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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その317

b0083728_21263370.jpg個人的経験:
前回、バルチェッローナが
タイトル・ロールを歌った
ロッシーニの「タンクレーディ」を、
映像で鑑賞したが、
これによって、私の作品理解は、
それなりに進んだような気がする。
実は、この作品、
私は、ずっと気になっていて、
前から、ここに挙げる
1988年にCD化された録音も、
以前から持ってはいたのである。


この「タンクレーディ」というオペラについては、
シューベルト・ファンなら、
耳にタコが出来るくらい聞かされているはずだ。
が、あまり録音もなく、シューベルトの愛好家が、
必ずしも、このオペラを聴くとは限るまい。

私が最初に読んだシューベルトの評伝にも、
この曲は出て来るので、
何故、シューベルトが、これに惹かれたかを、
何時かは考えなければならないと考えていた。

ただし、中学生だった私は、
「タンク」に戦車を連想し、
どんなレディかと思っていた。

また、バブル期に、タンクトップという、
服装があることを知ってからは、
タンクトップを着た淑女かとも妄想した。

が、ちょっと調べれば分かるが、
戦車でもタンクトップでもなければ、
そもそもタンクレーディの性別は男性だったのである。

しかし、混乱に拍車をかけているのが、
主人公タンクレーディは男性であるが、
オペラの中では、女性が歌い演じるということ。

このCDでも、表紙写真で、
いかめしい兜を着けた人は、
どう見ても女性である。
しかも、「戦車」を想起してもおかしくはない。

このCDは、伊フォント・チェトラ・レーベルのものを、
株式会社ANFコーポレーションという所が
製造、販売していたもので、
私は、ずっと純正イタリアものかと思っていた。

もともと、78年の録音だったようだが、
いかなる経緯か、10年も経って、
日本語解説や対訳もばっちり入って、
忽然と現れたCDであった。

しかし、今回、改めて見直してみると、
CD自体も「Made in Japan」となっている。
実に、今となってはお宝級の商品である。

2幕の作品なのに、
「タンクレーディ」全3幕と書かれていたり、
シラクサ軍の将軍級のオルヴァッツァーノ
(ここでは、ニコラ・ギュゼレフが歌っている)を、
「シラクサの敵」と、
たぶん間違って記載していたりする。

一方で、
「原作:タッソーの叙事詩『エルサレムの解放』
及びヴォルテールの悲劇『タンクレード』」と書かれ、
「時・所:1005年。シチリア島、シラクーザ」
と厳密性を徹底した素振りの表記があったりもする。

とにかく、3枚組であったり、
取っつきにくいという事では、
この上ないこのCDを、
ようやく鑑賞できる素地が出来たような気がするので、
改めて聴き進めることにしたい。

このCD、タンクレーディは、
この表紙写真のメッゾ・ソプラノ、
フィオレンツァ・コッソットが歌っており、
かなり格調高い歌いぶりで特徴がある。

また、配役をよく見ると、恋人のアメナイーデは、
美人で有名で、人気も高かった、
レッラ・クベルリが歌っているのが嬉しいではないか。

私は、イザウラという登場人物は、
いきなり冒頭から父アルジーリオと出て来るので、
アメナイーデの母かと思っていたが、
ここでは、アメナイーデの友人と書かれていることを発見。

その父の役を歌うのはウェルナー・ホルヴェーク。
イザウラはヘルガ・ミュラーが歌っている。
こちらは、前に、「試金石」のCDで歌っていた人だ。

バルトリの歌うオペラで指揮をしていた、
ガブリエレ・フェッロ(フェルロ)が指揮をして、
カペラ・コロニエンシスという団体が演奏をしている。

変な団体名であるが、解説によると、
「イタリア・チェトラと西ドイツ放送局の共同制作によって
ケルンで録音されたこのレコードは、
新しいクリティカル・エディションによる
『悲劇的フィナーレ』をもつ『タンクレーディ』の
最初の全曲録音であるばかりでなく、
このオペラが作曲された
19世紀初頭の時代のオリジナル楽器を用い」
とある。
コロニエンシスは、ケルンの団体ということであろう。
合唱団も、ケルン放送合唱団とある。

私はこれまで、ずっと、
イタリア勢による録音だと信じていたが、
むしろ、ドイツ勢による録音ということが分かる。

このフォニト・チェトラというイタリアのレーベル、
今回も、一筋縄ではいかない作戦で出ているようだ。

1976年に「悲劇的フィナーレ」の自筆スコアが発見され、
翌年、さっそく蘇演したのが、
今回の盤の指揮者フェルロだったようである。

また、「全曲録音」とあるように、
バルチェッローナのDVDの演奏では省略されていた、
友人のロッジェーロが、タンクレディに、
アメナイーデが結婚するという知らせを伝えるシーンも、
CD2のTrack3として聴くことが出来る。

しかし、ドイツでの録音ということで、
妙に納得できる演奏となっている。

アンサンブルが美しく、水も滴るオーケストラが堪能でき、
歌手の歌いぶりにも、適度な抑制のようなこのがある。
ロッシーニにしては大人しいかもしれず、
解説には、
「ヴァレンティーニやホーンほど
華麗なカント・フィオリートを用いていないが、
それも現代的」などと書いている。
カント・フィオリートとは、装飾のことであろう。

この他、この解説は、第一人者、
高崎保男氏によるものであることが嬉しい。

ロッシーニはオペラ・ブッファで有名であるが、
実際は、ブッファやファルスは37曲のオペラの、
約1/3を占めるにすぎないとして、
オペラ・セリアからフランス・グランド・オペラに対して、
重要な役割を果たしたことが書かれている。

「18世紀ナポリ派の伝統を継承し、
これにさまざまな改革や新しい独創的な表現の工夫と試みを加えた」
としている。

そして、この「タンクレーディ」を。
ロッシーニの大規模なオペラ・セリアの最初の作品で、
最も重要な出発点であると書き、
文豪スタンダールも、
「無限の賛嘆と愛着を捧げて惜しまなかった」
として補足している。

1812年9月のミラノでの「試金石」の成功によって、
ヴェネチアの名門、ラ・フェニーチェ劇場から、
新作を委嘱された、と書かれているが、
DENON盤DVDには、
1812年6月に委嘱されたので、
これは、「試金石」の成功とは無関係としていた。
この20年の間に研究が進んだのであろうか。

初演は大成功ではなかったが、
数回の上演を繰り返すうちに、
タンクレーディの登場のアリア『Di tanti palpite』が、
大人気になったというエピソードを紹介している。

このアリア、ロッシーニは、
ヴェネチアのレストランでリゾットを注文して、
待っている15分の間に書き上げたので、
「リゾットのアリア」として知られたらしい。

貴族からゴンドラ漕ぎまでが口ずさんだ
一大ヒットとなったからこそ出来た愛称だったのだろう。

先に、この作品の原作についても、
タッソーの名前が並記されていたが、
解説は、この物語のソースとして、
さらに、中世フランスの神秘劇や、
16世紀イタリアの詩人アリオストの、
「Orlando furioso」までを挙げ、
それだけに飽きたらず、
ド・フォンテーヌ夫人の小説、
「サヴォア伯爵夫人」までを挙げている。

極めて単純な筋に思えていたが、
ここまでソースが必要なのだろうか。
例えば、オルランドは、ヴィヴァルディのオペラでも聴いたが、
魔女退治の話だった感じが強く、
この「タンクレーディ」のような、
恋人同士の誤解が誤解を生む
ややこしい状況があったかは思い出せない。

ロッシーニがヴォルテールを
好きだったとは知らなかったが、
「マホメット二世」や「セミラーミデ」も、
このフランスの文筆家のものを、
原作に利用しているらしい。

ただし、ロッシが書き直したリブレットでは、
原作の登場人物の熱血な性格が弱まっているとある。

この後、このオペラの物語についての解説が続くが、
シラクーザはアルジーリオ家と
オルバッツァーノ家の対立構図にあって、
後者が権力を握った際に、
アルジーリオは、妻と娘のアメナイーデを、
ビザンティンの宮廷に避難させていたとある。

このとき、ビザンティンでは、
シラクーザから追放されていたタンクレーディがいて、
この時、アメナイーデは、彼と恋に落ちたのである。
何と、母はこの地で亡くなり、
その臨終のベッドの傍らで婚約したとある。

そして、ややこしい事に、
このビザンティンの宮廷に、
何故か、後にサラセンの将軍となるソラミールがいて、
アメナイーデは、彼の求愛も受けていたという設定である。

私は、前回見たDVDでは、確かに、
何故、ソラミール(DVDではソラミーロ)が、
アメナイーデを愛したのか分からなかったが、
シューベルトの「フィエラブラス」同様、
異郷の地で会っていたということであった。

また、今回のCD解説では、
タンクレーディは、ノルマンの後裔で、
オルバッツァーノは、外来者を敵視して、
土着貴族らと共謀して、彼の一族を追放し、
財産も奪い取ったと書かれている。

また、驚くべきは、先ほど、
このオペラの原作は、
タッソーやアリオストと関係していることが
書かれていたことを紹介したが、
何と、フェラーラは、
この文豪たちが活躍した街だとあった。

何と、ロッシーニは、彼等に敬意を表した形で、
ハッピーエンドで作り上げていたオペラを、
オリジナル通りに悲劇的結末に書き換えたように見える。

彼等に敬意を表したかはともかく、
そうした文芸の街である事などが、
何か、ロッシーニに霊感を与えた可能性はあるだろう。
ある種のパワースポットとして機能したのだろうか。

さて、このフェラーラ版であるが、
北イタリア、ブレッシャの
レーキ伯爵家の文書館から、
自筆スコアが発見されたとあり、
このレーキ伯爵は、
改訂版フィナーレの歌詞を書いた人の
子孫なのだそうだ。

このルイージ・レーキ(1786~1867)
という人は、何と、歌手のマラノッテの愛人だったらしく、
マラノッテは、初演時の主役だという。

という事で、このCD3枚を聴いて見よう。
165分の長丁場である。

Track1.の序曲の助奏からして、
いくぶんほの暗い色調を帯び、
喜劇「試金石」と同じ序曲とは思えない程、
堂々とした風格を見せる。
主部に入っても、丁寧な音楽作りで、
オペラの前座としての序曲の華やかさよりも、
音楽そのものの充実を求めたような演奏になっている。

Track2.のアルジーリオの宮殿で、
シラクーザの連合がなった事を祝う合唱も、
とても堅牢な感じ。
「更に親密な友情で結ばれますように」と、
イザウラが和睦を言祝ぐところも、
派手さはないが、きれいな色調を放っている。

Track3.で、二人の指導者、
アルジーリオとオルバッツァーノらが、
「我々全員が祖国への忠誠を誓おう」と、
歌い交わすのも威厳があり、堂々としていて良い。
アルジーリオを歌うホルヴェークのテノールも、
良く通って指導者風で良い。
この人は、1936年生まれであるから、この時、
50歳くらいで油が乗りきっていたと思われる。
ただし、2007年には亡くなっているようだ。

Track4.アルジーリオとオルバッツァーノが、
サラセンに共に当たる事を語る。

Track5.の合唱の、
かっちりしたリズム感も、
今回、読んで来たように、
ケルンの合唱団ということであれば、
妙に納得が行く。
歌詞は、「晴れ上がったこの佳き日に」
というもので、「愛と調和が勝利を得た」と続き、
シューベルトを歌ってもおかしくはない、
ロマンティックな響きである。

