excitemusic

クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
ICELANDia
カテゴリ
全体
シューベルト
音楽
現・近代
古典
オンスロウ
レーガー
ロッシーニ
歌曲
フンメル
どじょうちゃん
未分類
以前の記事
2017年 05月
2017年 01月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 09月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venuspo..
http://while..
from http://whileli..
http://while..
from http://whileli..
http://www.v..
from http://www.val..
バッハが人類に残したメッ..
from dezire_photo &..
ミュージカルかファンタジ..
from dezire_photo &..
バッハが『ロ短調ミサ曲』..
from dezire_photo &..
ルター派のプロテスタント..
from dezire_photo &..
ダンテの『神曲』 ”地獄..
from dezire_photo &..
バッハとヘンデルの音楽性..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2010年 06月 ( 4 )   > この月の画像一覧

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その232

b0083728_2251274.jpg個人的経験:
前回、ヴァリッシュのCDで、
改めて、この曲の構想の
途方もない姿に感じ入ったが、
もう30年も前から、
シューベルトの
未完成のピアノソナタ、
通称「レリーク」ソナタの、
全容をさらけ出して、
多くの人を驚かせていたのは、
リヒテルであった。


フィリップスから出たその録音は、
1979年12月17日のライブ録音とされ、
西ドイツ放送局との共同制作のものであった。

このCD、表紙デザインの不気味さでも、
かなり印象に残るものである。
リヒテルは、完全に挑戦的な表情である。

これを聴いたら、後は知らんぜよ、
という感じである。
そして、確かに、強烈な音楽である。

私は、これ以前は、確か、
ブレンデルのLPを持っていた位で、
他の録音は聴いたことがなかったが、
LPのB面の曲みたいな扱いのこのソナタが、
ここでは、何と、CDという豊かな容量を、
まるまる1曲で使っているのである。

LPにすれば、第1楽章でA面が終わってしまう分量である。
21番変ロ調を、リヒテルがビクターのLPで出した時も、
第1楽章だけでA面を終わらせていた事を思い出す。
今回、くらべて見ると、
第2、第3楽章は21番のソナタより長く、
第4楽章も未完成なのに、ほとんど、
変ロ調のソナタ並の演奏時間になっている。

前回聴いたヴァリッシュのものも、
第1楽章は12分であった。
しかし、これをリヒテルは、
22分もかけていたりするので、
全曲はヴァリッシュが31分に対し、
リヒテルは45分程度の演奏時間になっている。

第3、第4楽章が完成されていたら、
シューベルトのどのソナタをも、
凌駕する勢いの規模になった事は当然予想できる。

以前、リヒテルのライブの解説を書いた、
Shris de Souzaという人が、
「リヒテルが、堂々とした形式感で、
音響の巨大建築のように、
いわゆる『レリーク』と呼ばれる
未完成のハ長調ソナタを演奏した録音を、
初めて聴いた時、
私は啓示的なものを感じた」
と書いていたが、私も、同様の印象を持ったものである。

ヴァリッシュの解説は、
リヒテルのすごさ以上に、
曲そのものの構想を称賛していて、
このような聴き方で、
改めて、この超弩級の演奏を聴いたら、
どんな感じに聞こえるのだろうか。

とにかく、リヒテルの演奏は遅い。
「サウンド・カテドラル」と表現した、
ヴァリッシュの演奏の方が、
縦の線がよく感じられて、
そのような印象が強い。

非常にクリアな音色が、
ステンドグラスを通す光をも思わせたが、
リヒテルの演奏は、聖堂というより、
魔の迷宮に聞こえる。

ステンドグラス越しの光は、
あまり届いて来ない。

録音の場所も機会も明記されていないが、
暗闇の孤独の中から、響いて来るような感じである。

ヴァリッシュが言ってくれなかったら、
ブルックナーよりマーラーを予告したものとして、
捉えるばかりだったかもしれない。

未完成のまま、
4楽章形式の作品として演奏するなどという事は、
リヒテルのような特別な存在にしか許されていない、
という訳ではない、という感じもこみ上げる。

このリヒテルのフィリップス盤、
Stefan de Haanという人が解説を書いている。

が、この革命的な録音を語るには、
少し弱い内容に思えるのは私だけであろうか。

「ハ長調ソナタD840は、
シューベルトが数多く残した未完成作品の1つである。
2つの完成された楽章では、
霊感が満ちあふれ、集中しており、
何故、この作品が突然中断してしまったのか、
また、シューベルトが、
最も困難であるはずの、
第1楽章のソナタ形式という課題を解決しながら、
これを放棄してしまったのか、
という疑問が頭をもたげる。
その答えは、彼が作曲しようとしたものの、
真の巨大さや、様式の中にある。」

これはこれで肯ける。
「四重奏断章」や「未完成交響曲」は、
その後で、より「完成された」曲を書いているのだから。

しかし、ヴァリッシュ以降、
この考え方は、ちょっと違うのではないか、
という感じを私は持っている。

「1810年頃、彼が13歳の頃から、
彼の死の1828年まで、
彼は常に作曲を継続していた。
彼がせき立てられるように、
作品から次の作品へ取りかかったので、
彼は前に作曲したものを、
完成したか未完成のままで放置したかを、
忘れてしまったのだろう。」

これもまた、牧歌的な伝説の域を出ない、
いつも繰り返される話である。

これも、先のヴァリッシュ体験以来、
私は信じることが出来ない。

何故なら、「レリーク」ソナタの後で書かれた、
16番のソナタの後半2楽章は、
15番のソナタの構想とはまるで違うものになているからだ。

「多くの未完成作品は、
全く新しい、または、
もっと拡張された形式への試みであり、
次第に成熟する語法の実験であった。
多くの輝かしい例では、
偉大な完成された作品への道を模索するものであり、
その目的に達するや、
どこまで書き進んでいたにせよ、
それらは放棄された。」

この点は同意するが、
ここまで書いておきながら、
結論が何故か、
かなりお決まりの結びになっているのが釈然としない。

「シューベルトの自然な表現形式は歌曲であり、
最初は大きな形式のものには不慣れであった。
ベートーヴェンはソナタ形式を自分のものとし、
これ以上発展不可能なものにしてしまった。
シューベルトは、このことを十分意識しており、
多くの未完成作品は、
慎重にベートーヴェンに近づかないようにしていて、
独自のアプローチを求めている。」

このあたりも、「歌曲王」シューベルトの先入観の強い発言。
シューベルトの最初の現存する作品は、
ピアノの連弾の大規模な作品であった。
また、シューベルトはオーケストラに親しみ、
少年時代から交響曲の作曲家としての方が、
有名であったくらいではなかろうか。

「この独自性への探究は、
1815年の初期のピアノソナタにおいて始まり、
シューベルトの未知の領域への
実験であるかのように、
すべて未完成になっている。
最初の完成されたピアノソナタは、
1817年のものである。
それから2年、さらなる断片があって、
また1823年に2曲の完成されたソナタが続いた。
最後に彼は、1825年から、
後期の大規模なピアノ作品群に着手した。
これらの最初の作品がD840である。
これはまた、彼のこの領域における、
最後の未完成作品となった。」

第13番と第14番の話だと思われるが、
第13番は1819年の作品ではないのだろうか。

このイ長調ソナタは、自筆楽譜がないので、
1823年に紛失した、などと書かれることもあり、
作曲されたのも、この時代という説もある。

「1825年初頭、シューベルトは、
遂に自己完成をする時だと考えた。
ハ長調のミサや、ピアノ連弾の変奏曲に加え、
多くの歌曲が出版され、
これに鼓舞されて、1825年4月、
このソナタD840に取り組んだ。
彼は、第1楽章『モデラート』に聴かれる、
主題を後からも再現させることによって、
作品を統一することを推し進めることを意図した。
これらは、完成された『アンダンテ』や、
未完成のメヌエットにもこうした動機が現れる。
『モデラート』は、そうあるべきソナタ形式だが、
伝統的な対比効果はない。」

このような作品の凝集力は、
ひょっとすると、ブレンデルの演奏などの方が、
その性格を表していたかもしれない。

最初にこの作品を、ブレンデルで聴いた時、
まさしく鐘の音で埋め尽くされた曲のように感じたが、
リヒテルの演奏では、そうした感じはない。

また、ヴァリッシュの演奏では、
鋭い線で描かれた鮮やかな素描のようで、
構成感が明解であったが、
リヒテルの演奏には、簡単には謎を明かさない、
スフィンクスの不敵さがあり、
別種の異質な作品にも聞こえる。

「『アンダンテ』において、
より劇的な、対照的主題による
展開が見られるにもかかわらず、
第1楽章では、第2主題は、
ほとんど第1主題の続きであり、
展開部で使われることもない。」

こう書かれると分かるが、
第1楽章の第1主題は、
中間部に特徴的な鐘のきらめきを持つ、
荘厳なものだが、
第2主題はこの鐘の響きに導かれる、
メロディアスなもので、
大きな1つの流れの中にあって、
寄り添うような趣きが強い。

しかし、音楽之友社の作曲家別名曲ライブラリーでは、
「驚かされるのは第2主題の調性である。
主調から非常に遠いロ短調を採っている」
と書かれていて、
「ロマン主義的な色彩変化の象徴的な選択」
と特筆されている。

なお、この解説では、
私が、「鳴り響く鐘」と書いたあたりを、
ベートーヴェンの「運命交響曲の動機」を思わせる動機、
と書いている。

この「鳴り響く鐘」が四方から迫って来て、
私は、この楽章の展開部も、
そのすごい効果があると思っているが、
リヒテルの演奏では、
そもそも、この動機がねばねばしていて、
全く、神聖な鐘の主題の感じがしないで、
面妖な効果を形成している。

よく聴くと、たあーんたたたと、最初の一音が長いので、
運命動機的な、たたたたーんの軽快な感じもしない。

第2主題は、このねばねばの中、
可憐な夜の花を咲かせている。
提示部の繰り返しでリヒテルは12分をかけて、
ヴァリッシュの演奏した第1楽章と、
ほぼ同じ長さになっている。

