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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その287

b0083728_23293374.jpg個人的経験:
マドリッド王立劇場で、
2007年4月に
上演された
ロッシーニのオペラ、
「試金石」の記録。
今回は第2幕を
視聴してみよう。
指揮のゼッダも、
演出のピッツィも、
入魂の作品と知った。


特にピッツィのこだわりというか、
これに対する思い入れはものすごく、
舞台となるアシュドルバーレ伯爵の邸宅は、
懐かしい別荘を再現したものだという。

ここにブックレット掲載の写真を拝借したが、
テーブル、パラソル、椅子なども、
「Castel Gandolfo」にあるピッツィの家に、
見られるようなものを配しているらしい。

ピッツィが愛してやまないように見える、
このカストロ・ガンドルフォという土地を、
ネットで検索すると、
教皇の夏の離宮がある場所、
イタリアで最も美しい街とある。

アルバーノ湖を見下ろす、
美しい風景の画像も出て来る。

このような土地であるならば、
南国の太陽はまぶしいだろう。
恐らくは青空の広がる夏の午後などには、
どうしようもない気怠さの中に、
意味のない快楽を求めたくもなるだろう。

このDVDに見られる舞台においても、
登場人物たちは、プールに浸かってみたり、
美味そうなオレンジジュースを飲んだり、
暇つぶしにしか見えない遊びをしたりしている。

何よりも醜悪なのは、
女たちの上げる嬌声である。
何が、そんなに楽しいのか、
実のところさっぱり共感できない。
が、それは、そのまま、我々の人生の、
実態のような感じがしないでもない。

このDVDは二枚組で、
一枚目には、第1幕の他、
各場面の画像と共に、
劇の進行がテンポ良く解説され、
これを見れば、ほんの5分で、
このオペラの内容が分かる仕掛けになっている。

とはいえ、このオペラの魂とも言うべき、
パキュービオやマクロビオの脱線アリアについては、
何も語られていない。
まあ、当然か。

さらに、演出家のピッツィの、
このオペラに対する思い、
指揮者ゼッダの思いもインタビュー画像として、
この一枚目のDVDに収められている。

ピッツィに関しては、前回紹介して感銘を受けたが、
ゼッダの方はどうであろうか。
彼はピットに入っていると、
照明の加減か、白髪の東洋人にも見える風貌だが、
YAMAHAのピアノの前でインタビューを受ける様子では、
やや西洋人である。
芸術家というよりも、通勤電車で出会いそうな感じ。

彼は、この作品こそが、
ロッシーニが書いた最初の本格的なオペラであるとし、
自身の語法や美学を駆使した独創的なものとして紹介している。

リアルな物語に抽象的な言葉を散りばめ、
不思議な効果を出し、喜劇とドラマを奇跡的に結合させた。

みんな、この作品を喜劇だと言うが、
これは基本的にシリアスな問題作だと言うのである。
そこで描かれるのは、無為の世界、時間つぶしばかりの、
非常に近代的な世界で豊かな世界だという。

このあたりの考え方が、ぴったりピッツィに一致したのであろう。
このインタビューで参考として紹介される舞台シーンは、
いずれも、その言葉にぴったりな雰囲気である。
身振りも激しく、だみ声でまくしたて、
言いたい事がいくらでもあるという風情。

R・シュトラウスが言ったような、
何も起こらない問題の作品だと力説している。
二つのへんてこなシーンがあり、
ロッシーニは、それをまったくもっともらしくは描いていないという。

彼はこれを、幻想や狂気の世界の勝利だと言う。
善からも悪からもロッシーニは中立で、
それが社会諷刺や重要な真実味になっている。

これは、後期の「ランスへの旅」に似ている、
と力説しているが、このあたりは、
このDVDのブックレットに書かれた文章と同じである。

20歳で書かれたオペラの、
何という幸福、自然さ、創造力、活気、新鮮さ、青春性、
と、列挙しているが、
音声を聴くと、「デデデ、デデデ」と、
何やら興奮しまくったコメント。
そこまで興奮させていいの、
という感じだが、私にも、この気持ちは分からなくもない。

インタビューでは、第2幕からの映像引用が目立った。
非常に華やかな世界である。
最後がどんなにニヤリとさせるかを、
ここで紹介されてしまうのがちょっと残念だったが。

では、DVD2を見て聴いてみよう。
こちらの方が収録時間が短いのだが、
こっちは、特別映像は付いていない。

ここから第2幕であるが、
演奏はかなり乗って来ている感じ。

Track1.ゼッダが指揮をする前から、
舞台上から笑い声が響いて来る。
男声合唱がゲストたちを表すのだが、
男ばかりでは具合が悪いので、
彼等に対して向き合う形に、
つまり、後ろ向きのモデル風の女性たちが配され、
腰をくねらせている。

ドンナ・フルヴィアとアスパージアの声が、
明るく響き、伯爵への復讐を口にする。
マクロビオとパキュービオは、
伯爵にまとい付いて、言い訳をしている。
アスパージアなどは、マクロビオに、
謝らないで、仕返しをしろなどとけしかけている。
マクロビオは、アスパージアの、
中国風の服を褒め、
新聞で取り上げるなどと言って、
ご機嫌を取ろうとしている。
確かに、丹前のようなものを着ている。

ジョコンドもドンナ・フルヴィアに、
謝ったのは見せかけで、決闘する、
などと言って強がっている。

そんな不穏な雰囲気を察したのか、
伯爵は、近くの森に、狩りに行こうとみんなを誘う。
アスパージアは、さらにマクロビオをけしかけている。
狩りの後でね、とマクロビオ。

Track2.
サファリのような出で立ちで、
ライフルを持ったゲストたちが合唱する。
ここでもモデル風の女性たちは、
短パンで長い足を誇示している。

Track3.
すると、急に空が暗くなり、
激烈な嵐の音楽が始まる。
照明は稲妻を模してぴかぴかしている。

みんなからはぐれ、
ライフルもなくしたパキュービオが大騒ぎする。
この部分などは、よく考えると、メロドラマの手法であろうか。

嵐が去ると、のどかな爽やかな音楽が始まる。
このあたり、指揮者ゼッダが好きな部分であるからか、
たっぷりと愛情を込めたオーケストラが聴かれる。

薄明の中で、伯爵への友情と、
クラリーチェへの愛の板挟みになった、
ジョコンドのアリアが歌われる。
非常にナイーブなもので、
何だか、シューベルトの「フィエラブラス」の、
1シーンでも見ているかのような錯覚に襲われる。
第1幕には、アカペラの部分があったが、
メロドラマの活用といい、
どうも、10年後のシューベルトのオペラなども、
意外に、ここから近いのではないか、
などという感想を持ってしまった。

「ああ愛よ、それに値するなら、
哀れんで欲しい、率直で昔からの忠誠を。
その美しさを忘れることが出来ない」などと、
他愛ないことを歌っているのだが、
ピッチカートに木管のアンサンブルが、
ロマンティックな情感を盛り上げて行く。

次第に、ロッシーニ一流のテンポの魔術で、
軽快になり、べったりとせず、
むしろ爽やかな詩情で彩られていく点が素晴らしい。

ここでの拍手はかなり心がこもっている。

Track4.クラリーチェが現れ、
南部鉄瓶みたいなもので、お茶を入れながら、
ジョコンドを慰める歌を歌う。
テーブルを囲んでの親密なデュエットである。

二階のバルコニーでは、
マクロビオがこれに気づき、
伯爵も、女はやはり女だな、と語り、
アスパージアも、マクロビオも、
怪しんで盗み聞きする感じである。

それに気づかず、ジョコンドは、
愛の言葉を続けているから、
非常に微妙な状況の五重唱となる。

どうも、この演奏には伸びやかさが欠ける、
などと思ったこともあったが、
このあたり、絶妙のアンサンブルである。

そこに、伯爵が直談判するかたちで、
大股で現れ、あいまいな事ばかり言う女よ、
ずるくて狡猾だ、などと言って、
状況が緊迫すると、
狩りに出ていた人たちが戻って来る。

マクロビオは、これは新聞ネタだと呟き、
クラリーチェも、「何という侮辱」とお怒りである。
が、早口言葉による強烈なカリカチュア化で、
困惑する人たちと、人の不幸を見て喜ぶ人たちの五重唱と、
合唱が一体になって、
シリアスなシーンを明るく締めくくる。

ジョコンドはクラリーチェの無実を、
伯爵に訴えるが、
そこにクラリーチェの謀略が始まる。
彼等に手紙を見せ、
兄が帰って来て、彼女を連れて行くというのである。

Track5.ここでの演出は、
ドンナ・フルヴィアが油絵を描き始めるというもの。
パレットを手に持ち、カンバスに向かっている。
モデルはパキュービオである。

しかし、ここでフルヴィアが歌っているのは、
復讐の歌であって、明るく歌っている内容は、
「彼がみんなの前で私を傷つけたのだから、
みんなの前で彼を罰しないとね」と穏便ではない。

この後、マクロビオが、何故、決闘をしなければならないか、
と大騒ぎする中、ジョコンドは、ピストルを渡し、
「私がするように、君の番が来たら、私の方を撃ちたまえ」という。
マクロビオは、「いつも君の事は新聞で良く書いている」と答えても、
「それだけで十分な理由だ。すぐに君を殺す」と興奮している。
伯爵も、「君に勇気がなくても、俺はやるぞ」と剣を振りかざす。
そのうち、どっちがマクロビオをやるかで、
ジョコンドと伯爵が決闘を始める。

Track6.これは強烈な三重唱である。
まずは、君たちがやれ、とマクロビオが歌い出す。
ジョコンドは、私がやる時は、彼の下卑た心を切り裂く、と言うと、
伯爵は、私がやる時は、彼を天国で散歩させてやる、と答える。
この魅力的な音楽に乗って、
剣を振り回したり、間合いを取ったりと、
歌いながらも大変な重労働である。
そのうち、伯爵が倒れ、
ホストはゲストに上席を与える、というので、
今度は、ジョコンドはマクロビオをちゃんちゃんばらばら始める。
降伏する、それが簡単だ、とマクロビオ。

伯爵は条件は、まず、臆病と認め、金の亡者と認めよ、
馬鹿な洒落者、生きている中で最も無知な人間、
と小学生なみの条件でまくし立てる。

マクロビオが屈服すると、
ジョコンドは喜んでピストルを手に、
踊って歌おう、とダンスを始め、
伯爵とマクロビオは剣を持って、それに続く。

ロッシーニの微笑みに満ちた音楽が旋回し、
すばらしい興奮の渦が巻き起こる。
彼等は、ずっと動き回って、
見ているだけで、へとへとになりそうだ。
この演出はオーソドックスかもしれないが、
登場人物の歌は上手で、演技も巧妙でとても面白い。

Track7.クラリーチェが軍服姿になって、
兄になりすまし、ようやく祖国の地を踏んだ、などと歌う。
軍隊は、どんな爆弾も我々を止めることはなかった、と答える。
後半は、「この大胆な男らしい変装によって、
私は、希望が帰ってくるのを感じる、
優しい鼓動に、心は熱く燃えて来る」
と、情緒豊かな歌に変わり、
合唱は、「何と美しい顔、溌剌として気品に満ち」
と、さっきとは勝手の違うことを歌っている。
ここでのトドロヴィッチの歌唱は、まさしくそんな感じだ。

オーケストラも奮い立って、合唱も勇ましく、
素晴らしい盛り上がりに暖かい拍手がわき起こる。

アスパージアとマクロビオは、
全く同じ顔だ、などと噂する中、
伯爵が出て来て、クラリーチェへの愛を訴える。

Track9.は伯爵のアリアである。
「目覚めることが出来ないなら、
あなたの胸で哀れんで下さい」という言葉に、
クラリーチェの表情が穏やかなものに変わって行く。

伯爵は、白のジャケットに蝶ネクタイだが、
ポケットに手を入れての懇願である。
不遜であると見ていると、テンポが速くなって、
伯爵は倒れてネクタイを外し、音楽は焦燥感を募らせて行く。
ついに、死ぬ死ぬと騒ぎ出す絶唱となって、これまた拍手。

軍服姿に惹かれたアスパージアとフルヴィアが、
クラリーチェ本人とも知らず近づいて来る中、
召使いのファブリッツィオが書類を持ち出し、
結婚を認めるサインを申し出ると、
軍人は、伯爵の口に、いきなりキスをするので、
周囲は騒然となる。
「私はクラリーチェよ」という単純な一言で、
大団円が近づく。

Track10.は、「今できるのは、喜ぶことだけ」という、
みんなが許し合う最後のアンサンブルになる。
アスパージアとマクロビオ、フルヴィアとパキュービオも、
いつの間にかカップルになっている。
コーダでは、オーケストラも合唱も白熱した興奮を見せ、
そんな中、カップルは二人だけの部屋に入って行き、
軍人たちも、それに手を振って終わり。

カーテンコールでは、さすがパキュービオ、マクロビオに歓声、
そして、ジョコンドには、敬愛の拍手がわき起こった。
これらの役は、パオロ・ボルドーニャ、ピエトロ・スパニョーニ、
ラウル・ヒメネスが担当した。

伯爵やクラリーチェにも相応の拍手だが、脇を固めた3人の手堅さ、
そして何よりも指揮者ゼッキに賞賛が送られたのが良く分かった。
斬新なステージでの洒落た演出ではあるが、
全体として手堅く、温かい血の通った名演奏だった。