「この心も喜びにわいています」と、
アメナイーデが登場し、
クベルリの颯爽とした登場も美しい。
オーケストラの軽快なはずのリズムも、
しっかりと踏みしめられるように刻まれる。

クベルリは45年生まれなので、
この時、まだ33歳の若さであったわけだ。

Track6.は、
アルジーリオがアメナイーデに結婚を迫るので、
彼女がイザウラと一緒にうろたえるシーン。
チェンバロのような伴奏が付くが、解説には、ピアノとある。

Track7.素晴らしく詩的なタンクレーディ登場のシーン。
オーケストラは、繊細な色調を駆使し、完璧なまでに、
一幅の音の絵画を描きあげる。
解説には、
「アルジーリオの宮殿の中の素晴らしい庭園。
奥には花の咲き乱れた海岸や、
波に洗われる城壁、並木道、彫像、鉄格子の門、
等々の壮大な風景が望まれる」とある。

そんなところに、タンクレーディの帆掛け船が現れるが、
そのまま、それを音だけで描き上げた感じである。

コッソットのタンクレーディは、
極めて落ち着いたもので、
英雄というより、厳格な女教師のようだが、
丁寧に破綻なく、声のラインを美しく繋いでいる。

解説にあったように、
装飾はあまりやらないので、
イタリアオペラの主役という感じは弱いかもしれない。

Track8.「大いなる不安と苦しみの後に」が来る。
また、改めて、この部分のメロディが、
「リゾットのアリア」として有名になった理由を確認した。
リズミカルで軽妙で明解。

Track9.
ここではタンクレーディが友人のロッジェーロに、
アメナイーデへの伝言を頼むシーン。
それから、アルジーリオが、
サラセンの軍隊が街を包囲してきたので、
結婚を急ぐようにと、
アメナイーデをせき立てるシーン。

Track10.ここは、ホルヴェークの、
安定感あるテノールを味わうことが出来る
高らかに美しいメロディのアリア。
「お前のその優しい愛情を
愛する夫に捧げるのだ」と歌い、
途中からは推進力を増して、
オーケストラが威力を発揮するのも聞き所であろう。

Track11.タンクレーディが
シラクーザに来るのは危険だと察知した、
アメナイーデのところに、
何と、ちょうどタンクレーディが現れる。
恋人なら喜ぶべきを、アメナイーデは、
あまりにも理性的な応対をしてしまう。

この辺りから、タンクレーディは、
恋人を疑うようになってしまう。

Track12.素晴らしく雄渾なメロディが出て、
恋人たちの屈折したやりとりが歌われる。
二人の先行きを暗示するような不気味な低音が現れる部分と、
牧歌的な木管群が囀る部分が、
二人の運命と再会の喜びを玉虫色に暗示する。

このような部分を聴くだけでも、
ロッシーニが、手段を選ばず、
不安定にメロディを使い捨てにしながらも、
展開の切迫感の持続を重視したことが聞き取れる。

シューベルトなら、もう少し、じっくり歌い上げたかもしれない。
しかし、このような緊迫した二重唱の醍醐味を、
シューベルトもロッシーニから、よく学んでいたと思われる。

この演奏の、華美になることを
避けたような性格にもよるのだろう、
何となく、この部分を聴きながら、
シューベルトの音楽に繋がって行く要素をも、
ついつい感じずにはいられなかった。

以上で、CD1は終わる。

CD2は、ロッジェーロのレチタティーボ。
彼は、オルバッツァーノが、
アメナイーデを奪うことになる事を知ってしまうが、
タンクレーディには内緒にしておこうと語る。

Track2.婚礼の喜びの合唱。
合唱が多用されて、壮麗さを引き立てているのも、
この作品の特徴かもしれない。

Track3.
ロッジェーロは、タンクレーディに、
彼女を忘れ、ここを去るように忠告する。
ところが、彼は、アルジーリオの前に出て、
シラクーザの防衛を手伝うことを申し出る。


Track4.オルバッツァーノが怒って現れ、
アメナイーデが出した手紙を手に入れたと言う。
アルジーリオが、その手紙を読み上げるシーンは、
不気味な伴奏のついたメロドラマ風である。

Track5.は、
「何ということをしてくれたのだ」という、
迫力のある六重唱。
オーケストラは、切迫感のあるリズムを刻み続け
恐ろしい運命の前兆を暗示しながら、
それぞれの人物の思いのたけがぶつけられる。

Track6.
晴朗な素晴らしいメロディが現れ、
アメナイーデの無実の心と、
が哀願する様子を表すが、
断固としたオーケストラの総奏が、
それを押しつぶして行く。

このあたり、レッラ・クベルリや、
ウェルナー・ホルヴェークの存在感がありすぎて、
主役のタンクレーディを歌う、
コッソットの存在感はあまりない。

合唱が、「死刑になるのだ」と叫ぶと、
「こんな女のために、私はこれまで、
愛情を捧げてきたのか」と、
アルジーリオ、オルバッツァーノ、タンクレーディが、
自問自答する中、
アメナイーデが「神よお守り下さい」と唱和する、
無伴奏の四重唱が始まる。
シンプルに声の綾を聴く部分。

Track7.怒り狂う合唱、
他のソリストらの前に、
いくら、アメナイーデが嘆願してもダメダメの部分。

ただ、イザウラだけが、彼女の味方で、
二人の二重唱と、その他の者らの唱和が美しい。

そして、1幕のフィナーレとなる、
ロッシーニらしい短い動機を連ねたような、
軽快かつシンプルな音楽の推進力と、
声の饗宴の圧倒的な効果が素晴らしい。
「死の足音が心を凍らせる」、
「このような日の終わりはどうなるのだろう」と、
これから起こることに戦慄しながら幕となる。

ここからが第2幕。

Track8.イザウラとオルバッツァーノの論争。
後は、アルジーリオの署名で、
アメナイーデの処刑は決まると言う。

アルジーリオは、「最悪の極致」と苦悩する。
父親が娘の死刑判決に署名するのだから当然。
このあたりは、DENONのDVDでは、
省略されていたような気がする。

Track9.アルジーリオが署名する部分である。
「署名しようとしても、どうしても駄目だ」と
延々と悩みながら、合唱が、
「慈悲を乞え」という言葉と、
「掟に従うのだ」という言葉を発する。

決然とアルジーリオが声を高らかに、
「もはや判決は下された」と歌い上げ、
彼が署名すると、合唱は、「祖国の父」と、
威勢の良い声を上げる。

が、アルジーリオは、なおも悲痛な声で、
「なんと恐ろしいことだ」と嘆き続ける。
このあたりも、バルチェッローナのDVDにはなかった。

軽快なリズムと共に、合唱は、
「正義感と栄誉の誇り」などと盛り上げる。

Track10.は、イザウラが、
オルバッツァーノを非難する部分。

Track11.は、そのイザウラのアリア。
「つらい苦しみの中、強固な意志を与えて下さい」。
クラリネットの助奏を伴う優雅な曲調で、
実力者、ヘルガ・ミュラーの声を堪能しよう。
この人は48年生まれなので、まだ30歳だった!

Track12.は、アメナイーデの牢獄。
このシーンの音楽も素晴らしく絵画的で、
冷たい牢獄の恐ろしげな雰囲気や、
わびしい情景が、眼前に現れるようである。

クベルリの美しく、冴え冴えと豊麗な声が、
自らの運命を嘆く。

Track13.も親しみやすいメロディで、
クベルリの声を味わうことが出来る。
「死は決して恐ろしいものではありません」という
諦観の歌で、愛らしい木管群の合いの手が微笑ましい。

Track14.は、いよいよ処刑のため、
アメナイーデを、父と、オルバッツァーノが連れに来る。
その時、颯爽と現れるのが、タンクレーディ。
さすが、主役だけあって格好良い声で聴かせる。
「お前は誰だ」というのに対し、
「お前が倒れた時に分かるであろう」という決め台詞。

CD3は、この緊迫した場面から、全てが収束するまで。
Track1.アルジーリオは、
娘のために決闘をしてくれる、
謎の騎士に感動して、優しい声をかける。
Track2.
この上なく愛情に満ちたメロディに、
「きっと私が誰か分かる日が来るでしょうが、
憎まないで下さい」という泣かせる内容の、
タンクレーディの声も重なって、
音楽はますます優美になって行く。
最後は、決闘に向かうので、勇壮な行進曲になっていく。
コッソットの声も、このあたりになると、冴えに冴えている。

Track3.解放されたアメナイーデとイザウラ。
アルジーリオが決闘が始まって、
逃げて来た事を告げる。

Track4.はアメナイーデの祈りの歌。
この清純な祈りの部分から、
Track5.の決闘の結果が
合唱で聞こえて来る場面も、
素晴らしい劇的効果がある。
シューベルトも、このような効果に関しては、
十分、理解していたはずで、
「フィエラブラス」でローラント脱出のシーンを、
私は思い出さずにはいられない。

DENONのDVDの演奏よりも、こちらの演奏の方が、
がっしりと踏みしめながら音楽を進展させている。
クベルリのコロラトゥーラも聴けて、
全曲の聞き所の一つである。

Track6.タンクレーディ凱旋の合唱と、
自省するようなタンクレーディの歌。

Track7、8、9.すでにタンクレーディは、
シラクーザの地を離れる決心をしている。
アメナイーデの言葉にも耳を貸さない。
やがて、テンポが変わり、
こじれてしまった恋人たちの美しいが歯がゆい二重唱となる。
最後は、急速になって、ロッシーニ的な展開になだれ込む。

Track11.ロッジェーロが、
アメナイーデの言葉を信じる歌を歌う。

Track12、13.このあたりも交響的音画。
タンクレーディは、さすらって、大自然の中にいる。
崖の下の滝、そうした豪壮な自然を背景に、
タンクレーディは失恋を歌う。

Track14.合唱曲で、騎士たちが、
タンクレーディさえいれば、サラセン人に勝てると歌う。

Track15、16.アメナイーデとアルジーリオらが、
遂に、タンクレーディを探し当てる。
こじれた恋人たちは、ややこしくなる一方。
「タンクレーディは貴女にとっては死んだのだ」と、
彼はいじけた歌まで歌い出す始末。
ここは、タンクレーディ役は声の可能性を開陳すべき所。
コッソットの歌は、妙に端正で思慮深そうで、
表紙写真のイメージそのままである。
熱血に駆られて行動するタンクレーディに似つかわしいかどうか。

Track17.
タンクレーディはサラセン軍に斬り込んだ設定である。
アルジーリオも参戦し勝利するが、
タンクレーディは脇腹を刺されたと戻って来る。

Track18.悲劇的結末である。
この場面こそが、ロッシーニが、
どうしても挑戦したかった部分であろう。
瀕死のタンクレーディが五分間、
「私は花嫁を得て去って行く、あなたは生きて下さい」
などと息も絶え絶えに歌い続ける最終場面。

