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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その322

b0083728_23112593.jpg個人的経験:
ロッシーニのオペラ
「タンクレーディ」は、
200年前の欧州を、
席巻したにも関わらず、
その後、急速に忘れられ、
二十世紀も残り少なくなって、
ようやく、再評価された。
この素晴らしい作品の
再発見に力あったのが、
マリリン・ホーンである。


ありがたい事に、この傑作を、
この偉大な歌手が、1983年に録音したCDを、
我々は手にすることが出来る。
しかも、ライブである。
聴衆が、真剣に聴き入り、
熱狂的な拍手で応えている様子が、
手に取るように分かる、生々しい記録でもある。

黒を基調にした渋いデザインは、
何だかシンプルかつストレートで強烈だ。

例えば、相澤啓三という評論家が書いた、
「オペラの快楽」(1992、JICC出版局)では、
ロッシーニのオペラ・セリアの代表作として、
「セミラーミデ」、「マホメット二世」などと共に、
この作品を挙げ、さらに、ホーンのCDを挙げ、
「圧巻」と書いている。

「ホーンのリズム感溢れる華やかで生き生きした
コロラトゥーラはその堂々たる騎士振りを目にすれば
ますます圧倒的な迫力を発揮する」といって、
ホーンの舞台を映像記録したものがあることも示唆しているが、
これはどうすれば手に入るのであろうか。

それはともかく、かつては、
CBSソニーから国内盤も出ていたこのCD、
なかなか再発売されないので、
中古で見つけて来たのだが、
私の入手したものは、
1985年のオーストリア盤である。
イタリアのFONIT CETRAが、
CBSと共同制作したと書かれており、
権利関係がややこしいので、
再発売されないのだろうかと考えた。

アメナイーデにはレッラ・クベルリが入り、
アルジーリオは、エルネスト・パラッチオが歌っている。
ラ・フェニーチェ劇場のオーケストラを、
ヴァイケルトが振っている。

マリリン・ホーンと言えば、
文字通り警報のような声を連想していたが、
もっと、ひしゃげたような感じで、
高く舞い上がるような声ではない。
それが第一印象。

登場の「おお祖国よ」や、
アリアの「ディ・タンティ・パルピティ」でも、
上から圧力がかかっているような感じで、
狭い隙間から絞り出されるような質感だ。

声の質に微妙な陰影を持っていることもあり、
その技巧による声の密度が、
きわめて凝集された感じを与える。

登場時はあまりそうした事も感じなかったが、
だんだん、物語が進行し、声にも熱を帯びて来る。
特に、私は、アメナイーデとの二重唱での、
纏綿たる濃密な声の絡まり合いには、
我を忘れて聴き入ってしまった感じである。

クベルリは、コッソットがタンクレーディを歌った、
フェッロ(フェルロ)指揮のものでも、
同じ役柄を担当していた。

コッソット盤は、スタジオ録音だったのだろうか、
それに比べると、何だか火照ったような緊張感がみなぎり、
この録音、そんな意味でも鬼気迫って圧巻である。
コッソットのものは、もっと古典的な明晰さを持っていた。

序曲の序奏からして、フェッロの指揮は、
落ち着いて粛々と事を運んでいる感じだが、
こちらのヴァイケルトは、叩き付けるような気迫がある。

リズムの刻みも、アタックが激しく、
このオペラの内容にふさわしく深刻な感じである。
スワロフスキー門下で、オーストリアの人らしい。

この序曲について、スタンダールは、
「騎士タンクレーディの名にふさわしい音楽」として、
「優美と繊細に満ちている」と書いた。
この序曲は、しかし、「試金石」の転用品である。

さて、スタンダールの論評に従って、
このCDを少し聴き進んでみよう。

この文豪にして音楽評論家は、
序曲には感心しているが、
続く合唱については、
耳に快いが、「力強さ」には不足する、として、
中世の騎士の感じがしないことを指摘している。

「血気盛んな中世の感じがするだろうか」
と書いているが、当時の感覚も、
我々とそう変わらなかったのだろうか。
これは私も感じる点ではある。

が、このCDの演奏は、
かなり力が入っているせいか、
他の演奏よりも血気盛んな感じがする。

続く、アメナイーデ登場のシーンについては、
スタンダールは共感していて、
「騎士道が華やかな時代の若い王女にふさわしい、
高貴で飾り気のない優雅さを、
彼以前の音楽がこれほど完璧に表現したためしはない」
と書いている。

このCDの演奏は、きびきびとして、
緊張感を保ちながら進んで行く。

しかし、このフランス人はうるさいのである。
続く、アメナイーデのカヴァティーナ、
「なんと快くわたしの心に」は、
装飾音がこぎれいすぎるだの、
憂愁に欠けるだの、小姑のようにうるさい。

が、スタンダールが言う、
「追放されて今はいない恋人を想うのだから」
という観点からは、
十分、納得できる見解である。

しかも、スタンダールは、さらに、
悲しい音楽だとお客が退屈するとか、
憂愁を伴う愛情を描くには若すぎた、
という、分析まで行っているのである。

このCD、クベルリの歌は、
よく通る美しい声で、ほれぼれする。

しかし、「悲しい音楽を書くとお客が退屈する」
という意見はいかがだろうか。
明らかに、フェラーラ版では失敗する、
という当時の雰囲気を表していないだろうか。

スタンダールは反対に、
タンクレーディ登場のシーンには、
好意を持っていたようである。

到着シーンを、
「オーケストラは『劇的なハーモニー』でもって
壮大に盛り上げる」と書いており、
続く、「おお祖国よ」のレチタティーボを、
「崇高で心を打つ」と書いている。

先にも書いたように、
このCDでのホーンの歌は、
英雄らしく高らかに舞い上がるものではなく、
押し殺したように、渋く押し出される歌である。

スタンダールは、アリアなどに使われるフルートを、
「悲しみのまじった喜びの表現に合っている」
と書くばかりか、
「絵の中で着衣の大きな襞が
ウルトラマリンで表現された場合に似ている」
と妄想をふくらませている。

ホーンの歌うアリアは、声の質からして、
派手な感じはしないのだが、
小刻みに装飾を神経を使って施しており、
すこし、危なっかしい感じすらするが、
これがロッシーニらしさという事であろうか。

コッソットのCDでは、
この「ディ・タンティ・パルピティ」は、
朗々と滑らかに歌われ、
まるで、歌のお姉さんのように聞こえ、
ホーンのギアチェンジを繰り返しながらの、
アリアとは別物のように思えて来た。

だから、コッソット盤の解説を書いた、
高崎保男氏は、
「ヴァレンティーニやホーンほど華麗な
カント・フィオリートを用いていない」と書き、
相澤啓三氏は、
「コッソットはロッシーニ歌いではない」
と書いているのであろう。

確かにここまで聴いて来ると、
何となく、コッソットの歌では、
炭酸が抜けたロッシーニのように思う聞き手がいても、
おかしくはないと思った。

聴き所である、アメナイーデと、
タンクレーディの二重唱
「貴方を取り巻くこの大気は」
(CD1のTrack12)などでも、
ホーンのCDで、高揚感を持って、
凝集する音楽に眩惑されたのは、
こうした点で大きな違いがあったのである。

声が持っているエネルギーの密度が違う感じである。
3分すぎの、「私には何と辛いことだろう」なども、
糸と糸の寄り合わせ方が全く異なる。
ジグザグのラインが織り合わされている感じが、
ホーンのCDでは感じられ、
コッソットのものでは、
二つの声のラインが並列で並んでいるだけである。

さて、このホーンのCDは、3枚組かつ箱入り仕様で、
かさばる割には、解説にはたいしたことは書かれていない。

しかし、聞き所をびしっと書き連ねていただき、
そのあたりは、かなり具体的なので嬉しかった。

シカゴ大学のフィリップ・ゴッセットが書いている。
「1813年2月6日、ヴェネチアの、
ラ・フェニーチェ劇場で初演された『タンクレーディ』は、
ヨーロッパに旋風を巻き起こした。
スタンダールは、このオペラをロッシーニの、
最高の到達点とした。
この作品の人気は、半世紀後のヴァーグナーが、
『マイスタージンガー』の仕立屋の合唱に、
タンクレーディの伝説のカヴァティーナ、
『ディ・タンティ・パルピティ』を選ばずにいられなかった。
『タンクレーディ』は、
1810年頃のイタリア・オペラの
伝統の枠から、決定的に出てはいなかった。
それが、実際に革命的になったのは、
ロッシーニが、初演の数ヶ月後、
フェラーラで再演させた時に、
悲劇的フィナーレを加えたからであるが、
この版での初演後、彼はオリジナルの、
ハッピーエンドに戻してしまった。
伝統を破るアリオーソは、
ヴォルテールの原作の劇に従ったもので、
アメナイーデの無実を知りながら、
静かな弦楽の伴奏を伴って、
タンクレーディは傷によって死ぬものである。
フェラーラの聴衆は、
この例外的なエンディングに当惑し、
もともとのエンディングにすぐに戻された。
10年にもならないが、
イタリア統一運動の愛国者であって、
文学者であり、タンクレーディを最初に歌った、
アデライーデ・マラノッテの愛人でもあった、
ルイジ・レッキの後継者が、
レッキの書類の中から、ロッシーニの自筆譜を発見した。」

このあたりの話は、これまでも読んで来た通りである。

「様々な意味で『タンクレーディ』は、
ロッシーニの同時代者に衝撃を与えた。
音楽的、ドラマ的な効果を導く、
確信と、正確さ
目的に向かう絶対的明晰さを、
彼等は、この作品の中に見た。
オーケストレーションは簡素で、
時に室内楽的で、楽器の効果が正確に計算されている。
セッコ・レチタティーボがなおも、
形式的にオペラを分割しているが、
各ナンバーは緊密で、内容的にも、
優美な叙情と強いドラマティックなアクションが、
巧妙にバランスされている。
メロディラインは、声の機敏さを示しつつ、
純粋な美しさをブレンドしている。
他の作曲家たちも同様の方向に向かっていたが、
これらの性向と、
新しいイタリア・オペラが新しい力を得ることとなる
確立されたモデルが、
魔法のように調和したのが、
この『タンクレーディ』であった。」

これまでも様々な解説を読んできたが、
このように、タンクレーディが決定的な傑作であることを、
ここまで明記したものはなかったのではないか。

「『タンクレーディ』は、古典的な純粋さと
バランスを持ち、声がその効果を発揮しながら、
すべてを圧倒することはない。
誰も予想しないような状況で、
素晴らしく感動的な瞬間が訪れる。」

このように書きながら、
より具体的な聞き所が紹介されていく。

あとで使いやすいように、番号を付けて見てみよう。
聴き所1.
「第2幕で騎士たちは、
タンクレーディが
オルバッツァーノを倒したことを
デリケートな合唱、
『人々よ勝利者に喝采を』
(CD3のTrack4)で祝う。
まずそれは、木管だけで始まり、
群衆が集まって来ることを暗示して、
全オーケストラが入って来る。
タンクレーディが入って来ると、
ムードが変わる。
彼は、弦楽の伴奏に乗って、
愛らしいフレーズ『栄光への賛美は』で、
複雑な心情を歌う。
この進行は彼を勝利へと推し進めるが、
これは一面でしかなく、もっと精緻なもので、
誇張なしにオペラの世界で、
劇的に音楽的な真実を扱っている。」

聴き所2-1.
「同様に感動的なのは、
第1幕のフィナーレのアンダンテ
(CD2のTrack6)で、
アメナイーデに対しての、
非難の合唱が小さくなる中、
四つの独唱者と木管が和音を保持している。
そして、同じ和音が、
デリケートなアンダンテ、
オーボエ、クラリネットと、
二つのバスーンで軽く伴奏された、
独唱者による四重唱によって、
真実のパトスのパッセージを導く。」

「多くの細部が、このフィナーレでは、
賞賛に値する。」
とあるように、このフィナーレは聴き所満載である。

聴き所2-2.
「ロッシーニによって、その音色が、
少しずつ変えられて繰り返される
オーケストラのフレーズと共に、
アメナイーデの激しい嘆願(CD2のTrack5)。」

聴き所2-3.
「最後のストレッタに先立つのは、
突然、スタッカートの弦楽と、
オーボエとクラリネットの虚ろな響きで伴奏され、
(バスはピッツィカート)関係短調で現れる、
美しい『これまでに、こんな恐ろしい苦痛を』
(CD2のTrack6の4分あたり)である。」

この部分、アメナイーデとタンクレーディのデュオに続き、
アルジーリオとオルバッツァーノのデュオが現れ、
素晴らしい緊張感で聴かせるが、
ピッツィカートの効果は強烈である。
また、クラリネットたちは、
最初のデュオでは現れない。

「異常なほどの『タンクレーディ』の
プリマドンナの離れ業をもって、
オペラ全体を貫く驚嘆すべき、
ロッシーニの芸術性を見失ってはならない。
また、ロッシーニが、ベル・カントを、
この最初の成熟したオペラ・セリアの中心に
持って来なかった、というのも間違いである。
『タンクレーディ』は、
リアリスティックなドラマではなく、
そう判断するのも間違っている。
二つの長いデュエットをもってしても、
アメナイーデが、恋人に、
無実を説明できないことは、
論理的に受け入れられるものではない。
(この問題は、ヴォルテールからある。)
しかし、彼のオペラでは、
特にこれらの二重唱では、
緊密なドラマティックなロジックを追い求めてはいない。
彼は、自身の音楽で、
効果的に息を吹き込めるキャラクターを求め、
そのように、アメナイーデの苦しみを描き、
恋人の騎士のほろ苦い感情を描いた。