さて、このDVDのブックレットに載せられた解説は、
このように最大の拍手で報われたゼッダ自身が手がけているので、
それをここで紹介して終わりにしよう。

「1812年9月26日、
ミラノのスカラ座で初演された『試金石』は、
当時、文化の発信地とされていたオペラ・ハウスから、
彼が委嘱された最初のオペラであったがゆえに、
ロッシーニのキャリアに重要な段階を刻んだ。
当時、ロッシーニはわずか22歳であり、
1811年10月26日ボローニャで初演された、
『ひどい誤解』というたった一つのオペラ・ブッファと、
共にヴェニスのサン・モイーズ劇場で上演された、
1810年11月3日の『結婚手形』と、
1812年1月8日の『幸せな間違い』という、
二つのオペラ・ファルサしか書いたことがなかった、
ということもあり、この依頼は大きな衝撃であった。
『幸せな間違い』の成功を受けて、
1812年5月9日、サン・モイーズ劇場で上演された、
『絹のはしご』は、スカラ座から委託を受けた後のものであった。
彼の友人、モンベッリのために書いた
『デメトリオとポリビオ』が、
1812年5月、ローマで上演されたが、
これも、スカラ座との契約にサインした後であった。
ミラノのオペラ座からの招聘は、
明らかに、これらの初期オペラの真の成功に寄るものであるが、
そのシーズン、主役を歌うようスカラ座と契約していた、
クラリーチェを歌ったマリア・マルコリーニ、
アシュドルバーレを歌ったフィリッポ・ガーリという、
ロッシーニを崇拝する友人でもあった二人の偉大な歌手たちの、
助けもまたあった。
マルコリーニ夫人は、ボローニャで、
『ひどい誤解』で当たりを取っており、
ロッシーニは彼女のために、
兵士の姿で歌う、『en Travesti』というアリアと共に、
エルネスティーナという重要な役割を与え、
彼女はそれが気に入ったので、
新しいオペラでも、それを変えることなく使うことを頼んだ。」

「試金石」の最も奇想天外な筋は、
単に、「遠くに行かなければならない」と、
伯爵を騙せばいいだけのクラリーチェが、
いきなり軍隊を率いて登場する場面であるが、
何と、このような裏話があったということか。

「フィリッポ・ガーリは、ロッシーニの歌唱スタイルに優れ、
正当派のオペラ歌手がファルサなどのまがい物など、
通常、検討する価値もないとした時代、
ヴェニスでの『幸せな間違い』の男爵の役を引き受けた人である。
この傑出した出演者の能力が、
明らかに恋するアシュドルバーレがバス、
(もう一人の恋人のジョコンドがバランスをとってテノール)、
もちろん、女性の恋人役にはコントラルトを選ばせた。」

成る程、『幸せな間違い』の男爵も、
何か、かっこいい感じの役柄であった。
ガーリはイケメンでもあったのだろうか。

「作曲家としての彼の将来にとって重要なこの契約によって、
期待と責任感がわき起こり、
ロッシーニは恐ろしい自信喪失と警戒感に襲われた。
これは、1815年『イギリス女王、エリザベッタ』によって、
ナポリ王立劇場の監督の任命を受けた時や、
傑出した『ウィリアム・テル』によって
アカデミーで栄光を掴むのに先立って、
『コリントの包囲』や『モーゼとファラオ』によって、
パリで同様の任命を取った時などなど、
他の重要な契約時にも、表面化したことであった。
ロッシーニは、完全に新しい音楽を作曲するよりも、
リブレット作者の許可を得て、
彼の意見によれば、大きな芸術的価値を持つ、
前に書いた作品のページを追加することによって、
自身の最高の証明書として提出したがった。」

何と、ロッシーニの流用癖が、
こんな観点から理由付けされるとは思っていなかった。
スタンダールの本にも、
「ロッシーニは自作を再利用しすぎるか」という一項があるが、
スタンダールは、退屈させるよりは、
この方がマシといった言い方で弁護している。
「息つく暇の与えない」、「居眠りすることだけは決してない」
と書き、34曲のオペラ合わせて100以上の人気曲がある、
と書いている。他の作曲家では、1曲のオペラに、
人気曲が一個あればいい方だ、と書くのである。

「『試金石』には、それゆえ、
『エリザベッタ』に『パルミーラのアウレリアーノ』や、
初期のオペラから抜粋された、もっと多くのページがあるように、
『ひどい誤解』からの、多くの抜粋が含まれている。
『コリントの包囲』や『モーゼとファラオ』など、
パリのために書かれた厳格なオペラは、
すでに、ナポリのために書かれていた『マホメットⅡ世』や、
『エジプトにおけるモーゼ』のオーセンティックな改作となっている。」

なるほど、これらは、単に、フランス語版というわけではなく、
さらにパワーアップしているというわけだ。

「抽象的で意味のない言葉にも音楽を付け、
それが何度も繰り返され、模倣される語法は、
ロッシーニならではのものであるとはいえ、
しかし、この方法は意味がないものではない。
これらの借り物が多い、
イタリア・オペラ、フランス・オペラでは、
はじめから終わりまで聴衆を夢中にさせる、
『セミラーミデ』、『泥棒かささぎ』、『シャブランのマティルデ』、
『ウィリアム・テル』のような偉大なオペラが持つ、
完成度や劇的なリズムは少ないことに気づくだろう。
これは、作曲家として、
ロッシーニの慎重なあいまいさが、
笑いと涙、喜びと悲しみといった、
両方の感情を呼び起こすように、
同様の音楽語法を使わせたことにより、
音楽的なアイデアが不適切になった、
ということではなく、
天才と素晴らしい技法によって、
ロッシーニが獲得した、
『aurea proporzione(金色の割合?)』を
不鮮明にするといった、
多くの異なる目的のため作られた、
構造の組み合わせによってもたらされた、
不連続話法の感覚によるものである。」

この部分、1センテンスが長すぎて、
何を言っているか分かりません。
どなたか解読お願いします。

「リコルディが有する『試金石』の自筆譜のスコアは、
各曲の並びや最終的な構成が、
オリジナルの順序とは異なることを示している。
しかし、これは、作曲家の乗った気分を妨げるものではなく、
こっけいなテンポ表示がスコアに見られる。
ジョコンド、マクロビオ、
アシュドルバーレの気まぐれな決闘を描いた、
協奏する曲のためには、『分解するように』という表記、
無伴奏合唱が、ピッチを維持するのが難しいので、
四重唱の独唱には、『調整されたアンダンテ』という表記がある。」

こうした洒落た表記は、ベートーヴェンの後期や、
シューマンの専売かと思っていたら、大間違いであった。

「『試金石』は歌手に、非常に多くを要求するために演奏が困難である。
クラリーチェのコントラルトには、正統的なコントラルトなのに、
実際にはあり得ない程の異常な高い声を要求する。
ロッシーニの女声の偏愛は固有なもので、
あらゆる声域で、甘さ、劇的緊張、技巧的な軽快さの表現を求めた、
ロッシーニの愛人、イザベッラ・コブランが女主人公になる、
ナポリ時代のドラマ作品には必ず見られる。
また、男声主役、アシュドルバーレも、
高音、低音ともめざましいパッセージが要求される。
これはフィリッポ・ガーリには容易であったが、
19世紀のバッソ・ノビレが、
バスからバリトンが分かれる傾向にあり、
どちらを使うか、
あるいは、両方がうまく行くとは限らない
バス・バリトンを使うべきかで、
今日、歌手や興行主たちの心配の種となっている。
他の役も副次的と見なすことができず、
非常に重要かつ、優れて高い能力のプロが要求される。
事実、その音楽的、ドラマ的な価値に見合うだけ、
『試金石』は上演されて来なかった。
こうした要素が、スカラ座の聴衆にはよく理解できたので、
ペーザロから来た若者を、
当時のオペラ界の疑うべくもない支配者と考え、屈服し、
53回もの公演を要求した。
最後の公演では7曲がアンコールされるほどの成功で、
リブレット作者のルイジ・ロマネッリによれば、
しゃくに障るほどのものであった。」

「テシトゥーラの自然さの困難さ以外にも、
ロッシーニが、常に複雑さを増す、
劇場界に常に身を置いていたゆえの、
特別な経験なしでは、あり得ないような、
オペラの技巧のアクロバティックさを組み合わせた、
実現不可能なヴォーカル・ラインがある。
いつも演奏家たちと共に働くことが、
彼が求めるドラマ表現の目的のために、
際限なく人の声の可能性をフル活用しようとする、
彼の要求を減らすことはなく、
彼はブレス・コントロールや、
コロラトゥーラ・パッセージの交錯を学び、
それゆえ、ヴォーカル・ラインは、
困難や負担なく、より自発的で自然なものとなった。
同様に『試金石』の器楽パートは、
この管弦楽法の大家の通例通り、輝かしく透明だが、
ヴォーカル・フレーズゆえに、他のオペラよりも複雑である。
それは、特別な自由さやアゴーギグの柔軟さをもって伴奏され、
表記にも容赦がない。」

何だか、人間の声研究所みたいなイメージである。
「歌曲王」、シューベルトであっても、
その生涯において、こんな風景を想像することは出来ない。
パガニーニやリストが器楽でやったのと同様の試みが、
声においても、なされていった感じだろうか。

得られた事:「ロッシーニとシューベルトの、歌に対する姿勢の違い。ロッシーニは、オペラ歌手たちと、日夜、声による表現力拡大を実験していた。」
「ロッシーニは、ここぞという大一番では、過去の成功作を流用して保険をかけた。」
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by franz310 | 2011-07-30 23:30 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その286

b0083728_10153225.jpg個人的経験:
私としても、
いい加減にしたいのだが、
アシュドルバーレ伯爵の
快適な邸宅のパーティから、
なかなかお暇できずにいる。
何と言っても、
ロッシーニの権威として、
日本でも人気の高い、
ゼッダ指揮のものがあるとすれば、
無視して素通りすることが出来ない。
マドリッド王立劇場2007と、
銘打たれたDVD二枚組。
セットが立派で、美男、美女のモデルを、
あちこちに配したこの演出は、
晴れ渡った南国の別荘のようにも見え、
さらに快適な空間を生み出している。


登場人物は、一階二階を自由に行き来して、
庭で寛ぎ、テーブルで飲み食いし、
プールに浮かんで、まざしく夏のバカンス。
こんな邸宅に泊めていただけるなら、
是非、私もアシュドルバーレ伯爵のお友達になりたい。

オペラ「試金石」(ロッシーニ作曲)の今回のものは、
マドリッド王立劇場管弦楽団、合唱団の演奏。
2007年4月のライブ。
ゼッダの指揮のロッシーニでは、
すでに、この前のオペラに当たる、
「ひどい誤解」を聴いたが、
あれは、2001年の収録であった。

このDVDの解説は、ゼッダ自身が書いているが、
前に聴いたナクソスのCDの
Bernd-Rudiger Kernという人同様、
スタンダールへの反論がしっかり書き付けられていて、
ちょっとがっかりした。

「この作品が、ロッシーニのオペラ・ブッファの最高傑作とした、
スタンダールの熱狂に賛成することは難しい。」
と、解説の中頃に書かれているのである。

私は、偉大な文豪の言葉通りに、
ロッシーニの傑作と信じて、満足して聴いているのに、
何故、これらの解説を書く人は、
わざわざそれを否定して、
私の聴く気をなくさせようとするのだろうか。

が、良く読んでみると、今回のものは、ちょっと違うようである。

「また、『オペラ・ブッファ』という言葉にも、
賛成することは困難である」と、
続けて書かれているからである。

そう来たか。
どうやら、ロッシーニの傑作であることに、
異議を唱えているわけではないようだ。
スタンダールの「オペラ・ブッファ」という表現が、
この指揮者には気に入らないようなのだ。

では、その言い分を聞いてみたい。

「確かに主題はコミカルだが、伝統的なイタリアの、
オペラ・ブッファとは全く異なるものだ」とある。
ゼッダは、もっと雄大な視点で、
この作品を捉え直そうとしているようだ。

「コミック・オペラには、
ステレオタイプの登場人物がいて、
少ないバリエーションの月並みな喜劇を演じ、
その本来の、
人々を楽しませ、明るくするという目的に対し、
疲弊しきっていた。
それがロッシーニによって新しい生命を得て、
『絶対のコメディ』というコンセプトに向けて、
息を吹き返した。」

ということで、何だかよく分からないが、
壮大な論点である。
この無名のオペラに、新しい光が投げかけられた感じ。
が、その新コンセプトとは何なのか?

