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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その339

b0083728_110278.jpg個人的経験:
ハイドンの作品鑑賞と言えば、
ベートーヴェンの場合と同様、
交響曲や弦楽四重奏曲、
そしてピアノ・ソナタなどが
取り上げられることが多い。
その他、オラトリオやミサ曲も
聴かれる機会が多いようだが、
例外はあるものの、
どのジャンルをとっても、
渡英(1790年)前後以降の
作品の人気が高い。
従って、それより遙かに前に
作曲されたオペラなどには、
興味の範囲を広げるのは難しい。


が、今回、聴いたDVDなどの表紙写真などを見ると、
オペラも聴いてみようかな、と思うような、
ヤバさがにじみ出ていて良い。

長髪の白髪の物乞いのような老人が、
画面の端に写っていて、
画面中央には、謎の人物の影が浮かび上がっている。
シンプルな舞台で、手前の棺のようなものしか、
何の手がかりもない。

このように、このDVDの表紙から紹介していくと、
やはり、へんてこなだけで、これゆえに、
ハイドンのオペラに興味が出るような代物ではない。
前言撤回である。

オペラと言えば、社交界の名士が集まり、
舞台上の美男、美女に我を忘れるもの。
このハイドンのDVDには、
そうした意味でのわくわく感はまるでない。

シェークスピアのリア王みたいに、
人間性をえぐり出す作品だとすれば、
華やかな世界を夢見て劇場に足を運ぶ人が、
うんざりするかもしれない。

やはり、ロンドン時代以前に書かれた作品は、
ハンガリーの片田舎で書かれたもので、
そうした華やかさに乏しく、
ちょっと格下扱いされてもやむを得ないのであろうか。

交響曲が良い例で、
ロンドンのための12曲は、
特別扱いされているし、
弦楽四重奏曲なども、
1790年の作品64などが頂点であろう。

実際、これらの作品より前の作品では、
色彩とか立体感、規模などで、
明らかに一線が画されたような感じがある。

あるいは、モーツァルトとの交流が、
ハイドンの創作に対する態度に、
変化をもたらしたのかもしれない。

モーツァルトが、ハイドンの四重奏を規範とした、
「ハイドン・セット」を完成し、
ハイドンに聴かせたのが、1785年ではなかったか。

このハイドンのオペラは、それに先立つ作品で、
ハイドンが自分より24歳も若い
モーツァルトから影響を受ける前夜、
1782年の作品である。

したがって、ハイドンの後年の作品を彩る、
豊かな情緒性を期待してはいけないような気がする。
事実、この表紙写真は、
幻想的な色調に期待させられる面もあるが、
あまりにも華がない。

ハイドンが弦楽四重奏曲作品33で、
かなり実験的な技法を確立したのが1781年で、
それに近い時期の作品となれば、
かなり、強引で緊密な音楽を、
連想してもおかしくはないだろう。

と、かなり前振りが長くなってしまった。

ところが、これがかなり、予想と違うのである。
音楽には広がりや変化があり、
感情の起伏も大きい。
しかも、抱腹絶倒のばかげた作品で、
「リア王」を連想されるところなど皆無である。

ハイドンが、モーツァルトから、
学んだことがあったとすれば、
あるいは、こうした劇音楽の情緒性を、
器楽曲に入れ込む工夫だったのではないか、
などと考えてしまった次第である。

今回、聴くDVDは、このオペラ、
「騎士オルランド」のぴちぴち感を、
より前面に押し出したもので、
ハイドン没後200年の2009年に、
ベルリン国立歌劇場で上演されたライブであり、
ルネ・ヤーコプスが、先鋭かつスタイリッシュな、
フライブルク・バロックオーケストラを指揮している。

演出は、ローリーとホセインプールのコンビで、
人気のある人たちだという。
そういう偏見に満ちた目で、
このへんてこな老人が彷徨っている表紙写真を見直すと、
この、いあにもの出で立ちからも、
そのへんてこさが伝わってくるようである。
この老人が恋に焦がれる、
勇猛な騎士、オルランドそのひとの姿であろうとは、
誰が考えるであろうか。

中の映像を見ていっても、
絶世の美女とされる、アンジェリカ役に、
マリス・ペーターゼンという
1968年生まれのドイツ出身の
美人ソプラノを持って来ているところが嬉しい。

このDVD、Euroartsという、
レーベルが出している2枚組DVDである。
買ってから気づいたが、
この映像は一部、YouTubeでも流れていた。
お持ちでない方は、適宜それを見て、
DVD購入に踏み切っていただければ良い。

いくら万能のネットでも、
「英雄喜劇の傑作」と題された、
Guido Johannes Joergの解説までは、
出ていないようだ。

まず、これを読んで、聴きたい感を高揚させよう。

「『英雄喜劇』という一般用語は、
オペラ文献では、極めて稀なものである。
騎士道が、遠い過去になって、嘲笑のまとになった頃、
特に17世紀、ヴェネチア・オペラにおいて
『お祭り騒ぎ(カーナヴァライズド)のようなもの』になった。
その文学的典型は、これまで最も影響力のあった、
イタリアのみならず広く読まれた英雄喜劇の一つ、
『オルランド・フリオーソ』からの物語である。」

ということで、冒頭から、この作品が、
お祭り騒ぎの要素を持っていることを予告している。
たぶん、このような見方が、今回の演出の背景にあるのだろう。

「自身、貴族で騎士でもあった、
イタリア・ルネサンス期の詩人、
ルドヴィコ・アリオストの叙事詩で、
マッテオ・マリア・ボイアルドの、
未完成の『恋するオルランド』の続編として書かれた。
これらの詩作の背景は、サラセンに対する、
シャルルマーニュの軍事行動で、
シャルルマーニュ伝説の記録としては、
古いフランスの『ロランの歌』や、
古くからの騎士の物語があった。」

「ロランの歌」は岩波文庫にも出ていたが、
これは、どちらかというと、
友情の物語であったように記憶する。

「主人公はシャルルマーニュ伝説からの、
ドイツの英雄ローラントで、
彼はシャルルマーニュの甥とされた。
イタリア貴族のエステ家の家系は、
もう一つの重要なテーマで、
アリオストはエステ家の外交官、顧問であったので、
伝説の中の重要人物に所縁あるものとして、
家系図を彼等のために描き上げ、
トロイのヘクトール神話にまで遡った。
両方の詩は、ローラントを広く、遠くまで有名にした。」

ここの記述、少し分かりにくい。
アリオストがエステ家に仕えていたことも知らなかったが、
彼は、エステ家の家系をヘクトールまで遡ったことは分かった。
が、シャルルマーニュの甥のローラントとは、
どのような関係になるのであろうか。

エステ家は、リストが「エステ家の噴水」など、
ピアノ曲を作っているが、
ローマ近郊に素晴らしい庭園が今でも観光地になっている。
中世以来のイタリアの名門である。

しかし、ネットでこのあたりを調べると、
「狂えるオルランド」がウィキペディアに出ていて、
オルランドはイスラムとの戦いを無視して、
アンジェリカを探していたので発狂したとか、
女戦士、ブラダマンテが、
敵軍のルッジェーロに恋をして、
エステ家の起源になった、
とか、いろいろ書かれていた。

何と、実は、ルッジェーロの方が重要人物で、
この人は、むしろイスラム方の戦士だったとは。
メドーロといい、ルッジェーロといい、
かっこいい若い英雄たちは、
みんなイスラムの兵士であった。

エステ家にとっては、
オルランドのような狂人よりも、
むしろルッジェーロやブラダマンテの方が重要だったようだ。

そう言えば、ヘンデルやハイドンの「オルランド」では、
この二人はすっかり消えてしまって、
オルランド、メドーロ、アンジェリカの三角関係の物語に、
すっきりさせられている。

エステ家と関係のない、ロンドンの王族や、
エステルハーツィの宮殿では、
よりアクティブで怪しいオルランドだけで良く、
アルチーナの魔法でへべれけになっている、
単なる優男のルッジェーロなどはお呼びでなかったわけだ。

そう考えると、ブラダマンテとルッジェーロは、
ヴィヴァルディのオペラでも、
どうも話を複雑にするためにしか出て来ない感じ。
さすが、お膝元のイタリアでは、
この二人を外すわけには行かなかったのかもしれない。

このように、
ハイドンの英雄喜劇の話を読んでいたつもりが、
エステ家の家系図や、ホメロスの叙事詩にまで遡り、
トロイのヘクトールにまで連なる話として紹介された。

このヘクトールが、どのようにエステ家と繋がるかが問題だが、
ルッジェーロが、実は、ヘクトールの子孫という伝説があるようだ。

ということで、オルランドやローラントは、
エステ家にとっては、
単なる、余所の家の馬鹿兄ちゃんという設定でも、
まったく差し支えなかったのであろう。

ただし、シューベルトのオペラでも、
このローラントは出て来るように、
ロランの方は、どんどん有名になって、
ヨーロッパの代表的な英雄になる。

「ヨーゼフ・ハイドンも、この主題に関しては、
よく通じた人であった。
彼がアリオストを読んでいなかったとしても、
エステルターツィの居城で、
17世紀の最後の四半世紀に大流行した、
数知れないアリオストの伝説、
神話中の人物に関する音楽劇に親しんでいたに相違ない。
彼は全ヨーロッパで100曲もの劇場作品が上演されていた、
当時の大オペラ作曲家、イタリア人の、
ピエトロ・アレッサンドロ・グリエルミによる、
『ドラマジョコーソ、狂気のオルランド』を、
上演しようとしていたと考えられている。
グリエルミの『オルランド』は、
1771年、ロンドンのキングス・シアターで初演され、
ある時は『騎士オルランド』、
ある時は、『オルランド・フリオーソ』として、
何度も再演されていた。
それはどんなものかと言うと、
美しい王女のアンジェリカが、
サラセンの戦士メドーロと恋に落ち、
気違い沙汰の嫉妬によって、
騎士オルランドが二人を殺そうと追いかけるもの。
妖精アルチーナの魔法があって初めて、
オルランドは、回復して、恋人たちは救われる。」

ハイドンは、このように、「狂気のオルランド」について、
とても良く知っていたと思われる。
が、それは「英雄喜劇」ではなく、
「ドラマ・ジョコーソ」(音楽のためのおどけ劇)であったようだ。
このように読むと、グリエルミが、
オルランドをどう扱っていたかが気になって来るが、
先に進むしかあるまい。

