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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その351

b0083728_18152315.jpg個人的経験:
前回、ヴィヴァルディの、
オペラから、アリアの他、
シンフォニアを集めた
CDを聴いたが、
シンフォニア(序曲)のみを
集めたCDもいくつか出ている。
このCDも、
ヴィヴァルディの、
「オペラの前のシンフォニア」
というタイトルになっている。


かつて、エラート・レーベルで、
ヴィヴァルディのみならず、
イタリア・バロック関係の録音では一世を風靡した、
シモーネ指揮のイ・ソリスティ・ヴェネティの演奏。

表紙のGiovaneの絵画も美しい。
サンマルコ広場を描いたもので、
ヴィヴァルディが生まれた年に亡くなっている画家らしいが、
当時のヴェネチアの活気を表していて、
何とも言えぬ味わいがある。

単に活気というのではなく、
この夕陽色の色調が、すでに、
最盛期は過ぎ去った街の印象をもって、
私の胸に刻まれる。
作者がそう思って書いたかどうかはわからないが。

このCD、録音は1978年と、
30年以上も前のアナログ録音であるが、
オリジナル楽器が当然となる前の解釈で、
弦楽合奏も分厚く、第一ヴァイオリンだけでも、
9人の奏者の名前が連ねられている。

チェンバロには、名手スグリッチの名前が見えるが、
このチェンバロが、素晴らしい銀色の響きを聞かせることは、
この演奏を通じて、耳にしみることで、
改めて名前を見てうれしくなった。

エラートでバロック音楽のLPを楽しんだ世代には、
何となく懐かしさを感じさせる名前であろう。

なお、バスーンには、日本人名、
WAKABAYASHI MICHIOがある。

「当時の劇場の雰囲気の中で作曲された、
アントニオ・ヴィヴァルディの『オペラの前のシンフォニア』は、
『赤毛の司祭』の才能と個性を表した、
非常に興味深い証拠となっている。」

と、演奏をしているクラウディオ・シモーネ自身の解説も、
かなり期待される書き出しである。

「オペラ分野において、ヴィヴァルディは、
非常な熱意と努力で取り組んだ。
華麗で想像力にあふれる音楽で『赤毛の司祭』は、
ヴェネチアのバロック芸術の頂点を表している。
大胆にも、最初の器楽曲群に、
『放たれた音楽のイマジネーション』とか、
『過度の』といった名前をつけた男は、
ヴェネチアの劇場のきらきらした飾りや、
魅力的なアトラクションとして片づけられる存在ではなかった。
これらの劇場は、すべての偉大な文学家たち、
劇作家、カナレットのような華麗な振付師、
当時の最も重要な作曲家たちの戦場であり、
継続的に公衆に『驚き』を提供していた。
彼の死(1741)を前にした手紙によると、
ヴィヴァルディは94曲のオペラを作曲した。
彼は、四分の一世紀にわたって、
音楽ショーの監督であり興行師で、
彼が、いかに劇場に直結していたかが分かる。
さらに言うと、彼は、生涯を通じて、
歌手のアンナ・ジローと非常に親密な関係にあり、
彼女は、彼の作品を歌い、多くの作品に登場した。
さらに、マルク・パンシェルルがすでに指摘したように、
多くの器楽曲での革新的書法が、
形式的にも表現の領域でも、
劇音楽に直接的な影響を与えている。」

確かに、パンシェルルの著書(早川正昭訳)を見てみると、
「器楽とオペラが並行して作曲されていった
この自然な結果として、
この2つの分野は互いに影響を及ぼしあった。」
とあったり、
「ヴィヴァルディの第一の独創性が、
コンチェルトの中にオペラ的な要素を持ち込んだことにある」
とあったり、
「ヴィヴァルディの音楽性は、両方に同じように貫かれている」
とあったりする。

「この巨大な作品群のほんのわずかしか、
残念ながら今日まで残っておらず、
その重要性はようやく認められはじめられたところである。
我々は20作品かそこらしか知らず、
いくつかは不完全であり、
すべてのページが『赤毛の司祭』のものではないものもある。
いくつかは疑いなく傑作であって、
音楽史に残るいかなる傑作とも比較できる。
『オペラの前のシンフォニアは、
ヴェネチアのバロックのメロドラマの発展の中、
ロマンティックな前奏曲や交響曲の先祖となった。
ヴィヴァルディの時代を通じて、
それらは比較的単純なパターンのものであったが、
我々は、それら大多数を、
一連のシリーズのように見ることが出来、
ちょうど、コンチェルト・リピエーノや、
合奏協奏曲、独奏コンチェルトなど、
ヴェネチア風の協奏曲への
出発点となった。
当初、これらのシンフォニアは、
厳密な意味での音楽作品ではなく、
聴衆にオペラの開始を告げるための、
アナウンスの和音の連続にすぎなかった。」

ということで、ヴィヴァルディの場合、
協奏曲が序曲になったように見えるが、
もともと、オペラがあって、
それらが協奏曲的な形態をとって行った、
という解釈のようである。

「1609年のマルコ・ダ・ガリヤーノの、
『ダフネ』のまえがきを見てもそれは明らかである。
彼は、シンフォニアを、様々な楽器で奏し、
カーテンが上がる前に聴衆の注意を引けと書いている。
この聴衆の注意を引くことは、
最近の例では、開演のベルを想起させるが、
これがシンフォニアの芸術性を支配することになった。
長い間、これらの作品は、
和音を繰り返すファンファーレであったが、
協奏曲のように、三つの部分を持つようになり、
ゆっくりした和音が前にあって、
速い楽章が続くようになった。
このあまりにも単純な音楽による警報は、
1642年のカヴァッリの『愛の矢の美徳』に明らかに見られ、
一つの和音が260回も繰り返される。
このパターンは多くの和声や、
異なるリズムを有することで豊かさを増した。
この、器楽のコンサートを導く、
『オペラの前のシンフォニア』の新しい形式にもかかわらず、
少なくとも18世紀の前半においては、
これらのシンフォニアは慣習的で類似のものであった。
ベネデット・マルチェッロは、
彼の『ファッショナブル・シアター』において、
手厳しく皮肉っている。
『シンフォニアは一般にフランス風か、
三度の和音の16分音符の急速な和音からなり、
短三度を伴う同じ調性のピアノ部が続き、
時代遅れな、フーガや、
ブリッジ・パッセージや主題はなしで、
再び短三度を伴うメヌエット、ガヴォット、
またはジグで終わる。』
『赤毛の司祭』の爆発性の才能は、
色彩や目もくらむような名技性の、
素晴らしい豊かさを加えた。
彼の『オペラの前のシンフォニア』は、
名人芸に満ち、明るく輝かしく、
聴く者に、純然たる喜びを感じさせる。
ヴィヴァルディが劇場のために書いた時代をカバーして、
シンフォニアは残っていることを特筆したい。
そして、それらのある特徴は、
常に繰り返されていることが分かる。」

このように、シモーネは書いて、
いくつかの特徴を列記している。

「1.非常な単純な形式で書かれており、
マルチェッロの書いたような感じで、
生涯を通じて、それはほとんど変わっていない。
調性はほとんどがハ長調か、関係調である。
最初の部分は一般に明るく器楽的で色彩的、
ダブル・ストッピングや繰り返しが、
オーケストラで奏される。
第二の部分は表出力があり、
出だしから優雅であり、
第三の部分は、非常に短く、
三拍子で踊りやすく、時にメヌエットと題される。
2.器楽的な見地からすれば、
これらの作品は、際立って類似であり、
第1、第2ヴァイオリンはユニゾンで奏され、
ある作品では、三度で奏される。
これは第二、第三の部分で顕著である。
ヴィオラはバスに重なっている。
3.オペラの前触れにもかかわらず、
シンフォニアは何の説明関係にもない。
最も血なまぐさい物語も、
他のものと同様に、
長調で生命力にあふれている。」

ということで、多くの作品は、
見分けがつきにくいが、
よく聞くと、様々な魅力に満ちている。

「すべてのオペラが、
専用のシンフォニアを持っているわけではなく、
ヴィヴァルディはしばしば、
同じシンフォニアを異なる複数のオペラに流用した。
したがって、シンフォニアがないオペラは、
他のシンフォニアを使って演奏されたものと思われる。
バヤゼットのためのシンフォニアは、
序曲とリブレットが無関係というルールの
例外であるように見える。
第二の部分に聞く、間合いや東洋的な色彩が、
物語の雰囲気からヒントを受けたように見える。
最初のシンフォニアは、
『離宮のオットーネ』のもので、
これはヴィヴァルディの最初のオペラとして知られ、
1713年にヴィンセンツァで上演された。
この作品では、ヴィヴァルディは、
上述の例外を示し、
合奏協奏曲のようなスタイルで、
オーケストラと二つのヴァイオリンと、
二つのオーボエが対話をする。
先立つ年に、アムステルダムで、
『Estro Armonico』を出版、
この形式に、彼は重要な貢献を行っている。
もともとは『ファルナーチェ』のために書かれた、
『テンペのドリラ』のシンフォニアの、
最後のセクションでは、
ヴィヴァルディの作品で最も有名なもののひとつ、
『春』の協奏曲の最初のトゥッティが聴かれる。
ヴィヴァルディは、もともと、
『ファルナーチェ』のために書いたオリジナルを、
『ドリラ』の最初のシーンに合わせて書き直した。
オペラは、春のお祭りのシーンで始まるのである。
ここでは、『四季』の有名な主題が登場する。」

では、各曲を聴いてみよう。()内は、私が補った。
音楽の友社の「名曲解説ライブラリー」にある数字だ。

Track1.「テンペのドリラ」
(テンペーのドリッラ)(1726)。
先ほど、解説に書かれていた作品が冒頭から登場する。

分厚い弦楽が、
モコモコした音形を繰り返しながら勢いよく飛び出すが、
テンポを落として、ヴァイオリン独奏が、
何度か繰り返されただけで、
何だか、静かに情念を秘めた次の部分になる。
そして、多くの人が驚くのが終曲部で、春のメロディ、
という感じ。