鐘が鳴り響く展開部も、
四方から鳴り響くのではなく、
遠くから列車が近づいて来て、
去っていく感じで、
リヒテルの演奏では、
神聖な感じが薄い。

無機質なカテドラルでの祝福ではなく、
葛藤の音楽で、終わって再現部で救われた、
というような感じが強い。

突き放されたような孤独な表現が、
リヒテルの独壇場であろう。

一方、第2楽章の方にこそ、
対照的主題があると書かれているが、
瞑想的な優しい主題に対し、
気味の悪い不吉なパッセージが低音から響き渡って、
そもそも不安を湛えたものであるが、

妙に不安な音楽となっている。


「シューベルトは彼が簡単に完成できそうな、
第3楽章と第4楽章の多くを書いた。
おそらくイ短調ソナタD845の着想が、
心に浮かんだのであろう、
翌月の終わりを前にして、
こちらを完成させている。」

通常演奏されない後半2楽章を、
こんな解説で良いのだろうか。

第3楽章でも、ヴァリッシュの演奏は、
しなやかで初々しい。
執拗な打鍵は、大ハ長調交響曲の終楽章を思わせる。
それは軽快に進むもので、足踏みをして苦渋するものではない。

リヒテルのメヌエットは、
ヒステリックになる程に、
リズムを強調した演奏になっていて、
まるでディオニソスの豪快な踊りのようだ。

トリオ部は、もの思いにふけるようなニュアンスが詩的である。
こうした表現はリヒテルは深い。

第3楽章は、未完成というが、
これ以上の発展の必要はなく、
こんな感じで終わることを、
シューベルトは構想していたのかもしれない。

第4楽章は、ヴァリッシュは、
軽快にすぎると思ったが、
リヒテルはこれに輪をかけて無邪気な表現を見せる。

様々なタッチを開陳して、
心から楽しげな表現を聴かせる。

リヒテルは、完全に身を委ねて陶酔している、
・・・ように聞こえる。

ロシアピアニズムの重戦車が、
軽やかな響きを求めて悪戦苦闘していて、
当惑してしまうが、
はたして、幻視者リヒテルが見たものは、
何だったのだろうか。

「D840は、1861年に、
シューベルトの最後の作品と間違われ、
『レリーク』という不適当なタイトルで
出版された。
いくつかの完成版の試みがあるが、
スビャトスラフ・リヒテルによるこの録音では、
シューベルトが書き残したままの形で演奏されている。
メヌエットは80小節で、ロンドの終曲は120小節で、
中断している。」

終楽章は、ぷつりと切れるが、
このCDの表紙写真のリヒテルが言いたかったのは、
あるいは、ここではあるまいか、
などと考えてしまった次第。

98年に私は入手した記録があるが、
10年ぶりに、改めて聞き直してみると、
リヒテル尊師の占いは当たっているところも、
外れているところもあったように思えた。

しかし、当時は、どえらい音楽だと思ったものだ。

この録音は、確か、「冬の旅」か何かと、
最初は一緒にCD二枚組で出されていた。

これは、「冬の旅」を聴くのに、
CDの交換が必要だし、
組み物だと高くてたまらんと思っていたら、
後にそれぞれ一枚物で出た。

最初に二枚組で買った人は怒らなかったのだろうか。
それとも、これがオリジナルである、
と稀少盤になっているのだろうか。

歌手はシュライヤーだったが、
この後、日本でも歌っている。
ピアノ伴奏はもちろん、リヒテルではない。

さて、このように、
次の第16番イ短調ソナタでは、
ハ長調「レリーク」のような、
新しい地平を切り開こうとした終楽章は諦められている。

この2つのソナタは、
アインシュタインなども、
「両ソナタは双生児なのである」
「わたし流にいえば、両ソナタの大宇宙は同一である」
と断言しているが、
ハ長調で打ち立てようとした壮大な構想の、
立体的でモニュメンタルな終楽章は、
遂に、シューベルトによって完成されることはなかった、
とも書けるような気がする。

その代わりに、シューベルトは、
終楽章を前へ前へと前進するような音楽にして、
解決を先送りするような解決策で妥協した、
とも言える。

リヒテルは、あるいは、こうした点までは、
透視していなかったのではないか。
闇の迷宮から、解放に向かう作品として、
一元的に捉えていたのではなかろうか。

とはいえ、
この録音を大きな転換点として、
2楽章の未完成作品として、
前座に終わらせられる時代は終わった。

4楽章の大作として、
希有の価値を持つメインレパートリーであることを、
リヒテルは強烈に印象づけたのである。

残念ながら、アンドラーシュ・シフのようなピアニストには、
全く受け入れられなかったが、
ダルベルトなどは、この方法に従って、
シューベルトの全集を作っている。

得られた事:「リヒテルの『レリーク』ソナタの録音は、歴史的名盤と思われるが、直線的な情念に突き動かされたもので、ヴァリッシュのような立体感はないような気がする。」
[PR]
by franz310 | 2010-06-26 22:05 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その231

b0083728_12564537.jpg個人的経験:
シューベルト20歳の
6曲のソナタ群は、
未完成のものも多く、
取り扱いが悩ましい。
しかし、これまでのように、
各曲を見て来ると、
モーツァルトの6曲にあやかって、
「ハイドン・セット」とか、
「ベートーヴェン・セット」とか、
格好良く呼びたくなって来る。


それほどまでに、
シューベルトは集中して研鑽し、
多岐にわたる研究を尽くした。
今回のCD解説にもあるように、
過去の巨匠をよく研究して、
独自の色彩を加えた、
多様な性格を誇る曲集と思えるのである。

モーツァルトの6曲の四重奏曲もまた、
ハイドンに学びながら、
彼独自の美学を掘り起こした傑作となり、
「ハイドン・セット」と呼ばれながらも、
決して、ハイドンのまねごとだと考えている人はいない。

さて、この頃、シューベルトは教職を離れ、
父親の了解を得られぬ生活をしていたが、
そうした牧歌的な日々が、
やがて終わりを告げる予感かもしれない、
などと考えてもいたが、
今回のCD解説にも、
興味深い見方が紹介されている。

前回も取り上げたヴァリッシュの演奏のものだが、
さらに、ここでは、これまで実体がよく分からなかった、
ソナタ第12番嬰ハ短調D655も聴くことが出来る。

このCDのメリットを、まだまだ上げれば、
この分野の処女作、第1番のソナタを、
演奏者自身が、高く評価している点、
壮大なトルソである、第15番「レリーク」の、
あまり演奏されない第3、第4楽章を、
収録している点などが上げられる。

このようにして初めて、
この幻のスーパーソナタの構想が明示され、
改めて、私は言葉を失ったのである。

前回、このヴァリッシュの未完成ソナタ集のCDは、
ナクソスが落ち穂拾い的に始めたのではないか、
などと書いたが、前回のCDが、
2002年11月の録音だったのに対し、
今回のものは、2005年12月21日、22日と、
録音日時が書かれていて、
3年も準備して臨んでいることが分かる。

ただし、前回のプロデューサーが、
アンドリュー・ウォルトンという人だったのに、
今回のものは、マイケル・ポンダーという人に
代わっているのは何故か。

前者はエルガーの第3交響曲のプロデューサーで、
後者はグリーグの管弦楽曲集のプロデューサーで、
どちらも変わった領域を攻める人のようだが。

単に、出すか出さないかで、
もめた結果の3年だとしたら、
ヴァリッシュがかわいそうである。
その間、ナクソスのロゴも、
青地に変化しているではないか!

しかし、このCDの表紙絵画は、
前回のものと同様の雰囲気で、
見ると画家は同じジルマーのもの。

不安げな空の風景画で、
この梅雨時にふさわしいし、
さらには、シューベルトの危機の時代、
あるいは、ロマンティックな感情をかき立てるものとして、
私は歓迎したい。

こうした格調高い絵画をあしらったCDは、
特に大手レコード会社の
スターミュージシャン売り出し路線では、
なかなかお目にかかれない。

題名は、「慈悲深いサマリア人の怪我をした人の救護」
と書かれているが、善きサマリア人は、
こうした、窮地にある人を、
損得をか顧みずに救う有徳の人である。

山賊に襲われて身ぐるみ剥がれた人を、
通りがかりのサマリア人が介抱しているが、
作者にはもちろん、そんな事は口実にすぎず、
むしろ人里離れた大自然の方を描きたかったに相違ない。

これを見ていると、私も、どこか、
人里離れたところに行ってみたくなった。

さて、今回の解説も、
ピアニストのヴァリッシュ自身が、
「ピアノソナタ集1815-25
スケッチ、断章、未完成作品集」
というタイトルで書いている。

読み応えのあるものなので、
これを読みながら、各曲を見ていくことにしよう。

「この録音はフランツ・シューベルトの
ピアノソナタ作曲の広い範囲にわたるものだ。
最も早いソナタに始まり、
中期の3つのソナタの断片が続き、
コンセプトも野心的で、
驚くべき進化した作品である、
最後の未完成ソナタで閉じる。
シューベルト最初期のソナタ群は、
実験する喜びに満ちている。
変化に富み、一部断片のもの、
単独の楽章のみ残存する
と言う形で伝わっている。」

実験する喜びに満ちた作品を聴くのもまた、
発見の喜びに満ちている。

さて、冒頭で、
私も同様の事(当時のシューベルトの境遇)に
思いを馳せていた事に触れたが、さすが、
ヴァリッシュは、さらにそれを検証している。

「作曲の機会に関する情報も、
当時の演奏の記録もないので、
1815年から1817年の
シューベルトの生涯の環境を
ここで垣間見てみることは有意義である。
1815年2月、17歳のシューベルトが、
彼の最初のソナタを作曲した時、
ヴィーンで父親の学校で、
彼は助教員として働いており、
粗末なピアノと一緒に
狭苦しい部屋で暮らしていた。
(友人の詩人ヨハン・マイヤーホーファーの回想)」

