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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その313

b0083728_21104821.jpg個人的経験:
ピアノ曲でしか、
ほとんど知られていない、
D.スカルラッティの
カンタータに対する関心を、
人気カウンターテナー、
ツェンチッチの録音が、
かき立ててくれた。
これらの作品が、
ヴィーンで見つかった事などもあり、
妙に気になる作品群である。


スカルラッティとの出会いが、
人生を変えたという、ツェンチッチの録音は、
2003年と2006年に出された2枚を聴いたが、
さすがに本場のイタリアでは、
20世紀最後の年に、これらの企画が遂行されていた。

これを聴くと、これが、これまた鮮烈な演奏で、
どうしても聞き込んでみたくなる代物だった。
あえて、ここで取り上げてみたくなった次第。

イタリアのディープなレーベル、タクトゥス製。
スカルラッティ、「カンタータ・ダ・カメラ第1巻」
というものなので、第2巻もあるのだろうが持っていない。
ネット検索すると、ブリリアントから、
再発売されているようなのでチェックするようにしよう。

このタクトゥス盤は、ティエポロのフレスコ画が表紙で、
マドリッドの宮殿に描かれた、
「スペイン君主制の寓意」の一部を使っている。
イタリアの芸術家が、スペインに行って行った仕事で、
確かにスカルラッティを想起させるが、
作曲家は、これを見ていないはずである。

それは、この作品が1760年代に行われているからで、
スカルラッティは1757年に亡くなっている。
とはいえ、ほぼ同時代の話ではある。

カルロス3世によって依頼されたもので、
スカルラッティが仕えたマリア・バルバラ妃の夫、
フェルナンド6世の死後、
異母弟ということで、1759年以降、王位にあった。

彼は、様々な外交政策も繰り広げた、
啓蒙専制君主だったらしく、
何となく内向き志向のスカルラッティとは、
少し、時代背景が異なる感じがしなくもない。

もしも、先代が、この壁画を依頼していたとしたら、
この豪華な位置にて君臨するのは、
スカルラッティの弟子であった、
マリア・バルバラ妃であったはずである。

が、彼女は、そんな事に興味があったとも思えない。

このCDは、
ラヴィニア・ベルトッティという人がソプラノを歌い、
アンサンブル・セイチェント・イタリアーノという団体が、
共演しているもので、
ダニエーレ・ボッカッチョという人が指揮をしている。

この前のツェンチッチ盤でも、指揮のオーセが、
木管の伴奏をつけて魅惑的な色彩に仕上げていたが、
(自身が受け持っていたりする。)
ここでも、ボッカッチョが、いろいろと、
器楽の取り扱いについて、
「ちょっとしたお断り」という、
短文のコメントを書いている。
(こちらの指揮者は、自身、チェンバロを弾いている。)

「この録音は器楽の選択に関しては、
寛容な措置をとっている。
17世紀の音楽とは違って、
それぞれのカンタータの、
『ソプラノ、二つのヴァイオリンと、
通奏低音のためのカンタータ』
というタイトルから、
この通りに演奏しなければならないが、
通奏低音というのがくせ者である。
ハープシコード、チェロ、
テオルボ(ハープシコードと一緒か別か)が、
正統的な編成である。
我々は、もっとまろやかな音を求めて、
ヴィオラ・ダ・ガンバは除いた。
しかし、『通奏低音』には、何か必要である。
ダブル・ベースでも良いかもしれない。
こうして、その特徴を生かすべく、
16フィートのヴィオローネを用いた。
さらに、イベリア起源の楽曲なので、
バロック・ギターかテオルボを代用し、
器楽の楽章や特徴的な部分には、
スペイン風を付加した。」

この編成については、演奏者の写真が、
ブックレットの中に出ているので参考になる。
右端の人が、確かに、
コントラバスの小型版みたいなのを持っている。
テオルボ、チェロ、ヴァイオリンが二つ。
手ぶらの二人がチェンバロと歌手であろうか。

この楽器編成のエキゾティックかつ多彩な魅力は、
最初のカンタータの「O qual meco, o Nice」の最初には、
3楽章の序曲のようなものが付いているが、
ここからも明らかである。

ただし、その後、レチタティーボが始まると、
少し、聞き慣れない感じになる。
これは、ツェンチッチのカウンターテナーで、
聞き慣れたことに起因するものかもしれないが、
ソプラノの声が細くて、頼りない感じなのである。
何と、こんな所に、カウンターテナーの有利さが出るのだなあ、
と妙に納得してしまった。

前のCDで、繰り返し述べられていたように、
カストラートのファリネッリを、
意識して書かれた作品であれば、
このようなひ弱な声量では、
そのイメージを想起することが難しい。

ジュノーやバルトリなら、もっと、
声量があるのかもしれないが。

このCDには、ツェンチッチが2002年の録音で歌っていた、
「わたしは言いたい」が入っているので、
うまい具合にこれらを聞き比べることも出来る。

とにかく、このCDも解説から、
示唆されることが多いので、
まず、それを読んでみたい。

解説の途中には、この録音が基本とした、
楽譜研究に関するディープな内容が出て来るので、
やっかいなのであるが。

「ナポリ時代からスペイン居住時代まで、
ドメニコ・スカルラッティは、生涯にわたって、
少なくとも60曲(偽作の疑いのあるものや、
彼のセレナータを除いて)の『カンタータ』を残し、
このジャンルを発展させた。
カタログに出ていない他のカンタータも、
系統的な調査によって現れるかもしれない。
当時、カンタータというジャンルは、
すでに衰退しつつあったので、
この多い数は、スカルラッティが、まず、何よりも、
カンタータが洗練されたジャンルとして、
大胆な実験の場として、
また、選りすぐられた聴衆を前提として、
高度な技法を鍛錬する素晴らしい書法の面からも、
最高潮に達したバロックの伝統に、
根ざしていたことを示すものである。」

ということで、カンタータというジャンルが、
改めて、私の視界に展開されることになった。

以下は、細かい手稿の分析の話が続く。
よく分からないので、読み飛ばしてよろしい。
「手稿は、1699年の『V'adoro, o luci belle』から、
1724年の『Ogri core innamorato』までの時期のものである。
さらにそれは二つの写本があって、
一つはロンドンの大英図書館、
もう一方は、
このCDに収めたカンタータを含む、
『オーストリア国立図書館』の音楽セクションにある。
それらは同じタイプの紙に、
同じ、一人の写譜師によって書かれており、
おそらくイベリアから伝わったものである。
これは、書いた人の特別な、
8分音符や16分音符のダッシュが左側にある
書き方によって確かめられる。
イタリア起源のものは、
これと違って、右側になっている。
この典型的特徴は、セレナータ『四季の論争』(ヴェニス)や、
テ・デウム(ポルトガルのギマランイス)、
大英図書館のハープシコード用ソナタ、
『4声のミサ』を含む、マドリッドの合唱曲集に見られる。
さらにカンタータの異なるセクションの境界を、
スペイン宮廷で書かれ、今はヴェニスやパルマにある、
ハープシコード・ソナタの手稿にも見られる、
指し示す小文字で示されている。
我々は、これらにスカルラッティの
18曲のカンタータを含む写本を加えるべきで、
しかも、これらの作品は、他には伝わっていない。
このことから、これらのコレクションは、
時に起こるような、
実用的な目的のために、
演奏者やコレクターが作ったものではなく、
作者自身によるものと考えるべきであろう。
さらにこのことは、
ヴィーン版のカンタータ『Scritte con falso inganno』の
第二アリアのAセクションに、
作曲家がダメだししていることからも裏付けられる。
一方、我々は一二のコレクションの出版用として、
ヴィーン版を無視することは出来ない。
他の手がかりは、写譜屋が今はなき、
スカルラッティの直筆を直接見たのではないかと推論できる。
スカルラッティの写譜屋の系統的研究は、
現在に至るまで、なされておらず、
結局、コレクションの日付は、
唯一、テキスト作者を特定できる
ピエトロ・メタスタージオのカンタータ、
『Pur nel sonno almen talora』
(眠りの中で愛する人が)が、
ヴィーン版写本に含まれていることを、
頼りにするしかない。」

このアルバムには、この作品は含まれていないが、
2002年録音のツェンチッチのCDには入っていた。

ツェンチッチのCD解説では、
多くの作品がメタスタージオの筆になるもので、
それゆえに、ヴィーンにあったものと考察してあったが、
このタクトゥスの解説が本当なのかもしれない。

が、ここでも、同様の見解が書かれている。

「ポルポラは、1735年ロンドンで出版された、
カンタータ集12巻にこれを含んでいるので、
メタスタージオはヴィーンに移った後、
友人のニコラ・ポルポラのために、新版を書いた、
という事が考えられる。
この日付は、二つの写本の日付用基準にでき、
音楽のスタイル分析によって仮説を確認可能である。」

ということで、メスタージオがポルポラに送ったものと、
スカルラッティの関係はよく分からない。

以下、「多くの特徴によって、これらのカンタータは、
高度に発展した前古典的スタイルに位置づけられる」
と書かれた点は納得だが、
技法的な話は、理解不能なので、
これまた、読み飛ばして戴きたい。

「例えば、高度に展開されたアリアのリフレインや区分、
短調に対する長調の支配、
極めて緩やかな和声の歩調、
ロンバート・リズム、全編にわたる、
スライド、クールといった装飾音の偏愛など。
器楽のパートは非常に洗練されており、
無尽蔵に変容し、
室内楽のスタイルをモデルとしている。
低音部も後期バロックの対位法的テクスチャではなく、
純粋に和声的な低音で、
声楽と二つのヴァイオリンがそれに代わって、
典型的な対位法を見せ、メロディックというより、
モティーフ的な構成を示す。
こうした技法が変則な和声進行による、
反復や動機の変奏など
独特の音響を作り出している。
密度の高く重い構成によって、
ギャラントスタイル前期のまねごとにはなっていない。
声楽パートも高度に変化し、
近代的な声楽の流派の流れにあって、
前古典派の新しいスタイルとなっている。」

このCD解説でも、ファリネッリとの関係は気にしており、
以下のような間接的な表現としている。
「これらの作品は、
歌手にとって非常な困難な場面を提供するが、
全体的に、ファリネッリを想定したのではないか、
と推測されているほどには技巧的ではない。
(彼は同様にスペインの宮廷にいたことで有名。)
18世紀のオペラによくあるような、
パッセージ・ワークもなく、
その技巧はアクロバティックなものではない。」

前回のファリネッリの推論は、
メタスタージオとファリネッリの仲が良く、
メタスタージオの詩にスカルラッティが曲を付けているから、
ファリネッリが歌ったに違いない、というものであった。

以下、これらの作品の巧妙な作りについて詳説している。

「しかし、イントネーションや、
アーティキュレーション、表現力豊かなニュアンス、
巧妙な装飾方法に繊細さを求めるものだ。
それらは直接、ソナタのスタイルにつながるもので、
特に効果的な不協和音の利用、
気まぐれで予測不能の各パートの進行や、
和声進行がある。
こうした類似性にも関わらず、
このジャンルには特別な異常な感受性が認められ、
言い方を変えると、スカルラッティは、
時にヴィヴァルディがやったように、
彼の器楽曲の多感的な様式を、
平凡に適用するのではなかった。
反対に、彼は、その器楽曲の特別なスタイルを、
表現力のパレットを多彩にするために使ったにすぎず、
最も洗練されたレトリック研究のための
訓練の場としていたこのジャンルにおいて、
自身の技法をさらに磨き上げた。」

このような解説を読み進めつつも、
傍らで、このCDが鳴り響いているが、
まさしく、これらの言葉通りの、
多彩さ、洗練を感じずにはいられない。

まさしく至福のひとときである。
豊饒なる色彩感と、推進力。
ゆるやかな流れもあって、
そこでは、楽器一つ一つの音色が嬉しい。

最初は気になっていた歌手の声のか弱さも、
微妙なニュアンスを含みながらの表現に聞こえて来た。

ただし、私は、ヴィヴァルディが、
毎度ながら、無神経に器楽の技法で、
声楽を制圧したような書きぶりには不満を感じる。

「テクストの扱いにおいてもスカルラッティは、
新しい地平を拓く特別な職人芸を見せ、
言葉の構成を分解したり、再構成したりしている。
テーマやモティーフの広い範囲に触れながら、
こうして彼は素晴らしく魅惑的で、
無限の意味を喚起させる音楽世界を作り上げた。
三つの破格の『愛の手紙』
(Piangate occhi dolentiや、Tinte a note di sangueと、
Scritte con falso inganno)
では、これらのコレクションの真珠である。」

などと、書かれながら、これらの曲は、
このCDには入っていない。
むしろ、ツェンチッチの最初のアルバムに、
三つのうちの後の二つは入っている。

「これらは、別れた二人の恋人たちの往復書簡で、
互いに関係が終わった事を訴えている。
これらの3曲をもってしても、
ドメニコ・スカルラッティの声楽作曲家としての、
素晴らしい側面を見ることができる。」

これについては、先刻承知であるのであるが、
さらに、カンタータの位置づけが書かれる。

「この作曲家がカンタータを、
(多くの理由から宗教曲と共に)
カンタータを、バロック音楽の
最も磨き上げられ洗練されたジャンルと
考えていて、それゆえ、
彼自身の詩想を盛り込む
理想の分野と考えていたとしても、
驚くにはあたらない。
ハープシコード・ソナタにて遂行した
その研究成果や実験を同時に見定めながら、
劇場の制約もない中で、彼自身の非凡な教養や、
異常に個性的な音楽の感受性を、
刻印することが出来た。
後期バロックのカンタータと、
スカルラッティのソナタの精神を、
そこには、かすかな、しかし重要な、
繋がりがある。
それぞれのソナタは、
小さいが素晴らしいミクロコスモスを形成しており、
エキセントリックな矛盾に満ちた解決法で、
特別な音楽、演奏の問題を受け入れられる
選ばれた聴衆だけが十全に聞き取れる
機知に富む独特の空想を、
彼はそこに見せている。
『芸術の独創的な機知』と呼ばれるものを、
人はスカルラッティに見るが、
それは、むしろ、
最も精錬された対位法の教理、
和声、形式への深い理解に基づくもので、
後期バロックの伝統の、特にカンタータという、
高度で上品なジャンルを見つめ直すことの出来る者だけが、
送り出すことを可能にしたものであった。」

