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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その257

b0083728_17113323.jpg個人的経験:
ベッリーニの「ノルマ」は、
古代ガリア地方の神話的物語である。
異教に身を捧げる巫女が、
このオペラの主人公で、
先進国ローマの代官はなんだか情けない。
ベッリーニやシューベルトの生きた時代、
ゲーテが、「オシアン」などを評価したように、
キリスト教以前の、土俗的信仰に、
当時の人たちは、
憧れのようなものを持っていたようだ。

今日は2010年も押し迫った、
12月26日であるが、
今回、この「ノルマ」の解説を読んで驚いた。
何と、この12月26日こそが、このオペラの
誕生の日だったと書かれているではないか。


先に書いたような幻想的な物語ゆえ、
しかも、ベルカントオペラの最高峰、
などと言われるがゆえに、
ついつい映像でも見たくなってしまった。

今回、そんなこんなで入手したのは、
シチリア島、ベッリーニ大劇場での、
2005年の公演の記録。
ワルター・パリアーロという人の新演出だという。

ディミトラ・テオドッシュウという人が
ノルマを歌っているようだが、
この表紙の写真の、雄叫びを上げている
赤毛の丸っこい女性が、そうであろう。
ノルマと対照的に跪いているのが、
ポリオーネを演じるカルロ・ヴェントレか。

アダルジーザは、ニディア・パラチオスという人。
この人はパッケージの裏に小さく出ているように、
可憐な美人である。
ジュリアーノ・カレッラ指揮、
カターニャ・ベッリーニ歌劇場管弦楽団と合唱団の演奏である。

ここまで書かれると、本場物と言えるのだろう。
イタリアのダイナミック・レーベルのものだ。
何故か、ありがたい事に、日本語字幕がついている。

今日が初演日だという事は書かれていた、
ありがたい解説を読んでみよう。

「『私の最も親愛なるフローリモ、私は、
悲しみの中でこれを書いています。
それも言い表し難いほどの。
私はノルマ初演のスカラ座から戻ったばかりです。
信じられますか、完全な失敗を。
完全な失敗、まったくの失敗です。
なるほど、聴衆は辛辣だとしても、
彼等は私に罪があると考えたようです。
彼等は、軽々しくも、私の『ノルマ』に対し、
ドゥルイド族の巫女と、同じ運命を宣告しました。
私は、『海賊』や『異国の女』、『夢遊病の女』に、
熱狂し、歓喜し、興奮した愛しいミラノ人と、
同じ人々には思えませんでした。
ノルマの事を考えると、
私は、それらと同等の姉妹に思えるのですが。』
1831年の12月26日、
ヴィンチェンゾ・ベッリーニは、
彼の最新のオペラ、『ノルマ』の初演の後、
友人のフランチェスコ・フローリモに宛てて、
このように書いた。」

ノルマの初演は歴史に残る大失敗として知られるが、
このように、作曲家自身が、打ちのめされる事を語った、
生々しい記録が残っているとは知らなかった。

「フェリーチェ・ロマーニのリブレットに音楽を付けた、
この作品は、女性二人のパートに、
ジディッタ・パスタ(ノルマ)、
ジューリア・グリージ(アダルジーザ)という、
非常に有名な歌手を当て、
ポリオーネは素晴らしいドメニコ・ドンツェッリが担当した。」

妙に唐突な言及だが、演奏は悪くなかったということであろうか。
あるいは、万全の体勢で望んだ上演だったということか。

「しかし、物事がすべて、ベッリーニにとって、
悪い方に進んだわけではない。
初日のみが冷ややかに迎えられたのであって、
続く公演では、聴衆の反応は、
次第に温かになっていった。
12月28日には、ベッリーニは、
彼の叔父に宛てて、
『影響力がある人や、
とても裕福なある人物に誘発された
何人かの手強い意見にもかかわらず、
昨日の2回目の演奏は、初演の夜より遙かに、
私のノルマは聴衆に、畏敬の念を残しました。
昨日のミラノの大新聞は、
反対派が逆の派閥の喝采を打ち消し、
有力者が音頭を取って新聞社に圧力を加えたので、
この作品を『完全な失敗』と書き立てましたが。』
この有力者とは、おそらく、ミラノの劇場監督、
モドローンのカルロ・ヴィスコンティ侯で、
ジュディッタ・パスタを中傷する人であった。
また、とても裕福な人とは、実際、
間違いなくサモイロフ侯爵夫人である。
彼女は、そのシーズンの2番目に予定されていた、
オペラの作者である
ジョヴァンニ・パッチーニの愛人で、
明らかにベッリーニのあからさまな敵対者であった。」

ベートーヴェンの例では、
音楽が革新的すぎて失敗するのだが、
陰謀が渦巻いて失敗する、
というパターンは、モーツァルトやロッシーニ以来の、
オペラ界の伝統である。
ちょっと、芸術的な価値とは別にあるようで寂しい。

「しかし、陰謀や不正と関係のないジャーナリストは、
作品に内在する音楽的クオリティをみいだし、
それは、以来、レパートリー入りし、
世界中のオペラ愛好家の、最もお気に入りの作品となった。
三度目の公演の後、ベッリーニは、
バス歌手のジュゼッペ・ルッジェリに、
『私のオペラは、全体として勝利した』
と書き送ることが出来た。」

あんなにしょげていたのが、
わずか3日か4日のうちに、
即、勝利宣言している点がちょっと軽い。

音楽史に轟くには、マーラーのように、
自分の生きている間は無理無理といったニュアンスがないと、
大きな説得力に欠けるではないか。

「『ノルマ』は、ベッリーニが1825年、
最初のオペラ『アデルソンとサルヴィーニ』をナポリで上演し、
作曲家の早すぎる死(Puteaux、9月23日)
に先立つこと8ヶ月、1835年1月24日、
『清教徒』でパリ・デビューするまでに描いた、
芸術の放物線の頂点である。」

なるほど、ノルマは、1831年の作品であるから、
(1825+1835)÷2=1830≒1831。
10年の活動の中間地点にあったということだ。
5年くらいで大成するような世界とも言えるし、
わずか5年で上り詰めた、
ベッリーニの天才を思うことも出来る。
さらに考えると、
1797年生まれのシューベルトの場合は、
一度、1820年くらいにオペラに集中したので、
1801年生まれのベッリーニがデビューしたのと、
ほぼ同年代で、劇場音楽の世界に足を踏み入れたことが分かる。

が、ベッリーニは、毎シーズン、
劇場での修練を積んでいたが、
シューベルトの場合、病気もあって、
そうした継続が出来なかった。

とはいえ、シューベルトも、
1821-2年には「アルフォンゾとエストレッラ」、
1823年には「フィエラブラス」と、
続投の意志はあったのである。
あるいは、石の上にも5年のがんばりがあれば、
偉大なオペラ作曲家の登場、となっていたかもしれないが。

妄想はこれくらいにして解説に戻ろう。

実は、ベッリーニはさらに恵まれていたことが、
以下に、ちょうど書かれている。

「ベッリーニは、ドニゼッティを含む、
多くの同僚とは異なり、
失望に耐えたり、
ランクを上昇する困難を、
我慢する必要がなかった。
1826年の『ビアンカとジェルナンド』は、
ナポリで当たりを取り、
1年後、26歳の時には、
『海賊』でミラノにて勝利を収めた。」

つまり、デビューの翌年からして、
ベッリーニは別格だったようなのだ。

「二つの重要なイタリアの劇場を征服し、
ベッリーニは同僚たちに比べ、
しゃかりきになって働く必要はなくなり、
名誉と報酬に従って契約を取れば良く、
一年に1曲か2曲の作曲で済んだ。」

これは、またまた、うらやましい状況であろう。
シューベルトがまだ生きている時分に、
4歳若いベッリーニは、
早くも、そうした境遇にあったのである。

が、シューベルトの場合、
やむにやまれぬ創造力の爆発で作曲しており、
ベッリーニをうらやましいと、
思ったかどうかは分からない。

いや、聖人化してはならないだろう。
ベッリーニのような境遇になれば、
そうした爆発は起こらなくなったかもしれないのだ。

「1829年には、多くの観点から、
さらに革新的な作品、『異国の女』で、
スカラ座を再度征服した。
数ヶ月後には、パルマでの『ザイーラ』が演じられたが、
これは完全な失敗作で、大規模に再利用されて、
1830年の『カプレーティとモンテッキ』となった。」

連戦連勝のベッリーニにも失敗はあったようで安心した。

「1831年はベッリーニにとって、勝利の年であった。
三月、ミラノにて、数ヶ月後、ノルマを歌った同じ歌手、
ジュディッタ・パスタと共に『夢遊病の女』を舞台にかけた。
ベッリーニはスカラ座の団長、
クリヴェリとさらに1831-2年のシーズンの1曲を含む、
2曲の新作オペラの契約を結んだ。
『海賊』に続き、再度、
リブレットはフェリーチェ・ロマーニである。
新作のオペラは、12月26日の初演である。
しかし、『夢遊病の女』勝利の後、
作曲家とリブレット作者は、仕事のペースもだらけ気味、
作曲家は暑い時期の仕事を嫌い、
ロマーニは、将来の怠惰で、作曲家と衝突し、
そのことでよく諍いを起こした。
夏までに、とにかく、オペラの主題は決まったようだ。
ベッリーニは、アレッサンドロ・ランペーリ宛の
1831年7月23日の日付を持つ手紙で、
『新しい私のオペラの主題は決まっています。
『ノルマ』または『幼児殺し』というスーメの悲劇で、
パリで上演されて、異例な成功を収めているものです。』
スーメのドラマ的舞台作品は、その年の4月6日、
オデオン座でお披露目されたところで、
その勝利は、まだ生々しいものだった。」

なるほど、ベッリーニは暑い時期は仕事が嫌いだったようなので、
夏までに主題を決め、内容を吟味し、秋頃から2、3ヶ月で、
書き上げるパターンだったのだろうか。

シューベルトが大作、「アルフォンソとエストレッラ」を書いたのは、
それより10年前、1821年のやはり秋、9月頃からとされ、
翌年の2月までかかっているので、
基本的には、同じように、
劇場の冬のシーズンを想定して動いたのかもしれない。
が、円熟のベッリーニ(当時30歳)のようには、
24歳のシューベルトはうまく書くことが出来なかった。

「12月の始めから、リハーサルが始まり、
すぐにそれがかなり困難な作品だということが分かった。
ベッリーニが手紙で、『百科全書的人物』と評した、
ジュディッタ・パスタも、
このオペラの核となる、
『清き女神』をマスターするのに苦心惨憺し、
それにはロマーニ、ベッリーニとも、
何度も何度も試行を繰り返した。
遂に、歌手はこれを手中に収め、
この作品の成功に決定的な貢献を果たした。
ベッリーニは手紙で、
彼女とテノールのドンツェッリについて、
初演までに練習のしすぎで声の限界になっていた、
と書いており、
それが、いくらか、初演における、
ミラノの聴衆の冷淡な反応に影響したのかもしれない。
しかし、このシーズンの終わりには、
『ノルマ』はイタリア・オペラの傑作として、
位置づけられていたのである。」

