excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
全体
シューベルト
音楽
現・近代
古典
オンスロウ
レーガー
ロッシーニ
歌曲
フンメル
どじょうちゃん
未分類
以前の記事
2017年 08月
2017年 05月
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2012年 12月 ( 4 )   > この月の画像一覧

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その359

b0083728_22132011.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディ作曲の、
宗教曲のヒット作、
「マニフィカト」には、
いくつかの版があって、
RV610や、611などと
分類されている。
ヴィヴァルディは晩年に、
ピエタのスター歌手を想定し、
独唱の楽章を増やしたが、
このCDのものは違うものだ。


ネグリの指揮による、ヴィヴァルディの宗教曲。
今はなきフィリップスの、ヨーロッパの伝統を
そこここに感じさせる演奏、デザインや録音で、
私を魅了してやまない。
ここでは、その4巻を聴く。

アナログの頂点を極めたような、
70年代の録音も素晴らしい。

このレコードは、最初に出た時から、
「宗教作品にふさわしい格調と
端正さできかせてくれるのは、
やはり、ネグリの造形力の確かさの故」とか、
「明るさの方から奥にあるものを見通してゆく」
「ふっきりの良さと透明な感覚が
ヴィヴァルディの音楽の本質にみごとにマッチ」
などと評されていて評判の良かったものだが、
30年も前、学生だった私は、金銭の余裕もなく、
ヴィヴァルディは、協奏曲で十分だと思っていた。

が、最近、様々な新しい演奏を聴いても、
自分が育った時代への郷愁であろうか、
モダン楽器のイギリス室内管弦楽団を使い、
今では、すっかり大御所になってしまった、
フェリシティ・ロットやアン・マレイが、
独唱者として登場する、
この演奏には、妙に居心地の良さを感じる。

このシリーズは、合唱曲だけでもCD5枚になるが、
さすがに、イギリスつながりか、
ヴィヴァルディの権威、マイケル・タルボット(トールバット)が、
しっかりした解説を書いている。

様々な版がある「マニフィカト」、
解説には、次のように書かれている。
「ヴィヴァルディのト短調のマニフィカトRV610は、
おそらく、彼の生前、最も広く普及し、
演奏された宗教声楽曲である。
これを人は、多くの残された楽譜から知ることが出来、
少なくとも二度の機会に、
作曲家自身が改作していることも証拠となり、
事実、ヴェスペレ用に規定された聖歌として、
このテキストは、特に頻度高く演奏される。
ヴィヴァルディの作品の最初の版は、
おそらく、1713年から17年の間に作曲された。
これは、チェコスロヴァキア、オセクの、
シトー派修道院に伝わり、
プラハの国立図書館に保存されているものに相当する。
ここには、同市の聖ヴィトゥス聖堂という、
ほかの出所からの同じ版が保存されている。
ドレスデンの作曲家、ヤン・ディスマス・ゼレンカも、
同じ楽譜を持っていたことが知られており、
これは、1716年から17年に、
彼が、ヴェネチアを訪問した時に、
入手したものと思われる。
この版は、オーケストラに弦楽しかなく、
ピエタの作品の特徴として、
女性歌手用に、比較的高い低音(バス)を使っている。」

ということで、この作品は、最初の版から好評で、
遠くチェコまで伝わり、
演奏されていたことが書かれている。
が、さんざん期待を持たせながら、
この最初の人気作が、
今回聴く録音に使われたものではない。

「1720年代、この録音で採用した、
新しい版を作曲し、オーボエ一対を加え、
第8楽章の『とこしえの約束』を拡張して、
独立した部分とし、ある場所では、
バスを1オクターブ下げている。
現代の研究者は、彼がローマのパトロン、
ピエトロ・オットボーニ卿のために、
彼の宮殿に隣接する
ダマソの聖ロレンツォ教会で、
演奏するために書いた作品群の一つだという
仮説を提示している。」

ということで、今回、演奏されている、
「マニフィカト」RV610は、
ローマのためのもののようだ。

が、この版の楽譜の出所が書かれていないのは、
いささか片手落ちのように思える。

実は、このシリーズ4巻は、
「ローマのための宗教曲」というタイトルがついている。

このヴィヴァルディ宗教合唱曲シリーズの解説は、
全5巻とも、同じ文言から始まっていて、
「18世紀の終わりまで、
ほとんどすべての音楽は、
機会音楽であったが、
ヴィヴァルディの宗教曲も同様である」
という内容は、別にローマだけに、
フォーカスしたものではない。

ここでは、まず、ピエタの合唱長、
ガスパリーニが病欠した時に、
ヴィヴァルディにも、
宗教曲作曲の依頼が来るようになったと、
前にも読んだようなことが書かれている。

「ヴェネチアの4つの孤児院は、
そこに属する女性を集めて、
(男子は成人すると出て行く必要があり、
音楽教育は受けられなかった)
合唱団やオーケストラを組織した。
ミサ、晩課、終課などの礼拝用の、
標準の音楽が孤児院の礼拝所で、
質も高く演奏されたので、
地元の貴族や外交官、
全欧からヴェネチアを訪れる人が、
引きも切らずこれを聴きに出かけ、
手紙や回想で、たびたび、
ここでの音楽を生き生きと描写した。」

という感じで、ローマの話というより、
ヴィヴァルディの故郷のヴェネチアの話が続く。
しかし、以下に書かれている事は少し重要かもしれない。

「音楽に満ちた、こうした礼拝は、
たびたびおこなわれたので、
各孤児院のレパートリーに定着していった。
それでも、ピエタにとっても、
そこのシスターの団体にとっても、
定期的に、ミサの通常文
(キリエやグローリアやクレド)や、
晩課や終課で使われる詩篇、賛歌、聖歌に
新作の音楽を紹介することは重要であった。
イースターやクリスマス、
教会の年次の守護聖人の祝典など、
大きな教会のお祭りは、
この新作披露の機会であり、
ピエタにとっては、7月2日の、
聖処女の訪問がそれに相当した。
『サルヴェ・レジーナ』のような、
奉納の応答頌歌や、
『モテット』(儀礼の自由時間に挟まれる、
儀式とは関係のないテキストへの音楽)は、
もっと頻繁に供給され、
それらは、合唱団の少女や女性などから
選ばれたエリートのスター歌手たちによって歌われ、
ほとんど器楽の協奏曲のように、
表現力豊かで名技的な性格を帯びた。」

さて、こうしたピエタ用の宗教曲については、
1713年に合唱長のガスパリーニが去り、
1719年に後任のカルロ・ピエトロ・グルアが着任するまで、
他の人が書く必要があり、
1718年にマントヴァに去るまで、
ヴィヴァルディがもっぱらこれを引き受けたようである。

ということで、ここからが本題で、
ローマでのヴィヴァルディの活躍である。

「15から20曲と言うかなりの数のものが、
同様の手段によって、1720年代か、
1730年代のはじめのものだと特定できる。」

ここで書かれた「同様の手段」とは、
作曲のスタイルや手書きの譜面や紙などによって、
ということである。

「これらの多くは、すでにグルアや、
次にジョヴァンニ・ポルタなどが
合唱長を務めていたピエタのためのものではなく、
さらにそこから離れたものを考える必要がある。
この時期、ヴィヴァルディは確かに、
宗教合唱曲の依頼を受けている。
1727年、ルイ15世の双子の娘の誕生を祝って、
フランス大使に『テ・デウム』を書いており、
1733年には『ラウダーテ・ドミヌム』を、
サン・マルコのバジリカに、
サン・ピエトロ・オルセオロの聖遺物を移す際に
演奏するために提供している。」

そして、ヴィヴァルディは、
さらにピエタのための宗教曲を残した。
そのことが、軽く触れられている。

「のちのピエタの合唱長空位の際にも、
ヴィヴァルディは再度、
宗教声楽曲をピエタのために書いている。
1739年4月14日、
彼は6曲の詩篇、いくつかの応答頌歌、
6曲のモテットのために支払を得ている。
5月27日に再度、
5曲のモテットに代金をもらっている。
しかし、その音楽は少ししか残っておらず、
いくつかは完全な形では残っていない。」

という感じで、彼の宗教曲作曲の、
第一次ピエタ時代、ローマ時代、第二次ピエタ時代の、
三つの時期にわたって演奏され続けたのが、
「マニフィカト」だということになる。

先の「マニフィカト」解説には、
以下の部分が続き、RV611が、
新ピエタ版であると説いている。

「1739年、最終的にヴィヴァルディは、
三つの楽章を五つにして、
ピエタのために、新版を書いた。」

ということで、これまで聞いたCDの多くは、
この新ピエタ版(RV611)であったが、
このCDでは、それより古いバージョンが聴けるのである。

では聞いて行こう。

第4巻Track13.
「『マニフィカト』は、絶え間ない転調を伴い、
力強く始まるが、ヴィヴァルディは、
このパッセージを好んだようで、
『キリエ』RV587や、『クレド』RV591に、
これは再び使われている。」

非常に荘厳な音楽で、この主題が、
最後にも現れて、この大作を締めくくる。
この演奏では、合唱もたっぷりと芳醇である。

第4巻Track14.
「聖歌の第2節から第4節は、
一つのリトルネッロ形式の楽章に圧縮され、
3人の独唱者が交互に登場する。」

この部分も水もしたたる美演で、
マーガレット・マーシャル、リンダ・フィニー、
そして、アンソニー・ロルフ・ジョンソンらが、
合唱と絡んで、RV611とは異なる、
見事な立体感、色彩感を感じさせてくれる。

