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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その355

b0083728_1443313.jpg個人的経験:
ヴェネチア外に活路を模索していた
ヴィヴァルディが、3年間の忍従の後、
再度、故郷での起死回生を狙った
野心作が、このオペラ、
「試される真実」だという。


主人公の名前が、ずばっと、
タイトルになっている作品が多い、
ヴィヴァルディのオペラ中、
この作品は、和訳すると漢字が多い点でも、
へんてこな感じであるが、
相当な力作であることがすぐに分かる。

この力作を蘇演させたのは、
フランスの指揮者スピノジである。
このブックレット内に収められた、
情熱的な指揮ぶりを示す写真でも、
その熱意がびんびんに伝わってくる。

前回は第1幕を聴いたので、
今回は、その続きを聴いてみたい。

解説によると、
この作品を復活演奏させることは、
かなりの困難を伴ったらしい。

このオペラの場合、多くの後期のオペラの場合とは、
どうやら事情が異なったようで、
「ウティカのカトーネ」のように、
素材が欠落していた、という状況ではなかった。

スピノジとデラメアが書いた、
「スコアの再構成についてのノート」には、
「『試される真実』は、1720年の秋に、
一連の上演がなされただけなのに、
ここまで豊富で複雑な素材が残された、
ヴィヴァルディのオペラも少ない。」
と書かれている。

「主な材料は、最後の合唱のみが欠落した、
トゥリンの国立図書館に保管されていたスコアで、
ヴィヴァルディが演奏に使った写譜である。
しかし、このスコアは恐ろしく混乱していて、
数多くの削除や挿入を含み、
トゥリンとミュンヘンの州立図書館に保存されていた、
20曲のアリアからなる追加材料や、
印刷された異なる3バージョンのリブレットの助けなしには、
首尾一貫した再構成は不可能であった。」

ということで、この指揮者と研究家は、
涙ぐましい努力を行い、
四つもの版を仮定して、
この録音に至ったという。

バージョン1.
最初の版で、ヴィヴァルディがもともと書いたもので、
トゥリンにあったもの。
バージョン2.
リハーサル中に歌手の要望などで書き直されたもので、
最初の印刷リブレットによる。
ボローニャにあったもの。
バージョン3.
実際の公演中の何かの理由でアリアが変えられ、
二つのシーンが省かれたもの。
印刷リブレットの第2、第3による。
Rovigoのコンコルド・アカデミーに、
保存されていたもの。
バージョン4.
最後にいくつかのアリアを、
ヴィヴァルディが差し替えたもの。
これは、アリアをアレンジしたものが、
ミュンヘンにあって、
1720年秋に演奏されたに違いないもの。

最終的に彼らは、メリンドのアリア(第1幕の8)が、
より説得力があるものとして差し替えた他は、
オリジナルのものを採用したという。

「再発見を求めるものの出発点としてふさわしい」
という理由だそうである。

ということで、このオペラは、
なるほど、めったに演奏されないわけだ、
と納得できたと同時に、
これから、まだまだ、別バージョンが出てきそうだ、
などとも考えた次第である。

さて、第2幕から聞くが、
第1幕がCD1とCD2のTrack2.までと、
かなりの長さであったのに対し、
第2幕はCD2のTrack3.から、
最後のTrack18.までと、
それほど長くない。

そもそもこのオペラ、台本としては、
極めてシンプルで、
こんなもので、よくオペラになるものだ、
などと思ってしまうものである。

登場人物が6人しか
出てこないのがシンプルで、
第1幕では、2回アリアを歌った、
ダミーラ、ルスターナ、ゼリムもお休み気味で、
ダミーラはアリアなし、
ゼリム、ルスターナはアリア1回、
ヒロイン、ロザーネがアリアを2回、
君主マムードと息子の一人、メリンドがアリア1回である。

彼らの関係は、

         マムード(カンバヤ王)
             ↓結婚を要望
   ゼリムを後継者に推挙→←ロザーネ(ヨゲ王の娘)
    ↑   ↑        ↓本当はメリンドが好き   
    ↑  異母兄弟メリンドが反発
    ↑   ↑
    ↑  側室ダミーラが後押し
   マムードの正妻ルスターナの子

という感じだが、実は、マムードは、
これまで、この兄弟をわざと、交換して育てていた、
というややこしい状況なのである。

したがって、オペラの題名、「試される真実」は、
「真実」とは、今まで、嫡子とされたゼリムこそが、
王位継承者であった、ということであり、
スルタン、マムードの主張である。

一方、「試される」とは、
こうした状況に混乱する、
兄弟たちや、その母親たち、
そして、王子のどちらかと結婚する
ロザーネの大騒ぎを意味し、
まったくもって、このヘンテコなタイトルは、
このオペラの内容にぴったりなのである。

第1幕は、スルタンが、実はゼリムが後継者じゃ、
と言ったあたりであるが、
第2幕以下も、同様に混乱した人々(特にダミーラ)が、
いろいろ画策する内容。

シノプシスを見ていくと、こんな事が書いてある。

第2幕:
Track3.
「ロザーネに二人の息子たちを、
生まれた時に交換したことを話したマムードは、
ゼリムを助け、彼女にメリンドを忘れるように言う。」

このようにあるが、当然、ロザーネは、
寝耳に水なので、「信じられませんわ、
私にメリンドを忘れることなどできませんわ」
とか言っている。

Track4.
解説に「国家的な理由を訴える。」
とあるアリア「克服せよ」であるが、
きわめてエキゾチックなメロディの、
さすが君主の、高らかなアリアである。

Track5.
ここでは、驚いたことに、
ロザーネは何となく納得した模様。

「スルタンの言い分に従って、
心の命令に反し、
ロザーネはメリンドに、
ゼリムを愛する必要を語る。」

このような状況ゆえ、極めて深刻な二人の様子が、
レチタティーボで語られる。

Track6.
アリア「さようなら私の愛」は、
「極めてあいまいな言葉で、メリンドに別れを告げる」
とあるもの。

明るく、悲愴な感じはあまりない、
かわいらしいアリアである。

「まだ、愛しているわ。
でも、その甘さや良さは、
その希望がなくなると、
悪い毒になるの。」

Track7.
メリンドは、「不実な父親」と言い、
メリンドの母親だと思っていたルスターナも、
「あの頑固な心は変えられない」などと言っている。
メリンドは、実の母と分かった、
ダミーラに、「あなたが諸悪の根源だ」などと言う。

ゼリムは純情に、
「王位などより、あなたが母と分かったことが嬉しい」
などとルスターナに言う。
が、ルスターナは、「あなたは息子ではありません」
と言っている。

解説には、
「スルタン夫人の子であることを知ったゼリムは、
こうした出来事があっても、
子としての愛情に影響はないと言うが、
ルスターナは、そんな交換がなされた事は認めず、
母と呼ぶことを許さない。」

Track8.
メリンドも、「この世界の半分を統治する、
2つの王冠を手にできてよかったね」
などと、僻み根性たっぷりである。

Track9.
ゼリムのアリア、
「私の優しい感情が、あなたを愛せと言う」
は、
「ゼリムは子としての母親への愛情を、
感動的に宣言する」と解説にある部分。

これまた、いくぶん、異教的なメロディが、
からまるような、錯綜した様相で聞かせる。

Track10.
「ルスターナはメリンドに対し、
ダミーラと一緒にスルタンの計画を阻止する、と言い、
そして、ロザーネも戻ると慰める。」

Track11.
ルスターナのアリアで、
「その愛らしい眼も顔も、
あなたの心を愛らしく捉え、
あなたのため息を勝ち得るでしょう」という、
妙に焚き付ける内容である。

Track12.
メリンドのレチタティーボで、
「二人の母親が出て行くと、
メリンドは絶望にとらわれ、
恋人の心が揺れ動きやすいことを糾弾する。」

Track13.
メリンドのアリアで、焦燥感に駆られたもの。
スタッカートで、激しいアタックの弦楽伴奏。
「彼女は見ない、笑わない、涙も流さず、嘘もつかない。」

Track14.
チェンバロのじゃらじゃら伴奏に続き、
マムードの声が響く。
「公式謁見室、マムードとゼリムは並んで座り、
ゼリムが後継者であることと、
過去の過ちを公にした。
すると、ルスターナが突然現れ、
民衆に直接、騙されてはいけないと、語りかける。
ずるいダミーラは、今度は、
スルタンに悲愴なしぐさを見せつけ、
息子を王位につけようと、
王の愛と寛大を讃え、
その計画の放棄を懇願する。
寵姫の計画に気づいたマムードは、
信用できない女に罵りの奔流を浴びせ、
真実を隠そうとする狡猾なたくらみを非難する。」

これで、皆がいなくなるようだ。

Track15.
「ロザーネとゼリムは、
メリンドが来ると彼らの困惑を口にする」
とあるが、
いきなり、メリンドがけんか腰で現れる。
「マムード、ゼリム、そしてロザーネに、
順番に話しかけ、マムードには不正に対し復讐すると言い、
ゼリムを脅し、ロザーネには、非難を積み上げて見せる。

マムードも、ゼリムも何も言わず、
ロザーネは、「私を不実と呼ばないで、
あなたは私を傷つけている」と言い、
マムードにも、王女に対し、何たる仕打ち、
と怒っている。
「ロザーネは運命を決めるよう懇願し、
メリンドへの愛を改めて認める。」

Track16.
ロザーネのアリアで、
「あなたは、私の心の唯一の甘い喜び」
という、高らかな誇り固い王女の愛の宣言である。
激しいリズムが押し寄せ、
興奮した様子もよく表されている。
弦楽は声楽の線をなぞり、声は激しく上昇する。

Track17.
「起こったマムードは、真実にこだわり続けるが、
ゼリムは、矛盾した状況に圧倒され、
心情的な苦しみを吐露し、王位を放棄することを選ぶ。」

Track18.
ロザーネを除く、二組の母親と息子たち、
そして父であるスルタンを交えたアンサンブル。
「混乱の中で、スルタンが叫ぶが、
みながダミーラやルスターナを母親だと呼ぶ。」
これがすごいフィナーレの五重唱で、
かなり圧巻のもの。

