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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その300

b0083728_112198.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディのオペラ
「バヤゼット」のCDには、
DVD特典が付いていて、
演奏会形式で録音された際の、
各歌手の歌唱風景が収められていた。
ヴィヴィカ・ジュノーという歌手が、
めざましい技巧で目を引いたが、
「ファリネッリのためのアリア集」
というCDでは、カストラート並みの
表現力の新人として紹介されている。


ファリネッリという、18世紀初頭、
一世を風靡したカストラート歌手は、
ヴィヴァルディと活躍の時期を同じくしている。

例の「バヤゼット」の解説では、
アンサンブル重視のヴェネチアのオペラ界を、
この人が、スター重視のナポリ派的なやり口で、
くまなく席巻していった様子が、
おそらくは、図式化された形で強調されていた。

つまり、ヴェネチア派を代表するオペラ作曲家、興行師としての、
ヴィヴァルディのヴェネチアでの活躍を疎外し、
彼の人気が凋落していった時の主要因だというのである。

1740年代になると、ヴィヴァルディに待っていたのが、
窮乏の中での、野垂れ死にだったのに対し、
ファリネッリには、
このCDブックレットの絵画に出ているような、
栄華が待っていたようだ。

この絵画では、芸術の女神が、
血色この上ない、自信に満ちた眼差しの、
彼の頭上に月桂冠をかざしている。

左下にいる赤子はキューピッドだろうか。
背景の天使は、法悦状態にも見える。
彼の歌を聴いて卒倒したご婦人がたを代弁している。

このCDの解説によると、
スペイン王国が直々に、
ファリネッリを王室に向かい入れ、
彼はその側近として働いたとある。
老いてからは、ボローニャで隠遁生活をしたらしい。
物質的には満たされていたのだろう。

聴衆の婦人らは、
彼を「神」とさえ呼んでいたそうだが、
先の「バヤゼット」の解説によると、
ヴィヴァルディは、こうしたスーパースターに対し、
質の良い歌手たちによる包囲網作戦で臨んだようである。

ということで、これまで、その解説書から、
アンナ・ジロー(コントラルト)、
マリー・マッダレーナ・ピエリ(コントラルト)、
といった、ベテランがヴィヴァルディを支えてきた事、
新人、マルゲリータ・ジャコマッツィ(ソプラノ)
などを、ヴィヴァルディ自身が、
発掘してきたことについて読んで来た。

それだけでなく、ヴィヴァルディは、
様々な戦術で、ナポリ派全盛の中、
活路を見いだそうとしていた。
ファリネッリがヒットさせた音楽も自作の中に入れ込み、
逆に、ファリネッリの人気を逆利用しているのである。

確かに、敵のヒットナンバーまでを組み入れてしまったら、
スペック競争では負けるわけはなくなる。
アンサンブルを大事にする、という美学にも則っている。

いかにも、アップルをオープン戦略で包囲する、
グーグルの作戦のようにも見える。

一発勝負がカストラート王国だとすれば、
ヴィヴァルディ共和国は、
まさしく衆知を結し、総力戦で臨んだことになる。

が、その後、ヴィヴァルディが、
次第に追い詰められていくのは、
結局は音楽ではなく、
歌う人そのものが重要だという流れに、
抗しきれなかったということであろうか。

そりゃそうだ、という気がしなくもない。
やはり、ブランドが確立したものに人は弱い。
iPhoneを買いに来た人に、
エクスペリアはいかがですか、
といって寝返らせることは難しいだろう。

また一方で、
ヴィヴァルディの方も、
カストラート歌手たちの、
両性の魅力を合わせ持った、
力強く、音域が広く、均質に伸びのある声を、
利用しなかったわけではない。

この前の「バヤゼット」の解説でも、
先のソプラノやコントラルトに加え、
マンツォーリというカストラート歌手が取り上げられている。

その前に、マレスキという若いバリトンの事も、
ヴィヴァルディの育てた仲間として取り上げた後、
例の「バヤゼット」の解説では、
このように、マンツォーリについて書いた部分がある。

「『バヤゼット』の三番目の若い歌手は、
フィレンツェ人のカストラート、
ジョヴァンニ・マンツォーリで、
ヴィヴァルディ自身が全曲を書いた、
イダスペの技巧的な役割を与えられた。」

イダスペは、ヴィヴァルディのオペラ、
「バヤゼット」の中のギリシア王子、
アンドロニコの友人の名前である。

「この若い男性ソプラノは、
3年前にフィレンツェでデビューしたばかりで、
ここで、彼は喜劇的な役割を演じていた。
彼に著名な劇場でシリアスなオペラを歌わせたのは、
ヴィヴァルディであって、
このことが、1782年に亡くなるまで50年に及ぶ、
彼の長く輝かしいキャリアを保証した。」

このように、ヴィヴァルディは、
単に作曲をしていただけではなく、
プロのスカウトの目で、若い歌手を発掘した。
シューベルトなどは、その点を考えると、
呑気なもので、ただ作曲をしていて、
歌ってくれる人を待っていたような感じだ。

彼の場合、オペラ「アルフォンゾとエストレッラ」を作曲しても、
フォーグルに断られてがちょーんとなったり、
ミルダー=ハウプトマン夫人に楽譜を送りつけたりはしても、
君、これを歌ってみたらどうか、というような立場にはなかったし、
そういう事をしそうにもなさそうである。
そんな立場になる以前に、
若くして亡くなったのは確かだが、
長生きしても、オペラで成功するためには、
こんなにいろいろな事をしなければならなかったわけだ。

さて、解説に戻ると、驚くべきことが書かれていた。

「彼が『バヤゼット』に出演したことで、
彼は、ヴィヴァルディとモーツァルトを繋ぐ、
象徴的なリンクとなった。
彼はキャリアも終わり近くになって、
マンツォーリは、ミラノにおいて、
若いモーツァルトの『アルバのアスカーニオ』の
タイトル・ロールを歌ったのである。」

この記述は、非常に興味深く面白かった。
ヴィヴァルディは1678年生まれで、
1719年生まれのモーツァルトの父親、
レオポルドとも41歳も違う。

つまり、祖父と孫の関係より離れている感じなのに、
ヴィヴァルディの活躍期間が長く、
「バヤゼット」が60歳近くの作品で、
一方のモーツァルトが早熟で、
十代からオペラを書いたりしているがゆえに、
こうした事が起こりえたのである。

ヴィヴァルディとモーツァルトが逆だったら、
なかなかこうは行かなかっただろう。

なお、モーツァルトは、1756年生まれなので、
ヴィヴァルディとは、80年近く年が離れている。
「アルバのアスカーニオ」は、1771年の初演、
「バヤゼット」が35年だったので、
36年後にまだ現役だったということ。

これは、現代においては、十分あり得る話であるが、
18世紀においてはどうだったのだろう。

「アルバのアスカーニオ」は、
ハッセのオペラと並べて演奏されたもので、
15歳のモーツァルトが、長老ハッセを、
かすませてしまった逸話で知られるもの。

ハッセはナポリ派の技法を身につけた大家である。
ちなみにこのCDの表紙写真は、
ジュノーが、ハッセの「ソリマーノ」という
オペラを演じた時の出で立ちを撮影したものだそうだ。

このジュノーのCDでも、
ハッセのオペラからのアリアも一曲が、
Track10に収められている。
オペラ「アルタセルセ」より、
アリア「この心地よい抱擁で」というものである。

アルタセルセとは、ペルシャ王セルセの息子の名である。
このセルセは、部下のアルタバーノに殺され、
セルセの娘と自分の息子アルバーチェを結婚させようとするが、
その時、アルタセルセが現れる、という筋。

「この最後の分かれ、心地よい抱擁で、
私の理想である父よ、私を護りたまえ。
残酷な運命の影が私にはあるが、
この抱擁が安らぎと慰めになりますように。」

アルタセルセとセルセが抱き合っているのか、
アルバーチェとアルタバーノが抱き合っているのか、
よく分からないが、アルバーチェは、
アルタバーノにセルセ殺害の罪を着せられるので、
おそらくは後者の別れのシーンなのであろう。

いずれにせよ、別れのシーンにふさわしく、
しみじみとした感情に満ちたメロディが美しい。
しかも、ヴィヴァルディよりも、
モーツァルトの時代に近い感じがする。
装飾音も無理なく、効果的に使われている。

ハッセは、1699年生まれとあるので、
ヴィヴァルディと同時代とはいえ、
ひと世代若い。
どちらの音楽が新しいという感じではないが、
異なるファッションが浸透してきたのは確かだろう。

このオペラは、かなり人気があったのか、
追加で、ポルポラがアリア「今しもたれこめたこの暗雲は」
というものを書いていて、これも、このCDの
Track9に収められている。

題名にしては明るい、
ミュゼットというか楽しげな舞曲である。
確かに内容は、ちょっとおのろけ的に見える。

「あなたのきれいな睫毛から、
怒りの威嚇があふれるが、
私の愛する太陽よ、
それはすぐにかき消える。
あなたの魅力的な美しさで、
恐ろしい災害で天は私を罰するのだ。」

怒った女性の美しさを賛美するような感じだ。
解説のシュトロームは、これを、
「ハッピーエンドアリア」と呼んでいる。

女性が気を良くして、怒っていたのが、
スマイルになってハッピーエンドになるということか。

ポルポラは、もう一曲、
Track8の「心地よくさわやかなそよ風よ」
というのもある。
こちらは、オペラ「ポリフェーモ」から、
とあるが、解説のシュトローム氏は、
かなりお気に入りのようだ。

牧歌的な作品の中でも出色と書いている。
ポルポラは、ハッセとヴィヴァルディの間の世代だが、
確かに、メヌエット風の展開も優雅で、
モーツァルトの時代を感じさせる。

が、このような音楽になると、
何も馬力が売りのカストラートが、
特に歌う必然は感じられない。
むしろ、ジュノーのような、
繊細な歌い方で良いような気もする。

指揮をして解説も書いている、
ルネ・ヤーコブスは、
このCDの企画責任者のシュトローム教授によって
これらのアリアの原譜コピーを、
送ってもらえたことを喜んでいるが、
とんでもないオタクたちの企画だとわかる。

このCDは、アリア集の間に、
ガルッピ(1706-1785)の、
4声の協奏曲ハ短調という器楽曲が収められているが、
Track5.悲痛なグラ-ヴェで始まる魅力的な作品で、
明らかにヴィヴァルディの時代と、
モーツァルトの時代を結んでいる。

Track6.第二楽章のアレグロでは、フーガ的な展開が見られ、
「ジュピター交響曲」が出て来た、
土壌のようなものすら感じることが出来る。
非常にシリアスでありながら、
メロディと動感にあふれている。
興奮したヤーコブズが思わず唸る声も聞こえる。

この人はカウンターテナーとして鳴らした人であるが、
うなり声はテナーではない。

この協奏曲は、奇妙なことに、
Track7.ため息に満ちた、
いじいじしたアンダンテで終わる。
煮え切らない感じなのである。

ハイドンの「告別交響曲」の方が、
まだ、終わる感じがする。

このような中、ジュノーの声が立ち上がって、
先のアリアが始まるのは、なかなか泣かせる設計である。

さて、ポルポラ、ハッセ、ブロスキと並んで、
今回選ばれたオペラ作曲家は、ジャコメッリである。

この人も1692年生まれとあるので、
ヴィヴァルディより1世代とは言わないが若い世代。

この人になると、「新音楽事典」(音楽之友社)にも出ていない。
ブロスキも出ていない。
このような企画でなければ、
なかなか、日本では親しまれない人たちであろう。

Track4のシチリアーノ、
「神様、気が遠くなりそうです」は、
シュトローム教授によれば、
「哀切な表情が精彩」を放ち、
「シューベルト風の哀調を」備えたものである。

私は、こんな所でシューベルトに出会えて、
当然ながら、大変、満足している。
シュトローム教授の脳裏に、
どのシューベルト歌曲が浮かんだか分からないが、
確かにそんな感じがする。

「ファリネッリのレパートリーとしては珍し」い、
と解説(余田安広訳)にあるが、
確かに、これまた、パワフルな男性的肉体で歌われる必要はなく、
ジュノーのような、魅力的な女性が歌っても、
全く違和感がないものだ。

弦楽の伴奏によるラメントからして美しいが、
時に、木管が重なって色彩感を豊かにしている。
「シューベルト風」とあるが、
いかにも北方のバラードのような感じが、
語られているような感じすら漂う。

が、歌われている内容は、
恋人の別れが死ぬより辛いとか、
真実を語って欲しいなどと連呼しているだけである。

哀感を増すために、時折、オーケストラが、
合いの手を入れて劇的な雰囲気を高めている。

「愛する人よ、私はあなたから離れると、
気を失いそうになる。
恐らく、その苦さは、愛する心には、
死そのものより苦い。
私こそが、あなたの唯一の幸福、
あなたは私のために生まれ、
あなたは常にあなたと共に、などと言い、
真実を語らないならば。」

