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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その228

b0083728_20481866.jpg個人的体験:
リヒテルは、1979年の
シューベルト・リサイタルでは、
前回のピアノソナタ3曲や、
「楽興の時」の他、
ソナタ14番もまた、
演目に加えていた。
同年の「東京ライブ」は、
9番と11番が表裏のLP、
13番と14番が表裏のLPで紹介されたが、
ロンドンでの演奏も全てCDになっていた。


しかし、私なら、前回の「13番」のソナタで息を呑んだ後、
さらに「14番」のような凝集された作品を、
聴くのに戸惑いを感じた事であろう。

前のCDが、限界を行く78分の収録時間で、
このソナタ14番が25分、休憩も入れると、
おそらく二時間を超すコンサートだったことが分かる。

リヒテルというと晩年、小品ばかり弾いていた印象があるが、
当時はまだ64歳で、勢いもあったものと思われる。

レコード芸術は、先のLPを両方特選にしたが、
初期作品については、
作品はともかく、演奏が良い、
という気配濃厚だったのに対し、
「特に14番は傑出している」、
「深く生きることの重みを語っている」と、
13番、14番については、
ほとんど激賞状態。

今回のものも、続いて聴かないわけには行かない感じである。

もともと、私は、この14番のソナタイ短調は、
あまりにも個人的色彩が強いものと感じ、
妙に生々しいものをぶつけられて来る感じに、
いささか抵抗もあって、苦手に感じていた。

後期の大作を予見させつつも、
何故か3楽章しかないのも、
ちょっと、考えるところがあった。

あるいは、最初に聴いたレコードが良くなかったのかもしれない。
アシュケナージだったか、
ブレンデルだったか、
いずれにせよ、どちらも現在は、
あまり聴きたくない感じだ。

この作品、25分程度で短く、
あまり、シューベルトが好きではないピアニストなども、
プログラムに変化をつけるためだけのように、
利用することがよくあり、
そうした人々が手垢にまみれさせた感じがなくもない。

1987年の「レコード総目録」では、
「ソナタ16番」のレコードを出していたのが、
クラウス、ツェヒリン、
ハスキル、フィルクスニー、
ポリーニ、ルプーといった、
渋めの布陣に対し、
「14番」は、
ツェヒリン、中村紘子、
フィルクスニー、宮沢明子、
リヒテル、ワッツといった、
花のある陣容となっている。

この名前を見ると、
ショパンやリストの前座に、
このソナタを利用しそうな雰囲気がある。

この手のリサイタルでは、
シューベルトのソナタなど、
聴いたことがない人たちが多数参集して、
休憩時間以外は、
寝ているイメージがある。。

それにしても、前回のリヒテルのCD、
同じBBCレジェンド・レーベルのものが
98年のものだったのに対し、
今回のものは、デザインも似ていて、
連続して出されたもののような印象を受ける割には、
2007年の印が付いている。

20bit DIGITALLYという記載もあり、
世紀が代わって、新技術でのマスタリング利用、
という感じが強調されている。

ただし、朗らかな前回のリヒテルの写真に対し、
今回は、集中する演奏風景になっている他、
中のブックレットの添付写真が、
まったくなくなっているなど、
実は、細かいリストラが進行している。
前回は4枚の白黒写真が掲載されていて、
いかにもレジェンドにふさわしいものだった。

前回のものが、「IMG Artists」という組織が
からんでいたのに対し、
今回のものは、「Medici Arts」となっている。

とにかく、経営権の変更と共に、何らかの意志決定が代わり、
当然、収益重視の方向に舵を切ったものと思われる。

こうした効率重視の方策と、
関係があるかどうかは不明だが、
中の解説も、前回のものの流用部分が多いのが気になる。

しかし、ところどころ、微調整がかかっている。
Souzaさんが、
「Fascinated and Fascinating」という、
抽象的な題名で書いているが、
演奏会当日のFascinated具合を、
思い出させる内容は完全に削除。