極めて抒情的な弦楽合奏の序奏に続き、
育ての母が、交互に、息子たちに声をかける。
「私の愛」、「私の子供」と、母親たち。

ダミーラはシュトゥッツマンの強い声、
ルスターナは優しい声である。

メリンドとゼリムも、育ての母に、
「お母さん、私こそ息子です」と、
しっとりと泣かせる四重唱に、
リズミカルな舞曲調の音楽が重なる。

すると、混乱の様相となり、
マムードは、「お前らは間違っている」としかりつけ、
皆が、彼を責める。
抒情的な部分と混乱が舞曲調の音楽に押し流されて、
第2幕はお開きとなる。
粋な効果である。

第3幕:
Track1.
「スルタンの部屋。
ゼリムはその不信を表明し、
メリンドは恨みを述べる。
二人とも、マムードに命令に従うよう命じられ、
マムードは間もなく、民衆にゼリムの正当性に、
反駁不能な証拠を見せるという。
しかし、ゼリムは疑いと絶望に引き裂かれたままである。」

Track2.
ゼリムのアリア「光輝が私をそそのかすが」
という、希望と不安が混ざり合った感情を歌い上げる。
軽妙なリズムの中、ジャルスキーの純朴さを讃えた声が、
軽やかな震えを持って舞い上がる。

Track3.
「ゼリムが立ち去ると、メリンドは、
父親を残酷さや不正で非難し、
暴君であると罵る。」

いきなり、二人の言い合いである。
「この自意識過剰が」、
「この残酷さよ。しかし、神様が天にいます。」

Track14.
メリンドのアリア、
「残酷さよ、私が栄光をあきらめると願っている。」
管楽器の激しいコンチェルタンテな活躍を伴う、
ものすごいアリアである。

王子の誇りが、輝かしいトランペットから、
その悩みが、悲しげな木管の音色からもうかがえる。
サラ・ミンガルドの声は、それなりに男らしい。

Track5.
「マムードは、ダミーラに言うとおりにするよう、
二人の子供たちを交換した公式承認にサインを求める。
サインをするなら死んだ方がましと、
この寵姫は、これを断る。
すると、マムードは、『大逆罪』で、
メリンドに死刑を宣告するといい、
ダミーラが固執すると、それにサインすると脅す。
しかし、機敏な策略家は、時間稼ぎをすると決め、
供述としてサインをする。」

Track6.
「マムードは満足し、この行為の正当性を宣言する。」
マムードのアリア、
「強い心の厳格さには理由があり、残酷ではなく、義務なのだ」
は、なんだか自己陶酔した、
夢想の世界に遊ぶような風情。
素晴らしい繊細なオーケストレーションである。

あほみたいに、自画自賛して舞い上がり、
かなり、権力に対する風刺になっている。

Track7.
「スルタンが去るや、ルスターナは、
ダミーラに合流する。
側室は正室に反撃に備えるように言い、
愛するふりをせよと教える。」

「恐ろしいニュースがあります」とダミーラは、
いかにも悪そうである。
「メリンドは私の子である、という書類に、
サインをさせるのです。暴力の下、
彼の命か、彼をあなたを引き離すしかなかったのです。」

Track8.
ダミーラのアリア「ちょっと涙を浮かべれば」は、
いかにもアラビア風のメロディが、
絡まり合うような、挑発的なもので、
ダミーラは魔女のようだ。

Track9.
「舞台に一人、ルスターナは、
息子や夫や王冠を失えば、
もう、何も残らないことを悟り、
再度、不運を嘆く。」

「私はもはや母ではなく、妻でもなく、
女王でもない」と言っている。

Track10.
ルスターナのアリア、
「誠実な夫が隣にいる、無垢な自然にいる人は幸せです」
というもので、リコーダの素晴らしい助奏がついている。
このひなびた笛の響きが、幸福な自然を表している。
「彼女は苦しみから遠く離れている。」

つまり、まだ、ルスターナは、
メリンドが実の子であると信じているので、
妾の子、ゼリムが王位後継者になることは、
自身の地位も危ないと考えたのである。

Track11.
ト書きに、「寺院の入り口で、
ゼリムは、メリンドの攻撃をかわしながら、
中に入る」とある。

荒れ狂った弦楽の序奏、緊迫感が漲る。
「すぐにロザーネとゼリムが結婚すると知り、
メリンドは嫉妬に狂乱する。
彼は凶暴に義兄弟を脅し、
一時、正気を失ってしまう。」

オーケストラの強奏も緊張感を保持して、
これは、メリンドの攻撃だろうか。

「ロザーネのとりなしも甲斐がない。」

Track12.
「不幸な人は去り、ゼリムとロザーネが残り、
ロザーネは、正当な後継者に、結婚をあきらめ、
分かれた恋人に幸福を戻してあげて、と言う。
ゼリムは、そうすると言い、
王女は、制止していた喜びの表現を解放する。」

Track13.
ロザーネのアリアであるが、
せわしなく技巧的であって急速で、
弦楽の落ち着きのない伴奏からも、
あまり幸せそうではないが、
「チャーミングな恋人に百回のキスを」と歌う。

Track14.
「ゼリムは一人残され、この放棄による嘆きにも、
高貴にも立ち向かう。」

Track15.
ゼリムの優しいアリア、
「君の傷が癒えたら」で、
さわやかな曲想が、
苦しみからの解放を感じさせる。

「寺院の中で、マムードは、ルスターナに、
ゼリムを息子として抱擁し、
夫の言葉を受け入れるように頼む。
ダミーラは、サインを強制された書類について語って、
彼らを仲裁する」とあるが、

Track16.
は12秒しかなくて、
ダミーラが、「何が真実?
王様によってではなく、おそらく暴君によって、
私から奪い取られた息子にとって」というと、
マムードが、「神に嘘をつけと言うのか」と答えるだけである。

とはいえ、この会話こそが、
このオペラ「試される真実」の主題が、
凝集された部分なのかもしれない。

あくまで、杓子定規なスルタンの「真実」は、
いきなり王位継承者ではなくなった、
メリンドや、その取り巻きの環境によって、
厳しくゆすぶられ、「試され」、
さらに、メリンドを推すダミーラにも、
やはり、「真実」は「真実」であり、
何が何だか分からなくなって来たということであろう。

そして、いったんは王位継承者となった、
ゼリムによって、遂に大団円が導かれる。

Track17.
「ゼリムは最終的に寛大にも、メリンドには、
ヨゲの王冠を与え、
自身はカンバヤの王冠だけを受けることを決める。
自分の野望と真実とを調和させるものだったので、
ダミーラも、この提案を認める。」

メリンドは、ヨゲの王女との結婚によって、
二つのスルタン領は、別々に管理されることとなる。
実際的には、内紛の種を抱えた先延ばし策に見えるが。
このオペラを通じては、ダミーラとメリンドの性格は、
私には、かなりやばいものと見受けられるが。

Track18.
最後のコーラスは、極めて朗らかなもので、
ヘンデルもかくやと思わせるものである。

「登場人物は全員、こうした苦しみの末の、
幸福の再来を歓迎する。」
とにかく、音楽的な大団円感は素晴らしい。

このように、ヴィヴァルディが再起をかけた、
野心作「試される真実」は、多彩なアンサンブルと、
オーケストレーションによって、
非常に立体的な作品となった。

このような様式は、次第に、ナポリ派の、
技巧歌唱一本勝負歌合戦のようなオペラによって、
次第に駆逐されていった、ということであろうか。

ということで、本編の鑑賞は、ここまでで終わったが、
ヴィヴァルディを聴きこむと、
それで、初演の歌手はどうだったのだろう、
などと、よけいな事が気になってならなくなる。

個人的には、この作品あたりで、
マントヴァで知り合ったアンナ・ジローなどが、
出てきてほしい所だが、それはないようだ。

以下、解説にあることをかいつまんでみた。

スルタン、マムードを歌ったテノールは、
ヴィヴァルディがマントヴァで発見した、
レッジョ・エミーリア出身のアントニオ・バルビエリ。
この作品でヴェネチア登場。
極度の名技性と劇的効果を持つアリアを担当。

正室ルステーナはチアラ・オルランディ。
「マントヴァニーナ」というニックネーム。
1717年に「ティエテベルガ」で登場して以来、
ヴィヴァルディによって紹介され、これは第五の共演となった。
特別な難易度は要求されないが、
明らかに演技力が求められる役割で、
このメゾ・ソプラノは、脇役ながら、
ヴィヴァルディには劇的な方面で信頼されていた。

側室ダミーラには、同様に、信任篤い、
当時の最も重要なコントラルトとされる、
アントーニア・メルゲリータ・メリジ。
ボローニャ出身で、そこでセネジーノに学んだらしく、
1714年にフィレンツェでデビュー、
ヴィヴァルディによってヴェネチアに紹介された。
傑出した名手で、ヴィットリア・テシのライヴァルとされた。
ヴィヴァルディもそれにふさわしい曲を与えている。

ロザーネには、駆け出しのアンナ・マリア・ストラーダを起用。
このベルガモ出身の若手は、ミラノ公の被後見人で、
前年、この地において、知られざる作曲家の
「シラクサのアクイリオ」でデビューしたばかりで、
「試される真実」が彼女のヴェネチア・デビューであった。

この人は後に大成するが、
この役は、この繊細で集中力の高い歌手としての、
初期の仕事であるが、ヴィヴァルディは、
ヴィヴァルディは、注意深く声を節約し、
ここぞと名技性を発揮させた。

この歌手はやがてロンドンを訪れ、
ヘンデルの信頼を勝ち得ることとなる。
これは、私が追記した。

ゼリムの目もくらむような役割は、
ジロラモ・アルバティーニという、
このオペラでは唯一のカストラートが受け持った。
同じ名前の歌手が二人いたので、
この人の経歴を追うのは難しい。