このようなシーンでは、コッソットのような、
厳粛な歌いぶりが生きて来るという感じか。
簡素で悲しげな管弦楽をバックに、
祈るような歌唱が胸を打つ。

得られた事:「真面目すぎるコッソットの歌唱は、表紙そのまま。クベルリの声の輝きが嬉しい。」
「ロッシーニの『タンクレーディ』。要所要所に現れる交響的絵画のような管弦楽部分の美しさ。」
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by franz310 | 2012-02-25 21:37 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その316

b0083728_21514127.jpg個人的経験:
前回、アレッサンドロ・スカルラッティの
オペラ・アリア集で、
バルチェッローナという歌手の
圧倒的な歌唱を堪能したので、
この人が得意としている
ロッシーニ作曲のオペラ
「タンクレーディ」を、
その勢いを借りて聴いてしまおう。
このメゾ・ソプラノは、
大きな体躯で、男性役を得意とし、
前回のCDでも、
甲冑に身を包んだ出で立ちで、
ジャケット写真に収まっていた。
今回も、実際は男性である英雄役、
タンクレーディを歌い上げ、
表紙写真からも、
たいへんな迫力を感じさせる。


この表紙からも、「タンクレーディ」を聴きましょう、
という構図ではなく、
バルチェッローナを堪能できますよ、
という切り口であることを感じさせる。

前回のCDでは青い感じのデザインであったが、
今回のDVDでは、深紅のコートのようなものを着て、
右手を握りしめ、苦悩に顔をゆがめている。

DENONから昨年(2011年)出た、
DVD解説でも、
この映像は、2005年のフィレンツェでの
ライブの記録であるが、
もともと、このピッツィによる演出は、
1999年にペーザロでの、
ロッシーニ音楽祭で制作されたものと書かれ、
「そこでタンクレーディを歌ったダニエラ・バルチェッローナが、
一夜にしてスターになったという伝説的なもの」の、
再演であることが特筆されている。

繰り返しのようだが、「出演者プロフィール」でも、
「『タンクレーディ』のタイトルロールを歌い
センセーションを巻き起こす」とか、
「柔らかくイタリア的美感を湛えた声と
大柄な体格から、男装役としての人気が高い」
と書かれている。

バルチェッローナは、「タンクレーディ」を歌わせて、
当代一の歌い手だと考えて良いのであろう。

確かに、シラクーザの統治者、
アルジーリオとの二重唱などでも、
名手ラウル・ヒメネスのテノールに渡り合って、
しなやかさのある美声を聴かせて、
素晴らしい声の饗宴を生み出している。

このオペラは、
哲学者ヴォルレールが書いた悲劇が原作となっており、
(彼の書いたものでは、日本では、『カンディード』が有名)
状況こそややこしいものの、
筋は、それほど複雑なものではない。

ややこしい状況とは、
イタリア半島の先端の島、
シチリア島(四国と九州の間の大きさとされる)の
歴史に基づくという点が、
我々にとってはまるで親近感がないという点である。

この島は、地理的な特徴から、
古くから、東のギリシア人が植民したり、
南のカルタゴから狙われたりしていたようだが、
10世紀頃、イスラムの支配も受けたようである。

この後の話なのか、
二大勢力アルジーリオの一族と、
オルバッツァーノの一族が、
この島の都市シラクーサで小競り合いをしていて、
さらに、サラセン軍が、
シラクーサ攻略の時を伺っている状況。

タンクレーディも、
この島の重要な貴族であったようだが、
ビザンティウムに亡命していて、
裏切り者と考えられている。

このような状況下、上記アルジーリオの娘、
アメナイーデが、その地を訪れた際に、
恋に落ちていた、という設定である。

このような関係を図示すると単純、
ややこしさはアメナイーデに集約される。

             オルバッツァーノ(父の政敵)
                ↓(和睦の証)
  タンクレーディ ← → アメナイーデ
        (両想い)   ↑(シラクーサもろとも渇望)
             ソラミーロ(イスラムの暴君)

恐ろしい四角関係である。
ここで、アメナイーデが、タンクレーディに、
手紙を送ったのが、間違いのもと。
この手紙は、イスラムのソラミーロ宛てのものと誤解され、
アメナイーデは裏切り者とされてしまい、
タンクレーディもまた、彼女を誤解してしまうことになる。

訳も分からぬまま、タンクレーディは、
決闘でオルバッツァーノを倒し、
サラセン軍に斬り込んで死んでしまう、
という話である。

という事で、このあらすじを見ただけでも、
シューベルトが残したオペラと同様の設定が、
たくさん見つかった。
この作品は、シューベルトが感動したオペラの一つとされ、
多くの学者が、その影響を語っているのである。

父親が決めた相手との結婚を娘が拒む点で、
「アルフォンゾとエストレッラ」が、
イスラムとの戦いの話である点や、
若者たちが旅先で恋に落ちているという設定で、
「フィエラブラス」が思い出される。

シューベルトが円熟期にあってなお、
若い頃に見た「タンクレーディ」の世界を背負っていたことが、
妙に実感されてしまった。

この「タンクレーディ」こそが、
ロッシーニの世界展開の先鋒であって、
この作品によって、彼は、遠くヴィーンにまで進出し、
大成功を収めることが出来たのである。

つまり、シューベルトのみならず、
この作品に、当時の聴衆は屈服した。
これは1813年の作品で、
感心したシューベルト同様、作曲したロッシーニもまた、
21歳という若輩者であったのであるが。

立風書房の「オペラの発見」でも、
「オペラ・セリア」の最初の秀作であり、
叙情表現とドラマの展開という相反する要素を
たくみに融合してこのジャンルの後世の作品に
大きな影響を与えた」と書かれ、
「タンクレーディ」の重要さが特筆されている。

今回取り上げるDVDでも、
吉田光司という人が、解説で、
ロッシーニの出世作であり、
「19世紀初頭で最もヒットしたオペラの一つ」
と紹介している。

「偉大な芸術家が初めて才能を開花させた
『出世作』だけが持つ魅力に溢れている。」
という言葉でくすぐってくれてもいる。

さて、このあたりで、今回のDVDにて、
このオペラを最初から見ていこう。

155分という長丁場であるが、2幕ものである。
オーケストラはリッカルド・フリッツァの
フィレンツェ5月音楽祭管弦楽団。
合唱団にも同じ名前が付いている。

Track1.序曲は、よく知られているように、
悲劇的な序奏から、軽快なアレグロに進む、
「試金石」序曲を流用したもの。
ロッシーニ・クレッシェンドが出ることで、
当時の多くの聴衆を魅了した。

このDVDでは、演奏風景の前に、
配役のクレジットなどが出る。
演奏風景はピットの中なので暗めで、
映像も解像力が低く、
楽想に見られる愉悦感が実感できないが、
「試金石」とは違って、悲劇なので、
こんな感じで良いのかもしれない。

演奏は、自由にテンポを動かして、
盛り上げ方もうまく爽快感がある。

Track2、3.暗闇の中で、白服の群衆と、
黒服の群衆が集まって合唱を繰り広げる。
これは当然、シラクーサの二つの勢力の
内戦を終わらせた祝福の音楽である。

そこに、アルジーリオ一族の妻、
イザウラが入って来る。
続いて、アルジーリオ。
バルバラ・ディ・カストリの声が、
冴え冴えと男性合唱に加わり、
白い衣装のヒメネスのテノールが、
さっそうとシラクーサの繁栄を祈る。

さらに、紺色の出で立ちで、
かつての敵方の大将オルバッツァーノが現れる。
マルコ・スポッティのバスも交えて、
合唱の中に、織り合わされていく。

このような手法は、「試金石」の、
冒頭のパーティ・シーンの焼き直しであり、
シューベルトの「アルフォンソ」の祝福シーンでも、
繰り返されるものである。

Track5、6.アルジーリオとオルバッツァーノの会話で、
亡命したタンクレーディが正統な王家であって、
その財産をオルバッツァーノが奪った事や、
政略結婚の話も決めている。

Track7.ついに、アメナイーデも現れ、
美しいアリア「何と優しく、私の心へと」を歌う。
ダリーナ・タコヴァのソプラノ
ロッシーニらしい軽快なリズムの合唱が絡み、
なめらかなコロラトゥーラが縦横無尽に跳躍して、
聞き所になっている。

アメナイーデ役のタコヴァは横顔は美しいが、
前から見ると、縦横比がいかにもオペラ歌手である。

Track8.ここでは、結婚の話を聞かされ、
アメナイーデは混乱する。

Track9、10.は、ロッシーニが得意とした、
精妙な自然描写で、
夜明けと共に、タンクレーディが、
祖国に、こっそり帰って来た状況が描かれる。
「おお祖国よ」のカヴァティーナが続く。
問題のバルチェッローナの表情が存分に味わえるが、
大柄ではあるが、魅力的な人である。

「アメナイーデ、甘美な想いよ」
と歌われる所の、繊細な序奏は、
まるで、シューベルトの音楽の一節を聴いているようだ。

が、ロッシーニの場合は、このような楽句を、
十分に展開するようなことはしない。

「僕の願いを叶えておくれ」という力強い歌、
「僕の運命は幸せだ」という感情豊かな歌へと変転し、
どんどんと楽想を変えながら、
推進力のあるドラマにしている。

「君の眼差しに浸るんだ」といった
憧れに満ちた部分などは、
「試金石」でも聴くことのできた
ロマンティックなテイストで、
観客は興奮して大拍手を送っている。

Track11、12.ルッジェーロという部下に、
タンクレーディは、アメナイーデへの言伝や、
匿名の騎士が援軍に来た事を告げるよう命ずる。

街が包囲されているから、
さっさと結婚式を遂行すると言って、
アルジーリオはアメナイーデに迫る。

Track13.「よく考えよ、私の娘だということを」
というアルジーリオのアリアで、
アメナイーデを脅しすかす。

このヒメネスは、「試金石」のDVDでも歌っていたが、
その美声で、すぐに、そのことを思い出した。
ロッシーニを得意としているのだろう。
白いマントをたなびかせて立ち去る。

Track14.アメナイーデは、
タンクレーディに手紙を出した事を後悔する。
すると、タンクレーディが現れるが、
「何故、帰って来たか」、「過酷な運命が待っている」
と、アメナイーデは喜ぶ前に、警告し、
「今日は最悪の日」とか、「早く逃げて」とか連呼する。

Track15.不気味な低音の音型が響く中、
「恐ろしい運命から逃れて」と、
アメナイーデは悲痛な声で訴え、
「愛しい人は僕だと言ってくれ」とか、
タンクレーディは嘆願し、
「運命に愛は勝利する」と説得の応酬が繰り広げられる。
ひしっと抱き合い、
音楽もしっとりとなって、
「ずっと涙と苦しみに生きるのか」という
声を合わせて歌う部分が続く。

しかし、このあたりは、
闇に紛れてのシーンだから必然性があるが、
この舞台、ずっと暗い中での出来事という演出。

「お発ちになって」、「残して去れと」いう切迫した部分から、
「いつになったら愛する心は平安を望めるでしょう」という、
しっとりした部分が交錯して、緊張感が保たれている。
ロッシーニ、さすがである。

ロッシーニの音楽は、このような不連続な短い部分の、
巧みな交錯が、劇に推進力を与えているのだろうか。
シューベルトなら、どっぷり浸ってしまう所であろう。

Track16.まだ暗い。
合唱で、「愛の神々よ、降りてきてください」。

Track17.合唱が「栄光、勝利」と、
トランペットが軽快に鳴り響く中、
オルバッツァーノを
後半は、舞曲調でテンポを速め、

Track18.アルジーリオが、
「寺院へ参ろう」と呼びかける中、
タンクレーディが現れ、援軍を申し出ると、
女たちは、何と大胆なとささやき合う。
アメナイーデは、結婚に同意できないと、
「結婚より、死を」とか言っている。