聴き所3-1と3-2.
「彼等のデュエットは、このオペラのハイライトに属する。」
(CD1のTrack12、CD3のTrack7、8)。

前者については、コッソット盤と先に比較して書いたが、
また、私が、このホーンのCDで最初に陶酔したのも、
ここであった事を繰り返しておきたい。
ライブのせいかもしれないが、
ジグザグに織り合わされた声の織物の見事さもあって、
ものすごい高揚感である。

クベルリの声が落ち着いて来たせいか、
ホーンとの二重唱が、妙に均質な織物に仕上がっており、
その質感が妙に上質に思えるのである。

後者も、前半は高揚感とは異なる切り口であろうが、
沈潜するような幻想的な無重力感がぐっと来る。
後半は、解放的な表現となるが、歌が進むに連れ、
凝集力が増してすごい迫力になっている。

「このスコアの最大の栄光は、
確かに、第2幕の、
アメナイーデとタンクレーディの
二つのグランシェーナである。」
とあるから、これらもそれぞれ聴き所であろう。

聴き所4.
「アメナイーデの牢獄のシーンは、
ロッシーニが書いた最も深い音楽に思え、
特に、オープニングのシェーナ
(その精巧な感動的なオーケストラの前奏によって)、
(CD2のTrack13)
オープニングのカヴァティーナ、
『いいえ、死は決してそんなに』
(CD2のTrack14)で、
この中で、彼女は、
恋人を裏切ることよりも、むしろ死を願う。
ロッシーニは、メロディを、
イングリッシュ・ホルンの強烈な独奏で伴奏させた。」

ひしひしと迫り来る死をぞくぞくと暗示し、
冷たい牢獄の湿っぽい空気まで感じさせる、
素晴らしい描写となっている。
このCDのクベルリの澄んだ声も、
緊張感を孕んで、空気を切り裂いて行く。

しかし、これより5年早い時期に録音された、
同じクベルリが歌ったもの(フェッロ盤)の方が、
さすがに声そのものの瑞々しさでは有利である。

聴き所5.
「しかし、素晴らしいのは他でもない。
素晴らしいのはタンクレーディの、
『グランシェーナ』である。
もっとも単純にして、
その英雄の感情に深く探りを入れ、
ソラミールを確固と(華々しく)戦場で倒した後、
くっきりと忘れがたいメロディを与えた。」
(CD3のTrack22.)

私は、このフィナーレが、
確かに実験的であることは認めるが、
そんなに感動的とも思えないのだが、
マーラーの交響曲のような、
壮大な日没のようなものを期待しすぎであろうか。

「これら二つのソロのシーンで、
誰でも、このオペラが当時のヨーロッパの
音楽シーンに与えた威力を理解することが出来る。」

「二つの美しいアリアにもかかわらず
(内的な葛藤の後、娘を断ずるシーンが特に忘れがたい
第2幕のオープニング)、
アルジーリオは、いくぶん、造形に欠ける。」

聴き所6.
「彼の輝かしいタンクレーディとの二重唱
(CD2のTrack17、18)は、
しかし、このスタイルの好例で、
ベッリーニが『清教徒』の『ラッパの響き』が、
その高まった一例となっている。」

アルジーリオは、このホーンのCDでは、
少し存在感がないような気もする。
それを補って余りあるのが、
マリリン・ホーンの声の超絶的な装飾で、
天高く龍のように舞い上がっている。

「これらの音楽では、声楽の技巧は、
単に、それに注意を惹き付けるためだけではなく、
感情表出に使われている。
ロッシーニがオリジナルで書いた音符以外にも、
一緒に仕事をした歌手たちのために、
カデンツァや変奏を書いたのは事実である。
現代の歌い手が、ロッシーニの装飾をそのまま歌うか、
自身の版を歌うかに関わらず、
それは感情表出でなければならない。
それが適切に適用された時、
重要で絶対に権威的な次元を、
ロッシーニのスコアに付け加えたことになる。」

このような事まで考えて、このCDの演奏者たちは、
公演に臨んでいるのであろうか。

「後年、ロッシーニの音楽は、
『湖上の美人』の初期ロマン主義や、
『セミラーミデ』の新古典主義の壮大さ、
『ウィリアム・テル』の歴史主義に、
彼を誘う。
これら全てを通じ、
『タンクレーディ』の古典芸術へのノスタルジアは、
スタンダールの言う、
『処女の素直さ』の一例である。
『タンクレーディ』は、
『青春』、『感傷』、『活力』を示しており、
ロッシーニはこうした前代未踏の境地を、
再び完全に捉えることは出来なかった。」

聴き所は、結局、登場シーン以外の、
タンクレーディとアメナイーデの重唱と、
大きなソロの部分ということになりそうだ。

得られた事:「ロッシーニの声の装飾によって、デュエットの高まりが上質な織物のような得も言われぬ効果を発揮する。」
「ロッシーニの時代、悲しい音楽は退屈だと思われていた。」
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by franz310 | 2012-03-31 23:12 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その321

b0083728_22432826.jpg個人的経験:
スタンダールは、
その著書「ロッシーニ伝」
の第一章「生い立ち」に続き、
第二章として、「タンクレーディ」
を持って来ている。
この章は、冒頭から、この作品が、
ヨーロッパ中で知られている事を記し、
読者の方々は、すでに、
みんなこれを知っているだろう、
などとも書いている。


これくらいに、この作品は成功を収め、
スタンダールの文章でも、
これが、絶妙なバランスの上に
成り立っていることが強調されている。

彼は、「泥棒かささぎ」を引き合いに出し、
そちらは、オーケストラがうるさすぎで、
もっと歌を聴きたくなるとしながら、
「ロッシーニが『タンクレーディ』の
完璧な楽譜を書いたときには、
この欠点を免れていた。
豊富と過剰のちょうど中庸を行ったのだ」
と書いた。

「美を隠さずに装い、損なわず、
ごてごてした余分な飾りを付けなかった。
騒々しすぎる音楽や、
逆に単純すぎる音楽に退屈したときは、
いつでも『タンクレーディ』の
うっとりさせる作風に戻るべきだ。」
(みすず書房、山辺雅彦訳)
という傾倒ぶりである。

さらに、この本では、
当時の聴衆の意見も、
スタンダールが共感したものは、
ありがたいことに、
引き合いに出されている。

「ロッシーニの音楽は、
大胆なのが最も特徴的で、
性格もそのとおりです。
ところが、『泥棒かささぎ』や
『セビリャの理髪師』を聴けば、
その大胆さに度肝を抜かされ
夢中にさせられるのに反し、
『タンクレーディ』には
そういう個所は少しも見あたりません。
ひたすら簡素で純粋な音楽が流れるばかりで、
飾りっ気はこれっぽっちもない。
無邪気そのものの天才といったところでして、
こういう言い方が許されるなら、
あれはまだ生娘の天才です。
『タンクレーディ』には
ぞっこん惚れこんでいるので、
何曲かのアリアに見られる
どことなく古めかしい感じまで
好きなのです。」(ゲラルディの意見)

「完璧な楽譜」、「純粋な音楽」。
ここに書かれていることは、
ロッシーニが数々のヒットを飛ばしていた時代の
代表的な意見なのであろう。

また、この本には、
「これ以上よく歌われたアリア、
これ以上、様々な土地で歌われたアリアも
他にあるまい」として、
「リゾット・アリア」として知られる、
「多くの苦しみの後で」成立のエピソードが、
書かれている。

ロッシーニは、まず、ヴェネチアの公演用に、
主役タンクレーディが登場するときのために
大アリアを書いたが、
美貌と才能の絶頂にいた歌手から、
「気にくわない」と言われたとのこと。
ロッシーニは、主人公登場で、
やじられでもしたら台無しになると、
物思いに沈みながら安宿に帰ったところ、
一つのアイデアが閃いた、というのである。

この本では「リゾット・アリア」とは書かず、
「米のアリア」と書いている。

ロンバルディア地方では、
夕食は必ず米の料理で始まるが、
あまり煮すぎないように4分前に、
料理人が「米を料理いたしましょうか」と
聴くのだそうだ。

「ロッシーニが絶望して戻って来ると、
ボーイはいつもの質問をした。
米が火にかけられる。
できあがる前に、ロッシーニはもうアリア、
『多くの苦しみの後で(Di tanti Palpiti)』
を書き上げていた。・・・
この見事なカンティレーナについては、
どう言えばよいものか。・・・
それにヨーロッパでまだ知らない人がいるだろうか。」

このように、全ヨーロッパで
知られたアリアであるから、
様々な作曲家が、
「ディ・タンティ・パルピティ」の
メロディにあやかった作品を残している。

例えば、ヴァイオリンの鬼神パガニーニも、
変奏曲を使っている。

今回聴いた、西シベリア出身のヴァイオリニスト、
ヴェンゲーロフのCDでは、
何と、「イ・パルピティ(I Palpiti)作品13」
と書かれている。
多くの場合、この曲は、
「『こんなに胸さわぎが』による変奏曲」と呼ばれているが、
単に「パルピティ」!

どうやら、この単語は、「苦しみ」になったり、
「胸さわぎ」になったりしているようだ。
「鼓動」という訳も出て来る。

これまで見て来たように、このアリアは、
タンクレーディが追放された祖国に潜入し、
恋人アメナイーデに会う期待を、
「大いなる不安と苦しみの後に、
恋人よ、君から報われると期待しているのだ」
と、歌い上げるものであるから、
「胸さわぎ」という感じではない。
祖国追放の「苦しみ」だと思われる。

が、曲想からしても、「苦しみ」という感じはない。
「胸さわぎ」かどうかも疑わしいが、
翻訳としての情緒性からすれば、
「胸さわぎ」がそれっぽい。

さて、このCDについて書いておくと、
近年、腕の故障で引退宣言も伝えられる、
1974年生まれの名手が、93年、
つまり未成年のときに、
ベルリンで録音したものである。

テルデック・レーベルへの録音で、
ピアノのゴランを共演者にしての、
ヴィルトゥオーゾ作品集である。

多くが数分程度で終わる小品で、
12曲が収められているが、
この「苦しみ」作品13だけが、
10分を越える規模。

しかし、スタンダールが、
騒々しくもなく、単純すぎもしない、
「完璧な楽譜」から生まれた音楽にしては、
何と、複雑な大曲であろうか。

このヴェンゲーロフというヴァイオリニストは、
渡辺和彦という辛口批評で有名な音楽評論家を、
2000年の来日公演で、
「口をきけなかった」ほどに、
圧倒しつくしたことで知られる名手である。

この人の記事によると、
その十年前の15歳だかの年での来日公演で、
このパガニーニを演奏したとあり、
さらに、このCDについても、
音楽之友社の「ヴァイオリン/チェロの名曲名演奏」で、
「後の世まで残るだろう」と激賞している。

Track1.と3.がヴィエニャフスキで、
「華麗なるポロネーズ第一番」と「伝説曲」が聴ける。
私は、ヴィエニャフスキの濃厚ロマンティックが好きで、
特に「伝説曲」の中間部の濃厚メロディには、
常に胸を熱くしてしまうが、
この演奏、ぎゅうぎゅうと涙を絞り出される感じ。
19歳という年齢で、
このようなコブシが効かせられるのだなあ、
などと妙に関心してしまった。

「ポロネーズ」の方も、切れ味が鋭く、
それでいて柔らかい美感にも優れ、
恐ろしい若者であったことが分かる。
先の渡辺氏が、思わず拍手したと、
などと書いていることも肯ける。
曲の隅々にまで、
オリンピック競技で問われるような完成度が光っている。

Track4.、8.と10.は、
クライスラーで、「美しきロスマリン」、
「中国の太鼓」と「ウィーン奇想曲」。
このあたりになると、
別にヴェンゲーロフで聴く必要は感じないが、
それでも、様々な音色で彩られた
クライスラーという感じで聴かせる。

Track5.のブロッホ「ニグン」になると、
この奏者の集中力と情念のようなものが圧倒的である。
それから、スタミナというべきであろうか。
扇情的な表現が、これでもかこれでもかと、
聴く者の神経に迫って来る。

中間部の祈りのような表現もたいへん激しい。

Track6.と7.は、チャイコフスキー。
「懐かしい土地の思い出」から、
「スケルツォ」と「メロディ」。
凝集力の高い作品の後、
これらのいくぶん伸びやかな作品を挟んでくれて、
とても選曲配置も良いCDだ。

Track9.は、メシアンの「主題と変奏」。
作曲家の24歳の作品で、
若くて活きが良く、神秘的でありながら、
晦渋でないのが嬉しい。
ヴェンゲーロフのような演奏では、
とにかく音が輝かしく、あれよあれよと、
7分半を一気に聞かされてしまう。

Track11.はサラサーテの「バスク奇想曲」。
いきなり情熱的なピアノが意気高揚と発動し、
ヴァイオリンが同様の激しさで入って来る。
この曲に関しても、先の渡辺和彦氏が、
このCDの演奏を賞賛している。
様々なヴァイオリンの技巧による変奏曲といった感じである。
特に左手のピッツィカートのきらきら感に目が眩む。
ヴェンゲーロフは、このような曲では、
その完成度と集中力でオーラを発する。

Track12.バッツィーニの「妖精の踊り」。
ものすごい快速で、かつ鋼鉄の正確さといった趣き。

ということで、このCDの解説は、
Cristian Kuhntという人が書いている。
「過去においても、好都合な環境の影響なくしては、
ヴァイオリニストは、ヴィルトゥオーゾとしての、
輝かしいキャリアを望むことは出来なかった。
音楽に興味のある両親がいて、
まだ初期の段階にある幼い才能に、
この芸術の喜びを伝えることが好ましい。
8歳くらいで、小さなコンクールで、
1位を取って、
サラサーテやヴィエニャフスキ、
クライスラーのように、
例えば、パリのコンセルヴァトワールの
マスタークラスに入る資格を得るべきである。」

