excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
全体
シューベルト
音楽
現・近代
古典
オンスロウ
レーガー
ロッシーニ
歌曲
フンメル
どじょうちゃん
未分類
以前の記事
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
お気に入りブログ
最新のコメント
新さん大橋先生の活躍した..
by ナカガワ at 11:05
実はブログが出来てからお..
by skuna@docomo.ne.jp at 23:55
はじめまして。 レクイ..
by KawazuKiyoshi at 13:28
切り口の面白い記事でした..
by フンメルノート at 11:49
気づきませんでした。どこ..
by franz310 at 11:27
まったく気づきませんでした。
by franz310 at 15:43
すみません、紛らわしい文..
by franz310 at 08:07
ワルターはベルリン生まれ..
by walter fan at 17:36
kawazukiyosh..
by franz310 at 19:48
すごい博識な記事に驚いて..
by kawazukiyoshi at 15:44
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
人気ジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2010年 11月 ( 4 )   > この月の画像一覧

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その253

b0083728_22422969.jpg個人的経験:
ロシア音楽の父、グリンカは、
若き日、イタリア遊学時に、
イタリアオペラの新時代の、
誕生に立ち会うことになった。
彼は、すぐに、初演されたばかりの、
これら作品を室内楽に編曲したが、
その中の一曲は、
ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」
今ひとつは、
ベッリーニの「夢遊病の女」であった。


「アンナ」は1830年の作品、
「夢遊病」は1831年の作品であり、
グリンカは例の室内楽を、1832年に書いている。
生々しい報告書という感じであろうか。

今回は、この「夢遊病の女」を聴いて見たい。
前回も、マリア・カラスの演奏で聴いたが、
そのCD解説によると、「アンナ・ボレーナ」は、
まさしく、カラスが復活した演目のような書きぶりであった。

今回のCDにも、John Steaneという人が、
「カラスと夢遊病の女」と題した文章を寄せているが、
特に、「夢遊病の女」については、
カラスが復活させたというわけではなさそうだ。

むしろ、この解説は、ヴィスコンティ、バーンスタインとの、
在りし日の恐るべきコラボレーションについての話に尽きる感じ。

私も、最初、このCDを見つけた時は、我が目を疑った。
ベルカント・オペラとバーンスタイン?
しかも、1955年の録音。
バーンスタインが、
ニューヨーク・フィルの音楽監督になるのも、
「ウェストサイド・ストーリー」で
大ヒットを飛ばすのも、
この後の話なので、まさか、こんな録音があるとは、
夢にも見なかった。

しかも、このCD、裏面に、
「オリジナル録音の不完全さによって、
このライブ公演の音質は、
予想されるレベルにない」などと書いてあるではないか。

何だか、非正規のヤバい演奏ではないか、
というのが第一印象であった。
ここから、本当にバーンスタインの、
カラスの音楽が聞き取れるのであろうか。

しかし、art技術でリマスタリングされており、
さらに、表紙写真のカラスが魅惑的であることゆえ、
CD屋で逡巡した末に、私は、ようやく購入を決意したのである。

バーンスタインは、晩年にヨーロッパに行ってから、
大成した人という印象もあり、
こんなドサ回り的な録音に、
何か意味があるのだろうか、
という印象はぬぐえないまま。

が、実際のところは、この録音より前に、
カラスと共演してオペラを振っているらしい。
このことは、この解説にも書かれている。
もっと言えば、この解説によれば、
この演奏のかなりの部分は、
バーンスタインの魅力、
それも若き日の、というより、
我々が良く知っているもの、
によるものだ、
という感じで書かれているのが驚きであった。

それは、躍動し、振幅が激しく、
ホットで知的なものらしい。

では、解説を読んで見よう。

「スカラ座の『夢遊病の女』は、何かしら、
聴くと同様、見るものであった。
事実、それは、不思議なことに、
近年のコンセプト・プロダクションに、
あらゆる点で似ていた。
事実、セッティングは、一応、スイスの村であったが、
いかにも様式化された絵本の嘘くささがそこにあった。
最も、ショッキングなのは、
田舎娘のアミーナを演じるカラスが、
バレリーナのような、腰のくびれた白衣に身を包み、
宝石で輝き、髪に花輪を巻いていた。
時に、ステージ上の絵は、完全に静止しており、
単にオペラを聴きに来た人が、
自分が目覚めているのか眠っているのか、
分からないような感覚になる、
ダブル・ビジョン効果を狙っていた。
物語そのものは、おそらくばかげていて、
スコアはしばしばシンプルで、陳腐に見える。
これらが一緒に動き出すと、表面的なものが、
明らかに皮相な印象を与える。
面倒な比較をせずとも、
『冬物語』を想起すればよい。
日常の現実味は白日夢に道を譲り、
嫉妬も無邪気に道を譲る。
あるいは、これが、作品に何か、
特別なアイデンティティを与えたとも言える。
このオペラの最後で、カラスは、
『人の心はこれを受け入れられません』と歌うが、
客席照明が点ると、夢遊病の人たちは目覚め、
悩ましい気持ちは晴れ、絵本は消滅し、
普通の生活に戻り、精神は高揚する。」

さぞかし、斬新な舞台だったものと思われる。
書き割り風の背景を持った舞台の写真は、
このCDにも付いていて、
こうした多くの写真が出ている点が、
このCDを魅力的なものとしている。

若き日のバーンスタインの
不敵な面構えの写真もまた、
印象的であることを付け加えておきたい。

このCD、二枚しかないくせに、やたら分厚いが、
それは、そうした資料が収められているから、
と考えると得心がいく。

「この公演は、疑いなく、
全メンバーによる大きな協業の努力であるが、
特に3人の天才によるものであった。
ルッキーノ・ヴィスコンティは、
1954年に、カラスと共同で、スカラ座にて、
スポンティーニ作『ヴェスタの巫女』の、
有名な蘇演を行ったプロデューサーで、
彼の直感とヴィジョンは、当時の、
オペラ界において、カラスを生命力の一部とした。
1953年、カラスは、
若いバーンスタインの指揮で、『メデア』を歌っていた。
バーンスタインはオペラ指揮者とは考えられておらず、
ヴィスコンティは映画監督、
カラスは重いドラマティックパートを歌っていたので、
通常、考えつかないことであったのだが、
これは『夢遊病の女』のために組織されたチームであった。」

こんな心憎いチーム構成を考えついたのは、
誰だったのだろうか。
が、これだけ個性の強い連中を集めて、
さあ、やって下さい、と言っても、
うまく行くものでもあるまい。
その危惧についても書いてくれていて助かる。

「彼等が常にうまく行ったわけではない。
バーンスタインは女性として、
カラスが特別好きではなかったし、
カラスは二人の男性を嫌っていた。
しかし、彼等は熱中するタイプで、
疲れることない仕事人であった。
さらにヴィスコンティの細部への厳格なこだわりは、
特に、カラスに熱心な反応を起こさせた。
長く、休みなく、集中したリハーサルが続いたが、
彼女は幸福であった。
どれぐらいかけて、三人が、何らかの
練り上げたコンセプトに到ったかは分からないが、
視覚効果はないとは言え、
我々は、この録音で、
特別で啓示的な『夢遊病の女』に出会う。
聴くとまず分かるのは、バーンスタインの貢献である。」

と言う具合に、
このカラスの容姿を前面に押し出したデザインの、
なかなか洒落たCDは、
実は、最初に、
バーンスタインを聴くべきものだと断定されている。

「例えば、前奏曲や開始部の合唱など、
彼は、離れた中立の立場で、
慎重にエネルギーを与えたのではなく、
時としておもしろ半分に、絵画的、ディズニー風に、
平板なスコアに手を入れた。
彼はスカラ座の合唱を暴走させるが、
彼等はそれに応じられないような音を出している。
(これは初日の記録)」

バーンスタインを称賛するべく、
ベッリーニの音楽がダメダメで、
バーンスタインが面白くした、
といった書き方は、私はどうかと思う。

それはともかく、
このように、異彩を放つ三人が、
不思議なコラボレーションをした、
というだけで、妙に心が高鳴って、
最初の珍盤の印象は霧散して、
良いものを手に入れた、という感情がわき起こって来た。
録音も、別に聞きにくくはなく、
後年の「アンナ・ボレーナ」の方が、
はるかにヤバい音質であった。

「しかし、これは、名目上の現実である、
オペラの外見上の事にすぎない。
内部の世界に足を踏み込むと、
アミーナの『何と穏やかな日』では、
バーンスタインの指揮が、
さっきの高速のイカサマ的なおもしろさの反対を行く。
彼は自らとオーケストラを、
歌手に委ね、そして、音楽に身を委ねた作曲家に委ねる。
テンポはリラックスし、ドラマの公式や、
音楽すらも後退し、内的な真実のオペラ、
『夢遊病の女』がここから始まる。」

もう、これ以上ない賛辞である。
バーンスタインは、1918年生まれであるから、
この時、37歳。
彼の後年の活躍を表すキーワードがすべて羅列された感じ。

さて、対するカラスも、下記のように扱われ、
まさしく横綱同士の取り組みを思わせる。

「この不明瞭な現実の中を、
カラスは、声一つで、見る見る統一していく。
リーザを歌う、ユージナ・ラッティの明解な声とは、
違うことがすぐ分かる声で、
彼女は、若さと無邪気さに、
温かさと不幸の予感を加えて音にしていく。
第1幕の独唱、アリアもカバレッタも、
共に、幸福感は夢のような感覚を伴う。
デュエットでは、彼女の叙情的な発話の繊細さが抑制され、
コロラトゥーラは、言葉にできない解放感のように、
表現力豊かになっていく。
寝ながらのうわ言は、また、
異次元の要素のように美しく歌われ、
この状態で、『あなたを見たとは知らなかった』が歌われる。
完全に
声の温かさや反響を補って、
眠りの世界から歌っているにもかかわらず、
彼女はなおも心優しい。
バーンスタインは、
彼女と、全編を通じて光彩を放つ、
チェーザレ・ヴァレッティのエルヴィーノが、
力ない憧れの悲しみのフレーズを
崇高に歌うのを助けている。」

ということで、エルヴィーノを歌う、
ヴァレッティも聴きものだということだ。

「そして、目覚め、和解する時、
カラスが、すべてを解き放った声を発するのを、
私たちは初めて聴く。
この点で、彼女の『蝶々夫人』の
最後の独唱と同様の力であるが、
もちろん、ここでは歓喜の歌であり、
バーンスタインによって、
カラス用に作られた装飾によって、
真実のオペラと、
それをもたらしたディーヴァを経験し、
聴衆が喝采して立ち上がるほどの、
音符の滝や泉に向かって進む。」

