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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その308

b0083728_0374348.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディが書いた
「サルヴェ・レジーナ」は、
ヴェネチアの伝統である、
分割合唱の効果を模して、
二つのオーケストラの掛け合いを
伴奏にしているという。
この街を代表する作曲家なので、
確かにそれらしくも思え、
フィリップスには、
そんな題名のCDも実在した。


「サン・マルコ寺院におけるヴィヴァルディ」がそれで、
やがて、大きな集大成を録音する、
ヴィットーリオ・ネグリが指揮をしたものである。

ヴェネチアの作曲家、
ヴィヴァルディは聖職者でもあったので、
ヴェネチアを代表する教会のための活動も、
当然あったように思えてもおかしくはない。

ここでの指揮者ネグリは、1970年代に、
ジョン・オールディス合唱団と、
イギリス室内管弦楽団を使って、
ヴィヴァルディの宗教曲全集
みたいなのを出して、
好評を博していたので、
私は最初、この91年に出された、
二枚組CDを発見した時、
てっきり、そのロンドンでの録音を
寄せ集めたのかと勘違いしていた。

まさしくサン・マルコ寺院を描いた、
カナレットの絵画をあしらった、
美しい表紙が印象的なもので、
寄せ集めにしては、
よく出来たアルバムだと思った。

が、CD裏面のデータを見ると、
1964年10月ヴェニスとあり、
オーケストラも合唱も、
ヴェネチアのフェニーチェ劇場のものとあった。
これは明らかに「全集」とは別のものと分かった。

ソプラノには、フィリップスらしく、
オランダのアグネス・ギーベル、
アルトには宗教曲を得意とした、
ドイツ人のマルガ・ヘフゲンを
起用しているのが目を引く。

この人たちは、1921年生まれなので、
ともに43歳頃という円熟期の録音であった。
いずれも、往年の宗教曲のLPなどで、
記憶に残っている名前である。

ギーベルは、非常に美しく澄んだ声の持ち主で、
ここでも、その超俗的な音色が舞い上がる様を楽しめる。
ヘフゲンは、折り目正しい、
いかにも格調の高い歌唱を聴かせている。

ちなみに、指揮をしているネグリは、
1923年生まれで、彼女らより少し若い。
ヴィヴァルディの権威で、学者でもあり、
そもそもフィリップスのプロデューサーでもあった。
そんな人である。

この録音のタイトルも、彼の発案かもしれない。

ネグリの後年の録音では、合唱もオーケストラばかりか、
独唱者までも、フェリシティ・ロットや、
アン・マレイといった、一世代若い、
英米系の歌手を起用していたので、
この64年盤の方がフィリップスらしい感じがする。

ただし、ロット、マレイは、
我々、シューベルト愛好家にとっては、
ハイペリオンのシューベルト歌曲全集を受け持ってくれた、
恩義を感じるべき歌手たちであることが忘れられない。

このようなCDであるから、
4曲中3曲までが、「ネグリ校訂」とされている。

演奏されているのは、
有名な、「グローリア」ニ長調RV589、
「サルヴェ・レジーナ」RV616、
「マニフィカート」RV610/611、
そして、RV App.38という、
奇妙な番号が付けられた「テ・デウム」である。

ここでの解説は、アルバムと同様、
「VIVALDI IN SAN MARCO」と題されている。
が、内容を見てみると、
あまり、サン・マルコと関係あるような感じではない。

ミヒャエル・タルボットという人が書いているが、
この人は、BBCミュージック・ガイド・シリーズでも、
ヴィヴァルディを担当した著書を出している人である。
日音楽譜出版社は、トールバットと訳している。

この人は、1981年に日本で出た本の著者なので、
ずっと年配の人かと思っていたが、
1943年生まれのイギリス人らしく、
ヴィヴァルディやアルビノーニ、マルチェルロを研究し、
イタリア政府から若くして勲章を貰っているようだ。
このCDが出た91年の時点で、まだ、48歳である。

「サン・マルコの侯爵の教会は、
(ヴェネチアの独立が失われてからは、
単にヴェネチアの大聖堂教会となったが)
共和国全体の教会のスタンダードであった。
サン・マルコの創設したイノヴェーションは、
演奏者を分散させて配置させ、
『分割合唱』の効果に至ったことである。
17世紀と18世紀には、
この演奏スタイルは、広い範囲のイタリアの教会に広がり、
応答頌歌の効果が採用され、
以前は声楽家の集まりだった演奏に、
器楽奏者の追加がスペース問題を引き起こしたが、
異なる場所で音楽家がグループ化されることにより、
解決することができた。
18世紀にヴェネチアを訪れた人は、
総督(ドージェ)の個人的な教会であった
サン・マルコでの音楽を伴う礼拝に参加することは稀で、
他の場所の王室教会でも同様であった。」

という事で、このCDは、
サン・マルコ寺院がテーマのはずなのに、
何故か、そこでは何が行われていたか、
よく分からん、といった感じで、
話が逸らされてしまう。

その代わりに出て来るのが、
我らがヴィヴァルディの話であって、
いきなり、孤児院になっているのが悩ましい。

「彼等は、四つのオスペダリ・グランディのうちの、
一つにおいて音楽を聴くことが多かったようである。
これらは孤児、浮浪児、低所所得者、いわゆる捨て子
(多くの場合、庶子といった養育放棄された乳児)
たちが住めるようにした施設で、
最後のカテゴリーは、オスペダリで最も有名だった、
オスペダーレ・デラ・ピエタが特に責任を持っていた。
これら4つの組織は、そこの女性住人によって、
合唱団やオーケストラが組織され、
彼女らの先輩らがアシスタントとなり、
外部からの指導者によってトレーニングされ、
そこの礼拝堂における礼拝時に、
素晴らしい音楽を聴かせることによって、
参加者からの寄付や遺産を貰うことを期待していた。」

完全に、サン・マルコの話は、
出て来なくなってしまったが、
当然、サン・マルコの影響下の音楽が、
ここでも聴けたということであろう。

また、これらの施設が、何故に、
ヴィヴァルディのような音楽家を雇ったのかが、
この解説でよく分かった。

「彼女らの歌う合唱曲は、
一般に四つのパートに分けられていたが、
他の三つのオスペダリの合唱は、
二つのソプラノ、二つのアルトの声部と、
高音部に限定しており、
ピエタのみ男声の教会合唱を真似て、
合唱パートを慣習的なソプラノ、アルト、
テノール、バスに分けた。
そのテノールのパートは明らかに、
書かれたピッチで歌われ、
学者の中には、バスのパートも高めに書かれているから、
そこも同様であったと想定している。」

ピエタのみ、女子に男声低音部も歌わせていたということか。

「1701年から1713年にかけて、
すべての新作声楽曲を作曲する任にあった、
ピエタの合唱長(マエストロ・ディ・コーロ)は、
フランチェスコ・ガスパリーニであった。
1703年に、役所に対し、
ヴァイオリン教師の採用を求めたのは、
他ならぬ彼である。
彼等は新進の名手で、
その頃、司祭に任ぜられたばかりの
ヴィヴァルディを選考した。
ガスパリーニが実権を握っている間は、
ヴィヴァルディに、ピエタの宗教合唱曲を
作曲する機会はなかった。
彼は、単にソナタや協奏曲の作曲を求められた。
しかし、ピエタのオーケストラを指導する際や、
同様に指導的なヴァイオリン奏者で、
イタリアの様々な教会での祭礼に参加していた、
彼の父親との、度重なる演奏旅行によって、
彼は、実践的な経験を積んでいたに違いない。」

サン・マルコは消し飛んで、
何だかローカルな話題になっているのが残念である。
よくある職場のトラブルの話になっている。
しかも、その職場は孤児院の音楽教師のそれである。

「1713年、表向きは病気療養という理由で、
ガスパリーニは職を辞し、
新しい合唱長がその任に着くまで、
ピエタはもっぱらヴィヴァルディ、
声楽教師のスカルパーリら、
他の外部教師に代役を頼んだ。
1719年まで、その任命はなく、
ヴィヴァルディは宗教声楽曲の領域における手腕を、
6年にわたって発揮した。
ガスパリーニ不在時に作曲された、
『全ミサ曲、ヴェスペレ、オラトリオ、
30曲以上のモテット、そして他の作品ゆえに』
合唱長に習慣的に与えられていたボーナスを、
1715年には与えられているので、
どう見ても、ピエタの経営陣は、
彼の成果に満足していたようである。」

ということで、これまで、ヴィヴァルディが、
ずっと協奏曲の作曲家として知られていた理由は、
当然のことだった、と読み取れる。
当時からそうだったのであり、
声楽曲は偶然が重なって書かれるようになった、
という感じである。

「ここに録音された『グローリア』か、
(リオムによるヴィヴァルディの作品カタログで、
RV589とされるもの)
あるいは、知名度は劣るが、
同じ調性の作品(RV588)のどちらが、
経営陣が言及したミサの一部をなすものかは分からないが、
RV589は1713年から15年の時期のものである。
最大級のスケールで作曲され、
調性的、スコア、明暗、スタイル的に
コントラストのよい12の楽章からなる。
トランペットを利用し、
しばしば、第2トランペットの代用もする
独奏オーボエが、祝典的な趣きを添えている。」

b0083728_0383448.jpgこの曲は、
1970年代後半に、
ネグリが意を決して、
ヴィヴァルディの
宗教曲全集に取り組んだ時、
第1巻に収録したもので、
この事からも、この曲が、
ヴィヴァルディの宗教曲の
王者であることが分かる。
ソプラノはマーシャル、
メゾはマレイが歌っている。


これは、大変、美しいジャケットで印象に残るもの。
木版にフラ・アンジェリコが描いた絵画の一部をあしらっている。
金色の背景が全く下品でなく、
むしろオーラを放って上品である。