「貴賓の訪問がアナウンスされ、
エステルハーツィにおける、
この作品の新上演は明らかに行われなかった。
そして、宮廷詩人と宮廷楽長による新作初演で、
それは飾られることになった。
結局の所、エステルハーツィの王子は、
壮大に、『エステルハーツィの妖精王国』を、
こうした機会に開陳したかった。
驚く無かれ、ハイドンの雇い主は、
贅沢な宮廷ゆえに、『奢侈愛好家』とあだ名をつけられていた。
当時のヨーロッパの名士だったハイドンもまた、
この来賓、1780年代の初頭、
ヨーロッパ中を旅していた
ロシアの大公パーヴェル・ペトロヴィッチと、
彼の妻、マリア・フェードロヴナには、
すでにヴィーンで会ったことがあって、
さらによく知られていた。
彼は、ヴュッテンブルクの皇女として生まれた大公妃に、
『彼の作品の一つをレクチャーし』、
それゆえに『ロシア四重奏曲』と呼ばれる
作品33の弦楽四重奏曲の印刷したものを彼女に捧げた。
1782年の8月、大公夫妻はヴィーン再訪を望み、
さらにエステルハーツィにも足を運ぼうとした。」

今は2012年の7月の終わりであるから、
230年前のエピソードということになる。

このようにして、ハイドンは、
新しいオペラを書く事にしたのである。

解説はまだ半分あるが、これは、
次回、読み進めることにする。

では、このDVDの1枚目(第1幕)を聴いて行くことにしよう。

Track1.オープニングであるが、
シュターツオパー・ウンター・フォン・リンデンの外観から拍手。

Track2.
序曲は、弦楽器奏者がひしめいて、
かなり大編成に見えるオーケストラを、
ヤーコブズが柔軟に指揮し、
アーノンクールで聴いた時より、
情感に満ちた演奏に聞こえた。

時折写る管楽器やチェンバロの古風な感じも良い。

Track3.
ミニスカートに変な帽子をかぶって、
眼鏡をかけて鉄砲を振り回す、
めちゃくちゃなエウリッラに、
山賊風のリコーネの前に、
海賊風のロドモンテが現れる。

まったく羊飼いの親子と中世の戦士の
遭遇には思えない。
最初こそ、山間の村みたいな背景が見えているが、
途中から、真っ暗な森の中になる。

Track4.
かなり乱暴者のロドモンテが、
フランスの騎士を見たかという問いかけに、
エウリッラはアンジェリカとメドーロの事を教える。

Track5.
彼等がいかにいちゃついていたかを、
アリアで報告するエウリッラ。

Track6、7.
ロドモンテは、オルランドを探しに行くという。
自分が実はバルバリアの王で、
いかに強いかを語るロドモンテは、
剣を振り回して武勇団を歌う。
その間、リコーネの腕を切りつけてみたり、
懐から取り出したデジカメをエウリッラに渡し、
ポーズを取っているのを撮影させたりしている。

Track8.
塔の中にいる設定であるが、
どこであろうか、宿屋のような広い室内で、
アンジェリカが、
「この恋する魂はどうなってしまうの」
などと、歌っている。
この曲の豊かな情感など、
完全にモーツァルトやシューベルトに直結しそうである。
何だか、宿屋の女将みたいなのが一緒にいる。

Track9.
アンジェリカが、メドーロの事を思い、
魔術を使ってでも、苦痛を和らげたいと、
レチタティーボ。

Track10.
すると、いきなり、電灯が明滅し、
二人の女たちは、金縛りに会ったみたいに、
痙攣を始める。
オーケストラは、激しく雄渾な音楽を奏でる。
このTrack8、10などは、
この路線でハイドンが交響曲を書いていたら、
ロマン派はもっと早く来たのではないか、
などと思わせる程の色彩感と情緒性を持っている。

女将みたいな女性はいきなり表情がヤバい感じになって、
「魔女に何を求めるか」とか言って、
オルランドを恐れるアンジェリカを慰める。
何と、これがアルチーナだったのである。

Track11.
アルチーナはいきなり服を着替えて、
地味なものから白いドレスになって、
自分の力を誇示し始める。
この部分の音楽も、打楽器が炸裂し、
サーベルのようなものがガチャガチャ言って、
ものすごい迫力のものである。
怪しい魔物たちが現れるが、
みんなやっつけてしまう。

Track12.
メドーロ登場。
なかなかのイケメンで、アンジェリカと、
美男美女で、かなり説得力のある配役だ。
オルランドがどんなだかは分からないが、
このカップルには勝てない。
メドーロは、オルランドの従者に会った事を、
アンジェリカに告げる。

Track13.
メドーロがくよくよ悩むアリア。
ここにいれば、狂ったオルランドがやって来て、
アンジェリカに迷惑がかかると考えているのである。
このアリアも控えめなものながら、
情感としては深い広がりがあり、
弾奏されるハープの音色も美しい。

また、音楽が激しく高まるところも、
かなり、聴き応えがある。

ハイドンは、宮廷の音楽監督として、
数多くのイタリア・オペラを上演してきたから、
オペラに慣れていたそうだが、
実に、うまい曲作りである。

メドーロは鞄を持って行ってしまう。

Track14.
オルランドの従者、パスクワーレ登場。
色恋のことを妄想したアリア。
猟師だろうか、分厚いコートに、
でかい荷物を背負い、そこにはシカ一頭の姿もある。
口笛も使って、非常に効果的な演出。

Track15.
いきなりロドモンテが剣を抜いて襲いかかって来る。
非常に危ないキャラである。
そこに、エウリッラが、
オルランドがいた、などと報告したので、
パスクワーレは救われる。
すかさず、彼はエウリッラに言い寄る。

Track16.
早口によるパスクワーレのアリア。
面白い遍歴の日々が語られ、
日本にも行ったことになっている。
エウリッラはダンスなどに付き合いながら、
結構、喜んで聴いている。

背後の森の中では、
かなりヤバい恰好の乞食風の男が、
何か苦しんでいる。

Track17.
チェンバロの素敵な音色の序奏に続き、
森の中に、メドーロとアンジェリカが迷い込んで、
あいかわらず、付いて行く、それは望まない、
などとやっている。

「あなたは、もう私を愛していないのね」、
とアンジェリカが言い放つと、
Track18.の祈りのような後悔のような、
敬虔な情感に満ちた序奏が始まって、
「行かないで、愛する人」と、
アンジェリカは一転して、すがるような声を出す。
途中、「正義の神様、なんとひどい日なのでしょう」と、
技巧的な楽句を縦横自在に操る。
オーケストラの活躍もめざましく、
すごい拍手がわき起こっている。

Track19.
メドーロはアンジェリカを置いてくるが、
反対に、「嫌われたら生きていけない」などと言っている。

Track20.
何と、背後で苦しんでいた乞食風の白髪男が、
オルランドだったのである。

頭を抱えて森の中で苦しんでいる。
メロドラマ風に活発な管弦楽を背景に、
レチタティーボで呻き、
木々に刻まれたアンジェリカとメドーロの名前を見て、
遂には木を放り投げ、抱きしめて、
Track21.のアリアとなる。

木々が、クリスマス・ツリーの、
大きい版みたいなので出来る。
「幸せなメドーロとある、これは何事か」と大騒ぎし、
「アンジェリカ」の名前を連呼する。

このアリアはメロディ的な要素に乏しく、
とにかく、勢いで推進するもの。
途中、乱入して来る闘牛士みたいなのは、
リコーネだろうか。
オルランドはそれに突進を繰り返し、
遂には、再び、森の中に消えてしまう。

Track22.で再び、
パスクワーレとロドモンテが邂逅するシーン。
ロドモンテは、「どこにオルランドを隠した」と叫び、
行ってしまう。
すると、今度は、オルランドが現れ、
一緒に戦え、とパスクワーレに迫る。
すると、エウリッラが来て、
ややこしい状況に突入。

Track23.
「あの残酷な女はメドーロを愛しているのか」
「話さないと殺すぞ」と、オルランドは、
エウリッラに詰め寄る。
パスクワーレも一緒になって、
どたばたの三重唱になるが、
オーケストラは、この状況をあおり立てて迫力がある。

Track24.
舞台は変わって、あの宿屋で、アンジェリカが歌っている。
何故か、アルチーナは暇そうに、床に座り込んでいる。
管弦楽が奏でるのは、非常に劇的な喚起力のある音楽で、
「何てひどい苦しみの日」などと言う歌詞を盛り上げる。

そこに、パスクワーレやエウリッラが突入、
怒り狂った男が迫っております、
と注意するが、何とロドモンテまで入って来て大騒ぎ。

Track25.
何故かメドーロが戻ってきて、
恋人たちは向かい合って見つめ合い、
愛を確認し合う二重唱を歌い上げる。

「誰が僕を保護してくれるの」、
「誰が不幸な者を救ってくれるの」と、
あなたしかいない感が濃厚、お熱い限りである。
二重唱の密度が高まるにつれ、
音楽はどんどん崇高な雰囲気となって行く。
これは、全曲屈指の聴き所であろう。

シューベルトも、こうしたメロディを、
愛好したような気がする。
木管のオブリガード付きで、極めて優しい雰囲気が立ち込める。

このように平明でありながら、
心にしみいるメロディの創出は、
古典派から初期ロマン派において、
究極とも思える命題であったが、
ハイドンは、ここでは、素晴らしい高みに達している。

この演出では、ついついつられて、
パスクワーレまでが口ずさんでいる。

すると、魔女アルチーナが立ち上がって張り切って、
「愛と運命のご加護があれば、
ユピテルの雷にも打たれはしません」などと、
唐突に威勢の良い歌を歌い出す。

このような不自然な感じが、
このキャラクターの信用できない部分を表している。

さらにロドモンテが乱入して、
「守ってしんぜよう」と騒ぎ出す。
早口の大騒ぎが始まり、
躍動感のある音楽が、
終曲の盛り上がりを用意する。

パスクワーレなどは、
「主人がオルランドが大きな剣を手にしてやって来る。
ああ、恐ろしい」などと言っているのが面白い。

何と、オルランドが外から宿の壁を壊し始め、
銅鑼の大音響と共に、顔を突っ込んで騒ぎ出し、
斧を持って突入してくる。

原作では、オルランドは鉄の檻に閉じ込められるが、
ここでは、アルチーナの服でぐるぐる巻きにされている。

アルチーナは大騒ぎを扇動し、
魑魅魍魎が現れて一緒になって大騒ぎして幕となる。
音楽には再び雄渾なメロディが流れ始め、
爽やかに第1幕を閉じている。

第2幕以降は、2枚目のDVDに入っているようなので、
今回は、このくらいにいて次回、
第2幕以降を聴いて行こう。

得られた事:「『オルランド』や『アルチーナ』のような、ヘンデルのような名作の後で、ハイドンの作品は、第1幕のフィナーレのような大きな構成を生かした曲作りで、ヘンデルにない世界を獲得している。」
「『オルランド・フリオーソ』の隠れた重要人物は、エステ家の祖となるルッジェーロとブラダマンテであった。」
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by franz310 | 2012-07-29 11:01 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その338

b0083728_13162835.jpg個人的経験:
シューベルト渾身の大作、
「フィエラブラス」は、
「 3幕の英雄ロマンオペラ」
とされていたが、
ハイドンの「騎士オルランド」は、
「3幕の英雄喜劇」である。
フィエラブラスは、
くよくよしている英雄であるが、
オルランドは、
前後見境ない英雄である。