この役柄のためにヴィヴァルディが書いた、
美しく技巧的なアリアは、あまり知られていない、
謎の男性ソプラノについて、
私たちが知っていることとあまり一致しない。

衝動的なメリンド役を演じたのは、
有名なアントーニア・ロウレンティで、
ボローニャの音楽一家の出身で、
1714年からキャリアを開始して、
「コラルリ」と呼ばれていた。

バドゥア、ボローニャ、モデーナ、フィレンツェで、
名声を博し、1718年、ヴィヴァルディによって、
「アルミーダ」のアドラスト役に起用され、
故郷を離れマントヴァで紹介された。
「試される真実」は、ヴェネチア・デビューとなり、
豊かにオーケストレーションされた技巧的アリアは、
「コラルリ」嬢に対するヴィヴァルディの高い評価の証拠である。

なお、この解説には、アンナ・ジローのことにも触れており、
このオペラのアリアを再利用したパスティッチョ、
『La ninfa infelice e fortunate』によって、
1723年にトレヴィソで、彼女はデビューしたという。

得られた事:「ヴィヴァルディのようなやり手が書いたオペラでも、リハーサル中にも修正が入っていて、どの楽譜で演奏するかが困難な問題となる。」
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by franz310 | 2012-11-24 14:44 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その354

b0083728_23324689.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディの
弦楽合奏のための協奏曲、
コンチェルト・リピエーノには、
RV159というのがあり、
これは、彼自身のオペラ、
『試される真実』のアリアから、
主題を取ったものである。
このようにオーケストラでも
演奏可能にしたオペラとは、
いったい、どのようなものだろう。


シューベルトが歌曲をもとに器楽曲を作ったことは、
常に特別なことのように書かれているが、
ヴィヴァルディにおいては、
それは特別なことではなかったようだ。

そのあたりの事情が知りたくて、
今回は、このオペラを取り上げて見た。

うまい具合に、先の協奏曲に使われた主題は、
いずれも第1幕のものなので、
3枚組のCDの最初の1枚を聴けば良い。

オペラ全曲を聴こうとすると、
かなりの気合いがいるが、
そう自分に言い聞かせて、
プレーヤーにかけてみたが、
これはまた、非常に美しい作品である。

また、解説を読んでも、
この作品がヴィヴァルディのオペラの中でも、
出色の作品である旨が強調されている。

いつもの碩学、フレデリック・デラメアが、
「ヴィヴァルディのヴェネチアでの課題曲」
という思わせぶりな題で、
解説を書いているので、急いで読み進めてみよう。

「『試される真実』は、ヴィヴァルディが、
作曲家兼興行師として作曲した25のオペラ作品のうち、
13番目のもので、1720年の秋、ヴェネチアで初演された。
この大作は、彼がマントヴァ宮廷に仕えての3年の不在の後、
再度、故郷の街の劇場生活に復帰したときのものである。」

ということで、ヴィヴァルディのオペラの、
ちょうど中期とでも言うべき位置にあることが分かる。

このブログでも、これまで、いくつかの
ヴィヴァルディのオペラ全曲を聴いてきたが、
これらを年代順に並べるとこうなる。

「離宮のオットーネ」(1713)
「狂気を装うオルランド」(1714)
「エルコーレ(ヘラクレス)」(1723)
「オルランド・フリオーソ」(1727)
「バヤゼット」(1735)
「ウティカのカトーネ」(1737)

ちょっと、ナポリ派の影響を受けた、
後期作品に偏っていたようなので、
これを聴くことによって、バランスが取れる。

「ヴェネチア音楽界における、
ヴィヴァルディの地位向上の空白は、
市の劇場との関係悪化によるものだったが、
3年の間に身に着けた、
再征服のオーラを伴って帰郷することになった。」

「オルランド」の解説を読んだ時、
私は、まだ、この作曲家の生涯に疎く、
この「四季」の作曲家は、ヴェネチアで愛され、
ずっとそこを拠点にしていたと思っていたので、
このような記述に戸惑ったものである。

「所有者の激しい嫉妬によって、
市の上流の劇場の一つへの
カムバックはならなかったが、
ヴィヴァルディは、最初に成功した
サンタンジェロ劇場で支配的地位を、
再び手に入れる機会を
手にすることを望んでいた。
しかし、彼が不在だった間における、
新進の作曲家たちの運気の上昇と、
新しい興行師たちの体制確立は、
その計画を阻止し、
彼が手にしようとした完全な権力を、
奪うように見えた。」

劇場となると、様々な利害が衝突する舞台でもある。
そう簡単に行くとも思えない。

「事実、『試される真実』が上演された秋には、
サンタンジェロ劇場への彼の影響力は、
限られたものとなり、
続くカーニバルのシーズンでも、
それは限られたこのとなり、
彼は、ヴェネチア人、
ジョゼッペ・ボニヴェンティとの共作で、
『マケドニアのフィリッポ』の第三幕を、
作曲できただけであった。
他の二つのカーニバルでのオペラは、
おそらく、彼の守備を越えて、
カルロ・ルイジ・ピエトラグルアの、
『Il pastor fido』と、
ジョゼッペ・マリア・オルランディーニの、
『アンティゴネ』の再演であった。」

こう読むとヤバそうだが、
結局はヴィヴァルディはうまいことやったようだ。

「彼の特権のこれらの制限にも関わらず、
ヴィヴァルディは、
サンタンジェロへのマネジメントに十分食い入り、
『試される真実』のリブレットや、
1720年の秋とカーニバルのシーズンの、
4舞台作品の歌手の選定には影響力を発揮した。
リブレットや歌手たちの選択という、
この二つの要素こそが、
彼の熟達の主要要素であり、
作曲において、欠くことのできない補助物であり、
事実、この2つのキーファクターは、
彼が再征服したかったものであった。」

こうした記事を読むと、
本当にオペラとは、複雑怪奇なもので、
シューベルトのような作曲家には、
手におえなくて当然と思え、
また、ヴィヴァルディの辣腕ぶりを、
改めて痛感する。

「トゥリンの国立図書館の
フォア・コレクション33として保存された、
『試される真実』のスコアを調べてみると、
これがヴィヴァルディの、
最もまばゆいオペラの一つであることが分かる。
この新しいヴェネチアのためのオペラのために、
作曲家が与えた細心の注意は、何よりも、
アリアやアンサンブルが、過去に使われたものではなく、
新作であることからも明らかである。
さらに、ヴィヴェルディの霊感の豊かさ、
アリアやアンサンブルの美しさと力強さは、
ほぼ10年のわたる劇場体験の後、
今や、円熟期の開花を迎えた、
彼のオペラ語法が目覚ましい発展を示している。
ホルン、トランペット、オーボエ、バスーン、
フラウト・グロッソ、フラウティーノなど、
彼は特に独奏楽器を有効利用し、
弦楽に加えてスコアに要求し、
とりわけ、繊細な洗練された弦楽の扱いや、
声とオーケストラの巧みな扱いに、
作曲家の並外れた抒情的天才が見られる。」

このCDを一聴すれば、この指摘には肯くばかりである。
かずかずの楽曲で、不思議な楽器の色彩が浮かび上がる。

また、声楽アンサンブルのきめ細かな綾が聴けるが、
それについても抜かりなく指摘されている。

「サンタンジェロ劇場との新しいコラボに当たって、
ヴィヴァルディが、若いヴェネチアのリブレット作者、
ジョヴァンニ・パラッツィとの作業を決定したことは、
明らかに、彼の個人的立ち位置が、
ゼーノやその弟子たちによる
文学的、劇的改革に傾倒したことを表している。
『試される真実』の均整のとれたプロポーションや、
合理的構成は、アルカディア派の様々な派閥から離れた、
ヴィヴァルディの劇の理想を示している。
その限られた声楽の人数、
ダ・カーポ・アリアに与えられた重要な位置、
控えめながら、それでいて重要な役割が、
アンサンブル(三重唱1、四重唱1、合唱)に与えられ、
アリアの破格も、劇場にマッチして、
『試される真実』は、アルカイックとモダンの総合する、
作曲家の嗜好を示した個性的な構成を示している。
それに加え、『オリエンタリズム』や『トルコ風』の装いは、
明快に描かれたキャラクターの、
真の感情のぶつかり合いの裏に、
イロニーとユーモアを加え、
ヴィヴァルディの霊感に刺激を与えている。
事実、『試される真実』でのアクションの扱いの特別さは、
シリアスとコミカルが慎重にバランスされ、
音楽劇の領域における作曲家の根本的野望を、
表明しているように見える。」

この後、ヴィヴァルディは、ナポリ派の興隆に悩まされるが、
この曲では、まだ、その脅威はなかったのだろうか。
流行よりも、自らの流儀を通している。

「1720年秋の演奏のために組織された歌手団は6人で、
全員が秋のオペラと、
続くカーニバルのシーズンの3作品のために契約された。
ズボン役を含め、女声が支配的であるにもかかわらず、
カストラートを一人に制限し、
テノールにスルタン・マムードを主役にして、
『試される真実』のキャスティングは、
男声をも目立つようにしている。
この声のバランスは、
芸術的な慣習にとらわれず、
流行のスターのギャラの要求を満たす、
例外的な配役を集めようとした、
この作曲家・興行師の素晴らしい技量の一例である。
いつものように、ヴィヴァルディは、
新星のプライドを満たしつつ、
ベテランや声の自然さを信頼した。」