第4巻Track15.
「『代々の人々は』の言葉の合唱部は、
素晴らしく劇的に描かれる。」

この静謐で心を打つ楽章は、
オルガンの響きも神秘的で忘れがたい。

第4巻Track16.
「続く、『そのあわれみは』の楽章は、
この作品で最も表現力に富むもので、
六度、七度の広い音程を用いて、
激しさと共に、神の慈悲の無限を表している。」

分厚い合唱が、ぎざぎざした楽想を、
激しく表現する。

第4巻Track17.
「おごり高ぶるものを追い散らし」
も続けて演奏されるが、
極めて高い緊張感が維持されている。

第4巻Track18.
二人のソプラノが見事な声の交錯を聴かせる、
「飢えているものを良いもので飽かせ」は、
深い声を響かせているのが、
シューベルトの歌曲でも、
名演を残したフェリシティ・ロットだな、
などと考える楽しみがある。

第4巻Track19.
「主はあわれみをお忘れにならず」は、
さすがに歌詞に則り、荘重な合唱でいかめしい。

第4巻Track20.
「とこしえに憐れむ」は、
バスが登場し、ソプラノとコントラルトによる、
典雅なアンサンブルを聴かせる。
バスは、シューベルトも得意な、ロベルト・ホル。

これが、解説で書かれていた、
この版で改めて拡張された部分である。

第4巻Track21.
「『グローリア』の頌栄の回帰は、
短いが力強い締めくくりのフーガを導く。」

冒頭のテーマが厳かに出て、
ゆっくりと平明な合唱が地ならしをした後、
ものものしくも、憧れを秘めたフーガの部分で、
様々な声が交錯していく部分となる。

そのほか、この第四巻には、
3曲の宗教曲が収められている。

「ヴィヴァルディの大きいほうの
『主をほめたたえよ』RV597は、
(彼には単一楽章の変ロ長調のRV598がある)
同様に1720年代の
ローマ・グループに含まれるように思われる。
1739年に、ヴィヴァルディは、
短縮版(RV579a)をピエタのために作ったが、
これは残念ながら断片しか残っていない。
RV597は、『二つの聖歌隊のために』と、
それぞれ声楽と器楽群を持つ
二つのアンサンブルのために書かれている。
こうした分割アンサンブルは、
イタリアの教会が、祝典的行事で、
多くの音楽家を一か所に収容できず、
よく利用したものである。
こうした空間的な分離と、
パートの増殖による対位法の複雑化が、
いかに有効に活用されるかは、
作曲家や環境に依存する。
ヴィヴァルディは概して、
それほど挑戦的ではなく、
二つの聖歌隊は、しばしば統合され、
あるいは、『グローリア』の楽章のように、
単純に交錯する。
この付曲の興味深い点は、
オープニング楽章の一部が、
ヴィヴァルディ風に書けば、
アンティフォナ風に、
様々な個所で回帰する点である。
これは、モンテヴェルディが、
同じテキストで6声のために付曲した
1641年出版でも同様のリフレインがあり、
すでにあった伝統に則ったものと思われる。」

30分にもわたる大作である。
私には、少し長すぎるような気がするが、
いろんな箇所に面白い工夫がある。妙に描写的なのだ。

歌詞になった詩篇111(112)は、
しかし、それほど長大なものではなく、
歌詞も平明で、「主を讃えれば、いいこといっぱい」
という、品行方正の勧めで、ヴィヴァルディらしくない。

第4巻Track4.
明るく平明な弦楽の序奏が、
左右から2つのオーケストラで、
効果的に響き渡る中、神秘的な女声合唱が、
だんだん広がってくる。
「主をほめたたえよ」。

第4巻Track5.
男声合唱が目立つ力強い、がっしりとした音楽。
後半で、混成合唱が高らかに声を上げる。
「正しいもののやからは祝福を得る。」

第4巻Track6.
「繁栄と富はその家にあり」で、
めまぐるしいヘンテコなぐるぐる楽想。
これが、左右のオーケストラで奏でられ、
むずむずする感じ。
アン・マレイがマーシャルの声にからむ、
ソプラノ二重唱で、この木霊効果も面白い。
何と後半に、「主をほめたたえよ」の主題が、
合唱で輝かしく歌われる。

第4巻Track7.
静かにもぞもぞする序奏が、晴れやかになって、
いかにも歌詞を暗示する。
「光は正しいもののために暗黒の中にも現れる」
という精妙な男声合唱と女声合唱の交錯がなくとも、
みごとにこの部分を描いている素晴らしい器楽部である。

第4巻Track8.
ここでは、軽妙な忙しげなオルガンの音形に導かれ、
「正しい人」が神様に守られていることを、
ソプラノ独唱が寿ぐ。
この詩篇では、正しい人は、
「恵みを施し、貸すことをなし」
と描かれるから、せっせと人助けする感じの音楽にも聞こえる。
後半には、静かに「主をほめたたえよ」の合唱。

第4巻Track9.
ここでは、なんだか意味深な序奏が、
黙々とうごめく感じ。
コントラルト、テノール、バスの三重唱が、
「正しい人は永遠に覚えられ、
悪い訪れを恐れず」としみじみ歌うので、
「悪い訪れ」をでも表しているのだろうか。
この曲の後半も、「主をほめたたえよ」の大合唱。

第4巻Track10.
「彼の心は落ち着いて恐れることなく」という部分なので、
生き生きとした合唱が浮き立つような声を響かせる。

第4巻Track11.
「悪しき者はこれを見て怒り、
歯をかみならして溶け去る。
悪しき者の願いは滅びる。」
と、この詩篇の最後の部分。
確かに、軽妙ながら、悪しき者の歯ぎしりや、
いじいじ感が出ているような音楽。
テノール独唱に続き、例の大合唱。

第4巻Track12.
三位一体の賛美など頌栄の部分。
冒頭の音楽の回帰。グローリアからアーメンに向けて、
独唱や合唱がどんどん盛り上がって行く。

「ワルシャワ大学の図書館が持つ、
『クレド』ト長調の手稿はヴィヴァルディのものとされる。
ペーター・リオムによるヴィヴァルディの作品カタログでは、
RV592として、表向きには真筆として含まれている。
しかし、この分類は、技術的観点で、
単に、ほかの作曲家のものとする、
積極的な理由がないから、
疑いなしとされたもので、
そのスタイルからは、
RV592は、1730年から40年に花咲いた、
ナポリ派の作品に見える。
その『十字架にかけられ』は、
ペルゴレージの『スターバト・マーテル』を、
強く想起させる。
その作曲家が誰であれ、
非常に巧みに作曲されており、
テーマはうまく統一され、
『死』という言葉が、短調に移り変わるように、
表現上の繊細なタッチに満ちている。」

この作品は、このCDの最後に収められているが、
ソプラノとコントラルトと合唱、
オーケストラと通奏低音のための作品。
独唱者が出てくるのは3番目の部分のみ。
それが、上記のように特筆された、
「十字架にかけられ」である。

6つの部分に分かれ、10分余りの作品である。
明快なメロディに満ち、
大きな起伏を持った作品である。

第4巻Track22.
いささか強引ながら効果的な開始部。
オーケストラも合唱もすごい迫力で、
「ただ一つの神を信ずる」という信仰告白を開始。

Track23.
静謐な合唱による、
「精霊によってマリアの子となり」の部分。

Track24.
女声二重唱による、「苦しみを受け」の部分。
解説にもあったように、
序奏からして、そして二重唱も完全にペルゴレージである。

Track25.
以上の、静謐な部分から、爆発するような合唱が、
「3日後に蘇り、天に上り、父の右に座したまう」
という復活と昇天を力強く寿ぐ。

Track26.
再度、冒頭のテーマが復活して、
骨太感のある合唱が、最初の歌詞、
「信じます。唯一なる神を、全能の父を。」
を繰り返し、
Track27.
では、フーガ風の処理で、最後の、
「やがて来る世を待ち望みます」が、
高まってゆく。

「ヴィヴァルディが二つの聖歌隊のために書いた、
応唱『主よいそぎわれらを助けたまえ』RV593は、
『晩課』のお務めに含まれるもので、
彼の最も完璧に作り上げられた宗教声楽曲の一つである。
これは1720年代に、
おそらくローマのために書かれたものである。
その活気にあふれたオープニング楽章は、
『急ぐ』というイメージに対応して、
輝かしく伝える。
『グローリア・パトリ』では、
ソプラノ独唱が優雅に、
共に通奏低音がない、
二つのオーケストラの緊密に編まれた対話を、
縫うように進む。
終楽章は、印象的な序奏とフーガで、
持続的な八分音符の低音によって統一されている。」

この曲は解説が最後になったが、
ヴィヴァルディゆかりのピエタでは、
重要視されていた晩課のための音楽で、
CDでは冒頭に置かれている。

楽章が3つしかなく、10分に満たない作品だが、
この解説にあるように、
すぐれた聴きごたえある作品で、
心浮き立つ導入部から、輝かしく、
ダブル・オーケストラの効果も面白い。

というか、前の曲などより、
器楽の効果に手が込んだものを感じる。

詩篇69(70)によるとされるが、
これはとんでもない代物で、
詩篇からの歌詞は1行のみ。
あとは、決まり文句の三位一体の賛美と、
最初からあったものはこれからも続く、
という部分が、第2、第3楽章に割り振られている。

第4巻Track1.
「主よすみやかに私をお助けください。」
という、詩篇の1節、というか1行に従って、
ちゃかちゃかした感じの音楽が繰り広げられる。
エコーの効果が楽しい。

Track2.
解説にもあったように、
極めて緊張感漲るソプラノ独唱曲。
「三位一体」を寿いでいるが、
かなり、詩的でもあり美しい。

Track3.
宗教曲のお決まりの言葉の羅列であるが、
神妙な合唱は、その晴朗な雰囲気からして、
シューベルトの世界にまで直結しそうな清新さである。
後半のフーガもまた、明快で清潔な感じ。