めったにヴァイオリンの名手になることは出来ない、
という論調で始まり、そこから、
いったん、名手になるとどうなるかが、
こんな風に語られる。

「または、二、三時間の指導の後、
パガニーニがそうだったように、
独学で楽器を学び、
地方のオーケストラと共演するとか。
もっとマイナーな開催地は言うに及ばず、
パリ、ロンドン、ミラノ、ベルリンや、
ヴィーン、ブダペスト、モスクワのような、
コンサートの場に、トランクいっぱいに詰めて、
出かけて行くことになる。
さらに、ぎっちょで、
不気味な外見であれば、
その芸風も合わせて、
悪魔的で特殊な存在とされ、
成功は請け合いだろう。
彼等は、すべてが重なって、
『魔術師』、『魔法使い』、
『悪魔』、『天使』となる。
演奏会はスペクタクルとなり、
厳格な芸術の楽しみと娯楽の境が曖昧になる。
聴衆は熱狂にさらわれる。
1829年にベルリンで開かれた
パガニーニの演奏会の後、
『Vossische Zeitung』紙の批評家は、
こんな事を書いて、そのイメージを伝えている。
『公衆が加わり出し、
(こう表現するしかないのだが)
弓によるため息や息遣いが、
1000の喉からの、
かすかな呟きによって伴奏された・・。
淑女たちは喝采を見せようと、
桟敷席の手すりから乗り出し、
男たちは、椅子の上に登った・・。』」

何だかよく分からない解説だが、
下記のように、こうしたヴァイオリニストたちが、
作曲活動をも行って来たことが語られる。

「その演奏会曲目を豊かにするために、
多くのヴィルトゥオーゾが独自の作品を作曲したが、
当然、その多くは、その楽器のためのものだった。
ある場合は、しかし、
バッツィーニのオペラのように、
あるいはクライスラーのオペレッタのように、
特別にジャンルを超える場合もあった。
しかし、大部分の作曲活動は、
作曲家の能力に合わせて繕われ、
ヴァイオリンが独奏楽器として、
特別な難易度を克服するような方向を目指していた。
他の作曲家の作品が、
多くアレンジされたことも特筆できる。
イタリア・オペラからの主題を利用するのを
パガニーニは好んだが、そうした中に、
ロッシーニの『タンクレーディ』の、
『何と多くの悲しみ』の主題による
変奏曲からなる『苦しみ』作品13がある。」

私は、この作品の成立の物語などを期待していたが、
やはり、この手のCD解説から、
それを求めるのは無茶だったということか。

しかし、この手の企画は、もっぱら、
演奏家の技巧に酔いしれる事を目指しているだろうから、
永遠に、パガニーニや、サラサーテなどの生涯が、
身近になることはならないような気がする。

このCDの解説は、この後、
サラサーテやクライスラー、
さらにヴィエニャフスキらが、
民族音楽をもとにローカル・カラーを打ち出した事、
チャイコフスキーのものも同様に、
旅で生まれた小品であることを記述。

最後に、ブロッホとメシアンが、
20世紀の作曲家であることに触れている。
このあたりになると、
ヴィルトゥオーゾヴァイオリニストの作品、
という話からずれて来るのは、
やむを得ないのだろうか。

さて、肝心の、パガニーニ作曲、
「こんな胸騒ぎが」による変奏曲であるが、
Track2.に入っているが、
いきなり始まる序奏のピアノの絢爛たる雰囲気や、
続いて高音で歌われるなだらかなメロディが、
ロッシーニの作品とかなり違うことに驚く。

この明るく澄みきったメロディは、
ピアノの簡素な伴奏で歌い継がれるが、
これは至福の時間である。

急に、暗雲が垂れ込めるようになって、
風雲急を告げると、
あの懐かしいロッシーニの音楽が現れる。

これは、まず、快速なテンポで畳みかけられ、
次に、リズムが強調され、装飾音も増し、
強奏されてカプリースみたいに、
重音やスタッカートなどが駆使されて、
名技性を増して興奮していく。

なだらかな部分では、
異常な高音域が駆使されるが、
こうした難所難所を、
ごく普通に聴かせて行き、
かつ、凝集力を感じさせるところが、
ヴェンゲーロフのすごいところであろう。

ヴァイオリン協奏曲のような音の跳躍など、
アクロバティックな表現を絡めつつ、
名残惜しいような音楽になって行く。

最後には、煌びやかなピッツィカートを絡めた、
力強い部分が出て、音楽は勢いを増して、
テンションを高めた後、
だんだんだんだんとアタックを繰り返して終わる。

これは、ロッシーニの音楽が、
一瞬だけ出て来るパガニーニの大奇想曲、
といった感じの音楽である。

リトアニア生まれのイスラエルのピアニスト、
ゴランの美しくシャープなピアノも聴きものである。

さて、前回、書ききれなかった、
ゼッダ指揮のオペラ「タンクレーディ」(ナクソス盤)
の第2幕も、ここで、ざっと続きを紹介しておこう。

CD1のTrack17.
ここからが、タンクレーディの第2幕:
レチタティーボで、
「アルジーリオの居城のバルコニー・シーンから、
第2幕の最初のシーンは始まる。
そこには書き物机と、豪華な装飾の椅子がある。
オルバッツァーノは、アメナイーデが彼を軽視し、
裏切ったことに腹を立てている。
イザウラは、父親に動かされている、
アメナイーデの運命に同情し、
騎士たちにも二つの感情が交錯している。
イザウラは、アルジーリオに、
アメナイーデが実の娘であることを思い出させるが、
彼は、アメナイーデを勘当する。」

ここでは、オルバッツァーノ役のオルセンと、
イザウラ役のディ・ミッコの会話が中心となり、
裏切りを見たか?といった緊迫した状況。

Track18.レチタティーボ。
不安なオーケストラの効果が卓抜である。
「アルジーリオは、出来事に苦悩する。」

Track19.アリア。じゃじゃーんと、
音楽が気分を盛り上げ、この複雑な状況を、
打開しようとするアルジーリオが声を上げる。

「ある者は慈悲の嘆願をし、
あるものは彼の愛国心に訴える中、
アルジーリオは、しぶしぶ、
オルバッツァーノの要求を呑み、
アメナイーデの死刑を宣告する。」

アルジーリオ役のオルセンの声は、
いささか威厳に欠けるが、悩める様子をよく表し、
最後には、少し細く危なっかしいが、
十分に輝かしい声を聴かせている。

この部分では、合唱とのブレンド感も美しい。
ファンファーレが鳴り響き、オーケストラも、
裏切り者の娘を、自ら罰しなければならない、
悩ましい父親の状況をサポートして、
魅力的な音楽を奏でる。

以下、CD2となる。
CD2.
Track1.レチタティーボ。
「アルジーリオと他の人たちが立ち去った後、
イザウラとオルバッツァーノが残る。
彼女は、彼の残忍さを責める。」
ディ・ミッコの声は、メゾなので、威厳がある。

Track2.アリア。
「オルバッツァーノが去ると、
イザウラはアメナイーデのために、
神の助けを求める。」
クラリネット助奏付きのアリアで、
美しいものだが、もう少し、歌手には、
切れ味があってもよいような気もする。

Track3.
「シーンは変わり、門に警備がいる牢獄である。
アメナイーデは繋がれており、
なおも、彼女の不実を疑わない
タンクレーディのために死ぬ運命を嘆く。」
スミ・ジョーの歌は、線は細いが、
良く伸び、危なげもなく、
この状況下での嘆きをびしっと決めている。

Track4.カヴァティーナ。
「愛のために死ぬのは、残酷な運命ではない。
いつか、タンクレーディは真実を知るだろう。」
アメナイーデの聴かせどころの、
美しいアリアである。
装飾音も余裕でこなしながら、
スミ・ジョーの声に浸れる部分。

スタンダールも、この部分を、
「第2幕はのっけから心地よいフレーズがある」と書いた。

Track5.レチタティーボ。
騎士たちに護られたオルバッツァーノは、
正義を求め、この時点で、誰が、
アメナイーデを護ろうとするか、
というと、タンクレーディが割って入り、
彼女の罪は認めるが、アメナイーデを救うと言う。
彼は、長手袋をオルバッツァーノの前に投げ、
彼はその挑戦を受ける。
アメナイーデは、無実を主張するが、
タンクレーディは信じない。
彼は、単に、懲らしめに来たのである。」

Track6.レチタティーボ。
「アルジーリオは、この未知の騎士を抱き、
正体を知ろうとする。」

Track7.二重唱。
「アルジーリオは、
娘を擁護しようとする者の正体を知ろうとする。」
このあたりは、非常に心に残るシーンで、
メロディも美しく、声の強力さを味わえる場面でもある。
スタンダールは、「深い憂愁で始まる」と書いた。

「トランペットが鳴り、タンクレーディは戦いにのぞみ、
アルジーリオは祝福を与える。」
意気高揚とした中、ポドゥレスの野太い声を味わえる。
スタンダールも、
「いかにも中世にふさわしい感動的な熱狂」と書いた。
「きわめて巧妙な」トランペットに関しても、
「巨匠の芸」と絶賛している。

しかも、タンクレーディが剣を抜く瞬間のメロディを、
「高貴・真実味・斬新さは非の打ち所がない」とある。

Track8.レチタティーボ。
「イザウラから状況が変わった事を知ったアメナイーデは、
守護者に対する神の加護を祈り、
タンクレーディが戻って、無実を知ることを求める。」

Track9.アリア。
この合唱付きアリアもその感情の起伏と、
素晴らしく散りばめられた装飾ゆえに聞き所である。
「アメナイーデは助けを乞い、
タンクレーディ勝利のニュースが来て、
アメナイーデと支持者は喜ぶ。」

Track10.合唱曲。
「広場に街の人々が集まり、兵士や騎士が行進してくる。
人々に付き添われ、タンクレーディは戦闘馬車に乗り、
トロフィーのように、オルバッツァーノの武具を見せる。
人々は歓喜する。」

Track11.「タンクレーディは勝利に酔いつつも、
シラクーザを離れ、どこか異郷で死ぬと決意する。」

Track12.レチタティーボ。
「アメナイーデは彼に近づくが、彼はなおもその誠実さを疑い、
不実だと信じている。」
以上は、特に声の見せ場がない緊迫したシーンだが、
以下に、強烈な見せ場が来る。

Track13.デュエット。
「タンクレーディは彼女の言葉を聞こうとせず、
それなら殺してと、彼女は説得を試みる。」
別れの二重唱である。切実な感情が美しく歌われる。
コーダでは、激しい感情が炸裂し、
これまた素晴らしいシーンだ。
「彼等が去るとき、タンクレーディはロッジェーロに来るなという。」

Track14.レチタティーボ。
「ロッジェーロはボスから離れられず、
しかも、イザウラから、アメナイーデの無実は、
証明できると聞かされ、タンクレーディに希望があると知る。」

Track15.脇役に終始していたロッジェーロのアリア。
レンディという人が上品に歌っている。
「ロッジェーロは、アメナイーデが無実なら、
タンクレーディが安らかに暮らし、
愛の松明が再び輝くと考えて喜ぶ。」

Track16.「渓谷とアレズラの泉の滝が見える、
山嶺のシーン。遠方にエトナ山が見え、太陽は西に傾き、
海を照らしている。洞窟があって、その前で、
タンクレーディは、ある人が忘れられない悲しい運命を嘆く。」
ここも、ポドゥレスの暗めながら強い声が、効果を発揮している。

Track17.合唱。
「シラクーザの騎士たちが、
ソラミールに対抗する闘志だとしてタンクレーディを探す。」
この前聴いた、ロベルト・アバドの版では、
ハッピーエンド版は、この合唱が敵軍の合唱だとされていた。

Track18.レチタティーボ。
「アルジーリオとアメナイーデ、騎士や兵士らが、
その正体をアメナイーデが暴いた、その英雄を探し出す。
タンクレーディはしかし、アメナイーデの無実が信じられず、
シラクーザのために戦って死ぬことを求める。」

Track19.ロンド。
「タンクレーディは戦いの中で死ぬという。
そして戦いに駆り立てられる。」
ここでも、ポドゥレスの宿命を感じさせる音色に惹かれる。
主役の最後の聴かせどころの7分近い大曲である。

Track20.レチタティーボ。
「イザウラとアメナイーデは戦いの行方を待つ。
勝利の声が上がり、アルジーリオは、
ソラミールを倒した、タンクレーディを連れ帰る。
ソラミールは、アメナイーデの無実を保証していた。」

この2分の間に、都合良く、すべて解決してしまう。
アメナイーデが悩んでいるのは30秒程度だ。
こりゃ不自然だと考え、ロッシーニが、
フェラーラ版を書きたくなったのも分からないでもない。

Track21.第2幕フィナーレ。
「恋人たちは、再び結ばれ、アルジーリオとアメナイーデは、
喜びを表現し、タンクレーディと分かちあう。
そして、イザウラとも。彼等は大団円を言祝ぐ。」

そうはいっても、このフィナーレは簡潔に、
喜ばしさを表現していて楽しいものだ。

得られた事:「同時代者であったスタンダールらは、ロッシーニの『タンクレーディ』を、『完璧な、純粋な音楽』として捉え、パガニーニもそれにあやかった音楽を書いている。」
「ゼッダ指揮の『タンクレーディ』はハッピーエンド版ながら、タンクレーディを探す合唱は、サラセン人ではなくシラクーザの人々になっている。」
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by franz310 | 2012-03-24 22:45 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その320

b0083728_1440493.jpg個人的経験:
ロッシーニの「タンクレーディ」は、
ややこしいことに、
2種類の結末を持つことで有名で、
両方の版を収録したCDもある。
しかし、多くの場合は、
20世紀の後半になってから
発見されたフェラーラ版による
悲劇的結末の録音が多いようである。
やはり、ヴォルテールの原作に、
近い方が自然であろうという判断か。


