロディ」とある。
途中、独唱になるところが切々としている。
「聖週間最後の朝課用のローマ風唱歌」とあり、
この曲の最初の「Tenebrae」という言葉で、
テネブレと言うジャンルが生まれた。

Track9.レスポンソリウム「キリストはわれらのために」
これは、キリストが墓の中にあった、
聖土曜日の音楽。
「ローマ風グラデュアーレで、イエスの屈辱と誇りを表す」
とあるが、十字架に死んだイエスに対し、
息を潜めるように思いを馳せ、讃えるもの。

どうやら、(1)の典型的グレゴリオ聖歌の説明は、
まだまだ続くようである。
「メリスマのあるなしにかかわらず、
無限のメロディの表現の豊かさがこのスタイルにはある。
自由に不規則でありながら、よく見ると、
そこには精妙な音楽的なコントロールが、
なされた作品であることが分かる。
いくつかの最初期の楽譜は、
演奏についての詳細な表記がおおがかりにあって、
これらは集中的に研究されて来たもので、
これなしに解釈は困難で、
このCDのように、近年の録音では、
これらの最初期の記載に沿った解釈をしている。」

Track4.さて、私にとっての、
このCDの聴きもの、
「枝の主日」のアンティフォンに来た。

先に書いたが、シューベルトが、
この日のための音楽を書いているからである。

これは、復活祭の前の日曜日ということだが、
「枝の主日」は、先の著書(キリスト教と音楽)では、
「四十日間の苦行を終えたイエスがロバに乗ってイスラエルに入城」
したのを民衆が迎えた日とされている。
オリーブや棕櫚の枝で、イエスの到来を迎えたのである。

CD解説にもそれが書かれ、
中世では、この劇的な状況は、
「地獄門の通過」として捉えられたとある。

「誰が本当の王だろうか」と歌われ、
門を叩く音を表すのだろうか、
どんどんどんと、何かを叩く音が、
このCDにも収められている。

「詩篇23」に基づくようだが、
「門よ、かしらを上げよ、
古き扉よ、あがれ、栄光の王が入りたもうゆえに」
という詩句がある(エンデルレ書店版)。

なお、シューベルトにも、
同じ題名の「詩篇23」という、
非常に敬虔で優しい曲想の合唱曲があるが、
これは、日本カウントの23番である。

これと同じカウントで行くと、
この「枝の主日」の詩篇「主の聖殿への入堂」は、
詩篇24番ということになる。

別の詩篇なので要注意である。
それにしても、詩篇は、旧約聖書の記載で、
実際は、イエスとは関係ないものだが、
こうした伝説に沿って、
イエスが行動したのか、
あるいは、それに沿って、
新約聖書が書かれたということであろうか。

さて、このグレゴリオ聖歌集における、
この入堂の音楽は、極めて素朴ながら力強い音楽である。

さて、ようやく、ここで、シューベルト作曲の、
「枝の主日の6つのアンティフォナ」D696
を聴く準備が出来た。
EMIから出ていた、
サヴァリッシュの宗教曲集に入っている。

この無伴奏合唱作品は、1820年に、
作曲家が兄から依頼を受けて作曲したもの。

1.ダビデの子にホザンナ:
「主の御名によってきたる者にホザンナ」
と、まさしく入城するイエスを出迎える音楽。

アンティフォナに相応しく簡潔で、45秒しかない。

2.オリーブ山で
「オリーブ山でイエスは祈った。」
という、確かに、悲痛な音楽で、
アンティフォナに相応しく、
簡潔に聖書の場面をスケッチしていく。

3.サンクトゥス
これは、普通のミサのサンクトゥス同様。、
「聖なるかな」が繰り返される。
しかし、しずかに盛り上がって来る感じで、
「天のいと高きところにホザンナ」で喜ばしい表情に。
この主日(地獄への入り口の通過だとしたら)に相応しく、
それもまた、控えめな表現である。

4.ヘブライの子供たちは
これも子供たちが出迎える歌だが、
親に気を付けろ、と言われたのであろうか、
明るい曲想ながら、静かに喜んでいる。

5.天使と子供たちとともに
「天使と子供たちのように私たちが誠実でありますように」
とあるが、隠れキリシタンみたいな、
闇の声の音楽である。

6.主が聖なる町に
これまた、繰り返して、
子供たちが出迎えた、という内容。

アンティフォンは、メインの詩篇などの、
前奏曲のような音楽なので、
どれも、え、これで終わり?という感じの短さ。

しかし、このような晴れやかでありながら、
押し殺したような表現の音楽になったのは、
いかにも、このような主日の性格から来たもののようだ。

「受難の主日」と最近では言われるようになったそうだが、
こうした事情に合わせて、
サヴァリッシュが解釈した表現かもしれぬ。

さて、今回のCDに戻ると、このような解説がある。
「アンティフォン『ホザンナ』詩篇23(Track4)は、
スタイルが異なり、
修道院の聖務で歌われていたもので、
このアンティフォンは短く、
単純で、詩篇からの韻文と、
式文が交錯して繰り返される。」

修道院風と言われれば、確かに、
この音楽は、合唱が歌いかわす感じで、
いかにも、「グレゴリオ聖歌」の典型である。

が、ドアをどんどんどん、とやるのはびっくりした。

得られた事:「『枝の主日』は、イエスが入城した際に、枝を振って民衆が受け入れた故事にちなむ。この故事に関する宗教曲をシューベルトも残しているが、これは凱旋であると同時に十字架に続く道であるせいか、晴れやかさと重苦しさが混ざった作品になっている。」
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by franz310 | 2013-02-24 13:22 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その366

b0083728_2301926.jpg個人的経験:
前回取り上げた、
グレゴリオ聖歌の名曲集の、
「古典」とも言うべき、
サン・モーリス
=サン・モール修道院の
聖歌隊による録音は、
雰囲気満点の音楽と、
非常に分かりやすい解説で、
一気に我々に、
この音楽の魅力を伝えてくれた。


実にフィリップスは、良い仕事をしていたと思う。

解説が分かりやすかったのは、
この膨大な古典の集積を、
以下のようにすっきりまとめてくれていたからである。

○「聖務日課で歌われる聖歌」
・カンティクム(聖書引用の歌)(「マニフィカト」など)

・アンティフォン(カンティクム、詩篇の前後の歌で短い)
・・特殊なグループのアンティフォンは、
『終課』において、聖母マリアの祝福に、
独立に『賛歌(アンセム)』として歌われる。(「サルヴェ・レジーナ」など)

・イムヌス(聖書引用でない有節形式のもので民謡的)

○「ミサで歌われる聖歌」
・セクエンツィア5曲
(アレルヤに続くものだが、
16世紀のトレント公会議で、ほとんど禁止となる。)
特殊な『賛歌』と考えられ、
こうしてメロディ変化は大雑把に、
abbccdd・・xという形となる。

ところで、シューベルトの書いた、
宗教曲には、こうしたカテゴライズが、
可能なのであろうか。

サヴァリッシュ指揮の宗教曲集のCDでは、
「サルヴェ・レジーナ」があって、これは、
「特殊な種類のアンティフォン」と言えるのだろか。
ところが、D223や、D676は、
「オッフェルトリウム、『サルヴェ・レジーナ』」
と書かれている。

このオッフェルトリウムは、シューベルトには多く、
D136、D181、D963というのが、
それに相当する。

また、D460、D461、D739、D750、
そして、D962の「タントゥム・エルゴ」は、
「イムヌス」と言えるのだろうか。

一方、「アンティフォン」については、
「枝の主日の6つのアンティフォナ」D696
というのがあって、短い曲で、
聖書の各部を補足する音楽で、
これは、グレゴリオ聖歌と同じ、土台のものと分かる。

あと、シューベルトには、
「グラドゥアーレ」D184というものもある。
18歳の作で、「ほめたたえよ、神を、アレルヤ」といった内容。
5分弱の作品である。

ということで、シューベルトの教会作品、
遠く、グレゴリオ聖歌の時代からの伝統に、
浸かっているものも多そうだ。

今回、取り上げる、これまた古いCD、
1961年録音の
ロンドン・カルメル派修道院聖歌隊の歌唱では、
もっと細かく、聖歌を分類していて、
さらなる曲種に触れることが出来る。

表紙のデザインは、かなり古い時代の聖母像で、
脇に並ぶ天使たちの微笑みが愛らしい。

DECCAのSERENATAシリーズのもので、
Brompton Little Oratory
という場所での録音だそうだ。
ブロンプトン礼拝堂で検索すると、
ウェストミンスターに次ぐ、
ロンドンの有名教会らしく、
内装など、すばらしく美しい。

こうした場所での録音であることを、
もっと前に出して紹介すればいいのに、と思う。
こんな場所で、このような音楽が流れてきたら、
きっと心が震えるに相違ない。

このCDの便利なのは、
下記のような分類で聖歌が並んでいる点だ。
応唱(レスポンソリウム)
讃美(イムヌス)
交唱(アンティフォン)
福音の音楽
讃課(朝の祈り)の歓呼
昇階唱(グラドゥアーレ)
アレルヤ唱
交唱(アンティフォン)
詩篇の交唱
聖母マリアの交唱