何と、このCDでも、英文解説を書いているのは、
旧盤と同様にトールバットである。
が、ここでは、旧盤を中心に聴き進む。

Track1.冒頭の序奏からして、
ファンファーレが鳴り渡る華麗な音楽で、
「高きところの神に栄光あれ」
という内容にふさわしい、分厚い合唱が素晴らしい。
「四季」のヴィヴァルディの延長のような、
卑俗な音型から、次第に崇高に盛り上がって行く、
楽想の変転を楽しむべきであろう。

最初のリズムが、見事な全体の統一を成し遂げていて、
ベートーヴェンの交響曲の展開部を思わせる。

Track2.「善意の人々に平和あれ」という、
祈りの音楽であるが、非常に重厚、濃厚。
祈りというには深い、嘆きのようなものを垣間見る。

この楽章は、解説者も絶賛している部分である。

「楽章間でもっとも傑出したものは、
ヴィヴァルディの協奏曲のいかなるものにも見られない、
複雑な構成で野心的な合唱である第2楽章、
『Et in terra pax』」
と書いている。

ネグリが再録音した意図が分からないくらい、
録音も立体的で魅力的である。

Track3.「おんみを讃えます」の、
二重唱曲で、晴朗な音楽である。
ここでは、ギーベルとヘフゲンの、
美しいハーモニーが、
オーケストラの中から舞い上がる。

Track4.「全能の父なる神よ」は、
謙虚にひれ伏す深い合唱曲。

Track5.はカノン風に合唱が渦を巻く。
「おお神よ、イエス・キリスト」。

Track6.は、オーボエ協奏曲の緩徐楽章みたい。
ブルーノ・バルダンという人の演奏のようだが、
線は細いが暖かいオーボエである。
「全能の天主」への憧れであろうか。
まことに無垢な感じのギーベルのソプラノが、
天上への憧れにふさわしい。
ここもまた、解説者が絶賛する部分。

「ソプラノ独唱用のシチリアーノ調の
『Domine Deus』も傑出したもので、
オーボエと時にヴァイオリンのオブリガードを持つ。」

しかし、今回、聞き比べて分かったが、
ネグリは新盤では、冒頭の独奏をヴァイオリンで行っている。
ルイス・ガルシアである。
新盤の独唱はマーガレット・マーシャルだが、
いくぶん、取り澄ましたような歌唱で、
ギーベルの方が、無邪気さがある。

マーシャルは、アバドのペルゴレージで、
テッラーニと共演していた人である。

Track7.力強いヘンデル風の楽想で崇高だ。
合唱も分厚く、「主よ、イエス・キリスト」と、
呼びかけが力強い。

Track8.オルガン独奏が瞑想的なアダージョ。
「我らをあわれみたまえ」というテキストにふさわしく、
思慮深いアルト独唱の曲で、
バッハを得意としたヘフゲンにふさわしい。

ネグリの新盤では、オルガンより、
通奏低音の嘆き節が強調されており、
オペラも得意とするマレイが歌っているが、
より劇的な表現となっている。

Track9.ここもアダージョで、
神秘的な合唱で始まるが、
「我らの嘆きを聴き入れたまえ」の興奮が絶叫になる。

Track10.鮮やかなリズムのアレグロ。
焦燥感が加わって、アルト独唱が、
「我らを憐れみたまえ」と切実な声を響かせる。

Track11.再び、冒頭のリズムで、
全曲が統一される感じで、
合唱が盛り上がって来る。
「唯一の至高者」を讃えるのにふさわしい。

Track12.「聖父の栄光、アーメン」と歌う、
輝かしい終曲で、合唱が波のように打ち寄せ、
オーケストラも色彩的で、めざましい効果を上げている。

「終楽章は『Cum Sancto Spiritu』は、
少し年配のヴェロナの同時代人、
ジョヴァンニ・マリア・ルッジェーリのテキストによるが、
創造的な修正を施して、
さらに高い次元に、この楽章を引き上げている。」

このように解説にあるように、
他の人の作品の引用のようだが、
みごとに全曲を締めくくっている。

この楽章、新盤の合唱は、
ジョン・オールディス合唱団で、
一級の合唱団らしい精緻な歌声を聞かせるが、
私は、旧盤の合唱も立派に聞こえ、
かつ、素朴な味わいがあるように感じてしまう。

なお、この曲は、ヴィヴァルディの宗教曲の代表として、
比較的、古くから知られており、
1939年というきな臭い年に、
作曲家のカゼッラが蘇演したとされている。

音楽之友社の「作曲家別名曲解説ライブラリー」では、
この曲は長すぎるので、
ミサの時に使われたものではないだろう、
と書かれている。

この曲には、この作品を演奏するに当たっての、
「序唱」部もまた残されているようで、
ネグリの新しい方の録音では、
この「グローリアへの序唱」RV642も、
収められている。

また、旧盤の解説に戻ろう。
曲順に沿って、「サルヴェ・レジーナ」の解説がある。

「合唱曲作曲家としてのヴィヴァルディの名声は、
すみやかに広がった。
彼を高く評価したパトロンに、
ローマに住んでいた、
ピエトロ・オットボーニ枢機卿がいた。
1720年代と思われるが、
同じテキストの応答頌歌で残っている、
彼の3曲の中で、最も壮大なハ短調の作品、
『サルヴェ・レジーナ』(RV616)は、
オットボーニからの依頼によるものと考えられ、
二つの合唱のように配置された、
弦楽オーケストラが必要で、
最初のものは一対のリコーダーと、
一本のフルートを含む。
ヴィヴァルディの音楽では、
フルートとリコーダーが、
同じ曲に出て来るのは珍しく、
これからも、ヴェネチア用のものではない、
という点が分かる。
宗教的テキストの各節が異なる楽章に分けられ、
リコーダーは外側の楽章で求められ、
フルートは第3楽章で登場し、
オーケストラの質感は、ここで表現力豊かな、
オブリガート部によって輝かしさを増している。」

ということで、この作品に至っては、
ローマ用と明記されており、
全く、サン・マルコとは関係なかったことが分かった。

この前聴いた、ボウマンの盤より、
ゆっくりと噛みしめるようなテンポが味わいを増す。
ヘフゲンのアルトが、極めて生真面目で、
何となく、威厳すらあるが、
それをパスカーレ・リスポーリのフルートが優しく包む。

オリジナル楽器旋風が吹き荒れる前の、
1964年という録音時期ならではの、
懐かしい感じの演奏になっている。
あの頃のバッハのカンタータの乗りである。

しかし、オットボーニ枢機卿は、
いったい、どのような機会に、
この作品を演奏したのであろうか。
教会か、それとも個人の邸宅の礼拝堂か、
はたまた、演奏会場でであろうか。

アルトで歌われる事から、
教会にて、カストラートが歌ったということもあるのだろうか。

以上がCD1に入っている。
以下は、CD2の内容である。

「1718年から1735年の間、
ヴィヴァルディはピエタの職員ではなかったが、
特殊な協定で協奏曲は提供していた。
1735年、しかし、彼は、再び、
器楽曲の監督のようなスタッフ(合奏長)となった。
この任期は1738年までしか続かなかった。
しかし、1737年、ジョヴァンニ・ポルタが、
合唱長を辞め、後任の決定が遅れて、
ヴィヴァルディは再度、宗教曲の作曲を任された。
1739年、彼がピエタのために書いた作品の一つが、
彼の教会音楽の中で最も素晴らしい、
ト短調の『マニフィカート』の新版(RV611)であった。」

ややこしい事に、
このCDには、RV610/611という表記がある。

「この作品はもともと、
彼の第1期(1713-19)の作品と考えられ、
二つのオーボエや二つの合唱になぞらえた合奏の分割が施され、
1920年代にも改訂を受けていた。
1739年版の目新しさは、
第5楽章が独唱用になったことで、
ピエタに特別な歌手がいたことを思わせ、
オリジナルのものから取り替えられた。
これらの追加は、特別なギャラント様式であるが、
残りの楽章とスタイル的にも動機的にも、
驚くほど、ぴったり合っている。」

Track1.バッハの宗教曲を思わせる、
荘厳な合唱曲でマニフィカートは開始する。

Track2.しかし、すぐに、
軽やかなソプラノのアリアとなり、
神の中に、魂の喜びを見いだす。

Track3.ここでもソプラノのアリアが続くが、
いくぶん、しっとりとして、
「この小間使いにも目を留めてくれた」と感謝し、
ギーベルの歌唱が心に染みる。

Track4.
「聖なる方が偉大な事を」と、
メゾが神妙に神の御業を改めて賞賛する。
ちらちらと響くチェンバロの響きが美しい。
心満たされるような曲調。

Track5.神秘的な序奏に乗って、
合唱が、「限りなく及ぶ憐れみ」について賞賛する。
そのありがたさに、心から動かされているように、
情念がうごめく音楽。

Track6.風雲急を告げる合唱曲。
疾風のように、傲慢なものを追い散らす。

Track7.ぎざぎざの厳しいリズムが特徴的な合唱。
権力者を引き下ろし、低い身分を引き上げる。

Track8.メゾのアリア。
「飢える者を満たし、金持ちを去らせる」という、
神の働きに思いを寄せて真摯である。

Track9.重厚な合唱曲で、
しもべを助け、その慈悲に感謝する部分。

Track10.軽妙な田園風の音楽。
開放的なものだが、バッハの音楽を思わせる。
祖先にしてもらった約束に、
未来の希望を感じる。

Track11.「グローリア、父と子と聖霊に」
という崇高な合唱曲。
分厚い合唱が、演奏され録音された時代を感じさせるが、
フーガ風の展開も経て、まことに荘厳である。
「いつまでも終わる事なき世界。
はじめにあったことが、今も、これからも。」

意味深な歌詞である。

男声合唱が力強いので、本当か、などとも思うが、
解説を読む限り、この作品もピエタのための作品であって、
決して、サン・マルコ聖堂のためのものではなかった。
しかし、『サルヴェ・レジーナ』にせよ、
この『マニフィカート』にせよ、
オーケストラが分割されている点が、
サン・マルコ的だということになるのか。

