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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その282

b0083728_1624677.jpg個人的経験:
フランスの文豪、
スタンダールは、
ロッシーニに心酔していた。
その彼が、
「私に言わせれば、
『試金石』は
ロッシーニによる
オペラ・ブッファの
最大傑作だ」と、
断言しているのである。

私が、今回のDVDを見て、
非常に満足しているのも、
同じ理由であろうか。


とはいえ、私は、今、この段階で、
それを断言することは出来ない。
というのは、この上演記録の場合、
ハイテクを駆使した驚嘆すべき演出の効果が、
おそらく8割方、聴衆を魅了するからである。

ご多分に漏れず私も、音楽そこのけで、
美しさと、斬新さと、何よりもユーモアで、
見る者を眩惑させるこの映像に、
ただ酔いしれている感じがしないでもない。

ここに紹介した、
この豪華DVDパッケージの裏面を見ても分かるが、
舞台上で青い覆面をした人の頭部は、
背景のブルーに重なって、透明になって見える。

そして、舞台右側に置かれたミニチュアをバックに、
合成された結果が舞台上のスクリーン上で合成されている。
盆栽を持ったおっさんの背景も、
舞台上では青バックだが、スクリーン上では、
伯爵の豪邸の庭である。

このような凝った映像表現は、
見る者に、ものすごいリッチな体験を提供する。

スタンダールは、フランスにロッシーニを紹介したが、
今度は、我々は、このフランス人が考えた舞台によって、
新しいロッシーニのおもしろさをたたき込まれた。
こんなものがロッシーニ演出の基準になったら、
さぞかし、他のオペラの魅力も倍加しそうである。

フランスは、クール・ジャパンを受け入れてくれている国である。
そのせいか、ここに繰り出されるギャグの感覚は、
恐ろしく「のだめ」の世界に近い。

主人公の伯爵が、
全財産を失った時のショックの描写は、
ほとんど、「ギャボー」の乗りで描かれている。

バルベリオ・コルゼッティとか、ソランという演出家が、
スピノージ指揮のアンサンブル・マテウスと組んで放った、
パリ、シャトレ座でのもの。

ソランという人は、1960年、
ナンテの生まれの映像作家とある。
人間の営みと芸術創造の関係の、
ブルレスクなショートムービーを作っているらしい。

このように、彼は劇場関係の人ではないようで、
DVDのボーナス・トラックでも、
クラシック音楽の事は良く知らないし、
オペラも外国語が多く、何の事かよく分からないので、
あまり興味がなかった、などと語っている。

この演出家ソランであるが、彼は、以下のような一文を、
このDVDの豪華ブックレットに寄せている。
ここでも、「日本の」とは書かれていないが、
コミックの効果を意識していた事が明記されている。

「この作品の制作は、全体として、
その場でビデオ作品を作っているようなコンセプトになっている。
歌手達は、ブルーバックを背景に動き回り、
舞台上の左右に置かれたミニチュアのセットに、
同時に合成されて表示される。
聴衆は、これらの元となる現実の要素(歌手とミニチュア)と、
ステージ上に設けられた6つのスクリーン上の合成結果を、
同時に見ることとなる。
並べて設けられた複数のカメラが、パノラマ的な画像を作り出し、
6つのスクリーンの全域を活用する。」

このように書かれているように、
この舞台は、舞台と巨大スクリーンという、
超マルチメディア手法が取り入れられている。
このあたりのプロなのだろう。

「この仕掛けの最大の興味は、
ライブなビデオ作品を、その制作プロセスと同時に、
見せられる点で、
近代的なテクノロジーと、
映画の草分けジョルジュ・ミリューのトリック効果を借用している。
この合成技術は、詩的でコミック風な効果
(例えば、主人公はガス・コンロの上で歌う)を見る者に与える。
カメラが固定されているので、
そのビジュアルなスタイルは、
機動性と短いショットを特徴とする新しい映画より、
漫画やリュミエール兄弟の映画の世界に恐らく近い。」

固定されたカメラが、漫画的というのはあまり考えたことがないが、
この人は、どんなコミックを想定しているのだろう。

コミックの効果を意識した、
と私は書いたが、改めて読むと、
システムの性格上、そうなっただけ、
と読めなくもない。

「全体として、この作品の、
生き生きとして、おかしくて、詩的な性格は、
主に、イメージ創造過程の、
連続場面から来るものである。
例えば、裏方がミニチュアの木に水をかける間、
舞台上の動く歩道の上をキャラクターが走ると、
スクリーン上の結果は、
雨の中の森を人物が駆け抜けるようになる。」

このあたりのシーンは、今回聴く、
第2幕に出て来る。
第1幕がもっぱら伯爵の邸宅内、
あるいは庭が舞台であったのに対し、
第2幕は、少し変化が出ている。

「それに加え、投射によって拡大された歌手たちは、
強烈な人間存在を獲得した。
映画におけるように、シンプルな表情が十分に、
彼等の感情を伝える。
彼等はもはや、もっぱら声という表現手段しか持たなかった、
遠くの立像ではなくなったのである。」

彼は、オペラには詳しくないようだが、
確かに、その着目点は重要なポイントだ。
これは絶大な効果である。

ただ、私には、類似体験がある。

前にラフォルジュルネで、
背景のスクリーンに演奏風景を拡大して見せる、
演出を見たことがあったのだが、
この場合は、スクリーンの画質の悪さばかりが気になって、
私は楽しめなかった。
こんなスクリーンで世界市場と戦う気かよ、
と余計な心配までしてしまったのである。

今回のものはさすが、そんな不満は皆無であった。

いずれにせよ、この解説を読めば、バーナーの上での歌や、
雨の森のトリックなどの例からも、
この演出のイメージが湧くのではないか。

また、もう一方の演出家、
ディレクターとあるバルベリオ・コルゼッティは、
もう少し年配と見え、かつ劇場関係者のようだ。
彼はカフカの作品を再構成し、
ファウストやシェークスピアにも手を広げている。
ここ数年はオペラで活躍、
「メデア」、「ファルスタッフ」、
「トスカ」などを手がけているらしい。

彼は、インタビューに答えて、このような内容を語っている。
さすがにソランとは違って、文学的な背景が多く含まれる。

「スタンダールにとっては、
天国に入るには、ロッシーニの序曲が伴奏するに違いない。
『すべてが幸福に輝き・・』ということだったが、
それは、心と感情の終わることない休日の幸福感である。
アシュドルバーレの邸宅における停止した時間の中で、
『試金石』の登場人物は、出会い、歌い、うわさ話をし、
追いかけっこをし、いつも何かを企んでいるくせに、
伯爵の前では、立派な市民であるように偽っている。」

終わることのない休日の感覚、というのは、
何となく分かるような気がする。

「『試金石』の物語は、
非常に洗練されたコメディを主題としているのでは。
もちろんそうだ。
まず、金持ちで、いくぶん退屈な若い男が、
結婚を迷っているという前提。
私たちにはその理由が分からない。
おそらくはアシュドルバーレは、
クラリーチェを愛している、
彼の親友のジョコンドを傷つけたくないのかもしれない。
あるいは、彼女が本当に彼を愛しているか、
金目当てなのかを知らないのかもしれない。
または、彼女は他の二人の女性が求婚するなら、
手を引いてしまうと考えているのかもしれない。
アシュドルバーレもクラリーチェも、
共に、複雑な心理的気質である。
彼等のラブストーリーは、
知性と皮肉という背景に成り立っており、
彼等は共に、変装という手段を駆使する。
伯爵は彼の客人らの誠実さを試すべくトルコ人に化け、
クラリーチェは彼の決心を固めさせるべく、
同様の計略を用いる。」

こう書かれると、確かに、
へんてこな二人に振り回される物語にも見える。

「もう一つのへんてこな特徴は、
台本作者が、各登場人物を個性的にした点である。
スタンダールが心惹かれた、堕落したジャーナリストなど、
いかにも分かりやすい社会的な類型もある。
しかし、ルイジ・ロマネッリのリブレットは、
心理的プロファイルにて明解に区別されている。
『試金石』のさらに重要な要素は、
変装や状況の急変である。
これらはコメディにおいて、
お決まりの手段であるとはいえ、
このメロドラマ・ジョコーソでは、
豊かで退屈なブルジョワ社会での出来事ゆえ、
高度に個性的で複雑である。
それゆえ、コメディのルールに忠実であるとはいえ、
我々は、伯爵の住居を、
自分たちに近いものとして感じるのである。」

「そして、『試金石』とは。
この漫画的な状況に我々はあるとはいえ、
真の友人が誰かを捜すために、
シェークスピアの『アテネのタイモン』と同様の計略を、
アシュドルバーレは用いなかったか。」

「アテネのタイモン」は、やはり、
金があった時にはちやほやされ、
金がなくなるや、友人を失った人であるが、
彼の場合は、姿を隠し、皆を呪って終わった。

「実際の『試金石』は金銭である。
見せかけ全てが嘘であることを証明するためには、
破滅を見せかけたアシュドルバーレ侯爵の巧妙な計画のように、
金がなくなったと言えばよい。
すべてのごまかしは消え失せる。
すべてをおじゃんにするには、
試金石である紙切れ、約束手形があればよい。
単なる第2の紙きれ、受領書によって、
意味のない世界、不変の無為の世界を再構築する。」

このように、この作品は、あさましい人間世界を描いているが、
みんなが紙切れに左右される皮肉が露骨である。

「ロッシーニの音楽を敬遠しなかっただろうか。
ロッシーニの音楽には、間違いなく何か邪魔なものがある。
クレッシェンドが強烈な効果を持ち、
各状況に異常な集中を促し、
ドラマの複雑さに挑戦するかのようである。
ロッシーニは喜劇のリアクションを解放するが、
舞台上には常に移ろいがある。
各役柄の性格的、心理的な違いは限界を極め、
この異なる要素を、さらにばらばらにして強調する。
私がロッシーニの音楽に対する恐れを克服するには、
この未解決な雰囲気を復活させるしかなかった。
ここで私たちはすべてのオペラ制作の基本であるが、
台本のみならず、音楽によっても
ユートピアを実現しようとした。」

私も、これまで、ロッシーニの音楽には、
近づきがたい感じを受けていたが、
実は、この「未解決感」という言葉を見て、
妙に納得した次第。

「意図に近づくために、どんなものを必要としたか。
ソランとこのプロジェクトを始めるにあたり、
ロッシーニがわざと理解のきっかけを曖昧にした点について、
新しい道筋を模索した。
『試金石』では時間が停止している。
この非物質的な状況を表現できるセットを考えた。
そして、錯乱し、熱狂したリズム、
音楽の輝き、性格喜劇を、
カラフルに透明に表現できるアイデアに行き着いた。
芝居がかったプロセスをすべて見せ、
電子デバイスとビデオ映像の合成で舞台をさらけ出した。
主題も状況も場所も全てがバーチャルで、
それぞれの事は、まったくの仮想、
真空地帯のような青いステージ上で起こる。」