「20世紀の最も個性的なピアニストの一人、
スビャトスラフ・リヒテルは、1915年に生まれ、
作曲家でオルガン奏者であった父親が、
最初の音楽手ほどきをした以外は、
事実上、独学であった。
15歳にして、オデッサオペラの練習ピアニストになって、
3年後、主席指揮者の補助となった。
1937年、モスクワ音楽院の
有名なハインリヒ・ネイガウスのクラスに入るまで、
すでに音楽的人格を形成しており、
実践的音楽家としての経験を積んでいた。
入学試験もなしに、教えることはない、
と言いながらも、ネイガウスは入学を許し、
『最後の時までリヒテルから学ぶだろう』と言った。」

このあたりは、前回と変わっていないが、
この後も、カットアンドペーストしたくなる内容が続く。

「リヒテルは1960年まで西側に現れなかったが、
すぐに聴衆の愛顧を得た。
彼の登場は非常に待ち望まれていて、
この実況のBBC放送の録音からも知ることが出来る。」

前回、読み飛ばしてしたが、ライブ放送とあるから、
この演奏会の様子は、放送で多くの人が聴いたのだろう。
カセットに録音した人もいたかもしれない。

「リヒテルはシュナーベル後、
恐らく最初のシューベルト弾きで、
ソナタを包括的に取り上げた。」

確かに、シュナーベルは、
多くのシューベルト録音が残しているが、
もっぱら後期の大作群であり、
リヒテルのように1817年のソナタを、
取り上げたことがあったのだろうか。

「19世紀と20世紀の大部分、
シューベルトは、一般に器楽の作曲家としては、
何となく未完成、
ピアニストとしてはそこそこで、
最後の偉大な作品群での高みを完全に掴む前に亡くなり、
それは、形式的には修行中で絵画的で叙情的ではあるが、
『若書きの作曲家』と思われ、
それゆえに、ハイドンやベートーヴェンのような、
彼の神々の隙のない主題展開には未熟だと思われていた。」

このあたりも前回と同様であるが、
憎いことに、ここから、さりげなく、
イ短調ソナタの話になだれ込んでいく。

「リヒテルのシューベルトを聴くと、
次の瞬間、『至言』だが、これらの批判が、
覆されていく。
1823年、このイ短調ソナタが作曲された年に、
診断された不治の病によって、
若くして老成してしまった作曲家が体験した、
苦さ、孤独、苦痛といったレイヤーにまで、
リヒテルの解釈は浸透していく。」

前回、1823年のソナタは収録されていなかったのに、
この作曲家の苦みや苦しみや孤独に、
この解説者は触れていたではないか。
前回の作品から、シューベルトの孤独を聞き取ったのは、
間違いだったのだろうか。
シューベルトの孤独は、病気だけが原因だったのか。

姑息な手段の手抜きである。

とにかく、この14番、イ短調ソナタは、
病気の診断ゆえに、
苦く、寂しく、痛々しいということだろう。

青柳いづみこ著、
「ピアニストが見たピアニスト」には、
今回取り上げたリヒテルが、冒頭から登場している。

この著者は、欧米のピアニストは、
リヒテルのようなピアニストになりたいというが、
それには、高校の年齢まで正規教育を受けず、
いきなり練習ピアニストになって、
という経験をしなければならない、
などというロジックを展開しているが、
それにあやかれば、シューベルトのような作品を書くには、
若くして不治の病に罹患しなければならない。

トーマス・マンの「ファウスト博士」は、
そんな内容だったかな。

「これは明らかにシューベルトの残したもので、
最高のものの一つで、
ムードの上では、荒涼として寒く、不屈のもので、
完全に独創的なものである。
むき出しの和音の書法は、
生の実感の耐え難さよりも、
むしろ、感情の骨格をさらけ出している。」

「むしろ」、というのは、どういうことか分からないが、
多くの人は、このソナタに、
実在の耐え難さを聞き取るのだろうか。

しかし、私は、露骨な感情のむき出しなどより、
むしろ、実在の耐え難さを聞き取りたいのだが。
この筆者は何を言いたいのだろうか。
あるいは訳出を誤ったかもしれない。