実は、BBCミュージックガイドに、
このトールバット氏が、
この曲の改作に関して書いた部分を読むと、
こんな部分が出て来るのである。

「ちなみに、ヴィヴァルディの複オーケストラと、
(使用されていれば)複合唱作品のほとんどが、
サン・マルコ寺院のために書かれたと、
一部の人たちは短絡的に考えているが、
じつはそうではなく、
ピエタのために作曲されたものであることを
裏付けるのが、この『エルサレムよ讃えよ』
なのである。」

この「Lauda Jerusarem」は、ネグリの新盤の、
ヴィヴァルディの宗教曲全集の冒頭に収められており、
華麗な複オーケストラの迫力が圧巻である。

この作品には、二人のソプラノ、
二つの合唱団も使われており、
ヴィヴァルディが、明らかに、
ピエタの少女を想定して書いた、
と考えられるようなのだ。

この作品は、ヴィヴァルディの貴重な後期作品らしい。

なお、この新盤の解説では、
旧盤の解説「サン・マルコのヴィヴァルディ」
を打ち消すかのように、
トールバット氏は、「ピエタのための音楽」
という題の文章を捧げている。

ということで、今回のCD、
タイトルは、恥ずかしい誤解の時代の、
記録のような位置づけになる。

さて、この恥ずかしい題名の
ネグリの旧盤アルバムは最後には、
さらなる問題作、「テ・デウム」が収録されている。

しかし、文字数オーバーとなったので、
ここで仕方なく終わることとする。

得られた事:「サン・マルコ大聖堂とヴィヴァルディは、その分割合唱の効果の模倣以外は無関係であった。」
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by franz310 | 2011-12-25 00:41 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その307

b0083728_11323012.jpg個人的経験:
聖母マリアを讃える
祈りの歌「サルヴェ・レジーナ」は、
18世紀初頭のイタリアにて、
多くの名品が生まれたという。
これまで、主に、ナポリ所縁の
作曲家たちの作品を聴いて来たが、
今回は、ライヴァル都市、
ヴェネチアを代表する名手、
ヴィヴァルディが作曲した、
同曲を聴いてみたい。


歌っているのは、
前回、スカルラッティや、
ハッセの作品を歌っていた、
カウンターテナーのジェイムズ・ボウマンである。

ただし、あまり新しいものではない。
1986という数字が見えるので、
今から四半世紀も前のものだ。
イヤホンで聴くと、無音部の境でノイズが聞こえるので、
アナログ録音かもしれない。

ブックレットをひっくり返しても、
どこにもディジタルという言葉はない。
別に、私には、どちらでも良い。
ただ、気になるのは、残響は豊かなのだが、
ダイナミックレンジに寸詰まり感がある点。

今回のジャケットは、
これまで見てきた辛気くさいものではなく、
ラファエロの聖母子像が使われて、非常にすっきりしている。
ただし、真横に歌手の名前が大きな文字で書かれていて、
明らかにぶちこわし気味である。

源頼朝の肖像画を横切って、
「五木ひろし」と書いてあるような図案として、
私には捉えられてしまうのだが、
いかがであろうか。

アリオン・レーベルと言えば、
フランスのもので、それなりに名門の印象が強いが、
かなり無神経な感じがした。

とはいえ、このレーベル、
どんなジャケット・デザインが特徴かと言われると、
確かに、あまり思い出せないのである。

実は、このCDの内容、
ヴィヴァルディの他、
ペルゴレージの「サルヴェ・レジーナ」も
ボウマンの歌で収録されているとはいえ、
必ずしも、ボウマンだけが活躍しているわけではない。

2曲目と4曲目は、純粋な器楽曲、
長らくペルゴレージ作曲とされていた、
ヴァッセナール伯作曲の
「コンチェルト・アルモニコ」ト長調と、
ペルゴレージ作曲とされている、
「ヴァイオリン協奏曲」変ロ長調が収録されて、
当然、ここには、ボウマンは登場しない。

指揮は、JEAN-WALTER AUDOLIとあり、
JEAN-WALTER AUDOLIの器楽アンサンブルが、
演奏している。
ジャン・ワルター・オードリと読むのだろうか。

興味深いのは、チェロのベアトリス・ノエル、
フルートのヴィンセント・プラッツ、
チェンバロ&オルガンのベアトリス・ベルステルの前に、
長沼由里子、ヴァイオリンとあること。
79年にパガニーニ国際コンクールで2位を取った人らしい。
妙齢のさなかでのヴァイオリン協奏曲の録音である。

ボウマンの歌も悪くないが、
実は、これらの作品が、よかったりする。
一見、寄せ集めのような感じがするが、
全曲を通じていろいろ楽しめるCDに仕上がっている。

また、こうして全体を見てよく考えると、
「ペルゴレージ所縁の作品集」という感じで、
ヴィヴァルディは前座を務めているにすぎない。

ヴィヴァルディは、由緒正しき、
ヴェネチアの音楽界を代表する人物だったようで、
新興の、しかし人気を集めた
ナポリの音楽に対しては、
複雑な想いを抱いていたようである。
しかも新参者ペルゴレージの前座では、
さぞかし、腹立ちもあることだろう。

が、同じような作品を書いている点、
やはり時代の子という感じがしないでもない。

今回、ヴィヴァルディとペルゴレージの作品を、
並べて聴けたことによって、
彼等の差異を感じることも出来た。

解説は、Veronique BOITEUXという人が書いている。
ここでのヴィヴァルディは、決して前座扱いではない。
何と、ドイツのJ・S・バッハと同様、
重責を担った作曲家のイタリア代表、
という感じで紹介している。

が、この解説者の文体は独特で、
冒頭から、書き出しがぎくしゃくしている。

「『赤毛の司祭』のシルエットは、
遠い忘却の運河の向こうに消えつつある。
ヨーロッパは、彼を呼び戻し、
褒め称えようとしている。
1678年に生まれたヴィヴァルディは、
司祭であり音楽家で、1741年にヴィーンで亡くなった。
しかし、ヴィヴァルディは、まず第1に、
その故郷、夢の街、ヴェネチアで、
1637年以来、新しく出来た劇場と、
サン・マルコや街全体で鳴り響いた、
壮大な宗教行事の二つから依頼を受けた。」

簡単に書くと、ヴィヴァルディは、
ヴェネチアで生まれ、劇場でも教会でも活躍したが、
ヴィーンで死んで、忘れられていた、という感じだ。

「聖職者に任ぜられて6ヶ月しか経たない、
1703年3月23日、
ヴィヴァルディは司祭に任ぜられ、
ピエタ養育院に、『合唱長』として赴任、
バッハが務めた『カントール』と同様の役職だった。
この職務は、毎年の二つのミサ曲や、
少なくともイースターと、
ピエタが奉る聖処女マリアの祝日の祭礼という
二つの典礼の晩梼など、様々な負荷となった。」

何だか、可愛そうな身の上の音楽家のようにも読めるが、
実際は、ヴィヴァルディは、オペラの興行師としても、
活動していたことが、最近では注目されており、
ちょっと違和感がある。
私の頭の中では、あまりの才能に自ら苦しみ、
好き勝手生きた人のような感じがしている。

「宗教行事のための委嘱に加え、
より自由な礼拝関連のテキストへの作曲などがあり、
その中には、コントラルトと二つのオーケストラのための
二曲の『サルヴェ・レジーナ』がある。
最近、3曲目の『サルヴェ・レジーナ』が、
ローラント・デ・カンデと、
ジャン・ピエール・デモリンによって、
チェコスロヴァキアで発見されている。」

このように、ヴィヴァルディの「サルヴェ・レジーナ」について、
実は、3曲あることが書かれているが、
ここでは、一番有名なRV616が演奏されているだけである。

最初から、この解説者を、
プロジェクトに入れておいてくれたら、
もう2曲も収録しちゃいましょう、
という提案もあったかもしれないが、
どうやら、録音が済んでから、
これらの解説を書け、と言われた感じと見た。

トータルで57分しか収録されていないので、
あと1曲は入ったはずだ。

「これらの作品は、作曲家の生涯、
最後の10年のもので、
詩篇・カンタータに似ている。
二つのオーケストラの使用は、
サン・マルコ聖堂のバルコニーの一方から、
他方に合唱が歌い交わした、
16世紀の終わりのアンドレアと、
ジョヴァンニ・ガブリエリによって創始された、
伝統を思い出させる。」

ジョヴァンニ・ガブリエリが、
サン・マルコ聖堂の空間を利用した、
立体的な音楽を書いた事は有名で、
4チャンネル・ステレオが出た時など、
話題になったものだが、
まさか、ここで、こんな話が出て来るとは想わなかった。

「『サルヴェ・レジーナ』RV616は、
多様なテンポと様々な楽器編成による、
6つの部分の連続からなり、
ヴォカリーズの利用など、
声楽部はオペラの影響を示し、
伴奏部との関係は『コンチェルタンテ』で、
豊かな伴奏部が繊細な声の甘さを包みながら、
覆い隠すことはない。」

ヴィヴァルディの作品は、CDの最初に入っている。
Track1.
「聖なる女王よ、慈悲の母。
おお、我らの命、我らの甘い希望」
と歌われる部分だが、
冒頭から、フルートの音色が印象的で、
あまり宗教曲らしくはない。

フルート自身が俗っぽい、
という事があるかどうか分からないが、
何故か、作り物めいた牧歌的状況である。

ヴィヴァルディ自身が、心から、
聖母に嘆願しているというより、
昔々、こんな人がいました、
みたいなイメージである。

ヴィヴァルディ自身が、
信心深くなかった証拠とまでは言わないが、
どこか冷めた、近代的なプロ意識のようなものは感じる。
祈る人と音楽を作る人は別という感じ。

しかし、それゆえに、精巧を極めた、
作品という感じはする。

Track2.
「あなたに向かって叫ぶ。イブの罰せられた子供らは」
という、悲痛なテキストなのだが、
活発な楽想が繰り広げられ、
完全に「四季」のヴィヴァルディである。
ちゃらちゃらとイブの子供らは、
マリア様にじゃれつくようである。