こうした、言わばドラマの切れ端のような詩には、
確かに、シューベルトも数多く作曲をしている。

オペラ「シリアのアドリアーノ」の中の、
パルティア王子、ファルナスペが歌うものらしい。
内容はよく分からない。

また、ジャコメッリの作品からは、
Track11.「恋するナイチンゲール」が選ばれていて、
このCDの最後を飾る14分の大曲となっている。

最初、リュートの伴奏による、
強烈なレチタティーボの悲痛な序奏から始まるが、
(この部分の歌詞対訳はないようだ)
1分もすると、ナイチンゲールのさえずりのような、
陽気な木管の音色が飛び跳ねる。
急に軽妙な音楽となり、
かつ、技巧の駆使が始まる。

あああと歌うと、ぴーひょろろーと木管の合いの手も入る。

驚くべきことに、このアリアの詩は、
わずか、6行しかない。

「木の葉っぱの中で、ひとり鳴く、
恋するナイチンゲールは、
運命のむごさを語る。
陰深い森で、彼女が、
それに答える哀れみ深い声を聴いたなら、
心も軽く、彼女は枝から枝に跳ね回るだろう。」

なんじゃこりゃの歌詞である。

そもそも、彼女とは、ウグイスか?
囀るのはオスなんですけど。

この、あああ、あああーのような部分も、
私が勝手に想像するカストラートは、
ものすごいスタミナで、
一気呵成に天に登るような声で、
聴衆を魅了したのではなかろうか。

ジュノーは、4分くらいまで来ると、
ちょっとへなへなしている。

シュトローム博士によると、
ジャコメッリのアリアにこのあああああを添えたのは、
ファリネッリであるような書き方をしており、
「恋する」、「歌う」、「むごさ」、「ナイチンゲール」にも、
コロラトゥーラを添えた、とある。

何と、このアリアが歌われるオペラは、
主人公の青年が母親から命を狙われている、
という内容だという。

何故なら、彼女は息子は殺され、
この青年が、その犯人だと思っているからである。

そんな悩ましい状況を描いたものだというには、
何と、間の抜けた音楽であろう、
などと考えてはいけないらしい。

緊迫した状況で、鳥の鳴き声を模して、
彼は、命を狙う母親の気持ちを、
どこかに逸らそうとしているのだろうか。

この解説を読んでから、改めて詩句を見ると、
母親をナイチンゲールになぞらえ、
自分も、その嘆きに同情します、と言っている、
ということだろう。
ナイチンゲールは、だから、
彼女でなければならなかった。

また、あえて、
軽妙に歌う方が、復讐に燃える、
母親の気持ちを、余所に向けることが出来そうだ。

「絶妙の手法で自然界のいとなみを表現する」と、
解説にあるが、
あるいは、この歌い手は、
ヴィヴァルディの「四季」のように、
さっと、この場に自然描写をすることで、
聴衆や、この思い込みの激しい母親の意識を、
いきなり音楽の力で屋外に連れ出そうとしているのか。

レチタティーボが妙に深刻なのは、
そんな状況の反映ということか。
成る程、だから、こんなにも、
わざとらしく明るく、陽気な音楽が、
十数分も繰り広げられるのである。

これは、ハッピーエンド・アリアになったのだろうか。

しかし、ナイチンゲールなど、ひとつひとつの重要単語に、
ナイチンゲええええええ、ええええええールといった、
装飾を加えているということになる。

あああああー、とか、ああっ、ああっ、
ああああああっ、とか言っている部分が、
やたら長すぎるので、
歌詞に比べて長い曲に思えるのだが、
歌詞を利用して、別の世界を表現しようとしているのだから、
仕方がないのだろう。

以上、聴いてきたように、
このジュノーのデビュー盤、
カストラートの歌手にあやかりながら、
ファリネッリの歌い方を再現しようとしたものではない。
より節度に満ちた、品格の高いものとも言える。

とはいえ、一部の曲は、
ずっと、あああ、ああああ、
とか言ってるだけの曲なので、
その節度がどれだけ必要かは分からない。

ただし、カストラートのための曲にも、
情感勝負の曲もあって、そうしたものには、
彼女のアプローチは適していると思われる。

得られた事:「カストラート歌手、ファリネッリは、歌詞にある重要な単語を強調して強烈な装飾を加えたが、それは単に声を披露しているだけでなく、言葉を越えた音楽による背景描写までを想定したものであった。」
「ハッピーエンド・アリア。歌の力で、相手の感情を変えてしまう。」
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by franz310 | 2011-10-30 11:02 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その299

b0083728_1681393.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディ円熟期の大作、
オペラ「バヤゼット」には、
ビオンティによるCDがあるが、
ヴァージン・クラシックスから
出ていたこの商品は、
忘れられていた傑作を
復活させようという意欲に満ちた、
添付解説書でも魅力的であった。
「バヤゼット」を書いた頃の
この作曲家の環境も勉強になる。


ヴィヴァルディ関連のCDを聴き進み、
ナポリ派がオペラ界を席巻し、
ヴィヴァルディをはじめ、
ヴェネチア派が追い詰められた話ばかり聞かされると、
どうも、ナポリ派が悪者に思えて来るし、
その音楽がもっと知りたくなってくる。

しかも、ビオンティのCD解説では、
オペラ「バヤゼット」の具体的解説の後、
続いて、「ヴィヴァルディ対ファリネッリ」
という見出しの一章があるのを見て、仰天してしまった。

ファリネッリとは、日本では、主に、
映画の主人公としても知られている、
カストラートの代表選手である。

ちょうど、この人に焦点を当てた、
「ファリネッリのためのアリア集」などというCDがある。
このCD、アラスカ出身の歌手ヴィヴィカ・ジュノーのデビュー盤で、
何と、「バヤゼット」で、イレーネ役を歌っていた人だ。

こちらの解説(ラインハルト・シュトロームとヤーコブズ)も、
素晴らしく充実したものだが、
日本盤(余田安広訳)も出たので、詳細は、そちらを参照されたい。

このCDは、ハルモニア・ムンディから出ているもので、
デビューしたても新人にしては、豪華なバックを従えている。
ルネ・ヤーコブス指揮のベルリン古楽アカデミーである。

ジャケットはシンプルで、
黒い基調に、白装束の若い女性が立っているだけ。
ハルモニア・ムンディというと、絵画調の表紙を連想するが、
今、手にしているものは、ちょっと違う感じである。

妙に地味な外観だが、
CDに収められた音楽は、
「バヤゼット」を聴いて喜んだ人なら、
聴きたくてたまらないものかもしれない。

ファリネッリが歌ってヒットした、
オペラからのアリアが収められていて、
ポルポラやブロスキ、ハッセ、ジャコメッリといった、
いかにもヴィヴァルディを苦しめそうな作曲家が、
CDケース裏面には、ずらりと名を連ねている。

どうせなら全曲を聴きたいものだが、
敵の将軍級がこれだけ揃っていると、
胸が高鳴って来る。

1曲目のポルポラから、
非常に明るい色彩があふれて、
待ってました、という感じ。
ナポリ派はシンプルで美しく、
曲想の変転はドラマティックである。

Track1.ポルポラ(1686-1768)作曲
歌劇「オルフェオ」より「この上なく悲しい恋に」。

ポルポラは、Track8、9にも出て来るが、
この人は、ナポリ、ヴィーンの両方の宮廷で活躍した人で、
メタスタージオとの「アンジェリカ」で成功、
これでファリネッリがデビューしたのだという。
作曲家ハッセもこの人の弟子だという。

が、この人の後半生も悩ましかったようで、
ロンドンではヘンデルの好敵手であったが撤退、
ドレスデンの楽長の地位はかつての弟子のハッセに取られ、
ハイドンを教えたりしたが、
結局、ナポリでみじめな晩年を送ったとされる。

この「この上なく悲しい恋に」は、
中間に、強烈な装飾パッセージが出るが、
前半は、メヌエットのようなリズムが明るく、
優美そのものな音楽である。

内容は、最も悲しい恋が幸福なものになった、
というものであるが、
愛が運ぶ全ての苦痛は、一瞬の歓喜で消え去る、
という部分で悲愴な熱唱になるが、
これは、もっと感極まった高鳴りにしなければなるまい。

ただし、ジュノーが、当時のカストラートのように、
恐るべき声を響かせているかというと、
そんな事はなさそうだ。

このジュノー盤CDの解説をちらりと見ると、
「ファリネッリの声は輝かしく、
豊かで、しかも力強く、
張りのあるソプラノだった」、
というクヴァンツの回想が出ているが、
「呼吸法は豊かな肺活量に支えられ、
声帯は自由闊達な動きをしていた」、
という特質なども、
別にジュノーの歌から特別に感じられることではない。

「若者らしい情熱、たぐいまれな才能、
聴衆の熱いまなざし、鍛えられた喉。
それらを一身にあつめ、
時として惜しげもなく自らの歌で発散した」
というような圧倒される類のものではない。

圧倒される、という意味では、
この前聴いた、「バヤゼット」の時のジュノーや、
他の歌手陣の方が強烈だった。

2002年のこのデビュー盤から2年、
2004年のオペラ全曲録音では、
多くの歌手仲間に囲まれて、
より自然で、伸びやかな表現になっているような気がする。

よく見ると、この解説の中で、
ヤーコブズは、別に、ジュノーが、
カストラートを再現できる唯一の歌手だとも、
カストラート並みの表現を行っているとも、
書いていないのではないか。

日本盤にある「長年再現を夢見てきたヤーコブスが、
アラスカ出身の歌手を発見」とは、
単に、誇大妄想と商売上のテクニックと見た。

ヤーコブズは、彼が書いた解説の中で、
「歴史に消えたカストラート」という題で、
男女両性の声を併せ持つ夢を追った結果としてのカストラートと、
男役を専門とするコントラルトは似ていることを指摘、
バロック時代にも、カストラートが女役を演じ、
女性のアルトが男役を演じても、
オペラ・ファンたちは異を唱えなかったと書いており、
むしろ、カストラートの役は女声でやれば良い、
と、暗に言っているようである。

それは、「バロックの本質である異形趣味」、
「演劇にひそむ非現実の世界に対する憧れ」
という、ロドルフォ・チェレッティの言葉を引用し、
当時の時代の病気のようなものと、
書いているのではなかろうか。

この後、彼は、当時の教本にある、
「張りのある胸声と、やわらかく繊細な頭声とをブレンドする」
という歌唱法こそが重要と強調した論旨に移っていく。
それには、男性歌手のファルセット唱法では対応が難しく、
むしろ女性歌手に任せた方が良い、というわけである。

「太くまろやかな低音も、柔らかな高音も出せた上、
めまぐるしい軽快な音型も表現」できる、
メゾ・ソプラノの利点を挙げる一方で、
ヘンデルのオペラでカストラートが不足した場合、
女性歌手で代用することはあったが、
「カウンターテナー」で代用することはなかった、
という説も紹介している。

むしろ、男性歌手が、高音を出そうと、
ファルセット唱法を濫用したことの害を列挙し、
高い声は女声にまかせれば良い、
という考え方を開陳しているのである。

若い頃、カウンターテナーで鳴らしたヤーコブスの、
前半生総括とも言える論調で、
何となく寂しくなって来る。
(「劇的オラトリオでは、カウンターテナーは重要だ」、
と言ってはいるが。)

さて、このような主張を持った指揮者であるから、
ジュノーにファリネッリのパワーまでを、
再現させるつもりで録音したものではあるまい。

繰り返し、ヤーコブスが書いているのは、
ファリネッリなどカストラートの歴史的意義は、
むしろ、女声風の高音から、男声風の低音までを、
均一に出す歌唱法を編み出した点なのである。
そうした均質感をこそ、味わうべきCDなのであろう。

そういった観点から聴くと、
このジュノーの歌唱は、少々固いながらも、
声の均質さに関してはバランスが取れている。

そんなポイントが重要なのだとしたら、
ヴィヴァルディは、むしろ、意気投合したのではないか。
別に、「ヴィヴァルディ対ファリネッリ」という構図ではない。
そもそも、ファリネッリは1705年生まれ。
ヴィヴァルディより27歳も若く、ひと世代も違う若造である。

昔、ベルリオーズの評伝で、
「ベルリオーズ対ワーグナー」という一項があったが、
別に、対決構図にしなくても、いいのではないかと思った。
それと似た感覚である。

しかし、昨今のIT革命時代、
若い起業家が次々と登場し、
かつての若手だったゲーツが引退し、
ジョブズが死去している現状を考えると、
ビジネスという観点では、
まさしく「ヴィヴァルディ対ファリネッリ」
であったことが、読んでいくうちに分かる。

このジュノー盤解説によると、
彼がオペラに関わったとされるのは、
1720~37だと書かれており、
まさしく「バヤゼット」作曲、初演の時期に、
あるいは、ヴィヴァルディが興業主として活動していた時期に、
ばっちりと重なっているのである。

そして、このシュトロームの解説によると、
ファリネッリという歌手が、
ものすごい声量でトランペットと張り合った話、
彼が出る劇場に観客が殺到したので、
ライヴァルの劇場が激減した話などが書かれている。

確かに、こんなのがいたら、
ヴィヴァルディとしても、心が落ち着かなかったであろう。
そのあたりのことが、後述する、
前に聴いたCD「バヤゼット」の解説にも、
よく書かれている。