恐ろしい事である。
練習は必要だが、それのしすぎで、
公演が失敗になるということもある。
シューベルトは、ここまで、歌手を追い込むような仕事まで、
経験することなく、オペラの作品群は棚上げされてしまった。

むしろ、そんな努力をしないで済んだ、
作曲に集中することが出来たとでもいうべきか。

では、このDVD鑑賞に入ろうではないか。

指揮者カレッラが登場して、序曲を振る様子が、
克明に捉えられているが、
一見して真面目な学究風のおじさんであるが、
その指揮姿は、入魂といってふさわしいもので、
まるで、ベートーヴェンの交響曲を演奏するかのように、
1音1音に意味を持たせていく、
鮮やかな木管のパートも明敏だ。
暗いピットの中であるが、
楽員の意欲的な演奏姿も見栄えがする。
コーダの追い上げも迫力があって、
オペラを見ないで帰ってもよいくらいである。

幕があがると、幻想的な夜の森のブルーが美しい。
当然、神託のための巨木がそびえている。
ドルイドの長老、オロヴェーゾは、
私が想像していたより長身で精悍な感じ。

リッカルド・ガネラットという人が歌っているが、
その面構えにふさわしくかっこいい。

その後で、森の中をこそこそ徘徊するローマ側は、
真っ赤な装束で、民衆たちの灰色の衣装とは対照的。

ドルイド族を蛮族として支配する立場でありながら、
いかにも退廃的な先進国のイメージが出ている。
代官ポリオーネは、
優柔不断な優男を想像していたが、
ここでのヴェントレは、横綱の体格のひげ面である。

その後、月が昇り、
勇ましい行進曲に合唱が響き渡ると、
ローマ側はびびりまくっている。
このあたりの効果、非常に緊迫感が出ている。
そんな中、野蛮人の神殿など、
ぶっ壊してやると歌い上げるポリオーネの方が、
何だか野蛮な雰囲気である。

やがて群衆が集まって来て、
巫女ノルマが現れるのを待つが、
青い夜の空をバックに神秘の瞬間が演出される。
大きな満月である。
真っ青の服に赤毛のテオドッシュー演じるノルマが、
反戦を唱える。頭に月桂冠のようなものが巻き付いている。
声が美しいが、やはり、神聖なる趣きには乏しい。
これは仕方ないか。

巨木の前で、鎌を振りかざし、
宿り木を取るような仕草の中、
美しいフルートの序奏に導かれ、
「清らかな女神よ」が歌い出される。
まさか跪いて歌うとは思わなかった。

ローマを罰せよという民衆と離れ、
次第にノルマは孤独になる。

そして、誰もいなくなった聖なる森に現れるのが、
ノルマの悩める恋敵、アダルジーザである。

冒頭書いたが、パラチオスという美しい歌手で、
青い服に身を包み、豊かなブロンドを際だたせ、
ノルマに比べ、初々しい感じがでている。

横綱ポリオーネが現れ、月光に照らされながら、
二人の愛の葛藤が描かれる。
無理矢理、ポリオーネは、
ローマへの逃避を約束させてしまう。

ポリオーネの情けない感じからして、
単身赴任中中のおっさんが、
現地妻を連れ帰る構図だが、
このおっさんの現地妻第1号はノルマなのでややこしい。

という所で、第1幕の第1場は終わり。
続いて、第2場に入るが、
ここでも指揮者の力の入った指揮ぶりが見られる。

第2場でノルマは、
小学生くらいの二人の子供を連れて、
服装の緑のワンピースになって、
完全にPTAのメンバーといった感じ。

しかし、実際、状況を考えれば、
子供たちがこんなに大きくなるわけはない。
ポリオーネは代官なので、そんなに長期滞在ではない。
まだ、赤子であるのが正しいはずだ。

そこに、こともあろうかアダルジーザが現れる。

そして、「優美な姿にうっとりして」、
愛に落ちてしまった事を打ち明け始める。
もちろん、まだ、この時点では、
ノルマは悲劇に気づかす、
親身になって、私もそうだった、などと相談に乗っている。
アダルジーザの告白に、
「そうやって誘惑されたの」、「同じだわ」とか、
相づちを打つノルマが哀れである。

二人並んで、親密な雰囲気が盛り上がり、
ああ、抱き合いましょうなどと、
甘美な二重唱となるが、
いったい、何時、事実が明らかになるだろうか、
とはらはらしてしまう。

そして、「ところであなたの恋人は誰」などと、
聴かれていると、ふらふらと、大将が呑気に現れる。
「この人よ」と嬉しそうに語るアダルジーザも哀れ。
ややこしさの粋を集めたような三重唱になる。
「この女と別れるのも運命なのだ」と言い張るポリオーネは、
気が狂っているとしか思えない。
ノルマの復讐の予告も恐ろしく、幕となる。

CDは二枚目になる。
カレッラが現れて、第2幕の前奏曲の、
静かでありながら、不安と緊張に満ちた音楽を、
ダイナミックかつ、俊敏な指揮姿で魅せる。
いきなり、テオドラッシュウは子殺しのナイフを、
振りかざしている。
恐ろしい形相である。

これが、元の作品名、「子殺し」である所以であろう。
実際は、子供は殺されないのだが。
ノルマのレチタティーボの中で、
「命を奪うこの手を見ることが出来ない」
というのが生々しい。

が、最終的に、子供たちは別と考えて、
自分だけ死んで、アダルジーザに子供を託することを決める。
アダルジーザは、今度は子供たちを遊ばせながら、
この様子を見て、希望を持てと励ます。
女同士の優しい思いやりを示すしっとりとした部分で、
ポリオーネだけが気が狂った存在に思えて来る。

抱き合ったり、手を繋いだり、
まったくもって友愛に満ちた作品に見える。
以上で、第2幕第1場は終わる。

続く第2幕第2場は、またまた群衆が集まっていて、
回りには要塞のような石の壁が見えている。
神殿の中だといくことは分かりにくい。
武器を手にして、ゲリラの装備、一触即発の雰囲気である。
部族長が、今度は彼等のはやる心を抑えている。

それにしても、イタリア人が作った、
イタリア上演用のオペラが、
こんなにローマへの怨嗟に満ちているのは何なのだろうか。
ひょっとすると、当時の政治状況の反映もあるのかもしれない。

ノルマはアダルジーザが、期待に満ちた表情で、
ポリオーネを説得して戻ってくるのを待っているが、
計画が失敗した事を乳母から知る。
怒り狂ったノルマは、ローマへの復讐を誓い、
ついに、神殿の銅鑼を鳴らしてしまう。

「勇者たちよ戦いの雄叫びを上げよ」というが、
こんな私情だけで、軍隊を動かしてしまうというのは、
あまりにも恐ろしい神官である。

民衆の騒ぎの中、また、いつものように、
ひょこりとポリオーネが現れる。
神殿を侵した罪で捕まってしまったようなのだ。
アダルジーザを探してうろちょろしていたのだろうか。

この引っ立てられる様子が滑稽である。
やたら長いロープで両手をそれぞれ引っ張られる形。

ノルマは、自分が手を下すと民衆を遠ざけるが、
ポリオーネのロープは、舞台の両脇に引かれた形。
ここから、美しい二重唱へと発展していく。
剣を振りかざして、歌うノルマと、
情けないポリオーネの構図は、表紙写真のままである。

しかし、ノルマの怒りに屈しない頑固さが、
何故か、やたら説得力を持っているのが不思議である。
死んでもアダルジーザは諦めないという一途さゆえか。

遂にノルマは全員を集めて、自分が罪人であると告げ、
自らが火刑台に上ることを美しく歌い上げる。
その毅然とした様子に、さすがのポリオーネも心打たれ、
衆人の見守る中、愛の二重唱を繰り広げる。
が、二人で死のう死のうと言っているのが、極めてヤバい。

ヴェールを被った女たちを中心に、
回りから同情の声が上がるが、
ノルマは、自分は大きな罪を犯したと告げる。
子供がいることを告白し、
オロヴェーゾに、彼等を守って欲しいと歌う。

このあたりになると、いかにも肝っ玉母さんという感じの、
テオドッシュウの雰囲気が効果を発揮して、
妙に、生々しい感じになって来る。
そのせいか、オーケストラも合唱も感極まり、
絶叫して応える。
ヴァーグナーが感涙にむせびそうな、圧倒的な効果である。

最後は燃えさかる火刑台を表す炎の色が背景に輝き、
これまでの青の基調が打ち破られ、
そこに向かって、ノルマとポリオーネが、
駆け上って倒れる。

実は、原作となったスーメの悲劇では、
子供を殺して終わる劇だったという。

ベッリーニたちは、これを、
カップルの心中の物語にしてしまっている。
スーメ自身も、この物語は、
ギリシア悲劇の「メデア」から持って来た。

ギリシアの物語を、ケルトの物語とした理由など、
気になる部分は多数あるが、
「子殺し」という題名では、
きっと、こんなに長く愛される作品には
ならなかったのではなかろうか。

DVDで見て、CDで想像していた事と、
大きく異なる点は、そんなに多くはなかった。
むしろ、管弦楽法の妙味などは、
CDで聴く方が堪能できる。
あと、ノルマのイメージは、
やはり、カラスの痩身のイメージが、
私の中にこびりついているようだ。

是非、前回取り上げた、カラス盤の写真と、
今回の表紙写真を見比べて欲しい。
前のものの方がはるかにイマジネーションを誘う。
今回のデザインは、もうそのままじゃない、という感じ。

得られた事:「劇場を征服すれば、オペラ作曲家は、年に1、2作の作曲で生きて行ける。」
「シューベルトに、そうした生き方がふさわしいかったかは不明。」
「そのままあるがまま、という商品パッケージというのもいかがなものか?」
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by franz310 | 2010-12-26 17:16 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その256

b0083728_21495279.jpg個人的経験:
シューベルトの同時代人で、
同様に、次の世代に影響を与えた、
作曲家、ベッリーニについて、
ついつい、踏み込んでしまった。
シューベルトと同様に短命だったが、
シューベルトには出来なかった、
劇場での成功を勝ち取った男。
彼が到達した地点を象徴し、
ショパンもリストも影響を受けた
オペラの傑作が「ノルマ」である。


この作品になると、
ベルカント・オペラ的な声の饗宴のみならず、
管弦楽の書法にも、何か、目を見張らすものがあって、
後世まで、人気を保った傑作であることが理解できる。