このネグリのヴィヴァルディ、
前にも、全集第1巻で「グローリア」を聴いたが、
そこに入っていた「詩篇」による3曲を聴き飛ばしてしまった。

反省を兼ねて、せめてその一篇でも、ここで聞いておこう。

「同様に初期の作品の
『ラウダーテ・ドミヌム』RV606は、
一続きの一楽章構成といい、
独唱者なしのフル・コーラスの使用などで、
ヴィヴァルディの詩篇付曲の最高例の一つである。
主要な主題の中身は、
ユニゾンのヴァイオリンのラインにあって、
短い音形を、様々な和声、音色にして、
絶え間なく繰り返す。
この合唱は修辞的に歌われるのに対し、
メロディよりリズムや和声が強調される。
つかの間の変ロ短調へのスイッチや、
『misericordia(慈悲)』という言葉への、
長めの音価は、表現上の素晴らしい処理である。」

第1巻Track1.(単一楽章、約8分)。
詩篇147の途中からによる、
「ラウダ・エルサレム」で、
「エルサレムよ、主をほめたたえよ。
シオンよ、あなたの神をほめたたえよ」と、
合唱で歌いだされる。

冒頭からわくわくしてくる。
さすがシリーズの冒頭を飾るだけある、
晴朗かつ陰影に満ちた音楽だ。
きらきらと輝き、このCDシリーズの、
表紙の色調そのままである。

二人のソプラノ(マーシャルとマレイ)が、
左右から聞こえるが、
オーケストラも、聖歌隊も左右に分かれて2つ用意され、
オルガンの響きも冴え冴えと、
非常に面白いステレオ効果を味わうことが出来る。

タルボットの解説にはこうある。
「『ラウダ・エルサレム』RV609は、
このように後期の作品である。
(この前に、1739年4月14日に、
ヴィヴァルディは6つの詩篇、
いくつかの応答頌、6曲のモテットの代金を支払われた、
5月27日には、さらに5曲のモテット用に。
これらの作品の限られたものしか残っていない、
と書かれていた。)
これはダブル・コーラス、
ダブル・オーケストラのためのもので、
各合唱は独唱ソプラノのパートを有する。」

楽想もかっこよく、極めて聴きごたえのある作品だ。
充実した合唱が出たり引っ込んだりする効果、
冴え冴えとしたソプラノの浮かび上がる様子が、
超俗的な雰囲気を漲らせている。

「この曲の自筆譜で、
各独唱を想定した歌手二人の名前を、
ソロ・パートの頭に書きいれた。
これらのソプラノがユニゾンで歌うか、
各歌手が交互に歌うことを、
意味したのかは分からない。」
これは、ソプラノのソロ・パートが、
ここでは、各パート一人で対応。

「詩篇は、協奏曲を想起させる、
長い単一楽章で作曲される。
興味深いのは、独唱の声が、
ほとんど一緒には歌われないことで、
その関係は、デュエットというより、
オペラの『二人のアリア』を思わせる点である。」

まったく、同感で、あの「離宮のオットーネ」の、
神秘的な木霊のアリアを思い出す効果である。

「この作品の頌栄部後半で、
ヴィヴァルディは、フーガの様式を使い、
言葉の音節を明確に発音し、
素晴らしいエネルギーを添え、
素晴らしく趣きのあるクライマックスを築いた。」

得られた事:「ヴィヴァルディの『マニフィカト』RV610は、これを書き換えたRV611より、アンサンブル重視で色彩的、立体的。」
「『聖母の訪問の日』、7月2日が、ピエタの特別な祝祭日だったので、ヴィヴァルディは、『晩課』や『終課』の関係の宗教曲を多く残した。」
[PR]
by franz310 | 2012-12-23 22:14 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その358

b0083728_21451294.jpg個人的経験:
前回、ヴィヴァルディの
宗教曲の大作を聞いたが、
「ニシ・ドミヌス」という、
聞きなれないタイトルだった。
ヴィヴァルディには、
「なんたらドミヌス」
と題された有名曲、
「ディクシット・ドミヌス」
というのがあって、
これも録音には恵まれている。


LP時代から、名盤とされた、
ネグリ指揮のイギリス室内管弦楽団、
さらにジョン・オールディス合唱団たちによる、
ヴィヴァルディ宗教曲集2で、これを聴いてみる。
うまい具合に、ここには、
私が、ここのところ集中して聴いている、
「マニフィカト」も入っている。

「ドミヌス」は、「ドミネイト」(統治)の語源であろうか、
「主は」みたいな感じの単語のようだ。

聖書から歌詞が採られているので、
主はいつも主人公になっているようだ。

では、「ニシ」は何かというと、
「もし、でなければ」という意味らしく、
「主がもし」というのが、
「ニシ・ドミヌス」の意味ということになる。
日本語訳では、「主が建て給うのでなければ」とされる。
それにしても、何を建てるのか分からない。

では、「ディクシット」は何かというと、
「言う」ということらしいので、
「主は言う」となるが、何を言うのか分からないが、
日本語訳では、「主よ、われらの主にいいたもう」となり、
よけい分からなくなる傾向がある。

ということで、これらの「ドミヌス」シリーズは、
最近は、日本盤CDでも、
そのまま、「ニシ・ドミヌス」、「ディクシット・ドミヌス」
(または、「ディキシット・ドミヌス」)などと表記される。

これらは、聖書の「詩篇」をもとにしていて、
「ニシ」は詩篇126(127)により、
「ディクシット」は詩篇109(110)による。

前者に対しては、私は、比較的、共感を覚えたが、
後者の歌詞を手持ちの聖書(日本聖書協会)で見ると、
「ダビデの歌」とされるように勇壮すぎて、
ちょっと気が滅入る。

「軍勢を導く」、「打ち破る」、
「しかばねをもって満たす」などと、
刺激的な文言が列挙されているのだが、
味方になってくれた場合、
神様は、敵を容赦なくやっつけてくれる、
と、解釈されているようだ。

個々の言い回しの解釈はさておき、
結局、強い神様がついているから、
安心しなさいね、ということのようなのだ。

このようなきな臭いものながら、
この詩篇は、非常に有名なもののようで、
新約聖書では、この詩篇が最もよく引用されるという。

最初の、
「主はわが主に言われる、
『わたしがあなたのもろもろの敵を
あなたの足台とするまで、私の右に座せよ』と。」
という一節を、
最初の「主」=ヤハウェ
「わが主」=キリスト
として、キリスト到来の予言を表すのだという。

このようなこじつけとも言える説に対し、
「わが主」とは、単にダビデのことを言っているだけ、
という考えもあるようだが、
いずれにせよ、王権神授説的な宣言がなされているように見える。

その後の詩句も、
「力のある杖」を神様が用意するから、
それを使え、とか、
「軍勢を率いて聖なる山に行け」とか、
きわめて意味深な権力譲渡の正当性の列挙がある。

そうなればしめたもの、
神様が、「とこしえに祭司である」と保証してくれたり、
「怒りの日に王たちを打ち破」ってくれたり、
至れり尽くせりで、助けてくれるようだ。

最後の一節は、ちょっと異質で、
「川からくんで飲み、それによってこうべをあげるであろう」
と、完全に何やら予言風。

「こうべをあげる」を「キリストの復活」、
と解釈する向きもあるようで、
そこまで来たら、
パズルやら妄想を勝手にやっていただきたい、
という世界に突入する。

「ニシ・ドミヌス」は、もっと優しい内容であったが、
これは極めて強硬的な内容の詩篇である。
おかげで、極めて華やかな楽曲となっている。

歌詞のことは、このくらいにして、
音楽については、ヴィヴァルディの権威、
ミヒャエル・タルボットの解説が読める。

「二つの聖歌隊のための、
『ディクシット・ドミヌス』RV594と、
ディクシットの序唱、
『Canta in prato(草原に歌う)』RV636は、
1720年代の大きなサブ・グループに属し、
これらは、ローマと関係し、
おそらく、ダマソの聖ロレンツォ教会に関係したものである。
『Dominus a dextris tuis』(主は打ち破る)
というRV594の楽章における、
華麗なテノールとバスの書法は、
あきらかに男声を使ったもので、
ピエタとは関係がなさそうで、
『草原に歌う』にも見られる、
オーボエをリピエーノとして利用した特徴も、
同様に、この施設的ではない。
さらに、『ディクシット・ドミヌス』は、
対位法の複雑さなど、
先のサブ・グループの特徴を持っている。
終楽章の『Sicut erat in principio』(初めからあり)
それまで支配的であった応答頌のスタイルから離れ、
実質、7つの声部に分けて、
むしろ『マッシブ』な効果を狙った。
この力強い楽章は、
シャコンヌとフーガの交差点のようなものである。」

これが、「ディクシット」の解説だが、
実際には、これに先立って、
この曲を演奏する前に、
聴衆をその気にさせる誘い水のように、
「ディクシットへの序唱」というのが収録されている。
この解説も読んでしまおう。

「ヴィヴァルディによって書かれ、
残っている他の7つの序唱と同様、
RV636は、独唱モテットの形をとって、
最後の『アレルヤ』を抜いたようなものである。
実際、この詩的なテキストは、
ヴィヴァルディのモテットの一つ(RV623)
からとられている。
自筆譜から、二つの聖歌隊によって演奏されるとされ、
(二つのオーケストラも同じ音楽を演奏)
これが、『ディクシット』RV594を、
導くためのものであることを強調する。」