共通なのは、アンティフォンとイムヌス、
特殊なアンセム(聖母マリアのアンティフォン)で、
「詩篇の交唱」というのは、「詩篇」とは別なのだろうか。

いずれにせよ、それでも、「イムヌス」が、
前に聞いたCDと同様に、
民謡的かどうかを確認してみたい。

グレゴリオ聖歌は、歌い方とか、
地方による差異とか変動要因が多すぎるので、
すこしくらいは信頼できる足がかりがほしいではないか。

Track2.(8分26秒)に3曲、
イムヌス(Hymns(賛歌))が入っている。

まず、「Creator alme siderum」。
ネット検索で、「夜の星の創造主」と出てくるが、
素朴な男声合唱と清純な女声合唱が順繰りに現れて、
前回感じた、民謡風のイメージながら、
いかにも空に広がっていくような憧れ感を感じる。

「Iste confessor Domini」
これも前の作品と同じようなもので、
基本的に違いはないが、「懺悔」をテーマにしているようだ。

「Pange Lingua gloriosi」
ジョスカン・デュ・プレがミサ曲にした、
「舌よ、ほめたたえよ」の元のバージョンであろうか。
やはり、男声と女声が交互に歌う有節歌曲構成、
この曲が一番、音の動きが慌ただしい感じで、
広がりよりも内省を感じさせ、厳粛な感じがする。

ということで、確かに、前のCDと同様の感触だ。

また、前のCDに入っていたのは、アンティフォンで、
このCDでも、続く、
Track3が、「アンティフォン」。
ここには2曲ある。短いと言われるだけあって、計3分。
共に、男声合唱が一気にめんめんと歌って終わる感じ。

「Hodie Christus natus est」
今日、キリストが生まれた、と歌われ、
天使が舞い、天なる神に栄光あれ、と続くが、
渋くて、そこまで嬉しい感じはしない。

「O Sapienta, In Paradisum」
後半は、「楽園にて」であろう。
フォーレの「レクイエム」でも出てくる一節。
詩篇や聖書を補足するような歌として、
これらはかなり描写的のものなのだろう。

あと、
Track8にも「アンティフォン」。
ここにも2曲。計約4分。
「Montes Gilboe」
これは、男声合唱のみで歌われるが、
アンティフォンらしく、交互に歌うような感じではなく、
物語るような感じに流れていく。

「Ave Verum」
モーツァルトの名曲と同じ歌詞。
「処女マリアより生まれしめでたし真実の御からだよ」
とキリストの賛美である。
女声が重なって前の曲より豊かな感じ。

改めて見ると、
「刺し貫かれ血を流し出した脇腹」
など、どぎつい表現もあるが、
たんたんと歌われている。

前のベネディクト派のCDにも入っていたが、
これはセクエンツィアに分類されていた。
したがって、a、b、b、c、c
といった風に二つの合唱が歌っていたが、
ここでは、ずっと同じ合唱が歌っているように聞こえる。
が、明確な区切りがあるので、
ベネディクト派のCD風にも歌えるのかもしれない。

Track10.「マリアン・アンティフォン」
これは、前のCDで、「聖母マリアのアンティフォン」
と書かれたものであろう、「サルヴェ・レジーナ」
など4曲が歌われている。
「Alma redemptorius」
(うるわしき救い主のみ母)
は、前のCDにもあったが、
ベネディクト会修道院版とあった。

こちらのものも、「あーあーあああああああ」
と歌いだされ、第一印象はあまり変わらない。
女声合唱が唱和し、セクエンツィア風の歌われ方である。
聖母マリアに対する愛情が感じられる名曲だ。


「Ave Regina Caelorum」
(幸いなるかな天の女王)
は、短い音楽で、男声と女声は一緒になって歌っている。

「Regina Caeli」
(天の女王、喜びませ)
これも前のCDに入っていたもので、
「ベネディクト会版」とあったが、
これまた、雰囲気は似ているが短く。
エキゾチックに独唱者が声を上げると、
合唱が唱和するという、印象的な終わり方をしている。

「Salve Regina」
(めでたし女王、あわれみ深きみ母)
これまた、前のCDはベネディクト会版とされていたが、
これは明らかに異なり、こちらの方が、
聖歌風というより民謡風である。

これら4曲が6分に収められているが、
真ん中の二つは1分ほどで、他が2分ほど。
この曲も、最後は独唱者が声を上げて、
合唱を先導する。

このように、このCDは、前に取り上げた、
フィリップスの廉価盤CDと合わせて比較できるし、
確かに、多くの歌詞はネット検索などで参照が可能である。
有名曲を集めており、かつ、女声の澄んだ声の彩りも良い、
という特徴がある。
ただし、フィリップスのものにあった、
独特の残響はなく、各曲も短く、コンサイスな感じ。
が、収録曲は多いなどのメリットがある。

さて、このCD、解説の冒頭から、
「歴史的な正確性はともかく、公認されている、
小さなアンソロジーとして編まれた、
ここに録音されたグレゴリオ聖歌の小品は、
メロディのバラエティと、
言葉と音楽の完全な結合、
幅広い感情表現、
無伴奏の一つのメロディ・ラインを含む
形式に至る素晴らしい必然性、
をもとに選ばれており、
他の数百の聖歌を代表するものである。」

とあって、何となく、「歴史的に正確であってほしい」
という要求は、はなからはねのけられている。

アンブロジアン・シンガーズの合唱指揮者であった、
ジョン・マッカーシーの名前が付されている点も気になる。

この合唱団と指揮者は、小沢の「第九」や、
ディーリアスの作品でもお世話になった指揮者で、
何故、カルメル会に乗り込んで行く必要があったのか、
などと余計な心配もしてしまうではないか。

この手の曲集は、「指揮、○○神父」などと、
書かれているのが普通だからである。
そういえば、LP時代は、
ガジャール神父というのが有名であったが、
そうした正統的なものではないような感じがする。

しかし、この録音は、例のフィリップスの、
ベネディクト派修道士のものと同様、
出せば、それなりの販売が見込まれるのか、
繰り返し、廉価盤で再発売されており、
何らかの魅力があるものと考えれらる。

時折、女声が挟まって重なる部分は、
さすがに色彩感が豊かで、
この合唱音楽の巨匠ならではの配色、
とも言えるのかもしれない。

前に聞いたフィリップスのCDで歌っていた、
ベネディクト修道会は、「清貧・貞潔・従順を誓い、
祈祷(きとう)と労働を標語とし、
中世以来、学術・美術・教育に大きな業績を残した。」
などと書かれているのに対し、
カルメル会は、
ベネディクト会が隔絶した場所に定住しながら,
寄進を受けて富裕化,世俗化したので、
財産を所有せず〈清貧〉の精神を重視した、
とある。

どっちも同じような感じではあるが、
基本は、抒情的なベネディクト派のものより、
無骨でがっちりした感じ。
そこに、女声が重なることによって、
柔和な立体感が感じられる。

このCD、実は、解説が厚そうに見えたから購入したのだが、
残念ながら簡単な解説しかなく、歌詞も割愛されている。
厚く見えたのは、
ドイツ語やフランス語の解説がついていただけで、
歌詞がついていた、ベネディクト派のものより、
さらに解説内容自体、「清貧」な感じになっている。

無記名で、書いたひとも分からない解説であるが、
下記のように、歌詞がついていない理由まで記載され、
弁解されている。

「このようなアンソロジーは、
通して聞かれるものではなく、
そこ、ここと選んで聴かれるものなので、
いくつかの曲は、自然にグルーピングされ、
他のものも、順不同で並んでいる。
この録音は、聖歌を、実サンプルとする、
教師や生徒のためのものを想定している。
すべてのテキストと音楽は、
『Laudes』を除き、
『Liber Usualis(主日及び主要祝祭日用定式書)』や、
いくつかの例外はあるが、
『Graduale』(昇階唱ではなく、聖歌集のようだ)や、
『Antiphonale Romanum』
に載っているものである。」

このように、ベネディクト派に比べ、
確かに、四角四面な印象が解説からも感じられる。
教科書の補助教材みたいだ。
先の「式書」や「聖歌集」がなくとも、
ネット検索で参照できる歌が多いので、
それで乗り切ろう。

解説に戻ると、

「数百年にわたって、キリスト教の典礼の公式音楽で、
特に宗教改革以降、ローマ・カトリック教会で重視された。
Vitalian(657-72)が教皇の時に発展し、
グレゴリウス二世(715-31)の時に体系化された。
しかし、最近の研究では、
どれが古いものか、どっちが影響を与えたのかが分からず、
これは複雑に古いローマ聖歌と絡み合っている。
ほとんどのメロディは、
11世紀から13世紀の記譜から解読されるが、
オリジナルはおそらく、8世紀くらいまでにさかのぼる。
この聖歌の名称となった、
教皇グレゴリウスとの関係は、
事実より伝承により、
成立時の彼の介入に、
はっきりとした証拠はない。
1世紀頃、Vigils、または夜のお務めは、
みんなが手伝う、教会の公務であって、
イースターのような大きなお祭り前は、
特別視されていた。
Vigilsから出た晩課や朝課、
夜のお務め、賛歌(暁のお祈りと辞書にある)
は、次第に発展した形式の聖務、日祷となり、
祈りやイムヌス、アンティフォン、詩篇、
聖書の朗読や聖職者や聖人の生涯の教えの集成となった。」