ということで、スカルラッティのソナタと、
カンタータは同じように聴かないといけない。

「そこここに、理想劇場にて演じられる、
スカルラッティの幻想世界の登場人物や出来事が、
予期も出来ない動きを見せる。
近年になって、言われることだが、
スカルラッティのカンタータと、
ハープシコード音楽の間には深い調和がある。
同様に、アレサンドロの詩的感覚と、
その最も独創的であった息子の心理学にも、
ある種の調和がある。
マリア・バルバラと、
後にスペインの女王となる
アストゥリアスの王女を中心とした
ファリネッリも参加した
選りすぐりの『通』のサークルは、
その秘密の儀式において、
ドメニコのソナタに同じように聴き入り、
熱狂していたものと、私は信じている。
それらは、同じ人の二つの側面であった。」

アストゥーリアス王女とは、
マリア・バルバラの事であろうか。

マリア・バルバラ用のソナタと、
ファリネッリもいたサークル用のカンタータが、
二つの側面だと言いたいのだろうが、
アストゥーリアスという言葉が出て来て混乱してしまった。

Francesco Degradaという人が書いたものだが、
ペルゴレージの権威だったようで、
2005年に訃報が出ていた。
1940年生まれとあるから、
65歳という年齢での死去である。

しかし、改めて、マリア・バルバラや、
その夫、そして、スカルラッティの没年を見ると、
妙に味わい深い。

ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)
マリア・バルバラ(1711-1758)
フェルナンド6世(1713-1759)

このCDの表紙の絵画のティエポロを雇ったのは、
この次の君主なのである。

さて、CDの内容であるが、
歌詞はイタリア語しかないので、
よく分からない。

Track1~7は、カンタータ
「O qual meco, o Nice」で、
Track1~3はその序曲みたいな器楽曲である。
Track1.アレグリッシーモとあり、
これは非常に活発にパンチも効いたもので、
いきなり、この世界に連れられて行ってしまう。
ギターだかテオルボだかがかき鳴らされ、
ヴィオローネの深い音色も印象的である。

Track2.アンダンテ・カンタービレで、
ヴァイオリンの交錯が美しい静かな、
いや、静謐な楽章。
1分ほどで終わるが、さすがイタリアレーベル、
裏表紙には2分28秒と書いてある。

Track3.もっと短く1分に満たないが、
わあっと盛り上がって期待を高めるアレグロ。
これも裏表紙には2分55秒と大嘘の表記。

Track4.レチタティーボ、
悩ましげな歌が始まるが、
これは、何かを訴えかけている様子。
じゃんじゃんと、チェンバロが合いの手を入れる。
これも49秒しかないのに、
表記は1分水増ししてある。

Track5.歌を待つ器楽の前奏部の綾をなす色彩、
忍び寄る不安のイメージに妙に心が打たれるアリア。
もやもやしたものがまとわりついて来る感じが、
実によく出ているではないか。
声も、何と不思議な陰影を施して歌われていることか。
「Perche non dirmi almeno」とあるが、
「あなたの美しい胸に不快な気持ちを与えたでしょうか」
などと歌われているようである。
これは、背面の表記では、
1分44秒で歌われることになっているが、
楽器の戯れに誘われるままに7分余りが、
あっと言う間に終わってしまう。

Track6.レチタティーボで、
どんちゃら、ぽろろの、すごい低音が印象的。
「Di, rispondi spietata(容赦なく答えます)」。

Track7.はいくぶん、明るくなったアリアで、
「Dire non voglio tanto」とある。
スペインの香りたっぷりで、じゃんじゃかじゃんじゃか、
心が踊るようなリズムが最高である。
透明感あふれる楽器編成で、
変幻自在に出たり入ったりでめまぐるしい。
ソプラノのコロラトゥーラも嫌味がなく、
洗練を感じさせる。

Track8~10は、
アリア、レチタティーボ、アリアの形式のカンタータ
Track8.は、「Se fedele tu m'adori」。
誠実であるならば、という内容のようだが、
簡潔でかちっとした感じの歌曲。
清潔感あふれる歌唱に、
ヴァイオリンの爽やかな風が吹き抜ける。
低音弦のブーンと響く感じ、
チェンバロがきらきらきらと輝く部分もしびれる。
このトラックも2分51秒とあるが、
実際は、7分9秒もある。

Track9.は、「Tirsi, poiche ti sai」。
ここでも、チェンバロのきらきら前奏が美しい。
ティルシというのは人の名前だろうか。

Track10.「Non e contenta l'Ape ingegnosa」。
これまたビートの聴いた民俗調のリズム。
快活に流れるような声と、
この縦方向に刻まれるリズムの対比が面白い。
途中、悩ましい表情に変化するところも美しい。

Track11~13もまた、3楽章のカンタータ。
これは、ツェンチッチ(前は、私はチェンチッチと表記していたが)
の演奏のCDでも聴いた、「Dir vorrei」。

彼の演奏では、前述のように、指揮者が木管楽器奏者なので、
ここでも、フルートによって、ヴァイオリンが代替されている。
そのまろやかな音色は、いかにも牧歌的な感じが出ていたが、
タクトゥス盤では、より繊細な線の綾が強調された感じ。
ソプラノの歌唱も、しなだれかかるような風情。
「あなたに言いたいわ。赤くなってしまう。
私のこと知りたいの」という内容にぴったりである。

Track12は、「ああ、愛らしいニンフよ。
いつでも、僕は君を遠くに感じてしまう」という、
男の方の気持ち。
成る程、解説には、
「往復書簡」などと書かれていたが、
恋人たちの両方の気持ちをぶつける形式だったのか。
今頃、気がついた。

Track13.「暗い地獄のように、私の心の真ん中に」と、
ものすごい情念を込めた歌で、
このエキゾティックなリズムが、
そのほの暗さをかき立てていく。
このあたりは、ギターなどのじゃんじゃかが生かされている。
スカルラッティのソナタと同じルーツを感じるこの曲などは、
二つの演奏で聴いたせいか、妙に耳に残る音楽だ。

ツェンチッチは、ずっとテンポが速く、
楽器編成も薄い感じで、ストレートすぎる感じ。
この楽章は、ボッカッチョ指揮のものの方が、
雰囲気を高めるコブシも効いていいかも。

Track14~17は、レチタティーボとアリアが繰り返す、
「Che vidi oh' Ciel, che vidi?」。
Track14は、レチタティーボ。
これは、じゃーんと始まる、
何だか本格的な序奏が付いている。
ここでの器楽伴奏は、かなり凝ったものがあって、
何か、不安をかき立てるような趣きで、
しきりに何かを訴えようとしている。
確かに、スカルラッティの心理描写はすごいようだ。

Track15.のアリアは、
「Ben crudele e chi la mira」で、
残酷です、でも泣きません、みたいな歌詞の模様。
とても晴朗な感じのもので、
ヴィーン古典派の息吹がすぐそこに感じられる。
深々とした低音の暖かみにも癒される。

5分50秒の歌だが、裏表紙には1分39秒とある。
いったい、このCDの時間表記はどうなっているのか?

Track16.かなり長いレチタティーボで、
2分近くある。
「Priva del caro bene」。
歌詞対訳がないのが恨めしい。
電子翻訳しても、何のことやらさっぱり分からない。

Track17.アリア
「Se Nube oscure ricopre il giorno」で、
これも清新な息吹が感じられる、
素晴らしい音楽で、途中、
コロラトゥーラの見せ場を作りながら、
推進力を持って進んで行く。
共に歩む、ヴァイオリンの、
澄みきった音色にも心奪われる。

この曲も3分48分の表記があるが、
実際には、倍近くの7分の大曲である。

以上見てきたように、これらの作品の、
多彩な魅力、音色の繊細さや華麗さはどうだろう。

それでいて透明感を失わず、
時に、エキゾチックな怪しさも高まる場面もあり、
実に、痛快、爽やか、エネルギッシュな1枚であった。

得られた事:「カンタータは、バロック音楽における最も洗練されたジャンルの一つで、D・スカルラッティは、そこで高度な実験的書法を試みている。」
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by franz310 | 2012-01-29 21:15 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その312

b0083728_21404094.jpg個人的経験:
このCDの表紙デザインは、
極めてヤバい感じのもので、
一般のクラシック音楽ファンの、
リスニングルームには、
あまり調和しないものであろう。
おそらく、これを店頭で見つけ、
なんじゃこりゃ、と思った顧客も、
さぞかし多いものと推測する。
この歌手や内容を知らなければ、
私も手を伸ばすことはなかっただろう。


スキンヘッドに中折れハットをかぶり、
丸首の網編みチョッキで、肩には猿を乗せている。
よく見ると、手にも黒いすけすけの手袋をして、
赤いイチゴやバラを捧げている。
背景にはゴージャスな金色カーテンがかかっていて、
どう考えても怪しいでしょ。

赤い、おどろおどろしい字体で、歌手の名前、
そして、「カンタータ」という文字が大きく書かれてある。
そうは言っても、名門、カプリッチョ・レーベルのもの。

前回、ピアノソナタで有名な、
ドメニコ・スカルラッティの声楽作品カンタータを聴いて、
このピアノの名手が、
何故、ピアノ伴奏のものを書いていないかと
いぶかったりもしたのだが、
何と、前と同じカウンターテナー、
M・E・チェンチッチ(ツェンチッチ)が、
そうしたものを録音していた。
それが、このCDなのである。

ここでは、スカルラッティのカンタータが5曲と、
ピアノソナタが2曲、収録されていて、
当時のピアノの繊細な味わいも、
しっとり味わうことが出来る。

前回のCDによって、
男性でありながら、高い声を出すカウンターテナーなのに、
極めて自然な発声で歌う、チェンチッチには感心していた。
従って、このような奇矯な画像であろうとも許そう。
聴きたいから、許すしかない。
買うのも、家に置いておくのも恥ずかしいが。

ところで、このCDには、
おまけDVDが付いているが、
これを見ると、
早くからボーイ・ソプラノとして名を馳せた、
チェンチッチの悩ましい精神状況、
そして、スカルラッティとの出会いについてがよく分かる。

スカルラッティは悩める若者を救ったようで、
それゆえに、このように、
続けざまに、これら無名の作品が収録されたのであろう。

ピアノ曲でしか知られることのない、
スカルラッティの声楽作品を、
こうして紹介する仕事は、
あるいは、この歌手の業績として、
讃えられるものなのだろうか。

有名なピアノソナタと同時期の作品群で、
しかも、同じような楽想が、
ふと現れるのも面白い。

前回のものも、有名なカストラート歌手の、
ファリネッリのために、
スカルラッティが書いたものとされたが、
今回のものも同様である。
ファリネッリのために書いた作品ということでも、
音楽史的な興味も湧く内容であろう。

解説は、前回、もう少し大きな編成で、
チェンチッチを伴奏する指揮をしていた、
カースティン・エリック・オセが担当。
従って、前のものと重複する説明がある。
その部分は割愛して見てみよう。

「ファリネッリとメタスタージオが、
若い優美な女性、おそらく、ファリネッリの歌の弟子、
テレサ・カステリーニの仲良く集ったのを描いた、
イタリアの画家、Jacopo Amigoniの油彩がある。
この3人が、スカルラッティの
後期のカンタータに関係する3人だと考えられる。
男性の主人公が出て来るものは
ファリネッリ自身が歌い、女性が必要な時には、
カステリーニが参加し、
スカルラッティ本人が受け持ったのではなければ、
鍵盤楽器の伴奏は、
マリア・バルバラ妃が演奏したかもしれない。
『クラヴィチェンバロ』または、ハープシコードは、
18世紀の終わりまで、もっと大きな編成の作品の
伴奏楽器として最もポピュラー鍵盤楽器であったが、
スペインの宮殿では、それ以外の編成でも、
クラヴィーアが使われた。
スカルラッティは、
バルトロメオ・クリストフォーリや、
ジョヴァンニ・フェリーニの工房によって、
すでに十分開発されていた、
フォルテピアノを技術的に評価しており、
マリア・バルバラ妃のために、
これらを取り寄せていた。
非常に近代的で繊細な楽器の、
比較的柔らかく、強弱の幅がある音は、
極めて親密な室内楽に向いており、
とりわけ声の伴奏に向いていた。
これに霊感をうけ、この録音では、
フェリーニのレプリカのフォルテピアノを使って、
この録音の演奏者たちは、
興味深い音響の実験を行っている。」

ということで、このCDで繰り広げられる演奏は、
このCDの表紙背景にあるような、
ゴージャスな織物に包まれた宮廷における、
豪華なメンバーによる演奏を妄想しなければならない。

「それゆえに、クラヴィーアの専門家である、
アリーヌ・ジルベライヒャは、
これらのカンタータの通奏低音パートを、
想像力豊かに練り上げたが、
この楽器の響きの多彩さを生かすために、
ほとんど助奏のようにも演奏している。
独奏楽器としての能力を披露するべく、
彼女は3曲のスカルラッティのソナタも収録した。
これらの作品は、
カンタータの中での出来事を補足することになった。
単純なアンダンテの低音上の、
その歌に満ちたアリオーソと、
幅広く、しかし、常にメロディアスな装飾によって、
ソナタK277は、様式的にC・P・E・バッハの、
ギャラントなピアノ作品に似ている。
叙情的な質感に加え、
ソナタK215は、この楽器に、
ドラマや打楽器的なリズムを要求し、
最初の快活なムードは、真ん中の部分で、
暗く脅迫的になり、
ここではぶっきらぼうに和音が積み上げられる。」