ということで、「序唱」は、モテットのように、
いくぶん、砕けた形式のもの。
が、3楽章からなり7分ほどかかる。

Track1.
ディクシットへの序唱RV636、
第1楽章のアレグロである。
マーガレット・マーシャルのソプラノが、
平明な、しかし、広く開けたような歌を、
シンプルなオーケストラを伴奏に繰り広げる。
この楽章が4分半もあって、あとは短い。
「草原に歌えば、春のフィロメーラが笑う。
山々に喜びの声をこだまさせましょう。
春に喜びの声をこだまさせましょう。
この喜びの声で、あなたの苦しみは去るでしょう。」

Track2.
第2楽章でレチタティーボで、
オルガン伴奏で、
待ちわびた聖なる日を寿ぐ。

Track3.
第3楽章で、これまた浮き立つような音楽で、
「ティンパニやオルガンで喜びを表現しよう」
などと歌われた後、
「野原から羊飼いのパイプが聞こえたら、
『ディクシット』を歌いましょう」と、
確かに導入部となっている。

Track4.
オルガンの軽やかな伴奏が、
次第に華やかな金管を伴うオーケストラを導き、
ファンファーレ付の楽しげな音楽が盛り上がって行く。
合唱は、晴れやかな表情が爽やかである。

「主はわが主に、わが右に座せよと言われた」
とあるが、
これは、神様の加護が受けられる子分にしてもらえた、
という感じなのであろう。
神様の保証付きとは、
確かに、気分さっぱり、という感じであろう。

Track5.
何となく、しょぼくれた寂しげな弦楽に導かれ、
低音とオルガンが続き、決然とした雰囲気。
合唱も、ものものしいが、
これは、「主は敵を踏み台にしてしまう」
という歌詞だからである。

あまり省略しすぎると、キリスト教の方々からは、
肝心の語句が抜けた、と怒られそうだが、
許してもらいたい。

Track6.
ふたたび、軽やかな、軽妙でもある音楽になる。
エコーの効果もしゃれていて、
二人のソプラノ独唱者たちが、
楽しげに歌いかわす。
「神様が杖をくれるので、
敵の中にあっても王となる」という部分。

演奏者一覧には、RV594には、
ソプラノは一人しかでていない。
マーガレット・マーシャルと、
メゾのアン・マレイか?

Track7.
次は、かなりシリアスな音楽となり、
オーケストラの伴奏からして、
ニヒルで悲壮感があってかっこいい。
コントラルトの独唱が、
「聖なる栄光のうち、主権はなんじにあり」
という、神託のようなものを下す。

アン・コリンズの声であろうか。
威厳があり、格調も高く、美しい装飾も交えながら、
「私がお前を産んだ」と宣言する。

Track8.
ダイナミックな合唱群が左右から波となって押し寄せ、
「主の心は変わらない」と宣言。
そのあと、軽やかなリズムとなって、
「お前は、とこしえに司祭である」と、
これまた言い渡される。

Track9.
協奏曲のように楽しげな曲想で、
弦楽とオルガンが跳ね回る中、
重いが軽やかなテノールとバスの二重唱である。
アンソニー・ラルフ・ジョンソンと、
ロベルト・ホルといった、
シューベルトの歌い手でもある人たちである。

この楽章ゆえに、ピエタのための音楽ではない、
という見解である。
「怒りの日に王たちが打ち破られる」部分。

Track10.
「主は異邦人をさばき、廃墟で満たす」
という恐るべき内容のためか、
不気味な戦勝のラッパが吹き鳴らされ、
合唱は、静かに、あるいは威嚇的に、
「首領たちは震撼する」と歌う。

Track11.
悩み深い音楽で、詩的な情感を伴い、
詩篇の最後の節が歌われる。

マーガレット・マーシャルの
ソプラノ独唱が、
真摯な声を聴かせるが、
「主は道のほとりの流れよりくみて飲み、
かくて、そのこうべをあげん」という、
意味不明のもの。

ひょっとして、異教徒どもの廃墟にあって、
さて、また、もうひと踏ん張りするか、
などと神様は考えたのであろうか。

みんな死んじゃった、みたいな楽想である。
全体として、
なんだか、きな臭い内容の歌詞を、
むりやり祝典風にしたような音楽である。

Track12.
ここでお決まりの締めくくりの「グローリア」の、
華やかな大合唱である。
「父と子と聖霊に栄光あれ」
と華やかなオーケストラと合唱。

Track13.
これまたお決まりの、
「はじめにありしごとく、とこしえに」
の終楽章。

これは、解説にもあったように、
どえらい音楽で、声部が分割されまくり、
左右から合唱の洪水が押し寄せる。

ものすごい効果を持つ傑作ではないか。
これまで、いろいろヴィヴァルディの音楽を聴いたが、
確かに、異色の高揚が味わえる。

極めて起伏に富んだ、
多彩な魅力を持った名品であると理解。

次に、「マニフィカト」が入っているが、
ここでも、複雑な、
ヴィヴァルディのマニフィカトの成立史が書かれている。

「ヴィヴァルディの『マニフィカト』の、
元の形は1710年代に書かれた。
1720年代に、彼はこれを、
二つの聖歌隊のために書き換え、
オーボエ・パートを加えた。
最終的に1739年に、
彼は一つの合唱団用に、再度、書き直したが、
ピエタの5人のスター歌手のために、
3つの楽章を書き換えた。
もともと聖歌の第2~第4節であった、
第2楽章は、それぞれ、
歌手、アポローニア、
マリーア(ニックネームはボローニャ人)、
キアレッタのための、
3つの独唱ナンバーに置き換えられた。」

これまで、書き換えられた、という表現が、
実は、よく分からなかったのだが、
この記述からすると、
どうやら、もともと楽章として1つだったのを、
3つに分割したようだ。

確かに、RV610のマニフィカトは9楽章、
RV611のマニフィカトは11楽章ある。

「もともとデュエットであった、
『Esurientes(飢えたるものは満たされ)』は、
アンブロジーナのための独唱曲となった。
彼女のパートは、コントラルトのために、
非常に深く、テノールの音域でいつも書かれていた。
『Sicut locutus est』は、前は三重唱であったが、
アルベッタ用となった。
この『マニフィカト』(RV611)最終バージョンは、
以前の版の引き締まり感は失ったが、
独唱者の要求には答えやすくなった。
この作品はヴィヴァルディ初期の成熟した時期と、
ガルッピやポルポラといった若い世代の
『ギャラント』スタイルを吸収しようとした、
後期のヴィヴァルディのスタイルを比較するという、
素敵な機会を与えてくれる。」

なるほど、ポルポラといえば、
声の饗宴で知られるナポリ派の親方である。
スター歌手が育っていたことも、
こうした行き方に拍車をかけたのだろうか。
あるいは、ポルポラらの影響で、
こうした歌い手が育っていたとも言えよう。

いろいろ考えさせられる。

残念ながら、このCD、
どの楽章をどの歌手が歌ったかが書かれていないが、
ちゃんとピエタにならって、5人の女性歌手を用意して、
さもありなんという演奏をしているのがありがたい。

ソプラノには、マーシャル、ロット、
そして、サリー・ブルゲスが名を連ね、
コントラルトで、リンダ・フィニー、
アン・コリンズが名を連ねている。

Track14.
アダージョで合唱による「私のたましいは主をあがめ」。
神妙で美しい楽曲である。

Track15.
わざわざ、トラックの説明には、
アレグロ、「アポローニア」と書いてあるが、
録音に起用した歌手が誰であるかは書かれていない。

楽しげに、「神を讃えます」と舞いあがって美しい。
伸びのある声が求められる。
順番から言うと、マーシャルか?

Track16.
これもアンダンテ・モルト、「ボロネーゼ」とある。
悩み深い情感のもの。
「この卑しい私にこころをかけてくださった」という部分。
影のある声が求められる。
順番からすると、フェリシティ・ロットだということになる。
シューベルトも得意とする彼女であろうか。

Track17.
アンダンテ、「キアレッタ」とあるが、
控えめな楽想から、しっかりした存在感の声が求められる。
「主は私に大きなことをしてくれた」。

Track18.
たっぷりとした合唱、
しっとりとしたハーモニーが味わえる。
「そのあわれみは限りなく」。

Track19.
激烈な楽章で、モーツァルトのハ短調ミサに比肩された。
「おごり高ぶるものを追い散らし」の部分。

Track20.
教訓がありがたい合唱曲で、有無を言わさぬ。
ヴィヴァルディの音楽は、これしかない、
という断固たる存在感を示す。
「権力あるものを王座より引き下ろす」。

Track21.
再び、声の妙義を聴かせる楽章。
オペラとまがうような技法を散りばめて、
切々と歌われる。

アレグロ、「アンブロジーナ」。
「飢えたるものを満たし、富んでいるものを去らせる」
という、「第九」みたいな歌詞。

Track22.
「主はあわれみをお忘れにならず」という、
これまた、ありがたさが身に染みる音楽。
静かに響く合唱の美しさ。

Track23.
アンダンテ、「アルベッタ」。
「とこしえに憐れむ」という、優しい情感。
この楽章もアンブロジーナ同様、
派手なものではないが、
技巧を凝らしながら、声を響かせる必要がある。

Track24.
荘厳な「グローリア」で、
「ディクシット」のグローリアのような、
華麗さはなく、合唱が深く沈潜して、
神の威光が、あまねく行きわたる感じ。

後半の「はじめにあったとおり」という部分も、
とても、真摯で感動的な音楽である。
「アーメン」へと昇華される。
この曲が、遠くボヘミアまで普及したのは、
わかるような気がする。