ひょっとしたら、こんなところが、
私がこの曲を敬遠するゆえんかもしれない。

しかし、解説者が「最高のもの」と書いていることは嬉しい。
多くの解説者は、好きでもない作品を解説する。
まずは適任だと言える。

「流れ出すトレモロはひょっとすると、
これはもう一つの『未完成交響曲』ではないかと思わせる。
ピアニストは、他の作品以上に、
荒涼たる光景を、
オーケストレーションする必要がある。
リヒテルのオーケストラ的アプローチは、
練習ピアニスト時代や、
ヴァーグナーの『リング』のヴォーカル・スコアを研究した、
その幼少時を思わせ、強い特徴の一つとなっている。
シューベルトのごつごつしたスコアから、
時として恐ろしい力を持って、
ダイナミックスが形成される。」

リヒテルはEMIから13番のソナタを出していたし、
15番「レリーク」はフィリップスから、
16番、17番はメロディアから出していたので、
14番も、おそらく射程内にあったと思うが、
この曲は、何やらデーモニッシュなものの表出を得意とする
リヒテルの力を借りずにも十分に不気味な音楽である。

今回の演奏を聴いて、リヒテルゆえに、
それが倍加したとも思えない。

「不気味」という言葉で片付けず、
シューベルトの叫びを聞け、ということだろうか。
あるいは、ここにあるように、
交響的な効果を味わえ、という事か?

確かに、「未完成交響曲」自体、
この曲の第1楽章と同様、激しい部分と、
癒されるようなメロディの交錯で出来ている音楽なので、
これが交響曲であってもおかしくはない。
この曲は1823年の2月、「未完成交響曲」は、
前年の秋の作品である。

これが冬の音楽だとして、
「未完成」には秋の突き抜ける青空があるのは、
季節は関係ないだろうか。

「単純な歌曲のような第2楽章は、
不満げな音型が平穏を擾乱するとはいえ、
この楽章はつかの間の休憩を提供しようとしている。」

つまり、激烈な両端楽章の間の小休止ということだが、
リヒテルの演奏は、13番と同様、
この楽章でその個性を全開にしている。
非常にゆっくりとしたテンポで、
噛みしめるように一瞬を味わい、
苦渋の足取りにも見える。

不満げな音型というより、
私には、急に何かこみ上げて来た音型と思える。
何だか切迫した感情である。
こうした表現はリヒテルに合っている。

また、第1楽章での解説も、
この楽章に応用したいところだ。
リヒテルは、このシンプルな音楽にちりばめられた、
様々なピアノの響きに、多彩な色彩を当てはめている。

私は、この楽章は好きである。

「打ち寄せる三連符や、
対照的な動きのアルペッジョ、
そして怒りに満ちた耳障りな和音に満ちた、
終曲の悲劇的な突進の前に、
短い間奏曲を設けている。」

これは、主題は第2楽章なのに、
その形容詞ゆえに第3楽章を主とした解説。

「多くのピアニストはテンポを誤り、
三連符のダブルオクターブゆえに、
最後にテンポを落とすが、
リヒテルにとって、技術的な問題は皆無で、
全体のスキームをみごとに完成させる。」

終楽章の第1主題部と経過句の部分、
あまりシューベルトの音楽には、
類例を見ない凝った作りである。

この部分の木枯らしの表現も、
何やらが砕け散るアルペッジョも、
リヒテルは魔法のように、
色彩の魔術を使い尽くしている。

コーダでは、猛然と衝動が起こり、
それを強烈な意志で弾き通し、
どすんとした和音で締めくくる。
すごい歓声が上がっている。

おそらく実演では興奮するであろう、

先に挙げた、「ピアニストが見たピアニスト」では、
リヒテルの頭の中には強烈なイメージがひしめいていて、
彼は音楽の中に、そうしたものを見ないではいられないとある。
この曲の強烈な振幅は、恐らく、
リヒテルの頭に、かなり強烈なイメージを形成したことだろう。