と言う風に、グレゴリオ聖歌は、
まさに教会の聖務の中心であることが分かってくる。

「朝課の時の準備として、
アンティフォン、詩篇、聖書朗読が
三つの夜課(Nocturns(瞑想礼拝))
にグループ化され、
三つの夜課の三つの聖書朗読が、
レスポンソリウム(唱句付の応答)となった。」

これだけで、頭が混乱するが、
だんだん、各曲の機能が語られてきたようだ。
しかも、ノクターン(夜想曲)の語源のような、
「夜の瞑想礼拝」も出て来た。

このCDでは、Track1に、
応唱(レスポンソリウム)が入っている。
これは、前のベネディクト派のCDでは、
紹介がなかったものだ。

「聖週間の三つの大きな大祭
(洗足木曜日、聖金曜日、聖土曜日)では、
おそらく、お務め最中に、
次第に明かりを消す古代の習慣から、
朝課はテネブレ(darkness)となった。」

かなり、ややこしいが、朝ではなく、
夜やるようになった、ということであろうか。

さて、このCDのTrack1の最初が、
「Tenebrae factae sunt」
(地上は暗闇となりて)
である。
重々しい男声合唱で、
「ユダヤ人がイエスを十字架に架けたとき、地上は暗闇となった。」
という悲しい情景に相応しく、
めそめそと歌い上げる。
「神よ、なぜ、わたしをお見捨てになられたのですか?」
という正にその時の情景。
これは、シャルパンティエにも良く知られた曲がある。

次に、「Jesum tradidit impius summus」
「Christus factus est」
(キリストはこうあらせられた )
と続き、
どれも、男声合唱のモノトーン調で、
清貧を良しとする合唱に相応しく、
情けない気分になってくる。

メリスマが多用され、かなり異教的ですらある。
それゆえ、瞑想的な感じもする。
夜だから仕方ないのか、
おっさんたちがめそめそしているようで、
「男なら、力を合わせて何とかしろ」
と言いたくなる曲想である。

文庫クセジュにある「グレゴリオ聖歌」では、
第4章「詩編唱の諸段階」のⅡが、
「レスポンソリウム(答唱)」という項で、
5ページを割いて詳説している。

ヴァロワ(水嶋良雄訳)では、このような説明で、
この曲種を明快にイメージさせてくれた。

「信者たちは、奉納の聖歌が歌われるなかで、
捧げ物のパンとぶどう酒を、行列を組んで奉納した。」

独唱者が詩句のひと続きをはっきり唱え、
列席者は結びの個所に掛けられたような、
小さなヴォカリーズをくり返してつぎつぎと歌った。
「必ずしも正確に歌ったわけではなかった。
・・・会衆は詩篇全体を理解できず・・・
したがって、それを歌えなかったからである。」

確かに、この記載に合点がいくが、
この録音では、いきなり会衆も、
一緒に歌っているように聞こえる。

最初の一語だけを、独唱者は歌うだけである。

最後、「アレルヤ」で、女声が少し添えられ、
何となく、晴れやかな気分になってくる演出である。

以上、レスポンソリウムは、少し大規模で、
13分近くかかっている。

3曲め「キリストはこうあらせられた」は、ブルックナーに、
同名のモテット(グラドゥアーレ)がある。

ややこしいことに、「グラドゥアーレ」と言えば、
このCDのTrack6.が、そう書かれている。
「Flores apparuerunt」
と付記があるが、なんだか分からない。

このグラドゥアーレ、
文庫クセジュの「グレゴリオ聖歌」では、
第六章「典礼書」に、ミサの聖歌で、
独唱者が朗読壇の階段(gradus)上で歌ったもの、
などと書かれている。
朗読壇上では、祈祷文などが語られたはずなので、
ミサの聖歌を補足するものということであろうか。

このCDにある曲は、3分弱のもので、
斉唱で男声合唱が続くもので、
引き延ばす部分が目立つ。

シューベルトの「グラドゥアーレ」D184は、
ハ長調でトランペットやティンパニ、
そしてオルガンまでもが壮大に、
合唱が力強く鳴り響く壮大な構想を予感させるが、
5分に満たない作品なのが惜しい。
後半はフーガになって盛り上げるが、
そのメロディや、音色、ハーモニーが、
すべてシューベルト的で美しい。
アレルヤが、やけっぱちなまでに、
叩きつけられるが、それが、また、爽快でもある。

18歳の青春が熱く燃焼している忘れがたい作品であるが、
グレゴリオ聖歌時代の「グラドゥアーレ」の名残は、
演奏時間の短さだけで、
階段にこれだけの演奏家が乗れるわけがない。

今回のグレゴリオ聖歌のCD解説は、あとこれだけ。
「この象徴的な儀式は、1955年に改正され、
MatinとLauds(ともに朝課?)は、
今は、朝に歌われている。」

以上で、このCDの解説は終わりである。

Laudesというのは、
Track5に入っている。
「Laudes seu Acclamationes」
と書かれているが、何のことか分からない。

いかにも元気いっぱいの歌である。
朝課なら、こんな感じになる、という例だろうか。

このほか、このCDには、
Track4.Gospel Tone
「Vos estis sal terrae」
マタイによる福音書から、
「あなたがたは地の塩である。
しかし、塩に塩気がなくなれば、
何の役にも立たず、
人々に踏みつけられるだけだ。」
という、説教であって、
ほとんど音楽になっていない。
抑揚をもって、ありがたく語られている感じ。

まさしく、こうしたものが聖務の中心であったであろう。

また、詩篇の交唱とされるTrack9.なども、
聖書由来のものゆえ、格が高いはずだ。

「Lumen ad revelationem」
「Nunc Dimittis」
と書かれているが、
下の「ヌンク・ディミティス」は、
「終課」や「晩課」で歌われるものらしい。

ルカ福音書のシメオンの言葉による。
彼はマリアの赤ちゃんを抱き、
救世主が到来したことを神に感謝した。
「異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」
(ここが、Lumen ad revelatioem)
と言ったが、確か、この時、
マリアはショックを受けるのではなかったか。

このCDでは、おっさんの独唱者に続いて、
第二、第三の合唱が、民衆たちみたいに、
続き、確かに、アンティフォンである。

最後に「アレルヤと聖餐式」と題された、
Track7を聴こう。
これは、
「Justus germinabit」
と、
「Dicit Dominus」
からなり、後半は、有名な
「神が私の主に言われる
『私の右に座れ、私はあなたの敵をあなたの足台にしよう』」
という詩篇109(110)などからなっている。
約6分半の長丁場である。

これは、聖書に典拠があるから、
おそらく格式が高い歌なのであろう。
このCDも、この歌は、
えんえんと言葉を伸ばして、
念仏をしてるような感じ。
いかにもありがたい感じである。

しかし、この緊張が続き、真ん中あたりのアレルヤになると、
ひたひたと声の波が押し寄せ、
空中に浮かび上がるような天上的な感じが生まれる。

このあたりに、このCDの一番の美しさがあるかもしれない。
あとは、やはりイムヌスのTrack2だろうか。

以上、紹介したように、このCDは、
何となく教科書の副読本的でありながら、
そこここに、
すっと、耳をそばだててしまう瞬間があるのも確か。

残響の向こうに、現実逃避したくなる、
フィリップスのベネディクト派修道士聖歌隊に比べ、
超俗的な雰囲気に関しては劣るが、
より多面的、学究的な切り口で勝負したものになっている。

得られた事:「グレゴリオ聖歌を、グレゴリオ聖歌と呼ぶならば、今日の教会の典礼は、グレゴリオ典礼と呼ばれるべきであるほど、典礼と表裏一体のものであった。」
「『グラドゥアーレ』は、ミサを補足するように司教を補佐する聖職者が、階段で補助するように歌われたものだが、シューベルトのそれは、メインのミサを吹き飛ばすような野心作である。」
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by franz310 | 2013-02-16 23:01 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その365

b0083728_22564586.jpg個人的経験:
先日読んだ、ペルゴレージの
「スターバト・マーテル」
のガルデルリ指揮のCD解説は、
なかなか含蓄のあるもので、
考えさせられる内容を含んでいた。
この「スターバト・マーテル」
という曲種であるが、
現在は、バチカンお墨付きの、
正式の聖歌集からは外されている
と書かれてあったのである。


つまり、故・野村良雄氏によると、
「1962年10月から65年12月にかけて、
ローマでもよおされた『第2バチカン公会議』以来、
カトリックのローマ式典礼は、
歴史上かつてないほどの改正と刷新の渦中にある」
と書かれており、
「1967年にバチカンから出版された
『小聖堂用』の『簡単なミサ典礼グレゴリオ聖歌集』
からはスターバト・マーテルはまったく除外されている」
とある。