このような事は、ヘンデルのオペラでも指摘されるが、
ヴィヴァルディの結成する歌手団は、
とりわけ念入りに選ばれているようだ。

ということで、以下、初演時の歌手たちの紹介がある。

が、いきなり、それに触れる前に、
このオペラが、いかなる物語であるかを知りたい。
この作品が、ヴィヴァルディの野望の結集であることは、
非常によくわかった。

序曲は、CD1のTrack1-3を占め、
これは、すでに序曲集でも紹介されていた。
幸い、この曲は、序曲もついた形で保存されていたようだ。

直線的にじゃかじゃかが突き進む第1楽章、
メランコリックで物憂げな第2楽章、
明るく晴れやかな組曲の終曲風。

解説書のSynopsisにはこうある。

「二つの勢力の長い政治的対立を終わらせるために、
Jogheのスルタンの後継者であるロザーネは、
Cambajaのスルタンの息子メリンドと結婚することになった。
この企ての達成にいかなるリスクをも排除すべく、
スルタンのマムードは、スルタン妃ルステーナと、
寵姫ダミーラがそれぞれ生んだ、
二人の息子を、交換していたことを、
明らかにしようと決意した。
正当の後継者であると思われていたメリンドは、
ダミーラが生んだ庶子であり、
ダミーラの息子として育てられたゼリムは、
実は、ルステーナの息子なのであった。
カーテンが上がると、スルタンは、
真実を公表することによって、
ダミーラにこのすり替えを、
終わらせるよう宣言したところである。」

まことにややこしい状況だ。

真実の関係は、   (正)
正妻ルステーナ← マムード(スルタン) →寵姫ダミーラ
     息子ゼリム      息子メリンド

という感じだが、
今までは、下記の関係にすり替えられていたというのだ。
          (誤)
正妻ルステーナ← マムード(スルタン) →寵姫ダミーラ
     息子メリンド      息子ゼリム

第1幕:
Track4.
アンソニー・ラルフ・ジョンソン(テノール)
によるスルタンと、
ナタリー・シュトゥッツマン(アルト)の
による寵姫ダミーラの対話である。

ト書きには、「宮殿内の人目に付かない場所、
たくさんの部屋がある」とある。

女声の方が多いのに、バランスが取れている、
と書かれていた作品だけあって、
冒頭から、非常に存在感のあるスルタンの威厳である。

シュトゥッツマンの声は、
例によって低く、男性的なので、
これまた、妙に威厳がある。
かわいらしい寵姫ではなく、
一癖ある側室で、淀殿みたいな感じである。

「王冠がメリンドから滑り落ちるということで、
怒ったダミーラは、スルタンの決定に反対し、彼を脅す。
しかし、彼は動ぜず、その心の痛みと解決を表明する。」

Track5.
スルタンのアリアで、断固としたリズムが刻む、
「息子への愛で私は誤った」
と、苦悩と英雄的な高ぶりが感じられるもの。
メロディも異教的と言えるだろうか。
伴奏の弦楽もちょこまかと面白い効果を出す。

Track6.
ダミーラとゼリム。
ゼリムは、ジャルスキーのカウンターテナーで、
どうもシュトゥッツマンの声より、
きんきんして、どっちが息子か分からないので、
要注意である。

「ロザーネを愛しているゼリムは、
想い人がメリンドと結婚すると知ったところである。
彼は、まだ母と信じているダミーラに、
スルタンにとりなして味方になってほしいという。」

Track7.
「ダミーラは曖昧な言葉で、彼を慰めるふりをする。」
これまた、エキゾチックなリズム、
明快な魅力あふれるメロディのアリア。
「私だって息子の幸福を見たいもの。」

Track8.
ゼリム、そして、スルタン夫人、
ロザーネ、そしてメリンド。
先のジャルスキーが嘆いているのをよそに、
メゾ・ソプラノのグレメッテ・ローレンス(夫人)、
ソプラノのジェマ・ベルタニョリ(ロザーネ)、
コントラルトのサラ・ミンガルド(メリンド)が、
喜びを口にするという残酷なシーン。

どうも、前半は、本当は庶子のメリンドが、
ロザーネと結婚する段取りで進む模様である。
スルタンは、まだ、決定を布告していないようだ。

「正妻のルステーナはメリンドとロザーネの、
来たるべき婚礼を楽しみにしている。
しかし、ゼリムは、嘆いている。」
とあるが、メリンドもロザーネも喜んでいる。

Track9.
ロザーネのアリアである。
唯一のソプラノなので、
軽やかに舞い上がる感触が心地よい。

まさに、これこそが、コンチェルト・リピエーノ、
RV159の第1楽章のメロディに使われた、
ロザーネのアリア『あの美しい魅惑的な』である。

リズムもぴょんぴょん跳ねて、
ロザーネはゼリムの失恋に無関心である。

解説には、
「幸福に酔いしれたロザーネは、
面倒なことはごめんと、ゼリムを退ける」とある。

Track10.
ルステーナ、ゼリムとメリンド。
「ロザーネが出て行くと、
ルステーナは、ゼリムに中立を申し立てながら、
息子の喜びをかみしめる。」
(実際は、ゼリムが息子であるのに。)

Track11.
ここで、コンチェルト・リピエーノ、
RV159の第3楽章の主題となった、
ルステーナのアリア、
『あなたの甘い眼差し』が始まる。

これは、怪しげな序奏の歩みを持つもので、
不思議な色調で、異教的な雰囲気を漲らせている。
前半は、メリンドに向かい、
「あなたの甘い眼差しに、私の幸福はいや増すの」
と言い、後半はゼリムに、
「その美しさを愛するなら
彼女の喜びを嘆いてはなりません」
と諭している。

ということで、Track25まであるCDの前半で、
コンチェルト・リピエーノの2つの楽章に引用された、
2つのアリアが聴けた。
前者は、愛の喜びを歌ったもので、
後者は、それに喜ぶもの、嘆くものの、
二人の立場に同調した、
より複雑な状況を歌ったものであった。

なぜ、これらがコンチェルト・リピエーノに、
使われたかは分からない。
とにかく、胸にしみるメロディではある。

Track12.
「スルタン夫人の退出後、
二人の兄弟でライヴァルは、
面と向かい合う。」
とあるが、
ミンガルド対ジャルスキーで、
ジャルスキー(ゼリム役)の方が、
きんきんして無垢な感じ、
ミンガルド(メリンド役)は影があって、悪者風。
「しかし、メリンドが軽蔑したようにしても、
ゼリムが痛切な誠実さで、兄弟愛を乱すことはない。」

Track13.
ゼリムのアリアで、
「君が侮辱しても、僕の兄弟愛は変わらない」。
ジャルスキーのこの世ならぬ声が、
冴え冴えと響いて美しい。

Track14.
メリンドは、今や、舞台に一人。
ゼリムの友愛の主張は、
嫉妬を隠そうとしているだけと、
なおも信じている。」

Track15.
メリンドのアリア、「ナイルの岸で」。
「弱った蛇が嘆いて死んでいく」という内容。
解説には、
「彼はここで憎しみの手綱をほどく」とあるから、
憎悪の感情を発散させているのであろう。

が、これも推進力があって明快なものだ。

Track16.
このような状況で現れれば、
非常にややこしくなりそうだが、
ようやくスルタン再登場。
「スルタンとダミーラ、
スルタンのプライヴェート・ルームにて」。

「スルタン、マムードは、自責に苦しみ、
愛情は二人の息子たちに二分したのに、
王権は二分することはできぬと嘆く。
ダミーラが現れて、メリンドのために再度、
仲立ちを試みる。
彼は、その言いなりになりそうになるが、
急に、それを止めて、荒々しく、彼女を追いかえす。」

このように、非常にややこしい状況であるが、
緊迫したレチタティーボが、7分近くに及ぶ。

Track17.
ダミーラとルステーナ。
正妻対側室のシーンだが、敵は夫である。
「ダミーラは、スルタンの計画を邪魔立てしようと、
計略を実行に移す。ルステーナの信頼を得て、
彼女はマムードがあなたを騙そうとしているとすっぱ抜き、
ルステーナを説得しようとする。」

Track18.
ダミーラのアリア、「王冠を手にすれば」。
これは、ナポリ派風に、
急速なパッセージで煽り立てるもので、
じゃんじゃんと合いの手を刻むリズムに、
旋回する弦楽が目覚ましい効果を発揮し、
シュトゥッツマンも、あえて、
変な声も出したりして、技巧の限りを尽くす。

Track19.
「ルステーナ一人になって、
騙された女として悲しい運命を嘆く。」
Track20.
そのアリアで、「繊細な花は」。
笛の伴奏も霊妙な、
素晴らしい色彩に彩られたもの。
「咲くとすぐに萎れる」という、
極めて古雅な情感に満ちたもの。

ローレンスの声も、この繊細さを湛えて美しい。

Track21.
恐ろしく幻想的な三重唱であり、
ロザーネ、ゼリム、メリンドの三角関係で歌われる、
「静かなうららかなそよ風よ」。

「シトロンの木々の庭、ロザーネ、ゼリム、メリンドが、
彼らの衝突した心情を田園的に表現する。」

独白が木霊するような感じ。

Track22.
先の三人によるレチタティーボ。
「そして、ロザーネはゼリムに言い訳をしようとする。
彼は、彼女の説明を聴こうとせず、絶望を露わにする。」

Track23.
ゼリムのアリアで、「いや、もう僕は信じない。」
これは、ヴィヴァルディのアリアでは、
よく聞かれるような、
強いアクセントで、リズミックに明るく言葉を強調するもの。
中間部では、なだらかに美しいメロディが出る。
「その偽りの媚態、意味のない眼差し、うそつきがすぐわかる」
という部分。

ジャルスキーが歌うと、
その澄んだ声質のせいか、
どろどろとした情念ではなく、
妙に民謡風に聞こえる。

Track24.
「メリンドはロザーネがゼリムにかけた憐みの言葉に立腹し、
嫉妬の気持ちを爆発させる。」

ゼリムはアリアの後、いなくなって、
痴話げんかが始まったのである。

Track25.
メリンドのアリア、「僕を騙そうとしている」。
これも、先のゼリムのアリアの対をなすもので、
リズミックでぴちぴちしているが、
もっと暗い情念で突き進む。

