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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その262

b0083728_21413936.jpg個人的経験:
シューベルトのオペラ、
「アルフォンソとエストレッラ」には、
もう一種、入手できるDVDがあった。
これは1997年のシューベルト・イヤーに、
NHKでも放映されたもののようで、
DVDのパッケージの裏面には、
アンデアウィーン劇場で、
1997年の5月に上演されたものを、
ヴィーン音楽週間、チューリヒオペラ、
オーストリア放送、
NHKとで共同制作したものとある。

その割には、ナクソスのレーベル名があり、
ディスクはカナダ製で、
印刷はアメリカで、
字幕に日本語はない。


「オールスターキャストで、
世界的に有名な合唱団とオーケストラが、
有名なニコラウス・アーノンクールの指揮で、
めったに演奏されないシューベルトのオペラを、
彼の生誕200年に演奏したもの」
と、これでもかこれでもか、
と宣伝文句が並んでいる。

おそらく、放送用に撮られ、
そのままお蔵入りになりそうだったのを、
2009年になって、ようやく発売されたもの。
ナクソス様々である。

「この分野での経験の浅さにも関わらず、
シューベルトは、痛切に美しい音楽を付けており、
オーケストラの色彩の繊細さ、
強烈な声のラインは特筆すべきである。
二度にわたるエミー賞を始め、
多くの貴重な賞を受賞したブライアン・ラージが、
歴史的ヴィーン芸術祭における、
このシューベルト最大の野心作を監督している」
とあり、ものすごく興味がかき立てられる。

しかし、このDVD、表紙を見た限りでは、
あまり触手が動くものではない。
陰気な雰囲気の中、不審な人物がよりあって、
何だか悪巧みしているように見える。

これまで、アルフォンソに親しんで来た人には、
すぐ分かるだろうが、これは、
最後に、アルフォンソとエストレッラが、
めでたく結ばれるシーンである。
彼等を囲んで、二人の父、フロイラとマウレガートがいる。
とても、国王とは見えず、マフィアの親分みたいだが、
実際、そんな感じの演出になっているのだから仕方がない。

最後の大団円がこんなしょぼさなら、
もう見たくない、という人がいてもおかしくはない。

しかし、このフロイラにはトーマス・ハンプソン、
マウレガートには、オラフ・べーアを当てたという、
すごい布陣である。
スウィトナー盤が、フィッシャー=ディースカウと、
ヘルマン・プライを当てたのに近い気迫を感じさせる。

しかし、若い二人を歌うウォトリッチと、
オルゴナゾヴァという人は、
実は、私は知らなかった。
オペラを鑑賞して分かるが、
ウォトリッチは、若々しいが、
オルゴナゾヴァは年配に見える。
これは残念無念だが、女性に怒られそうなので、
これ以上は書かない。

ウィキペディアには、このソプラノは、
1961年、スロヴァキア生まれとあるから、
36歳の時の録音である。
ナクソスからは多くの録音が出ている。
そのおかげで、このDVDがお蔵入りを免れたのであろうか。

アルフォンソ役のウォトリッチは、
1963年生まれのドイツ人らしいが、
オルゴナゾヴァより2つ若いだけだった。

ついでにアロンゾ役のムフを見ると、
1949年生まれ。

55年生まれのアメリカのハンプソン、
57年生まれのドイツ期待の新星だった、
オラフ・ベーアよりベテランで、
すごい存在感で歌っている。
軍服を着て、完全に軍国主義国家の主席並。

オペラの中で、ハンプトンは、
威厳ある王をうまく演じている。
ベーアは、簒奪者であるから、
黒めがねをかけて、いかにも悪者風である。
鉄砲を持った親衛隊がいたり、
土嚢が積まれていたりして、
幾分、殺伐としており、
キューバあたりの独裁体制を具現したような演出になっている。

解説は、リチャード・ローレンスという人が書いている。

「19世紀の最初の40年に作曲された
ドイツ・オペラには、今日、あまり触れる機会はない。
ベートーヴェンの『フィデリオ』(1814)と、
ウェーバーの『魔弾の射手』(1821)以外は、
空白の時期である。
事実、多くの音楽愛好家たちは、他の作曲家同様、
シュポア、メンデルスゾーン、シューマンらが、
オペラを作曲したことを全く知らないかもしれない。
フランツ・シューベルトもまた、
そうした作曲家に数えられる。
彼は、その最初のオペラを14歳で書き、
翌年、モーツァルトの『魔笛』を見て、
1814年には、『フィデリオ』の最終バージョンを見て、
その7年後には、『魔弾の射手』のヴィーン初演を見ている。
彼は、師のサリエーリからオペラの作曲を学び、
サリエーリの師であるグルックのオペラを学んだ。
おそらく、モーツァルトの『フィガロ』や、
『ドン・ジョヴァンニ』をも鑑賞している。
要するに、彼はオペラの世界に心から親しみ、
引きつけられていたのである。」

「最初のオペラ作曲の努力は、
1812年頃からなされており、
それから1820年までの間に、
十曲以上を書いている。」

そんなにあったかな、
と数えてみると、1811年の作とされる、
「鏡の騎士」は数えないとすると、
1.「悪魔の別荘」、2.「アドラスト」(未完)、
3.「四年間の歩哨勤務」、4.「フェルナンド」、
5.「クラウディーネ」(後半消失)、
6.「サマランカの友人たち」、
7.「人質」(未完)、8.「双子の兄弟」、
9.「魔法の竪琴」、10.「シャクンタラ」(未完)
あたりが数えられる。

「いくつかは完成されることはなく、
一部分だけが残っているものもある。
多くはジングシュピールで、
これはいわば、レチタティーボではなく、
いわば、語られる対話付きのオペラである。
唯一、生前に公演があったのは、
一幕のジングシュピール『双子の兄弟』だけであり、
1820年の初夏に6回演奏された。
これは帝室オペラ座である
ケルントナートーア劇場から委嘱されたもので、
ミヒャエル・フォーグルの周旋によるものだった。
(フォーグルは、アルフォンソの成立には関与してなさそうだが、
シューベルトの歌曲を広め、作曲家の友人であり続けた。)」

このフレーズ、いったい、何を言っているのか、
ちょっと分からないが、読み進めて行くと、
分かるように、
シューベルトの後見人のようなフォーグルは、
何も知らされずに作曲が行われたことについて、
面白くない感情を持っていたということか。

「シューベルトはしかし、
本格的なオペラで評判を取りたかった。
1821年の秋、彼は友人のショーバーと、
休みをとってヴィーンを去った。
ショーバーがリブレットを書いた、
『アルフォンソとエストレッラ』を計画して。
信じがたい事に、シューベルトは、
ショーバーがまだ書いている途中から、
シューベルトは曲を付け始めた。
おそらく、劇場経験もない素人詩人のショーバーが、
どのようにドラマを形成するつもりであったかを知らずに、
シューベルトは早まって突撃を始めた。
もちろん、すべては計画済みであり、
先に合意済みで
結果として、どちらもいかなる修正の必要性も、
認めなかったということは、あり得ない話である。」

という風に、若い友人たちは、
静かな場所で集中したかったと同時に、
他の人からのちゃちゃが入らないように、
秘密裏に計画を進めていた感じがなくもない。

「フォーグルの意見は時代遅れだから」などと、
ショーバーが言ったかもしれないし、
シューベルトが、フォーグルを驚かせてやろう、
などと、おちゃめな気持ちを持っていたのかもしれない。

実際、フォーグルが実演した「双子の兄弟」などは、
シューベルトにとっては、茶番劇のように思えたかもしれない。
自分は、もっと本格的なものを書けるのに、
と、不満を持っていたかもしれない。

シュパウンは、シューベルトがこのオペラの台本を、
気に入らなかったと明言し、
「大して興味を感じないままに書いてしまった」
と書いている。

ショーバーこそは、
フォーグルとシューベルトを結びつけた恩人だったので、
気安く、「あのおっさん、また、つまんないもん、
持ってくんじゃねーの」とか言った可能性もあろう。

「シューベルトは第1幕を、
ケルントナートーア劇場での
『魔弾の射手』に間に合うように、
ショーバーがヴィーンに帰ってから、
2週間後、10月16日に書き上げた。
この頃、劇場監督に任命された、
ドメニコ・バルバーヤが、
シューベルトやその他の作曲家を招き、
ドイツ・オペラを検討するので、
持って来るように持ちかけた。
『アルフォンソとエストレッラ』は、
1822年2月に完成され、時間通りに提出された。」

この話も、私は驚いた。
あまりにも、出来すぎた話ではなかろうか。
バルバーヤがドイツ・オペラを見たがるのを、
予測していたような動きではないか。
あるいは、ウェーバーが、21年の夏に、
「魔弾の射手」で当たりを取った事に、
両方、端を発しているのかもしれない。

さて、DVDの解説だが、このように続く。

「これは、しかし、おそらく、
フロイラの役を想定されていたであろう、
ミヒャエル・フォーグルによって拒絶された。
彼は、共鳴せず、その書法のまずさを指摘したに相違ない。」

これを読むと、
シューベルトがせっかく作ったフロイラの役を、
フォーグルが全く喜ばなかったように読める。
フロイラの役は、このオペラでは非常に重要で、
第1幕も第2幕も、彼の長大なアリアで始まるのだから、
シューベルトは、さぞかしがっかりしたことだろう。

台本を書くショーバーにも、
フォーグルが目立つようにと、
念を押していたはずである。

ようやく、このオペラが、
やたら、男声を要求した作品であることに、
合点が行った。

「その後、いろいろな場所で、
上演の試みがあったがすべて失敗した。
フォーグルのかつての弟子で、
『フィデリオ』で最初にレオノーレを歌った、
ソプラノのアンナ・ミルダー=ハウプトマンは、
ベルリンから、がっかりしたような手紙を書き、
ケルントナートーア劇場で演奏されて失敗した、
『オイリュアンテ』についての、
シューベルトの反論に立腹したと言われるウェーバーも、
ほとんど上演の努力はしてくれなかった。
『オイリュアンテ』を予告するような、
『アルフォンソとエストレッラ』は、
語られる対話のない通作オペラである。」

確かに、「魔弾の射手」などは、
時折、会話が差し挟まれて、
その部分は音楽空白部であるが、
「アルフォンソ」は常時、音楽が鳴り響いていて、
さながら長大な劇的交響曲のごとしである。
私は、今回、散々、この曲を聴いて、
すっかり、メロディが頭に入ってしまった感じがしている。

「舞台は8世紀のスペインで、
マウレガートに王権を簒奪された、
正統なレオンの王、フロイラと共に、
アルフォンソは住んでいる。
エストレッラはマウレガートの娘で、
アルフォンソと恋に落ちる。
エストレッラに拒絶されたアドルフォは反乱を起こすが、
アルフォンソに捉えられ、大団円で終わる。」

この何行かで集約されるあらすじは、
フロイラを、シューベルトの友人、
フォーグルと置き換えると、
フォーグルが王位を取り戻し、
息子のようなシューベルトに月桂冠を授ける物語、
などと考えることも出来る。

事実、アルフォンソがフロイラに不満を言うが、
それは、こんな感じである。
「あなたの厳格な命令で、
私は、この谷から出ることは出来ない。」

シューベルトは、フォーグルに、
「あなたの厳格な命令で、
私は、小さな作品しか書かせてもらえない」
と不満を持っていたかもしれないではないか。

あるいは、大オペラはまだ早い。
もっと、機が熟すのを待つのだ、
とフォーグルは言っていたのかもしれない。

その方針に異議を差し挟むオペラだとしたら、
フォーグルも賛成するわけはなかったのである。

そういえば、フォーグルは、
初対面のシューベルトに、
このように忠告していたと言われる。
「あなたは・・ぺてん師的なところがなさすぎます。
あなたの美しい想念を、叩いて広げようとはせずに、
浪費してしまっています。」

「この男の浪費癖が、また現れた」と、
フォーグルは、「アルフォンソ」の楽譜を見ながら、
呟いたりしただろうか。
しかし、それは、「双子の兄弟」などとは、
次元の異なる偉大な作品として結実している。

フォーグルは1768年生まれであるから、
この時、54歳。
ラテン語の小説を読むのを常としていたとされる、
この年配の教養人にとっては、
あまりに史実を無視した台本もまた、
怒りの対象になった可能性があろう。

さて、DVD解説の最後を読んでしまおう。
「シューベルトの死後、ずっと後の1854年、
フランツ・リストがこのオペラの改訂版を、
ワイマールで初演した。
リストの秘書はショーバーだった。
リストは、このオペラを高く評価してはおらず、
形式的に敬意を表しただけであった。
ドラマを緊密にするために、
ここで、アーノンクールも、
いくつかのナンバーをカットしていることを、
書き留めておくべきだろう。」

