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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その347

b0083728_2149137.jpg個人的経験:
古代ローマの英雄、
カエサルが登場するので、
もっと聴かれても良いと思われる
ヴィヴァルディのオペラ、
「ウティカのカトーネ」。
前回は、消失したものながら
修復された第1幕に続き、
ヴィヴァルディの真筆である
第2幕を聴いた。
今回は最終幕を聴くことにする。


カトーネとは、カエサルの独裁に反抗した
ローマの元老院議員の名で、
ポエニ戦争の時のカトー(曽祖父に当たる)
と区別するために、
小カトーなどと呼ばれることがある。

この人の胸像であろうか、
DYNAMICレーベルのCDの
解説書の表紙は、極めて頑固そうな親父である。

が、共和主義の最後の擁護者などは、
独裁者にはやられてしまう、
と、思わず嘆息したくなるような、
神経質そうな表情も印象的である。

その意味では、エラートのシモーネ指揮による、
CDの表紙を飾ったルブランの絵画の方が、
やられるにしても、柴田勝家風で、
そこそこは強そうだ。

ウティカは、この人が最後に立てこもった、
アフリカの街の名であって、
結局は、この人はこの地で自害して果てることになる。

共和主義者が、独裁者にやられてしまう筋なので、
ヴェネチア共和国の真ん中で演じられるには、
極めて微妙な意味合いに思われたようで、
作曲家兼興行主はこれをヴェローナで初演した。

ヴィヴァルディが、
この時使った歌手のアンサンブルは、
興味深い組み合わせだったようで、
マルゴワールが指揮した、このオペラのCD解説には、
それが特記されている。

フレデリック・ダラメアという一人者が書いたもので、
「メタスタージオのオペラが、一般的に演奏されているのとは違って」
と書かれており、
ヴィヴァルディの歌手発見の才能を特筆している。

ヘンデルは、クッゾーニ、ストラーダ、
ファブリ、カレスティーニらを発見して、
新星と古参をより取り見取り組み合わせ、
予算内でオペラ興行をしたとある。

つまり、有名どころで固めれば、
ギャラが嵩んでしょうがないが、
ヴィヴァルディもヘンデルも、
積極的に若手を育て、
コストパフォーマンスを高めたのである。

タイトルロール、つまり、小カトー(カトーネ)には、
地元のテノール、チェーザレ・グランディが配された。
あるいは、地元にファンがいて、
成功に寄与したかもしれぬ。

歌手の方も、余所から来た企画に採用されれば、
安い金額で応じたかもしれぬ。

また、カエサル役は、カストラート・ソプラノの、
ロレンツォ・ジラルディが担当したとある。

彼ら二人は、この時しか、
ヴィヴァルディとの仕事はなかったらしい。
ということで、この人たちについては、
状況に応じて、たまたま起用した人事だとわかる。

しかし、もう一人のカストラート・ソプラノ、
(アルバーチェ役か?)若いジャコモ・ザッギーニは、
ヴィヴァルディの、ヴェネチアでの2シーズンに、
引き続き登場したという。

この人は、ブランデンブルク辺境伯のお抱え歌手であった。
それもあってか、ヴィヴァルディも気に入ったのか、
まあ、この場合は、良い出会いでもあったのだろう。

さらに、これらの発掘された3人に対し、
残る3人はもっとも信頼できる歌手で固めた。

フルヴィウスは、コントラルトの、
ヴェネチアから連れて来たエリザベッタ・モーロで、
12年以上も一緒に仕事をした道化役の名手だったとある。

エミーリアのパートは、
同じくらい一緒に仕事をした、
技巧家のジョヴァンナ・ガスパリーニで、
すでにヴェローナでは、
『忠実なニンファ』で仕事を共にしていた。

この人は、これがヴィヴァルディとの仕事が最後になった。
そのため、彼女には、ポンペイウスの妻の役の、
輝かしい役柄を用意した。

哀れなマルツィアには、最高の信頼をおいていた、
アンナ・ジローを配置。
生徒であり、秘書であり、親友であり、女声のアドヴァイザーであった。

このように考えられた配役であったからであろうか、
このオペラは、下記のように、注目すべき成功を収めたようだ。

「1737年の春、ヴェローナで初演された、
『ウティカのカトーネ』は、長く浮沈も激しかった、
ヴィヴァルディのオペラのキャリアにおける、
絶頂を期した。
『カトーネ』は、彼がヴェローナのために書いた、
4番目のもので、ヴィヴァルディ自身が、
1737年3月3日、
ベンティボーリョ侯爵に書いた手紙に読めるように、
素晴らしい成功を収めた。
『神を祝せよ。オペラは賞賛されました』。」


ナポリ派が蹂躙していた、気まぐれなヴェネチアでは、
彼への門戸はほとんど閉じられようとしており、
この大陸部での成功は、例外的なことだったようである。

「彼が1741年に亡くなったヴィーンに旅立つ何年か前から、
赤毛の司祭は、すでにヴェネチアから離れようとしていて、
北イタリア、中央イタリアを、広く活動を広げ、
アンコナ、レッジオ・エミーリア、フェラーラ、フィレンツェ、
マンチュア、パヴィアで、彼の作品は上演されている。」

解説者は、病弱だった彼が、
60歳近くになって、行ったこの行動を、
「驚くべき放浪」と書いている。

「この彼のヴェローナでの最後のシーズンには、
ヴィヴァルディは、自身の詩的、劇場的、哲学的な持ち味から、
遠く離れたリブレットを選ぶ必要があった。
最も有名なイタリアの劇作家であった、
メタスタージオの作品に、
この10年に3度向き合ったが、
この熟達した作曲家―興行主は、
リスクを計算し、うまくいくはずの方法をとった。
『カトーネ』は、ローマで上演されるために、
メタスタージオが1728年に書いたもので、
すでに、ヴィンチやレオ、ハッセらによって作曲されていて、
18世紀イタリアの分裂状態の埋め合わせのように、
ローマの輝かしい過去の歴史にあやかった、
教訓物語であった。
ヴィヴァルディはこれをさらに要約し、
編作し、政治的葛藤や価値観のせめぎ合い、
愛のもつれなどをうまく穏やかな筋にまとめた。
劇的なキャンバスは、心理的な色彩で描かれた。」

ヴィンチやレオ、ハッセは、
ナポリ派の作曲家であって、
ヴェネチアで上演しようとしたのは、
あるいは、ヴィヴァルディが最初だったのだろうか。

とにかく、この物語の内容は、政治色が濃く、
ヴィヴァルディもそれを心配したのであろうことが、
プロットの後の解説に書かれている。

第2、第3幕しか、
ヴィヴァルディのスコアは残っていないが、
特筆しべき作品であることが、
下記のように理由づけされている。

うまい具合に残ったのは、
素晴らしい成熟度を示す、
11のアリアとコーラスで、
これらは、技法的にも成熟し、
ナポリ派の作曲家の語法も、
驚くほど手中に収めているというのである。

「『忠実なニンファ』(1732年ヴェローナ)や、
『バヤゼット』(1735年ヴェローナ)を特徴づけた、
革新性はなりを潜め、
当時好まれた劇形式に収められている。
第3幕の最後に、伴奏つきのものがあるが、基本、
通奏低音のみを伴奏とする簡素なレチタティーボと、
アリアが交互に現れる。
同様に最後に二重唱と合唱が例外的に置かれている。
ただし、この合唱は、
テノール(カトーネ)と、
二人のコントラルト(マルツィアとエミーリア)
三人のソプラノ(カエサルとフルヴィウス、アルバーチェ)が
一緒に歌うだけで、アンサンブルのパッセージはない。」

この解説者は、このオペラの特徴として、
「ヴィヴァルディは、その形式の独創性より、
オーケストレーションの洗練を重視した」としている。

これについては、
「ヴェローナのフィラモーニコ劇場のオーケストラが、
ヴィヴァルディがヴェネチアで扱えたものより、
はるかに大型であった。
ヴィヴァルディは楽器法の大家であったのに、
いつも、ヴェネチアでは、その錬金術を使うのを、
諦めねばならなかったのだが。」
などと書かれている。

その証拠として、街のアーカイブにある資料によると、
1737年のシーズンのフィラモーニコのオーケストラは、
22人以上の器楽奏者を含む常設のものだったことが分かるようだ。
さらに当時の慣習として、エキストラもいたらしい。

「このレポートにふさわしく、
このオペラのスコアは、二つのトランペット、
二つのホルンなどが、一般的なバロック・オーケストラ
(2つのヴァイオリン・パート、ヴィオラと通奏低音)
に加えられて、このオペラの楽器法の壮大さが、
その成功に寄与したものと思わせる。」

なお、この「ウティカのカトーネ」は、
メタスタージオの初期の作品らしく、
下記のような解説がついている。

「1728年謝肉祭の時期に、
ヴィンチが曲をつけて、
ローマのTeatro delle Dameで初演された、
『ウティカのカトーネ』は、
『アルタセルセ』、『オリンピアーデ』、
『デモフォンテ』といった1730年から33年に、
メタスタージオが芸術的成熟を遂げる少し前のものである。
『見捨てられたディドーネ』(1724)や、
『Attilio Regolo』(1740)と共に、
カトーネは、この大詩人が悲劇的フィナーレを置いた、
数少ないメロドラマである。
主人公が舞台上で死んだりしない、
これらの作品とは違って、
カトーネでは、娘の腕で息を引き取る
『舞台上の死』を描いた。
明らかにこれは、18世紀の聴衆には粗野にすぎ、
メタスタージオの見識からもそうだった。
作品への批判によってか、
彼は、マルツィアが父の死を報告するという、
もっと穏当な方法のフィナーレを書き直した。
しかし、メタスタージオはオリジナルの着想も捨てきれず、
1733年に出版社に第二版を送った時、
どちらのフィナーレも出版したいと書いている。
しかし、ヴィヴァルディの場合、
メタスタージオの改定を越えて、
音楽劇の進行を軽快にするべくカットを施し、
決定的なハッピーエンドにしてしまった。
このことは確かに歴史の真実から離れることになったが、
当時の嗜好に沿ったものであった。」

では、ここでプロットを読みながら、
このさまざまな特色を持つ、第三幕を聴いてみよう。

CD2のTrack12.は、シンフォニアから始まる。
1分半程度のものだが、軽やかでありながら、
神妙な面持ちで、羽根のような肌触りで、
荘厳な終幕を予告している。
「イシスの泉の近くの木立の多い場所」とある。

Track13.
「カエサルは小カトー(カトーネ)との和解を、
きっぱりとあきらめ、戦争を仕掛けることを決めた。」
というシーン。

カエサルは、最初から、
「何も起こらなかった。私は十分耐えた」とお怒りだ。

フルヴィウスは、それを呼び止め、
「待ってください。ウティカの門では、
敵が待ち構えています」と忠告するが、
実は、こいつは食わせ物である。

イシスの泉のところに待っている、
フロルスという信頼できる男がいるから、
それに秘密の抜け道を教えてもらえばよいという。

第2場になって、
「いったい何度、運が変わるんだ」と、
オペラではよく出る、
不自然な時間進行に対し、
観客への言い訳をしながら歩いている。

プロットに、「カエサルは最初に、
父親の激怒から逃げ出したマルツィアに会う」とあるように、
「まだ、あなたはウティカにいたの」とマルツィア登場。
「父は殺したいほどだから、
私が逃げても何も言わない」と言っている。