とにかく、どえらい経験を記録したのが、
このCDである、という自信が、
溢れかえった解説なのはありがたい。

音質が悪いのも、バーンスタインが、
初日から羽目を外しているのも関係ない。
そんな事を気にするやつは聴かんで良い、
という類の録音だということである。

「録音は悪いが、出来る限り修復して発売した。
マリア・カラスのキャリアにとって、
重要なドキュメントだから」と書かれているのも、
なるほどと思わなければならない。

さて、「夢遊病の女」が、どのような物語かを知らないと、
上記、解説もさっぱり分からない。

この後、倍の分量で、「ベッリーニと『夢遊病の女』」
という解説が続くが、簡潔にはしょる。

「ノルマ」のような危険な情熱をはらまず、
「清教徒」のような魂の衝動やヒロイズムもなく、
ベッリーニの美しく、ダンディな肖像画に、
実にぴったりな作品が、
このオペラである、と書かれている。

「優美で、詩的、計り知れぬ優しさが、
そこここに見られ、これらが田園的なファンタジーに誘う」
とあるように、
不気味な題名とは裏腹に、このオペラは、
田園情緒に溢れた作品なのである。

「妖精の出てこない妖精物語、秩序と明るさの、
スイスの田園詩」とも評されている。

ヒロインが夜中に徘徊することから、
様々な誤解を引き起こす、
迷惑な「夢遊病の女」の話である。

シノプシス:
第一幕:
第1場:
村:
Track1.「村人は、孤児だったが、水車屋の女将、
テレサに育てられたアミーナが、
成功した若い農夫、エルヴィーノとの婚約を祝福している。
このお祝いの中、ただ一人楽しくないのは、
かつてエルヴィーノと婚約していたこともある、
村の宿屋のオーナー、リーザである。
彼女は、他の村人、アレッシオに近づかれ、
さらにいらだっている。」

このあたり、合唱を交えての進行、
リーザの可憐な声も美しく、
いかにも、楽しいオペラの始まり始まりという感じ。

Track2.「村人は、アミーナを讃え、
このような婚約者を持ったエルヴィーノの将来を語る。
アレッシオは、リーザに、
自分たちもハッピーになろうと言う。」

Track3.「アミーナが入って来て、
育ての母や村人に感謝する。」

Track4.「彼女は、回りの自然の美しさに、
この幸せが反映されていると歌う。」

ここからが、最初のカラスの聴かせどころであろう。

Track5.
非常に美しいメロディが現れる。
「私の心臓の上に手をおいて」として、
この作品の代表的なアリアとして知られる部分。
装飾も入れながら、合唱も入って、
とても、効果的な部分である。
最後は絶叫のような声になるが、
実際、観客の興奮はいきなり高潮に達する。

解説には、「彼女はテレサを抱きしめ、
育ての母の手を、心臓の上に置く」
とあるが、
母親に心臓の鼓動を感じさせようとしているのである。

しかし、別にまだ何も起こっていないのに、
ここまで熱くなる音楽って何?という感じもする。
これは誠実、不誠実、義務、責任、
渾然一体となって悩ましい。

Track6.
いよいよ、いろんな登場人物が出てくるが、
この部分も、甘美なメロディが見え隠れする。
こうしたもったいぶった感じも重要である。

「アミーナは、お祝いの準備を
手伝ってくれたアレッシオに感謝し、
リーザと早く結婚すればいいのにと言う。
これを聴いてリーザはぞっとする。
公証人とエルヴィーノが現れる。」

Track7.
「エルヴィーノは遅刻を詫びる。
彼は母親の墓を訪れ、
祝福してもらいたかったのである。
婚約の契約はサインされ、立ち会いも終わった。」

Track8.
「エルヴィーノは指輪をアミーナの指にはめる。」
ここは、エルヴィーノ役のヴァレッティが、
美声を聴かせる部分であるが、
最後の方に、所々、アミーナとの掛け合いがあって、
非常にしみじみした感情をかき立てて行く。
「恋人よ、これまで、
今日以上に、神が私たちの心を、
結びつけたことはありません。
私の心はあなたの中に留まり、
あなたのは、私から離れることはない。」

非常に敬虔な感じのものである。

Track9.
「二人は二人の愛と幸福を歌う」
とあるが、この部分、まだまだ、
恋人の恍惚状態は続くが、
軽妙な楽想になって、
エルヴィーノの高らかな声が印象に残る。

このあたりまでが、まず、一回めの、
音楽盛り上げ部分であろう。

Track10.
「彼は、明日、結婚式を行うとアナウンスする。
祝典は、ムチの音と馬たちの音で、中断される。」
何だか、状況が変わる予感に満ちて、
オーケストラが落ち着きない。

Track11.
「それは、村人が知らない、
しかし、実は、領主ロドルフォ郷である、
ハンサムな若者の到着の前触れである。」
とあるように、舞台はざわざわして、
格好良いバスが響き渡る。

それに続いて、おきゃんなリーザの声が、
からみつくように聞こえて来る。

「彼は、幼い頃、行方不明となり、
死んだものと思われていた。
彼が、城からどれだけ遠くに来たかを知り、
直に暗くなって危ないから、
一晩だけ、村に泊まって行けばとアドバイスする。」

さすが旅館のオーナーである。
イケメン出現に抜け目ない。

「この人は誰だろうと思う村人は、
彼が、この回りの様子の
記憶があるようなのを見て驚く。」

「ああ、水車屋、川の流れ、ああ森よ
農家が近くにあって」と、
感慨深げなロドルフォの歌唱に、
リズムを刻む合唱が入って効果を上げている。
Track11の途中だが、拍手が入る。

「彼は何のお祭りかと聴き、
アミーナについて聴くと、
その美しさを称賛し、
リーザやエルヴィーノをやきもきさせる。」

さらに軽妙なロドルフォの歌が、
情熱的に高まると、
途端に他の人たちの騒ぎが始まる。
オーケストラも美しく状況を彩っている。
再び小クライマックスである。

Track12.
エルヴィーノが、この村を知ってるのか、
とロドルフォに尋ねる。

「エルヴィーノの質問に、
彼は、この近くの城に住んだことがあると言う。
テレサは4年前に領主が死んだこと、
息子のような相続人もいないことを告げる。」

ロドルフォの正体について、
ちょっと緊迫した雰囲気が高まる。

遠くでホルンが鳴る。

Track13.
その緊張感をなだめるような、
ピッチカートの音楽になり、
合唱が主体となる。
心優しい村人の忠告にふさわしい。

「夜になると、目をぎらつかせ、
白衣で髪をなびかせた幽霊が出る様子を、
よそから来た男に告げる。
しかし、ロドルフォはそんなものは信じない。」

このあたり、完全にロドルフォのためのシーンである。
主役のカップルは影が薄い。

Track14.
「彼は、そんなものがいないと分かる時が来る、
と予言する。
リーザについて行く前に、ロドルフォは再度、
アミーナを賛美する。」

Track15.
そんなことをするから、なさけない二人の、
痴話喧嘩のレチタティーボとなる。
「よそ者の言葉にアミーナが嬉しそうだと、
エルヴィーノはとがめるが、
アミーナはそれは単なる嫉妬だと言う。」

Track16.
そんなやりとりから、許して頂戴のアリアとなる。
エルヴィーノの声に、アミーナの声が続き、
「もう疑いはない、恐れもない、ああ、私の愛」
と、おのろけを、大声で唱和する。

カラスは強烈に声を張り上げ、
テノールも負けじと興奮した後は、
次第に夕闇が深くなるのであろうか。
次第に収まる興奮に、そんな雰囲気がみなぎっている。
「眠りながらも、あなたを見ている。」
と大騒ぎして、それぞれの家路に着く。

拍手がわき起こるが、あほなシーンと言えよう。

第二場:
旅館の一室。
「背景にフランス風の窓。一方にドア、
もう一方に別室。
小さなテーブルとソファ。
最初はロドルフォ一人だが、リーザが入って来る。」

Track17.
じゃーんと鳴って、楽しげなメロディ。
いかにも、寛いだ雰囲気である。

「ロドルフォは村での滞在に満足している。
若い村娘は魅力的だし、旅館のオーナーもグーだぜ。
リーザは、自分も村人も、彼の正体が分かったという。」

ロドルフォが独り言を言っていると、
にちゃにちゃ気味のリーザの声が聞こえて来る。

「彼のいらだちは、リーザが、これまでにない、
ご機嫌取りをして和らぐ。」

「きれいだね。」
「お戯れを。」
などとやっている。

「彼等は突然の騒音に妨げられ、
リーザは逃げる時に、スカーフを落とす。
ロドルフォはそれを拾って、
うっかりベッドの上に投げる。
白衣の人物が現れ、窓を開ける。」

えらい不気味なシーンである。

しかし、歌詞のところには、
ロドルフォが窓を開け、
アミーナが夢遊病状態で入って来る、
とある。

Track18:
「最初、ロドルフォはそれを幽霊と間違えるが、
すぐに、村のきれいな姉ちゃんと知る。」

「エルヴィーノ、エルヴィーノ、
何故、答えてくれないの?」
とアミーナは完全にヤバい状態である。
カラスは上手い具合に、夢うつつの声を出している。

「彼女はゆっくりと部屋に入って来て、
エルヴィーノの名前を呼ぶ。
ロドルフォはすぐに、彼女が夢遊病状態で、
何をしているか分からないことを悟る。
彼女は、エルヴィーノの嫉妬と和解を語る。
まず、エルヴィーノはラッキー、と思うが、
さっと別の部屋から出て来て、
部屋を出て行くリーザに見られてしまう。」

Track19.
「ロドルフォはアミーナに近づくが、
来るべき婚礼を楽しみにするアミーナに、
良心がくすぐられる。」

と書かれているように、
ここでは、カラスによる
しみじみとした歌が叙情的である。

「アミーナが狼狽しないように、
また、誘惑に対する彼の自制に自信がなくなり、
彼は、その場を去ろうとする。
村人が近づいて来るのを察して、
彼は窓から逃げ、出てからそれを閉める
アミーナはなおも眠っていて、ベッドに倒れる。」

Track20.
「村人は、伯爵の暗い部屋で、
彼らは、必然の結論に達し、
慎重に引き下がると決める。」

小声でささやくような合唱が、
ちょんちょんちょんという控えめなオーケストラと
闇の中での出来事を表す。

Track21.
「彼等は、事を信用しない
エルヴィーノを伴ったリーザに止められる。
しかし、彼は証拠を否定することが出来ない。
アミーナはベッドに横たわっていた。
この騒ぎは寝ていた女を起こし、
彼女は、エルヴィーノの非難と、
自分が旅館にいることに対して混乱する。」