この「まったく除外」という表現が面白い。
ちょっとぐらい入れろよ、ということであろうか。

したがって、今回、取り上げる、
1959年10月、ルクセンブルク録音の、
サン・モーリス=サン・モール修道院
ベネディクト派修道院士聖歌隊による、
「グレゴリオ聖歌集」は、
この第2バチカン公会議の結果を受ける前の記録となる。

したがって、Track2は、堂々と、
「スターバト・マーテル」が収録されている。
といって、それ以後の「グレゴリオ聖歌集」の録音に、
「スターバト・マーテル」が、
含まれなくなったのかどうかまでは調べていない。

少なくとも、近年のグレゴリオ聖歌録音の流れは、
特定の典礼にフォーカスした形式に
整えられている企画が多いようで、
この古い録音のような、
「名曲集」形式は少ないのではないか。

が、このCDの場合、
輸入盤に日本語解説が挟まれていて、
二重の勉強ができる点にすぐれ、
何よりも、歌詞がついていることがありがたい。

スターバト・マーテルなどは、
ペルゴレージもシューベルトも、
40分ほどの大曲になっているのに、
ここで録音されているのは、
わずか5分である。
これはいったいどういうことか、
と考える場合、歌詞を見るのが一番であろう。

ただし、歌詞がラテン語だけなのは、
激しく抗議したいところであるが。

このCDは、そこそこ有名なもので、
何と、「日本基督教団出版局」なる出版社が出した、
「キリスト教音楽名曲100選」という本でも、
このCDが「グレゴリオ聖歌の名曲」という項で、
「入門としてお薦めする」として、
とりあげられているのである。

「無伴奏が正式だが、声を圧迫しない程度の伴奏は認められており、
このCDでも数曲には控え目なオルガン伴奏がついている」
と書かれているが、これに続く殺し文句が憎い紹介だ。

「理屈ぬきで聴いていただくと、
いつしか祈りの世界に引き入れられていくだろう・・
第4曲では修道院の鐘の音が聞こえ、
静謐の世界に身をおく思いがする」と言うのである。

非常に印象的な一文で、遠くに心が飛翔する。
しかし、このクレルヴォーの修道院については、
ネットで調べてみると、
そんなに古いものではなかった。
20世紀初頭の創設らしく、
ネオ・ロマネスクの建築とあり、
おそらく、このCDの表紙のような建物は、
まるで関係ないものと思われる。

先の本は、そもそもグレゴリオ聖歌って何?
ということにも、当然、答えていて、
4世紀のミラノの司教、アンブロシウスが制定した、
単旋律・無伴奏のラテン語聖歌が原形としていて、
7世紀初頭のローマ教皇グレゴリウス一世が、
民族大移動の混乱期に、礼拝様式を整えるために、
「聖歌を集大成し、用法と形式を整理した」とある。

また、次のページには、
「ミサで聴くグレゴリオ聖歌」という項があって、
グレゴリオ聖歌の中心は、
「ミサ(キリストを記念するため、
パンとブドウ酒を主の体と血として
信者に分配する典礼)の典礼式文を歌うための歌である」
として、
「グレゴリオ聖歌はこうして
ミサの典礼式文そのものを歌うものだから
ミサ全体の流れの中で歌われているCDで聴くのが、
最も良い鑑賞法である」と結論付けている。

しかし、この後、ソレームの聖ペテロ修道院の
「グレゴリオ聖歌集大成」20枚組セットを推薦しているので、
これはいただけない。

「礼拝に参加する喜び、神の前に立ち、
聖書の言葉を聴き、祈り、賛美の歌を歌う喜びが、
ひしひしと伝わってくるCDである」という締めくくりが、
さすが日本基督教団出版局刊行だと思えるが、
実際、典礼の儀式を知らない我々には、
何となく、どんな場面でこれらの歌が歌われたかが、
この本に書かれた解説によって、
垣間見えるようで理解の一助となった。

さて、今回取り上げるCDであるが、
日本フォノグラムから出た時の日本語解説は、
今谷和徳氏のもので、
各曲ごとに短いコメントがあるのが分かりやすい。

ここでは、収録曲を、こんな風に分類している。
カンティクム(聖書引用の歌)1曲
アンティフォナ(カンティクム、詩篇の前後の歌)7曲
イムヌス(聖書引用でない有節形式のもの)5曲
(以上、聖務日課で歌われる聖歌)
セクエンツィア5曲(ミサで歌われる聖歌)
(セクエンツィアはアレルヤに続くものだが、
16世紀のトレント公会議で、ほとんど禁止となる。)

CDのオリジナル解説を見て行こう。
David Hileyという人が書いている。
この名前で検索すると、まさしく、
グレゴリオ聖歌の研究家であることが、
著書からもわかった。

「単旋律からの無限の多様性」というタイトル。

いきなり、「plainchant」という言葉に面食らう。
何となく、平板歌唱とでも訳したくなるが、
辞書で調べると、「plainsong」を見よ、
となっていて、「plainsong」を調べると、
「単旋律聖歌、グレゴリオ聖歌」と出てくるので、
堂々巡りとなる。
が、どうやら、これが、あちらでの呼び方なのであろう。
「グレゴリオ聖歌」より、「プレインチャント」の方が、
発音しやすくて良い。

「プレインチャントには、無限の多様性がある。
最初聞いた時は、それらは互いにあまりにも似ていて、
見分ける特徴がなく、
それはよく分からないかもしれない。
それは対位法も和声もない単旋律にすぎない。
それは不変の荘厳なペースで進行するように見え、
リズムも強弱法もほとんどかまったく同じである。
こうした制限があるにせよ、
形式にも細部にも豊かさがあり、
辛抱強いリスナーにはいつも喜びを与えてくれる。」

ということで、BGMとして聞き流していただけの私は、
あまりこうした事は気にしたことがなかった。

「もちろん、グレゴリオ聖歌は、
表現の多様さや深さを求める、
現代の音楽愛好家のために作曲されたものではない。
礼拝のため、中世の教会の典礼の一部として発展し、
古代の儀式に荘厳さや壮麗さを加えるものであった。
私たちはこの文脈からあえて離れ、
個々の曲付けに想像力を働かせたい。
この録音のいくつかは装飾もなく、
儀式の歌として、分かりやすいものである。
まず、音節聖歌を選んでいるが、
これらは、歌詞の各音節に、
通常、1つか2つの音符が使われている。
数曲は、形式的には有節歌曲で、
それゆえ、メロディは記憶に残りやすい。」

このように読み進めていくと、
どうやら、この人が選曲から携わっていることが分かる。
以下、各曲について書かれるので、
トラック番号を追記した。

「4つの賛歌(イムヌス)、
『われは御身を敬虔にあがめ』(Track5)、
『タントゥム・エルゴ』(偉大なる秘蹟、Track8)、
『おお、救いとなりし犠牲(いけにえ)よ』(Track9)、
『来りたまえ、創り主たる精霊よ』(Track17)は、
などはそうしたもの(有節歌曲)である。
最初の3曲は、中世後期から盛んになった
『聖体降福式(聖体賛美式)』にふさわしいもので、
聖餐式(サクラメント)は、当時、ミサとは別に、
重要な儀式になっていた。」

これは勉強になるが、これは平凡社新書、
「キリスト教歳時記」の「6月」にある、
「キリストの聖体日」であろうか。
直訳では、「祝福された生贄の賛美」と読める。

とにかく、このあたりの記載、
バチカン公会議でも開いて、
はっきり、何月何日と決めて、
呼び方もびしっと決めてほしいものだ。

Track5.
日本語解説では、
「聖体降福式は、キリストの聖体の祝日
およびその8日間の朝夕などに行われる」とあるから、
やはり6月の朝夕を思えばよさそうだ。

いかにも、この音楽は、澄んだ空気のような、
民謡風とも言えそうなメロディで、
そうした初夏の雰囲気に相応しそうだ。

Track8.「タントゥム・エルゴ」。
これは、シューベルトもさかんに作曲したものだ。

日本語解説では、
「トマス・アクィナス作の聖体のイムヌスの後半部分」
とあるが、歌詞は単純で、
「だから偉大な秘跡を伏してあがめよう。
古い教えは新しい典礼にかわった」というもの。

どの曲も同じに聞こえるグレゴリオ聖歌だが、
さきほどのものよりも、メロディの印象は弱い。
シューベルトの曲を聴いた時、
何が、「だから」だ、と思ったが、
この前に、何か説教なりがあるのであろう。

Track9.
「おお救いとなりし犠牲よ」。
「ベネディクト会修道院版の旋律」とあるが、
これは、「バチカン版」と違うということらしい。
これまた、一瞬で終わる感じで、
あまり、メロディとして印象は薄い。