確かに、ヴァリッシュ君の言うとおり、
何となく、そんな環境下で、
ピアノ曲の実験をしていたか、
と思い描いてしまった。

あるいは、シューベルトに出来たこと、
それは、狭い部屋に閉じこもって、
ピアノと戯れることだけだった、
などと空想する。

最近のたとえで言えば、
TVゲームに打ち興じていた、
と読み替えてもよいかもしれない。
そのうち、彼は新しいゲームの
プログラムにも興味を持つようになるだろう。

以下のように、公式には、
声楽曲の訓練しか受けていないので、
いっそう、ピアノ曲には、
現実逃避の余地が残されていたとも考えられる。

「アントーニオ・サリエーリが、
作曲の無償授業を授けており、
同時代の証言によれば、
声楽曲の書き方によるもので、
独立した器楽曲が入り込む余地はなかった。
シューベルトは明らかに
サリエーリの弟子である事を誇りにしていて、
いくつかの作品の最後には、
『サリエーリ閣下の弟子』と書き入れている。」

また、3楽章のソナタなのに、
1番のソナタが未完成とされ、録音されている理由は、
下記のように、前回の5番のソナタと同様である。

「最初のソナタ、ホ長調D157は、
ロ長調のメヌエットとトリオを終楽章に持つ、
3つの完成された楽章からなる。
終楽章のメヌエットが
そこそこ効果的に締めくくっているとは言え、
基本の調であるホ長調でないがゆえに、
この作品は未完成作品とされている。
シューベルトはこの作品に集中し、
数カ所の書き直しも認められる。
第1楽章は弦楽四重奏を手本にしたようで、
独奏声部と音色の交錯で特徴づけられる。」

第1楽章は、軽快な明るいメロディで始まり、
確かにシューベルトの解放的な喜びが満ちている。
弦楽四重奏風とあるが、これを頭の中で、
弦楽合奏に置き換えて聴くと、
闊達に動き回る
第1ヴァイオリンの活躍の様が目に浮かぶようだ。

「ホ短調のゆっくりとした中間楽章は、
驚くべき深さと成熟を示している。」

この習作のようなソナタに、
こうした見解を示すピアニストは、
何と頼もしい存在であろうか。

私が聴き始めの頃、
シューベルトの交響曲第1番などは、
演奏されるたびに、
「ここが習作風だ」という論調で、
埋め尽くされていたが、
様々な指揮者の努力によって、
最近では希有な作品と認められつつある。

こう見ると、このソナタ、そこそこの規模を誇り、
全曲演奏するのに20分近くかかっている。

さて、この第2楽章、憂いを秘めた佇まいが詩的で、
下記のようにヴァリッシュが書くのも当然と思えた。

「そこでシューベルトは、
内向的な主要主題を、
ト長調の温かい叙情的な主題や、
ハ長調のリズムに創意があって、
生き生きとした中間部と対比させている。
ここでのシューベルトの熟達は、
驚くべきもので、
幅広いアーチと大きなメロディーラインで、
形式を広げたりバランスを崩したりすることはない。」

憂いを秘めた楽想は、
ひっそりと可憐な花が咲くようなメロディに変わって、
これがまた美しい。
こうした音画的な楽章は、
彼の1817年のソナタにはあっただろうか。
リズミックな部分も胸の高鳴りを覚える。

「しめくくりのメヌエットは非常に急速で、
この形式には珍しい
アレグロ・ヴィヴァーチェと記され、
生の喜びとエネルギーが火花を散らしている。」

これまで、単なる習作と思われていた、
この曲が、演奏家自身によって、
ここまで激賞される解説がついているだけで、
このCDは「買い」ではなかろうか。

終楽章はスカルラッティ風の典雅なもので、
これまた楽しいが、
終曲としては落ち着きがないかもしれない。

幻の終楽章はあったのだろうか。

とりあえず、この曲は、
こんな風に、一応、各楽章に関しては、
尻切れトンボ部はなく、すっきりと聴ける。

次に第8ソナタが収録されている。

下記のように書かれた、
1817年のシューベルトの境遇も、
妙に想像力をかき立てるものである。

「1816年の4月、シューベルトは、
ライバッハの音楽教師のポジションに応募し、
失敗に終わった。
同月、彼はゲーテに、その詩に付曲した、
『野ばら』、『さすらい人の夜の歌』、
『魔王』などを含む、
一冊の歌曲アルバムを送ったが、
これはコメントもなく送り返されて来た。
この年の秋、ヴィーン中心に住み、
明らかにずっと良いピアノのために、
家を見つけた。
これに勇気づけられ、
1817年8月にかけ、
6曲のピアノソナタを書いた
(D537、557、566、567、571、575)。」

前田昭雄著の「シューベルト」(新潮文庫)では、
藤本一子による「シューベルトはどこにいたのか」
という表が巻末にあるが、
これを見ると、1816年の秋というと、
「トゥーフラウベンのショーバーの家」となっている。
裕福な家に転がり込んだということか。

「ひょっとすると、彼は、
すでにその時代は過ぎ去っていたのに、
ハイドン、クレメンティ、またはモーツァルトといった、
伝統的な古典ソナタと考えていたのかもしれない。
これらの作品はしばしば、
強い舞曲との類似性が認められる。
半分以上の作品は、三拍子で書かれている。」

前田昭雄氏も、第7ソナタを「舞曲調」と書いていたが、
全体にわたって、こんな特徴があったということだ。

また、ショーバーの家なら、
こうした昔の作曲家の作品集も揃っていたかもしれない。

第1番に比べ、第8に関しては、
ヴァリッシュはいささか辛口で、
以前、ここで取り上げた、
バドゥラ=スコダなどとは大違いである。

「シリーズの最後から2番目の嬰ヘ短調ソナタは、
フラグメントとして残されている。
ここで、シューベルトがモデルにした、
ベートーヴェンの影が濃厚である。
特に、第1楽章と終楽章に、『月光ソナタ』との、
強い親近性が見て取れる。
現存する第1楽章の141小節は、
聴衆を、対比もドラマもない、
遠い憂愁の世界に運び去る。
これはもっぱら、シューベルトが、
単一主題の原理で書いているからである。
主要主題は、特に叙情的で、
ソナタの第1楽章の文脈における、
弁証法的集中に不十分だからである。
この楽章は、まさに予想される再現部直前で終わっている。
ベートーヴェンとの類似にも関わらず、
シューベルトは、
その『幻想ソナタ』の形式に則ることにも、
自身の形式的解決を見いだすことにも成功しなかった。
このソナタはベートーヴェンの圧倒的な類例ゆえに、
未完成のまま残されたのだろうか。」

スコダがシューマン、ブラームスを例に挙げて、
この曲のオリジナリティを強調したのに対し、
ヴァリッシュは、猿まねの失敗作として片付けている。

「このソナタの4つの楽章のうち、
3つは、元々別々に伝えられ出版されたが、
オリジナルのページの紙質の解析や、
調性の選択から、
それらが4楽章のソナタを構成することが、
現在、確かな事とされている。
よりよい楽章間の結合のため、
私はこの録音で、第1楽章の中断部分から、
直接、ニ長調のスケルツォD570を続け、
それにイ長調のアンダンテD604を続けた。
これら2楽章は、シューベルトは完成させている。
嬰へ短調のアレグロD570は、
まさしく第1楽章と同様、
再現部の前で中断されているが、
このソナタを終わらせるための、
終曲の性格を明らかに備えている。」

が、演奏はかなり情緒を重んじたもので、
クリアなタッチが輝いて美しい。
この曲の場合、尻切れトンボ部が2箇所あるが、
ヴァリッシュは、続く部分を活かして、
うまく連続感を出している。
ただし、終楽章はそういうわけにもいかず、
かなり、唐突な感じ。
しかし、続く2曲に比べると、
かなり書き込まれているので、
堪能した感じはある。
そういう意味では、スコダ説のように、
あとは機械的に仕上げられるから、
後回しにして放置したのだ、
という意見にも納得できる。

問題は、多くのソナタ全集も割愛している、
第12番嬰ハ短調であるが、
これは確かに、どうしようもない代物で、
下記のように提示部があるに過ぎない、
という感じで、展開部も再現部もなく、3分に満たない。

「シューベルトの次なるソナタの試みとして、
主題や、より大きなひらめきと、
展開の可能性と格闘していた、
1819年から1823年にかけての、
非常に短い、嬰ハ短調D655と、
ホ短調D769a(以前はD994と呼ばれていた)
が認められる。
これらがこんなすぐに
中断してしまった事を
説明することは出来ない。
テンポ指示のない嬰ハ短調の作品の場合、
2つの対照的な主題が結合された
提示部が残されている。
ここでシューベルトは、
新しい表現の可能性を求め、
非常に珍しい嬰ハ短調と変ト長調を使っている。
しかし、作品は73小節後、
2つの小節と繰り返し記号の後、
中断されて、この作品の残りについての
一切の指示は残されていない。」

ここに書かれているように、
かなり緊密に書かれているようにも思え、
まったく、これでやめにする必要はない。
冒頭こそつっけんどんだが、
これは、「第16番」のソナタなどにも言えることである。

様々な魅力的楽想が現れては消えて行く。
終わった後、上記、2小節部が、
覚え書きのように演奏されているのが興味深い。

この動機で、もう一度、トライしようという、
メモのようにも思える。

次の断片も、開始部は憂いを秘めて、
この作品もその中で興味深い色彩を放つ。
が、1分で終わってしまうというのが痛ましい。

「ホ短調のフラグメントもまた、
ソナタ・アレグロ楽章のための
単純なスケッチと言われている。
わずか38小節の中で、
提示部の最初部のように、
シューベルトは、ホ短調の三和音の伴奏を、
ところどころに記譜している。
先立つソナタと比較すると、
小さな部分ですら劇的な対比を行うこと、
それに主題に明確な輪郭を与えることに成功している。
この最も短い断片は、
1958年に初めて出版された。」

開始部30秒で、早くも激高し、
50秒以降、跳躍をしようとして失敗した、
という感じだろうか。

あと一晩考えれば、
初期のソナタと同様のものは出来たであろうが、
シューベルトの野心はもっと大きかったという事だろう。

この1819年から23年といえば、
器楽では、「ます」や「未完成交響曲」が知られるが、
もっぱら劇音楽の年であって、
様々な努力がなされている。

さて、最後に収録された「レリーク」(聖遺物)ソナタに関しては、
再び、ヴァリッシュの最大限の称賛が読み取れる。
作品の収録時間も30分を超えて長大だが、
解説も全体の40%は、この作品にあてられている。