ものすごい混乱が少し収まったところで、
ぷつっと音が止んでしまう。
アミーナは、「何があったの、ああ、何てこと」
と言いかけた状態。

以上が、CD1に含まれる部分である。

あと少しで第一幕は終わるが、それは、
CD2に回されている。
曲が始まって、すでに75分も経過しているので、
この措置もやむを得ない。

CD2:
Track1.
「私の心、私の言葉、私に何も罪はない」、
前の部分の静寂から、情けない声で歌い出される、
アミーナの声に、怒りと嘆きを表す、
エルヴィーノの声が重なる。
この部分の音楽も、実にメロディが美しい。
管弦楽もヒステリックなまでに歌い上げられており、
バーンスタインの何とも言えぬ表情までが、
そこに見えるようである。
一幕も終わりに向かい、聴衆の気持ちも、
否応なく高ぶらされる。

「エルヴィーノと村人は、
アミーナの母親を除いて、
眼前の光景を額面通りに受けとめる。
彼女は、ベッドからスカーフを取り上げて、
慰めるように、アミーナの首の回りにかける。
リーザのものであって、娘のものであるとは気づかすに。」

Track2.
「アミーナはとがめられ、婚礼は取り消しとなる。
かわいそうな娘は、何も出来ずに、母親の腕の中で泣くばかり。」

すごい盛り上がりになるが、絶叫のような声ばかりで、
うんざりである。
これだから、ベルカント・オペラは嫌だな、
という感じがするが、まあ、それを除けば、
非常に良くできた作品である。

合唱、独唱、二重唱がうまく配置されて、
盛り上がるように計算されている。

第二幕は、次回に回すとしよう。
一幕だけでも、心に残るメロディが、いくつもあって、
名作とされるゆえんを納得した次第である。

得られた事:「オペラ作曲家は、『夢遊病の女』第1幕、第1場のように、何も起こっていない状況でも、無理矢理、クライマックスを築く才能が必要である。」
[PR]
by franz310 | 2010-11-27 22:43 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その252

b0083728_22182959.jpg個人的経験:
前回、ドニゼッティの、
出世作、「アンナ・ボレーナ」
の前半を聴いたが、
このオペラ、前半ですべての、
出来事が終わってしまっている。
妃アンナの侍女に心移りした王様は、
1幕でいきなり、じゃまな妃を罠にはめる。
悲嘆していた妃は、かつて愛した男と、
再会を果たした所を取り押さえられ、
完全に万事休すで幕が閉じるのである。


実際、これで後は裁判を待って、
死刑確定という流れだが、
前半で、もう一網打尽にまで行っているので、
もう物語としては終わったも同じである。

これ以上、何があるというのだろうか。
しかし、面白い事に、音楽は、
これからが高潮に向かうというのである。

ドニゼッティ自身も、そう考えていたのか、
このオペラの後半から想をとった、
器楽曲を残している。

それが、このCDに収められている、
「アンナ・ボレーナによる悲愴的楽興」???
という作品である。
「Amusement Pathetique」と書かれているが、
いかに訳すのだろうか。

「ヴァイオリンと管弦楽、ヴァイオリンと弦楽合奏、
あるいは、ヴァイオリンとピアノのための、
この作品は、ドニゼッティが、
演奏会用に書いた唯一のヴァイオリン曲である」
と解説されている。

「これら三つの版は、
調性や小さな変更はあれど、すべてオリジナルで、
ベルガモのドニゼッティ記念館に保存されている。
この作品の一風変わった性格は、
1830年の『アンナ・ボレーナ』最終幕の
要約版であることで、
器楽曲として、際だった華麗さや、
人を引きつける魅惑が再検討されている。
この作品は未出版のまま置かれ、
ルイジ・インザジの
ドニゼッティ・カタログで言及される、
最近まで知られずにいた。
最近、これは三つの現存する版で、
ボッカチーニ&スパーダから出版された。」

残念ながら、これ以上の情報がなく、
何故に、いつ頃、この作品が書かれたのか書かれていない。

クレメンティなどの研究でも知られる、
1935年生まれの音楽家スパーダが、
このCDではピアノを受け持っていて、
録音監修も手がけている。

先の楽譜を出しているのがスパーダだとすると、
何だか、もっと知ってるんじゃないの?
詳しく書いてくれよ、と言いたくなる。

下記、解説は、スパーダ自身のものである。
「ドニゼッティの室内楽:
偉大な19世紀イタリア器楽の伝統の、
比較的、歴史的に不明瞭な点、
これは同時代のイタリアオペラの、
めざましい勝利と世界的な成功によるものだが、
これが、研究者や演奏家を、
近年、イタリア作曲家の器楽に、
関心を向けることを妨げている。
もとより、作品の数量に関する限り、
ドイツのものと比べることは不可能であるが、
いくつかの場合、質的には比肩可能で、
霊感の上でも、技法の上でも、
イタリア作品は検討に値しない、
という印象があるが、
イタリアは、オペラの領域ほど
広範囲なものではなかったにせよ、
器楽の分野において、
明らかに一聴に値し、批評にも値する、
価値の作品を生み出す力を
持っていたことを示している。
19世紀イタリアの器楽作品の
状況の全容を掴むためには、とりわけ、
国外にいた、クレメンティ、ケルビーニという
二大巨頭に集約される展開を、
つぶさに見ていく必要があり、
彼等が作曲した最高の器楽作品のいくつかは、
19世紀になってから作られたもので、
基本的にドイツ文化圏、
さらに詳しくはヴィーンにおける
器楽曲の架け橋であり、
重要な輪が花咲いたものとなっている。
これら二人の偉大な作曲家を別にすれば、
後知恵ながら、
二つの歴史的な流れの存在が重要である。
これらの作曲家の基本スタイルは、
器楽作品にあり、
(とりわけパガニーニ、さらにヴィオッティ、
ローラ、ポリーニ、バジーニ、ボッテジーニ、
その流れでスガンバッティ、マルトゥッチ)、
もう一つは偉大な歌劇作曲家であり、
彼等によって、器楽曲は秘密裏に、
またある場合は、『生かじり』の状態で、
作られたものである。
後者のうち、何人かの作曲家は、
純粋の楽しみとして、
これらを隠し、ごまかしている。
二人を上げれば、ロッシーニとヴェルディがある。
他の作曲家、例えば、ベッリーニは、
器楽曲の練習は、若い頃の試作品とされ、
メルカダンデにとって、
器楽の分野は、数こそ少ないものの、
劇場作品に沿って、コンスタントに、
常に取り組むべきジャンルであった。」

ここから、ようやく、ドニゼッティの器楽曲の話となる。
全体の3分の2はすでに終わっている。

「ドニゼッティの場合は、実際、
純粋な楽しみ、何の制約もないものであったと言ってよく、
多くの一連の器楽作品は、作曲家としての初期のもので、
ロッシーニ(使い古されたオペラの伝統から離れて、
現在では、むしろ正当に重視されている、
喜遊や娯楽に満ちた器楽曲を残した)のような、
隠蔽や偽りの責任回避ではなく、
基本的に、真の楽しみとして扱われており、
個人的な嗜好のものである。
ドニゼッティの器楽作品における『遊び』は、
いかなる場合も、多産の産物と言え、
その17曲の弦楽四重奏曲や、
40曲を越える一連のピアノ独奏やデュオを、
思い描くだけで十分である。
取るに足らないものではないとは言え、
明らかに、ドニゼッティの真の資質が、
そこから判定できるものではなく、
興味深いものから、非常に楽しいものまであり、
中には、作曲家の劇場作品の、
最高の瞬間に迫る表現の深さを見せている。」

さて、歌劇「アンナ・ボレーナ」の後半も、
ここでおさらいしておこう。

以下、分かるように、ドニゼッティは、
このオペラの部分部分をポプリにしたのではなく、
最終場面のクライマックスをそのまま、
ヴァイオリン曲にしているのである。

前回のマリア・カラスの録音のCDの2枚目は、
こんな感じである。

第2幕:
第一場、ロンドン塔、
アンナが警備されて囚われている部屋の控えの間。

Track1.
侍女たちが、もう、一番信頼していたジョヴァンナすら、
尋ねて来ないと語る。
アンナが寂しげに入って来ると、みんなは忠誠を誓う。

このあたり、筋を知らないと、
単なる夕べの祈りの合唱にも聞こえる、
開放的で平穏な楽想が続く。

さすがに、最初から陰惨だと気が滅入るし、
第2幕全編の暗い雰囲気の対比に効果的と見た。
カラスのCDは、何だかごそごそ音が終始しているが、
実際に舞台上が動いているのか、マイクの具合が悪いのか。

Track2.
ハーベイが女たちに評議会に立てと命じるが、
抗議が起こる。アンナは、行けと言う。

この部分も、緊迫したシーンながら、
淡々と進む。

Track3.
一人になって、彼女は跪いて祈るが、
座り込んで泣き出す。

ホルンの響きが、祈りの感じをよく出しているが、
血なまぐさいロンドン塔のシーンとは思えない。
カラスは、私の印象では、
やたらと声を張り上げる人というイメージであったが、
ここでは、叙情的な表現で聴かせる。

Track4.
ジョヴァンナが入って来て、
困ったように、アンナの前に跪くと、
アンナは優しく抱き起こす。

このあたりから、この物語の核心になるせいか、
音楽はじわじわと緊張感を高めている。
しかし、オーケストラは、じゃかじゃかじゃか、
じゃっじゃっじゃっ、ぼんぼんぼん、
とやっているだけで、
モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトらが、
器楽と声楽を対等に競わせるような気持ちは、
毛頭ないようだ。

Track5.
しばらくの逡巡の後、
ジョヴァンナは、王が、
もし罪を認め、王妃の地位を放棄すれば、
命は助けると言っていると語る。
アンナが、そんな事を良く言うと驚くと、
王の名のみならず、
アンナの後釜になる罪深い女のためにも、
譲歩を乞う。

ますます、声楽の共演は盛り上がって行くが、
こうして筋書きを追ってみると当然である。
この部分こそが、アンナの疑心が、
最高潮に達して行く部分だからである。

Track6.
自分にライヴァルがいると知り、
アンナは激怒し、天の祟りがそれを罰するべし、
と言う。罪の意識に苦しむジョヴァンナは、
言うことを聴くよう願うが、
アンナは新婚のベッドに幽霊が出ると言う。
ジョヴァンナがひれ伏すと、アンナは、
そのライヴァルがジョヴァンナだと知る。

もう、カラスの強靱な歌声にひれ伏すしかないが、
シミオナートが、まったく、遜色なく張り合って、
みごとな声の織物を織り上げて行く。
その際、オーケストラは、完全に沈黙して、
それに聞き入っているだけにも聞こえる。