Track19.オルバッツァーノが、
「そうだ死だ」と言って、
ソラミーロ宛の手紙
「シラクーサで会いましょう。
あなたの敵を倒して下さい」とあるので、
タンクレーディ宛だったそれを、
全員が、仇敵イスラム軍の大将宛と誤解してしまう。

Track20、21.「私は不幸」というアメナイーデに、
「心は怒りに満ちて」と、タンクレーディも含めて、
主要なメンバーがそれぞれの思いを口走る、
壮大な合唱が始まる。
「もうお前の父親ではない」とアルジーリオが、
「不埒な女め、恥辱に死ね」とタンクレーディも、
めいめいにめちゃくちゃな暴言を
アメナイーデにぶつける。

緊張感溢れるリズムが支配する部分と、
推進力のあるメロディが交互に現れ、
劇的な状況を高めていく。

合唱も暴言を吐く中、
ホルンやオーボエの簡単な助奏を伴って、
誤解した恋人たちの、祈りの歌が痛々しい。
それを押しつぶす合唱の中、
アメナイーデが歌い上げる音楽は、
力強く英雄的である。
このような部分も、シューベルトはしびれたに相違ない。
何故なら、彼のオペラでも、こうした英雄的なメロディが、
混乱の中、現れるからである。

金管が鳴り渡り、ティンパニが轟いて、
オーケストラの炸裂し、
最後の合唱が盛り上がって行く。
手に汗握る迫力で、時間が凝縮し
音楽の推進力は最大になっていく。
以下、第2幕である。
Track22.オルバッツァーノは、
ヒロインの母親に詰め寄り、
父親も怒り狂って、
死刑の署名をしてしまう。
「同情するものは共犯者だ」と残忍な、
オルバッツァーノの性格が表れる。

Track23.母親イザウラのアリアで、
「不幸な者を慰める優しい希望よ」。
このアリアでは、クラリネットの助奏が登場して、
シューベルトの時代、
このようなスタイルが好まれていたことを思い出す。
比較的シンプルな曲想なイザウラの歌を、
牧歌的な色彩で彩っていく。

シューベルトは、18歳の時、
1815年のオッフェルトリウムD136で、
同様の手法を取り入れていて、
これについては、前に聴いたことがあった。

Track24.ここでも、先ほどの
恋人たちの二重唱で出て来た、不吉な音型が現れ、
今度は動転して落ち着かないヴァイオリンの音型に、
冴え冴えと木管が不安な感情をかき立てる。
時折、オーケストラは爆発して、
テンションを高めて、劇の状況を、ぐいぐいと押し込んで来る。
アメナイーデのアリアが始まるが、
「私は死にます、タンクレーディ様」と、
ほとんど、メロドラマ風のレチタティーボで、
オーケストラの方が雄弁である。
素晴らしい一篇の音の詩である。

舞台は、また黒々としていて、
アメナイーデは、牢獄の中でもんもんとしている。

シューベルトの「フィエラブラス」でも、
フィエラブラスが夜陰に紛れて
恋敵の行動を見ているシーンも、
こんな感じだったような。

Track25.
一条の明かりが見えたように木管群が囀ると、
「愛のために死ぬのであれば」という、
いくぶん救いのある歌を歌い上げる。
これは、先のシーンで、緊張感を高めた後だけに、
とても清涼な効果を持つ。
コロラトゥーラの美しさも、存分に発揮される。

ブラヴォーが当然のようにわき起こっている。

Track26.
何と、オルバッツァーノと共に、

レチタティーボ
「この女のために私と戦う騎士はいない」という、
オルバッツァーノの言葉尻を捉え、
タンクレーディが、「私が、彼女の守護者だ」
と名乗りを上げる。かっこいいシーンである。

「私は無実なのです」とアメナイーデが言っても、
タンクレーディは聴く耳を持たない。

このような展開は、救済オペラというものに似ているのであろうか。

Track28.
彼等は決闘することになる。
ここで、娘を助けてくれたということで、
アルジーリオが、タンクレーディを抱擁して、
「苦しむ私を助けてくれ」と歌う。

それに対し、タンクレーディも、
自分が幼い頃から苦しんできた事を歌い上げ、
「私の正体が分かっても憎まないで下さい」という。

「恥ずべき女を憎みたいが、
憎むことが出来ない」という共通の気持ちが、
切々たる音楽に唱和される。
すると、トランペットのファンファーレが聞こえて、
決闘に向かう行進が始まる。

ロッシーニの真骨頂が発揮され、
声の饗宴の中、おどけたようなリズムが、
時を前へ前へと進むように促して、
ドラマがどんどん展開していく。

Track29、30.イザウラとアメナイーデのレチタティーボ。
決闘の結果を祈るように待つシーンで、
「自分の死よりも、誰の死への不安かわかるでしょう」
と、天に向かって語りかけると、
Track31.では、楚々とした、簡素で敬虔なアリアが始まる。

「公平な神様、あなたを恭しく崇めます」という、
清楚な語りかけは、次第に、遠くからの合唱に続き、
アメナイーデ様、安心して下さいという力強い歌声は、
ヒロインの心を軽くすると共に、
彼女の歌声を解き放ち、素晴らしいコロラトゥーラとなる。

湧き上がって、泡立つ音楽の軽快さ。
このあたりの音楽は、「試金石」にも出て来そうな、
盛り上がりが何度も波を打って現れ、
合唱の中、力強いソプラノが舞い上がる。

ここでも大拍手である。当然だろう。

Track32.合唱、「皆で勝利者を」は、
軽妙な音楽で、オペラ・セリアであることを忘れさせる。

このあたりの音楽は、「試金石」の、
軍隊招集のシーンを彷彿させる。

タンクレーディの運命も、ここが最高点なので、
この後の展開が、かえって怖いくらいである。
彼は、「栄光はいつも嬉しい」とか言っている。

Track33、34、35.
タンクレーディはすでに立ち去ることを決め、
アメナイーデが誤解を解こうとするのを、
「君の言葉は聞かない、説得しようとしても無駄だ」
と言い放つ。
しかし、このような、もっともシリアスな部分でも、
音楽は、おちゃらけの要素で響き、
ロッシーニは高みの見物で、
シリアスな主人公たちの人生を
からかっているような感じである。

Track36.アメナイーデが、懇願するのを聴いて、
遂に、音楽はしっとりとした雰囲気に一転する。
「あなただけを愛していました」と言うアメナイーデの声に、
やさしくピッチカートが寄り添って、
タンクレーディも遂に声を合わせ、
愛の絶唱へと高まって行く。

Track37.「私を棄てるの」という言葉に耳も貸さず、
「死んで終わりにしよう」というタンクレーディの決意。
これに対して、ロッシーニは、完全に冷やかしの音楽で答える。
「あなただけが苦しみの原因」と罵り合う恋人たちに、
活気のある、勢いのある音楽を付けて、
木管も弦楽も、馬鹿みたいな装飾でからかう。

Track38、39.カウンターテナーのマルケジーニがようやく、
聴かせどころを得る。
タンクレーディの部下だか友人で、
「気の毒な人だ」というレチタティーボと、
「喜びが報いますように」という
祈りのアリアを歌い上げる。
タンクレーディの仲間だから、
おそろいの赤色の装束である。

Track40.このあたりから、
物語は大詰めになるのであろう。

それにしても、ずっと舞台は暗いままである。

タンクレーディが現れるが、その前に、
素晴らしい管弦楽の助奏があって、
その気高い英雄的な心を讃えたかと思うと、
あまりにも固い頭を冷やかすような楽想が続く。
「タンクレーディの大シェーナ」と題され、
遠い異郷の地に入り込んだ状況を歌い上げている。

Track41.「忘れることが出来ない、
僕を裏切った女を」という、
ひたすら勘違いの女々しい音楽が、
深々と苦悩に満ちた情感で歌われる。

Track42.音楽は軽快であるが、
怪しい状況で、舞台上には剣を持った人々が集まっている。
とにかく暗い舞台で、よく見えないのである。

サラセン人たちの合唱と書いてあるが、
「町は恐怖に支配されている」と歌われるので、
イスラムの街の警護連であろうか。

「タンクレーディは悲しみに死んでしまうのか」
などと歌われ、「彼の武勇が我々の心に火をつける」
とあるから、シラクーサ・サイドの兵士のようだ。

よく状況が分からないので、解説を見ると、
みんながタンクレーディを探している状況とあった。

Track43.いったいどういう事か、
よく分からないが、変なところに隠れている、
タンクレーディをアメナイーデらが発見する。

Track44.「どうしてこの心をかき乱すのか」と、
タンクレーディは歌いだし、
素晴らしい声を聴かせながら、
恨み辛みを吐き出していく。しつこい男である。
「不実な女め」と罵り始めるが、
もう分かった、という感じがしなくもない。

おそらく、みんな同じ感情なのか、
遂には、合唱が、「戦場へ」と勇ましく叫び、
「我々を勝利に導いて下さい」などと、
彼を駆り立てて行く。

その間にも、「愛に燃え上がらない者には、
僕の苦しみは分からない」などと、
タンクレーディは悶々としている。
そして、「戦場へ、ソラミーロを倒そう」と言って、
軍隊を率いて行ってしまう。

このあたり、バルチェッローナは、
かわいいお姉さんの顔をしていて、
見た目としてのリアリティはないものの、
声は素晴らしい。

Track45.すると、アルジーリオも、
一緒に戦うと言って、出て行ってしまう。
戦闘が激しいわ、とか言っている。
すると、「勝利の犠牲は大きかった」、
「脇腹を刺され重傷だ」とか、言いながら、
さっき出て行ったばかりのアルジーリオが戻って報告する。

このあたりの戦闘報告のシーンも、何となく、
シューベルトのフィエラブラスの終幕を、
思い出してしまう。
必ずしも、ロッシーニばかりから学んだ訳ではあるまいが、
シューベルトは、いろんな影響を
時代から受け継いでいるのである。

Track46.葬送行進曲のような音楽で、
タンクレーディが運び込まれて来る。

Track47~49.
ひっそりした中、寂しくチェンバロがぽろぽろと鳴る中、
恋人たちの最後のシーンが始まる。
「愛ゆえに間違いが生じた」と、
アルジーリオは評論家する。
「アメナイーデ、僕を愛しているのか」と、
ぶっ倒れたままのタンクレーディが歌い始める。
「君を残したまま、僕は行かなければならない」と、
泣ける台詞を続ける。

オーケストラは、静かに、悲しい情感のみを単純な音で彩る。
「どうか手を重ねて欲しい」と、
タンクレーディは、アルジーリオに頼む。
「僕の思いはすべて遂げられた」、
「君は生きるんだ」と、長々と、死の場面が演じられ、
音楽はひっそりと終わる。

大歓声である。確かに見応えのある舞台だと実感した。
どの歌手にも不足はなく、オーケストラや合唱の演奏も良い。
録音もうまく劇場の感じが出ている。

ただし、残念ながら、全編、暗がりでの演技であって、
陽光溢れるはずのシチリアを舞台とした作品を見た、
という実感はあまりない。

得られた事:「シューベルトの円熟期に繋がる元になるものを、早い段階からロッシーニから受け継いでいた。」
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by franz310 | 2012-02-18 21:57 | ロッシーニ

