excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
全体
シューベルト
音楽
現・近代
古典
オンスロウ
レーガー
ロッシーニ
歌曲
フンメル
どじょうちゃん
未分類
以前の記事
2017年 05月
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2011年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その274

b0083728_1771156.jpg個人的経験:
シューベルトの大オペラ、
「フィエラブラス」の録音は、
アバドが指揮をした、
グラモフォンの全曲CDが高名だが、
これは台詞の部分が省略されており、
不完全な記録と言っても良かった。
この作品、最近はありがたい事に、
舞台を記録したDVDも出ていて、
こちらでは、これら台詞も収録され、
より完全な鑑賞が出来るので助かる。
アバドのCDは2枚で
140分程度の収録時間であったが、
このDVDは、171分と書いてあるから、
30分相当が未聴であった。
全体の2割くらいが欠落していたわけだ。


しかも、このDVDの演奏は、
フランツ・ウェルザー=メスト指揮の
チューリヒ歌劇のオーケストラということで申し分ない。
歌手は、エンマを歌う
ジュルアーネ・バンゼくらいしか知らないが、
なかなか高水準である。

ただし、このDVD、表紙を見ても分かるが、
ちょっと怪しい雰囲気。
目隠しされた女性は跪き、椅子を抱え、
その傍らに、戯画化されたようなシューベルト!

中の配役表を見ると、
シューベルト、ウォルフガング・ビューセルとあるから、
まさしくこの不気味な人物はシューベルトなのである。

舞台上の進行を見ても、このシューベルトさんが、
こしらえた世界ですよ、
という感じで物語が作られていく。

そうであると思わせるもう一つの理由は、
この表紙写真の女性のように、
登場人物が目隠しされて登場することで、
これはいかにも自分の意志で行動しているのではない、
というイメージを漂わせる。

この目隠しが取られた時、
人形たちは命を得る、という感じだ。

また、このオペラの幕のデザインに、
シューベルトの部屋のスケッチが使われていることからも、
この室内でのお話、という感じを強調している。

また、幕が上がると、
舞台の真ん中に見えるのは、
巨大なピアノであって、
これに比較して出て来る人々は小さく、
いかにも、こしらえものという感じが出る。

先の、舞台上のシューベルトは、
登場人物の目隠しを外す役をしたり、
楽譜を手渡すような行動、
あるいは模型の建物並べる行為によって、
このこしらえものの世界に、
命を吹き込むような行動を取る。

また、シューベルト氏は、
ある時は、楽譜を書いてみたり、
指揮の仕草をしたり、音楽にうっとりしたりして、
作曲家の心の動きをいかにも代弁しているかと思えば、
時には、登場人物を励まし、けしかけ、
あるいは、説得したりする狂言回しを演じ、
最後には、演奏に満足して感謝してみせたりして、
劇の進行を補足する大活躍をしている。

時として小間使いのように、
道具の出し入れや、登場人物の導き入れをしたりもする。
休みなく働かされている。

もっと面白いことに、ここに登場する主役級の三人の若者は、
すべて、シューベルトの化身のように描かれており、
眼鏡をかけ、シャツにネクタイ、チョッキ、上着をつけて、
まったくシューベルトと同じ出で立ちとなっている。

ただし、エギンハルトは優男のイケメン、
ローラントはいかつく英雄風、
フィエラブラスはいくぶん野性味あるアウトロー風で、
それぞれ、彼が憧れたであろう別の生き様を象徴している。

出て来る王様は、実に威厳があって、
作者であるシューベルト自身を震え上がらせるが、
彼は、事あるごとに、先頭に立って、
王様たちを説得、懐柔するような振る舞いを見せる。
この様子が、シューベルトのアンヴィバレントな感情、
極度のファザコンぶりを描き出してやまない。

フランク王の登場場面など、
壮絶な迫力で描き出され、
素晴らしい舞台効果を堪能することが出来る。
シューベルトに劇的な才能がなかった、
などと言うのはどこのどいつですか?
という感じさえする。

また、第1幕の終わりでは、
フランク王は、シューベルトを張り倒す仕草をするが、
手をひっこめ、代わりに王冠を外して投げ返し、
いかにも、「茶番に付き合うのもこれまでだ」みたいな表情を見せる。
父親もまた、アンヴィバレントな感情に支配されている。
すっかり、音楽に乗せられ、
そして、時として、それを是としない。

そう言えば、ムーア王ともども、
バスのせいか、ものすごい威厳を感じさせ、
彼等は目隠しなしで自立して登場する。
フランクのカール王は、ポルガー、
ムーア王のボーラントは、グロイスベックという、
歌手が担当している。

もう一つ、エンマを演じるバンゼの髪型が、
カロリーネ・エステルハーツィに、
そっくりだということも補足しておこう。

ちなみに、この人の澄んでよく通る声は、
とても印象的で、メスト指揮の芳醇なオーケストラに、
素晴らしい銀色の光線を投げかけている。

しかし、一方のヒロイン、フロリンダは、
誰かモデルがいるのだろうか。

とにかく、この舞台からは、
度を超したシューベルトおたくの人が、
考え抜いて作り上げた世界である、
ということが見ていて読み取れる。

かなり独りよがりの世界かもしれない。
ほとんど、その領域まで踏み込んだ、
シューベルト狂御用達のヤバい世界を作り上げた人は誰だ。

DVDの背面には、
ディレクテッド・バイ・グートラン・ハルトマンとあるが、
この人であろうか。

ネット検索すると、チューリッヒのオペラハウスのHPに、
写真入りで登場している。長い金髪の眼鏡の女性である。
女性ならではの、細部まで気の利いた演出と言うべきか。

別にシューベルトの専門家というわけではなさそうだ。

あるいは、プロダクション・バイ・クラウス・グースとあるから、
こっちがボスなのだろうか。
彼も、ネット検索すると、一癖も二癖もありそうな、
不敵な面構えが写真で出て来る。

女性的とすれば、
フィエラブラスとローラントの二重唱も、
美化された男性の友情といった風情、
中学生のように無邪気に黒板に、ハートマークを書く。
その部分から、エギンハルトのセレナーデを経て、
エンマの唱和の部分も美しい。

フィエラブラスの失恋のアリアでは、
舞台上のシューベルトの同情もあって、
切実な表現が聴かれる。

エンマ密会の場も、
頼りのシューベルトが、
何故かここでは無力感をあらわにして、
無慈悲な運命による緊迫感を盛り上げている。

こうした、各曲への共感の深さが、
一見、奇抜な演出に、強烈な説得力を与えている。
あるいは、この怪しい演出家たちが、
協力しながら、ますます、深みにはまった演出なのかもしれない。

演出の特異さ、見応えは別にしても、
各歌手の充実した歌唱もさることながら、
鋭敏なオーケストラの柔軟な対応も圧倒的で、
美しい残響の録音によって、
全体的に豊かな情感を醸し出している。

とにかく、まったく飽きさせず、しかも、
耳に心地よく充実した美しい時が流れていく。
このDVDは、シューベルト・フリークの必需品である。

自認する人は、すぐ見るべきだ。

このような、一筋縄でいかない舞台について、
何か補足となる解説はないか、
とブックレットをひっくり返してみても、
それについては何も書いていない。

ただし、2007年に、
リチャード・ローレンスという人が書いた解説があるので、
これを読んで見よう。

「ドイツ初期ロマン派オペラは、ないようなものだ。
聴衆はモーツァルトの『魔笛』(1791)から、
ヴァーグナーの『さまよえるオランダ人』(1843)まで、
ベートーヴェンの『フィデリオ』(1814)
との間で作曲されたものは、
時折演奏されるウェーバーの『魔弾の射手』(1821)以外、
何も見たことがないに等しい。
今日の歌劇場を考える限り、
1810年から1840年までのオペラと言えば、
ロッシーニ、ドニゼッティ、そしてベッリーニなど、
イタリアのものを意味する。
これには訳がある。
しかし、音楽愛好家の中には、
器楽曲や歌曲で高名なドイツ、オーストリアの作曲家たちが、
オペラの分野でも活発に活動していたと知って、
驚く人も居るかもしれない。
ウェーバーと同様、シュポアしかり、メンデルスゾーンしかり、
シューマンしかりであった。
しかし、最も有名で悲しい例はフランツ・シューベルトであった。
シューベルトは14歳の時に、最初のオペラ体験をした。
翌年、彼は『魔笛』を見ているし、
1814年には『フィデリオ』最終版の初演の場にいた。
シューベルトは師サリエーリのオペラ、
また、サリエーリの師、グルックのオペラを勉強していたし、
『フィガロ』や『ドン・ジョヴァンニ』も見ていたはずである。
つまり、彼は徹底的にオペラの世界に親しみ、
惹き付けられていたのである。
シューベルトのオペラ作曲に関しては、
最初の努力が1812年頃から始まり、
それから1820までの間に、10曲以上を書いている。
いくつかは完成されることなく、
その他のものは、一部しか現存していない。
ほとんどが、レティタティーボではなく、
語られる対話を含むジングシュピールであった。」

という具合に、まず、シューベルトが、
いかにオペラを作曲するべき存在であったかが書かれている。

が、以下、いかにそれがかなえられなかったか、
といういつもの解説となる。

「唯一、生前、舞台にかけられたのは、
一幕のジングシュピール『双子の兄弟』で、
1820年の初夏、6回の公演が行われた。
これは、シューベルトの歌曲をレパートリーとし、
ずっと親しい友人であり続けた歌手、
ミヒャエル・フォーグルの働きかけによって、
帝室歌劇場のケルントナートーア劇場によって
委託されたものであった。
しかし、この点に関して、フォーグルは、
シューベルトを失望させた。
イタリア人興行師、ドメニコ・バルバーヤが、
1821年にケルントナートーア劇場の監督に任命されるや、
シューベルトとウェーバーにドイツ・オペラの委託をした。
シューベルトは、友人のショーバーが台本を書いた、
『アルフォンソとエストレッラ』を提出した。
しかし、登場人物、フロイラ役に想定されていたフォーグルは、
この作品に共感できず、作曲家にもそう伝えた。
彼の不適切な意見が劇場関係者からの、
拒絶にもつながった可能性がある。」

このように、フォーグルの功罪、
諸刃の剣としてフォーグルが描かれる。

「しかし、歌劇場からの要求は続き、
1823年には、リブレット作者として、
友人、レオポルド・クーペルウィーザーの兄、
ヨーゼフを頼った。
彼は経験が豊かなわけではなかったが、
ケルントナートーア劇場のマネージャーであったので、
何が求められているかを知っていたことだろう。
シューベルトは、5月25日から6月5日の間に、
最初の二幕に取りかかり、
第3幕と序曲の作曲と、おそらくオーケストレーションは、
6月7日から10月2日に行った。
(この夏の間、彼は、前年感染した梅毒の再発と思われる、
深刻な病状にあった。)
しかし、状況は好ましくなかった。
バルバーヤは二股をかけていた。
ナポリの王室歌劇場のマネージャーとして、
ロッシーニと6ヶ月の契約を結び、
ヴィーンに着任するや、
1822年4月から7月までのシーズンを、
ロッシーニが監督するように計らった。
ヴィーンにはロッシーニ・ブームが吹き荒れ、
次の二年は、さらに長いイタリア・シーズンが開催された。
1823年10月に初演された、
ウェーバーの『オイリュアンテ』は、
(シューベルトの言葉で言えば、『当然』、)大失敗に終わり、
クーペルウィーザーはマネージャーを辞任した。
シューベルトの『フィエラブラス』への支払いもなく、
忘却の淵に沈んだ。」

このように、お決まりのバルバーヤ問題である。
以下は、この物語そのものの来歴について。

「そのヴィーン初演は1988年の5月まで待たねばならなかった。
『フィエラブラス』は、『オイリュアンテ』同様、
『英雄的ロマン派オペラ』で、
騎士道と豪気の中世理想郷の物語である。
もともとの由来には二つの要素がある。
ロランがピレネーのロンセスヴァレスで倒れた、
サラセンとシャルルマーニュの空想上の戦いを描いた、
叙事詩『ロランの歌』と、
ロングフェローが『ウェイサイド・イン物語』で讃えた、
『エンマとエギンハルト』の恋愛伝説である。
クーペルウィーザーの版では、
エンマを愛しながら報われず、
ムーアの王ボーラントの息子、フィエラブラスがいて、
気高くも、エギンハルトよりも彼女の誘惑者であったと、
ボーラントに思わせておく。
もう一つの興味深い愛は、
有名なロランとボーラントの娘、フロリンダとのものである。
(似た名前が出て来ても、
パーセル/ドライデンの『アーサー王』の、
オズワルトとオズモンド同様、
プロットを追うものには、何の助けにもならない。)」

以下は、音楽の特徴である。
短いが比較的バランスのとれた良い解説である。

「『アルフォンソとエストレッラ』は通作形式で書かれていたが、
『フィエラブラス』で、シューベルトとクーペルウィーザーは、
語られる対話を復活させている。
音楽と台詞のバランスは、
必ずしも十分に考えられていないが、
スコアを特に興味深いものにしているのは、
台詞を伴奏したり、台詞に合いの手を入れたりする
オーケストラ音楽、つまり、
ドイツで『メロドラマ』と呼ばれるものの利用である。
最も有名な例は、『フィデリオ』の地下牢のシーン、
『魔弾の射手』における狼谷のシーンである。
シューベルトは考えられうる最高の技術を注ぎ込んでいる。
例えば、第2幕の最後で、舞台外で試みられる逃亡に対し、
ヒステリックにコメントを語る部分で、
オーケストラは、フィナーレですでに出ていたテーマを繰り返す。」