Track7.
アンナは出て行けと言うが、
ジョヴァンナは自責の念を分かって欲しいと乞う。
泣きながらジョヴァンナは、
王につけ込まれた未熟を語る。
涙をいかに流そうとも、
いかに苦しもうとも、
彼女は王への愛を打ち消すことが出来ない。
アンナはいま、ジョヴァンナを起こし、
彼女を許されない愛に走らせたエンリコ王こそに、
罪があると言う。

シミオナートの声を満喫できる部分で、
さすが、ドニゼッティ、それぞれの歌手が、
その持ち味を発揮できる場面を用意している。

Track8.
今や、アンナは、ジョヴァンナを去らせ、
彼女のために祈ると約束する。
ジョヴァンナは、アンナの寛大の方が、
恐れる地位に登ることよりも耐え難いと答える。

ここからは、これまでのように、
単に舞台上から声を聴かされている感じではなく、
美しいメロディのデュエットが堪能できる。
そして、この流れで、この場面が終わるので、
観客は大喜びである。

ということで、後半の最初の1/3は、
ジョヴァンナと語るうちに、
アンナが真相を知ってしまう部分で、
最後の最後に大二重奏曲で盛り上がる。

第2場:
部屋の外で、評議会が開催されている。
Track9.
廷臣たちが集まり、
閉じられ、警護されたドアの後ろで、
何が起きているかをいぶかっている。
スメトンが尋問され、
若者が衝動的に、
不利な証言をしないことを祈っている。

これまた、呑気な雰囲気の情景で、
どうも、ドニゼッティは、
主人公の運命を見てるだけの人の、
他人事モードを、こうした牧歌で表現する傾向がある。

Track10.
ハーベイは、部屋から入って来て、
あけすけにほくそ笑み、
スメトンはアンナを助けようとして、
王妃との罪深い関係を認めたと言う。
廷臣たちは失望する。

合唱と独唱の対比であるが、
冷酷なオーケストラのリズムが気味悪い。

しかし、中間部で、
美しいメロディがあふれ出す所はさすがだ。

Track11.
ハーベイは、王が来るので、
廷臣はこの場から去るように言い、
やって来た王だけに、スメトンが罠にかかったと告げる。

急展開の慌ただしいリズム。

Track12.
それから、アンナとパーシィが、
別々の留置場所から護衛されて来る。
王が彼等から離れようとすると、
アンナは、評議会で有罪とされるより、
高位のものの特権として、
むしろ王の手にかかって死にたいと主張する。
不機嫌に王は、パーシィに服従した者に、
その特権はないと言う。

このあたりも、単に、レチタティーボで、
音楽が繋がれている印象。

Track13.
激高したパーシィが抗議するが、
エンリコは、アンナは音楽家と不実な関係で、
その目撃者もいるという。
激情にかられてアンナは、
エンリコこそ不実だと言い、
彼に死を宣告されても不名誉ではないと言う。
彼女の言葉はパーシィを動かし、
王はますます二人を葬らねばならないと考える。
パーシィが、正義が自分たちを救うと言うが、
エンリコの宮殿には正義はない、とアンナは言う。
エンリコは、直に新しい王妃が生まれると言うと、
パーシィは、自分が昔、アンナと結婚していた、
と言って報復する。
その近くによって、王はさらに真実を迫るが、
アンナはあまりの怒りに言葉が出ない。

ここでも、人間関係が、ああじゃこうじゃと、
ややこしいが、オーケストラは、
時折、じゃじゃじゃじゃ、じゃーと、
合いの手を入れているだけである。

Track14.
パーシィがアンナは子供の頃からの許嫁であったと回想し、
そして彼女の助命を乞うばかりと、
三重唱を歌い始める。
アンナは彼を諦めた自分を責め、
エンリコは一人、彼等を罰することを考えている。
彼は、彼等に審議会に出頭して、
昔の結びつきを白状せよと言う。

ここに来て、ようやく現れる、美しい三重唱で、
これまでのぐじゃぐじゃが、ようやく息抜きとなる。
こうなると、緊張を高めた後、
取っておきのメロディを聴かせるのが、
オペラの作法ということになる。

ここでの歌は、いかにも、男の方は、
純粋だが世間知らずな感じが出ている。
これに唱和するカラスの陰影に満ちた声が美しく、
王様は、呪いの言葉をぶつぶつ言っているだけである。

Track15.
再び、アンナの後釜になる新しい王妃について語ると、
パーシィとアンナは、英国人は、
新しい王妃の継承の背後にある事実を、
決して許すことはない、とその信念を宣言する。
アンナとパーシィは連行される。

王様の本領はここからが発揮され、
力強く、ずるがしこそうな声を朗々と響かせる。
それに対する、アンナたちの唱和も緊迫感みなぎり、
感情もあおられて、非常に美しい。
観客も思わず反応しているが、さもなりなんである。

Track16.
アンナの娘エリザベスも、
彼女の破滅の道連れにすることさえ考えながら、
エンリコは、ひとり、
ちょうど知った苦いニュースを熟考する。
ジョヴァンナが痛恨に苛まれて現れる。

王様の思いを伝える、深刻な序奏がついている。
が、後は、基本にレチタティーボ。

Track17.
彼女は自分がアンナの運命に、
荷担したことに耐えられないので、
王に、別れの挨拶をする。

基本的に深刻なレチタティーボである。
シミオナートの声にはドスが効いている。

エンリコは、彼女に自分が王だということより、
恋人であることを思い出させ、
すぐに結婚するのだと言う。
ジョヴァンナは、ただ、遠くに行って、
罪を償いたいと言うと、
ジョヴァンナが冷たくする態度は、ただ、
アンナを憎ませる気持ちを高めるだけであると言う。

すごいオレ様ロジックである。
じゃじゃーんと、オーケストラが一撃を食らわせる。

Track18.
絶望したジョヴァンナは、彼女は、
まだ、彼を愛していると言い、
その愛において、エンリコに、
アンナを殺さないよう願う。

ここでのアリアも、控えめながらメロディが美しく、
決意をこめて歌うシミオナートが素晴らしい。

Track19.
部屋のドアが開くと、
エンリコは、単に彼女の愚行を退け、
ハーベイは、アンナのエンリコとの結婚は、
無効であったと宣言、そのため、
共謀者と共に死刑と決定される。

トランペットが鳴り響き、勇壮である。

廷臣たちはエンリコを見て、
王たるものの慈悲で評決を覆して欲しいと乞う。

Track20.
泣きながらジョヴァンナは、エンリコに、
天もまた、慈悲を求めていると言うが、
エンリコの決心は変わらない。

ということで、この場面は、
アンナとパーシイ、エンリコとジョヴァンナの、
それぞれの思惑が美しいアリアによって、
歌い上げられ、見事に、
この第2幕、第2場を締めくくっている。

このように第2場は、結局、刑が確定するまでの筋。

第3場
ロンドン塔の警護された独房。
Track21.
アンナの侍女たちの、これまた合唱で始まるが、
何だか、シューベルトも書きそうな音楽で、
オーケストラも色彩的で、映えている。
私が、今回聴いて、最も動かされたのは、
この部分かもしれない。

そのせいか、観客からも、アリアでもないのに、
拍手が起こっている。

この部分では、さらに、
ベルリオーズもかくやと思わせる、
劇的緊張感に溢れた、素晴らしい序奏が聴ける。
ドニゼッティが序奏が得意なのは、
室内楽でも見られたとおりである。

ただし、録音が変で、
しょるしゅるとヒスノイズが乗っている。

侍女たちは、アンナの不憫な、
取り乱した様子を語るのである。

Track22.
この部分など、カラスが歌う、
アンナの思慮深く、ある意味、
純真な女性像が描かれて秀逸である。

オーケストラの分厚い弦が、
印象的に思索するような序奏を奏でるが、
まさしく、このメロディこそが、
ドニゼッティがヴァイオリンとピアノのための、
室内楽に書き改めた部分である。

「あなたは泣いているの、何のための涙なの。
今日は、私の婚礼の日、王様が待っているの。」

アンナは髪は乱れ、衣服もかまいなく、
独房から出てきて、何故、侍女たちが、
泣いているかといぶかる。
彼女は、混乱して、この日が、
エンリコとの婚礼の日だと信じているが、
その前にパーシイの幻影が見えて、
彼女をとがめる。
彼女は許しを乞い、どこかに行って欲しいと言う。

合唱は、まるでマーラーのような、
神秘的な響きまで予告している。

Track23.
ついに、聴きもののアリアである。
彼女は、子供の頃、過ごした家を思い、
初恋の頃を、もう一度、体験したいと思う。
この部分、どうやら、狂気のシーンなのである。

さすがに、聴衆の熱狂はすさまじい。

この部分も、ドニゼッティは、先の室内楽に、
移し替えている。

Track24.
太鼓が鳴り響き、驚いたアンナは、
ハーベイがパーシイやロチェフォートやスメトンを、
彼女の独房に連れて来るのを見る。
スメトンは彼女のもとに駆け寄って跪き、
彼女を破滅させたのは、自分一人であるという。
アンナの精神は再び錯乱し、何故、リュートを弾かないの、
などととんちんかんなことを言う。

さすがに、婚礼の行列は晴朗である。
ここの部分も、あの室内楽版には、
書き写されていて、泣き節に変化を与えている。

鳴り響くとされるのは、ぱらぱらと聞こえる小太鼓であろう。
アンナはすでに狂人であるから、
この平穏な背景の中、うわごとのような声を響かせる。
合唱が、彼女の状態を説明する。

この狂乱した部分もまた、室内楽版になって、
曲に切迫感を与えて、変化をつけている。

Track25.
錯乱の中で、彼女は天に救いを求め、
舞台裏で、大砲が轟音を立て、ベルが鳴り響く。
アンナはこの音は何と聴くと、
エンリコとジョヴァンナの婚礼の進行だと告げられる。
それを聴くと、アンナは、後、必要なのは、
自分の血が流されることだけだ、と叫ぶ。

この部分は、アンナの美しい祈りの歌(室内楽にも現れる)と、
大混乱の対比からなっていて、後半は、叫びまくりである。
が、大砲はいつ鳴ったのだろう。
最後には、女性合唱が、「天よ、彼女を助けたまえ」と歌う。

Track26.
そして、彼女は罪深いカップルを、
天が正義を下すよりも、むしろ、慈悲を願う。
彼女が慈悲を願うのを繰り返すと、
彼女は失神し、法官がやってきて、
牢に繋がれていた人たちを首切り台に連れて行く。

この最後の部分では、マリア・カラスが全権を委ねられ、
美しくも高揚した歌を歌い上げる。

当然、室内楽版を終結させるのも、
この勇壮なメロディで、
そのまま器楽曲に移し替えられるような構成で、
このオペラの各部が書かれていることが良く分かる。

さて、オペラの筋であるが、
このカラスのCDでは、
歌い終わる前から、聴衆は拍手を始めるので、
失神したかや、首切り台があるのかないのかなどは、
さっぱり分からない。