私は、この舞台は、何にでも応用できる、
素晴らしい発想だと思ったが、
このロッシーニ作品を考え抜いた末に出て来た、
新手法だったということだ。

「つまるところ、聴衆は何を見るだろうか。
聴衆は複数の視点を持ち、
現実が組み合わされる様子も、
仮想現実も、両方を見ることになる。
登場人物が、
感覚もなく、呼吸もしない空白を動くという、
理想の空間と対象を作り上げた。
舞台上の異なる歌手の相互作用も、
スクリーン上でのみ仮想的に見ることが出来る。
ビデオの技術を用いて、青く塗られた空間を動くキャラクターは、
スクリーン上のイメージでのみ、
どこで、何をしているかが分かるのである。」

極めて、形而上学的な美学が語られているが、
見れば、百聞は一見に如かずで楽しめる。

さらに言えば、これらのどちらを見るかまで、
このDVDでは、お任せになっているのでありがたい。
実際の聴衆よりも簡単に、
これらの複合舞台を楽しむことが出来る。
あるいは、実演を見た人の中には、
スクリーンか舞台か、
どっちを見て良いか分からなかった、
という人もいたのではないか。

さらにすごいのは、下から見上げるショットなどで、
スクリーンをバックに実物が演じる部分で、
このような視点までも含めた楽しみは、
決して、その場では体験できなかったはずだ。
ということで、このDVD、
豪華仕様になっていて、当然のような優れものだったわけである。

第2幕の「あらすじ」を訳出しつつ、各シーンを鑑賞して行こう。

指揮者のスピノージが、口をもにょもにょさせて、
入魂の感じで指揮を開始すると、
ロッシーニらしい明るさに満ちた音楽が始まり、
狩りの服装をした人々の合唱が始まり、
アスパージアとドンナ・フルヴィアの二重唱が絡む。
彼女らは、伯爵に仕返しがしたいのである。
狩り場を表すミニチュアは、森と鹿の模型である。

まず、前回、書き出しておいた、
登場人物の関係図は、こんな感じ。

アシュドルバーレ伯爵 ←ドンナ・フルヴィア←パキュービオ(詩人)
(執事ファブリツィオ)  ←アスパージア  ←マクロビオ(新聞記者)
                        ↓
               ←クラリーチェ   ←ジョコンド(伯爵の友人)
                (ルチンド  双子の兄)

が、スタンダールの本を読むと、
以下のような感じで解説されているので、注意を要する。

アシュドルバーレ伯爵  ←ドンナ・フルヴィア←パキュービオ(ゴシップ屋)
(執事ファブリツィオ)   ←アスパージア  ←マクロビオ(ジャーナリスト)
                      ↑(クラリーチェに言い寄るので決闘)
                ←クラリーチェ   ←ジョコンド(青年詩人)
                (ルチンド  双子の兄)

「伯爵は彼等のさまざまな言い訳を聴いて楽しむ。
持ち前の寛大さから、真の友情の欠如を許し、
誰も彼もを狩りに誘う。」

その他の主要人物らも交わり、素晴らしいアンサンブルを聴かせる。
スタンダールも、
「第二幕は、ロッシーニの全作品を通じても
ユニークな四重唱によって開始される。
めいめい激しい感情を秘めながら、
今のところはそれをぶちまけるのを差し控える人たちによる
お上品な会話の調子や魅力を完璧に表現している」
と書いている。

この後のレチタティーボでは、
パキュービオは「誤ったのは見せかけで、ジョコンドと決闘する」
などと言って、ドンナ・フルヴィアを喜ばせていたりする。
アスパージアも、先を越されたといって、
マクロビオをけしかけたりしている。

狩りの様子については、すでに解説で語られていたが、
確かに、パキュービオが歩く下には、
逆に動くキャタピラーみたいなのが置いてあって、
歩いているのだが先に進まない。
反対に、背景は、森の模型が動くので、
いかにもジャングルの中を進んで行くような映像となる。

音楽は勇壮な合唱付き行進曲が素晴らしい。
遂に嵐が来るが、これまた素晴らしい描写の音楽。
こんな状況で歌う歌手達の技量にも関心してしまう。

何と、ジョコンドは、何事もなかったように、
テニスコートに現れ、呑気にもテニスの練習を始める。

スタンダールの解説では、この人は青年詩人みたいに書かれているが、
ここでは、ここでは、恰幅のよい、
ひげ面のホセ・マヌエル・サパタというテノールが演じており、
中年のおっさんにしか見えない。
だが、この人の声は、とても甘く魅力的である。
グラナダ生まれとあるからスペイン人か。

「ジョコンドは、クラリーチェへの愛と、
アシュドルバーレへの友情の間に挟まれて嘆き、
彼の誠実さに触れて、その愛に同調し、
彼女のアシュドルバーレへの感情が変わらないものかと、
若い婦人の心に迫ろうとする。」

彼は、「あの素晴らしい美人を忘れさせてくれ」
奇妙にもテニスのラケットを、持って歌い、
木管が優しく寄り添う音楽も多感である。
すると、急にリズムがぴちぴちと弾けだし、
遂には、ミニチュア上にジョコンドが投影されるという、
スーパーハイテクまで駆使されるに至る。
が、肝心の字幕が出なくなっているのは問題だ。
すごい拍手が起こる。

クラリーチェも運動服で登場、
レチタティーボは完全にくよくよの音楽。
「忘れられない」、「忘れてね」、
「いつの日か君が自由になったら」とやっている。
ついに、クラリーチェも、
「いつの日か」などと歌いだし、
同時にテニスの練習をいちゃいちゃ始めてしまう。
テニスコートの裏手の茂みで、以下の3人が盗み見している。

「この親密な瞬間は、しかし、マクロビオ、アスパージア、
何かが進行中だと気づき始めた伯爵らによって邪魔される。」

伯爵は、騒ごうとするジャーナリストを黙らせ、
「女は所詮、女」、「好きにさせておくのだ」と、
超然と歌っているが、その間、
手取り足取りの熱々のテニスは続いている。

「曖昧な女」と伯爵が出て行くと、
「予期せぬ稲妻」などと、二人は困ってしまう。
そこに、狩りの行進曲が響く、
嵐で狩りが終わったとみんなが帰ってくる。

マクロビオはこれを記事にする、などと息巻いている。
ロッシーニが得意とする早口言葉のアンサンブルが盛り上がる。
「海原の稲妻、嵐が漕ぎ手を翻弄する」
などと、意味不明な言葉で、
緊迫した状況が強調されていく。
彼等の口の動きを見ていると、
ものすごい発声が行われていることが分かる。
ここでも大拍手。

「ジョコンドはアシュドルバーレを安心させ、
彼に決心を遂行するよう説得する。
アシュドルバーレは、挑戦的なマクロビオを叱り、
クラリーチェが、行方不明の兄からの手紙を手にして、
晴れやかに現れる。」

レチタティーボで、さまざまな事が語られる。
ジョコンドは謝り、アシュドルバーレは結婚は簡単ではないといい、
クラリーチェは手紙を持って現れる。
が、ニヒルな伯爵は、冥土の土産か、などと受け流す。

続いて、ドンナ・フルヴィアとパキュービオの会話。
彼がこっそりフルヴィアに教えたことは、
彼女が言いふらしていたのである。
彼女はそれが放送され、出版され、みんなが知るのよ、
と声を張り上げて復讐の歌をアリアで歌う。

続いて、ジョコンドがマクロビオに、
ピストルを渡すシーン。
俺が撃つと同時に引き金を引けと、
かなり強硬である。
下記のシーンだ。

「伯爵は若い男を家に招く。
その間、ジョコンドはマクロビオが、
ジョコンドがパキュービオに命乞いをしたという、
噂を流したといって、彼に決闘を申し込む。
マクロビオは、このややこしい状況からすり抜けたいと思う。」

そこに、伯爵も出て来て、俺も決闘だ、
と、穏やかではないレチタティーボ。
背景は砂漠になって、荒野のガンマンの決闘シーンになっている。
このような状況変化も、「トムとジェリー」の乗りである。
伯爵とジョコンドがサボテンを振り回しての決闘シーンを演じる。
この間も、絶妙な三重唱が歌われていて、
何と恐ろしく高度な舞台であろうか。
いつしか、マクロビオをとっちめる三重唱になっている。

「このとき、クラリーチェの双子の兄(クラリーチェが軍服を着ただけ)
が登場する。
アスパージアとドンナ・フルヴィアは、
この素敵な軍人との婚礼で教会の廊下を歩くのを妄想する。」

私は、これを見て、てっきりクラリーチェが、
軍服を着て登場するだけかと思ったが、
何と、彼女は軍隊を率いて登場する。
ジープに乗って、「我が祖国、この喜ばしい日」などと、
「タンクレーディ」並のアリアを歌っている。

さらに合唱付きで、「勝利の歌」を歌うと、
背景の砂漠では敵の戦車が破壊されている。
この歌手(ソーニャ・プリーナ)の睨み付け歌唱が、
このシーンでは、完全にマッチしている。

何と、ロッシーニも、劇画タッチで、オペラを書いていたわけだ。
完全に成りきりアリアで、すごいベルカント唱法で、
軍隊の到来を歌い上げていたのである。

次のレチタティーボでアスパージアと、
ドンナ・フルヴィアが、あのキャプテンは素敵だ、
と語り合っている。

伯爵の邸宅の上も、今や、星空が輝き、
キャプテンがやって来る。

「彼(キャプテン)は、ジョコンドに、
妹と結婚してくれるよう頼むが、
彼はアシュドルバーレとの友情ゆえにこれを断る。
これを聴いた伯爵は、自身のクラリーチェへの深い愛情に気づき、
兄に、彼女を連れて行かないで欲しいと説得を試みる。
失敗して打ちのめされた彼は、ジョコンドに支えられ出て行く。」

何と、このもんもんとした状況を表すべく、
ミニチュアを写すカメラの前に、
ひずんだコップがつるされると、
とたんに背景がぐにゃぐにゃになるので、
聴衆は大喜びである。
伯爵のアリアも、非常に情緒豊かなものだ。

彼等のもやもやした状況がよく表現されている。
「もう死ぬしかない」とまで、
彼は追い詰められているのである。
クラリーチェは、ミニチュア模型の前のカメラに顔を出し、
伯爵の背景でほくそ笑む。

「伯爵は、ファブリツィオに、クラリーチェへの求婚の手紙を託す。
クラリーチェは事実を明かさずに、それにサイン。
大団円となる。」

ドンナ・フルヴィアとアスパージアが、
キャプテンに迫っていると、
ファブリツィオがやって来てサインを迫る。
彼女は遂に喜んでサインする。

みんなが集まって来ると、
「ルチンダは永遠に来ないわ。
私はクラリーチェよ」というダイレクトな台詞。
帽子を脱ぐと、みんなクラリーチェだと分かる。

じゃじゃーん、という音楽もベタで良い。
他の二人の女達にはおもしろくないが、
喜びと祝福の歌が始まる。

ジョコンドなども、「婚礼を祝おう」などと調子よい。
伯爵は、「淑女を尊敬することを学んだ」などと言っている。
アンサンブルと合唱が、爆発するように盛り上がって、
この素晴らしい3時間近い舞台は終わる。

最後は、背景が花火、カップルのキスで終わっている。
完全にコミックの世界である。
何だか、このべたべた加減の単純さにも泣けて来た。

得られた事:「ロッシーニの世界は、永遠に続く休日、未解決の静止した時間。」
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by franz310 | 2011-06-26 16:03 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その281

b0083728_11382292.jpg個人的経験:
ロッシーニ・クレッシェンド
の効果を発揮させ、
この作曲家の成功を
決定付けたのは、
「試金石」という
オペラ・ブッファだと、
どの本にも書かれている。
例えば、立風書房の
「オペラの発見」にも、
「『試金石』の成功は、
とくに甚だしい」という
表現で特筆されていた。
このオペラに関しては、
最近、naiveから、
DVDが出て話題になっている。