「それは、モラルの抑圧なき逸脱の夢
(アルジェのイタリア女、新聞、オリー伯爵)や、
潜在的に破壊的な社会諷刺の練習
(試金石、イタリアのトルコ人、チェネレントラ、
セビリャの理髪師、ランスへの旅)で、
喜劇のテーマに、シリアス、またはセミ・シリアスな糸が、
素晴らしい結合によって結ばれている。
どたばたのユーモアから甘い優しさまで、
辛辣な皮肉から真に高貴な感傷まで、
すべてのものがロッシーニの奇蹟の天才によって、
絶妙なハーモニーの中に溶け込んでいる。」

とにかく、ゼッダは、この作品を画期的なものと捉えているようだ。

「『試金石』は、伝統的な笑劇カリカチュアで、
(アシュドルバーレが変装した、
怪しげなトルコ人が『シジララ』を繰り返し、
耐え難く下手な詩人パキュービオが登場するなど)
高尚な感傷(友人、ジョコンド)、
気まぐれな女性達(ドンナ・フルヴィア、バロネス・アスパージア)、
そして、仕事熱心ながら、
無遠慮な金銭目当てのジャーナリスト(マクロビオ)などと、
結合されている。
女性の主役、クラリーチェは、
これまでのオペラ・ブッファにおける、
迫力のないお転婆娘とは異なる、
知性と落ち着きで演じている。」

確かに、ここに出て来る登場人物が、
非常に生き生きとしていることは、
私も認めるし、彼等が大きな枠組みの中で、
これらの複雑な要素がしっかりと
まとめられているのも魅力である。

ゼッダは、「試金石」は、
単なる「オペラ・ブッファ」ではなく、
時代を進めた革命的ドラマである、
と言っているのである。

「天真爛漫な基本プロットと、ほとんど3時間に及ぶ、
もっと複雑な状況にも耐えるような陶酔的活力、
豊かな音楽の見事な構成のアンバランスについても、
考えてみるべきであろう。」

これについては、私も何も否定しない。
こんなにも沢山の演奏を聴いたが、
やはり、音楽に勢いと独特の美しさがあるのが魅力だ。
どのナンバーを聴いても、心ときめく瞬間があるが、
それは、ある時は楽しく、ある時はシックに響く。

以下、ちょっと、脱線したような解説が続く。

「『試金石』というタイトルは、
昔、金を分析するのに用いられた、
酸にも耐える固い石フリントのことである。
オペラの中では、
クラリーチェのアシュドルバーレへの誠実さをテストする意味で、
パトロンを失い、主人が貧乏になるというニュースである(第1幕)。
第2幕では、アシュドルバーレの、
クラリーチェへの愛の堅牢さをテストする企みの計略で、
結婚の最終拒絶をアナウンスしに帰って来ている、
クラリーチェが男装して演じる架空の兄が現れる。」

このあたりの解説は何度も読んだが、
クラリーチェの兄は架空だったのか。

「この理由からトルコ人に変装したアシュドルバーレの登場は、
純粋なコメディア・デ・ラルテの過度の笑劇風で、
筋の現実的なトーンと強烈なコントラストをなす。」

確かに、第1幕では、このあたりが強烈な山場であろう。
他愛ない会話の連鎖のようなものに、
ここで、いきなり大きなドラマが現れる。
あるいは、ここに来て一斉に、
これまで勝手にやっていた個性的な主人公たちが、
同じ運命に遭遇する、という感じであろうか。

「一方、クラリーチェとアシュドルバーレの愛の戦いは、
コミック・オペラに出て来る、多くの結婚嫌い同様、
優雅に飾り立てられた戦いであって、
誠実な感情に自信のある女性は、
ゴルドーニの良く知られたコメディの、
状況やキャラクターを想起させる。」


このように説明されると、この「試金石」というオペラ、
単純に「オペラ・ブッファ」の代表作と考えていた事が、
非常に恥ずかしくなって来るではないか。

この解説は、先のオペラの題名列挙もそうだったが、
別の作品に脱線する欠点がある。
以下の文章も、もともとはコンマが一つしかなく、
分かりにくかったのを、二分割して見た。

「『試金石』の構成とセミ・シリアスなアプローチは、
音楽劇の中のオリジナルなジャンルの最初のものである。
部分的に補足されてフランス語がつけられ、
『オリー伯爵』と改作された、
ロッシーニの最後のイタリア語オペラ、
『ランスへの旅』に奇妙なほど似ている。」

ということで、ここでも、ここから、
「ランスへの旅」の話に行ってしまっているが、
それよりも、この「試金石」の特徴が書かれた部分が読みたいので飛ばす。

「ハッピーエンドは、主役の女性が、
短い簡潔な句を発するだけでロッシーニ・スタイルである。
『ルシンドは帰っていません。私はクラリーチェです。』
同様に印象的なのは、アシュドルバーレのリアクションで、
『今まで、女性を良く思ったことはないが、
今日、私は、彼女らを尊敬することを学んだ。』」

確かに、この簡潔な言い回しは、
シャトレ座の演奏でも、妙に心に残っている。

ここから、解説は、このオペラの見所集みたいになっている。

「パキュービオのアリア、『ミシシッピの尊大な影』
(取り立て人に扮したアシュドルバーレのシーンが、
彼が取り当てを強要する時の発音で、
オペラを『シジラーラ』と命名し直したのと同様、
ミラノで勝利を収めた)は、
100年にも及ぶロッシーニのオペラの忘却を生き延び、
今日までしばしば言及されて来たものである。
同様にポピュラーなのは、木霊と共に登場する、
クラリーチェの入場、
それから、第2幕の雷雨で、ロッシーニの初期の作品から見られ、
何度も何度も、シリアスなものでも、コミカルなものでも使われた。」

どのシーンも、すぐに目に浮かぶような、
極めて印象的なものだ。
しかし、これらのシーンによって振り回される感情の幅は、
確かにゼッダが言うように、
新しく生命が吹き込まれたコメディと言うにふさわしい。

楽しいシーン、優美なシーン、
迫力のあるシーンを、ここでゼッダは取り出している。

「『試金石』は、さらに、レチタティーボ・セッコの、
拡大された利用によって特徴付けられ、
アシスタントに任せた後年のものとは違って、
これらはほとんどロッシーニ自らが書いた。
(第1幕の大部分は彼自身のもの。)」

何と、では、「試金石」の第1幕は、
かなり貴重な例ということになる。

「初演のため、物語の説明の補助用で、
リブレット作者に送られた、
ミラノで印刷されたリブレットは、
いくぶん多くの詩句を含んでいる。
豊かで寛大なホストにたかって、
彼らの余暇時間を楽しむ、
登場人物たちの間の会話による、
些細なストーリーを補強説明するために、
テキストが多く必要になっている。」

確かに、このオペラは、強烈な個性のバラバラの楽曲を、
強引に寄せ集めた作品という感じがある。
マーラーの交響曲みたいな感じだろうか。

そう思うと、ゼッダは別の例を挙げて来た。
マーラーのライヴァルで盟友でもあった、
リヒャルト・シュトラウスである。

「つまり、『試金石』は、『問題のオペラ』のはしりであり、
特に、今日、有名になった、
『カプリッチョ』と『インテルメッツォ』によって、
R・シュトラウスが、彼の最高のサポーターとなるような、
そうした新しいオペラの祖先である。」

以下、この解説の締めくくりはまことに力強い。

「もう一度言おう。ロッシーニは、未来を予測し、
過去の扉を、何の惜しみもなく、一度に締め切ったことで、
我々を驚かせるのである。」

こうした解説を読んで、今回、再発見したことがあったとすれば、
ロッシーニは強烈な革命児であったということだ。
前回の解説では、それを戯画化という言葉で、
矮小化していたかもしれないが、
今回の解説では、そうした要素は、
もっと大きな世界観の一部として読み直せる。

後年のロッシーニはかなり謙虚な振る舞いが目立ったようだが、
マーラーと同様、20歳のロッシーニは、
私のオペラには全てが書き込んである、
とでも言うかもしれない。

さて、このDVD、表紙を見ても明らかだが、
演出は、プール付きの豪邸が舞台という、
現代風でかなり洒落たものだ。

パリ、シャトレ座のものも、
プール付き豪邸であったが、
あれは、2007年1月のものだった。
演出を手がけたピッツィは、
3ヶ月前のシャトレ座の演出を見てどう思っただろうか。

ピッツィのインタビューも、
このDVDには特典映像として出て来るが、
見たところ、ゼッダと同様、かなりの年配である。

頭ははげているのか、かなり短く刈り込み、
口ひげとあごひげが白い。

が、この人は、この道のプロであるばかりか、
ロッシーニについての意見も熱いのでびっくりした。
「1812年はロッシーニにとって重要な年でした」
などと語り出す演出家は想像していなかった。

シャトレ座の演出のソランが、
僕はよくクラシックは分からない、
と言っていたのとは正反対である。
まあ、それゆえに、ロッシーニの革命的な作品に、
ふさわしい演出が出来たのであるが。

それとは違ってピッツィはかなり語る。
ゴルドーニの影響についても言及し、学究肌と見た。
当時のスカラ座はリアリティを重視したが、
ロッシーニは、そこに、
アイロニーと詩的センスを付加したと言っている。

このあたりで、ようやく演出上の話に入る。
いろんな事が起こるが何も起こらないゲーム、
スペクタクルを演出効果にしなければならない、
と書いている。

登場人物は、みな、何をしていいかわからない、
「無為」の人たちだ、とまで言っている。
しかも、我々が日常で出会うような人々だと言うのである。
シューベルトの時代が、妙に身近になるような発言である。

ゼッダ同様、この人もまた、ロッシーニに現代を見ていた。
だから、こうした演出は必然だったのだなあ、と感心。
食べたり飲んだりするだけの押しかけ客。

マクロビオが最も興味深い人物として上げられており、
現代にもいるような人として、再創造されている、という。

確かに、彼等のすることは、すべてが無目的だ。
これは、どうやら、シャトレ座の方も気づいていたようで、
内容を見てみると、テニスのラケットを振り回すシーンもあり、
食卓を囲むシーンもあり、気になる共通点がある。

しかし、実際に水に入る点でも、
かなり大がかりなセットを用意したという点でも、
こちらの方が本格的である。
何と、彼は、こんな感じの別荘を、
実際に何年か持っていたというのである。

ピッツィは、70年代に作られたヴィラを想定し、
当時見たことのある人を思い出しながら、
彼等がロッシーニの主人公に似ていると考えた。
「試金石」が演じられるのに、
理想の大道具は1970年代の別荘だというのである。
「Roman Dolce Vita」、何も計画せず、カジュアルなスタイル。
「Castel Gandolfo」にある、ピッツィの家にも、
見られるようなものを配しているらしい。

成る程、だから、何となく、既視感を感じてしまうのかもしれない。
何と、小道具まで、彼が持っているものだというこだわりだ。
衣装もまた、記憶にあるものだという。
ピッツィは、それを楽しみ、わくわくしながら再構成した。

それにしても、1970年代とは、
イタリア人にとってどんな時代だったのか。
我々、音楽ファンにとっては、アナログがデジタルになる前、
そう考えると、イタリア人も、
日本人同様、昭和の感じを持っている可能性がある。

シャトレ座のものは、DVD1枚に、
2幕すべてが入っていたが、今回は2枚に分かれている。
まず、1枚目から聴いて見よう。

Track1.ロッシーニを紹介して、日本でも好評を博している、
ゼッダの指揮姿は、序曲から確認することが出来る。
非常にオーソドックスな感じで、指示は克明。
テンポも悠然としている。

Track2.アシュドルバーレ伯爵のプール付き邸宅。
客人が、庭のテーブルで飲み食いしたり、
プールサイドで遊んだりしている。

成る程、ピッツィは、これを40年前の光景として再現したのか。
確かに私にも、懐かしい風景だ。

二階のバルコニーから、ガウンを着た伯爵が姿を現す。
ポロシャツで短パンのパキュービオ(パオロ・ボルドーニャ)が、
自分の詩を披露して歩くと、みんな難を逃れて行く。
パキュービオは、表紙のずぶ濡れの人である。

Track3.アスパージアはブリオリ、
ドンナ・フルヴィアはビッチーレという歌手が受け持っているが、
声はそれほど期待を裏切らなくてよかった。
フルヴィアはかなりふくよかである。

Track4.マクロビオとジョコンド登場。
ここで、二人は白い運動服か、
いきなりテニスラケットが持ち出される。

これも無為の人たちが、
いかにもしそうな行動の典型とされた。

マクロビオは、幾多の詩人も、
新聞の記事で簡単に吹き飛ばされる、
と歌い上げる。
吹き飛ばす動作がラケットの一振りなのである。

新聞を開きながら、こんなものは、
何の関心も起こさない、とジョコンドは反論する。
マクロビオは白髪混じりのスパニョーリという歌手、
ジョコンドは、何となく好青年である。
ヒメネスという歌手が受け持っている。
テニスをしながら、いろいろ論争している。

ここまで聴いて思ったのだが、
会場のせいか録音のせいか、
声に伸びやかさが足りず、いくぶん、
広がりに欠ける音響である。

あるいは、歌手の実力であろうか。

Track5.美しいホルンに導かれ、クラリーチェ登場。
トドロヴィッチという人だが、ぴらぴらの付いた、
ピンクの花柄のワンピースを着たベテランという感じ。
もう少し若い方が良いに決まっているが気品はある。

木霊の役のアシュドルバーレは、二階で健康器具を使っている。
このあたりから、ひねくれた二人の恋人の駆け引きが始まる。

Track6.いきなりアシュドルバーレ伯爵は、
上半身裸になって、二階でカヴァティーナを歌い出す。
マルコ・ヴィンコという人。なかなか渋い顔をした人。
プールサイドで、クラリーチェが聴いている。
後半では、ゆったりしたパジャマみたいな服を上半身に羽織って、
庭で歌い出す。
何とレチタティーボでの二人の会話は、電話越しである。

Track7.彼等のデュエットは、
そのまま電話の受話器を持って行われる。
オーケストラが、軽妙なリズムでドライブする。
ようやく乗って来たのか、
クラリーチェは、受話器を持ってごろごろしながらも、
悩ましい声を響かせて良い。

電話ごしという演出、
素直になれない、二人の関係を暗示していて、
妙に生々しい感じもしてきた。
いきなり夜になったのだろうか、
邸宅は闇に覆われ、両サイドにいる、
恋人たちだけがスポットライトを浴びている。
もどかしい感じが良く出ている。
歌い終わって拍手の時は、
また、明るくなって、プールに人が戻って来ている。
憎い演出だったということか。

しかし、DVD1では、この部分の詩情が際だっている。
コード付き電話がまた、おそらく、ピッツィのこだわりと見た。
懐かしい昭和、いや、1970年代へのオマージュであろう。