「四季」の演奏で鳴らした団体でもあり、
このあたりの表情は、実にそれっぽい印象を醸し出して、
演奏者自身が喜んでいる感じ。

Track2.「ファルナーチェ」。
これが、先の序曲のオリジナルの終曲である。

情感豊かな、さえざえと広がる弦楽のうねりが美しい。
「春」の協奏曲に負けずに、春の陽気である。
しかし、何の展開もなく終わってしまう。
1分半もない。

Track3.「ジュスティーノ」(ユスティヌス)(1724)。
これもざわざわするぎくしゃくした合奏に、
ヴァイオリン独奏の名技が絡まっている。
驚くべきは途中のものがファルナーチェ序曲の、
終曲のメロディと同じである点。
活発で、強弱の激しい音楽進行が、
かなり不格好な中断をともないながら悲愴感あふれる
メロディの中間部に流れ込む。
それもすぐに簡潔で元気一杯の終曲部に入る。

Track4.「離宮のオットーネ」(1713)。
これは、カークビーが歌ったアリアのCDに入っていた。
ヴィヴァルディの「四季」の後に入っていても
おかしくないような、ほとんど合奏協奏曲の外観ながら、
強弱の激しい起伏は、耳に適度な刺激を与え、
いかにも、舞台が始まるわくわく感を高めていく感じである。

中間部の寂しげな木管の佇まいも、
詩的ではかなげである。
終楽章はそれを勢いよくしただけ。

Track5.「ダリオの戴冠」。
(ダレイオスの戴冠)(1717)。
ファンファーレのような弦楽の激しい強打に続いて、
優しい応答が応え、目まぐるしい音形が駆け巡り、渦巻く。
その部分が展開部に見えて古典的な形式感はそこまで来ている。

逍遥するような繊細で情感をかきたてる中間部は、
いくぶん神経質な合いの手が入る終曲に続く。

Track6.「グリセルダ」(1735)。
この曲もカークビーが歌ったアリアのCDに入っていたもので、
この演奏の時代を感じさせる。
編成が大きいせいか、妙に重々しく、
ロマンティックで、もたもた感がある。
じゃっじゃっじゃっという即物的な序奏により、
でんぐり返りのような主題が導かれるが、
悲劇的な物語を反映してかしないでか、
なにか透徹した気分も低流している。

従って、中間部は何か昔話を語るような風情。

Track7.「試練の中の真実」(1720)。
ヘンテコな題名のオペラである。
この序曲(シンフォニア)は、たらららたらららと、
これまた直截的な開始で、
それがそのまま主部になっているのか、
たいした展開なく、
孤独なメロディが流れるゆっくりした中間部に続く。
躍動感のある終楽章はヘンデルの組曲みたいな感じ。

Track8.「エジプト戦場のアルミルダ」。(1718)
この曲になると、明るくざわめきのある序奏から、
明快なメロディが流れだし、
序奏のざわめきもこのメロディも展開があって、
少し古典派の交響曲みたいに明快さが心地よい。
中間部は少し物語を語るような風情がある。
題名につられて、エジプト風にも聞こえる。

終楽章は短いが、メヌエット風で優雅であり、
かつ爽やかな風を感じさせる。

Track9.バヤゼット(1735)。
これもカークビーのCDで聴いた、ホルンも勇壮なもの。
もたもた感はないが、ゆっくりゆっくりやっているなという印象である。
大編成ゆえに弦の分厚さによる
ロマンティックな情感を期待したいが、
まるで学生オーケストラの練習に聞こえるのは残念。

終楽章はものものしく、唯一、納得できる内容。
二人の王が対立する、このオペラの雄大な背景を喚起している。

Track10.「オリンピアーデ」。
(オリュンピアス)(1735)。
このシンフォニアは、
CDの大詰めに置かれるだけあって、
ヴィヴァルディの序曲の中では、
規模と構想と個性の上で特筆すべきものである。

乱暴で猥雑な冒頭からして注意を引き付け、
続く主題も表情豊かで、期待感に満ちている。

中間部の悩ましい情感も印象的で、
終楽章は合奏協奏曲のような解放感で、
ヴィヴァルディならではの爽快さが聞き物である。

この演奏では鈴のように、
チェンバロが鳴り響き、典雅さを盛り上げている。

Track11.「ポントスのアルシンダ王妃」(1716)。
「オルランド・フリオーソ」(1727)の序曲でもあるらしい。

ついに最後の曲であるが、これまた、序奏に続いて、
ヴァイオリンの技巧的な独奏部がある。
いかにも、ヴィヴァルディがさっそうと指揮をして、
ヴァイオリンも演奏している様子が思い描かれる。

これも、がちゃがちゃ系の出だしであるが、
稀有壮大な感じの楽想が現れるのが素晴らしく、
ピッチカートを伴う中間部の、
幻想的な効果は素晴らしい。
この部分、たっぷりとして、
この時代のヴィヴァルディ解釈の、
最も美しいページであるような気がする。

終楽章は、チェンバロの装飾も美しく、
爽快で、優雅なメロディが快適である。

得られた事:「生涯を通じて、オペラの序曲は、類似品と書かれたヴィヴァルディであるが、私の聞いた印象では、初期の方が古典的で、後期のものほど、表現主義的な感じ。」
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by franz310 | 2012-10-28 18:16 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その350

b0083728_11242956.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディ後期の
貴重なオペラ、
「ウティカのカトーネ」
の中のアリアを収録した
CDアルバムとして、
2009年に出た
ジュノーのものを聴いたが、
それから15年前の、
カークビーの録音にも、
二曲が収められている。


イギリスのハイぺリオン
のもので、表紙も美しい。
ロイ・グッドマン指揮の
ブランデンブルク・コンサートが共演している。

ティエポロの描いた、
「アルミーダの魔法の庭における、
リナルドとアルミーダ」という絵画で、
ヘンデルのオペラにふさわしい表紙だが、
このCDと、直接関係があるとは思えない。

なぜなら、
「ヴィヴァルディ:オペラ・アリアとシンフォニア」
と題されたこのCDには、
「グリセルダ」(1735)、
「ティト・マンリオ」(1719)、
「離宮のオットーネ」(1713)、
「アテナイーデ」(1728)、
「バヤゼット」(1735)、
「ダリウスの戴冠」(1717)、
「ウティカのカトーネ」(1737)といった、
どちらかと言えば、歴史ものが収録されていて、
魔法的要素はなさそうだからである。

また、このアルバムは、
単なるオペラ・アリア集というより、
啓蒙的なヴィヴァルディの
オペラ入門みたいな選曲になっていて、
最初の作品として知られる、
「ヴィラにおけるオットーネ」(1713)から、
序曲と2曲のアリアが選ばれて、
後期の作品である、
「タメラーノ」(1735)の序曲に、
「ウティカのカトーネ」(1737)から
2曲のアリアなどと、
比較できるようになっているのである。

マントヴァ時代の「ティト・マンリオ」なども、
選ばれて、解説の中で、この時期についても、
触れられている。

また、同じく後期の「グリゼルダ」からも、
序曲とアリア2つが選ばれて並べられ、
さながら、短縮オペラ集の趣向になっている。

どうやら、この「グリゼルダ」などが、
イギリスでは早く復活していたようで、
ERIC CROSSという人が、
1994年に書いた解説も、
こんな風に締めくくられている。

「ヴィヴァルディの現代によるリヴァイヴァルは、
特に、彼の生誕300年だった1978年がきっかけになったが、
英国では、ただ、『グリゼルダ』だけしか、舞台にかかっていない。
このアリア集は、いくつかは初録音になり、
各曲の印象的な劇的なパワー、
そのスタイルの多様性について導きになろうが、
オペラ・セリアのジャンルについて共感するプロダクションによって、
いくつかの彼の最高作品が上演されて初めて、
ヴィヴァルディのオペラ作曲家としての重要性が、
正しく計れることになるだろう。」

ということで、約20年前には、
ヴィヴァルディのオペラ作品は、
まだ、保留状態にあったということが分かる。

では、解説を見て行こう。
啓蒙的なCDであるがゆえに、概括的で非常に勉強になる。
表現がシンプルなのも読みやすい。

「現在、ヴィヴァルディは、多くの器楽作品でよく知られているが、
彼はまた、多作のオペラ作曲でもあった。
1713年、35歳でのオペラでのデビューの時までに、
彼はすでに協奏曲の作曲家として、
国際的な名声を博しており、
これらの活動は残りの彼の人生においても並行して続けられた。
彼が何曲のオペラを作曲したかは正確にはわからないが、
ヴィヴァルディは1739年の手紙で94曲と書いている。
しかし、この数字は、ヴィヴァルディの誇張趣味もあり、
再演や、自身の作品や他人の作品の再構成作品も、
疑いなく含んだ数である。
しかし、50曲以上のリブレットが残っており、
20曲ばかりのスコアも残っていて、
ほとんどが完成作品である。
ヴィヴァルディがオペラに関わったのは、
単に作曲家としてだけではない。
彼は、その人生を通して、興行主としても活動した。
劇場を運営し、歌手と契約し、しばしば値切ったりもし、
自身の作品と同様、ほかの作曲家の作品も上演した。
事実、彼のオペラの契約は、ヴェネチアの外へも、
彼を多くの楽旅に旅立たせ、
ローマやフィレンツェのような中心地を離れ、
ヴィーン、たぶん、プラハにも赴いた。」

このあたりのことは、
ぜひ、いきなり全曲録音などを聴く前に、
読んでおくべきであった。

しかし、面白い事に、
ジュノーもカークビーも、
私が最初に聞いた、
「オルランド・フリオーソ」(1727)などは、
まったく無視した選曲を行っている。
また、ヴィヴァルディのオペラでは、
「テルモドン川のヘラクレス」(1723)
なども聞いたが、
いずれも、今回のCDでは手薄な、
1720年代のものであることが、
今回の解説で、改めて意識された。