このCDの録音は、放送用の録音なのか、
1957年にしてはへんてこで、
時折、人の声のようなものが混信している。
基本的には、鑑賞の妨げにはならないが、
このあたりは、解説に書いて欲しいものである。

以上、聴いて来たように、
ドニゼッティのアンナ・ボレーナの各シーンは、
比較的牧歌風の群衆シーンの合唱で始まり、
最後は、強烈な情念を放射する独唱歌手の、
強引な感情揺さぶりによってドラマを形成している。

今回取り上げた室内楽の各曲の場合も、明らかに、
序盤とその後を対比させる構成が取られており、
華麗な後半に比べ、序奏部には、
シューベルト的とも言える、情緒の陰影が見られる。

得られた事:「ドニゼッティのオペラの序盤、または室内楽の序奏部は、明らかにシューベルトと同時代を感じさせる。」
[PR]
by franz310 | 2010-11-20 22:24 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その251

b0083728_22582149.jpg個人的経験:
前回、グリンカが、
ドニゼッティの歌劇の主題によって、
セレナードと題する室内楽を
書いている事を取り上げたが、
ドニゼッティの出世作となった、
このオペラについて、
今回、改めて向かい会うことにした。
シューベルトの特集ブログであるが、
イタリアの「ベル・カント」にまで、
話が発展するとは思っていなかった。


しかし、ドニゼッティは、シューベルトと、
まったく同じ年の生まれであるから、
何らかの共通した時代の空気がありかもしれない。
などと期待したりもする。

そもそも、シューベルトの師匠は、
イタリア人のサリエーリであるし、
そのせいか、最初の傑作とされ、
音楽史の重要な一こまとなっている、
ドイツ歌曲、糸を紡ぐグレートヒェンですら、
ベル・カントの影響があると言う。

さらに、シューベルトはロッシーニに心酔して、
イタリア風の作品を集中的に書いた時期もあった。

ドニゼッティは、ロッシーニやベッリーニと並んで、
当時のイタリア歌劇をリードした人であるから、
無視するわけにはいかないのだが、
今回、カラスがタイトル・ロールを歌ったCD解説を読んで、
ますます、そんな気持ちを新たにした。

ドニゼッティは、しかし、「愛の妙薬」や、
「ランメルモールのルチア」ばかりが演奏されていて、
その他の作品はあまり話題になることがない。

これらは、シューベルトの死後の作品であって、
シューベルトが聴くことはなかったが、
ドニゼッティの最初の成功作と言われる、
今回の「アンナ・ボレーナ」もまた、
シューベルトの死後の2年しての作品であった。

この作品、当時は決定的な成功を収めたようだが、
第二次大戦後まで、軽視されていて、
カラスらの演奏によって、
真価が認められたということが、
このEMIのCD解説に書かれている。

J.B.Steaneという人が1993年に書いた文章である。
「今世紀」と書いているのは、20世紀のことである。
題して、「カラスと『アンナ・ボレーナ』」とある。
私は、むしろ、「ドニゼッティと『アンナ・ボレーナ』」の方が、
欲を言えば、「グリンカと『アンナ・ボレーナ』」や、
今回の流れからして嬉しいのだが、
様々な事が、これはこれで想起される。

「『成功、勝利、興奮。
聴衆は気が狂ったかのようだ。
皆が、これほどまでに完璧な勝利はなかった、
と言っている。』
1830年12月26日の
『アンナ・ボレーナ』初演の後、
ドニゼッティが家族に書き送った言葉である。
ヒロインの役は、ジュディッタ・パスタによって歌われ、
この驚異のソプラノは、翌年の同じ日には、
最初のノルマになり、
1831年の初めには、『夢遊病の女』の初演で、
アミーナを歌い、
1833年には『テンダのベアトリーチェ』の役を
創造した。
マリア・カラスは、まさしく『時代の申し子』で、
いかなる意味でもパスタの後継者であったが、
創造者としては、新しい役割を演じたわけではなかった。
基本的に、彼女の役割は偉大な『再創造者』であった。」

おそらく、ジュディッタ・パスタは、
これらドニゼッティやベッリーニが、
歌劇を作曲する際にインスピレーションを、
与えたということを言っているのだろう。
カラスに触発されて書かれたオペラはないのかもしれない。

事実、パスタはベッリーニの恋人だったとされ、
彼女のために「ノルマ」が生まれたという話は良く聞く。
このパスタ、シューベルトと同年、
1797年生まれだったようだが、
シューベルト存命中に話題になることはなかったのだろうか。

さて、解説は、こうした大成功したオペラのその後の運命を記す。
「我々はこれら、
ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの
いわゆるベル・カント・オペラを思う時、
偉大なプリマドンナ、
メルバ、テトラツィーニ、ガリ・クルチらがいた
今世紀の初めには人気を失っていたことを思い出す。
あるオペラは復活していたが、
選ばれたソプラノの能力を示すための手段としての、
まがい物以上のものを、評論家は、そこに見ていなかった。
トティ・デル・モンテやリリー・ポンスのような歌手は、
これらのオペラを演目にしていた。
(主に、『ルチア』と『連隊の娘』)
そして、第二次大戦の終わり頃までに、
それらも壊滅してしまったように見えた。」

私は、これまで、「ベルカント」に、
余り親しみを覚えていなかったが、
何と、20世紀初頭からの先入観を引きずっていたわけだ。

確かに、シューベルトの伝記などを読んでも、
ベルカントに影響された、などという話は、
あまり出てこない。
シューベルトの天才が、
ドイツ芸術歌曲を生み出したのであって、
ベルカントの影響などあってはならなかったのだ。
しかし、グレアム・ジョンスンなどが、
ようやく、そのあたりを正す解説を書くようになっている。

あと、こうした軽視は、私は日本特有かと思っていたが、
これを読むと、本国イタリアでも、
同様の状態だったことが分かった。

その後、ドイツの器楽音楽が、
主流と見なされるようになったので、
イタリアの歌劇の声任せ、
ずんちゃっちゃの伴奏オーケストラは、
何となく、安っぽい手抜き作業に思えたのであった。

が、こうした偏見も、見直される時代となる。

「しかし、この時代こそが、それらを聴きたいと思い、
その価値を自分たちの価値で検証したいと思う、
新しい世代が登場した。
彼等はラッキーだった。
まず、嗜好は変わって来ていたし、
すでにこれらのオペラが、
オールド・ファッションと思われる時代から、
ただ、古くて貴重と考えられる時代になったからである。
さらに、そこにこれらの作品復活に注力する、
影響力ある音楽家がいた。
指揮者のトゥリオ・セラフィンがとりわけ重要だった。
声楽ルネサンスの注目点は、
理想の『新しいパスタ』となる、
歌手を探すことが先決だった。
1940年代中盤にも、これにぴったりのある歌手がいたが、
もっぱら彼女の役は、イゾルデとトゥーランドットだった。
1947年、彼女は、セラフィンと会い、
このイゾルデを、驚いたことにベッリーニに向かわせたのである。
1949年、彼女は『清教徒』で登場し、ローマを驚愕させ、
パルシファルでも、驚かせた。
その後すぐ、音楽界は、彼女を話題にし始めた。」

原曲のオペラ自体がこんな状況なので、
それを編曲したグリンカの室内楽が、
これまで有名だった訳はない、
という感じがしてきた。

「『アンナ・ボレーナ』は、1957年に、
彼女のレパートリーになった。
彼女の『清教徒』は、『ノルマ』に続いたが、
これは最高の難易度のもので、
これにカラスは最も注力することになる。
1952年、フィレンツェで、
『清教徒』とロッシーニの『アルミーダ』を、
比類なき華麗な技術を劇的な力と結びつけた。
『ルチア』はさらなる新発見となり、
『夢遊病の女』が続いた。
1956年、スカラ座にて『セリビアの理髪師』で、
意外にも喜歌劇にも参入し、
これに対して翌年には、『アンナ・ボレーナ』が出し物となったが、
この注目すべき、『ベルカント』復活の8作目となった。
これはもっとスタンダードな演目、
ヴェルディやプッチーニらのレパートリーの
と連携して進められた。
常勝カラスの素晴らしい名声の
サポートがあったとしても、
『アンナ・ボレーナ』を上演することは、
スカラ座側には、あまりに大胆な冒険に見えた。
これは、まったく忘れ去られた作品だったのだ。」

このように、多大な努力の甲斐があって初めて、
このオペラは上演されることになった。

グリンカが、「アンナ・ボレーナの主題による」
室内楽を書いていたとしても、
誰も聴きたいと思わなかったかもしれない。
ハープとピアノが夢想的な楽想を振りまく、
美しい作品なのに。

「パスタと彼女の後継者ギューリア・グリシ以降、
ほんのわずかなソプラノが上演するだけで、
このタイトル・ロールで特筆すべき成功はなかった。
ドニゼッティの故郷、ベルガモでリヴァイバルされたのは、
その前年で、そこでも知られておらず、
1957年の時点では埃まみれだった。
ニューヨークのメトロポリタンで、
カラスがリヴァイバルを試みた際、
ルドルフ・ビングは、
『退屈な古いオペラ』と却下した。
スカラ座もまた、同様の状況に直面した。
まず、念入りにヴィスコンティを、
プロデューサーに招いた。
そして、ヴィスコンティ、カラス、
指揮者のガヴァツェーニの主力3人は、
十分なリハーサル時間を確保することにし、
それぞれの持ち分を全体の中で明確にした。
ガヴァツェーニは、後に、それが、
『舞台と音楽、そして、
プロデューザーと指揮者の理想のコラボだと感じた
私の劇場における全キャリアの頂点』
と語っている。
音楽をアントニオ・トニーニと音楽を再検討した後、
カラスは20日にわたって稽古をした。
一方、ヴィスコンティは、
すべての音楽練習に同席して、
『舞台の性格は、すべて音楽から自然に決まった』
と自信を深めた。
カラスは歌手たちの中で、最も入念で、
歴史書を読んで、
アンナに関する勉強を始めた時の事を記載している。
しかし、彼女は賢明にも、
このオペラのヒロインは、
歴史上の人物と関係ないことを発見し、
音楽がすべてを十分説明していると考えるに到った。
この興業は大当たりし、
このシーズン、7つの公演が行われ、
翌年、5つが追加され、
この録音はその初演の時の記録である。」

私も、「ヘンリー八世」の勉強をしようかと思ったが、
カラスの確信によって、その時間を割かずに済んだ。
しかし、このような大きなプロジェクトによって、
ようやく復活した傑作の初演の記録、
ということで、皆が総力を挙げて取り組む姿勢に感動した。
こうした非常に貴重なCDだと、
今頃、ようやく知った次第である。