Track8.これは、表紙になったシーンで、
このふくよかな女性は、ドンナ・フルヴィアだったのである。
シャトレ座のラウラ・ジョルダーノを見た後では、
イメージが違いすぎるが、
主役はパキュービオのボルドーニャである。
プールに入ったドンナ・フルヴィアの前で、
さまざまな声色を駆使して、
有名な「ミシシッピの歌」を歌う。

「ミシシッピの尊大な小さな影よ、
恥ずかしがらないで、しばしとどまって下さい。
できません、いやです。
影が答える。
私は赤いボラ。それで十分でしょ。
すると、他のが答える。
君はカマスだボラじゃない。
そこで騒ぎが生じ、あるものは泣き、あつものは騒ぐ。
お嬢さん、あなたはカマスだ。
いや、ボラよ。
小さな影よ、しばしとどまって下さい。
ちょっと、そこにいて下さい。
そんな風に言わないで。」

ボルドーニャは、こうした詩の、
会話の内容に合わせ、声色を変えながら、
プールの回りを踊り歩いて、
フルヴィアを楽しませ、
最後は、プールに墜落して拍手喝采となる。

Track9.ジョコンドとクラリーチェの会話に、
マクロビオや伯爵が入って来るレチタティーボ。
シャトレ座の演出ではテーブルを囲んでいたが、
ここでは、果物が置かれたテーブルの横で、
四重唱が繰り広げられる。

何だか箸みたいなものを束ねたり、
ばらばらにしたりしているが、
占いであろうか。
みんなオシャレなカジュアルな服装で、
豪華な邸宅の庭に寝そべったりして、
いかにも気楽なひとときを演出している。

ここからは、伯爵がみんなをペテンにかけるシーン。
そこに、イケメンのファブリツィオ(伯爵の召使い)が現れ、
謎の手紙を置いて去ると、
伯爵は青ざめ、他の3人は、神妙なアカペラを歌う。
このあたりのロッシーニの指示については、
解説にも少し出ている。

伯爵はショックのあまり、
オーケストラ・ピットのあたりまで歩き回り、
家の中に飛び込んでしまう。

Track10.拝金マクロビオのアリアである。
オーケストラが楽しげな伴奏を奏でる中、
マクロビオが汚職の数々をおもしろおかしく歌うので、
きわどい服装の女達の嬌声が響きわたる。

この嬌声も、妙に空虚だ。
心の中では、笑っていない感じ。
ピッツィの演出が、こうした点にも生きているのか、
何をして良いか分からず、
とりあえず笑っておこうと、
閉塞感さえ感じさせる。

指揮者から棒を取り上げたりして、
スパニョーリは頑張っているが、
ちょっとテンポに緊張感がない。

シャトレ座の演奏の方が勢いがあって、
一気に聴かせる感じだった。
これは、ゼッダのせいか。

Track11.合唱団が、伯爵が出て来ない事を心配する。
このあたりに群衆として登場するモデル風の女性がゴージャスだ。

合唱団としては男性合唱を想定しており、
彼女らは歌わないので、悩ましく長い素足を見せた、
後ろ姿だけが点景のように使われている。

ピッツィは、この作品を本当に愛しているに違いない。
こうしたこだわりには、過ぎし日に、
遠い眼差しを向ける彼の表情が見えるようだ。

Track12.伯爵の友人、ジョコンドと、
クラリーチェが語り合っているのを見て、
マクロビオが、アンジェリカとメロードの歌を歌う。
それに合わせて、ジョコンドたちは踊り出す。

すると、テンポが変わって、
アスパージアとドンナ・フルヴィアたちが、
伯爵が財産を失ったことを騒ぎ出す。
私は、取り立てが「日本から来たのでは」と、
パキュービオが言うシーンが好きだ。

トルコ人に変装した伯爵が、
ナチスの親衛隊みたいなのを引き連れて、
あちこちを歩き回って、すべてを差し押さえろ、
(シジララ、シジララ)と歌う有名なシーン。

Track13.各部屋が親衛隊に差し押さえられる中、
クラリーチェが優しい歌を歌う。
先ほどまでの、馬鹿騒ぎの後で、
ジョコンドが、これこそ「試金石」と歌う。
おしゃれな服を着て現れた伯爵は、
親衛隊に見つかり、
校舎の裏ならぬ、木立の向こうに連れ込まれ、
身ぐるみ剥がれて、パンツ一丁になってしまう。

ジョコンド、クラリーチェ、伯爵が、
小さく身を寄せ合っている中、
騒々しい女たち、マクロビオ、ジョコンドは、
いそいそと出立の準備をして、
いかにも冷たく軽薄な感じである。

ただし、持ち物はきらびやかで、
彼等の唱和する声の美しいこと。

Track14.召使いのファブリツィオが、
証書を見つけて来て、すべて解決のシーン。
伯爵はようやく服を返してもらい、それを着て、
客人たちも、召使いたちも集まって来る。

ロッシーニらしい、早口のアンサンブルが素晴らしい効果を上げる。
ようやく、演奏者達のエンジンもかかって来た感じであろうか。
舞台全体の視覚効果も美しい。

得られた事:「ゼッダが現代につながる『問題のオペラ』と位置づけたこの作品に、演出家は、おそらく高度成長期、1970年代へのオマージュを捧げた。」
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by franz310 | 2011-07-24 10:20 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その285

b0083728_219565.jpg個人的経験:
ロッシーニの初期の成功作、
オペラ・ブッファ「試金石」は、
強烈なシャトレ座公演の影響で、
私の頭の中では、
大変カラフルで、
オシャレな作品として刻まれたので、
今回のデズデーリ盤を、
店頭で発見した時には、
表紙を見て、かなり驚いてしまった。
かなり、シリアスな決闘シーンである。


この決闘シーンは、第2幕で、
主人公の伯爵と友人のジョコンド、
そして、汚職まみれの新聞記者のマクロビオが、
訳も分からず始めるもので、
ほとんど、エピソードみたいなものである。

こうしたオペラでは、スタジオ録音などは、
リスクが高すぎるのであろう。
ここでも、拍手入りの記録である。

ヤバいライブ録音で名を馳せた、
イタリアのヌオーヴァ・エラから出ている、
1992年、モデナのテアトロ・コミュナーレでのもの。
オーケストラも、カメラータ・ムジカーレと、
聴いた事がない団体である。

イタリア製ながら音は良いものの、
トラック表示には、期待通りのいい加減さが見られる。

例えば、CD1のトラック14は、
たった、0分39秒で終わることになっている。
また、CD2のトラック17には、()内に書くべき、
登場人物が抜けている。

いったい、どういう事だろう。
国民性なのか、こうしたいい加減な所しか、
生き残れないような経済システムになっているのか?

1992年は、ロッシーニの生誕200年に当たり、
各地で記念行事が行われたものと思われる。

指揮をしているデズデーリは、1943年生まれ、
4月9日生まれとあるから、
この公演中に40代最後の誕生日を迎えた計算になる。

クラウディオ・デズデーリを日本語でネット検索すると、
歌手としてばかり出て来るが、
指揮者でもあるらしい。

1969年に、「ブルスキーノ氏」でデビューしたとあるから、
ロッシーニには、格別の思い入れがあるものと思われる。
スカラ座、コヴェントガーデン、ザルツブルク、グラインドボーンで活躍、
第2のキャリアを指揮者として過ごしているらしい。
画像検索すると、立派な白い頬髭の紳士が出て来る。

このCDには、デズデーリの文章も載せられている。
20歳で書かれたこの作品、音楽や登場人物が、
後年のロッシーニ・オペラの前触れになっていて、
ロッシーニ一流のグランドフィナーレが聴かれ、
『エンジョイ』と『プレイ』がキーワードになっている、
とある。

ロッシーニの音楽を、
クリエイティブなファンタジーの爆発であり、
パガニーニの器楽曲のように技巧が楽しげであると、
要約している。
彼によると、モーツァルトにおいては、
リハーサルやスタジオ・セッションの度に、
魂の喜びと深い痛みと共に幸福を感じるが、
ロッシーニの場合は、そうであって欲しいような、
本当に劇場の外にもあるような幸福を感じる、
と書いている。

歌手は、クラリーチェにヘルガ・ミュラー・モリナーリ、
どう見ても、ドイツ系の名前。
48年生まれということだが、
75年からはスカラ座で歌っているらしいので、
本場で認められた実力派なのであろう。
カラヤンの指揮のCDにも出て来る。
この演奏では、彼女は、44歳ということか。

さすがにベテランらしく、格調高く、
安定した歌唱で安心できる。

アシュドルバーレ伯爵には、ロベルト・スカルトリティ、
この人も、アラーニャ、ゲオルギューの名盤、
「愛の妙薬」にも出ている。
1969年生まれとあるから、こちらは若い。
92年の時点では、23歳の新進ではないか。

これもまた、若々しく、
張りのある歌で好感が持てる。
第1幕のデュエットなど、
すっかり聞き惚れてしまう出来映えである。

パキュービオの「ミシシッピの歌」も面白いが、
パオロ・ルメッツという人が歌っている。
ライプツィヒの歌劇場などで活躍している人らしい。

また、悪い新聞記者を歌っている、
ヴィンセンツォ・ディ・マッテオも、
かなりの拍手を受けている。

また、ドンナ・フルヴィアとアスパージアのコンビも、
大変、魅力的な声を唱和させる。
前者は、ノセンティーニ、後者はトロヴェレッリという人らしい。

ということで、
古いが小都市であるイタリアのモデナで、
上演された、超一流ではないが、
かなりの実力者たちの共演と考えれば良いだろうか。

前回のナクソス盤は、指揮者が冴えた演奏を聴かせていたのに、
歌手たちがもたつき傾向であったが、
今回のものは、序曲からしても、指揮者は安全運転気味であり、
むしろ歌の方が耳を惹き付ける。
とはいえ、この指揮者の丁寧で、
愛情のこもった演奏の美感は、
時に、印象的な響きで浮かび上がる低音や、
各楽器の表情豊かなソロによっても聞き取れる。

また、第1幕フィナーレの、
ふつふつと盛り上がって行く興奮も特筆すべきであろう。
声のアンサンブルも速いテンポに巻き込まれつつも、
波が寄せるように高まって行く。

このCD、こうした演奏家については、
まったくインフォーメーションがないのに、
ロッシーニの作品に関しては、
力作の解説が載っている。

Rubens Teseschiという人も気になるので、
ネット検索してみたが、
ロシアやイタリアのオペラに関する本を出していた。
この道の第一人者と考えてよかろう。

ただし、Timothy Alan Shawの英訳のせいか、
いや、たぶん、原文がそうなのであろう、
とても難しい。

すでに、我々は、ロッシーニのデビューの経緯を、
見てきてはいる。
それを繰り返す形になのが多少、残念。

「若いロッシーニに栄光をもたらした石」
という題名のもので、6ページもある。

「人生も終わり近くなってから、
質素な衣服に身を包み、
『小ミサ曲』を神に捧げたロッシーニは、
全能なるものに向かって、
『私はオペラ・ブッファのために生まれました。
すこしばかりの技量と心情、それが全てでした』
と告白した。
これは、ベートーヴェンが考えていたことそのままで、
1822年に、このイタリアからの客人を迎え、
彼は率直に、『コミック・オペラに専念しなさい。
もし、他のジャンルで成功を収めようとするなら、
あなたは、自分の道を推し進めるべきです』と言った。
この評価は、ロッシーニがワーグナーに伝えたもので、
1860年のエドモンド・ミショットの本に出ている。
これが本当かどうか分からないが、
ロッシーニが、オペラ・ブッファのために生まれた、
と言いながら、反対のジャンル、
ファルサから悲劇まで無頓着に、
エネルギーを費やした。」

ベートーヴェンやワーグナーが出て来る開始部は、
少なくとも私には斬新であった。

「彼の劇場作品のデビュー作は、
2幕のオペラ・セリア『ドメトリオとポリビオ』で、
これを書いた時、彼は14歳であった。
テノールで有名な役者であった、
友人のドメニコ・モンベッリの助力を受け、
モンベッリの夫人ヴィンセンツァと、
二人の娘、家族以外で、他から引き抜かれたバス、
たちからなる一流の劇場仲間と、
ロッシーニはチームを作った。
ヴィンセンツァは、
プリマドンナであると共に、リブレット作者であった。
『ドメトリオ』のために彼女が書いたリブレットは、
特別個性的なものではなく、
若者を巡って、二人の父、
パルティア王とシリア王の間に争うというものだった。
アリアを提出されると、
その能力を発揮して、
期待通りにオーケストレーションし、
作曲を任されたジョアッキーノは、
テノールである興行主が、
ステージで見せる以上の熱意で、
音楽を付けていった。
事実、モンベッリが1812年に、
ローマのデラ・ヴェッラ劇場で、
この作品を上演するまでに、6年が必要だった。」

この作品が後になって演奏されたのは、
ロッシーニの人気が出て来たから、
というのが真相ではいか。

「この遅れによって、
ロッシーニの劇場キャリアは、
ヴェニスのサン・モイーズ劇場で、
ファルサ作曲家として始まった。
この劇場と契約していた作曲家が、
最後の最後で契約を破棄したので、
誰に頼って良いか分からなかった興行主が、
ロッシーニの家族の友人であった、
ローザ・モレーリの推薦にしたがったのである。
ジョアッキーノは迷わずヴェニスに到着、
数日で、ガエターノ・ロッシの一幕もの、
『結婚手形』を作曲、
40クローネという、
それまで、見たこともなかった金額を受け取った。
こうして、1810年11月3日、
18歳のロッシーニは、
コミック・オペラの作曲家としてキャリアをスタートさせた。」