この部分を聴いたとたん、
これは、本当に宗教曲なのだろうか、
と考えてしまう人も多いことだろう。

解説には、下記のような謎の言葉がある。

「アレグロNo.2で3回繰り返される、
『exusles』という言葉のメロディ・ラインの高揚など、
比喩的な象徴を読み取る人もいる。」

『exusles』は、「追放された」の部分であるが、
いったい、この解説は、何を言いたかったのだろうか。

Track3.
「我らのため息を送ります。
嘆きとすすり泣きを、涙の谷間から」
ここでも印象的なのが、
雄弁なフルートの響きで、
テキストのとおり虚無的な歌で、
それを素晴らしく美しく彩っている。
まさしく磁気のような冷たさの工芸品である。

「別個の部分からなるレチタティーボの使用は、
その動きによって声に繊細さを与えている。」
という解説があるが、ちょっと理解が出来ていない。
この楽章のような、レチタティーボ風の、
悩ましさを言っているのだろうか。

このような独白調は、Track5でも現れる。

Track4.
「だから、こちらに慈悲の眼差しを向けたまえ」
という部分であるが、かなり、強引な楽想である。
ずうずうしい小唄という感じがする。

交響曲の終楽章が始まるかのような、
ものものしい始まり方は、
そのまま100年後でも通用しそうな感じ。

Track5.
「この追放の後、あなたの胎内より、
御子イエスを我らに」の部分。

このあたりのさざ波の効果は、
まさしく二つのオーケストラの掛け合いが印象的。
ナポリ派の連中は、ここで、歓喜の声を上げて、
御子を待ち望んだが、ヴィヴァルディの場合、
やけに神妙である。
期待感を高めているような表現であろうか。

しかし、本当に、この二つのオーケストラは、
サン・マルコ聖堂を想定して用意されたものなのだろうか。
意地悪な聴き方をすると、祈っているというより、
祈っている姿を、非常に美しく描写している。

Track6.
「おお、慈悲の、愛するべき、
甘い聖処女マリア」という部分だが、
この楽曲前半の調子の良さは、
どこかに消えてしまって、
孤独感に苛まれたような、
嘆きの歌である。

寂寥感を高めて、フルートが呟く。
フレーズごとに装飾音が効果的で、
これがまた、工芸品の質感を高めている。
オペラの中で恋人の不実を嘆くようなシーンを、
ふと想起してしまう。

このフルートは、ヴィンセント・プラッツという人だろうか、
ネット検索するとパリ管弦楽団の主席とある。

Track7.
さて、2曲目はヴァッセナール伯の作品だが、
この曲の深々とした、しかも澄んだ序奏部が始まると、
私は、瞑想的な空間に連れ去られるような感じがした。
ヴィヴァルディのこの世の事とも思えぬ音楽に続いて、
何か、遠くに連れ去られるような感じ。

この瞬間を聴くだけでも、このCDは買いである。
したがって、ボウマンの名前を前面に押し出した、
今回の表紙デザインには反対である。

この部分は、2分に満たず、続く速い楽章の序奏にも聞こえる。

Track8.は一転して、
ヴィヴァルディ風の快活なアレグロで、
これも楽器の線の絡まりが、
まことに美しい。

Track9.は、再び、瞑想的な音楽になり、
チェロが浮かび上がってメロディを奏で、
神秘的で、ものすごく美しい。
それに対し、高音のヴァイオリンが、
迎え入れるようなメロディを奏で、
十分に宗教的な法悦感が描かれている。

低音で刻まれるパッサカリアのような、
リズムが、音楽に非常な濃密な緊張感を与えている。
恐るべし、ジャン-ワルター・オードリ。
そして、その楽団。

私は、これまで、この曲は、
ペルゴレージの作品と言われながら、
実は、その典拠が疑わしいという話ばかり聞かされ、
聴きたいと思った事もなかったが、
もったいない事をしていた。

Track10.は、
バッハの協奏曲に現れる終楽章のように、
繰り返しが強調された微笑ましく爽やかな楽章。
休日に聴いて満足、という類。

この曲については、以下のような解説がある。

「ポーランドの作曲家、
フランシス・レッセル(v1780-1835)
によって、長い間、
ペルゴレージ作とされてきた、
『コンチェルト・アルモニコ』または、
『コンチェルティーノ』は、
ここで2曲めに収録されている。
実際は、オランダの作曲家で外交官であった、
ヴァッセナール伯(1692-1766)
によるものである。
まさしくタイトルの
『コンチェルティーノ』が示唆するように、
『コンチェルト』よりも形式が発展しておらず、
オーケストラから突出する独奏楽器はない。
グラーヴェ-アレグロ
-グラーヴェ・スタッカート-アレグロと、
4つの楽章が続き、
ゆっくりした楽章と、速い楽章が交互に現れるが、
古い時代の舞曲集の痕跡が残っている。
ポリフォニーは豊かで、すべてのパートが等質である。
第3楽章で通奏低音は、
チェロにメロディラインを歌うことを許している。」

いかにも、私が感じたままが書かれているが、

確かに、下記のことも感じられる。
「ある人は、この作品の、はじめから終わりまで、
音響のスペクトルを拡大するために、
音域を広くすることに対する作曲家の偏愛を指摘している。」

渋いが、かなり豊饒華麗な感じはここから来ている。

「二つのグラーヴェに対応して、
対になったように速い楽章は扱われている。
大きな休止の使用が目立ち、
メロディ・ラインにダイナミズムをもたらしている。
バッハの作品のように、
作曲家は一つの楽器のパートですら、
ポリフォニックな書法を達成している。」

このあたりも聴いてきたとおり。
が、下記のような事は、指摘していただかないと、
分からないし、指摘されてもあまりぴんと来ない。

「真ん中の二つの楽章では、ユニゾンだが、
最初と最後の楽章では、
動機の提示は、模倣を通じて展開されている。
この『アーチ状プラン』は、
特別な創意もなく、がっちりとして、
堅苦しくさえある構造を支え、
イタリアオペラに直接由来する、
表現力豊かな半音階で飾られている。」

Track11以下は、ペルゴレージの作品が並ぶ。

ヴァッセナール伯の作品同様、
弦楽のハーモニーが素晴らしい。
高音から降りてくるヴァイオリンといい、
低音でうごめく意味ありげな音型といい、
先の作品との統一感もあって、曲の配列も、
選曲も良い。

「ペルゴレージは、
二つの『サルヴェ・レジーナ』を作曲しており、
1曲はソプラノ用でハ短調、
もう一方は、ここに録音された、
ヘ短調のものであるアルト用で、
ここではカウンターテナーが歌っている。
テキストは、伝統的な6つの部分に分けられ、
モデラートのテンポで統一されている。」

私は、どちらかと言うと、このヘ短調のものの方が、
好きかもしれないが、多くのCDは、
ハ短調のみを収めている。
ということで、これは貴重。

が、ヴィヴァルディの作品の、
多彩なテンポ、速度が華美に感じられたのは、
これまで、私がペルゴレージを聴いていたからか。
ペルゴレージは、あえて、モデラートで統一したのだろうか。

「ヴィヴァルディの選択とは異なり、
ペルゴレージは、弦楽四重奏と通奏低音を、
伴奏に選んで、室内楽の雰囲気を醸し出している。
慎重さ、遠慮、半陰影の特徴を持つこの作品は、
ヴォーカル・ラインと弦楽の伴奏が、
賞賛すべき結合をしている。」

以上も事は一聴して分かるこの曲の美しさであろう。
が、下記のことは、成る程と思った。
休止をはさみながら、切々と訴えかけるのは、
100年後にベッリーニなどが、
オペラの中で、多用する手法ではないか。

「フレーズの終わりの装飾、
大きな休止や他の音域への急変、
素晴らしく計算された半音階が目立って、
独唱部にしばしば表出力の集中が見られる。
作品の冒頭から、
例えば、『サルヴェ』という言葉の変化は、
半音に留まっているのに、
最初の嘆願が減四度で繰り返される。
声の抑揚と考えられた休止が、
瞑想的な雰囲気や祈りの悲痛を喚起する。」

同じ音型が、様々な楽器、音域で重ねられて、
幻想的な空間を生み出している。
ヴィヴァルディの作品は、陶磁器に描かれた、
パノラマ絵画のようなイメージを持ったが、
こちらは、もっと立体的な、
上下方向を感じさせる楽曲である。

「偉大な自省によって、この表出力は、
より深く、より誠実なものとなっている。
26歳で亡くなったペルゴレージが、
傑出した天才が消え入る時、
その青春の高揚の中で、
これを書いた事を想起させる。」

このような総括の仕方は、冒頭以来の、
この解説者の得意とするところであるが、
ハ短調が死の直前の作品とされるのに対し、
この曲が何時書かれたかは分からないようだ。

しかし、これらの「サルヴェ・レジーナ」、
聴けば聴くほど、何を目的に書かれたのだろう、
という感じが強まって来る。

教会的というには、もっと狭い空間用に聞こえるし、
宗教的というよりは描写的にも聞こえる。
だれか依頼する人がいて、貴族の邸宅の広間で、
客人の前で演奏された、という感じがしないでもない。
各曲の性格は、その依頼者の性格を反映したような感じもする。

ボウマンの歌唱は、
カウンターテナーの不自然さを感じさせず、
心地よく聴けたが、録音のせいか、
空間の空気感は希薄である。
これまで、由緒正しい教会での録音を聞き続けて来たので、
今回のCDは、そのあたりの記載なく一歩譲る。

さて、4曲の収録の最後は、
Naganumaが弾くヴァイオリン協奏曲である。

「1710年から1736年までしか、
生きられなかったとはいえ、
ペルゴレージは、ナポリ楽派の偉大な人物の一人であった。
パトロン、Marquis Pianettiの寛大な計らいで、
彼はナポリでドメニコ・デ・マテウスにヴァイオリンを学び、
貧者のための音楽院に入学し、
ガエターノ・グレコ、さらに、
フランチェスコ・デュランテに対位法を学んだ。」