ちなみに、このCDには、
もう1曲、K77のソナタも収録されているが、
特に解説はない。
これらのソナタは、
特に有名曲が選ばれているわけではない。
以下、カンタータの話になる。

「これらのテキストは作曲家に、
魅惑的なチャレンジを求め、
レチタティーボとアリアという、
お決まりのシーケンスは、
表面的には慣習的なオペラセリアに倣っているが、
愛の喜びと苦悩の乱された魂の矛盾した状態を描く。
憧れと怒り、希望と失望といった矛盾した感情は、
しばしばそのまま並記され、
主観の程度ごとに感情の性格を忠実に反映し、
古くさい類型的な性格描写をあえて打ち破っている。
スカルラッティの曲付けは、
同様に、そうした先を目指している。
彼の声楽パートの扱いは、
一見、盛期バロックのカストラートや、
プリマドンナによって典型的な、
超絶技巧なしで済ませているが、
様々な感情の微妙な表現や荘厳さに集中している。
すでに盛りをすぎていた、
声の敏捷さの限界を考慮して、
声のパートは書かれているが、
ファリネッリは当時、40歳を越して、
歌手としてのキャリアの最高期からだいぶ経っていた。
しかし、声のアクロバットが欠如していることで、
妥協と考えるのは、
正しくスカルラッティを評価したことにはなるまい。
この制約がむしろ作曲家の熟達を示すことは明らかである。
単純に見える声楽パートが意味するものは、
18世紀中葉に声高に言われた『自然さ』の追求で、
それゆえ、スカルラッティの作品は革新的ですらある。
広範な質感やオリジナルのテクストの心理的解釈に、
集中している。」

ざっと見て見て、前回のCDと変わった事はないが、
今回は、さらに詳細に、曲ごとの説明がある。

「カンタータ『どんな気持ちで』の最初のアリアは、
小唄のような、飾らないものだが、
声楽部の跳躍や通奏低音の和声変化が、
表現に集中力を与えている。」

Track1.はアリアで、
「どんな気持ちで私に平安について聴くの。
言ってみて、恩知らずの心、裏切り者。
きっとあなたは、私があなたの裏切りを、
忘れたとでも考えているのでしょう。
そしてあなたが悪者でペテン師であることを、
知らないとでも。」
などと歌われるものだが、
非常に軽妙に口ずさめるようなもので、
最初は、チェロとテオルボだかの音が、
ぶんぶん軽快に応答しているが、
途中から、ぱらぱらとフェリーニのピアノの間奏曲が始まる。

この瞬間は、非常に美しい。
そして、魅惑的な音色で、声と絡まっていく。

チェロは、マヤ・アムラインである。
チェンチッチの声は、一聴して、女性のようでもあり、
男性のようでもありながら、まるで不自然さがない。
愛情を込めて歌っている。

解説にあるように、
スカルラッティの書法もまた、
要所を押さえて、自然さを重視しているのであろう。

Track2.はレチタティーボで、
いつものように、恋人をなじるような内容。
ここでは、テオルボのぱらぱら音が美しい。
これを弾いているのは、日本の誇るリュート奏者、
今村泰典である。
レチタティーボとしてかたづけるのは惜しい、
魅惑的なメロディの部分。

「次のレチタティーボは、
一般的には、テクストを分割して、
大規模な終止を省き、緊張を維持させ、
断固たる劇的な、切迫感ある
対話の印象を引き出している。」

ここで、解説者が言いたいのは、
「切迫感はないが、
切迫感のある会話として不自然でなくしている」
ということであろうか。

「この録音における多くのレチタティーボは、
形式は原則に従っているが、
古い盛期バロックのパルランド様式を壊し、
スカルラッティの音の語法に劣らず、
豊饒な和声が表現力を持っている。」

確かに、どの曲のレチタティーボも、
まくし立て系が少ないので、
非常に聞きやすい。

Track3.はアリア。
「あなたは金物細工師のように、
ため息を鍛造し、嘘を織り上げる。」
とちゃかすような歌である。
ここでも、チェロで低音を増強されたピアノの、
闊達な表現が、チェンチッチの声にブレンドする。
最後に、長い声のひきのばしがあって、
なだらかな声楽にリズミックなピアノの調和が楽しめる。

「終結部のアリアでは、
独唱部で、音符の繰り返しが多く、
アルペッジオの3和音、
小さな、断片的な音型が、
片思いの女性が愛する人と比べている、
金属細工師のハンマーを表している。」

比べるというか、比喩としている、
という事だと思う。

Track4.ソナタK277。
この優しい音色ながら、
一筋縄ではいかない感情のソナタが始まる時の、
音色にも、ついつい引き込まれる。
確かに、エマヌエル・バッハみたいな感じである。

次に、いきなり嘆くような歌で始まる、
カンタータ、「フィレ、もう私は語らない」が来る。
もう、この曲なども、チェンチッチの声は、
なめらかで女性的ながら男性の声。

単に、歴史上の存在として興味もなかった、
カストラートの美学がここにあるのは、
よく実感できる。

この曲ではギターやテオルボは出ないようだが、
ピアノの音が、ほとんど、それと同様な、
繊細な音色を奏でている。

Track5.レチタティーボで、
「もう、あなたを不実だ、残酷だなどと言わない。
何故なら、あなたは殺人者」という、
強烈な内容のもの。
しかし、先に解説にあった様式で、
ここでのレチタティーボは、
あくまでも感情を押し殺したような表現。
かえって、リアリティがある。

Track6.アリア。
「あなたが愛の喜びの希望を失ってしまう時、
私を棄てた事を後悔するでしょう。」

切々たるアリアであるが、
アクロバットはない。
天空に消えていくような歌声に、
ただ聞き惚れるような音楽である。

解説にはこうある。
「カンタータ『フィレ、もう私は語らない』の、
2つのアリアは、明解なスタイルの違いがある。
最初のアリアは、優雅な装飾を用いた、
ゆっくりと訴えるようなもので、
メロドラマ的に半音上げた休止を利用し、
ファリネッリの声楽の先生であった、
ニコラ・ポルポーラ(1686-1768)の、
ある種のイタリア・オペラの情景を思わせる、
リズム的には単純な伴奏の上に、長いメロディの弧、
磨き上げられたコロラトゥーラのパッセージがある。」

ここに列挙された美辞麗句のように、
とても癒される美しい音楽である。

Track7.レチタティーボで、
いくぶん、せき立てるような感じ。

さっきまでの「殺人者」扱いから、
えらく矛盾した内容の歌である。

「何が!神よ、あなたから離れているのに、
私の誠実な心はあなたを感じる。」

Track8.ものすごいリズムのアリア。
スカルラッティのソナタそのもののように、
強烈に存在感のあるファンダンゴ風のピアノである。

「私の心だけがあなたを覚えている。
ああ、愛しい人。辛く当たらないで。
でも誰に、誰に言ったの。
あなたの心に似たものが、わたしのものと、
あなたは、いつか言っていた。」

解説にもこうある。
「第2のアリアは、外面的で騒々しく、
やぶれかぶれのものである。
速い三拍子は、ほとんど民族舞踊のようで、
声楽部の大きな跳躍、衝動、責めるような絶叫は、
音楽の残りの部分の語りの休止から切り離されている。
ほとんど、芸術の規則を無視し、
さまざまな表現の自発性と格闘している。」

Track9.ソナタK215。
このソナタは聴いた事がある。
優しく語りかけるような始まり、
そこから、すこしためらいがちな表情を見せ、
しだいに逡巡して、感情が高ぶってくる、
いや、くすぶって来るような音楽。

なるほど、先ほどのカンタータもそんな感じであった。
あるいは、このCDの製作者は、
こうしたソナタの背後にあるドラマを、
こうした形で暗示したかったのだろうか。

この曲でも、この楽器特有の音色が、
最大限にアピールされている。

次は、カンタータ、「どんな感情、どんな燃える願望を」。
これはまくしたてるようなレチタティーボで始まる。
伴奏の編成は、フォルテピアノとチェロ。

Track10.レチタティーボ。
「不実な人よ。あなたは私をまだ、
あなたの無慈悲さを忘れるほど、
弱いと思っているのですか。」

Track11.激烈なパッセージを含むアリアである。
が、最初はそんな事はおくびにも出さず、
瞑想的なチェロとピアノの序奏がただ美しい。

「私の胸にいつも避難所を提供した、
甘い『イエス』の言葉に、
あなたが昔のように楽しむことを知っています。
ああ、不実な残酷な男。言って、違うの。
いま、言いましょう。
もし、あなたの血にまむしの毒を入れ、
あなたが最後の息をしたならば、
その時、『イエス』と言いましょう。」

恐ろしい復讐の歌である。
したがって、中間部からの絶叫はすさまじい。
まくしたて、小休止、まくしたて、声を張り上げる。
まさしく表現主義の世界、
さらに、華麗なコロラトゥーラがあり、
再び、最初の瞑想が来る。

このCDのアリアの中で、最も変化に富むものかもしれない。

解説にはこうある。
「『どんな感情、どんな燃えるような願望』の、
最初のアリアは、内面の混乱に引き裂かれ、
興奮したもの。
スカルラッティの音楽は、
念入りに、元のテクストにある、
矛盾した感情を追っている。
最初のゆっくりしたテンポは、
『不実な』という言葉で、突然、
狂ったようにコロラトゥーラのパッセージを見せ、
オペラの劇性を示唆する。
また、『言って』という言葉を発端に、
異なる色調が施される。
スカルラッティはためらいなく、
このアリアで感情表現の自然さを求め、
『感情の統一』という古いルールを打破し、
大胆に当時の人を驚嘆させたに違いない。」

Track12.レチタティーボで、
優しいピアノのアルペッジョの伴奏が美しく、
そこに、チェロが黒々と陰影をつける。

「でも、私は間違って導かれた。私が訴えた人に?
きっと、不幸な恋人なら私の言葉を聞くでしょう。
すでに後悔した人?」

私は、こうした不実な恋人を訴える歌を歌う、
チェンチッチの声が、女性の声に聞こえて来た。

Track13.高い音域から低い音域に跳躍する、
いかにもバロック・オペラの世界のアリアである。
あるいはナポリ派風という奴だろうか。

焦燥感を募らせて、
じゃんじゃんとかき鳴らされるピアノが、
フラメンコのようだ。

「私から離れて下さい。
あなたの安らぐ場所は獣の中へ。
慈悲を求める嘆願を聴かせて。」

解説にはこうある。
「締めのアリアでは、
8分音符の声楽パッセージの切迫して動き回る感情が
バスのラインと『調和して』、
最初のアリア同様の怒りや暗さ、
恋人の残酷さを表す、脅すような様相を与える。」


Track14.はソナタK77。
これまた、ほの暗い感情に翻弄される音楽。
静かな中に、黒々とした感情が垣間見える。

次は、カンタータ「いいえ、逃げられません、ニーチェよ」。

Track15.はレチタティーボ。
ここは、テオルボだけの伴奏。

Track16.のアリアで、
深々とチェロが入って来るのが美しい。
「美しい人、あなただけに、私は乞うのです。
言って下さい。私が嫌いではないと。」

このアリアはしかし、
それほど変化に富んだものではなく、
美しいチェロと声の線に、
たっぷりと浸ることが出来る。

Track17.レチタティーボで、
「でも、神様、誰が知っているでしょう。
あなたに対する情熱をいかに抑えようとも、
あなたには、小さな事に見えるでしょう。」

ここでのレチタティーボも、
シンプルなもの。
次のアリアの激しさが際だつ。

Track18.テオルボはギターに持ち替えられ、
激しく弦がかき鳴らされ、切迫感のあるアリアとなる。
「あなたが望むように愛せばよく、
ため息だけで語り合えばよい。」

解説には、こうある。
「『いいえ、逃げられません、ニーチェよ』
の第2のアリアは、
同様の質感がある。」

確かに、先ほどの民族舞踊調の高鳴りである。

「支離滅裂な短いフレーズと、
狭い音域のメロディ、
切迫した三拍子でスペイン風に彩色されている。
ここで、バスに動機が出た時、
潜在的なドラマが生まれる。」

間奏や歌の合間に、低音部で動機がちらつき、
宿命的なものを感じさせる。
その中から、ピアノの音色が浮かび上がる、
不思議な効果も絶妙である。

「チェロのカンティレーナを伴う、
表現力豊かな不協和音と、
『哀れみ』という言葉で、
主人公の恩寵を求める足掻きを描くべく、
大規模なコロラトゥーラパッセージを伴う、
優しいなだめるような
最初のアリアとコントラストをなす。」

器楽奏者たちの息の合った競演ぶりもめざましく、
音楽する時間の密度をどんどん高めている。

最後のカンタータ
「覚えておいで、美しいイレーネよ」は、
DVDでも、テーマ音楽として使われている、
印象的なチェロのメロディで始まる。
これは、最初のカンタータ同様、
アリアの間にレチタティーボが挟まった形。

Track19.は、従ってアリア。
「君の冗談に、いかに苦しみ、痛みを感じたか。」

切々と歌われるアリアで、
内容はともかく、ヒーリング効果もありそうだ。
ここでは、器楽部にピアノが参加しないので、
いくぶん、古雅な印象が出ている。

「カンタータ『美しいイレーネよ』は、
同様に抑制された雰囲気で始まる。
ゆっくりと揺れる付点リズムが、
最初のアリアにセレナーデ風の性格を与えており、
あがめているイレーネをなだめるかのようだ。」