この解説を書いた人もまた、
あまり、このオペラに対して熱狂的な立場ではなさそうだ。

さて、このDVDであるが、
最近、引退表明をしているアーノンクールの、
エネルギッシュな指揮ぶりで、
序曲が溌剌と始まる。

Track2の村人たちの合唱、
さすが、シェーンベルク合唱団で、
非常に質が高い合唱のハーモニーが楽しめる。
カットを入れた、と解説にあるように、
2分くらいで終わる。

Track3で、ハンプトンが歌うアリア。
ハンプトンは背の高いイケメンなのに、
長髪白髪の老人で、チョッキを着ていて、
囚人のように見えなくもない。

これまた、朗々とした声に、ホルンが鳴り響き、
素晴らしいが、この人徳ある統治者が、
呑気に寝ているところから始まるのに、
少し、抵抗を感じる。

Track4で、再び合唱が現れるが、
村人が暗がりでフロイラを出迎え、
お祝いの飲み食いをしている。
村人は、スラブ風の民族衣装である。

Track5で、いよいよ、
タイトルロールのアルフォンソの、
悩みが打ち明けられる二重唱が聴かれる。
ウォトリッチのテノールは、きりりと張りがあって良い。

アルフォンソの出で立ちは、
ジャケットを着た現代の兄ちゃんである。
失業中の若者がハローワークに行くみたいである。

Track6で美しいアリアが聴かれるが、
ここでの遠くへの憧れの歌は、
ドイツリートの切実さの拡大増殖版で、
内省的であると同時に、
劇場的な広がりを見せる。

Track8の二重唱も、
二人のやりとりが勇ましく、
オーケストラの興奮も、
聴く者をわくわくさせる。

Track8では、
エストレッラサイドが描かれるが、
真っ赤なコートに身を包んだ女性たちが、
狩りの準備をしている。
ベーアは、盲目になったようで、黒めがね。
中央で偉そうにガウンを羽織って威張り腐っている。

Track9で、エストレッラに言い寄る
アドルフォが現れるが、ライフル銃を持ち、
長いだぶだぶのコートの下には、
肩からかけられた弾丸が光っている。
いかにも悪そうながさつなおっさんをうまく演じている。

Track10のデュエットでは、
エストレッラの声量が、このベテランのバスと、
うまく渡り合って、聴き応えがある。
青い背景の下には土嚢が見え、
いかにも殺伐とした、
エストレッラの境遇が描かれる。

Track11は、第1幕のフィナーレで、
今度は、アドルフォの兵隊たちの合唱である。
これから勇ましくムーア人を倒しに行くのである。
マウレガートのオラフ・ベーアは、
白い杖を突いて、ようやく声を出す。
さすがベーア、これまた良い声である。
アドルフォは葉巻をくゆらし、完全に闇社会の人みたい。
その時に流れるオーケストラの色彩のすごい移ろい。

長々と歌われる悩ましい歌声に、
合唱団の不気味な切迫感が波打つ。
エストレッラを寄越せというアドルフォに、
マウレガートもエストレッラも追い詰められる。

ついに、不思議な伴奏が風雲急を告げ、
マウレガートは、聖オイリヒの鎖という、
苦肉の策を切り出すが、
エストレッラの喜びの声は、冴え冴えと美しい。

Track12からの第2幕は、
一転して、黄昏の山頂といった感じで、
暮色に染まり、土嚢の向こうに山並が広がっている。
フロイラは、薬草か何かを取り分けている。

Track13での、
オーケストラの刻一刻と変わる表情は、
このオペラの聞き所の一つではなかろうか。
エストレッラとの出会いを予告して素晴らしい。

だんだん夜も更けて来て、
エストレッラが狩りの道具を持って、
彷徨い入って来る。
完全にナンパ師みたいに、アルフォンソが近づく。
最初はそうは思わなかったが、
このあたりの音楽には、シューベルトの愛情が、
たっぷり注がれているような感じがする。

木管の鳥の声が、期待に胸をふくらませて囀る。

Track14も、すっかり「水車屋」のナイーブさ。
シューベルト・ファンなら、このオペラは、
心から愛するべきであろう。

Track15のエストレッラの弾む声は、
CDで聴いていると唐突に聞こえていたが、
このDVDで見ていると、ごく自然。
シューベルト恐るべし。
何という感情の推移。
デュエットに発展し、
何だか明るい日差しが感じられる。
彼等は不安を感じながらも、
完全に信頼関係にあると見た。

Track16の悲しげな歌もしかり。
エストレッラの帰りたくない心が痛々しい。
切実である。
このあたり、私は、何度でも繰り返して聴きたい。

Track17も、いきなり勇ましくなり、
感情の起伏が激しいが、
若いカップルとはこういうものである、
という感じがする。初々しい。
ここで聖オイリヒの鎖が渡されるが、
悲しい気持ちのエストレッラを慰めるために、
アルフォンソが考えた最後の手段。
まさしく、これくらいの勢いで良い。

Track18からは、風雲急を告げ、
暗闇での反乱の計画が不気味である。
軍隊は皆、小銃を構えていて、
アドルフォは軍刀をかざして実に物騒である。
シューベルトは、ティンパニや金管で、
壮絶な効果を上げている。

この調子で書き続けていると、また、文字数オーバーになる。
ちょっと殺伐としているが、興味深い演出であるということ。
Track19で現れる王の親衛隊たちが、
老人ばかりで、まるで当てにならないというのも、
よく表現されている。
アドルフォ反乱の報に、右往左往するし、
マウレガートはひっくり返ってしまう。
エストレッラの勇気で、民衆も決起して、
素晴らしい迫力の合唱で第2幕は閉じられる。

第3幕では、逃げ回る民衆が描かれ、
焦土となった村はずれの橋が舞台になっている。
再度、言い寄るアドルフォに、エストレッラが、
本当に嫌そうな顔をして、迫真の演技である。
それにしても、何というメロディの宝庫。
アルフォンソの救出も、かっこいいが、
アドルフォがすぐに捕まるのがあっけない。

また、近衛兵たちが逃げまどうのを、
アルフォンソが止めるシーンもなかなか良い。
ホルンを吹くと、
それに答えて友軍が答えるのも泣ける。
しかし、フロイラの登場が間抜けな感じ。
もっと緊迫して、馬ででも飛ばして来て欲しい。

Track29の、真っ暗な橋を渡って来る、
盲目のマウレガートの孤独感も、妙に身につまされる。
躓いて杖を放してしまい哀れである。

ここからは、この前に聴いて、文字数オーバーだった部分に、
今回の感想を書き足して行く。
Trackナンバーは、TDKのDVDのもの。
()内が今回のものに対応。

Track33(Track30).
そこに、フロイラが現れ、
「もはや憎しみは消えている」、
「そなたも十分償ったであろう」
と和解が成立する。
音楽は、敬虔な感情に満ちて、恩寵をすら感じさせる。

イケメンのハンプトンが、ギャングのベーアに対し、
本当に優しそうな顔をして見せる。
杖を拾い上げて渡す演出も美しい。

スウィトナー盤は、ここで、フィッシャー=ディースカウと、
ヘルマン・プライという、二十世紀後半の誇る、
二大バリトンに二重唱を歌わせている。
私は、この素晴らしい和解のシーンに、
様々な思いが去来して、涙が出そうである。

サンツォーニョ盤でも、威厳のあるパネライの声に、
ボリエロの悔悟に満ちた声が唱和されて、
オーケストラもじわじわと盛り上がっている。

Track34(Track31).
フロイラはエストレッラを、
同盟の証として、前の王様に引き渡される。

この部分もまた、うねるようなオーケストラの色調に、
恐ろしい程の感動に襲われる。
大団円の前の小団円であるが、
三重唱が始まる時の、シューベルトの筆の冴え。

アーノンクール版では、次々に村人が集まって来る演出も良いが、
いくぶんあっさりしているかもしれない。

サンツォーニョは、最初、オーケストラをえぐるように響かせ、
そこからテンポを落として、じわじわと幸福な感情を広げていく。

Track35(Track32).
勇ましいラッパの音が遠くで聞こえ、
合唱による勝利の歌が響き渡る中、
全員が着席して、フロイラが王に戻ることを宣言する。
何と、牢から出て来たアドルフォまでが、
服従しているではないか。

ここまで大団円にする必要もなさそうだが、
ショーバーたちは、あえて、そうしたのである。

ここで、首飾りをくれたのがアルフォンソであることを、
エストレッラが告げると、
いかにもシューベルトらしい雄渾なメロディが響き、
アルフォンソに王位と、
エストレッラとの婚約という、
二つの成就がやって来る。

合唱にティンパニが打ち込まれ、
大団円の重唱が重なる。
「若き夫婦に幸あれ」という部分になると、
せっかく高まった緊張がいったん収まるが、
再度、オーケストラは白熱し、
クライマックスに到る。

アーノンクール盤では、兵士の投降に、
アルフォンソが、倒れ込んで戻って来て、
恐ろしい戦闘があったことを暗示していて良い。

スウィトナー盤では、エストレッラの声に誘われて、
二人の王、そしてアドルフォまでが恩寵を讃える。
マティスの声に導かれる合唱までの盛り上がりをかなり堪能できる。

アーノンクール盤では、さすがに、
これはリアリティがないとしたのか、
アドルフォは降参の旗を持っているだけである。
8分の曲が5分に縮められていて、
もっともっと聴きたい感じが残る。

サンツォーニョ盤は、ダンコの声にスケール感がないが、
これはこれで女性的な優しさも含めての大団円ということで、
納得が出来る。
得られた事:「シューベルトはフォーグルを想定して、このオペラを書き、それが仇となっている。」
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by franz310 | 2011-01-29 21:54 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その261

b0083728_11503037.jpg個人的経験:
シューベルトの代表的オペラ、
「アルフォンソとエストレッラ」は、
リストが演奏会形式で演奏しており、
シューベルトの舞台作品の中では、
それなりに演奏歴のあるものだ。
従って、1978年に、
スウィトナーのような大家の棒で、
録音が行われるまで、
演奏がなされなかった、
というのも不自然な感じはしていた。


前回のスウィトナーのドイツ盤解説にも、
「20世紀になると、『アルフォンソとエストレッラ』は、
様々な放送局によって企画されたコンサートで、
時に部分的にではあれ、聴かれるようになり、
1977年と1991年には全曲が舞台にかけられた。」
と書かれていた。
全曲版以外はもっと頻繁に演奏されていたのであろうか。

はたして、というべきか、
1956年10月26日、ミラノでの録音とされる、
サンツォーニョ指揮による2枚組CDが、
galaというレーベルから出ていて、
唸ってしまった。全曲が演奏されている。

イタリア語歌唱というのも怪しすぎるので、一瞬、悩んだが、
フランス歌曲の録音で有名なシュザンヌ・ダンコが、
エストレッラを歌っているとあって、
購入を決めてしまった。

彼女は、私にとっては、
アンセルメとの共演で親しい感じがする。
アンセルメのLPは、私の学生時代に、
大量に廉価盤で出され、
いろいろフランス音楽、というか、
独墺系以外のレパートリーを勉強させてもらった。

このCDでは、この歌手を以下のように解説している。
「1911年1月22日、ブリュッセルで生まれた。
地元の音楽院で音楽の勉強を始め、
1936年、ヴィーンで賞を取り、
エーリヒ・クライバーのアドヴァイスを受けて、
プラハに移り、テノールのフェルナンド・カプリと、
仕事を共にした。
1940年、イタリアでの最初のリサイタルシリーズ後、
彼女は翌年、『コシ』のフィオルディリージで、
オペラ・デビューをジェノヴァで飾った。
これは、録音されていないが、
最も得意とするレパートリーであった。
素晴らしいモーツァルト歌いとして、
彼女は、エクスヴァンプロヴァンスや、
グラインドボーンやエディンバラに招かれた。」

何と、アンセルメとの関係など、
まったく書かれておらず、
フランス音楽の大家かと思っていたら、
モーツァルティアンと書かれている。
完全にイメージが間違っていた。

しかも、エーリヒ・クライバーというのが、
味わい深いではないか。

最初に彼女の声が響くのは、狩りの合唱の中から、
浮かび上がる、日常への不安のアリアであるが、
幾分、陰のある優美な歌い方で、愛おしく感じられる。

また、今回の盤で、
アルフォンソを歌っているのは、
ロッシーニなどで録音も多いルイジ・アルヴァで
ミラノのオーケストラ、合唱団がバックなので、
すっかりイタリア的なものかと思っていたが、
実は、このアルヴァも、
解説によると、ペルーの人だと言うことである。