この「ヴィヴァルディ対ファリネッリ」という構図は、
純粋に芸術上のものではなく、
死活問題としての、ビジネス上の火花が強烈だ。

しかし、この時期を過ぎると、ファリネッリは、
20年以上もスペイン王室の専属になった、
といった事が書かれている。
あっけない終わりである。勝ち逃げか。

このデッドヒートの後、
ヴィヴァルディは亡くなってしまうが、
素寒貧で死んだ、とされているので、
確かに、片や勝ち組、片や負け組と見えなくもない。

ここで、再び、「バヤゼット」のCDの解説に戻ろう。
ヴィヴァルディのCDで読めば、このファリネッリは、
何ゆえに戦うべき相手であると解説されているのだろうか。

「『バヤゼット』において、ヴィヴァルディは、
自身の芸術の独自性のみならず、
流行に甘んじることなく、
えり抜きのアンサンブルを組み合わせる、
素晴らしい才能を披露した。
まさに、強力なカストラートが、
絶対的勢力を持っていた時代である。
高いギャラを要求する気まぐれなスターたちに、
ばかげた賃金を費やすことは、
すべての劇場が破産の瀬戸際にあることを意味した。」

このような解説を見ると、
ヴィヴァルディは、高いギャラを要求する、
売れっ子スターに反対したことはあるかもしれないが、
ファリネッリを目の敵にしていたわけではなさそうだ。

「興業主としてのヴィヴァルディは、
20年以上の長きにわたって、
オペラで彼を成功させてきた方法を続けることを好んだ。
彼はスーパースターたちを無視して、
彼のサークルに属していた仲間たちや、
新しく発見した才能や新星からなる、
アンサンブルと仕事をすることを好んだ。」

ということで、個人芸に対し、
チームワークで対抗しようとしたわけである。
まるで、どこかの国のサッカーや、
ハンドボールの戦い方みたいな話だ。

確かに、オペラの本質としてはヴィヴァルディの方が、
正道と言えるのかもしれない。
ファリネッリたちは、
オペラを単なるショーにしてしまったようにも読める。

が、ヴィヴァルディが興行主だったことを考えると、
これは、どこにどう投資して、どう利益を得るかという、
経営戦略にも思えて来るから面白い。

最近亡くなったカリスマ経営者、
スティーブ・ジョブズ氏に敬意を表するならば、
カリスマが作り上げたiPhoneに対し、
グーグルなどが、OSはオープンだと言う美学を掲げ、
アンドロイドを提案したようなものか。

が、こちらはまだ勝負はついていない。

あるいは、ゲーム業界。
みんなで大作を作る従来型の任天堂に対し、
誰でも才能があるものがスマートフォンに飛ばし、
大ヒットさせて行くような状況であろうか。

ユーザーや観客にとっては、
どっちも時間が楽しく過ごせれば良いのである。

話がかなり妄想になってしまったが、
この「バヤゼット」のCD解説は、
実は、この後、ヴィヴァルディの仲間たちの話が、
大変、興味深いのである。

このあたりで観念ではなく、人間の活動を見ていく感じ。

「前者に属する歌手の中でのリーダーは、
ヴィヴァルディの古くからのお気に入りのコントラルト、
アンナ・ジローで、しばしば、
10年以上も彼の生徒であり、
『赤毛の司祭のアニーナ』と呼ばれ
親友であり、秘書であり、
おそらくはプライヴェートな看護婦でもあった。」

これは気になる。
ネット検索すると、この二人をテーマにした、
小説もあるようだが、私は知らなかった。

「コンティ神父によると、最も美しい一人ではなく、
また、その声が力強いということもなかったが、
証言者によると、『美しくチャーミング』であったジローは、
それにもかかわらず、ヴィヴァルディのオペラ活動では、
中心的な役割を果たし、
1737年に彼は、
『ジロー嬢なしに、オペラ上演は不可能です。
何故なら、彼女のような度量のプリマドンナはいないからです』
と書いている。
その声に対する評判にも関わらず、
アンナ・ジローは、傑出した女優と考えられており、
プリマドンナとしての彼女を想定した役柄は、
1730年代のヴィヴァルディの全作品に見られ、
その能力が明らかにされている。
アステリアの猛烈な役柄は、
彼女の能力を引き立てるものだ。
その役柄は、ゴルドーニが、
ヴィヴァルディのこう言ったという事からも分かる。
彼女は『なよなよした歌唱』は好まず、
『異なった感情』を表すために
『ため息混じりの途切れ途切れの言葉と、
演技と扇動によって』、
むしろ『表現と興奮』の歌唱を好んだ。」

ヴィヴァルディの仲間たちの、生々しい紹介は、
これまで私は読んだ事がなかった。
私には大変、新鮮であった。

しかも、このジローは、公私ともに親密であったようだ。

ただし、まだまだ続くので大変だ。

「タメラーノ役は、もう一人の長いつきあいの仲間、
フィレンツェのコントラルト、
マリー・マッダレーナ・ピエリによって歌われた。
ピエリは、フィレンツェのペルゴラ劇場の興行師、
アルビッツィ侯爵の公式な愛人で、
当時、そのステージ・キャリアの終わりにさしかかっており、
『バヤゼット』は、知られている限り、
彼女が舞台に立った最後のオペラであった。
彼女は戯画化した役割を得意とし、
1726年にヴィヴァルディは『テンペのドリッラ』で、
彼女をスターに押し上げ、
特に彼女のためにタイトルロールを書いた、
『ファルナーチェ』ではさらにその上を行った。
その時、彼女は当時最高のカストラート歌手とも、
比較されるほどであった。
1733年、ピエリはマンチュアで、
ヴィヴァルディのために歌い、
この時は、『セミラーミデ』のニーノを受け持った。
彼女のために、ヴィヴァルディは、
最も美しい2つのアリア、
『Vincera l'aspro mio fato』と『Con la face di Megera』を作曲している。
1735年、彼がヴェローナに現れた時、
ピエリにサインさせ、その保護者の愛顧を得ることで、
フィレンツェとの契約が出来ることを、
ヴィヴァルディは望んでいたと思われる。
『バヤゼット』の数ヶ月後、彼は実際、
ペルゴラ劇場からの新しい依頼を受けている。」

ということで、ヴィヴァルディという人の、
したたかな人物像も、見てとれるエピソードとなっている。

以上の二人が古株であるが、以下、
ヴィヴァルディが発見した新人歌手の紹介に移る。

「『バヤゼット』のアンサンブルには、
彼等のキャリアの出発点となった、
3人の歌手たちが含まれており、
ヴィヴァルディは、彼等の発見に功績がある。
彼は、こうした発見にうまく狙いをつけ、
彼は定常的に若い歌手たちと接触し、
作曲家、興行師、エージェントとして劇場世界で暮らし、
生涯を通じて、不屈のスカウトマンであった。」

ヴィヴァルディは、地道にこうした活動もしながら、
自らの理想のオペラを構想していたのであろうか。
単に、ファリネッリだけを想定して作曲に励んでいた、
ナポリ派の方々とは、少々、スタンスが違うようである。

人間の幅としても、
こうした人作りまでを考えていたヴィヴァルディはすごい。
現代の経営では、どうしても効率を優先して、
このような側面は見失われがちなのである。

「彼の正確なジャッジによって、
ファブリやストラーダのようなレベルの歌手、
紛れもない声楽の天才が1735年に舞台に立った。
若いヴェネチアのソプラノ、
マルゲリータ・ジャコマッツィが、
ヴェローナの公衆の前に現れたのである。
ジャコマッツィは、イレーネの役を素晴らしく歌い、
1735年のカーニバルのシーズン、
ヴィヴァルディの『バヤゼット』と『アデライーデ』で、
ステージデビューを果たした。
彼女は素晴らしい音域を持ち、
その驚嘆すべき技巧は、
カストラートの王国で戦うヴィヴァルディの、
強力な武器となった。」

ようやく、ここで、秘密兵器養成、
あるいは、対抗商品の開発という観点が述べられた。

カストラートの王国で戦うヴィヴァルディ、
というのが、この解説を書いた、
フレデリック・デラメア氏の構図だが、
iPodに対抗するために、
ノイズキャンセルを搭載したソニーのウォークマンみたいななのである。

が、ヴィヴァルディが、
カストラートを使わなかったわけではないことは、
この解説を読み進めていけば分かる。
が、このあたりを書き出すと時間が足りないので、
早く、このCDを聴いて見よう。

Track2.リッカルド・ブロスキ(1698頃-1756)
の歌劇「イダスペ」より「忠実な影となって」。
解説によると、ファリネッリは本名カルロ・ブロスキで、
その兄弟だという。
この「イダスペ」というオペラは、
解説を読んでも、よく分からないが、
恋人を奪い返すために戦っているようである。

「レーテの川辺を愛しいあの人と寄り添って行きたい」
としみじみと歌うだけのものだが、
何と、10分以上もかかるアリア。

歌手がひとりで、こんなに長大なアリアを、
陶酔して歌うばかりのオペラを想像すると、
聴く前から疲れてしまいそうである。

シュトロームの解説では、この曲は賞賛されていて、
「この曲は、ブロスキ兄弟が手がけたもののうち、
特に卓越したものひとつと言える」とある。

ひたすらカンティレーナの美しさを強調するもので、
起伏は少なく、ホルンの伴奏を伴いながらの序奏や間奏も長い。
モーツァルトの初期交響曲の緩徐楽章を思わせ、
ある意味、非常に美しい。

何と、この恋人は、むしろ囚われたまま王座に就く方がいいわ、
などと言ったらしい。
せっかく救出したのに、この仕打ちである。
10分くらいの嘆きでは足りないかもしれない。

ここで、バヤゼットの解説に戻って、
ヴィヴァルディが用意した、
秘密兵器の話を進めなければならない。
というのも、このジュノー盤CDのTrack3に収められた、
「戦場の兵士のように」に関連する記述が出て来るからである。

「『バヤゼット』の中で、彼は、遠回しの攻撃を加えた。
ジャコマッツィは、ファリネッリのレパートリーから、
最も知られた2つのアリアを歌った。
そのシンボルとも言うべきアリア、
『戦場の戦士のように』
(ビオンティ盤のCD1のTrack17)と、
前のシーズンに大きな成功を収めた、
『侮辱された花嫁』(ビオンティ盤CD2のTrack8)
である。」

これらの1曲、『戦場の兵士のように』は、
うまい具合に、今回のジュノーのCD(Track3)
にも入っているばかりでなく、
「バヤゼット」の付録DVDでも見ることが出来る。

私は、てっきりヴィヴァルディは、
メロディだけを拝借したのだと思っていた。
今回、両者の歌詞を比べてみると、
歌詞までまるパクリであることが分かった。

おそらく、歌謡曲と同様、メロディのみならず、
歌詞までが、人口に膾炙していたものと思われる。

この曲は、シュトロームによって、
「彼の最も知られた歌曲のひとつ」とされ、
めまぐるしい声の動きを堪能させ、
声域の広さを誇示するものと書かれているが、
ものすごい超絶技巧が堪能できること請け合いである。

この超絶感は、急速に駆け上がる
パッセージでせき立てる部分に、
あたかも合唱がリフレインするような効果があって、
まるで、ひとりで何役もこなしているように見える事と、
ゆっくりした部分では、心ゆくまで、
声のなめらかさを強調して対比を、
明解に打ち出すことなどによって打ち出されている。

ジュノーの歌唱、「バヤゼット」の方では、7分37秒で歌いきり、
今回のCDでは、8分08秒かけているが、
「バヤゼット」の方がバックのアタックが強く、
間の取り方も強調が激しい事もあってか、
勢いを感じる出来になっている。

歌詞は、たった7行。
1.戦場における兵士のように、
2.強さと勇気をもって、
3.愛に撃たれた心には、
4.軽視と愛がせめぎあう。
5.疑わしいなりゆきへの恐れ、
6.嘆きと危険な賭け、
7.我が心を混乱させ惑わせる。

しかし、歌われると、
1.戦場における兵士のように(高く)、戦場における(低く)、
となったり、
3.愛に撃たれた心にはああああああ、
となったり、
4.軽視と愛がせめぎあう軽視と愛がせめぎ合ううううううう
軽視と愛がせめぎあう軽視と愛がせめぎ合ううううううう
となったりして、
1に戻り、
今度は、2もリフレイン付き。
2.強さと勇気を持って(高く)、強さと勇気(低く)、
このあとは、
4.軽蔑と愛、ああああああ(高く)ああああ(低く)、
ああああああばかり言っているようだが、
あーああああああと下がって来て、
じゃんじゃか伴奏が盛り上げる。
これは文章で書くのはつらい。

DVDで見ると、日常生活では見たことのないような、
唇の動かし方で、ジュノーは興奮を盛り上げている。

この後、5以下の部分がゆっくりしっとり歌われるが、
ここでも、やたら、言葉が伸縮している。
5.疑わしいなりゆきへの恐れ、
6.嘆きと危険な賭け、となるが、
危険をきーいいいーけーんーと歌っている感じ。
こんなので、何を言ってるのか分かるのだろうか。
7.我が心を混乱させ惑わせるも、
まどーーーわせーーーる、と歌われている。
二回目の繰り返しでは、この部分が深く下降して、
不気味な感じを出し、
三回目の繰り返しでは、高く上げて、言葉を弄んでいる。