この作品は「未完成交響曲」のように、
完成された2楽章のみ演奏される事が多く、
全集を完成させないピアニストでも愛奏しているが、
2つの楽章では語り尽くせないところがあるのも事実のようだ。

「この録音最後の、そして間違いなく最も偉大な作品、
ハ長調ソナタD840は、
シューベルトのソナタ作曲において、
2年の空白の後、新しいスタートを切ったものである。
1825年の春、このソナタは、数ヶ月のうちに書かれた
3つのソナタ(D840、845、850)
を含む新しい創造ステージにの最初に立っている。
すでに1824年3月、
シューベルトは、よく引用される、
友人のクーペルウィーザー宛の手紙で、
弦楽四重奏や他の室内楽を通じて、
大交響曲への道を拓きたいと言っているが、
1822年作曲の『未完成交響曲』によって、
すでに何かを掴んでいたと思われる。
『レリーク』と呼ばれる、
4楽章からなるハ長調ソナタは、
第1、第2楽章のみ完成で、
未完成に終わっているとはいえ、
この道のりにおける大きな一歩であった。
ピアノ書法は管弦楽的で、
個々の部分や形式構成において、
この時点では知られざる交響曲の特徴を持っている。
注意深く耳を澄ませば、
ハ長調大交響曲D944の予告が聞こえる。
特に第1楽章モデラートでは、
オーケストラの色彩やニュアンスを
直接的に取り入れたピアノ書法で、
シューベルトは新しい音響領域に乗り出している。
この楽章における特別なピアニスティックな挑戦は、
巨大な構成を取り扱う点と、
個々の楽器の音色をピアノに移している点にある。
この楽章の叙事的な息の長さと、
多くの魅惑的な和声は、当時の音楽の限界を超えていて、
ブルックナーのサウンド・カテドラルを想起させる。」

西欧では、ブルックナーの交響曲は、
すでに、「音響聖堂」などと表現されているのだろうか。
初めて聴いたが、いかにもぴったりである。

そして、シューベルトのこのソナタが、
それに例えられるのも分からなくはない。
全編に神聖な動機が鈴のように鳴り響いている。

「ハ短調の第2楽章アンダンテは、
形式的に第1楽章よりずっと把握しやすく、
厳格に四声で書かれている。
バラードの性格を持ち、
その展開におけるクライマックスは、
まるで両楽章を通じての終結部とも言える、
拡張されたコーダにある。
『未完成交響曲』のように、
これらの驚嘆すべき最初の2楽章の後で、
シューベルトが作品を、
続けて完成させる気にならなかったか、
完成できなかったのではないかと考えることもできる。」

ヴァリッシュ君のこのような表現は、
他の人からも聴けるので、
是非、「この曲は第2楽章まででは、
まったく理解された事にはならない」
などと書いて欲しかった。

が、この訥々とした音楽が、
コーダになって、やおら、
大きなアクションを見せるのは事実。

また、ヴァリッシュも、
下記のように、続く楽章も、
かなりの意欲作であることを強調、
期待に応えてくれている。

「しかし、4楽章の伝統的な形式原理に従って、
彼は続きを書いている。
完成されたトリオ変ト短調を有する、
変イ長調のメヌエットも、
ハ長調の終曲と同様、
まさに展開を始めようというところで中断している。
メヌエットにおいて、シューベルトは、
イ長調から変イ長調の主題の繰り返しへの、
無骨な転調を避けようとした。」

このメヌエットもまた、第1楽章同様、
神聖な動機が鐘のように鳴り響いて、
大きくこれが呼吸する様が圧倒的で、
いかにも巨大な構想を想像させる。
トリオ部は完成しているということで、
不連続に演奏されているが、
「楽興の時」のように、詩的である。

しかし、終楽章の構想を下記のように書き出されると、
シューベルトでもなくとも、その野望の大きさに、
眩暈を感じる程である。

「終曲では、
この楽章では、解決されるべき、
少なくとも3つの主題が提示されており、
非常に複雑な展開部が必須だったろう。
主題の数や、
最初の238楽章が残された、
野心的なこの終楽章のプロポーションからして、
この終楽章が、指示されたように、
ロンドとして意図されたか、
ソナタ・アレグロとして構想されたかはわからない。」

よく言われるが、この15番を中断して、
仕切り直しで16番のソナタを完成したシューベルトであるが、
16番の終楽章は5分程度の疾風で終わっている。

それに比べ、何と、第15番の終楽章は、
モニュメンタルなソナタ形式なのかもしれず、
主題提示だけで、5分弱を要しているのである。
まさしくブルックナー級の大ソナタだ。

「シューベルトの死から2、3年して、
シューマンは、熱狂的に、その作品の紹介を開始した。
1839年、シューマンのヴィーン滞在中、
シューベルトの兄、フェルディナントによって、
このハ長調ソナタの全手稿はシューマンの手に入った。
同年3月、シューマンは、ライプツィッヒにて、
大ハ長調交響曲の初演をアレンジするのに成功し、
そのすぐ後、この未完成ソナタの第2楽章を、
共同事業していた定期刊行物『新音楽時報』
の中に載せた。
シューマンの死後、最初のシューベルト全集のために、
原稿は使われ、1861年にライプツィッヒで出版された。
編集者は、間違って、
『シューベルトによる最後の未完成のソナタ、レリーク』
と呼ばれ、これが、このソナタの通称のもととなった。」

このように、碩学シューマンは、
この曲の全容を知っていたようだが、
果たして、彼はこのスケッチをどう捉えたのだろうか。

「作曲者自身が未完成のまま放置したソナタを集めた、
この録音が、聴く人をいらだたせることはないだろう。
むしろ反対に、これら断片は、
我々をシューベルトの感情に、
直接的にアプローチすることを可能とし、
彼やその作品を全体的に捉えることを可能とする。
最も忠実なシューベルトの友人の一人、
シュパウンは、こう書いている。
『シューベルトをよく知る人は、
いかに深く彼が作曲に熱中し、
いかなる苦しみの中から
作品が生まれたかを知っているだろう。
一度でも、彼が、
朝作曲しているところを見た人は、
目を輝かせて顔を火照らせて、
夢遊病者のごとき、その様相を、
忘れることは出来ないだろう。』
これらの断片作品は、
特別神秘的な詩情を時に息づかせる。
それらはシューベルトの創造過程、
音楽的思考を同時に、完全に示し、
彼の探究と検分を、我々に生き生きと蘇らせる。」

シュパウンの回想の引用は言わずもがなだが、
確かに、このようなCDの存在価値を、
強烈に感じさせる1枚になっている。

得られた事:「良いピアノと部屋ゆえにかき立てられた創造意欲。」
「第12ソナタは、他の20曲と比べ、あまりにも断片すぎる。」
「恐るべし、カテドラル・サウンド。」
[PR]
by franz310 | 2010-06-20 12:57 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その230

b0083728_12405322.jpg個人的経験:
シューベルトのピアノソナタ第7番、
決定稿である「変ホ長調」の前に、
第1稿「変ニ長調」があることは、
たびたび語られることである。
また、ブラームスは、
第2楽章が嬰ハ短調であるがゆえに、
第1稿を好んでいたと言われるが、
問題の第1稿の録音は、
この2002年録音の
ナクソス盤以外にあるのだろうか。


書き直しの多いブルックナーの交響曲などは、
すでに、いろんな指揮者が様々な楽譜選択を行い、
様々な嗜好のファンが、
どの稿がよいかという議論を繰り広げているが、
ようやく認知の進むシューベルトのソナタ、
しかも20歳の若書きとなれば、
こうした議論はこれからという事だろうか。

この第1稿と第2稿決定稿の間には、
移調の他、楽章の追加、細かい展開の調節が行われていて、
プロコフィエフなら、きっと、これは全く違う楽曲だ、
と声高に主張しそうである。
彼の場合、チェロ協奏曲を改作して、
チェロと管弦楽のための交響協奏曲、
などという大仰な題名に変えた例もある。

シューベルトも3楽章版を、
4楽章にしているのだから、
ソナタを大ソナタにしてしまった、
という意識もあっただろう。

ということで、元のものは、
あまり知られておらず、
この貴重な第1稿は、
ヴァリッシュという人が弾いているのしか、
私は知らない。

この人、ヴィーンの音楽一家の出だと言うが、
1978年生まれということで、かなりの若手である。
2002年の時点では24歳という新進である。

この人は本場ヴィーンの人ながら、
ドヴォワイヨンやマイゼンベルクといった、
フランスやロシアの異文化の大家にも学び、
アメリカでは、ハイドン賞や、
ストラヴィンスキー賞を受賞しているという。

このような変幻自在な経歴を見ると、
まさしくカメレオン、
ストラヴィンスキー賞を、
私からも贈呈したくなる。

1999年に、エリザベート王妃国際コンクールで、
歳年少のファイナリストになったとあり、
以来、日本や中近東、欧米で
コンサート・ツアーを行ったとある。
いつの間に来たのだ?