「1927年生まれのペルー人で、
『チェレネントラ』と『セリヴィアの理髪師』での、
レッジェーロ・テノールとして長きにわたって名を馳せた。
1949年、リマでルイザ・フェルナンダでデビューを飾って、
1989年に引退するまで世界中の主要オペラハウスで歌った。
彼の洗練されたスタイルは、
特にモーツァルト、ロッシーニに適していた。」

第1幕のアルフォンソのアリアでも、
何とも言えぬ青春の憧れを歌い上げて素晴らしい。
こうした、普段は、イタリア歌劇ばかり歌っているような、
歌い手が、心を込めて歌っているのが素晴らしい。

決定的名盤とされるスウィトナーのCDが、
3枚組だったので、この録音、きっとカットがあるだろう、
と思っていたが、通しナンバーはすべて振られているし、
全曲で150分程度なので、無理すれば二枚に入るようなのである。

第1幕でスウィトナー盤より演奏時間が明らかに短いのは、
フロイアのアリアの後の合唱くらい、
第2幕では、エストレッラとマウレガートの合唱付きデュエット、
第3幕では、終曲手前のデュエットと
テルツェットにカットがありそうだが、
基本的にちゃんと全曲演奏していて、
テンポがきびきびしている。
しかし、序曲を初め、スウィトナー盤より
たっぷりと演奏されている楽曲も少なからずある。

残念なのは、第2幕の頭で、
恋人たちが会う魅力的なシーンで、
CDを交換しないといけない点か。
しかし、一息で聴かせてしまうこの演奏なので、
二枚続けて聴けば良い。
ここでは、タイトルロール二人の、
美声が興奮を伝えてやまないのは事実だが。

さて、最初に、格好良く歌い出すのは、
ローランド・パネライのフロイアである。
夢見心地でいかにもカンツォーネしていて、
大変、味わいの深い歌い口である。

ディースカウのような格調高さはないが、
シューベルトは、このように歌われるのも素朴で良い。
が、賢人フロイアというより、
メフィストフェレス風に聞こえなくもない。
それもあってか、第1幕で秘密を告げるデュエット、
妙に、迫力があって、何か起こることに対して、
期待を抱かせる。

この歌手に関しては、そこそこ解説も出ていて、
「1924年10月17日、
フィレンツェ近郊のCampi Bisanzioに生まれた。
フィレンツェでRaoul Frazziに学び、
後に、ミラノで、ArmaniとGuilia Tessに学ぶ。
彼は、そのセミプロとしては、
生地のダンテ劇場で、1946年、
ドニゼッティの『ルチア』のエンリーコ役でデビューした。
1947年、Spoletoの歌唱コンクールで優勝し、
ナポリのサン・カルロ劇場に、ロッシーニの『モーゼ』の、
ファラオーネの役で初登場した。
1951年、彼はミラノ・スカラ座に属し、
そこで、彼は全キャリアを過ごしながら、
ロンドン、ヴィーン、パリ、ヴェローナ、
ザルツブルクにゲスト出演し、
世界中に名を広めた。」

イタリアでの録音であるが、
主要歌手では、ようやくこの人が地元の人。
イタリアあたりなら、どんな歌手でも集められるだろうが、
わざわざ、アルヴァやダンコなどを集め、
気合いが入った録音であることが分かる。

イタリア語による歌唱、
さすが、歌の国の言葉というべきか、
伝統というべきか、
アルヴァの歌唱も、非常に流麗で、
それだけで推進力があり、
最初のアリアでも、切なげではあっても、
軟弱な感じはあまりしない。

しかし、かなり歌い崩しもあって、
何だか、いろいろ考えさせるCDである。

考えた事としては、
1.イタリア語で歌った方が、
  オペラらしく聞こえるのではないか。
2.シューベルトの作品ということで、
  リートの延長の歌い方をしていたら、
  この作品は真価を発揮しないのではないか。
  ということから、このアプローチは正しかったりして。

これらは仮説であって、本当かどうか分からない。

さらに、この人たちの歌は、何となく、
戦前の映画などで歌われる歌のように、
妙に古めかしい感じなのである。
これがまた、シューベルトの時代に近い感じを全体的に漂わせ、
舞台作品として作曲されたことのリアリティを感じる。

何が、そう感じさせるのかは、
ちょっと良く分からないが、
時々、コブシを効かせたり、
ヴィヴラートをかけたりする点だろうか。

3.昔ながらの歌い崩しなどを入れた方が、
  シューベルトのオペラは
流麗さを得ることが出来るのではないか。

こんな事も考えたりした。
何だか、眼前で演じられている様子や、
彼等の表情や衣装までもが眼に浮かぶようなのがすごい。

このCDの解説には、この録音の経緯のような事も、
曲そのものの事も、よく書かれていない。
ポルトガル製とあるが、幸いな事に英語解説であるが、
ライブなのか、放送録音なのか、正規の商業録音かも不明。
聴いた感じでは、ノイズもないので、ライブではあるまい。

そんなに悪い録音ではないので、イタリア国内をターゲットとした、
商業録音にも思えるが、こんなのが売れる市場があったのだろうか。
演奏に関しても、私には大きな不満はない。
オーケストラは伴奏めいているが、
かなり威勢が良く、聴き映えがする。

このサンツォーニョという指揮者は、
ウィキペディアで調べると、
(13 April 1911, Venice - 4 May 1983, Milan)とあり、
現代ものを得意とする指揮者で、
作曲家でもあると書かれている。
ミラノ・スカラ座で、ショスタコヴィッチの「マクベス夫人」、
ベルクの「ルル」、プロコフィエフの「炎の天使」を初演したとある。

カラヤンやケンペなどと同世代の人で、
マリピエロやシェルヒェンに学んだとあるから、
知られざる本格派、というか理知派である。

序曲のテンポも小気味良く、
いささか冗長に感じられる第1幕が、
あっという間に終わってしまう、
この点では、これまで聴いたものの中で、
随一かもしれない。傾聴すべき指揮である。

表紙デザインは、いかにも中世風のもので、
悩ましい日々を送っているエストレッラのように、
物憂げな聖母様、という感じである。
水色の単色線画に黒字タイトルという、
大変、簡素なものながら、私は好きである。

解説は、この曲の内容について書かれておらず、
ひたすら、シューベルトの舞台作品を論じている。
署名もない。

「アルフォンソとエストレッラの大部分は、
ザンクト・ペルテン近郊のオクセンブルクの城で書かれ、
ショーバーとシューベルトは、ここで休日を過ごした。
技術よりも、熱狂に駆られ、
趣向をこらした(ショーバーは、喜々として、
様々な状況を織り込んだ)、
しかし、ドラマ的に弱い、
1曲のオペラを作り上げた。
一度はケルントナートーアから声がかかったようだが、
歌手たちの反対もあって、取り下げられた。
シューベルトはドレスデン、ベルリン、グラーツでも、
上演を試みたが無駄に終わった。
リストによって、死後、初演されている」
と書かれているだけで、
「アルフォンソとエストレッラ」に関して、
特に、聴いて欲しいわけではなさそうである。

シューベルトが作曲したオペラ論みたいなのは、
これよりたくさん書かれていて、
一応、筋は通してある。

「シューベルトの歌曲や器楽曲は、
彼を偉大な作曲家たらしめているが、
彼のオペラ作品は、一つとして、
スタンダードなレパートリーに含まれていない。
音楽的には素晴らしい瞬間があるが、
ドラマとしての弱みゆえに失敗している。
大規模な作品を組み立てる生来の欠点か、
劇場での経験の不足であるかは分からない。
シューベルトは明らかに、
彼の歌曲に見られた、
自然で崇高な表現に見られる、
留まることを知らぬ創造性の障壁となる
劇場の要求や慣習による、
ぎこちなさを感じていた。
しかし、最後のオペラ群は、
もし、長生きしていたら、
彼はオペラの独自の高い領域にまで、
到っていただろうと思われる。
彼の異常な才能は、1808年、
コンヴィクトの生徒になってからすでに明らかで、
サリエーリによる作曲の授業は、
彼が学校を去ってからも1813年まで続いた。
サリエーリは、シューベルトに、
作曲家たるべきものは、
ドラマティックな作品で才能を表すべし、
と教え込んだ。
コンヴィクトでシューベルトは、
すでに早産となるジングシュピール、
『鏡の騎士』の試みを行っているが、
重要なオペラ作品は、彼が卒業後すぐに、
12ヶ月かけて作った、『悪魔の別荘』である。」

シューベルトの作品で、こんなに長い期間をかけて、
作曲されたものがあったかと、
伝記を読み直すと、
1813年10月30日から書き始められ、
翌年の5月15日までに第1版が書かれ、
サリエーリの指導が入って、
第2番が完成されたのが1814年10月22日だとある。

「1815年、父親の学校の補助教員をしていた時、
当時の流行に乗った4つもの舞台作品を書き、
これらはすべてジングシュピールであった。
モーツァルトとベートーヴェンの『フィデリオ』の影響は明らかで、
さらにシューベルトは、ヴェンツェル・ミュラーや、
ワイグル、フンメルらの、
ポピュラーなヴィーンのジングシュピールの他、
フランスの同時代のLe Sueur、Dalayrac、メユールら、
の作品にも明らかに親しんでいた。」

シューベルトの見たオペラというのは、
諸説あるが、フンメルの劇作品というのは知らなかった。
ネットで調べると、「ギース家のマティルド」というのがあるらしい。
メユールのオペラもCDがあるようだ。

「1816年、教職を諦めてから、
1818年まで、実りなきオペラの努力をしたが、
1819年には、歌手フォーグルの影響の結果、
『双子の兄弟』の依頼を受けた。
1820年、彼の音楽付きメロドラマ『魔法の竪琴』は、
めくるめく魔法の効果によって、
決して大成功というわけではなかったが、
一般に、彼の舞台作品を一般に知らしめた。
シューベルトは、1821年から23年にかけて、
さらに4つの完成された舞台作品、
最後の舞台作品群を書いた。
シェジーの『ロザムンデ』の付随音楽だけが、
生前に演奏された。
彼の最後のオペラ、『フィエラブラス』と、
未完成作品『グライヒェン伯爵』のスケッチは、
シューベルトがいかに、その修行時代から、
長足の進歩を遂げたかを示している。
セットやオーケストラの伴奏など、
いくつかの観点から、
その独自の劇場スタイルが姿を現し始めており、
後のドイツ・ロマン派オペラの進展を予告している。」

ということで、この作品も含め、
様々な趣向を織り込んだ、野心的な作品なのである。
ドラマとして弱い、というような批評は、
ひょっとすると、シューベルトは、
わかっとるわいと答えた可能性がある。
「僕たちは、何か、違うものが作りたかったのだ」と。

第2幕の最初に、ドラマ上は無意味な、
「雲の乙女」のバラードが歌われるが、
これなど、ハープを伴うオーケストラは冴え渡り、
かなりシューベルトとしては、こだわりを持った楽曲になっている。
あえて、ドラマとしての停滞をも覚悟して、
一幅の絵画を配置した形である。

二人の出会いと別れのシーンでも、
ダンコの憂いを秘めた声が切実で泣ける。
それを勇気付けるように歌い上げるアルヴァの声が、
若者の弾む心を伝えているのも良い。

また、二幕後半の、すさまじい効果で、
音楽を装飾していくオーケストラの冴え、
さらに、マウレガートの苦悩やアドルフォの裏切りとか、
どこから仕入れて来たかと思う程、
シューベルトとショーバーの筆は入魂ものである。
よほど、効果的な舞台を研究していないと、
ここまで出来ないのではないか。
アドルフォを歌うクラバッシ、
マウレガートのボリエロの歌唱も、
それぞれの個性を捉えていて不足はない。

第2幕の終わりで、
アルフォンソのことを思い出すエストレッラ。
ダンコの声が情緒たっぷりで美しい。
シューベルトならではの、
陰影豊かな親密感に溢れた曲調のすばらしさ。
が、こうした要素は、オペラで盛り上がるだけのものではない。

風雲急を告げる謀反の方に、どんどん密度を増していく、
素晴らしい音楽に対し、
もっとシューベルト・ファンは陶酔し、
賞賛するべきであろう。
サンツォーニョの的確な指揮によって、
白熱の展開を見せている。

さて、このブログでは、この正月(2011年)に聴いた、
TDKで出ていた、コルステン指揮のDVDを聴いた時から、
このオペラを聴いて取り上げている。今回は4回目となる。