また、ゆっくり歌う時にも、「バヤゼット」での歌唱の方が、
速いのだが、心を込める余裕が出来ているようだ。

特典DVDに見る、この歌唱録音風景は、
まさしく歌唱芸術の極地のような壮絶さがある。
すべてのパッセージが生き生きと息づいて、
完全に自信に満ちた完成形がある。

この一曲を聞き比べるだけで、
へとへとになってしまう。

得られた事:「カストラートの歴史的意義は、高音から低音までの幅広い音域を均一に歌う美学を確立したことである。」
「『アップル対グーグル』=『ファリネッリ対ヴィヴァルディ』。」
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by franz310 | 2011-10-23 16:10 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その298

b0083728_033325.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディの「バヤゼット」は、
主人公の敵方のアリアには、
何と、ヴィヴァルディの敵方の
ナポリ派作曲家のアリアを借用、
主人公サイドのアリアには、
ヴェネチア派の自作を使って、
流行を聴きたがる聴衆にも、
即席の成功を望む演奏家にも
考慮を払いつつ、
自己主張した多層的な作品である。


このオペラは、解説に、
「ヴェネチア・オペラの高貴な死の苦しみ」
と題がつけられているように、
まさしく、ヴィヴァルディが属していた派閥が、
否定されつつあった時期に書かれた。

「ヴィヴァルディの『バヤゼット』が、
ヴェローナで初演された年、1735年、
ヴェネチアの『音楽劇』は、
難しい局面を迎えていた。
モンテヴェルディやカヴァッリを育て、
何十年にもわたって、
オペラ界の中心として知られたこの街は、
フランスの著述家モンテスキューが、
1728年の日記に、
『今ではオペラはヨーロッパ中で見ることができ、
これはオペラシーンから、
ヴェネチアの名声が奪われたことを意味する』
と書いたように、
その優位性を失いつつあった。
かつては、彼は、
『ヴェネチア以外で、オペラは聴くことが出来ず、
それは、本当にヨーロッパ一のすばらしさであった』
と書いていたのに、
『オペラはどこででも演奏されていて、
それが聴ける優れた街のものより、
ヴェネチアのものが良いというわけではない』
ということになった。
しかし、この街の資産衰退は南から訪れた。
シャルル・デ・ブロスが、10年前に、
『イタリア書簡』で書いたように、
その頃までに、ナポリが、
『音楽界の首都』の座を奪っていたのである。
メタスタージオのような詩人や、
ハッセ、レオ、ヴィンチのような作曲家、
とりわけ、ファリネッリ、カフェレッリ、
カレスティーニのようなカストラートのスターによって
代表されるナポリ風オペラは、
ドラマの真実性のような考え方以外を好む、
時代の流れに付いて行かなかったヴェネチアに、
どんどん押し寄せていた。
1720年代には、
嗜好は変わり始めており、
上品なメロディ、明解なリズム、
しなやかなヴォーカル・ラインによって、
ナポリ風オペラが壮大な誘惑のキャンペーンを開始するや、
この街は簡単に征服されてしまった。
10年以内にヴェネチアのステージは、
ナポリ派が主に支配することになる。
ヴェネチアオペラの象徴でありながら、
今や、ナポリ派の神殿になった、
サンジョヴァンニ劇場は、
1735年の謝肉祭に向けて放ったのが、
メタスタージオの台本による、
ガエターノ・マリア・シャッシ作曲の『デモフォンテ』と、
レオナルド・レオ作曲『ティト帝の慈悲』の二作で、
共に、最新の歌唱スタイルのスター、
『ジジェーロ』と呼ばれた、
ジョアッキーノ・コンティを登場させた。
同じシーズンに、サンカッシアーノ劇場は、
ナポリ風の若い模倣者アントニオ・パンピーノの、
『アナジルダ』を舞台にかけ、
かつて、ヴィヴァルディが支配していた、
サンタンジェロ劇場は、
ハッセの『ファブリツィオ』と、
ナポリ人、フランチェスコ・アラヤの
『ルチオ・ヴェーロ』を上演して、
彼等は劇場に新しい語法を紹介していた。」

このような状況下で、ヴィヴァルディが書いたのが、
この『バヤゼット』であった。
もちろん、ヴェネチアに居場所はない。
だから、初演が行われたのは、ヴェローナだったのである。

シューベルトやベートーヴェンの時代には、
同様の事がヴィーンにも起こり、
彼等は、ロッシーニの前で、
息を殺していないといけない状況になった。
そんな事まで思い出した。

この作品が、非常に意味深なのは、
こういった背景があったということだ。
このCDは、この野心作の魅力を、
現代に蘇らせようと全力を上げている。

前に聴いた、「離宮のオットー大帝」の場合、
解説がCDROMであったが、
ビオンティが指揮した、今回のCDには、
興味深いDVDの付録があって、
リハーサル風景、演奏風景が収められている。
ただし、このDVDは演奏風景の映像に特化しており、
解説そのものは、立派なブックレットになっている。

このように、作品の真価を、
あらゆる側面から伝えようとした商品は、
まことに好感が持てる。
再発売によって、廉価盤化され、
こうした特徴は失われたようであるが。

このCDの裏面には、真ん中にビオンティを収め、
ずらりと歌手の写真が出ているが、
この人たちが歌ったアリアの歌唱風景が、
映像としても収められているというわけだ。

DVDを見ると、ビオンティは立って、
指揮をしながら、時折、ヴァイオリンを弾いている。
即興的に技巧的なパッセージを散りばめ、装飾補助もしている。

DVDのTrack1は、
ヴィヴィカ・ジュノーによる、
イレーネのアリア、「戦場における兵士のように」で、
CD1のTrack17に相当する。

ぴったりとした黒いセーターを着た、
ジュノーは、キュートな感じ、
スタイルも良い。

真剣な眼差しで役に没入しながらも、
時折、笑顔でアイコンタクトが入る。

この超絶技巧のアリアは、
痙攣するような口の動きや、
激しい呼吸を見ているだけで、
ものすごいものだと分かる。

DVD、Track2は、イダスペのアリア。
CD1のTrack22、「海が船を飲み込む」で、
このキャラクターの性格をよく表した、
とされているもの。

パトリチア・チョーフィは、白いシャツ。
これまた、スタイルが良くて見栄えがする。
どこか虚空を見つめて、表情も激変して、
すっかり、あっち側に行ってしまっている。

DVD、Track3は、主人公、バヤゼットの、
聴かせどころの激烈アリア。
CD2のTrack10の、
「娘はどこにいる」。
これは、解説でも特筆される名アリアのようだ。

イルデブランド・ダルカンジェロは、
モスグリーンのジャケットを羽織っていたのを、
ぬいでトレーナー姿になったと思ったら、
次の瞬間には着ていたり、
最後は青いスポーツウェアになったり、
まことに忙しい。
こんなに沢山のテイクを繋いで作ったのだろう。

DVD、Track4は、
CD2のTrack16のタメラーノのアリア、
「悪党の裏切り者」で、
ダニエルスが歌っている。
最後に、ブラボーが出ている。

DVD、Track5は、お待ちかね、
エリーナ・ガランチャの歌う、
ギリシアの王子、アンドロニコのアリア、
CD2のTrack18と同じ、
「きれいな花々に囲まれて」。

この人は、真面目な感じで、
先に出て来た女性陣と比べると、
それほど表情は変わらない。

ブルーと黒のラインの服も、
何となく、カジュアルっぽい。

むしろ、オーボエのモリー・マーシュが気になる。

が、ガランチャも、
最後にはお茶目な表情で、
さすが人気者と納得した。

DVD、Track6は、
再びバヤゼットの登場。
アリオーソ、「私はまた来る」で、
(CD2のTrack20)
42秒しかないが、
真面目そうという意味では、
この人は、一番だ。終始怖い。

DVD、Track7は、
ヒロイン、アステリアがようやく登場。

このマリャーナ・ミャノヴィッツという人も、
没入系で、ものすごい感情の起伏が、
全身の動き、表情で表されていく。
ものすごい人たちを集めたものだ。

CD2のTrack25、大詰めの、
「私を刺せ、殺せ、打て、殴れ」という、
短いが強烈なもの。

タートルネックのぴったりした服を着て、
挑みかかるような歌唱は、実に迫力がある。
中間部では、ハープやギターの素晴らしい伴奏に乗って、
「お父様、私にもたれて」という、
父を悼む場面は、深い感情を見せる。

もう終わりですか、という感じの付録ではあるが、
感じのよいホールで、すっきりとした音響を響かせ、
それぞれの歌手がカジュアルな服装ながら、
真剣な表情を見せてくれるというのは、
なかなか得難い経験と言えるかもしれない。

では、このCD2の鑑賞を開始したいが、
これまでの筋から、登場人物の関係を図示すると、
こんな感じになるだろうか。

タメラーノ(カウンターテナー):    ティムール皇帝
↓戦闘で破り捕虜に。                ↓
バヤゼット(バス・バリトン):オスマン皇帝  妃に所望
↓娘                          ↓  
アステリア(メゾ・ソプラノ):         オスマン王女 
                            ↓相愛 
アンドロニコ(メゾ・ソプラノ):      ギリシア王子
          ティムールは結婚を強要  ↓     
イレーネ(メゾ・ソプラノ): トレビゾンド王女(元はティムールの許嫁)

イダスペ(ソプラノ):アンドロニコの友人(家臣?)。

ティムール帝が、アステリアを娶ることは、
誰も賛成していないが、征服されているアンドロニコは、
言いつけに従うしかない感じ。

CD2は、第2幕の途中からである。
アンドロニコの自己弁護に、アステリアは耳を貸さない。
その後のあらすじは、こんな感じ。

「タメラーノは、
イレーネの親友だと名乗って来た女に、
決断の意味を説明しようとする。
王女はアステリアに慰められるが、
嘆きに打ちのめされている。
バヤゼットはアンドロニコに、
アステリアは王妃になるところだと知らされ、
怒り狂う。
彼は娘の前に連れて来られ、
激情を迸らせて、屈辱を語る。
アステリアは取り乱し、
婚礼の夜に暴君を刺し殺そうとして持っていた
ドレスの下に隠していた短刀を取り出す。
父親と娘はたちまち捕らえられ、
牢獄に放り込まれてしまう。」

Track1.
アンドロニコは、自分の訴えを聞いてもらえず、
ここでは、かなり激情を迸らせている。
「バヤゼットに言おうか、
しかし、もしも駄目なら、すべての希望はなくなる」
と悶々としている。

Track2.はアンドロニコのアリア。
この音楽も借用なのだろうが、
かなり、ざっくりとこの状況を押さえた、
説得力のある楽想だ。
分厚い弦楽もそうだが、
きらめく低音部も、非常に美しい。
モーツァルトを想起してしまう。

「無慈悲な運命は、最悪を選ぶ。
何という、凶暴さ、何という苦痛。
私の誠実さが罪悪に見え、罪となる。
全ての残忍さが私に向かう」。

ガランチャのきりりとした声を堪能したい。

Track3.テントが開いて、
タメラーネとアステリアが、
クッションに座っているのが見える。
イダスペもいて、やがて、イレーネが来る。

イダスペはイレーネが来たことを告げる。
イレーネはアステリアを見て、
何故、奴隷が座っているのに、
女王が立っていないといけないの、と不服である。

タメラーネは、相手はイレーネ自身なのに、
使者だと考え、言葉を続けさせず、
アステリアに説明させる。

アステリアが、自ら、世界の征服者の、
求婚に応じたことを告げると、
イレーネは、女王を差し置いて、
奴隷と結婚するのか、などと反論するので、
タメラーノは激怒する。

Track4.は、タメラーノのアリア。
これは激烈なリズムのもので、
この暴君の面目躍如としている。
DVDのメニューでも、
この音楽が使われている。

が、内容を見ると、妙におびえている。
「非情な宿命よ、理不尽な運命よ、
私は不誠実で、恩知らずだ。
しかし、彼女の2つの瞳は、
私の罪を責める。」

暴君の残虐さは、その弱さの表れか、
などと考えてしまった。

Track5.タメラーネは去って、
アストリアとイレーネ、イダスペの会話。
イレーネは、夫を取って、さらに侮辱するか、
と言うと、
アステリアは、別に野望や感傷で、
この王位を望んだのではない、と釈明する。