ミンガルドが歌うが、これまた、ナポリ派風に、
強烈な音の高低やスピード感が要求されている。

第1幕は、CD2にまたがるが、
最後に、三角関係の残りの一人、
もてもての女王様、ロザーネの番が残っているだけ。
最初の二つのトラックだけ聞いてしまおう。

CD2、Track1.
「彼女は一人残され、自分がどんな行動をし
ようと、自分の権利だわと主張する。」

Track2.
これはどこかで聞いたような音楽である。
ロザーネのアリア、「恋人よ、私の希望、光」。
精妙な弦楽の伴奏が月光のように冴え冴えと、
あるいは優しく、清澄なソプラノの声を包みこむ。

このメロディは、「エルコーレ」か何かで聞いたような気がする。
今回は、第1幕の鑑賞までで終わる。

得られた事:「ヴィヴァルディが、弦楽のための協奏曲に利用したメロディは、三角関係の恋人たちの物語の中で、純粋な愛の喜びと、それを寿ぐ部分のアリアのメロディが使われている。」
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by franz310 | 2012-11-17 23:33 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その353

b0083728_225256.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディには、
「弦楽のための協奏曲」という、
作品群があって、
まとめて録音されることがある。
イ・ムジチも録音を残していたし、
ここに聞くOPUS111にも、
アレッサンドリーニが、
印象的、鮮烈な表紙写真のCDを
10年近く前に出している。
2003年の録音とある。


真っ赤な背景に真っ赤なシャツのイケメンが、
目を閉じてカラスを持っている。

このレーベルのヴィヴァルディ・エディションは、
極めて意味不明なファッション系モデル撮影を、
表紙に据えたもので知られるが、
目を瞑ってしたり、鳥を持っていたりと、
とりわけわけの分からない写真である。

さて、ここに収められた「弦楽のための協奏曲」は、
弦楽の独奏部を持つ、たとえば、
ヴァイオリン協奏曲のようなものではなく、
弦楽合奏曲である。ソロらしいものはない。

三楽章形式であるし、
つまり、彼がオペラの序曲として、
書いた作品と外見が何ら変わりない。

また、一方で、これらの作品を利用して、
オペラの序曲として流用し、
これに続けて演奏したオペラの録音も多い。

たとえば、マルキ指揮の
「狂人を装ったオルランド」では、
RV112の協奏曲が、
スピノジ指揮の「オルランド・フリオーソ」では、
RV116の協奏曲が、
序曲として使われていた。

マルク・パンシェルルの
「ヴィヴァルディ生涯と作品」では、
第2部「その音楽」に、
「コンチェルト・リピエーノ」という章がある。

「リピエーノ」は、合奏協奏曲などを調べると、
必ず出てくる言葉で、
「合奏協奏曲は、ソロ楽器群(コンチェルティーノ)と、
オーケストラ(リピエーノ、大グループ)が、
交互に演奏する楽曲」などと書かれている。

したがって、バルトーク同様、
「オーケストラのための協奏曲」という感じにも見える。
しかし、ヴィヴァルディに関して言えば、
このオーケストラは弦楽合奏団であって。
バルトークの楽曲のように、
各楽器がソロのように活躍するものでもない。

ということで、言うなれば、
独奏楽器なし協奏曲みたいなニュアンスとなる。

パンシェルルの本では、シンフォニアと序曲と、
この4声のためのコンチェルト(コンチェルト・リピエーノ)が、
どのように分類されるべきか、
この研究家がいかに悩んでいるかが、
いろいろと書かれている。

ヴィヴァルディは、同じように、
ほぼ、急緩急の三楽章形式の弦楽合奏曲を書き、
ある時は、シンフォニアと言ってみたり、
協奏曲と言ってみたりして、
わけわからんということである。

この本の早川正昭訳では、
ヴィヴァルディが大量に残した、
外見が似た楽曲に対し、
「《コンチェルト》と呼ばれているシンフォニアと
《シンフォニア》と呼ばれているシンフォニアが
まったく同一だということはないが、
また相違点と思われるものもわずかしかない」とある。

そして、相違点は、
「一番簡単に片付けていいのは
オーケストレーションについてである」
といくぶん、破れかぶれ的に結論づけている。

コンチェルトは、
宮廷のあらゆる条件のそろったオーケストラ用、
オペラの序曲であったシンフォニアは、
劇場の貧弱なオーケストラ用、
と簡潔に補足が書かれている。

また、オペラの序曲集を聴いても思ったことが、
列挙されている点は以下のとおりである。

1.コンチェルトと違って終楽章がやたら短い。
2.アレグロのテーマが調子のはっきりした性格を持つ。
3.簡単なものを執拗に繰り返して活発に展開。
4.緩徐楽章に特色があり、情感は深くないが音色が独特。

といった感じであろうか。
これは、サルデッリ氏も書いていた事だ。

パンシェルルは、こうした点に加え、
ポリフォニー的な手法を強調し、
これが、のちの交響曲の起源に重要な役割を果たした、
と書いている。

意外に、私は、この結論が好きである。
つまり、ヴィヴァルディは、要所要所で、
その目的に合わせてこうした合奏曲を書いた。

言うことの聞かない楽師たちが集まって演奏する
オペラのシンフォニアとして作る場合、
何よりも、即効性を持って、
こけおどしをするように作り、
たとえば、ピエタのすぐれた合奏団、
自分の意のままに応じる楽団のためには、
洗練された楽曲を書いた。

音楽之友社の「作曲家別名曲ライブラリー」でも、
「どの曲もあまり長くはなく、
独奏協奏曲ではほとんど見られなかった対位法も導入されている」
と書かれている。

なお、この音楽之友社の本では、
RV120、121、128、141、142、
145、151「アラ・ルスティカ」、152、158の、
9曲が取り上げられているが、
もっとたくさんの楽曲がある。

ピノックが「アラ・ルスティカ」というタイトルの、
CDを出したことがあったが、
あまりに短い作品で驚いたことがあった。

今回のOPUS111レーベル、naiveシリーズ、
ヴィヴァルディ・エディションのアレッサンドリーニ指揮、
コンチェルト・イタリアーノの演奏によるCDでは、
12曲もの協奏曲が収められているが、
いずれも数分の作品なので、65分くらいしかかからない。

「四季」などは四曲で一枚のLPになっていたので、
規模としては、一曲が、あの協奏曲の半分以下、
場合によっては一楽章相当しかない。

さて、今回聴いてみたこのCDであるが、
前述のRV128の代わりに123が、
RV142や145の代わりに143が、
151「アラ・ルスティカ」、152の代わりに、
RV153、154、156、159などが収められている。
また、RV115というのも入っている。

さて、フレデリック・デラメアは、
このCD解説で、どのように書いているだろうか。

「ヴィヴァルディのオーケストラのためのコンチェルト、
オペラのシンフォニアか、演奏会用の作品か?」
というタイトルが、完全に、これまで論じて来た事に、
答えを与えてくれるようで、
時宜にかなっており、極めて興味をそそる。

「ペーター・リオムのアントニオ・ヴィヴァルディの
作品レパートリーによるカタログナンバーで、
通しのRV109~169にあたる、
オーケストラと通奏低音のための作品群は、
性格的にも機能的にも様々なバラエティを持つ作品である。」

この数字からすると、61曲もあるということか。
12曲くらいを聴いて、全貌を知ろうとしたら、
大間違いという感じがしてくる。

「『オペラの前のシンフォニア』は、
『音楽劇』の序曲であり、
これらは世俗的であれ宗教的であれ、
教条的なものであれ、娯楽的なものであれ、
コンサート用の作品と混ざっている。
しかしながら、これらの作品を、
タイトルの用語で分類するのは困難で、
ヴィヴァルディ自身、
コンチェルトと書いたり、
コンチェルト・リピエーノと書いたり、
シンフォニアと書いたり、
題名を二重に書いたり重ねてみたりして、
混乱させることを楽しんでいるようである。」

このような状況なら、各曲、
どのような題名がつけられていたか、
書き出してほしいくらいである。

「ある作品は、シンフォニアとコンチェルトと、
二つの名前を持っていて、
自筆譜には続けて書いているが、
音楽内容はそれによって変わってはいない。
同様にある協奏曲は、
ある楽章だけが変えられて、
セレナータやオペラのシンフォニアとして、
再登場する。
多くの作品は自筆譜が失われており、
名称が気まぐれに付けらてているので、
これがまた問題を難しくしている。
この録音にあるRV123などは、
エステルハーツィの宮廷の音楽目録には、
『シンフォニア』と書かれているのである。」

ということで、さらりと書かれているが、
ハイドンゆかりのエステルハーツィの話が出てくるだけで、
嬉しくなってしまう。

「この用語的な混乱は、しかし、
類型学にはさほど問題とはならない。
作品の分類によって、ある程度まで、
それらを、それぞれの用語体系の
本来の地位に戻すことが出来る。
ジャン・ピエール・デモウリンの調査では、
ヴィヴァルディの舞台作品のために
残された11曲のオペラの前のシンフォニアの研究によって、
典型的なヴェネチア・オペラの序曲の
プロファイルを知ることが出来た。
コンサートのために書かれたオーケストラ作品とは、
長調へのシステマチックな依存によって分類でき、
その生き生きとした最初の楽章は、
もっぱら、劇的な和音と和声進行によって支配されており、
中央のメロディの豊富な楽章は、
通常、アンダンテのテンポで、
第一楽章の関係短調である。
二部形式の終楽章は、プレストかアレグロ・モルトである。
これらの特徴が、オペラのシンフォニアと、
コンサート用の楽曲を分けるのに、
はっきりした線を引くというのは確かであるが、
これらのジャンルの交差点のような、
狭いあいまいな部分もある。
たとえば、この録音にあるRV141などである。」