そればかりか、何が英雄なのか、
ということも考えさせられるのが、
これら二つの大オペラの悩ましい点である。

二人には共通点がある。
それは、まったく英雄的ではない。
つまり、オルランドも、フィエラブラスも、
好きな人には、まったく相手にされないのである。
そればかりか、恋敵に腹立たしい現場を、
見せつけられるばかりなのだ。

つまり、ふたりとも、
単に失恋した主人公であるにすぎず、
我々が普通に想像するような、
英雄的な働きをしているわけではない。

もしも、英雄的であるとすれば、
共に騎士道盛んなシャルルマーニュ時代の物語、
という点しかない。

ただし、ここで断っておくべきは、
「フィエラブラス」の脇役であるローラントが、
イタリア語では、オルランドになっているということ。

つまり、「フィエラブラス」の中で、
最も英雄的な活躍をするローラントこそが、
オルランドの正体なのである。

さて、前回、この「騎士オルランド」を、
アーノンクールの指揮によるCDで第1幕を聴き、
このCD解説の前半を味わった。

結局、オルランドは、愛するアンジェリカが、
オルランドにとっては恋敵のメドーロと、
ラブラブ・メッセージを木々に書き付けたのを目撃。
失恋の苦悩に狼藉を働く寸前で、
魔女アルチーナによって、鉄の檻に閉じ込められてしまう。

このCDの海外盤解説は、ザビーネ・M・グルーバーという、
心理学者、音楽家、作家という顔を持つ人が書いている。

この前は、ハイドンのオペラ「騎士オルランド」の
成立の背景や、登場人物の概観までを記している部分を読んだ。

彼女の基本的問いかけは、
この作品のどこがおかしいのか、
ということであった。
オルランドが発狂して、めちゃくちゃするのも、
彼女には、まったく笑えないようなのだ。

解説の題名も、「現実的で真実」とあり、
失恋で狂気に至るオルランドが、
単なる「狂気の愛」に囚われた狂人ではない、
という結論だと言わんばかりである。

「プロットはテキストもそうだが、シリアスでも滑稽でもない。
しかし、ハイドンは、我々の予想を嬉しくも裏切って、
シリアスで滑稽な音楽をつけた。が、それもまんべんなくではなく。
彼は私たちを、様々な庭園の小道を導くが、
それがどこに行き着くのかは知りがたい。
どうしてハイドンはそうしたのか。
どうして、何故。
彼は明らかにユーモアと正確な心理的直感に対し、
素晴らしいセンスを持った輝かしい作曲家であった。
しかし、そこには他にも心に持つべきものがある。
我々が知らず、1782年の聴衆とは共有出来た何かを、
彼は知っていたのではないか。」

これが、グルーバー女史の仮説である。
これに対する考察が続く部分で展開されている。
しかし、難解至極で、私自身、理解できているか自信がない。

「『騎士オルランド』は、
19世紀にグリム童話が普及したのと同様、
国際的に普及したベストセラーからのエピソードである。
喜劇的な傑作、『オルランド・フリオーソ』は、
ルネサンス期の詩人、ルドヴィコ・アリオストが、
最初、1516年に出版したものである。
この叙事詩は46歌からなり、多くの幻想物語の母体となった。
リブレット作者は必要なものは、
それらのお決まりから持って来ることが出来、
今日に至るまで、
アリオストの作品は詩人、作家、映画製作者たちの、
隠された創造力の源泉となっている。
『オルランド・フリオーソ』を特別なものにしているのは、
大胆にも時間や空間を無視した作りにしている点である。
しかも、しばしばそれらは高度に個人的なコメントを伴う、
進行によって妨げられる。
歴史的背景はシンプルである。
シャルルマーニュ帝の時代で、
キリスト教の騎士(パラディン)たちは、
異郷のサラセンやムーア人とスペインで戦っていた。
しかし、アリオストは、これだけの中に、
恐ろしい逸話を盛り込んでいる。
1700ページをくだらない中、
彼は読み手に、イマジネーションの花火を開陳する。
ブラック・ユーモア、ずるがしこさ、様々な人生模様。
男らしい英雄は、くだらないことのために戦闘に参加し、
彼等の玩具、つまり馬や武器や妻などを守るために、
これらが基本原理になっている。
最後にはもっぱら、名声や栄誉に興味が行くのだが、
恋に駆られ、女を追い求める。
女らしい女たちも男たちのように戦うが、
それは愛のためである。
両方の性は、最新の技術を使って、
ナビゲーション・システム内蔵のトランスポート手段、
光のサーベル、タイム・マシーン、パリから中国、
果ては月まで行って帰る光速の航空機。
必要に応じて、大天使ミカエルや、
預言者聖ヨハネを、異なる星雲からおびき寄せることも出来る。
ラブ・シーンは、すぐに野蛮な戦闘シーンに取って変わられ、
そこでは頭蓋骨が裂け、ちょん切れた手足が、
キャベツの茎みたいに空中に飛び散る。
しかし、この戦闘もまた、しばしば中断し、延期される。
例えば、大理石のように白い裸体の処女が、
岩に鎖で繋がれ、海の怪物から救われるのを待っている時など。
一つのことは明らかである。
勇敢な英雄たちとされる人たちも、
おそらく、最も明らかなことを先にする。
人生はそのように生きなければならない。
この人生こそ、自由意志と、
天上と冥界からの両方からの超自然の力との、
最も現実的な混合物なのである。」

こんな考察で、ハイドンが、
シリアスで滑稽なオペラを書いた理由が、
納得できたであろうか。

よく分からないが、ハイドンは、
そこに人生そのものを見て取ったから、
と解釈すべきであろうか。

そして、人生は、意志にのみ帰することが出来るものではない、
ということ。この人生哲学を語らせたら、
ハイドンの右に出るものはいなさそうである。

グルーバー女史の次の命題は、
下記のようにあるから、いよいよ、
このオペラの解説の本題ということか。

「私は、さらに長さについて指摘することも出来よう。
私は不能の僧についての物語について語ることも出来よう。
また、高貴な女性が恋をした男が、実は女性だったという話も。
しかし、ハイドンのオペラに戻る時である。
または、その登場人物のさらに正確な経歴に注意を向けよう。
このことが、シリアスな側面でも、喜劇的な瞬間についても、
物語の緊張感に重要な影響を与えている。」

これらの人物に経歴(past)などあるのだろうか。
「アンジェリカが不安に思うのも不思議ではない。
これまで、彼女は男性を使うことはあっても、
何も関わったことがなかった。
次から次に、彼女は男たちに、
ばくぜんと、彼女の処女性を褒美にして、
彼女の取り合いをさせていた。
彼が必要としていたのはボディーガードであって、
もはや、これを必要としなくなった時、
彼女は彼等をふるい落として来た。
もちろん、処女性は保ったまま。
可愛そうなオルランドは、特にひどい仕打ちを受けている。
この方何ヶ月も彼は彼女のために、
日夜をいとわず彼女の敵たちと命をかけて戦ってきた。」

ヘンデルやヴィヴァルディのオペラ解説も読んだが、
こんな背景は、これまで、誰も語ったことはなかった。

「彼は叔父シャルルマーニュへの忠誠心の、
騎士としての誓いを、彼女のために破りさえした。
彼女を誠実に愛したことが、彼の不幸であった。
これによって、彼のみが理性を失うに到った。
そして、遂に、彼女が裏切り者と分かった時、
彼は衣服を裂き、武器を投げ捨て、馬を追い払って、
三ヶ月の間、気が狂ったように国中を駆け巡った。
彼は加害者なのか犠牲者なのか。
キューピッドは彼の味方をして復讐を決め、
槍を次々にアンジェリカに投げつけた。
ひどく傷ついたメドーロという、
サラセンの若者の上にかがみ込むまでに。
彼はブロンドの巻き毛を持ち、
彼女と同様に燃えるような瞳を持っていた。」

このあたりの背景は、
アリオストには描かれているのであろうか。

「優しい性格で、しかし、決して卑怯者ではない彼は、
彼の主人の亡骸を、命を賭けて埋葬したこともある。
アンジェリカは献身的に彼を介護し、
健康を取り戻させた。
そして、初めて恋に落ちた。
たぶん、これが、貰うだけでない、
与える恋を彼女がしたからであろう。
そして、それがメドーロを特別な存在にした。
アルチーナは、アンジェリカより良い存在であろうか。
良い妖精?冗談でしょう。
最初から、彼女は島の楽園の半分を、
妹から奪い取り、両方を手中に収めた。
彼女のお気に入りの活動は、
様々な薬で男たちを夢中にさせ、
したいようにして、飽きた時には、
彼等を木や植物や石にしてしまったのである。
ロドモンテは、荒々しく勇敢な戦士であった。
しかし、彼の恋人は、彼が向こうを見ていると、
他の男に身を委ねた。
彼は傷ついたからこそ、このように怒っているのである。」

これらの事も、どこまでが女史の妄想で、
どこまでがアリオストかは分からないが、
アルチーナが男たちを木や石に変えたことは、
ヴィヴァルディやヘンデルでも衆知である。

次の命題は、
「わたしはそれをすぐに聞き取った。
しかし、多くのリブレット作者は、
登場人物を改変したとはいえ、
オリジナルな個性は残っていた。
ほら、ハイドンの音楽そのものが良い証拠になっている」
というものだが、
グルーバー女史は、アリオストの精神が、
この19世紀も間近にした時期のこの作品から、
聞き取れるかということを模索しているようだ。

「作曲家はオルランド以外の登場人物をすべて誇張して描き、
キャラクターの本質にまで探りを入れ、
その本質をさらけ出す。
ハイドンはシリアスからコメディにジャンプして、
彼等を等身大の人物にする。
アンジェリカは苦しみ愛するほどに、
彼女の悪意が表に出て来る。
メドーロも好んでくよくよするが、
そうすればするほど真実の愛から隙間が出来る。
エウリッラとパスクワーレは、屈託のない魂だが、
彼等は、一緒にいるというより、愛の理想や愛の象徴の中にいる。
怒り狂ったロドモンテは、実際は好人物であることを隠せない。
アルチーナな何事にも大騒ぎし、
真実であるためには良い人に過ぎる。」

私は、このアルチーナが「悪い奴に決まっておる」
という感じの表現がたまらなく感じた。

つまり、ハイドンの書いたリブレットを鵜呑みにせず、
ハイドンの音楽を良く聞け、ということであろうか。
もっと言うと、当時の聴衆にとっても、
アルチーナなど、悪い奴に決まっているだろう、
という感覚があって、それを、
ハイドンは、ちゃんと表現しているということだ。

「オルランドが出て来た時のみ、
私たちは疑念から解放される。
そこのあるのは本物の感情であり、
真実の嘆き、真実の愛、真実の狂気である。
こうした狂人だけが本物であるとは、
何という悲劇的なイロニーであろうか。」