では、最後に入っている8分ほどの曲も聞いてしまおう。

「『Beatus vir』(主を恐れる人に祝福)RV598は、
複数の楽章に分けられるような内容を、
より凝った作曲によって、
一つの楽章で、主題を対比させるという、
ヴィヴァルディの能力の例証である。
420小節にもわたるが、
ヴィヴァルディの協奏曲の
アレグロの形式がモデルになっている。
リトルネッロとエピソードという、
2つのタイプの部分の交代からなる、
典型的な独奏協奏曲風で、
この詩篇では、
オーケストラだけの部分、
独唱者群、合唱のための3つのタイプが交錯する。
ある意味、このRV598は、
ヴィヴァルディの協奏曲が拡張されたらどうなるかを、
示唆するようなものである。」

ということで、詩篇111(112)をもとにしたものだという。
「幸いである、主を畏れる人、主の戒めを愛する人は」とはじまるもの。
これを、合唱と、二人のソプラノ(マーシャルとロット)、
メゾのスーザン・ダニエルと、オーケストラが、
拡大リトルネッロ形式で歌い継ぐ。

いささか無骨な主題であって、
オスティナート風に、頑固なリズムが終始刻まれる。

最初にメゾが、宣告するような歌いぶりで、
続いて、ソプラノ二重唱が冴え冴えとした声で魅了する。
「その子孫は力を持ち」と歌う。

合唱が、「グローリア」と叫ぶが、
「富と豊かさが、彼の家にはあり」という部分である。

この調子で、
「闇の中にも光が射す」とか、
「恵みを施す人はさいわいである」などと、
義人の徳が語られる。

これらの作品、演奏を収めたネグリ指揮の、
ヴィヴァルディの宗教曲集(ここでは第2巻)、
録音の美しさや、
フラ・アンジェリコの絵画をあしらった、
表紙の格調の高さから言っても、
かなり満足度の高いものと言える。

得られた事:「『ディクシット・ドミヌス』は、『ニシ・ドミヌス』同様、多楽章の宗教合唱曲ではあるが、より血なまぐさい歌詞で、曲調もドラマティック。終曲は圧巻。」
「この難解な『詩篇109(110)』の解釈は、多くのキリスト教信者にとって重要。」
[PR]
by franz310 | 2012-12-15 21:47 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その357

b0083728_17443115.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディの
「マニフィカト」は、
当時の彼の人気を伝え、
多くの楽譜が存在し、
遠くボヘミアでも
演奏されたヒット曲だという。
が、1995年に出た、
音楽之友社の
名曲解説ライブラリーでは、
この曲は扱われていない。
しかし、今回の
このCD解説を読むと、
この曲の真価、
みたいな勢いで書かれていて、
とてもうれしくなる。


かなり激賞されているので、こんな傑作を、
いろいろ聞き比べることが出来て、
良かったな、という感じである。
やはり、買った人がハッピーになるような、
曲目解説をお願いしたいものである。

今回聴いたのは、
録音が良いことで知られる、
フランスのシャルランのもの。
とはいえ、1964年頃に出されたものを
改めてCD化したもので、
演奏自体は半世紀も前のものである。

名録音技師として有名だった、
アンドレ・シャルラン(1903-1983)の残した録音は、
LP時代から、何か、香しい香りを放つもののように、
日本でも尊重されていたものである。
ワンポイント録音というのが、
シャルランの得意技だったようだが、
私はよく知らない。

このCDでも、
何か、ぼかしによる遠近法を駆使したような、
不思議な質感の録音を聴くことが出来るが、
水彩画風とも、抜けるような、
とも言いかえることが出来る。

録音は良いのであろうが、
生々しいという感じではなく、
押しつけがましくなく、清涼である。
歌手の声質からして、そういった人選なのかもしれない。

まったく嫌味がなく、これは嬉しいCDである。

私は、フォーレの室内楽やピアノ曲を、
このレーベルで愛聴していたので、
シャルランというサインを見るだけで、
陶然としてしまうので、
正しい判断が出来ているか自信はないのだが。

この二人の天使をあしらった、
古雅なデザインもまた、
当時を彷彿とさせて嬉しいではないか。

カルロ・フェリーチェ・チラーリオ(チッラリオ)指揮
ミラノ・アンジェリクム室内合奏団の演奏。
この指揮者は良く知らないが、
カラスの「トスカ」などを振っており、
オペラが本業なのかもしれない。

オーケストラは、このレーベルでは、
よく登場していたものだ。
しなやかで弾力の豊かな、
しかも切れ味のよい演奏が聴ける。

E.クンダリ、A.ヴェルチェッリ(S)、
A.M.ロータ(A)といった声楽陣が歌っているという。
ポリフォニコ・ディ・トリノの合唱も、
熱唱ながら、力みによる破たんがなく、
絹織物のような上質な肌触りがある。

エミリア・クンダリは、ワルター晩年の、
マーラー「復活」(1958年)や、
「第九」(1959年)でソプラノを受け持っていた人だ。

カナダ(アメリカ?)生まれのこの人は、
メトロポリタン・オペラで活躍、
いつの間にか、ヨーロッパでヴィヴァルディなども歌うようになって、
その後、教育に専念、キャリアを中断したようである。

ということで、ここで聞く「マニフィカト」の歌唱は、
この人の数少ない独唱録音ということになる。

「第九」にしても「復活」にしても、
ソプラノはアンサンブルの一角を占めているだけ、
みたいな感じなので、
全部、しっかり、クンダリの声を聴けるものとしては、
貴重なものではないだろうか。

ワルターの「復活」でも、クンダリの声は、
押しつけがましくない楚々としたものだが、
何となく、この時代が求めていた声の感じ、
という気がしないでもない。

この録音、ワルターのステレオ盤にしては珍しい、
ニューヨーク・フィルとのもので、
指揮者にもオーケストラにも特別な高揚感がある。

なんだか、変な例えだが、
ショルティがシカゴ交響楽団を引き連れて、
ヴィーンで録音した「千人の交響曲」でも聞かれたような、
一期一会の真剣勝負の場において、
何かを希求するイメージを伝えるのに、
クンダリはふさわしい声である。

その他の歌手については良く分からない。

では、Carl de Nysという人が書いた、
解説を読んで見よう。

収録曲そのままに、
Nisi Dominus
Magnificat
という題名である。

「今日、ヴィヴァルディの並外れた名声は、
主に、その協奏曲によって知られているが、
生前には、ここに収められた『マニフィカト』など、
宗教曲でもよく知られていた。
この作品は、遠く離れたボヘミアの図書館など、
数多くの写譜が残っている。
いくつかの作品は明らかにバッハも知られていた。
おそらく彼の協奏曲のいくつかは、
サン・マルコ教会やピエタで得ていた、
彼の宗教曲と同様の成功を、
広める目的で書かれたものと思われる。
ト短調のマニフィカトは、
ピエタの夕べの祈りのために書かれ、
バッハも含む、同時代に書かれた、
マリアの賛歌の多くのものより優れている。」

ということで、この「マニフィカト」は、
傑作だと言うことであろう。

「最初の自筆譜には、
アポローニア、キアレッタ、アンブロジーナ、
ボロネーザ、アルベッタという、
スコアから見るに、
恐らく際立った声の持ち主だったであろう、
この作品を歌った、
ピエタの若い娘たちの名前がある。」

とあって、ナクソスのCDにも書かれていた、
才能ある少女?たちの紹介がなされている。

ここでは、この曲の素晴らしさが、
少し詳しく書かれている。

「いくつかの合唱の中のユニゾンの大胆さ、
いくつかのアリアの感情の深さ、
(第三曲『Quia respexit』(Track10.)、
第十曲『Sicut locutus』(Track16.))
とりわけ、壮麗な、第五曲
『Et misericordia』(Track12.)は、
バッハのミサ曲ロ短調の『Crucifixus(十字架につけられ)』や、
モーツァルトのハ短調ミサK417aの、
『Qui tollis』を想起させ、
いくつかの協奏曲が、
彼の価値を下げるように思えることがあるが、
ヴィヴァルディは、本当に、
音楽の大天才であった。」

ここまで礼賛してもらうと、
このCDを聴く耳は、ますます期待高まり、
確かに、すごい音楽だと思えてくる。

二曲の収録のうち、「マニフィカト」は、
後半に入っている。

このCDの不親切な点は、
各トラックの割り振りに何も書いてない点である。

Track8.
合唱を主体とする荘重な「主をあがめる」音楽。
素晴らしく充実した気迫のあるれる音楽で、
凝集力を感じさせながら、透明感がある。

Track9.
楽しいソプラノ独唱の「神を讃える」音楽。
クンダリの声であろう。
とてもさわやかで好感の持てる歌い回しで、
無垢な心情にふさわしい。

Track10.
ここでは、ソプラノは、かすれる寸前のような、
心の込め方で、
「卑しい女に心をかけてくれた」神への感謝を歌う。
ヴィヴァルディの音楽も深い。

Track11.
敬虔な気持ちに彩られた序奏に続き、
「力ある方が私に」という、
前の音楽と同様の歌詞を、
ソプラノは、丁寧に歌って行く感じ。
こうした点もクンダリの特性なのかもしれない。

私は、第1曲の重厚で悲壮感あふれる合唱から、
こうして続く、ソプラノ独唱曲の連なりが、
どうも統一感に欠けると思っていたが、
この演奏で聞くと、そのあたりの欠点は、
あまり感じられない。

Track12.
合唱曲で、これは、解説でも特筆された、
悲劇的な色彩に満ちたものである。

「そのあわれみは、世々に続く」と歌われ、
ひしひしと迫りくる音楽は、
時を越えてしみ通る感じであろうか。

バッハのミサ曲ロ短調の「十字架につけられ」に、
比肩されていたが、楽想までそっくりである。
音楽の感じは、バッハの方の歌詞に近そうだが、
音楽そのものは、ヴィヴァルディの方が美しい。