このように、アインシュタイン以来、問題視されていた、
メロドラマが重要であることをあえて指摘。
さらに、素晴らしい音楽が満載であることが説明されている。

「最良の音楽を受け持つのは、まさしく、このフロリンダである。
同じ幕で、彼女はローラントに対する憧れを表明するが、
音楽の甘美さは、連れのマラゴンドの不吉な予感を覆い隠す。
それに対照をなす、アレグロ・フリオーソと指示された、
嵐のようなアリアでは、恋人を救出する誓いを歌う。
この爆発に、聖歌のような、
キリスト教の騎士たちの無伴奏合唱が続くが、
このオープニングはすでに序曲の序奏で聴かれたものだ。
おおかたの見方では、シューベルトは、
歌曲においては、例えば『魔王』のように、
劇的な状況を描くことが出来たが、
彼の叙情的な資質は、舞台における劇的要求には、
それほど向いていなかった。
この見方は正しいが、しかし、再度、パーセルを思い出すと、
かくも偉大な音楽を忘れ去ることは、大きな損失である。
最も喜ばしいナンバーの一つに、
第1幕フィナーレの最初のデュエットがある。
リュートを模した弦楽のピッチカートに、
エギンハルトは、差し迫ったエンマとの別れを嘆くが、
彼女の答えは彼の嘆きを長調に変容させる。
これは大変、緊迫した状況で、
恐らくシューベルトが胸に止めていた、
『フィガロ』の中の伯爵とスザンナのデュエットの回想である。
そこでもそうだが、とりわけかわいそうなフィエラブラスには、
やっかいな問題は続く。
最後に、二つのカップルは再び結ばれるが、
彼は栄光の道を断念し、その埋め合わせのアリアすらない。
ハイドンの『天地創造』のように、
戦争をしていた二国の和議を祝うのにふさわしく、
シューベルトのフィナーレはすさまじい。
これは、この欠点もあるが魅力的な作品を、
堂々を締めくくっている。」

この解説は、このように、ほとんど激賞の内容であるが、
ただ、シューベルトおたくには、最後の最後で、
画竜点睛を欠いた。
「欠点もあるが」が不必要な一節であった。

さて、ここにも、たくさんの聞き所が列挙されているが、
井形ちづるの「シューベルトのオペラ」では、
以下のような部分が、聞き所とされている。

第1幕、フランク王の前にフィエラブラスが突き出される所、
エギンハルトとエンマの密会以降のフィナーレ。

ドラマティックなのは、
ローラントがフィエラブラスについて、
説明する語りの部分であるとある。

DVDでは、この部分、シューベルトが、
フィエラブラスを連れ出し、帽子をかぶせたり、
縄をかけたりして、いかにも、
作曲家が妄想で作った世界が展開されているような演出。

「たたったたーたた、たたったたーたた」と奏される、
フィエラブラスの主題が出る。

また、戦いの激しさを示す、
激しく速いパッセージの部分も特筆されているが、
DVDでは、フィエラブラスが、その様子を描写するように、
剣を振り回すような演技をしているのが面白い。
というか分かりやすい。

エンマが現れ、フィエラブラスが、
恋しい姿を見付けるシーンも、
あえて音楽にしなかった驚きの効果として、
特筆されている。

ここで、エンマは勝利の月桂冠を、
父王やローラントに渡すが、
それを用意するのも、
このDVDでは小間使いとしてのシューベルトである。

彼女が月桂冠を渡したいのは、
エギンハルトであるが、彼には、
まだ、その資格はない。
その情けなさを表す演出も心憎い。

あと、フィナーレ全般も聞き所とされているが、
このDVDでは、フィエラブラスは、
シューベルトにつかみかかり、
シューベルトは倒れてしまう。

コピー人形のようにシューベルトに成り代わって、
自制の歌を歌っているような感じになる。

この後、追っ手がエンマを捜索に乗り出して来るが、
この部分の息詰まるライティングも、
今回のDVDの見所の一つである。
オーケストラの表情も実に豊かで、
最高級の音楽がぎっしり詰まっている感じがする。

また、「実に素晴らしい」とされているのが、
エンマ、フィエラブラス、王様の三重唱である。

第2幕、「シューベルトのオペラ」では、
メロドラマの用法が聞き所とされる。

さらに、「何と美しいことか」と書かれているのが、
マラゴントとフロリンダの二重唱であるが、
ここは、二重唱のみならず、助奏の美しさ、
木管楽器の使い方、声との掛け合いが繊細だ。

DVDでも美しすぎるのか、
舞台上のシューベルトも落ち着きがない。

二幕以降は、ここにもあったように、
フロリンダが主役に交代する感じであるが、
かっぷくは良いが、美しいトワイラ・ロビンソンの、
いくぶん陰りのある声が大役を果たしている。

もっとも面白い演出として、
怒り狂ったムーア王が、
次々に楽譜を破りながら歌う第10曲の五重唱を上げておこう。

また、全曲の中央に第11曲、
ムーア人とフランク人の平和の合唱が、
置かれていることを特筆している。
このDVDでは、舞台上のシューベルトも満足したのか、
椅子に座って聴き入っている。
ローラントとフロリンダがお互いの姿を認め、
熱い視線を交わし合う。

この後の第12曲も、緊張感の高まり、
シンフォニックな構築性、
フロリンダの壮絶なアリアまで、激賞の展覧会である。
DVDでは、ここで、
ローラントとフロリンダは激しく接吻を交わす演出。
フロリンダの父親の面前なので、
大胆極まりない行為である。

シューベルトは、意味深な台詞を吐いている。
「父よ、あなたはそれを望まれた。
私はそれを受け入れよう。」

フランクの騎士たちの牢獄入りは、
シューベルトが、父親から見放された事実と、
重ね合わされているわけだ。

この演出では、アバド盤CDの解説のごとく、
若者たちと王様たちとの確執がクローズアップされ、
シューベルトと父親との関係が投影されたようになっている。

フロリンダのアリアでは、
舞台上のシューベルトがフロリンダに演技指導を行い、
シリアスさが損なわれている。

井形ちづるは、さらに、
牢屋の騎士たちの無伴奏合唱も効果的であると書き、
トランペットの効果的な利用による緊張感の盛り上げ、
フィナーレについて、
「シューベルトの描写力は圧巻と言わざるを得ない」
と書いているが、
私には、これは同時に極めてユニークな劇音楽に聞こえる。
このあたりの緊迫感は、このDVDでも存分に味わえるが、
舞台上のシューベルトが武器を用意するなど、
原作が願ったリアリズムは、変化球勝負である。

が、ロビンソンのフロリンダによる、
モノローグのメロドラマは、渾身の演技。

第3幕、ここは、めまぐるしく場面が転換される。
まずは、エンマの場面、そしてフロリンダの場面、
最後に、これらが大団円を迎える場面である。

エンマとカール王の二重唱のフーガ風に重なるところ、
切迫感を表して素晴らしいとされているが、
DVDは、薄暗い中をうろうろと動き回る、
影を生かした演出になっている。

エギンハルトが戻って来て、
フィエラブラスと共に出陣するが、
ここで、エンマを交えての三重唱は、
このDVDでは、幕が下りて、
その前で3人の主役級のみが歌う。

エギンハルトとエンマは目隠しをして、
フィエラブラスは剣を振り回しているという、
奇妙な演出である。
運命に従うということであろうか。

第2場はフロリンダの場面に戻るが、
DVDでは、彼女は鳩を持って歌っている。
これは何を意味するのであろうか。

不気味なムーア人たちの行進曲が響くが、
シューベルトが、巨大なピアノの上に乗って、
ローラント処刑の前触れを状況報告する演出になっている。
この後の部分も、「シューベルトのオペラ」では、
「彼らの動きを目前に見るようだ」と書いて特筆されている。

しかし、実際には、場面転換が急激すぎて、
演出が難しいと見え、DVDでも、かなり苦労の跡が見られる。
例えば、騎士たちが塔から駆け下りるシーンは静止させ、
そこに、ムーア人たちが来るような苦肉の策。

また、ローラントがムーア王に斬りかかるシーンも、
スローモーションのような演出で、
何とかドラマ上の難所の穴埋めをしている。

最後の大団円では、舞台上のシューベルトが、
ひとりひとりに楽譜を渡して歩き、
いかにも、シューベルトひとりで考えた妄想でした、
という感じの演出になっている。

フィエラブラスは、歌う部分が少ないことを不満げに振る舞う。
また、父親との和解を喜ぶように、
フランク王、そして、ムーアの王様に、
シューベルトは、抱きつき、また、跪く。

演奏も素晴らしく、終曲の盛り上がりは壮大だが、
結局、シューベルトのこしらえた空想の産物でした、
という感じが強調された演出で、
さらに正攻法のスペクタクル・ドラマへの試行を
期待したいところである。

とはいえ、それはかなりの困難を伴うだろう。
最後に向かっての音楽が、
確かに急ぎ足にすぎるせいか、
井形ちづるも、手をこまねいている感じがする。

ただ、結論として、
「舞台作品として可能な表現手段を駆使した
スケールの大きいオペラである」と書いており、
「シューベルトは自分の持てる全てを注ぎ込んで作曲した」
と続けているが、これには大いに共感できる。

得られた事:「シューベルトの大オペラ『フィエラブラス』、美しすぎる。」
[PR]
by franz310 | 2011-04-30 17:14 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その273

b0083728_13153597.jpg個人的経験:
1988年と言えば、
えらく昔になってしまったが、
その5月にアバドの録音したのが、
シューベルトの大作、
「フィエラブラス」。
私は20年以上、
ろくに聞き込みもせず、
保管していた感じである。
が、ここに来て、ようやく、
1幕ごとに聴き進んできた。


この前、第2幕のフィナーレまで聴いて、
壮絶なメロドラマ部を味わった。
メロドラマとは、
オーケストラの伴奏を背景に、
緊迫した台詞が語られる部分である。

確かに、昼メロとか呼ばれるものも、
効果的な音楽を背景に、
深刻な男女が語り合えば、
同じ構図であることに間違いはない。

ただし、シューベルトが活用した音楽の効果は壮絶なもので、
呑気に歌が歌われるオペラよりも、あるいは、
緊迫感の点ではるかに上を行くもののように思えて来た。

それにしても、
メロディに乗って歌うことには慣れていても、
非常に充実した音楽を背景に、
切迫した語りを間髪入れずに発するのには、
歌手は慣れていないのではないか、
などと心配になった程、高度な絡み合いを見せる。

さて、ここに掲げたのは解説書裏表紙の写真であるが、
この人たちは、いったい何をしているのだろうか。
上手い具合に、これが、今回聴く、
第3幕から取られたものであるらしい。

第3幕、第22曲より、と書かれている。

若者たちが奇妙な恰好で静止しているような写真であるが、
まず、白い衣装のと青い衣装のが入り交じっているのが気になる。

活劇を演じているというより、パントマイムのように見える。

ややこしい事に、青いのは手にカラスのような鳥を止まらせており、
白いのは、手にシュロの葉っぱのようなものを持っている。

悩みの種は尽きない。
これまで見てきた通り、
フランク王国とムーア人の戦いを描いた作品なので、
戦闘場面と思われるが、
戦闘というより、ダンスしているようにしか見えない。
武器もなく、足下が室内の床に見えるからである。

この第22曲とは、第23曲がフィナーレなので、
最後の前の音楽である。

フィナーレでは、すでにフランク軍は、
敵のムーア人を打ち破っているので、
ここは、かなり緊迫したシーンのはずである。
無言劇を演じている場合ではない。

CD2のTrack17に相当するが、
このトラックは合唱と重唱からなる。

合唱は、いかにもムーア人の音楽で、
どんちゃんと打楽器が打ち鳴らされて、
「ここでは誰も逆らえない」と単調な声が響く。

この写真のような動きがあるとすれば、
戦闘中だった騎士たちが投降して来たのを、
ムーア軍が取り囲むこのシーンだろうか。

この後の重唱部は、もっと流動的な音楽で、
こうした無言劇はふさわしくなさそうだ。
ここでの主役は、ムーアの君主と、
その前に許しを乞う、その娘フロリンダである。

では、ここで、私が散々、けなしてきた、
このCDの解説を利用して、これまでの流れを復習してみよう。

ジークリット・ネーフという人が書いたものを、
石多正男という人が訳している。

「物語」として、書かれた部分にあらすじがある。
それとは別に、彼は、
「シューベルトの『秘められた世界』-その音楽-」
として、音楽の特徴を書いているので、
そこで書かれた事を付記して再構成してみよう。

彼は、まず、序曲の序奏で出て来るのが、
第2幕で、囚われた騎士たちが、
絶望的な状況を歌う部分(第14曲)だという。
この歌詞は、「愛しい祖国よ、お前の息子たちは遠く離れてしまった」
という内容なので、導入部分からして、
若者の孤独、疎外感、「どうにも変えることのできない状況」が、
このオペラ全体の「銘文」となっているというのである。

序奏が終わって序曲そのものもまた、
「個人の内面」と「公」が対立する音楽だという。
展開部のオーボエの旋律が「希望の光のように舞い上がり、
上の二つの要素を繋ぎ合わせている」と、
かなり踏み込んだ分析を行っている。

このような分析は、非常に参考になるが、
時折、顔を出す、事大主義に面食らうことがある。
この序曲も、ほんとうにシューベルトは、
そこまで考えたのだろうか。

第1幕は、以下の三つの場面からなった。
1.「王城の女たちの一室」
この解説のへんてこなニュアンスは、
ここからして存分に味わえる。

「異教徒との戦争の時代である。」
これは確かにそうだろう。

「男たちは戦いに出ている。」
これも設定ではそうなっている。

「女たちの歌には希望がない。」
ここは、そんな事はない。
女たちの合唱は、最初は晴れやかな内容で、
シューベルトの音楽も晴朗である。

途中、エンマは、縁起でもない歌を歌うが、
エギンハルトとの身分違いの恋を悩んでいるのである。

この後、エギンハルトが現れ、王の凱旋を報告するし、
くよくよするのは、自分の恋の事。
「女たちの歌には希望がない」という状況ではないと思う。

ここに例示したような、もったいぶった、
観念的な話をするのが好きな解説者で、
音楽の内容を正しく伝える書きぶりではない。

実は、この冒頭の女性合唱なども、
この解説者は、この作品の特徴として特筆している。
シューベルトは、このようなシーンでは、
必ず、揺れるようなシチリアーノのリズムとし、
内輪の子守歌にふさわしいとしている。