このように考察が終わるが、
最後に、女史はこう書いている。

「ハッピーエンドを好むすべての人のために、
私は一つの慰めを提供したい。
アリオストの物語として。
オルランドは決して改心薬で治癒されたのではない。
彼は本当に治ったのである。
どうやってそうなったのか。
アンジェリカで失われた、彼の心を、
アリオストによれば、
地上でしばし失われたものを保存してある月から。
彼の従兄が彼に戻したのである。
これがアリオストが月について言った全てであり、
月で探す他のものは書かれていない、馬鹿馬鹿しいことに。
それは、すでに地上にあるということであろうか。」

このように、アリオストを良く読んだ結果が、
反映された解説がようやく出て来たわけである。

では、前回聴けなかった第2幕以降を聴いて行こう。
CD2のTrack1.は、いったいどうしたわけか、
森の中のロドモンテとオルランドの立ち会いから始まる。

この前、オルランドは鉄の檻に閉じ込められたはずだが、
どうしたことであろうか。

ロドモンテが挑み、オルランドは、
「狂人め」と応えている。
狂人は自分であろう。

このCDの日本盤の解説には、
解説に当たった水谷彰良氏が、
最後に、
「この録音にはレチタティーヴォにカットが多く、
ブックレットの台本ではシェーナや舞台設定、
ト書き、人物の入退場の指示、
カット部分の台詞がすべて削除されています」
と苛立ちの言葉を残している。

「その結果、対話の繋がりに流れや整合性を欠き、
ドラマの理解のさまたげになっています」と、
ところどころで意味不明になることを断っている。

まあ、そう言うことなのだ。
深く考えずに聴き進もう。

Track2.ロドモンテのアリアで、
自分が強いということをアジテートするお盛んな歌で、
ゲルハーエルの渾身の熱唱が聴ける。
オーケストラも猛り、声と一体となった、
素晴らしい表現が聴ける。

しかし、この後、彼は去ってしまう。
何事だ?

Track3.情景が変わって、
海に面した野原で、メドーロが隠れ場所を探している。
エウリッラが、同情している。
わざわざ付いて来たのであろうか。

グルーバー女史が書いたように、
彼の心には、アンジェリカがあるのかないのか。

Track4.メドーロのアリアで、
私の心配が通じたのか、
「彼女に言って下さい。不運な恋人がここで死んだと」
とか、アンジェリカを思う歌である。

しかし、途中、
「ああ、それを言ってはいけない」とか、
「僕を愛して下さい」とか、かなり錯乱している様子。
こんなうじうじした内容ゆえか、
あまり華やかな歌ではない。
ドイツ・リートの源泉風の表現であろうか。

Track5.うって変わって、
陽気な方のカップルの話に移る。
エウリッラはパスクワーレが来るのを見つけ、
木の後ろに隠れる。

Track6.パスクワーレの勇壮なカヴァティーナ。
ティンパニが連打され、トランペットが打ち付け、
「偉大なパスクワーレを称えよ」と意味不明の展開である。

Track7.一人で酔いしれているのを、
エウリッラが驚かせる。
彼等の、いちゃついた会話が続く。

Track8.待ってました、
と言いたくなるような、
素朴な二人のデュエット。
完全にモーツァルト風のギャラントと、
民謡風を混ぜたような音楽。
途中、短調に変わるあたりもそんな感じ。

マリー・アントワネットが、
羊飼いの女に扮して歌っているような趣きである。

「私も愛の思いが、
ますます燃え上がるのを感じます」とあるように、
屈託のない愛の情景である。

Track9.
アンジェリカのアリアで、
彼女はアルチーナのところに身を寄せている。
もちろん、メドーロのことを思っている。

「穏やかな微風、緑の月桂樹、静かな波」
と歌われるお城からの雰囲気がうまく表され、
妙にエキゾチックな空気感がある。
ふっと浮かび上がる木管のソロの妙味であろうか、

終始、静かに情感を歌われ、
さりげなく技巧が凝らされているのも憎い。
非常に詩的な楽曲となっている。

Track10.アンジェリカは去り、
アルチーナが現れ、
「私はアンジェリカの愛を幸福に変える」
とか言っている。
グルーバー女史の言うとおり、
妙に、もったいぶった登場である。
同情しているというより、
暇つぶしという感じが良く出ている。

Track11.またしても、アンジェリカ。
「この森でむなしく恋人を探しています」という内容で、
レチタティーボで、海に至り、うねる波の中で死のうという。
このあたり、オーケストラが、彼女の決意の重さを、
じゃんじゃんじゃんと簡素ながら効果的に表している。

「死と向かい合いましょう」と、
身を投げようとするところでは、
かなり盛り上がって、
波の砕ける様子を示しているのだろうか。

すると、メドーロ登場。
「ぼくの偶像よ」、「生きているの」と、
盛り上がって、
Track12.の二重唱へとなだれ込む。
ちょっと月並みに、なだらかに歌う感じで、
「愛する心のなんと素敵な瞬間」、
「なんと嬉しいこのひととき」という所で、
少し、陰影がつけられる。

Track13.レチタティーボで、
「行きましょう」、「逃げましょう」とやってるうちに、
オルランドに捕まってしまう。
「わが胸に慈悲などない」と怖いが、
アルチーナが現れて、彼の力を失わせてしまう。
恋人たちやアルチーナが去った後、
彼には、くすぶっていた怒りが込み上げる。
そして、妙な幻覚を見るに至り、
Track14.のアリアに続く。
「私は何を見、何を聴いているのだ」と、
自分が混乱していることを苦悩したアリアである。

オーケストラもそれに輪をかけて、
へんてこな音型を発して、狂気を増幅する。

Track15.は、城内での呑気な方のカップル。
さっき、お城に行きましょうよ、
というのが、ここでは実際にまだ続いているのであった。
パスクワーレは、「私は卑しいしもべです」などと言い、
エウリッラは、「とても優雅に話すのね」と、
気に入った様子である。

Track16.では、
調子に乗ったパスクワーレが、
パリで百人の美女を魅了したという、
音楽の技を自慢している。
ヴァイオリンで魅了したと言っているが、
ヴァイオリンの妙技が出るわけではなく、
「スタッカート」とか「アンダンティーノ」とか、
田舎娘を煙に巻いているような趣き。
が、音楽のうまさをカストラートになぞらえ、
面白おかしく、高音を聴かせているところが興味深い。

この馬鹿騒ぎに合わせて、
オーケストラは様々な装飾で、
楽しい音楽を奏でている。

Track17.
ここに、ロドモンテとアルチーナが来る。
めまぐるしいオペラである。
ロドモンテは、「アンジェリカはどこにいるのだ」
とか言っているが、
彼は、オルランドを探しているのではないのか。
アルチーナは忌まわしい光景を見せるという。

Track18.
魔法の洞窟に、
オルランドとパスクワーレの主従がやって来る。
パスクワーレは、恐れまくっている。
オルランドは、彼に、魔女への伝言を伝える。
うまくいかないので、アルチーナを呼びつける。

ここでは、「復讐だ」とか、「残酷な鬼婆」とか、
オルランドが罵るごとに、
パスクワーレが、
「言ったのは私の主人ですよ」と補足しているのが面白い。
アルチーナは怒って、
遂に、オルランドを石に変えてしまう。

そこにアンジェリカやエウリッラたちもやってくる。
いったい、どうしたわけだろう。
とにかく、第2幕のフィナーレで、
めいめいが、それぞれの思いを口にしていて、
ついていけないくらいの展開である。

オルランドは、いったん、石から戻してもらえるが、
なおもアンジェリカを罵り、
アルチーナが去ると、それを追いかけて行くと、
洞窟が崩れる。

「恐怖が去り、不安が薄れ」という、
爽快な合唱で第2幕が終わる。

この主人公たるオルランドへの、
サディスティックなまでの扱いは、
いったい、どうしたことであろうか。

しかし、これまで見てきた、
どの幕も、オルランドがひどい目に会って終わる。
解説によると、オルランドの事は、
まったく笑えない、とあったので、
我々は、まるで身を切られるような、
自嘲を持って、この扱いを甘受しなければならない。

第3幕はいきなり、「レテ(忘却)の川のほとり」
となっているが、オルランドは、
さすがに死んでしまったのだろうか。

Track19.
冥界への案内役、船頭であるカロンテが、
幽玄な舟歌風の伴奏にのって、
「埋葬されていない霊は、冥府に行けません」
とか、呑気な歌(アリア)を歌っている。

Track20.レチタティーボ。
アルチーナが、偉そうに、カロンテに、
「忘却の水」をオルランドの額に注げ、
とか命令している。
悪い魔女のはずのアルチーナも偉くなったものだ。

Track21.伴奏付レチタティーボで、
オルランドが、夢うつつの声で、
「ここはどこなのか」とか言っている。
アンジェリカ、メドーロ、ロドモンテと、
暗い洞窟にいたのに、
何故、自分ひとりになったのか、
とか、妙に冷静な声になっている。

「あのヒゲもじゃの男は誰だ」などと言いながら、
まどろみに落ちながら、
Track22.のアリアを歌う。

眠いので、まったく迫力のない、
「ここは静寂の王国だ」などと言う、
錯乱の歌。

Track23.
ここでは、カロンテがオルランドに、
何らかの処置を行ったようだ。
「お前の失くした理性を呼び覚まさんことを」
とか言うと、オルランドは苦しみ、
「ああ、何と残酷な苦しみ」とか言っている。

Track24.
ここでも物語は急展開している。
「森の中」とあるが、メドーロは、
何らかのトラブルに巻き込まれたようである。

どうやら、戦闘があって、
彼は血だらけになっている。
恐ろしい事に、アンジェリカは、
「彼は死んでしまう」などと口走って、
逃げてしまうのである。

その後に、クレイジーな二人、
オルランドとロドモンテが駆けつける。

Track25.
「戦闘」という、勇ましい管弦楽曲。

Track26.
城の中庭で、アンジェリカ独り。
「これで私の悲しい人生の修羅場も終わりました」
と、メドーロが死んだと思って、
嘆きのレチタティーボ。

管弦楽伴奏は、かなり雄弁で、
その優雅な佇まいや、恋人の死を思う錯乱が交錯し、
極めて絵画的な情景となっている。

4分半にわたって、神頼みしたり、
絶望したり繰り返している。
第3幕で一番長い曲なので、
このあたりがクライマックスなのかもしれない。

Track27.
「無慈悲な定め、邪悪な運命」、
「この心はもう耐えられません」という、
何となく定石的な言葉が並び、
最後はコロラトゥーラで舞い上がって行く。

Track28.では、いきなり、
メドーロ回復の報が、アルチーナによってもたらされ、
ロドモンテが、オルランドが敵を敗走させたと報告する。
メドーロが現れ、オルランドも「もう忘れました」などと言う始末。
ちょっと待て、これでお仕舞いですか、
と言いたくなる結末である。

Track29.全員によるコーロ。
朗らかに鳴り響くホルンも爽快な終曲。
「もしも幸せでいたければ、
あなたを愛する人を愛し続けなさい」と、
分かったような分からないような歌詞が、
高らかに歌われる。
オルランドは、愛してくれない人を、
ひたすら愛するがゆえに不幸であった。
ということか。