うまい解釈である。
本来、オペラ・セリアでオペラ作曲を開始したのに、
運命の悪戯か導きによって、
喜劇からのスタートとなった。

「翌年、彼は、『ひどい誤解』で次の一歩を踏み出したが、
プロットに問題が多く、3回の上演で禁止になった。
当時、政治や宗教以外に関しては、
検閲はそれほど厳格ではなかったが、
恋人のしっぺ返しで、ライヴァルを騙して、
彼を、性転換した男性だとしてのは行き過ぎだった。
しかし、彼のキャリアに不都合を起こすことはなく、
一過性の事件にすぎなかった。
逆に、3ヶ月後には、
途切れることなき活動が開始する。
サン・モイーズ劇場は、別のファルサのため彼を呼び戻し、
1812年1月8日に初演された、
『幸せな間違い』は、シーズンを通して演奏された。
スタンダールは、ロッシーニの心に浮かぶ行き過ぎも突飛も少ない、
ロッシーニ初期の作品を好み、
自身を、『1815年のロッシーニアン』と呼んだが、
この青春の作品に熱狂した。
『この作品のいたるところに天才が火花を散らしている。
経験豊かな目で見れば、
この音楽家のさらなる幸運を開く、
後年の拡張された作品に使われた、
少なくとも、15か20もの、
アイデアの母体が見て取れるはずだ』と書いた。」

スタンダールは、モイーズ劇場での、
ロッシーニの一連の作品を知らなかったかと思ったら、
この「幸せな間違い」については知っていたようである。

「約束されたスタートから、最初の躓きは、
3月14日、フェラーラの聴衆から、
『バビロニアのキュロス』が、
四旬節なのにシリアスな主人公が出て来たゆえに、
ブーイングされたことで、
ロッシーニは、後に、
『これは私の完全な失敗だった』と認めている。
『事実、私がボローニャに戻ると、
友人達が軽食に招いてくれ、
アーモンド菓子の菓子屋に、
『キュロス』と旗に書いた船を作ってもらった。
それは、マストが壊れかけ、
帆は破れ、船は一方に傾き、
クリームの海に沈むように見えるものだった。』
以来、この作曲家は失敗を笑い飛ばすようになる。」

この一節は気に入った。
いかなる場合も、ロッシーニのように前向きに行きたいものだ。

「この埋め合わせは、5月9日にすぐ訪れ、
幸多きサン・モイーズにて、
新作の喜劇『絹のはしご』が上演され、
その月の間、繰り返された。
この場合も、ロッシーニは、
歌手達に推薦されている。
マリエッタ・マルコリーニ、フィリッポ・ガーリが、
声を使いすぎない彼を好んだ。
さらに、彼の才能を、
イタリアで最も重要な劇場、スカラ座に売り込んだのも、
このマルコリーニとガーリで、
ここでは、新しい天才を発見するために、
すべてがお膳立てされていたと言ってもよいだろう。」

成る程、歌手の協力もなく、
勝手にオペラを書いていた、
円熟期のシューベルトとは、このあたりが決定的に違う。

「ミラノは、イタリアにおけるナポレオン帝国の首都で、
彼の継子であったウジューヌ・ド・ボアルネ総督に支配され、
華々しくも不満に満ちた街だった。
スタンダールはこの街を愛したが、
ロッシーニ伝では、誤って実際以上の言葉を使った。
『ロンバルディアでは、全てが幸福に息づく。
新しい王都のミラノは、輝かしく、
王への年貢が近隣より低かったことから、
すべての活動が財産や楽しみに直結していた。』
実際は、ナポレオンは、彼のうぬぼれに見合った義務を強い、
その支配した土地からの重税に見合った支出はしていなかった。
フランス人を解放者として歓迎する牧歌は、その輝きを失い、
ミラノの人々は、物価の上昇や、
増税、強制的な徴兵に不満を言い始めていた。
横暴な警察も、その不満を取り締まることは出来なかった。
しかし、有名な建築家によって壮大な建物が建てられ、
芸術がその反抗精神にヴェールをかけた、
その美術、文学、科学のサークルによって、
外部の者からは、繁栄して見えた。
そして、その中で、当然、
スカラ座は第1の地位を保っていた。」

ロッシーニのオペラには、中産階級の人たちが多く出て来るので、
その経済活動には、興味があったが、
こうした難しい時代の政治的状況も教えてもらって参考になった。

「困難でないことはなく、
パイジェルロやチマローザの作品の上演繰り返しに加え、
1812年のシーズンは、
カゼッラ、ジンガレッリ、ゼネラーリ、オルランディ、
モスカ、パヴェージといった、無害な職人の作品が過剰であった。
これらの作品の価値は、もっと強烈な刻印を感じさせる、
天才の不在を印象づけた。
思うに、誰も、この天才こそが、
質素な鞄に四つのファルサと失敗したオペラ・セリアを入れた、
20歳のロッシーニであると考えたものはいなかっただろう。
ショックという以上の驚愕であった。
1812年、9月26日、『試金石』は、
彼を、舞台における首長として王冠を授けた。
オペラは、期間の常識を越え、
53回の繰り返し上演され、
勝利を確かなものとした。
53回目の上演では、まだ満足しない聴衆は、
7つの曲を繰り返させた。
上手に自身の体験を語るロッシーニは、
スカラ座における月桂冠のおかげで、
兵役を免れ、
惨めに死ぬ兵士ではなく、
芸術家として生きられたことを感謝した。」

このような閉塞感、不満に満ちた状況下で、
かくも新機軸にあふれた抱腹絶倒のオペラが上演された場合、
どのような事が起こるかを、じわじわと解説したこの文章、
ついつい、いろんな事に思いを馳せた。
「バビロニアのキュロス」で、
空気を読むことを痛感したロッシーニ、
ここでは、ミラノの社会に底流していた不満を、
忘れさせる作品を飛ばすことに成功した。

あり得ない展開、意味不明な言葉へのこだわり、
硬直した社会は、こうしたものに飢えているだろう。

「潤色された多くのロッシーニ伝中の一つである、
こうした逸話はともかく、
ウィットに富んだ、ルイジ・ロマネッリのテキストに、
いくばくかの成功の原因はあるとはいえ、
この成功は、すべてが音楽家に負う疑うべくもない成功であった。
ロマネッリはこの分野では決して初心者ではなく、
1799年から1816年までスカラ座付きの詩人で、
若い女性のためのロイヤル・カレッジの教師、
60もの音楽に詩を提供し、
これらは8巻の書物に収められており、
感謝する生徒達によって出版された。
『試金石』で明らかなように、
熟達した詩人で、古典に忠実であった。
これらのモデルでは、二重の変装がよく行われた。
最初の変装は、
疑い深い独身者のアシュドルバーレ伯爵によって、
彼のご機嫌を取る三人の女を試すためになされ、
彼は、彼自身の財産を没収するトルコ人に変装する。
伯爵の変装の後、
彼を愛するクラリーチェによって、
変装がなされ、彼女は、
兄の士官に化け、制服で現れ、
伯爵から引き離し、彼女をどこかに連れて行こうとする。
伯爵が彼女を失う前に、
彼は、彼女こそがふさわしいと気づき、求婚する。
プロットは、明らかに伝統的な、
ファルサのフレームワークを取るが、
ロマネッリは、ゴルドーニ風の引用を取り込んだ。」

ゴルドーニって何?
1707年、ベネチア生まれイタリアの喜劇作家。
写実によるコメディア・デラルテの改革者。
パリでフランス語の喜劇でも成功した。
1793年に亡くなっている。

「忠実な友人でありながら、クラリーチェを愛する登場人物が、
裕福な主人公にたかりながら、彼の破滅を知ると身をかわし、
トリックが分かるとすぐに戻って来る、
四人の厄介者のグループに入って活動する。
ベッドと金庫を分け合おうと、
伯爵につきまとう二人の女性を含む四重唱では、
愚かな詩人と金目当てのジャーナリストの男性二人が、
文学の世界から、聴衆がよく知っている現実を引き出している。
構成は、皮肉でセンチメンタルな戯画で、
それほど個性的なものではなく、
ガルッピやパイジェルロ同様、
田舎の哲学者や、
文学的、科学的気まぐれに捕らわれた、
気立ての良い狂人、
そして、別れたりひっついたりする恋人たちが、
オペラやファルサの世界を、
田舎の休日の静かな喜びの中を満たす。
1812年の9月に、
これらの陳腐なキャラクターたちが、
突然、興味深く見えて来たのだとしたら、
みんながよく知っている状況に、
スパイシーな音楽が加わったからである。」

成る程、さきほど、いくばくかの成功原因が、
台本作者にあったとはいえ、ロッシーニこそが、
勝利の原因だとあったのは、このことだったのだな。

シューベルトの場合も、
ゲーテの古典的な詩に、いきなり、
生々しい血を注ぎ込んで、音楽界に踊り出たが、
ウィットという点では、彼は不得意であった。

「最初から、我々はパキュービオの、
メスタージオのイミテーションのばかげた詩を聞かされる。
彼は、『悲劇的で喜劇的な言葉』を唱え、
彼のごちゃ混ぜの小唄は、
『Ombretta sdegnosa - Del Missipipi
- Nor far la ritrosa - Ma resta un po'qui』
というものだ。
何が新しいのか。
恐らく、風変わりなシナリオではなく、
悪戯っぽく、『ミシピッピ、ピッピ、ピッピ』と、
メロディやリズムを打ち付ける音楽の発案で、
それはさらにオッフェンバックの世界にまで、
我々を突き抜けさせる。
18世紀の優美さは、こうした、
陽気なカリカチュアに道を譲り、
フォガッツァーロの『去りし日の小世界』に出て来る、
有名な小唄にまで生き延び、変容している。
もはや、メスタージオのパロディではなく、
作者不明の小唄を、年配のおじさんが、
膝の上の姪に歌ってやるようなものである。」

ということで、フォガッツァーロって何?
どうやら、イタリアの作家(1842-1911)みたいで、
先の作品は、オーストリア支配下における、
理想主義の夫婦の日常を描いたものだという。

「さらにもう一歩、マクロビオの場合は、
さらに戯画化が辛口で、彼は、
『Mille vati al suolo io stendo - Con un colpo di giornale』
と言う。」
という風に、肝心の部分は英訳されていないので、
分かりにくいが、
おそらく、自分の新聞記事の影響が大きいことを言ってるのであろう。

「しかし、嘘に嘘を重ね、彼は決闘することになる。
彼のきわどいやり方は失敗し、彼は、
『il fior degli ignoranti, in versi e in prosa』と告白する。」
ここも何のことか分からない。

何度も、我々は、典型的にばかげた状況になる。
180年前のミラノ人は、この状況に、
痛烈なものを感じ、
マクロビオを、オーストリアの警察に守られた、
お役所仕事を見ていた。
こうした対比は、
単身で当局やテレビに、
自分を売り込むジャーナリストがいないので、
今日、見つけることは困難だが。
政治の滑りやすいスロープから離れ、
さまざまな創意の噴出によって、
ゲームを楽しみながら操るロッシーニを、
私たちは、賞賛せずにはいられない。
決闘したくないマクロビオは、
彼を殺すことを楽しみにする、
挑戦者の伯爵とジョコンドと三重唱を始めるが、
これは最初はシリアスな響きだが、
すぐに、カーブだらけの道を滑り落ちるカートのように、
アクロバティックな跳躍で、
英雄的喜劇の『con quel che resta ucciso - io poi mi battero』
から、ぴょんと跳ねて止まる、
『Del duetto inaspettato - si consola il maledetto』、
そこから、変形、
『il padrone della casa - ceder deve al forestiero』、
目も眩むように旋回する、
『fra tante disfide - la piazza e gia resa』での終結。」

前回は、第1幕を聞き込んだので、
このCDの表紙にも取り上げられている
第2幕の決闘シーンを、聞き込んでみよう。

三重唱は、「はじめに武器を手にしたあなた方が」
という部分であるから、CD2のトラック12である。
チェンバロ伴奏で始まるが、
このCDのチェンバロは、かなり魅力的な深い音を聞かせる。
演奏者名は書いてない。

まず、ブックレットから、この部分の歌詞を眺め、
上記、『con quel che resta ucciso』を探す。
これは、決闘のレチタティーボの後、
大分、会話が進んでから現れる。
それから、
『Del duetto inaspettato』であるが、
おいおい、リブレットでは、
『Del duello inaspettato』となっている。
どっちが本当だ?と、ナクソス盤を見ると、
リブレットが正解だった。
英訳した人(Shaw)がいい加減と見た。

さて、最初の部分、確かにモーツァルト風で古典的ある。
が、この『Del duello inaspettato』のあたりから、
すこしずつ脱線していく感じである。
戯画化と書いてあったが、まさしくそんな感じだ。

確かに途中までは、荘重なものを楽しげに焼き直したものだが、
どんどん、リズムが変わって悪ふざけが乗りまくり、
最後は早口のぺちゃくちゃの声に、
木管楽器の剽軽な音色や、
打楽器のどんちゃんが加わって、
まったく異次元の領域に突入してしまっている。
成る程。

このCDの表紙を飾る部分であるが、
この写真に明らかなように、
サーベルがかちゃかちゃ鳴りながら進行する。
伯爵はバスでドスが効いていて、
伯爵としての威厳に満ちている。
バリトンのマクロビオは、時に、果敢な声であるが、
しばしば情けない声になるのが面白い。
こうした決闘シーン、「結婚手形」も面白かった。