その時の記事が、文字超過で書ききれなかった分を、
ここらに入れ込もうと思うが、
このサンツォーニ盤の感想も織り込んで行くことにする。
スウィトナーで聴いた時も書いた。

ただ、以下のトラックナンバーと最初の記載は、コルステン盤のものである。

Track24.
ここから、最後の第3幕である。
導入曲は、戦争シーンを描いた管弦楽曲で、
DVDの舞台上では、人形劇が凄惨な戦いを暗示している。
全部死んじゃった、という感じ。

スウィトナーの指揮のものはCD3の1曲目で分かりやすい。
これまた、とても聴き応えのあるスウィトナーらしい、
充実した音楽。
サンツォーニ盤は、CD2のTrack12からである。
かなり鋭くえぐるような指揮で、
オーケストラも興奮しきっている。

Track25.
DVDでは、いきなり美人とイケメンが出て来て、
戦場の悲惨さを歌い上げる。
少年と少女が、
援軍が来て欲しいと願うシーンで、
シューベルトの筆も緊迫感に満ちている。
メロディも美しい。

ここでは、DVDの方は、少女の美しい容姿も楽しめるが、
サンツォーニョの指揮は息もつかせぬテンポが良い。

Track26.
ついに、アドルフォが、エストレッラを掴まえる。
「今や、王国は私のもの」と勝ち誇るアドルフォが、
さらに姫に言い寄るピンチの場面。
音楽も千変万化して面白い。

スウィトナー盤では、テオ・アダムが、
エディット・マティスに言い寄る構図である。
それにしても、何とすばらしい管弦楽であろうか。
この二人の歌手の回りに立ち込めるオーラを、
これでもかこれでもかと強調している。

おそらく、シューベルト当時のオーケストラは、
演奏困難と言って難色を示したはずである。

サンツォーニョ盤も、管弦楽も歌手たちも一体となって、
興奮しきっている。

Track27.
めくるめく音楽に乗って、
英雄アルフォンソが現れる。
正直言って、このシーンはかっこいい。
音楽も咆哮しまくって、すごい迫力である。
アドルフォは捕まってしまう。

スウィトナー盤、シュライヤーが、さっそうと登場。
管弦楽は、これまたファンファーレと怒濤の繰り返しで、
クライマックスを形成する。
まさしく、ここで、悪の総本山は崩れ去ったのである。

サンツォーニョ盤のアルヴァの英雄的な声は、
さらに効果的で、トランペットのように響き渡る。

Track28.
緊張がほぐれて、
アルフォンソとエストレッラの二重唱が始まるが、
急に熱が冷めた二人みたいで、少し接続に工夫がいる。
是非、ここで、興奮の絶頂にまで駆け上がって欲しいものだ。
「幸せと苦しみを結びつけるのは愛の力だけ」
と歌われるメロディは、もっと、強調して歌われてもよい。

スウィトナー盤は、マティスの声が素晴らしい。
何やら、悲劇性を秘めながら、
気高く、空に向かって一直線に向かって行く感じが、
ようやく明らかになった、この英雄オペラの性格にふさわしい。

アルヴァの声はひたすら甘く、
ダンコとのデュオは、センスたっぷりで、
往年の銀幕という感じで微笑ましい。

Track29.
急に、父王が心配になったエストレッラが、
うろたえ出すレチタティーボ。
ここで、アルフォンソが、
「出来る限りのことをいたします」と、
剣をかざす二重唱もかっこいいが、
ここでの二人は、ちょっと軽いので、
もっとこけおどし効果が欲しい。

スウィトナー盤では、オーケストラの合いの手によって、
緊張感が保持され、これから起こることを予感させる。
リズムがきびきびしているだけでなく、
ずしっと腹に響く低音が心を捉える。

サンツォーニョ盤もまずまずだが、
ちょっと、次のシーンへの序奏のような感じ。

Track30.
二人が抱き合っている所に、
合唱が響き渡り、戦士が逃げ惑う様子が描かれる。
アルフォンソが、角笛を取り出す。
これこそ、第1幕で置かれた布石で、
アルフォンソは村の全軍を動かせるのである。

実は、私は、この部分に手を入れると、すごい効果が出ると思う。
怒濤のように山の民の軍勢が、襲いかかる音楽が欲しかった。

スウィトナー盤では、
シュライヤーの声も厳しいものがあって良く、
ホルンの響きも深々としている。
しかも、その後、軍隊を統率する様子まで、
ちゃんと歌っている。

どうやら、DVDのコルステン盤では、
このあたり省略したようである。
どうも座りが悪いと思った。
もう、第3幕も終わりに近づき、
シューベルトの筆は、冴えまくって、
省略を許さないものと見た。

サンツォーニョ盤は、
後半になってアルヴァの声が輝かしくなって、
盛り返して来る。

Track31.
フロイラも王様の衣装となって現れ、
アルフォンソは、宿敵の娘と知りながら、
エストレッラを、父の手に預ける。
「敵を許すことこそ、良き勝利」と、
これまた、美しい思想。
シューベルトとショーバーは、
劇場での効果などより、
聴衆の啓蒙に興味があったようだ。

怖いもの知らずの若者たちの理想主義である。

スウィトナー盤、妙に、説得力のある演奏だ。
理想主義が等身大で鳴り響いている。
湾岸戦争も同時多発テロもない時代には、
恐らく、みんなが夢見ていたことだったかもしれない。
30年も前の録音だから、という訳ではあるまいが。

私は、このCDを買ってから十何年も、
このあたりの事に気づかすにいたわけだ。

サンツォーニョ盤は、このあたり特筆すべきことはない。

Track32.
ここでは、逃げ惑うレオン王の姿が描かれる。
彼は、フロイラから王冠を奪い取った事を反省している。
このオペラでは全員が良い人なのである。

そんな茶化し言葉を、慎まないといけないような、
迫真力と迫力、説得力が、ヘルマン・プライの歌の中には、
何故かある。ものすごい事である。

サンツォーニョ盤でも、ボリエロが、
渾身の声で、切実な心情を歌い上げる。
さすが、このあたりの指揮も入魂である。

Track33.
そこに、フロイラが現れ、
「もはや憎しみは消えている」、
「そなたも十分償ったであろう」
と和解が成立する。

スウィトナー盤は、ここで、フィッシャー=ディースカウと、
ヘルマン・プライという、二十世紀後半の誇る、
二大バリトンに二重唱を歌わせている。
私は、この素晴らしい和解のシーンに、
様々な思いが去来して、涙が出そうである。

あるいは、シューベルトもまた、
涙を流しながら、これを書いたかもしれない。

サンツォーニョ盤でも、威厳のあるパネライの声に、
ボリエロの悔悟に満ちた声が唱和されて、
オーケストラもじわじわと盛り上がっている。

良いところで、またまた、文字数制限となってしまった。
次回もまた、このオペラを味わって行くことにして、今回はこれで終わる。

得られた事:「昔のイタリア勢健闘でシューベルトの真価が見える。表情までが見えるような生き生きとした歌唱、共感豊かな管弦楽に、舞台での効果のさらなる可能性を見た。」
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by franz310 | 2011-01-23 12:01 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その260

b0083728_072898.jpg個人的経験:
今回の報告は、前回とおなじ演奏。
何となく、
禁断の報告のような気がしないでもない。
無駄な買い物をしている感じが、
かなり後ろめたい。
私も最初は、同じ録音に、
二組のCDセットを持つことに、
大いに抵抗感があった。
また、それをここで告白して何になるか、
という感じはしていた。


が、これらが、同じ録音をネタとした、
全く異なる商品という感じがする!
というのが今回のミソである。

HMVのサイトで検索しても分かるが、
名匠スウィトナーによる、シューベルトのオペラ、
「アルフォンソとエストレッラ」は、
前回、傾聴した日本盤のみならず、
ベルリン・クラシックからも発売されている。

では、何がどうかというと、まず、見た目が別。
日本盤はデザインが地味な白黒だったが、
ベルリン盤はカラフルで、かなり対照的である。
おなじ曲とはとても思えない。

ただし、いずれを取っても、
意味不明であることに、
何ら変わりがあるものではないのだが。

日本盤のデザインは、誰がやったか分からなかったが、
このドイツ盤も、いろいろ解説書をひっくり返しているが、
やはり、デザイナー名がない。
黄緑色の背景の下部に、紫の線が横に伸び、
その上に大きな赤い五角形のようなものがあって、
さらに濃い山吹色の、石碑状のものが重なっている。
何なんだこれは。

さらに、このCD解説、日本盤と違って、
かなり作品に対して前向きな事が書かれている。

「ショーバーのリブレットは、あまりに類型的、稚拙に過ぎ、
しばしば現れるシューベルトの素晴らしい音楽でも
救われることなく終わってしまう」、
「全体がメルヘンチックで牧歌的な
間延びした”うた物語”になっている」と、
語り尽くされた事が書かれているのが日本盤であるのに対し、
さすがドイツ盤は、新しい切り口を提示している。

解説は、Bernd Krispinという人が書いている。

「『アルフォンソとエストレッラ』の素性は、
シューベルトの作品群の中では異色のものである。
1821年の秋の初め、彼は台本を書いたショーバーと共に、
当時のオペラの伝統から、
明らかに離れた意図を持つこの作品を書くような、
いかなる公式な約束もないままに、
平安で静かなザンクト・ペルテンに逃避した。
彼等の手紙から察するに、
二人の男たちは、驚くべき共同作業を行ったが、
それゆえに、シューベルトが無批判に、何の下書きもなく、
友人の書いた言葉に曲を付けて行ったという非難がある。」

という風に、これまで言われて来た事を、
否定してくれる期待が高まる。

以下、この作品が、生まれた環境ゆえに、
不遇だった事が説明される。

「生前には、付随音楽ロザムンデの初演時に、
序曲のみが、公式に演奏されたが、
当時のヴィーンの劇場における事情ゆえに、
シューベルトは全曲が舞台にかかるのを、
見ることが出来なかった。
成功への重責から、
両宮廷劇場の監督、ドメニコ・バルバーヤは、
聴衆が必ず有頂天になるロッシーニや、
あるいはウェーバーのように
評価の定まった名前を取り上げるのを好んだ。
しかし、ヴィーンからの依頼で書かれた、
後者の『オイリュアンテ』が完全な失敗に終わると、
バルバーヤは、まだ駆け出しだったドイツ・オペラを、
支持するために、さらなる努力をすることに対し、
すっかり興味を失ってしまった。」

このように、シューベルトでなくとも、
この時期、ドイツ・オペラ上演が、
極めて難しい状況だったことが語られている。

「シューベルトにとって、もう一つの障害は、
影響力のある友人たちが、
バルバーヤのやり方に抗議して、
劇場から手を引いてしまい、
しかるべき所に声が届かなくなってしまった。」

これは、フォーグルが引退した事などを
示唆しているのだろうか。

「ヴィーン外での演奏は、まだ当てがあった。
が、ドレスデンでの上演は、
『オイリュアンテ』をシューベルトが否定したのを、
よく知っていたウェーバーが、支援をする気がなくなって失敗した。
ベルリンでの上演は、
エストレッラの役が不適切だと思った歌手、
アンナ・ミルダー=ハウプトマンの異議によって
キャンセルされた。
三度目のグラーツにおける試みも、
オーケストラがその技術的困難さを克服できないと感じ、
上手く運ぶことはなかった。」

以上のうち、最初の二つの話は有名であるが、
グラーツでの上演が、そんな理由で流れたとは知らなかった。
たしかに、この作品、オーケストラの雄弁さは、
特筆すべきものがあろう。

「シューベルトの死後、
このオペラはこの作品自身ではなく、
作曲家に敬意を表したフランツ・リストが、
アルフォンソとエストレッラを擁護するまで、
忘却の中に消えていた。
パリで、完全に新しいリブレットこそが、
上演には欠かせないと感じていた彼は、
1854年6月24日のヴァイマールでの初演のため、
最終的に作品をかなり短縮させてよしとした。
リストは、物語を引き締めて進行させるべく、
独白部を主に取り去った。」

シューベルトの友人で台本を書いたショーバーは、
何と、リストの秘書をしていた事があり、
その影響でリストがこの作品を初演したのだと思っていたが、
リストが、リブレットにケチをつけていたとしたら、
ショーバーはさぞかし、面目を失ったことであろう。
シューベルトに密着していた友人であるのにも関わらず、
この人が、あまり、シューベルトについての、
回想を書き残していないのは、
そうした経緯もあるのではないかと思った。