Track6.はアステリアのアリア。
これも、小唄風のもので、ハープもぽろぽろ、
いかにもヴィヴァルディ風に小粋である。

「臆病な小さな牝鹿は、
小川に向かって走り、
丘に、山に、ついに、友を見つける。
彼に寄り添い、ようやく落ち着いた。」

ヴァイオリンの助奏も技巧を凝らして、
洒落た感じ。

「イレーネに、早く恋人を見つけなさい、
と言うがいい。
彼女の恩知らずの花婿は、
私によって奪われたわけではないの。」

Track7.イレーネとイダスペ。
二人は、アステリアが、何か企んでいることを推測する。

Track8.イレーネのアリア。
助奏が神秘的で素晴らしい。
このアリアも、悲愴で太いメロディラインが、
がっぷりと、我々の情念を揺さぶる。

このまま、映画音楽にでも使えそうな、
ロマンティックなメロディが魅力的である。
これが、ヴィヴァルディのオリジナルでないのは、
まことに残念である。

「花嫁、私は侮辱された。
貞節、私は傷つけられた。
天よ、私が何をしたというのか。
彼は、私の喜びであったのに、
花婿は、恋人は、
私の希望のすべてだった。」

Track9.
「アンドロニコ、我が娘はどこに」という、
バヤゼット苛立ちのシーンである。
「あなたの敵の王位に向かって」と、
アンドロニコが答えると、
許さん、裏切られた!と大騒ぎである。

Track10.は、その続きのアリア。
DVDでも取り上げられていたシーン。

解説でも、このシーンは特筆されていて、
これは、「モテズマ」という別のオペラからの借用で、
天才的な一撃の例とされている。
「娘が裏切ったという思いに、
バヤゼットが怒りと嘆きのコンビネーションに、
征服される様子が、
狂おしく撃ちつけられる16分音符に、
突然の休止が交錯し、
輝かしく描かれる」とある。

「とりわけ劇的なシーンは、
バヤゼットとアステリアのために用意されており、
ヴィヴァルディの霊感が力強く輝いている。」

Track11.
全軍の前で、タメラーネとアステリアが座っている。
アンドロニコがバヤゼットに言ったように、
すでに、婚礼は進行しているようだ。

そこに、バヤゼットが現れ、
オスマン帝国のスルタンは、こんな配偶は認めん、
とか言うが、タメラーネは、黙れ、という。

長いバヤゼットの独白。
俺が最後に言うことを聴けと、すごい迫力なのである。
奴を殺して、俺も死ぬと、めちゃくちゃである。

「聴け、裏切り者よ、そして、お前、我が敵」という、
伴奏付きレチタティーボは、
オーケストラが、じゃん、と鳴って始まるが、
解説者も特筆している部分である。
時折、ぎざぎざの音型や、
ばん、ばんというピッチカートが、
バヤゼットの怒りを増幅する。

確かに、この部分のオーケストラと声の、
織りなす心理的効果は、壮絶である。
シューベルトの歌曲の、
ピアノと声の関係を予告しているかのようだ。

アステリアは、そんな迫力の中、
「王位は断念します」と言って、
短刀をかざして見せる。

当然、タメラーネは「万死に値する」と激怒する。

Track12.は、私は初めて聴く、
ヴィヴァルディの四重唱。
イレーネ、何と残酷な、
バヤゼットは、怪物め、
アステリアは、神よ、父は死ぬのですか、
タメラーネは、彼に慈悲など必要ない、
等々で、第2幕は終わる。

第3幕は、こんなあらすじだという。
「バヤゼットとアステリアは、
バヤゼットが隠し持っていた毒で、
自決しようとする。
アンドロニコは、勇気を出して、
バヤゼットの娘を愛していることを、
主君、タメラーノに打ち明けることにする。
タメラーノは恥をかかされたと思い、
バヤゼットを殺し、アステリアを奴隷にして、
食事の時の給仕をさせようとする。
アステリアは、この機会を生かし、
父親が持っていた毒を暴君の杯に入れる。
しかし、これはイレーネに目撃され、
彼女はアステリアを責め、
自分の正体を明らかにする。
タメラーノは、彼女と結婚することで、
イレーネに報うことを約束し、
アステリアはハーレムの奴隷たちによって、
父親の面前で陵辱されるように仕向ける。
バヤゼットは虚しくも憤るが、
その場を去り、後はイレーネの好きにさせる。
しかし、その後、
バヤゼットが服毒自決したという知らせが来て、
アステリアは、自分も殺してくれと、
タメラーノに乞う。
暴君は、この出来事の悲劇的展開に身の毛もよだち、
アステリアとアンドロニコの結婚を許す。」

Track13.ユーフラテス河の岸辺の庭。
何で、こんな所にいるのか、
と思われるが、バヤゼットとアステリア。
「我々に罪がある。毒があるから、これで死のう」
という部分。

Track14.バヤゼットのアリア。
死に行くことを喜んでいるような勇壮かつ、
晴れやかなもので、オーケストラも活気がある。

Track14.
タメラーノとアンドロニコが語らっている。
「彼女の軽蔑が、私の愛情をかき立てた」などと言っている。
アンドロニコは、意を決して、アステリアへの愛情を語る。
タメラーノは怒って、アステリアを奴隷にするという。

Track15.
バヤゼットも来る。
何故、アステリアは跪いているかと怒る。

Track16.タメラーノのアリア。
「極悪の反逆者め」。
タメラーノとしては、こうも言いたくなるであろう。

これも、勇ましく、ざくっと聴衆の心を掴む力がある。
天翔るオーケストラの序奏、
素晴らしい推進力。
これも、ヴィヴァルディのオリジナルでないのが残念だ。

Track16.アンドロニコの悩み。
「私は王位を捨てよう。
私は愛を捨てることが出来ないのだから。」

Track18.は、DVDでも聴いた楽曲。
これまた、華やかな音楽で、
「青々とした草原の、
多くの美しい花々の中で、
毒蛇が眠っていて、
そこを通り過ぎようとするが、
逃げることは不可能だ。
それと同じで、私も、愛と哀れみから、
逃げることは出来ない。」

Track19.タメラーノの祝宴の広間。
バヤゼットも呼ばれ、
アステリアが奴隷になっている所を見せられる。

アステリアが呼ばれ、給仕を命じられる。
バヤゼットは、何と無礼な、
とか言っているが、この人も大変無礼だと思う。

アステリアは、バヤゼットから貰った毒を、
杯に入れて、タメラーノに渡す。
「召し上がれ、偉大な方、さあ、
このカップにはアステリアが、
あなた様のあくなき野望を癒すものを入れました」
などと、余計な台詞がうざい。

イレーネが来て、「飲んではいけません」と言い、
「私はイレーネです」と正体を明かす。

アステリアは、「召し上がれ」などと、
まだ言っている。
そして、「なら、私がのみましょうか」とか言うので、
アンドロニコは走り寄って、カップを奪い取る。

タメラーノは、アステリアを引っ立てて、
好きなようにしろ、と言い放つ。

すると、オーケストラが、
もやもやもやとなって、
バヤゼットの絶望が描かれる。

Track20.は、バヤゼットの、
怒りのアリア。これもDVDで聴いたもの。

Track21.は、タメラーノが、
イレーネを褒めて、花嫁にする会話。

Track22.は、素晴らしく装飾された、
序奏を伴うイレーネのアリア。
「草生い茂る川岸の上、
情熱に燃える鳩のよう。
きれいな冷たい水をもってしても、
この情熱を冷ますことは出来ない。」
この楽曲も、ナポリ風なのであろうか。
単純ながら、筆致が明確で分かりやすい。

Track23.イダスペが来る。
バヤゼットが毒を飲んで、苦しんでいます、
と報告すると、タメラーノはいきなり動揺を始める。
この人の方が人間くさくて分かりやすい。

Track24.
「本当に、死んでしまいました」という、
アステリアの慟哭。

憔悴していくレチタティーボを、
オーケストラが見事に修飾していく。
ほとんど、メロドラマである。

このあたりは、次のアリアも合わせて、
解説者も特筆している。

Track25.
これも、DVDで聴いた、すさまじいもの。
途中で静かな哀悼の部分が、コントラストをなす。
解説者は、「これらは、最高の霊感の爆発で書かれている」
としている。
それは、自筆譜の熱に浮かされたような、
作曲家の筆致からも分かるという。

「オルランド・フリオーソ」の、
狂乱のシーンと共に、
ヴィヴァルディのオペラの中で、
最も感動的なパッセージだと書かれている。

Track26.
ここでは、アンドロニコに合わせて、
イレーネも哀れみを乞い、
タメラーノは、「友よ、君の勝ちだ」と、
妙に格好良くなっている。

Track27.は全員の合唱で、
「百合と薔薇の冠を。
愛の平和が訪れた。」
と、ホルンも吹き鳴らされて、
壮麗かつ簡潔な終曲となる。

得られた事:「ヴィヴァルディのオリジナルは繊細だが、ナポリ楽派の引用部は、がしっと明確なメッセージでロマンティックですらある。」
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by franz310 | 2011-10-16 00:05 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その297

b0083728_1951457.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディのオペラ、
「バヤゼット」(バジャゼット)を、
ヴァイオリンの名手としても知られる、
ファビオ・ビオンティが指揮したCDが、
大変な名盤として紹介された事があるが、
最近、再発売されているようである。
前に出ていたものは、
解説書も読み応えがあり、
付録のDVDもついていて、
この作品の魅力を見せつける
好企画だった。


表紙は、かぶり物と頬髭から、
イスラム系とわかる男の横顔だが、
金色に輝く陰影豊かなモノクローム調が、
悲劇的な雰囲気を盛り上げている。

この主人公、バヤゼットが、いかなる人物であるか、
あの南国の陽光に輝くヴィヴァルディが、
どのように、この人物に向きあったかが、
詳細に書かれた解説も魅力的である。

2004年の4月の録音なので、
それほど古いものではない。
演奏は、ビオンティの手兵、
エウローパ・ガランテである。

編成を見ると、オットー大帝とは大違いで、
ヴァイオリンは10人もいて、
オーボエ、ホルンも二人いて、
ハープやテオルボを含む、
コンティヌオだけで5人がかりである。

Frederic Delameaという人が書いた、
この大部の解説を逐一紹介していたら、
日が暮れてしまうので、
まず、このバヤゼットが何者であるかに触れた部分、
「バヤゼットとティムール」と言う部分を先に見ていく。

「音楽劇の最初期から、ヴェネチアの台本作者は、
東洋風のテーマを好んでいた。
ヴェネチアは、何世紀にもわたって、
東洋への玄関としての役割を享受しており、
地中海の東というその地理的特性からも、
なお、その重要性を失っておらず、
繰り返される戦争によっても、
愛国的な意識を高めていた。
しかし、東洋は、
その富や影響力を奪うことによって、
容赦なく街の衰退に拍車をかけており、
ヴェネチアでのイメージは、
同時に、東洋から拒絶されているというものであった。
それゆえに、バヤゼットという、
オスマンの力と凋落の象徴のような人物が、
ヴェネチアの芸術に印を残していることは、
何ら驚くに値しない。
ヴェネチアの人にとって、バヤゼット一世は、
キリスト教西欧と接する広大な帝国を支配した、
不屈の戦略家と見られていたと考えられ、
聖ペテロの王冠を、いつの日か、
自分の馬の飼い葉桶にしようと誓ったとされる、
傲慢なスルタンは、究極の強敵でもあった。
しかし、1402年、7月28日、
アンカラにおけるティムールとの戦いでの、
彼の敗戦と、つづく屈辱的な境遇から、
彼は、深い悲劇的な人物として捉えられることとなる。
足が悪かったことから、
『びっこの君主』として知られるティムールは、
歴史上、最も血なまぐさい暴君として知られている。
その伝説的残忍さと無限の冷酷さは、
その言葉、
『神の怒りの中で生まれ、
激怒させるものを克服する力を与えられた者』
に表されており、それが、
すでにその恐怖が違う局面になっていた時代にあっても、
彼を恐怖の象徴にした。
その恐怖の人柄は、
戦勝記念に切り首の塔を建てたという、
古代モンゴルと同様の憎悪の対象となり、
人々の記憶に最も残虐な手段で征服された人々に、
最悪の記憶を残すことになった。」

このように、恐れられたティムールと、
オスマントルコとの戦争の後日談が、
このオペラの題材となっているわけである。

講談社現代新書の「オスマン帝国」(鈴木董著)にも、
このオペラの主人公バヤゼットは、
「電光バヤズィット、十字軍を撃破」というタイトルで登場する。

彼は、なんと、兄弟を皆殺しにして王位に登った、
オスマン朝第四代君主で、「電光」という異名で各地を急襲、
急速にバルカンを蹂躙した。

脅威を感じたハンガリー王は、十字軍を組織したが、
集団戦法で蹴散らされ、
多くの西欧の王族、貴族が捕虜になったとされる。

コンスタンティノープルも陥落も間近になるや、
何と、中央アジアのティムールが現れ、
背後を突かれる形で、アンカラでの戦闘に入ったとされる。
軍団長は、王子と大宰相を連れて戦線を離脱、
バヤズィットは取り残されて虜となったとある。
彼は、幽囚中に、失望のあまり死んだと書かれている。