事実、このオペラは、「夢遊病の女」のような、
軽いものではなく、ライヴァルであった、
ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」のような、
歴史的大作を目指したものとされる。

「アンナ」が大好評を得た、次のシーズンに、
何と、彼は、この作品を持って挑戦を叩き付けた、
という構図である。

一説には、ドニゼッティの弱点が、
管弦楽法の稚拙さにあり、と見抜いた作曲家が、
特に、念入りに書いたから、などとされる。

また、このCDの解説には、
ロッシーニからオーケストラの使い方については、
忠告を受けた、などとある。

ロッシーニが、熱狂的なベートーヴェン信者だったせいか、
また、その主題からして予想もできるが、
最初の序曲も崇高な響きに満ちていて、
ピッチカート一つ取っても、何やら、
ベートーヴェン的な意味を感じさせる。

最初の合唱の後、教主、オロヴェーゾが、
歌い上げる声を、背景で支える木管楽器群なども、
妙に活き活きと活力に満ちたものになっている。

また、ノルマ登場に先立つシーンの、
トランペットやホルンなどの独特の響きは、
ベルリオーズを思わせる。

さらに合唱の扱いも見事で、
オーケストラは、常時、生命力に満ち、
まったく、ベルカント・オペラなどと呼んで、
本当に良いのか、などと考えさせられてしまう。
ほとんど、このままヴァーグナーに続きそうだ。

あるいは、このCDの指揮を受け持った、
イタリア・オペラの神様のようなセラフィンの棒が、
この作品に熱い血をみなぎらせているのかもしれない。

この録音は、1954年のものなので、
1878年生まれのセラフィンは76歳の高齢であったが、
カラスなどを登用して、
イタリア歌劇の全曲録音を推進していた真っ最中であった。

彼も、この作品は大切にしていたのであろう、
1960年に、ステレオでも再録音している。

この作品は、9月から作曲を始めて、
11月末に完成されたともあり、
かなりのスピードで書かれたものであることも知られている。

が、「愛人関係にあった」とされるジュディッタ・パスタと、
二人別荘にこもって書かれたという色っぽい話も残っていて、
シューベルトなどには想像も及ばぬエピソードにも彩られている。

ベッリーニは当時30歳であり、
シューベルトにおける最後の年に相当しており、
同様に、天才的な作曲家の高揚した状況を示している。
このような高みに達した後、
ベッリーニにはさらに四年の人生があったことも、
シューベルト・ファンを羨ましがらせるに十分だ。

このCDは日本盤で、河合秀朋という人が書いているが、
ワーグナーが残した賛辞、
「最も深い真実の輝きと最も流麗な旋律の結合体」や、
ゴーティエの、
「ビロードのように柔らかで、銀のような青み」、
「声と管弦楽との配分と設計は絶賛に値する」
といった賛辞が引用されている。

台本は、「夢遊病の女」を書いたのと同じで、
ロマーニであった。
彼は、パリで評判になっていた芝居を題材に選んだという。

ロマーニは、何度も台本を書き直すことを要求され、
ベッリーニもまた、パスタの要求を飲みながら、
作曲を続けたとされる。
何だかよく分からない三人の渾然一体となった、
共同作業から生まれた作品だということだ。

劇の中身もまた、この作曲過程に負けず劣らず、
複雑、かつ、単純なもので、
複雑というのは、舞台が紀元前のガリアの物語で、
ローマから派遣された総督ポリオーネが統治する、
ドルイド教徒の世界の話である、という点。

この段階で、私などは引いてしまう。
そんな時代の歴史が、どこの神話に残ってるんだ、
という疑問が、うさんくささを感じてしまう。

が、一方で、こうしたものが、
ヴァーグナーに引き継がれたわけだな、
などと得心してしまう。

パリでの評判を聴いて作られた作品ゆえ、
ややこしいことに、イタリアオペラでありながら、
舞台はガリアになっているのである。

単純である、というのは、
結局、ドルイド教徒とか神話とか無関係に、
男女の愛憎劇にしかすぎない、
という点である。

作品のタイトルであるノルマはガリアの巫女で、
ドルイド教徒をまとめ、
ローマの侵略に対抗する立場でありながら、
実は、ローマ総督と出来てしまっている、
という、いかにもありそうな内容。

このローマ総督は、しかも、すでに、
より若い巫女のアダルジーザに心移りしているのである。
つまり、二人の女性と、男の関係は、
「アンナ・ボレーナ」とそっくりな状況なのである。

が、アンナの場合は、王様が絶対的に有利であるのに対し、
この場合、総督の立場は絶対ではない。
ガリアの地にあって、いつ、反乱が起こるか、
分からんというシチュエーションだからである。

だから、作品は、ガリアの兵士の戦闘準備で始まるし、
ポリオーネは、妙にこそこそしている。

表紙写真のカラスの衣装が、
意味不明なのはそのせいで、
神話の世界、かつ、その悲劇の巫女という事で、
モダンかつ神秘的に出来ている。
私は、この衣装も、このCDデザインも好きである。
EMIの赤いロゴが映える。

この前聴いた「夢遊病の女」のCDは、
作品の優れた点を深掘りして秀逸だったが、
こうした背景を説明するだけで、
このCDの解説はへとへとになっている。

これだけ書いて、さらに各情景を説明すると、
CD解説は4ページくらい、すぐいっぱいになってしまう。

ということで、このCDを聴き進めてみよう。

Track1.序曲は約6分ながら、壮大な感じで、
我々を原始ガリアの森に連れ去るにふさわしい。
途中、ハープの響きも新鮮で、陶酔的な感じを振りまいている。

舞台は、聖なる森であり、樺の木の下に祭壇があるという。

Track2.
多くの楽器が重なり合った、
神秘的なオーケストラの雄弁さは、
あたかも独立した前奏曲のようで、
高僧オロヴェーゾのバスが、厳かに響き渡る。
「この樺の老木が神のお告げを下す」と言い、
合唱が、「さあ、早くのぼれ、月!
ノルマが祭壇につくのだ!」
とあるから、ノルマは老木から、
神託を受ける立場にあるようだ。

管弦楽と合唱の興奮が高まると、
勇壮な行進曲調になる。

Track3.
このような反乱が起こる予兆の中、
ローマから派遣されているポリオーネと、
友人の将校とされるフラヴィオが、
大きな声でひそひそ話をする。
すでに、子をもうけているノルマから、
アダルジーザに心が移ったことを告げ、
ノルマの復讐が怖いという歌を歌い上げる。

このような、内緒を声にして張り上げる、
という、「ありえなさ」が、
シューベルト・ファンには耐え難い。
ひょっとすると、シューベルト自身も、
これが出来なかったと反省しているかもしれない。

途中、素晴らしいファンファーレが、
ガリア人たちの決起を告げる。

Track4.
この部分も、管弦楽の前奏が素晴らしい。
先のファンファーレ同様、ベルリオーズが、
「トロイ人」で影響を丸出しにしている。
女性も含む合唱となって、ノルマの登場を、
高らかに告げる。

Track5.
ノルマと高僧オロヴェーゾが応酬するが、
ノルマはローマを打つのは早いという意見、
ただし、天啓には、ローマは必ず滅びるとある、
と付け足して、はやる合唱の民衆をなだめる。

Track6.
月の光が降り注ぐ、深い森の中にふさわしく、
弦楽のそよぎに、フルートが美しい銀の光をきらめかせる。
最も有名なアリアの一つ、「清き女神」で、
マリア・カラスが、研ぎ澄まされた声を、
これまた月光のごとく、闇を照らして行く。

「快い安らぎで、この地上をもつつんで下さい」
という内容のものである。

54年の録音ゆえ、最高音などは厳しいが、
カラスの気力のみなぎりが感じられる絶唱となっている。

このCD解説には、
ベッリーニは、この歌を9回書き直したとあり、
恋人パスタは、それでも満足しなかったともある。
絶頂期のベッリーニを手こずらせ、
それでも名曲として残った名品ということだ。

Track7.
ノルマは、「異教徒は消え失せるが良い」
と歌い、合唱も、総督のポリオーネを倒せ、
と興奮する。
面白い事に、ノルマは、「私が罰しよう」と叫ぶが、
一転、声をひそめ、「私には出来ない」、
「あの愛が帰ってくれば」などと、
公私混同した歌を歌っている。
が、合唱は、そんな事は知らないことになっていて、
「今にも神はローマを咎める」とか歌っている。

その後、かわいい行進曲調になって、
アダルジーザを残して、全員が退場する。

Track8.
アダルジーザとポリオーネが密会する。
というか、森の中で遭遇して、結果としてそうなる前に、
アダルジーザは、初めて出会った頃を思い出し、
神にすがるように祈る。
完全にアンナ・ボレーナの状況そっくりである。

この部分の管弦楽序奏も、
中間部の間奏も、
軽妙ながら、楽器の音色を変えながら、
秘められたシーンを彩る響きを立てている。

ヴァーグナーと同様、このオペラも、
このように終始管弦楽が鳴り響いて、
全曲が大きな交響曲のようになっている。

Track9.
いよいよ、二人が出会うが、
アンナ・ボレーナのエンリコ(ヘンリー八世)が、
脅したりすかしたりして、侍女の愛を確かめたように、
ポリオーネもまた、いろいろな手管で、
アダルジーザの心を引き留めようとする。
聴衆は、昨年見たばかりのオペラの事を、
一瞬想起したのではなかろうか。

Track10.
この部分は、愛のデュエットになって、
第1幕の最後を盛り上げて行く感じ。

ポリオーネは、アダルジーザと、
明日、同じ場所で、ここで落ち合って、
ローマに逃げる約束を取り付ける。

マリア・カラスを前面に出した企画でありながら、
アダルジーザのスティニャーニと、
ポリオーネのフィリッペスキが、
非常に充実した時を提供してくれている。

解説にも、スティニャーニは、
イタリアのメゾの第一人者と書かれており、
フィリッペスキは、「男らしく素直で豊かな美声」とある。

以上で、CD1も第1幕も終わり。

CD2は、緊張感溢れる、充実した管弦楽の序奏で始まるが、
解説には、ショパンの曲に似ている、と書かれている。

第2幕の第1場は「ノルマの家の前」とある。

巫女の家がどこにあるのかよく分からないし、
隠し子が二人もいて、バレバレではない、
という状況も不思議きわまりない。

Track1.
クロティルデという乳母とノルマが、
ポリオーネはローマに呼び戻されるのに、
一緒に行こうと言ってくれない、
などという、シリアスな会話をしている。

そこに、アダルジーザが現れ、
この国を、去る決心をした事を告白する。
ノルマには嫌な予感がする瞬間。

これまた、「アンナ・ボレーナ」であったようなシーンである。
必ず、カラスは裏切られる女を演じている。
つまり、初演時、作曲家は違っても、
パスタは、毎年、同じようなシーンを演じていたのである。
聴衆は、にやりとしたかどうか。