「彼女たちは歌う。どんな思いか?
この女たちの存在価値は待つことである」と、
まるで、日本文学の古典の解説を読んでいるような感じ。

希望を表す言葉が、
次第に隠れていた不安を表す言葉に変わっていく点を、
どうやら、この解説者は特筆しているのである。

また、エギンハルトについては、
「彼の楽器はクラリネットである」という書き方をして、
その優柔不断な性格を序奏しているのを特筆している。

「クラリネットが揺れる大地の上で愛し合うふたりが
出会えるよう橋を架けてくれるのである」
という表現も、何となく座り心地が悪い。

ちなみに、解説者は、この後、
フロリンダにもクラリネットが使われていることを認めており、
単に、シューベルトは、恋い焦がれる楽器として、
クラリネットを使っているようにも思える。

2.「城中の祝祭用の豪華な広間」
ここは、王の凱旋と、
捕虜、フィエラブラスに自由が与えられるシーンである。

ここで現れる行進曲なども、この解説者の恰好の餌食になる。
これらは「公の儀式」、「事件の進行」であり、
「情け容赦ない厳格なもの」を表している、という。

が、こうした要素は、オペラの中では、
よく見られるようで、
例えば、ここで以前聴いた、
ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」や、
ベッリーニの「ノルマ」なども、
巨大な「公」の力によって、個人的な感情が、
押しつぶされて行く物語ではなかったか。

そして、主人公たちは「狂乱の場」へと突き進むのである。

さらに、この解説者は、
フランクの騎士たちがカール王に
ムーア人捕虜の釈放を要求する時など、
慈悲の調性として、「ヘ長調」が使われている、
として、調性の役割も特筆している。

また、「故郷へは帰せないが、国の中では自由にして良い」
という、カール王の言葉は、
「魔笛」のザラストロがパミーノに語る、
「愛は強要できないが自由を与えることも出来ぬ」を、
シューベルトは想起しているとある。

さて、この場面、
フィエラブラスは、エンマが昔、
見初めた女性であると気づく。

解説者は、このあたりを説明し、難しいことを書く。
「ムーア人フィエラブラスが王の娘に視線を向けた時に
時間の流れがさまざまに分かれ始める。
ここでは一つの『視線』が音楽を変えるのである。」

豊かな広がりの穏やかな合唱曲が、
一段落したところで、「はっ」という、
フィエラブラスの声が響く。

ここでローラントと一悶着あった後、
合唱が始まる。
「恐ろしい戦いの後に平安が帰って来た」と歌う。

「音楽もアンダンティーノからアレグレットへ変わり、
新しい状況を描き出す。
一方でカールとその部下たちは『平和の幸せ』を歌いながら、
清澄さと悟性の支配する山頂へ高く登っていくが、
他方で、エンマ、エギンハルト、フィエラブラス、
ローラントは最も暗く、感情に支配される谷底に落ちていく。」
という文学的表現はいかがであろう。

「勇ましいアレグレットのテンポはなんどもアンダンテで中断される。
将来を思って息を詰まらせると、ここでは音楽も力を亡くしてしまう。」
と続くのも変な感じ。

確かに、このCD1のTrack6は、さまざまなことが、
同時にいろいろなことが起こって錯綜している。
音楽的にかなり実験的な処理を見せている。

「そして、もしトランペットが恐怖の夜が明けることを告げなかったら、
音楽は終わってしまうことになっただろう。」
という表現も大げさであるが、
この混沌を救っているのは確か。

このように、トランペットの役割も、この解説者は特筆している。
「トランペットは物語の区切りを付ける特殊な、
内容上重要な役割を演じている。」

このあたりの行進曲調も、
この解説者に言わせれば、「情け容赦ない時間の流れ」である。

さて、フィエラブラスたちに話を戻すと、
イタリアで異性を見初めたのは、
フィエラブラスと戦った勇士ローラントも同じなので、
ローラントとフィエラブラスは仲間になって、
威勢の良い歌を歌う。

解説者によると、この歌はイ長調で、希望を表す調だとある。

しかし、こんな書かれ方では、何だか、
うんざりしてしまうのは私だけであろうか。
「互いに敵対関係にあったふたりの友が、
イ長調によって底知れぬ絶望の深い谷から救われる」。

3.「城内の庭と明るく灯が点された建物、夜」
エギンハルトとエンマの逢瀬のシーンで、
ここでの二重唱を賞賛する人は多い。

この後、オペラのタイトルである、
フィエラブラスの唯一のアリアが歌われる。
エンマへの敵わぬ思いを歌う「諦めの歌」である。

フィエラブラスは、この時、
間違えて、エンマ誘惑の犯人として捕らえられる。
「エギンハルトは臆して真実を言うことが出来ず、
気が咎めながらも騎士の使者たちの一行に加わる。」

「華やかな騎士たちの出発に不安と苦痛が重なり、
それがエンマ、エギンハルト、フィエラブラス、
王を苦しめる」という締めくくりの解説が、
ちょっと分かりにくい。

何故なら、騎士たちの合唱は威勢が良く、
そこに勝手に不安を重ねているのは、
エンマ、エギンハルトのバカップルであって、
自己犠牲のフィエラブラスの苦しみは、
騎士の出発とは、別のものだからである。

解説者も、
「エギンハルトと対称的な人物としてのフィエラブラスに、
シューベルトはハ短調の大きなアリアを書いた」としている。
「このアリアは器楽の前奏で始まるが、
これは交響曲の導入部のようである」とあるが、
残念ながら、このCD、
この部分にはトラックが打たれていないので、
前のエギンハルトとエンマのデュエットから聴かなければならない。

交響曲かどうかは分からないが、
雄弁な管弦楽序奏であることは確かだ。
シューベルトは全力を投入している。

解説者の言い分は、
「ここでは言葉は聞こえてこない。
どんな叫び声も外には届かない。
橋はすべて破壊され、苦しみは心の中に投影される。」
と難解だが、
確かに、こんな風に強調したくなる気持ちも分からないではない。

「フィエラブラスは自らの望みを捨てる、
エンマを愛するどんな希望も。」
という部分はOKだ。

しかし、
「意志が、野生が、力が強くなればなるほど
-Fierrabrasという名前をよく考える必要がある-、
彼が自分自身に向けなければならない力も強くなる。
なぜなら、ここでは彼は
彼自身の人間性と戦わなければならないからである。」
と書かれると、頭を抱えたくなってしまう。

なお、この前に解説では、フィエラブラスは、
「野性的な力を持った男」として紹介されている。

このアリアに対する思いは強いらしく、
解説者は、さらに、彼の矛盾する二つの側面を持つアリアとし、
「希望はあるのか」、「いや、ないのだ」の繰り返しだとする。

そして、アリアを歌っているうちに、
エンマから離れようと思うが、
会いたいという気持ちが、予期しない展開になると書く。
これも、この解説者は「予感」と書くのであろうか。

「予感」と書くと、妙にかっこいいが、
むしろ、「先案じ」のオペラというレベルにしておいた方が、
素直に楽しめるのではないか。

彼は主人公であるが、負けるし、振られるし、
罰せられるし、英雄ではないが、
「シューベルト的英雄の典型」であると力説している。
私は、基本的にこの解釈には大賛成である。

しかし、次の「すなわち」で、混乱させられる。
「すなわち、彼は友人たちと親しく交際するのである。」

この曲を知る前に、この解説を読むと、
何のことかはよく分からないが、
今読み返すと、これは、
「すなわち、彼はこうした自己犠牲をおくびにも出さず、
友人たちとの関係を平常に維持する力を持っているのである」
と書き換えたなら、すっと心に落ちるのである。

「彼の偉大な点は失敗の中に、諦めの中に、
友人を大切にすることの中にある。」
「冬の旅」の不幸な仲間だと言う。

が、「彼の音楽の優れた点である。
彼は与えられた各声部の綾の中に自分の声を入れている。
彼はいろいろな重唱で登場しているのである。」
と書かれていて、
彼って誰?シューベルト?フィエラブラス?
となってしまう。

これも、単に、「フィエラブラスには、
この後、アリアはないが、さまざまな友人たちとの重唱の場で、
調和した声を聴かせている」と解釈すれば良いのであろう。

第2幕もまた、以下の3つの場面からなる。

1.「フランス国境を越えた平原」
「エギンハルトは死を望み、
ローラントはフロリンダとの再会を期待する」。

エギンハルトはぐずぐずして敵の手に落ちる。
「誰もいないところにひとり残されたエギンハルトは、
フィエラブラスを裏切ったことを認めるか、
または死ぬことを決心する」と書かれた解説が奇妙である。

フィエラブラスの父親に、
自分が彼を裏切ったことを認め、
代償に、死んでも良いと思うようになった、
というのが正しいと思うのだが。

2.「アグリモーレのムーア人君主ボーラントの城内の一室」
「ムーア人君主の娘フロリンダは愛するローラントを捜すため
父親、祖国、伝統と縁を切ろうとしている」、
とあるが、いささか針小棒大で、
実際は、フロリンダは、ローラントの憧れを歌っているだけである。
侍女が、それはお父様を裏切ることになります、
というのを、それでもいいわ、と言っているだけ。

この部分のデュエットもまことに美しい。

ことさらに、祖国に還元しようとするこの解説では、
恋人たちの素朴な思いを正しく捉えることが出来ない。
というか、シューベルトのこの作品を曲解しているようにも思える。

先に、フロリンダの楽器として、
クラリネットが特筆されていたが、
さらに、この解説者は、
「この二重唱はほんとうは三重唱である」などと、
意味深の書き方でクラリネットの重要さを強調している。
「恋しいローラントの『あの愛らしい優しいお姿』を
独奏楽器が擬人化している。」

ここまでは良いとしても、
「これはやがてクラリネットの独奏があって、
ローラントを捜すフロリンダが
マラゴンドよりも先に歌い出すところまで続く」
という文章が続いており、混乱に輪をかける。

このような状況下、エギンハルトが連れられてきて、
罪を告白し、王様は怒り狂う。
ここで、フランクの騎士たちが現れ、
フィエラブラスは信仰を受け入れた、
などと言うので、さらに王様の怒りは頂点に達する。
騎士たちは捕らえられてしまう。

フロリンダとローラントは、
イタリアで見初めた相手を認め合う。
フロリンダは半狂乱となってアリアを歌う。

このアリアなども、シューベルトの歌曲などとは、
まったく異なり、舞台での効果満点と思われるものだ。

解説者は、「これは身の破滅を幻想するアリア」と書いており、
これで終わればよいのだが、
「この幻想を砕き落とすために、
理念、思想、考えを集めて高く構築している」
と続けて書いていて、私を絶望的な気持ちにさせる。

歌詞の内容は、
「復讐の女神のように荒れ狂い
恐怖と死を振りまいてやる!」という、
ぞっとするようなものだが、
「狂乱の場」として、いささか類型的な内容ではある。

解説は長く、「言葉が舞い上げられ、
頂点に達すると、やがてすばやく落ちる」と書き、
「導入部分でオーケストラが激しく上方へ盛り上がるかと思えば、
ダムが堰を切ったように、突然押さえられ凝縮したエネルギーが爆発し、
すべてを諸共に破壊してしまう」などと、
そのすさまじさをこれでもかと強調している。

さらに、同じ和音の連続、ヴァイオリンの震え、バス音型なども、
緊張感を作り上げているとある。

3.「堅牢な塔の中の一室」
騎士たちはここに捕らえられており、
フロリンダが助けに来る。

解説者は、「フロリンダが光と剣の天使として、
塔の中に侵入してくる」と格好良く表現している。

騎士たちは希望を取り戻すが、
「半ば命を失った男たちが立ち上がり、
チェロが深い底から花を咲かせる」
という表現が解説になされている。

騎士たちは脱出を試みるが、
何故か、エギンハルトとローラント以外は、
再度、ここに戻って来る。

フロリンダは、ローラントの戦いの様子を、
半狂乱になって報告する。

ここでの解説は、
「他の騎士たちは絶望的な気持ちで塔に戻るが、
そこには失神したフロリンダがいる」と、
締めくくっているが、変な書き方である。

正しくは、騎士たちが失敗して戻って来ると、
フロリンダは、ローラントも捕まったことを目撃し、
失神してしまう、である。

この部分は奇妙なことが満載である。
武器がどこからともなく出て来たり、
塔の中には、誰も追っ手が来ないことなど。

さて、このようにおさらいが出来たので、
今回は、前回聴けなかった第3幕について見ていこう。

第3幕は、以下の3つの部分からなる。

1.「王城の一室」
Track1.合唱
ここは、再び、フランク側の話である。
エンマや女たちは、
「輝かしい将来が新しい命の花を咲かせます」などと、
歌いながら花を編んでいる。
美しい牧歌的な歌による楽しい始まりである。

Track13、四重唱とシーン。
フィエラブラスが無実であることを知った王と、
慈悲を求めるエンマの歌であるが、
エンマの粘着質のメロディが、素晴らしい効果を上げている。

ここでも、解説の以下のような表現が、
私に抵抗を感じさせてきた。

「使者たちが裏切られたことを知ったカール王は
彼女の想いに気づき、娘を強く問いただす。」

しかし、実際のところ、王は単に、
使者たちが帰って来ないのを心配しているのみ。
この後、エギンハルトが逃げて来て、
ようやく状況を知るのである。
フィエラブラスとエギンハルトが加わった四重唱である。

「自らの罪を自身の口から告白するには遅すぎたが、
フランク軍をムーア人のもとへ進行させるには間に合う」
と警句のように書かれた解説も、
読者に分かりやすく説明するのを放棄している。