しかし、「お別れよ」と繰り返し、
一緒に行く気はなさそうだ。
彼女は、ただ、どっかに消えて行こうとしている。

Track14.
マルツィアのアリア。
「行くかとどまるか、どうしていいかわからない」
という、刻むようなテンポで、
焦燥感と軽快さを併せ持ったもの。
ヴィヴァルディらしい活発な伴奏も聞きものである。
アリアの後なので、彼女は行ってしまう。

Track15.
カエサル一人。
このトラックは、
「なんてこった」というシーンですぐ終わって、
Track16.
カエサルのアリアが始まる。
「愛のため息に溶け込むのは、
本当に楽しいことだった」と、
失った恋人をしのぶ。

が、かなり軽い曲想で、
軽薄男の口ずさむ小唄といった風情。

Track17.
今度は、エミーリアが、カエサルを待ち構えるシーン。
男たちを引き連れ、隠れる。
カエサルは、ここがイシスの泉だが、
などと言っていると、
送水路からエミーリアが現れ、
「復讐の時」とか言っている。

プロットで、
「カエサルは、次に、罠に誘い込もうとする
エミーリアに会う」とあるところ。
つまり、フルヴィウスは、この人の陰謀に、
カエサルを誘ったというわけだ。

このトラックは長く、
さらに、こんな解説の部分まで行ってしまう。
「ポンペイウスの未亡人のぺてんに乗じて
変装したカトーネが来なかったら、
独裁者は命を失うところだった。」

かっこいい男声が響くので、
この部分はわかりやすい。

が、カトーネは、
誰の陰謀か知らなかったようだ。
「誰がたくらんだ悪事だ。」
「エミーリアだ。」
「エミーリアだって。」
「その通りよ。彼を捕まえたわ。」
などという会話がある。

4分以上もレチタティーボが続き、
どんどん劇は進行する。
ということで、第3幕は、そんなに長くない。

「決闘で、決着をつけようとカトーは提案する」とあって、
男たちが言い合っているが、
カエサルは剣を捨てて逃げていく。

プロットで、
「ローマ人がウティカの城壁を
猛攻しているという急報は、
彼らの戦いを止め、彼らはそれぞれの陣に戻る」
とあるところだ。

エミーリアは、「逃がした」と怒って、
ようやく次のトラックになる。

Track18.
激烈な太鼓連打を伴う序奏に続き、
「森の草地で、最後のライオンが横たわり」
という有名なアリアをエミーリアが歌う。

カンヘミの技巧的な歌が聴けるが、
この難曲では、さすがに、少し苦しそうだ。
それほどまでに、敏捷さと、
跳躍した高音が要求されるもので、
なだらかな中間部も、テンポが激変する。
「致命傷の傷を負って、
死の苦しみに卒倒し、
私は苦しめられる。」

ホルンが吹き鳴らされ、勇壮な音楽であるが、
かくも、内容は悲壮感あふれるものだ。

Track19.
カトーネは、剣を片手に、
「勝利は君のものだ。何と誤った星の運命よ。」
と言っているから、敵が勝ち、決着がついたのであろう。

彼は、「世界はカエサルの意のままになった」、
「すべてのローマの自由は、我と共に滅びん」
と言って、自決しようとするが、
マルツィアとアルバーチェが飛んでくる。

プロットに、
「ウティカの軍勢は打ち破られ、
カトーネの自決は、マルツィアとアルバーチェに止められる」
とある部分。

Track20.
ここからは、解説にもあった二重唱である。
カトーネが、
「私の目の前から消えよ」
「許されると思うな」
と、弾むようなリズムで言うのに対し、
娘は、「o dio!(神様)」と合いの手を入れている。
管弦楽伴奏が生き生きとした伴奏を繰り広げ、
活発で色彩も豊か。非常に効果的である。
かなり不思議な効果がある。

Track21.
カエサルが、「諸君、勝利だ」と言っている。
もう、プロットにも、
「カエサルは勝利したが、カトーネの命は救われる」
とあるだけである。

Track22.
太鼓が打ち鳴らされ、
トランペットも吹き鳴らされる喜びの合唱曲。
粗野な響きが、戦場の生々しさを表しているのだろう。
「愛の炎が明るく勇敢に燃え、
都は喜びで満たされ、平和が戻る。」

何と言うことであろうか。
独裁者が勝利して終わるオペラに、
満場の拍手が沸き起こっている。

このオペラは、初演時から好評だったというが、
ヴェローナの人々は、いったい、
なぜ、こんな内容のものを賞賛したのであろうか。
と、ふと思ってしまう。

ヴィヴァルディがハッピーエンドにしたから、
歌手たちが素晴らしい歌唱を聴かせたから、
オーケストラが雄弁だったから、などなど、
多くの理由は列挙できるだろうが、
ちょっと悩ましいものである。

得られた事:「『ウティカのカトーネ』は、歌手の選定から慎重を期し、ヴェローナの優秀なオーケストラを前提として、ヴィヴァルディはその色彩の錬金術を自由に駆使できた。」
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by franz310 | 2012-09-29 21:50 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その346

b0083728_2138626.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディ晩年のオペラ
「ウティカのカトーネ」は、
全三幕中、第1幕が残っておらず、
第2幕、第3幕が残存する。
これらは幸い真筆とされており、
これに第1幕を補筆すれば、
全曲上演が可能となる。
各場面が類型的であるがゆえに、
この演奏では、類似シーンの音楽を、
別の作品から持ち寄って作った。


この補筆も行ったマルゴワールの指揮によるこのCDは、
豪華な衣装での舞台上演の記録のようで、
極めて魅力的な表紙写真が目を引くものである。
オーケストラは
LA GRANDE ECURIE ET LA CHAMBRE DU ROYとある。
ラ・グランド・エキュリ・エ・ラ・シャンブル・デュ・ロワとか、
ラ・グランド・エキュリ&ラ・シャンブル・デュ・ロワとか書かれる。
王室大厩舎・王宮付楽団とも訳されるようだ。
厩舎とは、うまやであるが、うまやでも大厩舎ともなれば、
オーケストラを持つのであろう。

今回は裏表紙を紹介するが、
高位にあると思われるきれいな女性が、
いかにも舞台映えのするしぐさで、
訴えかけるように歌っている。

このエキゾチックな出で立ちは、
本当にローマの時代を再現したものなのだろうか。
なんだか中央アジアの方の色調のような気もするが。

この劇作品で、もっとも、この嘆きにふさわしいのは、
カエサルを愛していながら、父の宿敵として遇するしかない、
小カトー(カトーネ)の娘、マルツィアであるが、
これは、彼女であろうか。
リリアナ・ファラオンというソプラノ歌手が歌う。

今ひとり、このオペラには、
かわいそうな女性が登場するが、
これは、これまたカエサルを恨む、
ポンペイウスの未亡人エミーリアであるが、
これは、どちらかと言うと、
劇の進行をややこしくする脇役であり、
表紙写真を飾るような役柄ではない。

が、この役は、人気のソプラノ歌手、
ヴェロニカ・カンヘミが歌っている。
この人は、カエサルを敵視していて、
カエサルについて歩いている、
フルヴィウスに色仕掛けで、
復讐の手助けを呼びかけている。

したがって、かわいそうではあるが、
あまり、同情を引く役柄ではない。

フルヴィウスは、アルト歌手が受け持ち、
ディアナ・ベルティーニという人が歌っているが、
ややこしいのは、英雄カエサルが男性ソプラノだということ。
Jacek Laszczkowskiという、
どこに母音があるかわからない人。
また、小カトーの盟友のアルバーチェも男性アルトで、
これは人気のジャルスキーが担当。
主人公のカトーネだけが、男らしい声である。
サイモン・エドワーズがかっこいいテノールを聞かせる。

さて、前回は、この補筆された第1幕を、
その出展を学びながら聞いてみたが、
さすが、ヴィヴァルディの音楽を集めただけあって、
かなり、充実した音楽であることが分かった。

が、逆に言えば、シューベルトの例でいえば、
美しい自然の一コマを描いた作品として、
「ます」の詩を、「野ばら」の曲で歌ったようなもの、
という乱暴な置き換えであったような気もしなくはない。

シューベルトとヴィヴァルディでは、
100年の年の隔たりがあるが、
(「カトーネ」が1737年の作品だとすれば、
90年程度の差異しかないのだが)
オペラと歌曲を置き換えて比較するのは、
ちょっと乱暴な例えになるかもしれない。

そもそも、ヴィヴァルディ自身、
自作や他人のヒット作を含めて、
ありとあらゆる手段で新作を成功させる義務を持った、
興行師でもあったのである。

今回は、第2幕を聴いて、さらに、
この古代ローマの激戦を描いた作品を聴き進んでみよう。
ここからは、ヴィヴァルディが書いたとおりの音楽が鳴り響く。

THE PLOTを読みながら聞き進もう。
ここでは、ポンペイウス未亡人のエミーリアと恋仲の、
フルヴィウスがカトーネ(小カトー)に、
カエサルとの面会を願い出るシーンから。

第2幕:
CD1のTrack18.
いきなり、カトーネ(小カトー)は、
娘のマルツィアに、明日は、王子との婚礼だ、
などと言っている。
マルツィアが狼狽していると、
フルヴィウスがやってくる。
「フルヴィウスは、小カトーにカエサルと会うよう求め、
小カトーは、人民の求めにこたえるべし、とした、
ローマの元老院からの説得の手紙を渡した。」
とプロットにあるように、
カトーネが手紙の文面を読み上げる部分がある。
カトーネは、これは、私の知っている元老院ではない、
私と、私についてくるものだけがローマなのだ、
と独裁者の提案を飲むことはない。
「小カトーは、誇り高くそれらを拒絶した。」
とプロットにもある。

その間、アルバーチェは、
マルツィアの顔色が悪いのを案じている。
そして、マルツィアは、それどころではないので、
「どこかに行って、あなたを見ていると痛みが増すの」
などと言ってしまう。

Track19.は、傷心のアルバーチェのアリア。
「羊飼いの真心がないと、
雌羊はきっといつか後悔する」
とかいう感じの、
軽妙な序奏がついた軽い曲。

Track20.
「何という運命でしょう」などと、
マルツィアが言うので、
エミーリアが、
「カエサルは、わたしたちを、どうするでしょう」、
とか言っていると、
カエサルが来て、「小カトーは何を怒っているのだ」
といぶかる。

フルヴィウスは、「小カトーは面会するそうです」と伝える。
カエサルが、「なぜ、彼は態度をすぐに変えた?」
と聞くのも納得だ。
フルヴィウスは、「友人や民衆たちは平和を願って、彼に頼んだ」
と説明している。