Track2.
ここは、ノルマとアダルジーザが、
のろけ話のデュエットを続けるうちに、
だんだん、ヤバい状況になっていくシーンである。
舟歌風、あるいは夜想曲風の伴奏に、
二人の歌手の美しい声が重なって高まって行く。
まさしく、声の美しさのショーウィンドウといった感じ。
8分半も続く。

どうやら、ヤバい予感がしたのは聴衆だけのようで、
ノルマは、呑気にも、
「その愛する人に付き添って、何時までも幸せにね」
などと、優しい事を言っている。

Track3.
軽快なオーケストラに乗って、
「ところで相手は誰」などと聴いていると、
アダルジーザが「ローマの人で」とか言うや、
「ローマ」とカラス、じゃなくて、ノルマが絶叫する。

あろうことか、そこにポリオーネが、
のこのこやって来る。

Track4.
恐ろしい修羅場になるはずの部分だが、
ノルマが二人の間に子供がいることを訴え、
アダルジーザは、初めて、ノルマと自分の恋人の関係を知り、
驚くまでが描かれる。

Track5.
修羅場の三重唱である。
ポリオーネが、どんな言い訳をするか、
気になるところだが、言い訳はないし、
自分勝手も甚だしい。

「僕をさげすみ、この娘を傷つけるな」
などと言って、
アダルジーザの手を取って出て行こうとする。
「お前を愛したのも、この女を捨てたのも、
私の運命なのさ」
などとうそぶいている。すごい。

「蝶々夫人」のピンカートンなどは、
ずっと良い人に思えて来るではないか。

「永遠に僕が苦しめばいいんだ」などと、
自分の事ばかり訴えているポリオーネは、
まったく常識外れの主役である。

アダルジーザは、自分が死ねばいいんだ、
などと言っていると、合唱がノルマを呼ぶ。

ここでポリオーネは立ち去ってCD2は終わり。
CD2は、28分しか収録されていないが、
それにしても、全編、どうしよう、どうしよう、
という感じの音楽で、あれかこれか、
どれかそれか、という解決しようもない悩みを、
この時間、訴え続けるだけで、作品にするという点が、
すごいと言えばすごくないか。

さて、ここで終わるのは、第2幕の第1場のようだが、
歌詞対訳の前に、
「全曲は2幕4場に構成されているが、
これら4つのシーンを4幕立てとして上演することもあり、
このアルバムでもその呼び方が用いられている」
と注記されている。

が、続けて、
「しかし以下はスコアの名称に従った」とある。

ということは、CD3は、第2幕第2場となるはずだ。

ところが、28ページめのDISC3には、
「第3幕」と書かれている。
訳が分からない。

第2幕の終わりがどれか分からないと、
前回の解説で、
「アミーナによって最初に歌われるメロディが、
他の人たちが歌う瞬間に続くが、
このクライマックスの効果は、
ベッリーニの最も特徴的なものの一つで、
『ノルマ』(『清き女神』、しかし、さらには、
第2幕のフィナーレ)において、
ベッリーニはさらにこの音響効果を強調し、
実際、ヴァーグナーに大きな影響を与えた」
とあるが、どこの部分か分からなくなってしまう。

とにかく、CD3を聴き進めよう。
ここは、「ノルマの家の内部」とされているから、
第2幕第2場と言っても良さそうだ。
ノルマの子供たちが眠っているベッドがある情景。

Track1.
じゃーんと決然とした序奏に、
清らかな愛情に満ちた音楽が葛藤するのは、
極めて、このシーンをよく表している。
ノルマの手には、短剣が握られているのである。

しかも、その後、続く前奏曲が、
悲痛かつ美しいもので、分厚い弦楽で慟哭され、
ホルンの危険信号が連呼される。

だめんずに捨てられたノルマは、二人の子供を殺して、
自分も死のうと考えている。

そのもんもんは、やがて、
「この子たちを殺さなくては」
「子供がどんな悪いことをしたというの」
と、切々と聴衆に訴えかける歌に高まって行く。
管弦楽も、この逡巡をよく表している。

やがて、乳母を呼んで、
恋敵、アダルジーザを呼んでくるように告げる。
自分の恋人と結婚するアダルジーザに、
子供を託そうとするのである。

実際問題としては、こりゃ、困るだろう。
実際、アダルジーザは、「絶対に嫌です」
と言っている。
もちろん、子供の引き取りではなく、
結婚そのものを拒んでいるのだが。

この作品の標的である「アンナ・ボレーナ」では、
子供について悩むシーンはなかった。
それが付加されて、この曲は、さらに発言力を高めたかのようだ。

Track2.
ノルマとアダルジーザの譲り合いのデュエットである。
「あの人の子供のためにお願いするわ」などというロジックも、
かなり自分勝手である。
アダルジーザの「もういちど、あの方の愛をお受け下さい」も、
これまた、無責任なセリフである。

ここでも、ベッリーニらしい、
長く、切々とした小休止を交えた美しいメロディが聴かれる。
しかし、管弦楽は、がちゃがちゃ言ってるだけで、
少し、息切れ気味である。

Track3.
ここから、メロディは舞い上がり、
最後には同じセリフで、
一緒に姿を消そうという、
涙ぐましい共同戦線に到る。

「あなたと一緒に励まし合って、
この過酷な運命と闘っていきましょう」
という絶唱は、
管弦楽も激しく打ち鳴らされて推進力を得て、
このシーンを終わらせる。
ここも、ソプラノとアルトの、
装飾音をちりばめてのきらびやかな声の饗宴、
オペラ好きを熱狂させそうである。

あんまりかわいそうでない。

何だか知らんが、ポリオーネは馬鹿だから、
どうしようもない、という感じである。

Track4.
ここからは「第4幕」とされているが、
「ドイルドの森近くの寂しい場所」とされ、
「あたりは岩山で、洞窟がある」と注記があり、
確かに、厳かなオーケストラが、そんな感じを出している。

「石の橋がかかった湖が見える」ともあるが、
こっちは、あまり想像できない。

合唱が、「この静けさの中で、戦績を上げるために、
気持ちを整える」などと歌っているように、
血気盛んなガリアの兵士たちが集まっているが、
高僧オロヴェーゾは、解散を命ずる。
5分半ほど、こうした状況報告みたいな情景があった後、
Track6からは、祭壇がある寺院の中になる。

ここから、また、ノルマとクロティルデの会話が始まるので、
何だか、さっきの「寂しい場所」というのは、
とって付けた情景のように見える。
絵画的な楽章と言えるが。

Track6.
何と、ここで、ノルマは、
アダルジーザが、ポリオーネを説得して、
良い報告を持って帰って来ることを祈っている。

さっき、二人で生きていきましょう、
と言ってたのは何だったんだ。

クロティルデは、しかし、ポリオーネは説得できず、
反対にアダルジーザを連れ去ろうとした、
と報告する。

怒り狂ったノルマは祭壇の鐘を打ち鳴らすが、
何だか、やすっぽいシンバルにしか聞こえないのが残念。

合唱が、「聖なる鐘が鳴ったぞ」と盛り上がるが、
ノルマも「皆殺しだ」と、
完全に正気を失った絶叫を繰り返している。

Track7.
「戦いだ!ガリアの森で!」
と、勇ましいじゃんじゃか調の、
合唱がものすごい迫力である。
これは、ドニゼッティも青ざめたものと思われる。

さらに、後半は、序曲に出て来た
美しいメロディが広がる。
前代未聞のオペラシーンではなかろうか。

Track8.
高僧オルヴェーゾが、ノルマに、
生け贄の祭壇をしつらえよ、
と言っている時に、
何と、狼藉を働いたポリオーネが連れられて来る。
何だか情けない総督である。

群衆はノルマに殺せと言うが、
ノルマは、他の者は立ち去れと命ずる。

Track9.
凝りに凝った前奏が、嫌が応にも、
緊張感を高め、最後の時が来たことを予告する。

ここからのノルマの声は、
神々しく自信に満ちて、
ますます素晴らしいものになっている。

ポリオーネは、アダルジーザを諦めたら、
助けてあげると言うのを、
「僕は卑怯者ではないのだ」と言って聞き入れない。

どうしようもない部下に対する、
育成面接みたいな無味乾燥な状況に、
第一級の音楽が付けられている。

ノルマもまた、子供を殺すと言ったり、
アダルジーザを殺すと言ったり、
馬鹿男と同じレベルに成り下がって、
素晴らしい音楽を奏でている。

ポリオーネも、それなら俺を殺せ、
という、マイナス思考で、何の建設的意見が出せないまま、
絶叫している。
冷静さを欠いたら面接は失敗だぞ、と忠告したくもなる。

Track10.
遂にノルマは、面接失敗で、群衆を呼び寄せ、
火刑台の準備をさせる。
「尼僧が故国を裏切った」とノルマが言うので、
ポリオーネはアダルジーザが殺されると思うが、
「それは、この私なのだ」とノルマは叫び、
合唱は「なんて恐ろしい」と静かになる。
ポリオーネは、今頃になって反省する。

Track11.
ノルマが、「あなたより強い、神様や運命が、
わたしたちを結びつけた」と言って、
火刑台に向かおうとするのを、
ポリオーネも、めそめそしながら、
「ぼくは後悔している」などと言って、
情けない声を出す。

解説者も、フィリッペスキのポリオーネは、
「最後のシーンがややセンチにすぎる」と書いている。

Track12.
ついに最後のトラックで、
管弦楽の伴奏にも、何やら、力がこもって、
弦楽と木管が音色を変えながら、
歌手たちより雄弁に音楽を奏でている。

子供がいることを明かすノルマ。
ノルマの望みは、子供たちを助けることのみ。
ついに、みんなも心を動かされ、
ポリオーネの声や合唱が唱和、
管弦楽も浄化されたような音色で高まり、
爆発すらしながら、素晴らしい高揚を見せる。

オロヴェーゾは、「行け、かわいそうな娘」と、
死を促し、ポリオーネは、
「お前がのぼる火刑台はぼくも登るのだ」と叫ぶ。
二人が火刑台に導かれて幕である。

ということで、
前回、ヴァーグナーも影響を受けたと書かれた、
第2幕のフィナーレというのは、
空前の効果を持つ、この部分に違いあるまいと確信した次第。

「ノルマ」の前半は、美しいメロディに特徴があるが、
後半は、さらに管弦楽が威力を増し、
メロディ以上に交響的音楽となっていることが分かった。

得られた事:「当時の音楽家たちが、ノルマから得た衝撃を追体験できたような錯覚。」
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by franz310 | 2010-12-19 21:54 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その255

b0083728_154927.jpg個人的経験:
強烈な個性によって演奏された
LPやCDというものは、
時に、作品のイメージを歪曲し、
カラスが録音した一連のものなどは、
みんな白黒写真の世界に
閉じ込められてしまっている。
例えば、「夢遊病の女」なども、
実際は、こんなイメージかもね、
というのが、このNUOVA ERAの
CDデザインなどから、見て取れる。


このCDは、「FIRST AUTOGRAPH VERSION」とある。
それとこれとは、話が別かもしれないが、
そんな表記からも、こっちが正しい、という感じがしなくもない。

とにかく、今回のCDは、「夢遊病の女」という、
ベッリーニの作品の中でも、
明るく、田園的な晴朗さが満ちた作品に、
まさしくふさわしい表紙デザインとなっていて、
好感が持てるものである。

しかし、このデザインの出所は明らかではない。

私もずっと気づかずにいたのだが、
何故、窓の上に白衣の女が立っているのか?
これはひょっとして、このオペラとは関係ないものでは?
「夢遊病の女」のストーリーを、
今回、詳しく知ってしまった今、
このデザインは限りなく不自然に思えて来た。

Art Directionとして、Maria Cristina Salaとあるが、
デザインした人の名前だろうか。
まさか、この絵の作者?