「すべての現存するヴィヴァルディのオペラの序曲では、
作曲家は『シンフォニア』と題して、
彼の膨大な協奏曲同様、3楽章形式になっている。
『テンペのドリラ』では、シンフォニアの最終楽章が、
オペラの開始部のコーラスと同じ材料、
有名な『四季』の『春』の協奏曲の最初の部分を共用しているが、
これはただ一つの例外で、
普通、序曲とオペラに主題的なつながりはない。
事実、その手稿を見ても、
シンフォニアはタイトルページの前に置かれ、
また、前の作品のシンフォニアを、
いくつかのヴィヴァルディのオペラは流用している。」

こんな具合に、序曲の解説だけでもかなり手厚いのが、
このCDの特徴で、確かに、トラックが18あって、
3つの序曲用に9トラックが使われている。

「オープニング楽章が、3つの楽章では最長で、
性格的にはブリリアントである。
最初の主題は、ヴィヴァルディの協奏曲でよくある、
マルチストップの『スリー・ハンマー・ストローク』など、
ヴァイオリンのテクニックが目立つように利用され、
1735年の2つのオペラ、
『グリセルダ』と『タメラーノ(作曲家の自筆譜ではバヤゼット)』
では、これで開始される。」

こう書かれているので、聴き比べると、
確かにTrack1.の「グリゼルダ」も、
Track13.の「バヤゼット(タメラーノ)」も、
じゃっじゃっじゃっとはじまり、
同じ曲かと思ったくらいである。

が、「タメラーノ」では、勇壮なホルンが活躍し、
第2主題は木管で演奏されて、より古典的な感じがある。
「グリセルダ」では、より執拗な主題の弦楽による反復が目立つ。
それゆえに、もっとねちねちした感じがつきまとう。
したがって、ロマンティックな感じ、
と言い換えてもよいかもしれない。

「こうして、聴衆の関心を引いた後、
ヴィヴァルディは対照的な楽想を繰り広げる。
しばしば繰り返され、少し短縮され、
リピエーノ協奏曲と同様の構成となる。
需要な部分は、しばしばゆっくりと、短調で、
『グリゼルダ』では、半音的な進行や、
前打音アッポジャトゥーラが見られるのに対し、
『タメラーノ』では、高音の弦楽が持続音を続ける中、
驚くべきことに、低音にメロディが現れる。」

このように、二つの主題の対比で、
曲が緊張感をもって立体的に聞こえ、
ほとんど、交響曲の世界である。

「これら2つの序曲の中間楽章では、
典型的ヴィヴァルディで、
優しい短調のアンダンテが来る。
ハープシコードなしで、
低音の弦が鼓動のように繰り返す中、
ユニゾンのヴァイオリンが抒情的なラインを描く。」

これらの楽章では、ヴァイオリンの独奏が、
悩ましいトリルを聞かせて、
これまた、非常に似た双生児である。
Track2.の「グリセルダ」の方は、
何となく、物語を語り聞かせるような楽想で、
中間部は、ふと、現実に返るような楽想、
「バヤゼット」の方は、より内省的で、
中間部には、心やすめになる主題が出る。

「フィナーレは、生き生きとした、
三拍子の舞曲で、長調への短い回帰がある。
ここでも再びヴァイオリンはユニゾンで、
『タメラーノ』ではホルンだが、
短調の静かな中間部があって、
これがテクスチャーに加わる。」

Track3.の「グリセルダ」の方は、
野趣あふれるリズムが強烈で無骨。
Track15.の「バヤゼット」の方は、
ホルンの響きも牧歌的なメヌエット風である。

「初期のオペラ『離宮におけるオットーネ』の序曲は、
『タメラーノ』と同様例外的に管楽器を含む。
ここでは、しかし、ヴィヴァルディは、
2つのオーボエを採用、
その素晴らしい3度のソロ・パッセージは、
第1楽章で繰り返され、
より技巧的な独奏ヴァイオリンと交代する。」

Track7.の『オットーネ』序曲は、
明るく晴朗な感じで、誰にでも楽しめる。
非常に典雅なもので、上記オーボエもさることながら、
2つのヴァイオリンによる、
唐草模様のような装飾が美しい。

「第2楽章は、後年のシンフォニアの通常形と違って、
二部形式で、最初の半分は、ヴァイオリン伴奏のオーボエ、
そして、後半はヴァイオリンを補助するオーボエ付きの弦楽合奏。
同じ8小節の最初の部分はイ短調からイ長調に変えられて、
終曲のアレグロとなる。」

Track8.の第2楽章は、
ロマンティックな情感溢れ、
詩的なヴィヴァルディの芸術のエッセンスのよう。

「第1楽章の32小節のオーボエのパッセージが回想され、
3つの楽章が、珍しくも主題でリンクされる。」

Track9.の終楽章は、
単に、前の楽章を早くしただけだが、
まことに爽快で、爽やかな風のように、
吹き抜けてゆく。

この時代の、希望いっぱいのヴィヴァルディの、
心境を描き出したような感じもする。

このように、今回のこのCDの解説、
序曲だけで、かなりの語りが繰り広げられている。

私は、すでに、「離宮におけるオットーネ」を、
この欄で取り上げたことがあったが、
まさか、ほぼ処女作の方が、
むしろ多様な工夫がされているとは思っていなかった。

さて、このCDは、いきなり、
後期の作品「グリセルダ」から始まるが、
この作品は、この英国製CD発売時点で、
英国で唯一、上演されたヴィヴァルディのオペラだったようなので、
何か、代表作的な位置づけにあったということであろうか。

あらすじを見ても、
別に、この作品が特別なもののようにも思えないが、
ひょっとすると、オペラを離れても、
文学者として高名な、ゴルドーニがリブレットを担当したから、
みたいな理由があるのだろうか。

「『グリゼルダ』は、ヴィヴァルディのキャリアの終わりにかけて、
ヴェネチアのテアトロ・サン・サミュエレのために書かれたもので、
1735年、昇天祭のシーズン、5月18日に上演された。
この上演のために、ゼーノのポピュラーなリブレットは、
若い劇作家カルロ・ゴルドーニによって改作され、
彼のメモワールには、
当初、未知の作家の能力に懐疑的であった作曲家が、
ゴルドーニが筋に沿って、新しいアリアを作った時、
いかに、完全に納得させられたかが書かれている。」

このように、ゴルドーニとヴィヴァルディの出会いも興味深い。
このイタリアを代表する劇作家は、
1793年にパリで85歳で没するが、
あと、4年でシューベルトが生まれる年まで生きたわけで、
ヴィヴァルディとシューベルトの距離感が分かるような気がする。

「テッサーリアの王グァルティエロが、
どのように質素な小作農のグリセルダを、
自分の妻にしたかが語られる。
民衆の不安は、娘のコスタンツァが生まれたことによって、
頂点に達する。
反乱を抑えるため、王は子供は死んだことにして、
アテネに密かに送って育てさせることにする。
何年か後、グリセルダの忠節を試すため、
グァルティエロは、コスタンツァを街に呼び寄せ、
彼女は本当の身の上を隠し、
新しい妻にするようなふりをする。
第2幕の第2場で、コスタンツァは、
夫となるべき人への義務と、
幼馴染の恋人、ロベルトを巡る葛藤を語る。」

グリセルダより、コスタンツァの方が、
主人公のような書かれ方をしている。

「『アジタータ・ダ・ドゥ・ヴェンティ』(Track5.)は、
嵐の海に揉まれる船を、彼女の状況になぞらえる。
おなじみの比喩は、彼の『海の嵐』の協奏曲の、
生き生きとした描写を思わせる。
これは、同じアリアを、先立つ年に、
マルガリータ・ジャコマッツィが、
『アデライーデ』の中のマティルデ役で歌っていたので、
さぞかし人気のあるアリアだったと思われる。
名技的な声楽書法は、明らかに、
ジャコマッツィの印象的な技巧を万全に生かすように、
設計されていることは明らかである。
急速に繰り返される同様の音符、広い跳躍などが、
オーケストラのリトルネッロに彩られた声楽部に見られる。」

この素晴らしい飛翔を見せるアリアは、
ひょっとすると、ヴィヴァルディを代表するものかもしれない。
少なくとも、技巧の点ではそうだし、
音楽の推進力、上昇力の点でも、ものすごい効果を持つものである。

しかし、このカークビーの歌は、
歌のお姉さんが歌う同様みたいで、
人畜無害でひたすら明るいが、これでいいのだろうか。
歌に微笑みすら感じさせ、
まるで、苦悩の歌には聞こえない。

このアリアは、「Vivaldi AGITATA」と入れるだけで、
ネット上で大量の動画検索が可能であるが、
ジュノーも、バルトリも、複数聴けるが、
激しく突き上げるように高速で曲をドライブして、
切迫した状況をうまく表現している。

表情なども、微笑している暇がないほどに、
恐ろしくゆがみ切っている。

こう並べて聞くと、バルトリは、
その表現の多彩さにおいて新境地を拓き、
ジュノーのような世代が、そこに、
さらに柔軟さを加えていることが分かる。
スミ・ジョーの動画も見たが、
ちょっと優等生的で、カークビーに近い。
カバリエの歴史的ヴィヴァルディでは、
古典歌曲みたいな位置づけで歌われている。

ついつい、アジタータで足踏みしてしまったが、

「オペラの最後の幕では、ロベルトとコスタンツァは、
ぞっとしたグリゼルダによって発見されるが、
彼らが驚いた事に、グァルティエロは彼らを許す。
『虚しい影、不正な恐怖』(Track4.)という、
コスタンツァの優しいハ長調のアリアは、
息つく間もない中間部は、彼女の過去の苦しみを思い出させるが、
より幸福な未来を待望するものである。」