Track20.レチタティーボで、
打ち付けてはバラバラになるような器楽部が効果的だ。
「君の遊び、君のため息には平静ではいられない。」

「しかし、この平穏さは見せかけで、
次のレチタティーボでは、
怒りと失望に変わる」と解説にあるとおり。

Track21.は、リズミックではあるが、
苛立ちを隠せないアリア。
「なぜ、ひとときも、
君の甘い声を聴かずにいられないのか。」

解説は、このように締めくくられる。
「最後のアリアでは、歌手は、彼の疑問を、
要求というより、不安を持って恋人に伝える。
聴衆は、彼の心からの懇願が聞き入れられたかどうか、
疑惑をもったまま、苦悩の中に置き去りにされる。」

ここでの器楽は、ピアノ、チェロ、テオルボ。
なだらかな声のラインに対し、
自在に弾奏する背景の色彩も味わい深い。

このように、今回、聴いたスカルラッティのカンタータ集も、
チェンチッチの自然な発声と、
自発的に絡み合う3人の器楽奏者の、
変幻自在な魅惑的な調和によって、
極めて聴き応えのある内容になっていた。

さて、このCDは、DVDも特典で付いていて、
前半は、チェンチッチの生い立ちや、
(名前は、ツェンチッチと発音されている)
現在に至るまでの活動の変遷などが、
貴重な映像と共に語られている。

第一印象としては、このCDの表紙写真とは、
まったく違う真面目に悩む青年の印象だ。

幼い頃から高音に対する特別な愛着を持ち、
ウィーン少年合唱団での活動で、
特に、日本で人気を博したことが、
彼のデビューにつながったということは、
少し、我々、日本の聴衆には嬉しい逸話であった。

が、彼は過度な期待と自身のアイデンティティの問題から、
日本ツアーから逃げ出したと言うから、
何か、嫌な思い出になってなければ良いが。
練習風景なども、真剣そのもので、共感を呼ぶ。
あと、CDもいっぱい持っていて、私は仲間意識を持った。

後半は、CDでも収録されたカンタータの演奏風景で、
1曲まるまると1曲の一部が収められているのが嬉しい。

収録されているカンタータの一曲目は、
CDのTrack10に相当する、
「どんな感情、どんな燃える願望を」全曲である。

どこかの宮廷の一室のような場所で、
歌手と器楽奏者たちが演奏しているが、
チェンチッチは、歩き回ったりしているのに、
音の定位は問題ないので、
おそらくは口パクであろう。

器楽を演奏している美男美女たち、
この方々は、CDの人と同じなのだろうか。
ただ、日本のファンが気になる今村泰典のパートは、
何故か、外国人男性がやっている。
どういう事だ?

この曲は2曲目がバロックギターで、
4曲目がテオルボだということだが、
DVDでは、テオルボしか映っていない。

ピアノとチェロは若い美人が弾いていて、
これが、このCDにおける、
二人の演奏者に相当するのか、ネットで画像検索したら、
かなり違うことが判明。

解説のどこを見ても何も書いていないのである。

室内の調度をもっと写せ、
器楽奏者をもっと写せと言いたくなる程、
室内には大胆な壁紙が描かれ、奏者は見目麗しいのだが。

二曲目はCD収録最後のカンタータ、
「覚えておいで、美しいイレーネよ」の第1曲である。
ここでは、男性のテオルボ奏者と、
女性チェロ奏者が向かい合って座って演奏。
遠くからチェンチッチが登場して歌い出す。
CDとは編成が異なるので、
演奏も違うということか。

しかし、この王宮の室内の装飾類に囲まれて、
何と、美しい音楽のひとときであろうか。

得られた事:「ピアノフォルテを伴奏にカンタータを書くのは、スカルラッティにとっては自然な成り行きであった。」
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by franz310 | 2012-01-21 21:41 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その311

b0083728_2313246.jpg個人的経験:
前回、ウィーン少年合唱団の歌う、
シューベルト作品について聴いたが、
天才的なボーイ・ソプラノ
と言われていたらしい、
マックス・エマヌエル・チェンチッチ
が歌う、独唱曲に関しては、
やや違和感なしにはいられなかった。
特に、オペラ歌手のために書かれた
「岩の上の羊飼い」などを、
何故、少年が歌う必要があったのか。


その録音が1989年であったから、
2002年の録音であるとすると、
13年の時が経過している。

何と、チェンチッチ君は、カウンターテナー歌手として、
表紙写真に、さっそうと立っているではないか。
そんなCDをたまたま発見して購入してしまった。

何だか、バレエ・ダンサーみたいな、
ぴったりした衣装が不気味であり、
背景が赤いのが、さらにヤバい感じで、
最初は、少し躊躇した。

ドメニコ・スカルラッティは、
無数のピアノ小曲で有名な人であるが、
年末に、「サルヴェ・レジーナ」を聴いて、
声楽曲も素晴らしいと思い、
こうした機会があれば、もっと、聴いてみたいと思っていた。

そんな流れが背景にあって、
この作曲家の作品を集めたこのCD、
即刻購入である。
ドイツのカプリッチョ・レーベルのもの。
これなら、録音も含め、期待は出来ると見た。
怪しい写真にふさわしく、
「愛のカンタータ集」となっている。

したがって、本来、今回は、
シューベルト編は少しおやすみ。

それほどまでに、このCDの
スカルラッティのカンタータの演奏は、
取り上げずにはいられない程の内容だった。

少年合唱の声の技術と、カウンターテナーの声の技術が、
必ずしも同じとは思えないのだが、
まだ20代半ばにあると思われる彼の声は、
非常に自然で伸びもつやもあって、
しっとりと演奏に身を委ねることが出来る。

しかも、彼の歌唱に対して、
活発な絡まり合いを見せる、
オーナメンテ99という団体の、
変幻自在の活躍ぶりはどうだろう。

このCDの魅力の半分は、この器楽集団の、
素晴らしい活力と流動感にあると断言して良い。

しかし、この表紙の顔、どこかで見た事がある。
実は、私は、彼のCDを他にも持っていたのに、
これまで、少年時代の経歴までを知らずにいた。

今回は、そこに触れると帰って来られなくなるので、
このCDの紹介に注力する。

解説は、ここで指揮をしている、
Karsten Erik Oseという人自身が書いている。
ネット検索するとフルートを吹く人の写真が出て来るが。

「ドメニコ・スカルラッティによる4つの『愛のカンタータ』」
と題されている。

「ドメニコ・スカルラッティは、
1685年10月26日、
当時、最も重要な作曲家であった、
アレッサンドロ・スカルラッティの息子として、
ナポリで生まれた。
ドメニコもまた、音楽家として、
めざましいキャリアを築くことになった。
今日では、音楽愛好家は誰でも、
ピアノのための無数のソナタ群を思い浮かべる。
ドメニコは、家族や友人たちから、敬愛を込め、
『ミンモ(Mimmo)』と呼ばれていたが、
彼もまた、実際、
自身をオペラとカンタータの作曲家と考えていたが、
その事実は忘れられたも同然である。
彼の劇場作品は、音楽的内容ばかりか、
独自の、時にエキセントリックな語法も、
ここに収められた4曲でも明らかであるが、
そのピアノ曲に劣るものではなく、
このことはたいへん惜しいことである。
1740年頃の作曲と考えられる、
これらはドメニコの後期の作品であって、
当時、スカルラッティは作曲家として、
または、演奏者として、波瀾万丈の人生を、
回想することが出来た。」

ということで、1685年生まれの
スカルラッティであるから、
55歳頃の作品であることが分かる。

「自然にミンモは、最初のレッスンを、
父親のアレッサンドロから受けるようになった。
1701年、わずか16歳の少年は、
ナポリ王室のオーケストラに入り、
オルガン奏者、作曲家として、
父親の指導を受けることになった。
わずか二年後には、二つのオペラ、
『Ottavia』と『Giustino』が、演奏されている。」

音楽一家で、当然のように、
この道に進まされる例は、
ヴィヴァルディ、モーツァルトなども同様、
チェンチッチも同様の身の上。
これはこれで、悩ましい状況であろう。

「1705年から1708年の間、
ヴェネチアで、フランチェスコ・ガスパリーニに学び、
翌年、ローマに最初の勤め口を見つけ、
ポーランドのマリア・クリスティーナの、
プライヴェートシアターの音楽監督となった。
彼は、ここの音楽隊のために、
少なくとも7曲のオペラを書いた。
女王がローマに移ると、
1714年、ポルトガル大使に音楽監督として仕え、
ヴァチカンの『ジュリア礼拝堂』のために働き、
1720年からは、リスボンのポルトガル王、
ジョアン5世の元で働き、
マリア・バルバラ王女のピアノ教師に任じられた。
やがて、彼女は、1729年にスペインの王位相続者、
フェルナンドと結婚し、
ドメニコは彼女についてセヴィリャに行き、
最終的に1733年、マドリッドにある、
フィリップ5世の宮廷で働いた。
彼はそのキャリアの頂点において、
ポルトガルの騎士に任じられ、
その栄誉に感謝して、30曲の『チェンバロ練習曲』を、
王に捧げた。
事実、スカルラッティのほとんどのピアノソナタは、
ここに聴くカンタータと同様、スペインで作曲された。」

私は、スカルラッティがポルトガル、
スペインに移り住んだことを混乱していた。
ナポリはスペイン領だったこともあり、
イタリアからどちらかの国に移り住んだイメージだったので、
今回、これを読んで訂正することが出来た。

「今回の録音は、今日まで残っている、
ドメニコ・スカルラッティの手稿の残る、
8曲のカンタータをもとにしている。
現在、それはヴィーンにある、
オーストリア国立図書館に保存され、
スペインからのものである。
スペインからヴィーンに来た一つの理由は、
これらのカンタータがメタスタージオ(1705-82)
によるものだからと考えられ、
彼は台本作者としてヨーロッパを風靡し、
ヴィーンにいた皇帝カール6世に、
宮廷詩人として迎えられた。
彼の最も親しい友人は、
他ならぬ伝説のカストラート、
カルロ・ブロスキ(1705-82)、
通称『ファネッリ』で、
彼はスカルラッティのわずか2、3年後に、
スペイン王宮に迎えられていた。
ここで、彼の務めは、超人的な歌声で、
憂愁に沈む、悩み多き王様の心を、慰めることであった。
毎晩、ファリネッリは、最も華麗なアリアを4曲、
同じ歌を何度も何度も歌わされたとされる。
それが本当であるかはともかくとして、
続く10年間、彼は王に仕え、
彼の音楽レパートリーは、
『音楽の薬』であるこの4曲に、
限られてしまったといっても良かった。
それは、この間、ファリネッリは、
次第に公開演奏から遠ざかって、
彼を心から信頼していた君主から与えられた、
政治的事柄に専念するようになった。
1746年のフィリップの死後も、
かつては全ヨーロッパ中のステージを総なめにした
トップ歌手も、次の君主フェルナンドと、
その妻で、長年のピアノの生徒であった、
マリア・バルバラの宮廷での内輪でしか歌わなくなってしまった。」

スカルラッティの話かと思ったら、
メタスタージオから、
ファリネッリの話になっているが、
成る程、スペインの宮廷で、
現在でも名声を残す二人の音楽家は、
何らかの関係があったようである。

「スカルラッティは、ここに収録したカンタータを、
そのような機会に、特にファリネッリのために書いたと思われる。
この歌い手と巨匠は、生涯を通じて連絡をとっており、
彼等の関係からして、
テキストは歌手が自ら提供したと考えられる。
ここに収録されたカンタータを詳細に見ていくなら、
この仮説ももっともらしく思える。
スカルラッティは、声のリフレインを、
メロディアスな弧を描き、
ぞくっとするようなコロラトゥーラを駆使し、
ことさら技巧的に書いている。
年配で、成熟した歌手の芸術的可能性を考慮し、
異なる感情表現の高度な洗練を強調している。
1705年に生まれたファリネッリは、
40歳の誕生日を迎え、
その芸術の頂点をすぎていた。
しかし、このような制約はあっても、
スカルラッティのカンタータが、
妥協の産物だというわけではない。
反対に、その制約の中に、
作曲家の卓越した技法を、
そのピアノソナタ同様に見ることができる。
さらに、一見して、明らかに超絶ではない歌唱パートの扱いは、
18世紀中葉において、激しく求められた、
より自然さを求めており、
これはスカルラッティの作風における、
革新的なものの基礎となっている。
彼等はテクストを絶対的に広範に眺め、
詩的なモデルに対し、
ほとんど心理的な理解にまで至っている。」

成る程、このCDを初めて聴いた時、
カウンターテナーによる歌唱であるにも関わらず、
ほとんど、不自然さを感じなかったのは、
このような背景にて出来た楽曲だったからなのだ。

従って、このCDの魅力を、チェンチッチと、
オルナメンテ99の演奏にばかり帰するわけにはいかない。
ドメニコ・スカルラッティの熟達の書法の魅力が半分を占める、

「メタスタージオのテクストを見ると、
作曲家に対して、興味深い挑戦を強いていることが分かる。
最初の曲と最後の曲の構成は、
ステレオタイプのレチタティーボとアリアという、
オペラ・セリアの慣習的なパターンに即しているが、
しかし、その内容は、愛の喜びと痛みによって、
引き裂かれ、荒廃した魂の状態を表している。
しばしば、憧れや怒り、希望や失望といった
相反する感情が連なり、
感情の性格の生々しいイメージが反映されている。
このような主題の心象は、古い、判で押されたような、
ありふれた個人描写を、意識的に打ち破る。
ためらい、不安に思い、口ごもりながら、
導入部アリア『私は言いたい』で、
愛する男は恋人に、自身の心の説明を試み、
『セレナーデ』を歌う前に、
すでに声も絶え絶えになっているようだ。」