プロットに、「友人らや供の者らの強い要望を受け、
小カトーは、独裁者と会うことを受け入れる。」
とある部分であろう。

マルツィアとカエサルの様子にエミーリアは、
「もう疑う余地はない。マルツィアは彼を愛している」
とつぶやいている。
カエサルは、もう一度、和平を申し出てみる、
とマルツィアに言いながら、アリアとなる。

Track21.
非常に精巧で美しいカエサルのアリアである。
「優しいそよ風があなたを抱くとき、
それが熱いため息でできていることを知るでしょう」
という、かなり熱々の感情を込めたものだが、
忍ぶ愛にふさわしく、静かに底流する感情の起伏が胸に迫る。

CD2.
Track1.
プロットに、
「遂に、心の中の問題解決の糸口を見出した
マルツィアはこの決断を喜んで歓迎し、
エミーリアは驚嘆するが、
彼女はマルツィアが動揺するのを見て、
カエサルへの愛情を確信する」とあるが、
このあたりの事であろうか。

エミーリアが、「神様、ありがとう。
マルツィアの胸に再び希望が生まれました。」
というと、
マルツィアは、「そうかもしれない。
戦争のような熱気が収まってみると、
世界全体が優しい平和を求めます」などと返している。

フルヴィウスがやって来て、
エミーリアにもう一度、
平和の使者として来たことを告げる。
恋人としての働きをしないので、
エミーリアはむかついている。
そして、フルヴィウスは、
彼女の気を引くように、
「あなたの許しを求めます。
反逆で殺された、高貴なポンペイウスの魂に、
私が彼の死に復讐しなければ」とか言っている。

Track2.
どどーんと太鼓が鳴って、
勇ましいフルヴィウスのアリア。
ディアナ・ベルティーニが歌うが、
ちょっと、重々しい感じがする。

「至福の休息を破って、
否応なく影が迫る。
休みなく回りは動き始め、
血と復讐に彼は叫ぶ。
でも、優しい。
こうした考えは捨てねばならない。
私は高貴なローマ人ではない。
カエサルをすべての危害から救うことを、
彼女は許さない」と、
自分の意志に関係なく、
風雲急を告げていることを歌い上げる。

Track3.ティンパニの豪快な独奏。
ティンパニ・イントロダクションとある。
Jacques Philidor le cadet(1657-1708)とある。
この人の作品ということか。1分20秒。

これは、英雄カエサルが、遂にカトーネと、
やり合う前奏の役割をはたしている。
この打楽器だけで、
よく、ここまで多彩な音楽を紡ぎ出したものだ。

Track4.
小カトーの館の静かな場所である。
小カトーは、独白で悩んでいる。
「話は聞くが、拒絶するだろう」。

そこにカエサルがやって来て、
世紀の会見が始まるが、
甲高い声で、ヒステリックにちょこまかしゃべるカエサルは、
まさしく、こんな人だったのではないか、
などと感じられる。
カトーの方は、イケメン風のテノールなので、
英雄カエサルは、いかにも三枚目みたいな感じがする。
「この男、変わらないな」と、傍白があるように、
当然、独裁者と共和主義者に折り合う点はない。

プロットにも、
「カエサルは小カトーと面会するが、
帝国の栄光を分かち合うことを、
気休めのように約束することは、
彼の共和主義の規範を破ることだとする。」
とあるとおりである。

さらに、
「カエサルのマルツィアと結婚するという提案も、
小カトーを怒らせるばかりである。」と書かれている。

このあたり、トールバット著の
BBC・ミュージック・ガイド・シリーズの
「ヴィヴァルディ」では、
「民主主義と独裁者の立場で、
それぞれ利害にからんだ2人の男の議論が
たたかわされる第10場には、
現代的な精神がみなぎっている」(為本章子訳)
と紹介されているシーンだ。

ただし、CD解説では、第8場とされている。
5分にわたって、立ったり座ったりしながら、
激しい応酬が聴かれる。

カエサルは、
「世界で激戦した帝国、
我が苦難と汗によって熟した果実を、
あなたが共に平和を守るなら、
これを分けて統治してもよい」と提案するが、
カトーは、
「恥さらしで罪の赤面を、
なぜ、そなたと分けねばならんのだ。
そうした悪事を、
カトーが望むと思ったか?
聴きたくもない」と、
大人げない言葉で返す。

どっちも気違いとしか思えない。

カエサルは、むかついて帰ろうとするが、
そこにマルツィアがやって来て、
父と恋人に、「これが、あなたの平和ですか」、
「これらのため息が、あなたの友情ですか」、
などと勇敢な詰問をする。
「マルツィアは絶望し、むなしく、
二人のローマ人らの平和的和解を模索する。」

小カトーは、「彼からは何も提案はない」といい、
カエサルは、「もう私は十分我慢した」という。
結論は戦争である。

Track5.
カエサルのアリアで、これまた、
傲慢さが突き上げて来るような序奏に続いて、
「戦場で運試しだ」と宣誓され、
英雄カエサルの胸中にこみ上げる、
自信たっぷりの高揚感が味わえる。

Track6.
マルツィアが、「どうなさるおつもり。
私たちの生命は風前の灯です」というと、
カトーは、
「私の命はどうでもよいが、もう平和は終わった。
隠し逃げ道から逃げよ」という。

アルバーチェがやって来て、
戦う時が来たから、
マルツィアと結婚させてくれという。
マルツィアは強烈な拒絶である。
しかも、問い詰められ、カエサルを愛していることまで、
言ってしまい、
カトーは「娘の資格もない、失せろ」と怒る。

プロットに、こうある。
「実際、アルバーチェのしつこい要求に、
彼女は秘密を隠すことができず、
父親やエミーリアにカエサルへの愛を語り、
小カトーは怒り狂う。」

Track7.
小カトーのアリア。
マルツィアを罵り、
エミーリアやアルバーチェに、
こんな事があろうか、と問いかけ、
「この苦悩だけは、私は止めることが出来ない」
と胸をかきむしる。

激烈な序奏から、強烈なアタックが効いて、
素晴らしく英雄的な苦悩のアリア。

ライヴァル、カエサルのアリアとは、
あまりに強烈な対比をなす。

Track8.
絶望したマルツィアは、
アルバーチェやエミーリアに恨み言を言う。

Track9.
しみじみとした情感にあふれるマルツィアのアリア。
シモーネの解説では、このように書かれていた。

「また注目する価値のあるものは、
衝撃的なマルツィアのアリア、
第2幕第9場(12場の誤りか?)の、
『哀れな蔑まされた心』などは、
バッハとヘンデルの中道を行く。」

これは、非常に聞きごたえのあるもので、
バロック時代ならではの低音から積みあがった和声に、
聴く者は、どっぷりと体を埋め込まれてしまう。
先の、カエサルのアリア、カトーネのアリアに続き、
ヴィヴァルディの書法の冴えには、驚嘆すべきものがある。

が、こうした対比の妙は、
メタスタージオの台本からして、
そうなっているのかもしれない。

「すべてが残酷でしかない」と、
抽象的に前半が歌われた後、
中間部では、具体的になって、
父にも疎まれた愛を嘆く。

このアリア、装飾したリフレイン部が、
かなりシモーネ盤とは異なる。
シモーネ盤がダウラントのラクリメのように沈潜し、
マリリン・シュメージによって、
7分12秒もかけて歌われていたのに、
ここでのリリアナ・ファラオンは、
5分55秒で、より明晰にかっちりと歌っている。

「ch'il consoli」と歌われているところなどは、
「きーみのそーら」と歌っているのかと思って、
思わず、歌詞とにらめっこしたくらいである。

実際、ここなだらかな曲は、
技巧勝負の音楽ではなく、
味わいで聞かせるものなので、
(アンナ・ジローのための曲と言われる)
日本のポピュラー音楽に編曲しても、
歌えてヒットしそうな感じがする。

Track10.
エミーリアとアルバーチェ、
アルバーチェは「真実の愛だったのに、
もっとも不幸になった」と嘆き、
エミーリアは、より現実的に、
どっちに付くか悩み始める。

Track11.
超絶技巧を駆使した、
エミーリアのいくぶん軽薄なアリア
「海辺を襲う荒れ狂った海のように、
運命が私を打ち付ける」
で、この幕は閉じられる。

活発な伴奏は、冴えたヴィヴァルディの、
エネルギーが横溢し、
カンヘミの歌うソプラノが、
明るく、大空を飛翔する。

この女性歌手によるアリアの連鎖も、
すばらしくスパイシーな対比が味わえる。
マルツィアは悲痛に沈み、
エミーリアは、同様に切羽詰った状況ながら、
やけっぱちのような縦横無尽を見せる。

そういえば、このような対比について、
かつて、「バヤゼット」の解説に、
「ナポリ派風の音楽は悪役に使った」という、
説があることが書かれていた。

まさに、このことは、ここでも言えるかもしれない。
確かに、ナポリ派というより、
スペイン派と呼べば、
「独裁王国スペイン」対「共和国ヴェネチア」
の戦いの物語とも考えられる。
ひょっとすると、今回の文脈からすると、
ヴィヴァルディにとって、ナポリ派とは、
カエサル同様、帝国主義の象徴だったのかもしれない。

しかし、カンヘミの歌唱、
さすがに人気のある歌手だけある。
シモーネの盤では、
マルガリータ・ツィンマーマンという、
メゾ・ソプラノが担当していたが、
やはり、声の質から言っても、
技巧の冴えから言っても、
カンヘミの飛翔の自由さには及ばない。

シモーネの指揮も、歌手の実力を考慮して、
手心を加えているのであろう。
やや、鈍重な印象を残す。

マルゴワールは、その点、歌手を信頼しきって、
思い切ったことが出来た、と言う感じであろうか。

以上で第2幕は終わり。
今回は、このくらいにしておく。

得られた事:「『ウティカのカトーネ』第2幕は、民主主義と独裁者の直接対決が描かれるが、自画自賛の独裁者の方が歌ものびやかで幸せそうである。これは、ナポリ派風の技法を駆使しているとも思われる。」
「ヴィヴァルディにとっては、ナポリ派=独裁という構図だった可能性がある。」
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by franz310 | 2012-09-22 21:39 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その345

b0083728_22124419.jpg個人的経験:
「ウティカのカトーネ」は、
第1幕の楽譜が散逸したオペラで、
第2、第3幕のみが、
ヴィヴァルディの作品として、
認められ、この部分を飛ばして
クラウディオ・シモーネなどは
録音していた(1986年)。
しかし、研究が進んだのか、
今世紀に入ってからは、
第1幕を修復する試みも出た。


イタリアのDYNAMICレーベルから、
2001年、フランスのTourcoingで、
上演されたものが、
「ジャン・クロード・マルゴワールによって、
第1幕が修復された完全版レコーディング」
と題されて、
また、「3幕版による完全録音」などと書かれて発売されている。