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その315

b0083728_15192655.jpg個人的経験:
今回の記事は、ややこしい事に、
二つのCDの話題からなっている。
一つは、ここに写真掲載した、
A.スカルラッティのアリア集。
もう一つは、前回聴いた、
おなじ作曲家の
「カンタータ・デュエット集」
の書き残し追記分である。
これらは、なかなか入手できない、
オペラ王の舞台作品の貴重な録音。


この写真、主役の女性歌手の顔が、
ほとんど見えないという、
失礼極まりないものであるが、
レーベルも含め、全体的に深い青で統一されて、
妙に印象的な出来映えである。

それはともかく、
まずは、後者の話から行く。

が、これらの録音は、読んでいただければ分かるが、
それなりに補完し合う内容で、
こうやって、一緒に聴いて良かったと思った。

また、これらのCD、ろくな歌詞対訳がなく、
(一方はイタリア語のみ、片方は何もない)
細かい内容はさっぱり分からないというという点で、
とても不親切、という点でも一致している。

まず、安くて比較的入手も容易な、
おなじみブリリアントから出ている
スカルラッティ(父)の、
「カンタータ・デュエット集」3枚組。

前回、最初の2枚の「カンタータ」は聴いたが、
残念ながら、文字数オーバーで、
3枚目については紹介できなかった。

そこに収められていたのは、
インテルメッツィと題され、
むしろ、オペラの幕間劇であって、
基本は室内楽であるカンタータとは、
演奏される場所も、聴衆も、
違うものを想定したものと思われた。

確かに、デュエットではあるかもしれない。
Barbara di Castriというソプラノが、
未亡人パランドラーナの役を歌い、
Gastone Sartiというテノールが、
若者ザンベルルッコの役を歌っている。

また、演奏しているのは、
FORTUNA ENSEMBLE, ROBERTO CASCIOという、
(カッシオ幸福合奏団と訳すのだろうか)
団体である。
3枚の中では、比較的新しく2001年の録音。

アンサンブルとはいえ、
奏者はヴァイオリン2(Silvia Colli, Francesca Micconi)、
チェロ1(Paolo Brunello)に、オーボエ1(Giorgio Spagnoli)、
ハープシコード(Marco Ghirotti)、
それにテオルボとなっていて、
わずか6人しかいなくて室内楽規模である。

このテオルボ奏者が、Roberto Cascioという、
アンサンブルの名称ともなっている人物である。
チェロのブルネロと言えば、よく日本に来ている。
マリオ・ブルネロが有名だが、このパオロ氏は関係者だろうか。

このような楽器編成が響き渡る空間の印象は、
とはいえ、この録音では、かなり劇場風である。
冴え冴えとした楽器の音色の空気感みたいなのは、
妙に印象に残る録音で悪くない。

対話とアリアみたいな構成は、
オペラというには、文字通り幕間劇風で、
アリアの部分も、ばーんと声を張り上げるものではない。

第1インテルメッツィは、Track1から5の5曲。
Track1は、叙情的なヴァイオリンの序奏に導かれ、
民謡風のソプラノ歌唱が楽しめる。
Track2は、レチタティーボ。テノールも絡む。
Track3は、オーボエも加わっての陽気なテノールのアリア。
楽器が奇妙な音を出して軽妙である。
Track4は、レチタティーボで対話。
Track5は、デュエットであるが、
何かまくし立て合っている感じ。
このCD、イタリア語の歌詞は出ているので、
読める人には楽しめるものなのだろう。

短い台詞を楽しげに、
オウム返しに叫んでいるだけなので、
ちょっと根性で、機械検索してみたが、
意味のつながらない日本語にしかならなかった。

原盤が、イタリアのローカルレーベル、
Tactusなので、
外国語訳する余力はなかったと思われる。

第2インテルメッツィは、Track6からの6曲。
Track6は、レチタティーボで、
テノールが何か思案している感じ。
ソプラノが、何やら、心配そうな声。
Track7は、テノールのアリアで、
今回は、何やら困った感じの歌である。
「Per te son tutto amor」とある。

Track8は、やはり会話風のレチタティーボ。
Track9は、ソプラノのアリア。
ヴァイオリンが寄り添う感じが美しい。
これも、しかし、慎ましげで華麗なものではない。
後半は、テンポが速まるが。
わずか6行の詩だが、音楽は3分半しみじみ続く。

Track10は、レチタティーボで、
Track11は、幾分、楽しげな二重唱。
声を合わせたり掛け合いを入れたり、
込み入った作り方だが、メロディの魅力はない。

第3インテルメッツィは、Track12から16の5曲。
Track12は、繊細なヴァイオリンの前奏が楽しい、
テノールのアリア。だが、これも節度あるもので、
あまり高らかに歌われるものではない。
Track13は、レチタティーボ。
何だか、女の方が詰め寄って、
男の方がたじろいでいる感じだ。

Track14は、ソプラノの意気揚々としたアリア。
そして、残りのTrack15、16は、
デュエットになっている。
「Vantati,vantati」とか、「Guardimi,guardami」とか、
繰り返して女は怒っている。
最後のデュエットは、少し、解放感があるが、
調子の良いオーケストラの音楽が消えて終わる。
どうなったのか、よく分からん。

全曲で43分しか入っていないし、
ちょっと拍子抜けの感じがあるが、
当時の幕間劇がどんなものであったかを、
何となく感じることは出来る。

実は、このCDについては、ブックレットで、
この指揮者?Roberto Cascioという人が、
かなり興味深いことを書いていたので、
これについては特に紹介しておきたかった。

スカルラッティの時代、フランチェスコ・マリア侯という、
ナポリ太守の部下がいて、これがたいへんな劇場通、
さらに記録屋だったというのである。

彼が、18世紀初頭に見た劇場作品について、
ボローニャにいた兄弟と頻繁に文通した記録が
残っている事が述べられている。

この書簡集が、実は、
当時の歌手やオーケストラや流行についての、
貴重な文献になっていることを書いているらしい。

例えば、1711年9月15日の手紙には、
オペラのスコアを入手したいという内容がある。
1716年1月7日には、このフランチェスコ侯は、
スカルラッティ4番目のオペラのリハーサルについて書いている。

このオペラは、「Carlo D'Alemagna」というもののようだが、
解説者は、こうした機会に、このインテルメッツィも、
演奏されただろうと空想している。

そして、この解説における極めつけは、
1709年4月16日の手紙であって、
このフランチェスコさんは、
スカルラッティのオペラは難しくて退屈で、
この作曲家は偉大ではあるが、劇場ではなく、
室内楽に向いていると書いているのである。

「人々は、もっと楽しく生き生きとしたものを求めています。
ヴェネチアで聴けるもののように・・。」

何と、何と、スカルラッティと言えば、
ナポリ派の大御所だと思っていたが、
当時から、彼のオペラは、
それほど人気のあるものではなかったようなのだ。

という事で、ここからが、今回のCDの話である。
スカルラッティのオペラの録音はやたら少ないので、
今回取り上げるのも、抜粋も抜粋で、
一枚もののアリア集だが、
こうしたものも、今まであったのかどうか。

こちらは、昨年発売された、かなり最新の記録に近いもの。

ヘンデルのオペラアリア集はたくさん出ているし、
最近は、ヴィヴァルディも増えてきた。
が、アレッサンドロ・スカルラッティのアリア集は、
この盤まで意識したことがなかった。

そんな事も、実は、このCD解説には書かれている。

そして、さらに、面白い事に、
スカルラッティ(父)のオペラからの、
アリアを集めたこのCDにも、
先のフランチェスコさんの言葉が引用されている。

またまた嬉しいことに、
このCDには、
例のフランチェスコが文句を書いた、
「Il trionfo del Valore」こそ収録されていないものの、
先に出て来た、スカルラッティの4番目のオペラも、
収録されている事も特筆しておきたい。

このCDは、先のTACTUS-ブリリアント盤とは反対に、
声を張り上げる聴かせどころのような部分ばかりを集め、
66分もスカルラッティの洪水に溺れることが出来る。

最近、レコードレーベルのぐちゃぐちゃが甚だしいが、
これは、ドイツ・ハルモニア・ムンディのものだという。
が、ソニー・ミュージックから出ている。

マルチェロ・ディ・リーザという人が指揮をする、
コンチェルト・デ・カヴァリエーリという団体の演奏。
ダニエラ・バルチェッローナというメゾが歌っている。

このCDは、マリオ・マルカリーニという人が、
エグゼブティブ・プロデューサーだが、
解説を書いているのもこの人である。

「アレッサンドロ・スカルラッティは年を重ねるごとに、
その作品には神々しさが増してきているが、
それを賛嘆しすぎることは出来ない」
という、賛辞を冒頭に掲げている。

「これらの賞賛の言葉は、ナポリの新聞が、
『エルミニーナ』、『タンクレーディ』、
『ポリドーロ』といった
セレナータの演奏をたたえたもので、
これらは、1725年10月24日に、
ベスビオ山の近くで亡くなった、
パレルモ出身の作曲家が、
芸術的にも、実人生においても
最後に近づいていた頃書かれた、
声楽領域の最後の作品であった。」

何となく、スカルラッティと言えば、
晩年は、ナポリでは無視されていたような感じを受けたが、
時には、こうした栄光も受けたのだろうか。

下記文章は、長すぎるので読みにくいが、
もとの文章のせいである。

「ナポリ貴族の婚礼式典の初演では、
作曲上の過去の黄金則を犠牲にし、
プリマドンナやカストラートの
超絶技巧に焦点を合わせることによって、
新しく近代的で目も眩むような
オペラの流行のイメージで、
輝かしい国際的なキャリアを歩み出す運命にあった、
18歳のカルロ・ブロスキ(ファリネッリ)も加わっていた。」

ファリネッリたちの勢力は、
まず、ナポリでもニューフェースだったようだ。

「アレッサンドロ・スカルラッティは、
すでに過去のものになりつつあった、
1607年、マンチュラで生まれ、
モンテヴェルディの『オルフェオ』や、
17世紀のヴェネチアで花開いた、
由緒正しき世界の最後の担い手であった。
このパレルモ生まれの作曲家は、
最も教養があり、卓越した技量によって、
一派の指導者と考えられていたが、
教養もあり選ばれた聴衆を想定し、
あまりに洗練されすぎているとして、
遂には、忘れられつつある存在であった。
光輝ある孤立で波瀾万丈だった、
スカルラッティの人生最後の日々は、
すでにこんな風に見られていた。
『この偉大な人は良い人物なのですが、
その作品が非常に難解であるため、
悪い人にも思えます。
何よりも、対位法が理解できる人なら、
これらを味わうことも出来るでしょう。
しかし、聴衆、劇場にいる1000人の人々の場合、
20人以上はそれを理解できません。
それに、この難しい音楽によって、
音楽家は間違えないように演奏するのがやっとで、
自由に操ることが出来ず、うんざりしてしまうのです』。
疑いなく、対話や内面が緊密に織り合わされた書法の、
洗練された声楽やオーケストラの醍醐味よりも、
流行の魅力について良く知っている貴族であった、
騎士フランチェスコ・マリア・ザンベカッリは、
皮相な見解であったとはいえ、ある意味では、
アレサンドロ・スカルラッティのスタイルの
核心となる部分を掴み、急所を突いてはいる。
いうなれば、スカルラッティは常に高品位で、
単に技巧家の才能やプリマドンナばかりを見せつけ、
次第にオーケストラが単純化し、単に、
声を支える和音になってしまうような、
惰性や月並みに甘んじることが出来なかった。」