しかし、このCD、
単に、第7番の初稿を含むのみならず、
その他の未完成ソナタも集めたもので、
CDの表記通りには、
「第5、第7a(未完成)、第11(断章)、第12番(断章)」とある。
この表記、非常に紛らわしく、
第5、第7aはともかく、第12番はリヒテルなどが、
第11番として弾いているD625のヘ短調の作品である。

ということで、ここで言う第11番も、
一般には「第10番」として知られる
ハ長調D613を指している。

第5番はルプー、第11番は前記リヒテルを始め、
多くのピアニストが弾いているので、
それほど珍しいものではないが、
第7a番は表記からして珍しく、
第10番もまた、
あまり録音される機会に恵まれないものであるため、
超貴重な録音と言わざるを得ない。

ナクソスは、このレーベルの看板ピアニスト、
ヤンドーが、シューベルトのピアノソナタ集を
録音しているので、
若造には、落ち穂拾いをさせたのだろうか。
それでも、ナクソス様々である。

表紙絵画も、
時代はやや下って1851年のものながら、
シューベルトの危機の時代を思わせる、
暗雲垂れ込める風景画なのが嬉しい。
1807年生まれということで、
シューベルトとほぼ同世代の画家、
ヴィルヘルム・ジルマー(63年没)の、
「森のはずれの小道」だという。

それにしても、24歳にして、
こんな録音からチャレンジする若者には、
まったく敬服するしかない。
そして解説もまた、ピアニストの
ゴットリープ・ヴァリッシュ自身が書いているのである。

「音楽における『断片』の着想から、
特にシューベルトの場合、悲劇と失敗が読み取れる。
交響曲ロ短調D759『未完成』や、
完成されなかったオラトリオ劇『ラザロ』D689、
あるいは『弦楽四重奏曲ハ短調』D703などの、
有名作品に加え、沢山の断片的なピアノソナタがある。
これらの大部分は、
ここに録音した4曲を含め、
シューベルトのいわゆる危機の時代、
1817年から1823年の間に書かれた。
この時期にシューベルトが格闘した多くの作品は、
彼の最も大胆かつ奇妙な作品や、
作曲の実験のような断片として残った。
これら中期の弦楽四重奏曲やピアノソナタを通じ、
シューベルトは大交響曲への道を模索していた。」

確かに、後年、シューベルトの発言に、
そうしたものもあるが、
しかし、この変ニ長調、1817年時点では、
シューベルトは順調に交響曲も発表していたし、
むしろ、ピアノ音楽の可能性を、
純粋に追求していたと見るべきだろう。

「これらソナタの断片は、11曲の完成作ソナタに対し、
12曲の未完成作品という、比較的、数が多いという点でも、
シューベルトの創造的人生の中で、特別な意味を持つものだ。」

ここで、さらりと12曲と言っているが、
彼は、この12曲を3枚のCDに収め、
今回のものはその中の1枚である。

このうち、全集でみんなが録音する、
「第2」、「第3」、「第6」を収録した1枚は、
多少、希少性が劣る。

「すでに強固な伝統的形式、
『ソナタ形式』として確立していた、
形式的パターンに対する作曲家の足掻きの印である。
すでにシューベルト独自のスタイルが、
強烈に刻印されているものの、
これらの作品には、
ハイドン、モーツァルト、フンメル、ウェーバー、
とりわけベートーヴェンが、
しばしばモデルとして登場する。」

ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの例は、
みんなが指摘するが、フンメル、ウェーバーの例も、
是非、指摘して欲しい。

「強烈な感情表出の内容を示唆する、
シャープやフラットの調性が多用され、
これがこの時期ソナタの特徴ともなっている。
一般的に2タイプの未完成ソナタが確認可能で、
一方に、ソナタの提示部の断片があり、
これらは展開部の途中、
遅くとも再現部の開始部で中断していて、
もう一方で、個別楽章が完成されていないものもある。
ピアノソナタの断片は、
シューベルトが何故、そこで中断し、
また二度と取り上げなかったかという、
永遠の命題に対する解答ではなくとも、
シューベルト内部の作曲手法の深い探索を可能とする。」

ということで、この録音の特徴は、
あえて尻切れトンボみたいになった、
シューベルトのソナタを集めることで、
あえて、事実をさらけ出し、
シューベルトが抱えた問題意識を共有しよう、
という試みにも見える。

決して、落ち穂拾いをやっているのではなく、
完成作を取り上げない自分こそが、
よりシューベルトに近いのだ、
という宣言にも見える。

ヴァリッシュの演奏は、非常に明晰なもので、
これらの作品の骨格みたいなものは、
非常によく見える。

一方で、後で出てくるように、
この録音、未完成作品を、必ずしも、
そのまま演奏しようというものではなく、
臨機応変に対応している。

実際、第5番は「未完成」とか、
「断片」とは記されていないが、
下記のような理由で、ここに収録されている。

「1817年5月作曲のソナタ変イ長調D557では、
シューベルトによる一連の断章が発見されている。
三楽章の完全性にも関わらず、
この作品は、調性のグルーピングが難問である。」

ということで、この作品が、
今だ謎の作品であることを証拠立ててくれている。

「変イ長調の第1楽章に、
慣習的なソナタ通り、ドミナントの調性である
変ホ長調の第2楽章が続く。」

このように、前半2楽章は問題がなさそうだ。

「しかし、第3楽章も続けて変ホ長調なのである。
この楽章は明らかにフィナーレの性格を持つが、
シューベルトはこの曲を変イ長調ではなく、
変ホ長調で終わらせようとしたのか、
4番目の楽章がないのか失われたのか、
といった疑問がわき起こる。
近年の調査でも、この命題には、
明確には答えられておらず、
このソナタは相変わらずソナタ断章として数えられる。」

確かに、変化をつけるために、
第3楽章があり、別の調で書かれていたとも考えられるが、
終楽章でもとの調性に戻さなかった謎がまだ残る。

こう書かれると、悩みこんでしまうが、
聴いていて、こりゃ変だと感じるべきなのか、
慣習的におかしい、と感じるべきなのかは、
よく分からない。
私は、特にそれは気にしないで聴いて来た。

「ハイドンやモーツァルトを思わせる、
単純なピアノ書法と、
第2楽章中間部の変ホ長調部は、
バッハの厳格なリズムを思わせる。」

愛らしい第1楽章も、この楽章の単純さも、
ヴァリッシュのピアノもそうだし、
24ビットの解像度で行われた録音もそうだからか、
クリアでとても満足が出来る。

「第3楽章開始主題には、
2年後のイ長調ソナタD664の、
終楽章と興味深い類似がある。
この非常に小さな作品の中に、
シューベルトは、愛らしく幸福で、
非常に古典的に影響を受けた側面を見せている。」

この指摘も、
言われてみてなるほど、
と思う程度。

第5番の解説は、実は、もっと後に出てくるのだが、
何故、「未完」とも「断章」とも書かれていない、
「第5」がここに収められているかを、
まず、すっきりさせて見た。

また、続く、第7a番、
前回の解説から懸案であったソナタについても、
「未完成」とするかどうかが悩ましい。

ヴァリッシュはこう書いている。

「1817年6月に書かれた、
変ニ長調ソナタD567で、
シューベルトは特別な集中を見せる。
自筆譜の第3楽章の最終ページは失われたが、
一連の断片は残っている。
シューベルトの友人のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、
その回想に、このソナタのことを書いている。
『それは大変難しく、
シューベルト自身、気合いを入れずには弾けませんでした。』
『彼は、外国の出版社にこれを送りましたが、
こんなに恐ろしく難解な作品は、
出版するにはリスクがあると書いて、
送り返されて来ました。』」

以上のように、ヒュッテンブレンナーに
シューベルト自身、弾いて聴かせたとあり、
出版社に送ったともあるので、
おそらく、この作品は、
CD表記にあるような「未完成」作品ではないのだろう。

前回のCDにあった、
「オリジナルの終曲は未完成だが、
シューベルトは的確に最後の17小節を書き加えた」
という解説も性格ではなさそうだ。

ちなみに、
ドイッチュの「友人たちの回想」(石井不二雄訳)には、
さきほどの表現、
「彼自身、つっかえずに弾くことは出来ませんでした」
とある。
シューベルトは、弾けたのか弾けなかったのか、
この書き方では、非常に悩ましい。

こうした微妙な言い回しの差異から、
シューベルトは弾けもしないものを作った、
というロジックに繋がる場合もあっただろう。

「この異議は、
シューベルトに翌年、
第3楽章にメヌエットとトリオを追加して拡張し、
より簡単な変ホ長調に移調させることとなる。」

とあるのも悩ましい。
1817年に集中して書かれた
6曲のうちの1曲として語られるが、
1817年に書かれた部分は、
第1稿なのか最終稿なのか。

もし、第2稿だとすれば、
初稿は、第7番ではなく、
第4番に位置させる必要がある。

また、このような経緯が本当だとすると、
シューベルトは本来、変ニ長調で決定していたものを、
仕方なく変ホに書き換えたように見える。

そう思って聴くと、
この調性の変更によって、
この曲の性格はかなり変わっているように感じられた。
第1稿の方が低い調のせいか陰影に富み、
決定稿は、妙にふわふわした感じになっている。
ちょっと浮世離れしたものになって、
下記にあるような「野心的」な感じは、
多少失われている。

「この4楽章版は1829年、
作品122として、ヴィーンで出版された(D568)。
オリジナルの変ニ長調版は、
シューベルトのソナタの中で、
最も野心的で扱いにくいものとして数えられる。
外側の楽章は、
ほとんどビーダーマイヤー風の晴朗さが支配的で、
ロマンティックで叙情的な主題が拡張されていくのに対し、
嬰ハ短調の中間楽章は、
ベートーヴェンの厳格で表出力ある世界にある。」

ブラームスはしかし、
ベートーヴェン風だからと好んだわけではあるまい。

改めて聞き比べると、
この楽章は、いぶし銀のような響きから、
感傷的な響きになってしまったようである。

前回の解説に、
「シューベルトは、第1楽章の改訂に際し、
提示部の終わりから展開部への入りの部分をスムースにして、
再現部の最初のメインテーマに装飾を施した。
また、もともとあった不意のフォルテッシモの和音を外して、
この楽章の終わりをデリケートにしたりした。
終楽章では第2主題の視界を広げ、
リラックスした要素を導くことによって、
展開部の開始部を完全に書き直している」
と書かれていたが、これらも全て、
この録音のおかげで、耳で確認することが出来た。

まず、第1楽章の変更であるが、
「展開部への入り」は、
5分25秒あたりで聴けるが、
スムースにしなくても劇的で良い。

もともとあった不意の和音は、
最後の2音だが、
これは確かになくても良いような気もするが、
次の楽章の孤独さを突き放すような感じもあって微妙。

終楽章は、「第2主題」を拡張、
「展開部の開始部を書き直した」とあるが、
4分11秒以降で、このあたりの変化は聞き取れる。
変ホ長調という調性以外にも、
平板な雰囲気になった理由はあったのだ。

シューベルトは第9番ロ長調が挑戦的な作品になったので、
こちらは幾分、マイルドにしたのかもしれない。

さて、第5、第7aの2曲の解説を先に紹介したが、
以下、もう一度、ヴァリッシュの取り組み姿勢に戻る。
いったい、シューベルトを突き動かしたものは何か、
という真摯な姿勢が好ましい。