得られた事:「ハイドンのオペラ『騎士オルランド』は、虚飾に満ちた展開の中、一番まともなのが狂人であるという物語。」
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by franz310 | 2012-07-22 13:19 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その337

b0083728_13263029.jpg個人的経験:
ヨーロッパで大ヒットした、
アリオストの長編詩、
「オルランド・フリオーソ」
は、水戸黄門のような、
決まり文句によって、
(印籠や入浴シーンではなく、
英雄の発狂や魔女の活躍)
数多くの逸話が派生し、
それもあってか、
多くの大作曲家がオペラにした。


ヴィヴァルディの「オルランド・フリオーソ」、
ヘンデルの「オルランド」、
(他にも「アリオダンテ」と「アルチーナ」)が有名で、
次の世代(次の次くらいか?)のハイドンにも、
「ハイドンのオペラでは最高」とされる、
「騎士オルランド」がある。

ハイドンのオペラでは、「薬剤師」(1867)とか、
「月の世界」(1777)とか、
「むくいられたまこと」(1780)とか、
へんてこな題名のものが有名であるが、
私は良く知らない。

この「騎士オルランド」(1782)が、
それらより優れているかは、
当然、よく分からないが、
国内盤の水谷彰良氏の解説によれば、
「ハイドンの生前、最も人気を博し」たとあり、
作曲された当時30年間で、24都市で上演されたとある。

なお、この1782年という年は、
「まったく新しい方法で書かれた」、
作品33の「ロシア四重奏曲」の翌年、
「パリ交響曲」に先立つ年という感じである。

例えば、マルク・ヴィニャル著「ハイドン」
(音楽之友社、『不滅の大作曲家シリーズ』)
(岩見至訳)によれば、
「一七七三年から八三年にかけてハイドンは、
そのすべての注意を傾けていた八つのイタリア語オペラと、
マリオネット劇のための七つのドイツ語オペラを作曲する」
と書かれており、この時期の集大成のような位置に、
「騎士オルランド」が位置していることが分かる。

が、この本では、「勘違いの不貞」(1773)と、
「まことの操」(1776)を代表作としている。

しかし、このCD解説は違っていて、
「『騎士オルランド』は、音楽と着想の豊かさにおいて
ハイドンの歌劇創作の頂点をなすとともに、
18世紀喜劇的オペラの最高傑作の一つといっても過言ではない」
と解説を結んでいる。

実際にこれを購入し、これから鑑賞しようとする者には、
非常に期待が込み上げるものである。

ただし、ハイドンの音楽には、
からりと乾いたような爽快さや明晰さがあって、
このどろどろの三角関係を扱ったオペラに、
ふさわしいかどうかには疑問が残る。

最初の序曲からして、ぼくとつな音楽が打ち付けられ、
弦楽主体で、管楽器は補助的の域を出ず、
色彩にも乏しく、しっとりとした要素はあまりない。

主人公の猪突盲信ぶりを表しているのかもしれないが、
あまり美しい音楽という感じはしない。
単調な繰り返しが多い感じで、
この段階で、聴くのをやめた聴衆も多いと思う。

この演奏、日本盤帯には、
「2005年シュティリアルテ音楽祭で絶賛された」とあり、
「豪華歌手陣を動員した決定的解釈」と書かれているように、
アーノンクールの名演の一つのようである。

歌手には、プティボンやゲルハーエルを揃え、
オーケストラはウィーン・コンツェルトゥス・ムジクス。
かなり演奏としては期待して良さそうだ。

原盤はドイツ・ハルモニア・ムンディから出され、
日本ではBMGジャパンが06年に販売している。

ざっと解説を見回しても、
ヴィヴァルディやヘンデルともまるで違う内容で、
さきほども書いたように、
キーワードである、
失恋によるオルランドの発狂と、
魔女の登場が共通項か。

もっとも、ヘンデルの場合は、魔女の部分は、
アルチーナという別作品に集約されてしまったが。
(しかし、ゾロアストロという謎の人物が、
オルランドを治す。)

ヴィヴァルディとヘンデルの場合と同様、
主人公オルランドが発狂した原因である、
アンジェリカとメドーロの恋は健在。
ただし、魔法使いの存在は、どちらかというと、
人の恋路を邪魔するオルランドを懲らしめる感じで、
良い役のように見える。

CD1のTrack2.
山間の平原のシーンにふさわしく、
伸びやかな序奏の後、
このCDのブックレットに収められた写真で、
可愛い笑顔を振りまいている、
ソプラノのマリン・ハリテリウスが歌う、
羊飼いの娘、エウリッラが日々の退屈を嘆いていると、
父親のリコーネ(ヨハネス・カルパースのテノール)が来て、
妙な戦士が来たから逃げろという。

サラセン人を従えたロドモンテという戦士を演じる
クリスティアン・ゲルハーエルが、
英雄的な声を響かせる。
ただし、おとぼけの戦士らしく、
「わしは腹を立て憤慨しておるぞ」
などと、理不尽な戯言を叫んでいる。

Track3.レチタティーボで、
「フランスの騎士がここを通ったか」と、
オルランドを想定してロドモンテが訪ね、
エウリッラは、メドーロとアンジェリカが通ったと応える。

三角関係の3人の名前が出たところで、
当時の聴衆は、いよいよオルランドの物語が始まったことに、
期待に胸を膨らませたに相違ない。

Track4.
それに応えるように、わくわく感に満ちた、
エウリッラのアリア、「もし、あなたに言えたら」。
内容は、恋人たちの愛嬌や愛撫を見た、
という報告をしたもので、
かわいらしい羊飼いの娘が歌うことによって、
劇場はお色気で染まったことであろう。

Track5.
そんな報告を聞いている暇はないと、
ロドモンテは怒っている。
オルランドに劣らぬきちがいキャラである。

Track6.は、興奮が込み上げて、
ロドモンテのアリア。
「わしはバルバリアの王であるぞ」と名乗りを上げ、
いかに、怪物や巨人と戦って来たかを説明している。
ゲルハーエルは、シューベルトの歌曲で有名になった人だが、
そのせいか、今一つ、えげつない芝居っけでのど迫力はない。

ここで、我々は、この破壊的な男が、
オルランドと激突するのではないか、
などと想像すべきだと思う。

Track7.
ここは情景が変わって、「塔の下」とされ、
フルートの独奏によって、
雅な雰囲気が漂って、
いかにもという風情に切り替えられていく。
モーツァルトの室内楽でも聴いているような一瞬である。

そして、人気歌手プティボンの歌う。
ヒロイン、アンジェリカの登場。
「絶えず震えているの私の心は」と、
恋する女の心情をしっとりと歌い上げる。

Track8.は、レティタティーボで、
「魔術の力で苦痛を和らげる」とか、
「メドーロのためを思いましょう」
などと言っているので、
どうやら、魔女と手を組んだことが察せられる。
これは、ヴィヴァルディなどの例と似たパターンである。

ということで、このヒロイン、
なんとなく悪い奴という感じがつきまとう。

Track9.は、激烈なシンフォニアで、
「アルチーナ現る」とあり、
Track10.で、アルチーナのレティタティーボ。
「何を求める」。
アンジェリカが凶暴な騎士オルランドが
私のことで怒り狂っているので、
メドーロとここに身を寄せたと説明する。

Track11.はアルチーナのアリアで、
エリーザベト・フォン・マグヌスのメッゾによる、
モーツァルトを思わせる晴朗なメロディによって、
「私の眼差しだけで深淵ざわめき」という、
魔力が誇示されていく。

面白いリズムや楽器の音色も工夫され、
ハイドンは、劇音楽で、こうした多様さを実現したのに、
交響曲や弦楽四重奏曲においては、
もっと四角四面の表情しか見せなかったのは、
いったいどうしたことであろうか。

Track12.レティタティーボで、
アンジェリカが、
「アルチーナの言葉が慰めてくれる」というと、
メドーロは、なさけない感じで、
オルランドの従者と会ったことを告げる。
アンジェリカは、どこかに隠れるように言う。

Track13.メドーロのアリアである。
ヴェルナー・ギューラのテノールは、
ナイーブなメドーロの性格がよく出たもので、
とても格調高く、古典的なものながら、
低音の不気味な音型が、
「行くか、留まるか」の選択の出来ない、
彼の立場を際だたせる。

途中は、非常に英雄的な表現になって、
これがまた、ハイドンの作曲という、
先入観を打ち破る迫力を持っている。

Track14.はアンジェリカ。
メドーロ様が側にいてくれたら、
怖いものはない、と短いレティタティーボ。

Track15.では、
再びシーンが変わって森の中。
これは、ヘンデルのオペラにも通じそうな、
伸びやかな小唄になっていて、
オルランドの従者パスクワーレが登場。

マルクス・シェーファーというテノールが歌っている。

これまた、色っぽいもので、それに、
たららららららと楽しげである。
完全に、最初から、先ほどの羊飼いの娘、
エウリッラと好一対になっている。

時々、弾ぜられる素敵な音色はチェンバロか、
あるいはハープか。

何だか、オルランドの物語が、
ドン・キホーテのような物語になっている。
本来、シャルルマーニュの軍勢で、
一番の勇将であるオルランドの配下は、
一騎当千の猛者ばかりであるはずなのだが。

Track16.
呑気なパスカーレに、怒り狂ったロドモンテが、
声をかけ、挑戦して来るが、
うまい具合に現れたエウリッラが、
オルランドのことを口にするので、
ロドモンテは、「いざ一騎打ち」と行ってしまう。

パスカーレは、そのまま、
エウリッラに自分の自慢話をし始める。
どうやら、自分では、「戦士」で、
「立派な騎士」だと信じている様子。

Track17.
パスクワーレのアリアで、これまた陽気で楽しいもの。
いろいろな国を渡り歩いた話を歌にしたもので、
俺は日本にも行った、とあるから驚いた。

「俺は日本に行った、
クロアティアにも、ブレッサノーネにも、
プーリアにもソーリアにも」と続くが、
クロアチアはバルカン半島の国、
ブレッサノーネ、プリア、ソリアはイタリアの街だと思われ、
彼の頭の中で、日本がどうなっているかまでは分からない。

その前に「北京にも行った、タタールも見た」
とあるから、何やら東洋の国、
という認識はあったのだろうか。

しかし、どうやら彼は腹ぺこで、
何か食べたいらしい。

Track18.
今度は「噴水のある美しい庭」のシーン。
メドーロのレティタティーボで、
この場所を離れると言い出す。
アンジェリカは、オルランドは強くて危険だと諭す。

Track19.
アンジェリカのアリアで、最初は、
いかにも古典派の時代の歌曲という感じ。
しっとりした夕暮れの情景のオーケストラ。
「行かないで、私の美しきともしび」、
「あなたなしでは死んでしまう」と、
感情のこもった声で、アンジェリカは歌うが、
「その悲しげな目を私に向けて下さい」の部分では、
不思議な色調に沈むかと思えば、
強烈に声を張り上げるなど千変万化して楽しませてくれる。