私は、これを、すっとばして行くつもりであったが、
現代の映像表現を駆使した舞台が注目されていることや、
特別仕様で、豪華装丁のパンフレット付きの、
見たこともないずっしりとしたDVDの実物を店頭で手に取って、
どうしても欲しくなってしまった。

豪華装丁は結構だが、
すみずみまで味わい尽くすには、
かなりの時間が必要である。

例えば、スタンダールが書いた、
このオペラへの賛辞を含む、
このブックレット一つとっても、
書いてある事を
逐一報告するには、
ちゃらっとした鑑賞では済ませられない。

さらに、このブックレット、
字が多くて内容が濃いだけではない。
美しいおしゃれな写真が散りばめられて、
眺めているだけで、
幸福な気分になってしまう優れものだ。

当然のように、歌手たちもやたら美しい。

2007年1月にパリ、
シャトレ座で行われた公演のライブであるという。
これは幸福な体験だっただろうなあ、
と思わせる内容。

ここでは、心の重荷になることを恐れ、
最初から、ちゃらっとした鑑賞しかしないことを、
高らかに宣言しておきたいと思う。

さて、今回の演奏は、スピノージが指揮する、
アンサンブル・マテウスが演奏しているが、
この演奏家の説明を読んでも、
私は嬉しくなってしまった。

この指揮者は、何と、室内楽奏者の出身であり、
1993年、アムステルダムで開かれた、
ファン・ヴァッセナール・コンクールなる競技会で賞を取った、
マテウス四重奏団の、第1ヴァイオリン奏者なのだという。

このブログの主題は、
シューベルトの室内楽であるにもかかわらず、
ここのところ、オペラばかり聴いているので、
実は、後ろめたさを感じていたが、
この略歴を見て、少し、心が落ち着いた。

そして、楽団の名前を見ても明らかだが、
もともと四重奏団だったものが増殖して、
このアンサンブルが出来たという。

フランスを拠点としているようだ。

ヴィーン・フィルの楽団員が集まってとか、
バイエルン放送交響楽団の連中が集まって、
とか言う話は、ここでも散々取り上げたが、
四重奏団が発展してオーケストラ化とは、
前代未聞の話である。

が、シューベルトの時代は、
家庭で室内楽が演奏され、それが集まって、
オーケストラみたいな活動もしていたわけで、
本来、そういったものなのかもしれない。

「ロッシーニの輝かしい放射」という題で、
この指揮者が語った文章を見てみると、
若い頃からロッシーニのオペラが好きで、
そのリズム、素晴らしいメロディによって、
見るといつも幸福な気分になったとある。

かなりの筋金入りのロッシーニ狂である。
映像を見ると、痩身長躯、いかにもオタク風だが、
いかにもエネルギッシュで、
体中から音楽が「輝かしく放射」している。

そんな人が室内楽、
中でも厳格な弦楽四重奏をやっていたなど、
西欧から隔絶され、
頭でだけ、それを理解しようとしてきた日本人の感覚では、
まったくもって信じられないが、
そうしたいっさいがっさいが、
ヨーロッパというものなのだろうか。

そして、私が興味深く思ったのは、
今回の私と同様の事が、
この指揮者にも起こったような事が書かれていたからだ。

まず、彼は、「なりゆき泥棒」を上演し、
次に、「セビリャの理髪師」をやろうと考えていたが、
どうせなら、あまり知られていない作品をやろう、
というアイデアが閃いたというのである。

私も、シューベルトが実際に見たオペラだけを、
取り上げて行くつもりだったが、
完全に脇道に逸れ、
あまり解説書に出ていない作品を味わう事の方が、
むしろ楽しみになってしまった。

また、以下は、私が体験したようなことではないが、
この作品の一点の欠点もないスコアを見て、
指揮者は、これは真の傑作だと確信したと言う。
そして、「試金石」は知られざるロッシーニの傑作であって、
知られざる状況が、まさに変わりつつある時だと書いている。

ますます持って楽しみになる。

そして、ロッシーニの音楽の繊細さ、柔軟さ、
強弱の絶え間ない変化など、「ハイテク並」として、
指揮が難しい事を語っている。

「試金石」では、さらに、
テンポの変化の重要性があることを特記している。
これは、後で出て来る「解説」にも書かれていることだ。

そして、声楽の作曲家であると共に、
器楽の作曲家としての彼の重要さを語り、
明暗法や色彩の観点から、
ピリオド楽器による演奏が好ましいとしている。

彼は、最新の音楽学から、
19世紀初期のイタリアのオーケストラに、
ふさわしい改訂をしたという。
それによって、ようやく、
強力なコントラバスを土台にした、
本来の響きがもたらせたと威張っている。

今回の豪華ブックレットに含まれる解説では、
シルビアーネ・ファルシネッリが書いた、
「若きロッシーニの発展における試金石」という文章のみ読んだ。

「20歳だったのだ!
1812年、9月26日にミラノ・スカラ座で、
『試金石』が初演された時、
かれはきっかり20歳だったのだ。
成功ばかりか、兵役の免除という特典まで得た、
かくも早熟なロッシーニの生い立ちから、
何か突き止められるものがあるだろうか。
あえて言うなら、この二幕のオペラには、
これが若書きだと思わせる何者もない。
むしろ、ここに、ロッシーニのすべてを聴く。
実際、言うなれば、
その固有のうち、特質の最良のものを。」

このように、このDVDの解説には、
ただならぬ熱気が立ち込めている。

この後に、「天才の教育」という文章が続く。
これは、ロッシーニが、「試金石」を書くまでに、
どんな道筋を歩いて来たかを書き記したもの。

要点をかいつまむとこうだ。
・父親はトランペット奏者、母親は歌手という恵まれた音楽的環境。
しかも、父親はフランス革命の思想に共感して政治的にも活発、
かつ、陽気で衝動的な熱血漢だった模様。
愛称は「ヴィヴァッツァ」である。
母親は明るく、ユーモアあふれる人柄だった。

・ただし、ロッシーニの教育は最初、手抜きだった。
親爺は忙しく、隣のワイン商が、
二本指で弾くスピネットを教えた程度。

・10歳の時から、徹底的に古典の基本から学んだ。
司祭が歌唱と通奏低音を教え、
そこから、ハイドンとモーツァルトへの愛情が芽生えた。

・1804年、一家はボローニャに引っ越し、さらに修練。
父子とも、もともとホルンが上手であったが、
ヴィオラも学び、声変わりするまで、歌手としても働いた。
弦楽のためのソナタなどを作曲。

・1806年、ハープシコードの伴奏を務め、合唱指揮もする。
チェロとピアノを学び、作曲を試みる。
歌手の一家にそそのかされて、最初のオペラを作曲。

・1807年、対位法を学ぶ(1810年まで)。
マルティーニ神父の弟子、マッテイ神父のクラスにて。
しかし、彼は後年、ヴァーグナーに、

「すべての対位法レッスンより、
モーツァルト、ハイドンのスコアからの、
徹底した勉強の方が、多くを学んだ」と語った。

マッテイ神父は、このオーストリアの二巨匠への熱狂を見て、
ロッシーニを「テデスキーノ(ドイツ小僧)」と呼んだという。

・1808年、ミサ、カンタータ、二曲の交響曲の作曲依頼。
ファエンツァでのハープシコード奏者としての実績より。
交響曲の一曲は、オペラ界デビューとなる『結婚手形』で再使用。

・1810年、このオペラは初演され成功。
(ヴェニスのサン・モイーズ劇場で。)
モーツァルトやチマローザにつながる古典的傾向の作曲技法と、
喜劇的感覚の結合。
歌手達は、オーケストラが被さると文句を言う。
ロッシーニの生涯を特徴付ける、本質的な芸術特性が見られる。
このようなことからも、「試金石」が、
完成された作品になった理由が分かる。

さらに、「リズムへの天性」という文章。
こうした背景から、彼のオペラのスタイルを検証するもの。

・彼は自分の音楽に何が求められているかをすぐ理解する。
そして、必要とあらば再利用する。
「試金石」にも、「デメトリオ」や「ひどい誤解」の再使用がある。
「試金石」の序曲も、「タンクレーディ」に転用された。

・有名なクレッシェンドも、モスカやピーアから盗ったとされる。
いいものはすぐ採用だ。

・他のイタリア・オペラの作曲家より器楽の洗練が賞賛される。
(当時のイタリアのオーケストラはアマチュアの寄せ集めだった。)

・各ナンバーの推移のなめらかさは、モーツァルトに負う。

・弦楽器や管楽器の演奏経験が、楽器のソロを効果的にしている。
下品にも奔放にもならず、彼の思い通りの強調効果を奏する。

・リズムこそが彼のトレードマーク。
喜劇的表現に真似の出来ない鼓動を与える。
推進力、泡立つような興奮、話法の弾むような質感。
劇の進行をいささかも妨げない各ナンバーの釣り合い。
戯画的な筋であっても優しさを持ち、
登場人物を平板にせず霊感を与えている。

アンサンブルの構成や魅惑的な転調に彼の名技性が見える。
あちこちの音楽ラインにも、
作品内部の細かいところにも優雅さが宿る。

ロッシーニはヴァーグナーに、
「私には才能と、ずっと多くの直感があった」と語り、
「もし、ドイツで勉強していたら、
もっとマシなものが書けただろう」と言った。

「ベートーヴェンは人間の天才だが、
バッハは神の奇跡だ」と言って、
バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを賛美した。

次に、「作品の現代における評価」という文章が来るが、
最後は、
「最初に50回もの公演が繰り返された、
『試金石』の成功が、
女性が好意を得ようと殺到するような、
流行の作曲家に彼を押し上げた。」
と書いて終わる。

もう十分に、ロッシーニのすごさは分かった。
以上が、ファルシネッリ女史が書いた部分。
早く、作品を聴いて見たい。

登場人物も多いので、あらすじを書き出すのが大変だ。
が、「試金石」という題名通り、
裕福な伯爵が、本当に結婚すべき相手を探す、
というシンプルな内容である。

序曲は、確かに、タンクレーディと同じだ。
が、あの曲は、こんなに繊細にハープや、
トライアングルが鳴っていたっけ。
ハープに聞こえたのは、ハープシコードかもしれない。

この序曲の間から、怪しい作業風景が映っていて、
それが背景のスクリーンに大写しされていく。

箱庭的な風景が模型で作られていき、
同時に、青いバックに登場人物が作業を行うと、
いわゆる背景切り抜きの技術の活用によって、
模型の中に、これらの人物が合成標示されていくというわけだ。
奇妙な作業は、屋外パーティの準備の風景となって、
合成画面に映し出されている。

第1幕:
「オペラは、アシュドルバーレ伯爵の豪邸の庭である。」
とあるように、箱庭は伯爵の豪奢な庭。
作業しているのは、屋外のパーティの準備をするコックで、
大写しのスクリーン上では、庭でパーティの支度されているように、
合成表示されて行くのである。
動入曲への入り方も素晴らしい。
アシュドルバーレ伯爵みたいないい人はいない、
という合唱である。