ここで、エギンハルトは、軍勢を預かり、
反撃を提案する。
音楽もまことに勇ましく、劇的で、
円熟期のシューベルトの力量を開陳している。

Track14.第20曲、三重唱。
ここで、急に、朗らかな曲調になる点で、
終曲までの盛り上がりが阻止されているが、
フィエラブラスの戦いへの意志とは裏腹に、
エギンハルトとエンマの歌は妙にくよくよ調である。
このコントラストは、しかし、非常に美しい。

2.「塔の内部」
騎士たちが、唯一の望みを、
エギンハルトに賭けているシーン。

Track15.第21曲A、アリアと合唱。
解説者は、ここでのフロリンダの第2アリアを、
「全曲の特徴である恐怖の『予感』を示す」もの
として特筆している。
フルートの助奏も非常に効果的で、しっとりした美しさを持つ。

フロリンダはローラントの死を予感してしまうと、
実際にそれが火刑台に向かうシーンになる、
と特筆しているが、捕まったのは分かっているので、
最悪のことを考えるのは愛するものの常である。

解説者は、「この個所ではシューベルトは天才的に
原因とその結果を逆にした。
恐怖の幻想が現実を動かしてしまうのである」などと書かれると、
このおっさん、大丈夫か?と思ってしまう。

合唱が美しく、フロリンダを勇気付ける。
しかし、最後に演奏されるオーケストラの音楽の、
運命の悩ましさを表すような精妙な暗い色調はいかがであろうか。

Track16.第21曲B、葬送行進曲。
不気味な行進曲に乗って、
緊迫したメロドラマのシーンである。
このように、ローラントは捕まったので、
火刑台に連行されようとしている。
フロリンダは絶叫した後、自分の命を差し出すアリアを歌う。
そして、抵抗をやめて、命を父に委ねる。

Track17.第22曲、合唱と重唱。
この部分が、今回、提示した写真の部分。
ムーアの王の登場と、群衆のどよめきの合唱。
そして、急転直下のフロリンダと君主との二重唱。
メロディも美しく、オーケストラは雄弁、緊張感も最高だ。
まるで、ショスタコーヴィチのような通奏低音が不気味である。
シューベルトの劇的才能のどこに問題があると言うのだろう。

しかし、カラスやシュロの葉は何だったのだろうか。

3.「塔の前の広場」
Track18.第23曲、フィナーレ。
フランクの騎士たちの処刑直前に、
勇壮なトランペットと共に、なだれ込むフランク軍。
なおかつ、解放されたローラントなどは君主に刃を突きつける。

勝負は一瞬で決せられ、それぞれの言葉が重唱となり、
いきなり大団円の合唱へと広がっていく。

解説の最後も、持って回った言い方が、
ずっと、私の脳みそを苦しめて来た。

「愛する者たち、
エギンハルトとエンマ、
ローラントとフロリンダを戦争が結びつけた。
・・・フィエラブラスはひとりのままである。」

「誠実な心が幸せを運んできた」という言葉が、
主人公たちに歌われて、これがオペラの結論となる。
非常に晴れやかな効果的な終曲で、
合唱の中、女声が鮮やかな輝きを見せ、
オーケストラが雄渾な楽想を歌い上げて、
シューベルトにとっても最高級の終曲の盛り上げを行っている。

このCDの最後の拍手に参加したいくらいである。

得られた事:「アバド盤の『フィエラブラス』の解説は、聴く前に読んではならないが、聞き込んだ後でなら、よくぞここまで書いたという感じもする。」
[PR]
by franz310 | 2011-04-24 13:15 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その272

b0083728_2235978.jpg個人的経験:
シューベルトが完成させた、
最後の大オペラ「フィエラブラス」を、
復活させたとされるアバドによるCD、
「FIERRABRAS」と、
飾り文字で書いた部分は、
やたら気合いが入っている。
解説書の表紙写真は、硝煙立ち込め、
若者たちが累々と横たわり、
一人だけが悲痛な叫びを上げているが、
いったい、何が起こったのだ?


前回、CD1に相当する第1幕を聴いたが、
この部分は、こんな凄惨なシーンはなく、
大して複雑なものではなかった。

カップルはエンマとエギンハルトである。
ただし、一方が国王の娘であるのに対し、
一方は貧乏貴族であって、身分の差異は無視できない。

フランク王は、ムーア人の王の軍隊を打ち破り凱旋。
エギンハルトたちは、和平交渉に行かなければならない。
その別れを告げるラブラブシーンを、
ムーアの王子、フィエラブラスが目撃する。

そのややこしい状況下、国王は、
フィエラブラスこそが王女誘惑の犯人と誤解して、
取り押さえる。
エギンハルトは真実を伝える勇気なく、
フィエラブラスはエンマを愛するがゆえに、
口をつぐんで、そのまま地下牢に入れられてしまう。

ということで、エギンハルトたち、
騎士の使節団が出立した後が、
第2幕以降では描かれる。

この解説書表の痛ましい写真は、
「第2幕第7曲より」となっているが、
この第7曲は、全曲の通し番号なので、
第2幕冒頭の曲である。

つまり、この写真は、「第2幕冒頭シーン」
と書いても良い内容のもの。
言い換えれば、CD2のTrack1である。

このシーンは、しかし、それほど陰惨なシーンではなく、
ムーア人との講和のために、フランク王国の騎士たちが、
国境を越えた丘陵で、すがすがしい朝を迎えたシーンである。

エギンハルトが、朝の光の中で、
祖国に別れを告げる歌を歌うと、
騎士たちの合唱が唱和する。

ローラントもまた、
「軽い雲が流れていくように、
時には喜びが、時には幸せが訪れる。
さまざまな思いが赤々と燃え上がるが、
それを決めるのは運命だ」
と、何だか意味不明の歌詞を歌う。

喜びや幸せは運命次第ということか。
あまりあってもなくても良さそうな内容。

いずれにせよ、この写真と、
この部分の音楽イメージは、
かなり隔たりがある。
兵士たちは、倒れているが、この体勢で歌うのだろうか。
この解説書の注釈は間違っているのではないか。

どうも、この「フィエラブラス」の日本盤CDの解説は、
信用がおけない点が散見される。
というか、仕事に心がこもっていないのである。
例えば、曲のインデックスの後、
いきなり、「アバドとベルクハウス」という白黒写真が出て来るが、
指揮者のアバドはともかく、ベルクハウスって誰?と思ってしまう。
アバドもかつては期待の若手であったが、
すっかりおっさんになっているが、
ベルクハウスという人は、眼鏡をかけた老人である。

また、この解説の最後に、
嬉しそうに歯を出して踊っている人の写真があって、
ここに、「ルート・ベルクハウス」とあるが、
ここでは、眼鏡をかけておらず若々しく、
さっきの人と同じ人とは思えない。

解説書をよく読むと、
この人こそ、アバド以上に、
この幻の大作の復活を語る上で、
重要な役割を演じたことが理解できる。
アバドは音楽監督として、「音楽」に限定されているが、
ベルクハウスは「監督」と書かれているからである。

この人はオペラの演出家として高名な人らしく、
1927年生まれというから、
88年当時、61歳ということになる。
8年後の96年に亡くなったようなので、
このオペラ蘇演は、この女流振り付け師、演出家、
劇場総監督にとっても、円熟期、後期の、
重要な業績に位置づけられるのだろう。
が、この人がどういう人であったかは、
この解説のどこにも見あたらない。

さて、曲に戻ろう。

先の第2幕第1曲の後、
本来なら対話劇となって、
ローラントは、
「さあ、祖国の国境を越えた。
目的地はもうすぐだ」などと語り、
エギンハルトは罪の意識でぐずぐすする。
CDでは、こうした対話は全て省略されているので、
曲と曲のつなぎが唐突である。

例えば、このシーンで、ローラントは、
何かあったら、ホルンで合図をしろと言って、
彼が遅れることを許すのだが、

このCDの問題は、実は、まさにその点にある。
会話が省略されているので、各曲、各トラックの繋がりが、
かなり苦しい。
当然、各曲はここぞと濃厚な空気で押し寄せるので、
まるで、めりはりのない作品に聞こえるが、
実は、このCD、そうした楽しみ方をしてはならない。

ざざっと、第2幕だけでも見ていこう。
Track2.第8曲、エギンハルトが、
なおも、もんもんとしている。
そんな彼の前に、ムーア人たちが現れ、
ピンチになるシーンである。

エギンハルトは、ロバート・ガンビルという人が歌っているが、
このナイーブな役を歌うには、少し、声に魅力が欠ける。

それはともかく、ここでは、
遂に、トランペットが吹き鳴らされるが、
結局、捕まってしまう。
この意味深なホルン信号は、
曲に勇壮な変化をつけて聴き応えがあるが、
何の役にも立たなかったということか。
それとも、これを吹いたがゆえに、
何とか殺されずには済んだということか。

「アルフォンソとエストレッラ」でも、
角笛で、友軍を呼び寄せるシーンがあったが、
ここでは、ローラントたちは間に合わないで、
「後を追え」という緊迫した合唱で閉じられる。

Track3.第9曲、二重唱。
いきなり、思い入れたっぷりの、
美しい女声二重唱が始まるが、
シーンが変わっている。
本来なら、この前に、フロリンダと侍女マラゴントの、
対話があって、ローラントを慕うフロリンダを、
マラゴントがいさめるシーンがある。

しかし、これは省略されている。
チェリル・ステューダーがフロリンダの美しい声を聴かせる。
このロマンティックな二重唱は、どうして、
こんなに切実かと言うと、やはり、その前に、
イタリアで出会った白馬の騎士に想いを馳せる、
一瞬があって、それが抑えきれなくなった、
という状況を知らなければならない。

Track4.第10曲、五重唱。
このトラックへの推移は、かなりひどい。
いきなり、ムーアの君主ボーラントは、
怒り狂っているからである。
さっきの二重唱との繋がりはまったくない。

この間、実は、エギンハルトが、
大将ブルタモンテに引っ立てられて来ていて、
フィエラブラスの運命を語っている。
当然、君主は怒る。
が、その際、エギンハルトはローラントのことも口走ったので、
それを聴いていたフロリンダやマラゴントも興奮して、
五重唱になったのである。

Track5.第11曲、合唱。
これまた、朗らかな混声合唱の意味が不明であるが、
フランクの使節団の騎士たちが登場した報告が省略されている。

とにかく、晴朗な合唱曲で、非常に美しい。

Track6.第12曲、三重唱と合唱。
ここでも、いきなり君主が怒り狂っていて、
これまた、唐突である。
この間、実は、ローラントが、
いろいろと交渉をしているのである。

君主ボーラントとフロリンダとローラントが、
それぞれの思いを語る三重唱に、
騎士たちやムーア人たちの合唱がぶつかり合って、
ものすごい緊迫感を醸し出している。
シューベルトに劇的な能力がなかった、
などと言う評論家を締め上げろ。

後半は、遂に追い詰められる、
フランクの騎士たちの様子が描写される。

Track7.フロリンダのアリア。
これまた、感情が高ぶりきっているが、
実は、その前に、フロリンダは、台詞だけで、
自分が、彼等を救出する決心をしているのである。

これまた素晴らしい効果であるが、
常に緊張感が持続されており、音だけを聞いていると辛い。
このCD、台詞カットにかなり問題がある。

Track8.騎士たちの合唱。
ここで、少し緊張感が途絶える。
というのも、ここで歌われる合唱は、
囚われた騎士たちの絶望的な状況を示すためか、
無伴奏で歌われているからである。

Track9.第15曲、メロドラマ。
このトラックへの推移が、
この幕では一番、違和感があるかもしれない。
先ほどまで、しんみりしていた、
教会音楽のような無伴奏男声合唱に、
焦燥感溢れるオーケストラの序奏があって、
何かが破壊される爆発音、さらに語りが雰囲気を一転させる。
そこに、フロリンダのレチタティーボが飛び込んで来る。

遂に、フロリンダが単身、フランクの騎士たちを、
救出しに現れたのである。

教会の中がいきなり戦場になった、
というか、急に白黒の静止画像が、
原色になって動き出したような違和感、
気持ち悪さがある。

この場合も、実際には、前の曲との間に、
語りによる劇が演じられているわけなので、
この部分は、演出の腕の見せ所になるのであろう。
あるいは、それは不可能かもしれないが、
ベルクハウスはどのように扱ったのであろうか。

ローラントの喜びのアリアは、
デュエットになって、合唱となる。

Track10.合唱とメロドラマ。
この部分、急転直下で反撃が始まる部分で、
騎士たちの合唱が脱出を試み、
それを阻む敵軍のファンファーレが重なり、
ヤバいヤバいと手に汗を握るシーンである。

緊迫した語りに音楽が調和し、
メロドラマの本領発揮の部分である。
フロリンダは武器の調達まで成し遂げる。

Track11.三重唱と合唱。
エギンハルトとローラント、
そして、フロリンダの声を主体とし、
騎士たちの合唱が唱和する。

騎士たちは敵陣突破を試みる。
フロリンダは、この様子を窓から見つめて、
緊迫感溢れる語りで報告する。
管弦楽は、目を見張る状況描写を行っている。

最後に、「捕まった!」という絶叫で彼女は気を失う。

このように、戦闘を高いところから見下ろすのは、
ホメロス以来の英雄叙事詩の伝統で、
スコットなどが、これを真似た、
という話を読んだことがある。

エギンハルトとローラント以外の騎士たちは、
なさけなく戻って来ていて、
「我らの希望は砕けてしまった」
などと言っている。

以上で、第2幕は終わりである。
主人公「フィエラブラス」は全く登場しない。

さて、このように見て来ると、解説書の表紙写真のシーンは、
どちらかと言うと、捕まった騎士たちを表している、
と考えた方が自然ではなかろうか。
実は、私は、これまで、ずっとそう思ってきた。