音楽之友社から出ている
河合秀朋著のONブックス、
「オペラ・アリアの名曲名演奏」(1995)では、
このオペラのためにも、
一章を設けた貴重な入門書であるが、
「ロッシーニは何度も改訂、
三八種の版があるといわれ、
タンクレディが死ぬ悲劇版もある。」
と書いていて、
むしろ、ハッピーエンド版が普通でしょ、
という書きぶりである。

実際、悲劇で終わるフェラーラ版は、
失敗作とみなされて、
歴史的には、いったん姿を消していたわけで、
ハッピーエンド版がそもそもオリジナルなのである。

というわけかどうか分からないが、
この「悲劇版」全盛の時代に、
すかっと、「ハッピーエンド版」を聴かせるのが、
スペシャリスト、アルベルト・ゼッダ指揮による、
1994年録音のNAXOS盤である。

しかし、今回のこのCD、
この混乱した版の状況に、
拍車をかけるのを狙ったかのように、
表紙デザインが意味不明である。

「ロッシーニの『タンクレーディ』のためのスケッチ」
と題されており、
1952年にBruno Cagliという人が描いたようだ。
不気味な黒ずくめの人物が、
剣を持ったギリシャ風の戦士と握手しているが、
スケッチと言われるだけあって、
全てが不明瞭である。

何とはなしに、不気味な、
不吉なイメージは伝わって来る。
「悲劇版」にこそふさわしいようなデザインである。

が、1952年ということであれば、
ハッピーエンディング想定の絵画だということだ。
(悲劇版は、1974年まで発見されなかったようなので。)

ということで、表紙は不気味だが、
内容はハッピーエンドという、
矛盾した様相を呈した商品となっている。

いくつかの舞台収録DVDを見たので、
この絵画が表しているのは、
おそらく、タンクレーディが、
恋人アメナイーデの父親アルジーリオに対し、
サラセン軍打倒に手を貸そうと、
歩み寄ったシーンではないかと類推できる。

イル・ド・フランスのポワシー劇場における収録とされ、
コレギウム・インストゥルメンターレ・ブルジェンセ
という聴いた事のない団体による演奏である。

ただし、帯には、
「ナクソスのオペラ録音でも最高の成果と絶賛される名演」
とあり、アメナイーデには、
人気の韓国の歌手、スミ・ジョーが起用されている。
また、表紙にもなったアルジーリオには、
アメリカのスタンフォード・オルセン、
タンクレーディには、
ポーランドからエヴァ・ポドゥレスが当てられている。

この人たちを束ねた指揮者ゼッダは、
そもそも、フェラーラ版が発見された時、
これぞ、幻のフェラーラ版とお墨付きを与えた、
ロッシーニの専門家なのである。
それでも、ハッピーエンド版を選んだ。

嬉しい事に、このCD、
安いナクソスの流通価格にもかかわらず、
解説がしっかりしていて、
「この録音の際、ロッシーニの音楽の本質の分析と、
『タンクレーディ』のようなオペラの解釈について、
アルベルト・ゼッダに行ったインタビュー」
として、
この指揮者の言葉も読むことが出来る。

さすが、スペシャリスト。
一言、言わずには居られなかったものと見える。
「ロッシーニの古典性:
芸術の現実的なコンセプトのもとに作られた、
ロマンティックなオペラとは違って、
歴史的や物語の真実らしさに関しては欠落があり、
ロマン派にとって大切な心理的な細部や、内省を嫌った、
ロッシーニの音楽は感覚の理想化に偏りがちである。
本質的で逸話風でない主人公を、
情念から解き放つべく、
ロッシーニは、詩人が単語を操るように、音符を操り、
彼等の直接的な感覚の後ろにある真実に到ろうとする。
ベッリーニやヴェルディのような
ロマン派の作曲家が与えたメロディの優位性は、
ロッシーニにおいてはない。
彼の音楽的語法はシンプルで、
偉大な内省的なメロディも、
主題の長大な展開もない。」

味わい深い示唆である。
メロディよりも重視すべき「真実」があった、
とは、驚嘆すべき論旨である。

「ロッシーニのフレーズは、
非常に短いメロディのいくつかの小節からなる、
マイクロ・セルから組み立てられており、
しばしば、キャラクターを引き立て、
例えば、『セビリャの理髪師』の、
中傷のアリアのように、同じような動きで、
何度も繰り返され、ほとんど頭から離れなくなる。
こうしたリズムの繰り返しは、
単なる偶然ではまったくなく、
非常に厳密な計算に基づいている。
こうした形式的な組み立て、
短いメロディの断片、繰り返し、
単純で力強いリズム、均衡の取れた構成、
極めて単純な和声、主音と属音の交錯が、
ロッシーニを形式的には古典的な作曲家としており、
同時代者からも、彼はそう思われていた。」

「ロッシーニにはメロディの優位性はない」と、
談じているあたり痛快であったが、
マイクロセルの集合体という考え方も、
非常にストレートに私には響く。

これまで、私は、ロッシーニには、
うっとりするようなメロディはなく、
それが、彼の音楽を難しくしていると思っていた。
私も、実は、代表作「セビリャの理髪師」などのアリアを、
単独で楽しんだことはなかったのである。

しかし、初期の短いファルサから親しんで来て、
ようやく、彼の語法に慣れ、
そうした要素とは別の所に、
彼の音楽の強烈な魅力があることを、
学ばされることとなった。

まだまだ、ゼッダの解説は続く。

「ロッシーニの音楽のに二律背反性:
同様の理由から、ロッシーニの音楽は、
一般に鑑賞しやすく感じられるが、
この第一段階の鑑賞法は、
彼のドラマチックなオペラでは十分ではない。
これらの作品は、音符そのものは表現を生まず、
『トラヴィアータ』や
『蝶々夫人』のようなオペラとは異なり、
メッセージは隠されたものになっている。
一般にロッシーニにおいては、
同じ作品が、全く反対の深い意味を持っていたりする。」

こりゃまた、かなり難しいところまで書いている。
確かに、例として上げられたものはすべて、
感傷的で、そこで語られている情念が全てのような作品だ。

そこからすると、「試金石」にしても、
初期のファルサ群にしても、
何か、人間の営みの虚しさみたいな、
文明批判があるとも思える。

「解釈者の自由と責任:
こうした条件から、
もっと現実的な作品においてでなくとも、
どうすれば同様に、
真実に到ることが出来るであろうか。
彼は、事実、演奏者と聴衆とさえの、
能動的な協力関係を求める。
その言葉や内容以上に、
一般的な感情の雰囲気である
『アフェット(魂の揺さぶり)』が、
ロッシーニのアリアを特徴付けている。
このコンセプトは、バロックの伝統に遡り、
驚異、驚愕、驚嘆の美学から生じたものである。
ロッシーニの声楽の書法は、
並外れた声楽家の技巧に依存しており、
全てが『アフェット』を目指している。」

とにかく、魂が揺さぶられること、
と訳すと、トラヴィアータや蝶々夫人の世界になる。
ゼッダは、別の事を言いたかったはずで、
行間から妄想するしかない。

「このような理由から、ロッシーニは、
繰り返しのパッセージにおいて、
音楽表現をモディファイすることを、
演奏者の自由に任せている。
導入のカデンツァや変奏において、
彼は歌手にドラマティックな状況に応じた、
表現力を持ち込むことを認め、
その音域や能力の最大到達点で、
その声を駆使できるようにしている。」

以上がゼッダの言葉であろう。

アフェットゥオーソという音楽記号があるが、
「愛情をこめて」と訳されるが、
「驚愕」とか「驚異」とあるから、
もっと、ぶるぶるしなければなるまい。
それなら、ちょっと分かるかもしれない。

この記事はインタビューとあったが、
最後に、こんな難解な一言が添えられている。

「まさにこの点で、
正確な特徴に対し創造的研究が求められ、
タンクレディの今回のバージョンで、
アルベルト・ゼッタが実践した、
カデンツァや変奏は、
こうした現代的な実践の精神に寄っている。」

ということで、ゼッダが、
何故に、ハッピーエンド版を選んだかは書かれていない。
(ハッピーエンド版だと、CD2枚で収まるから、
とかではないだろうな。
CD1が75分、CD2が72分で、計150分に満たない。
悲劇版では、160分以上かかったはずだ。)

が、先ほどの解説を素直に解釈すると、
ロッシーニにおいては、
聴衆と心がぶるぶるするのが共有できればいいので、
リアリズムは二の次である、という解釈にて、
この明解な方の版を選んだと考えることも可能だ。

このような文章の先入観からか、
このCDの魅力は、
ゼッダの骨太の音楽作りにあることが痛感され、
歌手たちもそのコンセプトによく従っていると思う。

さて、このナクソスのCDにも、
「タンクレーディ」の版のことは、
下記のように簡単に解説されている。

「1760年のヴォルテールの悲劇をもとにした、
ロッシーニの『タンクレーディ』は、
1813年2月6日、
ヴェネチアのフェニーチェ劇場で初演されたが、
タンクレーディが生き残って、アメナイーデと結ばれる、
というバージョンによるものだった。
同じ年の四旬節、タンクレーディの第2版が上演されたが、
この時は、ヴォルテールのオリジナルの悲劇的結末に変更されていた。
ミラノでの新しい劇場での1813年の上演でもさらに修正が加えられた。
今回のものはオリジナルのハッピーエンドである。」

かなりあっさりしたものである。

カロリーネ・ポリカーペ女史が書いた解説を読んでみよう。

「タンクレーディとロッシーニの音楽:
ロッシーニのコミック・オペラの成功は、
彼のシリアスなオペラの作曲家としての重要さを、
追い払ってしまった。
良く知られた大成功の後、
作曲家の生前から、この作品はたちまち忘れ去られた。
特にロマン派オペラの誕生など、
音楽芸術に重大な変化が起こった時期にあって、
『泥棒かささぎ』が、彼の晩年に再演された時、
当時の批評家は、
『40年もたって、昔の愛人に会ったみたいだ』、
と表現した。
このことは、ロッシーニの作曲スタイルから、
いかに時代の精神が変化したかを示しており、
何故、彼のシリアスなオペラが、
事実上、レパートリーから、
消え去ったかの理由がわかる。
スタンダールがロッシーニの傑作と考えた、
『タンクレーディ』においては、
イタリアオペラにおいて生じていた問題に対して、
作曲家は新しい解決を見いだしている。
19世紀の最初の何年かは、実際、
新しい性格やドラマ的状況を導くリブレットに、
新しい主題を入れ込むことは、
すでに存在したオペラ・セリアの伝統に、
別の表現手段や劇的なアクションを要求した。
『タンクレーディ』には、
それゆえ、当時の伝統からは例外的な、
フェラーラのために用意された、
悲劇的終曲だけでなくとも、
叙情的表現と劇的アクションの総合を実現する、
新様式に新手法が見られる。
ロッシーニはここに達するために、
『タンクレーディ』のなお伝統的な形式
(レチタティーボが挟まる並列ナンバー)にもかかわらず、
瞑想的なパッセージとより劇的な部分を交錯させる
巧みなアリアの挿入や、
レチタティーボに独特の処理、
オーケストラの表現力豊かな活用を行った。」

このような特徴は、何となく分かる。
明確に対比された楽想の交錯や、
詩的なオーケストラは、随所に見受けられるものだ。

今回のCDの聴きものは、
ゼッダの指揮もさることながら、
タンクレーディ役の
ポドゥレスの魅力に負うところが大きいと思う。

解説を見ると、ワルシャワに生まれ、
1982年から国際キャリアを歩み、
チャイコフスキー・コンクールなどで賞を取っているらしい。
ヴァレンティーニ・テッラーニや、
マリリン・ホーンの伝統を受け継ぎ、
輝かしいトップCに到るコントラルトの声だとある。
1993年には、スカラ座で、このタンクレーディを歌って、
成功したとあるから、かなり自信と気迫に満ちた、
声を響かせて、まことに溜飲が下がる。

また、最後に戦場に向かう、
「なぜ平安を乱す」(CD2のTrack19)なども、
圧巻の名唱である。

「こうした処置は、ソロのアリアのみならず、
二重唱、第1幕最後の重要なアンサンブルなどをも、
特色づけている。
『タンクレーディ』においてロッシーニは、
ドラマ性、叙情性、音楽的要素の完璧な熟達を見せている。」

第1幕のフィナーレなどで、
この素晴らしいアンサンブルの効果が、
作品としては、我々の度肝を抜く。

アンサンブルとなると、ポドゥレスのたくましい声に対し、
スミ・ジョーやスタンフォード・オルセンの声は、
透明度が高く、やや異質な感じがしないでもない。

例えば、第1幕のフィナーレなど、
やはりアメナイーデの半狂乱が重要で、
聴衆をアフェットさせるだけの魂の底からの迸りが欲しい。

が、このような小さな点を、
ことさら強調する必要があるかは疑問で、
よどみなく流れる音楽の力に酔いしれ、
最後の第2幕フィナーレを歌い出す時の、
スミ・ジョーの晴れやかで澄んだ、輝かしい声を聴くと、
かなりの不満は吹き飛んでしまう。

あらすじ:
1005年、シラクサで起こった事。
CD1.
Track1.序曲。
正統的で充実した響き。単色系で色彩感に欠けるが、
ストレートな表現で良い。

Track2.動入曲、「平和、名誉、忠誠、愛」。
「議会のリーダーであるアルジーリオの宮殿の群衆。
彼と一緒にイザウラ、彼女の従者たち、騎士たちがいる。
二人の従者が、白いスカーフの入った銀の杯を運んでくる。
他の騎士たちが到着し、お互いに赤青のスカーフを、
白のスカーフに交換する。」