これは、Track5であって、
第2曲『Dir Vorrei(私は言いたい)』の
冒頭の話である。

ここでは、軽妙な木管の絡み合いに、
チェンバロなどのぱらぱら音の通奏低音が、
唐草模様のような不思議な音響空間を描き出す。

「私は言いたい。私は顔を赤らめる。
いや、言いたくない、あなたは知っているはずだ」
と恋する男のためらいを、
この伴奏部は茶化しているようだ。
この器楽部はかなり長い間奏曲にもなる。

「続く、レチタティーボでは、彼は、内面を見つめ、
聴衆に、最も親密な感情を開陳する。
高揚し、沈みこみ、最後には、
最後のアリアで、感情を爆発させる。」

Track6.では、このレチタティーボで、
「愛らしいニンフよ。
どこにいても、私はあなたの遠くに感じる。
私のすべてが分かるように、
何千もの言いたいことがあるのに」
などと、激情を高ぶらせる。

「聞き入れられるか、捨てられるか分からずに」と、
解説にはあるが、
Track7で、
「地獄のような激情が私の心の中にある」
などと歌われる、アリアのリズミックな感じは、
確かに、彼のピアノソナタで聞き取れるものと同様、
推進力があって明るいようにも思えるが、
何やら、切迫した焦燥感がある。

楽器の強奏や叫ぶような表現など、
極めて表現主義的な様相を呈している。

「カンタータの、そして内容の詩句の間の
劇的な繋がりを想定すると、
表現力豊かな作品、『時に眠りの中に』は、
『私は言いたい』に続くものである。」

このCDでは、ちゃんと続けて演奏されている。

Track8.
この曲では、カンタータへの序曲として、
2分半ほどの器楽曲が付けられている。
めまぐるしく、交錯する木管が、
怪しい綾をなし、この曲のもんもんとした感じ、
陶酔感のようなものを描き上げていく。

この曲はピアノソナタにそのまま編曲できそうな曲想である。
まさしくスカルラッティの印章が押されている。

Track9.
何故か、「メヌエット」とある。
悩ましい弦のモノローグが、
切々と、しかも長々と歌われる印象深いもの。
このような所も、ピアノソナタの世界では、
垣間見えていたものかもしれない。

Track10.
「眠りの中で、たびたび愛しい人が現れて、
私の嘆きを慰めてくれる。
愛よ、現実をこれに近づけて下さい。
さもなけば起こさないで欲しい」という、
漢詩にでもなりそうな世界。

先のメヌエットの情感を残しながら、
彼は、夢とうつつの境にある。
あああああ、あああーと悩ましい歌が、
耳に残る。

解説にはこうある。
「夢や眠りの領域に入り込み、
歌い手は、ライヴァルが近づいていて、
立ちはだかるという、狂おしい暗い猜疑の前に、
彼の愛の陶酔に浸る。
この眠りの中にしか、愛は充足することはない。
苦々しい現実は違う。」

ということで、続くTrack11は、
激烈なレチタティーボとなる。
「夢の錯乱、愛に満ちた調べよ。
あなたの美しい目には憐れみがあった。」
という部分から、
「私はライヴァルを見た」という部分まで。

Track12は、嫉妬に燃えるアリア。
「幻覚と喜びは影となって消えたが、
私の炎は消えはしない。
眠りは私を幸せにしたが、
翌日には苦しみは増しているのだ」という、
やるせない歌であるが、
リズミックに木管のメロディが飛び交う中、
歌は、時にコロラトゥーラを散りばめながら、
興奮し高揚していく。

暗い情念と、夢見心地が共存した複雑な歌である。
カウンターテナーの性別不詳の歌唱が、
怪しげな感情を呼び覚ましていくかのようだ。

解説は、このCDの一曲目、
「血で書いた」の話に続く。
先の2曲は、変則的な形式であったが、
このカンタータは、お決まりの、
レチタティーボとアリアの繰り返しで出来ている。

「拒絶され、激しく傷つき、
彼は、血のしたたりで愛を書き付け、
運命と口論し、もう一度、彼女に彼の大きな愛情を示すが、
それに対する返答はなく、すっかり信念を失ってしまう。」

Track1.レチタティーボ。
テオルボの沈んだ伴奏の上に展開される、
激しい独白で、情念をぶつけるように歌われる。
通奏低音の嘆きも深い。

「血で書いた裏切られた心の苦しみの言葉。
この嘆きと魂を読んで下さい。
泣きうめいた果実です」などと、
実に女々しい内容であるが。

Track2.アリア。
霊妙な弦楽と木管の絡まりの中、
押し殺したような声が響いて来る。
「あなたは私をあなたのものと言うが、
私はあなたのものではない。
私があなたを愛していることは知っているでしょう。
しかし、あなたは、私をもはや愛してはいない。」

途中、慰めのような音楽が挟まれる。

Track3.レチタティーボ。
じゃじゃーんと音の塊が響く。
「私の苦しみの力のすべて以上に、
他の恋人の、たった一つのため息が、
あなたをつなぎ止める。
暴君よ、あなたは、すでに恋人の腕の中。」

Track4.アリア。
穏やかな序奏で、安らぎが近いことを暗示する。
「あなたが、私を『我が心』と呼ぼうとも」という部分。
しかし、次の瞬間、アリアと言っても、
ほとんどレチタティーボのような怒声となる。
「私はあなたを、残酷な暴君、恩知らず、と呼ぶだろう」
という詩句にぴったり一致している。
同じ言葉を繰り返して絶叫したりしなければ、
ほとんど、シューベルトの歌曲と同様の心理描写だ。

ピアノソナタで有名な、ドメニコ・スカルラッティ、
このような声楽曲にも、大きな足跡を残していた。

「最後のカンタータ、『偽りで騙して書いた』において、
やがて、彼はついに過ちに気づき、
その拒絶を受け入れようとする。
やがて、怒りが心を満たすが、
平和とあきらめへの静かな憧れに道を譲る。」

Track13.レチタティーボ。
声を振り絞るように、序奏なく曲は始まり、
「偽りの心で書かれた手紙を私は読み、じっと見つめた。
そこに見たのは裏切りだが、私にため息はない。
私は過ちに泣く。」

Track14.アリア。
いくぶん柔和な音楽で、ギャラントですらある。
「あなたの言う言葉の意味は何ですか。
あなたは私を欺き、私はそれを許したのです。」
弦楽が交錯し、寛大な慈悲を感じさせる。

Track15.レチタティーボ。
ここは、再び影が差し、
激しい詰問調である。
「言って下さい。嘘つきの舌で。
聴きなさい、不誠実な人よ。
もうあなたの愛はいりません。」

Track16.アリア。
この楽章の伴奏は、最初の方は、
きいきいと言うだけで、あまり精彩がないが、
途中、激烈なパッセージを繰り出し、
推進力を増し、最後に力を落とす。
「愛する人よ、私の唇から、
平安な言葉を望むでしょうが、
怒りの返事には憤怒の炎しかないのです。
裏切り者の嘘つき。悪いペテン師。」

解説にあるような平和な心境ではなさそうだが、
音楽は消えるように終わっている。
この曲が一番シンプルで、11分程度。
伴奏部の特徴もあまりない。

この歌の主人公は女性のようであるが、
カウンターテナーの声で聴くと、
そういった性別を超越した世界となる。

「スカルラッティの曲付けは、
詩句の輝きに逐次反応して、
音の効果が絶妙である。
特にレチタティーボにおいて、
作曲家は、ハーモニーにおいて調性の限界に導き、
複雑な主人公の魂の深さを照らし出す。
アリアにおいては、動機の統一もなく次々と、
短いメロディが、大きく跳躍して、
風変わりで、カンタービレに欠けるが、
これが恋人の不安定さや移り気を伝える。
望みが変化して魅惑された主人公の運命は、
絶え間なく彼の回りを旋回するが、これが、
すべてのカンタータの構成に明らかに表現されている。
器楽も歌手に寄り添うのではなく、
彼を模倣し、彼の嘆きを向かい合い、
あたかも、彼を彼自身に投げ返し、
内なる牢獄の望みのなさに、
容赦なく直面させるようである。」

なるほど、うまいことを言う。
スカルラッティのカンタータの伴奏は、
ギリシア劇のコロスのようなもので、
歌い手の運命の冷静な批評家のようなものと見た。

最後に、指揮者としての見識を示して、
この充実した解説は締めくくられる。
私は、この辺りの正確な部分は、
まるでよく分からないので、
かなり意訳するしかなかった。

「歴史的な創造と演奏の背景に対し、
スカルラッティのカンタータの、
その内容や表現上、音楽の集中力からして、
この録音には、男性による高音のみが適合すると思われた。
『歌手の喉』に適合するように、
残されたソプラノ・パートは、
ほんの少しだけ、低くしてある。」

カストラートで演奏するわけにはいかんが、
女性によるメゾ・ソプラノでは駄目よ、
という感じであろうか。

以前、ジュノーのCDで、ルネ・ヤーコブズが、
カストラートは、メゾで対応すればいいんだ、
と力説していたのとは反対の主張である。

「同様に、歴史的に、
スペイン、オーストリアの宮廷で行われていたように、
弦楽部はリコーダーで豊かにした。
すでに、フラウト・トラヴェルソが流行として現れていたが。
フラウト・ドルチェと呼ばれたリコーダーは、
愛の楽器として常に使われ、
様々なサイズとチューニングが、
色彩を変化に対応した。
こうした傾向への想像力に魅了され、
楽器編成による装飾を行っている。」

改めて冒頭から聴くと、弦楽だけだと、
これまで骸骨のような音色になりそうなところ、
リコーダーの膨らみのある音が補助し、
血が通ったような色彩にしている。

このような想像力を、歴史的な実績と絡めて正当化することが、
はたして、どのような意味を持つのか、
私には判断できないが、
極めて美しく精緻な伴奏部が私を魅了したことは、
冒頭に書いたとおりである。

また、ウィーン少年合唱団は、
かつて、シューベルトなどを生んだが、
近年、誰か、有名人を生み出したか、と、前回書いてみたが、
ここに聴く、チェンチッチのような歌手を生み出していた。

得られた事:「ドメニコ・スカルラッティは、そのカンタータにおいて、楽器部を、声楽に対抗する代弁者のように扱った。」
「D.スカルラッティは、メタスタージオとの関係で、ヴィーンにも関係を持っていた。」
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by franz310 | 2012-01-14 23:15 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その310

b0083728_187466.jpg個人的経験:
シューベルトが書いた
聖母マリアのための宗教曲、
「サルヴェ・レジーナ」は、
こんなCDに入っているんだ、
という感慨を共有したい内容。
前回は、サヴァリッシュ指揮の
宗教曲全集から、同名の作品、
17歳の時の変ロ長調D106、
一年後のヘ長調D223を聴いたが、
私は他のCDを入手できていない。


D106は、じゃじゃじゃじゃっというリズムが執拗な、
テノール独唱の作品で、
シュライヤーの録音があるようだが未聴。

D223は、より優美で晴朗なソプラノ独唱のものだった。
日本盤の解説(藤本一子)には、
「これは美しいサルヴェ・レジナ!」と感嘆されていたものの、
他に録音があるかは知らない。

サヴァリッシュのCDは、
最近、廉価盤になって、大量に廉価に出回っているので、
それを購入するのが、現時点では最も良い選択だろう。

同じシリーズでばかり聴くのもいいが、
今回聴くのは、私が好きなフィリップス・レーベルのもの。

何と、ウィーン少年合唱団を取り上げたCDに、
ちょろっと入っている「サルヴェ・レジーナ」がある。

Track6.シューベルト19歳の時、
1816年作曲の、やはりヘ長調D386である。
これまでの作品が独唱曲であったのに対し、
合唱曲である。

伴奏もなく、楚々としたあっさりした内容。
しかも、歌詞はラテン語ではなくドイツ語となっている。
この作品は、至純な魅力で、
これまでの作品とは異なる切り口の内容。

高名な少年合唱団の清純な魅力をアピールするには、
かっこうの内容である。
しかし、短い。
3分程度で歌っている。

とはいえ、歌詞にほとんど省略はなく、
「あわれみの母、我らの命」から、
「涙の谷にあなたを慕う」を経て、
「イエズスを見せてください」も歌われ、
「喜びのおとめマリア」まで、
バロック時代の組曲風ではなく、
通しで、素朴に歌いきっている。

わずかな陰影が施されるだけで、
ここに聴く少年合唱団の歌声は、
非常に清潔な感じがする。

この曲は、当然、サヴァリッシュの全集にも入っていて、
大人の合唱(バイエルン放送合唱団)の演奏だ。
しかし、この二つの演奏を聞き比べると、
少年合唱団の歌の方が泣ける。

歌詞を見ていただきたい。
「旅路から、
あなたに叫ぶエバの子、
なげきながらも、
泣きながらも、
涙の谷に あなたを慕う」(高橋義人訳)
とあり、
幼子が集まって、母を慕う歌と見ると、
妙な生々しさが、こみ上げて来るではないか。

サヴァリッシュ盤は、この後聴くと、
何だか合唱コンクールみたいな感じになる。
丁寧に上手に歌おうというと言う気持ちは分かるのだが。

私は、ウィーン少年合唱団と聴くと、
「野ばら」や「菩提樹」ばかりを聞かされるイメージがあって、
この曲が収録されていなかったら、
絶対にこのCDには、手を出さなかったであろう。

セーラー服を着て並んだ子供たちが笑顔で並んでいる表紙が、
そもそも硬派の聴くカテゴリーとは思えない。
こんなCDを紹介するのは、ちょっと屈辱ですらある。

が、このCD、実は、硬派なところがいくつかあって、
モーツァルトの珍しい「キリエ」が2曲(K.322、341)と、
シューベルトのD386の「サルヴェ・レジーナ」の他、
さらに2曲の宗教曲が収められていて、
録音の機会が稀少な作品を味わえるのである。