このような歴史的背景は、非常に興味深いが、
このCD解説に戻ろう。

「トルコから重要領土を割譲させた、
カルロヴィッツの平和によって、
ヴェネチアの止まらぬ衰退が、小康を得た、
1699年に、象徴的なことに、
バヤゼットの没落を描いた音楽悲劇が、
初めてイタリアで上演された。
次の世紀の終わりまでに、50に近いオペラが、
同じ伝説に従って、バヤゼットとか、
タメラーノ(タメルラーネと訳す場合もあるようだ)
(ティムール)のタイトルで現れた。
この悲劇はこの間、次第に堕落して茶番になったが、
その最後は1792年、ローマでの
『タメラーノに敗れたバヤゼット』
という英雄悲劇黙劇バレエであった。
この間、ガスパリーニからヨメッリという重要な作曲家たちが、
ヘンデル、レオ、ポルポラと並んで、
荒れ狂うスルタンと凶暴なタタールの対決の物語を描いた。
ヴェローナにおいて、ヴィヴァルディは、
最も優れたリブレット、
アゴスティーノ・ピオヴェーネの『タメラーノ』に、
音楽をつけて、この分野に貢献した。
このリブレットは、1711年に、
フランチェスコ・ガスパリーニによってオペラ化され、
非常な成功を収めていた。
ピオヴェーネのテキストは、
トルコ・ヴェネチア戦争の再開の3年前に書かれ、
悲劇的なバヤゼットを高貴な同情すべき人物として描き、
敗北と屈辱に直面した、
勇敢で、誇り高き反抗の象徴とした。
ピオヴェーネは、歴史的事実を自由に扱い、
フランスのジャック・プラドンの1675年の悲劇、
『タメラーノ、または、バヤゼットの死』によって、
登場人物に深みを加えて生き生きと描き、
劇的な展開を含む、力強いプロットとした。
独自性を失うことなく、
リブレットは様々な改訂を含み、
舞台上で英雄が自殺するのを見せるような、
当時の慣習には逆らっている。
バヤゼットの最後の高貴な行いは、
勇敢な娘アステリアによって紹介され、
その敵に跳ね返って、
偉大な男の死によって敵は圧倒される。」

実際、バヤズィットの後、
しばらくの空位時代から復興した、
オスマン・トルコは、1480年には、
南イタリアまで進出したらしい。
翌1481年のメムメット二世の急死は、
ヴェネチアの刺客による毒殺だという説もあるという。

十六世紀にもなると、名君スレイマン大帝が、
ヴィーンを包囲したようにオスマンの力はまだまだ強く、
帝国は地中海を取り囲むまでになっている。
そして、大帝の死後、数年してのレパントの海戦の大敗が、
この帝国の没落の始まりとされているが、
1683年の第二次ヴィーン包囲からの潰走に続く、
先に出て来たカルロヴィッツ条約での、
ハプスブルクのハンガリー割譲が、
恒久的領土喪失の引き金となった。

トルコは破れ、ヴェネチアは助かった。
そのような時期の余裕ゆえに、
トルコの王様が身近になって賛美されたのである。
このような物語が単に、ヴェネチアの歴史的背景と、
深く関係していることはよく分かったが、
何と、ヴィヴァルディ自身にも、
この物語は、非常に親近感を感じさせるものだったようだ。

「象徴的パスティッチョ」という解説がある。
これは、非常に読み応えある内容で、
パスティッチョという作品に対する、
私の誤解を根本から揺り動かす内容であった。

パスティッチョは、ハイドンの本などで、
よく出て来る言葉で、
いうなれば、他の音楽から転用した作品と、
解釈していた。
オリジナル、という概念の反対のイメージである。

実は、このヴィヴァルディの「バヤゼット」も、
多くの借用があって、その意味では、
誤解されがちな作品と言える。

この解説には、それが大変な間違いである旨が、
ばっちり書かれているが、まず、
この主題についての話から始まる。

冒頭、
「ヴィヴァルディが、最終的に、この注目すべきテキストに
注意を向けるようになったのは、自然なことであった。」
と書かれている。
「1711年、ガスパリーニの代理として、
ピエタにおいて、このオペラの最初の付曲を見ており、
1727年にはミラノで、1729年にはマンチュアで、
この作品の舞台を見ているが、
ここにヴィヴァルディ自身作曲のアリアが使われていた。
ヴィヴァルディは明らかに、
ピオヴェーネのリブレットの独創性に霊感を受け、
高度に象徴的なテーマから、それに、
個々の部分に対して、劇的対処の構想を得た。
ナポリ派オペラの侵入に対して、
ヴィヴァルディが抵抗の立場を取っていた時代に当たり、
それゆえに、この物語は、
様々な作曲家のアリアを集めた、
パスティッチョとして、
ヴィヴァルディに『バヤゼット』を作曲させた。
新しい作風に親しんだ公衆と、
保証された成功を求める歌手たちの両方を、
満足させるために、
彼が自作において出来ることは、
流行に従って、
ライヴァルたちの語法を、
散りばめることくらいであった。
ヴィヴァルディには、各シーズン、
全部の音楽を自分で用意する場合と、
すでに書いた自作を寄せ集める場合と、
パスティッチョを舞台に乗せる習慣があった。
自身の芸術家としての運命と、
高貴なバヤゼットの政治的立場が重なり、
ナポリ派の勝利の傲慢と征服者タタールを重ねることは、
ヴィヴァルディをそそのかして、
一種の音楽的比喩として、このパスティッチョを書かせた。
バヤゼット、アステリア、忠実なイダスペなど、
意志の強い忠誠心ある登場人物の全てのアリアは、
ヴィヴァルディ自身の音楽が使われ、
タメラーノ、アンドロニコ、イレーネなど、
圧制の象徴のキャラクターのアリアは、ほとんど、
ナポリ派の作曲家のものが使われた。
この象徴的な事項は、
この作品の二重のタイトルにも表れており、
印刷されたリブレットには、
『タメラーノ』とあるのに、
自筆譜には、『バヤゼット』とある。」

というように、完全にショスタコーヴィチ顔負けの、
音楽的比喩が隠されているというのである。

下記に、私がこれまで誤解して、
偏見を持って見ていた、
このパスティッチョに関する注意書きが出て来る。

「今日、誤解されがちな、
パスティッチョというジャンルは、
18世紀においては、完全に容認された芸術形式だった、
ということを忘れてはならない。
ヴィヴァルディもパスティッチョを自作と考えていたし、
それらは単に一緒くたにされたものではなく、
彼は、その適用に神経を使い、完成させている。
『バヤゼット』は、『嵐の中のドリッラ』(1734)や、
『忠実なロズミーラ』(1738)と同様、
急ごしらえのレチタティーボで繋いだ、
ポピュラーなアリアのパッチワークではなく、
しっかりした作品であり、
むしろ、ピオヴェーネのリブレットの
可能性を引き出すために慎重に組み立てられ、
パスティッチョの象徴的意味を強調している。」

ということで、音楽の転用や改作は、
むしろ、作品に重要な意味を与えているようなのである。

「『バヤゼット』にヴィヴァルディが惜しみなく与えた濃やかさは、
彼自身がすべて書いた、レチタティーボの驚くべき豊かさに、
最もよく表れている。
次々に、シーンは、レチタティーボこそが、
音楽劇の本質だと気づかせてくれる。
演技を進め、キャラクターの関係に息を吹き込む、
レチタティーボ・セッコは、ヴィヴァルディのオペラの基本で、
レチタティーボの重要さの信念が、
『バヤゼット』では、同時代の作曲家が到達できなかったような、
表現上の高みにヴィヴァルディを押し上げている。
2つの特筆するシーンを挙げるとすれば、
ぴりりとしたオープニングで、
バヤゼットは、彼の看守の示す寛容を軽蔑するところ、
それから、第3幕の最初に、
バヤゼットと娘のアステリアとの間の、
感動的な会話である。
これらは純粋なドラマであって、
感情の微妙な陰影を、
卓抜した和声が効果的に描きあげている。」

このように書かれると、
早く、これらの楽曲を味わいたい衝動に駆られて困る。

このあと、各曲の由来を紹介している記述が続くが、
我慢が出来なくなってきた。

では、あらすじから見ていく。
「タタールの皇帝タメラーノ(ティムール)に破れた、
オスマン帝国のスルタンは、
ビテュニアの首都ブルサの宮殿に囚われており、
ここで物語は進行する。」

第1幕では、こうした事が起こる。
「バヤゼットは死を決意して、
タメラーノと同盟しているギリシアの王子だが、
娘のアステリアを愛するアンドロニコに、
自分の死後、娘を頼むと言う。
タメラーノは、アンドロニコのアステリアに対する気持ちを知らず、
彼女に対する思いをアンドロニコに打ち明け、
トレビゾンドの王女、イレーネを捨て、
アステリアと結婚することを決意したと語る。
彼は、アンドロニコに、バヤゼットとその娘に、
求愛使節になるよう頼み、交換して、
彼に、イレーネにギリシアの王冠を渡すよう頼む。
この宣言がアンドロニコを絶望させた事を知らず、
使命を成功させるために、
タメラーノはアステリアにその気持ちを打ち明ける。
彼女は、恋人が裏切ったものと確信し、
父親にタメラーノの意図を伝える。
バヤゼットは、即座に、首と引き替えに、
娘を自由にするよう申し出る。
このとき、イレーネは宮殿に到着、
侮辱されたと知って、怒りを露わにする。
しかし、アンドロニコが、彼女の支持を表明して、
彼女は落ち着き、彼は、
事の成り行きをうまく進めるために、
正体を隠すように勧める。」

だいたい、このような筋だが、歌唱を受け持つのは、
下記の陣容である。
よく見ると、人気のエリーナ・ガランチャが、
優柔不断なギリシアの王子を歌っている。

ヤバい王様はカウンターテナーだし、
バヤゼット側が、男女まっとうな配置なのに、
ティムール側は、人工的な配分になっている。

タメラーノ:デイヴィッド・ダニエルズ(カウンターテナー)
バヤゼット:イルデブランド・ダルカンジェロ(バス・バリトン)
アステリア:マリャーナ・ミャノヴィッツ(メゾ・ソプラノ)
アンドロニコ:エリーナ・ガランチャ(メゾ・ソプラノ)
イレーネ:ヴィヴィカ・ジュノー(メゾ・ソプラノ)
イダスペ:パトリチア・チョーフィ(ソプラノ)

Track1.悲劇にしては楽しい響きで始まる序曲。
金管が吹き鳴らされ、いかにも戦闘シーン的とも言える。
しかし、その後出て来る鬱々とした主題は、
いかにも、バヤゼットの試練を感じさせるものだ。
これもまた、ヴィヴァルディ得意のリトルネッロ形式なのだろうか。

Track2.協奏曲の第2楽章のように、静かな楽章で、
ロマンティックとも言える、沈鬱な表情が印象に残る。
が、時折、元気のよい主題が表れる。

Track3.狩猟ホルンが吹き鳴らされて、
開放的なアレグロ楽章である。

Track4.バヤゼットとアンドロニコのレチタティーボ。
バヤゼットは当然のことながら、
すぐに出る、ガランチャの声には、
王子らしく威厳がある。

ここは、解説にもあったように、
バヤゼットは、まったく自分の境遇を嘆いていない。
しみじみと諦念を感じさせる荘厳な進行。

アンドロニコは、かえって、
その怒りは隠すように、となだめる始末。

バヤゼットは、娘を気にかけていることを述べる。

Track5.いきなり主役、バヤゼットのアリア。
ここでのアリアは、囚人にしては朗らかであるが、
「死が待ってるだけだ、
娘はあんたを信じてるぜ」なので、
かなり、吹っ切れているのであろう。

Track6.アンドロニコとイダスペのレチタティーボ。
イダスペはアンドロニコの盟友なのであろう。
アンドロニコは、しっかり見張れ、と言っている。

イダスペは、ギリシアは、
すでにビザンツ帝国を征服者の手に渡したのです。
これを利用し、いつの日か、ビザンツの王冠を、
あなたは戴くのです、などと言っている。
この戦争は、バヤゼットによる、
ビザンツ帝国征服のさなかの話なので、
ティムールが失地回復をしてくれると、
考えているのであろうか。

Track7.イダスペのアリア。
ソプラノの澄んだ声が舞い上がって美しい。
それもそのはず、これは、
物語とは直接関係がなく、
単に女性の美しさの儚さを歌った小唄だからである。
伴奏も洒落ている。

「彼女のような女性の美しさははかないもの。
簡単に色褪せるもの。
やさしいそよ風にキスされて、
可愛いバラは花開くが、
すぐに萎れてしまう」といった内容。
アンドロニコのアステリアへの愛に対し、
警告しているのである。

解説には、「ジェスティーノ」や、
「ファルナーチェ」といったオペラからの転用で、
新しい作品に同化している、
と書かれているが、ちょっと異質。

オリエンタルの甘さを持ち、豊かで自然、
とあるのはよく分かる。
献身的で意志の強い友人の、心理的ポートレートとある。

Track8.
タメラーノとアンドロニコのレチタティーボ。
この日は、ギリシア人が、
私に領土を割譲してくれた日であるが、
あなたが王冠を戴くべきだ、
などとイダスペが言った事を、
そのまま、ティムールが言っている。
いつでも、ビザンチウムに帰ってもよいぞ、
と言っているが、
ここは腰巾着、もっと戦争の勉強をさせて下さい、
などとごますりをしている。
しかし、このあたりまではラッキーなのだが、
ティムールはトルコの王女が欲しい、
代わりにイレーネと結婚せよ、
と言い出す始末。

Track9.タメラーノ(ティムール)のアリア。
このアリアは難解である。
嵐の中に、私は虚しく輝く星を探し求め、
天を見ることも、岸辺を見つけることも出来ぬと、
激烈な状況が、
それにふさわしい激しい曲想で描かれるが、
運命に翻弄される姿を描いたものであろうか。
イレーネをぽいする良心の呵責か?