次に、これまでリヒテルが弾いたとは知らなかった、
シューベルトの珍しい作品が併録されている。

1817年、ピアノソナタの年に書かれながら、
同様に初期作品として、あまり演奏に接する機会のない、
この親友の作った主題による変奏曲を、
リヒテルが愛情を込めて弾いてくれているのは、
シューベルト・ファンには、
何よりもの贈り物ではなかろうか。

1817年のピアノ作品は、こんな感じで書かれた。

3月 第4ソナタ
5月 第5ソナタ
6月 第6、第7ソナタ
7月 第8ソナタ
8月 第9ソナタD575、変奏曲D576。

つまり、この変奏曲は、
手近な材料を利用したものではあるが、
大規模なソナタを書くための習作などではなく、
ソナタ群を書き終わるか終わらないかの時点で、
ピアノ書法の集大成のように書かれたことが分かる。

改めて聴くと、非常にしっかりした作品で、
リヒテルのこのCD、各変奏ごとに、
トラックが入っていることも嬉しい。

(トラック多用でありがたい、
DENONレーベルの、
ダルベルトの演奏でもトラックはなく、
インデックスのみだ。)

「イ短調はシューベルトの好みの調性と見え、
D784は、この調性の3つのソナタの
2番目のものであったが、
1817年の『ヒュッテンブレンナー変奏曲』も、
この調性で書かれている。
アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、
シューベルトの最も親しい友人の一人で、
『未完成交響曲』の自筆譜を保管していた。
この曲の主題は、ヒュッテンブレンナーが、
1816年に作曲した最初の弦楽四重奏曲から来ていて、
ベートーヴェンの『第7交響曲』の緩徐楽章の余韻がある。
しかし、シューベルトはしかし、
老巨匠の交響的手法の模倣には陥らず、
いつものようにリヒテルが心を込め、
確信を持って探求しているように、
様々な性格の小品の集積として完成させている。」

解説にも、「心をこめ」とあるのでびっくりした。
各曲の微妙な色調を丁寧に描き分け、
しかも、一本、筋を通して、
終曲に向かって音楽が、
よどみなく流れていくのはさすがである。

先のダルベルトの演奏では、
さらさらと流れていくだけで、
全く各変奏ごとの思い入れが感じられない。

昨夜、日本の若手が、ピアノで表す、
曲のイメージがつかめなくて苦しむ様子を紹介した、
NHK番組があったが、
ダルベルトの演奏からは習作のデッサンしか見えず、
一方、リヒテルの描き出すイメージは、
鮮烈に完成された油彩である。

音楽之友社の「名曲解説ライブラリー」にも、
この曲は取り上げられていて、
()内のようなことが書かれている。
ざっくり、こんな感じの曲である。

Track4:(主題)
英雄的な葬送行進曲のような主題。
Track5:変奏1、(左手スタッカート)
左手の動きが特徴的で、急に陰影が増す。
Track6:変奏2、(華麗な装飾)
スカルラッティのような典雅さが魅力
Track7:変奏3、(16分休止符)
リズムが激しく、劇的に傾斜する。
Track8:変奏4、(装飾的旋律)
ぴちぴちとリスト的。
Track9:変奏5、(イ長調)
静かになって、明るい日向でもの思いに沈む感じ。
Track10:変奏6、(嬰へ短調)
さらに深く思う感じ。切ない感じもする。
Track11:変奏7、(イ短調)
再び激しくリズムを刻み、何かがこみ上げて来る感じ。
Track12:変奏8、(内声分散和音)
対位法的に繊細。真珠のような音色。
Track13:変奏9、(微妙ニュアンス)
シューベルト的な憧憬。夢見るような風情で微笑ましい。
Track14:変奏10、(下降分散和音)
激しく打ち鳴らされ、夢は完全に吹き飛ぶ。
Track15:変奏11、(対位法的)
失意の音楽、力もなくうなだれる感じ。
Track16:変奏12、(跳躍進行)
再び、仕方なく歩き出す感じ。
Track17:変奏13、(拡大されたフィナーレ楽章)
おしまいの音楽で、おちゃらけた感じ。
冗談音楽みたいである。
それを強烈なリズムがかき消そうとするが、
しぶとく生き残るパバゲーノみたいな感じ。
最後は、それを踏みつぶしておしまい。