交響曲や四重奏曲のハイドンからは、
こんな音楽は想像できない感じ。

Track20.
メドーロは、かなり動揺しており、
「誰か近づいて来る」
「もうお仕舞いだ」と、やけっぱちな台詞で行ってしまう。

Track21.
なんと言うことであろうか、
第1幕も大詰めに来て、
ようやく、主人公登場。
遠くから、「アンジェリカ、わが愛しの人」、
「どこに隠れているのですか」と聞こえて来て、
完全に恋の虜の状況であることが分かる、
ほとんどアリアのようなレチタティーボで現れる。

「呪う。宿命を背負うという者という
特権を私に与えた運命を」と、
狂気に至るにふさわしい名言を吐く。

そして、ロドモンテが現れるのを待つために、
泉で身体を休めるという。

が、彼が、そこで発見したのは、
アンジェリカとメドーロの名前が刻まれた木。
これこそは、オルランドを狂気に至らしめる、
水戸黄門の印籠のような小道具である。

ヴィヴァルディやヘンデルの場合、
木に二人の名前が書かれていたと思ったが、
このハイドンのオペラでは、
至るところに「幸せなライヴァルの憎らしい名前が」、
そして、ある木にはアンジェリカの名前が刻まれているとある。

Track22.
待ってましたのタイトルロールのアリアであるが、
「彼女はどこにいるのか」、
「何と奇妙な不安が私の心に押し寄せ」と、
完全に失恋に耐えられない、
男の心を打ち付ける傷手がぎりぎりする苦い歌である。
活発なオーケストラと一体となって、
この錯綜した音楽は、まことに不思議な印象を残す。

ミヒャエル・シャーデというテノールが受け持つ。

Track23.
せっかく出て来た主役であるが、
また、情景が森になって、
ロドモンテがパスクワーレをせっついている。
オルランドはどこにいるのかと怒っている。
すると、エウリッラが現れ、
何かを隠しているのをオルランドが見抜く。
話せ、というオルランドの調子に押されて、
エウリッラは、アンジェリカの事を話してしまう。

Track24.
ここからが、第1幕のフィナーレ。
ヘンデルでは、このような大きな終曲はなかったが、
これはこれで不思議な構成である。

まず、ここでは、オルランドとエウリッラ、
そしてパスクワーレを交えての三重唱が、
快活な音楽と共に盛り上がる。

Track25.
が、いきなりアダージョとなり、
「美しい庭」で、アンジェリカが、
死の恐怖を歌っていて、
そこにはちゃめちゃな感じで、
パスクワーレとエウリッラがなだれ込んで来る。
二人は、なんとパスクワーレまでが、
「お逃げ下さい、怒り狂った男がそこまで迫っています」
などと言っている。
アンジェリカは悩んでいるが、
そこにロドモンテがやって来る。

今一つ、アンジェリカとロドモンテが、
どういう関係の位置づけか分からないが、
ロドモンテはオルランドを宿敵と思っているし、
アンジェリカはオルランドを、
どうにかしたいと思っているのであるから、
一悶着あることを聴衆は期待せずにはいられない。

みなはロドモンテにも逃げろというが、
それがかえって、ロドモンテを発憤させる。
当然であろう。

Track26.はまたまたアダージョとなって、
物憂げな、しかし、爽やかなメロディが流れる。
何と、メドーロがまだまだぐずぐずしていることが分かる。
「ぼくはここで命を終えるのか」。

そこにアンジェリカが加わって、
「誰が救ってくれるのですか」などと唱和する。

この高貴な恋人たちに、
俗っぽい恋人たちが加わって、
「大いなる苦悩」とか、
精妙な四重唱となるが、
じゃーんと銅鑼だかシンバルだかが鳴って、
アルチーナが現れる。
アルチーナ役の声は、凛々しい感じで、
非常に印象的である。

ロドモンテまでが現れて、
アルチーナに、
「人間の能力では彼は屈服させられない」
などといさめられている。

ここでは、エウリッラがロッシーニみたいに、
早口でアンジェリカ、メドーロらに早く逃げろとせかし、
彼等もまた、パスクワーレまでが、
ぺちゃくちゃとものすごい騒ぎである。

これは面白い。

当然、ロドモンテが納得しているはずもなく、
アルチーナと一緒に、
オルランドを待ち受けようとするが、
アルチーナに姿を変えられてしまう。

私としては、大言壮語を吐くロドモンテのお手並み拝見、
という感じであったが、残念な気がしないでもない。
それにしても、人間業ではどうすることも出来ない、
オルランドの失恋パワーのすさまじさはどうだろう。
この時代の人は、こうした力がものすごいものであることを、
現代の我々よりも、強烈に実感していたのかもしれない。

オルランドは錯乱しているので、
誰が誰だか分からなくなっている。
遂に剣を抜こうとすると、
アルチーナの魔法が炸裂し、
じゃんじゃんとシンバルが鳴って、
オルランドは鉄の檻に閉じ込められる。

「何という奇蹟」という人間たちの合唱に、
アルチーナも混じって、
最後の合唱が繰り広げられて、
第1幕が終わる。

ということで、第1幕だけでも十分、
ものがたりとしてまとまっているようにも見えなくもない。
これでめでたしめでたしでも良さそうなものである。

このような構成は、ロッシーニのオペラにも見られ、
例えば、「試金石」のような作品は、
第1幕でそれなりに終わっているのに、
第2幕では、さらにめちゃくちゃ度合いが増す感じである。

ヘンデルやヴィヴァルディのオルランドでは、第1幕では、
まだ、木の幹のシーンすら始まっていない。
第2幕で、仲良くメドーロとアンジェリカが名前を刻み、
オルランドはそれを見て暴走してしまうのである。
ヴィヴァルディの場合、木々をなぎ倒すらしく、
オルランドの振るうのが、恐ろしい力であることが分かる。

さて、このCD、ドイツ盤は、
心理学者で音楽家、作家でもあるという、
ザビーネ・M・グルーバーが、
かなり難しい解説を書いていて、
これがまた、興味深い内容になっている。

題名が、
「騎士オルランド、現実的かつ真実の物語」
という意味深なもの。

「多くの人たちが芸術家は、
純粋に内的な衝動から作品を生み出すと信じている。
個人的には、偉大な作品はしばしば、
明らかに偶然の結果であると考えずにはおられず、
それが予想外の結びつきを経て、
芸術家を最終的に行動させるのである。」

このような一般的な命題のように書かれながら、
このあと、例証として、この作品特有の成立事情が語られている。

「『騎士オルランド』の台本は、そもそも、
ハイドンのために用意されたものではまったくなく、
ピエトロ・アレッサンドロ・グリエルミ(Guglielmi)の
オペラのためのものであった。
ハイドンは、1782年に、自身で、
エステルハーザ宮の楽長の職務として、
このオペラを作曲するということになると、
予想すらしていなかったと思われる。
彼の職務は、グリエルミのオペラの上演であるはずだった。
言い換えると、ルーティン・ワークであった。
しかし、突如、二人の貴賓到来のニュースが入る。
後のロシア皇帝になるパーヴェル・ペトローヴィチ大公が、
ビュルテンブルクの王女であった、
マリア・ヒョードルヴナとエステルハーツィ家に、
逗留したいというのである。
この音楽通に10年前の作品を再演して見せるなど問題外で、
あまりにもリスキーであった。
その代わり、グリエルミのリブレットを使って、
ハイドンは新作の準備を命じられた。
リブレット作家はカルロ・フランチェスコ・バディーニであるが、
グリエルミは、二度変更し、
一つはヌンツィアート・ポルタによるものであった。
この同じ、ヌンツィアート・ポルタが、
エステルハーザ宮の劇場監督に任命されていて、
レパートリーを選ぶ権限を持っていた。
しかし、状況は一変し、大公とその夫人は、
シュトゥットガルト(偶然、シラーがこの混乱を利用し、
有名なマンハイム脱出を図った)への旅程を変更、
その後もエステルハーザを訪れることはなかった。」

シラーは、このとき、23歳。
前年、マンハイムで、反権力的な「群盗」を上演して、
大目玉をくらい、監禁されたような身分であった。
マンハイムへの脱出は苦難の亡命生活の始まりであった。

「いずれにせよ、ハイドンはオペラを書き続け、
1782年12月6日、エステルハーザの劇場で、
ニコラウス公の名の日に初演された。
『英雄的喜劇』、『騎士オルランド』は、
ヨーゼフ・ハイドンの最もへんてこなオペラである。
何故だろうと思わずにはいられない。」

このように、この解説では、「へんてこなオペラの一つ」などとは書かれず、
「funniest opera」と断定されているのである。

「騎士はあるお姫様を愛しており、
しかし、彼女は別の人を愛している。
報われない愛は、騎士を精神病に追い込み、
彼はお姫様とライヴァルを亡き者にしようとする。
最後になって、良い妖精が無実の恋人たちを悪い騎士から救う。」

確かに、単純化すれば、それだけの話で、
これまで聴いた第1幕だけでも、
それはすべて描き尽くされている。

「それのどこを面白がらなければならないのだろう。
これは非常に深刻な物語に、私には思える。
メイン・キャラクターたちを、より良く見ることで、
もっとそれが明確になるであろう。
それから、何人かの登場人物を見ていこう。」

とあるが、次に続くのは、各人物の概略説明で、
彼女の分析の真骨頂はまだまだ後で出て来る。

今回は、この各登場人物の概観までを見ていこう。

「お姫様の名前はアンジェリカで、
中国北部のカタイから来ている。
彼女は魅力的で美しい。
事実、その美しさは伝説的で、
すべての中世の男たちが、多かれ少なかれ心に留めていた。
オルランドという名前で通っているくだんの騎士は、
フランク王国の者で、シャルルマーニュの甥である。
気違いで悪いオルランドは、
アンジェリカが他の男を愛しているというだけで、
彼女の追跡を開始した。
何も知らない哀れな子供。
アンジェリカの心を占めるオルランドのライヴァルは、
ハンサムなサラセンの戦士メドーロである。
当然のことながら、彼女は自身のこと、恋人のことで、
心胆を寒からしめることになる。
何という幸運の到来、良い妖精と知り合う。その名はアルチーナ。」

この名前を聞いただけで、
ヴィヴァルディのオペラ(1727)の時代の聴衆なら、
そりゃ、悪代官の方でしょう、となるはずだが。
ヘンデルの「アルチーナ」(1735)で、
可愛そうな魔女として同情を引いたわけでもあるまいが、
半世紀を経て、このオペラ(1782)では、
「かげろうお銀」ほどの名脇役になっている。