このような幸福を願うアリアは、
技巧と詩情が両立した極めて美しいもので、
カークビーのような清潔感で聞かせる歌手には、
よく合っているのではないだろうか。
中間部の狂乱の部分、
「もはや、こんな苦しみは耐えられません」も、
ちょっと影が差す程度である。

このCDの解説は、時代順になっておらず、
いきなり、初期から中期にかけての話になる。

「1718年から1720年に、ヴィヴァルディは、
マントヴァ宮廷の宮廷楽長に任命された。
まずは、オペラ興行に着手、
彼は、1718年と19年のカーニバル時期、
『ティト・マンリオ』や、『テウッツォーネ』といった、
自身のオペラの全権を握った。」

ということで、マントヴァ時代の作品が登場。
ヴィヴァルディは、この時代に、
生涯の盟友とも言うべき、
アンナ・ジローに会っているので、
とても気になるではないか。

「『ティト・マンリオ』は、このローマの執政官が、
反抗的なラティウム人に罵るところから始まる。
そして、息子や、ラティウム族の騎士、
ルッチオまでが従う。
彼は、ティトの娘のヴィッテリアを愛していたからである。
彼女は、しかし、ラティウムの首領、
ジェミニオを愛するがゆえに、そんな罵りに反抗する。
ティトは、彼女が祖国を裏切るなら、死ぬべきだと言う。」

この物語など、ティトをカトーネに、
ジェミニオをカエサルに置き換えれば、
ほぼ20年後の「ウティカのカトーネ」そっくりの構図である。
当時のオペラの筋は、20年くらい、
平気で同様のパターンだったようだ。

「第2幕冒頭のアリア、
『残酷さに惑わされてはならない』(Track6)で、
ルッチオはティトに娘への憐みを見せてほしいと乞う。
ヴィヴァルディの自筆譜は、
このCDにも収録されている『ダリオの戴冠』の、
『Non mi lusinga vana aperanza』というアリアを流用し、
新しい歌詞をつけたものだとわかる。
後者のアリアは、オーボエと通奏低音だけが伴奏し、
声に寄り添う独奏楽器の扱いを示した、
ヴィヴァルディの素晴らしい一例である。
二つの線は時に互いに親密で、特に三度に近づく。」

これは、この解説にあるとおりで、
夕暮れの空を仰ぎ見た時のような情感の
オーボエ協奏曲の第2楽章のような趣で、
声と、器楽の調和が、ものすごく詩的である。
カークビーの情念を超越した声が、
この場合、器楽の協奏曲にぴったりな感じ。
これは、極めてヴィヴァルディ的な世界と思える。

しかし、シューベルトにも、
木管のオブリガードを持つ歌曲やアリア、
宗教曲があるが、ここには、大先輩の傑作が聴ける。

この後、初期(1713年)の「離宮のオットーネ」の解説があるが、
これは、前に聞いたので少し省略。
このオペラから、以下の2曲が採られている。

Track10.には、
「嫉妬、すでにお前は我が心を地獄より恐ろしい状態にした」
というアリアも、ヴィヴァルディらしい活気に満ちた、
素晴らしい名曲であるが、この爽やかな歌唱から、
この恐ろしい歌詞を想起することは不可能である。

中間部で、不安を掻き立てる部分も、
ヴィヴァルディらしい詩的情緒が発散している。

Track11.の
「影よ、私の嘆きの木霊よ」もまた、
処女作にかけるヴィヴァルディ一流の才気が漲るもので、
素晴らしい木管やヴァイオリン独奏の活用、
木霊のような二重唱の効果がぞくぞくする。
ここでは、リリアナ・マッツァーリという人が、
木霊のような、恋人の声を受け持っている。

恋人同士の木霊のような二重唱といえば、
ロッシーニの「試金石」が思い出されるが、
ここでは、あのような洒脱さはなく、
何とも、恐ろしい、悲しい性の、
詩的絵画のようなものになっている。

以下、1720年代の作品についての解説となる。
中期の脂ののった時期であろうか。
(こんなことはどこにも書いていないが、
1710年代、20年代、30年代という区分では、
そんな風に当てはめられるように見える。)

「『グリゼルダ』同様、『アテナイーデ』は、
ヴィヴァルディが、
ゼーノのテキストにつけた、
数少ない作品の一つである。
ヴィヴァルディのオペラの、
1720年代半ばにローマで人気によって、
多くの劇場が彼に委託したが、
1727年の初頭には、『ヒュペルメストラ』が、
フィレンツェのペルゴラ劇場で上演された。
その成功を受けて、翌年の12月には、
『アテナイーデ』が初演されたが、
これはあまり評価されなかった。
批評家は、特に、
プルチェリアの役を歌った
ヴィヴァルディの被保護者、
メゾ・ソプラノのアンナ・ジローを非難した。」

まさか、ここに来て、
アンナ・ジローが出てくるとは思わなかった。
というか、待ってました、という感じだろうか。

とにかく、ここでは、
1720年代のオペラの代表として、
「アテナイーデ」が取り上げられている。

「アテネの哲学者の娘、アテナイーデは、
ペルシアの王子、ヴァラーネの愛情から逃れるため、
コンスタンティノープルに逃れていた。
彼女は今や、偽りの名前、エウドッサとして、
皇帝テオドラシス二世と婚約している。
しかし、ヴァラーネは彼女をコンスタンティノープルに追い、
アテナイーデは、彼らを選ばなければならない。
彼女はテオドラシスへの忠誠を決め、
その証拠として彼に送った宝石は奪われ、
彼女の知らないところでヴァラーネに送られてしまう。
このように、第3幕では、テオドラシスの妹、
プルチェリアに裏切りを責められ、
驚いた事に、彼女は皇帝に拒絶され追放されてしまう。」

ヒロインが、ここまで、追い詰められるのは、
ロッシーニのタンクレーディなども同様で、
このような趣向は、20年どころか、
一世紀以上も続いていたということであろう。

が、せっかくアンナが出て来たのに、
彼女が歌った歌ではないところが物足りない。
プルチェリアの歌も収めるべきであろう。

「彼女は、その苦しみを、劇的なシェーナ、
『待って、テオドラシス、聴いて』(Track12.)
で吐き出す。
これは単純なレチタティーボと、
伴奏つきのレチタティーボと、
アリオーソとのミックスでなり、
その柔軟な様式は、
ヴィヴァルディというより、ヘンデルを思わせる。」

とあるが、確かに、9分を越えるアリアで、
まさしくヘンデルの「アルチーナ」の
「わが心」などを思い出す情念の大作となっている。

「彼女は、テオドラシスに行かないでといい、
彼はぶっきらぼうに立ち去って、
それがハ短調で終わる
短い6小節のラメントの引き金となる。
伴奏つきレチタティーボの劇的な部分に続き、
彼女は、自らの運命と皇帝の追放命令を思い出す。
それから、攻撃的なアレグロ・モルトは、
時折、無垢の愛を思う優しいラルゴが、
散りばめられているものの、
逃げることを決めたような、
声楽にも弦楽にも16分音符が敷き詰められた、
狂ったようなプレスト部を導く。
最後は、短いレチタティーボ部の後で、
彼女は、貧しい羊飼いのような、
追放の人生を受け入れて、
異常なヘ短調、
無慈悲なシンコペーションのリズムで、
フルスケールのダ・カーポ・アリアを開始する。」

まさしくここに書かれているような、
素晴らしい変幻の妙を見せ、
シューベルトの「フィエラブラス」などの、
後半を盛り上げる、メロドラマの融合なども、
こうした前例があると考えてはならないのだろうか。

まさしくこのCDの頂点を極めるのにふさわしい名曲で、
圧巻と言ってもいい内容だが、
カークビーが歌うと、むしろ、時代をさかのぼって、
モンテヴェルディのマドリガルみたいな感じにも聞こえる。
意外にも、そうしたルールを掘り当てた歌唱なのかもしれないが。

「ヴィンセンツァでの、
オペラ作曲家としてのデビュー後、数年は、
ほとんどのヴィヴァルディの劇作品は、
故郷のヴェネチアで上演された。
1717年の『ダリウスの戴冠』の中で、
オロンテは、人々に人気のあるハンサムな青年で、
キュロス王の死後の3人の後継者候補の一人である。
流血を避けるため、高潔なダリウス(候補者の一人)は、
キュロス王の長女のスターティラを娶った者が、
王冠をも受けるべきだと提案する。
第2幕6場で、太陽の神託によって承認され、
アポロとオロンテは、
アリア『虚しい希望で悩ませないで』
(Track16)の中で、
自分が選ばれることを願う。
この忘れがたいシチリアーノは、
オリジナルは、カストラート、
カルロ・クリスティーニによって歌われ、
ヴィヴァルディの初期オペラの様々な特徴を示している。
オープニングのメロディの間合い、
ナポリ6度の頻繁な利用、
低音楽器を使わないで、
声楽が活躍する部分の伴奏を、
軽やかにしていることなどである。」


続いて、「ウティカのカトーネ」の解説があるが、
このオぺラもここで取り上げたので、
すべての解説を訳出はしない。

Track17.は、第2幕5場で歌われる、
「顔に風を感じたら」というアリア。
政敵カトーネの娘、マルツィアから、
カエサルが、父との和平を促された時のもの。
ソプラノ・カストラートのロレンツォ・ジラルディのために書かれた。
弱音器付のヴァイオリンと、
ヴィオラのピッチカートを伴う雰囲気たっぷりのもの。
ここでは、カエサルは愛に酔いしれているので、
カークビーの澄んだ表現は好ましい。

Track18.は、戦争を想起させる、
「戦場で、我を試せ」。
トランペット付の勇壮なアリア。
カークビーは、カストラート役を担える感じではないが、
どれもこれも格調高く、音楽的に高水準、
飽きさせない、安心できる完成度の高い歌唱である。