カラフルなパーティ衣装に身を包んだ登場人物も、
青バックの前で歌っているだけだが、
投影されたスクリーン上では、
南欧風の別荘にでも、
集っているかのように見える。

これが素晴らしい合唱に発展していくのには、
いきなり、圧倒された。

「へぼ詩人のパキュービオが、
無関心で、いささか敵意すらある聴衆の前で、
詩の一節を朗読する場面から始まる。
彼が好きなドンナ・フルヴィアだけは、
彼に関心を示してやる。」
クリスティアン・センというバリトン演じるパキュービオは、
ここでは、背広を着た、7・3分けの、サラリーマン風で、
朗々と自作の詩を歌うが、
この時の伴奏の生き生きとした楽しさを特筆したい。
彼は、いろいろ声をかけるが相手にされない。

彼は、黄色い衣装のドンナ・フルヴィアから、
声をかけられるが、彼女の澄みきった声は、
とても良く通るもので、容姿も魅力的だ。
ラウラ・ジョルダーノというソプラノである。

「彼女は、彼女が欲しい、
(アスパージア男爵夫人も欲しがっている、)
財産を持つ、
アシュドルバールとの結婚がうまくいけば、
彼の未来はバラ色だと約束する。」

このあたりは、レチタティーボである。
黄色いフルヴィアに対し、アスパージアは、真っ赤なドレス。
ジェニファー・ホロウェイというこれまた、
すらりとしたソプラノ。

アシュドルバール←ドンナ・フルヴィア←パキュービオ
           ←アスパージア
という構図だ。
あらすじを読むと、沢山の女たちが登場しそうだが、
いかにも、この二人は落第しそうである。

「アスパージアに求婚している、
ヤバい道徳観のジャーナリスト、
マクロビオが現れ、
侯爵未亡人のクラリーチェを愛するジョコンドと口論する。
しかし、彼女はアシュドルバーレを愛している。」

模型を写すカメラは室内の様子のものとなり、
それだけでシーンが室内シーンとなる。
新聞と持ったイケメン(マクロビオ)と、
ひげ面の不敵な顔立ちの太った人(ジョコンド)が、
さかんにやり合っている。
前者が、ホアン・マルティン=ロヨというバリトン、
後者は、ホセ・マヌエル・サパタというテノール。

木管楽器が活躍する変幻自在のテンポが、
音楽にすごい推進力を与えている。

アシュドルバール←ドンナ・フルヴィア←パキュービオ
           ←アスパージア   ←マクロビオ
                           ↓
           ←クラリーチェ   ←ジョコンド
という構図になって来た。
ほとんど、横矢印だけで表現できて良い。

次に、黄色い室内になり、
オレンジ色の衣装、帽子を被った女性が入って来ると、
ホルンの印象的なソロ、木管の序奏も魅力的な、
クラリーチェの登場である。
ソーニャ・プリーナという人だが、
他の美人と比べると、個性派といった感じである。

「クラリーチェは、エコーの効果で、
アシュドルバーレへの愛を宣言する」とあるが、
彼女が、台所みたいなところで声を張り上げていると、
何と、アシュドルバーレは、その様子を、
ゴミ箱の中から盗み見しており、
時折、合いの手を入れる。

召使いみたいなのも、流しのシンクから顔を出して、
盗み見している。
画面が合成されるので、何でもありである。

それにしても、この少し丸っこい女性が、
ヒロインのクラリーチェだったのか。
表情が激変し、目を剥いて歌い、
完全に三枚目キャラである。

「それに感動しながらも、
あえて侯爵は、彼の心の声に耳を澄まそうとしない。
これら3人の女達は、彼の心より財産に興味があると考え、
彼は、彼女らの誠実さを試そうと決める。」

いかにも神経質な優男風のアシュドルバールは、
冒頭からちょくちょく登場していたが、
ここで、本格的に主役になって、
レンジの上や冷蔵庫の中で、
信頼できる女性を捜す決意の歌のアリアを担当する。
背も高くて、舞台映えする。
フランソワ・リスというバリトン。

もうすぐ30歳なのに独身だとか、
何だか、情けない感じもする人。
ぶつぶつ独白するのはレチタティーボである。

クラリーチェは、表情が悪戯っぽく、
意地悪な感じもあって、一癖ありそうな雰囲気。

彼等の会話が、二重唱に発展する。
彼女が大胆なアプローチを見せる中、
「言葉は何も保証しない」と歌う。
クラリーチェの声は、メゾソプラノで、
陰影が豊かである。

その後、美しいフルヴィアが、現れ、
付いて来たパキュービオが、
金魚鉢をバックにした、
マルチ画面でアリアを歌う。
「ミシピッピ」のナンセンスな詩を歌にする。

その後、彼は、フルヴィアが伯爵に言い寄る時の、
演技指導まで行う。
フルヴィアはいつもにこにこしている。
声も通って美しく、ファンになった。

その後、
「伯爵と、忠実な召使いファブリツィオは、
『試金石』作戦を立案する。」
とあるが、レチタティーボの短いもの。
「アフリカ人」に化けると言っている。

その後、オレンジ色の服を着た、クラリーチェと、
太ったジョコンドが現れる。
「クラリーチェとジョコンドは、
真剣に議論を交わす。
彼は愛を宣言するが、
彼女は、行方知れずの双子の兄、
ルチンドの事を心配する。
彼等は、マクロビオとアシュドルバーレに邪魔される。」

また、ややこしい話になってきたが、
この話が、後半の伏線になるのである。

アシュドルバール  ←ドンナ・フルヴィア←パキュービオ
(ファブリツィオ)   ←アスパージア   ←マクロビオ
                           ↓
              ←クラリーチェ   ←ジョコンド
                (ルチンド)
一応、()内に、色恋以外の、主人公たちの関係者を書いておいた。

青空をバックに彼等は食卓に着いて、
食器の音を立てながら、うまそうなものを食べ、
四重唱を歌うのがすごい。
ジョコンドは太っているだけあって、とてもイタリア的な美声である。
ロッシーニらしい、早口のアンサンブルが見事な効果を上げる。
この間、背景では、目玉焼きを焼くコックの様子がコミカルで、
観客は大喜び。
この演技は、全身を青タイツに包んだ女性たちが補助しているので、
彼女らは映らずに、道具や料理だけが、
映像上ではあり得ない動きを見せる。

さらに、この陽気な瞬間、下記の出来事が起こる。

「ファブリツィオが、アシュドルバーレに何かメモを持って来る。
それを読んだアシュドルバーレは青ざめ、
彼の小部屋に引きこもってしまう。」

飛んでいく卵焼きや、じゃーんというオーケストラなど、
完全にのだめ風の世界である。
四重唱は伴奏なしの、神妙なアカペラになって、
状況の深刻さが強調される。
この間も、コックはドリンクをシェイクしながら、
コミカルなパントマイムをしている。

「侯爵のリアクションに、皆が自分の意見を言い合い、
活発な会話が続く。」

ドンナ・フルヴィアとアスパージア、
パキュービオ、マクロビオのやりとり。
ヤバい新聞記者のマクロビオが、
記事は金次第のアリアを歌い上げる。
何でもかんでも金で料理してしまう様子が、
全部映像化されている。

何と指揮者は指揮棒を譜面台に打ち付けて、
打楽器的な効果を出す。
音楽は行け行けの運動会みたいである。

ここから、召使いたちの合唱。
不安なオーケストラの序奏、
シリアスな合唱は、まるで、シューベルトの音楽みたいだ。
ロッシーニも何でも出来たのである。

いきなりプールの前に来て、
マクロビオは、水着で遊んでいるし、
クラリーチェは水着で日光浴である。
ジョコンドはかいがいしく日焼け止めを塗ったりしている。
陽気な三重唱は、
アンジェリカとメドーロの秘密の愛について。
何かのエピソードであろうか。

「アスパージアとフルヴィアは、侯爵は財産を失ったという。
彼女らは、結婚しないで済んで良かったという。
これは、問題の二人であるが、明らかに問題発言だ。」

プールサイドにこの二人が来て、
もう破滅だと二重唱を歌う。
そして、プールで浮き輪で呑気に浮かんだ、
パキュービオとマクロビオは、
「奴らはどこから来たか」の会話をしているが、
最初に出て来るのが、何と、「日本」。

ロッシーニの原作でも、本当に、
そうなっていたのだろうか。

じゃーんとオーケストラが鳴って、
遂に、取り立てが来る。
「マクロビオが、負債を取り立てに来た外国人が到着したという。
実際のところ、外国人は、他ならぬ伯爵がトルコ人に変装したのである。
召使いに付き添われ、トルコ人が入って来て、
彼の請求分が支払われてない場合、伯爵の全財産を没収すると息巻く。」

ハープのようなぱらぱら音がするが、
ハープシコードだろうか、上品なアクセントをつけて美しい。
トルコ人は、豪勢なガウンに赤い帽子。ものすごい剣幕である。
オーケストラも凶暴な響きを立て、
トルコ人は客人の持ち物をも差し押さえたという。
当然、大騒ぎとなる。

伯爵は、「こいつらは皆、人でなしだ」と呟く。
「この騒動に直面し、各人の本性が暴露させる」と、
解説に書かれた部分であろう。
もともとセットは、箱庭の模型なので、
それらを持って行くと廃墟になってしまう。

「クラリーチェとジョコンドだけは、この困難な時に、
伯爵を支持する。」
とあるが、まるで、津波の後の東日本、
アジトを急襲されたビンラディンの家みたいになっている。
序曲で、ネズミが走り回るシーンがあったが、
何と、ここで登場。

完全に日本のギャグマンガの乗りではなかろうか。

クラリーチェは、こんな廃墟の前で、
「幸運な時は、友情は語れない」などと意味深な歌を歌い、
廃墟の中で、ジョコンドは伯爵の手を取って、
「幸運出ない時が、人間性の試金石」と、
このオペラの主題を歌う。

ただし、クラリーチェは走り回るネズミにびびっている。
調子に乗って、フルヴィアとアスパージアは、
「伯爵はあなたのものよ、おめでとう」などと言う。

伯爵が「破滅だ、どうしよう」と言うと、
みんな「分からない」という。
クラリーチェはわたしのお金を上げる、
ジョコンドは、私の家へ、と優しいが、
クラリーチェは、
「後に引けなくなったわ」とか呟いてもいて、
この作品、人間の本性を暴き出している。

その時、トルコ風の軍楽の響き。

衣装戸棚から、証書が出て来たのである。
「ファブリツィオが喜んで入って来て、
伯爵の借金はすべて返済されていると、
証明した書類を見つけた、と皆に報告する。
アシュドルバーレが変装を解くと、
他のみんながメンツを失っているのに、
この予期せぬ展開にクラリーチェとジョコンドは喜ぶ。」

全員が出て来ての大アンサンブルである。
いつの間にか、背景はゴージャスな滝と噴水になっている。
「突然の夢から覚めて、何が何だかわからない、
静けさと嵐に弄ばれて、脳みそぐちゃぐちゃ、
金床とハンマーの間で、心は痛み、うろたえる」
などと、言い訳三昧の歌である。
クラリーチェだけは、伯爵にすりすりしている。
ピッコロの高音が響き渡る壮麗なフィナーレである。