「主題材料はその限界まで追求され、
形式による要求と合致していないという感覚、
あるいは、もっと胸高鳴らせて、
やりがいを探すといった、
単に、新しいものに変化させたいという、
内的な圧力だろうか。
こうした解析からは、
必ずしも決定的な答えが出るわけではない。
最後に、それゆえに、音楽自身が語るべきだし、
音楽は、こうした場合、常に、
ちょっとした難問と謎を運ぶだろう。」

このあと、あえて完成させない方が、
研究に役立つといった見解がなされているが、
これについては、
例えば、マーラーの「第10」のように、
完成させてみて始めて、
その構想が明らかになるものもあり、
一概には言えないかもしれない。

「指導的なピアニストやシューベルト学者は、
これらの残された断片を使って、
作品を完成させようと試みて来た。
今回の録音では、しかし、
シューベルトのオリジナルを明確に分けるよう、
事実をそのまま残し、
他人による完成部分はなしに行うことにしたので、
これらの作品は断片性が強調されることとなった。
二つの作品は、しかし、
類似楽節の適用で完成可能であった。
ソナタ変ニ長調D567では、
フィナーレの最後の欠如部は、
この作品の変ホ長調版を参照した。
ヘ短調ソナタD625/505では、
終曲の欠如した和声(201小節から270小節)は、
楽章開始部の類似パッセージから類推した。」

このように、完成できるところは、
極力、完成させようとしているようでもある。
確かに、第7aの場合など、
こうなるに決まっている、という感じはする。

さて、今回、第10番D613(このCDでは11番)が、
D612のアダージョと一緒に録音され、
それなりに3楽章形式15分の作品として、
ケンプ、ツェヒリン、シフなどの全集でも、
この曲は取り上げられていない。
(さすがにスコダのにはあるようだ。)

では、解説を読んで見よう。

「全ソナタの中で、
ベートーヴェンの大きな影が明らかなのは、
1818年のハ長調D613/612と、
ヘ短調D625/505である。
この偉大な規範とこれらの作品の関連は、
前者が、『ワルトシュタイン』の第1楽章の、
13小節から19小節を引用しており、
後者のテクスチャと技巧が、
『熱情』の第1楽章を示唆し、
調性を厳格に引用している点にある。
『熱情』と同様、シューベルトは、
ヘ短調から、緩徐楽章の変ニ長調、
ヘ短調、さらにスケルツォのホ長調に、
調性を進行させている。」

ヘ短調については、リヒテルの解説でも読んだ。
ということで問題はハ長調であるが、
出だしから、ハ長調という調性にふさわしく、
屈託なく広がるメロディで、ベートーヴェンというより、
何となく、モーツァルトを思わせる。
第2主題も優美きわまりなく、
「ワルトシュタイン」の作者よりも、
フンメルのような粋な同時代人を思わせる。
ヴァリッシュは、下記のようにウェーバー風と書いているが。

「ハ長調ソナタD613は、一連の断章で、
二つの未完成の楽章からなり、
その二番目のものは、
興味深いことにテンポ指示もない。
これは終楽章として構想されたに相違なく、
軽快な6/8拍子からアレグレットと思われる。
明解で技巧的で、非常にピアニスティックな効果の書法は、
ウェーバーからの影響が感じられる。
紙や筆記の研究に基づけば、
この断章は、緩徐楽章と考えられる、
ホ長調のアダージョと同時期のものと見え、
これは第1楽章と和声的、主題的に直接の関連を持つ。」

最後の3行を要約すると、
シューベルトの書き方や、楽譜として使った紙に、
相関があるがゆえに、
D613とD612は1曲のソナタを構成しているはず、
ということだろう。

第2楽章も夢見るような楽想で、
もう、完全にショパンの夜想曲である。
フンメル風と言ってもよさそうだ。

何故、では、Dナンバーでは分けられているか、
ということの方が問題になりそうである。

アインシュタインの著作では、
D613は、2楽章からなるとされ、
「前者は展開部の真ん中で中断し、
後者は再現部の直前で中断している」
と書かれていて、
「メロディー法と形式の点でも、
彼が当時陥っていたに違いない、
ひどい混乱の証拠文献をなしている」
と書いていて、
あまり評価していない事を示しているが、
D612との関係は示唆されていない。

一方、このD612については、
「彼が1818年4月の
ホ長調アダージョなどにおけるように、
本当ヴィルトゥオーゾ性に、
装飾に犠牲を捧げている場合には、
われわれはほとんどシューベルトを見失ってしまう」
と散々な評価である。

いずれにせよ、これらの作品は、
非常に特殊な感じがして、
シューベルトとて、
新しいピアノ楽派に対しても、
何らかの興味を持っていたという証拠になって嬉しい。

「野ばら」や「ます」など、
ほとんど民謡的に単純な
シューベルト作品しか知らない人なら、
この第10ソナタには、喜んで身を委ね、
シューベルトはピアノソナタもきれいねえ、
と言いそうである。

が、「入念さを欠いている」と、
アインシュタインが示唆したように、
だらだらした印象があるのは事実。
しかし、ヴァリッシュのきれいな音色は、
それ自体快感なので、普通に聴けてしまう。

第1楽章は、それなりの容量があって、
かなり聞かされた後、
似たような第2楽章に滑り込むので、
尻切れトンボ感はあまりない。

が、終楽章はぷつんと切れてしまう。

では、最後に、第11番の解説。
ベートーヴェンの影響があるというが、
トリルにちりばめられ、これはシューベルトの刻印明瞭である。
一連のフラグメント集の中で、
何故に未完成か分からない作品の最たるものであろう。

「1818年と1824年の夏の何ヶ月かを、
エステルハーツィ家の娘達の教師として過ごした、
ハンガリーのツェリスで、
シューベルトは、1818年9月、
彼のヘ短調ソナタD625/505に取り組んだ。
特にこのソナタの第1楽章には、
ベートーヴェンの影響が見られるが、
シューベルトは新しい道を模索していた。
提示部で、もはや彼は二つの主題を対比させず、
一方から一方へと受け渡し、
このようにして提示部の最高の部分が、
息を呑む効果の転調と、
たゆみなく頻発するトリルを伴い、
(これは最後のソナタD960を予告する)
一種の展開部に転じる。
この楽章は再現部の開始部で中断している。
ホ長調のスケルツォと、
先に独立してD505として出版されたが、
近年の研究にてヘ短調ソナタに含まれるとされた、
変ニ長調のアダージョは、
共に完成している。
劇的で、シューベルトにとって、
異常に技巧的な終楽章は、
非常に強い対比がなされた二つのテーマが現れる。
これは驚く程、時空を越えたスタイルで、
ショパンやリストの作品との親近性がある。」

前回のシフなどは、
「さらにはD625やD505のように、
音楽学者が、いくつかの楽章が、
あるソナタの一部だと唱えるものもあるが、
その示唆が正しいかを知るすべはない」
と書いていたが、
ヴァリッシュは、率先してこれらを活用する意見である。

この曲も、ヴァリッシュのピアノの
クリアなメリハリ感は心地よく、
若々しい高揚感もあって、非常に好感が持てる。
また、第1楽章と終楽章の未完の終結部は、
フェードアウトして消えるので、
これはいっそう、未完成感が軽減されている。

ストラヴィンスキー賞をもらうピアニストゆえ、
この曲のスケルツォなど、
もっとはちゃめちゃにやって欲しかったが、
非常に良心的に清潔にまとめている。
むしろ、第3楽章の深い叙情に共感が明らかである。
ただし、さっぱりしているだけ線が細い印象で、
終楽章の交響的な大きさとは少し合わないかもしれない。

が、全体的に素描のようなタッチで、
これがこうした作品の鋭い筆致にふさわしいものと言える。
偉大な画家の場合、デッサンですら展覧会で人を引き寄せるが、
今回のCDは、そんな感じのものである。

得られた事:「シューベルトの第7ピアノソナタ初稿は、ほの暗いロマン性が渋く、シューベルトが出版を企て、友人たちも喜んで演奏に挑戦しようとした野心作であった。」
[PR]
by franz310 | 2010-06-13 12:41 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その229

b0083728_22492937.jpg個人的体験:
リヒテルのロンドン・ライブ、
プロデューサーは、
ミッシャ・ドナートという人だったが、
この人はBBC放送の
要職についていたばかりか、
英国でシューベルトの解説をする時、
よく登場するようである。
内田光子のフィリップス盤でも、
今回のシフのデッカ盤でも、
英文解説はこの人が担当している。


1817年に、20歳のシューベルトが書いた、
6曲のピアノソナタの中で、
私として、一番安心して聴けるのは、
あまりにも冒険的な第9番や、
個性的な第6、第8よりも、
第7番変ホ長調ということになるが、
どうも、ある方面の意見には近いようである。

このドナートの解説でも、
「初期作品の中にあって、最も新鮮で、
深くヴィーン的なものの一つだったので、
出版時、当然のように、すぐに人気を博した」
などという表現が出て来るからである。

とはいえ、このように、
この第7ソナタを表現した人は、
あまりいないのではないか。

このCDも、また、
この曲のみをクローズアップしたものではない。

「全集」の一環であって、
演奏しているシフ自身、
シューベルトのソナタの中で、
特に、この曲に愛着があるかどうか不明である。

聴きようによっては、こわごわ弾いているようにも見える。

とはいうものの、流麗で丁寧な、
彼のスタイルには合っているような気はする。

このシリーズのCDの表紙は、
シフが座っていたり、
ピアノの前に向かっている写真だが、
この第4集は、演奏中のもの。
背景がグレーで、切り抜き写真みたいなのと、
上1/3が、塗りつぶしでタイトルが書かれている点が、
独特のデザインである。

私は、あまり良いデザインとは思っていない。
Paul Rolloという人が、
アートディレクションと書かれている。

このシューベルトのピアノソナタ全集は、
本間ひろむという人が書いた、
平凡社新書「ピアニストの名盤」によると、
シフの、「満を持して」の録音で、
「スタインウェイの音の輝きを捨てて」、
ヴィーンのピアノ、ベーゼンドルファーを利用し、
「シューベルトの精神を表現しようと試みた」
とある。

この著書で、シフの録音は、
「詩的なアプローチと構成力で他者を圧倒している」
と紹介されているが、
確かに、非常にデリケートな音色で、
優しくソフトに描かれたシューベルトである。
しかし、「圧倒」する類の演奏ではあるまい。