「ヴァイマールでの初演は、数十年に一度の機会であった。
ヴィーンの宮廷劇場の音楽監督フックスが、
複雑な筋を単純な進行に変えてこの作品に挑戦する、
1880年代まで、この作品の上演はなかった。
しかしながら、それでもなお、
フックスは、音楽自体に音楽と、
自作の言葉や他の曲からの言葉を組み合わせて、
徹底的な変更を施して、
それがオリジナルのメロディを改変するまでに至っている。
1881年3月、カールスルーエでの改作初演に、
カッセル、ヴィーン、ベルリン、
マンハイム、ハノーヴァーでの公演が続いた。」

このフックス版「アルフォンソ」も聴いてみたいものだ。
が、現状でも、筋がそれほど込み入っているとも思えない。

「20世紀になると、『アルフォンソとエストレッラ』は、
様々な放送局によって企画されたコンサートで、
時に部分的にではあれ、聴かれるようになり、
1977年と1991年には全曲が舞台にかけられた。」
さらなる怪しげな改作として、
このオペラとシェークスピアの
『テンペスト』との類似性ゆえに、
クルト・ホノルカによって、これらが結合され、
2幕のオペラ『不思議な島』が作られて、
1958年にシュトゥットガルトで初演された。
この改作に対する最大の問題点は、
シェークスピアの言葉とシューベルトの音楽が、
コンテクストからして乱雑に切り離されている点である。」

20世紀も後半になってから、
このような不思議な扱いを受けていたというのも面白い。

「劇場がシューベルトの『アルフォンソとエストレッラ』を、
完全に無視していた事実は、
シューベルトについて書く人が、
何世代にもわたって、この作品に、
『上演不可能』というレッテルを貼って、
しばしば、シューベルトが、
単に劇的なオペラを扱うことができなかった、
と断言したことに起因している。」

という風に、この解説を書いたクリスピン氏は、
あくまで、先入観から離れようとしている姿勢を見せる。

「何十年もの間、批評家は、
ショーバーの台本に焦点を合わせ、
音楽自身については、本質的な議論をなおざりにしてきた。
シューベルトのオペラ作品については、
劇作家のアンチテーゼとされる彼の一般評価が、
間違っていると暴かれるまでは、
厳密な評価はなされなかった。」

このあたり、初期の長大なバラードなどに見られる、
すばらしいドラマ性がクローズアップされるようになって、
大きく肯きたいところだ。

しかし、生誕200年の1997年に出た、
朝日選書「シューベルト」でも、
「表層的な効果ばかりを狙って人物像が生きてこず、
ドラマとしての求心力に欠け、
日常生活とおなじ平凡なリズムに陥っている」と、
書かれているように
シューベルトのオペラはまだまだ、
クリスピン氏のような意見は少数派である。

私は、今、このスウィトナー盤のCD3の、
Track3のあたりを聴いているが、
アルフォンソによるエストレッラ救出のシーンの、
素晴らしい迫力に息を呑んでいる。
が、Track5で、敵将アドルフォが消えると、
確かに、いきなり、日常的な愛の歌になる点には、
戸惑いがないわけではない。

ということで、このような意見は、
両方とも、嘘ではないような気がする。
しかし、Track6で、再び、緊迫感が高まり、
シューベルトは、あえて、叙情的な音楽で、
メリハリをつけたような感じもする。
シューベルトは、やろうとすれば、
何でも出来たような気がする。

結局、このクリスピン氏も、
このあたりを結論としていて、
下記のように、このオペラの背景にあるものを、
探りだそうとしている。

「シューベルトとショーバーは、
単なる騎士のロマンスになることを、
この世ならぬ響きによって上手く避けて、
二つの美学論を模範的に結びつけた。
それは、イグナーツ・フォン・モーゼルの
『劇的音楽美論試論』(1813)と、
クリスチャン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルトの、
『音楽美学理念』(1806)である。
前者は、グルックによって確立された
パースペクティブの美学の上に立ったもので、
物語の進行や、使われるべき材料の選択、
劇音楽の機能、オーケストラの扱い、
リブレットにおける朗唱法、
アリアの継続性など、
詳細な指示を含む。
シューバルトは、彼の役割として、
これぞれの調性の個性の重要性において、
極めて主観的なものであった。」

つまり、シューベルトとショーバーは、
気まぐれに作品を書き進んだのではなく、
所定の美学理論を実践しようとした、
ということであろう。

これは、先の朝日選書に、
「台本の重要さは知ってはいたが、
専門の台本作者や台本を厳選するよりは、
友人たちの書いた台本で済ませることが多かった。
それらが自分の音楽のイメージと合うかどうか
一行一行厳密にたしかめ、
彼らと一字一字とことん議論したという話は聞かない」
とあるような、適当なイメージとはほど遠い見解である。

ショーバーもシューベルトも、
何か高い理想を求めて、奮闘していたように見える。
そもそも、一行一行、一字一字議論した、
などという話は、ベッリーニの「ノルマ」の、
ヒットナンバー、「清き女神」で特筆されるような話で、
めったに出て来るものではないような気がする。
いきなりハードルを上げて、飛び越せないからダメダメ、
と意地悪を言っているように見える。

なお、ヘルトリングの小説では、
「聴いてくれ、ショーバー。
こんなのはどうだろう。」(富田佐保子訳)
と、二人が一行一行論議している光景が、
描写されている。

ということで、いろいろ言いようや、
妄想もあるようだが、
このCDのクリスピン氏の結論は、
下記のようになっている。

「『アルフォンソとエストレッラ』は、
これらの美学標準の古典的な解決の一例で、
これを極限まで拡張し、
それによって、各エピソードは独立して扱われる傾向にあり、
叙情的な部分の挿入によって、進行が遅くなる傾向にある。
シューベルトの音楽は、進行に沿って流れるが、
拡大されたレシタティーボと、
情景の絶妙の彫琢に眼を見張るものがある。
この作品は、かくして、オペラの世界において無類のもので、
この録音によって、再び生命を宿すことを期待するものである。」

確かに、バラバラな曲集にも見えるが、
これは、彼等が意図した美学であるということ、
さらに、これはこうした路線の希有の成功例である、
というのが、この解説の要点であるように見える。

1994年の商品なので、解説は少なくとも、
この時点では書かれていたはず、
日本盤は、97年のものであるから、
これより先に進んだ内容があって欲しかった。

このように、デザインのみならず、
解説の方向性も、まったく違うものになっているのである。

しかし、これだけだと、輸入盤と国内盤で、
よく起こりうる違いにすぎない。
国内レコード会社は、パッケージだけ変えて、
別商品にしたいからである。

が、今回のCDは、もっと大きな違いがあるような気がする。

実は、国内盤には、
SBMとか、PDLSという
高分解能技術や、編集上の改善技術が使われているとあって、
大変期待していたのだが、
音が固いのが気になっていた。

このベルリン盤は、No Noise-Systemという、
何だか、古くさい名前の編集システムが書かれているが、
何と、こちらの方が聞きやすいのである。
私は、アルフォンソがエストレッラと出会う、
第二幕から聞き始めたのだが、
いきなり、フロイラの歌における
ハープの響きに陶然となってしまった。

何だか、オーケストラの花園が、
眼前に広がっているような錯覚を覚えたほどである。
アナログ的な空気感、自然な減衰感に驚愕した。

そんなはずはないと、技術を誇示した、
日本盤を再度取り出して聞いてみると、
どこが、というのは難しいが、
やはり、何だか寸詰まり感がある。

はたして、これは日本の技術過信なのか、
あるいは、原盤の質の悪いのが回された結果なのか、
どっちか分からないが、何だか、
後者の可能性も感じる。
この業界のことは良く分からないが、
あるいは、価格交渉時に値切って、
しょぼい盤を回された可能性もあろう。

ということで、各楽器の分離や、各々の美質、
合唱の広がりや迫力、ビッグな歌手たちの声の張りなど、
どうしてもベルリン盤で聴きたくなる。

冴え冴えとしたCD1のTrack7、
アルフォンソのアリア冒頭のフルート、
Track10の角笛に続く女声合唱のみずみずしさ、
Track11で登場するマティスの声の清純さ。
枚挙にいとまがない。
こうした繊細さの違いは、
CD2のTrack4、エストレッラの心の高鳴りに、
アルフォンソが重なって来る心理描写にも影響する。
何とすばらしい音の絵画であろうか。

また、弱音系だけが救われているのではない。
低音でうごめくリズムの絶妙さ、
迫力に満ちたCD3の冒頭から最後まで、
音の凝集に窮屈さがないので、すごい迫力を感じる。
特に大団円の合唱、エストレッラの声がひっぱって行く所も、
こんな演奏を目の前で聴いたら、
しばらく放心状態になるのではないか、
などと考えてしまった。

前回、この演奏は、教科書的に杓子定規な感じがする、
と書いたりもしたが、どうやら、音質のせいであった、
などと弁解したくなる。
そこからどこまで、文句なく立派な演奏である。

つまり、今回のベルリン盤の音質差の発見によって、
作品そのものの魅力そのものが、
かなり変わってしまったのである。

これを聴くと、歌の連なりのような前半も、
眼をうるうるさせて聞き惚れてしまい、
前に書いた短縮処理など、しなくて良い、
この作品は、これで充分、という気持ちになってしまった。
演奏ばかりか、作品までが文句なしになった。

それにしても、これは商品の本質に関わる困った事だ。
日本盤で良いのは、歌詞対訳が付いていることだけになってしまった。
だから、私は、冒頭で、禁断の報告になると書いたのである。

こんな事を書いたら、日本のレコード会社の商品を、
買いたくなくなってしまうではないか。
いくら、24ビットとかすごい技術を駆使しようとも、
元にする原盤がボロだといかんともし難い。

さて、何となく、この作品の、
汲めども尽きぬ魅力が分かって来たところで、
この作品が、これまで、
どのように扱われて来たかを概観しておきたい。

1957年に書かれた、
シュナイダーの「シューベルト」では、
シューベルトのオペラで今でも上演される可能性があるのは、
「家庭騒動」だけである、としながらも、
「アルフォンソ」についても、
合唱は心地よく、各曲の組み合わせ、
楽器法についても特筆されている。

1965年のブリュイールの「シューベルト」では、
「劇的天才であったシューベルトには、
演劇的天才が欠けていた」とされ、
ちょっと、関心が後退した感じである。

1985年の渡邊學而著「フランツ・シューベルト」では、
「このオペラの音楽は、シューベルト特有の叙情性に加えて、
劇的な性格も充分発揮されている第一級のもの」とされており、
うまくいかないのは、ショーバーの台本のせいとしている。

おそらく、今回のスウィトナー盤の登場によって、
ようやく、この作品の全貌を把握した言及がなされた感じであろうか。
が、ショーバーには責任あり、ということか。

同年、オズボーンが書いた、「シューベルトとウィーン」は、
私の好きな著作であるが、このオペラは、ほとんど無視されている。

いよいよ生誕200年の年、1997年になると、
ヒルマー氏の書いた「シューベルト」において、
ショーバーは、「当時のジングシュピールにおいて人気のあった
感傷的な牧歌と、英雄的な騎士オペラのいわば混血児」を、
この作品の骨格とした、という表現が見られてくる。

ようやく、いい加減に作られたり、
才能の欠如による失敗作ではなく、
もともと、彼等の意図に沿った作品である、
という見解が出て来た感じだ。
ショーバーも、よく考えた、という感じだろう。

2004年の作曲家・人と作品シリーズの、
「シューベルト」では、再評価の機運が高まっている、
という報告に留まっているのが歯がゆい。

そんな中、1992年にナツメ社が出した、
クラシック名曲・名盤辞典では、
集中的にシューベルトのオペラが取り上げられていて、
今回のスウィトナー指揮の国内盤解説を書いた小林氏が、
気を吐いているのが印象的であった。

得られた事:「『アルフォンソとエストレッラ』は、ショーバーとシューベルトが熟考して、思惑通りの結果を得た、素晴らしい仕上がりの作品である。」
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by franz310 | 2011-01-16 00:10 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その259

b0083728_18282778.jpg個人的経験:
前回、コルステン指揮による、
シューベルトのオペラ、
「アルフォンソとエストレッラ」を、
正月早々から鑑賞した事を報告したが、
これは、DVDで映像付きだったのが、
まことに貴重な経験であった。
というのは、このオペラ、
純粋に音だけなら、
古くから、決定盤とでも言えるものが、
日本でも広く知られていた。


それは、1978年にスウィトナー指揮で、
ベルリン歌劇場管弦楽団の演奏によって、
LP用に録音されたものである。
これは、シューベルトの没後150年に当たる年、
しかし、この時は、国内盤は出なかったはずである。