第2幕もあるが、今回は、これでギブアップ。

得られた事:「ロッシーニの『試金石』、息をつかさぬ展開、聴いてみて見てみてよかった。」
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by franz310 | 2011-06-19 11:43 | ロッシーニ | Comments(4)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その280

b0083728_17254429.jpg個人的経験:
序曲のみで知られる。
ロッシーニの一幕のオペラ、
「ブルスキーノ氏」は、
極めて複雑なストーリーで、
前回は、筋を負うので、
精一杯であった。
ただ、演出家のハンペ氏が、
「カンパーニャ地方に旅が出来る」
と言っていたように、どたばたの中、
独特の風土感、情感が胸に残る。


あるいは、ブルスキーノ氏の父親が、
しきりに「暑い、暑い」という台詞を吐くからかもしれない。

みんなにペテンにかけられそうになり、
ブルスキーノ氏の父親は、
自分の頭がおかしいのは、その暑さのせいかとも、
考えるわけである。

原発問題が解決せず、
この夏は一斉に節電が呼びかけられており、
この「暑い、暑い」が、妙に説得力、
生々しさで迫るではないか。

最近でも、冷房を切った電車に乗ったり、
ようやく辿り着いた出張先が節電していたりして、
まだ梅雨の時期の涼しさにもかかわらず、
夏の到来を先案じする日々である。

ブルスキーノ氏(父)がしきりに汗を拭く演出のせいか、
暑さを強調した台本のせいか、
または、LDで見た舞台の背景の、
南欧風の情緒のなせる技であろうか、
この作品の気温の高さが、
妙に実生活とリンクした。

さて、このオペラ、1幕ものゆえ、
だいたいCD一枚に収まるので、
非常に廉価に購入可能。
私もたまたま、このオペラに関しては、
アルテ・ノヴァから出たものを持っていた。

シューベルトが受けたロッシーニの影響を、
概観しているだけの企画ゆえ、
ロッシーニの名作とも思えない作品で、
足止めを食らっている暇もないのも事実。

しかし、このCDでヒロイン、
ソフィアを歌っているのが、
日本人の「KOUDA HOROKO」(幸田浩子)であるので、
ここは一つ、よく聴いてみないといけないと思った。

この人は、最近、日本のレーベルから、
ポピュラーな作品のアルバムを多くリリースしているが、
アルテ・ノヴァのCDのブックレット写真は、
もっと楚々とした感じで微笑ましい。

それに加えて、このCD、背面には、
「この1幕のオペラを作曲した時、
ロッシーニはイタリアオペラ界で、
すでに上り行く星であった。
『ブルスキーノ氏』は、
ロッシーニが奇抜な器楽の音響効果の結合と、
声楽の効果を駆使した荒れ狂う喜劇である」
などという一文が載せられており、
LDで、視覚効果で筋を負うだけの鑑賞では、
いささかもったいないと思えて来た。

日本にもよく来るし、
多くのオペラ録音でも知られるグスタフ・クーンが、
チロル音楽祭のオーケストラを振ったもので、
2000年の8月9日、オーストリアでのライブである。
「やる以上は愛情を持って」というモットーの人であるから、
傾聴してしかるべきなのであろう。

クーンの長髪、髭もじゃ写真が背面に出ている。
録音がよく、豊かな臨場感あふれる録音から、
クーンの丁寧で愛情こもった指揮ぶりが感じられる。

反対側、肝心の表紙の方には、
ヴィンセンツォ・カムチーニが描いた、
1816年頃のロッシーニの肖像画があしらわれている。
このオペラが書かれた時期より少し後だが、
不気味なまでに不敵な表情である。
まさしく「上り行く星」の自信であろうか。

解説は、バルバラ・レーダーという人が書いている。
何と、フリードリヒ・ニーチェの言葉が冒頭を飾る。
「氾濫する泉が跳ね、踊る」という言葉だ。
このCD、とにかく、聴け聴けと連呼しているようで嬉しい。

これを読むと、オペラの内容は、
へんてこな筋であったが、
音楽もまた、かなりいかれているということを期待させる。

では、解説を見ていこう。

「音楽喜劇『ブルスキーノ氏』の初演は、
1813年の謝肉祭のシーズン、1月27日に、
ヴェニスの小さな劇場、サン・モイーズで行われた。
この劇場のためにロッシーニは、先立つ18ヶ月の間、
同様のオペラを4曲書いている。
1810年、19歳の年に、彼は、同様にファルサである、
1幕のコミック・オペラ『結婚手形』で契約した。
それに、『幸せな間違い』、『絹のはしご』、『なりゆき泥棒』が続いた。」

これについては、これまで見てきたとおりで、
私は、まだ、「なりゆき泥棒」は聴いていない。

「ロッシーニの『ブルスキーノ氏』は、完全な失敗であった。
プロットは明らかに混乱し、聴衆には複雑にすぎた。
序曲の音楽的効果は、前年の『絹のはしご』と類似である。
ロッシーニの最初の伝記作家、スタンダールは、
『絹のはしご』の序曲について、
『序曲ではヴァイオリニストが弓で、ろうそくを立てる、
金属のランタンを叩かなければならない』と書いているが、
『ブルスキーノ氏』にも同様の部分がある。
ある批評家は、
『このような巨匠が、かくも得体の知れない序曲を、
書かなければならなかったとは、
不可解と言うことしかできない』と書いた。」

確かに斬新な手法で、こうした効果が、
音楽史の本流では後継者が現れることはなかった。
面白く効果的であるが、
こうした意見があるのは自然であろう。

「この短いオペラは、レパートリーから消え、
その音楽的霊感や贅沢さにもかかわらず、
ロッシーニのもっとも演奏されないオペラの一つである。
ロッシーニの『ブルスキーノ氏』は、
完全な失敗に終わったが、
ロッシーニはすでに一家を成しており、
ちょうどその頃、モーツァルトの音楽が、
イタリアで発見されつつあり、
その明星が輝き始めていた。」

この解説は意味不明である。
その後、モーツァルトの話は出て来ないからである。
ロッシーニが駆逐されたのは仕方がないということか。

が、次には、ロッシーニの果たした、
素晴らしい役割が記載されているのである。
私は読み飛ばしているのだろうか。

「1824年の記念碑的な『ロッシーニ伝』の中で、
『チマローザとパイジェルロは忘れられ、
ベッリーニとドニゼッティは、ロッシーニの影の中にいる』
と書いている。
イタリアオペラにおけるロッシーニの役割は革命的であった。
彼は18世紀的な因習から離れ、
そのメロディの脈動するヴァイタリティと、
複雑なリズムの愛用など、
新しいスコアの技術によって、新しいオペラを生み出した。」

このように、生き生きとしたメロディや、
リズムの変幻自在がロッシーニの音楽を、
極めて推進力のあるものにしている。

「それに加え、『ブルスキーノ氏』にあるように、
独唱者にアンサンブルを歌わせるのを好んだ。
彼は芸術的に『ストレッタ』のパッセージを、
クレッシェンドとストリンジェンドの交錯によって描き、
メロディラインを加速させた。」

このような具体的な聞き所指定もありがたい。
何とはなく、そう感じていたものが、
はっきりと意識して、次回からは、
それに心して耳を澄ますことが出来る。

「多くのオペラやファルサの台本を書いた、
ジョゼッペ・フォッパは、1806年のフランス喜劇を利用、
『ブルスキーノ氏』の下敷きとした。
登場人物たちは、コメディア・デラルテ風である。
ブルスキーノの中に、見分け、
混ざり合ったアイデンティティ、
陰謀といったテーマがすべて入っている。」

このあたりは、ブルスキーノ氏になりすましたり、
ブルスキーノ氏が何者か分からなかったり、
ブルスキーノ氏の父親が、騙されていると分かっていながら、
実は、自分の頭がおかしいのではないか、
と疑ってしまう点などを指しているのであろうか。

確かに、どの登場人物も、一筋縄でいかない連中で、
主役のカップルも、何となくいかがわしい感じである。
仮面劇、即興の馬鹿騒ぎのようなコメディア・デラルテでは、
みな、人間のある典型を強調したようなものになる。

「ロッシーニは、自身の作品の盗用で知られるが、
序曲のメロディは、1806/07年の、
『al conventello』として知られる、
ニ調の交響曲の主部からの借用である。」

コンヴェンテッロ交響曲という序曲があるらしいが、
私はこれまで知らなかった。
このコンヴェンテッロは、ラヴェンナ近郊の地名のようだ。

「フロルヴィッレとソフィアの二重唱
『恋する心の何という甘さ』は、そのまま、
オペラ『デメトリオとボリビオ』の中のものである。」

これも、ロッシーニの学生時代の習作ではなかったか。

「ソフィアとガウデンツィオの二重唱、
『二つの心の美しい絆』のメロディもまた、
他の作品、『セヴィリャの理髪師』の、
『ドクターへ』との類似性が指摘されている。」

こういうことは、よく指摘されることだが、
別に、ここで書き出されたからといって、
鑑賞の助けになるとも思えない。

「当時のオペラ・ブッファと同様に、
短い音楽喜劇の中では、日常言葉に音楽をまとわせた。
伸ばしたりつっかえさせたり等、複雑な、
レチタティーボでの素早い語り歌い、
序曲における、目も眩むようなスパイラルの高みに至る、
メロディの強引なクレッシェンド。
そして弦楽は奇抜な効果のために、
タッピング効果を発する。」

早口言葉や、リズミカルな会話などが、
ここで指摘されているのであろう。
話し言葉にそのまま曲を付けてしまう点、
高名な詩人の詩を得意としたシューベルトとは違うスキルであろう。

以下、音楽を楽しむ時に重要な具体例が列挙されているが、
これを有効利用していこう。
このCD解説の問題は、トラックのどの部分か分からない点である。

この前のLDのトラックと、今回のトラック割を比較してみよう。
今回のCDのトラックは9しかない。

CDのTrack1.シンフォニア、序曲である。4分28秒。
LDのCDのTrack2である。こちらは4分49秒。

CDのTrack2.イントロダクツィオーネ。13分25秒。
LDのTrack3と4と5である。合わせると12分45秒。
「愛しい人よ」から「愛する人に会えるのは」。
主人公と言える恋する若者、フロルヴィッレが、
女中のマリアンネや恋人のソフィアとやりとりする部分。
フロルヴィッレはソフィアと結婚したいが、
後見人が決めたブルスキーノ氏が求婚に来る、
という話を聞いて、何とかしないといかんと思う。

このように、トラックの終わりの方に、
レチタティーボを配置すると、トラックを飛ばしながら聴く場合、
音楽がついた部分だけ味わえるメリットがある。

CDのTrack3.フロルヴィッレとフィルベルトのデュエット。
CDでは2分59秒。
LDのTrack6、「ああ、これがうまくいけば」と、
Track7、「ソフィアの許婚になりすませてやろう」。
2分54秒+22秒に相当。
ここは、宿屋の主人と若者の陰謀の部分。
フィルベルトは金を使って、ブルスキーノ氏を、
宿屋に閉じ込めるよう画策しており、
この悪事遂行の計画二重唱である。
さらにフィルベルトは、ブルスキーノ氏になりすます計画を語る。