「第2幕第7曲より」ではなく、
解説書の記載は、「第2幕第14曲より」の間違いではなかろうか。

さて、第3幕までは、今回、詳細鑑賞が出来なかった。

実は、今回の東日本大震災を受けて、
ハーバード大学の名教授、サンデル博士が、
日米中の大学生などを集めて、
ディベートをする番組を見たりしていたからである。

サンデル教授の結論は明解で、
今回の震災における日本人の対応、
世界の対応が、今後の世界コミュニティの、
原点たりうる、という点であったと思う。

それはそうとして、
以上、このように見てきただけでも、
シューベルトのオペラ「フィエラブラス」は、
かなり変則的な奇妙な継ぎ接ぎの集合体、
としか見えないことが分かる。

しかし、「アルフォンソとエストレッラ」では、
通作のオペラを書くことが出来たシューベルトである。
何か、意図があって、こんなハイブリッド式を選択した、
と考える方が自然であろう。

そのあたりのことを、海外盤CD解説では、
ちゃんと、このように書いているのである。
前回、書ききれなかった残りの部分である。

「彼が完成させた巨大なオペラ、
『アルフォンソとエストレッラ』と、
『フィエラブラス』は2曲とも、
プロットは中世の出来事を扱って、
同時代のロマンティックな流行に沿っている。
『アルフォンソ』においては、
中世的なものは、軽くスケッチされていただけであったが、
『フィエラブラス』では、十分に展開されている。」

という風に、シューベルトは、この作品で、
さらに進化している、というのが、
この著者の一貫した見方となっている。

「クーペルウィーザーの劇は、
17世紀のスペインの作家、カルデロンの、
『マンティブレの橋』に基づき、
この作品のルーツは、中世の叙事詩にある。
カルデロンの劇は、
ウィルヘルム・フォン・シュレーゲルによって翻訳され、
これは、1806年に出版されている。
物語は、フランク王、シャルルマーニュと、
ムーアの君主ボーラントの宮廷における、
騎士道、名誉、愛と戦争を扱ったものの一つである。
バーラントの息子も娘も、
父親には知られないように、
フランク王の宮廷内の相手を愛している。
彼の娘、フロリンダは、騎士ローラントの愛を勝ち得るが、
彼の息子で、『高貴な未開人』フィエラブラスは、
劇が始まる前から、
すでにフランク王の娘エンマの心を射止めている
若いフランクの騎士エギンハルトに恋の道を譲る。
オペラの中で、娘たちは両方とも、
その父親から叱責されたり、勘当されたりする。
オペラは、戦闘における、
フランク軍のムーア軍への勝利から始まり、
彼等の信仰の勝利で終わり、
ムーア人たちをひとまとめに、
検閲官が使うキリスト教の婉曲表現、
『最高の宗教』に改宗させている。
ここには、他のオペラに類似した部分が多く見られ、
文字通りの剽窃すら見られ、
当時としては、十分に一般的なものなので、
登場人物や状況は、同時代の聴衆には親しみやすいものだった。
例えば、最後のシーンでシャルルマーニュが、
トランペットの前触れと共に現れ、
平和をもたらし、
ベートーヴェンのオペラ最後のフェルナンドと同様、
戦闘中の対立グループを統制するなど、
『フィデリオ』の影響も見られる。
しかし、音楽は終始シューベルト的で、
しかも、それらの多くは並外れて美しい。」

という事で、「アルフォンソ」が、
友人たちのグループが共有していた美学を、
聴衆に強要していたのに対し、
この作品では、先達たちの良いところを、
素直に学ぼうとする姿勢が評価される。
しかも、「並外れて美しい」とまで、
言われるほどの出来映えをもって。

「第7場の始めの
エギンハルトとエンマの二重唱のように、
息を呑む瞬間がある。
やはり罪を犯した若い英雄、
『魔弾の射手』のマックス同様、
若いエギンハルトは、短調で、
恋人への愛が勝ち得られないことを嘆くが、
彼女はバルコニーに来て、
同じ歌を長調で繰り返すことで彼を慰める。
シューベルトらしい音楽的変容である(No.6-a)。」

このあたりは、前回、聴いてそうだと思った。

「第2幕No.9のフロリンダと侍女の崇高なデュエットも、
すぐに壮麗で力強い五重唱(No.10)に続く。」

これについては、今回のCDでは、接続に違和感があった、
ということは先に書いた。

「同様に忘れられないのは、
牢獄の塔にフロリンダが現れ、
レオノーレのように恋人を救出しようとして、
フロリンダとローラントが再会する瞬間の、
音楽的緊張である。
新しいドイツ・オペラの要望は、
語られる独白を含むべきかどうかという、
ディレンマを作曲家にもたらした。
1820年代初頭、オペラは両方のやり方で書かれていた。
『アルフォンソとエストレッラ』においては、
シューベルトと、台本作者ショーバーは、
伴奏付きレチタティーボを含む、
通作形式を選ぶこととなった。
その直前、ウェーバーは語り付きで、
『魔弾の射手』を作曲していた。
シューベルトとクーペルウィーザーは、
おそらく、『魔弾の射手』の劇場における成功を受け、
『フィエラブラス』では、語りを含む、
ジングシュピールの伝統に則ることに決定した。
これまた皮肉なことに、
シューベルトが、このオペラに取りかかるや、
ウェーバーが、軌を一にして書いた、
『オイリュアンテ』は伴奏なしの言葉のない、
通作形式になっていた。
シューベルトが、3幕からなる『魔法の竪琴』を書いた、
1820年までに、ヴィーンにおいて、
通奏される音楽の上に語りがあって、
楽節の間に語りが入るメロドラマの人気は去っていた。」

シューベルトは、古きを訪ねて新しきを知る、
という立場で望んだのかもしれない。

また、メロドラマの卓越した用法について、
このように特筆されているのである。

「この作品の作曲を通じて、シューベルトは、
メロドラマ作曲のテクニックをマスターしていた。
彼は、『フィエラブラス』で、メロドラマに立ち返り、
ウェーバーが『魔弾の射手』で行ったように、
慣習的に、劇的に盛り上がる部分で、これを活用した。
『フィエラブラス』には、こうしたシーンが5つあって、
それらは演ずるのが困難ながら、
いくつかは強力な効果を持っている。
No.21-bの牢獄塔における、
フロリンダの決死の雄弁はその好例である。」

このNo.21は、第3幕なので、次回を楽しみにしよう。

「以前のメロドラマ作曲の間に得て、
『フィエラブラス』で利用された、
さらなるシューベルトの技術は、
ライトモティーフの原型のようなもので、
長大な作品を統一することであった。
同じ主題と行進曲が、
シャルルマーニュの入退場のたびに奏され、
彼の宮廷では、繰り返される動機が明らかである。
しかし、主題的、リズム的な動機や、その変奏は、
フィエラブラスへの言及や登場時に、
いっそう鮮やかな効果を奏している。」


「スポンティーニやケルビーニのような作曲家が、
開発したグランド・オペラの伝統に則し、
『フィエラブラス』においても、
さまざまな声の組み合わせが、
豪華で劇的な役割を演じている。
フランクの騎士団が和平のために
ムーア人の宮廷に派遣される時、
それは歌われる以上に、
アクションの上でも重要な役割を演じる。」

確かに、今回聴いた、第2幕だけでも、
無伴奏男声合唱があったり混声合唱があったり、
重唱との絡みなど、さまざまな色彩があった。

「地元の教会や宮廷礼拝堂で、若い頃、
自身、歌った時の豊かな経験を生かし、
シューベルトは自由に合唱を駆使している。
結果として、『フィエラブラス』は、
変化に満ちた合唱に富み、
驚くべき高さを有することになった。」

これは、成る程、そう来たか、という指摘。

「どんなスタイルであれ、
あるオペラが成功するには、
音楽の質だけによるものではなく、
その登場人物や演技や状況を、
音楽で描き尽くす作曲家の能力が必要である。
『フィエラブラス』においては、
若い恋人たち、エンマもエギンハルトも、
他の多くのオペラに登場する恋人たちにも劣らず、
上手に描かれている。
シャルルマーニュは、長い伝統に基づき、
寛大な舞台での支配者、
指導者(多くの場合、バス)として現れる。
フロリンダの役は、ぜんぶ成功していて、
その音楽は心に残る。
英雄的な騎士(バリトン)のローラントは、
いくぶん、タイトル・ロールを犠牲にして、
ドラマの上でも声の上でも支配的な役割を演じている。
フィエラブラスは、最初の幕では、
十分、豊かさを持っているが、
第2幕には現れず、最後の幕では、
アンサンブルに加わるだけである。」

このあたりは、シューベルト自身、
何と考えていたのであろうか。
第1幕を重視し、「エンマとエギンハルト」でも、
第2幕を重視し、「ローラントとフロリンダ」でも良さそうなものだが、
間をとって、「フィエラブラス」としたのだろうか。

「シューベルトは、『フィエラブラス』を書いた時、
『後宮からの逃走』を書いたモーツァルトと同様、
26歳であった。
モーツァルトの場合、まだ良いものを書く時間があったが、
悲しいかな、シューベルトにとって、
これは最後の完成できたオペラとなった。
偉大なオペラを作り上げようという彼の努力と、
それへの熱狂にもかかわらず、
ヴィーンでそれから何年か、
真面目なドイツ・オペラの後継者は現れなかった。
イタリア・オペラへの熱狂が過ぎ去った後、
一時的に流行ったのはフランスの軽い喜劇であったが、
このどちらも、
1828年11月にシューベルトが死ぬまでと、
その直後まで、続けて何週間も、または何ヶ月もの間、
ヴィーンの歌劇場が閉鎖されるのを防ぐことは出来なかった。
聴衆はドイツ・オペラというものを忘れてしまった。
このように、『フィエラブラス』の『失敗』は、
その弱さにあるのではなく、
単に、上演されることがなかったからなのである。」

これは、確かに事実かもしれない。
とにかく、この作品は忘却されていたのである。
したがって、どのような演出がなされるべきかという、
伝統の積み上げがまるでない作品なのだ。

「19世紀初頭の劇場の慣習に不慣れな人は、
まず、リブレットの古風な話法、素朴さ、
感傷性や心理の理想化などに、
まず面食らうかもしれない。
語られる対話、メロドラマ、
作曲されたナンバーの演技と描写のバランスは、
近代的なオペラとは異なるものだ。
このオペラは、今日の我々が考えるドラマというよりも、
見せ物であり、美しい音楽付きの娯楽物であり、
愛と名誉、勇気、騎士道の単純な感傷として
楽しまれるべきものである。
こうした慣例が受け入れられるなら、
『フィエラブラス』における、
音楽と表現の豊かさの発見を、
わくわくしながら始めることが出来るだろう。」

これが、この解説者の結論である。
私は、しかし、この作品の持つ力を全開にした演出が、
まだまだ、試行錯誤されてしかるべきだと思う。

得られた事:「『フィエラブラス』において、シューベルトは、オペラというより、迫真性に溢れる『舞台作品』を書きたかった。」
[PR]
by franz310 | 2011-04-16 22:04 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その272

b0083728_23272935.jpg個人的経験:
シューベルトが完成できた、
最後のオペラ「フィエラブラス」は、
長らく評価されなかった作品である。
シューベルトの没後、
160年に当たる1988年に、
クラウディオ・アバドが復活上演し、
遂に、その真価が明らかになった、
という感じであろうか。
が、だからと言って、この作品が、
傑作に仲間入りしたわけではなかった。


前回も書いたが、この上演記録は、
グラモフォンで録音され、日本盤CDも出たことで、
多くのシューベルト・ファンが、おそらく驚喜したが、
解説が意味不明で、がっかりした人が多かったのではないか。
(私は見栄えしない表紙写真でもがっかりした。)

ジークリット・ネーフという人が書いたものを、
日本語に訳したものだが、
ハンスリックが、「幼稚な聴衆」を前提にした、
「詩情も情趣も脈絡もない作品」、
として、けなした話から始まっている。

最近では、トーマスという人が、
「一級の演奏で全曲が上演されるまで、
価値の判断は留保すべきである」と、
主張していることまでが書かれているが、
この後、ネーフは、遂に一級の演奏が現れたと書く。

しかし、ずるいことに、彼は、
このオペラの価値の判断をせず、
「平和の中に戦争を、敵の中に友を見いだす
クーペルヴィーザーの台本とその典拠」
という題で、別の話を始めているのである。

ここで、彼は、「フィエラブラス」の主題は、
「シューベルトや彼の友達の、
疎外されない明確な存在感への憧れ、
故郷への夢である」と書いている。

ここから、私は、何を読み取って良いのか分からなかった。

それから、この解説者は、
台本の三つの典拠として、
1.フランク王国のカール大帝
2.ロランの歌
3.カルデロンの「マンティブレの橋」
を掲げている。

この典拠から得られる思想のようなものが、
合わせて列挙されているが、難解である。

「彼等はイスラム教を、
タブーのない二者択一の哲学として歓迎した」
などと書かれているが、
これは何を意味するのであろうか。

このオペラでは、イスラム教は負ける側でしかない。

次に、「シューベルトの『秘められた世界』」という
題名を持つ部分が続く。

父親は子供たちの憧れを理解できず、
子供たちは、父親の支配を受け入れられず、
こうした不安が、
「あの『秘められた世界』と外的な出来事との進行とが、
しばしば痛々しく衝突するような物語を作り出す」
とある。

このような思わせぶりな説明は、
頭の中を通り過ぎるだけで、抽象的に過ぎ、
何の印象も残さない。

私は、これまで、このCDを何度も手に取り、
この解説を読む度に、聴く気をなくしていた。
これは、これまで、私が体験したレコードの解説の中で、
最悪の例と言って良いだろう。