イタリアのCDにふさわしく、
このあたりの配慮不足が悲しい。
初稿による演奏として、
どこに耳を澄ませて良いのかも、
実は、よく分からない。

ジュリアーノ・カレッラという指揮者が、
アミーナにCIOFIというソプラノ、
エルヴィーノにモリーノというテノールを迎えて、
1994年に録音したもの。

イタリア国際オーケストラ?
合唱はブラスティラバ?
よく分からないが、
XXdella Valle d'Itria音楽祭協賛とある。

この音楽祭、立派なホームページもあるが、
イタリア語でさっぱりわからない。

しかし、このCD解説の方は、英訳もあるので勉強になった。

まったく、シューベルトにも、
「ます」にも無関係な方向に
脱線しているように見えるが、
このCD解説を読んでいると、
シューベルトにも関係する一節が出てくるのである。

また、シューベルトの同時代人として成功した人の作風が、
いったいどんなものであったかも分析されている。
(シューベルトと比較しているわけではないが。)

FRIEDRICH LIPPMANNという人が、
「『夢遊病の女』に関するノート」と題して、
かなり長文の論文を載せているが、
ということで、これは、非常に読み応えがあるものだ。

「『夢遊病の女』の初演時リブレットには、
単に『メロドラマ』と書かれていて、
このオペラは一般には、
シリアス・オペラに属すると考えられている。
しかし、いくつかの見地からは、
これは、セミ・シリアス・オペラに近いものだ。
スイスの村の健康的な空気の中、
貴族のロドルフォ侯を除いては、
シンプルな人々が住んでいる。」

よし、分かった。となった次に、
シューベルトの研究で知られるアインシュタインが、
シューベルトが好きだったオペラを例に出していた事が、
さりげなく書かれている。

「アルフレッド・アインシュタインは、
同様にフランス文学を元にした、
ワイグル作曲、1809年の『スイスの家族』と、
この作品の主題上の類似について述べている。」

この部分は、私にとっては嬉しかった。
シューベルトがあと3年生きて、
イタリアに行っていれば、
このベッリーニにも感心したのではないか、
などという妄想が出来るからである。

が、すぐに、この話は終わってしまうのが、
残念至極である。

「しかし、このベッリーニとロマーニによるオペラは、
パイジェルロによる、
Nina,ossia La Pazza per Amoreなど、
19世紀初頭のセミ・シリアス・オペラの
重要なモデルを代表する他の作品にもっと近く、
部分的には、シリアス・オペラにも近い。
そこには共通の特徴があるばかりか、
(指輪や花が、両オペラでは、同様に、
愛の象徴として重要な役割を担う)
特に、二人の主要な女性が、
超自然的な変わり種になっている点に見られる。」

19世紀初頭と書きながら、パイジェルロ作品は、
1789年のものだとあるのがややこしい。

「1800年頃、あるいは、
この世紀の最初の何十年か、
夢遊病は頻繁に舞台上で見られた。
我々は、多くの作品を上げることが出来る。
1797年、ストックホルムでの、
ピッチーニによる1幕のコミックオペラ、
1800年、ヴェニスにおける、
ピアーによる1幕の喜劇、
1824年、ミラノにおける、
カラーファによるセミ・シリアス・オペラ、
さらにこのリブレットは、部分的改変を受け、
リッチ。ペルジャーニによっても作曲されている。
1822年、ベルリンにおける、
ブルム作曲のジングシュピール『夜のさすらい』など。
ロマン主義は、人間の心の不合理、
狂気、憂鬱、夢遊病などを幅広く取り上げた。」

このように書かれると、オペラというのは、
知らない作曲家もばかすか書ける代物なのだなあ、
と改めて感じ入ってしまった。
シューベルトは全身全霊をかけて、
この分野に取り組んだが、それも当然、
と思えると同時に、歴史に残るものは、
ほんのわずかしかないことに思いを馳せる。

「パイジェルロの『ニーナ』も、
ベッリーニの『夢遊病の女』も、
ハッピーエンドである。
田舎が舞台であることは、
少なくともイタリアにおいては、
ヴェリズモ出現までは、
自動的に、悲劇的色彩の出来事が防止された。
ジョヴァンニ・ヴェルガの小説、
『カヴァレリア・ルスティカーナ』まで、
イタリアにおいては、田園地方でも、
中産階級でも悲劇はなかったのである。
単純な民衆の世界でも、『夢遊病の女』や、
ロッシーニの『どろぼうカササギ』、
さらに、後のドニゼッティ作曲、
『シャモニーのリンダ』のような、
ややこしいことになる問題は現れたが、
これらが悲劇に到ることはなかった。
雰囲気が血なまぐさい情景を許さなかった。
物語を支配するコンセプトは、
アミーナやエルヴィーノが死ぬ可能性のない、
単純なものになった。
かすかなイロニーが、幽霊の物語や、
小作農のコーラス『Qui la selva』に見られる。
コミカルな天真爛漫さによって、
彼らは、アミーナを思って介入する時の
伯爵がせき立てられる時に反映されている。
『彼の心に触れる言葉は何だろう。
あなたのすばらしさ!大胆すぎる。
ああ、伯爵様、かわいそうなアミーナは、
今まで、村の名誉でして・・』
リブレットにおいて、
伯爵が旅館でリサに対してとる、
典雅なふるまいは、
18世紀の喜劇や、
セミ・シリアス・オペラを想起させる。
これは、我々が先に指摘した、
後年のジャンルとの類似性を確実にする。
18世紀イタリアの余韻の議論は、
フランチェスコ・デグラーダが、
下記のような詩、
『私は、彷徨うそよ風に憧れる、
あなたの髪、あなたのヴェールを弄ぶ。
太陽が、あなたの上からにらみつけようとも、
川の流れがあなたの姿を映そうとも』
が、18世紀の牧歌に我々を運び去るのを
最近、特筆している事実にも通じている。
デグラーダは、これらの詩句に、私たちは、
『当時の批評家にもたちまち見破られ、
記録された、時代遅れの理想郷の再訪、
メタスタージオの甘美さへの傾倒、
に連なるスタイルで表現された、
高遠で叙情的な情状酌量』
を見い出すと書いて、正鵠を射ている。」

何だか難しいが、とにかく、このベルカント期のオペラには、
18世紀の伝統が残っており、それは、
同様に、田園の理想郷を求めたものだと言うことか。
そこでは、何でもあり、ということなのだろう。

「『夢遊病の女』のスコアには、
高い質の音楽的着想が溢れかえっている。
この作品は、『ノルマ』や、『清教徒』と並んで、
ベッリーニ最高の作品の一つと、
まさしく評価されている。
ここには、彼の初期の作品、
『ザイーラ』や、『カプレーティとモンテッキ』
にはまだ見られた、何か、成功していない部分、
月並みと表現できる部分は皆無である。
スコアは、ドイツ・ロマン派が、
『Stimmung(ムード)』と呼んだもので火照っている。
ベッリーニのスタイルは、
ここでは、彼のデリケートで悲劇的で、
その言葉の最良の意味での通俗的なタッチで
展開されている。
このオペラでは、我々は、
『ノルマ』における、
『恐れることはない、裏切り者!』や、
『異国の女』における、
『Or sei pago』のように、
情熱のたぎりのようなものを探しても無駄である。
『夢遊病の女』のみを考えると、
ベッリーニを『優しく悲歌的』と評価することが出来よう。
しかし、これは、彼の全オペラを概観すれば、
間違った定義である。
優しく、デリケートな、通俗的なフィーリングが、
『夢遊病の女』を支配しているという事実は、
他のベッリーニ・オペラのどこにも見られない、
スタイルとムードに統一を与えている。
通俗性という見地でも、
『異国の女』の対応部分にリンクする序奏部など、
ベッリーニは新しい重要さを見いだしており、
ベッリーニはおそらく、ロッシーニの、
『ウィリアム・テル』(1929)の合唱を、
想起していたのだろう。
ドニゼッティも、特に、『愛の妙薬』(1832)で、
同様の経路を通った。
『カプレーティ』で、すでにベッリーニは、
『異国の女』の多くに見られた、
音節的、修辞的なスタイルから一歩進めていたが、
『夢遊病の女』では、明らかに長足の進歩を遂げた。
批評家たちはすぐにこれを捉えた。
Ecoのジャーナリストは、1831年3月9日に、
『巨匠は、少なくともこのオペラでは、
レチタティーボと歌の間にある、
いわゆる劇的と言われる音楽システムを放棄している』
と書いている。
この批評家は、たぶん、
ロッシーニの『装飾された歌』の反対を代表する、
『異国の女』における、
音節的なメロディのことを言っているのであろう。
『異国の女』のいくつかのメロディは、
実際は、一つのメリスマもない。
1831年、表現力に成熟を迎えたベッリーニは、
今一度、それらを総動員させた。
ベッリーニはもはや、
ロッシーニの代わりのさらなる限界の
地位を求める必要は感じなかった。
『夢遊病の女』の特徴は、しかし、
ロッシーニ風の『装飾された歌』への、
回帰のようなものであるはずがなかった。
ベッリーニは中道を歩くことが出来た。
アミーナのカヴァティーナのカバレッタや、
アミーナとエリヴィーノの第2デュエット
(アンダンテ・アッサイ・ソステヌート)でも、
パスタやルビーニなど、技巧と表現力を兼ね備えた、
二声のための、いくつもの拡張されたメリスマを書くことを、
ベッリーニがいかに楽しんでいたかを、感じることが出来る。
彼は、すでに『異国の女』の様式から遠く離れ、
そのスタイルは高度で、よりデリケートなものとなった。
ヴェルディは、ベッリーニを、特に、
素晴らしく幅広いメロディを書く作曲家として、
称賛していた。
1898年5月2日、彼はCamille Bellaigueに、
こう書いている。
『彼の最も知られていないオペラでも、
それまで誰も書いたことのないような、
長い長い長いメロディがあります。』
これらの『長いメロディ』の中にあって、
最も我々を捉えるのは、アミーナの、
『Ah! non credea mirarti(ああ、花よお前がこんなに早く)』
(彼女の最後のアリア、最初のセクション)である。
最初の休止は歌の11小節まで現れない。
(この変則的な11小節というのは、
第4節の繰り返しによって生じ、
1-3節の4小節の構造を放棄したことによる。)」