CDのTrack4.後見人ガウデンツィオのカヴァティーナ。
11分19秒の長丁場である。
LDのTrack8の「この地は大きな芝居小屋」(6分07秒)と、
Track9の「ソフィアにはブルスキーノ氏を見つけてやった」
(6分24秒)に相当する部分である。
ソフィアの後見人の成金現世主義謳歌。
彼の人生観が高らかに歌われる。
その後、マリアンナが持って来た偽造手紙で、
フィルベルトこそが、ブルスキーノ氏だと、
後見人が信じ込む部分。

CDのTrack5.ガウデンツィオ、ブルスキーノ氏父と、
フロルヴィッレの三重唱(10分41秒)。
LDのTrack10の「息子さんはもう後悔しています」(7分56秒)と、
Track11の「何かあったのかしら」(3分01秒)の合体版。

これは、フロルヴィッレが、後見人を騙し、
さらには、老ブルスキーノ氏をも、騙してしまおうという、
めちゃくちゃな部分。

CDのTrack6.レチタティーボとソフィアのアリア(9分9秒)。
LDのTrack12の「愛しい花婿をお与え下さい」(7分54秒)と、
裏面Track1の「決着をつけなければ」(2分21秒)。
ソフィアもまた、老ブルスキーノ氏を懐柔して、
何とか、フロルヴィッレと結婚できるよう切々と訴える。

CDのTrack7.ブルスキーノ氏父のアリア(8分50秒)。
LD裏面のTrack2の、壮絶な六重唱(6分34秒)と、
Track3の「うまく収まったが」(2分9秒)である。
「私は頭をなくしてしまったのか」。
前回聴いた時は、この部分が一つのクライマックスと思えた。
ブルスキーノ氏の父親は、
みんなに騙されて、自分の方が、
暑さでおかしくなったのではないか、などと歌う。

しかし、ここで、宿屋の主人が、
そういえば、お金の支払いに残りがある、
などと、話を蒸し返して、ややこしくする部分。

CDのTrack8.デュエット(7分59秒)。
LD裏面のTrack4の印象的な、
ソフィアと後見人が歌う「結婚とは愛の絆なのだ」(7分50秒)と、
全体のストーリー展開とは関係なさそうだが、
結婚の意味を長々と諭す部分。
そして、LD裏面のTrack5、
レチタティーボの、「やっと分かったぞ」(1分)と、
相変わらず、騙されたままのガウデンツィオ氏が、
すでに内情を掴んでいるブルスキーノ氏父に、
つめよる部分。

CDのTrack9.フィナーレ(8分09秒)。
LD裏面Track6の「さあ、分別を取り戻してくれましたか」は、
15分と書いているが、実際は9分くらいで、誤記と思われる。

ようやく混乱した話も、大団円に突き進んでいく部分。
ブルスキーノ氏の正体も分かり、
音楽の活気は並々ならぬものがある。

このように整理すると、解説で取り上げたような、
下記の聞き所がどこにあるか分かる。

例えば、下記の部分は、Track2を通して味わえば良い。
「フロルヴィッレは、最初のアリアでは、
夢見る、恥じらいがちな若い恋する男として登場するが、
小間使いのマリアンナが登場するや、
彼はソフィアを勝ち取るためには、
いかなる策謀も辞さない機転の利く人物と変わる。」

これは、私も、非常に気になっていた点である。
詩人のようなナイーブさから、
いきなり、そこらの粋なあんちゃんに変わる。

今回、フロルヴィッレは、パトリツィオ・サウデッリで、
ロッシーニの本家本元で学んだ人だけに、
前回のキューブラーより、ずっとイタリア風で、
装飾音もそれらしく聞かせる。
写真で見ると、いかにもやり手のおっさん。

なお、Track2では、
後半は、ロマンティックな二重唱になるので、
前半のさわりだけ聴いて飛ばしたら、
我らが幸田浩子の声を聞き逃す。

ホルンの美しい音色が広がる。
こうしたさりげない筆致が、
ロッシーニの音楽に、ある種の詩情を感じさせる。

幸田の声は、サウデッリの太い声の前では、
いかにも東洋的に繊細だが、
さらに陰影の豊かさを味わうべきであろうか。
高音に推移する時の澄んだ感じも良い。

下記はTrack3で味わえる。

「フィリベルトと彼の二重唱、
『お金を上げてもいい』では、
彼は高ぶった心で溢れかえっている。」

フロルヴィッレは、計画がうまく行きそうなので、
心がはやっているのである。
早口言葉で、ロッシーニの魅力が満喫できる。
このあたりのサウデッリもうまい。
ただし、宿屋の主人のフィリベルトは、
パパギノプーロスは真面目すぎる感じ。
いや、その方が、素朴な人柄として良いのか。

Track4相当の部分については、こんな解説。
「ガウデンツィオの最初の言葉、『退屈だ』も、
音楽的変容として、
ゆっくりした瞑想的なテンポが、
急速な衝撃的なものに変わる、
カヴァティーナ『世界の大劇場にて』に続く。」

ガウデンツィオは、ルッジェーリが歌っているが、
やはりロッシーニの本場で学んだイケメンである。
写真が出ている。
声も颯爽としていて、俗物の歌なのに、妙に爽やかだ。
人気がありそうだ。

確かに、最初はゆっくりと歌い出されるが、
この曲の陽気さは、助奏から溢れかえっており、
まるで、レハールの世界を先取りしているかのよう。

以下の部分はTrack6に相当する。
この部分は、ほとんど、幸田浩子の一人舞台で、
近年、ファンが増えている彼女に興味がある人は、
是非、味わう必要があろう。

「ブルスキーノ氏父を懐柔しようと試みる、
ソフィアの『花婿を下さい』で、
彼女のパートは、コールアングレで伴奏され、
織り交ぜられている。
その奇異な音響は、初演時には、
A管クラリネットで代用された。
この特殊効果は、後にファルサでは禁じ手となった。
この声楽と楽器の意表を突く対比は、
奇妙なオーケストレーションと共に、
ロッシーニ作品の典型で、彼の最後のオペラ、
4幕のグランドオペラ『ウィリアム・テル』に続く、
すべての作品に影響を与えたものである。」

単に、クラリネット伴奏が美しいと思っていたが、
ここまで長い能書きがあるとは思わなかった。

まずは、レチタティーボの部分であるが、
ここから、幸田の声の超絶技巧を味わうことが出来る。
続く、コールアングレの素朴な音色も味わうべきであろう。
つづく、嘆願調の部分も、祈りの歌のように美しいが、
このソフィアという人物が、
こんなきれいな感じの性格ではないことも、
ふと、思い起こされる。

後半は、テンポが速くなり、技巧を散りばめた華麗な曲想。
ここもロッシーニならではの楽しみ。
幸田は、テンポや音程の急変によく対応している、
という感じ。
モーツァルトを歌うように、純粋に響くが、
もっとがめつい感じがしてもよいかもしれない。

前回のフェッレは、
幸田の声のような繊細さも正確さもなかった。
ただし、何だかしらないが、圧倒してしまう迫力があった。
何しろ、この曲は、恐ろしい脅しの歌でもあるのである。
このあたり、日本人と西洋人の差異を感じずにはいられない。

下記はTrack7に関する部分。
このCDでは、ブルスキーノ氏父は、
エツィゾ・マリア・ティージが歌っているが、
この人も写真入りなので大物なのであろう。

この部分は、あのLDを見た後では、
ちょっと混乱の度合いが足りない。
前回のリナルディの早口による錯乱ぶりは壮絶であった。

テンポも速く、ジェルメッティのドライブも強引で、
それが、むしろ爽快ですらあった。
どうも、あのLDの演奏は、この部分は名演奏であったようだ。

「ブルスキーノ氏父によって歌われる、
アリア、『私の頭は肩に乗っているか』では、
六重唱として、また、必要とされる混乱、
軽蔑の嘲笑をまき起こす、
楽しい声の交錯でよく知られる。」
と解説にあるが、このCDの声の交錯は悪くないが、
一番、錯乱したブルスキーノ氏父が、
もっと、混乱してくれないと物足りない。
単に、騒々しいだけの部分になる。

下記はTrack8の部分。
彼の父親らしい、婚礼でのふるまいのアドヴァイス、
『それは貴重な絆』では、より音楽的に静かでマイルド。」

この部分は、先のイケメン、ルッジェーリが、
若いソフィアの幸田に、結婚の意義を教え聴かす部分。
これは、きっと見栄えのする二重唱だったに違いない。

ただ、LDで見たフェッレは、
一癖あるソフィアとして、
コケティッシュな演技を交えていたが、
幸田は可愛い女にしか聞こえない。
このあたりも、精度は高いのだろうが、
脂ぎったがめつさが感じられない。

ロッシーニの音楽は千変万化して、
言葉のリズムの変化、声の重なり合いや、
音色の変容を聴いているだけで幸福な気持ちになる。

下記は最後のTrack9。
「ロッシーニのリズミカルな名技性と結合した、
フレキシブルなメロディは、ファルサ『ブルスキーノ氏』の、
フィナーレをも特徴付ける。」

ここで現れるブルスキーノ氏(本物)は、
CDでは、単なる哀れな青年という感じ。
LDでの青年は、堕落してどうしようもない、
という感じであったが。
「葬送行進曲の伴奏で現れる、本物のブルスキーノ氏は、
オーケストラのパートの一部として、
自身の嘆かわしい状況を語る。
終結の愛の賛歌『今、理由と義務は』では、
バーレスクな高ぶった精神で泡立つ。
声楽部のぴりっとした名技性と、
燃えるようなオーケストラの活力は、
この音楽のウィットと霊感の宝石を、
ふさわしい幕切れへと導いて行く。」

この終曲では、さんざん、愚弄されていた、
ブルスキーノ氏父が、急に良い人になって、
「ふざけるな、お前の方が頑固者だ」と、
ぎゃふんと言わせて欲しい。

ちょっと、テンポに沸き立つ感じが欲しい。
ジェルメッティが強奏させたホルンも控えめだし、
やはり、猥雑さより格調高い古典性を前に出した演奏か。
後半より前半の方が名演だったような気がする。

今回は、筋書きよりも音楽に集中したが、
ロッシーニの音楽は多彩な輝きに満ちており、
それに推進力が加われば、素晴らしい効果を発揮する。

得られた事:「ロッシーニの音楽の活力は、個々の声の自発性、オーケストラの音色の対比強調によって、本来の輝きを発揮する。」
「トラック2のホルン、トラック6のコールアングレの音色が、からっとしたロッシーニの音楽に、独特の情緒性を与えている。」
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by franz310 | 2011-06-12 17:27 | ロッシーニ | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その279

b0083728_23421234.jpg個人的経験:
タイトル自体、「絹のはしご」は、
妙に気になるものだったが、
タイトルから連想される、
登場人物の「怪しさ」という点では、
さらに上を行くものがあった。
「ブルスキーノ氏」である。
職場のメールにおいても、
「~さんが」、「~様が」と書かずに、
「~氏が」、と書かれている場合、
私は、かなりのいかがわしさを感じる。


これもフォッペの台本であるが、
原作は「まぐれの息子」という、
余計、意味不明なものであるらしい。

このLDの表紙を見ても、いかがわしい人物ばかりで、
右側の赤い服の若いが、怪しげなおっさん5人の方を見ている。
(この写真は帯をつけて撮っているので見えないが。)