この後、「物語」というプロット説明の部分も、
こんな書き出しになっているので、
1センテンスごとに見ていこう。

「このオペラは愛と友情で結ばれた5人の若者の物語である。」
これは分かる。

「彼らはさまざまな境遇の中に置かれ、
また互いに敵対する君主の子供たちである。」
この部分になると、私は、気が狂いそうになる。

当然な「さまざまな境遇の中に置かれ」という記述に、
いったいどんな意味があるのだろうか。
思わせぶりで抽象的という表現は、
この一節だけで理解されることと思う。

むしろ、「互いに敵対する君主の子供たち」
という方が先に書かれるべきで、
下記のように書く方が、ずっと具体的で、
分かりやすくなるだろう。

「フランク王とムーアの王には、それぞれ、
子供たちがいて、親が敵対しているのに、
むしろ敵方を愛している。」

さらに、
「騎士エギンハルトと、ムーアの王子、
フィエラブラスは、フランク王女、
エンマを愛していることから、
ややこしいことになる。
また、ムーアの王女フロリンダも、フランクの騎士、
ローラントを愛しているのである。」
と書けば、五人の若者たちの物語であることがはっきりする。

この次に来るのが、さらに混乱させる一文である。
「したがって、彼らの絆が結ばれるただ一つの道は戦争であるが、
それは祖国と祖国を結ぶひとつの危険な橋である。」

何故、戦争が絆であり、橋なのか、
読者はそれが気になって、先を読む気にならない。

「祖国の中でも争いが盛んである。
父親たちと息子たちの間で、
また父親たちと娘たちの間で。」
という続く一節も、何のことやらさっぱりわからない。

原稿を沢山埋めて、原稿料の水増しを狙ったような文章である。
さっさと本題に入って欲しい。

「子供たちはそこから逃れようとする。」
と書かれているが、私は、この作品に、
そんな難しい要素があるとは思えない。

「愛する祖国のために憧れを、苦しみを、
希望を、そして不安を募らせる・・・」
とさらに続くので、我慢限界、
解説書を破り捨てたくなる。

実際は、騎士エギンハルトとエンマが、
単に愛し合っているだけであり、
そこに振られ役フィエラブラスが絡んでいるだけだ。

もう一方のカップル、ムーアの王女フロリンダと、
騎士ローラントは、ローラントが捕虜となったために、
フロリンダが命をかけて、彼を救おうとするという話。

これだけの事を説明するのに、
何故に、
「子供たちは互いに、死が避けられない戦争へと、
しかし同時に互いの腕の中へと向かう」などと、
書く必要があるのだろう。

上述のように、相手の腕の中に向かうのは、
フロリンダだけなのである。

この意味不明の解説に対し、
さらに最悪に輪をかけるのが、
このオペラ上演から取られた舞台上の写真で、
これもまた抽象的なものであるため、
ますます、この作品を正体不明のものにしている。

表紙も食指を動かさせるようなものではない。

しかし、このアバドの録音の海外盤解説には、
実はドイツ語のネーフのもの以外に英語版もあって、
エリザベス・ノーマン・マッケイという人が書いている。

今回、この解説を読んで、
私は、最初からこっちを読みたかったと思った。
はるかにすっきりとした解説である。

「1822年、シューベルトは、
ヴィーンの宮廷歌劇場の経営陣から、
当時の劇場セクレタリー(総監督)で、
シューベルトの友人で、
画家であったレオポルドの兄であった
ヨーゼフ・クーペルウィーザーのドイツ語テキストに、
音楽をつけるようにと委託を受けた。
1823年の初頭、シューベルトは、
選ばれたテキストに作曲を開始し、
5月にはフル・スコアを書き出し、
病気であった夏の数週間、中断したが、
10月には最終的に完成させている。
彼は、作曲家として、ヴィーンでは関心を集めており、
ピアノ独奏曲(特に舞曲)、ピアノ連弾曲、
多くの歌曲を出版していた。
1820年から21年までには、
二つの重要な劇場で、彼の三つの舞台作品が上演されていた。
ケルントナートーア劇場における、
一幕のジングシュピール『双子の兄弟』と、
エロールの『魔法の鈴』への魅力的な2曲の追加曲、
アン・デア・ヴィーン劇場における、
野心的で印象的な三幕のメロドラマ『魔法の竪琴』がそれらである。」

という具合に、この頃のシューベルトは、円熟期にあった。

「シューベルトは、多くのオペラ公演に接しており、
他の作曲家のスコアを研究する、
目の肥えたオペラ愛好家であって、
少年時代からオペラを作曲していた。
彼はまた音楽上の成功の早道が、
劇場だということを知っていた。
ロッシーニの『アルジェのイタリア女』や、
ウェーバーの『魔弾の射手』と同様にヒットしたオペラを、
もし、シューベルトが作っていたら、
彼の作曲家としての地位は保証されたであろう。」

という具合に、オペラを書くことは、
彼の重要使命であった。

「1822年の委託時に、
シューベルトがまず適任とした
クーペルウィーザーは、
のちに小劇場用の二三の台本を出版しているものの、
ほんのわずかしか、あるいは、まったく、
リブレットを書いた経験がなかった。
しかし、彼は劇場での仕事を通じて、
オペラや出演者や聴衆について経験を積んでいた。
委託から作曲までの何ヶ月かの間に、
この二人がテキストについて、
いかなる協力関係にあったのかを示す記録はない。
シューベルトは、
わかりやすさや舞台に乗せる上での問題があることを見落とし、
明らかに、それが、様々な機会を与えてくれることを歓迎して、
完成したリブレットそのままを受け入れた。」

彼は、いかなる難題でも解ける能力があったがゆえに、
複雑な筋にも対応が可能であった。

「1814年から15年のヴィーン会議中と、
その直後のにわか景気の後で、
1820年代のケルントナートーア劇場の状況は不安定だった。
困難は、財政上の問題や、
特に、ドイツ、オーストリアの良い演目の深刻な不足にあった。
1821年12月、イタリアの興行師、
バルバーヤが劇場の支配人になると、
最初にドイツ語オペラの委託をした。
その結果、ウェーバーの『オイリュアンテ』が生まれ、
シューベルトの『フィエラブラス』は、
ウェーバーのものと同様、
大英雄ロマン派オペラであった。
バルバーヤはドイツ語オペラ擁護派を懐柔しようとした。
しかし、同時に彼は、1822年3月、
彼はロッシーニをヴィーンに招いて、
オペラのシリーズを監督させ、
イタリア歌劇の大宣伝を行い、
大当たりを取って、ロッシーニ旋風を起こした。
ドイツ語オペラにとって不幸なことに、
ロッシーニを歌うイタリア歌手との契約で、
かなりの数のドイツ、オーストリアの歌手が、
劇場を去ることになった。
歌曲作曲家としての若いシューベルトの天才を、
早くから見いだした、
54歳のミヒャエル・フォーグルも、
1822年11月に劇場を去った。
イタリア歌手がドイツ語オペラを歌うのには困難を伴い、
1823年10月には、その横柄さに不満を持って、
クーペルウィーザーも劇場を去った。」

てな具合に、台本にも問題はあったかも知れないが、
状況が最悪だったということだろう。

「シューベルトが『フィエラブラス』のスコアを完成させた、
3週間後、ウェーバーの『オイリュアンテ』は、
カット版で、しかも粗末な演奏で上演されたが、
これは強烈に批判された。
『フィエラブラス』を演じようという計画は、
不幸な内部事情もあって次第に忘れられてしまった。
ロッシーニの人気とウェーバーの失敗、
クーペルウィーザーの退職が、その運命を担った。
この作品を真面目に受け取っていなかったのか、
経営陣によるこの作品の評価記録は残っていない。
この巨大なスコアに対して、シューベルトは、
まったく報酬を受け取っておらず、
この作品に興味を持って貰ういくつかの試みはあったものの、
この作品は1886年のシューベルト校訂版の出版まで、
60年以上、さらに、1897年のモットルによる、
改作版のカールスルーエでの上演まで忘却に沈んだ。」

このオペラが忘却される条件だけは、
いくらでも揃っていたわけだ。

「この大オペラを作曲するに当たって、
シューベルトのスターティングポイントは何で、
舞台での、また音楽の上での伝統の何が、
彼のスタイルに影響し、
また、それを形成したのだろうか。
オーストリア=ハンガリー帝国の首都、
ヴィーンにおいて、多くの文化が出会い、
オーストリアの伝統と結びついた。
オペラにおいては、
ドイツ、イタリア、フランスの作品が、
シリアスなものから軽いものまで、
ヴィーン古典派やその後継者の作品と共に上演されていた。
人気のある劇場(フォルクス・シアター)もまた、
音楽的な貢献をした。
これらの多くがシューベルトに様々な面で影響を与えた。」

このように、シューベルトには多くのものが流れ込んでいた。

「彼の第一の師匠であったサリエーリ
(彼自身、グルックの生徒で弟子であった)から、
入念な指導を受けながら、
他の作曲家のオペラを学び、
自身、初期のいくつかの劇場作品を作曲した。
彼はイタリアオペラや、特に『魔笛』など、
モーツァルトのジングシュピールに親しみ、
またそれらを愛し、
ベートーヴェンの『フィデリオ』に感動を受けた。」

古典の知識も十分であったということ。

「彼は、ギロヴェッツ、ザイフリートや、
ヨーゼフ・ヴァイグルなど、
当時、成功を収めていた、
年配の同時代者の劇場作品をよく知っていた。
特に、ヴァイグルの理想化された、
ロマンティックなジングシュピールの、
音楽構成や表現は、
シューベルトの劇場音楽に、豊かな実りを与えた。」

ネイティブな作曲家たちの作品は、
非常に身近であったということか。

「そして、若い作曲家にとって、
もともとパリのために書かれ、
当時、ヴィーンで上演されていた、
スポンティーニやケルビーニに例をとるような、
グランド・ロマンティック・オペラからも、
影響を受けないわけはなく、
ロッシーニのリアリスティックなオペラもまた、
シューベルトの舞台作品に痕跡を残している。」

フランスもイタリアも、シューベルトに流れ込んでいる。

「『フィエラブラス』は、こうした、
ヴィーンにおけるトータルかつ、
反発し合う背景をバックに捉えられるべきものだ。
長年の実験や研究の後、
ようやく書かれたドイツ・ロマン派オペラの最初の例で、
作曲家と台本作者が、かろうじて理想のフォーマットに、
辿り着いたように見える。」

この部分は、私は、この解説の核心であろうと考える。
この時期、試行錯誤の末に到達した結論が、
この「フィエラブラス」なのである。

「サリエーリやワイグル、シューベルトらは全て、
当時のヴィーンで演奏されていた、
地元産、海外産の軽薄なナンセンスには反対していた。
こうした軽妙な作品は、
リブレットの作者にとって簡単だっただろうが、
シリアスな作品を書く場合、
メッテルニヒの弾圧政治の下では、
うんざりするような検閲の制限を受けた。
作家への制約は、カットやスクリプトの修正同様、
着想の始めから影響した。
クーペルウィーザーの最終テキストは、
たった9箇所の小さな修正で検閲が済んだ。
しかし、クーペルウィーザーは、
その劇場経験から、何が許され、
何が許されないかを良く知っており、
彼は自分で、自己監査を行って、
無邪気とも言うべき単純な内容とし、
問題の多いテーマは回避し、
教会や国家の目に止まるような着想は封印した。
同時にクーペルウィーザーは、
多くのドイツ・ロマン派オペラを安っぽくしていた、
魔法の効果も使わないようにした。
バルバーヤによって、イタリア・オペラ用に、
ケルントナートーア劇場の楽団は、
縮小されたばかりであったのに、
彼とシューベルトは、
オペラの壮大さや豊かさは追求し続けている。」

この部分も味わい深い。
彼等は、安っぽいものは避けながら、
同時に検閲の目も気にする必要があったのだ。

このような制約がある中、
非常に高い志を持って書かれた作品、
それが「フィエラブラス」なのである。

これ以下、まだまだ続くが、音楽を聴かなければならない。
今回は、このくらいにしておく。

このアバド盤のCD、少し、音響がデッドな感じがするが、
これは舞台をライブ録音したせいであろうか。
あるいは、せっかくウィーンでの録音なのに、
ウィーン・フィルではなく、
ヨーロッパ室内管を使ったせいであろうか。

また、私はあまりはっきり認識していなかったが、
このCDは、このオペラの全曲録音ではあるが、
すべてを収録したものではなさそうだ。

というのは、台詞部の多くは省略されているからである。

Track1.序曲からして、
いくぶん、しっとり感に欠けるような気がする。
あるいは、アバドの指揮が、
さっぱりしすぎているのかもしれない。

もっと、神秘的な、あるいは、予感に満ちた音楽にして欲しい。
それは、最後に盛り上げるところでいい線まで行っているが、
オーケストラの限界か、録音の限界か、
ちょっと腰砕け気味に聞こえる。

Track2.第1曲導入曲。
フランク王の王城で、女たちの部屋。
美しい女性合唱で、侍女たちが、
糸紡ぎの作業の喜びを歌う。
ここで、結婚式のため、などと出て来るが、
この後、特に結婚式の話が出て来るわけではない。

こんな中、エンマ(カリタ・マッティラ)が、
これはお墓の中で着る服のため、
などと縁起の悪い歌を歌う。

別に縁起の悪い事を予言するようなものではないが、
「アルフォンソとエストレッラ」で、
エストレッラが、悲しげに登場したのと同様、
このエンマは、ばくぜんとした不安を抱えている。

この合唱は、さすがに、
アルノルト・シェーンベルク合唱団が、
受け持っているだけあって、非常に美しい。
ただし、アバドの指揮は、
かなり先を急ぐもので、せかせかしている。

ここで、本来なら、エギンハルトが入って来て、
王の軍隊の凱旋報告と、
身分違いの恋についての悩みについての会話があるが、
このCDには収録されていない。

Track3.第二曲 二重唱。
このエンマとエギンハルト(ロバート・ガンビル)の二重唱は、
物憂げなクラリネットの序奏に導かれ、
分かりやすく華が有り、歌曲王の限界を超えている。
しかも、デュエットはとても美しい綾をなし、
後半の夢に満ちた表現も、劇場を満たすのにふさわしい。