タメラーノのアリアは、
ハッセやガコメッリのような、
ナポリ風のものを借用したと解説にある。

Track10.アンドロニコの悩みの情景。
Track11.はそのアリア。
優しさと愛のこもった可愛い瞳と唇が、
私の心を傷つける、という悲痛なアリアである。
この歌も、声の美しさを目立たせて、
舞い上がるもの。
時折挟まれるヴァイオリンも美しい。

これも上記、ナポリ風のものという。
意外にしっとりとした情感で、
モーツァルトなどを想起させる。

Track12.は、兵士に護られた、
アステリアとバヤゼットの宮殿の一室。
アステリアは、タメラーネが父を破った最悪の日、
何という運命、などと言っている。
そして、アンドロニコが戦いを諦めたことを思い出している。
タメラーノが表れ、あなたが私と結婚することを、
アンドロニコと話し合って来たなどと言う。
何で、兄弟を殺し、父をこんな目に遭わせた、
あなたと?などとアステリアは尋ねている。
タメラーネは、その代わり、
彼はイレーネと結婚するのだ、などと言っている。

Track13.もタメラーネのアリア。
あなたは、夏に雨が降る時の草原を見たことがありますか、
という単純なお誘いの歌。
バラは新しい命を得て、その下にはスミレが。
とても暴君とは思えない、かわいらしい歌で、
でれでれ状態がよく分かる、とも言える。

Track14.
バヤゼットがお怒りである。
アンドロニコが、自由と引き替えに、
アステリアの婚礼の話をしに来たのである。
アステリアは、どうやれば、
この愛情を止めることが出来ようか、
と言っている。

Track15.アステリアのアリア。
愛は心の平和を奪う、という嘆きの歌。
器楽の伴奏が声楽と絡み合って、
複雑な陰影を与えていく。
さすがヴィヴァルディという感じの、
情感のきめ細やかさを感じる。

Track16.イレーネ登場である。
どこに私の婚礼の部屋があるか?と、
いきなりご機嫌斜めである。
タメラーノは私を騙したと騒ぐ。
アンドロニコは自分では怖くて説明できず、
何故か、イダスペが状況を説明し、
アンドロニコが、自分が味方だ、などと言って、
正体を隠すようにアドバイスする。

Track17.はイレーネの狂乱のアリア。
完全に技巧だらけの音楽で、
狂乱と技巧がよくマッチするのが納得できる。
混乱の中、戦場のような愛を歌う。
やたら長い。

イレーネのナンバーは、カストラートで有名な、
ファリネッリの兄弟のリッカルド・ブロッキや、
ジャコメッリの作品を借用したものだという。

Track18.は、アンドロニコが、
イレーネは美しいが、アステリアがいないと嫌と、
ややこしい状況に沈鬱の吐露。
ハープのぽろぽろ音が悩ましい。

Track19.はアンドロニコのアリア。
嘆きを克服するには、私の胸は強さが足りない、
と歌われるが、晴朗なもので、美しい。
私は、何故か、C.P.E.バッハを思い出した。
途中、やたら激しくなって、再び、もとの調子に戻るが、
私は、この曲などに、後世に続くものを感じた。

以上で、第1幕は終わる。

第2幕:
あらすじは、こんな感じである。
「アンドロニコは、タメラーノから、
アステリアが申し出を受けた事を聞かされる。
打ちのめされて彼は、
婚約者に自己弁護するが、
怒っていて相手にしない。」

CD1には、第2幕の、
ここまでのシーンが収録されている。
それを聴いてしまおう。

Track20.
タメラーノはアンドロニコに、
トルコの娘は自分のものになりそうだと告げる。
父も、娘の頭上に王冠が輝けば、
納得するはずだと呑気である。

Track21.
イダスペが来て、アンドロニコが、
まだアステリアを愛しているのと尋ねる。
以前に増して、とアンドロニコは答える。
彼女に釈明するという彼に、
イダスペは、賛成すると言う。

Track22.は、
海原の船が嵐の中に消えるのを見る。
それが、再び見えると、それは星にまで届くようだ、
というイダスペの技巧的なアリア。

この曲も、イダスペの性格を描くものとして、
解説では特筆されていて、
「セミラーミデ」から取られた、
巨大な嵐のアリアだという。
技巧的なヴォーカル・ラインが、
忠実なイダスペの感じた怒りをよく表しているとある。

Track23.アステリアとアンドロニコの会話。
二人ともメゾ・ソプラノで紛らわしいが、
ここはステレオで、左からアステリア、
右からアンドロニコ。
アンドロニコの言葉に耳を貸さず、
タメラーノが呼んでいるの、
と言って、アステリアは立ち去る。

Track24.激しいアタックを伴う、
アステリアの苛立ちのアリア。
「あなたは私を縛る鎖を造っておいて、
私を非難する。
あなたが私の苦しみの原因なのに、
そのくせ、私を脅すわけ?
信じてというあなたは馬鹿よ、
あなたのことは理解不可能。」

以上でCD1は終わる。

得られた事:「18世紀パスティッチョ・オペラは、ショスタコーヴィチの暗喩の先駆。」
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by franz310 | 2011-10-09 19:55 | 古典

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その296

b0083728_1447435.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディのオペラ、
「テルモドンテのヘラクレス」で、
非常に印象に残っているのは、
第2幕のはじめに置かれた、
ヴァイオリン二挺の掛け合いを伴う、
ソプラノのアリアであった。
ヴィヴァルディは、
この効果を得意としていたようで、
「離宮のオットー大帝」では、
序曲からこれが聞こえる。


このCDは、現在、非常に安価に出回っている。
ブリリアント盤であるが、
前回のDVD「ヘラクレス」では、
泣かせるヒロイン、ヒッポリュタを歌った、
マリナ・バルトリが、トゥッリアという役で登場するのが嬉しい。

印象に残る美人で、声も忘れがたい。
このトゥッリアという役は、
ローマ皇帝オットーの愛人、
クレオニッラが好きになってしまった美青年カイオの恋人である。

つまり、女性なのだが、ここでも、性転換の変装があって、
彼女はオスティーリォという偽名も使い、
さらに、クレオニッラに愛されてしまう、
というのがややこしい。

が、登場人物は、だいたい、以上で終わりなので、
筋としてはすっきりしている印象。

さて、このオペラは、ヴィヴァルディのオペラでは、
最も初期のものとして知られるもので、
台本はドメニコ・ラッリ。
1713年にヴィンセンツァで初演されているらしい。

この録音も2008年6月20日から22日に、
ヴィンセンツィアでの音楽祭で演奏されたものの記録らしい。

表紙にはカナレットの、
「ヴェニスのリアルト橋」という絵があしらわれ、
廉価盤でありながら、格調高い趣きがある。

最新の録音であるから、音もすっきりしていて、
フェデリーコ・グリエルモが指揮する
ラルテ・デラルコの楽器の音色にも輝きがある。

演奏風景を見ると、ヴィヴァルディお得意の、
ヴァイオリンの掛け合いが出来るように、
指揮もするグリエルモと、
恐らくSOLOⅡとされた、
ジャンピエッロ・ジャノッコが正面に向かい合っている。

ヴァイオリンはあと4つ、ヴィオラ1つ、チェロが2つ、
オーボエやリコーダーが3つ、
室内オルガンとチェンバロ、あと、バスとあるのは、
写真に見えるテオルボだろうか。

このCDは、3枚組だが最後のものは、
解説やリブレットが入ったCD-ROMである。
こうした工夫で原価を下げたのであろうが、
曲も演奏も美しく、非常にお買い得な感じを受ける。
 
パンシェルル著「ヴィヴァルディ」では、
このオペラは、1715年と1729年に再演されているようで、
処女作のような感じながら、そこそこの成功を収めたようだ。
それも肯けるが、このCDで聴いても、
美しいアリアが次々と繰り出されて、ため息が出る。

このようなものに行き当たるので、
なかなか、本来のシューベルトの話に戻れないのだが、
ヴィヴァルディもまた、シューベルトと同様、
ヴィーンに拒絶されて死んだ作曲家なのである。

すでに少し書いてしまったが、物語はシンプルである。

登場人物をまず、図表的にまとめると、

オットー皇帝  →  クレオニッラ(皇帝の愛人)
  ↑         ↓    ↓
忠臣デチオ    カイオ ← トゥッリア(変装してオスティーリォ)

という感じでシンプルである。

なお、オットー皇帝はクラウディウス帝であり、
クレオニッラは、メッサリーナ皇妃のことだという。
中公文庫にあるモンタネッリ著「ローマの歴史」でも、
「五十近くになって四度目の妃、
十六才のメッサリーナを迎えたが、
この女性は古今東西の王妃皇妃のうちで
もっとも破廉恥であったと伝えられる」と明記されている。

このオペラを聴くと、そのあたりのことが、
とても良く実感されるので、乞うご期待である。

第1幕のシーン1は、こんな感じで始まるらしい。
杉の並木道、陰深いあずまや、そして、
花の壺で飾られた噴水がある、
皇帝の別邸内にある庭の心地よい場所。
クレオニッラが一人、胸元を飾るための花を集めている。
解説によると、プールもあるようだ。

Track1、2は、こうした心地よい場所にふさわしい、
しゃれた序曲である。
アレグロは、小刻みなヴァイオリンの掛け合いも美しく、
わくわく感が、高まって来る。
続くラルゲットは物憂げで、しっとりとしていて、
これまた上質な出し物を予告させる。

Track3、4は、皇帝が愛するクレオニッラが歌う、
レチタティーボとアリア。

「オットーネは、美しいクレオニッラを激しく愛しているが、
彼女は胸元を飾る花を集めようとしていることを、
オペラの冒頭で歌う」と解説にあるが、
ここでのレチタティーボは、
皇帝に愛される身でありながら、
ハンサムな別の男を愛してしまった、という不埒なもの。

アリアでは、きれいな花が、いかに惹き付けるかを歌っている。
クレオニッラは、マリア・ラウラ・マルトラーナという、
若干、悩ましげな声を持つソプラノが担当している。
ヴィヴァルディの歌もまた、陰がある。

Track5、6、7は、このハンサムな男、カイオと、
皇帝の愛人のシーン。
カイオは、クレオニッラが一人であることを確かめ、
彼女は彼が来たことで喜ぶ。
カイオは、このオペラでは、
唯一のカウンターテナーで、
他の配役に比べ、人工的でへんてこな感じがする。
やはり、ハンサムボーイだから人工的なのか。

クレオニッラのアリアは情熱的なもので、
激しいリズムがエキゾチックである。

「私の目の光。憧れるのはあなた」と、
べたべたの歌であるが、大変素晴らしい。
オペラというか、室内カンタータのようでもある。

Track8、9は、皇帝がやって来る部分。
何と、オットー皇帝の役は、
メゾ・ソプラノのトゥーヴァ・セミニセンが担当。
澄んだ声が、話しかけるのでびっくりした。
「わが帝国を思うことも忘れ、
あなたの美を楽しむかもしれぬ。」
などと、のろけているが、
クレオニッラの方は、やけに興奮して絶叫している。
「ああ、あなたは、昔ほど、私を愛していないわ」。

アリアは、クレオニッラのもので、
歌い終えると出て行ってしまう。
「私の痛みを和らげようと思うなら、
もっと愛して下さい」などと、
可憐な感じで歌うが、かなりのやり手である。

Track10、11は、恋敵の、
カイオとオットー帝二人のシーン。
「もう、彼女は愛してくれないのか、
君はひんぱんに会えていいなあ」などと嘆く皇帝に、
カイオは、「あほじゃなかろか」と言っている。

ヴィヴァルディらしい協奏曲的展開を見せると共に、
胸苦しいアリアはオットー帝のもの。
メゾ・ソプラノで歌われ、皇帝は皇帝でも、
威厳ある皇帝ではなく、まだ、幼い、
あどけない幼帝に思えたりもする。

が、たぶん、この皇帝は、心のきれいな人なんだろう、
などとも考えてしまう、澄んだ響きである。

Track12、13は、オットー帝が去った後、
カイオは、「彼女の巧妙さは芸術的だ」などと褒めている。

続いて、トゥッリアが入って来るシーン。
あの、マリナ・バルトリ登場である。
それはともかく、カイオの恋人なので、彼はピンチではないか。
が、どうやら、彼女は、変装しているようだ。

「オスティーリォ、あなたの声はトゥッリアを思い出させる」
などと言っているからである。
が、「新しい愛の強さは、古い愛を消滅させた」などと、
ヤバいことを言ってしまったりしている。