それから20年も経とうとする頃、
1997年、徳間ジャパンから、
作曲家の生誕200年に、遂に、CDで再発売された。
シューベルト愛好家は驚喜して、
この3枚組を買い求めたものだ(と推測する)。

その後、めちゃくちゃ安くなって再発売されたので、
生誕200年に飛びついた、シューベルト・ファンは、
かなり怒り狂ったに相違ない(はずだ)。

そのような事もあったので、
おそらく、大量に、この録音は、貴重な歌詞対訳と共に、
日本市場に出回っているものと思われる。

ただし、このCD、
表紙デザインが意味不明というマイナス・ポイントがある。
馬のお尻と尻尾、それを追いかける女、
このイラストは、何一つ、このオペラを表現していないはず。
いったい、何だと言うのだろう。
デザイナーの記載がないが、釈明を求めたい。

それはそうとして、
実は、私は、学生の頃、スウィトナー指揮で、
「未完成」、「大ハ長調」の交響曲演奏を、
N響の定期で聴きに行ったことがあるが、
それは、大変、内容の濃い演奏であったと記憶している。

当時、スウィトナーは、ドイツの貴重な正当派
というイメージはあったが、
シューベルティアンかどうかは意識していなかったと思う。

当時は、何よりも、DENONレーベルに、
やはり、ベルリン・シュターツカペレとデジタル録音した、
「田園交響曲」のLPが、素晴らしい演奏で、
いきなり、巨匠に仲間入りした感があった。

この人は、1922年生まれということなので、
当時、まだ60歳前後だったはずだが、
モーツァルトなど、1960年代から録音は多く、
かなりのベテランだが、ぱっとしない時間が長かった。
とはいえ、若い頃の録音から、彼の演奏で、
味わいが薄いものはなかったと思う。

このように、長い間かけて熟成してきたこの指揮者、
消える時も、同じような感じであったと思う。
続けて、シューベルトとシューマンの交響曲全集を録音したが、
その後は、何となく記憶にない。
戦争と、東西の分断によって傷ついた世代である。

あまり、インタビューなどで、あれこれ語っている記憶もなく、
得意としていたモーツァルトであっても、
何でも取り上げる人ではなく、
確か、私が聴いたシューベルトの演奏会と前後して行われた演奏会は、
モーツァルトの三大交響曲を並べただけのものであった。

とにかく、意外性や話題性がないが、
すごい音楽を聴かせるというタイプなので、
あまり聴かれないシューベルトのオペラを録音していることが、
実に不思議である。

が、やる以上、やるよ、という感じで、
交響曲のように雄大にオーケストラを鳴らして、
非常に聴き応えあるものとなっている。
エストレッラとアドルフォの二重唱なども、
オーケストラの方が雄弁に聞こえるほどだ。

スウィトナーは、最近、亡くなったはずだが、
と調べると、ちょうど、1年前の今日、
2010年1月8日に亡くなっているではないか。
何と、この記事を、彼の命日に書くことになるとは、
まったく思っていなかった。
87歳ということになるので、
天寿を全うしたと書くべきであろう。

なお、余談ながら、上記N響を一緒に聴きに行った、私の友人は、
40代にして、すでに癌で亡くなっている。

というわけで、このレコード録音は、
私にとっては、スウィトナー指揮であろうがなかろうか、
別にどうでも良いものだった。

当時、すでに交響曲全集を録音していた、
サヴァリッシュあたりなら、もっと納得が行き、
ベームなら、もっと売れたような気もするが、
伴奏しかしてなかったような指揮者でなくて良かった、
という感じ。

まあ、ブロムシュテッドあたりでも良かったかもしれない。

序曲から、まさしく入魂の演奏で、
重厚堅実でありながら、情熱に満ちた、
この指揮者の特徴が良く出ている。
ドイツ風に腰が重いながらも、
打楽器の炸裂や木管楽器の軽やかさを活かして、
すばらしい推進力を獲得している。
コーダにかけての迫力もすさまじい。

第1曲の導入の合唱も、きびきびと小気味良い。
コルステン版は舞台も含め深夜の感じだが、
スウィトナー版は早朝の感じである。
が、3分半という倍の時間をかけている。
コルステンは冗長にならないようにカットしたと思われる。
スウィトナーは、史上初の完全全曲版の使命をかけて、
几帳面に、ちゃんとやっているのだろう。

さて、アルフォンソにペーター・シュライヤー、
エストレッラにエディット・マティス。
共に、40歳くらい。
マティスはまだ、39歳だったかもしれない。
彼等の父親が、これまたすごく、
共に50歳前後のフィッシャー=ディースカウと、
ヘルマン・プライ、もうくらくらしそうである。
いったい、いくらギャラを払ったのか。
悪役アドルフォにも、テオ・アダムという大物を起用。

彼等は、没後150年という記念イヤーを飾るべく、
渾身、没入の演奏で、シューベルトの意図をくみ取ろうとしている。
以下に書くように、弱いとされていたリブレットに、
素晴らしい説得力を加えて、
声に具現化している。

第2曲の、追放された王様、フロイラのアリアから、
いきなり、大物、フィッシャー=ディースカウが登場。
太陽に挨拶を贈るには、コルステン版の舞台は暗すぎたことを痛感。
ここでも、ディースカウは何時までも歌っている感じ。
8分半の大アリアであり、スウィトナーの鳴らすオーケストラも、
ものすごい迫力である。
コルステン版は6分半なので、2/3という感じ。

また、第3曲の村人の合唱も、コルステン版は、
半分くらいの長さになっている。
前回、私は、このあたりの亡命父子の、
いささか堂々巡り的な説明調の諸曲は、
みんなカットするべきだと書いたが、
コルステンはすでにいろいろやっていた。

私は、このオペラは、CD3枚を要する、
全曲で160分くらいかかる冗長な作品と思っていたが、
コルステンはDVD1枚の130分程度にまとめてある。
これが少し不思議だったが、
このように適宜、切り上げていたのである。

第4曲のフロイラとアルフォンソの二重唱は、
ディースカウとシュライヤーの競演ということになる。
とても、模範的な歌唱であるが、
あるいは、これは、演技なしのスタジオ録音ということか。
さすがに、DVDで見た実演の記録の方が、
真実味を持って響く。

こうした要因によって、
雄渾なオーケストラ伴奏による歌曲集、
または歌物語といった風情が、前半、
この演奏からは感じられてしまったのかもしれない。
立派であるが、ドラマ性は犠牲になっている。

が、後で見ていくように、
こうした傾向は、後半になると克服され、
DVDを越えた、すばらしい境地に到る。

アルフォンソの無い物ねだりのアリアでも、
名手シュライヤーの美声が満喫できる。
この曲など、劇に何の関係もなさそうな、
青春のたぎりの歌である。繊細なメロディは美しい。

が、この歌によって、ひょっとしたら、
アルフォンソの性格が誤解されてしまったような感じがする。
いじいじしすぎていて、後で、すごい活躍を見せるとは思えない。
もっと、英雄的な歌にしておけばよかったのに。

同時に、ここらで、聴衆を完全に征服する必要があり、
おそらく、ベッリーニなら、
このあたりで、一発、爆弾をしかけるはずだ。
デリケートであるよりも、もっとはったりのあるもの。

それを感じたか、第6曲のレチタティーボでは、
フィッシャー=ディースカウが、激烈な歌唱を見せ、
中だるみを防止しようとしているようだ。

続く二重唱でも、この迫力は維持されていて、
スウィトナーが打ち込む管弦楽のくさびと、
うねうねと流れる低音の不気味さによって、
悩める父子のひとときは盛り上げられている。
この部分は、かなり緊張感があるので、
オペラとしては成功した部分だと思う。
スウィトナーの指揮にも、思わず、にやりとしてしまう。

第7曲の女声合唱からエストレッラのアリアにかけても、
極めてきびきびした音楽の運びが素晴らしい。
マチスの声も、毅然として、さすが王女の風格である。
たとえ、アルフォンソの父を追放した、
成り上がり王の娘だとしても。

物憂い日々に退屈したエストレッラに、
悪役アドルフォが上手いこと言い寄るが、
ちょっと、この声は格好良すぎる。
そして、それを拒むエストレッラとの二重唱となるが、
これはこれで美しい音楽にはなっていて、
そこそこの切迫感も伝わって来る。
しかし、やはりマイクを前にしての模範的演奏、
という感じがしなくはない。
高飛車な娘が抵抗しているだけにも聞こえよう。

とにかく、このオペラ、第1幕では、
やがてカップルになる二人の状況説明的で、
おそらく、台本担当のショーバーも、シューベルトも、
一度でも上演されていれば、
何らかの作戦を立てたのではなかろうか。

そして、第1幕の終曲となる。
ここでは、王様を前に、アドルフォが、
エストレッラを寄越せと、あけすけな注文をする部分である。
13分の長丁場であり、合唱に、
彼等三人の声が加わって演じられる。
エストレッラの声を支えるホルンの響きが美しく、
雄弁な管弦楽の低音に乗って、
遂に、好漢ヘルマン・プライの素晴らしい声が聞こえて来る。
そして、エストレッラはどうなってしまうのであろうか、
という不安の中、炸裂する合唱や楽器群、
うまく第1幕を締めくくるにふさわしい充実を見せる。
そして、ヘルマン・プライ、
エストレッラの父は、必要以上に英雄的な表情で、
ついに、聖オイリヒの首飾りこそが重要だと言う。

しかし、ここで、やったやったと、
エストレッラは、狩りに出かけているが、
何だか、急に軽薄な姉ちゃんになってしまう感じなのが残念だ。
とはいえ、狩りに出てもらわないと、
アルフォンソとの出会いがもたらされないので、
これは困った台本だ。

以上、第1幕の終わりまでは、前回、すでに報告済みである。

これで3枚組CDの1枚目が終わるが、
このCD、小林宗生という人の解説で、
ショーバーのリブレットが弱いと断じている点が特徴である。
「あまりに類型的、稚拙に過ぎ、
しばしば現れるシューベルトの素晴らしい音楽でも
救われることなく終わってしまう」と書いている。
こんな解説を書かれたら、聴く気をなくしてしまうではないか。

が、シューベルトの斬新さに関しては、
褒めすぎるほど褒めている。
「ドラマティックな書法への接近、
ハープとピッコロの効果的な使用法、
フルートとオーボエを重ねた主題の歌わせ方、等々、
打楽器群やバンダの使用など、
派手な響きと効果を得るための思い切った編成も見られ、
オーケストレーションや楽器法の工夫が際だっている」
という具合である。

が、小林宗生もまた、
「特に第二幕のアドルフォの登場あたりから、
最後の大団円に至る経過は、いくつかある唐突さに眼を瞑れば、
徐々に高まる緊張とクライマックス、
そして、解決=解放へ至る流れは、
一貫性があり、かなりの効果が期待できる」
と書いてあるが、これは、私の感想と全く持って一致する。

第2幕以下は、以下のようなもので、
コルステン指揮のDVDを見た時のメモである。
これに、スウィトナー版の感想を補足していこう。

Track14.
ここから第2幕で、ハープを含むオーケストラが、
情景を転換させる美しい音色を響かせる。
先ほどの宮殿でのどたばたとは打って変わって、
平和な山間での父子のひとときである。
ここで、アルフォンソはフロイラから、
将来を予言するような歌を聴かせられる。

「薄れゆく夕焼けの中、狩人の前に娘が現れる」
という歌で、
黄金の城が山頂に見え、娘に付いてそこまで行くと、
娘も城も消え失せたので、狩人は、山頂から身を投げた、
という内容のロマンティックなバラードである。
ここで、「冬の旅」のメロディが現れるのは有名である。

また、ここでも、父子で仲睦ましくやっている点が、
アルフォンソにひ弱な先入観を与えてしまう。
スウィトナー盤では、
シュライヤーとディースカウの二重唱で、
ドラマ以前に、ど迫力の教授たちの公開授業みたいな感じ。
ディースカウが、「冬の旅」のメロディの一節を歌うと、
まさしく、その後の歌までが、
「冬の旅」の異稿のように聞こえるではないか。

Track15.
ここから、アルフォンソとエストレッラの出会いの場面になる。
フロイラが去った後、美しい娘の声が聞こえて来て、
「さっきの娘の歌が聞こえて来るようだ」と、
アルフォンソは憧れに満ちた表情である。

それにしても、スウィトナー盤は、
何という精妙なオーケストラであろうか。
マティスの声以上に、ピッチカートの1音1音が、
雄弁に、この場面の期待を伝えて止まない。