特に、「サルヴェ」の後に入っている、
Track7.「タントゥム・エルゴ」D962は、
非常に美しい作品と演奏である。

このドイッチュ番号を見て貰っても分かるが、
かなり晩年の作品と思われる。
簡素なオーケストラ伴奏(ウィーン・フォルクスオパー)が、
要所要所で木管の優しさで彩り、
ホルンの深い響きで呼応して、
自然の中で、立ち上る宗教的感情を想起した。

歌詞は、ラテン語で、
「偉大な秘蹟を伏してあがめよう」という、
かなり教条的なものであるが、
「どうか信仰が感覚の不足を補いますように」
という素朴な部分もある。

サヴァリッシュの演奏でも、
CD4のTrack7に収められている。
ここで、びっくりしたのは、
合唱曲ではなく、独唱者4人が共演している点で、
いきなり歌われ出すのは、独唱者群であり、
その後、じわじわと合唱がこみ上げて来る。
テンポもゆっくり取られていて、
非常に荘重な作品になっている点である。

ティンパニもものものしい。
日本語解説には、
「シューベルトが書いた最後の作品のひとつ」とあり、
アルザーシュタットの教会から依頼されたとある。
「後期の崇高様式がこの章にも浸透している」
とも書かれている。

ここでの歌手の名前を見て驚く。
ルチア・ポップ(ソプラノ)、
ブリギッテ・ファスベンダー(アルト)、
アドルフ・ダッラポッツァ(テノール)
フィッシャー=ディースカウ(バス)
という超豪華版。
4分に満たない作品ながら、濃い。

歌詞の内容、
「父と子に
賛美と喜びがありますように
幸、名誉、力
そして祝福もありますように」
という部分は、子供向けではあるまい。

とはいえ、少年合唱団の方も、
神秘的な内容をくみ取って検討している。


少年合唱団のCDには、あと1曲、
Track8に、
オッフェルトリウム「心に悲しみを抱きて」
ハ長調D136が収録されている。

シューベルトの宗教曲をこんなに集めたCDも珍しい。
ここでは、マックス・エマニュエル・チェンチッチ君が、
ソプラノ独唱者として力演し、
エルヴィン・モンシャインがクラリネットを吹いている。

この作品は、比較的良く歌われるようで、
私は、他にもCDを持っている。

サヴァリッシュ盤の日本語解説には、
テレーゼのために書かれた作品としていて、
「若者の愛が屈託なく幸せにひろがってゆく」
と書かれていたが、
ものすごく技巧的な作品で、
ちょっと少年、といっても、
声変わりする前なので児童みたいな歌い手には、
苦しい感じがするがいかがであろうか。

歌詞の内容は、
神の愛が輝いているから、
私は疲れていても、罪を犯さず、
地獄によってぐらつかされることはない。
私を天国から引き離すことはできない。」
というものである。

ものすごく繊細な透明な高音が魅力だが、
ちょっと児童虐待のような感じがする。

これは、前回、サヴァリッシュ盤で、
CD5のTrack4に、
「疲れた私の心の中に」として収められていたもの。
ヘレン・ドナートのソプラノに、
ブルンナーのクラリネットの助奏がついていた。
遙かに安心して聴けて、技巧に酔うことが出来る。
テレーゼの歌声を想起するには、こちらで良い。

とはいえ、私としては少年合唱の起用は嫌いではない。
モーツァルトの「レクイエム」のシュミット=ガーデン盤や、
フォーレの「レクイエム」のコルボの旧盤は、
非常に美しい録音であった。

これらの諸盤と決定的に異なるのは、
ここで紹介しているのが、いかにもの写真を表紙にしている点だ。
作品よりも、合唱団の都合で決まっているように見える。
フィリップスのこの企画も、別のデザインにすれば、
もっと他の聴衆を呼び込むことが出来たであろうに。

再び、このCDの収録曲の話に戻ると、
さらに極めつけは、シューベルト時代の宮廷楽長アイブラー、
(サリエーリの後任で、
モーツァルトの「レクイエム」完成を依頼された人)の、
「グラデュアーレ」が演奏されている点が渋い。

ただし、私としては、このフィリップス盤のような、
バッハのカンタータの切れ端や、
フォーレの「レクイエム」の「ピエ・イエズ」だけを、
ちょろちょろ入れた企画は、やはりうさんくさい感じを受けてしまう。

中味を吟味しても、ちぐはぐな感じがなくはない。
例のモーツァルトの「キリエ」などには、
CHORUS VIENNENSISという大人コーラスが参加しているし、
合唱団ではなく、独唱者として子供が歌う場合もある。

もう一つ、うさんくささを挙げると、
5曲が1993年10月のコンツェルトハウスの録音、
3曲が1990年7月、4曲が1992年9月の、
ホフブルクカペレでの録音。

1990年7月の3曲は、ハラーの指揮、
その他はマルシックの指揮である。
ややこしいことに、プロデューサーとしても、
高名なエリック・スミス(さすがにモーツァルトは彼)と、
ジョブ・マースという人の二人が名前を挙げられている。
寄せ集めCDなのであろう。

シューベルトの3曲のうち、「タントゥム・エルゴ」D962は、
エリック・スミスによるが、
(コンツェルトハウス録音)
「サルヴェ」ともう1曲、
オッフェルトリウム「心に悲しみを抱きて」D136は、
マースのプロデュースである(宮廷礼拝堂録音)。

さすが、モーツァルトの研究家としても著名な、
スミスの手がけたものだけあって、
2曲のキリエ録音は、様々な問題提起をしている。

これは、この少年合唱団のファン以外を呼び込む効果もありそうだ。

というのは、両曲とも問題の作品で、
カルル・ド・ニ著の「モーツァルトの宗教音楽」
(白水社文庫クセジュ)によると、
K.322は、モーツァルトがマンハイムで、
選帝侯のお目通りをよくするために書き始めた野心作の切れ端で、
K341は、「『ミュンヘンのキリエ』という傑作」ということで、
未完成作品ながら、普段、聴けないながら、
モーツァルトの研究家が特筆しているものが、
ここで聴くことが出来るのである。

ミュンヘンは言うまでも無く、
就職活動を行った街であるので、これまた野心作である。

いずれも、野望を持って書き始めたのに、
当てが外れて筆を折った作品と思われる。

思い出すと、シューベルトにも、
「キリエ」の断片が数多く残っている。

キリエの歌詞は単純で、
「主よ、あわれみたまえ。
キリストあわれみたまえ。
主よ、あわれみたまえ。」
しかないから、手を付けやすかったのだろう。

通常のミサ曲では、この後、
「グローリア」が続くが、
これは、ヴィヴァルディが、単独の作品としたように、
歌詞も長大なもので、
「天の高きところに神の栄光」から、
「神の小羊、父の御子よ」とか、
「世の罪を除きたもう主よ」など、
いろんな内容が出て来る。

キリエまでは、比較的簡単に書き出せ、
さて、次、となると、かなり敷居が高くなったのではないだろうか。

Track1.の「キリエ」変ホ長調は、
この調性にふさわしく気宇壮大な序奏部に続き、
きよらかで荘重なメロディが流れるもので、
大人合唱に、少年独唱者も出入りして規模が大きい。
ちなみに、最終補筆完成は、シュタッドラーらしい。

しかし、この曲の野心的な性格を考えると、
例えば、ケーゲルが演奏した、
ライプツィッヒ放送交響楽団の方が、
ずしりと来る。

このCD最後の
Track12.の「キリエ」K341は、
ニ短調という悲愴な調性で、
かなり、ど迫力の作品である。
先ほどの作品が4分半に対し、
こちらは7分半の大きさを誇る。
ここまで長大な「キリエ」は珍しく、
モーツァルトでも類例はなく、
シューベルトでは、「第1ミサ」がこれを凌ぐのみ。

こちらの場合、いきなり大人合唱団が、
ずしんと来るし、管楽器の強奏もあって、
少年合唱団の影が薄くなっている。
中盤で、少年合唱が登場するところは、
至純な美しさが出ている。

このように、シューベルトとモーツァルトの、
知られざる傑作を聴く上では、
そこそこに貴重なCDになっている。

子供たちがかわいく微笑んでいる写真から、
まさか、モーツァルト最大規模の「キリエ」が聴ける、
などと予測して買う消費者がいたかどうかは不明。

プロデューサーのエリック・スミスも、
出て来た製品を見て、のけ反ったりしなかったのだろうか。

ついでながら書いておくと、
この時期の録音ゆえ、日本盤「神への祈り」の収益は、
阪神大震災に寄付されたという。

原題は、「Secred Songs」なので、
私なら、「聖なる歌」としたくなるが、
さらに売れそうな、うまい意訳である。

このように様々な仕掛けがなされた、悩ましいCD。
本当に、クラシック音楽のCDは、
どうすれば売れるのであろうか。
そんな事まで考えさせられる。

結局、フィリップスは、こうした事業から、
撤退してしまったわけであるし。
フィリップスを潰さない手はなかったのだろうか。

思い返せば、私は、
フィリップスというレーベルに育てられたようなものだ。

あと、もう一つ、いかにも軟弱なイメージのある、
このCDの硬派の部分を付け加えると、
海外盤の解説である。

シューベルト・ファンも喜ぶような重要記述あるので、
特筆しておきたい。
ただし、書いた人の名前はどこにも出ていない。

「ウィーン少年合唱団の国際的名声は、
ヨーロッパ随一にランクされる合唱の水準のみならず、
みごとにトレーニングされた
メンバーの独唱者としての
音楽的、技術的な熟達ぶりによるものである。」

と唐突に、ここでの独唱者たちへの賛辞から始まる。

しかし、改めて見直してみると、
ドイツ語は、「ウィーン歌手少年」とも読め、
「ウィーン少年合唱団」は正確ではないのかもしれない。

「この合唱団の歴史は500年以上に遡り、
1498年、マクシミリアン一世が、
宮廷礼拝音楽堂を作った時に、
合唱団を併設した。
多くの傑出したヴィーンの音楽家たちが、
この合唱団のメンバーとしてキャリアを始めた。
最初の合唱団員の一人、
ルートヴィヒ・ゼンフルが、
後に宮廷楽長になった。
最も有名な合唱団員は、フランツ・シューベルトで、
彼は、1808年にウィーン少年合唱団のメンバーになった。
彼のソプラノ独唱者としての後任は、
ゲオルグ・ヘルメスベルガーであった。」

ゲオルグって誰?といきなりなる部分。
有名なヘルメスベルガー四重奏団を組織した、
ヨーゼフ・ヘルメスベルガーの父親である。

この人は、1800年生まれというから、
3歳だけシューベルトより若い。
確かに声変わりした要因の代役では、
これくらいの年の差になるかもしれない。

やはり、高名なヴァイオリニストになり、
ヴィーン国立オペラのオーケストラでは、
シュパンツィッヒの後任であった。

シュパンツィッヒは、ベートーヴェンやシューベルトの
弦楽四重奏を初演したので有名な四重奏団を組織していた。

このように、シューベルトを、
びしっと出してくれているのが良い。

「他にも有名メンバーとしては、
カール・ツェラー、ハンス・リヒター、
フェリックス・モットル、
クレメンス・クラウスらがいた。」

このように、知る人ぞ知る、
作曲家や指揮者を並べるあたりが憎い。
モットルは、シューベルトの作品の編曲でも知られている。

しかし、ちょっと古い人たちばかりなのが、
気になるところだ。
最近は有名人は出て来ていないのだろうか。

「1918年まで、合唱団の主業務は、
帝室礼拝堂でのおつとめの音楽担当であったが、
オーストリアの帝政が終わると、
ヨーゼフ・シュミットによって合唱団は、
再組織され、新たに宮廷楽団に編入された。」

宮廷がなくなったのに、
それでも宮廷楽団となったというのは、
変な話だと思ったが、
「Hofmusikkapelle」で検索すると、
ウィキペディアでも、
宮廷礼拝堂で演奏する団体と出て来る。

「第一次世界大戦の後、
まずオーストリアで、のちに他の場所でも、
公開演奏会も開始した。
第二次大戦後には、さらなる再スタートがあった。
寄宿学校が併設され、
16世紀に出来たアウガルテン宮殿内に、
住まいを設け、ここで厳格な音楽教育を少年たちに施す。
10歳から12歳までの約150人の少年たちが、
4つの合唱団に分けられている。」

10歳から12歳だと、
ほとんど中学生以下ではないか。
こんな時期になされた音楽教育が、
将来、残りの人生のどれぐらい役に立つのか、
確かに疑問ではある。

シューベルトの場合も、改めて調べると、
11歳から在籍したようだが、
当時は栄養が悪かったのか、
15歳まで声変わりせず、
その翌年まで在籍できたようである。
これだけいると、オーケストラの指揮も出来たし、
サリエーリの指導も受けられたりで、
かなり収穫があったものと思われる。

「各合唱団は、順次、
3ヶ月に及ぶ毎年のツアーに出かけ、
主にスイス、ドイツ、スペイン、ベネルクス各国、
英国やスカンジナビア各国を主に訪れる。
1926年来、合唱団は、
北アメリカや極東、オーストラリア、ニュージーランド、
アフリカ、ラテンアメリカにも度々訪れている。」

ということで、日本は、
「極東」として、ひとくくりにされている。

「第二次大戦後の最も傑出した指揮者は、
フェルディナント・グロスマンと、
ハンス・ギルスバーガーであった。
その後継に、ウーヴェ・クリスティアン・ハラー、
1991年以降は、ペーター・マルシックがいる。」