以下も、強烈に長く、ピリオドのない文章が続く。
できれば、この人はプロデューサー業に専念して貰いたい。

「一方、スカルラッティのオペラにおいては、
演奏の困難さ、大胆な和声構造、驚嘆すべきセンス、
アタナシウス・キルヒャーを含む、
多くの著名な理論家によって体系化された、
感情のレトリックによって、
人を感動させ、人を驚かせる能力や慎重な奇抜さなど、
高度で上品なバロックスタイルが、まず尊重されている。
これらの要素すべてが、
ある種の複雑さを持つ構造に結びついており、
明らかに、こうした世界は即席の喝采や、
劇の進行を止めるような拍手を呼ぶわけではなく、
むしろ、集中した鑑賞が出来る、
純粋な賞賛者を楽しませることを自然に指向するが、
一方で、それがドラマの進行を妨げるようなものではない。
歴史的な観点から見て、このような状況は、
スカルラッティのオペラを徐々に無視する方向に向かい、
このジャンルの最も重要な支柱であることも不当に忘れられたが、
18世紀の終わりにおいても、
バーニーのような人には、ある種の畏怖を持って尊敬された。
悲しいことに、このような偏見は、我々の時代にも残っており、
それらの芸術性は別にして、
ヘンデルやヴィヴァルディの音楽劇が、
次々に再発掘されている中で、
パレルモ出身の作曲家の、
劇音楽カタログのほとんどは、
高貴だが時代遅れのオブジェとして放置されている。」

ヘンデルを増やすよりも、
スカルラッティを増やせという、
その興奮からか、彼の文章は冴えに冴えて、
再び、ピリオドが消散。

「主に、スカルラッティの最後の作品から取られた、
ここに録音された18のアリアと6曲の序曲を聴くと、
作曲家の卓越した技法や、
単純に聴衆にとって難しいわけではない、
形式の着想の複雑さが確認できるが、
同時に、時代遅れと思われた世界が、
現代の聴衆に文字通り開かれていく。
『ダ・カーポ』アリアの形式
(これはパレルモの作曲家の発明ではないにしろ、
彼によって体系化された)の近代性と、
いにしえのスタイルのリンクであり、
スカルラッティと同時代のいかなる大作曲家の中でも、
無敵とも言えるメロディの着想の豊かさが、
たちまち強調されることになる。
ジューリオ・カッチーニが、
『月並みになるわけがない』と書いたように、
このレパートリーを演奏するには、
卓抜な演奏家が必要とされるが、
このことこそが、これらの作品が、
舞台にかけられず、録音にも恵まれなかった理由なのである。
研究も出版もされたことのない作品を、
研究の末、演奏できるようにすることは、
なみなみならぬ努力を要し、
このCDの24曲中、20曲をくだらない作品が、
世界初録音で、手稿から楽譜がおこされた。
これらの作業への努力は筆舌に尽くしがたく、
我々は、技術的なミスに用心しつつ、
さらに重要なのは、
この作曲家への愛ゆえに、
突然の印象的な移調や、
リズムの印象深い変化などによって、
虚ろなテキストのゆっくりとした楽章の憂愁から、
勝利に満ちた、あるいは、
復讐シーンでの声を震わす怒りまで、
非常に幅広い、その無限の魅惑に触れるべく、
この美学の宇宙に入り込んだ。
イタリアオペラの全歴史を通じても、
最大の大物のひとりである、
この作曲家を特徴づける厳しさによって、
鍛えられた幻想の中、感覚と感情のスペクトルに、
専門家も初心者も、一聴して、心打たれる。」

ということで、ようやく、
ここに収録されている曲を聴いて見よう。

全部で6曲のオペラからの抜粋で、
いずれの曲も、単に有名曲を集めたという感じではなく、
ちゃんと序曲(シンフォニア)から始まって、
3曲ずつ、アリアを並べた構成も整然としている。

いずれも聴き映えのするシンフォニアであるが、
編成の多彩さを、フル活用したものと言える。

ソロ2人を含む、7人のヴァイオリン、
ヴィオラ、チェロも2人、コントラバスもいて、
木管としてオーボエ2人の他、
トランペットも2人、ティンパニが加わるのは、
シューベルトの時代とあまり変わらない。

さらにテオルボ、バスリュート、ギターが持ち替えで入り、
魅惑的な音色を添え、チェンバロが加わる。
この点で、ヴィーン古典派などを、
はるかに越えた異国情緒が出る。

Track1~4は、
歌劇「マルコ・アッティーリオ・レーゴロ」(1719)より
序曲からして、ティンパニが打ち鳴らされ、
トランペットも輝かしい華麗なもので、
チェンバロの豪奢な輝きも、
テオルボのじゃんじゃかも楽しい。
明るい楽想で、天高く舞い上がるような音楽。
中間部のチェンバロ協奏曲のような趣きを経て、
炸裂するような後半になだれ込む。
が、規模は小さく2分ほどで、
じゃーんと終わるようなものではない。

自然に流れ込む第1幕第8場のアリアでは、
バルチェッローナの声が、
この華麗なオーケストラに入って来て、
これまた威勢が良い。

しかし、続く第2幕の第2場のアリアは、
憂いに満ちたもので、間奏で入るオーケストラ部、
勢いを増す部分の楽器の扱いなど、
まことに鮮やかな筆致である。

第3幕第2場のアリアは、
決然とした趣きで、
声に、ヴァイオリンのオブリガードが付いて、
独特の効果を上げている。
バルチェッローナの全体として安定感のある声は、
とても安心して聴ける。

なお、これらの音楽には初録音のマークが入っている。

Track5からTrack8は、
「テレマーコ」(1718)という作品からで、
浮き立つよな序曲から始まる。
中間部は、控えめなもので、
終結部の解放感を準備する感じだが、
この生き生きとした清新な音楽の魅力は、
いくら誇張してもしたりないほどだ。

躍動感あふれる前奏を持つ第1幕9場のアリアも、
トランペットが空に舞い上がる中、
声とオーケストラが渾然一体となって、
進んで行く推進力のあるもの。

同じく第1幕第4場のアリアは、
二つのヴァイオリンの掛け合いの中、
悩み多き曲想で声が進む中、
立体的に楽器が絡まり合う。

第2幕第9場のアリアは、
どかどかとティンパニが鳴り響き、
トランペットのファンファーレを背景に、
バルチェッローナの声が決然と進んで行く。

これらの曲も世界初録音。
実に貴重な音楽が、これまで知られることなく、
300年も眠っていたのだなあと感慨。

Track9から12は、
比較的恵まれて、唯一、世界初録音ではない、
「グリセルダ」(1721)からの音楽。
序曲は密度の濃いもので、
あらゆる楽器が鳴り響いて先へと進む。
中間部の木管の寂しげな風情も詩的である。
終曲もまた、装飾音に満ちた推進力高いもの。
強烈なリズム、湧き上がる管弦が素晴らしい。

第1幕第3場のアリアは、
典雅なパヴァーヌ風であるが、
確かな筆致の声楽部が、
よどみなく一筋の流れで流れて行く。

第2場第5場のアリアは、
精力的なヴァイオリンとチェンバロのリズムに、
声もあおられて、すいすいと進む。
小刻みな装飾も、嫌味無く輝き、
バルチェッローナの声の力を感じる。

第2幕、第14場のアリアは、
チェンバロも伴って豊饒なオーケストラに
絶え間なくなり続けるギターだかの音が絡まり、
ぞくぞくするような効果を出している。
バルチェッローナの声も、興奮の度を増して、
その威力が発揮されて素晴らしい。

Track13から16は、
「アルメニアの王ティグラーネ」(1715)より。
この序曲も極めて特徴的で、
各楽器群が、忙しげに、あちこちで鳴り響くといった、
まばゆい輝きを放つもの。
中間部は、一休みながら、強烈なリズムと、
色彩感でど迫力の終盤へと向かう。

第2幕第4場のアリアは、チェロの物憂げな助奏がついて、
苦悩に満ちたもの。
バルチェッローナの声の深みをたっぷりと味わえる。
ヴァイオリンの慰めるような曲調もまた印象的である。

Track15.第1幕13場のアリアは、ヴァイオリンが導く、
メロディがしっとりとロマンティックなもの。
中間部では、活力を増すが、チェンバロが劇的に盛り上げる。
この音楽など、本当に、ずっと忘れられていたのだろうか。
楽器と声の織りなす綾も美しく、
最後のコロラトゥーラ風の盛り上げも、
絵に描いたような完璧な美学を打ち立てている。

本当にこの作曲家は、楽器の扱いも熟達しており、
声を輝かせる達人だと感じることが出来る。

第2幕12場のアリアは、
感情を解放せずに歌う感じのもので、
ほの暗い情念が見え隠れする。
内省的な表情が美しく、それを取り囲む、
楽器群もいじらしい音色で愛しい。

これらも世界初録音。音楽学者の研究遅れは、
この曲については罪ですらある。

Track17から20は、
「ドイツ王カルロ」(1716)で、
先のフランチェスコ氏が見たもの。

序曲がまた、ファンファーレと、
ドラム連打を駆使して勇ましい感じ。
中間部は、のどかなオーボエの歌で長い。
堰を切ったように、リズミカルな終盤に向かう。
ここでもティンパニが轟き、アクセントを強めている。

第2幕第2場のアリアは、軽い筆致のもの。
軽妙で肩の力が抜けたもので、
これまでになく、伴奏も簡素であるが、
最後に、声の見せ場がある。

第2幕第6場のアリアも明るい感じのもの。
序曲が壮大であった割には、アリアは楽しげなものが続く。
舞曲調でギャラントである。

第2幕第1場のアリアは、
ヴィヴァルディ風に繊細なヴァイオリン序奏があり、
その後の物憂げな曲想もヴィヴァルディ的。
メロディも美しく、ロマンティックである。

これらの曲も世界初録音。

Track21から24は最後の演目。
「カンビーゼ」(1719)より。
ヘンデル風に豪壮な序曲がある。
そこから途切れなく、
第2幕9場のアリアに入って行くが、
これはたいへん、勇ましく、気合いが入るもので、
背景にトランペットが鳴り渡るところなど、
ずっと新しい音楽に聞こえる。

まるで、ハイドン後期の交響曲の一節のような感じがした。

第2幕8場の流麗なアリアも良い。
メロディが親しみやすく、伴奏も明るく華やかである。
声の装飾もオペラファンの要望に応えるもの。

第2幕9場の「aria mutata」とある。
差し替えアリアであろうか。
これは朗らかな感じのもので、
オーケストラよりも声に重点が置かれ、
もっと、俺の声を聴かせろ、という、
歌手の要望に応えたものかもしれない。

以上、聴き進んだように、
圧倒的な音楽がぎっしり詰まったCDで、
こりゃあすごいと納得するばかりの内容。

これは、まさしく「名曲名盤の旅」にふさわしいもので、
この仕事はたいへんだったんだぞ、と自己申告する、
プロデューサーのみならず、
指揮者とオーケストラにも、感謝を表明したい。