マルゴワール自身が指揮を執っているばかりか、
カンヘミやジャルスキーなど、
歌い手にも人気者がそろっている。

かなりゴージャスな上演であったであろうことが、
この表紙写真でも伺える。
兵士が立ち並ぶ前に、身分の高そうな女性が立ち、
これまた、尊大そうな男性に向かって、
昂然とした態度を見せている。

CD1のTrack1~3.
音楽は、力強い推進力を持った、
ホルンの重奏も勇壮な序曲から始まるが、
これ一つとっても出所が気になるではないか。

第2楽章には物憂げな、
内省的な表情を見せる部分もはさみ、
終曲は、さらに典雅な味わいを深めた
明るい舞曲で、そこそこ聴きごたえがある。

解説は、フレデリック・デラメアが書いているが、
「『ウティカのカトーネ』のスコアには、
導入のシンフォニアがないが、
事実、ヴィヴァルディが、ヴェローナでの上演の際に、
特にそれを書いたかのか、
(そうだとすると、第1幕と一緒に消失)、
当時の習慣によって、
すでに書いたほかの曲を流用したのか、
我々にはわからない。
この録音では、RV135の
ヘ長調のシンフォニアを使った。
これは、ザクセンのヴァイオリニスト、
ゲオルグ・ピゼンデルが、
手稿パート譜のコピーを持っていた、
弦楽と2つのホルンのための
輝かしいオペラ用シンフォニアを使った。」

以下、第1幕であるが、
以下のようなことが起こるらしい。
Stefano Olcese
が書いたプロットには、こうある。

「アフリカの都市、ウティカは、
カエサルに反抗する共和主義者の最後の拠点である。
カエサルは、ポンペイウスとの戦いの勝利の後、
ローマの政治的、軍事的権力を手中にし、
元老院議員小カトー(カトーネ)と、
小カトーの娘、マルツィアを愛するヌミディアの王子、
アルバーチェらが、最後の激しい抵抗勢力となった。」

このようにあるように、
Track4からは、この抵抗勢力の様子が描かれる。
まず、沈鬱なレチタティーヴォで、
マルティアが、父、小カトー(カトーネ)
の落ち込み様を心配している。
マルツィアは、リアンナ・ファラオンという
ソプラノが受け持っている。

それに対して、「なぜ、陛下はこのように黙り込んでいるのか」
と甲高い声で続けるのは、アルバーチェで、
フィリップ・ジャルスキーが担当。

カトーの声は、サイモン・エドワーズの、
かっこよいテノールで、さすが主役である。

「シーザーの攻囲は狭まり、我々の兵力は乏しい」
と、いかにもやばい状況である。

和平か戦闘かを問う局面。

Track5.
カトーネのアリアで、
勇敢に、いかに死ぬかを見せつける、
自分の心意気を示すものだが、
明るい木管の響きも軽やかなもの。
中間部では、少し、陰影を深くして印象的。

「このオペラの最初のアリアは、
カトーが改めて決意表明するもので、
メタスタージオはここで愛国的傾向を示す。
多くの場合、ヴィヴァルディは、
オペラの最初は、
深い声の輝かしいアリアを好んだから、
レオナルド・ヴィンチのように、
偉大なブラヴーラのアリアを書いたに相違ない。
(彼の同じ曲への付曲は、トランペットの助奏を持ち、
ロンドンに手稿がある。)
カエサルのライヴァルである、
底知れず誇り高い人格を描くために、
1738年にフェラーラでの
『ファルナーチェ』再演のために、
ヴィヴァルディが書いた、
『Non Trema senza stella』
を利用した。」
とある。

Track6.
アリアの後は歌手は立ち去るので、
マルツィアとアルバーチェのレチタティーヴォ。

プロットに、
「小カトーは、アルバーチェに、
マルツィアを与えることを約束しているが、
マルツィアは密かにカエサルを愛しているので、
王子を愛することが出来ない」とある部分。

が、彼女は、
「もう何度も言いましたわ。
アルバーチェ様は私の愛をご存じのはず。
どなたも、その思いを、他の者に対し、
上手に隠すことはできません。」
などと言ってそらとぼけている。

Track7.マルツィアのアリアで、
「それは馬鹿げた恋人たち、
彼らの情熱を隠して、
急に青ざめたり、赤らめたりして、
すぐにばれてしまうのに。」

かわいい小唄風のもので、軽い感じ。
リリアナ・ファラオンの子供っぽい声にあっている。
ネットで画像検索してもかわいい感じ。

前回、この役柄は、ヴィヴァルディが信頼していた、
アンナ・ジローのためのものとあったが、
このアリアについては、それを考慮して、
「Rosmira fedele」
というオペラのものを拝借したという。

「ロスミラのアリアは、
カトーネからの流用が多いとされているので、
この修復でもそれを考慮した」とある。

「アリアの第1部は、ため息は、
テンポと拍子のぶっきらぼうなシフトで、
第2部の劇的な部分につながるが、
マルツィアが持つ、恐ろしい誘惑の力を、
かすかに暗示しているようである」
とあるが、蠱惑的な歌と言えるかもしれない。

Track8.
これまたアリアでマルツィアが去るので、
アルバーチェ一人のモノローグである。
「いったい、私は何を約束したのだろう」
などと悩ましい。

Track9.
当然のように、ややこしい状況に、感情は爆発。
ジャルスキーが歌う、アルバーチェのアリア。

「傷ついた魂にとって、
何という無慈悲な法則、残酷な運命。」

傷ついた心情にふさわしいギザギザした音楽で、
伴奏もおどろおどろしい。
解説にも、
「力強いホ短調で、悲痛さを素晴らしく表したもの」
とされている。

「このアリアは、メタスタージオのリブレットでは、
第3場のために用意したが、
ヴィヴァルディは第1幕終結に利用した。
明らかに、『グリセルダ』(1735)の中で、
アテネの王子、ロベルトが、
王女コンスタンツァに、黙って去ってほしいと言われる時の
彼の戸惑いを表す悲痛なアリア
『Che legge tiranna』を借用した。
したがって、当然、この修復でもこれを利用した」
とある。

「オーケストラの序奏なしに始まり、
荒々しい叫び声が、
コンティヌオ付の弦楽のユニゾンで補助され、
典型的なヴェネチア風書法で、おおげさである。」

Track10.
カトーネのところに、
フルヴィウスがカエサルを連れてきたシーンであろう。
「カエサルは100の大隊がありながら、
私は一人丸腰でここに来た」と言って、
「カトーネの徳を賞賛しているからだ」、
「ローマの父と、多くの人々から崇められているあなたを。」
と言う。

が、カエサルはカウンターテナーで歌われているので、
なんだかヘンテコな感じである。
Jacek Laszczkowskiが担当。

カエサルを連れてきたフルヴィウスも、
元老院から遣わされて来たが、
戦争をやめるように、と言う。
このフルヴィウスも女声(アルト)で、
ダイアナ・ベルティーニが担当。

すると、エミーリアが現れ、
これまた、女声(ソプラノのカンヘミ)で、
「何という光景でしょう」と大騒ぎを始める。

プロットに、
「カエサルはカトーネを訪れ、
和平を提案するが、
彼女の夫を死に至らしめたローマの首領を見るや、
ポンペイウスの未亡人エミーリアは、
たちまち罵声を浴びせかける。」
とある部分である。

最初の緊迫したシーンと言えよう。
カエサルは、「あなたが怒っているとすれば、
それは正しいことではない」などとつっけんどんである。

カトーネは、時間を与えるから決意せよ、
と出て行ってしまう。
「スキピオの娘、ポンペイウスの妻として
その怒りから冷静になるように」と忠告する。

Track11.
カエサルは、ここで焦燥感に満ちたアリアを歌う。

が、これは、非常に暗い情念に満ち、
耳にこびりつく印象的な音楽である。
これは、バヤゼットでも使われたものではなかったか。

「ローマの首領の複雑な気持ちを表現して、
カエサルの最初のアリアは、
2つの部分が別々に扱われる、
一般のものとは異なり、
破格の詩的な構成をとっている。
この特徴は、アリアの場所や慣習を破る形式から、
1732年マンチュアで初演された
『セミラーミデ』のアリアを使った。
このオペラのスコアは、
ドレスデン州立図書館に、
6つのアリアのみが残されていたものである。
ここでは、『セミラーミデ』の、
第2幕を閉めるアリア、
『Vincero l‘aspro mio fato』
を使ったが、
これは、たぶん、1735年、
ヴェローナで『アデライーデ』でも流用されている。
ヴィヴァルディが成熟したオペラを書くようになってから、
3回しか使わなかった
暗いヘ短調を使っていることや、
『ジェスト・エ・アンダンテ』のモデラートのテンポ、
例外的なオーケストレーションで独創的である。」

Track12.
エミーリアとフルヴィウスという恋人たち二人が残る。
当然、エミーリアは、なぜ、敵である男につき従っているか、
と言う。
「ローマの特使であり、
カエサルの追随者であるフルヴィウスは、
エミーリアと恋仲であり、
愛情と、政治的な状況に引き裂かれる」
とプロットにある。

Track13.
フルヴィウスの活発なアリアで、
この苦境を感じさせないもの。
技巧を凝らし、高く舞い上がるもので、
ヴィヴァルディ的であると共に、
ナポリ派的な装飾や陰影に満ちている。

「エミーリアへの約束を宣言するもので、
これは演劇的なだましであり、
フィレンツェのためにヴィヴァルディが前年に書いた、
しかし、同様に失われたオペラ『ジネウラ』の
『Neghittosi, or voi,che fate』
が、持ってこられて使われたに違いない。
ポリネッソに裏切られたダリンダの怒りを表す、
劇的な状況のものだったが、
フルヴィウスの騙す気持ちをいささかも感じさせず、
ヴィヴァルディはフルヴィウスの狂乱のアリアに仕立て上げた。」

もともと、ヴィヴァルディは、
このアリアを借用したというのだろうが、
その元がなくなっているので、
今回のものは、どこから持ってきたのであろうか。

「今回の再構成では、
ヴィヴァルディが『セミラーミデ』のために書き、
1735年、『バヤゼット』の中で、
ヴェローナで取り上げた
生き生きとしたテンポの
壮大な嵐のイ長調のアリアを利用した。
それほど輝かしくはないが、
外面的なもので、
フルヴィウスの思いと状況の差異を際立たせる」
などと書いてある。

これまた「セミラーミデ」の有効利用である。

壮大とあるが4分程度であり、
「私の怒りは、不正な男の頭を稲妻で打つだろう」
という、威勢の良い内容である。
ディアナ・ベルティーニは、
きりきり舞いさせられそうなアリアを、
高い集中力で、いくぶん苦しそうに歌いきっているが、
これはいかにも、難しそうな音楽である。

Track14.
エミーリア一人である。
「馬鹿げた愛で、私が苦しみ、
私がなお生きていたとしても、
愛する夫よ、私の復讐のために許して。」
と、彼女もまたフルヴィウスを騙している様子。