ということで、中庸の美を持っており、
それでいて、極めてシューベルト的なこのソナタは、
シフが弾くと説得力を持つような気がする。

一緒に収録されている第19番ハ短調も、
一般に、最もベートーヴェン的とされるソナタなので、
是非、マイルドなシフの演奏で聴きたいものだ。
これをがんがん弾かれると、
ちょっとシューベルトでなくなってしまう。

シフでは、EMCレーベルで、
「さすらい人幻想曲」があって、
私は、先にそれを聴いていたが、
ウゴルスキなどに、
ぼろくそにけなされたあの曲が、
かなり清新なイメージに生まれ変わっていて、
非常に好感が持てた。

しかし、こうしたアプローチだと、
初期の実験的な、いくぶん攻撃的とも思える作品は、
はたしてうまく行くのだろうか。

なお、シフのシューベルトは、
かつて日本でも連続演奏会があって、
かなりの好評を博したそうである。

渡辺和彦という人が書いた、
「クラシック極上ノート」という本でも、
「1998年11月に
東京オペラシティ・コンサートホールで
連続して行われたアンドラーシュ・シフによる
シューベルトのピアノ・ソナタ演奏会は
じつによかった」と書き出される一文があって、
「日本でのシューベルト演奏の金字塔」とまで、
賞揚されている。

ちなみにCDは、1992年11月、
ヴィーンのムジークフェライン、
ブラームスザールでの録音とある。

私は、同時期のものと思っていたが、
きっかり6年もの差異がある。
この間、ずっと同じ気持ちで、
シューベルトに向き合っていたのだろうか。

少なくとも私の中では、
1992年と1998年では、
20世紀と21世紀ほどの差異がある。
日本が失われた20年に入る前と後のような感じ。

日本での演奏はさらに進化したものだった可能性もある。
録音時のシフは、30代の最後にあって、
来日時のシフは四捨五入で50代になる。

さて、録音年代への感傷や、
シフの変化の類推はともかくとして、
この録音時の、シフのシューベルトに対するアプローチは、
自身の言葉で、
「シューベルトのピアノソナタを弾くということ」
というタイトルで、海外盤には明記されていて、
これは、この演奏から聞き取れる
シフという人の印象と、ぴったりと重なるものだ。

ただし、少なくとも、私が持っている、
他の曲の日本盤には、この言葉は紹介されていない。

「フランツ・シューベルトのピアノソナタは、
疑うべくもなく、この楽器でこれまで書かれた作品の中で、
最も崇高なものに含まれる。」

このような文章を書くピアニストが弾くシューベルトは、
どうしても傾聴しなくてはなるまい。
「さすらい人幻想曲」は、聴衆に受けるから弾いただけ、
などと公言するピアニストとは正反対である。

「シュナーベル、エルドマン、ケンプ、ブレンデルといった、
偉大な賛美者や開拓者の並々ならぬ努力にも関わらず、
D664やD960のような二・三の作品を離れると、
それらはなおも比較的未知なもので、過小評価されている。」

1992年12月30日の日付を持つこの文章から、
20年近くの歳月が過ぎ、
状況はかなり変わっているだろうが、
初期のソナタについては、
まだまだという気がしている。

「ベートーヴェンの32曲のソナタは、
すでに『新約聖書』とされて久しく、
それらは堂々とした論理的な作品群を形成している。
シューベルトにはこうした論理的な流れはないので、
シューベルトが書いたすべてのソナタ楽章を、
今回の録音に含めることはしなかった。」

無理矢理完成させて録音する、バドゥラ=スコダや、
切れ端のまま録音するリヒテルとは、
これまた異なるアプローチだということだろう。

「完成された作品群に加え、
いくつかの未完成作品をシューベルトは残した。
D840のハ長調ソナタの場合など、
完成された楽章に、断章が続いている。
また、D571のように、
どの楽章も完成していないものもある。
さらにはD625やD505のように、
音楽学者が、いくつかの楽章が、
あるソナタの一部だと唱えるものもあるが、
その示唆が正しいかを知るすべはない。
これは、これらの作品の演奏家が、
並々ならぬ研究を行い、大きな音楽的結論と、
向き合う必要があることを意味する。
何よりもまず、
それが短かろうが、未完成だろうが、
存在意義があり、学者の要望に応じた、
すべての断章やスケッチや初期稿を含む、
全作品のクリティカル・エディションとは、
コンサートやレコーディングは異なるものである。
この録音では、完成された楽章のみを含むようにした。
ただ、二つの特筆すべき例外を残して。
それは、D571とD625の第1楽章である。
素晴らしい音楽的クオリティを持つ、
これら二つの断章は、完成されなかったのは、
大きな損失であった。
(D625の最終楽章は、シューベルトのスケッチの
ソプラノラインから再構成は容易である。)
多くの音楽家たちが、これらの断片を完成させようと、
様々な試みを行っていて、あるものは成果をあげている。
これらの完成版を演奏するかどうかは、
単に嗜好の問題である。
このような天才の作品に手を触れるというのは、
恐るべき勇気や無謀さを要するが、
それは本当に必要なことなのだろうか。
シューベルトが若い時代に、
いかに形式と格闘していたかを見るのは、
興味本位のものではあるまいか。
また、D840のアンダンテの後、
『未完成交響曲』と同様、
どう語れと言うのだろう。」

このように、
シューベルトが完成した作品以外は、
なるべく見ないとうにしながら、
結局は、第8番嬰ヘ短調D571と、
第11番ヘ短調D625については、
その魅力に抗しきれず、録音してしまった、
という点も好感が持てる。

「シューベルトの手稿は、
アクセントとデクレッシェンドの指示が、
判読困難である。
彼の手稿やスケッチ、
またはそのファクシミリを研究するのに、
これは最も重要なポイントである。
それらが入手できない時には、
現在、ヘンレ版が最も優れたものである。
無数の間違いのある、
いくつかの非常に悪い版があるが、
これらは使うべきではない。」

自然体のシフであるが、
徹底的にこだわったのが、
おそらくこの点であろう。

アクセントが比較的丸いシフの演奏は、
このような知識による、アクセント恐怖症のような感じで、
それゆえに「さすらい人幻想曲」など、
灰汁の強い音楽も、すっきりと聴くことが出来たのであろう。

「リピートの問題は吟味されるべきで、
ここでは一度だけ行っているが、
杓子定規なものではない。
我々は初演の場所や時に身を置くべきで、
提示部が反復される場合、
聴衆に楽章の主題を
知らせる機会を与えることとなる。
ハイドンやモーツァルトの場合と違って、
シューベルトは、
めったに展開部や再現部を繰り返さない。
最後の二大ソナタの第1楽章は、
展開部の最初の終わりに、
いくつかの非常に独創的で重要な小節を含むが、
これらの省略は四肢の切断のようなものである。
シューベルトを信頼しようではないか。
その作品は一秒たりとも長すぎず、また、
ある種の人々の我慢できる時間はあまりに短い。」

ブレンデルなど、短縮版愛好家に愛する批判であろうか。
また、下記のような言葉は、スコダをはじめ、
シュタイアーやタンなど、
古楽の大家をどう捉えた言葉なのだろうか。

「シューベルトのピアノソナタは幸いにも、
まだ、グラーフのフォルテピアノを演奏する
専門家によって発見されていない。
彼の音楽は最も音色に敏感で、
特に、柔らかく、
柔らかすぎるほどのダイナミクスを有する。
彼はまた典型的なヴィーンの音楽家で、
これが、この録音の楽器として、
ベーゼンドルファー・インペリアルが
選ばれた理由である。
現在、多くの聴衆と批評家が、
スタインウェイの響きに慣れている。
恐らく、レンジの上では、
聞き慣れたスタインウェイほど優れてなくとも、
別の音色の価値があることを考える価値がある。
ト長調ソナタD894の開始部に見るように、
シューベルトの音楽はそうした音色に満ちている。
これらの素晴らしい作品にアプローチするのには、
無数の方法があるが、私がここで行ったことは、
一人の演奏家として試みた事にすぎない。
もっともっと沢山の人が、
シューベルトが、最高の歌曲作曲家というだけではなく、
誰にも負けないピアノソナタを書いたということを、
知るようになればと願う。」

まるで宣誓書のような、
理想主義に燃えたプリンスを思わせる言葉で、
音色や表情に対し、
きわめて清潔に向き合った演奏と言えよう。

この後、冒頭に書いた、
イギリスのシューベルトおたく、
ミッシャ・ドナートの解説による、
各曲の解説が続く。

ブックレットでは、ハ短調が最初に解説されているが、
ここでは収録順に従って、
第7番変ホ長調D568から訳出してみよう。

「変ホ長調のソナタ、D568は、
1817年にシューベルトが作曲した、
数曲のソナタの一つである。
この年は彼がピアノソナタの実験に目覚めた年で、
いくつかの作品は未完成の状態のまま放置され、
シューベルトはロ長調、嬰ヘ短調、変ニ長調といった、
通常使われない調性の探索を、
楽しんでいるかのようである。
ここに収録されたより有名な作品の原型が、
この変ニ長調であって、
シューベルトは明らかに、元の調性が、
出版時の障害になりうると考えたようで、
このソナタをより易しい変ホ長調に移調した。
それにもかかわらず、このソナタは、
彼の死後3年するまで現れなかったが、
これら初期作品の中にあって、
最も新鮮で深くヴィーン的なものの一つだったので、
その時は、当然のように、すぐに人気を博した。」

冒頭に紹介した部分だが、
実は、私には、この一節は、
非常に不思議な感じがする。
シュナーベルもブレンデルも、
このソナタを録音していないからである。

もっと言うと、私がこのソナタに惹かれる理由を、
えらく簡単に書いてくれたなあ、
という気もしている。

「オリジナルバージョンについて言えば、
1890年代に、
最初のシューベルト全集が準備されるまで、
日の目を見ることはなかった。
編集者の一人だったブラームスは、
嬰ハ短調という暗い調性である緩徐楽章ゆえに、
明らかに変ニ長調ソナタの発見を喜んでいた。
その作品の変ホ長調版の出現は、
しかし、オリジナルからの単なる転調では全くなく、
この改変を、全体の改訂の機会とした。
そのまま残されたのはアンダンテだけであって、
もともと、トニックマイナーを、
維持しようとしていたのにも関わらず、
シューベルトはそれを放棄して、
もっと悲劇的なト短調を採用した。」