Track4.行進曲と合唱。
この凱旋曲の壮大さもまた、
「アルフォンソとエストレッラ」のような、
シューベルトの得意とした内密な世界を越えて、
多くの聴衆に向かって、説得力を持って響く。

ここでは、カール王の演説があるはずだが、
このCDでは省略されていて、
解説を読んで理解できる形。
したがって、このCDは、解説なしには、
全曲を味わうことは出来ないのである。

Track5.第4曲A-C。
勝利したフランク王の前で、
褒美の話や捕虜の待遇の話が出る場面。
かなりさまざまな事が起こって、
レチタティーボや重唱、合唱がミックスされている。

シューベルトの歌曲も得意とする、
ロベルト・ホルによるカール王は、
捕虜は束縛されないことを明言。
さすが名君である。
「嵐のような激しい戦いの中でも、
人間の権利を忘れてはならない」と、
かなり進歩的な君主である。

このトラックでは、イケメン騎士ローラント(ハンプソン)が、
フィエラブラス(ヨーゼフ・プロチュカ)は敵の王子で、
自分が掴まえた事を主張、
フィエラブラスは、ローラントの監督下に置かれる。

Track6.第4曲D-F。
第4曲は、複雑で、全部でAからFまでの6つの部分からなる。
ここでは、途中、台詞なども含みながら、その後半。
メロドラマ部もあって緊迫する。

フィエラブラスは、エンマを見て、
自分が恋している女性だと言うと、
ローラントは、王の娘だ、危険だと諭す。
「口は閉じているがいい、
ここは危険がいっぱいだ。
私の心の傷は
沈黙する夜が隠してくれよう」。

Track7.第5曲、二重唱。
この前に、ローラントとフィエラブラスの、
色恋の告白タイムがあるが、これは台詞だけなので、
録音されていない。

この二重唱は、極めて楽しい歌で、
色恋に迷った二人は、調子に乗って、
羽目を外す。
これまた、シューベルトは、
劇場という空間を意識して、
「アルフォンソ」などより熟慮の形跡がある。

Track8.ここから長大なフィナーレ。
フィナーレは25分の長丁場だが、
前半(第6曲A-F)の20分が、
このトラックに収められている。

まず、エギンハルトとエンマの耽美的な二重唱があって、
彼等の密会が描かれる。
リュートの伴奏をオーケストラが模して、
まるで、ベルリオーズのように、濃厚な夜の気配を滲ませる。

この場面から次のフィエラブラス登場までの、
素晴らしい音の絵画はどうだろう。
夜の気配と、胸の鼓動が合致して、すごい説得力。

この後、このオペラの主役、フィエラブラスの、
唯一とも言える見せ場が始まる。
ちなみに、このCDの表紙写真はこの場面である。

彼は、勇壮なレチタティーボで、
「この気持ちはどうして離れない」と、
恋の悩みを歌うが、
「憧れの気持ち」がアリアとなる。
「この幸せを幸せと思ってはならないのか」などと、
自問する部分など、
何とすばらしい管楽合奏の伴奏がついていることだろう。
さすが、タイトル・ロールの出番である。

これから、王様の手下たちが、エンマを探しに来る緊迫のシーン。
二人は、さっきの二重唱の後、どこかでいちゃついている設定。

どうやら、このエンマは、
エストレッラのようなタイプではない。

二人は驚いて出て来た所をフィエラブラスに捕まるが、
フィエラブラスは、ショックを受けながらも、
エギンハルトを逃がす。
エンマの慈悲を乞う歌など、
美しい瞬間が散りばめられている。

この後、二人でいる所をカール王に見つかり、
フィエラブラスは無実の罪を着せられてしまう。

この長大なフィナーレの前半を見るだけでも、
シューベルトの使ったさまざまな魔法が、
聞き取れる。
彼は、台詞もメロドラマもレチタティーボも、
すべてを、舞台効果を考えて最適選択した。

Track9.重唱と合唱。
このシーンもかなり絵画的かつ劇的である。
王様は、こともあろうか、エギンハルトを呼び寄せ、
フィエラブラスを牢にぶち込むことを命じる。

当然、エギンハルトは真犯人であるからひるむが、
トランペットが鳴り渡る。
夜が明けて、彼は出立しなければならない。

三人の若者たちは、
「ただ耐えるのだ、黙っていよう、
そうすればきっと報われる、
心の中を覗かれてはならない」
という、意味深な歌を歌い、
兵士たちの合唱は、平和の使者の出立を歌う。

ここでも、ベルリオーズ、
特に「トロイ人」などが想起されて仕方がない。

今回は、CD一枚目、第1幕だけ聴いて終わりにする。

得られた事:「『フィエラブラス』は検閲という制約をかいくぐりつつ、ドイツ英雄オペラという新ジャンルを目指した、志高い作品であった。」
[PR]
by franz310 | 2011-04-09 23:28 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その271

b0083728_1804398.jpg個人的経験:
シューベルトの友人たちが、
美学として共有していた
と思われる自己犠牲。
シューベルトの大オペラ2曲のうち、
2曲めのものは、
この自己犠牲を主題にしたものである。
しかし、この力作もまた、
歴史の闇に葬られてしまった。
それは、前の大作の比ではない
忘却の淵に沈んだのである。


この作品が、本格的に上演されたのは、
なんと、シューベルト生誕100年も間近と言える、
1988年である。
これはアバドが指揮をしたもので、
私も、ずっと前に日本盤CDを入手した。

ここで、シャルルマーニュ帝の役を受け持って歌ったのが、
前回、シューベルトの友人たちの歌曲を歌っていた、
オランダ出身のロベルト・ホルであった。
また、イケメンの騎士ローラントは、
シューベルトの大オペラ第1作、
「アルフォンソとエストレッラ」のDVDにも、
アルフォンソの父親役で登場した、
トーマス・ハンプソンである。

ということで、陣容からしても、
当代屈指のシューベルティアンを集めたこの演奏は、
実に、シューベルト史に残るものだと言って良いだろう。

今回取り上げるCDでも、
この事は特筆されていて、
解説の最後は、このように締めくくられている。

「このオペラは、1897年、カールスルーエで初演された。
さらなる舞台の試みは、ブリュッセル、ペルージア、
アーヒェン、フィラデルフィアでなされているが、
これらはすべて短縮版によるものであった。
全曲の完全初演はクラウディオ・アバドの指揮によって、
ヴィーン国立オペラで1988年5月になされている。」

「英雄ロマンオペラ」と題された、
この大歌劇「フィエラブラス」はまた、
シューベルトの友人たちが愛した歌曲「吟遊詩人」と同様、
身分違いの恋をもテーマにしている。

主役級の騎士エギンハルトは、王女エンマに恋をしていて、
「ああ、王の高貴なお嬢様、
あなたは世界を統治することになっておられる。
それに対して、この私は貴族の貧しい息子、
まだまともな騎士にはなっていない」と、
苦しみを打ち明けるように。

さて、今回、取り上げるものは、
1959年という時期に、
ベルンの放送局が録音したものであるから、
当然、短縮版である。
放送録音でモノラルである。

このCD、シューベルトを聴きたい人用というよりも、
この異常な表紙デザインから分かるように、
騎士エギンハルトを歌った、
フリッツ・ヴンダーリヒの歌を聴きたい人用のもの。

それにしても、ヴンダーリヒも気の毒である。
隠し撮りのような、こんなへんてこな表情の写真が、
商品に使われるなどと考えてもいなかっただろう。

ということで、このCD、
この若くして亡くなった不世出の名歌手が歌っていなければ、
当然、お蔵入りになっていたはずの録音である。

ハンス・ミュラー=クレイ指揮、
ベルン州立オーケストラという表記も、
まったく触手が動かない。

中には、この指揮者の写真があって、
これを見る限りは、厳格な学者のような風貌である。

エギンハルトの相手、エンマは、
ジークリンデ・カーマン、
主人公フィエラブラスはルード・ティンパー、
もうひと組のカップル、ローラントとフロリンダは
レイモンド・ウォランスキーとヘティ・プリューマッヒャー、
カール大帝はオットー・フォン・ローアが歌っている。

プリューマッヒャーとローア以外は、
あまり見たこともない名前で、
私は誰一人知らない。
プリューマッヒャーの写真は、
解説のブックレットにもあるが、
なかなか魅力的である。

歴史的な音盤を復刻するので有名な、
アルキペルのもので、MYTO、ヒストリカル・ラインと、
銘打たれているが、何のことやら分からない。

とにかく、このCDは、このオペラをシンプルに、
1枚にまとめてくれていて、大変ありがたい。
廉価盤であるし、それゆえに解説もシンプルだ。

この録音は、シューベルト・ファンには、
昔から知られていたもののようである。

1992年に、ナツメ社から出ていた
「クラシック名曲・名盤辞典」の第二部に、
シューベルトのオペラのCDが、
まとめていくつか紹介されているが、
ここで、アバド盤の紹介ついでに、
「ヴンダーリヒがフィエラブラスを歌っている興味深いCDもある」
と、さらりと紹介されているからだ。

しかし、ヴンダーリヒが、
主人公の役を歌っているわけではない。

なお、これを書いた小林宗生氏は、
この「フィエラブラス」を、
「タイトルロールの音楽的役割が少なく、
そしてアリアらしいアリアがなく、
アンサンブルと合唱に重点が置かれている
オペラらしくない特色を持っている点が新鮮」、
「長大な歌物語として十分楽しめる内容」、
と書いている。

さて、この本でも、「このオペラの魅力を良く生かした演奏」
と書かれ、素晴らしい布陣の点でも決定版であるアバド盤は、
この複雑なオペラを初めて紹介するには、
解説がまずすぎた、と言っても言い過ぎではないかもしれない。

ジークフリート・ネーフという人が書いた、
解説の、「価値の判断は留保して・・」という題名からして、
実に、腰が引けている。
幻の大作の歴史的蘇演に興奮した人であれば、
こういう書き方はしないものだ。

その点、今回のCDは明解だ。
(残念ながら、誰が書いたか不明なのだが。)
「こうした美しい音楽は無視されるには惜しんで余りある」
とはっきり書いてくれている。

では、その解説を読んで見よう。
お決まりの、シューベルトのオペラが、
不遇である現状の説明から入っている。

「運命の女神はシューベルトに対し、
全く優しくなかったばかりか、
彼女のもっとも厳しい石つぶてや矢を、
彼のオペラへの努力に対して放った。
シューベルトは9曲のオペラを完成させたが、
そのうち、2曲のジングシュピール、
『双子の兄弟』、『魔法の竪琴』しか、
生前に舞台にかけられなかった。」

そして、不遇な理由を列挙している。

「ヴィーンの歌劇場が、シューベルトの、
二番目の、最も壮大な英雄的、ロマン的オペラの試みを、
拒絶した理由としては、様々な理由が提出されてきた。
たとえば、ウェーバーの『オイリュアンテ』の失敗による、
ヴィーンにおけるドイツ・オペラの拒絶、
シューベルトの舞台作品に対する経験不足、
そして、何よりも、
多くの批評家が矛先を向けるのは、
シューベルトの親しい仲間、
レオポルド・クーペルウィーザーの兄弟、
台本を書いたヨーザフ・クーペルウィーザーの
ドラマの能力不足であった。
1824年3月31日、
シューベルトはレオポルドに、
『君の兄さんのオペラは、
舞台にかからないと宣言されたので、
僕の音楽は無駄になった。
またも、僕は時間を無駄にしてしまったようだ。』
ドイツの音楽学者、アインシュタインは、
『リブレットはもったいぶったナンセンスだ』と
全面的に賛成している。
しかし、シューベルトの最初の傑作歌曲集、
『美しい水車屋の娘』と同時期に書かれた、
かくも美しい音楽が無視されるのは、
惜しんで余りあるものだ。」

ということで、ここでは、音楽は良いが、
台本が悪いという、これまた良く聞く話に落ち着いた。
が、この台本で良いと考えたのはシューベルト自身である。

余談ながら、私は、この3月31日の日付を見て驚いた。
こうして訳出してみた日が、
それから187年後の3月31日だったからである。

「『フィエラブラス』のテキストは、
中世フランスのロマンスと、
ドイツの伝承『エギンハルトとエンマ』の、
ごった煮であるが、何故かシューベルトは、
初めのうち、これを高く評価していた。
崇拝していたベートーヴェンと同様、
シューベルトもまた、
不名誉と死から囚われ人を解放する
ヒロインを描いたオペラを、
書こうと思った。」

ということで、「エギンハルトとエンマ」の話を、
まず、中心に考えた方が良い。
何故なら、主人公であるはずの、
フィエラブラスは、ほとんど何も活躍しないからである。
そして、この録音でも、名歌手のヴンダーリヒは、
エギンハルトの役を歌っている。

なお、以下、あらすじが出ているが、
第1幕のことばかり書かれている。
第1幕の解説が15行であるのに対し、
第2、第3幕の解説は、6、7行で終わっている。

アバドのCDも一枚目が第1幕で、
CDの二枚目に第2、第3幕が入っていた。

また、ここでは、カール大帝は、
シャルルマーニュということになっている。

あらすじ:
「第1幕:
幕が上がると、シャルルマーニュの城の一室である。
その娘、エンマと、侍女が糸紡ぎの歌を歌っている。
騎士エギンハルトは、エンマに、
その父親のイスラム教徒に対する勝利の報を、
伝えに入って来て、
ついでに彼女への愛を打ち明ける。
シャルルマーニュは、勝利した軍隊を率いて帰還する。
その捕虜の中には、イスラム教徒の、
誇り高き王子、フィエラブラスがいる。
騎士ローラントは、彼を哀れみ、同情し、
その命乞いをする。
エンマを見るや、フィエラブラスは、
たちまち恋心を感じるが、
それは甲斐なきこと。
エンマとエギンハルトは、
フィエラブラスが報われぬ愛を嘆いている間、
こっそり密会をしている。
シャルルマーニュは、
娘が、エギンハルトと、
禁じられている会合を持っている所を発見する。
しかし、彼はうまく、それをフィエラブラスのせいにして、
フィエラブラスは彼女のために、
その罪を被って即刻、地下牢に入れられる。
騎士たちの使節団は、実はフィエラブラスの父である、
イスラム教国の王に和平を申し出るべく出発しようとしている。
エギンハルトは良心がうずき始め、
彼の罪をフィエラブラスの父親に打ち明け、
責任を取ろうとする。」