「『来りたまえ、創り主たる精霊よ』(Track17)』は、
一方で、『聖霊降臨節』の儀式に属し、
晩課のような聖務時間に歌われたものである。」

この歌詞は、マーラーの「第8交響曲」の冒頭にも現れるもので、
あんなやかましい音楽が、晩課で歌われたとは信じがたい。
そう考えていると、こんな文言が続いていた。

「これはさらに、司祭や司教の聖職就任の儀式にも使われ、
戴冠式にも使われた。」
これなら、祝典的なマーラーの交響曲にも相性が良さそうだ。

「これは他の賛歌より古いものとされ、
すくなくとも10世紀に起源があり、
フルダの修道院長で、
偉大な神学者であったラバヌス・マウルスの作とされる。」

この人が詩を書いたのか、曲を書いたのか分からないが、
マーラーの交響曲も、こうした経緯から、
聖霊降臨節に演奏されることが多いらしい。

この「聖霊降臨節」も、先の「キリスト教歳時記」で調べると、
目次にも出ておらず、よく分からない。
辞書にはイースターの後の第7日曜日とあるが、
これでは、またまた6月ごろということになる。
何が違うというのだ。

Track17.「ヴィニ」。
オルガンの伴奏がゆったりと響き、
この曲は、マーラーとは違って、
しみじみとしたメロディで歌われている。
しかも、何か、希望を持って待ち望む感じがある。

日本語解説にも「名曲とされる」とあるが、
美しい音楽である。

「何世紀にもわたって、グレゴリオ聖歌は、
先生から生徒に口伝えで伝えられてきた。
9世紀ごろ現れてから、楽譜は、
細かい点で個々に異なり、
書いた人がどれに親しんだかによって、
特定の聖歌へのメロディも異なったりする。
いくつかのこうした違いは現代にも受け継がれている。
このように、この録音におけるいくつかの曲は、
『tonus monastics』で歌われているが、
これはメロディやメロディのバージョンが、
修道院用に印刷されたものである。」

このあたりの解説は、
日本語解説には書かれていない点である。
あるいは、
「tonus monastics」が、
日本語解説の、「ベネディクト会修道院で
用いられている聖歌集」というものであろうか。

「これらが歌われた教会そのものがそうであるように、
政務日課におけるグレゴリオ聖歌は、
異なる時代の混合物(アマルガム)である。
このレコーディングの『賛歌(hymns)』は、
異なる世紀のもので、
4つの『続唱(セクエンツィア)』もそうである。
『セクエンツィア』は、特殊な『賛歌』と考えられ、
形式的には有節形式であるが、
メロディはすべての詩節で異なり、
通常、各ペアの後変化して、
最初と最後の詩節は別個のものである。
こうしてメロディ変化は大雑把に、
abbccdd・・x
という形となる。
中世のはじめ、セクエンツィアは散文詩で、
しばしばペアの詩句が異なる長さであった。
この録音におけるセクエンツィアは、
すこし近代的で、リズミックなテキストを持ち、
もっと規則的に構成されている。」

こうした話もあまり読んだ記憶がなかった。
が、面白いではないか。

「復活祭季節用の
『復活のいけにえに賛美を』(Track16)は、
最も古いもので、11世紀にさかのぼる。」

Track16.
日本語解説には、「ブルゴーニュのウィポ」作とある。
トレント公会議でも禁止されなかった名曲とある。

確かに、左右に分かれた歌い手が、
交互に歌いかわす点からも、
abbcc・・が聞き取れる。
この形が面白いのは、最初に歌う方が、
結局、したがって歌うサイドに入れ替わる点だ。
ここでも、右側の歌い手が歌いだすが、
左の歌い手の方が積極的に歌って返す。

最後は、二つの歌い手が一緒に歌って、
上記「x」の部分を結んでいる。

aは助奏的なのだろうか。
bの部分は、すこし抑揚が強い。

「『けがれなく、罪なく』(Track14)は、
聖母マリア(BVM)を讃えるもので、
おそらく同様に古く、
聖母マリアのお務めの応唱(レスポンソリウム)の、
最後のセクションの賑やかしで始まったもので、
後にミサのセクエンツィアのような儀式の、
独立部分に発展した。」

Track14.「Inviolata」。
これは、聖母を讃えるにふさわしく、
優しい曲調で、bの部分から、右側の歌い手は、
木霊のように、そっと答える風情である。

メロディラインも粋な感じで、
終わり近くで、すこし、問いかけるような趣き。

この復活祭季節(Eastertide)は、
イースターの頃であろうから、深追いしない。
tideは、辞書にも「キリスト教に関する時期」
などと書かれている。

「『キリスト聖体の祝日』用の、
『シオンよ、たたえよ』(Track3)は、
12世紀のテキストだが、
メロディは前の世紀のものである。」

『聖体の祝日』は、先に出て来た「サクラメント」と、
何が違うのだろうか。

Track3.「ラウダ・シオン」。
日本語解説には、トマス・アクィナス作とあり、
トレント公会議でも使用禁止にならなかったとある。

これは、5分を越える作品で、
「賛美の対象は、命を与えるパン、
聖なる晩餐の食卓で与えられたもの。
賛美が響き、喜びにあふれ」などと、
ミサの精神そのものである。

妙に説明的な歌で、
「キリストが自分の記念として行うよう命じられた。
パンが肉となり、ブドウ酒が血となる。
理解せず見えないことを、生きた信仰が堅固にする。」
などと、妙に説教くさい。
音楽も、ちょっと単調である。

それから次に、ついに、
「スターバト・マーテル」の話が出てくる。

「『スターバト・マーテル』(Track2)は、
中世後期から『聖母マリアの7つの悲しみ』
などの祝日でポピュラーになったもので、
同様に12世紀の作品である。」

これまた、前に出て来た日で、
前もよく分からなかった。
しかし、各曲が何時の作品かを書き連ねた、

が、何と、日本盤解説には、
「聖母マリアの7つの苦しみの日」は、
9月15日と明記されているではないか。
これは、平凡社新書には、まったく書かれていない。

ただ、この解説にも、少し、改善を望みたい。
音楽的な特徴があまり書かれていないからだ。

「教皇イノセント三世や聖ボナヴェンチュラのような、
著名な著述家によって、
この作品が書かれたとされるが、
確たる証拠はない。」

この記載は奇妙である。
「スターバト・マーテル」は、
ヤコポーネ・ダ・トーディ作ではないのか。
まさか、こうした人たちの作品、
あるいは、トマス・アクィナスの作品であれば、
第二次バチカン公会議の結果も違っていたりしないだろな、
などと考えてしまった。

「こうしたセクエンツィアは、
『Ave verum Corpus』という、
繰り返し詩句が一つだけのグループに分類でき、
ミサや聖体賛美式の聖別の間、
聖体拝領の賛歌として歌われた。」

聖体賛美式は、「ベネディクション」を辞書で調べた結果である。

Track2.「スターバト・マーテル」。
無伴奏で、たんたんと進行する音楽。
左右の歌い手が交互に歌っているが、
まったく、交互に歌う必要はない。

ひとりでだって歌えるはずのものだが、
左右からの合唱が、空間を感じさせる。
おそらく、先生と生徒のように、
片方が歌ってみたのを真似する感じで、
祈りと同時に音楽の伝習もできたのではないだろうか。
その機能ゆえに、このように何世紀にもわたって、
歌い継がれることが出来たのではないか。

スターバト・マーテル、20節もの大作であるが、
すべての詩句を歌っているのを確認した。
最後の「アーメン」のみ、ペアの合唱が一緒に歌われる。

「『テ・デウム』(Track4)は、
中世以来の大カンティクルで、
朝課の最後に歌われてきたが、
古代からの作品で、
その起源は謎に包まれている。
その一部はおそらく2世紀にさかのぼる。
最初の10の詩節は、父なる神を賛美しているが、
11節から13節の頌栄の後、
後の信者に子たるキリスト賛美が続けられた。」

この「グレゴリオ聖歌集」、無敵ではないか。
こんな曲まで入っていたのである。

Track4.「われら神なる御身をたたえ」
この曲の冒頭に、朝の訪れを暗示するのか、
澄んだ鐘の音が入っている。

日本盤解説には、
「特に古いものに属するイムヌス」
とあり、「ベネディクト会修道院で
用いられている聖歌集に含まれる旋律が採用」とある。

静かな控えめなオルガンが響き、
遠くで鐘の音が響き続けている演出は、
あまりあざとくは感じられない。

声とそれ以外の音が、残響豊かに調和し、
妙に心落ち着く空間を再現している。
しかし、このCD、1959年の録音とは思えないほど、
澄んだ空間を再現して、素晴らしいの一言に尽きる。

それにしても、
ベルリオーズの作品などを考えると、
「テ・デウム」が、朝のお務め用とは想像できなかった。
疲れ果ててしまうではないか。

日本盤解説には、「のちには、他の儀式の終わりにも、
盛大な感謝の歌として歌われるようになった」とあり、
このあたりのフォローもしっかりしている。

「ほとんどの応答唱歌(アンティフォン)は短く、
控えめな作品で、『詩篇』の詠唱の、
前奏曲や後奏曲として演奏された。
より重要なアンティフォンは、
政務日課用のもので、
その一つに『御身は羊らの牧者』(Track1)があり、
これは、『聖ペトロの日』のカンティクル『マニフィカト』の
晩課で歌われるものである。
『おお、聖なる晩餐』(Track6)は、
他の『マニフィカト』用アンティフォンで、
これは『キリスト聖体の祝日』用である。」