「人間を助ける良い妖精が、一種の洗脳テクニックによって、
悪いオルランドの狂気の愛を癒し、メドーロ共々お姫様を助ける。
ストーリーが単純すぎないように、
愚かな異教徒サラセンのロドモンテが、時々現れ、
クリスチャンや、フランクと見るや殺戮しようとする。
中世の一種のターミネーターが、
さまざまな状況で手当たり次第に突進するなど、
ロドモンテは、感情処理に問題を抱えており、
永久に怒り狂っている。
また、物語をシリアスにしすぎないよう、
高貴ではない恋人たちが、劇中で、
くちゃくちゃとりとめなくしゃべる。
羊飼いの娘、エウリッラとオルランドの従者パスクワーレである。
しかし、これら最後の三人の登場人物は、
語られる進行にはほとんど何の関係も持たない。
いわんや、羊飼いのリコーネ(エウリッラの父親)と、
オルランドの洗脳の仕上げをする、
黄泉の世界の舟人カロンテは、単純なエキストラでしかない。」

得られた事:「ハイドンの『騎士オルランド』は、ヘンデルのものより、さらに軽妙かつドラマティックで、早口でのまくし立てや、アンサンブルによる盛り上げなど、ほとんどロッシーニ。古典形式のシリアスな器楽作品群とは全く異なるハイドン像が発見できる。」
「劇の内容も魔女付きドン・キホーテの風情。従者は遍歴自慢で『日本』とも口走る。」
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by franz310 | 2012-07-15 13:28 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その336

b0083728_1544786.jpg個人的経験:
前回、カーティス指揮による、
ヘンデルのオペラ、
「アリオダンテ」の
意欲的な録音を聴いた。
それは、ヘンデルが省略した部分も
復活させたものであった。
今回聴くものは、
そのような学究的な行き方とは、
ひょっとしたら違うかもしれないが、
実際にも日本でも演じられたもの。


シューベルトの歌曲でも、
印象的な名唱を聴かせてくれた、
アン・マレイがアリオダンテを演じている、
ということで、聴いてみたくなったものである。

FARAOというレーベルであるが、
エジプト製ではなく、ドイツ製である。
中世の戦士を表したようなシンプルな表紙デザイン。

2000年1月にミュンヘンで行われたライブ録音。
拍手どころか、舞台上で起こっている諸雑音も、
しっかり収録されている。

決闘シーンなどは、それゆえ、
かなりの臨場感がある。

アイヴォー・ボルトン指揮の
バイエルン・シュターツオパーの演奏。
ブックレットには、数多くの舞台写真が収められている。

たっぷりした現代のオーケストラの響きは、
序曲から余裕があるが、
残念ながら、ジネヴラを歌うジョージ・ロジャーズが、
最初のアリオーソを歌い出すと、
その声量が、ちょっと追いついていないような感じを受けた。
さすがにライブ録音で、万全とは行かなかったようだ。

解説は、この時の演出をした、
デヴィッド・オールデンが書いているが、
作品から、彼が勝手に妄想したことを書いているように見え、
彼の解釈であって、作品の解説ではなさそうだ。
が、逆に、創意豊かな演出家なら読み取れる、
この作品に込められた可能性のあるもの、
として読めば、今日深くもある。

「ヘンデルの『アリオダンテ』が私を惹き付けるのは、
作品の素晴らしく明解な構成である。
第1幕では、楽園の明るい日中が描かれ、
第2幕では、暗い夜の闇に溶け込み、
人々が口論し、互いに争うぞっとするような、
第3幕の1日に目覚めるようである。
それら全ての区画を見終わった後、
何世紀もの時間が過ぎたように感じる。
中世の戦争に明け暮れる無法の世界から、
ヘンデルの音楽は我々を旅に誘う。
かけひきや、恋の取引や悪戯で象徴される第1幕の後、
深いロマン的な苦悩を経て、
最後に在りし日の騎士道の日々に至る。」

ということで、この演出家の妄想が、
幾世紀も飛翔して、演出の霊感になったことが分かる。

が、前に聴いた、カーティス盤を振り返ると、
第1幕は、英雄アリオダンテと王女ジネヴラの愛、
第2幕は、悪役ポリネッサが王女の侍女ダリンダと共謀して、
恋人たちの仲を裂くのに成功する部分。
第3幕は、絶望したアリオダンテがその侍女と遭遇、
真実を知って、いろいろあるが、めでたしめでたしとなる。
確かに、こう見ると、第3幕にドラマが集中している。

「一見して妖精物語のようだ。
王様の娘が若い騎士と恋に落ち、
彼もそれに応える。
王様は全てに満足である。
王女ジネヴラと騎士アリオダンテは、
お互いの完全な愛情の保証からの恋路である。
しかし、その世界は理想郷を後にすると、
単なる見せかけであったことが分かる。
嘘やエロティックな陰謀が宮廷に渦巻く。
それは、あたかも、それぞれの鏡が真実を映さない、
ぎらぎらしたヴェルサイユの鏡の間の
ミニアチュアのようである。
例えば、明らかに無垢で、
貞淑で分別あるダリンダは、
ポリネッサの悪のかけひきに荷担してしまう。
彼女は恋に恋して、
ルルカーニオとの関係もそこそこに、
悪い男を選んでしまう。
彼女はポリネッサのような男を、
どうしても追いかけてしまうように見える。
彼女は、傷つけられるのを好み、
彼女を破滅させるような男を求めている。
彼女は、このように、常に二人の男に心を裂かれ、
オペラの最後では、ポリネッサの事を思いながら、
ルルカーニオに向かう。」

ダリンダは、単にうぶであったがゆえに、
ポリネッサに手玉に取られたと考えていた普通の聴衆には、
この解釈は強烈である。

が、確かに、何故に、ダリンダのような人が、
あえて、いかにもヤバいポリネッサと共謀したかは、
永遠の謎ではある。

この演奏では、ダリンダは、
ジュリー・カウフマンという人が歌っている。

ライブ録音のせいか、どの歌手も、
いくぶん、危なっかしい歌を聴かせる中、
前半は比較的安定してきれいな声を響かせている。
が、第3幕になると、明らかに限界を超えて、
絶叫みたいな表現で美感を損ねている。
かなり拍手はされているが。

ネットで調べると、ベルリン音楽大学教授とある。
出身はアメリカだという。

「ポリネッサは単に純粋な野望で動いている。
彼は、王女への愛からではなく、
スコットランドの王位ゆえにジネヴラの手を取る。
ポリネッサのような男が恋などしていられようか。
明らかにあり得ない。
私は、例えば、悪魔がマリアを愛したとしても、
彼は、無実だと云うと思う。
しかし、彼は明らかに、
王位も王女も手に入れられない。
少なくとも、彼はその破壊を望む。
それが、ポリネッサがここでやったことである。」

このあたりの解釈も面白い。
すくなくとも、物語は、第2幕までは、
彼の思うとおりになっている。
成功の当てもなく、単にケチをつけたかっただけ、
という解釈だという。

「アリオダンテとその兄弟、
ルルカーニオの出自も我々にはよく分からない。
彼等はこのスコットランド宮廷に来て、
若く、繊細でこの未知の世界にあまりにも不慣れで、
それゆえに、宮廷の陰謀の前ではあまりにも脆い。」

このあたりに通じた者であったなら、
簡単に、ポリネッサの陰謀など見抜けた、
と言わんばかりであるが、
もしそうだとすれば、ハッピーエンドの後、
どんなもめ事が待っていてもおかしくはない。

ポリネッサは、この演奏では、
クリストファー・ロブソンという
カウンターテナーが受け持っているが、
いかにも悪賢い声を聴かせ、印象に残る。
写真でみると、いかつい禿頭で、
とてもぴったりな感じである。

「アリオダンテは、愛に対してもあまりにも盲目で、
彼の単純な若さは第1幕にも象徴的に表されている。
彼は、慣れない宮廷の危険な世界で、
子供のように振るまい、
悪意や野望があることを想像もしない。
そうした幼稚さが、彼等兄弟を誤った方向に導いていく。
原理は単純。オテロと同じだ。」

ロッシーニのタンクレーディもそうだったが、
こうした英雄たちは、往往にしてお馬鹿に見える。

このアリオダンテをマレイが歌っているが、
このベテランの味のある歌い口は、
しっとりした歌で、ぞんぶんに楽しめるが、
技巧の凝らされた部分では、
ちょっとおぼつかなさがあるような感じ。

兄弟のルルカーニオは、
ポール・ナイロンというテノールが受け持つが、
写真で見る限り、いかにも勇者という雰囲気である。

「このアリオダンテとルルカーニオの
心と目との盲目さ加減は、
ジネヴラ-アリオダンテ・ペアを、
理想的な愛から突き落とし、
アリオダンテは、激しい嫉妬地獄に、
飛び込むことになる。
彼は自殺さえ試みるのである。
そして、ジネヴラには、何故、
自分が売女と呼ばれなければならないかと、
問いかける苦悩が始まる。
彼女について言えば、
父親が恐ろしい淫夢に登場することになる。
彼女は牢獄に入れられる。宮廷中が敵になる。
彼女はほとんど、落ちぶれた偶像、
ジャンヌダルクのようだ。」

このあたり、演出にどう反映されているか分からない。

「オペラの開始部では、彼女の父の王様は、
人生における重要な決断に直面している。
彼は誰か自分より若い者に王冠を渡さなければならず、
彼は娘も手放さなければならない。
彼の娘との関係は緊密で強いが、
いとも簡単に害にもなる。
よく考えもせず、彼はジネヴラを拒絶する。
あるいは、このコンフリクトは、
深いトラウマに根ざしているのかもしれない。
後に第3幕では、父親になることを望むが、
彼はそれが出来ない。
宮廷がそれを許さないのである。
彼は娘に味方する強者を集めることが出来ない。
彼は弱虫である。
最後のシーンで、娘とアリオダンテの手を取らせる時、
彼は、娘も王冠も譲る準備がないことを感じる。
彼はアリオダンテが好きである。
信頼してもいる。
そして再び、彼は娘を強奪する、
そして遅かれ早かれ、彼の王国を統治する彼を、
殺したいと思う。
この王様は、ずっと不思議なキャラクターである。
実に徹頭徹尾。」

こんな物語だっけ?と私は、
再びあらすじを見て見たが、
そんな風には思えない。

この王様は、ウンベルト・キウンモというバスが歌っているが、
確かに、このブックレットの写真で見ると、
眼帯をつけた不気味な老人として表されたようである。

「最後に、ジネヴラとアリオダンテは、
奈落の底を直視することになる。
最後の宮廷でのダンスは、
魂の避難場所のようだ。
私は、ここにそれを凝集させたが、
それ以外、出来なかった。
これら二人の無垢の人物にとって、
世界というものは、その時から、
違ったものになるであろう。
彼等の目を通して、エンディングを見ることになろう。」

この解説は、オペラの会場で配られた
パンフレットの焼き直しではないか。
おそらく、では始まり始まり、という感じなのだろうが、
舞台上の仕草や表情などで盛り込まれた内容も多いと見える。