Track1.序曲がまず演奏される。
さすがに半世紀前の録音であるから、
鮮度は期待できないが、聞き苦しいものではない。

この序曲は、序奏部の緊張感が素晴らしい。
不安に満ちた弦のトレモロも、
ロマンティックなホルンの唱和も神秘的である。
木管のかけあいもシューベルトならではのもの。
主部は、どかーんと力強く単純だが、
これも、楽しい舞台が始まる期待を高めるものだ。
この指揮者の堅実で克明な音楽作りが聞き取れる。

第1幕からは、ここでは、以下の6曲が演奏されている。
この後、各曲の始めに、
放送時の内容解説が入る。

Track2.合唱とエンマ。
動入曲「銀の糸が」
ここでの解説は、
「城中でエンマが糸紡ぎの歌を歌う」みたいな感じ。

女性合唱が侍女たちの糸紡ぎの様子を表す。
エンマは、一人

Track3.エギンハルトとエンマ。
第2曲「ああ、明るい希望に心ははばたく」
エギンハルトが来て愛を語る、みたいな解説。
エギンハルトの、身分違いの恋の悩みに答え、
手柄を立てて父に賞賛されればよいだけだ、と、
エンマが言う。

二人は、改めて愛が確認され、感極まって、
「遠い目標に向かって戦いましょう」と唱和する。

が、爆発するような歓喜ではなく、
いかにも、シューベルトらしい、
初々しい二人の、躊躇うような曲調。
ベッリーニなら、ここで、一発、
不自然なまでの大砲を撃ったはずであるが。

ヴンダーリヒの美声が聴けるが、
エンマのカーマンの声も美しい。

曲は後半、テンポをリズミックにして、
シューベルトが得意とした、
力で押すような雄渾な表情を垣間見せる。

この後、凱旋のシーンがあるが、ここでは、
これは省略されている。

Track4.オギエ、ローラント、カール王、合唱。
第4曲A「王よ戦利品は」
いきなり、オギエとは誰だ、と思うが、
これは、カール王の騎士の一人で、
彼はちょい役にすぎず、
単に戦利品が欲しいと言っているだけ。
問題は準主役のイケメン騎士ローラントが、
捕虜になっているフィエラブラスを自由にして欲しい、
と王に頼むところだが、そこまでは長いので演奏されていない。

合唱が盛り上がって、戦勝を喜んでいる。

Track5.フィエラブラス、ローラント。
第5曲「勇気を持って希望を持とう」
ここでは、タイトルロールとイケメンの二重唱で、
見せ所になりそうだが、録音のせいか、
二人のおっさんが声を張り上げているだけに聞こえる。

実は、この間、いろんな事が起こっている。
ややこしい事に、昔、ローマに、この二人は居合わせ、
フィエラブラスはエンマを見初め、
ローラントは、フィエラブラスの妹のフロリンダを見て、
一目惚れしたと言う。

ラジオ解説もそこまで説明しきれなかったのか、
何も言っていない。
その代わり、次の場面の解説は長く、
エンマとエギンハルトの密会が、
フィエラブラスの冤罪へとつながることが説明されている。

Track6.エギンハルト、エンマ。
第6曲A「夕闇が静かに大地に降りてくる」
ここは、ピチカートに乗って歌われる、
悩ましいセレナードで、エギンハルトの切ない思いが歌われる。
これは、悩ましい夜の雰囲気たっぷりのもので、
メロディもしみじみしていて、
ヒットしても良さそうな要素を持っている。

エンマの希望に満ちた激励に移行する転換も、
素晴らしい効果を上げている。

Track7.フィエラブラス。
第6曲B「どうして僕を苦しめるのだ、不幸な運命よ」

恋人たちの様子を見て、
捕虜となっているフィエラブラスに、
さらなる失恋の打撃が襲う。

絶妙なオーケストラの前奏が、
その心の動きをすべて言い尽くしており、
フィエラブラスのレチタティーボは、
「苦しみは男にはふさわしくない、
心を落ち着けて耐えるのだ」という、
勇気を奮い立たせるアリアに続く。

ここで、すでに自己犠牲の心、
「この幸せを幸せと思ってはならないのか」と、
愛する人の幸せを第1に考えている。
後奏も、闇の中に、この激情を押さえ込む様子が、
オーケストラで素晴らしく表現されている。

この後、フィエラブラスは、
ヤバい場面から逃れようとしていたエンマと、
偶然、突き当たった所を王に見つかってしまい、
牢獄に入れられてしまうが、そのあたりはすべて、
このCDでは省略され、解説でごまかされている。

「第2幕:
イスラム教徒の王の城中。
その娘、フロリンダは、
兄、フィエラブラスのことと同じように、
ローラントの事を案じている。
エギンハルトが、彼の罪を、
彼女の父に告白すると、王は騎士団に怒りを降り注ぎ、
彼等は牢に入れられてしまう。
囚人たちの中に、フロリンダは愛するローラントを見付ける。
フロリンダは、牢のある塔に忍び込み、
彼とその仲間を解放する。
小競り合いがあって、
エギンハルトは何とか逃げることが出来たが、
ローラントは捕まってしまう。」

この幕からは、各幕で一番多い、10曲が選ばれている。

Track8.エギンハルト、ローラント、合唱。
第7曲「すがすがしい朝の光をうけて」

ここでは、国境を越えた騎士たちが、
朝の空気の中を進んで行く様子が歌われるが、
とても、戦時中とは思えない、
平和な合唱である。
エギンハルトの歌も呑気である。
「リートと合唱」と書かれているように、
素朴でナイーブな感じである。

この曲は、次の曲、さらに第21、23番と共に、
1835年に演奏された記録があるらしい。

これは、井形ちづる著「シューベルトのオペラ」に、
詳細な上演史が出ていて分かった。
が、今回のCDの演奏については書かれていない。

いかにもビーダーマイヤー期の合唱曲という感じで、
とても爽やかで楽しい。

Track9.エギンハルト。
第8曲A「決心した、彼の鎖を解くのだ!」

最初は、朗らかに進軍していたエギンハルトも、
だんだん、心が重くなって、
フィエラブラスの父親の顔を見ることが出来ない、
ともんもんと始める。

ついに、振り絞るようなオーケストラに、
「深く傷ついた友を助けるために、
愛を犠牲に、ぼくの命を提供しよう」という、
悲痛なレチタティーボが続く。

歌劇では、この間、エギンハルトは、
イスラム教徒軍に見つかってしまう。

Track10.合唱、エギンハルト、ブルタモンテ。
第8曲Aの続き「あの音は何だ」
ここでは、エギンハルトの吹いた合図のホルンが、
友軍を呼び寄せようとして、
イスラム軍に動揺が走る様が描かれる。
しかし、結局、エギンハルトは敵の手に落ちてしまう。

ホルンで合図するあたり、
「アルフォンソ」と同じ小道具の使い方である。
このあたりの緊張感も絵画的な効果もさすがである。

この第8曲も、先の1835年に演奏されており、
翌36年にも再演されているらしいから、
エギンハルトの悩ましい状況を歌ったこの場面は、
オペラの代表的なシーンと考えられていたのであろう。
管弦楽も多彩な魅力を発揮して、一幅の音画になっている。
声との絡みが自由で、ベルリオーズを思わせるものがある。

Track11.フロリンダ、マラゴンド。
第9曲「地上の栄光や輝きをはるかに越えた」
マラゴンドは、イスラム側の王女、
フロリンダの友人である。
ソプラノとメゾの二重唱であるが、
華やかなものというよりは、
天上的な感じがする。

城の中で、フロリンダはローラントを想い、
マラゴンドは、
「幻想があなたを惑わすことのないように」
と忠告をしている。
敵方の騎士と恋愛関係など妄想だということか。

しかし、「アルフォンソとエストレッラ」も、
和解の物語であった。
それにしても、「アルフォンソ」と比べ、
何と、複雑な筋になっていることであろうか。
こんな侍女が出て来てアドバイスするというのは、
ドニゼッティなどとそっくりである。

この歌劇が、救出劇だとすると、救出するのは、
このフロリンダである。
とすると、かなり重要な役柄。

ようやくプリュマッヒャーの声が聴けるが、
エンマの声よりも、すこし力が弱い感じ。

Track12.ボーラント、エギンハルト、
フロリンダ、マラゴンド、ブルタモンテ。
第10曲「不実なフランクの悪者に」

これは、イスラムの王、
ボーラントの前に突き出されたエギンハルトが、
王の息子、フィエラブラスが、自分のせいで、
捉えられていると打ち明けたがゆえに、
王様が怒り狂うシーンであるが、
王様は、最初、口火を切るだけで、
後は、五重唱になって、立体的なアンサンブルを聴かせる。
管弦楽はオルガンのような響きを再現し、
独特の効果を上げている。

ここで現れるブルタモンテは、イスラムの指揮官で、
「不実な悪者に天罰を」と叫んでいる。

Track13.合唱。
第11曲「偉大な天がこの土地に」

平和の使者として、
フランク王国の騎士たちが現れる行進曲である。
「天からの最高の授かりもの、
それは平和の神聖な絆」と、
喜ばしい合唱が響く。

Track14.ボーラント、合唱、ローラント、フロリンダ。
第12曲「お前たちの死をもって償うのだ」

せっかく平和の歌が歌われたのに、
ローラントは、何故か、余計な事を言って、
台無しにしてしまう。
フィエラブラスは、改宗しようとしている、
などと言えば、父親が怒り狂うのもおかしくはない。

それでも、ローラントは、
「命に執着しないのが勇敢な騎士だ」とか、
偉そうなことを言うので、
フロリンダは、やきもきして、
「ああ、彼を危機からお守り下さい」と歌い、
ボーラントは、
「いけ、恐ろしい牢獄へ」などと叫んでいる。
非常に複雑な楽曲が並び、
シューベルトの筆が冴えている。

Track15.フロリンダ。
第13曲「不安に満ちたこの胸に」

騎士たちが牢獄に連れていかれたので、
ものすごい管弦楽の爆発をバックに、
苦悩したフロリンダが、絶叫したような歌を聴かせる。

言うなれば、狂乱の場みたいなもので、
「苦境に襲われ、
乙女の優しい心は粉々になってしまった」と、
シューベルトらしからぬ表現が聴かれる。

Track16.フロリンダ、ローラント。
第15曲A途中「彼はどこ?死の恐怖にも負けず」

かなりのカットがあるが、
続いて、フロリンダの絶叫。
今度は、ローラント救出に塔の中に入って行くシーン。
オーケストラの多彩な効果は、
素晴らしい効果を発揮する。
ローラントと出会って気絶したり、
気絶から回復したりする。

Track17.フロリンダ、ローラント、合唱。
第15曲B「墓に入る直前に」

これは、死を覚悟した二人の
美しい愛のデュエットである。

「死の苦しみが軽くなった、
愛しい人の口から命が湧き上がった」と歌い、
合唱は「彼等の美しい心の絆に栄えあれ」と祝福する。
管弦楽の楽器が一斉に花開いて、
一緒になって、この状況を祝福している。
これは素晴らしい音楽だ。

この後、第2幕は、敵に包囲されたり戦闘があったりと、
いろいろあるが、ここでは、すべて省略されている。

「第3幕:
シャルルマーニュの城。
エンマはその間、エギンハルトとの経緯を告白する。
エギンハルトが、仲間が危ないことを報告すべく戻って来ると、
彼は、その愛の破綻を贖うように彼等を解放するべく送り出される。
フィエラブラスが同行する。
ちょうど、ローラントが処刑される寸前で、
騎士たちが到着し、イスラムの王はすべてを許し、
祝宴となる。」

このCDでは、ここから、3曲が選ばれている。
エンマの話が解説では出て来るが、
そのあたりはすべて省略されている。

Track18.フロリンダ、合唱。
第21曲A「悲嘆に暮れた激しい苦悩が」

ここは第2幕と同様、塔の中で、フロリンダは、
死を覚悟しながら、「愛しい人の命と共に、
私の命も消えていく」と歌い、
合唱は、「まだ希望がある」と、エギンハルトに期待をかける。

このソプラノ付き男声合唱曲もなかなか聴き応えがある。

この曲は、1835年に初演されて以来、
高く評価されていた部分のようで、
翌年にも再演されている。

Track19.ボーラント、合唱。
第22曲途中「死を与えよ」

恐怖の火刑台が作られ、
ボーラントは、「フランクの傲慢なものらは、
地獄に落ちよ」と歌い、
「すべての罪は血で贖え」と合唱が唱和する。

Track20.全員。
第23曲C「さあ、長く待ち焦がれた幸せを喜ぶがいい」

ここでは、フランクのカール帝が登場し、
戦いに勝利したことを宣言し、
イスラムの王に向かって、
「もはや反目する理由はない」と和平を申し出る。
後は、エギンハルトも許されて、大団円へといたる。

この部分も、1835年に初演されたらしい。

このように、かなり割愛されていて、
このCDだけでは、
「フィエラブラス」の全貌が明らかになるわけではないが、
筋も整理され、音楽がさらに進化していることも分かって、
まずは、入門盤の働きはしていると考えて良い。

得られた事:「シューベルトの『フィエラブラス』は、救済シーンあり、気絶シーンありで、牧歌的な『アルフォンソとエストレッラ』よりも、ずっと時代の聴衆に近づいている。」
[PR]
by franz310 | 2011-04-03 18:01 | シューベルト