Track15.
エミーリアのアリアであり、
これは、いかにもヴィヴァルディ的に繊細な、
詩的な空気感の漲ったもので、
リコーダーの助奏が美しい。

「星に抱かれ、レーテの船着き場で、
間違えないで、私を待っていて。」
という内容。

「メタスタージオの書いたリブレットの傑作で、
ポンペイウスへの変わらぬ愛情と思いやり、
それと、同時にカエサルへの憎しみの叫びの、
著しいテーマ上のコントラストをなす。」
とあるが、激しい部分は、かなり地味な感じ。

歌詞も、そんな感じで、
「その前にあなたに対して武装した
暴君に対して立ちはだかる必要があります」
みたいに、激烈ではない。

「うまい具合に、ドレスデンの州立図書館には、
1726年の謝肉祭にヴェネチアでヴィヴァルディが上演した、
『La fede tradita e vendicata』
から、『Sin nel placido soggiorno』
という単品のアリアがあって、
特徴からして、これが部分的に代用可能であった。」

Track16.
カトーネの居城近くの庭園で、
カエサルとフルヴィウスが語らうシーンである。

このあたり、男性ソプラノ(カエサル)と、
アルト(フルヴィウス)の声の感じの関係が混乱する。
声が高い方が女性だと思うのが普通だが、
どっちがどっちかわからなくなるし、
演じられている役柄は男性なので、
ややこしくて仕方がない。

「かくも、エミーリアは、
あえて君を裏切るように誘惑しているが、
君の愛情を占めようとしているようだが。」
とカエサルが問うと、
「いかに私が彼女を愛そうが、
私が求めるのは名誉です。」
とフルヴィウスが答えている。

ここで、フルヴィウスの代わりに、
カエサルとマルツィアのシーンになるが、
マルツィアの声はいかにも女性の声なので、
悩ましいことはない。

この二人の関係はややこしそうだ。

「あら、あなたはだあれ?」などと、
マルツィアはしらばっくれている。

「カエサルなら知っているわ。
天が二人を分けるまでは、
彼は私の愛しい人だった。」

カエサルは和平のために来たというと、
「これこそ、私のカエサルだわ」などと、
現金この上ない反応である。
「カトーネも愛してね」などと、
父親との和睦をそそのかす。

プロットに、
「マルツィアはカエサルと会うが、
父親との和平を、自身の愛との交換条件にする。」
とある部分である。

Track17.は、カエサルのアリアで、
「目を開いて、変わらぬ愛を見ておくれ」
という、愛情に満ちた素晴らしいものだ。

序奏部のオーケストラの渦巻くような効果も、
非常に胸を躍らせるもの。

歌っているラシュコフスキをネット検索すると、
もう若くはなさそうだが、イケメンで、
カエサルの役柄に合っていそうである。

「ヴィヴァルディがもともと『ジネウラ』のために書き、
カトーネの2年後、
フェラーラで『ペルシャ王シロエ』で使ったものだが、
いずれの版も伝わっていない。
不安や恐れも感じられるが、
感動的で情熱的な宣言。
この悲劇的状況で、弱々しい愛の歌は、
『ジネウラ』では、侍女のダリンダが、
悪名高いアルバニー公ポリネッサに、
心を向けてほしいと歌うもの。
こうした状況から、『セミラーミデ』から、
同様の主題のものを選んだ。
これはおそらく、ヴェローナで『バヤゼット』で利用、
その前には、
『モンテズマ』(1733年ヴェネチア)の、
第1幕の終結で使われたものである。
『セミラーミデ』では、アラビア王オロンテの歌になっていて、
同様に愛が政治で邪魔される劇的シーンで歌われる。」

劇的とあるが、ひたすら繊細に美しい音楽に聞こえる。
こういう音楽があるから、ヴィヴァルディ鑑賞はやめられない、
という感じがするものだ。

以上聞いて来た様に、どのアリアも、
類型的なシーンを参考に再構成されている。
かろうじてアリアだけ残った、
『セミラーミデ』からの流用が多い。
あと一曲、同様にドレスデンから出て来たものがあり、
この貴重なドレスデン資料で、
何とか7曲中の4曲が修復された。

得られた事:「『ウティカのカトーネ』第1幕は、場面の状況に従って修復されて録音されている。オペラには、さまざまな題材があれど、愛と義務の狭間に苦しんだり、隠された本心を歌ったり、怒り狂って訴えたりといった音楽は必ず出てくるということか。」
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by franz310 | 2012-09-16 22:15 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その344

b0083728_16352578.jpg個人的経験:
作家の大島真寿美が、
「アントニオ・ヴィヴァルディと
ピエタの娘たちに」という
序詞をつけて作った小説「ピエタ」は、
孤児も養育する慈善院で
育てられたエミーリアが語る、
ヴィヴァルディを巡る人たちの
輪の物語である(ポプラ社)。
語り口が優しく、登場人物が、
理知的な女性ばかり。


主人公のみならず、彼女が出会って行く、
(というか、再会していく)人たちがみな、
とても丁寧で上品な会話をするので癒される。

そんな話題から入って、このCDのデザインは、
ちょっと、主題にそぐわない感じがするが、
ご容赦いただき、先に進む。

ただし、この小説、具体的な題名が出てくる
ヴィヴァルディの作品は少なく、
オペラに情熱を傾けていた作曲家の姿には、
幾度か触れているものの、
具体的な題名が語られるのオペラは、
「ウティカのカトーネ」だけである。

実は、私は、このオペラのCDを、
ついこのあいだ発見して入手していて、
今回、小説に出てきてラッキーと思った。
すぐに参照できるからである。
今回は、これを取り上げる。

この録音はしかし、1984年5月と、
もう30年近く前のもので、
1981年に出たトールバットの訳書と同時期である。
(CDは95年にエラートから出たもの。)

クラウディオ・シモーネの指揮で、
手兵のイ・ソリスティ・ヴェネティが演奏している、
「世界初録音」の歴史に残るであろう録音である。

ここに示した表紙の絵画で倒れているのが、
まさしく、「ウティカのカトーネ」その人である。
むくつけきおっさんの裸体である。

シャルル・ルブランというフランスの画家のもの。
1619年生まれというから、
ヴィヴァルディと生きた時代は重なっているが、
二世代くらい後の人である。

小説「ピエタ」の中では、ヴィヴァルディを良く知る女性が、
この作曲家を回想して語るシーンがある。

「とっても恐がりで、
政府に目をつけられたら大変だ、
っておかしな小細工ばかりして。
そんな人が、最後には『ウティカのカトーネ』よ、
笑っちゃうわね」
とエミーリアに語る(P106)。

「『ウティカのカトーネ』とは、
十人委員会によって、
ヴェネチアの秩序を破壊するとして上演禁止になった、
オペラの演目だった」とエミーリアの注釈が続く。

私は、この小説のこの部分が大嫌いである。
もちろん、「ウティカのカトーネ」のどこが笑っちゃうのか、
さっぱりわからないからである。

さっぱりわからない理由の一つは、
おそらくこちらが大きいのだろうが、
私が、このオペラの内容を知らないのに、
作者は知っているという卑屈な感情もある。

さらに、このオペラの題名を言っただけで、
主人公がすぐに分かってしまうという、
なんだか高尚すぎる会話が、
平然と行われている不自然さにもよる。

この会話は、「十人委員会」の話題に、
持っていくためにも必要だったと思われるが、
文脈からして、
政治的に憶病であったヴィヴァルディが手掛けて、
その政治的内容ゆえに、
やばい目にあった作品なのだろうとわかる。

だが、そんなヴィヴァルディが、
決死の思いで作った作品だとすれば、
それはそれは勇気のいった行為と思え、
勇気あるヴィヴァルディを、
「笑っちゃう」と片付けてしまうのが、
これまた、彼に親しい人たちでの会話にしては、
不自然ですわり心地の悪い気分にさせる。

ちなみに、作者は、参考文献を巻末に列挙しているが、
BBC・ミュージックガイドシリーズ、
トールバット著の「ヴィヴァルディ」もそこに入っている。
(為本章子訳、東芝EMI音楽出版のもの)

この本を読んでみると、
確かに、「ウティカのカトーネ」に関しては、
原作の筋書からヴィヴァルディによる現実的改変まで、
2ページ以上にわたって記述がある。

これは、シューベルトも音楽をつけた、
詩人メタスタージオが台本を書いたものらしい。
トールバットは、「メタスタージオの最高傑作のひとつ」
と断言している。

独裁者カエサルと、
共和制信奉者で元・元老院議員、
カトーの対立を描いたものだそうだ。

確かに、ヴェネチア共和国としては、
共和制擁護派が、
最後は独裁者にやられちゃう作品など、
歓迎するわけにはいかなかったであろう。

もう一度、CDの表紙デザインを見てほしい。
このような残忍なシーンを当事者意識のある人が見たら。
明日は我が身と目を背けたくなったはずだ。

結局、仕方なく、ヴィヴァルディは、
これをヴェローナで上演したとエミーリアは語っている。
ヴェローナは、ロミオとジュリエットで有名な街だが、
ヴェネチア共和国の傘下であり、
こうした「小細工」が有効だったかはわからない。

トールバットの本でも、
「舞台でカトーが傷を負うシーンは、
当時の観客層の不快を買ったため、
メタスタージオは第3幕の幕切れを修正するように勧め、
いくぶん効果を弱め、
筋の統一を損なってもやむをえないとしている。」
と書かれ、
最初からこの劇の危険さが認識されていたことが分かる。

さらに、ヴィヴァルディが、
「カエサルが野心を捨て、
(カトーの娘)マルツィアと結婚する意志を宣言する」
という風に筋を書き換えていることも書かれている。

ヴィヴァルディは、果たして、
「笑っちゃう」ようなおトボケで、
うっかり、芸術家の無垢から、
危険な作品に手を出してしまったのだろうか。

そうしたごたごたのせいであろうか、
このオペラは第一幕が紛失している。

小説に、「最後には『ウティカのカトーネ』よ」
とあったように、
このオペラは、1737年の作品と書かれており、
1741年に亡くなったヴィヴァルディとしては、
かなり晩年の作品と言える。

では、改めて、シモーネのCDの解説を読んでみよう。
カルロ・ボローニャという人が書いている。

「メタスタージオのリブレットに、
ヴィヴァルディが作曲した『ウティカのカトーネ』は、
1735年5月の春のお祭りの間、
ヴェローナのフィルハーモニック劇場で上演された。」

とあって、いきなり、1737年作曲説が覆された。

「背景は、フランチェスコ・ビビエナのもの、
ガエターノ・グロッサテスタの振り付け、
ナターレ・カンツィアーニの衣装であった。」

と詳しい担当も書き連ねてあるから、
かなりの鳴物入りでの上演だったのであろう。

が、この次にいきなり出てくるのが、こんな言葉である。

「このオペラの主題は『自由』である。」

ということで、お馬鹿な作曲家が、
うっかりちゃんとやっちゃったものではなさそうだ。
その根拠が、下記のように列挙されている。

「これは、残念ながら、今や失われたオペラ、
『アデライーダ』と同時期に書かれた。
ヴィヴァルディは、
特に、その政治的ニュアンスゆえに
興味深い序文を、この作品のために書いている。
『最後の王様が追われ、外国のくびきに跪き、
もう立てなくなったこの不幸な祖国を思い出させるので、
この国の中に敵のいないような、
良きイタリア人の皆様は気分を害すであろうが、
今日、そんな人は、もはやいないであろう。
輝かしきヴェネチア共和国のみが、
この悲しむべき衰退から逃れている。』」