これは、赤い派閥と青い派閥があるからと思われ、
白に変えて和睦を象徴しているのだろう。
これまで、二つのDVDを見たが、このように、
スカーフを交換するような演出じは見た事がない。

「騎士たちは、アルジーリオとオルバッツァーノという
リーダーの下に集まった派閥間の抗争の終結を祝うことになった。
二つの派閥は統一されたのである。
アルジーリオは、二つの派閥が和解してシラクサは平和だと宣言する。」
合唱に、アメナイーデの友人のイザウラが絡むが、
ここでは、アンナ・マリア・ディ・ミッコが歌っている。
アルジーリオを歌う、オルセンと共に、解説では、
わざわざ、若い歌手だと書かれている。

検索してみると、いずれも舞台映えしそうな二人だ。

その後、頭目のアルジーリオや、
オルバッツァーノが声を合わせて行くが、
後者はスパノーリで、ロッシーニを得意としているらしく、
声量はないが安定した感じ。

速いテンポで、どんどん進んで行く感じが良い。

Track3.レチタティーボ、
「さあ、ところで、勇敢な騎士たちよ。」
アルジーリオは、ムーア討伐のリーダーに、
オルバッツァーノを指名する。
オルバッツァーノはしかし、
特に、追放されたタンクレーディなど、
内部からの裏切りが出ることを警告し、
イザウラはうろたえる。
アルジーリオは娘のアメナイーデを呼ぶ。」

Track4.合唱とカヴァティーナ、
「晴れ上がったこの佳き日に」。
「アメナイーデは、調和と愛の勝利の歌と共に、
従者と共に現れる。
彼女は、そこに喜びを加え、彼女のもとに、
密かに呼び寄せておいた愛するタンクレーディが、
いないことに一人、不安を感じる。」

これまた、快適なテンポによって、
合唱とオーケストラが朗らかな響きを聴かせる。
続いて、スミ・ジョーの登場シーンであるが、
澄んだ声が美しいが、押しつけがましさも欲しい。

Track5.レチタティーボ、
「おお娘よ、もう既に決まったことだ」。
「アルジーリオは、アメナイーデに、
オルバッツァーノと結婚するよう告げる。
オルバッツァーノは、彼女に愛を告げ、
結婚の約束を父親とした事を告げる。
彼は、すぐに婚儀を迫るが、
彼女は1日待って欲しいと言う。
皆がいなくなると、イザウラは一人、
すでにタンクレーディと誓った、
アメナイーデの境遇を嘆く。
『不幸なアメナイーデよ、
何とあなたにとって恐ろしい日でしょう。』」

Track6.レチタティーボとカヴァティーナ。
「おお祖国よ、大いなる不安と苦しみの後で」。

いよいよ、主人公の登場シーン。
オーケストラの繊細な情景描写も出色であるし、
後半は、このオペラで、最も有名なアリアが出る。

「シーンは変わって、宮殿の心地よい庭園。
庭は海岸と海に面し、船が近づいて来る。
ロッジェーロがまず下船し、
タンクレーディと手下たちも続く。
彼はまだアメナイーデの手紙を受け取っていなかったが、
生まれ育った街を外敵から守り、
愛するアメナイーデと再会することを決めている。」

ポドゥレスの登場であるが、
最初は、祖国への厳粛な挨拶なので、
彼女の底力は秘められている。
「彼は祖国に挨拶し、アメナイーデの事を考え、
彼の行いで彼女が苦しんでいることを詫び、
ただ、再会を願う。」
オーケストラの合いの手が入るあたりから、
ヴォルテージがアップして行き、
有名なアリアへと続く。

この人の声には、何か濁ったところがあって、
それが、妙な迫力を感じさせ、
装飾音が入ると、この魅力が倍増する。

Track7.レチタティーボ。
「ここがアメナイーデの住んでいる館だ。」
「彼は忠臣ロッジェーロにメッセージを持たせ、
アメナイーデのもとに走らせ、
不安の中でロッジェーロを待つ間、
見知らぬ戦士が都市の警備に遣わされて来たことを、
騎士たちに告げる。
タンクレーディが去って、まだ、声が聞こえる距離にいる時、
アルジーリオとアメナイーデが庭園にやって来る。
アルジーリオは、手勢の騎士たちに、
友人達を正午からの娘の婚礼に招くことを命じ、
彼女には服従を求める。
騎士たちが去ると、アメナイーデは、
婚礼を延ばして欲しいと願い出るが、
しかし、アルジーリオは、シラクサは危機に瀕していると告げる。
彼女に求婚している敵の指導者、ゾラミールが、
都市を包囲しており、タンクレーディが帰還したという噂から、
復讐を狙っている。
議会はいかなる反逆者も死をもって罰すると決め、
ムーア軍に対してシラクサ軍を率いる
オルバッツァーノと彼女は結婚しなければならない。」

Track8.レチタティーボとアリア。
「アルジーリオはアメナイーデに、
議会はいかなる反逆者にも死を宣告すると告げ、」
Track9.「彼は、彼女に、
自分の娘であることを思い出させる。」

ここでは、オルセンの歌う高らかな宣言が聞かれるべきだが、
統治者の厳格さよりも、リリカルな感じがするのが惜しい。
このあたりの音楽の冴えた感じは、
しかし、ロッシーニの青春の輝きと言うべきか。

Track10.「何て早まったことを!」。
「アルジーリオは出て行き、
アメナイーデは、差し迫った危機から、
タンクレーディを呼んだことを後悔する。
タンクレーディがその時現れ、彼女は狼狽する。」
せっかくの恋人同士のひとときを、
運命が狂わせて行く部分。

Track11.レチタティーボと二重唱。
「ああ、最悪の時を選んだのね。」
「アメナイーデは、タンクレーディに逃げるよう告げ、
彼の愛の言葉に冷たく接する。」

Track12.「あなたを取り巻くこの大気は」。
「まさに彼が息をするごとに危険は迫る。
彼等は、別れの必要を感じながら、お互いの状況を嘆く。」
二重唱であるが、スミ・ジョーの軽快な声と、
ポドゥレスの声のアンサンブルの対比を楽しむことが出来る。
ロッシーニの音楽もたいへん美しく、
恋人たちのアフェットな情感を盛り上げている。
スミ・ジョーの可憐な声が、これに貢献していることは確かで、
ポドゥレスもここでは脇役になりがちで分が悪い。

Track13.合唱。「愛よ降りて来い、喜びよ降りて来い」。
ファンファーレを伴う行進曲調の楽しい音楽である。
「続くシーンは、市の広場で、
ゴチックの壮麗なカテドラルに続く、
城壁が見える。古代のモニュメントが飾られ、
婚礼を見ようと人々が集まっている。
貴族たちは愛と喜びを述べ、
兵士と騎士が入場、位置に付く。」

Track14.レチタティーボ。
「友よ、騎士たちよ、教会へ行こう」。
「アルジーリオは参加者に挨拶し、
この婚礼がシラクーザの争いを和解させると述べる。
アメナイーデが、オルバッツァーノと結婚して裏切ったと思い、
変装したタンクレーディは、
忠誠をアルジーリオに誓い、敬意を表する。
アメナイーデは、命と引き替えにでも反抗し、
いよいよ、父の言いつけを拒む。
タンクレーディは、それを聴いて喜ぶが、
入って来たオルバッツァーノは、
アメナイーデの不忠を聴き、証拠を持って怒り狂う。」

Track15.「誰から?何故。」
「オルバッツァーノはアメナイーデが、
タンクレーディに書いた手紙が手に入ったのを見せ、
これは、秘密の恋人ソラミールを、
市中に引き入れ市を占領させようと、
彼に送ったものと考え、この背信は死に値するという。
アルジーリオは手紙を読み、
彼とタンクレーディは失望を口にする。」

Track16.
第1のフィナーレ。「神よ、何ということを。」
「アメナイーデは偽りの告発を嘆く。
そこにいた人々は恐怖をもって、この暴露に反応する。
アメナイーデは父に向かうが勘当され、
タンクレーディに向かうが、ここでも拒絶される。
オルバッツァーノは仕返しをする。
イザウラ以外はすべて手のひらを返す。
アメナイーデは、すべてが嘆きに変わる中、
牢獄へと引かれる。」

これまでのDVDで、ここで、アメナイーデが、
牢獄に入れられたものはなかった。

この部分は、このオペラの最大の見せ場と言ってもよい。
アメナイーデを中心に、
3人の男性(タンクレーディは女性が担当するが)と、
イザウラのアンサンブルが、合唱を背景に、
ぞっとするような状況を盛り上げて行く。

アメナイーデの懇願のテーマが美しく、
輝かしい一条の光となって、
この混乱の音楽を照らして行くが、
ことごとく粉砕されてしまう。

アメナイーデが、次々に嘆願をするので、
ここでは、スミ・ジョーの声が、
澄んで冴えているのが効果を上げている。
が、最初に書いたように、
音楽作りがストレートで、
あまり、陰惨な感じがしない。

これで第1幕は終わり。
第2幕以下を書くスペースがなくなってしまった。

得られた事:「ロッシーニは、アリアにメロディよりも重要な事があると考えた。それは、『魂が揺さぶられる』ような真実を目指す事であった。」
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by franz310 | 2012-03-18 14:48 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その319

b0083728_0275517.jpg個人的経験:
前回、ジェルメッティの
指揮によるDVDで聴いた、
ロッシーニのオペラ
「タンクレーディ」。
ヴェネチア初演版
ハッピーエンドも、
聴ける企画かと思ったら、
基本は、フェラーラ版で、
アンコールの一部に、
それが使われているだけだった。


しかし、今回取り上げる、ロベルト・アバド指揮、
主役にゴージャスな二人、カサロヴァとメイを揃えた、
BMG盤は、二つの版の相違の比較をコンセプトにしており、
3枚組で、収録時間が205分に及ぶ画期的代物である。

これは、日本盤も発売されたはずで、
この素晴らしく豪華なイメージの表紙を、
店頭で見かけた記憶もあるが、
買う機会を逃し、
私が持っているのは同じデザインの輸入盤である。

カサロヴァが英雄らしく剣を持ち、
メイは王女にふさわしい威厳を持って表されているが、
ショートカットなので、当時は男役かと思っていた。
バックの壁紙のテイストも冴えている。

65年生まれのカサロヴァは90年代に出て来て、
私は、ベルリオーズの歌曲集などを買った記憶があり、
69年生まれのメイは少し遅れて出て来たイメージ。
この録音が1995年なので、
彼女らのデビューしたての時期の録音。
メイに至っては20代前半ということになる。

メイの歌唱は、第1幕の最初の方(Track4)から聴けるが、
第一印象としては、まだ若いということか、声が細い。

この事は、CD2のTrack9の、
決闘の結果を待つ「神よ護ってください」でもそうで、
きれいな熱演ながら、もっと迫力が欲しい感じもする。

カサロヴァは続いてTrack6で登場。
この人も30歳かそこらであったわけで、
そのせいか、美しい声と技巧ではあるが、
それほど、英雄的な声が出ているわけではない。

Track11の二重唱などでは、
彼女らの技巧を駆使した声の綾を聴くことが出来る。
非常に上品で美しいものである。

Track16の第1幕の終曲で、
アメナイーデの嘆願のシーンがあるが、
このあたりも、
若いメイの可憐さはよく出ているが、
カサロヴァの声には、今ひとつ、
年季の入った威厳に欠けている。

しかし、このあたりは、王女の威厳も何もなく、
哀れを誘うシーンであるから、
表紙写真のメイは、もう少し、
優しそうな顔をしても良かったと思う。

アメナイーデは、特に王女として、
英雄的な行動を取るわけではなく、
運命の食い違いに、
単に翻弄されているばかりの役柄にも思える。
それに耐える、耐えるという点でのみ、
英雄の恋人にふさわしい。

この第1幕のフィナーレ、ロベルト・アバドの指揮も、
非常に見通しが良く明解で、
すべての登場人物の声が織りなす音響の魅力を、
心底味合わせてくれている感じだ。
54年生まれなので、この人も41歳の時の記録。

また、CD2のTrack12にある、
戦場に向かうタンクレーディと、
アメナイーデの別れの二重唱でも、
このメンバーらの、透明な質感、
洗練されたアンサンブルを聴くことが出来る。

第1幕がすっぽりとCD1に収まっているのも嬉しい。
また、第2幕も主要部分はCD2に収まっている。

もう一人の重要人物、
ヒロイン、アメナイーデの父アルジーリオも、
ラモン・ヴァルガスが歌っているが、
この人も1960年生まれなので、
録音当時35歳で、統治者としての威厳よりも、
ピュアな若者の声を聴かせている。

CD2のTrack7で、アルジーリオと、
タンクレーディの涙に溢れる二重唱があるが、
ここでも、ヴァルガスとカサロヴァは、
みずみずしい声を聴かせ、若者同士の場面に聞こえる。
いや、声が低い分、カサロヴァの方が、
落ち着いた年配者に聞こえる。

実際に決闘に趣くのはカサロヴァの方なのに、
ヴァルガスの方が血気にはやっている。

後で、解説に、ロッシーニの「タンクレーディ」を、
若々しくてピュアな音楽という賛辞が出て来るが、
この録音は、そんな作品にふさわしく、
全体的に若い音楽家たちによる、
新鮮で、伸びやかな、すっきりした演奏を記録したものと言えよう。

2000年に出た新書館の「オペラ名歌手201」では、
カサロヴァの代表盤になっていて、
この手の書籍には珍しく、「在庫僅少」と書かれている。

何と、この録音、改めて見ると、
ミュンヘン放送管弦楽団の演奏で、
合唱はバイエルン放送の合唱団。
改めて、ドイツ人がロッシーニに熱いことを感じた。

しかし、さすが、世界レーベルBMGで、
「ヴェネチアからフェラーラへ、喜びから悲しみへ」
という解説は当時シカゴ大学教授であった、
フィリップ・ゴセットという人が書いている。
19世紀イタリアオペラの権威である。