「状況はお決まりのものだが、
彼自身のアイデアを盛り込んで、
ロッシーニはそれを磨き上げた。
20歳の音楽家には、節約という感覚はなく、
伝統的なファルサの要素を追いながら、
それを変容させて行き、
彼は、自身にも、私たちにも一瞬の休息をも与えない。」

ここまでで、まだこの解説は2/3しか進んでいない。
しかし、もうページも尽きて来たので、
このあたりで終わりにしたい。
残りの部分では、ロッシーニが、
スカラ座のお抱え詩人の作品を自由に編集していること、
因習的な第2幕にも、第1幕同様の、
豊かで気の利いた音楽を付けていることの賞賛などが印象に残った。

決闘シーンの後、クラリーチェの変装シーンや、
伯爵の愛情表現のシーン、
大団円のフィナーレなどが続くが、
最初の繰り返しになるが、歌手たちの出来映えも傾聴に値する。
オーケストラも愛情たっぷりの深い音色になっている。
スピノージのオリジナル楽器にはなかったものだ。
何度も書くが、チェンバロの音色がまた素晴らしい。

得られた事:「シューベルトがゲーテの詩に新しい魂を吹き込んだように、ロッシーニは、慣習的な物語にスパイシーな音楽で息を吹き込んだ。必殺業はリズムによる戯画化である。」
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by franz310 | 2011-07-17 21:11 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その284

b0083728_093991.jpg個人的経験:
「試金石」のDVDで、
こっそり驚いたのは、
謎の取り立てが、
「日本から来る」
という台詞がある、
という点だった。
ロッシーニ初期のオペラで、
このような一節があるとしたら、
シューベルトの意識にも、
日本という国はあったのだろうか。


そのような台詞が出るのは、
はたして、この演出のみなのか、
あるいは、しっかりロッシーニが、
そう書いているのか気になって、
ついつい、別の録音も聴きたくなった。

入手しやすかったこのナクソス盤、
表紙のデザインを見ても、
何だか、前回紹介したシャトレ座公演に比べると、
あまりにも地味な感じで、ドキドキ感がまるでない。

だが、実は、これは、1813年にFumagalliという人が、
『試金石』の舞台をデザインした時のものだそうで、
あのDVDの何となくアメリカンな感じのものより、
ロッシーニの時代は、このような邸宅を、
舞台として想定していたということが分かる。

ドイツのヴィルトバートという所で、
2001年7月に行われたロッシーニ音楽祭の記録である。
ちょうど10年前の録音である。
会場の人たちも、こうした暑さを感じながら、
ホールに到着したのかもしれない。

が、温泉保養地だということなので、
結構なことである。
梅雨明け宣言があって、猛暑が始まりそうなので、
私も温泉にでも浸かりたいものだ。

アレッサンドロ・デ・マルキという人が、
指揮とチェンバロを受け持っている。
1984年にデビュー、
ハイドンやヴィヴァルディのオペラで成功したとある。

ローマに学んだとあるから、イタリア人であろう。
が、演奏は、チェコの楽団や合唱団だということだ。
ヴィルトバートは南ドイツでオーストリアには近そうだが、
チェコから近いようには見えないが。

主役二人、クラリーチェは、ビエンコウスカという、
ダンツィヒに学んだメゾが、
伯爵は、コンスタンティーニという、
いかにもイタリア系の名前の人。
何と、召使いのファブリッツィオは、
日本人の吉原輝という人が受け持っている。

解説はかなりへそ曲がりなもので、
いろいろ考えさせられる。
Bernd-Rudiger Kernという人が書いている。

「文献上では高く賞賛されながら、
『試金石』ほど、めったに演奏されないロッシーニのオペラはない。
この作曲家に関する、他の多くの誤解同様、
これは、この作品を『オペラ・ブッファにおける最高傑作』
と書いた、スタンダールにまで遡る。」

このような書き出しからして、
前回鑑賞した、シャトレ座公演が、
スタンダールを祭り上げたのとは異なる香りがする。

スタンダールが誤解を与えた、
みたいな書き出しである。

「このフランスの作家による判定は、
しかし、オペラ劇場の、
演奏スケジュールに反映されてはいない。
『試金石』は、ロッシーニが、
ミラノ・スカラ座のために書いた、
最初の舞台作品である。
若い作曲家はこれまで過ごした、
ボローニャ、フェラーラ、ヴェニスといった、
狭い地域から、ここで初めて出た。
一般的な意見によると、
すでに二度、『結婚手形』と『バビロニアのチーロ』で、
ロッシーニ作品の初演を受け持っていた、
マリエッタ・マルコリーニがミラノ契約を助けたとされる。
いつ、ロッシーニが実際にミラノに来たのかは分からない。
しかし、すでに1812年7月11日には、
最初の二つのナンバーを書いている。
8月21日、ルイジ・ロマネッリがほとんど全部のリブレットを渡し、
ロッシーニはいくつかの音楽を写譜に回している。
二日後には、劇場の検閲が済んだ。
この後、ロッシーニが病気になったことが、
最後の問題となった。
9月10日、まだ6つのナンバーが、
全く、または、部分的に未完成であった。
他の4つのセクションはまだスコアになっていなかった。」

ここで、このような話が出て来るが、
実は、この解説者にとって、
この部分が一番大事であったことが、
最後まで読むとよく分かる。

しかし、あの自信満々のロッシーニが、
病気になったというのが、あまり想像できなかったので、
私にとっては、新鮮な感じである。

「この理由によって、また、作曲家のおそらく静養期間ゆえに、
初演は少なくとも一ヶ月遅らされた。
この病気が良い効果をもたらしたのか、
ロッシーニの作曲のスピードが上がったのか分からないが、
予告された半分の期間で延期は済み、
1812年9月26日に初演が行われた。
これは作曲家にとって最大の勝利となり、
この機会をもって決定的な成功を収めることが出来た。
このミラノでの成功は続き、
オペラは53回も演奏され、
最後の公演では、聴衆の要望から、
7つのナンバーが繰り返された。」

このあと、おそらく、
フェルディナント・ヒラーの、
回想の話が出て来るが、
私には唐突に思えた。

「ヒラーは、自身の『雑記』の中で、
ロッシーニのこのオペラが、
なおも成功を収めていると書いている。」

ヒラーは、1811年生まれの作曲家であるから、
ほとんど、このオペラと同年の生まれである。
ヒラーが物心ついた後でも成功していたとなると、
確かにすごいことだ。
という事を書きたかったのだろうか。

「このオペラによって、ロッシーニは、
州の首相、ルイジ・ヴァッカーリの覚えがよくなり、
1812年10月、この人から、
『この若者はどえらい教養人で、
センス、技能を自由に操る』と、
例外的な最大級の賛辞を受けている。
『セビリャの理髪師』初演のスキャンダルは、
全世界でも類を見ない成功続きとなって、
それが『試金石』の運命を決めた。
ミラノの他では、1813年に、
ヴェニスのサン・ベネドットでの初演の失敗は決定的だった。
しかし、このヴェニスでの失敗が、
このオペラの終わりを意味したのではない。
しかし、ロッシーニの最高級のものとは、
数えられなかったことにより、
最も地味な劇場でも、
このオペラはレパートリーにのせるところはなくなった。」

ヒラーの回想はいったい何だったのか。
結局、ミラノでのみ聴かれたオペラということか。

「1962年から1980年代中頃までに、
このオペラは復活し、
Gunther Rennertによって校訂され、
『愛の証』という題名にて、ドイツでルネサンスを迎えた。」

私の頭の中では、
ヒラーがこのオペラの成功の話をしているのと、
「セビリャの理髪師」の後、
下火になった話との関係が混乱しているが、
先を急ごう。

「このバージョンはオリジナルの魅力を失っており、
オペレッタ並の扱いになっている。
今回の演奏のように、
オリジナル校訂によって、
この作品の複雑さが分かるようになった。」

このドイツでの蘇演の話も、
最終的にはエピソードのような形。

「これはタイトルからも明らかで、
新しい辞書では、『試金石』という言葉からは、
何を意味するか分からない。
ロッシーニの時代、金と銀の合金は、
試金石によって評価されたのである。
このオペラでは、この試金石というものが、
二つの意味に転換されている。
一方では、女性たちだけではなく、
友人達の性格の品定め、
一方では、伯爵の性格の品定めがされている。
合金に含まれる純粋な金属の比率は、
まったく異なった方法で調べられる。
それは、『愛の証』とか、『愛の試験』といった、
より狭い意味の問題ではない。」

こうした言い回しも、私は苦手である。
どうももったいぶったように感じられ、
しっくり得心できないのである。

「プロットは、しばしば、他のオペラのものより、
荒唐無稽と言われている。
伯爵の愛を競う三人の女性には、
18世紀の終わりから19世紀初頭のイタリアの状況を反映し、
それぞれ、崇拝者を従えている。
未婚の女性の目的はただ一つ、結婚することである。
しかし、このオペラで興味深い所は、
こうしたプロットの前景のみならず、
文学・音楽論争の部分に見られる。」

以下、このオペラの登場人物の話。
伯爵を巡る3人の女性を崇拝する、
ジョコンド、マクロビオ、パキュービオの名前について、
興味深い話が始まるが、
こんな事まで考えながら聴くべき作品なのだろうか、
という疑念もよぎる。
さらに、解説にしては言葉足らずなので、
あまり、勉強になった気がしない。

「ここに出て来る崇拝者たちの役割も偶然ではない。
三人のうち二人は、
ローマの著述家マクロビウス、
パキュビウスから名前が取られ、
風刺されている。
両者は、それにちなんだ人のカリカチュアであるが、
3人目のジョコンドは、単に快活な人なので、
あまりその名前がふさわしいとは言えない。」

このあたり、実に難解。
マクロビウスは新プラトン主義の著述家と辞典に出ているが、
wikiなどでは、異教的作家とされている。
パキュビウスは、辞典に出ていない。
wikiでは、古代ローマの悲劇作家、詩人とされている。
そして、ジョコンドも、誰かを風刺したものなのか。

当時の人たちは、こうしたローマの詩人の作品を、
例えば、ラテン語の授業などで、
より身近に感じていた可能性はある。
が、それなら、そう書いて欲しい。

「ジョゼッペ・モスカのオペラ『人間の中の野獣』でも、
同様の論争があったに相違ない。
モスカのオペラは、『試金石』の直前、
1812年8月17日に、
ロッシーニの最初のキャストと同じで、
スカラ座にて初演されている。
モスカのオペラの内容がよく分からず、
論争の原因は難しくとも、
二つのオペラの関係は説明できる。
構造上、ロッシーニのオペラは、
主人公たちの基本グループやイベントが、
モスカのものと相似となっている。
モスカのオペラでは、魔女アルチーナを巡って、
三人の男達が争うが、
ここでは、三人の女性が一人の男性を巡って競っている。
少なくとも、モスカのオペラの主要な人物の名前が、
ローマ風の名前、パスキーノであることは特筆すべきであろう。
16世紀の仕立屋パスキーノは、
後にパスキナーデ(風刺文)の語源として知られるように、
ローマの大理石像に諷刺やエピグラムを貼り付けたことで有名である。
歴史上の人物の比喩であるとは限らないが、
そこには、パスキーノとパキュービオ、
マルフォリオとマクロビオといった類似性があり、
疑うべくもなく、同じ歌手が担当したものと思われる。」

えらく凝った解説で、私はへとへとだが、
まだ、この調子は続く。

「さらに示唆するものがあり、
マクロビオはオフィスでの忙しい一日の報告に、
『待合室はハエか蜂がぶんぶんとうるさかった』
(CD1のTrack14の最後)と言っているが、
これはモスカ兄弟を指しているものと思われる。
二通りに受け取れる言葉でも、
同時代の人たちには分かりやすかった。
さらにパキュービオのナンセンスなアリア、
『Ombretta sdegnosa』(CD1のTrack11)も同様のことが言え、
少なくとも二つの解釈が成り立ち、
(モスカの『野獣』のカリカチュア?)の魚同士の会話、
トランプ同士の会話、さらには魔法使いの影と魚の会話とも取れる。
魔法使いの影とは、モスカの魔女、アルチーナの引用であろうか。」

ここで書かれているのは、
有名なミシシッピーのアリアの事だが、
DVDで見ていても、何のことか良く分からなかった。

現代の我々も、鑑賞に際して、
当時の暗黙の諷刺を理解する必要があるとすれば、
かなりの難易度の作品である。
二百年後の外国人が、日本の首相が大臣の梯子を外した諷刺を、
すぐに理解できるかどうか。

そもそも、モスカなど、まるで日本では紹介されていない作曲家。
あと数十年もすれば、この辺りの情報も、
広く知られるようになるだろうか。

「ロッシーニが本当に、文字通りの反目を望んでいたか、
単にいくつかの解釈ができる筋を目指していたかは、
疑義を生じる余地がある。
第二幕、ジョコンドのシリアスなソネットには、
ロッシーニは音楽をつけておらず、
最初の三回の上演後、カットされた。」

ジョコンドのシリアスなソネットが、
モスカの何かを諷刺していたかとか、
そのあたりのことが書かれておらず、
この一節の意味が分からない。

「ユニークなことに、二人の恋人たちの役は、
コントラルトとバスが担当する。
音楽的には魅力的だが、テノールは補助的である。
これは、この年のミラノの事情による。
1814年、スカラ座で初演された、
『イタリアのトルコ人』でも、同様の措置が見られる。」