Track13.
強烈なオーケストラの序奏にふさわしく、
「敵を打ち破る」、力強い合唱曲。
これも、バッハのみならず、
古典派、ロマン派でも通用しそうな迫力である。

Track14.
再び、独唱主体のものが入るが、
いくぶん、切迫感をもって、
「飢えているもの」と「富んでいるもの」が、
反対の扱いを受けるという、
教訓を垂れているのである。

これは、すこし声が太い感じられ、
エミリア・クンダリの声ではなさそうだ。

Track15.
合唱曲で、怖いくらいの迫力がある。
ちょっと、歌詞との乖離が大きいように感じられるが、
主の助けを歌っていて、ありがたく聞くべきだったようだ。

Track16.
再び独唱曲であるが、
ひれ伏して歌うような感じで、
「わたしたちを主が憐れんでくれる」
と、しみじみとした風情。

この声も、クンダリではなさそうだ。
アンジェラ・ベルチェッリというソプラノも、
CDには書かれているので、この人の声だろう。

Track17.
対位法も駆使した圧倒的な合唱付き終曲。
最初の曲の楽想が戻ってきて、
素晴らしいまとまりを示す。

「栄光がみ父に、アーメン」という内容を、
モニュメンタルに建立した壮大なもので、
ヴィヴァルディが、決して、
協奏曲で、しゃれた花鳥風月を、
描いていただけの作曲家ではないことを教えてくれる。

では、もう一曲収録されているので、
解説の続きを読もう。
「『詩篇126』は、協奏曲的宗教曲で、
聖母の夕べの祈りからのもので、
独唱カンタータのように扱われている。
しかし、ヴィヴァルディは、
その楽譜で、各節の意味に深く近づいており、
もっともふさわしい形式をとって、
単にレチタティーボやアリアではない。
『Cum dederit』(眠りを与えられるであろう)
(第四曲、Track3.)の音楽は、
後に、彼の協奏曲『夜』(RV.439)の、
『眠り』(その第5楽章)でも現れる。
三位一体を賛美する頌栄『父に栄光を』
(第七曲、Track6)のため、
声楽は通奏低音とオブリガード、
どこにも登場しなかった、
ヴィオラ・ダモーレで伴奏される。」

実際には、この曲の方が、
先に入っていて、
こちらは、冒頭に書いた、
作曲家別名曲解説ライブラリー
「ヴィヴァルディ」にも、
解説が出ている。

最近のCDでは、
「ニシ・ドミヌス」と表記されているが、
先の解説にあったように、
詩篇126によるものなので、
「詩篇126篇『主が家を建てられるのでなければ』ト短調」
というものものしい題名での紹介。

この解説は、しかし、いつ作曲されたのか、
なぜ、この曲が書かれたのか、
名曲なのかどうか、といったことは、
一切、書かれていない。

第1曲、「器楽のリトルネッロ主題は
ソロ協奏曲のそれを思わせる」みたいな感じで、
淡々としたものだ。

が、このCD解説では、詩句に忠実な音楽、
みたいなことが書かれていたが、
それを補足するように、
第3曲の「目覚めよSurgite」や、
「苦しみのDoloris」(Track2の後半)が、
上昇進行や半音階下降で、
独特な効果を付与されていることが書かれている。

それはよくわかったが、
そんなこと以上に、私が悩ましく思うのが、
この詩篇の歌詞の意味である。

ダヴィデが作ったとされる、
「聖書」にある「詩篇」は、
平明な歌の形で書かれていて、
イギリス人などには親しまれているらしいが、
我々、日本人にとっては、
かなり縁遠いものが目白押しである。

この「詩篇126篇」は、
モンテヴェルディの「夕べの祈り」にも、
取り上げられていて、
おそらく重要なものなのだろうが、
歌詞をどう解釈していいものか、
よく分からない。

「主が家を建てられるのでなければ」というタイトルは、
詩の初めの一節で、
「それを建てるものの働きは虚しい」と続く。
次の節は、
「主が町を守りたまわずば、
それを守る夜警は虚しい」というもの。

日本の音楽愛好家は、
これをどう考えて聞くべきであろうか。
多くの日本語CD解説にも、
それを答えてくれているものはない。

単に、詩篇からとられた、
歌詞はこうである、と書かれているだけだ。

キリスト教式に、やっぱり、神様の意志にそぐわないと、
みんなダメダメだなあ、と聞くべきであろうか。
だとすると、妙に説教くさい、
なんだか気が重くなる音楽ということになる。

そんな事を考えながら聞いて見よう。
注意すべきは、全9曲なのに、
Trackは7つにしかわかれてない点。

Track1.
既に紹介した、
「神様が家を建てるのを認めないのに、
建てたって、すぐ壊れるよ」みたいな部分。
「神様のおぼしめしなくして町は守れないよ」と続く。

これは、マニフィカトとは異なり、
合唱はなく、オーケストラ伴奏のアルト独奏曲、
という感じである。

勇壮な楽想で、ヴァイオリン群と、
独唱が交互に音楽を繰り返して積み上げて行く。
この楽想は、全曲で重要な働きを示し、
「マニフィカト」同様、全曲を最後に締めくくる。

Track2.
この部分の詩句は、非常に悩ましい。
「日の出前に起きるのは虚しいぞ」
の部分。
日の出前の描写があるゆえか、
静かにオルガン伴奏が夜の冷気を伝え、
アルト独唱は、敬虔な心情を吐露していく。

後半、第3曲「目覚めよ」が入っている。
「苦しみのパンを食うものよ、
起き出るがよい」という、
プレスとでの呼びかけ。
ここでの歌詞と音楽の対応はすでに解説にあった。

どうして、こんな歌詞に変わるのか、
よく分からない。
日本聖書協会の「聖書」では、
使用する原典の関係から、
第127篇にこれに相当するものが出てくるが、
「早起き、遅寝は、辛苦の糧である」とシンプル。
「起き出るがよい」の詩句は見えず、
なぜ、起きるべきかは分からない。

Track3.
第4曲「与えられるであろう」。
これは、素晴らしい詩的情緒の充満した部分で、
ここも、解説にあった。

日本語では、いろんな訳があるが、
「神様は、眠っている時にも、
なくてはならぬものを与えられる。」
という、とてもありがたい詩句。

このあたりは、ごく普通に日本人にも理解できる。
少子高齢化の日本人が聴くべきことに、
「子供も神からの賜りものじゃ」
という教えもよくわかる。

が、単に、朝から晩まで働かないで、
子作りをせよという内容だと理解したら、
信者の方々に怒られてしまいそうだ。
が、それが一番、理解できる。

Track4.
第5曲「矢のように」。
オペラ式の歌唱を思わせる、
華麗で力強いアリアである。

これも、「聖書」が分かりやすい。
「子供は勇士の矢のようだ」というのである。
やはり子孫繁栄がええのお。

Track5.
第6曲「人は幸いである」。
「幸いなるかな、かの子らによりて
おのれの望みをはたすもの」
と、子供がいることの良さを、
しみじみと歌う。

Track6.
第7曲「父に栄光を」。
これも解説にあった重要な曲。
ヴィオラ・ダモーレのオブリガードが、
なだらかなララバイのような
美しい声楽に寄り添うが、
霊妙な空気を感じさせる。

これは、もう、「詩篇126篇」とは異なり、
宗教曲の決まり文句の三位一体を、
「父と子と聖霊に栄えあれ」と歌っている。

Track7.
第8曲「かくも初めにあった」と、
第9曲「アーメン」で、
素晴らしい最初の曲の楽想が戻ってきて、
素晴らしい盛り上がりと、
全曲の統一を果たす。

宗教曲の定型なのであろう、
「いつの世までもとこしえに」という詩句。

なお、前回のナクソス盤の解説から、
この「ニシ・ドミヌス」の解説を抜き出すと、
こんな事が書かれている。

「夕べの祈りの詩篇126に、
ヴィヴァルディが曲をつけたものは、
おそらく、ほかの場所でも再演されたであろうが、
ピエタのために宗教音楽を書いた初期のものである。
強い性格のト短調の器楽のオープニングに続き、
難易度の高い声楽部とリトルネッロで繰り返され、
最後は、二つの詩節が伸縮する。」
みたいな解説の後、
ヴィオラ・ダモーレの出てくるところには、
「ピエタの傑出したこの楽器の演奏家、
アンナ・マリーアを思い出させる」とあるが、
そうなのだろうか。

アンナ・マリーアは、ヴァイオリンの名手ではなかったのか。

それにしても、今回、このシャルランの一枚で、
ここまで盛り上がれるとは思わなかった。
クンダリの経歴も、詩篇の内容もとても熟考に値するものだった。

前回聴いた、ナクソス盤では、
ちょっと構成感が弱いと思われた、
ヴィヴァルディの宗教曲二篇だが、
ここでの演奏は、緊張感も統一感も良いものと思わせるものだった。

得られた事:「『ニシ・ドミヌス』は、神の働きによる子孫繁栄の内容ゆえに、夕べの祈りにふさわしい楽曲であった。」
[PR]
by franz310 | 2012-12-09 17:46 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その356

b0083728_2331490.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディ作曲の、
「弦楽のための協奏曲」には、
「マドリガル風」という、
奇妙な題名のものがあるが、
この曲の主題は、
何と宗教曲と同じだという。
それを知って驚いていると、
かなりおあつらえ向きの
CDを私は持っていた。
それが、このナクソスの盤だ。
「宗教音楽全集第3集」とあるが、
真ん中に気分転換用か、
この協奏曲ニ短調
(RV.129)が挟まれている。