「作家であり、最初のロッシーニの伝記作家であった、
スタンダールにとって、
タンクレーディは、ロッシーニの素晴らしい到達点であった。
19世紀の最初の何十年かのヨーロッパの聴衆にとっては、
イタリアオペラの方向を決めるような作品であった。
ヴァーグナーは、この方向は軽蔑を持って妬んだが、
タンクレーディは、
単に『大いなる不安と苦しみの中で』
のような曲があるだけであるとして、
マイスタージンガーで、
やがて、それをからかうようになる。
一世紀にわたって演奏されなかった
ロッシーニのシリアスなオペラは、
ここ25年ほど聴かれるようになっている。
タンクレーディは興味をそそるもので、
その歴史からも興味深いものである。
英雄が死んで終わる劇が、
オペラでは、ハッピーエンドとなっている。
作曲家はこれを改訂し、悲劇の終結を書いたが、
聴衆は喜ばず、元に戻すことになった。
悲劇的終結の伝説は残されていたものの、
イタリア貴族がその私設アーカイブで、
ロッシーニの手稿を見つけるまでは、
音楽は失われたと思われていた。
彼等はペーザロのロッシーニ協会にこれを知らせ、
学者たちは、それがタンクレーディの
悲劇的フィナーレであると認めた。
そしてロッシーニ・ルネサンスの主導的歌手であった、
マリリン・ホーンがその悲劇的終曲を採用して舞台にかけた。」

ということで、
これまでも読んで来たような事が書かれている。
ただし、以下には今回のこの録音の重要さが書かれている。

「この録音は、タンクレーディの全ての音楽を収めたという、
通常の録音を越えたものである。
まず、1813年2月6日のヴェネチア初演の、
タンクレーディの第2登場アリアを含む
ハッピーエンド版をすべて収めている。
また、ここには、悲劇的終曲を持つ、
同年3月の終わりにフェラーラで再演された、
新しい音楽もすべて収めた。」

ということで、前回のジェルメッティ盤のように、
フェラーラ版に、ちょろっとヴェネチア版を、
垣間見せたものではない。
この「all the music」を繰り返すのが圧巻だ。

「ヴェネチア:
スタンダールのメモには、
ロッシーニのタンクレーディの
『処女作の素直さ』があると書き、
『タンクレーディの音楽で心を打つのは、
その若々しさゆえである・・・
すべてはシンプルで純粋だ。
ここには過多なものが一切なく、
その素朴さ故に天才的である。』
これは文字通り、また、象徴的にその通りで、
まだ21歳の誕生日も祝っていない若者が書いたもので、
タンクレーディはロッシーニの
最初の重要なオペラ・セリアなのである。
1810年から1813年のはじめまでは、
作曲家はそれほど忙しくなかった訳ではなく、
9曲もオペラを書いている。
ヴェネチアのサン・モイーゼ劇場のために、
5曲のファルサ(一幕ものの喜劇または感傷もの)を書いたが、
この街はこうした活動の中心地であった。
しかし、ロッシーニが名声を確立し、
全欧州に飛躍するキャリアの出発点は、
タンクレーディをフェニーチェ劇場で上演した時であった。
ガエターノ・ロッシのリブレットは、
1760年パリで上演された悲劇、
ヴォルテールの『タンクレード』によるものだった。
ヴォルテールの劇の悲劇的終結部は、
台本作家にもイタリアの聴衆にも、
当時のイタリアオペラにはふさわしくないものと思われた。
そこで、ロッシは、タンクレードの終末部のために、
ハッピーエンドを持って来た。
タンクレーディはヴェネチアで好評を博した。
素晴らしいメロディの才能と、
形式の明解さへの類い希なるセンス
(そして、それが、幅広く技巧的な装飾を可能とした)
オーケストラの創意に富む陰影
を統合したのが、
ロッシーニの新しいスタイルだった。
ロッシーニは美しいパトスの動きと、
エネルギーと情熱を対照させたシーンを作り、
セクションを組み立てた。
恋人たちに二人の女声を使ったことで、
(評判の悪いカストラートの声に代わって、
メゾソプラノに英雄役を当てた)
ロッシーニはベルカントオペラの中心となる、
女性たちのアンサンブルの手法を完成させた。
その成功にも関わらず、
ヴェネチアでのタンクレーディの公演は、
問題がなかったわけではない。
聴衆はいろんな事を目撃した。
本来のタンクレーディ役、
アデライーデ・マラノッテの病気によって、
第2幕の最後に行く前に、
初演のカーテンを下ろさねばならなかった。
オペラの全曲が演奏された時でも、
グランシェーナでの、
タンクレーディのオリジナルアリア(No.16-iii)は、
明らかにヴェネチアの聴衆の満足は得られず、
レビューは沈黙していた。
そして、ロッシーニの手稿には、英雄役のために、
二つの異なるカヴァティーナ(登場のアリア)がある。
『大いなる不安と苦しみの中で』は、
より、手の込んだ作品であって、
『愛の甘い言葉』は、おそらく、
オリジナルのカヴァティーナがいかに有名になるか、
分からなかったマラノッテの
リクエストで書かれたものであろう。」

いきなり、「愛の甘い言葉」とは、なんぞや、
と思われるのだが、
タンクレーディ登場シーンには、
もう一つのアリアが用意されていたようで、
実は、このCDには、この曲も、
CD3の最後(Track16)に収められている。

これは、ヴァイオリン独奏の技巧的なオブリガードを持ち、
パガニーニのヴァイオリン協奏曲の中間楽章みたいな感じ。
主役のワガママは、こんなところまで及んだのだろうか。

9分41秒の大曲で、導入部や、繋ぎの部分は、
ほとんどヴァイオリンが主役、
この楽器で盛り上げた後で、
英雄登場という計算だったのだろう。
なだらかで美しいが、大人しく、
『大いなる不安と苦しみの中で』のようなドラマはない。

カサロヴァの声を堪能できるが、
ど迫力を繰り出すたぐいのものではない。
というか、カサロヴァが、その気を持っていないのかもしれない。
最後もヴァイオリン助奏が盛り上げる。

以上で、「ヴェネチア」と題された部分は終わり。
いよいよ、問題のフェラーラのお話。

「フェラーラ:
ヴェネチアのシーズンが終わると、
ロッシーニとマラノッテは、
受難節の間、このオペラの新版を上演した、
フェラーラに移った。
このリヴァイバルのための変更は、
ある意味、意味があるもので、
ブレシアの文人一家の一人で、
マラノッテに愛情を抱いていた、
作家のルイジ・レッチの存在があった。」

このフェラーラとブレシアの位置関係を、
ここで整理しておくと、
右にミラノ、左にヴェネチア、
そして下にフィレンツェを点にした逆三角形の、
ミラノとヴェネチアの間がブレシア、
ヴェネチアとフィレンツェの間がフェラーラである。

また、下記フォスコロは、
近代イタリア最初の批評家と言われている人である。

「フォスコロや多くの文学者の友人であったので、
レッチが、おそらくヴォルテールの、
より筋の通った悲劇的結末に、
タンクレーディを戻すようアドバイスしたのだろう。
あるいは、ヴェネチアでの、
アリア『どういうことだ、どう答える』の、
良くも悪くもない反応のせいかもしれない。
ロッシーニが最終的にオペラの終結部を決めたのであろう。
この環境もあって、新しいフィナーレを持つ、
フェラーラ版は、ロッシーニの作品にとっても、
イタリアオペラにとっても、特別な重要性を獲得した。
1970年代中頃まで、この再演については、
たった二つのドキュメントしか残っていなかった。
印刷されたリブレットと、
フェラーラでのオペラ失敗を、
ヴェネチアで広めようとして、
3月27日にヴェネチアで出版された、
短い辛辣な記事である。
これらから、フェラーラ版を再構築することができた。
第1幕のアメナイーデとタンクレーディの
デュエット(No.5)は削除され、
そこにオリジナル第2幕の
デュエット(No.14)が挿入された。」

ここで書かれていることは、
筋がめちゃくちゃになりそうで、
かなり理解に苦しむが、
おそらく、歌詞からだけだと、
どんな状況か分からず、
どうにでもなったのかもしれない。

No.5のデュエットは、
戻ると殺される時に、
タンクレーディが戻ってきて、
アメナイーデが狼狽するもの。
No.14のデュエットは、
サラセンとの戦闘を前にした二人の別れの歌である。

いずれも、困った恋人たちの歌、
であることに変わりはないということか。

「第2幕の最初の2個所が変更され、
アルジーリオのレチタティーボとアリア(No.8)が省略され、
アメナイーデのカヴァティーナ(No.10)が、
新しいもの『ああ、私が死んだら』に変更された。
この部分は、フェラーラにおけるアメナイーデ、
フランチェスカ・リッカルディ・パイアのためのものだろう。」

ということで、このCDでは、この曲も聴ける。
CD3のTrack15である。

この曲は、3分ほどの感傷的な小唄で、
時折、高い声やコロラトゥーラを聴かせるが、
ドラマから切り離された感じで、
いかにも追加で書かれた感じがする。

「新しい悲劇的フィナーレを導くために、
ドラマ的に筋を通すために、
オペラの最後により重要な変更が加えられた。
ヴェネチア版では、タンクレーディは、
サラセン軍と遭遇する、
エトナ山の麓の寂しい場所から、
彼のグランシェーナを始める。
サラセン兵は、
勝利がすぐであることを告げるので(No.16-ii)、
タンクレーディは、彼等から、
それほど遠くないところにいることが分かる(No.16-iii)。」

何と、この部分、ヴェネチア版の方が自然である。
やはり、この部分のコーラスは、エキゾチックで、
サラセンのものだったのだ。
フェラーラ版では、同じメロディで、
仲間たちの捜索の音楽にされている。
(CD3のTrack2「騎士の歌」と、
Track10「サラセンの歌」で比較できる。)

この歌は聞き慣れたものと歌詞が違うが、
「ササリア、ササリア」というのが耳に付く。
「攻撃、攻撃」と言っているようだ。
それ以外は、このヴェネチア版も大きな違いはない。
が、以下のCD3のTrack11あたりから、
違いが目立って来る。
アルジーリオが一緒になって、
娘のアメナイーデの味方をしているからである。

「アメナイーデとアルジーリオが、
彼を捜しに来ると、
タンクレーディはアメナイーデが、
ソラミールのところに来たと非難する。
しかし、アルジーリオが、
アメナイーデは、罰せられたタンクレーディの名前を、
語る勇気がなくて行動したと説明する。」

CD3、Track12で、だんだん、
怪しいサラセンのどんちゃん音楽が聞こえて来る。

「英雄は、サラセンの戦士たちの、
戦闘的な音楽が聞こえて来ると、
ほとんど、それを信じ始めているが、
サラセンの兵士らは、
アメナイーデをソラミールとの結婚を、
平和の証にしようと騒ぐ。」

サラセンの兵士を表すコーラスと、
タンクレーディが、交渉している感じが面白い。

「これによって、改めて、
アメナイーデがワルであることを
確認したタンクレーディは、
彼女をそのアリア
『どういうことだ、どう答える』(No.16-iv)で拒絶する。」

なお、このフレーズ、前半は、
アルジーリオに対しての暴言であり、
後半は、アメナイーデに対する詰問である。
CD3のTrack12、
1分40秒あたりである。

3分あたりでは、合唱が、
シラクーザは陥落するから、
恐れるがよいと叫ぶ。

すると、いきなり、タンクレーディが、
「これが、あなたが約束した信義だというのですか」
という抒情的なアリアを歌い出す。

そこにサラセンの兵士たちが、
「ソラミールがやっつけるぞ」と、
大騒ぎを差し挟む。
サラセンと一緒にタンクレーディ一党も行ってしまう。

「そして、サラセン軍に向かって、
ソラミールとの戦いを仕掛ける。」
と解説にある部分か。

CD3、Track13.
この緊迫した状況下、「行っちゃった」とか、
アメナイーデとアルジーリオとイザウラは、
いくぶん、呑気なレチタティーボを歌っている。

「アルジーリオもそれに続き、
アメナイーデとイザウラが
遠くの戦闘の響きを聴いている間、
いなくなっている。」

ここに遠くの戦闘とあるが、
チェンバロがぼろぼろぼろんとやっているだけである。

しかし、このように、戦闘中に女たちが、
そわそわするシーンは、
シューベルトの「フィエラブラス」でも見られた光景。
それにしても、シューベルトが若い頃に受けた、
ロッシーニ体験は、
かくも大きな影響を残したということだ。

「二人の英雄はすぐに戻ってきて、
タンクレーディはソラミールを倒し、
死に行くソラミールは、
アメナイーデの無実を語り安心させていた。」
とあるが、あっけない程、
このレチタティーボですべて解決している。

CD3、Track14.
解説にあるように、
「ハッピーエンドが続く。」

このあたりからは、この前、
ジェルメッティ盤で見たアンコールに相当するのだろう。

アメナイーデ、アルジーリオ、そしてタンクレーディが、
「すべての取り巻くものが、
喜びと幸福を言祝いでいる」と楽しげに歌い上げる。
このメロディは、合唱やオーケストラの興奮もあって、
非常に爽やかなものだが、
いくぶん、常套的でパンチが欠ける。

第1幕の長大な劇的フィナーレの後では、
この3分ほどのお座なり音楽では、
いかにもバランスが悪いのではなかろうか。

しかし、ヴィーンの人などは、
こちらの版を楽しんでいたはず。
シューベルトもこれを聴いて、
フェラーラ版があることなど、
知らなかったかもしれない。

シューベルトの「アルフォンゾとエストレッラ」でも、
フィナーレが軽すぎるような気がしたが、
シューベルトにとって、ある意味、
このタンクレーディ(ヴェネチア版)などが、
理想の形として映っており、
それを、何とか真似したいと思っていた可能性はある。