ここでアンダンテと書かれているのは、
第2楽章のことである。
確かにト短調と言えば、
モーツァルトの必殺技みたいな、
悲劇的調性であった。

しかし、このもの思いにふけるような楽章は、
モーツァルトの作品のような、
強烈な悲劇性を振りまくものではない。

「(奇妙なことに、彼はニ短調という離れた調性で、
最初にこの作品をスケッチした際、
その楽想を書き留めるのに、
ベートーヴェンの初期の歌曲、
『君を愛す』の自筆譜を使ってしまった。
彼はさらに、それを二つに破って、
友人のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーにプレゼントし、
ベートーヴェンの手稿をもっと台無しにした。)」

昔、「三巨匠自筆譜」だか何だかという記述を
「シューベルト友人たちの回想」で読んだ事がある。
それはベートーヴェンの楽譜に、
シューベルトが書き込んだものを、
ブラームスが持っていたというものだったと思うが、
これだっただろうか。

改めてドイッチュの「回想」をひもとくと、
「シューベルトはベートーヴェンの自筆譜の裏面に
ソナタの楽章を書き付け、また音楽の初歩の生徒の練習用紙として
これを濫用した」と解説にある。

ここで書き付けられたソナタが、
どうやら、最終的に変ホ長調ソナタになった模様。

「シューベルトは、第1楽章の改訂に際し、
提示部の終わりから展開部への入りの部分をスムースにして、
再現部の最初のメインテーマに装飾を施した。
また、もともとあった不意のフォルテッシモの和音を外して、
この楽章の終わりをデリケートにしたりした。
終楽章では第2主題の視界を広げ、
リラックスした要素を導くことによって、
展開部の開始部を完全に書き直している。
オリジナルの終曲は未完成だが、
シューベルトは的確に最後の17小節を書き加えた。
シューベルトはいつも4楽章のソナタを書こうとしていたのに、
オリジナルは明らかに3楽章構成である。
2曲のスケルツォ(D593)が、
1817年のピアノ曲に含まれるが、
二曲目が変ニ長調である。
この曲の変イ長調のトリオは、
ソナタD568のメヌエットのトリオと同じもので、
変イ長調は、変ホ長調の作品の文脈に、
ぴったりのものの一つだったので、
シューベルトは移調をせずにすんだ。
従って、メヌエット部分のみを、
新たに作曲すれば済んだのである。」

何だか分からない解説で、
D568の解説ではなく、
初稿のD567の解説を読んでいるような感じ。
肝心の変ホ長調は、いったいどこがヴィーンなのだ、
と問い詰めたくなった。

シフの演奏は、第1楽章冒頭から、
たっぷりとしたテンポで丁寧に歌うもの。

この楽章、晴朗で魅力的な楽想が次々に現れるが、
ひとつひとつに思いを込めており、
提示部の繰り返しも行って、
10分近い大曲にしている。

第2楽章も、とても感情を込めていながら、
何故か、それほど陰影が濃くない。

第3楽章もトリオも含め、
最小限の味付けという感じ。
ソフトフォーカスで、
かすんで見える風景のようだ。
ピアノがベーゼンドルファーというのは、
何か関係あるのだろうか。

第4楽章も、鮮やかな色彩に彩られ、
きらきらと輝いて美しい。
この楽章特有のさすらい感も、
劇的な展開も欠けていないが、
のどかな春の陽光が支配的である。

全体的に、よどみなく流れて清潔な感じ。
ピアノの美感を最大限活かしている。
ただし、味付けは非常にヘルシーで淡泊、
菜食主義のシューベルトと言える。

アクセント恐怖症と書いたゆえんであるが、
まったく嫌味のない音楽で、
いくらでも聴いていたい感じがする。

安心して身を委ねられるが、
しかし、どの曲も同じに聞こえてしまうのが
最大の難点のような気がする。

以下は、傑作、名作、第19番ハ短調の解説。

「1828年9月、
彼の死の何週間かまえ、
シューベルトは、大規模な
三曲からなるピアノソナタシリーズを完成させた。
これらはシューベルトがベートーヴェンの死後書いた、
唯一のピアノソナタ集であり、
遂に、自身の土俵で、
偉大な作曲家の挑戦することが出来るようになったと
彼が感じたという印象がぬぐい去れない。
これら3曲のそれぞれは、
明らかにベートーヴェンのオマージュであり、
最初のものは、最もベートーヴェン的な、
ドラマティックな調性をとり、
最初の主題は、明らかに、
そのハ短調の『32の変奏曲』を想起させる。
それだけでなく、
終楽章のリズム進行は、
ベートーヴェンの作品31の3の、
終楽章のタランテラの木霊である。
この作品31のソナタ集は、
シューベルトの第2作イ長調にも影を落とし、
その終曲は愛情を込めて、
ベートーヴェンのその曲集の最初の曲の、
ロンドの後をなぞっている。
シューベルトのソナタ変ロ長調D960に関しては、
その終曲のロンドは、
ベートーヴェンの最後の作品、
大フーガの代わりに作曲した、
作品130の変ロ長調弦楽四重奏曲の新しい終楽章を、
同じ調性のアウトラインを辿っている。
これまで、シューベルトの最後のソナタ群は、
興奮状態のうちに数週間で書かれたと言われて来たが、
全3作の細かいスケッチの発見によって、
彼がこの作品に断続的に、
数ヶ月間取り組んでいたことが分かった。
それはともあれ、
これら3作の到達した芸術的高みは、
どのように見ても、
1788年夏の6週間の短期間で、
交響曲作家としての締めくくりをした
モーツァルトの3作と同様の奇跡である。」

さすがドナートの解説。
いろいろ教えられることがある。
この3曲は、ベートーヴェンの死を契機に、
その衣鉢を継ぐ後継者が、
所信表明するような作品集だったわけだ。

しかし、ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲も、
シューベルトはしっかり知っていたのだなあ、
などと感慨に耽ってしまった。

「ハ短調ソナタは、これまでシューベルトが書いた、
最も密度の高い、劇的な鍵盤の動きで始まる。
その最初のステージの力強さは、
霊感に満ちた聖歌風の開始テーマによる、
第2主題群によって相殺される。
後者の着想は、
振動して、鳴り響く終結主題だけでなく、
展開部の大部分を占める、
ピアニッシモが続くパッセージの萌芽を導く、
半音のインターバルである。
展開部は、半音階の神秘的な連鎖で最高潮に達するが、
この時、その下では、主要主題のリズムが、
低いバスに単音で現れる。
完全にベートーヴェン的な緊張の瞬間である。」

完全に脳みそがぐるぐるしそうな解説で、
こう書かないと、音楽は言葉にならないのだろうか。
確かに、書かれているような事は起こるようだが、
「半音のインターバル」が、第2主題群の根本かは分からない。

シフの強みは、この手の押しの強い音楽を、
押しつけがましくなく、聴かせる点であろう。

「緩徐楽章全編にもベートーヴェンの影響は色濃く、
これは、シューベルトの成熟したソナタでは、
唯一のアダージョ楽章である。
ここで、特に、ベートーヴェン風に、
16分音符の揺れる三連符の伴奏の上に展開される
主要主題の繰り返しに、
『悲愴ソナタ』のアダージョの
木霊を聴く人もいるだろう。
(シューベルトの場合、より興奮した、
先立つエピソードのリズムが伴奏に継続する。)
シューベルトの最後の主題回帰では、
スタッカートの伴奏の上を
メロディがなめらかに流れ、
ベートーヴェン好みのテクスチャが現れる。」

この解説はまったくもって同感である。
シフも美しく深い歌を聴かせてくれる。

「終楽章の急速なパルスを見ると、
イ長調や変ロ長調のソナタのスケルツォとは異なり、
第3楽章は、明らかにメヌエットである。
シューベルトの暫定稿では、
最終稿のよりピアニスティックな伴奏音型とは異なり、
開始メロディは和音の連続でなっていた。
メヌエットの後半は暫定稿に近づき、
開始主題の回帰に備え、
左手にはオリジナルの和音が保持されるが、
息を吸い込んで欠伸するかのような
突然の静寂がメロディを中断するのは、
後からのアイデアである。」

このようにスケッチから、どのような修正を経たか、
などという解説は珍しい。
さすがドナートさんという感じか、
あるいは、それがどうした、
という感じを受ける人もいるだろう。

要約すると、無骨に発想されたものが、
彫琢を経て、洗練された、と読み取るべきであろうか。
これだけ、よく考えられたソナタですよ、
と言いたいのかもしれない。

シフの演奏は、このいらだたしい楽想の楽章を、
ヒステリックでなく表現して聞きやすい。

「終曲は、幅広い音階で作られ、
その材料は、基本的にロンド風だが、
展開部のエピソードの前に
主要主題の回帰がなく、ソナタ形式的になる。
展開部は、楽章全体に行き渡るギャロップのリズムが
しばらく休止すると共に、
短調から長調へとまず立ち上がる主要主題が変容し、
憧れに満ちたロ長調の幅広いメロディで始まるが、
第2部は嬰ハ短調で閉じられ、
シューベルトの半音で隣接した調性の使用が、
めざましい効果を上げる。」

これまた、無理矢理音楽を言葉にした、
涙ぐましい解説で、よく分からなくて涙が出た。
曲のスケッチを語られるより手強い。
お互いに涙が出る解説というものは、
いったいどうしたものだろうか。

シフは、素晴らしいリズム感で、
白馬に乗った王子のごとく
さっそうと駆け抜ける。
ここでは、時に、アクセントを強調し、
ベーゼンドルファーの、
多少くすんだ歪みを響かせて効果的である。
さすが、この曲ともなると、
かなりデーモニッシュになっている。

得られた事:「1817年の変ホ長調のソナタは、初期のソナタの中では比較的早く出版され、人気もあった。」
「3巨匠自筆譜について、いきさつが分かった。」
[PR]
by franz310 | 2010-06-05 22:49 | シューベルト