このあたりの指揮者は、私はまったく知らないのであるが、
今回の録音をしているのが、
マルシックとハラーであることはすでに書いた。

ハラーは、このCDの、バッハとフォーレと、
シューベルトのオッフェルトリウムを担当している。
これらはすべて、合唱ではなく、
チェンチッチ君が独唱を担当したものである。
いずれも、1990年7月の録音。

b0083728_1883310.jpgこのチェンチッチ君は、
神童として有名だったらしく、
その独唱は、他のCDでも、
シューベルトを歌ったものを、
聴くことが出来る。
1989年の録音で、
シューベルトの絶筆とも言われる
「岩の上の羊飼い」D965を、
ロマン・オルトナーのピアノ、
やはり、エルヴィン・モンシャインの
クラリネットと共演して歌っている。
が、この曲を少年が歌う必要を感じない。


一応、参考として聴いたので掲げておくが、
こちらの選曲のごちゃごちゃぶりははなはだしく、
ヘンデルから2曲、
モーツァルトの宗教曲が4曲、
シューベルトの歌曲と、
ヘルベックの宗教的歌曲に加え、
最後にヨハン・シュトラウスの「春の声」である。

この曲は、チェンチッチ君が、
演奏会場を沸かせる曲らしいが、
どうも取ってつけたような感じ。

9曲中、8曲がチェンチッチ君のひとり舞台で、
かろうじて4曲目が「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。
これとて大人合唱団との共演である。
(とはいえ、この演奏は美しい。)

このチェンチッチ君独演のCDで、
ウィーン少年合唱団の「合唱」を聴こうとしたら、
大変、失望するのではないか。

そもそも、神童にふさわしく、
子供のあどけない声というよりも、
このCDで1番長い(13分半)、
「エクスルターテ・ユビラーテ」を歌う声などは、
ハスキーなカウンターテナーみたいな感じを受ける。

ヴェスペレの「主をほめたたえよ」も、
非常に透明度の高い声であることは認めるが、
いかにももろそうなガラス細工を思わせる。

K198の偽作説もある「み母の庇護の下へ」は、
ステフェン・メッケルとの二重唱で、
これは、あまりアクロバティックな曲想ではないので、
素直に彼等の清純な感じを堪能できる。

かなり脱線したが、この少年のファンが買うCDなのであろう。
したがって、フィリップスは、
その顧客の求める製品を作ればよろしい。

一応、「Sacred Songs」の解説には、
下記のようにあるが、
このように見ると、この合唱団からは、
限りなく、偏ったレパートリーを連想してしまう。

「ウィーン少年合唱団の広範なレパートリーは、
ルネサンスのモテットやマドリガルから、
宗教曲、世俗曲両方のロマン派の合唱曲、
20世紀作品、フォークソングにまで含む。
現代のオーストリアの作曲家にも影響を与えている。
フィリップスへの多くの作曲家たちの録音の中には、
モーツァルト、ハイドン、シューベルト、
ヨハン・シュトラウスの作品がある。」

私は、ルネサンスの合唱曲や現代音楽を歌う小学生を、
あまり想像できないが、彼等はやってしまうのであろう。

これで解説は終わり。
後は、歌詞がついているだけである。

さて、「Sacred Songs」の他のトラックもざざっと聴いてしまおう。

Track2.バッハのカンタータ「もろびとよ歓呼して神を迎えよ」。
チェンチッチ君の歌である。
児童にしてはうまいと思うが、
普通に女声で歌えば、もう少し余裕を持って聴ける。

Track3.ハイドンの「栄光にふさわしい主よ」。
少年合唱と大人合唱(コルス・ヴィエネンシス)の調和に、
オルガンの音色が重なって、大変、美しい。
「おお神よ、あなたは私を常に導き、
その御手はいつもわたしの上にありました」
という敬虔な祈りの歌である。

Track4.アイブラー作曲、「すべてはシバから」。
「Sheba」とあるから、シバの女王のシバである。
ここでもボーイ・ソプラノが活躍しているが、
独唱者名はない。
だんだん、合唱が盛り上がって来る作品で、
モーツァルトの「ジュピター交響曲」のようなフーガが、
なかなかの迫力を出している。

アイブラーは、なかなか聴けないので貴重。
管弦楽も効果的。

Track5.メンデルゾーンの詩篇第5番、
「主よわが祈りをききたまえ」。
これは長い。10分を超す。
ベンジャミン・シュミディンガー君のソプラノが、
オルガンのモノローグに乗ってたいへん可憐である。

途中から合唱が出て来て助けてくれる。
メンデルスゾーンらしい爽やかな叙情が聴ける佳作である。
ボーイ・ソプラノが、
「おお、鳩のように飛んで行けるなら、
 荒野に巣をかけ、そこで安らぐものを」
と歌うのは、素朴で良い。
この曲は、このCDの白眉かもしれない。

Track6~8はすでに聴いた、
シューベルト作品。

Track9.フォーレの「レクイエム」より「ピエ・イエズ」。
私は、コルボの振ったこの曲で、
ボーイ・ソプラノの美しさを知ったようなもの。
チェンチッチ君の声に、すでにあどけなさはない感じ。

Track10.ヘンデル作曲「戴冠式アンセム」より、
「祭司ザドク」。
素敵にきらめくオーケストラの前奏が美しい。
ソロモンを王に使命し、人々が歓喜したという内容。
トランペットが鳴り響き、
典型的に壮麗なヘンデルの合唱曲。

大人合唱が圧倒的で、あまり少年合唱団の感じはない。

Track11.ヴェルディの「主の祈り」。
これも大人合唱との共演だが、
弱音で繊細な美しさを前面に出しているので、
少年合唱の美しさを味わえる。

Track12.はすでに聴いた。

得られた事:「現在のウィーン少年合唱団への在籍は、10歳から12歳であるが、シューベルトは15歳まで在籍し、翌年までコンヴィクトに居残り、サリエーリの指導などを受けた。」
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by franz310 | 2012-01-08 18:09 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その309

b0083728_2329938.jpg個人的経験:
シューベルトが、
「ます」の五重奏曲を
書いたのは、
1819年の事だと
されて来た。
それが本当だとすると、
の話であるが、
同時並行的に、
いくつかの宗教曲が、
構想されていたのが面白い。


例えば、シューベルトの作品というだけに留まらず、
ロマン派期における宗教曲のマスターワークとされる、
「ミサ曲」第5番変イ長調D678なども、
この時期に着手されている。

渡邊學而著の「フランツ・シューベルト」(芸術現代社)でも、
このミサ曲は、「一八一九年十一月から作曲を始め、
一八二二年九月にようやく完成している」
などと記載されていた。

「ます」の五重奏曲は、夏の滞在で着想され、
年末にかけて完成されたという説もあるので、
何と、これらの作品は並行して書かれていた可能性も、
なきにしもあらず、という感じなのだ。

このような著書が出たのが出たのが、
昭和60年(1985年)であったというのが悩ましい。
というのは、この時点で、
シューベルトの宗教曲など、
日本では数えるほどのレコードしか出ていなかったのである。

本を読めば読むほど、気になる、
というのがシューベルトの宗教曲であったわけだ。

ようやくにして現れたのが、
1980年代前半に、アナログ録音、
デジタル録音取り混ぜた感じで登場した、
サヴァリッシュ指揮の「宗教曲全集」、
CD7枚組であった。

これは、日本では、東芝EMIから、
1990年代になって、ようやく、
限定仕様ながら出された。

採算が合ったのか心配になったが、
きちんと各曲の解説も歌詞も付けられ、
瞠目すべき偉業であった。

サヴァリッシュは、私にシューベルトの、
初期交響曲のすばらしさを教えてくれた、
大恩人のような指揮者である。

サヴァリッシュの交響曲全集や前のミサ曲録音は、
ドレスデン・シュターツカペレの演奏であったが、
ここでは、バイエルン放送交響楽団が起用されている。
これだけの作品群を効率よく録音するには、
放送交響楽団の機能性、即応性が買われたのであろうか。

歌手陣も壮観だ。
ポップ、ドナート、ファスベンダーといった女声陣、
フィッシャー=ディースカウ、シュライアー、
ティアー、アライサといった男声陣。
その他、私が知らない人も独唱者として上がっているが。

何と、日本盤には、
「ヴォルフガング・サヴァリッシュの言葉」
として、
「シューベルト宗教合唱曲全集によせて」
という一文まで付いている。

実は、これは大変、貴重な読み物である。

1994年に真鍋圭子という、
それから、サントリーホールのプロデューサーになった人が
じかに聞き取ったようなので、
まさしく日本でしか読めない内容と見た。

このような付加価値の付け方もあるわけだ。

これを読むと、
何故、このような大がかりな録音が行われたかが、
よく分かるようになっている。

つまり、サヴァリッシュが、友人に、
この録音プロジェクトを持ちかけられた経緯から、
回想がなされている。

「これらの作品を全曲録音することが自分の使命である」
と遂に思い始め、幸いにも、
バイエルン放送響とEMIとの全面的協力があった、
事などが書き出されている。

つまり、サヴァリッシュからの提案ではなく、
彼は、その友人に乗せられてしまった側だったようなのだ。
しかし、遂に、それは、使命感をかき立てたようで、
こうした、自発的な高揚感の連携から
生まれた仕事が悪いはずがない。

すでに亡くなっていたルチア・ポップを惜しみ、
「実に充実した、楽しい時」と、このプロジェクトを回想し、
この録音を「胸躍らされることが度々」あった事を告白している。

エキスパートの歌手陣も、初めて見るような楽譜を前に奮起し、
「この仕事に情熱を傾けていました」と言っているから、
これは、サヴァリッシュだけの功績ではない。

しかも、練習や録音をしながら、
「美しい宝石の数々を見いだし、感動を分け合った」
とあるので、現代に蘇ったシューベルティアーデのようなものである。

オーケストラも合唱団も真面目に興味深く取り組んでいたという。
「あの時の私たちの喜びを、この録音から聞き取って頂ければ
こんなにうれしいことはありません」という、
サヴァリッシュの言葉通りに、
私は、この録音から、
多くの発見と感動を追体験している。

録音完了から10年を経てからのインタビューゆえ、
いろいろと美化されていることもあろうかと思われるが、
それゆえに、読む者には、妙に澄みきった懐かしさを伝えてくれる。

さて、この「全集」の内容を見ても明白なのだが、
シューベルトの宗教曲の主たるものは、
CD7枚の半分を占める「ドイツ・ミサ曲」を含むミサ曲群である。
また、オラトリオ的な「ラザロ」がCD1枚を占めている。

その他は、大きめの作品として、
「スターバト・マーテル」があり、
未完成のミサ曲の切れ端などにまざって、
「サルヴェ・レジーナ」や、「オッフェルトリウム」、
「タントゥム・エルゴ」、「詩篇」といった小品群がある。

これらの作品名は、大変、古い実用音楽のそれであって、
普通一般の音楽愛好家の知識では、
何のことかわっぱり分からんという感じではなかろうか。
私も、今回、「サルヴェ・レジーナ」を、
いろいろ聞き比べるまで、何のイメージも、
この作品名から思い浮かべることが出来なかった。

「サルヴェ・レジーナ」は、歌詞が11世紀に出来ていた、
ということなので、1000年に亘って、
ものすごい数の作曲家が、曲をつけていることになる。

そのような流れの中で、
シューベルトの名前を位置づけられるのは、
私にとっては、貴重な体験になった。

このCDの日本盤解説は、
藤本一子という国立音大の教授が書いている。
シューマンの研究家のようだが、丁寧に解説をしてくれている。

「総説」という部分には、
シューベルトが、15歳の時からミサ曲のスケッチを残し、
死の一ヶ月前の「タントゥム・エルゴ」D962まで、
「親しさにみち」、「峻厳な孤独の面立ち」で、
生涯に亘って宗教曲を残していることから書き始めている。

何故か、このアルバムには、先に触れた、
「ドイツ葬送ミサ曲」D621は収録されていないが、
これについても、この「総説」でさらりと触れられている。

シューベルトは交響曲、室内楽、ソナタに加え、
オペラ、宗教曲、歌曲を書く、「普遍型の作曲家」であったとし、
宗教曲においても「比類ない峰」を築いた、としている。

また、彼が、児童合唱で教会と関わったのみならず、
兄のフェルディナントが、
教員学校の付属教会の合唱長を務めていた関係で、
創作の機会を与えたのも良かったと書いている。

教会が啓蒙主義による教会改革の余波や、
ドイツ語運動の流れなども、
これらの作品群には読み取れるという。

中核を成すのは、ラテン語の6曲のミサ曲であり、
「サルヴェ・レジーナ」のような「伝統的な機会音楽」も、
「内的な創作の発展と深化の自己表白へと進んで」いった、
と特筆されていることがうれしい。

「1819年のイ長調D676を中期として、
それ以前の作品が初期、以後がはやい後期の様式をあらわしている」
とあるように、「ます」の五重奏曲のあたりを転換点と捉えている。

「サルヴェ・レジーナ」だけで、
ここまで、しっかり書いたCD解説はなかなかないのではないか。
しかも、確かにそうそう、と言えるのが、
「初期の作品には全体に晴朗で
みずみずしい美しさがあふれている」と指摘した部分である。

中期の作品では「一種の危うさも感じさせる」というのも肯ける。
テクストが個人的な意味を持って、音楽は真摯となり、
内面の歩みが始まるとしている。

後期の作品は、「真の祈りの音楽」となって、
「宗教音楽史上、例をみない力と深さを感じる人は多いだろう」
とのこと。

シューベルトのミサ曲で問題とされるのが、
テキストの削除の問題だが、信仰告白の「クレド」で、
「そして一にして、聖なる、公の、使徒継承の教会を」
の歌詞を、シューベルトは、
すべてのミサ曲から削除しているらしい。

また、「第1ミサ曲」以外では、すべて、
「よみがえりを待ち望む」を削除、
「造られずして生まれ、父と一体なり」というテキストは、
「第3」、「第5」、「第6ミサ曲」で削除されているらしい。

解説者は、これ以上に、
同じテクストなのに、音楽が変貌していく事を、
「音楽の実質がまったく異なる」ことを重視している。

最後に、発音の問題を注記しているのが、非常に参考になる。
「サルヴェ・レジナ」を、
北方ドイツでは、「ザルヴェ・レギナ」と濁って発音するが、
ここでの録音では、これらのちゃんぽん型で、
「サルヴェ・レギナ」と歌わせているとある。

ヴィヴァルディの時代、この楽曲は、十数分程度の多楽章の、
ソプラノ独唱曲として作曲されることが多かったようだが、
このサヴァリッシュ盤で、取り上げられている、
シューベルトの付曲は、以下のような内容。

このCDは、とにかくいろんな人が登場するので、
各曲をどの人が歌っているのかを、
記号で判別できるようになっているが、
この作業が極めて面倒である。

CD5のTrack3に、
「サルヴェ・レジーナ」変ロ長調D106(5分31秒)
フランシスコ・アライサのテノール。

CD5のTrack8に、
オフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」
ヘ長調D223(6分14秒)
ヘレン・ドナートのソプラノ。

CD2のTrack7に、
「サルヴェ・レジーナ」ヘ長調D379(3分4秒)
バイエルン放送合唱団。

CD2のTrack20に、
「サルヴェ・レジーナ」変ロ長調D386(3分56秒)
バイエルン放送合唱団。

CD6のTrack1に、
オッフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」
イ長調D676(9分12秒)
ヘレン・ドナートのソプラノ。

CD6のTrack11に、
「サルヴェ・レジーナ」ハ長調D811(5分55秒)
バイエルン放送合唱団に、バイエルン合唱団も共演?