このように、ベッリーニのメロディの特徴に、
長いメロディだということが上げられていることは、
覚えておくことにしよう。

「ベッリーニは、ここでバー10/11まで、
ドミナントの主音の上に強調されたカデンツァを抑え、
和声の処理を伴いながら、
大きな流れを生み出している。
ベッリーニはメロディのリズム変化に鋭く注意を払い、
同じリズムで繰り返される小節はない。
11小節でメロディが終わる時、
我々は、そのメロディの幅広さを称賛せずに居られない。
しかし、オーボエがハ長調のメロディを奏すると、
エルヴィーノが歌う後半、そのコントラストは、
驚くべき効果をもたらす。
アミーナはそれから、ここでも、それから後でも、
イ短調に戻り、エルヴィーノはハ長調でこの主題に応える。
メロディのスパンはさらに長く引き延ばされる。
19小節から36小節まで、1小節から19小節ほど、
エキサイティングではないかもしれないが、
このハ長調が持続するメロディのスパンも
また素晴らしいものである。」

ということで、メロディが長く続く以外にも、
こまめに変化するリズムや調性の対比にも、
興味を持たなければならない。

「アミーナのアリアへのエルヴィーノの音楽的挿入は、
おそらく、この作曲家一人による発案であろう。
ロマーニは、エルヴィーノの言葉を、
アミーナの2連の後に置いており、
事実、ベッリーニは、これらの言葉を、
次のセクションの最初に置き、
レチタティーボのようにした。
アミーナのアリアの間中、
エルヴィーノを黙らせておくと、
彼が求めていた、真にふさわしい表現と、
相容れないことになった。
そして、ベッリーニは、彼に、
美しいフレーズ、『もう、僕は耐えられない』を、
アリアの中に入れて、彼女をメロディの頂点に高めた。
『ああ、花よお前がこんなに早く』は、
恋人たちの間の、書かれざる音楽的対話だとすれば、
エルヴィーノの第2幕のアリアで、
1830年頃、ベッリーニが獲得した
自由さの典型的処理である相対する音楽形式で、
真の対話に出会う。
最初の部分で、前奏曲のように、
ホルンが短調のメロディが演奏されると、
アミーナは、先に始めていたレチタティーボで、
テレサと会話を続けるが、
傍らにエルヴィーノが立つのを見る。」

上手い具合に、ちょうど、ここは、
CD2のトラック6で分けられている。
ピッチカートで始まり、弦が揺れ、
ホルンの悲しげなメロディが印象的なのですぐ分かるが。

「『見て、お母さん、彼は打ちひしがれて悲しそう。
たぶん、彼は、まだ私を愛している。』
エルヴィーノが彼のアリアの第1節を歌うと、
アミーナは落胆した恋人にこう言う。
『ここよ、私は、エルヴィーノ。』
エルヴィーノ『よくもぬけぬけと。』
アミーナ『ああ、落ち着いて。』
エルヴィーノ『どっか行け、偽物め。』
アミーナ『信じて私を、私は悪くないの。』
エルヴィーノ『俺の慰めを全部取っていったんだ。』
アミーナ『無実よ、誓うわ。』
エルヴィーノ『行け、恩知らずめ。』
そして、今、ロマーニのリブレットでは、
こんなには長くない、この興奮した対話の後、
エルヴィーノは、彼のアリアの第2節
『俺の痛みを考えて見ろ』を続ける。
このように、アリアの形式で、対話の場所を用意した。」

ここで、エルヴィーノは、
二つアリアを歌っているのではなく、
アリアを歌い始め、それをかき立てるような対話があって、
さらにアリアが高まって行くことを書いているのであろう。
なるほど。

「さらに、アリアの典型的なメロディパターンは、
最高の意味でのカンタービレで、
レチタティーボにも浸透している。
これはベッリーニだけが到達したものではなく、
ロッシーニがすでにいくつかの例を作っており、
『ナポリ楽派』の後期作品でも、
この技術は知られていた。
ベッリーニはしかし、アリオーソの部分の、
数や叙情性を増し、レチタティーボに織り込んだ。
一聴しただけでは、あるシーンなどは、
レチタティーボがカンタービレに満ちているために、
レチタティーボがどこで終わって、
アリアやデュエットがどこで始まったか分からない。」

こう書かれると、同時代人のシューベルトが書いたオペラなどは、
ここはレチタティーボ、ここはアリア、
と杓子定規に分かれていた印象しかなく、
ベッリーニに脱帽である。

「『夢遊病の女』では、
最初の幕で、エルヴィーノが現れる所で明らかであるが、
アミーナの恋人が、音楽的には、レチタティーボ、
『許してくれ、恋人よ、この遅刻を』と、
さらに4小節を同様のスタイルで歌う。」

このCDでは、この部分はCD1のトラック3なので、
すぐに確認できるが、解説にもそう書いてくれればいいのに。

「しかし、彼の歌はアリオーソに代わり、
それはアリアと見まがうほどのカンタービレに満ちている。
彼の歌は、幅広いカデンツァで閉じられる。
エルヴィーノのアリオーソで伴奏していたオーケストラは、
さらに彼のアリアでもしばしば使われる、
分散和音である。」

確かに、ゆらゆらゆらゆらと、悩ましい伴奏が付いている。

「概して、しかし、ベッリーニは、このオペラでは、
彼の他の作品、例えば、カプレッティやノルマ、清教徒より、
アリオーソを慎重に混ぜ込んでいる。」

ということで、この解説は、いろいろと示唆に富む。
ベッリーニのオペラでは、レチタティーボもアリオーソも、
カンタービレに満ちていて、精妙に仕上げられている模様。

「小さな、ほんの小さな、官能的な間合いが、
ベッリーニのスタイルの基本をなしていて、
彼のすべてのオペラで、こうしたタイプのメロディが聞き取れる。
例えば、1828年のオペラ、『ビアンカとフェルナンド』の、
第2幕のフィナーレのメロディ、『Deh! non ferir』や、
ノルマの祈り『清き女神』を思い出せば良い。」

思い出せ、と言われても、
「ノルマ」なら、まだしも、
「ビアンカとフェルナンド」までは分からない。
ノルマの『清き女神』は、前回のカラスのCD、
「カラス イン ポートレート」にも入っていた。
息も絶え絶えの感じが出ていて、切々たるものである。

カラスは、これを得意にしていたようで、
58年のパリのコンサートで歌う映像も残っている。

「『夢遊病の女』の中では、
特に、『ほら、この指輪』における、
小さな、非常に小さなインタヴァルによる進行は、
魅力的な甘美さを生み出している。」

これは、エルヴィーノがアミーナに指輪を渡す時の、
アリアで、このCDでは、Track4で聴ける。

訥々と、胸に迫る感じを出したもの。

ということで、ベッリーニの必殺技が、
この小休止作戦だということが分かった。

「『夢遊病の女』には、
メロディの思い切ったジェスチャーも見られ、
第2幕のエルヴィーノのカヴァレッタに一例が見られる。
最初から、六度の跳躍があり、
基音の三度上まで飛び、
これは多くのオペラに見られる、
メロディの特徴となっている。
しかし、激しいロマン的衝動を表現するには、
これでは足りず、この三度から主題は、
さらに基音の六度上まで跳躍する。」

なるほど、めちゃくちゃな音の跳躍が、
オペラ的メロディの特徴だったか。

この二幕のカヴァレッタとは、
二枚目のトラック7あたりのことであろうか。

また、以下の部分はこのCDでは二枚目の、
トラック2で聴ける。

「第1幕のフィナーレの
『D'un pensiero e d'un accento(私の想い、私の心)』の
アンサンブルのメロディもまた、
小さな優しいインターバルをおいて進む。
12/8拍子というリズムも、ソフトな効果を出している。
音響が緊張を高めるクライマックスは、
アミーナによって最初に歌われるメロディが、
他の人たちが歌う瞬間に続く。
このクライマックスの効果は、
ベッリーニの最も特徴的なものの一つだが、
私たちはそれほどの注意を払わずにいてしまう。
『ノルマ』(『清き女神』、しかし、さらには、
第2幕のフィナーレ)において、
『テンダのベアトリーチェ』において、
また、『清教徒』において、
ベッリーニはさらにこの音響効果を強調し、
実際、ヴァーグナー(トリスタンとイゾルデ!)
に大きな影響を与えた。」

このように、この解説は、うまい具合に、
ベッリーニが後世に与えた影響についても、
触れて行く。

しかし、ドイツ・ロマン派の極限のような、
「トリスタン」までが登場するとは思わなかった。

「幽霊の物語『暗い空に』(CD1のTrack6)において、
我々は言葉『I cani stessi』の量の増強された強調に気づく。
メロディの進展と共に、クレッシェンドを効かせるもまた、
ヴァーグナーに見られる手法である。」

この合唱は、幽霊が出ると歌うところだが、
軽いリズムで揺れるようで、
まったく内容と音楽が一致していないように聞こえるが。

この「I cani stessi」は、幽霊が来ると歌う合唱に、
ロドルフォその他が絡んだ後、
再び合唱になった時に現れる。
犬たちも皆、伏せてしまって吠えない、
などと歌われるところ。
何だか内容はしょぼいが、
音楽が増強されて行くところは、
確かに素晴らしい効果を発揮している。

「ベッリーニを語る時、
しばしばヴァーグナーの名前が登場するのは、偶然ではない。
ヴァーグナーはシチリアの作曲家から多くを学び、
これを公言していた。
それは若い頃のみならず、
リガで『ノルマ』を指揮した時も、
当時書かれたものの中で、それを称賛している。
後年も、彼はベッリーニへの信奉を温かく語っている。
ベッリーニのオペラを引用して、
ヴァーグナーは、1877年から78年、
ザイドルに書き送っている。
『その単純さ、真実の情熱、感情、
正しい解釈をするだけで、素晴らしい効果を発揮する。
私に関して言えば、これらのものから、
多くを学び、私のメロディ作りに貢献している。
これはブラームスの一派には、
これらの教えはなかった。
そして、年配のフロリモに対して、
1880年、ナポリで、彼はこう認めている。
『ベッリーニは、私の最も好きな作曲家の一人です。
彼の音楽は心そのもので、親密に言葉を結びつけます。』
『心そのもの』は、『夢遊病の女』にぴったりフィットする。」