貿易の中心が大西洋に移ったことによって、
イタリアがルネサンス期の栄光から転落し、
諸都市が神聖ローマ帝国(スペイン)やフランスの
手中に落ちて行ったことは有名な史実で、
これまで、ナポリ対ヴェネチアといった構図で、
ヴィヴァルディを語って来たのが、
まずかったのではないか、などと思えてきた。

すごい愛国者ぶりである。
このような高らかなアジテーションをするのが、
ヴィヴァルディの柄に合わなかったのなら、
確かに、「笑っちゃう」ような事態かもしれないが、
ヴィヴァルディという人は、
単に作曲だけをしていた人ではなくて、
オペラの興行主の仕事もしていたのである。

ヴィヴァルディは、
もう少し図太い神経の人物なのかもしれない。
小説の中のヴィヴァルディは、
先の会話の印象からか、
あまりにも純粋な作曲家だった、
みたいにも見える。

さて、CDの解説を読み続けると、
「このコメントだけでヴィヴァルディを、
『イタリア祖国再興運動』の先駆者と、
できるものではないが、
過去と現在に対する、
彼の個人的な歴史観を際立たせたものになっている。」
と、私が即座に考えたような、
もっともな推論が書かれている。

「カトーを扱ったリブレットを選択したことが、
作曲家自身に対する、また、
ヴェネチアと全イタリアの歴史における
彼の役割に対するアプローチに、
重要な要素を加えることになった。
ヴィヴァルディは、
どうしようもない衰退に向かっていた、
ヴェネチア共和国への無関心とは対照的に、
ある意味、フランス、ある意味、オーストリアの影響を受け、
リベラリズムの世界に共感していた。」

こんな風に書かれると、
ヴィヴァルディがヴィーンで客死したのも、
単に、ヴェネチアで生きていけなくなったから、
とか、ヴェネチアがナポリ楽派に蹂躙されたから、
みたいな消極的理由だけではなかったのではないか、
などと考えてしまった。

「この世界にあっては、
祖国、国民、進歩、自由といったものに対する、
こうした危険な見解が、普通に流布していた。」
とあるように、小説の中にも、
ヴェネチアにおける自由主義者たちの暗躍が、
少しではあるが描かれていた。

「『ウティカのカトーネ』の最後の部分の『争点』は、
以下のようなものであった。
『カトーの死に際して、カエサルは生々しい苦悩を吐露し、
後世のものに、どちらを称賛すべきなのかを考えさせる。
シーザーのように、敵の勇気を永遠に讃える寛大さか、
カトーのように、祖国の品位を落としてまで、
生き延びようとはしない決意か。』
メタスタージオの台本は、
これらのむずかしさに光を当てているだけである。
ヴェローナでの初演の二か月前、
十人委員会は、『ウティカのカトーネ』の、
ヴェネチアでの私的な朗読を禁じている。
実際、この作品の主題は、
政治的にニュートラルなものではない。
ローマにおける教皇の権威は、
この検閲に満足した。
しかし、ヴェネチアで退けられたとはいえ、
『カトーネ』は、ヴェローナで、
ドラマも音楽もリベンジを果たした。
(ちなみに1732年、ヴィヴァルディは、
壮大なフィルハーモニック劇場のこけら落としを、
スキピオーネ・マッフェイの台本による、
『忠実なニンファ』で行っている。)
とはいえ、このリベンジには、代償が必要で、
このオペラのエンディングは、
トーンを下げ、
春のお祭り(謝肉祭?)の日々にふさわしく、
『ドラマを短く、カトーの死を、
悲痛なものにしないようにされ、
カトーの死の部分は削除された』。
ヴェローナでの勝利は、
こうした慎重さによるものだった。
こうした、『終わりよければすべてよし』的なエンディングは、
綻びやすいヴェイルの下にある真実を隠すには、
おそらく、もっともよいやり方であった。
検閲官が上演を認可しなかったとしても、
ヴェネチアは子供じみた振る舞いで面目を失った。
ヴィヴァルディにとっては、
翌年、アムステルダムで、
再度、ランゲンダイクによって、
『ウティカのカトーネ』が上演されたことは、
我々の目には、これら一連の顛末の、
象徴的な結末にも思える。」

この頃のオランダと言えば、
日本の唯一の欧州貿易窓口みたいな感じだが、
すでに海上帝国の盛期は過ぎ、
イタリア諸都市同様、
スペインの支配下にあった。
独立まで、あと十年ほどを要する時期である。

「ヴィヴァルディの『カトーネ』は、
第2、第3の二つの幕しか残っておらず、
おそらく、一人は複数のほかの作曲家によって、
作曲された第1幕は、失われている。
ヴィヴァルディ自身の証言が、
この仮説を裏付けている。」

このように見て行くと、
ヴィヴァルディという人は、
非常に多くの書簡を残していたようで、
こうした資料が、日本語訳される日が待たれる。

こうした実態が明らかになれば、
まるで、隠棲して音楽だけ書きたかった人、
みたいなイメージは払しょくされるのではないだろうか。

「フェラーラのマルチェーズ・ベンティボーリオに宛てた手紙で、
『ここに、神に感謝します。天に届くほど、
私の作品は称賛されました。
音楽家にとっても踊り手にとっても、
喜ばずにいられないことは全くありません。
6回の公演があり、概して、収益は確実です。
それも少ないものではありません。
こうした、一部を他人が作曲し、
私が手を加えたものが、
フェラーラでは喝采されるでしょうか。』
私たちの見方では、
2つの残っている幕は完全なもので、
すべてヴィヴァルディの手によるものである。
しかし、ヴィヴァルディの言葉で、
『他人の手で』とあるように、
介助があったようで、様々な理由から、
第1幕はパッチワークだと信じられている。
1739年の夏、1740年には謝肉祭のシーズン、
この作品は、グラーツのトゥンメルプラッツで再演された。
ヴィヴァルディのお気に入りで、
いずれの場合も、
もっとも信頼していた歌手、アンナ・ジローによって、
驚くべきマルツィアの役柄が歌われた。」

1740年と言えば、
ヴィヴァルディの死の年の前年に当たる。
小説「ピエタ」でも、アンナ・ジローとヴィヴァルディが、
グラーツを訪れた逸話が出てくる。
なかなかやるな、大島真寿美。

たとえば、これを書きながら始まった、
CD2のTrack2の
「私の哀れなさげすまれた心は、
苦しみの痛みに押しつぶされ、
それをもとにもどす手立てもない」
という悲痛なアリアなども、
このマルツィア役のものだ。

これは格調高く、ヘンデルの作品のように、
情念がたっぷりとした音楽で満たされた逸品。
こうしたアリアは、アリア集などでも聞かれることがない。
少なくとも、バルトリやコジュナーのような、
メジャーどころは、そもそも「カトーネ」を、
そのアリア集に入れていない。

マルツィアとは、カトーの娘で、
実は、敵のカエサルと恋仲になっている設定である。
これは、いかにも両方を仲立ちする重要な役柄と見た。

が、マルツィアとカエサルが共に、
ソプラノってどういうこと?
このCDでは、マルツィアは、
マリリン・シュミーゲという人が歌っている。
ヴィヴァルディが愛した、
アンナ・ジローの人柄が、
きめ細やかな情感、揺れ動く情念が、
深い陰影のある声から聞き取れそうだ。

「ヴィヴァルディの『カトーネ』の声楽の書法は、
彼のスタイルの特徴が色濃いが、
しかし、彼がのちに意識的に表現力を成熟させた、
後の書法の完成度には達していない。」

この訳、この理解は間違っているだろうか。
この1737年の作品は、
1741年に亡くなるヴィヴァルディにとって、
かなり最後期の作品なのだが。

年表を見ても、この後は、「忠実なロスミラ」、
「メッセーニアの神託」、「フェラースペ」くらいしか残っていない。

「脇役に至るまで、すべての配役は、
生き生きと描かれており、
それは、1737年には、
声の軽快さで知られた名手、
ガスパリーニ嬢によって歌われた、
エミーリアのパートを見るだけで、
十分に理解できる。」

エミーリアは、カエサルにやられたポンペイウスの未亡人で、
CD2の先ほどのすぐあとのアリア(Track4)、
「怒れる大海のごとく、岩や浜辺は打ちのめし」
などでも、その高度に充実した書法が味わえる。

序奏からして、変幻自在ながら生気が漲り、
声は大きな跳躍を見せながら推進を見せ、
まことに万華鏡のような音楽が繰り広げられる。

このCDで歌っているのは、
マルガリータ・ツィンマーマンという、
メゾ・ソプラノであり、
非常に技巧を駆使していくつもの難所を乗り越えている。

「カエサルのアリア、
『戦場においても』(第2幕、第9場)
(CD1のTrack10)では、
コンティヌオ付の弦楽オーケストラに、
ヴィヴァルディは二本のトランペットを加え、
戦場の灼熱の感じを出した。」

このカエサル役は、妙に子供っぽい声に聞こえるが、
チェチリア・ガスディアというソプラノが担当。
英雄役なので、すかっと澄み切っていた方が良いのだろうか。

「また、第3幕9場のエミーリアのアリア、
『森の空地で、最後のライオンが横たわり』では、
ホルンが加えられたが、
ここでは、狩りのイメージを呼び起こす。」

これは、勇壮で華やかな中に、
悲痛な表情を持つもので、
ホルンが、確かに沸き立つような情緒を盛り上げる。

「また注目する価値のあるものは、
衝撃的なマルツィアのアリア、
第2幕第9場(12場の誤りか?)の、
『哀れな蔑まされた心』などは、
バッハとヘンデルの中道を行く。」

これについては、先に私も注目して特記したので、
解説者も同じことを書いていて気持ちが良い。
ヘンデルの名前を出すところまで一緒ではないか。

「この作品は、表現力豊かで、
魅力的ながら限界もあった、
ジロー嬢の声に、特に、ぴったり合わせて作られた、
痛々しい劇的集中度の傑作である。」

このあたりも、なるほどと納得できた。

「この『ウティカのカトーネ』の復活上演は、
ヴィヴァルディのオペラ領域のみならず、
イタリアや、一般的な18世紀のヨーロッパのオペラに、
新たな光を投じるものである。」

という感じでこの解説は終わっている。

このように、ざざっと解説を見て、
要所、要所を聴いた限りでは、
このオペラは、なかなか興味深いもので、
少なくとも、音楽としては、
「笑っちゃう」ような内容ではなさそうだ。

また、ヴィヴァルディが、ヴェネチアという魔都にあって、
音楽の事ばかり考えていた音楽おたくと考えるべきか、
音楽を通じて、音楽以外も含め、全能力を挙げて、
人生を燃焼させようとしていたと考えるべきか、
その視点によって、
この政治的問題作を評価する仕方も変わってくるだろう。