得られた事:「アレッサンドロ・スカルラッティのオペラは、音楽史の中でこそ有名だが、密度の高い優れた作品群は、ほとんど録音で聴くことも出来ない。」
「そもそもアレッサンドロは、当時から、巧緻な「通」向きの音楽に秀でており、どばーっと一般大衆を湧かせていたわけではなかった。」
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by franz310 | 2012-02-12 15:27 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その314

b0083728_21382745.jpg個人的経験:
ドメニコ・スカルラッティの父、
アレッサンドロ・スカルラッティは、
ナポリ派オペラの総本山、
といった偏った、
しかし、意味不明の
先入観ばかりが先に立つ。
しかし、いくつかの作品では、
時に高らかに輝き、
時に繊細な綾を見せる人の声の扱い、
たっぷりとした和声が印象的であった。


前回まで、ひたすら、息子の方のカンタータを、
賛嘆の念を禁じ得ず聴いて来た。
カンタータは、バロック期イタリア声楽曲の、
精髄と考えられていたということであるが、
ドメニコの作品の繊細で、
しかも心浮き立つ作品群を聴いてみても、
まさしく腑に落ちる体験となった。

しかし、カンタータといえば、
むしろ、親爺の方を指すのが一般である。

何しろ、アレッサンドロには、シューベルトの歌曲と同様、
600曲ものカンタータがあるというではないか。
シューベルトが書いた「潜水者」や「すみれ」みたいな、
桁外れの作品を別にすれば、
通常の歌曲とカンタータでは、
倍から4倍くらいの規模の差異があるから、
アレッサンドロの書きぶりはものすごかったようである。

前回、タクトゥス・レーベルから出ていた、
ドメニコのカンタータ集の第1集を聴いて、
是非とも、第2集も欲しくなったが、
これらは、二枚組となって、
ブリリアント・レーベルから再発売されている。
が、二枚目の内容は、4曲中3曲までが、
エマヌエル・ツェンチッチが、
カプリッチョ・レーベルに、
オルナメンテ99と録音した曲目と、
重なっていることが分かった。

しかも、解説も前回紹介したタクトゥス盤と同じであった。

一方、アレッサンドロの親爺の方、
というか、アレッサンドロ本人の方もまた、
旧タクトゥスのものが、3枚集められて、
この廉価大王レーベルの、
ブリリアントから出されていることが分かった。
3枚組なのに1000円台で買える激安品であるが、
一聴して分かるが、非常に美しい録音。

これがまた、美しいデザインのもので、
うら若い裸体の乙女を、チョウチョの羽のキューピッドが、
抱き起こしている。
乙女の傍らには、花がまき散らされており、
春の訪れの象徴であろうか。

この絵画の出展はどこにも書かれていないが、
おそらく、ずっと後の時代の、
擬古典主義の作品であろう。

反対にブリリアントから出ている
ドメニコのカンタータ集のデザインは、
カラヴァッジョの天使像
「アモールの勝利」を使っていて不気味である。
カラヴァッジョは、ちなみに、
ドメニコ・スカルラッティより
100年以上前の人物である。

このようなロマンティックなデザインにもほだされて、
今回は、意を決して、イタリア・カンタータ業界の、
総本山に攻め込んで見ようと思う。
残念ながら歌詞がイタリア語だけなので、
何を歌っているかは正確には分からない。

しかも、タイトルは「カンタータ集」なのに、
1枚目は、「室内カンタータ集」、
2枚目は、「カンタータとデュエット」、
3枚目は、「パラドラーナとザンベルッコからのインテルメッツォ」
という異なる標題が付けられている。

試しに、CD1だけを先に、概観すると、
1曲目、「Andate, o miei sospiri」から、
2曲目の「Per un momento solo」、
3曲目「Lascia più di tormentarmi」を経て、
4曲目「Lontan dalla sua Clori」までは、
ソプラノのCristina Miatelloが歌い、
Guido Moriniと、Andrea Fossàが、
ハープシコードとチェロで伴奏している。
ドメニコの華麗な伴奏付きカンタータを想像すると、
ちょっと寂しい感じ。
これらは10分ほどの作品である。

5曲目には、一転してかなり長い、
「Bella Madre de’Fiori」が入っている。

これは、コントラルトのGloria Banditelliが歌い、
ENSEMBLE AURORA という団体での伴奏になって、
かなり豪華になる。
これが始まると、これこれ、こんな感じ、
と、その芳醇なテイストに、
満足感がこみ上げて来る。

しかも、強烈な半音階進行が見られ、
完全に異形のカンタータとなっている。
このCDを入手したら、まず、この曲を聴いていただきたい。

ただ、このバンディテッリの歌は、
少し、マイクで強調してはいないか?
ちょっと、伴奏を圧倒しすぎである。
いや、当時のカストラートなら、
こんな声で歌ったかもしれない。

これは気になるので、先に、この曲のみ、
解説に書いてあることをチェックしてしまおう。

CD1の曲目解説は、フランチェスコ・デグラーダが書いている。
「『Bella Madre de’Fiori』は、ゆっくりしたテンポで、
各部を模倣しあう厳格な対位法で書かれた、
シンフォニアで始まる。」

秘めやかな弦楽の綾の美しい楽曲で、
次第に明るさをたたえて来る曲の構成も美しい。

「最初のレチタティーボは、
テキストを分析して解釈していて、
アリオーソの形式に傾き、
声楽部と通奏低音で対位法的な模倣がある。
最後の節に、後期バロック特有の、
短いフガートのアリオーソ、『cavata』がある。」

神妙な、悲壮感のある部分で、
荘重に歌われるのを、低音がしっかりと支えている。

「続くアリアは、形式としては、
『器楽のリトルネッロ、歌詞1、
器楽のリトルネッロ、歌詞2、器楽のリトルネッロ』
となっている。」

器楽のリトルネッロとは、
ヴィヴァルディのような活発な音楽を想像してはならない。
むしろ、マーラーなどに直結しそうな、
神秘的な間奏曲になっている。
そもそもアリアも暗い。
不気味な下降音型も頻出する。

何なんだこれは。
いつの間にか、かなり、私はディープな世界に、
すっかりはまり込んで聴き入っている。

「短いレチタティーボの後、
コンチェルタンテなヴァイオリンが寄り添う第2アリア。
ここでも、各声楽の歌詞部は、二つのヴァイオリンによる、
リトルネッロで囲まれている。」

少し明るくなって来て安心した。
高まるアリアにはヴァイオリンが補助され、
極めて心強い感じだ。
しかし、しっとりと深い表情も見せ、
この部分だけでもかなり聴き応えがある。
というか、それを言うまでもなく、
たっぷりと長い。

「次のレチタティーボに続くアリエッタは、
慣例的に有節形式で、声楽と通奏低音だけのためのもの。
二つのヴァイオリンとコンティヌオの器楽リトルネッロが、
同じ音楽素材に従って交錯する。」

ここでは、幾分、暗い情熱を秘めた歌いぶりで、
ますます、音楽に熱がこもって来る。
どのセクションも聴き応え満載ではないか。

「最後のレチタティーボは、全カンタータの中で、
おそらく、最も詩的で独創的な部分である。
バロックオペラ同様、
典型的なアモーレのテーマを想起させる慣習的なもので、
クローリの嘆きに心動かされ、
彼女に癒しのまどろみを与える。
自由なアリオーソ形式でありながら、
この素晴らしいカンタータの最後のエピソードでは、
バスの和音が続く中、
二つのヴァイオリンの優しい音色に、
声が包まれて、
何度も何度もモティーフが浮かび上がるが、
しだいに消え入り、最後にはささやきの中に消えて行く。」

まるで、パーセルの「ディドとエネアス」みたいだが、
高度に集中した書法も、それに近い。
これはみっけもんカンタータである。

気になってネット検索すると、
いくつかの録音がヒットして、
何人かの歌手が、この大曲に挑戦していることが分かった。
「Bella madre dei fiori」を機械検索すると、
「花の美しい母」というすごい訳になってしまったが。

ネットで見ると、英米系の人が、
これ、何という意味?などと質問サイトに投稿していて、
イタリア語を少し知っている人が、
上記訳と同様の答を出していた。

とすると、このCDの表紙の絵画は、それなりに、
意味ありげな感じに見えて来た。

それにしても、このCD1の最大の難点は、
これらの曲を構成する各部に、
トラックがふられていない点である。

解説は、リナルド・アレッサンドリーニという人が書き、
おそらく、Candace Smithという人が英訳してくれている。
読んでみると、「総本山」というには、
かなり紆余曲折した人生を送った人のようで、
非常に興味がかき立てられた。

「アレッサンドロ・スカルラッティは、
1660年5月2日、パレルモに生まれた。
1678年、彼は、有名なドメニコを含む、
10人の子供を儲けることとなる、
アントニア・アンツァローネと結婚した。
まだ若い頃から、彼はローマの音楽サークルで、
1679年の田園神話劇『外見の誤解』で、
知られるようになった。
オペラを書く事の他、スカルラッティは、
当時の貴族に好まれたジャンルの一つであったカンタータや、
それから宗教曲にも手を染めた。
宗教曲を書くことは、
聖ジェロラモ・デラ・カリタ教会の
楽長に就任したことによって、
公的な義務となった。
スペイン王位を巡る戦争によって、
1703年から1706年、
スカルラッティはナポリを逃れたが、
1708年には、ローマには再び、
聖マリアマジョーレ十字架教会の楽長として
雇われることとなった。
1706年にはコレッリやパスキーニと共に、
スカルラッティはアルカディアのメンバーとなった。」

この時、スカルラッティは、すでに46歳である。
コレッリは、1653年生まれだから53歳になっていたはず。

しかし、不惑を越えて、沢山の子供を抱えての、
戦乱の影響を受けるとは気が滅入る話である。
スペイン継承戦争である。

「1696年から、
メディチのフェルディナンドの宮廷と関係を保ち、
1703年から1706年にかけて
数多くの作品を書いたが、残念ながら、
それらは残っていない。
彼はメディチ家の恒久的ポストを得るために、
あらゆる方策を講じたが、この野望は潰えた。
フェルディナンド公は、彼の音楽を、
妙に学究的で憂鬱にすぎ、作曲技法も形式も、
すでに時代遅れになりつつあったバロック様式に、
縛られていると感じていた。
これは、スカルラッティと、当時の音楽界の、
最初の不和の兆候で、これは時代とともに明らかになった。
このことが、1706年にオラトリオ、
1707年には二つのオペラを書いて
就職を願ったヴェネチアにも職を得られなかった理由である。
これらはすべて、あまり成功しなかった。」

ということで、スカルラッティと言えば、
「大御所」とか、「総本山」という感じがしていたが、
かなり悩み多き人生を送っていたことが分かる。
にわかに興味が湧いてくるではないか。

「国際政治が安定し、
スペインからオーストリアの支配が及び、
ナポリ副王の地位も安定するにつれ、
スカルラッティは、1709年の始めから、
昔の楽長の地位に復帰することが出来た。
フランチェスコ・マンチーニ、レオナルド・ヴィンチ、
レオナルド・レオらによる先進的なトレンド、
『前ギャラント』スタイルと、
彼の音楽の間の溝はますます深くなっていたため、
ナポリで再びオペラの活動を開始したものの、
かつての熱意はなかった。
最後の彼の重要なオペラ群が、
ナポリでなく、しばし居住したローマで演奏されたのは、
偶然のことではなかった。
ここで、彼は尊敬され、重視されたが、
孤立しており、1722年以降は、
無為の人生を送った。
彼は1725年10月22日に亡くなった。」

ロッシーニ旋風が吹き荒れた時の、
ベートーヴェンの姿をふと思い出した。
しかし、アレッサンドロ・スカルラッティは、
そこで復活することはなく、
65歳まで生きたということだ。