とにかく、以上が、
ヴェネチア版最後の部分のあらすじ。
これはたまげた。
ソラミールが死にながら語った事を聴くまで、
タンクレーディはハッピーエンド版でも、
アメナイーデのみならず、
アルジーリオをも疑っていたということだ。

ソラミールが倒される時、
あんなにいたサラセン兵は、
何をしていたのだろうか。

「新バージョンでは、サラセン人たちは、
タンクレーディの正体を知った
シラクーザの人々に置き換えられている。
彼等は、タンクレーディをサラセン対抗のため、
指揮を執って欲しいと願う。
コーラス(No.16-iia)の後、
アメナイーデとアルジーリオが現れる。
タンクレーディはオルバッツァーノを倒してから、
初めて恋人と会う。
(もともとのデュエットNo.14が、
第1幕に動かされていることを思い出して戴きたい。)」

しかし、これまで聴いたフェラーラ版の演奏は、
どれも、ここまでは改変していなかったのではないか。
コッソットの盤でも、第2幕に歌われている。
そもそも、ここでは、タンクレーディは、
命を救ってやった、とか言っているはずだ。

「そして、彼女を、
ソラミールのキャンプに行かせようとする。
彼女の言葉も虚しくタンクレーディは遮る。
彼は、彼女の国を護るが、
これ以上、彼女と一緒にしたいことはないという。
彼の新しいロンド(No.16-iiia)
『何故、私の心を乱すのか』では、
彼は、何故、この裏切り者の女が、
かくも深く、自分を動揺させるのかを問う。
アメナイーデの涙に動かされながらも、
彼は、兵士らと戦場に向かう。」

確かに、どう考えても、こちらの展開の方が、
ドラマ的には筋が通っている。

「新しいフィナーレでは、
アルジーリオは一人戻って、
シラクーザの人々は勝利したが、
タンクレーディは命を失うほど、
傷ついたと報告する。
合唱と共に、英雄が運び込まれる(No.17a)。
苦痛の中で、タンクレーディはアメナイーデの名を呼ぶ。
アルジーリオは、アメナイーデの手紙は、
彼に宛てたもので、ソラミール宛ではない、
彼女はずっとあなたを愛していたのだと説明する。
タンクレーディに死が近づくと、
恋人たちの結束がアルジーリオによって祝福される。
そして、妻に別れを告げながら(No.18a)、
彼は息絶える。」

これまで聴いた演奏は、いずれも、この版であったが、
このCDは、このバージョンが、
まずCD3の最初(Track1~8)に入っている。
これまで、ずっとこれで聴いて来たせいか、
この流れの方が、オリジナルではないか、
と思えるくらい自然である。

「悲劇的フィナーレの発見は、
フェラーラ版の再構成を可能とした。
これによって、傑出して、
いろいろな意味で思いもよらない
ロッシーニの音楽的個性の見方が分かった。
フェラーラ版への彼の変更は、
タンクレーディにすぐ続く、
彼の最初のオペラ群を支配していたものとは違って、
ドラマトゥルギーへの傾倒があることを明らかにした。
ルイジ・レッチ、そして、
彼が属していた、新古典的な文化圏との出会いが、
この新しい方向が決定的に影響した。
ヴェネチアでの寸評によれば、
このフェラーラ版の悲劇的終曲は、
フェラーラの人たちに好まれなかったようである。
明らかに、こうした実験に耐えるには、
イタリアはまだ十分に熟していなかった。
現代の上演では、しかし、フェラーラ版の
美しさや大胆さを明らかにしている。
そして現代の録音技術の栄光は、
タンクレーディの二つの終結の、
喜びと悲しみを、共に、我々に経験させてくれる。」

それにしても、貴重な録音であった。
異稿も含めての「タンクレーディ」2版、
聞き分け企画、非常に楽しめた。
表紙も格好良いし、演奏も透明度が高く、
スタイリッシュだ。
もう少し、野卑な感じが欲しいような気がするほどに。

得られた事:「シューベルトのオペラの印象的な部分の源泉が、この『タンクレーディ』(ヴェネチア版)のあちこちに見える。」
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by franz310 | 2012-03-11 00:30 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その318

b0083728_1452725.jpg個人的経験:
ロッシーニのオペラ
「タンクレーディ」は、
ハッピーエンドの版と、
悲劇的結末の版の二つがある。
これは生真面目な見方をすると、
極めていい加減な創作態度の
決定的証拠にも見えなくもない。
最後がどのような結末になるかで、
最初の一音から
そこに向かって動き出すべきだ。


例えば、ベートーヴェンの第5交響曲など、
小節数まで厳密に計算されて、
精密に作られているとする研究家もいる。

が、そのようなストイックな考え方は、
ひょっとすると、芸術の不文律でも
なんでもないのかもしれない。

例えば、シューベルトの「未完成交響曲」。
シューベルトは終楽章のイメージまで持って、
作曲を始めたかどうか怪しいものである。

さて、ロッシーニの「タンクレーディ」は、
もともとのヴォルテールの原作にふさわしく、
悲劇的結末の方が主流になっているようである。

が、その流れに対し、
ハッピーエンドと悲劇的結末を、
両方、味わって貰おうという取り組みも多い。

1992年のシュヴェツィンゲン音楽祭で収録された、
今回の映像は、指揮をしているのが、
ロッシーニの一方の権威である
ジャンルイジ・ジェルメッティであるのも嬉しい。
しかも、このDVD、日本語字幕付きである。

パイオニアから出ていたものだが、
表紙の画質に関してだけは問題があり、
海賊版に思える程に劣悪である。

いかめしく武装した男たちがうろついており、
左下に倒れている人も見える。
解像度が低すぎて、
何がどうなっているのか、よく分からない。

一応、断っておくと、DVDそのものの映像は、
何ら問題ないものである。
前回見た、DENONのバルチェッローナ盤より、
もとの舞台自体が美しいような気がする。
が、ヒロイン、アメナイーデの父親、
アルジーリオは、先の盤と同様、
ヒメネスが受け持っている。

このアメナイーデ役には、
人気のマリア・バヨが当たっており、
タンクレーディは、
ベルナデッテ・マンカ・ディ・ニッサが歌っている。

このバヨもディ・ニッサも、
新書館の「オペラ名歌手201」の、
PLUS68の歌手に入っていて、
前者後者とも、この92年の「タンクレーディ」で、
「絶賛された」とか「見事な役を果たした」
みたいな紹介がなされている。

このDVD、日本語解説も読み応えがあり、
永竹由幸という人が書いている。
(昭和音大教授の前に、
ANFコーポレーションなどの社長もやっていた、
実業界出身の人らしい。)
つまり、
1.原作者ヴォルテールと「タンクレディ」
2.ロッシーニの音楽の魅力
3.では何故19世紀後半から忘れられ百年後に復活したか?
という3部からなり、
主人公はヴォルテール自身だという事や、
王朝批判が、この劇の目的だという説なども肯ける。

ロッシーニは、オペラ・セリアの伝統のカストラートではなく、
似た音色の女性低音歌手にタンクレディを歌わせ、
アメナイーデはソプラノとして、
「天国的な美しい二重唱を作曲した」としている。
アリアもリズミックでなじみやすい音楽になっているという。

ロッシーニの音楽は装飾が華美な、
無内容の音楽として忘れられたが、
ワーグナーの音楽が軍国主義と重なり、
戦争の後、ロッシーニが復活した、というのである。

この解説を書いた人は、実際に、
シュヴェツィンゲンでこの上演を見たらしいが、
その王宮劇場を「美の極致」と書いて、
視聴者を羨ませがらせ、
「タンクレーディ」がフェラーラ版で死んで終わった後、
オリジナルのヴェネチア版のエンディングも、
何と続けて上演された事を報告、これを、
「遊び心を持つ人にしかわからない美の極致」
と評している。

このシュヴェツィンゲンでのロッシーニと言えば、
1989年5月の「結婚手形」、「ブルスキーノ氏」、
1990年5月の「絹のはしご」(ハンペ演出)が、
LDにあって、以前、ここでも紹介したが、
同様にロッシーニ音楽祭のものとされる、
ジェルメッティ指揮の
1992年5月の「なりゆき泥棒」もDVDで出ている。

同じ1992年、同じシュヴェツィンゲンのロココ劇場で、
これらより大きなオペラが、
同じ指揮者、同じオーケストラ(シュトゥットガルト放送響)で、
収録されていたということだ。

こちらは、ハンペではなく、
何と、この前のバルチェッローナ盤と同じ、
ルイージ・ピッツィの演出である。
だから、タンクレーディは、ここでも赤い装束なのか。
タンクレーディ登場の部分の演出も、
1幕最後に主役級がどんどん前に集まって来る部分なども、
そういえば、前に見たDVDに似ている。

ちなみに、バルチェッローナ盤は、
フィレンツェ歌劇場で2005年の記録で、
13年が経過している。

ただ、この92年版の方が、
由緒ある劇場の格調の高さや場の力ゆえか、
いっそう凝った感じで、同様に暗めの場面基調ながら、
色彩が豊かで陰影や深みがある感じがする。

年を経て、予算の関係もあるのだろうか、
もともとシンプルな舞台で有名だった彼が、
単純化の方向に向かっているような感じはする。

演技の方も、92年版の方が動きも多く、
ダンスやパントマイムも多用され、
ごちゃごちゃとした豪華な感じが醸し出されている。

ちなみに、映像があるとどうも気になるが、
イザウラ演じる、カタルツィーナ・バックという人も美人だ。
イザウラの衣装ひとつ取っても、
2005年は、まるで古代ギリシアの衣装のように、
白い簡素なものであるが、
1992年のものは、中世風というか、ベルサイユ風というか、
生地のたっぷりした、重そうな青い服を着ている。

そもそも11世紀のお話にしては、
彼やアルジーリオがつけている襞襟(ラフ)は、
このあたりの時代考証を気にする人には、
違和感があるかもしれない。
その意味では、フィレンツェ版の方が、
兵士も王族もそれらしいシンプルさで説得力がある。

先のイザウラ役のスタイルは良かったが、
アメナイーデが演じるマリア・バヨもほっそりとして、
楚々とした感じで、三人の男から言い寄られ、
運命に翻弄されるヒロインにはふさわしい感じである。

が、ひときわ高いところから現れて登場する、
フィレンツェでの演出のアメナイーデも威厳がある。
こちらの方が誇り高い王女の感じが出ている。
同じ演出家でも、登場人物の性格描写が、
揺れ動いている感じがした。

登場シーンでは、アメナイーデは、
みんなに語りかけるような部分と、
心に秘めたタンクレーディへの思いを交互に歌うが、
このような複雑な内容を歌うには、
新版演出のシンプルさが好ましい。

ただし、第1幕の終わり近くで、
アメナイーデが、自分の無実を、
父、恋人、求婚者の順に訴えていく場面では、
「もはやお前の父ではない」
「恥を知り死ぬがいい」
「恐怖に震えて死ぬのだ」と、
まず言われる。

コーダで盛り上がって行く所でも、
再度、合唱が盛り上がる中、同様の懇願があるが、
ここでは、
「立ち去れ」、「無理だ」、「死んでしまうがいい」と、
次々に見放されるシーンがあるが、
1992年のシュトゥットガルト版では、
華奢なイメージのバヨが、
よろめきながら見放され、妙に心を打つ。

舞台の色彩や陰影の深さ、
テンポ感もカメラワークも良いのかもしれない。

最後にイザウラだけが、彼女を抱いて受け入れるが、
シュトゥットガルト版のバックの歌はいかにも弱く、
フィレンツェ版のディ・カストリが、
「あなたの味方、どんな運命にあろうとも」
と、力強く訴える所はぞくぞくした。
この部分は、一瞬であるが、やはり、体勢批判としては、
たいへん重要なポイントに思える。
難しいものである。

音楽としては、オーケストラも、
フィレンツェのものの方がしなやかで軽く、
今回のシュトゥットガルトの方が、
メリハリが効いて推進力もパンチもあるが、
これは、ジェルメッティの指揮によるところが大きいだろう。

序曲のロッシーニ・クレッシェンドも、
じゃんじゃか豪勢で、テンポも壮快だ。
とはいえ、第一部の大詰めなども緊迫感があるが、
フィレンツェでのフリッツァの指揮も、
色彩感と解放感があって悪くない。

あと、これらのDVDでは、トラック割もかなり異なる。
第1幕が、DENONの方は、20部分に分けられているが、
パイオニアの方はわずか8部分にしか分かれていない。

では、各トラック順に見ていこう。
Track1はオープニングで、
シャンデリアが大写しになって、
スポンサー名などが出ている。
Track2.で序曲。
ジェルメッティが指揮を始めるところから写され、
各楽器のソロの部分が順次見せてもらえる感じ。
全体的に黒々とした集団ながら、
肩を出したフルートの女性が気になる。
ネット検索したところ、
タティアナ・ルーランドという人と判明。
日本にもよく来ている感じ。
http://www.tatjana-ruhland.de/

Track3.第1曲、導入。
舞台は、背景に海が見える暗い室内。
「平和よ、栄光よ、忠誠よ、愛よ」は、
合唱とイザウラのメゾによるシラクーザ内、
内紛和解の音楽。
バックの声は、ドラマチックではないが、
落ち着いて上品な感じ。

そこに二人の権力者アルジーリオと、
オルバッツァーノが現れ、
期待通りの力強い歌唱を聴かせる。
音楽はテンポを速め、共通の敵である、
ムーア人(サラセン)との戦いを予告する。

彼等は祖国のために力を合わせると誓う。
ここで、タンクレーディもやっつけるべきだ、
とオルバッツァーノが言っている点がポイント。
彼等は、後で決闘することを暗示している。