ということで、何でも単純に割り切れる、
というもではない方が、
ミステリアスなロマンが感じられて良い。

「オペラのシンフォニアとは異なり、
コンサート作品は、性格が多様で、
単一のカテゴリーに収めきれない。
これらはいくつかのサブ・グループに分けることが出来る。」

以下、このコンサート用作品の、
サブ・グループについて語られている。

「これらの中で主要なものは、
短調のもので、しばしば、
二三小節の単なる経過句のように切りつめられた
半音階的な中間楽章を持ち、
ヴィヴァルディによる『フーガの技法』の好例のような、
彫琢された終楽章からなる。
このサブ・グループは、
RV120、121、123、
143、153、156などで、
すべて、この録音に含まれている。
そして、すべての曲が、
一つ以上のこれらの特徴を備えている。」

ということで、これらの
「コンチェルト・リピエーノ」は、
前回聴いた「オペラの前のシンフォニア」が、
長調で書かれ、単純な終楽章を持っており、
むしろ中間楽章のメロディに特徴があったのに、
まったく異なる特徴があることが分かった。

「第2のサブ・グループは、このCDに収められた、
『マドリガーレ風協奏曲RV129』に見られるように、
通常のものとは異なる作品のシリーズで、
スタイルや構成が異種混合である。
時に描写的、しばしば伝統的な三楽章構成を逸脱する。」

このように、分かりやすくグループ分けされていて、
鑑賞の助けとなる。

「第3のグループは、明らかに教育用で、
疑いなく、もともとピエタのオーケストラのために
書かれたものである。
これらの作品は、ここでは、
協奏曲RV121やRV115で代表され、
初歩的な主題材料からなり、
リズムやドラマ的効果を積み上げ、
明らかにソノリティやニュアンス、均質性の訓練に、
適するように書かれている。」

この解説を読んでいて、
かなり高度な音楽家集団であった、
ピエタの少女たちに思いを馳せ、
練習用とはいえ、おそらく、
彼女らは、これらの曲を演奏会で披露して、
聴衆に質の高さをアプローチしたこともあっただろう、
などと考えてしまった。

「第4の、そして最後のサブ・グループは、
本質的にメロディの基づくもので、
ヴィヴァルディ自身の声楽曲の主題を借りて、
オペラの世界と予期せぬ関係を築いている。
作曲家のオーケストラ作品の
この魅惑的な側面は、この録音では、
協奏曲RV154とRV159によって、
例証されている。」

この記載には驚いた。
シューベルトは、声楽曲をベースにした、
室内楽や器楽曲の創作によって、
様々な音楽的変容を見せ、
特殊な作曲家として語られることが多かったが、
100年前の大先輩に、
そうした事を積極的にやっていた人がいた。

「後者(RV159)の第1楽章は、
『試される真実』(RV739)の
ロザーネのアリア
『あの美しい魅惑的な』(第1幕第3場)が、
同じテーマに基づいており、
第3楽章の主題は、同じオペラの
ルステーナのアリア
『あなたの甘い眼差し』(第1幕第4場)のものである。」

ということで、この1720年のオペラが気になってきた。
いずれも第1幕で、しかも続く情景での音楽であるが、
何か意味があるのだろうか。

大変、勉強させていただいた、
この解説は、次のようなセンテンスで、
ヴィヴァルディの知られざる一面を強調して結んでいる。

「しばしば自己引用が多くて非難される
ヴィヴァルディではあるが、
これらの楽しい祝典的なコンサート作品は、
多様な変奏によって、
一つの主題を展開させていく、
素晴らしい能力を開陳し、
その知られざる才能の一面を示している。」

実は、このCD、指揮をしている
アレッサンドリーニ自身の解説もあるが、
ここでは、「エゴを主張するかわりに、
絶対音楽としての美観を追及した曲集」
みたいなことが書かれている。

2つのヴァイオリン群がユニゾンになり、時に抗争して、
「ノイジー・スタイル」の輝かしいアレグロで、
演奏の始まりを告げる。
フーガの終曲が目立つ、など、共通の特徴を書いている。
ヴィヴァルディは、その力量を見せつけたかったのだという。

また、自作からの引用があることを、
アレッサンドリーニも列挙している。

以下、ここに収録された各曲を聴いたイメージを、
RV番号順に並べてみた。

RV.115(Track17-19)ハ長調。
これはいったいの破れかぶれ系音楽である。
是非、オルランド・フリオーソくらいの序曲として、
もっと普及させて使って欲しい。
強烈なビートで、じゃんじゃかかき鳴らして、
かなり忘我系のもの。
第2楽章は、うってかわって、
弱音が支配する冥界の、
あるいは夢うつつの情景。
ほとんど音楽と言うよりハーモニーの連続。
非常に詩的である。
終楽章は、これまでのことを、
みんなご破算にする健康なかけっこである。
何だか意味深。

が、この曲は、先の解説では、第3分類。
練習曲に分類されていた。

RV120(Track26-28)ハ短調。
極めて実験的な音楽と聞こえる。
ほとんど主題になりそうでならない
メロディの切れ端が繰り返されているだけ。

第2楽章も、低音部で繰り返される
ゴンドラを漕ぐような動きに、
高音でハーモニーが重なっているだけ。

第3楽章はフーガである。
これは、しかも、モーツァルトも好きそうな
ジュピター式の開始。
ただし、晴れやかなものではない。
むしろ、バッハの「音楽の捧げ物」みたいな感じもする。
いずれにせよ、それらの名曲と比較したくなる存在感である。

この曲は、先の解説では、
第1分類、典型的なコンチェルト・リピエーノである。

音楽之友社の「作曲家別名曲解説」にある。

RV.121(Track7-9)ニ長調。
この作品は激しいユニゾンによるリズム強調で始まって、
オペラの序曲のように、実用的な、
あるいは機能的な音楽である。

しかし、そのあとに爽やかに流れる
流動的な楽想が来て、
モーツァルトの喜遊曲のような風が吹き抜ける。
そのせいか、この曲はイ・ムジチなども録音している。

短い第2楽章は、沈鬱に沈みこむが、
これをバネにするように機械仕掛けのごとき、
がちゃがちゃ系終楽章が来る。
ペチャクチャしゃべくりまくる音楽。

この曲は、第1分類、
または、第3分類の練習曲とされた。

音楽之友社の解説にある。

RV123(Track35-37)ニ長調。
この曲はいわく言いがたい。
何だか明るいのだが無機的な楽想の繰り返しを、
それらしくまとめただけにも思える。

第2楽章は、独奏的な、
即興も絡む謎かけのような音楽。

第3楽章は澄んだ空気がみなぎった
微妙な舞曲調の対位法的のものでこれまた神秘的である。

この曲は、先の解説では、第1分類とされた。
対位法の駆使からしてその通りと思える。

RV129(Track10-13)ニ短調。
「マドリガーレ風」とされる。
この曲には意味ありげな序奏がついているが、
この緊張感に続いて現れる
まさしくフーガの技法のごとき、
展開はなんという世界だろうか。
これがヴィヴァルディ?という凄い空間。

さらに、またまた緊張感みなぎる部分が、
精一杯引き伸ばされると、
ちょっと明るさを持ってはいるが、
これまた、抽象的な錯綜した音楽となる。

これは先の分類では、唯一、第2分類とされたもの。
様々な様式の寄せ集めというわけだ。

何が「マドリガーレ風」かはよく分からないが、
4楽章形式だし、他の曲とはかなり違う。

アレッサンドリーニは、
「自身のマグニフィカト、キリエのいろいろな要素を、
再構成したものに他ならない」と書いている。

RV141(Track23-25)ヘ長調。
ちゃっちゃらちゃっちゃらとお祭り騒ぎの主題に、
これまた、かき鳴らし系のかき乱し楽想がからむ。

この中間楽章は何だ。
小唄を口ずさむようなお気楽感に満ちている。
ヴィヴァルディ版「道化師の朝の歌」。

じゃんじゃか系の終楽章と相まって、
全体的に官能的な交響詩になっている。

この曲はデラメアの解説では、
特に分類されていないが、
RV121が2回分類されているので、
どちらかが間違いなのかもしれない。

音楽之友社の解説にある。
ただし、この解説群は身が入っておらず、
終楽章がシンコペーションとあるくらいで、
たいがい、そうした事しか書かれていない。

第1楽章についても明確な形式を指摘できない、
と書いている。

RV143(Track20-22)ヘ短調。
いきなりフーガである。
ヴィヴァルディの技巧集成といった趣で、
何だか建築作業が始まる。
そうした創意工夫を始めるぞ、
と言わんばかりのよっこらしょ系の主題である。
そこに、多少、超越したような表情のメロディがまとわりつく。

第2楽章は、研ぎ澄まされ系の導入部という感じで
素晴らしく高潔なメロディに満ちた終楽章に続く。
何だかセンチメンタルでもあり、ナルシスティックでもある。

当然、第1分類。

RV.153(Track4-6)ト短調。
この曲の第1楽章の寄せては砕け散る
海の嵐を想起させる劇的な表現は、
ニヒルなメロディが歌われる第2楽章と共に、
作曲家のこだわりの個性的な刻印を感じるが、
終楽章も同様な雰囲気で孤高である。

この協奏曲は、かなり力作ではあるまいか。
RV.156と共に自画像的。

これも第1分類とされて当然かもしれない。

RV154(Track14-16)ト短調。
この曲はシューマンの音楽のように
気紛れな雰囲気とリズムが、
これまた、「錯綜する」、という感じの楽章で始まる。

第2楽章も衒学的で、
いかにも、意味深で深刻な張り詰めたもので、
終楽章はがっちゃんがっちゃん言うリズムに、
やけっぱちなメロディが無理矢理付けられている。

この作品は第4分類なので、
オペラから主題が採られたのか。

RV156(Track29-31)ト短調。
粋ないなせなメロディで、
肩で風を切るヴィヴァルディで、格好いい。
北風が吹こうとたじろがぬ自信に満ちた足取りである。