先に、私は600曲のカンタータと書いたが、
この文章では800曲を越えた数を出して来ている。

「820曲のカンタータは、空前のものである。
すでにこの数から、スカルラッティの多産に驚くが、
同様に多数のオペラやオラトリオがある。
このような事すべてにも関わらず、
今日ですら、スカルラッティの偉大さは、
十分な敬意をもたれていない。
このような情熱とすばらしさで、
声楽作品に取り組んだ作曲家は、
当時も他にいなかった。
スカルラッティの作品を特徴付ける、
音楽とテキストの効果は、極めてユニークなものである。
同時代の作曲家たちの技法に比べ、
彼の作曲技法は絶対的に羨むべきものであった。
対位法の大家として、スカルラッティは、
当時、何らかの妨害を受けた。
彼の教理はオペラに見られるような、
軽く、表層的な雰囲気とは、
必ずしも同調できるものではなかった。
カンタータの、より綿密で親密な次元で、
メロディと対位法的展開を、
表現の素晴らしい境地を開くことができたようである。」

ということで、スカルラッティは、
オペラやオラトリオでも有名だが、
カンタータが最高ということだろう。


アレッサンドロ・スカルラッティの時代から、
100年後に、シューベルトもまた、
メロディと古典形式の調和に苦しむことになる。

「各カンタータの作曲順を立証することは、
必ずしも可能ではないことは明らかである。
いくつかは正しい日付を持ち、
大部分は分からない。
カストラートはもちろん、
ソプラノやコントラルトなど、
スカルラッティは高域の声を好んだ。
他のヨーロッパ諸国に比べても、
イタリアに優れた歌手がいた事が、
確かに、これら豊富な作品創作につながった。」

ということで、このCDで、
バンディテッリというコントラルトが、
野太い声をカストラートのように響かせるのは、
決して、間違った事ではなく、
素晴らしいことだったわけである。

バンディテッリは、イタリアのアッシジ生まれということで、
マゼール、アッバード、シャイー、ピノックなど、
著名な指揮者との共演も多いようだ。

「アカデミアやサロンなど、プライヴェート利用を想定し、
カンタータは、より親密な感傷性や、
小規模ではあったが、まさしく喚起する表現力を
試すための場を提供した。
好まれた主題は明らかに愛で、
いかに有名なカンタータに、
『アモーレ』という言葉が、
いかに多く出て来ることかと興味深い。
絶望した恋人たちの絶望した言葉が、
グロテスクなまでに表現されており、
それでいて現実的で表現力豊かである。」

我々が感じる、不思議な感覚は、
このリナルド・アレッサンドリーニ氏も、
同様に感じていたようである。

「アレッサンドロは、すぐれた巨匠であった。
彼から多くの作曲家がメロディの組み立てを学び、
修辞的な音楽語法の適正な利用を学んだ。
しかし、彼が最も効果的に行ったのは、
イタリアのスタイルの確立で、
それは、止めどもない声楽の技法の開始ではなく、
18世紀に情緒エッセンスの本質を注ぎ込んだことであった。」

多くの作曲家には、ペルゴレージを始め、
ヴィンチやレーオなど、ナポリ派の作曲家がいるのだろうが、
そこから派生したモーツァルトやサリエーリを通じ、
シューベルトには続いているのかどうか。

さて、各曲であるが、このような優れた解説を読めば、
ますます、ここに収められた作品群が、
愛おしくも感じられるというものだ。

CD1の前半4曲は、クリスティーナ・ミアテッロの歌。
1曲目は、「行為、または私のため息」
「レチタティーボとアリアの繰り返しである。
アカデミックなコンテストの中で生まれ、
強い表出力が染みこんでいる
個人的な言葉に満ちたテキストに寄るもので、
特にレチタティーボでの和声の大胆さ、
アリアでの厳格な対位法で特徴付けられる。」

何だかよく分からないが、
チェロとチェンバロの簡素な伴奏ながら、
聞き込む程に味わい深い作品である。
最初のアリアのチェロ独奏など、
ドメニコの作品かと思った程、情緒豊かである。

2曲目は、「一人の時」で、寂しげな歌だと思ったが、
題名からしてそうだった。
これは、アリア、レチタティーボ、アリアの形式。
「異常に劇的なテキストによるもので、
その密度は、特に最初のアリアと続くレチタティーボに見られる。
最後の流れるようなアリアではそれほどではない。」

このようにあるように、切々と歌われるチェロは、
まるで、バッハの宗教曲のように内省的だ。
しかし、美しい。アンドレア・フォッサという人が弾いている。

「両方のアリアとも、二つの部分からなり、
同じモティーフが使われている。」
とても沈鬱なイメージで、解説にあった、
憂鬱にすぎる、という表現は、この曲と、
次の曲にはぴったり来る。

3曲目は、「苦しめるより多くを許します」と訳された。
「1688年のA/R/Aの形からなるこの作品は、
パリ音楽院の図書館に手稿が保管されている。
これはスカルラッティの最初の創作時期に当たり、
アレッサンドロ・ストラデッラのカンタータに起源を持つ、
アルカイックな性格を持っている。
ダ・カーポ形式の二つのアリアは、
鋭い対比をなし、最初のものは劇的に半音階的で、
第2のものは、より柔軟でカンタービレに満ちている。」

6分に満たない作品で、他のものと違うので、
初期の作品ということが、こんな事からも感じられる。
「柔軟でカンタービレに満ちている」とあるとおり、
浮き立つようなリズムで歌われている。

4曲目は、「Lontan dalla sua Clori」
ロンタンとクローリは名前だろうか。
クローリはよく出て来る女性名であるが、
ロンタンは知らない。
この作品は、先の2作と違って、
いくぶん、晴れやかな曲想を持っている。

「『不運』と題されたこの曲は、
いくつかの譜面が残されている。
これは、典型的なアルカディアスタイルの、
離れた恋人の主題のバリアントである。
二つのアリアのたっぷりした長さや、
代わりやすいハーモニー、
そして、強烈な表現のバランスからして、
スカルラッティの後期の作品かもしれない。」

このように解説にあるように、
その力の抜けた自在さが、
他の曲より、身近に感じられる理由かもしれない。

最後のアリアの始まりなど、
チェンバロがきらきらと輝いて愛らしい。
歌そのものも、優しい感じがする。

CD2は、いきなりテノールが歌い出す、
「Ammore, brutto figlio de pottana」という、
テノールと通奏低音のためのカンタータ。
途中、「くっくっくっくっ」と、悲しく泣くような表現もあって、
オペラ・ブッファ風。ちょっと変な感じである。
ジャンパオロ・ファゴットという名前の歌手らしい。

さぞかし、内容が分かったら、と思って、
ブックレットを手にして驚いた。
このCD2については、解説がついていない。

かろうじて歌詞はあるがイタリア語だ。
いくつかのテキストを機械翻訳にかけてみたが、
まるで意味不明である。

このように、よく分からないながらも、
このCD2は、全部で5曲が入っていて、
1曲目がテノール、
2曲目がアルト用と独唱が続くが、
3曲目以降は変化を持たせ、
4曲目がソプラノとリコーダ用、
3曲目と5曲目がソプラノとアルトのデュエットとなっている。

リナルド・アレッサンドリーニが全曲、
チェンバロを受け持ち、
パオロ・パドルフォがガンバ、
ロベルト・センシがヴィオローネを受け持っていて、
基本的に、地味系のバスである。

Track2以下は、「Sovente Amor mi chiama」という、
アルト用カンタータであるが、
クラウディオ・カヴィーナという男性歌手が担当している。
これは、レチタティーボとアリアが3回繰り返す作品。
短い曲の連なりで、10分程度のもの。

トラックが分かれていて良いが、
Track2のアリアが2分68秒と書かれているのがご愛敬だ。

以下、ソプラノに、CD1と同じ、
クリスティーナ・ミアテッロが登場。

Track8以下は、「Son pur care la catene」というデュエット。
このデュエットという曲種は、カンタータと類似であるが、
二重唱と独唱が分かれて楽章を構成している。
最初と最後がデュエットで、その間に、
アルトによるレチタティーボとアリア、
そして、ソプラノによるレチタティーボとアリアが、
サンドウィッチされている。

察するに、恋人同士の二人を想定したものであろう。
彼等の二重唱は伸びやかで美しい。
二人の歌手が、歌い交わす様子は、
その装飾音が重なり合って、
器楽曲のように、歌詞が分からなくとも楽しめる。

いくぶん、脳天気なアルトの歌に対し、
ソプラノの歌は、妙な情念を含ませて怖い。
こぶしも聴かせ、通奏低音も、ぶーんぶーんと唸っている。

最後のデュエットは、しかし、
いくぶん穏やかな歌で、仲直り風に聞こえる。

Track14以降は、ソプラノとリコーダーと、
通奏低音のためのカンタータで、
これは、「私のクローリ、美しいクローリ」と読める。
Track15では、ひなびたリコーダーが、
美しい音色を響かせ始める。
Lodvica Scoppolaという奏者が吹いている。

シンプルなR/A/R/A形式で、
最後のアリアでは、きれいな空を仰ぎ見るような、
さわやかなメロディがリコーダーによって奏でられる。
このあたりも、このCDセットの聞き所であろう。

Track18のデュエットも、
デュエットでサンドイッチされたR/A/R/A形式。
「Dimmi crudele, e quando」と題されている。
最初の二重唱、ソプラノと男性アルトの濃密な絡まり合いは、
かなりロマンティックで、18世紀のラフマニノフだ。
これはたまらん。是非、聴いてみて欲しい。

Track19からのアルトの、
レチタティーボとアリアは、
極めて素直なもので、
シューベルトの時代でも通用しそうな歌である。

Track21からのソプラノ用、
レチタティーボとアリアは、
前のデュエットと違って、
穏やかなものである。

歌手のCristina Miatelloと、Claudio Cavinaは、
それほど声量はないが均質でブレンドは美しい。
カウンターテナーの方は、
イタリアでは重要な歌手だとある。
ネット検索すると、カヴィーナとあり、
波多野睦美と日本で共演したこともある人のようだ。

最後のデュエットは明るい感じで始まるが、
途中のガンバのメロディあたりから力を失い、
カンタータとは、やはり、もんもんと終わるものか、
などと考えてしまった。
が、これもまた、絶唱風ではある。

さて、最後のCDは、小オペラのようなもの。
インテルメッツィ「パランドラーナとザンベルルッコ」である。
音楽の性格から、カンタータのような濃密感はないが、
広い劇場で、開放的に歌われる感じや、
器楽の音色の芳醇さや色彩は、
むしろ、気楽に近づける雰囲気である。

パランドラーナは年配の未亡人であり、
ザンベルルッコは、若い渡り労働者と解説にある。
極めて猥雑な小話風の作品であると予測できる。

Barbara di Castri,がソプラノを受け持ち、
Gastone Sartiがテノール、
ROBERTO CASCIOが指揮するFORTUNA ENSEMBLEの演奏。
残響の多い、雰囲気たっぷりの録音で、
ヴァイオリンなどの繊細な音色の抜けも良い。

字数が尽きたのでこのあたりで終わり。

得られた事:「ナポリ派の大家、アレッサンドロ・スカルラッティは、好きでナポリ派をしていたわけではなかった。」
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by franz310 | 2012-02-04 21:43 | 古典