窓の向こうの、
ローマ風の松が見える風景は、
非常に美しく見える。

ロッシーニは、1810年から1813年まで、
ヴェネチアのサン・モイーゼ劇場のために、
5曲のオペラ・ファルサを作曲したが、
「ブルスキーノ氏」は、
このシリーズの最後を飾るものである。

LDの高橋保男氏の解説によると、
(ここでの「~氏」は、
面識がない方への敬意を示したものである)
「ファルサ(笑劇)」は、
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、
ヴェネチア中心に使われた用語とあり、
もともとは喜劇の中に歌を混入させたものが、
オペラ・セリア幕間の息抜き用の、
インテルメッツォのようになったという。

19世紀には衰退したので、ロッシーニには、
この後は、1818年の「アディーナ」があるだけ、
ドニゼッティにも数曲あるだけだとあるから、
まさに、この「ブルスキーノ氏」は、
ファルサの集大成のような位置づけとなるだろう。

解説にも、「よく出来たドラマに属していて、
一見わかりにくい感じを与えるかもしれないが、
喜劇としてはたいへん巧妙に、
かつ論理的に構成されている」とある。

さらに、「サン・モイーゼ劇場のための
5曲のファルサの中では最も高い完成度を示していて」と続けて、
「この直後に生まれ出る傑作『アルジェのイタリア女』に比べても
さほど大きな遜色を感じさせない」とまで書かれている。

これは大変、楽しみである。

最後は、「類型的な物語を少しも陳腐を感じさせないような
表現の工夫や、意表をつくユニークな効果のおもしろさ、
そこに生まれる新鮮な笑いが、この20才の年の若書きを、
魅力あふれる作品にしているのである」と結んでいるのが嬉しい。

このように早く聴きたくなるような、
見たくなるような解説が良い解説である。

さて、「絹のはしご」同様、
このオペラは、「序曲」が大変有名なもので、
トスカニーニなども録音していた。

Track2.「序曲」は、弦楽器の弓で、
かちゃかちゃ鳴らす妙な音の効果が、
耳をそばだたせるが、このLDでは、
譜面台上の照明の傘を叩いているのが分かる。

解説によると、ロッシーニの序曲の定型だという。
堂々たる序奏と弦による第1主題、木管による第2主題、
展開部の代わりに経過部で、
オーケストラの輝かしいクレッシェンド効果があるという。

これまた、自分だけは陶酔して、
オーケストラにはエネルギッシュにドライブをかける、
ジェルメッティ指揮のものだ。
意外に、クレッシェンド効果は自然でこけおどしがない。

ハンペ演出のもので、幕が上がると、
大きな窓から外を望む舞台が美しい。
ガウデンツィオの城館の一室のようだ。

この演出家は、「音楽の友」別冊の、
1988年の「オペラものしり辞典」では、
「ドイツのオペラ演出家で、ウィーンなどでも演出しているが、
ザルツブルク音楽祭でのモーツァルトが目立っている」
という感じで紹介されている程度。

テルデックというメジャー・レーベルの割には、
すごい歌手たちが出て来る訳でもないし、
この一連の録音、録画が、
初期のロッシーニを特集した珍しい企画であるとは分かるが、
純正ロッシーニ・ファン、オペラ・ファンにとって、
どのような位置づけのものかは分からない。

今回、こうした舞台の鑑賞によって、
シューベルトの時代を妄想しようとしている訳だが、
訳の分からない現代的演出よりは、
この美しく素直な正攻法の方がずっとありがたいのは確かだ。

これは、1989年のシュヴェツィンゲン音楽祭の記録で、
「結婚手形」と一緒に録画されたものと思われる。

したがって、最初から出て来る、
フロルヴィッレというイケメン青年は、
デイヴィッド・キューブラーというテノールが演じている。
「結婚手形」のエドアルド、「絹のはしご」のドルヴィルだ。

彼が演じる役は、常にヒロインの恋人なのだが、
少し情けない感じで、常に、ライヴァルが現れる。

先に簡単に内容をデッサンすると、
このフロルヴィッレとソフィアという娘が恋仲である。
彼等の障害になるのが、
ソフィアの後見人のガウデンツィオが、
ソフィアに婚約者がいるとしている事である。

では、劇に沿って鑑賞してみよう。

このLD解説の最大の問題は、あらすじの所が、
「導入部」とか「小二重唱」とか書かれているだけで、
トラックナンバーが振られていないことである。
せっかく読んでも、どこのトラックのことか分からない。

Track3.「愛する人よお願いだ」は、
解説あらすじの「導入部」と「小二重唱」に相当する。

美しい風景のバルコニーの扉から、立派な室内に、
黄色い服を着て、帽子を持ったフロルヴィッレが入って来て、
人の家の室内で、でかい声を張り上げて歌う。

どうやら、フロルヴィッレの父親は、
彼が好きなソフィアの父と仲が悪いという、
「ロメオとジュリエット」風の状況のようだ。

彼は、ソフィアの父親も世を去ったので、
求婚に来たようである。
そこに、女中のマリアンナが来るが、
状況は悪いことを仄めかす。

マリアンナが出て来て重要な人物かと思うが、
彼女は、ここくらいしか存在感がない。
ジャニス・ホールが演じているが、
これは「結婚手形」でヒロインを演じたソプラノだ。

Track4.「愛する人に会えるのは」。
これは解説あらすじの「レチタティーボと二重唱」に対応。

その後、女中のマリアンナは、
ソフィアを連れて入って来るが、
恋人たち、つまりフロルヴィッレとソフィアは、
いきなり抱き合ってロマンティックな愛の二重唱となる。

典型的にイタリアオペラ風で、管弦楽はピッチカートの上に、
簡素な木管の助奏があるだけみたいな感じ。
歌詞の内容もイタリアオペラ的に、
どうでもいいような内容、
「愛しいあなたを愛しく思います」って何?って感じ。

ソフィアを歌うのはアメーリア・フェッレ。
これは「結婚手形」で女中を演じていた方だ。
LD表紙に出ていた女性で、
どちらかと言えば恰幅が良いが、
声は澄んでいて美しい。
表情も豊かである。
すごい長い接吻で終わる。

驚いた事が、解説に書かれていた。
ベッリーニやドニゼッティが愛用した、
ソプラノとテノールによる「愛の二重唱」を、
ロッシーニは嫌悪していて、
これは珍しいナンバーだという。

Track5.解説あらすじの「レチタティーボ」。
「会えてうれしいよ、ソフィア」の部分。
ここで、ブルスキーノ氏の正体が分かる。
ソフィアは、もうすぐ婚約者のブルスキーノ氏がここに来る、
しかし、心はあなたのもの、などと言っている。

その時、宿屋の主人フィリベルトが入って来て、
3日前にブルスキーノ氏が来たが、
400フランも借金しているので、
宿屋に閉じ込めてある、などと意表をついた展開。

このフィリベルトは、この劇ではかなり重要で、
カルロス・フェレールが歌っている。
「結婚手形」では番頭さんをやっていた。

Track6.解説あらすじの、「レチタティーボと二重唱」。
フロルヴィッレは、
自分がお金を今払うから、秘密にして、
彼を閉じ込め、手紙を渡せ、という交渉を成立させる。

今回のデイヴィッド・キューブラーの役柄は、
いままでの善良なだけの兄ちゃんではなく、
機転が利いているようだ。
実際、今回は、これまで以上に大活躍する。

Track7.「ソフィアの許嫁になりすましてやろう」。
フロルヴィッレは、ブルスキーノ氏になりすます計画を立てる。
マリアンナにこの計画を話しに行くと、
使用人たちが歓迎の準備を進めに入って来る。

Track8.「この地は大きな芝居小屋だ」は「カヴァティーナ」。
これは、「手にいれたものだけでは満足しない」、
と、この館の主、ガウデンツィオ氏が使用人の前で、
哲学を歌い上げるもの。

「もっともっと欲しくなる。金も名誉も」と、
人間の欲深さを賛美する歌を歌い上げるが、
最後は、「何が起こっても楽しく過ごそうじゃないか」、
などと、悦楽的な境地を陽気に歌い出すのが面白い。

ロッシーニのオペラのみならず、多くのオペラでは、
どうでも良いことを歌われるが、
この部分は、一応、意味ありげな有難い内容になっている。

解説には、「金銭崇拝」で笑いを誘うのは、
当時の常套手段だったとある。

この後見人の役は、コルベッリが歌っているが、
「絹のはしご」で、機転の利く使用人ジェルマーノを歌った人である。

Track9.解説あらすじの「レチタティーボと三重唱」。
「ソフィアにはブルスキーノを見つけてやった」。

マリアンナがガウデンツィオ氏に手紙を持って来る。
これはソフィアの婚約者のブルスキーノ氏の父親からのもの。
さっき、恋人フロルヴィッレが入手しておいたものだろう。

「旦那様に手紙です。痛風で左手で書くのを、許して欲しい。
ちょっと、寄り道をしているから、
人相書きの息子が来たら、見付けて掴まえて欲しい」
という内容。

人相書きを自分の顔にしてあったので、
さっそく、召使いは、外に出て、
フロルヴィッレを間違って掴まえて来る。

フロルヴィッレの思惑通りであるから、彼は、
彼は、父に書いた手紙があるから読んで欲しいと言う。

「いい青年だ、父上は厳しすぎる」と、
ガウデンツィオ氏は、物わかりが良いふりをする。
これまた、計画通りということであろう。
ソフィアの後見人は、なりすましの彼に満足してしまうのである。

このあたりから、ようやくオペラは、
ヤバい道を突き進んで行く。

何と、寄り道していたはずのブルスキーノ氏(父)が、
杖を突きながら、暑い暑いとやってくるので、
ややこしいことになるのは必定。

この「暑さ」が、ブルスキーノ氏(父)の頭を、
混乱させているのであろう。
彼は出て来るたびに、暑い暑いを繰り返す。

ガウデンツィオ氏は、
息子さんは、すでに家に来ている、
彼は後悔しているから、許してやって欲しいと言う。

すでに、包囲網が完成している。
この先で待ち受ける善良な病気の老人の運命やいかに。

Track10.「息子さんはもう後悔しています」。
解説あらすじの「レチタティーボと三重唱」である。

これは、現世主義、快楽主義者のガウデンツィオ氏が、
フロルヴィッレをかばって、
ブルスキーノ氏(父)を前に、
親子でよりを戻すように歌うもの。

何と、なりすましのフロルヴィッレも、
成りきって「心臓が止まりそうだ」などと歌うので、
まだ、顔を見る前に、
ブルスキーノ氏(父)は、「許すべきか」などと呟いている。

ブルスキーノ氏の父親は、このオペラでは、
非常に重要な役回りをする。
リナルディが歌っているが、
これは「結婚手形」のカナダ人スルック、
「絹のはしご」の求婚者ブランザックが担当している。

これらと同様の役回りだが、
今回はさんざん、
おちょくられる屈辱に耐える必要がある。

何と、しらばっくれて、「許してください」
などとフロルヴィッレが出て行くと、
「誰だお前は」と杖で突き飛ばすので、
友人である後見人からは、「意地を張って認めないのだな」、
と勘違いされてしまう。