「寛大な計らいで、貧者のための学校に入った」
という部分に、
どうも釈然としないものを感じるが、
あるいは、その間、家族の心配はしなくてよい、
とかいう条件があったのだろうか。

「ナポリ派はオペラで有名だが、
ペルゴレージ自身、その多産な作品から、
コミック・オペラに影響を及ぼしている。
当時のイタリアは、純粋な器楽曲は、
作曲家の技術の練習用と考えられていた。
従って、その劇場音楽と宗教曲以外は、
室内楽、チェロと通奏低音のためのシンフォニア、
6曲のコンチェルトーネ、
1730年頃書かれた、見事な変ロ長調の、
ヴァイオリンとオーケストラのための協奏曲
くらいしか残していない。」

ここでは、ヴァイオリン協奏曲は、
彼の真作として紹介されているが、
資料によっては「偽作」とされている。
1730年頃とあるから、20歳頃の作品。

「この作品は古典派協奏曲のような、
イタリアオペラの序曲に由来する、
急-緩-急の伝統的な3楽章からなる。
最初のアレグロは、壮大なオーケストラの序奏が、
3楽章を通じて、明らかに伴奏から分離された、
ヴァイオリン独奏を導く。」

Track16.
序奏のような部分が、
すっ飛ばされたような唐突さで始まる音楽。
ヴァイオリンも、流れに逆らわず乗って来る感じで、
大見得を張って出て来たりはしない。

ここでは、「明らかに分離された」とあるが、
このCDでは、独奏者の線が細く、
曲想もあって、あまり近代的な協奏曲感はない。

「その書法はいまだ、行進曲風、
モティーフを含むパッセージの繰り返しが続くなど、
バロック的な発想である。
この作品の近代性は、独奏楽器の技巧的な書法、
それとオーケストラの対話にある。」
とあるが、ちゃかちゃかした音楽という感じで、
どうもとりとめがない。

Track17.は、ラルゴで5分以上かかり、
この曲で最も長い部分。
ヴァイオリンにあまり存在感がなく、
オーケストラにも深みがなく、
ペルゴレージ作で期待される繊細さはあっても、
求心力のようなものがない。

「中心のラルゴは、シチリアーノのリズムで牧歌的」
解説も、こんな感じで書き飛ばしている。

Track18.
「フィナーレのアレグロは、
完全に軍隊風の尊大なリズムで、
無条件に締めくくられる。
オーケストラのリズムに、ヴァイオリンは答え、
トリプレットや跳躍、
活発に音域を変えて、メロディを際だたせ、
ペルゴレージ自身が、
華麗なヴァイオリニストであったことを物語る。」

解説には良く書いてあるが、
これまで聴いた3曲の明確な個性の前では、
珍しい作品という以上の関心が湧かない。
終わり方も、いつの間にか終わっているのに、
気づかなかったというもの。

ネット検索すると、長沼は、
「The Octuor de France」という楽団で、
ヴァイオリンを弾いているようだが、
室内楽に向いた人なのかもしれない。
オーケストラの色彩との統一感からしても、
そんな感じがした。

そういう意味では、
この時代の協奏曲の特色を感じさせる、
上品な演奏である。

得られた事:「ヴィヴァルディの『サルヴェ・レジーナ』は、精巧に作られた工芸品のような趣き。パノラマ状に情景が広がる。どこで、誰を対象に演奏されることを想定したのものなのかが気になった。」
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by franz310 | 2011-12-18 11:32 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その306

b0083728_14555170.jpg個人的経験:
18世紀イタリアで書かれた、
聖母への祈りの独唱曲、
「サルヴェ・レジーナ」。
これまで、レオ、ペルゴレージ、
大物、A・スカルラッティと
聴いて来たが、
今回は、その息子、
ドメニコ・スカルラッティと、
ドイツ人ながらナポリ派の代表格、
ハッセの同曲を集めたCDを聴いてみたい。


このCDは、ハイペリオン・レーベルのもので、
クリスマスも近づくこの時期、
この表紙デザインはあんまりな感じもする。

この前聴いたペルゴレージ、レオらのCDが、
「受胎告知」の表紙だったのに対し、
こちらのCDは、ヴェロネーゼの絵画、
「十字架の重さに崩れるイエス」なのである。

色調も暗いし、テーマも最悪だ。
何だか、助けてくれている人がいるようなので、
救いはあるのかもしれないが。

が、今回のCDは、「サルヴェ・レジーナ」を
聞き比べるには、おあつらえ向きのもので、
美しい鍵盤楽器のためのソナタを残した、
ドメニコ・スカルラッティや、
ドイツ人ながら、こてこてのナポリ派とされる、
アドルフ・ハッセの「サルヴェ・レジーナ」を、
聴くことが出来る。

D.スカルラッティの偉大な父親、
アレッサンドロ・スカルラッティの、
カンタータまでも入って、
ソプラノやカウンターテナーなども交代で出て来て、
変化という意味では、
至れり尽くせりの内容である。

ジェームズ・ボウマンのカウンターテナー、
デボラ・ヨークがソプラノを受け持っているが、
二人で歌う曲はない。

2曲の「サルヴェ・レジーナ」は、
いずれもカウンターテナーが歌っていて、
3曲のカンタータのうち、最初と最後をソプラノが、
真ん中のものをカウンターテナーが担当。

クリスピアン・スティール=パーキンスのトランペットが、
時折、花を添える、ロバート・キング指揮の、
キングズ・コンソートの演奏。

ドメニコ・スカルラッティについては、
ピアノ音楽愛好家なら、知らない人のいない、
鍵盤音楽の大家であるが、
ここに聴くような作品においても、
どうやら実力者であったようだ。

そもそも、この人が、鍵盤音楽のソナタを作曲し始めたのは、
確か、ポルトガルに行ってからだったような気がする。
しかし、後半生を彼の地で過ごしたのは確かなようだが、
どのような理由で、王女の音楽教師になったのかは、
どうやら、よく分からないらしい。

1720年代には、イタリアを去っていたようなので、
ひょっとしたら、ペルゴレージなどの活動は、
知らなかったかもしれない。

「アレッサンドロ・スカルラッティの10人の子供たちの
6番目のドメニコ・スカルラッティの今日における名声は、
主に550曲に及ぶソナタなど、
鍵盤音楽の膨大な作品群によるものである。
オラトリオやカンタータの多くと同様、
彼の15曲のオペラの大部分は失われ、
残っているものも、ほとんど演奏されることはない。
ドメニコの初期の作品、
そして、32歳までの人生は、
大きな影響を与えたその父親に、
多大な制約を受けていた。
横暴な父親から引き離す、
1717年の法的記録からもそれは分かる。
1713年から1719年にかけての、
ドメニコのほとんどの宗教曲は、
ローマのジューリア聖堂の
合唱長であったとはいえ、
父親の監督下にあった時期のものである。」

私も、ケフェレックの弾く、
素晴らしいピアノ・ソナタ群によって、
D.スカルラッティの魔力を垣間見た立場ではあるが、
頭の中には、イベリア半島の王宮で、
王女に指導する威厳に満ちた肖像をイメージしていたから、
ここまで、父親に管理されていたというのは意外であった。

「その宗教曲の中で、ドメニコは、
和声の豊かさ、メロディの独自性は、
彼の後年の鍵盤作品の要素を示しているが、
感情豊かな宗教的テキストへの
彼の曲付けの主な特徴は、
折々のオペラの要素と宗教的敬意をミックスした、
美しいメロディにある。
音を構成する高度な技術が、
打ち込まれているにもかかわらず、
それは心地よく耳に響く。」

Track1からして、雰囲気たっぷりのこの曲は、
私たちに、信仰の世界の安らぎを感じさせてくれる。
ずーんと来る深い低音に抱かれて、
聖母への懐に抱かれるようである。

「『サルヴェ・レジーナ』の見事な曲付けは、
実にこのような豊かな和声と優雅な流れで始まる。」

Track2は、下記解説にあるように、
「続いて、トランペットが鳴り響くような効果の
劇的な部分『Ad te clamemus』と、
より緊迫したグラーヴェの部分『eules filii Hevae』が来る。」
という部分。

まずは、ぱっぱぱぱぱぱぱという、
「我らは叫ぶ(クラマムス)」という部分に対し、
沈鬱な、「追放されしエヴァの子(イクセルス)」
という部分は、悶々として、
「エヴァの子が叫ぶ」という、
一続きの詩句のはずだが、
思い切ったやり方である。

この部分は、さらに、「クラマムス」や、
「イクセルス」を繰り返し、
悲痛なレチタティーボのような、
「涙の谷」などの部分にも続く。

ちゃっちゃちゃちゃーららららと喜ばしいのは、
「あわれみの目を向けたまえ」の部分。
解説にも、
「高音の弦楽が互いに模倣して楽しげな中、
声楽部はさらに叙情的な書法を見せる
『Eia ergo』に回帰する。」とある。

Track3は、区切りがついたかのように、
「この追放の後、我らに示したまえ(ノービス)」と、
朗らかな歌が歌われる。

テキストに沿って、『Nobis post hoc exilium』では、
自信を持って始まるが、『ostende』では、ムードは静まる。」

Track4は、「オ・クレメンス」と、
神妙な声で歌い出され、
マリアへの嘆願の部分が始まる。

「最も感情に訴え、そして個性的な書法は、
『O clemens, o pia』で現れ、
ここでスカルラッティは、
特徴的に不協和音やほろ苦いメロディを用いて、
最後の、宗教的に抑制された『アーメン』が現れる前に、
素晴らしい美しさに音楽を高める。」

この楽章は、清らかな魂の救済のような部分を経て、
吹っ切れた終結部を有するが、
確かに、それに先だって、
深く沈潜するような、
自らの罪を自覚するような表現が素晴らしい。