混乱してきた。
今度は、「聖ペトロの日」とはなんなのだ。
先ほどから参照している
「キリスト教歳時記」には、6月29日に、
「使徒聖ペトロ、使徒聖パウロの日」というのがあるが、
これだろうか。
「キリスト聖体の祝日」は、
結局、「キリストの聖体日」なのだろうか。
だとすると、これも6月だという。

CDの日本語解説には、助け舟があった。
このアンティフォナは、6月29日の
「使徒聖ペテロと聖パウロの祝日」に対するものだ、
とあった。

さらに、「マニフィカト」については、
「詩篇唱の方法で朗唱され、
8つの教会旋法のそれぞれで歌われるのだが、
ここでは、アンティフォナの旋律が第1旋法によっているため、
『マニフィカト』も第1旋法による旋律のものがとられている」
とあるが、唐突である。

オルガンの響きが瞑想的で、
主唱者の声が、掛け声のように響くと、
合唱が唱和しながら広がって行く。

この曲は比較的抑揚のあるメロディで、
言葉の歯切れも明快で、不思議な調和を見せている。
バッハやヴィヴァルディの作曲したものと、
まったく同じ詩句(アーメンはないが)
が通して畳み掛けられ、
3分半しかかからずマリアの感謝の歌を歌いきっている。
いや、語りきっている。

シューベルトは、輝かしい「マニフィカト」
の作曲をするにあたり、その詩句をカットしまくったが、
よくもそんなことが出来たものだと思わずにいられない。

Track1は、単に、「マニフィカト」と書かれているが、
その前のアンティフォンから収録されているといる。
しかし、同様のアンティフォンとされる、
Track6は、続くマニフィカトはない。

Track6.
これはたっぷりした、充足感に満ちた音楽で、
「おお、聖なる晩餐」というよりは、
もっと開放的な音楽に聞こえる。

「『詩篇』と共に歌われない
特殊なグループのアンティフォンは、
しばしば、一日の終わりの『終課』において、
聖母マリアの祝福に、
独立に『賛歌(アンセム)』として歌われる。
ここでは、それらの5つ、
『サルヴェ・レジーナ』(Track10)、
『アヴェ・マリア』(Track11)、
『われら御身の保護のもとに』(Track12)、
『うるわしき救い主の御母』(Track13)、
『天の女王、喜びませ』(Track15)が演奏されている。」

Track10.「サルヴェ・レジーナ」。
シューベルトが愛着を持って作曲した、
この美しい宗教詩は、こんな昔から歌われていた、
と実感するトラック。

「サルヴェ」を「サーアアルヴェ」と先導者が歌いだすと、
「レジーナ」を「レーエエエジイイナ」と歌いながら、
合唱が始まる感じで、音楽は単なる、
チームワークの手段みたいに思える。
涙の谷も、キリストの誕生も、
すべて同じように朗誦されて、
心を一つにすることが主眼になっている。
「ベネディクト会」版とある。

Track11.「アヴェ・マリア」。
ここでは、「アヴェ・マリイイア」と歌いだされ、
何だか、「サルヴェ・レジーナ」より、
胸をいっぱいにしたようなメロディになっている。
が、1分程度で終わってしまう。

Track12.「われら御身の保護のもとに」。
これまた短い音楽。
が、音楽は、主体性があり押しの強さがある。

Track13.「うるわしき救い主」。
日本語解説によると、「サルヴェ」同様、終課の終わり用の音楽。
この曲はおおきな振幅を伴って、骨太感がある。

Track15.「レジナ・チェリ」。
これも終課の終わり用。
息の長い引き伸ばしが、陶酔的な瞬間をもたらすが、
1分44秒で終わる。

オリジナル解説にはなかったが、
Track7.「アヴェ・ヴェルム・コルプス」もあって、
モーツァルトの名曲の原点が聴ける。
聖体降福式のセクエンツァ。きわめて平明なものである。

得られた事:「『マニフィカト』、『スターバト・マーテル』、『サルヴェ・レジーナ』から、『タントゥム・エルゴ』まで、このグレゴリオ聖歌集には、シューベルトの宗教曲の原点が収録されている。(また、ヴィヴァルディ、ベルリオーズ、マーラーの原点もある。)」
「『スターバト・マーテル』は『聖母マリアの7つの苦しみの日』などに歌われたが、これは9月15日である。」
「イムヌスが歌曲風で親しみやすく、セクエンツィアは形式が面白い。」
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by franz310 | 2013-02-09 23:25 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その364

b0083728_18253519.jpg個人的経験:
18世紀のドイツの詩人、
クロプシュトックは、
ペルゴレージ畢生の傑作、
「スターバト・マーテル」
を紹介するための
ドイツ語テキストを作った。
シューベルトは、
若い頃、これを見て作曲、
出来て来たものは、
彼の初期を飾る大作となった。


さらに言うと、ペルゴレージ自身、
この「スターバト・マーテル」作曲時、
新たに作曲したのは、いくつかの曲だけであり、
多くは旧作を焼き直したものだという。

この事実は、歌詞と音楽の関係を考えさせるものであり、
音楽が想起する歌の内容とはどのようなものであるか、
なども考えさせるものでもある。

「魔王」の音楽に乗って、
「ます」の歌詞が歌われることは、
まずありえないだろうが、
ヴィヴァルディの場合で見て来たように、
音楽には勇ましいパターンと、
くよくよするパターンなど、数種類あれば、
オペラをどんどん増殖させて行くことなど、
日常茶飯事に行われていた。

また、シューベルトが、
ペルゴレージを知っていたに相違ない、
とするアインシュタインのような学者の見解も気になる。

確かに、シューベルトは宮廷合唱団に所属していたので、
こうした知識は、
我々の想像を超えるものであったことだろう。

A.M.ハンスンの「音楽都市ウィーン」
(音楽之友社)では、「中産階級のサロン」の章で、
1822年の音楽サークルのプログラム例として、
パレストリーナのモテット、
カルダーラのモテットなどと共に、
ナポリ派のドゥランテの作品も挙げられている。

したがって、我々が思っているほどには、
当時はバロックやそれ以前の音楽も、
すたれていたわけではなく、
むしろ、これらの音楽を再発見したと自負している、
現代よりもたくさん、
こうした作品が演奏されていたとさえ思われるのである。

東京のコンサート情報を見ても、
こうした古い音楽は、私の感覚では、
古典から近代のクラッシックとされる音楽の、
何十分の一かしか演奏会が開かれていない。

シューベルトは、決して、
ハイドンやベートーヴェンばかり聞いていたわけではなく、
こうした古典に接しながら、
自身の個性を開花させていた、
と考えるのが自然であろう。

ということで、ペルゴレージが、
当時、シューベルトのまわりで、
普通に聞かれていた可能性はおおいにあって、
実際、もっとナポリから遠い地で、
大バッハが、ペルゴレージの替え歌を作っていた。

今回、聴くのは、J・S・バッハが、
何を考えたか、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」を、
「詩篇51番」(カンタータ)として編曲したものである。
BWVの番号で1083番。
「拭い去りたまえ、いと高き御神よ」とか、
「消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を」と
訳されるタイトルだが、
いったい、これはどのような代物だろうか。

表紙デザインは冴えない感じである。
十字架から下ろされたキリストを抱く、
いかにも、「スターバト・マーテル」風の絵画だが、
聖母の顔以外は、薄暗いヴェールをかけて処理されており、
はっきりした主張のないものになっているし、
そもそも「詩篇51」とは無関係のテーマになってしまった。

ARTSレーベルは、
名指揮者ペーター・マークの録音で鳴らした、
廉価レーベルであるはずであるが、
このCDはデザインも解説も当時のテイストから離れ、
高級感を感じさせている。
ただし、歌詞はドイツ語だけなのが苦しい。

ディエゴ・ファソリスという指揮者が振ったものだが、
ヴィヴァルディやヘンデルの珍しいオペラのCDを、
私はすでにいくつか持っているから、
この時代の音楽の発掘に貢献している人だろう。

歌っているナンシー・アルジェンタは、
シューベルトも歌う有名なソプラノである。
アルトはギユメット・ロランスと書かれている。
ヴィヴァルディのオペラに出ていた人である。

イ・バロッキスティというオーケストラで、
ルガーノ・スイス・イタリア語放送合唱団が、
共演している。

さて、クロプシュトックは、1724年生まれなので、
1714年生まれのエマヌエル・バッハと同時代人で、
多感様式と分類されてもおかしくはなく、
バッハの息子の世代と同じということになる。

1803年に亡くなっているから、
シューベルトの時代にもかかっている。
バッハ、クロプシュトック、シューベルトと、
4世代分を飛び越えて、
ドイツ語圏でも愛されたとすれば、
ペルゴレージ恐るべし、という感じである。