Track4.第2曲、合唱とアメナイーデのカヴァティーナ。
「この良き日、空も晴れ渡る」では、
まず、合唱が和解の日にふさわしい、
朗らかな声を聴かせ、舞台上では、
優雅なダンスが始まる。

実際、舞台を見た人は、そのゴージャスさに、
思わず目を光らせたはず。

アメナイーデが父に手を引かれ登場。
「喜びに沸く我が胸」と歌って、
マリア・バヨの澄みきった声が堪能できる。
彼女は、ここで、こっそり、
「愛しき恋人よ、いつ戻るのですか」などと、
タンクレーディの事を考えている。
悲劇が暗示されている。

後半は、オペラ・ブッファ的なリズム、テンポになって、
一気に音楽を高めていく。

しかし、何と、いきなり、父アルジーリオは、
アメナイーデに、このオルバッツァーノと結婚せよと言い、
相手の方ものりのりである。
が、アメナイーデは一日、結婚を伸ばして欲しいという。

Track5.第3曲、タンクレーディの
レチタティーボとカヴァティーナ。
「おお、我が祖国よ」。
小舟からタンクレーディが小舟で降り立つ。
ベルナデッテ・マンカ・ディ・ニッサが、
祖国やアメナイーデを思う。
「輝ける魂と愛」などと美化しすぎていて、
裏切られた時のショックが大きくなるようになっている。

フルートの独奏と共に、
「大いなる不安の日々は去った」として、
再会に胸ときめかせるアリアが歌われる。

これは、前回、紹介した、リゾット・アリア。
ロッシーニがリゾットを注文し、
待っている間に書いたものとされて、
ヴェネチアで大ヒットしたもの。

ディ・ニッサのりりしい表情で歌われる、
この名曲は、その声の豊かな響きもあって、
かなり満足度の高いものだ。

それから、ロッジェーロに、
アメナイーデへの言伝を頼む。
そして、シラクーザの義勇軍として参加する事を、
仲間に告げる。

その間、アルジーリオは、アメナイーデに、
明日は戦いだから、さっさと結婚だ、
と告げている。
タンクレーディなどは帰って来たら、
殺されるだけだ、と言っている。

Track6.第4曲、アルジーリオのレチタティーボとアリア。
「元老院は祖国の敵には死刑を下す」。
ここでは、ベテラン、ヒメネスの安定した声がききものだ。
音楽は、様々なテンポやメロディで移ろい、
「祖国と父を思え」と、高らかにアメナイーデ説得を試みる。

ここで、アメナイーデは、タンクレーディに手紙を書いた事を悔いる。

Track7.第5曲、レチタティーボと二重唱。
「最悪の時に戻ってしまったのよ。」

ここがややこしくなる始まり。
アメナイーデは、現れたタンクレーディに驚き、
素直に喜ばないで、「時が変わった」とか言って、
さっさと自分の心を伝えない。


タンクレーディが愛を語るのに対し、
アメナイーデは、「父の命令を」とか嘆くばかり。
二重唱は、解説にあった、ソプラノとアルトによる、
美しいものであるが、これでは、気持ちはすれ違うばかり。
「悲嘆にくれて生きるのね」と、嘆くばかり。
「話してくれ」、「脅さないで」と応酬があって、
「神様、この恋心は報われるのでしょうか」などと、
二人で情報を共有して、
対策を協議するような前向き指向にはならない。

Track8.第6曲、合唱。
「愛と歓喜、甘美さ、そして心からの忠誠よ」は、
戦場に向かうオルバッツァーノを讃え、
アルジーリオは、教会で結婚式だ、とか言っている。
そこにタンクレーディが、
義勇軍として参加する旨、申し出る。
それを受け入れるアルジーリオは、
しかし、婚礼の事ばかり考えている。
アメナイーデは、不幸な結婚をさせないで、
と懇願する。

Track9.ここからが第7曲。
オルバッツァーノが、アメナイーデが出したとされる、
手紙を持って来て、彼女を裏切り者だと宣告する。

彼は、サラセン軍の誰かに出したものだと誤解しているが、
よく考えると、タンクレーディに出したものだと、
よけいにオルバッツァーノはむかつきそうだ。

Track10.音楽が俄に緊張感を増し、
第1幕の終曲になだれ込んでいく。

このあたりについては、先に、情報を出した。
かなりいろんな声が交錯するが、
バヨの声が、この混沌の中にも響くのが嬉しい。
全編を通じて、バヨの存在感が際だったシーンである。
ロッシーニの音楽も冴えており、
雄渾なアメナイーデ嘆願のメロディが、
縦横無尽に駆け回り、
素晴らしい効果を上げている。

コーダの手探り前進の部分は、
圧倒的に音楽が盛り上がり、
何度見ても見飽きることがない。

以下、第2幕である。
Track11.レチタティーボ「君は見たか」。
オルバッツァーノとイザウラの論争。

Track12.アルジーリオのレチタティーボとアリア。
「神よ、残酷にもとまどいを感じている。」

アルジーリオが娘の死の宣告に署名するシーン。
このパイオニア盤の方が、
父親がくよくよと悩むのが克明に描かれている。
「手が震え、恐怖に凍る」という、
アルジーリオの様子が、これでもかと描かれる。
「父親としての愛情がすすり泣く」とか、
ヒメネス効かせどころの歌唱を、
合唱が、静かに、相反する二つの声を補助する。
「慈悲をこえ」、「祖国のためだ」と。

「恐ろしくも娘はもうすぐ死ぬ」と繰り返す様子から、
「裏切り者は皆殺しだ」という錯乱したアリアとなる。
後奏のオーケストラも盛り上がり、拍手喝采である。

このあたり(第8曲)は、
DENONのフィレンツェ盤では、
省略されていたのではないだろうか。

再び、イザウラとオルバッツァーノの論争を経て、
Track13.第9曲、イザウラのアリア。
「希望は哀れなるものに力を」。
クラリネット序奏を持つ美しいものであるが、
このバックという歌手は上品に歌い、
声量にも限界を感じ、ドラマティックな歌い手ではない。

Track14.第10曲、導入~
アメナイーデのシェーナとカヴァティーナ
「ついに私の不幸な人生は終わりを告げるのね」。
パントマイムで、アメナイーデが、
友人たちに別れを告げている。
暗くてよく見えないが、牢獄となる。
音楽が強烈な音詩となって、雄弁な前奏曲を奏でる。

バヨがレチタティーボを歌い始めるが、
ソプラノながら影のあるこの人の声は、
なかなか強く訴えるものがある。

「死など怖くない、愛する人のために死ぬのですから」
とアリアでは、歌っているが、
彼女は単に誤解されて死ぬのであるから、
実際は、こんな心境にはならないような気がする。
とはいえ、音楽は、甘美に、
「いつかは分かってもらえる」、
「涙を流してもらえるでしょう」と殊勝な点を捉えている。

Track15.レチタティーボと二重唱
「アルジーリオ、抱擁を」。

悪役オルバッツァーノが死刑を急ぐ中、
かっこよくタンクレーディが決闘を挑むシーン。
タンクレーディをアルジーリオがかき抱く。
このマンカ・ディ・ニッサのタンクレーディ、
私は、深さを持っていて、なおかつ澄んだ声といい、
颯爽として毅然とした表情といい、
私は、たいへん満足している。

バルチェッローナは丸々と恵比寿顔で、
ちょっと、緊迫感では不利である。
ただし、彼女の方が、声量と伸びがあるのであろう。
このシーンなどでは、テノールと張り合っている感があった。
が、マンカ・ディ・ニッサには、声に澄んだ張りがあって、
声量ではなく音色の多彩さで、
この重要な二重唱に対応している感じであろうか。
ただ、舞台的には、フィレンツェの方がすっきりしている。

Track16.第12曲、
アメナイーデのレチタティーボとアリア。
「神よどうか、勇敢なるものをお守り下さい。」
このバヨも同じような感じであろうか。
細身ゆえ、ばばっという圧倒感はないが、
繊細な声の操りで聴かせる。

決闘の結果を待つこの悩ましい部分から、
歓喜に到る素晴らしい効果を持った部分、
ロッシーニは、合唱も巧みに織り交ぜながら、
オーケストラも雄弁にドライブして、
「試金石」同様の愉悦に誘ってくれる。

バヨの歌唱にも大きな歓声が上がる。

Track17.第13曲。
合唱「皆の者よ、勝者に喝采を」。
タンクレーディの凱旋であるが、
合唱の豊かさが耳をそばだたせる。
タンクレーディは、何と木馬に乗って現れ、
それに応えるが、陰影のある歌声が、
男声合唱に、微妙なコントラストをなす。

Track18.第14曲。
レチタティーボと二重唱「一体なぜ来たのだ。」

タンクレーディは、早くもこの地を離れ、
次の戦い(サラセンとの決戦)に向かうことを決意している。
アメナイーデが現れて、引き留めるが、
ややこしい事に、まだ誤解が続いている。
「誘惑するなら、別の男にしてくれ」とか、
ひどい言葉ばかり聞かされる。

ここからが、解説者も書いた、
天国的なソプラノとアルトの女声二重唱であるが、
これは、ペルゴレージの
「スターバト・マーテル」で聴いたような美学であろう。
ロッシーニは、この二重唱を慈しむような、
ピッチカートと木管による繊細な伴奏を付けている。
夢見るようなひとときから、
激烈な別れの二重唱に入り込むが、
ここでは、ロッシーニの音楽は何故か、
聴衆の期待を裏切って、軽妙なリズムを採用。
軽さによる推進力を高めながら、
「あなたはひどい人」で終わる、
二重唱の醍醐味を味合わせてくれる。

ここでタンクレーディの従者、友人か、
ロッジェーロが現れる。

Track19.この人のアリア。
「愛の光よ戻ってきておくれ」。
マリア・ピア・ピシテッリという美人ソプラノが、
独特の曇りのある声を聴かせる。

Track20.第16曲の導入、
タンクレーディのシェーナとカヴァティーナ。
「私は今どこに」。
ここでも、ディ・ニッサの深みとこくのある声が嬉しい。
タンクレーディは、森の中で逍遙しているのである。
しかし、「今どこに」と言いたいのは、
こっちの台詞である。
サラセン軍に斬り込んだのではなかったのか。
洞窟みたいなところにいる。

Track21.合唱、
「この街は恐怖に溢れている」は、
サラセン軍に攻囲されているからである。
英雄タンクレーディがいれば何とかなる、
と彼等は主人公を捜す。

Track22.タンクレーディのシェーナとロンド。
アメナイーデが、タンクレーディを探し当て、
再び、恋人たちのややこしい状況が蒸し返される。
「汚れた不貞の行いを悔いるがよい」とか、
マイナスオーラが飛び散る台詞ばかりが連呼され、
耳が汚れそうだが、これがオペラなので仕方がない。

「さあ出陣だ」と合唱が叫び出すので、
タンクレーディのアリアも熱を帯び、
「試金石」を思わせる幾分朗らかなメロディで、
「誰が知るだろう、熱い恋の苦しさを」と熱唱した後、
テンポが速まり、「勝利へ向かい兵を進めよ」という、
コーダへと滑り込んでいく。
サラセンを攻撃するため、
「出陣だソラミールを倒そう」という合唱と、
「恋の苦しみ」が交錯し、タンクレーディは退場。

アメナイーデは泣き崩れて倒れている。
続いて、父アルジーリオも飛び出して行く。
戦闘が始まったというイザウラの言葉と共に、
何故か、アルジーリオが戻ってきて、
勝利はしたがタンクレーディは倒れた、という。

Track23.合唱、「勇敢なる勝者の最後だ」と、
「海のごとく血を流した」タンクレーディを運んでくる。

タンクレーディは舞台中央に寝かされている。
アメナイーデが駆け寄る。
「私が分かりますか、その眼差しを向けて」というと、
まだ、タンクレーディは、
「私を裏切った女よ」とか言っている。
しかし、アルジーリオも一緒になって、
アメナイーデの愛を保証すると、
いきなり、反省する。

Track24.タンクレーディのレチタティーボと
カヴァティーナ・フィナーレ。
「わたしはそなたを置いて去る」。
息も絶え絶えに、
自分は死ぬが、「祖国と妻を置いていく」という。
しかし、まだ音楽が終わっていないのに、
鳴り始め出す拍手はいかがなものだろうか。

長い拍手シーンが収められているが、舞台の高い所でお辞儀、
さらに前面に降りてきてお辞儀という感じ。
さすが、ダルカンジェロ、ヒメネス、
バヨ、ディ・ニッサは拍手が大きい。

Track25.
登場人物と共に、ジェルメッティも舞台に上がるが、
舞台の横で、「ハッピーエンドもロッシーニは作っている」
と説明した後、その場所から指揮を始め、
楽しい別フィナーレが始まる。

アメナイーデ、アルジーリオ、タンクレーディに、
イザウラも交えての、
「溢れる歓喜と幸福」に溢れた明るい終曲が、
約3分、アンコールのように演奏されている。

という事で、このDVDも、決して、
二つの版を収めたものではなかった。

正確に書くと、フェラーラ版を演奏した後、
ヴェネチア版の最後をアンコール形式で紹介した、
という感じであろうか。

得られた事:「『タンクレーディ』のハッピーエンド版を、アンコール風に利用した上演の記録。主役二人の声に満足。」
「戦争に勇者を送り出す前に、娘を差し出す父親という切り口は、シューベルトの『アルフォンゾとエストレッラ』と同じだが、ヒロインは、恋人と力を合わせることなく、悲劇が進行していく。シューベルトのオペラでは、恋人同士は、協力している感じである。」
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by franz310 | 2012-03-04 15:00 | ロッシーニ | Comments(0)