本当の意味での宗教の力を感じさせる、
自らの戒めまでを思い出させる名品であった。
D.スカルラッティとは、こんな人だっただろうか。
今回、聴き進んでいる「サルヴェ・レジーナ」の中でも、
作曲家の精神の深さまでを感じさせる点では、
屈指の作品であった。

さて、このような楽曲の後、
ハッセの「サルヴェ・レジーナ」を聴くと、
同じカテゴリーにしてはいけないような気がして来た。

このCDのTrack13~16は、
ハッセの同曲が収まっている。
ハッセは、少年モーツァルトに粉砕されるまで、
大変な権勢を誇っていた人で、
下記のような解説から、元は歌手だったことを知った。

「ハッセのオペラ・セリアの作曲家としての、
イタリア(彼はここで、A・スカルラッティにしばらく学んだ)と、
ドイツにおける傑出した人気は、
彼の死後にそれが瞬く間に失われたとはいえ、
18世紀において無比のものであった。
フェティスは有名であったのに、
たちまち忘れられた作曲家の数少ない一人に、
ハッセを数えている。
ハッセの初期のキャリアは、
ハンブルク・オペラのテノールであって、
この役割のために叙情的なスタイルのものを作曲した。
イタリアを旅行した1730年頃、
彼は歌手から作曲家に転向、
ナポリで6年を過ごすことになる。
そのアリアが、声を披露するのに、
素晴らしい効果を発揮するとして、
彼のオペラはイタリアで大評判となった。
彼のオペラはドレスデンにおいても順風満帆で、
やがてヴィーンでも同様の賞賛を得た。
ヘンデルもハッセの音楽を賞揚し、
ロンドンのコンサートでは、
それが演奏されるように計らった。」

このような経歴の人であるから、
出自からして劇場の人で、
宗教との関わりは不明。

「膨大な作曲の仕事の中で、
少なくとも13曲の『サルヴェ・レジーナ』が、
ハッセのものとされている。
1740年にロンドンで出版されたイ長調のものは、
最も有名なものであるが、
ここでは、1744年の日付を持つ、
未出版のバージョンを収めている。
そのスタイルは極めてオペラ的で、
華美な器楽のメロディの魅力的な単純さと、
声に極めてふさわしいヴォーカル・ラインの混合である。
ジェスチャーもしばしば目立ち、
スコアはダイナミックスの変化もふんだんで、
突然のフォルテやピアノが散りばめられている。」

まさしく、このように書かれた通りで、
いかさま宗教の雰囲気がぷんぷんしている。
D.スカルラッティは、一緒にするな、と言いそうだ。
ドメニコは1685年生まれ、ハッセは1699年生まれ、
ちょっと世代も違うから仕方ないのであろうか。

Track13で始まる導入部のオーケストラは、
素晴らしい色彩感、神秘的な魅力に満ちているが、
「サルヴェ・レジーナ」の「サ」が、
「サーーーーーーーーーー」と入って来ると、
むかむかしてしまう。
それを装飾する楽器の軽妙な響きはどうだろう。

最初の1音から、声の展示会にしようとしている意図は見え見え。
宗教はまるで、うわべの言い訳だけで、
精神は完全に、それらしいジェスチャーをすることに、
集中しているように見えるではないか。

Track13.
「最初の楽章は、ペルゴレージを思わせる、
魅力的なオーケストラを背景に、
表現力豊かで、装飾に満ちた声のフレーズが、
優美にメロディアスである。」
と解説にあるとおりだが、
これは完全にコンサート・アリアではなかろうか。

Track14.も私は、何故か、むかついてしまう。
高音で魅惑的な弦楽が囀る中、
意味ありげな低音音型が気障である。

「『Ad te clamamus』は同様に効果的で、
細かい弦楽の指遣いが輝かしい声楽部に満ち渡る。」

まったく追放された身とも思えず、
左うちわで扇いでいるようなリズムのせいか、
優雅で豪勢な暮らしをしている感じがする。

アレッサンドロ・スカルラッティの言葉へこだわりや、
ドメニコ・スカルラッティの高邁な精神の時代は、
すっかり終わりを告げてしまったようだ。

ロンドンでの作品より、さらにオペラ的とあり、
さもありなんという感じもする。

Track15.
「『Eia ergo advocata』は、より直裁なアレグロで、
急速なパッセージで独唱者に試練を与える。」
とあるように、聖母をからかって、
こっちを見てみてというような情感。

軽妙な市井の情景のスケッチみたいな感じ。
とても日常的で、その意味では新しい。

Track16.
「最終楽章『Et Jesum, benedictum』は、
再び声楽のカンタービレが戻り、
日記作者のバーニーが、何故、ハッセを、
『最も自然で、優美、そして思慮深い
声楽曲の作曲家』と呼んだかが分かる。」

ここでは、イエスへの期待から、
敬虔なるマリア様への信仰までが歌われるが、
明らかにハッセの興味は、
そんなところにはない。

通りがかりのマリアちゃんに、
甘い声をかけているだけの音楽。
あるいは、自分の美声に酔いしれているだけ、
というような風情かも。

このように、18世紀を風靡した、
大作曲家ハッセの「サルヴェ・レジーナ」は、
それらしい効果に満ちた俗臭ぷんぷんの
美しい宗教音楽風アリアであった。

さて、これら2曲の『サルヴェ・レジーナ』の他、
このCDには3曲のカンタータが収録されている。
何故、すべて、『サルヴェ・レジーナ』で、
統一しなかったのかは不明。

エクゼクティブ・プロデューサーには、
ジョアンナ・ギャンブルとニック・フラワーの名がある。
二人の企画を無理矢理、がちんこしたのであろうか。

アレッサンドロのカンタータ、
特に最初の2曲は、単なる愛の歌で、
マリア信仰やキリスト教と関係しているとも思えない。

まず1曲目は、「テブロ川のほとりで」。
これは、ソプラノのためのカンタータながら、
トランペットの助奏がつく。

この曲の解説には、まず、
当時のカンタータの位置づけが、
明記されているので、注意深く読んでみたい。

「近年、カンタータはオペラに次ぐジャンルと考えられているが、
18世紀においては、作曲家の最高の芸術性を示すジャンルだと、
一般に考えられていた。
明らかにアレッサンドロ・スカルラッティ作とされる
カンタータは600曲を越え、
疑わしいながら、彼の作とされるものも、
100曲ばかりあって、スカルラッティは、
彼の時代の最も専門的なカンタータ作曲家となった。
スカルラッティのカンタータの大部分は、
コンティヌオを伴奏とする独唱用の曲である。
しかし、時代の流れは、器楽伴奏を付ける傾向にあって、
60曲ばかりのスカルラッティのカンタータも、
特別な器楽伴奏を有する。
ここに収録された3曲も伴奏を伴う。
一般に器楽の伴奏は弦楽器であるが、
時に、彼の作品ではリコーダやトランペットを伴う。」

シューベルトが歌曲を600曲残したように、
アレッサンドロは600曲のカンタータを残したらしい。
しかも、この形式のものは、当時は高く評価されていた、
芸術ジャンルだという。
シューベルトの歌曲にも、時折、
オブリガードの器楽部を持つものがある。
こじつけて見れば、似たような状況である。

「『テブロ川のほとりで』は、
高音域を演奏する難しいオブリガードのトランペット付きで、
ソプラノのパートナーとして演奏できる、
素晴らしいスタミナのプレーヤーがいたと、
推測することができる。
報いのない愛に失望した古典的なストーリーで、
形式も一般的なアリアとレチタティーボの交代で、
短いシンフォニアが前に付いている。」

Track5.は、繊細な序奏に、
トランペットが鳴り響き、
オルガンの響きも神秘的なシンフォニア。
霊妙な空気が漂っているが、
宗教的なものではない。

Track6.
ここで、テオルボがちゃらちゃらと鳴り、
オルガンの持続音の上をソプラノが輝く。

テブロの川辺の情景が広がるようである。

Track7.
シンフォニアとアリアで、
活発にトランペットと声楽が渡り合い、
「忠実な考えをしっかりと持ち、
悲しみや不安に悩む我が心に、
守護神を保て。
力強い戦士を率いるのは痛み」
といった歌詞を高らかに歌う。

Track8.
内省的なレチタティーボで、
「悲しみ、疲弊、嘆きのため息、
それらが彼を虐げ、
彼の目に語りかける」

Track9.
ペルゴレージの「サルヴェ」の先駆のような、
素晴らしく神秘的な序奏を持つアリア。
「不幸な眼よ、
我々は一人っきりだ。
涙を流す門を開けよう。」

Track10.
へんてこな意味ありげなバスに導かれ、
ソプラノが途方に暮れたような歌を歌う。

「少なくとも、凶星たちよ、
我が心がなんじらを思う時、
嘆きでそれを満たすだろうか。
愛の殉教者よ、
真実の涙に希望を見いだせ。」
解説にはこうある。
「このトランペット付きのアリアは、
その感傷性にぴったりで、
『少なくとも、凶星たちよ』では、
興味深い低音が響くような試みが見られ、
とろけるように美しいアリア
『不幸な眼よ』の不協和音など、
スカルラッティの最高のものが聴ける。」

スカルラッティの最高のもの、
とあるが、心情が豊かに伝わる作品だ。
ヴァイオリンの後奏も美しい。

Track11.
レチタティーボである。
「空を見て空や風に向かい、
優しい羊飼いは言いました。
・・・
この幻滅の恋人は、その心に言いました。」

Track12.
晴れやかにトランペットも歌うアリア。
「泣くのを止めよう。可愛そうな心よ・・
何も残りはしないが、不実なものの残酷さを、
ただ悲しもう。」

次のアリアは、Track17~22で、
「傷つけられて、おお貧しき者はいかに幸いか」は、
ジェイムズ・ボウマンがカウンターテナーで歌っている。

「『テブロ川のほとりで』と同様、このカンタータは、
報われない愛に関する、
一般的なテーマのテキストを中心としている。
スカルラッティの手稿は、
1702年10月のものである。」