得られた事:「ヴィヴァルディは、狭いヴェネチアの外から、ヴェネチアのみならず、イタリア没落の現状を直視していた。」
「『ウティカのカトーネ』には、ヴィヴァルディの最も親しかったジロー嬢が歌った、絶唱、『哀れな蔑まれた心』というアリアが含まれ、彼らは、これをグラーツまで出かけて上演している。」
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by franz310 | 2012-09-09 16:38 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その343

b0083728_1714236.jpg個人的経験:
指揮者のスピノジが、
足掛け十数年もかけて、
完全な上演を成功させた、
ヴィヴァルディのオペラ
「オルランド・フリオーソ」
のDVDを聞いているが、
映像も音楽も聞ける環境に
なかなか閉じこもれず、
結局3回、1幕ごとに聞いた。
今回、書くのは、
第三幕について。

そんな中、ヴィヴァルディをテーマにした、
大島真寿美の小説「ピエタ」を見つけ、
読み終わってしまった(ポプラ社)。



本の場合、特別な環境は必要ないのがありがたい。

これは、よくヴィヴァルディのCDの表紙を飾る、
画家のカナレットも登場する興味深い作品で、
ヴィヴァルディ研究の第一人者、
トールバットの著書を筆頭に、
巻末にずらりと並べられている参考文献に明らかなように、
かなりリアリティのある設定となっている。

あっと言う間に読み終えることが出来る、
求心力のある小説で、
とてもよく書けた物語だと思うが、
小説の中に出てくる音楽の曲名が、
「調和の幻想」(何故か、「l’etro armonico」と横文字表記だが)
だけだと言ってもいいのが、
音楽気違いには、いかにも物足りない。

12曲もある協奏曲集のどの曲かもわからない。
ヴィヴァルディの音楽おたくのイタリア人、
スカルバが書いた、ヴィヴァルディ関係の小説、
「スターバト・マーテル」が、
巻末に愛聴盤を並べていたのと対照的である。
(こちらは、史実からの逸脱を自由にやっている。)

あと、会話の中で、オペラ「ウティカのカトーネ」が出てくるが、
どんな音楽だという話には盛り上がらない(P106)。
ただし、この作曲家がたくさんのオペラを書き、
理想のオペラを書くために、
ヴィーンに行って死んだことにはなっている。

また、「サンタンジェロといえば、
ヴィヴァルディ先生のオペラが
しょっちゅうかかっていた劇場だ」(P309)
という一節もあるから、作者は、
いかにヴィヴァルディにとって、
オペラが重要であったかはよく知っているようである。

今、聴き進んでいる「オルランド・フリオーソ」もまた、
そうしたオペラの一つである。

では、DVDに戻って、ウィレム・ブルルスの解説の続きから。

「ヴィヴァルディの『オルランド・フリオーソ』以前、
または同時期に書かれたオペラが、
『オルランド―アンジェリカ―メドーロ』または、
『アルチーナ―ルッジェーロ―ブラダマンテ』の物語を、
選んでいることは興味深い。
この二つの立場をコンバインしたのは、
ヴィヴァルディのオペラのリブレットを書いた、
グラツィオ・ブラッツィオーリで、
事実、アリオストの叙事詩のオリジナルの
迷宮構造に近い感じになった。
こうすることによって、
オルランドとアルチーナという、
二つの異常なコントラストをなすキャラクターの、
対面を導入した。
前者は、一人の愛する人に完全な献身と、
一途な忠実さを持っており、
後者は、徹底した性的自由、快楽主義、不貞を表す。
それは、
トリスタン対、女性版ドン・ジョヴァンニ
のようにも見える。
面白い組み合わせである。」

何と、どうやら元の叙事詩では、
オルランド-アンジェリカ-メドーロ
-アルチーナ-ルッジェーロ―ブラダマンテという、
二重構造はなかったかのような書き方である。

確かにヘンデルは別オペラであったが、
ハイドンは同様の筋だった。
それについては、さすが、この解説にも書かれていた。

「この二つの物語の流れの組み合わせは、
1782年のハイドンの『騎士オルランド』で現れるが、
それは啓蒙主義の思想で発展し、
合理主義と自制の強力なメッセージが込められている。
これらはまた、ヴィヴァルディのオペラにも、
アリオストの叙事詩にも、すでに見て取れるものかもしれない。
これらは、どれも、わかりやすい悲劇的登場人物を設け、
とりわけ、自制が効かなくなったときには、
自分の行動への責任や、
自分の意思によって得られたもの
とはいえ、いかに人間が、
不運な環境や運命の犠牲になりうるか、
ということを示している。
合理主義や自制だけが、生活を守ることができる。
ハイドンのオペラでのプロットでは、
すべての登場人物が、最後に改心する。
アルチーナは、オルランドに新しい自覚を与え、
彼は、それゆえにアンジェリカを完全に忘れてしまう。」

ハイドンの時代に、仮に、ヴィヴァルディのオペラが、
レパートリーとして残っていたとしても、
その時代の人々は、音楽の古さなどより、
メッセージ性の違いによって、
別のものを求めたということになる。

つまり、メッセージと共に音楽も変わるということで、
アルチーナが、自分の運命を嘆くアリアなどは、
あほらし、となっていたということだろうか。

「この物語のいささか独りよがりなモラルは、
『幸福でありたいなら、愛したものを愛してはならず、
あなたを愛する人を愛しなさい。
そうすれば悪いことにはなりません。』
そう単純ならいいのだが。
また、これが正しいとしても、
悪くなることだってあるだろう。
あなたを愛する人を愛したにせよ、
性向も誠実さも変わるものである。
ヴィヴァルディのオペラに出てくる
他の登場人物をよく見るとわかる。
アンジェリカとルッジェーロは、
互いに鏡像になっている。
一見して、彼らは彼らを愛したもの。
それぞれ、メドーロとブラダマンテを愛している。」

なるほど、ハイドンの時代の合理主義で、
さすがに、この解説は終わっていなかった。

「しかし、彼らは共に実用主義者で、
彼らの恋人か違うかで、
利用したり不当に扱ったりする。
どの程度までに、いやそもそも、
アンジェリカはオルランドに惹かれたのだろうか。
どの程度までに彼女はメドーロを試したのだろうか。
ルッジェーロは本当に愛の秘薬を飲んだのだろうか、
それともただ単に、
他の女とベッドを共にしたかっただけか。
彼は妻のブラダマンテに気づかないのか、
それともそのふりをしているだけか。
ブラッツィオーリのリブレットでは、
アルチーナとアンジェリカは、
きわめてふしだらで、
ルッジェーロは、彼を愛する人に対して、
なんら責任感を感じていないようである。」

このメルヘン的な魔法オペラで、
ここまで考える必要があるかはわからないが、
少なくとも、今回の演出は、
魔法の要素をそぎ落とし、
極めて現実的な切り口でも処理が大きいから、
我々も、それに付き合う必要があるのかもしれない。

「そして、我々には、ブラダマンテ、アストルフォ、
そしてメドーロという正直で誠実な登場人物も見出す。
ブラダマンテに関し、二人の男たちとの基本的違いは、
彼らに勇気がないのに対し、彼女が勇敢で、
冒険心あふれていることである。
しかし、同じような質感を持っている。
彼らは気まぐれではないが、彼らは退屈であり、
物語では、さっぱりときちんとしたキャラとして、
しばしば登場する。
彼らはおそらく、モラルの上ではすぐれているが、
肉体の喜びの果実を味わったことがあるのだろうか。
彼らの果実に関しては、ヴィヴァルディのオペラでは、
そうした喜びにふけるために
素晴らしい機会が与えられているように思う。
ヴィヴァルディもブラッツィオーリも、
それがヴェネチア人の多くが楽しんでいた、
隠れた喜びであることを明らかに知っていた。
だからこそ、ブラッツィオーリは、
オルランドにアルチーナの
ジューシーな物語を入れたのかもしれない。
一途で、いくぶんお馬鹿な英雄だけは、
喜びの島では十分ではなかったのである。」

が、それなら、そもそも、
「オルランド・フリオーソ」などというオペラを
作らなければよかったということになりかねない。
「アルチーナ」というオペラにすれば、
もっと良かったではないか。

「ほかにも、二つの物語を結びつけた
理由があるかもしれず、
少なくとも、予期しなかった効果もあるかもしれない。
オルランドとアルチーナの並列された物語という構成は、
彼らの出発点がまるで正反対なのに、
その後と運命には類似性があることに強いヒントを与える。
オルランドは、絶望的にアンジェリカを愛しており、
このオペラの進行とともに、
まるでアルチーナもルッジェーロとの絶望的な愛に、
陥っていくかのようである。
彼はおそらく彼女がそれほどまでに深く愛した、
最初の男性なのであろう。
二人の主人公は、それぞれの愛と欲望の感情に急き立てられている。
この意味で、彼らは互いの鏡像となっている。
彼らは自身の体内時計によって共に狂気に駆られ、
共に生活の正常さから完全に逸脱する。
それぞれの思惑とは裏腹に、
オルランドとアルチーナは、
手ぶらでステージを去ることになる。」

確かに、こう書かれると、
ハイドンなどとは対極の思想が語られているように見えてきた。
オルランドのように一途であろうとも、
アルチーナのように奔放であろうとも、
舞台を去る時は手ぶらなのである。

「アルチーナの世界、
その危ないゴルドーニ風の宿に入った者は、
お互いを利用する名士たちの世界であり、
友情の世界ではない。
この物語の最終局面で、ある時は狂気、
ある時は年を取ることへの憂鬱な瞑想を感じる。
アルチーナの主たる問題は、
アンジェリカがその魅力の絶頂にあるのに、
彼女が盛りを過ぎたということである。
若くてハンサムなルッジェーロが、
彼女がすがれる最後の藁であったのだろうが、
死の天使ではなかったと言えるだろうか。
オルランドは完全に狂気にあって、
最後に死の舞踏を踊る。」

ということで、この解説を書いた、
ウィレム・ブルルスは、
まさしくこの演出で描かれたようなものを語っている。

「『魂のジュリエッタ』でも、彼女は結局は家を出て、
寂しくも賢くなって、小さな自分の宮殿を出る。
どこに行くのだろう。それは分からない。
ただ分かっているのは、経験を経て、
自身を発見して、彼女は、もはや、
ヴィヴァルディのオペラの最後の言葉を、
信ずることはできなくなったということだ。
『真実の恋人が、ずっと変わらず愛したら、
最後には、愛の褒美があるでしょう。』」

ということで、このブルルスが書いたような内容の
オペラになっているか見てみよう。

第三幕:
Track27.
「ヘカテの神殿への通路で、
寺院を包む鉄の壁」のあるシーンである。
アストルフォは、アルチーナに復讐しようとしている。
なんだか躊躇いがちなルッジェーロを促している。
アストルフォは、「勇気をもって戦うところでは、
怒りの地獄とて無力である」というアリアを歌い上げる。