得られた事:「ベッリーニの必殺業、長大なメロディ、カンタービレに満ちたレチタティーボ、小休止の連発、跳躍による感情の増幅。」
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by franz310 | 2010-12-11 15:53 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その254

b0083728_1724100.jpg個人的経験:
前回は、マリア・カラスが、
何と、若き日のバーンスタインと、
共演した記録として、
ベッリーニの「夢遊病の女」が、
CD化されていることを書いたが、
これは、録音は悪いが、
CDとしては、至れりつくせり、
という感じで好印象を持った。
残念ながら、第一幕を聴いた所で、
力尽きてしまった。


カラスのCDは、大量に流通して、
入手性が良いのはありがたいが、
音質が良好でないのが困った点だ。
また、デザインも、本来なら、
カラー写真であるべきが、
時代ゆえに白黒で古びて見える、
というのが残念至極である。

が、今回、ここに掲載したものは、
白黒ならではの格調の高さゆえに、
目を惹くものになっている。

しかし、どんな機会に撮影したものであろうか。
最初、私は、これはカラスのイメージで作った、
合成写真かとも思ったが、
東芝EMIのホームページに、
カラス写真集のような形で掲載されているので、
おそらく、本当に、こんなポーズで撮ったのであろう。

しかし、このCD、そうした来歴が、
何も書かれていないというのは、
いったいどうした事であろうか。

このCD、カラスが映画になって話題になった時に、
急場しのぎで、各種音源からかき集めた感じのもので、
あまり、そうした厳密性を、
云々するものではないのかもしれない。

とにかく、回りを赤く縁取りして、
「CALLAS IN PORTRAIT」
とこれまた華やかな赤で書き込んだあたり、
とても、洒落た感じである。
が、こんなデザインをした人の名前もない。

一方、このCDは、なかなか面白い趣向の解説がついている。
オペラ研究家が、「序文」で、カラスの生涯を説明、
各曲の解説に続くが、そこでも、
カラスとその曲との関係が書かれているのである。

私は、カラスはギリシア人だと思っていたが、
移民の子で、ニューヨーク生まれだとある。
1923年の12月2日。
ちょうど、私は、この文章を、
カラスの誕生日を挟んで書いている感じである。

13歳で、母親は血縁を頼ってギリシアに戻り、
カラスもそれに従ったが、戦後、父を頼って、
単身渡米したとあるから、
これは、22歳くらいの時であろうか。
カラスは多感な10年ほど、ヨーロッパ人だったようだ。

その後、アメリカのオーディションで認められ、
イタリアの音楽祭に出演して、
恩師セラフィンと出会う、とある。
「劇的な痩身にも成功」とあるのがすごい。

このCDの表紙写真のような、
格好良い写真が撮れたのは、
努力のたまものであった、
と言って良いのだろう。

が、彼女は40過ぎで、オペラの舞台から遠ざかった、
と書かれている。
彼女の最盛期は、1960年くらいには去っていたようで、
そのため、良好なステレオ録音で、
名盤とされるレコードが残らなかったのが、
何とも運命的である。

つまり、彼女のCDが、どれも何だか音が悪い感じなのは、
彼女の活躍した時代が、やたら短かったという事でもある。

このように、最初に簡潔に生涯を概観して、
各曲の解説を読みつつ、このCDを聴くべし、
という趣向になっている。

従って、このCDを聞き終えると、
カラスの即席おたくになれるわけだ。

例えば、最初にビゼーの「カルメン」より、
「ハバネラ」が入っているが、
それは、カラスが子供の頃住んでいた、
地区の催しで、10歳の時に、これを歌ったからだとある。

上手い具合に、プレートルとの64年のステレオ録音があり、
これが最初に来るので、買った人は、
とりあえず、録音が悪くて、
いきなり、返品したくなるという最悪の事態から逃れられる。

録音が古い方が、彼女の声に衰えがなくて良い、
とよく言われるが、やはり、合唱もオーケストラも含め、
これだけ鮮度があるとありがたい。

二曲目は、プッチーニの「蝶々夫人」から、
「ある晴れた日に」が選ばれているが、
これは、母親が、彼女をオーディションに連れて行った時、
歌わせた曲だから、という感じである。
これが11歳の時。

録音は、55年のカラヤン指揮のもの。
が、カラヤンの精妙な指揮によるオーケストラ共々、
カラスの弱音の美しさが冴えて、申し分ない。

次にマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の
「あなたもご存じです、お母さん」が出て来るのは、
ギリシアの国立音楽院の
学生公演で歌った曲だからということだ。

これは53年の録音ということで、
今回収められたものの中では、
かなり古い方である。
激情で声を張り上げる所が多く、かなり厳しいが、
何とか乗り切った感じか。
が、ここで、なんじゃこりゃ、と考える聞き手も多そうだ。
セラフィン指揮のもの。

さらに、ベッリーニが来る。
「ノルマ」より「清らかな女神よ」である。
メトロポリタンのオーディションで披露したものだという。

さすがに、60年の録音なので、
非常に聞きやすい。セラフィン指揮。
ベッリーニらしい、美しいメロディが堪能できる。

次のポンキエルリの「ジョコンダ」から「自殺!」は、
この題名どおり、強烈なインパクトで始まるが、
59年の録音(ヴォットー指揮)で良かった。
いちおう、ステレオ録音で、奥行きがある。

この曲は、仕事がなかったカラスに、
うまく舞い込んだ新しい契約の時に歌ったものだという。

次に、「トリスタンとイゾルデ」の最終場面「愛の死」が来るが、
カラスとは少し、イメージの異なる曲である。
57年のライブとあり、音質に不満はないし、
このうねるような甘美な音楽に、
彼女の声が良くマッチしていて、私はかなり満足した。
これもヴォットー指揮だという。
アテネ祝祭管弦楽団というのがすごい。

これから、私たちは、カラスが、
伝説的存在のソプラノである、
「ソプラノ・ドラマーティコ・ダジリタ」であることを、
味わうべきだというが、
確かに、ちゃらちゃらしたソプラノでは、
こんなに劇的な声は出そうにない。

次は、「トゥーランドット」から「この宮殿の中で」。
セラフィン指揮の57年録音。
これは南米公演で成功した役柄だったとのこと。
録音は、ちょっと苦しい。
同じ年のライブより苦しいのは何故だ。

間奏曲が甘味で聴かせるが、古い映画を見てるような感じ。
フェルナンディがテノールで入って来るところなど、
いかにもそんな感じである。

ここからが後半だが、ロッシーニの
「イタリアのトルコ人」から、
「たった一人のお方だけを愛するなんて」。

ここから、カラスの「幸福感」を聞き取れとある。
実際、彼女は夫ある身ながら、オナシスと恋に落ちている。
ガヴァッツェーニ指揮、54年の古い録音だが、
これは、曲が軽いせいか、あまり録音が気にならない。

確かに楽しい曲で、一服できる感じ。
このCD、かなり選曲が良い。

この後で、ベッリーニ「夢遊病の女」の1曲があり、
さらに、ヴェルディの「花から花へ」。
58年の録音でありながら、序奏からして、
録音の劣化が気になる。
ライブとあるからか。
ギオーネ指揮、サン・カルロス歌劇場って何だ。

入って来るアルフレート・クラウスのテノールは美しいし、
後半のカラスの超絶技巧もものすごい。

解説には、若いクラウスにあおられて、
不朽の名唱となった、とあるが、確かにそう聞こえる。
解説に、珍しく、ポルトガルに行った時の記録とあった。

これが、カラスらしい感じ。
つまり、絶唱を聴かせる時には、
何故か録音が良くない。

続くのは、また、ヴェルディで、「リゴレット」より、
「慕わしきみ名」で、55年、セラフィンの指揮。
叙情的なものだからか、これは録音の古さが気にならない。
このような可憐な歌も歌えるところが良い。

カラスは父親が好きだったのに、
死に目に会えなかった逸話が解説で紹介されている。

最後から3番目のものは、トマの「ミニヨン」より、
「私はティターニア」で、61年のステレオ録音。
ここでのカラスは、録音ではなく、声自体が厳しい。
解説には、丁寧に歌っているとあるが、
私には、かなり慎重になっていると聞こえる。
これは、カラスの愛唱していたものだとある。
指揮はプレートル。

次にさらに新しい64年のヴェルディが来る。
レッシーニョ指揮でパリのオーケストラ。
「シチリア島」から、「ああ、心に語れ」。

カラスは、晩年にこの曲の演出もやったとある。
録音が新しいのはいいなあ、という感じ。
カラスの声に、陰影のようなものまで感じられ、
まったく、声の衰えは気にならない。
こうした声なら、シューベルトの歌曲でも歌って欲しかった。

円熟してからの歌だからなのか、
単に録音技術が、うまく、それを捕らえたのか、
どちらかは分からない。

このCD最後は、やはり、「トスカ」。
「歌に生き、愛に生き」と来るだろう。
名匠、デ・サバータの指揮による名盤。
1953年の録音と古いが、
ハープの音もみずみずしく、カラスの声も美しい。

カラスは最後にオペラで歌ったのが、
この役柄だったという。

それにしても、彼女の録音は、
古い方が、声が良くて録音が悪い、
という感じでもなく、
新しいものでも録音が悪かったり、
ちぐはぐな印象が強い。

また、最初に書いたように、
CDなりLPなりも、デザインが、
どれもこれも、カラス本人を前面に押し出したものが多く、
それで印象が決まってしまう傾向にあるのも偏見を生じやすい。

確かに、古代風の衣装から和服まで、
様々な装束の彼女が写真やイラストに収まっているが、
個性的な容姿がそんなものを吹き飛ばし、
一見すると、作品さえ、何が何だか分からないようなものが、
大量に出来てしまった感じである。
白黒写真の時代なので、これまた、そうした傾向が強くなる。

また、この人の存在感が強すぎて、
他の人はみな脇役、みたいな感じになるのも困る。

そもそも、ベルカント・オペラを得意とした時点で、
そうした宿命を背負っていたとも言えるが。

さて、今回のCDでも、9曲目に、
ベッリーニの「夢遊病の女」から、
「お仲間の方々・・気もはればれと」が収録されている。

これは、このオペラの前半で、主人公のアミーナが、
婚約の喜びを歌うもので、大変美しいものだ。
この抜粋盤CDでは最も長い7分48秒かけて歌われる。
セラフィンの指揮によるもので、
ここでの録音は、57年。