1702年と言えば、まだ、ヴィヴァルディの活躍も、
本格化していない頃ではないか。

Track17.
この作品は、シンフォニアなく、
いきなりアリアで開始する。

「無垢な愛を求め、
弱り、傷つき、愛の痛みで、心が溶ける。
我が幸福は消え去った。」

解説にはこうある。
「二つのヴァイオリンが伴奏し、
冒頭から嘆きの方向に向かう。
進行バスの上で歌われる最初のアリアでは、
声のパートはめったに絶望から立ち上がらないのに、
会話のような対話と悲しみを交錯させる。」

Track18.
レチタティーボで、切々たるもの。
「甘く、貴重な愛、
何故、お前はこうも残酷に変わってしまった。
以前は、裏切ることなどなかったのに。」

Track19.
控えめなアリアで、シャコンヌのような、
暗く嘆きを繰り返して、伴奏も深く沈潜する。
「打撃を与えよ、我が心を突き刺せ、
苦しみの渦も私をたじろがせたりはしない。」

歌詞の内容と一致して、
強い信念を感じさせる名品である。

「『打撃を与えよ』では、感傷性が渦巻き、
和声もたっぷりとしており、
器楽群はのたうつ」とあるように、
強い感情表現で心を捉える。

Track20.
へんてこな低音音型にかき回される。
「何故、何故、そうも残酷なのだ。過酷にも。
私は忠実なまま、優しくして欲しい。」

Track21.
レチタティーボ、
「勝利はお前のものだ、愛。
私の心は屈してしまった。」
発作に駆られて叫ぶ感じ。

Track22.
明るい楽器群が歌いだし、
「私はお前を永遠に愛するだろう」
と歌手も最後に宣言する。

解説には、こうある。
「最後のアリアでは、
歌手と楽器奏者の間の短いフレーズでテンポを上げ、
この恋人は勝利を夢見る。」

このCDの最後に収録されているのは、
「おおベツレヘム、あなたの誇るべき貧しさに幸いあれ」
というもので、この時期にぴったりの内容のもの。
ただし、表紙デザインとは一致しない。

「アレッサンドロ・スカルラッティの、
この優れたクリスマス・カンタータは、
教皇によって、
『音楽の様々な楽しみで、
幼子イエスの降誕に関するイタリア語カンタータを』
聖職者の家族は注文すべしとされた当時の習慣に倣い、
イタリアの貴族からの委嘱によりものと思われる。
この作品は、降誕祭の晩梼から、
クリスマスイブの深夜のミサにかけての、
『一番豊かな夕食』に先だつ前奏として、
演奏されたものと思われる。」

Track23.
極めてアルカディア的な情感の序曲。
これから始まることに、
ついつい、心がときめく。

「スカルラッティの典雅なカンタータは、
伝統的な優美な序曲で始まるが、
その第2部には、
牧歌的なクリスマスのバグパイプのドローンを導く。
これは、コレッリの『クリスマス協奏曲』や、
ヘンデルの『メサイア』の『pifa』、
バッハの『クリスマス・オラトリオ』の第2部でも、
有名なものである。」

このように、クリスマスの清らかな空気が、
スピーカーからあふれ出す感じ。

Track24.
レチタティーボでは、
彼の産声があなたを照らす、といった内容。

Track25.
「序奏のようなレチタティーボの後、
さっそうとしたアリア『星々の美しい乳から』が始まり、
ダカーポにおいて、独唱者は装飾音の技術を開陳できる。」

「星々の乳から、われらのため太陽が昇る。」という内容。

Track26.
レチタティーボで、「無罪な赤子の情熱の愛こそが我らが盾」
と歌われ、
Track27.
では、
「豊かさの源泉は、産着に包まれ、
我が束縛を解いてくれる」
という繊細な部分。

「第2のアリア、『私たちの豊かさの源泉は』は、
微光を思わせるヴァイオリン独奏と、
高音でのチェロ、リュート、ヴィオラを伴って、
陽気なメロディを雰囲気豊かに伴奏して輝かしい。」

とあるように、繊細で愛情に満ちた
オーケストラが聴きものである。

Track28.
レチタティーボで、
「このこよなき生誕を祝福するべく急げ」、
とシンプルなもの。

Track24.
「心を揺りかごに寄せ、
この幼子の美しさを見よ」という、
心のこもった感動的なアリア。
澄んだ声と濃やかな色彩で曲を彩る
楽器の見事な調和が素晴らしい。

「最終楽章は、喜ばしい田園風景で、
抑揚のあるメロディがオーケストラのドローンで伴奏される。
ここには、幼子イエスを賛美する飼い葉桶の羊飼いを表す、
全バロック音楽における最も魅惑的なものがある。」

私はこのCD最後のこのトラックを聴きながら、
しばし、至福のひとときに酔いしれた。
こうした世俗的とも教会的とも言える作品では、
作曲家の敬虔な人間性が問われそうな気がするが、
スカルラッティ父子には、その気配が濃厚。
そんな親子ゆえに、最初の紹介したような、
確執が生じたものとも思われる。

解説の最後には、キングス・コンソートについて書かれているが、
ハイペリオンに当時、60もの録音を行っていたらしく、
パーセルのアンセムやオードの全集など、
さすがお国柄といった内容のものから、
ヘンデルの大作の録音群があったらしい。

得られた事:「スカルラッティ父子の音楽に見える敬虔な人物像と、ハッセの世俗的な音楽の俗臭が、生々しく対比できる録音。」
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by franz310 | 2011-12-11 14:56 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その305

b0083728_2375725.jpg個人的経験:
前回、取り上げた、
ナポリ楽派による
宗教曲のCDで、
レオやペルゴレージと
共に収められていた
A・スカルラッティの
「サルヴェ・レジーナ」は、
あえて紹介しないでいた。
今回のCDにも、同じ作曲家の
同じ題名の曲が収録されているからだ。


今回のCDは、メインは、
ペルゴレージの大名作、
「スターバト・マーテル」であるが、
以上の理由によって、
これについて多く語るわけではない。

それにしても、バッハより一世代若いにも関わらず、
14年も早く亡くなっている、
バロック期のこの薄倖の作曲家の宗教曲を、
何故、この陣容で録音しなければならないか、
そんな事を深く考えさせられるCDである。

この日本盤のデザインも、いかにも、
というもので、どうしても、この人気者たちを、
前面に持って来たかったらしく、
海外盤では、単に、
キリストの茨の冠をあしらっただけの、
シンプルで研ぎ澄まされたデザインだったのに、
ここでは、所狭しと、指揮者と、
二人の独唱者の写真が押し込められている。

枠取りもピンク色で、ほとんど、
オリジナルのデザインは塗りつぶされた感じ。

そもそも、この「悲しみの聖母」を描く音楽で、
何故に、デュトワは、こんなに喜んだ笑顔を見せているのか。
それだけで、かなりありがたさが減衰してしまう。
デュトワに罪はないのだが。
このようなテイストを見ると、
いかにも、ペルゴレージの誠実な音楽を、
ごてごてと塗りつぶしてみました、
という演奏を想像するしかない。

フランス音楽の名匠として登場、
NHKでも活躍しているデュトワが、
モントリオール交響楽団の小編成版を指揮し、
今から20年前、1991年に、
彼の地のST.EUSTACHEという所で、
録音されたようだ。

このサントゥシュタシュ教会は、
パリに有名なものがあるようで、
こちらは、ステンドグラスなどが有名。

このモントリオールの教会も、
ネット検索すると、由緒正しい姿が見られるが、
時に内部空間に特徴があり、
オーケストラ録音にも使われることで有名らしい。

とにかく、これだけでは国籍不明感があるが、
イタリアのバルトリと、
アメリカ人ながらイタリア・オペラで鳴らした、
ジェーン・アンダーソンが共演して、
かろうじて、イタリア伝来の音楽に、
正当性を付け加えている。

しかし、二人とも、どちらかというと、
宗教曲の人という感じはなく、
ばりばりのオペラ歌手と言った方が良い。

とはいえ、この教会での録音は、
非常に美しく、静謐な空気感が伝わって来る。
RAY MINSHULLというプロデューサー名が見えるが、
これは、カルショウを継いだデッカの大物で、
この教会とオーケストラを愛して、
このオーケストラによる
ベルリオーズ・チクルスなどによって、
その仕事の集大成としたという。

94年に引退し、2007年には亡くなっている。
彼がいなくなった事で、デッカのアイデンティティが、
無くなってしまったのだという。
そのような御大の引退間際の録音とすれば、
心して味わう必要があろうと言うものだ。

そのような事を調べながら書いていると、
この録音は、ペルゴレージはともかく、
とても澄みきった音楽という感じが好ましい。

特に、いつも私が気になるのが、
第2曲「嘆き悲しみ」で、
「苦しみたる子の魂を
剣が貫きたり」と歌われる部分である。

この残酷なシーンを多くの歌手は、
絶叫気味に歌って、
始まって早々にして、
この曲の気品を台無しにするが、
このCDでのアンダーソンの歌唱は、
絶妙なバランスを持って響く。

全く持って、
誰が買う事を想定したかが分からない商品であるが、
とても、気持ちの良い演奏であることは確かである。

二人の独唱者の天高く登る声の芳醇さや、
二重唱における調和の美しさも比類がない。
まったくもって、ビロードの光沢の贅沢さである。
とはいえ、下品なぎらぎら感はまったくない。

ペルゴレージのもう一つの名作、
「サルヴェ・レジーナ」も、
ロッシーニやベッリーニを得意とする、
アンダーソンの声だと思って聴くと、
ちょっと違う印象が立ち上っている。