いきなり、別の話題に飛んだ。

「ロッシーニが病気になった不運は、
私たちにとっては、幸運だった。
私たちは、作曲家の作曲法の少なくとも一部を、
追うことができた。
9月10日の時点で、
ほとんど全てのナンバーが出来ておらず、
アリア(No.3、8、14、16、18、19)は、
スコアになっていなかった。
五重唱(No.15)と序曲はスコアにされるべき状態で、
アンサンブルで完全に欠如していたのは、
三重唱とフィナーレⅠだけだった。
ロッシーニはアンサンブルから作曲を始め、
『アルジェのイタリア女』でもそれは実証できる。
一般に繰り返し言われている、
ロッシーニの序曲に関する指示は、
明らかに間違いである。
シンフォニアは最後に書かれたのではなく、
スコアにされるのを待っていたのである。」

このような事を考えるのは、
研究家だけで良いような気がする。
ラフマニノフの第二協奏曲も、
第一楽章が最後に書かれたが、
いちいち、それを考えないと鑑賞できない、
などとは思えない。

ということで、この解説者にとっては、
ロッシーニの「試金石」は、
このような研究が出来る材料でしかないようだ。

以下に、この解説の悩ましい部分が続く。
これを読むと、この解説者は、
あまり、この作品を高く評価していないことがよく分かる。

「スタンダールの判断と今日まで続く、
このオペラの満足できない状況の歴史の矛盾はどう説明されるだろう。
その一部は、スタンダールお音楽趣向によるもので、
彼は、決して、今日、考えられているような、
ロッシーニの賞賛者であったのではなかった。
彼はむしろチマローザのような音楽が好きだった。
チマローザのスタイルにあるロッシーニが、
スタンダールの気に入った。
これは、スタンダールが、後のロッシーニは、
理解できなかったことを意味する。
彼にとって、ロッシーニの音楽は1813年で止まっている。
また、彼は初期の1幕のオペラを知らなかったことで、
『試金石』を一番としたことが説明可能である。
我々にとって、『試金石』は、
『ひどい誤解』と『アルジェのイタリア女』の間の、
2幕のオペラ・ブッファである。
この三つのオペラは、初期の新鮮さから、
円熟した傑作に至る展開を示すものだ。
この発展の中で、『試金石』は『誤解』に近く、
そこからいくつかの要素が持ち込まれ、
さらに『イタリア女』に続いた。
19世紀の間、ロッシーニのオペラ・ブッファの
三つの傑作が確固たる地位を占め、
彼がスタイルを変える前の初期の作品はそうならなかった。
この作品の受容史の特殊性は、
全部ではないが、これで説明できる。
今日の聴衆は、これらの初期作品を、
ロッシーニの思惑や、
ロッシーニの同時代人がしたのとは、
まったく異なった形で理解する。
それゆえ、レッシングのように、
あまり賞賛されなかったオペラが、
より多く上演されるのである。」

ということで、この解説は、
ロッシーニの「試金石」ではなく、
「試金石」を巡る、自身の興味を語っているのである。

当時と同じように鑑賞することは出来ない、
というニヒリズム解説であった。

何だか、こう書いていると、
この演奏も、たいした事がないように思えて来るが、
実は、解説を書き出しながら聞いている限り、
これはこれで、共感豊かな演奏であると感じられた。

ただ、歌手に問題があるような気はしている。
というか、いきなり集まって歌え、
と言われた感じがしなくもない。
練習不足かもしれない。

シノプシスには、
「イタリアの主要都市から、それほど離れていない、
豊かな村、その村の地域、そこにあるアシュドルバーレ伯爵の、
心地よいカントリーハウスにて出来事が起こる」とある。

Track1.序曲:
スピノージの演奏のような新奇さはないが、
活力にあふれた良い演奏だ。
もちろん、スピノージが言っていた、
クラリネットのドローンなどは控えめである。

第1幕:庭園。
情景1.
アシュドルバーレ伯爵のゲストや庭師たちがの合唱。
まず、パキュービオ、そして、一方からファブリッツィオ、
もう一方から男爵令嬢アスパージア、
最後に、ドンナ・フルヴィアが現れる。

Track2.ゲストや庭師が、
アシュドルバーレ伯爵の富と気品を讃え、
妻を選ぶ難しさを歌う。
紙を持ってパキュービオが現れ、
彼の新しい詩、アルチュステが、
アルバースの影と話をする、というものを読み、
注意を引こうとする。

何と、この段階から、
パキュービオは、アルチーナの話をしていた。
解説を読むまで聞き逃していた。

誰も聴きたがらず、ファブリッツィオを見つけると、
きっと、これは気に入ると思うという。
ファブリッツィオは逃げようとして、
男爵令嬢に呼び止められ、
彼女も聴きたがらないので、いろいろ声をかけ、
最後に読もうとすると、
ドンナ・フルヴィアに邪魔される。

ここでは、パキュービオ(ザレッリ)は威厳がありすぎ、
ソプラノのドンナ・フルヴィア(アンケ・ヘルマン)が、
息切れ気味なのが気になる。

Track3.パキュービオは、ファブリッツィオを掴まえ、
次に、男爵令嬢を掴まえるが、
彼女はドンナ・フルヴィアと逃げようとする。
ドンナ・フルヴィアの方が聴きたがる。
情景2.
ここで、ドンナ・フルヴィアは、伯爵の財産の魅力について語る。

情景3.
マクロビオとジョコンドが論議しながら入って来る。
Track4.マクロビオとジョコンドが、
ジャーナリズムと詩作とについて論議する。
このあたりの独唱も、ちょっとエンジンがかかってない感じ。

Track5.マクロビオは話題を変え、
ジョコンドの好きなクラリーチェが、
ジョコンドの友人の伯爵と結婚する可能性を語る。
マクロビオはジョコンドの失望に同情するふりをして去る。

情景4.クラリーチェが、木霊のふりをした、
伯爵の答えを受けながら歌う。

Track6.クラリーチェは、
伯爵がいることに気づく。
彼女が宣言するように、
伯爵も彼女への愛を示唆する。

いきなり主人公たちの愛のデュエットだが、
一方は、木霊のような効果を出すだけ。
ホルンの響きが深々として美しい。
オーケストラの序奏も夢見るようだ。
ビエンコウスカのメゾも声量はないが繊細で美しい。

Track7.彼女は、木霊はなぐさめにすぎないと言う。
彼女は伯爵の言葉を繰り返してみる。
彼女は伯爵の真意を測ろうと庭に行く。

情景5.
クラリーチェが行くのを見て、伯爵は一人入って来る。
Track8.
彼は、女性が悪者かどうか分からない。
哀れみと愛の関係を歌う。
コンスタンティーニのバスは、ちょっと心許ない感じ。
小刻みが出来ていない。

Track9.金もあるし、30にもなるのに、
彼が結婚しないのを不思議がるが、
この富こそが問題
女性は、彼そのものより、その資産を狙っているのか、
知りたいと思う。

情景6.
クラリーチェが入って来る。
Track10.クラリーチェは、
木霊が男性か女性か尋ねてからかう。
彼女は木霊の言葉を確かめたいのに、
彼は別れ際に、木霊はジョークの一種だと言う。
二重唱だが、両者ともにかちかちな感じで伸びやかさがない。
オーケストラは、ぴちぴちと活きが良く、
指揮者は、独唱者に活を入れたいのではないか。

情景7、8.
ドンナ・フルヴィアとパキュービオ。
Track11.レチタティーボとアリア、
「ミシシッピの尊大な影は」。
これが、問題の意味不明アリアである。
意味不明ではあるが、面白いことはこの上ない。
フルヴィアは伯爵を捜して、バラを渡そうとする。
パキュービオが邪魔をして、ばかげた、
ミシシッピの尊大な影の歌を歌う。
このザレッリというバリトンは、それほど悪くない。

Track12.フルヴィアはブラヴィッシモとか言っている。

情景9.彼等は伯爵と一緒になる。
彼はクラリーチェのことを考えている。
フルヴィアは、彼にバラを渡す。

情景10.ファブリッツィオと伯爵。
ここは、伯爵がみんなをペテンにかけようと企む場面。

情景11、12.
ジョコンドとクラリーチェ、そしてマクロビオと伯爵。
ジョコンドがクラリーチェに、何故、寂しそうか聴く。
クラリーチェは双子の兄の話をする。

Track13.四重唱、「あなたは欲しがり、
そして欲しがりません。」
ジョコンドは黙っているか、ため息。
彼女はみんな馬鹿だという。
これは、前のDVDで、食事をしていたシーンだ。
このあたりになると、この演奏でも、
歌手たちの固さが取れ、乗って来ている。
クラリーチェの声の美しさは特筆すべきかもしれない。
指揮者の足踏みもうるさく、
オーケストラも素晴らしい興奮を見せる。

ということで、だんだん、書くスペースが足りなくなってきた。

あと、情景13は、パキュービオとドンナ・フルヴィア。
Track14.パキュービオの詩で喜んで笑う、
フルヴィアの馬鹿騒ぎが面白いが、DVDではなかった。
伯爵が笑わないので不安に思っているシーン。

情景14は、パキュービオは、マクロビオに、
新作を見て欲しい。
ここで、解説に出て来たハエや蜂の話が出て来る。
Track15.腐敗新聞記者マクロビオのアリア。
この歌手、ダリウシュ・マヘイも悪くない。拍手も盛大。
伴奏にはレガートがかかっている。優雅である。

情景15は、庭師たちの合唱で、オーケストラもうまい。
Track16.伯爵が閉じこもってしまった事が歌われる。

CD2は、クラリーチェが庭に来るシーンだが、
DVDではプールサイドだった。
ジョコンドはクラリーチェに何を恐れているかを聴く。
マクロビオは気がつかないふりをして、
メドーロとアンジェリカの禁断の愛の歌を歌う。
そういえば、これは、やはりアルチーナの話であった。
何と、オルランド公を、伯爵に見立てているわけだ。

CD2にもなると、この演奏も熱を帯びて来る。
伯爵は財産を失ったと騒ぎになる部分。
伯爵が変な声を出して、みんながおびえるのも傑作だ。
オーケストラの響きも夢幻的。

変な取り立てが、どこから来るかについて、
パキュービオが、Track3で、
「Vien dal Giappone(日本から来る)」と言っている。

素晴らしいフィナーレ。
ロッシーニが最後まで完成を伸ばした事が理解できる。

得られた事:「作品に込められた暗喩ゆえ、ロッシーニの意図通りに、または、ロッシーニの同時代者と同じように、この作品を楽しむことは不可能である、と解説者は言っている。」
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by franz310 | 2011-07-10 00:14 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その283

b0083728_9135961.jpg個人的経験:
ロッシーニ初期の
成功作、
「試金石」には、
スピノージ指揮の、
素晴らしい
DVDがあるが、
ロッシーニの
音楽以上に、
見る者を
楽しませる、
さまざまな
舞台上の工夫が、
忘れがたい。


ここに見せる、ブックレット見開き写真でも明らかだが、
舞台の上で演じられる光景は、
舞台上のスクリーン上で合成され、拡大され、
極めて強烈な表現力を獲得した。

このようなトリックを駆使した映像空間を考案したのは、
映像作家のピエリック・ソランの力が大きく、
これについては、最後に触れることになろう。

この舞台写真に見られるように、
歌手たちの容姿は見栄えよく、
出で立ちもオシャレで、
いつまでも見ていたくなるようなしろものだ。

そうした商品の性格上、
このDVDの表紙には、指揮者と楽団の名前以外に、
演出家たち(監督、デザイン&ビデオとある)
バルベリオ・コルゼッティとソランの名前が書き込まれている。

また、歌手を引き立てるコスチュームは、
クリスチャン・タラボレッリというこの筋の大物、
照明はジャンルカ・カペレッリという、
1974年生まれのホープが採用されていることが、
特記されているのも書き添えておこう。

また、この上演を記録して、
DVD用の映像を作った人の手腕も素晴らしく、
各場面の切り取り方などに巧妙な計算を感じた。

最後に、フィルム・ディレクターとして、
BEZIATという人の名前が書き込まれているのも理由があるわけだ。

この人も、ブックレットには一文を寄せているので、
これも書き出しておこう。

「バルベリオ・コルゼッティとソランによる、
『試金石』は、私が長い間見てきた、
どのオペラの舞台より個性的なものである。」

このビジーとかいうDVD作成の専門家が、
その経験に照らし合わせて、
最もオリジナリティのある舞台だった、
と断言していることも嬉しい。

「ビデオは、デザイン・コンセプトの単なる一部ではなく、
物語を進行させる主要な媒体となっている。
ステージ上に見られるテレビ・スタジオは、
歌手が演じるための背景であるばかりか、
リアルタイムに映画が作られるセットとなっている。
スクリーン上が最も雄弁であるが、
舞台上では、作品制作時の状況を語る上で雄弁だ。」

このあたりのことは前回紹介した。

「こうした上演の記録は挑戦的なことだ。
すでに、映画が出来ているというのに、
フィルム製作者は、
オーディオヴィジュアル・メディアのために、
独自の作品を作るという大きな決断をした。」

確かにそうであろう。
我々がここに見る映像は、
ひょっとすると、舞台をそのまま見る以上に、
リッチな体験となっているのである。
こうしたDVDは、記録というか、
もう一つの作品だということなのだなあ、
などと感じ入ってしまった。