「無慈悲な怪物のようだ、ぞっとする」とまで言われ、
「警察を呼ぶぞ、ペテン師の仮面を剥がしてやる」と、
ブルスキーノ氏(父)も激高する。

「お慈悲を」と、なりすまし男がしゃあしゃあと近づくと、
「息子を認めないなんて」と、後見人も怒る。
ロッシーニ得意の早口の三重唱、大混乱である。

解説でも、ロッシーニの、
ブッファの才能を結晶させたナンバーと特筆されている。

Track11.レチタティーボ、「何かあったのですか」。
ガウデンツィオ氏が、
頑固者の父親が息子を認めない、と、ソフィアに言うと、
彼女も、もちろんグルなので、
「頑固」、「意地っ張り」などと挑発して、
ブルスキーノ氏(父)をおちょくる。

彼は、暑さを嘆きながら、
「ここにいる奴はいかさま師だ」と言う。
ほとんど老人虐待である。

Track12.「ああ、愛しい花婿をお与え下さい」。
は、ソフィアのアリアである。
解説にも、「水準以上の歌唱技術を要求している」とあるが、
以下に記すように、めちゃくちゃな内容。
これは、技巧のための措置かもしれない。

この部分もまた、最も、ややこしい場面の一つかもしれない。
とにかく、曲想も内容も変転して、
いったい、ソフィアは何が言いたいんだ、
となってしまう。

長い助奏の後、いくぶん装飾的なオーボエに導かれ、
美しいメロディで、しっとりした情感が盛り上がる。

「私の平和と安らぎは、
すべてあなたにかかっている、すべてあなた次第」
とソフィアが訴えかけると、
繊細なオーケストラがそれを彩り、
ブルスキーノ父の胸を打ち始める。

しかし、ソフィアはいきなり取っていた手をはずし、
「残酷なあなたは苦痛に苛まれるでしょう」と、
脅しの内容を激しくぶつける。

その後も、
「あなたに救いを求めます」という台詞や、
「あなたは残酷さに報いられるでしょう」という台詞が、
交互に現れ、あの手この手で、老人を説得しようとする。
弦楽が活気付き、木管が色彩を添える。

このように、このトラックでは、ソフィアは、
甘えてみたり、非難してみたり、
両方を同時にまくし立てたり、
いかにも振る舞いがある種の女性的である。

裏面Track1.解説あらすじの「レチタティーボ」。
「決着をつけなければ」。

レチタティーボで、いろんな人が出て来てややこしい部分。
お巡りさんがやって来る。

これは、ディ・クレディコが演じているが、
なかなか面白い役割である。

「空から降って来た息子を認められますか」と、
ブルスキーノ氏(父)が訴えると、
お巡りさんは、「さあ別に」と、まるで心配しない。

しかも、お巡りさんは、
何故か、ブルスキーノ氏(息子)の手紙を持っているという。

ガウデンツィオ氏も出て来て、
お巡りさんに朝の手紙を渡すと、
お巡りさんは、「息子さんの筆跡です」と断言するので、
漫画の効果のように、じゃーんとオーケストラが鳴って、
ブルスキーノ氏(父)は椅子に倒れ込む。

裏面Track2.解説あらすじの「レチタティーボとアリア」。
「私は頭をなくしてしまったのか。」
この言葉のとおり、ブルスキーノ氏(父)は、
自分が錯乱しているのかと疑う。

ここは、ブルスキーノ氏(父)が主に歌い、
他のみんながはやし立てる部分。
これはほとんどイジメ、老人ハラスメントである。

ブルスキーノ氏(父)は、
自分の方がおかしいのではないかと言いだし、
遂には、「脳みそがからだの上から下までかけめぐる」
などという、早口の歌を歌いまくる。

お巡りさんまでが、何と、
なりすましのフロルヴェッレのことを、
ブルスキーノ氏(父)の息子だと断言するので、
彼は、「もっとはっきりした証拠を探す」
と激高するので、オーケストラは、
これこそロッシーニ・クレッシェンドで興奮する。

音楽は、悲痛な響きとなり、
ソフィアは、ここでも、まだ、
「私の心を安心させて下さい」などと訴え、
完全にブルスキーノ氏(父)は怒りと悲しみに爆発寸前となる。
そりゃそうだ。

みんなは「頑固な人だ」、「異常なほど頑固だ」と、
「めったにお目にかかれないほど頑固だ」と、
めちゃくちゃにはやし立てる。

すると、宿屋の主人、フィリベルトが現れるので、
ブルスキーノ氏(父)は、ようやく証人が現れたと喜ぶが、
すでに買収されている彼は、
お巡りさんの質問に対し、フロルヴィッレの事を、
はっきりと、ブルスキーノ氏だと宣言する。

このあたりが、LD表紙の部分であろう。

椅子の老人がブルスキーノ氏(父)で、
その上で、何かを振り回しているのが宿屋の主人。
睨んでいるのはヒロインの後見人のガウデンツィオ氏である。

事ここに至って、ブルスキーノ氏(父)は、
まったく希望をなくしてしまう。

「たとえ殺されたって認めないぞ」と怒る一方、
「少しは同情して下さい」と訴えたりもする。

そんなことはおかまいなしで、
「恥を知りなさい、もう諦めなさい」と、
みんなからはやし立てられるのが可愛そうである。
オーケストラは乗りに乗って、
非常に軽快な音楽を運んでいく。

もちろん、
「こんなむちゃくちゃなことがあるものか」と歌う、
ブルスキーノ氏(父)の方が正しいのだが。

裏面Track3.解説あらすじの「レチタティーボ」で、
「うまくおさまったが、借金の残りは」。

宿屋の主人が、「残りの借金を返せ」と、
ブルスキーノ氏(父)につめよると、
父親は、息子なら、あそこにいるだろうと突き放す。
すると、遂に、宿屋は、本人は宿に閉じ込めてある、と、
口止めされていたことを口走ってしまう。

それを聴いて、二人は外に出て行く。

後見人ガウデンツィオ氏がソフィアを連れて現れ、
「婚約を後悔いているに違いない」などと、
見当外れなことを言っている。
ソフィアは、「結婚って何ですの」などとカマトトぶる。

裏面Track4.解説あらすじの「レチタティーボと二重唱」。
「結婚とは愛の絆なのだ」。
ここは、後見人ガウデンツィオ氏がソフィアに、
「結婚とは愛の絆で、清らかな情熱と甘い情熱を灯すもの」
と説き聞かせる部分。
ソフィアも「心打たれました」と返して、二重唱となる。

「今こそ愛の絆を結ぶときなのかしら」と歌うと、
「その時なら兆しが見えるはず」と後見人は教え、
「心の兆し」について「教えようか」と尋ね、
彼女は、「ドキドキしてじっとしていられない」と答えたり、
「情熱の炎」についての診断が始まる。

ソフィアはいちいち、それを認めていき、
「私に花婿をお与え下さい」と要求する。

「お前に花婿を与え、嬉しい顔を見せてくれ」、
「よし、すぐに結婚させよう」と盛り上がって行く。

最後は、オーケストラも盛り上がって、
「彼だけが喜びで輝かせてくれる」という絶唱となる。

裏面Track5.解説あらすじの、
「レチタティーボと四重唱」。
「やっと分かったぞ、巧みな陰謀だ」。

ここでもいろいろな情報が錯綜して、
字幕を熟読して、流れを掴まなければならない。

ブルスキーノ氏(父)は、よろよろと戻って来て、
「ペテンが分かった」、
「しかしあいつは誰だ」と言っていると、
何と、なりすましのフロルヴェッレが、
「ガウデンツィオ氏の敵の息子とバレる前に結婚を急ごう」
などと言うので、ブルスキーノ氏(父)は、
全貌を掴むに至る。
が、ブルスキーノ氏(父)はしらばっくれることにする。

裏面Track6.解説あらすじの「フィナーレ」である。
「さあ、もう分別を取り戻してくれましたか」。

ここで、ガウデンツィオ氏が現れ、
再び、「息子さんと認めますか」などと聴くと、
ブルスキーノ氏(父)は、「意地を張ってしまった」、
「彼をここに呼んで下さい」という。

何かややこしい問題が起こるということか、
オーケストラでは、金管が激しく信号音を連呼する。
ソフィアも呼ばれ、
「二人を結婚させましょう」というので、
恋人たちが喜んで口づけをしている所に、
宿屋の主人、フィリベルトが、何と、
本物のブルスキーノ氏(息子)を連れて現れる。

音楽は、ぴょろぴょろと軽妙なリズム。
「ろくでなしの息子」と呼ばれるように、
息子は、ぐでんぐでんに酔っぱらっており、
頭髪にゴミが付いた汚い出で立ちである。

「後悔しています」と言って父親に近づくが、
情けないうらぶれた行進曲、葬送曲のような感じ。

「どういうことです」とガウデンツィオ氏が訪ねると、
ブルスキーノ氏(父)は、事の次第を説明し始める。
どうやら、彼は、散々、ソフィアから訴えられていたので、
若者たちの味方をしたようである。

そもそも、彼の息子は、完全に婚約者の資格などなく、
そうするしかないのは、誰の目に見ても明らかであるが。
ヴィト・ゴッピという人が演じているが、
有名なテノール、ティート・ゴッピの親戚筋であろうか。

そして、遂に、宿屋の主人が、なりすまし男は、
フロルヴィッレ上院議員の息子だと説明するに至り、
ガウデンツィオ氏は、「私の敵ではないか」と怒り出す。

が、すでに、二人の結婚を認めていたはずだったので、
「分別のない頑固者め、自分の息子を認めないなんて」
と、先ほど、散々、罵られたブルスキーノ氏(父)が、
今度は、ガウデンツィオ氏に詰め寄る。

「間違いのもとは『愛』なんです」と恋人たちが答えると、
ガウデンツィオ氏も、「許してやろう」としぶしぶ言って、
めでたしめでたしの幕となる。

このように、「ブルスキーノ氏」とは、
とんでもない酔っぱらいの不良息子で、
まったく、劇のタイトルになるような人物ではまったくない、
ということがフィナーレになって分かる。

なお、このLDも最後に、おまけトラックが付いているが、
この上演がなされたシュヴェツィンゲンのお城の紹介から始まり、
結局は、前回、「絹のはしご」で見たのと同じ内容であった。

このオペラでは、ブルスキーノ氏(父)と、
後見人のガウデンツィオ氏の事が、さんざん、
「頑固者」とか「意地っ張り」などと、
いかにも世代間の確執のように揶揄されているのが印象的だった。

また、このロッシーニの「ブルスキーノ氏」というオペラは、
この名前の役柄に出番が少ないということでは、
シューベルトの「フィエラブラス」以上であった。

なお、チェンバロは明記されていないが、
あまり特筆すべき点がなく、これまでのような、
シモーネ・ヤングのような大物ではなかったのかもしれない。

今年はこれから、電力規制によって暑い夏になりそうだが、
ブルスキーノ氏(父)のように、
暑さによって錯乱状態にならないよう注意したいものだ。

得られた事:「シューベルトの『フィエラブラス』と同様、この『ブルスキーノ氏』においても、若者たちと父親世代の隔たりが浮き彫りにされている。」
「『ブルスキーノ氏』自身は、確かに、いかがわしい人物であったが、その父親の方がむしろ主役級で、ひどい目に遭いながらも、最後には親世代の良心を代表する。」
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by franz310 | 2011-06-04 23:47 | ロッシーニ | Comments(0)