最後に近くなると、(CD3のTrack12)
素晴らしいアリオダンテとジネヴラとの二重唱がある。
「もし、私に千の命と心があるとして、
もし、私に千の心と命があるとして、
それらをすべてあなたに捧げます」
と歌う中、宮廷の広間では、
背景の階段は、大きな祝祭用に飾られている。

「徳を讃えよう」という合唱が始まり、
途中、短いロンドーが挟まれている。
いったい、ここで、この演出、何が行われたかは分からない。

このキャストによる公演は、日本にも来たくらいなので、
YouTubeにも画像が出ているかなと見て見ると、
やはりいくつかあって、雰囲気はそれなりに分かった。

何と驚くべきことに、
先の最後の二重唱は、アリオダンテが、
牢獄に繋がれたジネヴラを、
救出しながら歌う演出になっていて、舞台が実に暗い。

さらに、舞踏のシーンも、
闇の中のダンスになっていて、
不気味さいっぱいである。
確かに、この間、二組のカップルは、
抱き合って喜んでいるが、
何と、最後は、抱き合いながら、
恐怖に膠着するような表情で終わっていた。

このような情報があるのないのでは、
この演奏、というか、演出の楽しみ方はかなり変わる。
さぞかし、見応えのある舞台であっただろう。
また、雑音の原因が分かるし、
PCにイヤホンを挿して聴くせいだろうか、
CDで聴くよりも、音楽に膨らみが出ているようにすら感じた。

FARAOレコードは、創立10年ほどのベンチャーで、
「どうしても必要な録音とは何なのか」という、
基本に立ち返った活動を行おうとしているようだが、
芸術家たちの個性や持ち味の記録を一つの方針とすべく、
こうしたライブ録音などを有効に使って、
低コストで、長く聴き継がれる商品を出そうとしているようだ。

このオペラ、前のカーティス指揮のCD解説には、
「今日の偉大なヘンデル研究者たち、
ウィントン・ディーン、アンソニー・ヒックス、
ドナルド・バロウズらがすべて、
『アリオダンテ』を、
溢れんばかりに賞賛していることは注目すべきである」
と書いていたが、彼等がみな、
まさか、こんな穿った見方をしているわけではあるまい。

ちなみに、
「ヘンデル生前には、控えめな成功しかしなかったのに、
商業的に6番目の録音が出ることに対しては、
まったく驚くに値しない」と書いてあるから、
これを聴いても、まだ4つ以上の録音があるようだ。

今回のCDには、たいした解説がないので、
前回のカーティス盤のCD解説を頼りにしてみよう。

さきほど、「控えめな成功」とあったが、
初演時についても、こんな記載がある。
読めば読むほど気の毒である。

「1735年1月1日、ロンドン・デイリー・ポストと、
ゼネラル・アドバタイザーは、熱心にアナウンスしている。
『ヘンデル氏の新作のオペラは、今、
コヴェントガーデンの
シアター・ロイヤルでリハーサル中であり、
このために用意された舞台は、
これまでみたこともないほど素晴らしい』。
しかし、1月8日に行われた『アリオダンテ』初演は、
劇場の近くの家を含む、
たくさんの家屋を破壊した恐ろしい嵐の夜に当たり、
キャロリン妃も健康が優れず、
ジョージ二世や皇族の随伴者も減ってしまった。」

このように、ビジネスというもの、
というか人の営み一般は、
天災を前にすると、
何が何だか分からなくなってしまうのは、
今も昔も変わらない。

というか、ヘンデルといえども、
この手の状況には、黙って従うしかなかったということか。
が、やはりすごいと思うのは、
その時、彼は、大騒ぎせずに、
次の好機を待ったことであろう。

シューベルトは、自作のオペラがうまく行かなくなって、
これで何日損したとか、恨み辛みの手紙を残したが、
彼も、ヘンデルのように経験さえ積めれば、
下記のような態度でいられたはずだ。

とはいえ、シューベルトの絶望ぶりも、
私にとっては身近に感じられるものではあるのだが。

「オペラは11回の公演で打ち切られたが、
不屈のヘンデルは、4月16日初演の、
次の作品『アルチーナ』に集中し、
そして、より大きな成功を収めることが出来た。」

シューベルトの場合、
まるで公演の当てがなく、
2つしか本格的なオペラを書けなかったが、
ヘンデルの場合、次々に公演のチャンスがあったことも、
同列に語れない点であろう。

また、当時の演奏習慣に思いを馳せることが出来る、
一節が、この解説にはある。

「彼は、翌シーズンに、二回だけ『アリオダンテ』を再演、
このとき現れたソプラノ・カストラートの
ジョアッキーノ・コンティは、
カレスティーニのために書かれた、
タイトルロールのための音楽をほとんど歌わず、
彼がイタリアから携えて来た、
他の作曲家の手荷物アリアを歌った。」

私は、大がかりなオペラの上演が、
何故、二回だけなどで成り立つのかと思ったが、
外国から招いた名人の伴奏のような役割でなら、
ありだったのかもしれない。

先の続きで、この作品のすばらしさを、
列挙した部分としてこうある。

「近代の研究者は、『アリオダンテ』と聴けば、
すぐに、ヘンデルの特別なオペラの1つと考える。
音楽形式の驚嘆すべき変幻自在さは、
彼の他の最高級のオペラのどれよりも、
幅広く、予測不可能で、
オープニングから、スコアは並外れた技巧で、
祝福される中心の恋人たちを輝かせている。
そして、かれらの続く苦悩をも。
ずるがしこいポリネッサも、
(ナイーブなダリンダにとって、
彼の誘惑は実にもっともらしく見える)
勇敢なルルカーニオも、
立派な王様が、喜びから、
父親としての愛と、
王としての義務の板挟みになって、
彼と娘が嘆くことになる深い悲しみに陥る様も。」

このように、どの登場人物の性格描写も、
それぞれに素晴らしいということだが、
結局、主人公のために書かれたものが良いようだ。

「最も素晴らしい2つのアリアは、
共に、アリオダンテによって歌われるもので、
弱音器付きの弦楽と、
もの悲しいピアニッシモのバスーンが、
ジネヴラがポリネッサをベッドに受け入れたと信じて、
心が張り裂ける英雄を表す、
嘆きの『Scherza infida(不実なものよ)』(第2幕第3場)と、
結局、暗い感情から、輝かしい楽天性に帰り、
晴朗な喜びに満ちた『Dopo notte(暗い嵐の夜の後で)』
(第3幕第9場)の2つである。」

この「不実なものよ」などは、
先のYouTubeで、アン・マレイの熱唱が聴ける。
このように、技巧よりも情念勝負の楽曲では、
この人の歌唱はまことに素晴らしい。
バスーンの伴奏も印象的に響く。

ただし、解説にあったような無垢な青年騎士ではなく、
どうしても魔女にしか見えないのだが。
これは、CD2のTrack5に相当する。

また、CD3のTrack3に相当する
「暗い嵐の夜の後で」なども、
マレイの歌唱は英語版だがYouTubeで見られる。

このすがすがしく勇壮なメロディを持つ曲は、
たいへんな名曲のようで、
YouTubeにカサロヴァやキルヒシュレーガーや、
ディドナートの歌唱が揃っている。

「しかし、アリオダンテは、
この2つの賞賛されたアリアに尽きるものではない。
ヘンデルは、
ほとんどの登場人物が陽気な第1幕と、
苦しみと絶望と悪事に満ちた、
第2、第3幕のコントラストに、
劇場向けの力と繊細さを作り上げた。」

とあるように、今回のCDでも、
様々な歌の饗宴を楽しむことが出来た。
先のYouTubeにアップされたものでは、
ロジャーズが歌った、冒頭のアリオーソとアリア
(CD1のTrack2と3)や、
マレイが歌った技巧的なアリア「恋が愛情の翼に乗って」、
(CD1のTrack10)、
などが映像付きのものと比較しながら楽しめる。

映像の方を見ると、後者は、地べたを転げ回って歌っており、
これでは、十分な声は出ないと納得した次第。
そういうことを差し引き、演技も見ながら楽しめば良い。
何とも、難しい鑑賞をしなければならない時代になったものである。

もっと言うと、ネット上で見られるものは、
英語で1996年の記録のものらしく、
厳密に言うと、CDと同じ音源ではない。
つまり、4年の歳月が経っており、
マレイのようなベテラン歌手には、
声に衰えが生じているのかもしれない。

また、CD1のTrack15の、
合唱がついた、恋人たちのデュエット、
「あなたの愛を祝いましょう」などは、
実に意味深な演出がなされている。

恋の成就に喜ぶような場面であるが、
映像の方を見ると、
ジネヴラの方はウェディング・ドレスを着ているのに、
(このように見ると、ロジャーズのジネヴラは美しい)
主人公のアリオダンテは目隠しされており、
空中に手をひらひらさせて困惑して彷徨っている。

最初に読んだ解説には、
盲目的なというフレーズが目立ったが、
こうした演出に繋がっているのであろう。

このCDでも、この幸福な合唱の合間に、
バレエ音楽が収められており、
ヘンデルが取り入れたフランス趣味が聞き取れる。
それにしても、女性二重唱に合唱が加わり、
そしてバレエ、もう、眩惑的な世界と言って良い。

ポリネッサのアリア、CD3のTrack4は、
「義務、正義と愛」も生き生きとして、
悪役が歌うながら、ヘンデルらしい爽快な音楽である。
頭を剃った巨大入道が、
カウンターテナーの声を張り上げるのも、
目で見て納得の世界である。

このあたりから、決闘のシーン(Track8)を経て、
アリオダンテが、勇壮に、
「暗い嵐の夜の後で」(Track9)を歌い上げ、
(やはりネット上のマレイの方が、声は伸びている。
ただし、甲冑を着けた姿はカマキリみたいだ。
ダリンダは美人が演じている。)
最後に二重唱(Track12)まで一気に聴かせるのが、
このオペラの推進力である。

YouTubeの他の画像では、
第1幕の終わりのダンスの途中に、
王様が、女性とお戯れになるシーンがあり、
これが、解説者(演出家)のAldenが言っていた事だろうか。

いずれにせよ、どうも、このボルトンの演奏は、
かなり昔から上演されて来たようだ。
日本公演があったようだが、これは2005年の秋、
先の英語版が1996年と、10年ものロングランである。

このCDも、よく見ると、バヴァリア州立オペラと、
英国ナショナル・オペラ、そしてウェールズ・ナショナル・オペラの、
共同制作とある。
もともと英国でやられていたものを、
バイエルンが横取りしたものであろう。

ネット検索すると、このバイエルンの演奏が来た時、
日本では数万円の出費を強いたというので、
投資対効果は相当なものである。
2000年の時点で、かなり、声に衰えのある歌手もいて、
2005年の日本公演は出がらしではなかったのかと、
ちょっと心配になったりする。
聴けなかった者のひがみ根性であろう。

得られた事:「『アリオダンテ』不発の後のヘンデルの不屈。」
「恐るべしYouTube、CDでは妄想していた部分を補う映像有り。」
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by franz310 | 2012-07-08 15:45 | 古典