バッハのこのようなカンタータを何故、
こさえたかということについては、
実は、解説を読んでも良くわからない。

アルベルト・ゼイトリンガーという人は、
こんなことから書き始めていて、
なかなか、真相が分からない感じ。

「1723年、ライプツィヒの
聖トマス教会のカントールに任ぜられてから、
ヨハン・セバスチャン・バッハは、
長く心に抱いていた夢をかなえる機会を得た。
1708年にミュールハウゼンの
オルガニストを辞任した時の手紙の中でも、
彼はその野心的なゴールを、
『神を讃える厳格な教会音楽』を作り上げる事、
と決めていた。
ドイツ・プロテスタントの最も重要な、
カントールの地位にある間、
きっと実現するものであるはずだった。
バッハは、ライプツィヒの
主要教会、聖トマスと聖ニコラスの
教会音楽を良くすることを考えていた。
この職務で、彼は、200曲もの、
ほとんどの教会カンタータを、
日曜や祝日の教会のミサのために作曲した。」

ということで、きっと、この作品は、
このライプツィヒ時代のものであろう、
日曜、祝日の行事のために大急ぎで、
でっち上げたのであろう、
などと早合点してはならないようだ。

「基本的に、こうした創作の歴史の研究は、
1950年代になって、アルフレッド・デュアや、
ゲオルグ・フォン・ダデルゼンの研究を通じて、
考察されるようになった。
その時以来、
バッハの巨大なカンタータ作品群が、
1740年代まで、途切れなく続いたと信じられて来たが、
今では、ライプツィヒ時代のカンタータのい大部分は、
彼が聖トマス教会のカントール就任の初年度に、
作曲されたことが分かっている。
信じがたいノルマの元、
彼は自身で演奏するのに当てはめるために、
比較的短期間で、
できるだけ多くの作品を創作しようとした。
聖トマス教会のカントールの死亡記事には、
彼の息子のカール・フィリップ・エマヌエルと、
ヨハン・フリードリヒ・アグリコラが、
5つのカンタータ年を挙げているが、
これは、今では3回であって、
ばらばらであったことが証明されている。
これらは、1723/24年、
1724/25年、そして1725年から27年である。」

23年、24年、25年、26年、27年と数えれば、
5年ではないかと思うのだが、23/24年とは、
冬から春にかけてだけ作曲した、
と読めばよいのだろうか。

「この3サイクルには、異なる特徴が認められ、
合唱、レチタティーボ、アリアとコラールからなる、
カンタータの標準コンセプト確立に努力がなされている。
それにもかかわらず、バッハは新しい流行も取り入れ、
彼は最後の年まで、自身の実験を続けていた。
ここに収めた2つの作品も、
まったく異なる個性的様式で書かれ、
この証拠になっている。
1726年に書かれたカンタータ、
『満ち足りた安らぎ、魂の愉悦』BWV170は、
第三期のもので、
バッハの作品では少数派と言えるが、
今日、もっとも人気があるシリーズとなった、
ソロ・カンタータのシリーズのはじめのものである。」

ということで、特に、私が聴こうと思っていなかった、
併録作品の紹介が始まってしまった。

「さらに、バッハはここで初めて、
伴奏楽器として、聖トマス教会のオルガンを使い、
おそらく自身、これを演奏して、
新境地を発見したのであろう、
きわめて明確な特色をなしている。
さらに第三期の特色は、
バッハが、器楽曲作曲家であることを思い出させる
独奏の活躍や、器楽的なことで特徴づけられる。」

この曲は、アルト独唱のものなので、
ロランスが歌っているが、
確かに、第1曲のアリアの前に、
オルガンの低音の上を、
豊かな陰影でたゆたうオーボエ・ダモーレの、
素晴らしい序奏部がついている。
「満ち足りたやすらい、
うれしき魂の悦びよ」という内容にふさわしい。

第2曲はレチタティーボで、
「罪に満ちた世界」を語る。

第3曲には、オルガンによる印象的な序奏がついている。
「これらの不安なものが私を悲しみで満たす」
という、孤独な感じのもの。

第4曲は、短いレチタティーボで、
こうした世界から逃れるため、神の戒律を思っている。

第5曲は、愉悦感に満ちた、
しかし、穏やかなアリアで、
オーボエ・ダモーレとオルガンの対話が美しく、
アルトは、罪のない世界の安住を願って歌う。
バッハのカンタータをうんざりさせる、
同じ言葉が執拗に歌いこまれている。

このカンタータは、
音楽之友社の「名曲名盤バッハ」に選ばれた、
10曲ばかりの教会カンタータの一つなので、
私は良く知らなかったが、有名な作品なのであろう。

このカンタータについては、
以下のような説明がある。
「BWV170は、1726年の7月28日、
トリニティからの第6日曜日のために作曲され、
マイニンゲンの甥、
ヨハン・ルートヴィヒ・バッハのカンタータ、
『Ich will meinen Geist in euch geben』と共に演奏された。
バッハは、1711年に出版された、
ゲオルク・クリスチャン・リームの、
カンタータ・イヤー・ブックからテキストを取っている。
ここで、キリスト教徒の誠実さを、
思慮のないパリサイ人の法律解釈に対比し、
この現世の自制によって解決を見出している。」

以下、いよいよ、今回の本題に入る。
「バッハによって、
『消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を』
と題された、
『詩篇51』をもとにしたモテットは、
これとは対称的に、
ペルゴレージの『スターバト・マーテル』の編作で、
オリジナルにドイツ語歌詞をつけただけでなく、
バッハによって大幅に改作されている。
この編作は1740年以降になされており、
おそらく、1745年から47年の間になされ、
彼の最後の時期においても行われた、
最新様式への研究の最も顕著な例である。
これには他にも多くの例証があって、
バッハの蔵書には、イタリアのロカテルリや、
アレッサンドロやベネデット・マルチェッロなど、
若い世代のイタリアの作曲家の作品が混ざっていた。」

マルチェッロは、
オーボエ協奏曲の名作で知られる作曲家だが、
確か、ヴェネチアで劇場も運営していて、
ヴィヴァルディを追い出すような事をやって、
ヴィヴァルディのファンからは胡散臭い目で見られるが、
バッハからすると、年配の作曲家である。

「『消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を』
というモテットBWV1083が、
何時、演奏されたのかということは、
何時、作られたかと同様、特定されていない。
テキストによって、この作品は分類かもしれない。
詩篇51に基づく、何者かによる自由な改作であって、
マルティン・ルターによる、
『悔悟の詩篇』の第4のものである。
この詩篇は、ダヴィデ王が、彼の子を身ごもった、
バテシバとの関係を歌ったものである。」

いきなり何事かわかりにくいが、
ダヴィデが、人妻である彼女の入浴を見て、
寝取った事は、この名君の犯した罪の一つとされる。

「ダヴィデは、まず、この事実を隠そうとし、
予言者ナタンに会う時に、自責を感じる。
テキストはしたがって、後悔と嘆きを繰り返すが、
この文脈では、演奏された日は限られるが、
これは、しかし、無伴奏で演奏されるべきものである。
もう一つの可能性としては、
詩篇51が想定した世界が現れた、
日曜日が考えられる。
『神よ、罪びとである私にお慈悲を』とか、
『慰められよ、罪は許される』など、
たとえば、三位一体の主日の後の日曜日である。」

このあたり、良くわからないが、
専門家に聞いてみたいところだ。
平凡社新書の「キリスト教歳時記」(八木谷涼子著)では、
これは6月頃で、正統の信仰を受け入れるかを試す、
などと書かれているので、「教会に復帰」すると、
上記、お慈悲がいただけるということだろうか。

「いずれにせよ、カンタータとは異なり、
この編作はメイン・ミュージックとして演奏された。
このように、バッハは、
新しい音楽様式に沿った歌詞を探しつつも、
音楽の介入に関して慎重であった。」

このあたりも、バッハにおけるモテットと、
カンタータの違いという、
難しい問題に突入しそうなので深入りしない。

が、このCDの解説のタイトルは、「Cantatas」
となっているので、「詩篇51」もカンタータかと思っていた。

ちなみに、私は、この「51」という数字だけ記憶していて、
バッハの「カンタータ51番」が、
ペルゴレージの編作だと勘違いしていたことがある。

「歌われる声に関して言えば、
単純に語感の変化とは別に、
バッハはテキスト解釈と音楽に対して、
表現力を増すことを目指している。
さらに、二つの独奏ヴァイオリンと
ヴァイオリン群からの伴奏を変更し、
合唱にあるパッセージを受け持たせている。
(この録音では、トラック8と13で、
それぞれ、第9、第14楽章にあたる。)
器楽法に関して言えば、
バッハの見地から、
『改良』がなされていることが目立つ。
三声の楽章は、ヴィオラの声部が追加され
(トラック2、5、6、7あるいは、
第2、第5、第7、第8楽章)、
バスには和声的に豊かにされている。
最後に、形式的に重要な変更は
詩篇の語句の順番を変えた点で、
バッハは、
ペルゴレージの版の最後から2番目と
最後から3番目を置き換えている。」

最後はアーメンなので、
その前の二つを入れ替えたということか。
この措置は、確かに重要であろう。
スターバト・マーテルは、
キリストの死を見守って神妙に終わるので、
最後に、「御慈悲を示し給え」という希望を歌う、
詩篇51とは同じ終わり方ではまずかろう。