しかも、この協奏曲と同じ曲調を持つ、
「マグニフィカト」RV.610と、
「キリエ」RV.587も収録されている。
表紙写真も教会の天井の立派な装飾が荘厳である。

しかし、これは、ケヴィン・マロン指揮の、
アラディア・アンサンブルという、奇妙な団体の演奏で、
2007年1月、カナダでの録音である。
グレース・チャーチ・オン・ザ・ヒルが録音場所である。

解説には、「アーリー・ミュージック界に、
新しく現れたエキサイティングなグループの一つ」とある。
トロントを拠点とし、オリジナル楽器を駆使し、
ナクソスには30以上の録音をしているようだ。

アラディアとはアポローンの双子の姉妹の娘で、
神に遣わされ、人間に、
自然の音楽を歌にすることを教えたとある。

この神話か伝説はそんなに有名ではなさそうで、
アポローンの双子の姉妹はアルカディアで、
それと混同されるディアナの娘がアラディアで、
一説に彼女は魔女だとある。

このCD、ナクソスには珍しく、
ブックレットに独唱者たちの写真も載っているが、
ソプラノのカルラ・フータネン、
イヴ・ラケル・マクロード、
メゾのリン・マクマートリー、
ジェニファー・エンス・モドロ、
どの人も若い美人であるように見える。

オーケストラ同様、
カナダをベースにする人たちのようである。
ただし、指揮者のケヴィン・マロンは、
アイルランド人だと明記されている。

カナダというと、デュトワ、モントリオールの
ペルゴレージが美しかったが、ここでも、
北欧風の爽やかな風を期待したいヴィヴァルディだ。
ナクソスなので、雰囲気豊かな録音も期待できよう。
しかし、合唱はどの団体が歌っているのだろうか。

さて、ケイス・アンダーソンという人が書いた解説は、
ヴィヴァルディの生涯から始まっているが、
今回は、これは後回しにする。

さっそく、「マニフィカト」から聞きたいので、
解説もこの部分から読む。
ここで独唱を務めているマクマートリーが、
このCDのお勧めのようで、
「芯の強い美声に惚れ惚れする」と帯に書かれている。

最初に書いておくと、
期待して聴いたが、そこまでではなかった。
オーケストラも、エキサイティングなグループの一つ、
と解説にあるが、そこまでではないような気がする。
そこそこ清潔感も立体感もあるが、
非常に微温的な感じの表現である、
というのが第一印象である。

「ヴィヴァルディのト短調によるマニフィカトは、
4つの演奏可能な版が残されている。
ヴィヴァルディ学者のトールバットによれば、
最初のバージョンは、
この作品の広がりを示すものだが、
ボヘミアのオセクの
シトー修道院にコピーが保存されているものである。
リオムによる番号では、RV610bとされ、
おそらく、これは1715年頃、
ピエタのために書かれた。
トールバットは、さらに二つの版、
RV610とRV610aを、
1720年代後半のものとしている。
何かの教会での祝賀の機会にふさわしく、
2つの合唱用になっている。
そうした機会でしか、このような、
分割合唱は使われなかったからである。
リオムの番号でRV611とされる最後の版は、
1739年、ピエタのためのもので、
手稿に書き込まれて名前が残る、
独唱者たちのために、5つの部分が作曲された。
オリジナルの5つの合唱曲はRV610から残っている。
これらが、今回の録音に使われた。」

ということで、独唱部はRV611で、
RV610は独唱部を含まない、
合唱曲だったのであろう。

したがって、ややこしいことに、
このCDでは、Track1-10は、
「Magnificat,RV610/611」
と書かれている。

「RV610」は10曲が全部、合唱曲、
「RV611」は、独唱者だけが出てくる5曲がある版、
ということのようだ。

しかし、ピエタでの演奏を想定して、
そこの歌い手を想定した作曲をした、
さらに楽譜に独唱者名まで書かれている、
というのは興味深い。

そもそも「マニフィカト」といえば、
モンテヴェルディの大傑作、
「聖母マリアの夕べの祈り」の終曲として、
なくてはならない大曲が有名である。

モンテヴェルディは、12曲あったが、
ヴィヴァルディは、モンテヴェルディが、
「主、そのみ腕の力」と「権力者をその座より」
に分けた部分を一つの楽章とし、
同様に、「願わくば父と子と」と、
「はじめにありしごとく」を一つにしているので、
結局、すべての詩に作曲している。

以下、トラック番号を補いつつ、
聴き進めてみよう。

Track1.「わが魂主をあがめ」
「オリジナル版と同じく、
『マニフィカト』は、ト長調の、
合唱によるアダージョから始まる。
これは賛歌の最初の一節を作曲した部分で、
キリエRV587、マドリガル風協奏曲RV129の、
和声をシフトしたものである。」

この部分、まさしく、例の協奏曲と同じメロディで、
荘厳、しかも、妙にセキを切ったようなもの。

モンテヴェルディが、はるか遠くに、
訴えかけるような感じなのに対し、
ヴィヴァルディのは、
いかにも、ひれ伏せよ、
と威張られているような風情である。

あの協奏曲より、人の声の集まりである合唱が、
豊かなハーモニーで訴えるだけあって、
より深々とした印象を与えてくれる。
単に、「わが魂、主をあがめ」と言っているだけである。

アラディア・アンサンブルの演奏は、
あまり威圧的ではなく、非常に暖かく迫るものがある。

Track2.「わが精神、喜び踊る」
モンテヴェルディは、ぴちぴちした感じであったが、
ヴィヴァルディのは、
さっきの威張っていた感じは、
いったいどこに行ったんだ、
という感じでメゾ・ソプラノが楽しげな歌を披露する。

ここで、ナクソス推薦のマクマートリーが登場するが、
確かに、「芯がある」し、均質な声が美しいが、
今一つ、突き抜けた華に欠けるような気もしなくはない。

「1739年の新しい楽章、
変ロ長調の『わが精神』が続く。
これはピエタの自筆譜にあるように、
アポローニアのために書かれた。」

このアポロ―ニアについては、
妙な事が書かれている。

「彼女は『聖歌隊の娘』の中で、
ある種の重要人物であったが、
ピエタの門衛と騒ぎを起こして、
よろしくない評判が立ち、
出場停止になっていたが、
翌年、許された。」

Track3.「賤しき者をそのはしためと」
「再びト短調の三拍子の伴奏に乗る、
『賤しき者』は、マリア・ボロネーゼのために書かれた。」
「人々、われを祝福されしものと呼ばん」
と歌われる、はしためであったマリアを思う歌。

CDでは、歌手は変わらず、マクマートリーが歌う。

この歌などは、彼女に合っているのだろう、
落ち着いた内省的な表現がひしひしと忍び寄る。
が、やはり、もっと集中力があってもよい。

Track4.「全能なるもの」
「変ホ長調の『全能なるもの』は、
キアレッタのために書かれた。」

「われに大いなることなさりしゆえ。
そのみ名聖なり」という歌詞にふさわしく、
明るい賛歌である。

ひろびろと広がる歌いぶりであるが、
「全能」なら、もっと活力があってもよさそうだ。
オーケストラの伴奏も、何となく、
自発性に乏しいような気がする。

Track5.「その御あわれみ」
「ハ短調の『その御あわれみ』は、
再び、前に書かれた合唱の部分である。」

その調性にふさわしく、悲劇的な色調の合唱曲。
もはや、モーツァルトの『レクイエム』も、
もうすぐだ、という感じ。

Track6.「主、そのみ腕の力ふるわれ」
「劇的なト短調の『主、そのみ腕』は、
『権力をその座より』の、
力強い権力打倒とリンクされている。」

ここも、完全にモーツァルトを思い起こさせる。
劇的かつ、緊張力や描写力にぐいぐい振り回される。

Track7.「飢えたるものには」
「1739年のニ短調の『飢えたるもの』は、
テノールのような声の質で重宝された、
アンブロジーナのために書かれたが、
ここでは、ミドルCの下のAまでしか下降しない。」

この解説は、まったく曲想などの解説はないが、
「飢えたる者には財を与え、
富めるものは、手ぶらで返せ」という、
決然とした調子の、推進力のある部分で、
マクマートリーも、男性のような声を披露している。

Track8.「主、御あわれみを忘れたまわず」
「合唱によるニ短調の『主、御あわれみ』は、
1739年の楽しいオペラ的なヘ長調の次の曲の
変奏曲の主題である。」

そうはいっても、かなり荘厳な音楽で、
「しもべイスラエルを保護したまえり」
と、これで終わってもおかしくない余韻豊かな音楽。

Track9.「アブラハムとその子孫」
「アルベッタのために書かれた。」

せっかく、荘重な合唱が、
ありがたい雰囲気を満たしてくれたのに、
妙にお気楽な音楽になってしまう。

Track10.「願わくば父と子と」
「作品はオリジナルの『グローリア』で終わる。
ト短調の和声的なオープニングは、
対位法的なアレグロとなり、
二重フーガで、『マドリガル風』協奏曲の
最後の楽章に移調された。」

歌詞も、
「はじめにありしごとく、今もいつも、
世々に至るまで、アーメン」という、
神の恩寵をあまねくいきわたらせる、
切実で、襟を正させるものがあり、
なかなか、素晴らしい楽章なのだが、
この演奏のせいなのか、少々、腰砕け的で
ちょっと大曲の終曲にしては弱く感じる。

むしろ、次に始まる柔らかいヴァイオリンの序奏と、
澄んだソプラノ、フータネンが歌う、
「サルヴェ・レジーナ」が美しくて、
あまり余韻や、達成感がないまま、
そちらに次の興味が行ってしまう。