DVDの方は、背景は、まるで、フリードリヒの絵画のような、
夜の森になっている。

アルフォンソは、森で迷ったエストレッラと出会い、
見つめ合って、いきなり二人の間に恋が芽生える。

この部分も、フロイラの歌に、すぐ二重唱が続くので、
平板な歌物語になりそうだが、
「幾千の太陽が喜びで世界を満たす」と歌う、
アルフォンソの歌う歌は、
「ラザロ」を彩った神秘的な歌を思わせ、
かなり、魅力的なものである。
「ああ、高鳴る胸に感じる未知の人生」と、
続く曲も、相変わらず二人は興奮している。

Track17.
「この森にずっと留まりたい」という、
エストレッラの歌であるが、
味わい深いオーケストラの音色に満たされ、
メロディも推進力があって魅力的。

ロザムンデでも出て来るような、
陰影に満ちた管弦楽や和声も魅力である。

ここで歌われていることも、
おそらく、シューベルト一派の思想を、
強く表したもので、
「静かな森を
誠実な天が見下ろし、
・・・
町の城壁の中では、
策略と暴力がはびこり」
と、自然回帰志向明瞭である。

「行かねばならないわ」などと、
これを、しみじみと歌わずに、
もっと、声を張り上げて、涙ちょうだいにすれば良い。

メイは、可憐な歌で優しげだが親密にすぎ、
スウィトナー盤のマティスは、
貫禄のある名唱を聴かせ、オペラを志向している。

Track18.
さらに、ここでも二重唱が続き、
アルフォンソが思い出に、首飾りを渡すシーンが来る。
「いつかまたお会いできるの」という歌が、
何故か勇ましい行進曲調で、
エストレッラが走り去ってしまうのが、
ちょっと拍子抜けする。
まだまだ、演出に工夫の余地はありそうだ。
スウィトナー盤は、1.5倍以上の演奏時間で、
別れの逡巡を表している。

Track19.
第2幕第2場である。
男声合唱が、兵士たちの集まりを表し、
アドルフォが、「敵は本能寺にあり」を告げるシーン。
合唱の力強さに、
めまぐるしいオーケストラの響きも効果的であるが、
アドルフォの歌を、もっと、激しい調子で歌って欲しい。
思い出話が入るが、これはカットしてもよかろう。

合唱が、「続きを話して欲しい」などと歌うが、
続きはいいかもしれない。
さっさと、王様の寝首をかきに行け。
非常に迫力のある音楽だけに、
さっさと行かないのが惜しい。

スウィトナー盤のオーケストラの爆発、
合唱の効果的な使用法は、まことに素晴らしく、
オペラの中間点にあって、見事に緊張感を盛り上げている。
テオ・アダムのまくし立てるような口調も、
この雰囲気にふさわしい。
是非とも、ここは、大見得を切った演技を交えてやって欲しい。
金管の咆哮を含む、多彩な管弦楽法は、
ベルリオーズを思わせる。
解説の人も書いていたように、このあたりから、
シューベルトの筆は冴えに冴えて行く。
雪崩を打つコーダもど迫力だ。

ここまでやっても駄目なのか、
というシューベルトに代わって嘆きたくなる。

Track20.
王様が、娘の帰りを待つシーンだが、
ここでもオーケストラの不思議なリズムが際だっている。
舞台上では、家臣たちの動揺を表すように、
人形劇が行われ、合唱が王のアリアをサポートする。
「エストレッラよ、戻ってくれ」というのが、
ちょっと長すぎるかもしれない。
シューベルトとショーバーも、
実際に舞台にかけてみれば、そうした問題にも、
気づいたかもしれない。
シュメッケンベッヒャーの歌うレオン王、
マウレガートは、かなり渾身の歌唱と演技。

スウィトナー盤では、ヘルマン・プライが歌っているが、
語り口にこの人ならではの味わいがあって、
このような長丁場を、みごとに引っ張っている。
何だか、このCDの歌手たちにも、
シューベルトの怨念が乗り移って来たような感じである。
オーケストラは、陰になり日向になり、
恐ろしい程の有機性で歌に絡まり、
歌手をサポートしていく。

何だか、スウィトナーという指揮者のすごさを、
改めて教えられたような感じがする。

Track21.
エストレッラが帰ってくる。
再会の喜びと、オイリヒの首飾りに気づく王様。
「隠し立ては無用ぞ」と詰め寄るが、あまり迫力はない。

スウィトナー盤は、プライとマティスの二重唱となるが、
私の学生時代のアイドルたちの競演みたいで、
何だか胸が熱くなる。
ますます、このオペラの本領が発揮されて来る。
緊張感は、プライの大見得を切ったような表現と、
切実なマティスの声で、一気に盛り上がる。

Track22.
「美しき山の高みに」と、エストレッラの方から、
全部、しゃべってしまうから、これ以上、
緊迫感は盛り上がらないのである。

この歌こそが、最も、省略すべき部分かもしれない。
それ程、美しい歌ではないし、
直接、次のシーンに飛び込む方が効果的に思える。

スウィトナー盤では、
しかし、マティスが一本気な味わいで乗り切っている。
悪くないかも。

Track23.
急に恐ろしげな音楽になり、
警備隊長が、反乱軍が迫るのを告げる。
王様はうろたえるが、
何と、まったくもって意外な展開だが、
エストレッラが戦えと鼓舞する。
「愛が戦う力をくれます」と、
この作品の確信となるような思想を歌う。
「わしが軍を率いよう」と、王様も急にかっこよくなる。
合唱もオーケストラも、すごい迫力で、
観客の反応も上々である。

この第二幕終曲、エストレッラが、
単なる軽薄な狩り好きの姉ちゃんから、
勇猛果敢な、筋の通った知性の持ち主となって、
おおいなる勇気を示すが、
いささか冷たいマティスの声質の方が、
メイの優しい声より、ふさわしいのではなかろうか。

この終曲を盛り上げるのには、やはり、プライ、マティスといった、
当代切っての名手の力がものを言っている。
管弦楽も、ほてりまくって、ばく進している。

DVDで、一応、筋のあらましは理解しているので、
このCDを単独で鑑賞していた時には分からなかった、
美点が多く見えて来た。

またまた、文字数オーバーになったので、
このあたりで切り上げる。

得られた事:「声の質によって、現実離れした登場人物に説得力を与えることが出来る。」
「オーケストラの的確な反応によって、オペラであっても緊張の糸を繋ぐことが出来る。」
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by franz310 | 2011-01-08 18:36 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その258

b0083728_2343132.jpg個人的経験:
イタリアのダイナミック・レーベル、
前回、ベッリーニの「ノルマ」でも、
本場物の演奏を聴かせてもらったが、
シューベルト・ファンにとっても、
忘れてはならないレーベルである。
それは、シューベルト渾身のオペラ、
「アルフォンソとエストレッラ」の、
貴重な上演の記録を、
DVD化してくれているからである。
これは日本盤で、日本語字幕もついている。


2004年、カリアリ歌劇場での、この上演は、
同年9月に出版された、
井形ちづる著、「シューベルトのオペラ」(水曜社)にも、
特筆されているものであるが、
それがこうした形で、鑑賞できるようになるとは、
全く予想だにしていなかった。

おそらく、この著者が、この著書を書き上げる際における、
絶頂の生体験が、この時の上演だと思われる。
あとがきにも、
「1月にはわざわざサルデニア島まで飛んで、
『アルフォンソとエストレッラ』を観に行った。
せっかく行ったので、2晩続けて鑑賞した」
とある。

著者の興奮が伝わってくるような気がする。
「わざわざ」とあるが、おそらく、
「いそいそ」と読み替えるべきであろう。

このオペラの登場人物を模した人形写真を、
このときの記録として図版に取り入れており、
参考資料としても、
このときの資料用ビデオテープを上げている。
この資料用ビデオが、このDVDになったのだろうか。

が、単に資料というのではなく、
場面を合成させたりする編集もあって、
売り物に出来る仕様となっている。

DVDの表紙の写真も、
貧しく、女性にもあまり縁のなかった、
この作曲家の作品とは思えない、
ゴージャスな衣装のカップルの、
親密なシーンで、これだけから、
シューベルトの作品を連想するのが困難な程だ。

残念ながら、ヒロインの顔が横向きで、
もっときれいな人なのに、
ちょっと変な感じになっている。
ヒーローの方も、情けない顔に見えるが、
本編では後半になって、格好良くなるので、
ゆめゆめ、すべてを、
この写真をもとに判断してはならない。

シューベルトが生きていて、
本格的な上演であったことを表す、
この美しい写真を見たら、
驚喜して、卒倒しそうである。

が、幕が上がると、彼も、
苦笑する可能性がないわけではない。
本来、森の中で起こる物語が、
楽器に埋め尽くされた森で、
象徴されているからである。

これについては、先の本の著者も触れていて、
「舞台全体をたくさんの楽器で包み、
それがまるで木々のように、
フロイラの住む森を表していることは、
誰の目にも明らかで、
演出の意図としては、
音楽に浸りきって生涯を送った、
シューベルトを表しているとのことだ」
と書かれている。

しかし、「ノルマ」のDVDのような、
書き割り風の森の風景よりは、
ずっと手も込んでいて、予算もかかっていそうで、
力やこだわりを感じさせるものになっている。

物語の舞台は、中世スペインにあったレオン王国。
王位を追われた老人フライアは、
息子と山里に隠れ住んでいるが、
最後には、簒奪者の手から王位を取り戻す、
というものである。

井形氏の著作では、
このあたりの背景を、さらに説明してくれているが、
余計に、それが意味不明になっているのが残念だ。

「内容から判断して、中世のレオン・アストゥリアス王国を
舞台にしていると考えられる」とあるが、
さらに、補足して、
718年にカバドンガの戦闘でイスラム勢力を駆逐して、
アストゥリアス王国が成立して、9世紀後半に領土拡張、
海岸に近いオビエドから山奥のレオンに首都を移し、
レオン・アストゥリアス王国になった、とある。

つまり、これは、レコンキスタの舞台である。
だから、ムーア人を駆逐するエピソードも出て来る。

著者は、さらに、
11世紀には、王国内のカステゥリャが王国樹立、
レインも統合されたと解説を進めているが、
これが、このオペラとどう関係するのか分からない。

実は、私は、この部分を読んで、
何だか頭が混乱して、先を読むのを止めてしまっていた。
難しいものである。

おそらく、取ったり取られたりの下克上の時代なので、
こうした反乱を扱った作品が生まれたのではないか、
と言いたいのだろう。
(というか、このあたりの記述、
ウィキペディアのまんまという感じであるが。)

そのウィキペディアによると、
カスティーリャ・レオン連合王国を建国した
フェルナンド王の死後、
レオンは次男のアルフォンソ6世が相続したが、
敗れてトレド王国へ逃亡。
彼は、そこで先進的なイスラムの知識を得て起死回生を図り、
カスティーリャ・レオン連合王国を再統合、
さらにトレドをも手中に収めたとある。

アルフォンソとエストレッラのアルフォンソとは、
どういう関係なのだろうか。
フェルナンド王がフロイアなのだろうか。

岩波文庫に、中世の叙事詩『エル・シードの歌』があり、
ここでもアルフォンソ王は名君と讃えられているから、
このオペラのアルフォンソは、そうした時代を想起させるための、
決まり文句的な名称なのかもしれない。

一方のエストレッラと言えば、
シューマンが、ピアノ曲「謝肉祭」で、
恋人、エルネスティーネをスペイン風にそう呼んだが、
当然、シューベルトはそれとは無関係で、
ドイツ圏における、
典型的なスペイン風女性名という感じと思われる。

とにかく、戦国時代における、憎しみの連鎖を、
愛の力が断ち切る物語であると考えれば良い。
すごい今風である。
絶対、大河ドラマでやるべきだ。

日本で言うなら、明智光秀の娘、
例えば、細川ガラシャが、
信長の息子、例えば、織田信忠と出会って一目惚れ、
二人の愛の力で、本能寺で生き残っていた信長に王位を返す、
みたいな乗り。

さて、このDVDだが、日本ではTDKから出され、
解説と字幕は広瀬大介という人が担当しているが、
「リヒャルト・シュトラウス『自画像』としてのオペラ」
という興味深い本を書いている人で、
多摩美術大学の先生のようだ。

私は、たまたま、今日、この大学の前を車で走った。
多摩というのに、世田谷にあって驚いた。

それはどうでも良いことだが、
ロマン派の歌曲作曲家では、
シュトラウスくらいしかオペラで成功しなかった、
という書き出しの解説で、最初から本領発揮である。

「営業トーク」や「政治的駆け引き」が出来なかった、
世渡り下手なシューベルトやシューマン、ヴォルフが、
自作の売り込みが重要なオペラなどで、
成功できなかったのは当然、とのこと。