中間楽章は幾分、失意を感じさせる。内省的なもの。

終楽章のメロディも素晴らしく推進力があり、
この協奏曲は不遜とも言える作曲家の肖像画に見える。

あるいは、あえてベルリオーズを先駆けた、
自伝的協奏曲と書いて問題提起しておこう。

これも第1分類とあるが、私は、RV153と共に、
もう一つ、別の分類にしたい。

RV158(Track32-34)イ長調。
開放的な楽想をおおらかに展開し、
途中、マニエリスティックな確信犯的な、
ぎこちないジグザグをさしはさむ。

第2楽章も、ぎっちょんぎっちょん系の
スケルツォとかフモレスケ。

終楽章は、これまた、開放的なもの。
合いの手のような動機が吹き抜け、
停滞しがちなリズムの繰り返しの推進を助けてくれる。
アレッサンドリーニは、ペルゴレージ風と書いている。

この曲も、デラメアの解説では分類されていなかった。

RV.159(Track1-3)イ長調。
明朗な楽想で微笑みが感じられる開始部ながら、
袋小路的な、意地悪がある。

中間楽章はメロディとしては、
ものすごく引き伸ばされた子守唄のような感じ。

終楽章は、このCDの中では目立って個性的なもので、
エキゾチックな色調で目立ち、苛立たしく停滞する。

この作品は、先に、「試される真実」の、
第1幕の音楽の焼き直しとされた。
第4分類。

アレッサンドリーニは、解説を、
「メロディ発明の才能、巧妙なリズム処理、
いたるところにヴィヴァルディの天才を感じる。
そして、ヴェネチアの器楽の伝統に明らかに則っている。」
と結んでいる。


得られた事:「ヴィヴァルディのシンフォニア(序曲)と弦楽合奏協奏曲は、外見が似ているが、前者は長調が支配的で中間楽章のメロディに特徴があるのに対し、後者は短調の場合が多く、対位法的で終楽章に力点がある。」
「ヴィヴァルディの器楽曲にも、シューベルトと同様、声楽曲を改変したものがある。」
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by franz310 | 2012-11-10 22:06 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その352

b0083728_19585124.jpg個人的経験:
前回聴いたシモーネ指揮の
ヴィヴァルディ「序曲集」、
今回聴くサルデッリ指揮
のものと比べると、
あまりにのんびりして、
ひと世代前の録音と
感じずにはいられない。
しかし、このサルデッリ盤も、
あまりに強引な感じが
しないでもない。


このような演奏の性格は、
怪しげなカーニバルの仮面の表紙デザインが、
図らずも、よく表しているように思える。
何となく、真意を見せずに、
聴き手を驚かせようという魂胆か。

演奏はモード・アンティコである。
そうは言っても、
彼らの演奏には、
私は、ちょっと弱いかもしれない。

勢いが乗ってくると、
完全にフォルクローレ的な陶酔に陥って、
リズムと楽器の過激なかき鳴らしで、
とにかく我々を揺さぶりまくろうとする。
しかも、ヴィヴァルディに対しては、
全幅の信頼を寄せていることが感じられる。

いかに、過激にさく裂しようとも、
大将、あなたなら、きっと、
こうやりたかったはずですよね、
と語りかけているような感じがしないでもない。

2001年11月の録音ということで、
11年の年月が経っているが、
あるいは、もう少し気負いのない、
より自然で落ち着いた表現が、
この十年の間に出てきているような気もする。

このCDは、Frame Recordsのライセンスとあるが、
ブリリアントレーベルのもので安く入手できるし、
収録曲目が多いので、それだけで価値がある。

シモーネ盤が11曲だったのに対し、
こちらは14曲入っていて、3曲多い。
これは、オペラでなくセレナータである、
「祝されたセーナ」から二曲、
シンフォニアと序曲が入っているからで、
あと一曲は、「忠実なニンファ」の「海の嵐」である。
これは1分程度のもの。

あと、これらの序曲(オペラの前のシンフォニア)は、
急緩急の3つの部分からなるが、
一般に最初の急の部分が長いので、
これを前半、残りを後半として、
それぞれにトラックが振られているのもうれしい。

解説を、ヴィヴァルディ気違いの、
フェデリコ・マリア・サルデッリ自身が
受け持っているのも価値がある。

「『いずれにせよ、全ヨーロッパは、
私が作曲した94のオペラによる名声と、
私の名前を無視できません。』
1739年の1月2日に
グイド・ベンティボーリョ侯爵に宛てた、
心からの嘆願書の途中にある、
このいかにもプライドを感じさせる表現から、
この年配の作曲家は、
自分が作曲したオペラの総量を見積もっている。
現在では、我々はヴィヴァルディのこうした数字の傾向を、
例えば彼がハンズワースに、
17のエディション(12ではなく)を出版したと書き、
ベンティボーリョには、
彼の家賃が200ドゥカーティ(136ではなく)
と書いた傾向から、疑いたくもなるだろう。」

このようにいきなりペテン師ヴィヴァルディへの、
誹謗中傷かと思いきや、
さすが、サルデッリ氏は違う方向に舵を切る。

「こうして残されたドキュメントを、
ふるいにかけ、もはや、釈明が出来ない人に代わって、
こうした計算をするのは、後世の人の勝手である。
が、公正を期するなら、
ヴィヴァルディにも言い分があることを、
受け入れる必要がある。
彼はおそらく、分冊を含め17冊と言ったのであり、
また、94という数字は、
今日、散逸しているもののみならず、
再構成したもの、彼自身が繋ぎ合わせたものや、
ほかの誰かのものを含むパスティッチョも、
そこに含めたものかもしれない。」

ということで、ほら吹きというより、
神経質に計算した結果となった。

「結局、こうした活動は、
オペラ作曲家の公式な仕事の中で、
他の仕事の一部でしかなかった。
しかし、1713年の『離宮のオットーネ』から、
1739年の『忠実なロズミーラ』まで、
おそるべき数量ではあった。
我々は47の作品を数えることが出来る。
もちろん、音楽として残っているのは31曲で、
その中の14曲のみが完成していて、
8曲は不完全で9曲は断片である。
18世紀のオペラのプロダクションは、
こうしたもので、
しきりに変化する要求によって育まれたもので、
(流行に追従し、大衆の好みの急変に
対応しなければならなかった。)
オペラの作曲家は、
新しいアリアやレチタティーボを提供し、
昔の作品に新しいテキストを当てはめ、
旧作を改作し、自作や他人の作も縫い合わせ、
常に上演ニーズの変化に
立ち向かう必要があった。
つまるところ、すでに上演された
オペラからの音楽材料は、
要求に合わせて自由に使える
一種の宝箱のようであった。」

まったく、肯けるもので、
芸術のための芸術を追及する余裕はなかったのである。
うまくすれば大きな金が入り、
失敗したら素寒貧という博打業と言ってもよい。

博打というのは悪い表現に見えるが、
ハイリスク・ハイリターンのベンチャー精神であり、
むしろ、現代の日本人が学ぶべき点であって、
大企業で寝てても給料がもらえる方が、
こうした全力を賭けた賭け事と比べると悪い事に決まっている。

「シンフォニアであれ、オペラの序曲であれ、
交換や変更が前提となっていた。
ヴィヴァルディのたった15曲のシンフォニアが、
確かに実際の上演のタイトルと関連づいていて、
2曲はセレナータ『祝されたセーナ』という
準舞台作品に属し、
もう一曲は英雄田園劇
『忠実なニンファ』の第三幕の開始部である。
他の多くのシンフォニアのスコアは、
独立した器楽曲として残され、
オペラと一緒にするべきか分からず、
同時に特定のオペラのタイトルや
上演との関係をつなげる証拠もない。
これらのシンフォニアは、
自由に別のオペラにくっつけられ、
今日、同じ曲が別のオペラの序曲として使われたり、
他のシンフォニアの一部がばらされて、
一つの楽章になっていたり、
また、あるオペラの手稿から外されて、
別のオペラの序曲になっていることに出会う。」

結局、グルックが、オペラ改革で、
序曲が、そのオペラの雰囲気に合わせないとだめよ、
と言いたくなるのもわかるほど、
めちゃくちゃ見境ない状況ということであろう。
ヴィヴァルディは、それどころではない、
と言うであろう。

「この最初のシンフォニア完全録音では、
こうした、ほかのオペラにも流用された状況から、
最初に演奏された時のヴァージョンを選んだ。
たとえば、『テルモダンテのエルコーレ』へのシンフォニアは、
一度しか記録がなく、『エルコーレ』より5年前に演奏されていた、
『アルミーダ』のシンフォニアとした。
されに変なのが一つあって、
1727年から1738年の謝肉祭で成功したオペラ、
『ファルナーチェ』のシンフォニアの最初の二つの楽章が、
1726年に初演された『ドリラ』のそれと同じなのである。
明らかに、これは『ドリラ』のシンフォニアが、
終楽章のみ変えて『ファルナーチェ』に転用されたのであるが、
我々が使った『ファルナーチェ』は、1731年の演奏時のもので、
『ドリラ』のリヴァイヴァルは1734年なので、
実際にはもっとややこしい。」

同じオペラが10年も流行ったという事実にも、
私は驚いてしまうのだが。

しかし、ヴィヴァルディのオペラ、
単に、レチタティーボとアリアを、
単に並べたものという感じもするが、
そういった構成にしておかないと、
適宜、差し替えなどが出来なくなってしまう。

人気のあったものは、すぐに別の曲でも代用、
などが出来るようにしておくとは、
まるでユニット設計ではないか。
現代の工業製品の大量生産を先駆けた作戦の、
一つの解だということになる。

「したがって、このシンフォニアが、
これらのオペラの初演時に使われていたかは、
我々には判断不可能で、
残された楽譜の順番を優先した。
『ファルナーチェ』のシンフォニアを通して演奏し、
有名な『春』の協奏曲のテーマで、
このオペラのオープニングの合唱で使われた、
『ドリラ』のシンフォニアの第三楽章は、
もれなく補遺として録音した。」