下記は、その絶賛の総まとめである。

「1957年6月の『オペラ・マガジン』のレポートでは、
デズモンド・シャウェ=タイラーが、
『この舞台は、スカラ座の最高を伝えた。
その統一、壮大さは、この長い夜を深く満足させるものだった』
と書いている。
序曲がなかったり、彼は、スコアのカットがあると考えたが、
これはむしろ機転が利いており、
おそらくCDのリスナーも同意するだろうが、
ガブリエラ・カートゥランによる、小さな愛すべき歌、
スメトンの第2節が省略されたのは残念である。
さらに彼は、オペラの初演時に、
ソプラノの役としてキャスティングされた以上に、
シミオナートは『立派なパフォーマンス』を見せたと考えた。
カラス自身については称賛に満ちていて、
最後のシーンでは、
『彼女の歌手として、悲劇女優としての力の頂点』
を見せたと書いている。
この録音は、その夜の歓喜と興奮を伝えて止まない。
カラスに関しては、実際、
我々は聴くだけでなく見ているような幻覚を感じる。
彼女の声は個性的で、性格的、
舞台上で合唱する時も離れて歌う時も、
その歌声を聞き取ることが出来る。
彼女の芸術は別格であって、
明らかに影響を受けた歌手によっても、
捕らえられなかった洗練があったが、
おそらく、それは、その一点に尽きる。
第2幕始めに、
ジョバンナとのデュエットの終わりにかけて、
アンナが独唱する『行きなさい、不幸な女』では、
全ての単語、全ての音符に表現を与えながら、
それでいて、フレーズの統一を失っていない。
これら全ての歌の基本となるレガートスタイルを壊さず、
陰影を与えている。
カラスの声と、演技の力、
それに彼女の歌唱上の様々な欠点もまた、
語り尽くされている。
すぐれた悲劇女優が、
しばしば素晴らしい歌手とマッチした、
最も完璧に近いものを、この演奏には見ることが出来る。」

気になるのは、いくつかのカットがある点とのことだが、
むしろ、私には、放送録音なのか、
意味不明のノイズが頻出する点が悩ましい。

が、こんな歴史的瞬間に立ち会えるのなら、
仕方ないかもしれない。

さて、では、この2枚組に耳を澄ませてみよう。
第1幕:
第一場、ウィンザー城の王妃の部屋の前:
Track1:
何らかの不穏な気配をみなぎらせた序奏に続き、
快活なリズムに乗って、合唱が始まる。
いかにも、オペラの始まり始まりという感じである。
夕方で、廷臣たちは、ヘンリー王が、
不幸な妃のもとを訪れなくなった事を心配している。

Track2:
お気に入りの侍女、ジョヴァンナが入って来て、
王の愛を得てしまった事や、
それを悔やんでいる点を大きな声で告白するが、
おそらく、これは、ここだけの話、である。

Track3:
アンナがやって来て、
お気に入りの音楽家、スメトンを呼ぶ。
歌の伴奏をさせるためである。

Track4:
ここは、スメトンの伴奏の、
美しいハープの音色が聴きものである。
彼は実は、こっそり王妃を愛している。
彼は、王妃の顔色が悪いのは、
昔の恋人を想っているのではないかと推測。
アンナは痛いところを突かれ、中断する。

ややこしい事に、スメトンは女性が担当するようだ。

Track5:
アンナは、オフレコで、その地位の儚さを歌う。

Track6:
もはや、彼女は王のことを期待しておらず、
ジョヴァンナを側に呼ぶ。

Track7:
これはグリンカも借用した、美しいカヴァティーナ。
アンナは王位などに目を眩まされてはならんと、
意味深な警告をしてジョヴァンナの心をかき乱す。
アンナは出ていき、廷臣は残る。
しばらく舞台には誰もいなくなる。
ジョヴァンナがこっそり現れる。

Track8:
緊迫感溢れるレチタティーボである。
彼女は、アンナがこの罪を知っているのではないかと悩む。

Track9:
一番の悪人、王様が隠し扉から登場である。
ヘンリー八世は、ここではエンリコとなっている。
これを最後にしましょうと、
ジョヴァンナがうろたえているのを見て、
王様は不機嫌になる。
恐ろしいことに、直にライヴァルはいなくなるよ、
と言うのである。

Track10:
ジョヴァンナは、今の関係が耐えられない、
と最近のTVドラマでもありそうな大騒ぎを、
高らかに歌い上げる。

Track11:
ここでも、王様の言い分は、
いかにも、男のいじいじを表して秀逸。
ジョヴァンナは、単に王位が好きなのであって、
自分が好きなのではないとすねる。
が、最後は、美しいデュエットで、
何となく良い雰囲気である。

Track12:
ここでは、ジョヴァンナは行く、
王様は行くなと押し問答。
彼は、まさしくこれがアンナの
トラブルの原因であったと暗示する。
アンナは自分に心をくれていないという。

Track13:
ジョヴァンナの良心の呵責が、
高らかに歌い上げられ、
王様がなんと言っても、
ジョヴァンナは憔悴するばかりで、
エンリコはドアから出ていってしまう。
その前に二重唱で盛り上がるので、
聴衆は盛り上がって大拍手である。
これで、第1場は終わる。
管弦楽も、テンションを高めて、
じゃーんと鳴り響いて終わる。

Track14、第2場:
ウィンザー城の公園。
この場面から、どんどん、ヤバい方向に、
物語は推移するが、王様の陰謀が働いているのである。

これまた、ピッチカートに木管が簡素ながら、
朝の公園の雰囲気を醸し出し、
いかにもオペラ的な彩色である。
じゃじゃーんじゃじゃーん、ぶーんぶーんと、
緊張感を高める効果もある。

王妃の兄のロチェフォート郷は、
かつての王妃の恋人でもあった友人のパーシイと、
公園でばったりと会う。
このパーシイは追放の身だったのに、
王の許しが出て、のこのこと喜んで来たのである。

Track15:
パーシイは、よほど理想肌なのであろう。
朗々と、追放の日々や失われた愛を嘆くアリアを歌う。
また、運命が悪事を正すように願う。

Track16:
かっこいい行進曲で、狩りの行進が近づいて来る。
かなり勇壮な場面である。

Track17:
パーシイは呑気に、早くアンナに会いたいな、
と歌い上げる。
拍手がわき起こる。
ライモンディが歌っている。

Track18:
狩りの一行が集まる。
エンリコ王は、何故にアンナが、
こんなに早く起き出しているかをいぶかる。
そして、最近、どうも不吉な思いが起こると言い、
さらにパーシイの姿に気づく。
パーシイは、王に敬意を表して近づく。

Track19:
王の手にキスしようとしたパーシイを振り払い、
今回の許しは王妃の取りなしによるものだと言う。
そして、パーシイは、これまた呑気に、
身震いしている王妃の前に跪くのである。

Track20:
やばい瞬間の五重唱である。
ピッチカートに木管が添えられただけの、
簡素なオーケストラ伴奏ながら、
声の密度、その織りなす綾は、
緊張感とドラマを孕んで美しい。

アンナとパーシイは、涙を流して感慨に耽る中、
王様は廷臣のハーベイに、奴らの様子を良く観察せよ、
と、まことにヤバい。
ハーベイはその通りに実行すると確約。
ロチェフォート郷は、さかんに警告している。

Track21:
王様はパーシイに、宮廷に顔を出すように言い、
狩りに出かけてしまう。

Track22:
王様の慈悲で始まる1日が祝福される。
ドニゼッティは、さすがドラマを盛り上げるのが上手く、
合唱も盛り上がって、第2場も、大拍手で終わる。
王様は、別の獲物がかかって喜んでいるのである。

Track23:第3場、王妃の部屋、控えの間。
ますますややこしいことに、
楽士のスメトンが、アンナの肖像画付きのロケットを持って、
うへうへしている。
彼はもの音を聞いて、影に隠れる。

Track24:
ここは管弦楽も風雲急を告げて勇ましく、
ロチェフォート郷が、アンナに、
パーシイに会ってやって欲しいと言っている。
アンナは、見張っていてくれるならと、
しぶしぶ承諾する。

Track25:
パーシイが現れ、アーンナ、リチャード、
とお互いを呼び合う。
パーシイはリチャードらしい。ややこしい。

アンナは後悔しており、
自分が求めた王冠は、今や、茨の冠になったと言う。
パーシイにとっては、アンナは自分が愛した頃の、
若い少女のままなので、何も言う前に、
アンナの苦悩は、パーシイの怒りを鎮めてしまう。
アンナは、王様が自分を疎んでいることを認める。

このあたりは、オーケストラは、じゃーん、とか、
じゃっじゃじゃじゃん、とかほとんど合いの手を入れているだけ。

Track26:
ここは、パーシイが高らかに歌う部分。
「昔愛したように、今も愛しているよ」
と現実離れした歌を歌う。

アンナの歌は、もっと切迫しているが、
結局は、憧れに満ちた色調を帯びる。

アンナは、パーシイに、
自分を愛しているなら、今の状況を考えて、
それを言ってくれるな、と言う。

当然の話である。
アンナはパーシイに、
危機が二人に及ぶことを思い出させ、
英国を去るように説得するが、
彼は、アンナのそばにいることのみを望む。

まことに、分別なしの馬鹿恋人たちである。
アンナが、自分の不幸を語ったりするからだ、
という気もしないでもない。

アンナは当然ながら、かたくなである。

Track27:
ここは、またまた、じゃじゃん、じゃじゃん、
じゃじゃじゃじゃじゃん、と風雲急を告げる管弦楽に、
錯乱した男女が大騒ぎを演ずる場面。

パーシイは、去る前に、もう一度、
会ってくれるかと願うが、アンナは駄目よと言う。

ここからが気違い沙汰だが、
パーシイはいきなり剣を抜いて、
自殺を図る。

さらに話をややこしくするかのように、
スメトンが、アンナを守ろうと飛び出して来る。
王妃は気を取り乱して失神。
その時、ロチェフォート郷は、
王様が近づいて来ることを告げる。

Track28:
エンリコが入って来て、
宮殿で剣を抜いている者を見て、怒り狂う。
当然、警備員を呼ぶ。
王様は、アンナと、
沈黙して立ちすくむパーシイ、
スメトン、ロチェフォートを見回し、
最悪の状況解釈をする。

ここでまた、とんでもないことが起こる。

スメトンは、突発的に、彼等の無実を弁護する。
証拠に死を命じて欲しいと願い、
ジャケットを引き裂くと、アンナの肖像画が落ちて、
王様の足下に転がる。
エンリコはそれをさっと拾い、
最悪の疑いを確信に変える。
アンナはようやく意識を取り戻す。