アリアは、カイオのもので、
悪戯っぽい感じがするもの。
「愛が変わらない、などと言う人は、
幸福に無関心か、自分を否定している」
などと浮気を讃える歌を歌った後、彼は退場。

Track14、15は、シーン6で、
オスティーリォに変装したトゥッリアひとり。
あのマリナ・バルトリの歌が聴けるうれしい部分である。
「裏切り者、復讐は決まっているわ」と恐ろしい。
しかし、この人の澄んだ声は、前回、DVDでも感心したが、
ここでも美しい。

アリアは、何となく、ヘラクレスでも使われていたような、
聴いた事がある、親しみやすいメロディである。
「愛するものは、どうするか分かっているの。
不実な人に、復讐するために。」
伴奏の多様な色彩感の豊かさも特筆したい。

Track16、17は、シーンが変わる。
場面は、背景に滝の見える美しい木立の中、
「キャンペーン・ベッド」を備えた入浴施設。
キャンペーン・ファーニーチュアが戦場での家具らしいので、
持ち運びできる簡易ベッドみたいなものだろうか。

クレオニッラは、入浴を済ませ、
オットーが手を取っている。
しっとりとしたチェンバロがなまめかしい。
オットーは、彼女の湯上がりの姿を賛美している。

デチオが入って来て、
皇帝がローマを空けていることに警鐘を鳴らす。
皇帝を演じるのがメゾソプラノに対し、
デチオは、ルッカ・ドルドーロというテノールがうけもち、
とても勇ましい。

「デチオ(皇帝の忠実なカウンセラー)は、
ローマが彼の不在について不平を言っていると皇帝に伝える。」
とあらすじにある部分。
しかし、皇帝は受け付けず、
デチオも皇帝の思考が正常でないことに困惑する。

オットー帝のアリアは、
「ローマは勝手にじれるが良い」といういらだたしい部分に、
「私は愛に生きる」という、独白調の部分の対比からなる。
後者の夢遊病みたいな表現が印象的。

Tack18、19は、皇帝はいなくなって、
クレオニッラは、ローマでの自分の評判を、
デチオに尋ねる。
デチオは、ずばっと、その好色がいけない、と言っている。
だから、そのアリアも、
「いかれた楽園だ、一度、王の愛を失ったら終わり。」
というような内容である。

デチオ、クレオニッラのところには、
オスティーリォに変装したトゥッリアが来ている。

Track20、21は、この人たちの会話。
カイオを巡る恋敵の二人である。
が、トゥッリアは男の恰好をしているので、
クレオニッラは色目を使いながら、
秘密を言っていいか、などと、
その恋心の相談を始める。

そして、カイオは?などとトゥッリアが聴いても、
そんなのもう、どうでも良くなっちゃった、みたいな感じ。

アリアも、オスティーリォに対する情熱を歌ったもので、
伴奏にオルガンも活躍して、非常に量感のある、
それゆえに情念の高ぶりが素晴らしい。

Track22、23は、クレオニッラは去り、
それをこっそり聴いていたカイオが怒る場面。
カイオは、まだ、オスティーリォにいて欲しいようだが、
「いいえ、行かなければならないわ」という、
意地悪っぽい小唄を歌って、トゥッリアは行ってしまう。

「はい、はい、私は行かなくては、
いいえ、いいえ、聴いている暇はありません」
のモティーフを繰り返すのは、
「ヘラクレス」にもあったし、
(まさしく、マリナ・バルトリが歌っていた)
ヴィヴァルディの得意技だ。

Track24、25は、嫉妬に苛まれるカイオ一人。
まさしく嫉妬に狂うだけの部分。
単純なチェンバロの序奏からして、めらめら感十分。
アリアは、オーケストラも燃え上がり、
壮絶なものである。
超絶な技巧を駆使し、チェンバロが煌めき、
すごい激烈さ。
それにしても、すごい野心的な表現を散りばめた作品だ。

以上で、第1幕は終わる。

第2幕:
Track26.花咲く沈床園で、デチオはオットーネに、
ローマは、クレオニッラの行状が許し難しとしており、
これは、皇帝の凋落につながると進言する。
Track27.オットーは目を開き、
典型的な18世紀風標題音楽アリアで、
心の混乱した状態を嵐の海の砕ける波と比較します。

Track28.デチオは、慎重に、
皇帝には彼のライバルはカイオだとは知らせず、
カイオにも、皇帝が何を怒っているかを説明しない。

Track29.デチオは、王は偽られた、
何が王座にとって必要だろう、
というアリアを歌って去る。

Track30.あからさまに置き去りにされたカイオは、
不幸に苛まれ、隠れていたトゥッリアに立ち聞きされ、
彼女は、エコーのように彼に答える。

かなり幻想的なシーンだ。
「あなたは、詐欺師。」
「私を詐欺師と呼ぶその音は誰のもの。」
「捨てられながらあなたをまだ愛している女。」
「頭がおかしくなりそうだ。私は絶望の中に沈む。」
「あなたの苦しむ魂は私の報復。」

Track31.何と、ロッシーニを先取りする、
いや、もっと不気味な木霊付きアリアである。
「木霊は不幸な魂の声だと名乗り、カイオを苦しめる。
短い伴奏付きレチタティーボの中で、その悲しみは描かれ、
エコーのアリアが答える。
オスティーリォは前に出て、心の中の二人の暴君、
憤慨と愛のせめぎ合いを歌う。」

幻想的なカウンターテナーとソプラノの声の交錯の中、
活発に楽器群が感情を書き立て、
恐ろしくロマンティックな音楽である。

「ああ、変わらざる心、このような仕打ち。」
「あなたは嘘つき。嘘つき。」
「影よ、風よ。」
怖すぎる。

以上でCD1は終わる。
以下、CD2:
Track1.
偶然のようにオスティーリォに偽った、
トゥッリアが、カイオのところに現れる。
「カイオ、何を嘆いているの。」

Track2は、カイオのアリア。
これは、軽妙なもので、カイオは、
ライヴァルが、実は自分の恋人である、
オスティーリォだと考えているので、
「ああ、悪いライバル、
何をやっているか知っているぞ。
私の報復で打たれるだろう」などと、
見当違いな歌である。

Track3、4.
カイオは去ったので、トゥッリア一人。
嘘つきは駄目、いくら後悔させようとしても駄目。
「2つの暴君、一つは憤慨、そして愛」というアリア。
しかし、これはヴィヴァルディらしい快活なもの。

Track5、6.
「クレオニッラが鏡に映し、自賛している、
田園風のあずまやに場面は変わる。
カイオが入っていくが、愛の言葉は、さりげなく拒絶される。
彼は気持ちを伝える手紙を彼女に渡す。」
この二人の対話であるが、アリアはカイオ。
「手紙を読んで欲しい」という、
しっとりした愛の歌である。
ヴァイオリンの序奏が繊細で魅惑的。

Track7、8.
「ちょうどクレオニッラがそれを読むところで、
オットー帝が到着、彼女からそれをひったくる。」

腹をくくったクレオニッラは、読んで見て下さい、
などと言っている。
オットー帝は、やはり、ローマでの噂は本当だったか、
と嘆くが、何と、クレオニッラは、
カイオが、彼を裏切ったトゥッリアに出すものだ、などと言う。

オットー帝はころっと騙され、
アリアは、皇帝をなだめるようなもの。

クレオニッラは、さらに手紙を書いて、策略を進める。
何と、書いた手紙を、皇帝に持って行けというのである。

Track9、10.
その間、デチオが現れ、
ローマでのニュースを伝えようとするが、
皇帝はそれを遮り、カイオを呼ぶように伝える。

Track10は、クレオニッラのアリア。
何と、哀れな一途な心、とか歌って、去っていく。

Track11、12は、皇帝と忠臣のシーン。
ローマでの話はさらに嫉妬をかき立てる、
それより、カイオを呼べと皇帝。

Track12は、話を聞いてもらえない、
デチオのアリアである。
深刻なものではなく、単純で声も伸びやかである。
デチオは出て行く。

Track13、14は、オットー帝が、
手紙を読みながら、カイオを待つ。
何と、手紙には、「皇帝の愛人よりトッゥリアに」とあり、
カイオとの愛を大事にしないなら、許しませんとある。

カイオが来たので、皇帝は、これはお前が書いたのか、
といい、分かっておる、分かっておる、
トゥッリアにはクレオニッラが手紙を書いてくれた、
と言って、調子よくアリアを歌う。
「君の嘆きには同情するよ」と、しっとりした、
いかにもイタリア古典歌曲みたいなのを歌う。
弦楽の優しい寄り添いも嬉しい。
オットー帝は去る。

Track15、16は、カイオ一人。
クレオニッラの策謀に感心して、
アリアでは、
ラッキー、網から逃げた鳥のようだ、
と歌っている。
このアリアも、「ヘラクレス」で出て来たような音楽だ。

Track17、18.
カイオもいなくなって、トゥッリアがひとり入って来る。
あの人は私の言葉など聞かないだろう、
おかなりお怒りである。
激烈な部分と、内省的な部分からなる、
復讐のアリアで、この幕も終わる。
弦楽もぎざぎざして、めらめら感が出ている。

第3幕:
Track19、20.
木陰の小道で、デチオは、
再度、ローマで待っている危機を、
皇帝に告げようとするが、
アリアの中で、皇帝は、愛の幸福がある限り、
王位も帝国も問題外だと宣言する。

軽妙なアリアで、まったくもって困った皇帝である。
時折、聞こえる古雅な小型オルガンの響きが美しい。
好き勝手歌ったあと、彼は出て行ってしまう。

Track21、22.
デチオは、こりゃ駄目だと皇帝失墜を予測。
あの女にめろめろだ、と言うと、
ああ、カイオとクレオニッラが来たことを見つける。

アリアは、恋人になってしまうと、
奴隷であって、王様などではない、
と歌われるが、困ったさんの感じがにじみ出ている。

Track23、24.
まだ、ごちゃごちゃとカイオはクレオニッラに言い寄っている。
見苦しい。
アリアは、「もう、あなたを愛することは出来ません。
哀れみもありません」というクレオニッラのもの。

びしっと言い聞かせる感じ。
CD1のTrack23のように、
Yes、Noの、同じ言葉を強調して繰り返す、
ヴィヴァルディではよくあるもの。

Track25、26.
カイオの嘆きは女々しい。
オスティーリォに扮したトゥッリアが来る。
カイオは、オスティーリォに、あっち行け、
二人にしてくれと言うが、
クレオニッラは、むしろ、
というか、当然、オスティーリォの味方である。
二人の親密さをカイオに見せつける。

Track26のアリアは、
さすがヴィヴァルディの、技巧的なヴァイオリン助奏付きの、
しみじみした振られたカイオのアリア。
「私の苦痛を和らげて下さい」という内容。

Track27、28.
邪魔者カイオがいなくなって、すっきりした、
クレオニッラとオスティーリォのシーン。

クレオニッラは、側にオスティーリォを座らせて、
何か、言い寄ろうとしているが、
オスティーリォは、実は女性なので困っている。

アリアはトッゥリアのもので、
クレオニッラの親愛の情に答えながらも、
何か、間違っているわよ、という二面性のあるもの。

Track29は、影で見ていたカイオが、
オスティーリォがうまくやってるのを見て、
殺意を抱くシーン。

彼が飛び出て来たところを、
何という悪党、とクレオニッラはしかりつけ、
オスティーリォもひるまないで、罵っている。

Track30は、オットー皇帝とデチオが、
カイオを問いただすシーンだが、
すべての問題が解決するシーンなので、
ややこしくて長い。
カイオは、皇帝の愛人が、
オスティーリォに言い寄っていた事を暴露。
皇帝も今更ながらショックを受ける。

しかし、オスティーリォに変装していたトゥッリアは、
平然として、変装を解き、悪いのはカイオだと言う。
何と、一番悪いクレオニッラは、
ああ、助かったとか言っている。
さらに、皇帝は、トゥッリアに免じてカイオを許し、
二人を結婚させてしまう。

確かに、一番の阿呆は皇帝にも見えるので、
これくらいが当然であろうか。

Track31.大団円の合唱である。
カイオの喜びに唱和して、晴朗な合唱が歌われ、
オペラの全曲が終わる。

それにしても、クレオニッラをそのままにして、
皇帝の愛欲の日々は、まだまだ続くのだろうか。
早く、ローマの元老たちが誅殺すべきであろう。

史実では、クレオニッラ、メッサリーナ皇妃は、
やはり、こうした問題で殺され、
皇帝自身も、次の皇妃アグリッピーナに、
毒キノコで暗殺されたとされている。

ともあれ、そんな血なまぐさい事件は、
この瀟洒なオペラには無関係。
私は、かなり気持ちよく鑑賞した。

得られた事:「ヴィヴァルディのオペラの中で、最初期の作品とされる『別荘におけるオットー皇帝』は、予想以上に美しい作品で、ヴィヴァルディのオペラのエッセンスが詰まっている感じ。特に今回のCDは、廉価かつ演奏、録音とも良い。」
「特に、CD1最後の木霊のアリアは、ロマン派を予見した幻想性が素晴らしい。」
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by franz310 | 2011-10-02 14:49 | 古典