グッドマン指揮のブランデンブルグ・コンソートも、
全編を通じて、作為なく充実した演奏を聞かせている。
分かりやすい解説も良かった。

得られた事:「鑑賞上の仮説。ヴィヴァルディオペラ作品、1710年代(初期)は器楽の比重が高く詩的、1720年代は実験的、1730年代(後期)はナポリ派的な明晰な技巧勝負、といった感じ。別途、検証を要するが。」
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by franz310 | 2012-10-21 11:28 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その349

b0083728_18495011.jpg個人的経験:
1739年と40年、
謝肉祭のシーズンに、
アルプスを越えて、
はるばるグラーツでも、
上演されたという、
ヴィヴァルディ
最晩年のオペラ、
「ウティカのカトーネ」には、
多くの素晴らしい
アリアが含まれているが、
あまり有名とも思えない。
そんな中、
このジュノーのCDは、
そのアリア2曲を収録。


今回、ここに示したのは、
Virginレーベルから出たCDの裏面であるが、
真紅のたっぷりとした生地の衣装をまとったジュノーが、
ちょっと、いつものボーイッシュなイメージとは、
違った感じで映っている。

髪の毛の盛り上がり方も尋常ではない。
よく見ると、ヴァージン・クラッシックス・クラブの
ホームページに行くと、ボーナス・マテリアルが見られるとある。
さっそく、レジスターして入ってみた。

トップページには、別に、そんな案内はない。

せっかく登記したので、やみくもな感じで、
演奏家の中から歌手、ジュノーと選び、
さらにこのCD表紙写真をクリックすると、
下記のような能書きと、動画の画面が出て来た。

「ヴェネチアのうららかな湾は、
アメリカの最北の寒い海からは遠いが、
アラスカ生まれのメゾソプラノ、
ヴィヴィカ・ジュノーは、
現在ヴェネチアの近くで暮らしており、
彼女は、ヴィヴァルディをよく取り上げる。
ヴィヴァルディのアリアを集めた、このアルバムは、
その1ダースぐらいのオペラから選曲され、
初録音のアリアも5曲含むものだ。」

なぜ、彼女がヴェネチアの近くで暮らしているかと言うと、
彼女の夫がイタリア人だということだ。
インタビューで、彼女が答えている記事がネット上にあった。

ヴァージン・クラシックスのこのCDのPRのページ、
動画の方は、奇妙な構成で、同じものが続けて入っている。

最初の方は字幕なしで、
後半が英語字幕付きになっている。
極めて美しい映像で、イタリアの古い町並み、
古い教会での演奏(収録)風景などに、
インタビューが挟まれる。

指揮をしているビオンティは、
「ヴィヴァルディの才能のショーケースのような録音だ」
といい、
ジュノーは、
「それはとてもリリカルだが、一面、ハッセのようにけばけばしい」
などとこれらの収録曲を形容し、
本当に、この録音でいいものをたくさん発見した、
みたいなことを語っている。

教会の回廊を回るジュノーは、ロングヘアだが、
録音時には、髪を束ねているのであろう、
いつものボーイッシュな雰囲気になっている。
「バヤゼット」の付録のDVDを見た時にも、
こりゃあ、すごい歌い方だと感じ入ったが、
これは今も健在だ。
エピソード的に子供が出て来るが、
彼女の子供であろうか。

とにかく、これは良いCDを手に入れた、
という感じがするプロモーションで、
非常に満足した。

実は、私は、このCDにおけるジュノーの声は、
ちょっと抜けが悪いような気がしていたが、
この映像を見ると、それ以上の価値があると感じられた。

また、このホームページには、
ニューヨークタイムズが、
「名人芸のレパートリーが彼女のトレードマーク」
としながら、
この歌手を評した時の記事を引用している。

「彼女の声は、彼女の外見同様、イケている。
明るく自由な高音や豊かなチョコレートのような低音が、
削岩機のようなスピードで、
マシンガンのような正確さから、
春の雨だれのような不規則な連続性まで、
彼女の繰り出すコロラトゥーラの流れに譲るにしても。
ジュノー自身が言っている。
『バロック音楽では、声楽とオーケストラの相互作用が好き。
オーケストラは単に伴奏するだけでなくて、
歌手が言おうとしていることに句読点をつけ、
真の意味での器楽との競演になるから。』」

さて、このように、
素晴らしい聴きどころ満載のアルバムであるが、
何しろ、ヴィヴァルディの碩学、
デラメアの解説なので、語られることも多く、
前回は半分しか聞き進むことが出来なかった。

今回、めでたくもノーベル賞を取った山中教授は、
見ちゃおれんほどのハードスケジュールで、
飛び回って取材や講演や方々での会見に忙しいが、
私は一枚のCDを聴くのに、時間ばかりかかっている。

何年か前に、私は教授の講演を真ん前で聞いたことがあったが、
非常に精力的な人であることはすぐに感じられた。
早く特許を整備しないと、競争に負けてしまうと、
しきりに訴えていた頃である。
まだ、研究所が出来るとか、出来ないといった時期である。

ただし、あの時には、ノーベル賞という言葉は、
まるで想像していなかった。
そういう意味では、ものすごい速さの受賞であった。
特に、文学賞を逃した村上春樹氏とは対照的な印象だ。

それはさておき、前回はTrack7.まで聞いたので、
今回は、Track8.から聞いて行きたい。

このオペラ「ファルナーチェ」からのアリアは、
「いや、戦士にとって愛は弱みではない」などという、
レチタティーボから入っている。

「『ナイチンゲールの孤独な歌は』は、
もともと、『メッセーナの巫女』のために書かれたものだが、
『ファルナーチェ』の後のバージョン(フェラーラ、1738年)
でも使われている。
『ファルナーチェ』では、ベレニーチェ軍の司令官、
ギラダによって歌われ、
兵士たちと女王との対立が続く。」

これだけだと、なんのことやらわからないが、
王女というのは、ベレニーチェのことである。
ヘンデルのオペラに「ベレニーチェ」というのがある。

とにかく、この歌い手、司令官のギラダは、
恋人を亡き者にしないといけない状況のようだ。
残念ながら、ギラダという人はヘンデルの作品には、
登場しないようである。

とにかく、そうしたムカつきから、
上述の対立になる、という図式なのであろう。

「ギラダは、ベレニーチェから殺すように言われた、
ゼリンダへの愛に思いを巡らす。」

とあるように、レチタティーボは、
ギラダは、ベルニーチェからの命令で苦しんでいる。

「田園的な哀歌のスタイルで、
アルカディアの木立で鳴くナイチンゲールの、
伝統的な比喩が採用されている。
『ナイチンゲールの孤独な歌』は、
技巧的困難さに満ちているが、決して、
声の体操のために表現が犠牲になることはない。
ヴィヴァルディはしかし、
単に困難なパッセージを書いただけでなく、
(このアリアを歌手にとっての難関としているのだが)
彼のペンから生まれた最も身を切るようなメロディを、
作り上げることに成功している。」

主部は、こうした緊迫した状況にふさわしくなく、
ちょこちょこした、かなり愛らしい感じのメロディである。
テオルボだかの撥弦音も愛らしい。

「ナイチンゲールは、枝から枝へと、
友を求めて呼ぶ」と歌詞のとおりに、
さえずりを取り入れたコロラトゥーラである。
「何という残酷な運命と言いながら」と、
しなやかな陰影がある。

ただし、中間部は、緊迫感を増す。
歌詞は、
「愛する答えが森の奥から聞こえ」という部分の、
胸の高鳴りを示す。

「浮き浮きした気持ちで枝伝いに歌いながら行く」
という歌詞が続く。

このように、歌詞の内容を見ると、
ベレニーチェも、ファルナーチェも、
メッセ―ニアの巫女も関係ない。

Track9.
このアルバムを聴いて、私が、一番、強烈に思ったのは、
この曲の、蒸気機関車のようなリズムの推進力で、
エキゾチックで、情念に満ちている。

「再び感情が支配するのは、
『ティト・マンリオ』の第二版(1720年ローマ)
からのコロラトゥーラ『私の美しい太陽はまだ』である。
ローマの慣習上、カストラートによって歌われた、
女性役サーヴィラによって歌われるもので、
若い女性が、
執政官ティートの命令を拒んだことによって捕えられ、
鎖に繋がれた、愛するマンリオと会う支度中の歌。
この差し迫った状況の悲劇的雰囲気は、
はっきりと、この不安な作品で示唆され、
ヴァイオリンとヴィオラのなだらかなラインと、
旺盛で間断ない低音の16分音符のコントラストが織りなす。
セルヴィラのパートは、しなやかに波打ち、
デリケートなコロラトゥーラのパッセージで強調されている。
これは、ヴィヴァルディが、1720年代初頭に、
カストラートの声の扱いを、
完璧にこなしていたことの例証である。
この心打つラメントでの火花は、
比較的、自制的であり、ドラマに完全に奉仕している。」

歌詞は、「美しい太陽をまだ見ない。
西にそれが沈むと、その光を私はまた崇める。」
などという、単純なものである。

Track10.
「忠実なロズミーラ」からの「悲しみを語りましょう」。

次のアリアもなだらかなメロディーラインに、
夢見るような感じだが、
晴朗なイメージ、ギャラントな感じもする。
「私の唇から、悲しみの言葉を。
私の心にそれは返り、
より、痛みを増す木霊となる。」