このあたり、この前に聞いたシモーネ盤とは、
完全に反対のアプローチで、
両方聴く者にとっては好ましい。

「楽章の代用やほかのオペラへの貸し出しは、
音楽的内容の変更を伴い、
すべてのヴァリアントを録音した。
『ジュスティーノ』のシンフォニアの中間楽章は、
『セーヌ』に流用され、さらに、
『セーヌ』と『ファルナーチェ』の終楽章にも利用されたが、
表面的に一致するだけである。」

ということで、同じ楽想でも使われ方によって、
演奏の仕方を変えたということであろう。

「通常のオペラのシンフォニアの楽器法は、
四部からなる協奏曲に等しい。
しかし、オーボエを重ねる慣例があるので、
状況に応じて、演奏にこれを添えた。
三つのケースのみ、ヴィヴァルディは管楽による、
コンチェルタンテな書法を使った。
二つのヴァイオリンと二つのオーボエを使った、
『離宮のオットーネ』と、
二つのホルンを使った『バヤゼット』と、
『忠実なニンファ』の『海の嵐』である。
この最後の作品は、注目に値する音画で、
序曲ではなく、ヴェローナの
フィラーモニコ劇場の落成式のための、
田園劇の三幕を飾る前奏曲である。
この機会に、ヴィヴァルディは、すでに名声を得ていた、
横笛のための協奏曲(RV98/570、RV433)や、
ヴァイオリン協奏曲(RV253、RV309)を発展させ、
さらに、ホルンを加えた。
激しい弦楽とこれらの楽器の活躍によって、
色彩と描写力の傑作となった。
ヴェネチア駐在のフランス大使、
ヴィンセント・ランゲ公のための、
1726年作曲のセレナータ、
『祝されたセーヌ』の二つのシンフォニアで、
管楽器はすでに使われている。
ここでは、スコアにヴァイオリンのユニゾンに、
二本以上のフルートを伴い、
二本以上のオーボエを伴い、
と明記されている。」

もしかして、この一例をもって、
オーボエを重ねてよい、という判断をしたのだろうか。

「オペラのシンフォニアがいかに発展したかを知る、
今日の聴衆には、この時代の作品は、
やかましい聴衆の注意をひきつける、
鳴り響くシグナルとしての起源の、
大胆な和声に過度に拘束された小型のもの、
と思われるかもしれないが、
ヴィヴァルディの作品を知れば、
その意見を変えたくなるであろう。」

そんな単純なものではない、という事であろうか。

「慣習的に、同じ調で、
決まった和声で書かれているにも関わらず、
ヴィヴァルディは、驚くべき転調をさしはさむ。
開始部のアレグロは、彼のコンチェルトの、
素晴らしい輝かしさを利用するが、
緩徐楽章は抒情的魅惑を放射する瞬間で、
まさしく、この中間のアンダンテこそが、
彼のシンフォニアに斬新さを与えている。」

短い、控えめな中間楽章、
便宜的に第二楽章こそを聴け、
ということか。

「目覚ましい表出力や、
恥じらうことなき繊細な音色によって、
同時代の誰も到達できなかった、
郷愁のメランコリーの雰囲気に包み込み、
これらの作品は、まさしく、
最も手におえない聴衆にも、
てきめんの効果あるシグナルとなったのである。」

ということで、さすが、サルデッリ師匠、
うまい具合に聞きどころまでを、
ずばっと言い切っている。

では、各曲を聴いてみよう。

Track1.忠実なニンファ
弦と管が交錯して進む目まぐるしいアバンギャルド風。
解説にあったように、
(まるでヴァーグナーみたいだが)
第三幕への前奏曲で、かなり短い作品だが、
いきなりこの団体の強烈な音楽作りのドライブが見られる。

いくら「海の嵐」でも、
やりすぎではないの、という感じもする。

「海の嵐」にしては周波数が高すぎて、
描写的ではなく、むしろ、警報風。

テンポの対比も強烈で、
ファンファーレのような豪快な管楽合奏で終わる。

以下の曲は、「オペラの前のシンフォニア」で、
三つの部分からなるが、
便宜的に第一楽章、第二楽章、第三楽章と呼んでみた。

Track2.「アルジルダ」。
がちゃがちゃちょこまかの
極端な強弱が対比されたもので、
前の作品に近い豪快さで進む。

煽るような推進力は疲れるが、
鮮烈さは、作曲家の情熱を彷彿とさせる。

Track3.同曲の第二楽章、
ぽろぽろとテオルボが鳴り、
チェロがぼそぼそ鳴る中を、
弦楽が緊張感のある音楽を進行させる。
同じトラックの第三楽章は、
警戒に跳ね回る田園舞曲。

Track4.「ジュスティーノ」。
またかと思わせるように類型的な、
弦がかき鳴らされる突進風主題は、
後半では、ためらう奇妙な表情を見せる。

それに反発するような主題も、
同様に途中で力が弱まる。
展開部風の部分はいろいろ変化があって面白い。

特にこれ以上に先鋭には出来ないくらいに、
この演奏は密度が高い。

Track5.第二楽章は、寂しげな、
夢遊病のような音楽であるが、
まるでショスタコーヴィチみたいなギクシャクと、
跳び跳ねる終楽章が来る。

Track6.「バヤゼット」。
まさしく、待ってましたみたいな感じで、
この勇壮な序曲が炸裂するが、
ゴニョゴニョした動機は、
変化をつけてチェロの独奏になっている。

Track7.第二楽章は、主人公の英雄に相応しく、
孤高の音楽だが、終楽章は、
これまた激烈な金管の咆哮がこの演奏のコンセプトに合っている。

Track8.「オリンピアーデ」。
この曲なども乗りまくって、
飛び跳ね回る表現が過激である。
チェンバロのかき鳴らしが、打楽器的である。
神経質に強弱、スピードが激変する。

Track9.第二楽章は、
リズムがカリカリしていて、
いくぶん潤いがないが、
終楽章は、ひねくれた主題をこねくりまわして面白い。

Track10.「祝されたセーナ」のシンフォニア。
この曲は、オペラへの序曲ではない。
祝典的なセレナータについているもので、
シモーネの序曲集にはなかった。
しかし、シモーネは、このセレナータ全曲を録音しいる。

何となくヴィヴァルディへの微笑みを感じさせるとはいえ、
恣意的で挑発的なものが続くサルデッリの演奏の中で、
不自然さがないのは、この辺りだろうか。

即興的なのか、思いつきで突発的なのか
よく分からない解釈だが、
この曲では、比較的抵抗がない。

Track11.第二楽章は、
ポツポツと流れが途切れるが、
晴朗な終楽章への流れ込みは素晴らしい。

エマーヌエル・バッハくらいの時代を思わせる爽快さである。
チェンバロのきらびやかな技巧も同様の時代感。
が、このセレナータ自身は、それほど後年のものではない。

Track12.「祝されたセーナ」の序曲。
緩やかな序奏を持ち、解説にあったように、
管楽器のオブリガードがついている。

バロックのマニエリズムと言いたくなる
不思議に立ち上る楽想が幻想性を深める。
エル・グレコの絵画の背景みたい。
これは美しい。

あるいは、バロックそのものなのかもしれない。
まさしく「いびつな真珠」である。

Track13.終楽章の田園舞曲は、
木管楽器が古雅な長閑さを感じさせ、バッハの管弦楽組曲風。

Track14.「グリセルダ」。
これまた、強烈なアタックで始まるものだが、
アクロバットのような音の連続が爽快。
テオルボだろうか、立ち上る撥弦楽器の音色も、
ハイセンスで気が利いている。

Track15.第二楽章は、
へんてこな音の切り方で面妖な音楽になったが、
終楽章の武骨なリズムの破れかぶれの音楽は、
是非、これくらい思い切りやって頂きたい。

Track16.「テウッツォーネ」。
じゃんじゃかやかましい上に
過激なアタックが積み重なって、
もうベートーヴェンも脱帽の音の建築である。
個々の楽想は煉瓦のようだ。

この指揮者のかき鳴らし嗜好がよく活かされている。

Track17.第二楽章は、
悩み多い複数の声部が絡まってうねうね行く感じ。
終楽章は、弾けてお開きにするような陽気なもの。

Track18.「離宮のオットーネ」。
待ってましたの序奏から興奮が掻き立てられる。
二つのヴァイオリンの技巧的な絡まりも、
管楽器の応答も個性的で美しい。

Track19.第二楽章は、
短いがメロディもシンプルで情感豊か。
終楽章は、それの高速版。

Track20.「ファルナーチェ」。
この曲などは推進力に明快な流動感が加わって、
とても分かりやすい音楽である。

Track21.第二楽章は、
その代わりリズミックでスケルツォ風、
終曲は爽やかで晴朗な解放感のある音楽。

Track22.「ダリオの戴冠」。
じゃじゃじゃ系の強引系。
そこに優しいメロディが絡まる感じ。
これは、前古典派の交響曲といった雰囲気。

Track23.第二楽章は、
モノローグ風で長い。
終楽章は、これは、短く破れかぶれ系。

Track24.「アルミーダ」。
これまた暴発の冒頭。
基本じゃんじゃかで、
そこにヴィヴァルディ的な
詩情豊かな経過句が織り込まれていくのを、
決して聞き逃してはならない。

Track25.第二楽章は、
かなり抽象的に空中に浮かんでいる。

終楽章では、急に意識を取り戻したように、
短く強烈な舞曲が縦のラインを強調する。

Track26.「テンペのドリラ」。
解説にあったように、これは前の曲の、
第一、第二楽章に続けて演奏されて、
完全なシンフォニアとなるが、
ここでは終楽章だけ録音されている。

ヴィヴァルディの四季の冒頭の切れ端である。
これで終わりなの?という感じもする。

得られた事:「ヴィヴァルディのオペラは、十年にもわたって人気を保った演目もあるが、それは人気曲を流用し、流行に合ったものに差し替えながらの上演を可能にしたユニット設計戦略による。」
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by franz310 | 2012-11-03 19:59 | 古典