ヴィヴァルディの「サルヴェ」は、
前にも聞いたが、それは、
ダブル・オーケストラのRV616だったと思う。
こちらの曲は、もう少ししなやかな感じがして、
柔らかなオルガンの伴奏にヴァイオリンが冴え、
繊細なテオルボの響きもいい。

フータネンの集中力の高い歌唱にも、
妙に満足させられてしまう。

あるいは、この団体、合唱が入ると、
そっちに任せてしまって、
責任逃れに走るのではあるまいな。

Track11-14.「サルヴェ・レジーナ」RV617
「ヴィヴァルディが晩課か終課のアンティフォンに書いた、
三つの残された作曲の一曲である、
『サルヴェ・レジーナ』RV617は、
三位一体の主日の日曜日から、
降臨節の日曜日の間に歌われるテキストによるもので、
おそらく1715年から1717年の時期のものである。
これらの最初のものは、ヘ長調で、ソプラノを、
独奏ヴァイオリンとコンティヌオが伴奏する。
ニ短調の『Ad te clamamus』(Track12.)は、
さらにヴァイオリンとヴィオラが加わり、
前者はソプラノを助奏する。
続くイ短調の『Eia ergo』(Track13.)は、
独奏ヴァイオリンとリピエーノの弦楽が付く。
そしてアンティフォンは、最後の節を、
ヘ長調、シチリアーノのリズムで終わる(Track14.)。
ここでは、独奏ヴァイオリンは、
第1ヴァイオリンのラインを補強する。
作品は、『O clemens』(慈悲)の静謐の中に閉じられる。」

そして、問題の「マドリガル風協奏曲」は、
Track15.に収録されている。
「ニ短調協奏曲『マドリガル風』RV129は、
ヴィヴァルディの『弦楽のための協奏曲』に含まれ、
独奏楽器はない。
この作品は、声楽曲をもとにしたとされ、
アダージョのオープニングは、
最初の『キリエ』RV587の開始部と、
『マニフィカト』RV610の最初と、
その『グローリア・パトリ』、
さらに、『クレド』RV591の
『Et incarnates est』に関係し、
さらに、バスーン協奏曲RV291にも関係する。
協奏曲の続くアレグロは、
同じ作品の第二キリエと同様の内容で、
これらは共に、ほかの作曲家の作品をモデルにしたか、
借用したものと考えられる。
さらに続く短いアダージョは、
対位法やダブル・フーガを示し、
『マニフィカト』RV610の最後の楽章に、
移調した形で現れる。」

何と、この荘重なテーマは、
ヴィヴァルディ自身の作曲ではない、
というのがこの解説の結論であるようだ。

シューベルトが歌曲のメロディを、
器楽曲でも使ったのとは、
ちょっと違う状況の模様である。

このCDで聞く「マドリガル風協奏曲」は、
かなり清涼飲料水風の表現だが、
とてもさわやかな演奏に思える。

弦楽の線がきれいに風通し良く感じる。

ここまでで、このCDは、まだ半分終わっていない。
この調子だと、終わらなくなってしまうので、
名曲とされる「ニシ・ドミヌス」(Track16-24)
は飛ばすことにする。

ちなみに、マクマートリーが独唱を担当しているが、
こちらの演奏の方が、乗っているような気がしなくもない。
特に、Track19.の「主その慈しみたまうもの」などは、
ヴィヴァルディお得意の夜の詩情が増幅されて、
非常に、説得力ある音楽として胸にしみる。
この部分に関しては、帯に書かれていた、
「惚れ惚れする」という表現も嘘ではない。

オーケストラも、聴きごたえある自発性を発揮している。
合唱がないから、すっきり聞こえるのだろうか。

ここでは、まず、「マドリガル風協奏曲」と同じテーマとされる、
「キリエ」RV587を聴いてしまおう。

最初から、おなじみのメロディが始まるが、
これまでのどれよりも、ひっそりした感じである。
そして、すぐに、次の主題が立ち上がってくる。

Track25.「主の慈悲」
「キリエへの付曲RV587は、
1720年代に書かれ、
2つの弦楽オーケストラを伴う、
8人の独唱者、2つの合唱団のためのものである。
オーケストラによるオープニングは、
『マニフィカト』や『マドリガル風協奏曲』に聞かれた、
パッセージを移調したものであり、
声楽が開始部のコードを繰り返す前に、
二つの弦楽群が交頌する。
そして、交頌風に分割され、
このパターンが楽章全体を通じて続く。」

この部分は、オーケストラと合唱のための部分で、
確かに二つの弦楽群が左右から聞こえるのは面白い。

Tack26.「キリストの慈悲」
ここで、独唱者たちの声を交錯させるが、
実は、最初に書いた美人独唱者たちは、
ここで勢揃いする。

逆に言うと、鳴物入りで紹介された、
マクロードとモドロという二人は、
この3分たらずの部分でのみ、
声が聞こえるというわけだ。

「ニ短調の『キリストの慈悲』は、
二群の独唱者たちが交互に歌うのを予告して、
器楽のオープニングは、
一方が木霊のように響く。」

独唱者たちの線の交錯はめまぐるしくも、
次々に舞い上がっては消える。

Track27.「主の慈悲」
「オリジナルのト短調が最後の『キリエ』で戻り、
二つのコーラスは、
一方の提示主題を巡る二重フーガで結合される。」

最初は、荘重な大合唱だが、
すぐに、旋回するようなフーガが始まる。
これが、『マドリガル風協奏曲』の中間部に相当する。

このCDは、最後に、ヴィヴァルディの現存するモテット
12曲のうちの一曲、『いと公正なる怒りの激しさに』RV626が、
収録されている(Track28-31)。

ここでも、フータネンの澄んだソプラノが聴ける。
しかし、このような情念をオープンにした作品は、
激烈な爆発を必要とするだろう。

百戦錬磨の多くのトップクラスの歌手が、
様々な個性で聞かせているので、
ちょっと、個性を出すまでには至っていない感じもする。

1724年にヴィヴァルディがローマに滞在した時のもので、
カストラートを想定した作品ではないか、
とのことである。
なおさら、簡単にソプラノ歌手が、
挑戦できるものではなかろう。

さて、このCDの解説は、実は、以下のような生涯解説部もあった。
うまくまとまっている。

「生まれつきの髪の色から、
生地では、『赤毛の司祭』と呼ばれていた、
アントニオ・ヴィヴァルディは、
1678年、後には、
サン・マルコ寺院のヴァイオリニストも務めた
理髪師の息子として生まれた。
司祭となるための教育を受け、
1703年に叙任されている。
同時に、彼は、驚くべき腕前の
ヴァイオリニストとして名声を博し、
ピエタ養育院のヴァイオリン教師にも任命された。」

ヴィヴァルディの父も、
二足のわらじを履いていたようだが、
この時代、いくつも職業を
掛け持ちしなければ食べられなかったのか、
あるいは、それほど、有り余る天分があった、
ということだろうか。

「この施設は、親のない、または貧困の、
あるいは庶出の女児の教育のために設立された、
4つの施設の一つで、特に音楽教育で知られていた。
ここで女児は音楽の訓練を受け、
才能のあるものは成人してから、
そこで補助教員となり、
結婚時の持参金をためることが出来た。
ヴィヴァルディは中断もありつつ、
ピエタとの関係を、生涯を通じて持ち続け、
1723年からは、
毎月、2曲の協奏曲を書く契約をしていた。
同時に、彼は劇場とも関係を持ち、
作曲家としては50ほどの作品を書き、
指揮者で音楽監督として活動した。
最終的に彼はヴェネチアを離れ、
何らかの皇室の補助で、
キャリアを高める望みからか、
恐らくは弟子のピゼンデルが勤めていた
ドレスデンの宮廷に向かうアイデアからか、
ヴィーンに向かった。
彼はヴィーンに着いて数週間後に、
かなり困窮して死んだ。
一時は、年収50000ドゥカートあったが、
それも虚しく、手にしていた楽譜も、
売り払うしかなかった。」

ということで、ここまでは、
簡単な生涯の説明であって、
肝心の、このCDに収められている曲目の解説はない。

「ヴィヴァルディは、1703年に、
ピエタでの仕事をはじめた。
続く何年かには中断もあったが、
伝えられるところによれば、
1700年からピエタの合唱長を務めていた、
フランチェスコ・ガスパリーニが、
1713年にしばらく不在であった時、
ヴィヴァルディに宗教合唱曲作曲のチャンスが到来、
1715年にはピエタから報酬を受け取っている。
続く年、1716年11月の、
オラトリオ、『勝利のユーディット』の演奏で、
ヴィヴァルディは、合奏長に任命された。
1717年には、彼はピエタを去り、
1714年から1735年の間、
マントヴァを治めたヘッセン=ダルムシュタットの
フィリップ王子のもとで、
マントヴァの音楽監督に就任した。
彼がピエタとの関係を再開するのは、
1723年である。
ヴィヴァルディの宗教曲は、
多くの日付が示唆される。
一般に、これらは、1715年から1717年に、
ガスパリーニがいなかった時か、
再度、合唱長が空席となった、
1737年から1739年の間、
ピエタのために書かれたとされる。
いくつかの宗教曲は、
ヴィヴァルディが緊急採用された時のものだが、
これらのいくつかは、
他の場所や機会に、
もっと広範囲で利用された。」

ということで、以下、各曲の解説を読んでも、
いろんな所に楽譜があって、
ややこしいことが多く書かれている。
これは、すでに、各曲のところで書いた。

得られた事:「ヴィヴァルディが、宗教曲でも協奏曲でも好んで使ったメロディは、シューベルトの『ロザムンデ』の主題などとは違い、自作とは違う可能性がある。」
[PR]
by franz310 | 2012-12-01 23:35 | 古典