私は、「上演の記録」と書いたりしたが、
「上演をもとにした映像作品」と書くべきだった。

おそらく、渾身の舞台に引き込まれ、
この人も、インスピレーションが迸ったのであろう。

「我々が作り出した作品は、
二つのレベルのバランスを取ることと、
相互作用を探すことにエッセンスがある。
一つは、他のビデオ制作と同様、
舞台の空間内のステージレイアウトを反映させること、
もう一つは、ソランによって作られた、
ビデオをそのまま取り入れることである。
まず最初の映像群では、
モデルもカメラも舞台上のコンテクストも、
すでにあるものであったが、
次の映像群に関しては、
合成画像のイリュージョンにすぎず、
いかなるコンテクストの範囲外にあるものだ。」

コンテクストを文脈と訳しては、
意味不明なので、いかなる経験の範囲外とか、
慣習の範囲外とか理解するべきであろうか。

「我々は、劇場では上下に配置された
こうした二つのレベルを、
フィルム上では、並べて配置するようにした。
また、我々は、目と心を楽しませるために、
すでにあった、舞台とスクリーンの、
コントラストを取り払ったり、
残像を付与たりする試みも行った。
何故なら、
『木霊は、いつも私たちをからかうことを忘れないように』。」

ここにあるように、時として、
これは、どうやって撮影したんだろう、
というシーンが出て来るが、
この複合的な舞台を、さらにこの人は、
切り出して再構成するような工夫を行っているのである。

なお、最後の引用は、第1幕6場の伯爵の言葉である。
この文章自体にも、この言葉が使われている。

このように、このDVDは、映像方面ばかりが気になるが、
音楽としてはどうなのか。

ボーナスDVDに、
指揮者のスピノージのインタビューがあるので、
これを見てみよう。

すでに最初に書いたことだが、
このDVDは豪華仕様で、
100ページを越えるブックレットに、
このボーナスDVDまで付いている。

今回は、このDVDの内容を紹介して、
せっかく払った金額の元を取ることにしたい。

さて、指揮者のスピノージは、痩身で若く、
エネルギッシュな指揮をするが、
繊細なインテリ風で、オタクの一種と見た。

「この作品はロッシーニの最も知られざるオペラで、
『理髪師』、『シンデレラ』、『泥棒かささぎ』は知っていても、
『試金石』は知られていません。
パリでは上演された事がなく、されたとしてもずっと昔でしょう。
技術的なトラップが随所にあって、上演が困難なものです。
予測できないテンポの急変、
これらのリズム変化や繊細なアンサンブルはたいへん難しいのです。
それでいて、単純で自然に響く必要があるのです。
まったく技術上の困難がないように見せる必要があります。
ロッシーニにおいてはこうしたことはよくあるのです。
特にこの作品ではそうです。
これを演奏する音楽家たちは、
非常な喜びを感じるでしょう。
これに心酔せずにはいられません。」
等々、演奏の困難さと、
それに見合う以上の喜びを語っている。

確かに、このDVDを見ていて、
この部分は、演奏が難しそうだ、
などと考える暇もなく、
聞かされてしまった感じ。

また、聴衆にとっても、
「いったん、その渦に巻き込まれると、
それを無視することは出来なくなるのです」と書いている。
まさしくそんな感じだ。

この後、舞台の様子が出るが、
確かに歌手の喜ばしげな表情が、
私を嬉しくさせた。

どうやら、これはスピノージにとってもそうらしく、
「その活気が、朝、目覚める元気を与えるのです」
などと書いている。
そして、
「これに取り組むと、スコアが知りたくなり、
どうやって演奏しようかと考えてしまう」
と夢中になった様子である。

「肉体と頭脳がぶっとんでしまう」と言うと、
序曲のリハーサルが始まる。
「何だか寝ぼけているぞ」と言ってセーターを脱ぐスピノージ。

この一こまからも、その音楽が、
フレッシュで、エネルギッシュであるべきだという主張が見える。

「ロッシーニの音楽については、
オーケストラがうるさすぎると言われます。
オーケストラは歌手と同様に重要で、
聴衆もそれを楽しんでいるのに、
昔の楽派の人はそう言いました。」
と言いながら、
1810年とか12年の、
オーケストラサイズでの演奏の重要さを語っている。
ロッシーニが聴いて、
これで良いと思ったバランスが得られるという。

「ピリオド楽器の管楽器の多彩な色彩、
それが各楽器の違いを際だたせると共に、
それらの間に十分な隙間を作るのです。
ロッシーニの声楽パートは最も困難なのものなのに、
オーケストラはそれをぐちゃぐちゃにするわけにはいきません。
モダン楽器ではうるさすぎるのです。」
と、当時の楽器の重要性を説き、
ロッシーニにおいて、チェロをコンティヌオとして使い、
コントラバスをバスパートとして使うことの重要さも説いている。

これによって、
何かが爆発するという準備が出来、
効果的なロッシーニ・クレッシェンドが得られるという。

これまで、「ます」の五重奏曲でも、
常々、話題になるのが、このコントラバスの役割であった。
多くの人は、この楽器が室内楽に加わるがゆえに、
シューベルトの五重奏曲は、破格のものと書いて来た。

が、室内楽奏者でもあったスピノージは、
この楽器なくしては、
ロッシーニ・クレッシェンドのような、
爆発的な効果が出せないと言っている。

ちょっと立ち止まって、よく聴いてみよう。

「ロッシーニのレシピを大切にするなら、
私たちが、多くのコントラバスを使うべきです。
例えば、チェロよりも。
何故なら、ロッシーニは、
チェロはコンティヌオ用で、
オペラのバスパートとしては、
コントラバスが必要と考えていました。
そこで、私たちはチェロ以上の数の、
コントラバスを使うことにしたのです。
それは、私たちに、オーケストラに、
有名なロッシーニ・クレッシェンドを、
作り上げる助けになりました。
それによって、私たちは、
何か爆発に備えることができるようになったのです。
これこそがロッシーニ・クレッシェンドのキーポイントです。
もしあなたがお好みなら、
それを、圧力鍋内で高まる圧力とも感じられるでしょう。
蒸気が噴き出します。
そして、蓋が突然吹き飛びます。
これこそが、ロッシーニが、
スコアに明瞭に書き込んだことなのです。」

このとき、序曲のロッシーニ・クレッシェンドの、
リハーサル風景が出るのも有難い。

料理中に調理器具に蒸気が充満して、
ぷしゅーとなる感じだと言っているが、
確かに、ずんずんずんずん言っているコントラバスが、
爆発を予告して、ずっと鳴り響いている。
なるほど。

ピリオド楽器はデリケートで使いにくいが、
表現上や、フォルテ、リズムなどで、
その魅力を発揮すると言っている。

ロッシーニの時代のイタリアオペラにおける、
リズムの重要性が語られ、
各主題におけるリズムの独自性に言及すると、
伯爵の台所で、クラリーチェが歌うシーンが出て来る。
確かに、きめ細かい声の震わせを含め、
独特の繊細さをもって歌われている。

さらにスピノージは、歌手の表情の移り変わりを強調し、
やはり、台所のシーンでの伯爵とクラリーチェのデュオを、
サンプル画像としている。

表情と音楽の表情が見事なまでに一致しているのが分かる。

また、豪華ブックレットをひもとくと、
ダミアン・コーラという人が、
「演奏の実際」について書いていた。

これを読んでみると、先のコントラバスについて、
もっと詳しく書いてあるではないか。

「ロッシーニの音楽は、
彼の音楽の洗練されたヴォーカル・ラインに、
道理にかなって適応している。
しかし、彼の、同時代者に、
強烈な印象を与えたオーケストラ書法は、
長らく無視されて来た。
しかし、ピリオド楽器を利用し、
19世紀初頭のイタリアにおける楽器編成を再現すると、
彼の音楽の独特の特徴が見えて来る。
シャトレ座における『試金石』の上演は、
おそらく、このような試みの最初のもので、
ロッシーニのオーケストラに、
本来の輝かしい色彩を再現するものである。」

このような時代考証に続いて、
驚くべきことが書かれていた。

「1810年代、ミラノのスカラ座のオーケストラは、
24人のヴァイオリン、6人のヴィオラ、
3人のチェロ、9人のダブルベースからなる、
弦楽セクションを有していた。」

チェロに比べ3倍の数の、
コントラバスのオーケストラなんて、
私は、いまだ見たことがなかった。
当然、想像もしたことがなかった。

「このダブルベースの強固な基盤による、
オーケストラのメリットとして、
チェロは少ない数ながら、
レチタティーボを伴奏する、
コンティヌオの役割を割り当てられていた。
この構成は、めざましく強烈なアタックを可能とし、
この作曲家のスフォルツァンドの記号を強調可能とし、
歌手達を、エネルギーをもってサポートするリズム、
多くのパッセージの、舞曲風の性格を、
鋭く際だたせることを可能とした。
今日、我々は、こうしたリズミックな書法を、
『スイング』と呼ぶことも出来よう。
それに加えて、このぶんぶん言う、
低音弦の恐るべきパワーは、
特に序曲や第2幕の嵐のシーンにおいて顕著な、
クレッシェンドが作られる土台となる。」

恐るべし、時代考証。

さらに続きも読んでおこう。
「ロッシーニは生涯にわたって、
木管楽器の書法を改革していった。
初期のものは、前の世紀の遺産に準じていた。
18世紀も後期から、
数多くの改良が加えられていたが、
1810年頃の木管楽器はまだ、
個性的な音色ではあったとはいえ、
同質の弦楽器ファミリーとは違って、
比較的狭いダイナミックレンジしかなかった。
これが、ロッシーニに多くのソロを書かせ、
重要なナンバーに色彩的な効果を添えた。
『試金石』においても、二つのめざましいソロがある。
ナチュラル・ホルンによって、
クラリーチェのアリア(No.3)が導かれ、
前のシーンのコミカルな雰囲気とコントラストをなし、
その音色は感傷的なムードを作り出す。
嬰への表現力豊かな利用は、
変ホのホルンの口を手で押さえるもので、
主人公のいささかおどおどしたため息を作り出す。
第2幕では、モーツァルトからベルリオーズで使われる、
伝統的に、愛情豊かな雰囲気を醸し出す、
クラリネット・ソロがある。
これはジョコンドのアンダンティーノを導く。
1810年頃の10キーのクラリネットは、
音質にさまざまな幅を持ち、
A管はやわらかく、
その相棒のB管はオーボエやフルートと調和し、
C管は切れ味が良かった。
第2幕では、このスタイルに典型的な、
カンタービレ・レジスターや、
テンポ・ルバートの利用によって、
いかに、声にこの楽器が、
よく調和するかを聴くことが出来る。
序曲では、クラリネットは第1ヴァイオリンと、
下降するグリッサンドの装飾からなる、
古い歌唱、ストリチアッタを模倣する。
この序曲は続いて、『タンクレーディ』で、
再利用されるので、今日でも多くの演奏機会があるが、
下手に見えるのを恐れて、
多くの奏者が、これを明瞭に吹くのを、
びびっていることに注意されたし。
今回の演奏では、
ロッシーニの野心的な書法を際だたせるべく、
反対の道を選んでいる。」

なるほど。

「このオペラの全ての役柄で、
最も名技的なのは、
コントラルトのマリエッタ・マルコリーニのために書いた、
クラリーチェのパートである。
このプロダクションでは、このスタイルの創始者を真似た、
装飾は行っていない。
誠実にロッシーニのメロディの書法に敬意を表し、
ソーニャ・プリーナの独特な個性のショーケースとした。
彼女のアクロバティックな変奏は、
ハイGからローEに至る最後のアリアで聴ける。
コロラトゥーラの比類なき鋭さは、
このアーティストの特徴でもあり、
終曲のドラマ性に活かした。
彼女の最初のアリアで、エコーが他ならぬ、
知覚に隠れている伯爵だと推測する。
それゆえ、彼女は彼の正体を暴くべく、
彼が、それに追従しようとすると、
高音が難しく、
非常に難しい装飾に彼を引き入れる。」

成る程、恐ろしい表情で歌う歌手ではあるが、
かなり一目を置かれた存在であるようだ。

略歴を見ると、ミラノで学んだ俊英らしく、
まさしく、「試金石」を復活させるために、
イタリアが送り込んだ逸材という感じである。

モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、スカルラッティ、
モーツァルトを、ロッシーニと共に得意としているとある。

さらに、音楽とは無関係だが、
このDVDの二枚目、ボーナスDVDには、
映像作家としてのピエリック・ソランの仕事を紹介するトラックがあり、
彼が作ったショート・フィルムが紹介されている。

これは、かなり前衛的な代物で、
鍵をなくしてうろたえる若者や、
胎児のホルマリン漬けみたいなイメージのアニメ、
金魚鉢の中で踊るソランなど、
幻想的、幻影的な映像群である。

これらの映像は、
ソラン自身が自作自演していることもあり、
(彼はやたら裸になる)
自身、「セルフ・ポートレート」と呼んでいるように、
原初的、夢幻的なものを感じさせる。
しかし、使われている技術はかなり前衛的で、
電子的な小道具が駆使されているのが興味深い。

これは大分前に収録されたもののようで、
インタビューする方のソランはおっさんだが、
インタビューを受ける方のソランは、
妙にシャイな若者である。
映像の中で2001と出ているから、
10年前のものであろう。

このフィルムなどを見ていると、
ロッシーニもスピノージも吹っ飛んでしまう。

どえらいオタクたちの、
奇蹟のようなコラボレーションの結果が、
このDVDだということが痛感された。

得られた事:「補強されたコントラバス・パートの効用、強烈なアタック、スフォルツァンド強調、エネルギーを持ったリズム、舞曲風の性格を際だたせ、『スイング』する。そして、ロッシーニのクレッシェンドの予告と爆発には、コントラバスの低音が重要。」
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by franz310 | 2011-07-03 09:15 | ロッシーニ | Comments(0)