このように、長さも編成も様々なもので、
いかにも演奏する機会に従って作曲した感じが見え見えである。

また、オッフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」の他、
単なる「オッフェルトリウム」と題された曲や、
「オッフェルトリウム」の他に、副題が付いたものもある。

これらを列挙すると、
CD4のTrack8の、
「オッフェルトリウム」変ロ長調D963。

CD5のTrack4の
オッフェルトリウム「疲れたわたしの心の中に」
ハ長調D136。

CD5のTrack6の
オッフェルトリウム「三つのもの」イ短調D181。

いくら正月休みとはいえ、
いきなり7枚を聴くのは無理なので、
今回は、他にCDが出ていない曲目を中心に聴いてみたい。
上述した曲の数からして、CD5を攻めてみたい。

このCDには、最初期のシューベルト作品が多数含まれているが、
子供の遊びだと思うと、いきなりのけ反ることになる。

Track1.
キリエ ニ短調 D31。
このドイッチュ番号からして、我々が良く知っている、
交響曲第1番D82(1813)や、
第10番とされる弦楽四重奏曲D87(同上)より、
ずっと前の作品だということが分かる。

解説にも、「シューベルトの残されている最も早い宗教曲のひとつ」
と書かれている。

ロッシーニが「試金石」で、わずか20歳で、
スカラ座の聴衆を沸かせた年、1812年の作曲である。

シューベルトの残した数多くの「キリエ」は、
ミサ曲の未完の楽章だということだが、
この15歳の作曲家は、思春期の火照りの中で、
フルート、オーボエ、ファゴット各2、
トランペット、ティンパニにオルガンを含む、
大オーケストラを駆使して、
めざましい効果を上げている。

この年の7月、シューベルトは変声期を迎え、
宮廷教会でのヴィンターという人のミサ曲の演奏を最後に、
児童合唱団を辞めなければならなかった。

ミサ曲を歌う役から、ミサ曲を作る側に回ってやろう、
と野心旺盛な15歳が考えたとしてもおかしくはない。

何と、このキリエ楽章は、
立派なオーケストレーションまで施されて、
未完成魔のシューベルトの若書きのはずが、
しっかり完成されている。

怒り狂った序奏から緊迫感をみなぎらせ、
それが、最後まで途切れることがない。
合唱の迫力の中、
ソプラノとテノールの
独唱者が立ち上がる時の清冽さ、
トランペットやティンパニの炸裂も強烈で、
自信たっぷりの筆遣いである。

サリエーリに師事してから3ヶ月。
このような作品も師匠に見せたりしたのだろうか。

Track2.
キリエ ヘ長調 D66。
ドイッチュ番号は先のキリエの倍を超えたが、
まだ、8ヶ月しか経っていない時期の作品。
これは、独唱者とフルートがなくなり、
編成は小型化されているが、
力任せで息切れしたのを反省したのか、
今回は、あえて、楽曲の展開に注意を向けている。

つまり、最初から荘厳な合唱が響くが、
いくぶん控えめで、前作と比べて、
最初の方は物足りないが、
途中から悲痛な展開を見せ、
16歳のシューベルトが追求したかった効果は、
きっとここにあったのだ、と納得できる。

しかも、後半はフーガ風の書法を見せ、
巨大な力への憧れが明白である。

実は、この2曲の間に、
さらに2曲の「キリエ」が作曲されていて、
それは、CD1のTrack1、2に収められている。

Track3.
サルヴェ・レジーナ 変ロ長調 D106。
テノール独唱で歌われるもので、合唱はない。
オーボエとファゴット、ホルンが各2、
弦楽にオルガンも付くオーケストラ編成。

1814年の作品らしく、最初のキリエから、
2年を経過して、すでに、安定した書法を手にしているが、
何となく、力が抜けすぎた感じで、
手慣れた職人芸のようにも聞こえる。

だだだだーっという動機による統一感が少しくどいが、
「涙の谷」の描写で、このリズムを使って、
悲壮感を描くあたりさすがである。

バロック期に書かれた「サルヴェ・レジーナ」と比べ、
全く異なる美学によって成り立っている事に、
私は、少なからず衝撃を受けた。

歌詞はラテン語で、まったく同じながら、
バロック期の作品が、神秘的な気配をみなぎらせ、
いかにも、聖処女の特別さを強調し、
人間の惨めさを訴える内容だったのに対し、
シューベルトの音楽では、
あまり、人間は惨めな存在ではない。

やはり、裕福な貴族が、宮殿の礼拝堂に客人を招いて、
披露した楽曲と、
市民階級の善男善女が、
地区の教会に行って、聴く音楽とは別のものだった、
という感じがしないでもない。

Track4.
オッフェルトリウム「疲れたわたしの心の中に」。
ハ長調 D136
饗場裕子氏の訳では、
「疲れたわたしの心の中に
神の愛は輝いている
神聖な愛は輝いている。」
と歌い出される、美しいソプラノのアリアで、
「キリストの愛があるのだから」と、
素朴な信仰を歌い上げるには、
華美なまでに美しいクラリネットの助奏が付いている。

その代わり、オーケストラは簡素で、
フルートとホルンが各2と弦、オルガン。

1815年の作品とされるらしく、
自由闊達に上空を浮遊する音楽は、
最後の歌曲ともされる、
「岩の上の羊飼い」の完成度さえ思わせる。

初恋のテレーゼのための楽曲と解説にはある。
ここでは、ヘレン・ドナートのソプラノ。
クラリネットは、ブルンナーである。
クラリネットというと、
もう少し、豊饒な音を想像するが、
ブルンナーの演奏の軽さが、ここでは生きている。

Track5.
スターバト・マーテル ト短調 D175
1815年、歌曲爆発の年の作品。
最初の4節のみへの作曲で、
翌年作曲の同名の別の作品(D383)と比べると小規模のもの。

したがって、このタイトルから、
ドヴォルザークのような大曲を想起してはならない。
7分に満たないものである。

だが、内容はかなり充実しており、
序奏からして、うつろな響きがぞっとさせるもので、
トロンボーンを三つ要するオーケストラ伴奏の合唱曲で、
非常に痛切な響きに彩られた名品だと思われる。

「悲しみに沈み、母は立っていた」から、
「鋭い刀で貫かれていた」、
「どれほどの苦しみだっただろう」を経て、
「御子のくるしみを見ながら」という所まで。

オーケストラも、悲痛な慟哭を響かせる。

Track6.
オッフェルトリウム「三つのもの」 D181。
この奇妙な題のものは、
「三つのものが天国の証明」として、
「父と御言葉と聖霊である」と挙げるだけのもの。

3分半のものながら、かなり充実した作品。
「スターバト・マーテル」D175の数日後の作品。
編成も同じで、シューベルトは、
一続きで作曲したのではないか、
などと思ってしまった。

三位一体の祝日のための依頼曲ではないかと解説にある。

「終わり近くのゲネラルパウゼが、
厳粛な印象をつよめる」とあるが、
まさしく厳粛ながらも、美しい作品である。

Track7.
グラドゥアーレ ハ長調 D184。
さらに数日後の作品。
ファゴットの代わりにトランペットが入って、
壮麗な響きを獲得している。

「グラドゥアーレ」は、
「ほめたたえよ、神よ」という典型的な信仰の歌で、
最後は、壮大な「アレルヤ」で終わる。
厳粛宗教曲3連発である。

これまた、5分に満たないながら、
力強い作品で、18歳のシューベルトの、
恐るべき力量を見せつけてくれる。

Track8.
オッフェルトリウム「サルヴェ・レジーナ」
ヘ長調 D223。

ここでの「サルヴェ」は、前の作品より、
歌詞が短縮されていて、
イエスの姿を見せたまえの部分がない。

ドナートのソプラノが舞い上がって、
非常に晴朗な作品となっている。
「涙の谷に、あなたを慕う」という部分で、
少し陰るだけで、全編が輝いている。

バロック期の同名の作品とはかけ離れ、
朗らかな希望の歌になっている。

「これはまた美しいサルヴェ・レジナ!」と、
解説者も思わず、感嘆符をつけてしまっている。

1815年作曲で、23年に改訂され、
さらに25年に出版されてもいる、
ということだから、
シューベルト自身も気に入っていたのであろう。

「あたたかい情感がみちている」と解説にあり、
「個人的な感情の浸透はロマン派のもの」と、
強調されている。

Track9.
タントゥム・エルゴ ハ長調 D461。

Track10.
タントゥム・エルゴ ハ長調 D460

ここで、1815年の宗教曲シリーズから別れを告げ、
翌年8月の作品2曲。
D番号も連番ながら、後者は半分以下の長さで、
2分に満たない。歌詞も後半がない。
また、前者が4人の独唱者を含むのに、
後者はソプラノのみ。

ヴィオラなしの弦という珍しい編成であるが、
トランペットにティンパニを含み、
壮麗なオーケストラ曲である。

前者は強烈な力感でぐいぐいと押すタイプであるが、
後者は、より優美でしなやかな楽曲。

「タントゥム・エルゴ」とは、
トマス・アクィナスの作と伝えられる、
「偉大な秘蹟を伏してあがめよう」という詩に作曲したもので、
「聖体降福式」という儀式のための音楽で、
リヒテンタールの教会のために書かれたのではないかとある。

アインシュタインは、D460を、「野心的な」作品とした上で、
「旧ヴィーン式華美様式の作品」と書いている。
ギャラントスタイルということであろうか。

Track11.
マニフィカート ハ長調 D486。
再び、1815年の作曲とある。

この題名のものは、バッハやヴィヴァルディにもある。
それらには劣るが、9分という長さは、
このCDの中では、最も長い楽曲となる。

序奏から、「イタリア風序曲」を想起させ、
トランペットとティンパニが鳴り響き、
分厚い合唱の効果に重なる
弦楽の精力的な活躍もあって、
ものすごく壮麗な音楽となっている。

中間部では、のどかな伴奏に乗って、
ソプラノが、冴え冴えと、
「神は権力をふるう者を
その座からおろし、
見捨てられた人を高められる」と歌う。

最後の「グローリア」の部分は、
再び、オーケストラと合唱が火花を散らし、
「アーメン」の部分で、合唱と独唱が織りなす、
煌びやかな音楽の肌触りが豪華である。

コーダもすさまじい迫力である。
この作品が、どのような機会に演奏されたかは、
解説には書かれていない。

「マニフィカート」は、解説によると、
マリアの賛歌とあるが、どこがそうなのか分かりにくい。
「わたしは神をあがめ」に続いて、
「神は卑しいはしためを顧みられ、
いつの代の人も
わたしをしあわせな者と呼ぶ」
とあるからであろうか。

これらの詩句を見ていくと、
ここでも、シューベルトは、
いくつかの部分を省略していることが分かる。

例えば、ヴィヴァルディにあった、
「力のある方がわたしに偉大なことをなさったからです。
その御名は神聖です。
そして、主を畏れるものには、
子々孫々に至るまで
その慈悲が示されるでしょう」の部分がない。

アルフレート・アインシュタインは、
「全曲が賛歌風で、装飾的で、手堅い出来であり、
伝統的なバロック式教会音楽の大きな、
満足すべき楽曲である」と書いている。

Track12.
「すでに天国にいるアウグストゥスよ」 D488。

このCDの最後は、打って変わって、
ソプラノとテノールによる軽妙な音楽。
「テクストの扱い、特に呼吸のひそやかさは、
感嘆させられる」と解説者が感嘆しているように、
みごとな二重唱の声の絡みを聴くことが出来る。

1816年の作品で、8分弱とそれなりの規模がある。

「すでに天国にいる
アウグストゥスよ。
あなたを崇拝する人々の心の中に、
どうかいてください」という素朴な歌詞で、
ほとんど、モーツァルトやロッシーニの
オペラの二重唱を聴いているような感じ。

何故だ。シューベルトは、こんなに魅力的な二重唱曲が書けたのに、
何故に、自作のオペラで、こんな音楽を入れなかったのだろうか。

ルチア・ポップとダラポッツァが、
生き生きと感極まって歌っているように思える。
非常に心のこもった名演となっている。

得られた事:「シューベルトの音楽家人生は、伝統的なバロック式教会音楽の優等生として開始された。」
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by franz310 | 2012-01-02 23:38 | シューベルト