中間部では、切迫感を増し、
「つぶれる胸は、ただ、ため息の間に喘ぐばかり。」
と、極めて内容はただ事ならぬ状況。

コロラトゥーラは、一節ごとに、
控えめに付けられて行く感じだが、
最後に華麗な見せ場がある。


「『私の美しい太陽はまだ』は、
欠くことのできないマルゲリータ・ジャコマッティが、
『忠実なロズミーラ』(1738年ヴェネチア)の中で歌った、
『悲しみを語りましょう』のような、
ヴィヴァルディ後期のジャンルに見られるような、
洗練からは遠い。
ここで王子アルセースは、
ロズミーラに、恐れながらもつつましく、
愛を打ち明ける。
このドラマティックな文脈の中、
様々な当惑の表情を見せる。
パルテノペ女王を選んだことで、
すでにロズミーラは裏切られており、
彼が拒絶した女主人が、ライヴァルの宮殿に、
男装して突然現れ、
彼女な気まぐれな求婚者に、
上品な復讐をしようとしていていることに、
対処しなければならない。」

「感動的な自制された愛の歌は、
王子の恐れと罪の意識にあふれ、
『悲しみを語りましょう』は、
優美なラルゲットで、
フレーズのギャラントな変更によって、
声楽ラインは木目が細かい。」

Track11.
いよいよ、ヴィヴァルディ晩年のオペラ、
「ウティカのカトーネ」からのアリアが聴ける。

これは、豪壮なホルンの響きが雄大な、
手負いのライオンの最後をを描いた歌で、
独特の風格と聞かせどころを持っている。

レチタティーボもついていて、
「私と同じような不幸があって?
多くの人たちには、嵐は収まる時が来る。
闇も明るくなる。
私にだけ、運命は容赦なく、
永遠の夜、永遠の嵐が続く。」
などと、言っている。

「『ウティカのカトーネ』のエミーリアの最後のアリア、
『森の中の最後のライオン』では、再び、
見世物芸が中心に来る。
弦楽オーケストラと二つのホルンのために書かれ、
この壮大なヘ長調のナンバーは、
カエサル暗殺のエミーリアのたくらみが潰えた所で歌われる。
計画のほつれで挫折し、
エミーリアは、自身の苦痛を、
致死の深手を負ったライオンのそれになぞらえ、
その呻きは、風が森中に伝えて行く。
『鳴り響く』(ファ・リーソナール)という言葉の、
長いコロラトゥーラのパッセージは、
傷ついた野獣の叫びを鮮やかに示唆し、
ホルンの呻きと遠吠えによって、
そのイメージは強化される。」

ホルンの豪壮さは明らかだが、
声の方の表現も、
「ファ・リーソナール、
ファ・リーーーーーーソーーーーナーーーール」
という感じか。

Track12.
「『お前はかつて女王だった』
もまた、勇壮な花火となる。」

これも「ファルナーチェ」の中のもの。
Track8.はジラーダのアリアだったが、
こっちは王様ファルナーチェ自身のアリア。

「名技的なヴァリアントが聴かれ、
オリジナルからの改訂がある、
『ファルナーチェ』の、
後のバージョン(1738年フェラーラ)から。
恐ろしく困難な声楽パートは、
おそらくカストラート用であろう。
オペラの最初で、傲慢な王様、ファルナーチェは、
妻、タミーリに、子供を殺して、
自殺せよと言う。
彼は、妻の母親、ベレニーチェに敗れたのである。
このアリアでは華美なコロラトゥーラのパッセージが、
キーワード『主権』(マエスタ)や、
『妬み』(ジェロサ)を強調する。
これらの許、彼は集団自決を迫られており、
誇大妄想的な君主のポートレートを描き、
辱めによって、さらに傲慢に、
駆り立てられた様子が表されている。」

序奏部は、楽しい協奏曲の始まりのようだが、
内容は、このようにえげつないものだ。

「お前はかつて、女王であり、
母であり、妻だったことを思い出せ。
油断なく(ここでジェロサ)誇りを護るべきだ。
お前の身分(ここで、マエスタ)からして。」

ここで、私は知ったのだが、
英訳の詩句の順番と、イタリア語の順番が、
入れ替わっている。
英訳は、「お前の身分(statue)から、
護るべきだ」と書かれているのに、
節の最後に、マエスタああああああ、マエスタ、
と言っているからである。

ということで、これまで、
英語訳の最初を題名として扱っていたが、
間違っている可能性が高い。

楽しげにも聞こえる、
追い詰められた王様の歌であるが、
「痛々しい奴隷の鎖より、
この哀れみ深い残酷な仕打ちに従うのだ。」
という、詩句後半部(音楽では中間部)の冷徹な音楽は、
この状況を明らかに表している。

「思い出せ」の、「リコーダティ」もやけに耳に付く。

Track13.
ここでは、美しい木管の序奏が、
夢のように美しい情景を想起させるが、
この推進力あるリズムは、
まるで、広々とした草原を馬車で行くような感じだ。

最も、当時の馬車は地獄の難行であったようだが。

それをデラメアも意識しているのであろう。
このアルバムの最後に持ってきて、
「ヴィヴァルディが書いた最も美しいアリアの一つで、
この名人芸集の最後を華々しく締めくくる」
と書いている。
題名は、『静かな広がりの中ででも』か?
「Sin nel placido soggiorno」とある。

「祝福された、永遠のエリジウムの
静かな広がりの中ででも、
私の魂はあなたに憧れる。」
という前半部(主部)は、
私のイメージ通りの歌詞で、
ヴィヴァルディの描写力、
イメージ喚起力のすごさを見せつけられる。

それにしても、なんという、雄大な風景であろう。
底知れぬ蒼さの大空を、悠々と、
飛行しているような気持になる音楽だ。

少し、陰影を宿す中間部は、
「しかし、私の死んだ兄の冷たい影が、
私をただ、脅すのだ」と歌われており、
のっぴきならない状況だとわかる。

では、急いで、興奮して解説を読んで見よう。
「ホ長調のアンダンテ・モルトで書かれた、
この興味深いスコアは、
『裏切られ復讐した忠誠』(1726年ヴェネチア)
のために作曲されたヴァリアントである。
半分は愛の宣言で、半分は、復讐の叫びである。
この作品から、ヴィヴァルディは、
その魔術的な大火災のような、
花火の打ち上げを開始する機会を得た。
最初のパートの神秘主義から、
第二部の陰鬱なカオスに進み、
ここで、ヴィヴァルディは、
その花火師としての真髄を開陳する。」

もう、解説者も興奮のさなかにある。
最後の一文は、難しい単語が、
それこそ花火のように繰り出され、
訳す方もへとへとになる。

「燃えるように、圧倒的に、無比。
これは、彼の全作品の小宇宙である。」

ここまで熱くなって解説されたものは、
二度に分けて、注意深く聞き進んだ甲斐があったというものだ。

が、結局、この歌い手は、
兄を殺した女を愛してしまった、
という設定なのだろうか。
そのあたりの事が書かれていないのが不満である。

なお、このCDは、発売3年を経た現在でも、
ネット上で激安で売られているが、
いったいどうしたことか?

ジュノーは人気のある歌手だし、
ヴィヴァルディ・ルネサンスは、
息切れ気味なのだろうか。

日本では、「四季」の作曲家から、
いや、大島真寿美の小説からして、
「調和の霊感」あたりから、
あまりヴィヴァルディ探求は進んでいないようにも見える。

こうしたアリアをやるコンサートがあれば、
ぜひ、出かけたいと思うが、
まったく、そんなイベントは見当たらない現状である。

裏表紙には、先のボーナス・マテリアルの他、
www.vivicagenaux.comとか、
www.europagalante.comとか、
宣伝がいっぱいなので、大量に売りさばいて、
これらのプロモーションを狙ったのかもしれない。

ジュノーのサイトには、彼女は、昨シーズンの秋も、
ヴィヴァルディの「ファルナーチェ」などに出演したとある。
今頃は、フランスでカルメンを歌っているとある。

得られた事:「ヴィヴァルディは(というか、当時の習慣か?)、歌詞のキーワードに強烈なコロラトゥーラを付けて強調した。」
「ヴァージン・クラシックスのネット誘導作戦、満足度高く、さすがだ。ボーナス・マテリアル良し。」
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by franz310 | 2012-10-13 18:52 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その348

b0083728_16395727.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディの
晩年のオペラ、
「ウティカのカトーネ」は、
第1幕に欠落が
あるせいか、
あまり知られていない
作品となっている。
ヴィヴァルディの
アリアを集めた
CDなどにも、
この中のものが
含まれることは稀である。
しかし、ここに聞く、
ジュノーのCDは違う。


いきなりTrack1に、
「ウティカのカトーネ」の、エミーリアのアリア、
「荒れた海原が岸を打ち付け、岩を叩きつけようとも」が、
収められているし、
Track11にも、
同オペラの中でも屈指のアリア、
やはり、エミーリアによる、
「森の最後のライオン」が収められているのである。

さらに、マルゴワールが、
「カトーネ」の1幕を補筆した時に、
引用してきた、ヴィヴァルディのオペラの断片、
「セミラーミデ」からのアリア、
「囚人として、王として」が、
Track2に収められてもいる。

このCDは、2009年のもので新しく、
しかも安く出回っていたので、
「ウティカのカトーネ」の雰囲気を、
少しでもいいから味わいたい人には、
良いかもしれない。

表紙もゴージャスだし、
超絶の技巧の持ち主とされる、
ヴィヴィカ・ジュノーの歌と、
ビオンティ指揮のエウローパ・ガランテの、
活力ある演奏の激突が味わえる。

タイトルの「PYROTECHNICS」は、
花火技術とか、打ち上げ花火という意味であるが、
まさしく、花火のような作品が、
どんどん打ち上げらて行くCDだ。

ジュノーの声は、しかし、花火というほど華やかではなく、
どちらかというと陰影を生かした感じであるから、
ど派手なものではなく、飽きが来ない。

このCDについては、ジュノー自身、
かなり、作るのが嬉しかったようで、
ブックレットを開くと、
こんな事が書かれている。

「『打ち上げ花火』!
その喜ばしい音階、アルペッジョ、
跳躍、トリルの稲妻が、
物思いのため息がデリケートに
蔓のように絡み付いてやわらげられ、
再度、爆発的感情で解決されるといった、
バロックスタイルの完璧な要約。
このヴィヴァルディのアリア集は、
いくつかは世界初録音で、
その華麗なスタイルの全領域をカバーしている。
これらの音楽の構成も設計も、
いつか、誰かが私に言っていた、
『噴出するバロック』を表している。
この華麗さは、洗練された基礎の上に重ねられた、
金細工の装飾のようで、
私がバロック期のもので大好きなところ。
ヴァイオリンの名手ファビオ・ビオンティと、
活気にあふれた、エウローパ・ガランテと一緒に、
この音楽を発見していったことに、
私は特に本当に興奮しました。
ヴァイオリンと声の競演は、
ヴィヴァルディの高度に技巧的で、
器楽的な書法によるもので、
ビオンティの共演のおかげで、
私の興味は常にひきつけられました。」