「語句を入れ替えた」というのも困ったものだ。
「詩篇51」の和訳がたくさんあって、
これまた理解困難な暗号のような代物で、
「ヒソポもてわれに注ぎたまえ」とか、
「おん恵によりてシオンに、おん慈悲を示したまえ」とか、
ただでさえ、混乱するものに拍車をかけるわけなので、
いい加減にしてほしくなる。

この、詩篇51は、岩波新書の
浅野順一著「詩篇」にも取り上げられて、
かなり有名なものだと思われる。

この本にも、「七つの悔罪詩の第四番目のもの、
「しかも最も代表的なもの」と書かれている。

「ダビデの名を附して・・その心情を念頭に置きつつ
それを自己の懺悔として作詩をしたのである」と、
先にCD解説にもあった、
バテセバに対することの懺悔にも触れている。

前述のように、個々の語句は理解困難ながら、
大筋として、
「自分はすでに罪を意識して悔悟しているので、
許してほしい」という懇願を続けているだけ、
と言っても良さそうだ。

この本にも、神は、人間の真実を心に求め、
その心に知恵を与える、という解釈が書かれている。

12節の「わがうちに新しき、正しき霊を与え給え」
という祈りはわかりやすいが、
直訳すると、
「直き霊をわが喪に新たになし給え」なのだそうだ。

この「衷心の祈願」は、家畜などの犠牲ではなく、
「破れた霊、汚れ果てた心をそのままに」捧げものすることで、
神の意に適うのだと、この本の著者は力説している。

罪を認め、ありのままの自分を神に捧げればよい、
というこの詩篇の思想を、親鸞の「悪人正機」に例えている。

ということで冒頭であるが、
「まず彼は神の憐みを祈り求めている」とあるように、
「わが不義をことごとく洗い去り、
われを我が罪より潔め給え」と歌われる。
こうした内容は、確かに、
この曲の冒頭の雰囲気に合っている。

Track1.ソプラノとアルトの二重唱。
(ペルゴレージのガルデルリ盤では合唱だったが、
通常は、ペルゴレージも二重唱。)
「消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を」
この部分は、ペルゴレージでは、
「イエス・キリストは十字架にかけられ」で、
降霊術のような感じの部分。
確かに、へりくだって謙遜している音楽にもなりうる。

Track2.ソプラノ独唱。
「我が罪を清め給え」と歌われる部分だが、
ヴィオラ声部を追加。
聞いた感じ、豊かさは増しているが、
指揮による切れ味の方が印象に残る。

ペルゴレージは、「歎き憂い悲しめるそのおん魂は」
クロプシュトックは、「キリストの十字架の傍らに
キリストの御母マリアと御友ヨハネは」と題した、
緊迫感のあふれる部分。
単に、聖母が嘆いて立っているより、
バッハの歌詞の方がぴったりかもしれない。
奇妙な現象である。

Track3.ソプラノとアルト二重唱。
「神の前に悪しきことを行いたり」の部分で、
ペルゴレージでは、「いかばかり憂い悲しみ給いしぞ」と歌い、
クロプシュトックは、
「するとキリストは愛に満ちた顔をあげて」
と解釈した部分。
息の合った柔らかい二重唱が美しい。

Track4.アルト独唱。(ペルゴレージも同じ。)
弾むような明るい曲調で、
ここに、ペルゴレージは、
「尊き御子の苦しみを」などという、
苦し紛れの歌詞を当てはめたが、
クロプシュトックは、「死にゆくキリストが、
その御母と御友に与えた至福の喜び」
という、キリストがまだ生きているという、
離れ業を使ってもっともらしくした。
バッハも、ここは、
「あなたは、私の罪を怒って、私は罪によって弱った」
という歌詞を持って来て、かなり無理やり感がある。

Track5.ソプラノとアルトの二重唱。
ヴィオラ声部を追加。
ペルゴレージは「たれか涙を注がざる者あらん」
クロプシュトックも、「主イエスよ、あなたの死を見て
悲しみの涙を流さぬものがいるだろうか」と書いた、
悲痛な部分に、少し切迫感のある部分が続くが、
バッハも、ここはたくさんの詩を当てている。
「私は生まれながらにして罪にいる」と認める部分。

Track6.ソプラノ独唱。(ペルゴレージも同じ。)
ヴィオラ声部を追加。
内省的な音楽だが、加筆によって、
さすがに、曲調に複雑さを感じる。
「聖母はまた眺め給えり」とペルゴレージが書き、
クロプシュトックが「救世主の犠牲の祭壇を見て」とした部分。
バッハは、「賢さの贈り物で、心が軽くなった」という歌詞。

日本の訳では、
「おんみはわが心のうちに、
おん自らの知恵を知らせたもう」(エンデルレ書店)。

Track7.アルト独唱。(ペルゴレージも同じ。)
ヴィオラ声部を追加。
ペルゴレージの「慈しみの泉なる御母よ」で、
「われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、
ともに涙を流さしめ給え」
という、切実な感じ。
クロプシュトックの「天の恵みを授けられた御母」。

絵画的な一瞬。

バッハは、「ヒソポ(Isop)もてわれに注ぎたまえ、
さらばわれは清まらん」という、
浄化の部分を当てた。

Track8.合唱曲。
合唱でパッセージ補強。
ペルゴレージは、「わが心をして天主なる」。
「キリストを愛する火に燃えしめ、
一にその御心に適わせしめ給え」というフーガ的な合唱曲。

バッハは、バッハよりさらに対位法的な効果を感じさせる。
「喜びに勝利が高鳴る」という、クライマックスを充てた。
エンデルレ書店は、
「われにふたたび、喜びと歓呼を聴くを許したまえ」。
いかにも、ここで、一度、開放的な音楽で盛り上げたくなろう。

Track9.ソプラノとアルトの二重唱。(ペルゴレージも同じ。)
ペルゴレージでは、「くぎ付けにせられ給える御子の傷を、
わが心に深く印し給え」と痛々しいが、
逆に痛々しいほどに美しい、
しかも、何となく陽気な二重唱である。

バッハは、先に浅野順一訳で、
「わがために清き心を作り」とされた部分を中心に、
「わがとがをすべて消し去りたまえ」から、
「ふたたび、救いの喜びを与え給え」、
「罪びとは、みもとに帰り来たらん」まで、
5つもの節を歌わせてしまった。

この詩篇では、このあたりが一番わかりやすいが、
音楽も美しくて良い。

Track10.アルト独唱。(ペルゴレージも同じ。)
ペルゴレージは、この決然とした楽想に、
「我にキリストの死を負わしめ」という、
厳しい自戒の歌詞を充てたが、
バッハも、「主よ、わがくちびるを開き、
おんみの誉れを述べ伝えさせよ」という部分を充てた。
この歌詞なら、どんな楽想でも良さそうだ。

詩篇の「血を流す罪よりすくいたまえ」は省略されている。

Track11.ソプラノ独唱。(ペルゴレージと順番入れ替え。)
ペルゴレージの終曲、「肉親は死して朽つるとも」で、
クロプシュトックも「いつかわれらが死の床で」と、
死せるものの行きつく先への足取りを音楽に乗せた。

バッハは、「おんみはいけにえを好みたまわず」
という部分を充てた。
浅野順一は、「汝、犠牲を好み給わず」と訳し、
この犠牲がどうあるべきかを書いたことは、
先に紹介したとおりである。

この人が訳した19節もわかりやすい(意訳か?)。
「神の受け入れる犠牲は砕けし魂なり、
神よ、汝は砕けし、悔いし心をかろしめ給わじ。」
この部分こそが、確かに、この詩篇のありがたい点であろう。
浅野説も熱い。

Track12.ソプラノとアルトの二重唱。
(ペルゴレージと順番入れ替え。)
ペルゴレージは、可愛らしい二重唱に、
「われの地獄の父に焼かれざらんため」と歌わせ、
ちょっと不自然だったが、クロプシュトックは、
「地上の喜びも悲しみも、永遠の平安に向かう」
として、もっともな解釈をした。

バッハは、「主よ、おん恵によりてシオンに、
おん慈悲を示したまえ」と、クロプシュトック風。
最も、これは詩篇のままの部分。

しかし、後半は、
詩篇の「牡牛を捧げる」から少し離れた、
「栄光を」という表現で、分かりやすくなっている。

Track13.合唱曲。「アーメン」のみ。
合唱でパッセージ補強。
この演奏では、即興的な楽句が散りばめられ、
最後、ものすごく晴れやかな音楽になり、
素晴らしい清澄な響きになるのがすごい。
これは、もっと特筆されるべきであろう。

エンデルレ書店の「聖書の讃美歌」によると、
著者のJ.アプリは、
この詩篇を、下記のように要約した。

「すべてキリストの回復のわざは、
神の精霊の働きによって、
新しい心をもった新しい人間存在にすることである」

得られた事:「大バッハや、クロプシュトックは、ペルゴレージの『スターバト・マーテル』の楽想から、我々にとっても、非常に肯ける内容の歌詞を妄想した。」
「詩篇51、『破れた霊、汚れ果てた心をそのままに』捧げものすることが神の意に適う、という。」
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by franz310 | 2013-02-03 18:30 | 古典 | Comments(0)