Track29:
彼女は王様の怒りに驚き、六重唱を始める。
しみじみとした、祈るような歌である。
何となく、ベルカント・オペラというのは、
金切り声を張り上げるだけのような印象があるが、
そのような事はなく、
人間感情のややこしい絡み合いのみが、
聞き取れる名場面である。

彼女は王様に責めないように乞うが、
王様は、目の前から消えろと言い、
別に死んでもいいぞと言う。
ロチェフォートとスメトンは、
彼女を破滅させた自分たちを恥じ、
その間、入って来たジョヴァンナは、
心乱され、罪の意識に苦しむ。

この人は、最も何も悪くない悪女役である。
しみじみと終わるせいか、
感動的な歌唱ながら、拍手はない。

Track30:
爆発するような場面で、王様がわめき散らす。
オーケストラは爆発音を繰り返し、
王妃は、今回は金切り声を張り上げる。

エンリコは、彼等を別々の牢に入れるよう命ずる。
彼女の弁解を彼はそっけなくはねのけ、
裁判官に言いたいことを言うように告げる。

Track31:
このややこしい関係の中で、
運命が決せられた事が歌われる
第1幕のフィナーレである。
最初の幕で、もうすべての運命は決まってしまう点が恐ろしい。
王様は、これで良いのだと決定。

最初は、何だか大団円のような楽しげな、
賑やかな合唱に面食らうが、
活発なオーケストラ伴奏と共に、
運命に翻弄された人たちの、
恐ろしい絶叫が続く。
録音の効果で、聴衆の拍手は、不自然に消える。

第2幕に関しては書くスペースがなくなった。

得られた事:「シューベルトと同時代のイタリア歌劇は、戦前まで軽視されていた。」
[PR]
by franz310 | 2010-11-13 22:58 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その250

b0083728_22421538.jpg個人的経験:
前回聴いた、
プルトニョフらによる、
グリンカの室内楽、
今回は、残りの、
いささか奇妙な2曲について、
耳を澄ませてみよう。
先のCDにも収録されていたが、
このポリムニア・アンサンブルの
CDにも入っているので、
聞き比べも出来る。


「ロシアの室内楽の贈り物」と題された、
ポリムニア・アンサンブルのCDは、
このイタリアのアンサンブルが、
1999年1月13日、ロシア新年を祝う形で、
ロシア大使の邸宅にて演奏した、
ロシアの作曲家による室内楽のアンソロジーの
ライブ録音である。

つまり、イタリアに渡って、
美しい室内楽を残したグリンカへの、
イタリア側からの心温まる返礼を思わせる録音だ。

ここに収められた曲目は、
グリンカのベッリーニ奇想曲15分、
チャイコフスキーのハープ五重奏曲3分半
グリンカのドニゼッティ・セレナード21分半
グラズノフの「東洋の夢想」8分
バラキレフの八重奏曲11分、
ボロディンの「スペインのセレナード」2分半
というもので、グリンカだけを取り上げたものではない。

ただし、多くは小品で、
グリンカの2作品だけが際だって長い。

沢山の演奏家が並んだ写真を見ながら考えた。

これらの曲目を演奏するには、
ピアノ1、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、
チェロ1、コントラバス1、ハープ1、
フルート1、オーボエ1、
ファゴット1、ホルン1、クラリネット1と、
全員で12人必要。
管楽器では持ち替える人もいるのだろう。

ロシア大使が退屈しないように、
様々な編成が取られている。

そうした環境のせいか、何だか豪勢な室内であり、
いささか緊張した面持ちのメンバーは、
かしこまっているようにも見える。

中央には、紅一点で楽器なしの人がいるが、
その横の男性も手持ちぶさたの感じで、
横を向いてしまっている。

彼等は、手に持ちきれない、
ピアノ、ハープ、コントラバス等を担当したのであろう。
などと無責任な事を書くのも、
メンバー表もなく、解説もなく、
ブックレットには、ロシア大使による、
「素晴らしいイタリアのアンサンブルが、
ロシアの音楽を演奏した」みたいな挨拶が、
ちょこっと書かれているだけなのだ。
イタリア語なので、よく分からないが、
ECA(Enrico Castiglione Arts)というレーベルは、
聴いたことがないが、いったい、何を考えて、
このCDを発売したのだろう。

この写真に出ているメンバーは、10人しかいない。
弦楽四重奏分、管楽器もフルート、オーボエ、
クラリネット、ホルンは見える。
ファゴットは不明。

ポリムニア・アンサンブルのホームページを見ると、

「1992年のナポリでデビュー。
定期的に音楽イベント、国際的音楽祭に参加。
1985年以来、
モスクワ音楽院やサンクトペテルブクなど、
定期的にロシアを訪問。
Musikstrasseレーベルのためのロッシーニ、
ドニゼッティ、およびメルカダンテの室内楽。
ブソッティや、クレマンティなどの作曲家が、
その演奏に触発されて作曲している。
2003年以来、子供用音楽祭を運営。
重要なスポンサーのIBMがある。」

ロシアとの繋がりやアメリカの名門企業との繋がりが、
我々を混乱させる。いったい、何者たち?

メンバー表には、
ヴァイオリン:Marco Fiorentini 、Antonio De Secondi
Manfred Croci
ヴィオラ:Gabriele Croci
チェロ:Michelangelo Galeati
コントラバス:Antonio Sciancalepore
オーボエ:Luca Vignali
フルート:Carlo Tamponi
クラリネット:Ugo Gennarini
バスーン:Francesco Bossone
ホルン:Luciano Giuliani
ピアノ:Angela Chiofalo
とある。

ここでもファゴットはいない。
これがないと、グリンカのドニゼッティ・セレナードは、
演奏できないはずなんだが。

表紙中央の女性は、
ピアノのチオファロさんではないかと思われる。
しかし、この表にはハープがなく、
女性の横のそっぽを向いた男性は、
コントラバスのシャンカレポーレ氏であろうか。

さて、この編成なら、シューベルトの「ます」の五重奏曲を
演奏することも可能そうだが、
彼等のホームページのレパートリーには出ていない。

下記のように、ベートーヴェン、モーツァルト、
シュポアの管とのピアノ五重奏や、
モーツァルト、ブラームス、ウェーバーの
クラリネット五重奏のような名品、
シューマンのピアノ五重奏をやっているのに、
シューベルト、ブラームス、フランク、ドヴォルザーク、
ショスタコーヴィチらのピアノ五重奏はやっていない模様。

しかし、さすがイタリア、ドニゼッティやケルビーニ、
レスピーギやカゼッラは、しっかりと押さえている。

彼等のレパートリーの「五重奏曲」の表:
Baerman :Adagio clarinet, 2 violins, viola and cello
Beethoven :Quintet in E flat maj. op. 16
Brahms Quintet in B minor op. 115
Casella Serenade violin, cello, clarinet, bassoon and trumpet
Ciajkovskij Quintet harp and string quartet
Cherubini Quintet 2 violins, viola and 2 cellos
Donizetti Quintet 2 violins, viola, cello and guitar
Dussek Quintet violin, viola, cello, double bass and piano
Glazunov Reverie orientale clarinet and string quartet
Jolivet Chant du Linos flute, violin, viola, cello and harp
Mozart Quintet in A maj.K 581
Mozart Quintet in E flat maj. 452
Respighi Quintet strings quartet and piano
Roussel Serenade flute, violin, viola, cello and harp
Roussel Elpenor flute and string quartet
Schumann Quintet op. 44
Spohr Great Quintet op. 52
Spohr Fantasy and Variations on a Theme by Danzi op. 81
Prokofiev Quintet in G min.
Weber Quintet clarinet and string quartet
Weber Introduction, Theme and Variations

こんな表を眺めているだけで、
様々な想像が去来するので、丸写しにしてしまった。

例えば、チャイコフスキーのハープ五重奏曲は、
このCDでも聴けるが、
いったい、何時、どんな機会に書かれたものなのだろう。
伝記には、ハープと弦楽四重奏の習作が1863年頃にあるが、
これであろうか。
音楽院に入学した将来の大作曲家が、
様々な編成の作品を書いて実験していた時の一つ。

ゆったりした弦楽による序奏から、
後年のチャイコフスキーを彷彿させる、
懐かしい響きが聞き取れ、
ハープの登場は、妖精が現れるかのように美しい。
それにしても、いったい、誰がハープを弾いたのだろう。
が、やはり習作だけあって、特に何も起こらぬ前に消えてしまう。

また、五重奏からは離れるが、
最後に収められたボロディンの弦楽四重奏、
「スペイン風セレナード」が、
これより短い2分半の作品。

だが、これは、習作ではない。
有名な第2番の5年後に書かれている。
機会音楽で、ある音楽会のために書かれたらしく、
単純ながら、何だか、不思議な情緒を湛えた作品。
スペイン風かどうか分からないが、
妙にほの暗い情感が悩ましい。

あと、7分47秒で後半の始めを飾る、
グラズノフの「東洋的夢想」は、
クラリネットのエキゾチックな音色を活かした、
聴き応えのある小品。
弱音で弦楽四重奏がまさに夢のような儚さを奏でる中、
光が射すようにクラリネットが、
魅惑的な音色を聴かせる。
が、終始、弱音なので、これまた、
何だか分からないまま、終わってしまう。

習作と言えば、バラキレフのピアノ八重奏曲は、
1855年の作品とされるので、10分48秒。
1837年生まれの作曲家にしては若書きと言えるだろう。
これは、しかし、なかなか興味深い作品で、
シュポア風のピアノの名技が目を眩ませるし、
中間で出てくる主題は、懐かしさいっぱいで、
いかにもロシア的なオリエンタリズムを感じさせるものである。

バラキレフというと、チャイコフスキーに、
交響曲を書け書け、とせかしていた人、
という感じばかりがあるが、
自身、すぐれた音楽を書いていたのである。

バラキレフでは室内楽というのは珍しく、
この曲もピアノ協奏曲風である。
そうした珍しいレパートリーが、このCDでは聴ける。
このアルバムでは最大編成で、ロシア大使の家に、
音があふれ出したことであろう。

一応、このポリムニア・アンサンブル、
こうした弦、管の混成を得意としていて、
管楽を駆使したシューベルトの「八重奏曲」は、
彼等のレパートリーに入っている。
シューベルトが嫌いというわけではなさそうだ。

彼等のCDは、アゴラレーベルから主に出ていて、
このECAのものは一つしかない。

以上、書いて来たように、このCDでは、
グリンカは全体の6、7割を占める重要度ながら、
解説が皆無なので、前回の解説を流用して、
グリンカ作品を聴いてみよう。

ここには、グリンカのイタリアでの、
様々なアバンチュールに関する逸話が書かれていて、
非常に興味をそそられる。

「イタリアにいた間、
彼は1832年にはミラノ滞在した。
二年前に、この地に来た時は、
フランチェスコ・バジーリに学んだ対位法は、
彼には無味乾燥に思われ、場所を移したのだった。
彼のミラノへの帰還は、
『女を捜せ(事件の影に女あり)』によるものか、
あるいは、この際、女を捜したのか、
二人の愉快なレディーたちが、彼をそこに引き寄せた。
彼女たちは非常に音楽的で、
それゆえに彼の音楽能力を刺激した。」