精妙なオーケストラをバックに、
敬虔な感情がみなぎっている。

しかも特筆すべきは、さすが、
オペラ界で実力を認められているだけあって、
声の質感や色彩の多様さには、
聴く人を圧倒するものがある。

陰影を帯びて深くなったり、
ぴーんと張られた絹糸のようになったり、
ステンドグラスから差し込む光線のようでもある。

まさしく、こうした圧倒の中でこそ、
聖マリアの信仰の実感が、
得られるような気すらしてくるではないか。

作品が大きくなった感じもするが、
この魅力には抗しがたい。
ナポリでもモントリオールでも、
国籍不明でも、どうでも良いような気がして来る。

いったい、どのような経緯で、
この不思議な録音が生まれたのか、
誰か知っている人はいないだろうか。
プロデューサーの発案か、デュトワの発案か。

私について言えば、付録のスカルラッティがなければ、
絶対、手を伸ばさなかったものであると言って良い。
巷で話題になったという記憶もない。

そもそも古楽器全盛期のような時代において、
このような録音が現れていた事が不思議である。
こうした時代背景がなければ、このような、
人気ある歌手たちを共演させたい企画があっても、
まったくおかしくはなかったかもしれない。

このCD、表紙デザインは、
先に書いたように不気味であるが、
日本盤も解説は、かなり親切なものとなっている。

「スターバト・マーテル」や、
「サルヴェ・レジーナ」について、
歴史をひもとく詳しい解説があるし、
私が知らなかった事として、
何と、この「スターバト・マーテル」は、
ペルゴレージが最後の二重唱を完成できなかったのを、
レオナルド・レオが完成させた、
という逸話までもが紹介されている。

これは、Track12で聴ける、
「肉体が死するとき」で、
「魂が天国の栄光に捧げらるるよう、
なしたまえ。
アーメン」
と歌われる部分で、
訥々としたオーケストラを背景に、
悲しみの歌が切々と歌われた後、
突然、堰を切ったように、堂々とした音楽が現れる。

ペルゴレージが死んで完成できなかったものを、
師でもあったレオが代筆したとすると、
モーツァルトの「レクイエム」以上に、
感動的な逸話になるではないか。

音楽の盛り上がりも格別で、
その逸話を読んでから、
私は、ますます、この曲が好きになった。
また、このCDは、いろんな人に勧めたくなってしまった。

さて、このCD、最後に入っているのが、
私が聴きたかったスカルラッティ、
鍵盤楽器のソナタで有名なドメニコの父、
アレッサンドロの「サルヴェ・レジーナ」である。

この作品は、CD裏には、「attrib」とあって、
(伝)スカルラッティということになるはずだが、
解説では、完全にA・スカルラッティ作の5曲の一曲、
「ヘ短調」として、紹介されている。

この曲は、これまで聴いたレオやペルゴレージより、
前の世代の作品であるのに、
彼等の作品よりゴージャスで、
独唱曲ではなく、
第1曲「サルヴェ・レジーナ」(Track19)は、
何と、二人の歌手によって歌われはじめる。

この第1曲は、6分近くある長大な楽章で、
レオやペルゴレージの1.5倍から2倍ある。

二人の独唱者が、互いに嘆き合う様子は、
ペルゴレージの「スターバト・マーテル」を
想起させるものだ。

この曲など、二重唱の部分は、
いずれも、深い祈りの音楽になっていて、
後輩たちの諸作に負けていない。

解説(菅野浩和氏)には、
「声の美しさを立てる工夫など、
演奏効果上の特色は高い」と書かれているが、
すぐに、「饒舌」という烙印も押されている。

アレッサンドロ・スカルラッティというと、
何となく、いつも、こんな扱いをされて、
まるで、日本では人気がないが、
それで良いのだろうか。

第1曲後半にかけて、ヴァイオリンもオルガンも、
嘆き節で進むが、このあたりの静謐な空気感は、
非常に味わい深いものである。

一方、解説にあった、「饒舌」という表現は、
第2曲「御身に向かい」(Track20)などで、
何となく納得できる点で、
ここでの挑発的な弦楽などがそんな感じであろうか。

何となく、宗教曲というより、
劇場音楽みたいに聞こえはする。
が、アンダーソンの歌唱は、
水を得た魚となって解放感を感じさせる。

続く第3曲「われらは御身を」も、
第2曲と同じTrack20に入っているが、
ここに来ると、深いバルトリの低音が加わって、
再び、神妙な音楽になる。
ぽつぽつと印象的にオルガンの響きが聞こえる。
(4:17)
神秘的な感じが満ちて来る。
「われら、この涙の谷に嘆き泣くなり」。

第4曲「われらが代願者」(Track21)は、
このバルトリの独唱。
ヴァイオリンに対するヴィオラのように、
微妙な波長の音色が渋い。
このように、しみったれた音楽であるが、
真ん中に、英雄的とも言える楽章を入れるのも、
何となく、オペラ的バランスを感じた。
(1:50)

第5曲「祝福されし御子」(Track22)は、
再び、ソプラノ独唱となって、
御子を期待するにふさわしい、
明るい光を感じさせる音楽が舞う。
少し若いヴィヴァルディと同様の、
清新な雰囲気がある。
(2:02)

第6曲「おお、慈悲深き」(Track23)は、
再び二重唱で、敬虔な感情がみなぎる。
ヴァイオリンの伴奏などは、
レオやペルゴレージでもおなじみの嘆き節。
(2:28)

この曲は第1曲が6分もあったせいか、
16分半を超す大作となっている。

さて、前回、カーティスの録音で
ナポリ楽派の宗教曲を集めた中にも、
このスカルラッティの作品、
しかも「サルヴェ・レジーナ」が、
収められている。

ただし、こちらはハ短調(ニ短調?)で、
メゾ・ソプラノの、ネージが独唱曲として歌っている。
さらに書くと、こちらは10分程度の、
小規模なものになっていて、
デュトワ盤のものと比べると、
2/3以下の長さしかない。

そのせいか、トラックも分かれておらず、
Track16の中に、全曲が収められている。

さて、このカーティス盤、
解説(Carsten Niemann)において、
「レオが彼の世代や、
その次世代のモデルとなったとしても、
いわゆる『ナポリ楽派』における、
並ぶ者なき創設の父といえば、
アレッサンドロ・スカルラッティであったし、
今もそうである」と、
アレッサンドロ・スカルラッティの重要な役割が、
一筆書きで描き上げられている。

「レオと同様、人気のある教師でもあった彼は、
模範的なオペラやカンタータの作曲家としても知られ、
ナポリ総督の礼拝堂における宮廷オルガニストでもあった。
彼の芳醇な和声、厳格な対位法の掌握、
文学に対する見識ある把握、
特に、音楽劇に対するセンスによって、
次第に時代遅れになったとはいえ、
彼は若い世代にとって刺激的な模範であった。」

という風に、スカルラッティを抜きに、
ナポリ派を語るのは片腹痛い、
と言わんばかりの書きぶりである。

私は、この「芳醇な和声、厳格な対位法」という
一節を思っては、スカルラッティへの思慕を深めるのである。
オペラ界から教育界、教会まで高名を馳せた、
レオもどえらい人間だったようだが、
これを見ると、その先陣はスカルラッティだったようだ。

「いかに念入りにスカルラッティが言葉を解釈し、
いかに器用に、最小限の効果でドラマを作り出したか、
ということを、ニ短調の『サルヴェ・レジーナ』からも、
伺い知ることが出来る。」

何と、この曲は、世界初録音だということである。
しかし、ニ短調というのは、
ここに収められた曲と考えて良いのだろうか。

この作品は、こうした調性のせいか、
デュトワのヘ短調作品とは異なり、
ずっと、沈鬱な響きである。
先の、デュトワ盤を聴いていなければ、
スカルラッティの宗教曲とは、
こんなに地味なものなのか、
と早合点してしまいそうである。

解説にも、第1曲は、こんな風に書かれている。
「罪の意識のように同じ場所を旋回する、
低音モティーフの上に歌われる、
聖処女への三つの部分からなる祈りで、
慎み深い切迫感は、
スカルラッティの作品ではおなじみのものである。」

確かに、逡巡するような、
一人、もんもんとするような音楽。
歌詞にある聖母の呼びかけとして、
極めて謙虚な謙遜を感じさせるものである。

呼びかけてみても、
結局は、マリア様は相手にしてくれない、
と分かっているかのようでもある。

そこで、一閃し、まるで、
レチタティーボのような、
激しい音楽が始まる。

「叫ぶような『我らは叫ぶ』の部分では、
彼は突然、テンポを速め、それを撤回、
同様に、驚くことに、続く、『イブの子供らが』では、
嘆願の中、自分たちの無価値に気づいたかのようだ。」

多くの作曲家が、ここぞと元気な音楽を聴かせる部分だが、
スカルラッティのこの曲では、
はるかに歌詞に忠実である。

罪深きものの子孫なのであるから、
偉そうに呼びかけるのはおかしいのである。

「続く12/8拍子の部分では、
苦々しいため息に満ちている。
続く、『追放の地で呻き、嘆く』の部分では、
嘆願するように、
旋回する低音伴奏の束縛から声を解き放つ。」

これらの部分も沈鬱な自省の念に満ちている。

しかし、スカルラッティは、
ようやく、我々に希望の片鱗を見せてくれる。

「キリストへの祈りになり、
ここでは、嘆願に答えがあったかのようで、
ヴァイオリンが天のはしごを登っていく。」
と解説に書かれたところでは、
イエス誕生の期待が明るい色調で歌われ、
優しい、心のこもった伴奏が、
朗らかな響きを響かせる。

何となく、そのまま続いていく、
マリアへの呼びかけも、
極めて真実味にあふれて等身大だ。

「しかし、スカルラッティは、
突然、その動きを打ち砕き、
最後の聖処女への祈りのために、
再び12/8拍子に突き落とすが、これは、
罪深い人間が神の御母の取りなしを必要とすることを、
彼が感じていたことを、いかにも感じさせる。」

解説にも、こんな書き方がなされているが、
実に、素直な、個人的な宗教音楽となっている。

この曲は、これまで聴いたどの曲よりも、
歌詞の語句に忠実かもしれない。

得られた事:「A・スカルラッティの芳醇な和声、厳格な対位法、そして、内省的な宗教曲の魅力。」
「デュトワ盤、透明に輝く陶酔のペルゴレージ。」
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by franz310 | 2011-12-03 23:10 | 古典