そして、最後を、こう締めくくっている。

「フレデリック・デラメアの、
このプロジェクトに対する驚くべきリサーチに、
また、この機会を与えてくれたヴァージン・クラシックに、
ビオンティさんの無限のエネルギーとイマジネーション、
そして、師クラウディア・ピンツァの愛と献身に、
感謝を込めて。」

ということで、ヴィヴァルディ研究の権威、
デラメアにも賛辞が贈られているが、
解説も、この人が受け持っている。

「ヴィヴァルディのファイヤーワーク」
と、またまた、花火になぞらえた題名のもの。

この解説が、コロラトゥーラなどについて、
改めて概説してくれているのが嬉しい。

「グレゴリオ聖歌の即興的なメリスマ以来、
コロラトゥーラは、西洋の歌唱芸術の基本要素であった。
聖オーガスティンは、この歌唱の『感謝の賛歌』様式を、
言葉より強すぎるという感想を書いていた。」

とあるように、最初から、この技法は、
言葉との相性が悪い事が明記されている。
詩の言葉を重視するシューベルトの歌曲などで、
これがあまり出てこないことは、
当然、ということだろうか。

「しかし、アカデミー・フランセの辞書が、
『言葉のない声楽のパッセージワーク』と記述したものは、
イタリアのバロックオペラの声楽技法を新しい高みに至らせた、
高名なカストラート歌手たちの卓越した技量によって、
18世紀にようやく最盛期を迎えた。」

この文章も味わい深い。
極めて特殊な歌手であった、
カストラート歌手の必殺技が、
コロラトゥーラであり、
これが、最盛期を導いたというのである。

特殊な状況下で、
音楽は、特殊な状況に追い込まれ、
遂に、未踏の世界に突入したという感じであろうか。

「『音楽劇』の長期間にわたる王国を通じて、
アルペッジョ、スケール、トリル、スタッカート、
そしてパッセージワークは、
ブラヴーラ・アリア(シャルル・ブロスは、
その『イタリア書簡』で、それらを、
目もくらむような声のための音楽と和声に満ちた、
見世物アリアと呼んだ)を輝かせ、
それを正真正銘の声楽の花火大会にした。
これらのアリアでは、
歌手たちの名技性は、オーケストラのそれと拮抗し、
ある時は決闘を演じ、それから、
コロラトゥーラは、オペラの見世物の
メイン・アトラクションとなった。」

ということで、その特殊領域は、
ある意味、袋小路であった、という感じがにじみ出る。

「この連続は、必然的に超過を引き起こし、
多くの作曲家たちが、劇の要求を無視して、
名技性のみを目的とし、
美を越えた空虚なスペクタクルにする罠にかかった。
このようなオペラは、
息を飲む声楽の見世物の連続みたいなものになってしまった。
『それはもはや、情熱を呼び起こし、
補足する人間の声を描いたものではなく、
ナイチンゲールやカナリアの声を真似たものである」と、
コンティ師は1729年のヴェネチアの謝肉祭に書いている。」

これは、確かに異常な進化であったようだ。
が、ふと、このような状況に、
器楽奏者としてのヴィヴァルディのセンスが、
マッチしたような気もした。

「長期間、こうした超過は、
名技的なイタリアオペラを傷つけ、
モーツァルトなども、
『後宮からの逃走』のアリアを書いた後、
父親に書いた手紙で、
『イタリアのブラヴーラが許す限りで、
彼女の感情表現を試みました』と書いている。
18世紀前半のオペラ・セリアを盛り上げた、
この技法の乱用にもかかわらず、
この重要な声楽ジャンルを、
普遍的に非難させるまでにはならなかった。
『打ち上げ花火』のスタイルは、
メジャーなアート・スタイルになり、
その発展と完璧を目指すために、
多くの輝かしい音楽家たちが、
コロラトゥーラを新しい高みに導き、
音楽のための劇の重要な声楽形式の中心となった。
これらの作曲家にとっては、
名技性は、空虚なものではなく、
逆に、ドラマに生気を与える重要な要素となり、
台本作者によって示唆されたテキストから、
作曲家による強調が始まるポイントとなった。
意味のない発展ではなく、この花火は、
声楽のジャンルの典型として美学となり、
ありふれたリアリズムの拒否となった。
これをヴィヴァルディ以上に実践した作曲家はいなかった。」

ということで、さすがヴィヴァルディおたくのデラメアさんである。
コロラトゥーラ芸術の極致に、ヴィヴァルディを置いた。

「ヴィヴァルディは、その音楽キャリアを、
この故郷ヴェネチアの劇場の外から始め、
ピエタ養育院での教育者と、
ヴァイオリンの名手としての二足のわらじを履いた。
しかし、すぐに、器楽曲の作曲家として名をなし、
それから宗教曲に進んだ。
1713年5月(彼の最初のものとされるオペラ
『ヴィラのオットーネ』の初演)以来、
声楽曲は、彼の作品の主たるものとなり、
30年近くにわたり、北イタリアの劇場、
ミラノのレッジオ劇場やフィレンツェのペルゴラ劇場、
ローマのカプラニカ劇場といった最も栄えある劇場から、
パヴィアのオモデオ劇場やアンコナのフェニーチェのような、
地味な舞台までをまわり歩いた。
イタリアの北、プラハ、ハンブルグ、ヴィーンやグラーツや、
はるか遠くのロンドン、キングス・シアター
(ヘンデルの『テーセオ』と『アマディジ』の間で上演)
まで、ヴィヴァルディのオペラや個々のアリアは、
すぐに評価され、同様の成功を収めた。
この長い劇場キャリアは、ヴィヴァルディの死後一年、
1742年の謝肉祭に演じられた
『メッセ―ニアの巫女』の演奏で、頂点に達した。
この二つのランドマークとなる年の間に、
音楽史上、最も傑出したオペラのキャリアにおいて、
ヴィヴァルディは、アレッサンドロ・スカルラッティや、
ラインホルト・カイザーの後を継ぎ、
カルダーラ、ハッセ、ヘンデルに先だって、
最も多産なオペラ作曲家となった。」

ということで、さすがデラメア、
ヴィヴァルディのオペラ作曲家としての活動を、
音楽史上の快挙に位置付けてくれているではないか。

しかも、野垂れ死にしたはずのヴィーンで、
死後に、その名声の頂点を画したというのが、
ものすごい解釈ではなかろうか。
多くの愛好家は、死後、すぐに忘却の淵に沈んだ、
と思っているはずである。

「この重要な作品群で、何が残っているかを調べると、
ヴァイオリンの名手として名声を馳せた
ヴィヴァルディの到達点が分かり、
特にその華々しいスタイルとリンクして、
歌手の声が、あたかも、
人間ヴァイオリン(human violin)として、
声楽作品で扱われているのが分かる。
しかし、この検証によって、
何よりも、彼が、単なる声楽のアクロバットのレベルに、
歌うことを貶めるのを拒絶していたこともわかる。
彼のキャリアの最終段階に至るまで、
彼は並ぶものなき技巧と、
表現の多彩さのせめぎ合いを求めており、
直接的にその協奏曲から霊感を受けた
洗練されたオーケストラのテクスチャーに包み込み、
劇の要求に従うことを保証していた。
ここに聞かれるアリアたちは、
ヴィヴァルディの異なるフェーズや形式の、
声楽花火を表しており、
これは、広い感情の振幅、劇的な状況、
驚くべき多彩さの管弦楽、
調性やテンポを追及したジャンルであった。」

ここからは、個々のアリアの解説となる。

Track1.
「『荒れた海原が』は、オペラ、
『ウティカのカトーネ』(ヴェローナ、1737年)の中で、
メゾ・ソプラノのジョヴァンナ・ガスパリーニが
歌うために書かれたもの。
このヴィヴァルディの高度な名技主義は、
ポンペイウスの未亡人エミーリアが歌うものである。
貴族的で気位が高い彼女は、
カエサルへの復讐方法を考えて、
何ものも彼女の目的を阻むことはできないと言っている。
アリアは、ハ長調、印象的なアレグロ・モルトで、
ここでの花火発射は、ドラマに必要なものである。
声の稲妻は、2オクターブを越えて、
超絶のコロラトゥーラ・パッセージは、
『恐れさせる』という言葉で絶頂に達する。
12小節にわたって二度、転がり回り、
恐怖から決断に至るエミーリアの動揺を、
素晴らしく陰影をつけられた声楽運動が描き出す。」

なるほど、こうやって書かれると、
どれどれ、と聞き返したくなる。

「海原が荒れて岸を打ち付けても無駄なように、
カエサルの誇りも、私を恐れさせることはない」
という前半部分を、
「私をおそれええええええええええさせることはない」
と歌っている感じになる。

直線的な推進力のある楽想のものであるが、
このあたりでは、浮遊が始まり、
大風に翻弄される凧のように空中で激しく旋回する。

Track2.
これは、心ふるわすような繊細な序奏に導かれ、
非常にロマンティックな情感にあふれた、
ゆるやかで静かなアリアで、第1曲と対比をなす。
背景で鳴る撥弦楽器の音色も、得も言われぬ効果を持っている。
「囚人として王として」という題なので、
男性の歌と思われるが、
ひたすら、前半の歌詞が繰り返される。
「囚人としても、王としても、
わが心臓は、まだまだ強く高鳴っておる。」