「ルッジェーロ、ブラダマンテとアストルフォは、
オルランドは死んだに違いないと考え、
彼のための復讐を誓って、アルチーナを探しに行く。」
とシノプシスにある部分。

歌詞の内容にふさわしく、
高らかに歌い上げられる声を、
活発なオーケストラが盛り上げていく。
熱唱で拍手。

Track28.
ブラダマンテも登場。
彼らが相談しているうちに、
アルチーナも来る。
「地獄のヘカテの寺院を守る、
鉄の壁の前で、彼女が現れたところに彼らは行き会う。」
という部分。

Track29.
いきなり、アルチーナは簡潔なアリアを歌う。
「私の弓はあなたを打ち砕く、
私のたいまつは、あなたを消す。
残酷で凶暴な愛の神よ」。

彼女は、彼らに襲いかかろうとするが、
ブラダマンテが指輪をかざして、
その力を封印する。

「天国も地獄も聾唖者だわ」と、
アルチーナは嘆くが、このころには、
彼女の顔は、おどろおどろしくなっている。
「開門して、女王様の道を現わせ」と、
アルチーナが命じると、背景が変わって、
暗黒の世界となる。

Track30.
「彼女の呪文は、メリッサの指輪で封じられるが、
彼女は、鉄の壁を開けて、寺院の門を現わす。」
という部分であろう。

シノプシスに、
「この時になってオルランドが現れ、
なおも取り乱し、興奮を露わにする。」
とあるように、剣を振り回して、
オルランドが叫んだり、嘆いたりする。

この間に、ブラダマンテが、
騎士アルダリコだと名乗って、
アルチーナが騙されて、
「なんと魅力的な戦士なの」
という部分があるはずだが、
見落としただろうか。

こうやって、アルチーナは、
逃げるのをやめて、自身の秘密を、
ばらしてしまうのではなかったっけ。

オルランドは、早口で叫んだり、転げまわったり、
アルチーナと、「ラ・フォリア」のダンスを踊ったりしている。
ブルルスの解説にあった、死の舞踏であろうか。

「オルランドのフォリアだ、踊ろう、踊ろう」と、
うわごとのように言って旋回する。
アルチーナも破れかぶれなのか、
自虐的に付き合っている。

そこにふらふらと現れるアンジェリカ。
いったい、何がどうなっているのか。
アンジェリカに抱きつき、
抱きかかえられるように倒れるオルランド。

Track31.
「スコップがかすめて切って、
真紅の花が萎れて死んだように・・」
という不気味にもシンプルな歌をアンジェリカが歌う。
「愛するものと離れていると、
愛する心は胸の中で萎れる。」

オルランドは飛び起きて、
「ああ、不実な昔の恋人よ、
アムピオンの家柄を誇り、
自身を楽しませる歌を歌う。
私が乞うと、あなたは歌うのだ」と、
今度は、アルチーナに縋り付く。

すると、アルチーナは、
ますます、不気味な化粧になっていて、
「愛する人と共にある生活以上に、
幸福で楽しい人生があろうか」
などという、アルチーナらしからぬ歌を歌う。

アンジェリカが、
「でも愛する心には、
愛する人と離れていることより、
悲しいことがあるかしら」などと言うので、
オルランドは、彼女に襲いかかり、
「捕まえたぞ、残酷夫人」などと言うので、
アンジェリカは悲鳴を上げる。

オルランドとアンジェリカ、
アルチーナとアストルフォ、
ルッジェーロとブラダマンテが、
互いの影のように絡まり合っている。

シノプシスに、
「ブラダマンテやアルチーナ、
ルッジェーロにメドーロが愛について観照する」
と書かれたところだろうか。

アンジェリカのアリア。
「かわいそうな私の心。それは無垢だった。
恐れて、影をなすのは、
あなたの忠誠が嘘だったこと。
恩知らずの人よ。
私は言いたい。
あなたは間違っていたし、うそつきだった。
私の忠実さは、あなたの無礼も、
報いとして黙って受け取るわ」というもので、
なぜ、アンジェリカが?という内容。

おそらく、アンジェリカは反省しているのであろう。

これまた、切々としたもので、
オーケストラが悲哀を増幅し、
暗闇の中で、それぞれが思いをはせている。
オルランドだけは、ふらふらと踊っているが、
いきなり、アンジェリカに抱きつかれる。

Track32.
前の情景は難しい情景であったが、
ここも引き続き、難しい。

「彼女は行ってしまった。
なんと不誠実な。恐るべき怪物だ。
その歪んだいろいろな顔には、
美少年エンデュミオンの顔が見えるようだ。
しかし、実際は、それはバジリスクであり、
サーペントの蛇、ドラゴンなのだ」
などと言いながら、オルランドは、
ブラダマンテにすり寄っている。

そして、「ぶっ壊す」と、壁を叩き、
アルチーナに詰め寄る。

アルチーナは、ブラダマンテを、
アルダリコという美男子だと勘違いしているので、
「もっと、きれいな場所を見せてあげる。
先に行って待っていて」などと言っている。

この間、ブラダマンテは、
アルチーナから、アロンテの弱点を探りだすはずだが、
そのシーンははしょられたのだろうか。

先に行けと言われたので、
ブラダマンテはしぶしぶ出ていく。

が、その前に、
ブラダマンテのアリアが始まる。
「私はあなたとつながっている。
心はあなたに誓っている。
忠実と、誠実よ」というもので、
力強い、英雄的なものであるが、
かなりの技巧を必要として、
ハンマーシュトレームも限界まで行っている。

いろんな人に話しかけるようにして、
ルッジェーロは突き飛ばす。
アルチーナは新しい恋人ができたと、
うれしげにしている。

ルッジェーロがめそめそしているのに、
アルチーナは、
「新しい恋人は、ルッジェーロより魅力的だわ」
などと言って、嬉々としている。

Track33.
このDVD、この第三幕が一番、私には苦しい。
このトラックも、うじうじしてなかなか先に進まない。
マリリン・ホーンのDVDでは、
もうそろそろ、神殿を叩き壊すところであろう。

なぜ、アンジェリカを得たメドーロと、
アルチーナを失ったルッジェーロが、
ごちゃごちゃと口論する必要があるのだろうか。
そもそも、みんな同じような恰好をしているので、
誰が誰だか分からないではないか。

メドーロは、くよくよしているルッジェーロを叱り、
「過去の愛の失敗から逃れるなら、
心変わりの中に貞節がある」などという、
難しいフレーズが出てきたりする。

Track34.
そろそろ、ルッジェーロが、
オルランドを苦しめたのは、こいつらだと、
アンジェリカとメドーロを、
シバキ上げるシーンだと思っていたが、
ようやく、そんな感じになってきた。

ルッジェーロのアリア。
勢いのある弦楽が爽快だが、
舞台上では、剣を突きつけたりして、
限りなく物騒な状況である。
「恐ろしい深い渦の中の波のように、
風と嵐にもてあそばれ、
ぼうぼう、びゅうびゅうと深い海に沈む。」

Track35.
メドーロが、狂ったオルランドを見て、
「愛の中で、心は、平和と穏やかさを見出す。
しかし、愛は常に恐れ、おびえるもの」
と歌いだし、
ほとんど、同様に狂気にかられたようなアンジェリカに、
「でもいつか、それが充足することを望む」
と歌いかける。

この内容にふさわしく、穏やかさに満ちた音楽で、
やや安逸だが、平安への祈りが感じられる。

Track36.
オルランドの再度の狂乱。
「暗い陰鬱な影よ、お前は私を怖がらすつもりか。」
などとうわごとのように言っているが、
舞台上では、メドーロを脅したり、
突き飛ばしたりしている。
アンジェリカには、「私から逃げろ」とも言う。

壮絶なアリア。
「地獄に降りて、
きれいで残酷な女への復讐を探す」
という短いもの。

そのあと、アンジェリカは美しいが、
手におえない、などと幻覚を見て騒ぎ出す。
「アンジェリカは、かつて私に愛を誓った」と言って、
ト書きによると、神像を抱きしめるはずだが、
舞台では、なんと、アルチーナを抱きしめ、
「なんと固いんだ、きっと怖くて凍ってしまったんだ」
「こわがらなくてもいいんだよ」
などと言っている。

そして、「疲れた」と言って、寝てしまう。

Track37.
アルチーナが叫びだす。
「私はどこに逃げればいいの。」
「私は復讐され、罵られた。」
「私の苦しみは永遠」、復讐だと言って剣を取り、
オルランドを殺そうとする。

Track38.
止めに入るルッジェーロ。
「あなたのもっとも恐ろしい迫害者だ」と言い、
彼は、むしろ、アルチーナを殺そうとまでする。
アルチーナはブラダマンテに縋り付くが、
彼女も、「私は敵よ」と寄せ付けない。

みんなは、アンジェリカを、
「この女がオルランドを崖に上らせ、
発狂させた張本人だ」というと、
こともあろうか、アンジェリカまで、
アルチーナを糾弾する始末。

Track39.
アストルフォがかっこよく出てきて、
「私には神がついている」とまで言い切る。

すると、オルランドが起き上がり、
「ここはどこだ」、
「やったことは皆、間違っていた」などと言って、
反省を始める。

それを見たアルチーナが、
今度は狂乱の騒ぎである。
「不公平な神様、運命よ、敵意に満ちた星たちよ、
私の嘆きと恥ずかしさは、あまりにも無情。
すべてが私の破滅を願う、
オルランドは正気に戻ったのに。」

激烈な伴奏を伴う、
壮絶なアリアでラーモアは、
思わず地声のような響きも立てて、
「裏切られた愛の復讐のため、
悪魔を呼び寄せてやる」と、
壮絶な歌唱。

そして、破滅を意味するのか、
背景に横たわってシルエットとなる。
大拍手である。

最後に合唱で、
「ミルテと花と共に、
キューピッドが降りてくる。
誠実と忠実に冠を授けるために」と、
寿がれて全曲が結ばれる。

オルランドは正気に戻って、
喜んでダンスする。

実は、表紙の写真はこのシーンだった。
私は、前回、間違えたことを書いた。
表紙のバックの黒いシルエットは、
入滅したアルチーナである。

ということで、下記のような、
スペクタクルなシーンは、
シノプシスにはあるが、
今回の演出では、見ることができない。

「オルランドはメーリンの像を見つけ、
アンジェリカと間違える。
番をするアロンテと恐るべきその鉾を打ち破り、
彼は像を抱き、キスをする。
アルチーナの島を覆っていた魅惑はたちまち崩れだす。
寺院は崩壊し、王国は砂漠の島となる。
敗れたアルチーナは、恐ろしい復讐を誓って逃げ去る。
その間、オルランドは正気を取り戻し、
アンジェリカに詫び、メドーロとの婚礼を祝う。」

得られた事:「ヴィヴァルディの『オルランド』では、一途なオルランドも奔放なアルチーナも、最後は手ぶらになって舞台を去る。ハイドンの時代のような割り切りはない。」
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by franz310 | 2012-09-01 17:16 | 古典 | Comments(0)