これについては、井形氏も同様の見解をとっており、
そもそも当時のヴィーンでは、ドイツ・オペラの需要はなく、
シューベルト自身も、別の地に行ってまで、
人生を切り開く才覚はなかった、
と断じている。

が、歌曲やピアノ曲の作曲家としての道、
あるいは、ベートーヴェンの後継者としての道も、
あったわけだから、
才覚以前に、そうした必要を感じていなかった可能性もある。

シューベルト単独で、
現在も音楽史に残るシューベルトであり得たかは疑問で、
ヴィーンにいて、優れた友人たちにもまれていたからこそ、
あのような高みに達することが出来たとも考えられるではないか。

また、さらに、このDVDの解説者は、
先の井形ちづるの著作にも触れながら、
詳しくはそちらを見よ、と書きつつ、
私見を述べている。

そこでは、音楽が切れ目なく続く、
「通作オペラ」に近づいている点や、
聴かせどころの歌が多い点を注目すべき点として上げながらも、
曲全体をまとめ上げるようなドラマティックなモティーフがなく、
歌劇場を衝撃で満たすことが出来ていない、
と、これまでも、繰り返し書かれてきた事が書かかれている。

井形氏の本でも、リスト、ハンスリックの時代から、
シューベルトには劇的能力が欠けている、
と評されていたことが書かれている。
ここで、150年にもわたって言い継がれて来た事を、
改めて書く必要があるとも思えない。

やはり、そうだったか、という事を書かない事には、
新たな一文を寄せる意味はないだろう。

また、このDVD解説、
ショーバーの台本もドイツ語が美しくない、
などとも書いているが、これは、むしろ、井形氏の見解で、
彼女の調査によれば、ドイツの専門家の助けを借りても、
シューベルトのオペラ作品は、
『語彙も文法も意味不明』の部分が、
多々、見うけられるようである。

ベッリーニがロマーニとの共作と同様、
シューベルトが、友人ショーバーと、
隠れ家にこもって仕上げた作品であるゆえ、
ショーバーのドイツ語が美しくないとしたら、
シューベルトにも責任の一端はあるだろう。

ベッリーニの場合は、歌詞に注文を付けたりしたという。
シューベルトもまた、
流れ作業のような事ばかりやっていた訳ではあるまい。

が、例の井形氏の著作によると、作曲の過程は、
第1幕をショーバーが完成させると、
それにシューベルトが曲を付け、
第2幕をショーバーが書き、
といった感じで書かれたとあるので、
そこそこ意味の通じる部分に関しては、
逐語訳みたいな感じにはなったかもしれない。

つまり、全体を統一するような、
大構想が生まれにくい、
状況ではあったかもしれないということだ。

が、それもまた、言い訳にすぎまい。
彼等二人の若者たちは半年近くも、
この作品に専念していたのである。
様々な吟味をされて後の形が、
この上演に見るような完成形だったわけだ。

そもそも、一世を風靡した、
ベッリーニの作品なども、
巨大な統一感ゆえに愛されたのではないことは、
「夢遊病の女」などを見ても明らかである。

甘いヒットナンバーがあるかどうかで、
あるいは、大歌手が共感して熱唱してくれるか否かで、
成功か否かが決まっているような気がしてならない。

ベッリーニの場合、「清き女神」などは、
作曲家と作詞者、歌い手が渾然一体となって、
ああでもない、こうでもないと、
文殊の知恵を練り合わせて行ったのだから、
ヒットナンバーが出来ない訳がなかったと言える。
シューベルトの場合、そこに到る前に頓挫した形である。
ミルダー=ハウプトマンのような存在が現れるには、
少し待たなければならなかった。

このDVDでは、共に人気ある、
ライナー・トロストのアルフォンソ、
エヴァ・メイのエストレッラが、
かなりの力演を聴かせてくれている。

トロストは、唐沢寿明風で、優男であると共に、
この大歴史絵巻にふさわしく、大河ドラマ風で決まっている。

また、エストレッラを歌う、エヴァ・メイは、
いくぶん、ふっくらとしているが、おそらく美人。
清潔感があって可憐な声を聴かせる。

この強力な援軍を得て、私は、この作品をかなり堪能した。
特に、反逆軍が、迫り来る部分から、
アルフォンソが援軍となって現れ、
遂に、王冠が戻されるまでの緊迫したドラマに驚嘆した。

では、このDVDを鑑賞しながら、
各曲の印象を書き出してみよう。

Track1.
指揮者の登場に、字幕が被る、
DVDの導入である。

Track2.
「ノルマ」でもそうだったが、
序曲では、指揮者の情熱的な指揮姿が楽しめる。
ジェラール・コルステンという1960年生まれの人。
南アフリカ出身とある。

凝った演出は、ルカ・ロンコーニという
チュニジア生まれのイタリア人。
1933年生まれとあるから、
指揮者の父親のような世代である。

序曲の途中までは、各奏者の熱演が見られるが、
幕は途中で上がり、怪しい楽器群に囲まれた森の中、
白髪の長髪という哲学者風のフロイラが現れる。

Track3.
村人たちが何かのお祝いの準備を村人たちがしている様子。
2分に満たない導入だが、早朝の静かな村の雰囲気を高める、
村人の合唱で、村を治めるフロイラが目覚める。

Track4.
彼は、しみじみと、
この隠棲の地での日々の快適さを歌う。
これから、この村が、戦禍にまみれる事など、
予想できないような呑気な歌である。

この歌は、しかし、さりげなく、彼の境遇を説明しており、
それなりの計算がなされた音楽になっている。
そこに、主役のアルフォンソが現れるが、
いかにもいじけた兄ちゃんという感じ。

しかし、フロイラは、
いつか、息子を王位に就かせようと、
心の中の企みを歌う。

ここでの勇ましい音楽のリズムは、
シューベルトがその頃書いていた、
ホ短調の大交響曲の雰囲気を湛えている。

Track5.
フロイラがやって来た日を祝福する、
祝いの日がやって来たという、
村人たちの合唱である。
舞台上では人形劇がダンスをして、
群衆の気持ちを表している。

村人の男女も美しい声で、フロイラを讃える。
そこに、フロイラの声も重なって、
かなり複雑な構成になっている。
アルフォンソだけは、バイク買ってくれよ、
という不良倅のような風情である。

しかし、このアルフォンソは、
なかなかの実力者のようで、競技で優勝したという。
その知らせを村人が持って来ても、彼の顔は晴れない。

が、実は、この部分、非常に重要な布石が打たれているのである。
何故なら、その褒美で、彼は、この村の指揮権を得るからだ。
これが後々で、重要な意味を持って来る。

これは、ノルマが銅鑼を鳴らすと、
民衆が立ち上がるのと同様の趣向である。
意外と、このドラマは、ノルマにも近いのである。

したがって、この部分は、
もっと意味ありげな演出があっても良かったかもしれない。

Track6.
浮かない顔をしているアルフォンソに、
フロイラが声をかける二重唱だが、
こうした山里での隠棲が耐え難い、
という。

Track7.
アルフォンソは、山を越えて、
もっと外に出て行きたいと歌う。

このあたりは、青春期特有の懊悩を表しているが、
シューベルト同様、ナイーブに過ぎる。
美しい木管のソロや、意味ありげな弦楽の音型をバックに、
くよくよした歌が続くが、もっと英雄的な歌にしても良かった。

ベッリーニなら、「よし、この谷をいつか降りて」
という歌を作って、フロイラとアルフォンソの二重唱で、
臥薪嘗胆の想いをぶつけまくったはずである。
そうすれば、最初の頂点を築くことが出来たのだが。

演出も、フロイラは聞き役に徹しており、
緊張感が持続しない。
ここはきれいなシーンではあるが、
カットしたら効果があがるかもしれない。

ショーバーが書いた詩を、
シューベルトはむげに却下できなかった可能性がある。
ここで、必要だったのは、第三者の意見であった。

Track8.
レチタティーボで、フロイラが、
息子のはやる心を自制させるアドバイスするが、
とにかく、フロイラは善人で有徳の人なので、
劇があざとく盛り上がらないのが残念だ。

が、さすがにシューベルトたちも、
それに気づいたようで、最後は、
二重唱にもつれ込む。
ここでも、小道具が登場する。
「オイリヒの鎖」という、王家の紋章である。
フロイラは、それをアルフォンソに手渡すのである。

シューベルトは、かなり良い所まで行っている。
第三者の忠告があれば、この二重唱こそを増強し、
声を張り上げての盛り上がりが可能だったのである。
あるいは、演出で、何とかなりそうな可能性がないわけではない。
歌手が勝手にアレンジして、声をひけらかす習慣があったようだが、
是非とも、ここでは、そうしためちゃくちゃをしてでも、
シューベルトのオペラを再認識させたいものである。
とにかく、美しいメロディなら満載なので、
後は、演出を周到に行い、そこにコブシを効かせたり、
むりやりクレッシェンドさせたりするくらいは、
許されるのではなかろうか。
「復讐の時は近い、くびきは解かれよう、
光の中へ歩み出すのだ」と、
フロイラが歌い出す部分、かなり良い線を行っている。
「我が道を照らす光明のように首飾りが輝く」の部分も、
もっと、声を張り上げてもよい。

Track9.
ここから第1幕第2場、
人形劇がエストレッラの狩りのシーンを描く。
合唱も軽やかで、牧歌的な雰囲気たっぷり。
気分転換にもなっている。

Track10.
エストレッラも、アルフォンソ同様、
ふさぎ虫体質である。
ようやくエヴァ・メイが出て来るので、華が添えられる。
アルフォンソが森の中で不満なのに対し、
エストレッラは宮殿の中で不満である。
ここでの歌も美しいがナイーブにすぎるが、
短いので問題はない。

Track11.
司令官、アドルフォが勝ち戦の報を持って、
帰って来て、こともあろうか、エストレッラに言い寄る。
ここでの報は、ムーア人をやっつけたという内容。
「戦場は見渡す限り血の海」と、残酷なもの。
そんな中、姫の美しさを思い出して頑張ったという。

Track12.
「私を拒もうとも力ずくで奪う」というアドルフォと、
「愛は力では奪えない」というエストレッラ、
なかなかの緊迫感を醸しだしていて、
オーケストラの扱いも秀逸である。

ただし、後半、アドルフォは、「私の力を思い知れ」と歌うが、
エストレッラが、「神様、私の願いを聞いて下さい」などと、
平和ぼけした歌詞を歌うせいか、
さらに音楽は優しげな風情になって、
腰砕け気味になっている。
ここも、何とか、こけおどし作戦で乗り切れば、
さらに効果があがるかもしれない。

Track11と12が続けて、歌になっているのも、
メリハリの欠如を感じさせる。
どちらかをカットしたり、短縮させたりするのも手だろう。

それにしても、アルフレート・ムフの歌うアドルフォは、
単なるヒヒオヤジに見え、
悪魔的でなく、アルフォンソ危うし、という感じがしない。
こうした点にも見直しの余地があろう。

Track13.
引き続き、異教徒は消え失せた、と、
アドルフォが王様に報告して、
エストレッラを所望するシーンで、
第1幕のフィナーレである。

この場面、王女はそれを拒み、
王様、マウレガートも、板挟みになって悩むが、
どいつもこいつも、まったりしていていかん。
あまりに内省的で、音楽がなかなか舞い上がらない。
が、王様が決断を下そうとする時になって、
合唱がわき起こり、密度が濃くなる。
「姫の顔色が悪い」、「どこに救いを求めたら」
という合唱と三重唱のテンポがまったり気味。

しかし、オーケストラは、ものすごく不思議な音色を奏でている。

「姫をよこせ」と、
アルフォンソがまくし立てるような演出が欲しいが、
シューベルトの作品では、悪者がいない感じか。
むしろ、苦肉の策で、王様が、
「オイリヒの鎖を持って来たものだけが、姫を娶れる」
という苦し紛れを言った後に、
シューベルトは音楽の頂点を持って行く設計にしていたようだ。
一応、その場が収まり、幕となる。

このように歌物語的な要素が多く、
あるいは、真実味を追求するシューベルトたちの美学が、
こけおどし効果を避けさせたとも思える。
シューベルトは本当に劇場で成功したかったのか。

むしろ、劇場の絵空事を歌曲の精神で変革しようという、
チャレンジすら感じてしまう。

さて、文字数もオーバーとなるので、
今回は、ここまでにしておこう。

得られた事:「シューベルトは、成功するオペラよりも、自分たちの美学の普及を優先したように思える。」
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by franz310 | 2011-01-01 23:47 | シューベルト