これが、後半の詩、
「盲目の運命の裏切りによっても、
それを鎮めることはできぬ」となると、
ばーんと爆発して、
花火が上がる構成である。

では、解説にはどう書かれているか。

「より控えめな表現も、
1732年マントヴァでの『セミラーミデ』で、
ゾロアストロの役を受け持ったソプラノ、
テレサ・ザナルディ・ガヴァッツィのために書かれた、
『囚人として王として』にも、
見て取れる。
このデリケートなアリアは、
暴君のニーノに死刑を宣告された王様の、
冷静な熟慮を表している。
予測のつかない運命に思いを巡らし、
ゾロアストロは、理不尽な運命を前にしても、
自分の心臓が動いていることを確信する。
ヴィヴァルディは霊妙なオーケストラの生地に、
声楽を包みこみ、
コンティヌオの調和のない、
単純なバスラインに伴奏された
痛切な弦楽の繰り返しが、
デリケートでほとんど内省的とも言える、
コロラトゥーラのパッセージの連続に添えられ、
この優雅なアリアを政治的な衝突の狭間での、
つかの間の静寂を表している。」

Track3.
これは、再び激烈なもので、
まさしく花火のような序奏、
強烈な焦燥感がこみ上げ、
ヴィヴァルディの協奏曲の特徴がにじみ出る。
そこに、すーっと入って来る声の美しさ。

焦燥感のつのる様子は、この管弦楽が、
活発に、伴奏して苛立たせるからである。
声楽部は、変幻自在の表情を見せながら流れて、
聴くものをどんどん連れ去ってしまう。

アリア集にはよく取り上げられる、
オペラ「忠実なニンファ」からのもので
「残酷な運命に苛まれた魂は」というもの。

「きっと愛が癒してくれるけど、
愛はまた次の苦痛を呼ぶの」
と続く。

解説には何とあるだろうか。
「『苛まれた魂』は、やはり、
『カトーネ』のエミーリア役を演じた5年前、
ジョヴァンナ・ガスパリーニが、
『忠実なニンファ』(1732年ヴェローナ)で、
リコーリ役を歌った時のためのものである。
この強烈なホ短調なアリア・ブラヴーラは、
この中で繊細なリコーリが、
羊飼いのオスミーノの誘惑を軽蔑して歌うもので、
歌手は、狂ったような技巧部と、
活発なオーケストラ書法と激突しなければならない。
田園的な神話の劇的な凝集は、
情け容赦ない曲芸的な歌唱で頂点をなし、
傷ついた処女の憤怒を生き生きと描いている。」

Track4.
これまた、有名なアリア「アジタータ」で、
いかにもジュノーが得意としそうな、
強烈なパッセージが、きらびやかに敷き詰めらた、
しかも、明るい陽光に満ちた名品。

「ぶつかる風に打ち付けられて、
嵐の海の波が揺れる。
恐れた舵手はすでに難破を覚悟する。」

という状況を歌ったものにしては、
あまりに威勢が良いのが気になるが、
覚悟の上の状況ということであろうか。

いつものように、強烈なコロラトゥーラは、
この最初の歌詞の最後で繰り広げられるので、
「難破あああああああ」と言っている感じであろう。

後半は、この船乗りの状況になぞらえて、
「義務と愛に引き裂かれ、心は無抵抗。
降参して、もうだめだ。」
と続く。

解説には、
「打ち上げ花火は、『アジタータ』のドラマでも、
重要な助けになっている。
『グリゼルダ』(1735年ヴェネチア)
のスコアに残っているが、
この変ロ長調のアレグロは、
数か月前の『アデライーデ』(1735年ヴェローナ)のために、
書かれたものである。
これらのオペラは、共に、
ヴィヴァルディが才能を見出して育てた、
傑出した技巧家、
マルガリータ・ジョアコマッツィによって演じられた。
このアリアは、グリゼルダ女王の隠し子、
優しいコンスタンツァが、心理的な緊張の果て、
ターニング・ポイントに達した時のもの。
彼女は、向かい風の中の船乗りのように、
対立する感情にとらわれていた。
ヴィヴァルディは、いささか常套的なメタファーを、
コンスタンツァのジレンマを表すものとして、
魂を与え、目もくらむようなヴォーカルラインで、
その狂気を表している。」

Track5.
ここで、再び、「忠実なニンファ」からのアリア。
長いレチタティーボがついた形での録音。

「敵意に満ちた運命よ、これでも不足なの。
私をもっと苦しめようというの。」
みたいなものが、最初に語られる。

続く、「しみったれた運命よ、
絶え間なく苦い涙を私は流した。
彼女を失ってからは」というアリアは、
かなり絶望的な状況のはずだが、
これまた空元気か、勇ましいような、
焦燥感にあふれたようなもので、
いきなり、技巧的なパッセージが繰り広げられる。

伴奏部は、それほど出しゃばりではないが、
ぎざぎざした楽想が時折、強烈なスパイスを利かす。

「『しみったれた運命』は、
『忠実なニンファ』の中のもので、
カストラートの
ジュゼッペ・ヴァレンティーニのために書かれた。
ヴィヴァルディの表現力のパレットの豊かさを示す。
モラストは、愛するリコーリが、
他の男に抱かれているのを見て、
アリアは、この不幸な男が、
深い絶望に陥るときのもの。」

その割には生気にあふれたものである。
後半は、「その涙を終わることのない川に流し続ける」
とあるが、ほとんど、コロラトゥーラだらけと言ってもよい。
苦しすぎて、もう言葉にならんという感じは出ている。

「ヴィヴァルディは、モラストの苦痛の嘆きを、
驚くべき劇的正確さで描き、
休息で荒々しいオーケストラが合いの手を入れ、
取り乱したコロラトゥーラは一緒になって、
素晴らしく様式化された表現で、
そのみじめさを呼び起こす。」

Track6.
これは未知のオペラからのアリアで、
「私の唇がお世辞を言い」。
清新な息吹が感じられ、
私は、バッハの息子の音楽を思い出した。

伴奏部のギャラントな感じも、
背景に聞こえるぽろぽろ音も、
まことに優雅である。

と書いたら、いきなり、同様のことが書かれていた。

「知られざるオペラのために書かれた
『私の唇がお世辞を言い』は、
ヴィヴァルディの声楽における、
もっとギャラントなアプローチで、
彼の生涯の終わり向けての
時代の精神を反映している。」

ここで、注釈があって、そちらを見ると、
先ほど、「ヴィヴァルディが才能を見出して育てた
傑出した技巧家」とされていた人の名前が出てくる。

「これは、マルガリータ・ジョアコマッツィによって歌われた、
『忠実なロズミーラ』(1738年ヴェネチア)の中の、
『La bella mia nemica(美しい我が敵)』の
オリジナルバージョンである。
このパスティッチョを作る際に、
ヴィヴァルディは、
『私の唇が』のテキストを、
『美しい我が敵』のそれに置き換えた。
この時、ジョアコマッツィが成功したのか、
ヴィヴァルディはさらに次のオペラ、
『アルミーダ』でも、このアリアを使った。
ここでは、オリジナルの意図の歌詞で録音している。」

さて、ここは注釈だったので、
もとの解説に戻ると、
「心地よいメロディラインの
デリケートなアラベスクの中、
魅惑と感情が競い合って、
不運の愛の苦しみを表現する。」

Track7.
じゃんじゃんじゃんという序奏からして、
元気いっぱいのアリアであるが、
スケルツォ的で、しっとりしたところはない。

「剣をちらつかせているが、どちらが深く傷ついているかは、
私はもう知っているのだ」というしゃれた内容である。

これを知ると、まるで、あのロマンティックな、
プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」が、
こうしたテンポの舞曲の集合体だということを思い出した。
激しいリズムの中に、焦燥感が盛り上がる。

したがって、解説でも、このアリアは、
Track6のアリアと対比されている。

「もう一つの怒りのアリア、
『剣をちらつかせ』は、これとはコントラストをなして、
好戦的なコロラトゥーラの古典的傾向が探求され、
怒り狂った16分音符が絶え間ない戦闘を表している。」

ここでも、通釈が出る。
「『剣をちらつかせ』は、
ヴィヴァルディの作品でも、
最もミステリアスなもののひとつである。
これは、カルフォルニア大学のバークレイ校に、
他の作曲家も含まれるアリア集の中に、
ヴィヴァルディの『Ipermestra(イペルメストラ)』
の3つの断章と一緒にあるものであるが、
このテキストは1726年に、フィレンツェで、
先のオペラが演奏されたときに、
同時に印刷されたものとは異なる。
しかし、典型的なヴィヴァルディのスタイルの書法で、
いくつかの状況の手がかりからして、
『Ipermestra』の差し替え用アリアであると考えられるが、
すでにリブレットが印刷されてから、
編入されたものと思われる。」

もとに戻って、解説には、
「ここでは劇的な内省などはお呼びでなく、
しかし、スリリングなコロラトゥーラによって、
強調された打ち震えるエネルギーは、
単純にメカニカルな妙義からも遠く離れ、
そこで解放される感情の激変によって、
ドラマを盛り上げる効果を有するものである。」

全編、コロラトゥーラの技法で埋め尽くされ、
凝集したエネルギーの塊のような曲で、
このアルバムは半分まで来た。

今回は、このあたりで終わって、次回、後半を聴くことにしよう。

得られた事:「ヴィヴァルディのオペラ創作30年は、音楽史の中でも特筆すべき快挙であった。」
「ヴィヴァルディの打ち上げ花火は、空虚なものではなく、ドラマに生気を与える重要な要素であり、台本から飛翔して作曲家の創造活動の起点となった。」
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by franz310 | 2012-10-07 16:41 | 古典