しかも、この女性(たち)の影が、
これらの音楽に投影されているとすれば、
これらの作品を聴く時にも覚悟がいる。
はたして、どんな影が見えて来るのだろうか。

「彼の音楽、特に、室内楽シリーズは、
この年を通じて、絶え間ない流れとなった。
特に、興味深いのは、通常とは異なる編成、
ピアノ、ハープ、バスーン、ホルン、ヴィオラ、
チェロとダブルベースのために書かれた、
ドニゼッティのオペラ、
『アンナ・ボレーナ』の主題によるセレナーデと、
ピアノと弦楽五重奏曲のために書かれた、
ベッリーニのオペラ『夢遊病の女』の主題による、
華麗なる喜遊曲、そして、
ピアノと弦楽五重奏のための、
大六重奏曲変ホ長調である。」

怪しげに書かれていたので、
何だか、ヤバい筋の女性かと思ってしまったが、
下記を見ると、かなり良いお宅の子女という感じだ。
グリンカ自身、良家の子息であるから、
当然の成り行きなのかもしれないが。

「1832年の春に書かれた、
『アンナ・ボレーナ』セレナーデの作曲について言えば、
どうして、弁護士のブランカ一家、
特に、その娘で、
それぞれピアノとハープの優れた演奏家であった、
シリラとエミーリアと知己を得たか
についてグリンカは説明している。
また、このことが、
この曲の通常と異なる楽器編成となった理由である。
『仕上げのリハーサルで、
この曲は非常にうまく行った。
各楽器は、スカラ座の最高の奏者が受け持った。
有名なローラによって、
ヴィオラソロが演奏されたのを初めて聴いた時、
私は感激して涙した。』」

見えて来たのは、怪しい妖女の影ではなく、
ロシアの貴公子にふさわしいイタリアの令嬢たちの影であった。
しかし、ピアノとハープが掛け合う音楽とは、
何と、上品なイメージであろうか。
グリンカは、いったい、どちらの娘が気に入っていたのだろう。

では、この優美な作品、
ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」の主題による、
セレナードを聴いてみよう。

この曲は、ポリムニア・アンサンブル盤では3曲目に、
ロシア国立交響楽団の独奏者たちの盤では、
2曲目に収録されている。

こう書いて、妙な感慨に耽ってしまった。
つまり、作曲した側の国の演奏も、
作曲された側の国の演奏も聴けるということ。
両国の音楽家たちが、
これらの音楽を大事にしている感じが、
妙に微笑ましいではないか。

私は、ハープの分散和音に続いて響く、
ピアノの音色が金属的に響いて、
芯があるような、ロシア勢の演奏に、
何となく惹かれているが、
音のブレンドや、ムードを重視した、
イタリア勢を悪く言うつもりもない。

グリンカも半分プロで、
半分アマチュアのようなメンバーの演奏を、
想定して書いたに相違ない。

「このセレナーデは、序奏と6つのセクションが、
切れ目なく演奏される。
ほとんどの主題はオペラのタイトルロールの音楽から取られ、
序奏の後、第1幕の『カヴァティーナ』の楽想を、
ピアノとハープが奏で出す。
(カヴァティーナからの他のモチーフは、
モデラートセクションの二つの変奏で使われる。)
ラルゲットは、第2幕の三重唱から主題が取られ、
プレストはエンリコの『Salira d'Inghilterra sul trono』からのもの。
アンダンテ・カンタービレでは、
第2幕のアンナのカヴァティーナが聞こえ、
終曲はオペラの様々な主題を含んでいる。」

この曲のもととなった、
「アンナ・ボレーナ」とは、
イギリスのヘンリー八世の妃で、
不倫の罪を着せられ、
ロンドン塔で斬首された王妃、
アン・ブーリン(エリザベス一世の母)の事で、
上記史実をモデルにしたものである。

上記エンリコは、ヘンリー八世、
つまりアン王妃の夫で、彼女を死に追いやる人である。

第1幕のカヴァティーナとは、
アンナが、自分の地位の儚さを歌うもの、
こういう歌であるから、
おのずから、しっとりしたものである。
が、管楽器の七色に変化する音色や、
曲想のしっとりした微妙な移ろいは、
グリンカならではのものだ。
第2幕の三重唱とは、
王妃アンナ、王エンリコと、
彼女を愛するパーシイによるもので、
このメンバーから分かるとおり、
かなりヤバいシーンである。
アンナは、すでに罪人として扱われている。

エンリコの『Salira d'Inghilterra sul trono』は、
別の者が王妃になると王が歌う部分の歌詞であるが、
アンナを打ちのめすかなり威勢の良い曲想のもの。

第2幕のアンナのカヴァティーナとは、
このオペラでは特に有名なもので、
すでに罪を着せられたアンナが、
「懐かしい故郷のお城」と幼い日を回想するもの。

このように、ほとんどそのまま、
ドニゼッティの主題が利用されているが、
この夢幻の色調を誇る楽器編成で演奏された方が、
私には、ずっと美しく感じられた。

令嬢たちが奏で合ったピアノとハープを支え、
その他の楽器たちが、花道を用意していくような音楽。
ぴちぴちと跳ね回るピアノとハープは、
シューベルトの「ます」の幸福感を放ち、
至福の時を繰り広げていく。
このような音楽を作ってもらって、
それが、作曲家自身を感涙させる程、
効果的に演奏されたとすれば、
人生最高の時になったかもしれない。

しかし、筋書きやモデルとなった史実を見ても、
陰惨を極め、まともなものではない。
これから、令嬢たちの夢を紡ぎ出すとは、
いったいなんたるこっちゃ。

そんな夢も希望もなく、
怪しい陰謀を張り巡らせた悪が勝ち、
誰も彼もが情念をぶつけ合うものから、
こうした、幸福感に溢れた室内楽を書く、
ということはいったいどういった事なのだろうか。
換骨奪胎も良いところだ。

かなり、音楽というものに割り切りが出来ないと、
とても出来ない仕事であろう。

とはいえ、こうした仕事が求められた事も事実で、
ベートーヴェンですら、多くの変奏曲を残している。

シューベルトは、ロッシーニの音楽に心酔しながらも、
それをそのまま、売れる形態にするような事はなかったが、
何故だったのだろうか。

それとは違う切り口で、
グリンカの楽器活用の才能こそが、
それ程、秀でていたと言ってもいいのかもしれないが。

もし、シューベルトが、同様の仕事をしていれば、
下記のように、次々と仕事が舞い込み、
もっと楽な生活が出来たかもしれない、
などと空想する解説が続く。

「オペラをポピュラーにするため、
(今日ならCDに録音されるのだろうが)
当時、こうした楽曲は非常に重宝された。
有名なミラノの楽譜出版者、リコルディは、
このセレナーデを出版することをすぐに決定、
これが同様のジャンルの作品を書くことを、
グリンカに、自然に駆り立てたのかもしれない。
『華麗な喜遊曲』は、同様に1832年の春に書かれ、
もっと通常編成にて楽譜にされた。
ピアノとダブルベースを含む弦楽五重奏である。」

とはいいながら、グリンカ自身、これ以後、
こうした作品を書いていないので、
あるいは、まっとうな、
志高い作曲家の仕事とは考えなかったとも考えられる。

また、グリンカの色男ぶりは、
次の作品が、別の演奏家、
というか女性を想定している点からも見て取れよう。

「グリンカは書いている。
『この作品は、若い学生、ポリーニ嬢に捧げられた。
彼女は、ミラノの芸術家仲間の前で、
この曲を素晴らしく演奏した。』
この曲のピアノパートは非常に困難なもので、
我々は、書かれたとおり、ポリーニ嬢は、
名手だったと信じることが出来る。
この場合もまた、ほとんどの材料は、
タイトルロールと、オペラの最も劇的な場面から来ているが、
前の作品よりラプソディックではない。
序奏を除くと、この作品は4つの部分からなっている。
最も印象的なのは終曲で、
名技的な6/8拍子、
変イ長調のヴィヴァーチェで、
まさにタイトルのとおり華麗なもので、
グリンカの技法の、
長足の進歩を開陳している。」

この作品は、ロシア勢の盤では、
作曲された順なので、
ドニゼッティの主題によるものに続き、
3曲目に入っているが、
イタリア勢はCDの最初に入れている。

もの思いにふけるような序奏から、
当時の上流階級の夢を伝えて止まない。

こちらの曲は、シューベルトの「ます」に、
編成もそっくりで、ヴァイオリンが一つ多いだけである。
コントラバスを含むということで、
独墺圏の大作曲家によって書かれれば、
かなり大騒ぎされるはずのもの。

が、ピアノの名技性が前面にでて、
ピアノ協奏曲的であって、
ピアノ以外が弦だけということもあって、
前の作品ほど、色彩的ではない。

解説が特筆したように、
終曲だけが優れているわけではない。

管楽器の七色の音色がなくなったとはいえ、
途中、内省的とも聞こえる、夢想的、
あるいは焦燥感溢れる部分も登場する。

スケルツォ的に敏捷な部分もあって、
連続して演奏される
かなり変化に富む作品である。

が、原曲が、別の作曲家の作品である点を忘れるところだった。
そう考えると、グリンカ自身も、感涙にむせびながらも、
この美しさが、自分の実力かどうか、自問自答する一瞬が、
あったかもしれない。

その点、他の作品を引用するにせよ、
自作を引用したシューベルトは正解であった。
それにしても、他の作品を引用して、
室内楽を作るということは、
シューベルトの場合では特筆されているが、
こうしたケースではごく普通であったわけだ。

さて、解説の人が書いているように、
最後の部分は、ピアノが縦横に駆け巡って、
めざましい効果を上げるが、
ロシア勢の演奏の方が華麗である。

ポリムニア・アンサンブルのものは、
ライブらしく盛大な拍手こそあるが、
やはり、大使宅での社交の機会という雰囲気があって、
それほどの大演奏とも思えない。
が、こんな感じで、初演のポリーニ嬢も演奏したのではないだろうか。

得られた事:「グリンカの室内楽には、当時の上流階級の才女の影がちらつき、彼女らの夢見た幸福が見え隠れするようである。」
「が、こうした作品を書いて感涙するほどに、原曲が別にあるというジレンマを、グリンカは感じたのではなかろうか。」
[PR]
by franz310 | 2010-11-06 22:42 | 音楽 | Comments(0)