カラスが、55年に、バーンスタインの指揮で、
「夢遊病の女」をライブ録音していることは前回書いた。
録音自体は、はるかに、このセラフィンの方が聞きやすい。
最後の絶叫のところも、金切り声に聞こえない。
が、何だか分からない推進力と熱気では、
やはりバーンスタインであろう。

まだ、そのカラス・バーンスタイン盤の
後半を聴いていなかったので、
今回は、それを聴いて締めくくろう。

この後半を聴くと、むしろ、後半の方が、
このオペラ「夢遊病の女」の特色があることが分かる。

第2幕:
第1場:
城の近くの森
CD2のTrack3.
「村人の一群が、伯爵が、アミーナが、
無実であるかどうかを知っていると考えて、
城に向かっている。」

じゃーんというオーケストラが、
威勢良く、シーンが変わった事を告げる。
木管が、まるで、ベートーヴェンや、
シューベルトが書きそうな、
何となくヴィーンの情緒を感じさせる、
親密なメロディを奏でる。

続く合唱も、まさしくそんな感じである。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽想に似ている。

Track4.
ここでも、オーケストラが効果的で、
木管の愛らしい響きが印象的である。
何となく、ブラームスの
ヴァイオリン協奏曲みたいなメロディが親しみやすい。

「彼らがいなくなると、
伯爵に嘆願するための道を行く、
アミーナとテレサの現れる。
テレサは娘のテレサを慰める。
彼女にはエルヴィーノが近づいて来るのが見え、
まだ、アミーナを愛していると確信できた。」

アミーナとテレサの会話が
主体となる部分になると、
オーケストラは、じゃんじゃん、
ぼんぼん系になる。

Track5.
この後には、当然、美しいアリアがあるべきであるが、
慎重な序奏がおかれている。
管楽器の色彩感も美しい。

私は、最初、嘆きのアリアでも始まるかと思ったが、
何と、エルヴィーノが高らかな声を上げる。
じゃんじゃかじゃかと、リズムも勇ましい。

「しかし、それは、間違った希望であったことが分かる。
彼女は無実を訴えるのに、厳しくその不実をなじる。」

Track6.
「伯爵のところから、村人たちが、
彼女は無実だという一報を持ち帰ったのに、
エルヴィーノの怒りは鎮められない。
彼は、彼女の指から指輪を外してしまう。」

からかうような音楽に、
説得するような合唱と、
エルヴィーノの声のミックスが面白い。

Track7.
ここでも、なかなか聴かせるメロディが現れる。
ヴェルディの乾杯の歌みたいだ。
この恰幅の良い歌と、
軽妙なオーケストラのリズムが激しく錯綜して、
第1場が締めくくられる。
拍手はあるが、特にブラヴォーは出なかったようだ。

「彼は、その深い嘆きの中からも、
なおも彼女を嫌うことが出来ない。
彼が去ると、テレサと村人は、
伯爵にアミーナの名誉を戻してもらいに行く。」

ということで、後半の第2幕最初の情景は、
村から離れた森の中での痴話げんかという内容である。

あってもなくても良さそうな

ここで、指輪を取られてしまったアミーナが、
最後の最後で、泣けるシーンを用意しているので、
その前振りとして、重要な事件である。

第2場:
水車屋近くの村の広場:

ここから、またまた、村に舞台を移し、
アミーナに失望したエルヴィーノは、
リーザといちゃついている。

Track8.
「リーザは、エルヴィーノの愛を
取り戻すチャンスとして結婚を決めてしまう。
アレッシオはがっかりする。」

別に何のことはない、
レチタティーボの掛け合い。

Track9.
当然のように、興奮しておきゃんな声が跳躍する
これ見よがしな装飾を交えながら、
「あなたのお望み、うれしいわ」と歌っている。

合唱のサポートも得て、ものすごい興奮である。
聴衆も拍手で応えている。

「リーザは村人に、結婚に賛成してくれた事を感謝する」
と、解説にある部分で、2分に満たない。

Track10.
「エルヴィーノとリーザが教会に向かう所を、
ロドルフォによって呼び止められる。
伯爵は、アミーナは無実であると誓う。」

軽妙に足取りも軽い序奏である。
リーザの声は高ぶって、エルヴィーノと絡んでいる。
「信じていいの、エルヴィーノ、
あなたが最後に選んだ私は、
あなたにふさわしいかしら。」
「もちろんだよ、リーザ。」
という感じである。

やがて、ロドルフォのバスが冴え渡って聞こえ、
実に頼もしい感じである。
「待て、エルヴィーノ」。

エルヴィーノは、「教会に行くのだ」と、
叫んでいる。

Track11.
ここでの管弦楽は、さらに楽しげな音楽になって、
まるで、オペレッタのようになっている。

エルヴィーノとロドルフォの、
見事な二重唱に合唱がからんで、
次第に音楽の密度が高まって来る。

「しかし、エルヴィーノは、
彼が自身の目で見たことを否定できない。
伯爵は、ある種の人々は、
眠っているのに、
目覚めているように見えるのだ、
と説明する。」

まるで、腕利きデカが、真相解明するシーンのようだ。

しかし、だいたいの場合、テレビ番組でも、
その後、悪あがきがあるものだ。

合唱までも、「誰が、そんな事を信用するものですか」
と言っているのが面白い。

「エルヴィーノは、まだ信用せず、
なおも教会に向かおうとする。
テレサが出て来て、水車屋で、
アミーナが寝ているから、
みんなに静かにして欲しいと言う。」

さっきまで、騒いでいた合唱が、
今度は、「はい、静かにします」などと言ってるのも、
優柔不断な民衆を表して微笑ましい。

「テレサは、エルヴィーノが、
夜、紳士の部屋に行ったことなどないと言って、
自分の行動を正当化しようとする
リーザと結婚しようとしていることを聴いて怒る。
この証言は、ベッドでスカーフを見つけ、
それがリーザのものであって、
自分の娘のではないと知っているテレサにとって、
十分だった。
彼女の狼狽から、彼女に罪があることが分かり、
エルヴィーノは、さっとその手を放す。」

合唱も、しだいに声を落として
音楽は、緊張感を高める。

Track12.
非常に、効果的に準備された静寂の中から、
格好良く、エルヴィーノの声が舞い上がる。

「彼は、誰を信じていいのか分からなくなる。
見破られたリーザは、彼女のライバルがどのように、
テレサが全く同情を示さない
彼女の苦境を待ち望むかを思い描く。」

木管が補助するメロディも美しく、
テレサの声が重なって来る部分も効果的だ。

様々な声が交錯し、
各人のもんもんとした感じがよく出た音楽である。

Track13.
「しかし、エルヴィーノは、なおも混乱し、
アミーナが無実であることを重ねて主張する、
ロドルフォの言うことを信じることに対し抵抗を示す。」

このあたりはレチタティーヴォで、
エルヴィーノとロドルフォが言い合いをしている。

すると、オーケストラは、
神秘的な音をみなぎらせて、
このオペラの核心的な部分を用意する。

「エルヴィーノは証拠が欲しいと言う。
これは、アミーナが水車屋の窓から、
出てくるのが見えて、すぐに理解される。
眠ったままで、彼女は、
水車屋の水車を越えて、
その下に水が流れ落ちている、
がたつく橋の上を歩くのだった。
ロドルフォは、もし、彼女が目覚めたら、
落ちてしまうかもしれないと、
みんなに静かにするよう警告する。
彼女が、橋を渡ると、皆は安心する。」

合唱も独唱も次第に静かになって、
アミーナがふらふらと歩く様子が、
優しいメロディで、管弦楽だけで奏される。
非常に印象的なシーンであろう。

Track14.
ここで、アミーナのかわいらしい声が聞こえる。
カラスの声とは思わない、可憐な感じで、
「ああ、もう一度、彼と会いたい、
ただの一度でもいいから」と、
歌っている内容も、とても、
誇り高きディーヴァという感じではないのが良い。

「アミーナの言葉は、エルヴィーノのことを
案ずるものであった。」

簡素な伴奏ながら、木管が、
精妙な響きで彩っている。
合唱が、「ああ、愛の言葉だ」と言うと、
寂しげな、胸に染みるメロディが始まって、
以下のような泣かせる演技をしながら歌を歌う。

「彼女は、彼について跪いて祈り、
彼からもらった指輪を探すかのように、
自分の手を眺めた。
それが見つけられなくて、
彼女は、花束を取り上げる。」

Track15.
引き続き、美しいメロディのアリアである。
このあたり、ベッリーニの筆は冴え渡っていて、
聴衆は、一心に聞き入るしかない。

「彼女は、ほんの一日前に、
恋人がくれた花々が、すでに萎れ、
枯れていることが信じられない。」

歌に続く木管の後奏も憂いを秘めて、非常に美しい。
エルヴィーノが、アミーナに唱和していくあたりも、
切なさで、胸が締め付けられる。
まさしく、全曲の白眉となる名場面であろう。
ヴィオラだろうか、弦楽の独奏が補助するのも、
妙に泣かせる隠し味である。

「私がいくら涙を流そうとも、
あなたの愛を戻すことは出来ないのだわ」
という言葉に、聴衆は温かい拍手を送っている。

Track16.
「エルヴィーノはもはや耐えきれなくなって、
彼女の指に指輪を返し、
テレサが、彼女を抱いている前に跪く。
村人たちが歓声を上げると、
アミーナは目覚める。」

合唱の騒ぎ方が尋常でない。
「長生きしな、アミーナ」。
また、目覚めたアミーナの、
「どこにいるの私は」と叫ぶところも、
声が一転して面白い。

Track17.
「エルヴィーノは、彼女を教会に連れて行き、
アミーナは幸福を表現し、村人はさらに祝福する」
と解説は結んでいるが、
ここでの主役はアミーナの絶叫である。

「この喜びは、誰も分からないでしょう」と、
乾杯の歌のような、
勇ましくも分かりやすいメロディに乗って、
様々な装飾を繰り広げる。

合唱も、馬鹿騒ぎを繰り広げていて、
その中から、カラスの強烈な声が、
飛び出して来る。

これはこれで圧倒的なのだろうが、
ちょっと、やりすぎじゃないの、
という感じがしないでもない。

さっきまでの可愛い夢遊病状態の方が良い。
こっちが正体だとしたら、
エルヴィーノは二の足を踏んだのではないか。

バーンスタインの指揮も興奮しまくりである。
聴衆もまた絶叫の渦にいる。

得られた事:「マリア・カラスは活動期間の短さと、録音技術進歩の関係で不運な歌手だと思っていたが、CDのデザインや録音水準のちぐはぐさなども不運に輪をかけている。」
「伝説的存在のソプラノ、『ソプラノ・ドラマーティコ・ダジリタ』??」
「夢遊病の女の第二幕、ちょっとヴィーン風?」
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by franz310 | 2010-12-05 01:01 | 古典 | Comments(0)