このように、極めて変化に富む音楽で、
リヒテルの共感豊かな演奏で、音楽は見事に息づいている。
変奏曲というより、一幅の交響絵画になっている。

終曲で、ベートーヴェンやブラームスのように、
フーガでも始まれば、これは傑出した名品になったと思われる。
最後の変奏が、妙に軽いので印象を薄くしているが、
これはこれで、何らかの意図を感じさせる。

何やら、隠されたプログラムがあるのではないか。

この演奏は、ソナタとは異なり、
1969年のリサイタルのもののようだが、
シューベルトをテーマにしたわけでもないのに、
この曲を取り上げている点、さすがである。

また、10年後のものと比べ、
音質にそれほど差異はないのが嬉しい。
むしろ、マンチェスターの聴衆の方が、
ロンドンの聴衆より静かである。

また、同じ日から、さらに2曲が選ばれている。
シューマンの「幻想小曲集」と、
ドビュッシーの「映像第2集」から「葉末を渡る鐘の音」である。

ちなみに、この、マンチェスター自由貿易ホールでのリサイタルでは、
さらにラフマニノフが弾かれたようである。

さて、次のシューマンは、リヒテルの得意の演目である。
かなり期待が持てる。
最初の瞑想的な深い音色からして、すっと、
その世界に引き込まれてしまう。

「ベートーヴェンとシューベルトの精神は、
一緒になってシューマンのミューズとなった。
そして、リヒテルの激しくも静謐な演奏は、
彼をシューマンの理想的な解釈者としている。」

これはよく言われることだが、
このCDでも、これは痛感させられる。

「マンチェスターのリサイタルで、
『幻想小曲集』作品12の、
第4曲、第6曲を省略しているゆえに、
問題視する人もあろうが、
彼は残りの曲の核心に迫っている。
各曲の異なる性格ゆえに見えにくいが、
全体としてこの曲は、
への音を中心にその回りを戯れ、
緻密な調性で結ばれている。
この曲の2曲をリヒテルが弾かない理由は、
今や分からないが、荒々しさを交えつつ、
彼の夢見心地の叙情を欠くことがない。」

「幻想小曲集」は、以下の8曲からなるとされる。
1.夕べに
2.飛翔
3.なぜに
4.気まぐれ
5.夜に
6.寓話
7.夢のもつれ
8.歌の終わり

「気まぐれ」と「寓話」が省略されたようだが、
これは、リヒテルが昔、メロディアのLPで出していた時も、
同じ選曲だった。

これはモノラルの時代のもので、
「フモレスケ」作品20とのカップリングで、
私は、何度も聞き込んだものだ。

私は、先年、この曲の実演に接したが、
リヒテルが省略した曲も弾かれると、
いきなり道に迷った感じになって困ったものである。

つまり、リヒテルはこの曲が好きで、
演奏する時は、この選曲をしていたということであろう。
そういえば、グラモフォンからも、
リヒテルのシューマンはLPが出ていて、
これも同様の選曲になっていた。

第2曲も、交響的な色彩とダイナミックスで聴かせ、
第3曲の秘め事風情も愛くるしい。
次に第5曲「夜に」が来る。

以下、このCDの解説、以下の部分が、
今回、最も印象的であった。

「『夜に』を書き上げたところで、
シューマンは、これが、ヘロとレアンドロスの物語を、
語っていることに気づいた。
レアンドロスは、恋人の点す明かりを元に、
闇の中を泳いで通っていたが、
ある晩、それが吹き消されたために溺死する。
リヒテルの解釈も同じである。」

この黒い渦を巻く作品が、
何故に、「夜に」という題名なのかが、
ようやく分かった。
昔から、こんな解説があったのだろうか。
中間部の静けさは、灯台の明かりが消えて、
途方に暮れた感じであろうか。
後半、確かにめちゃくちゃになって、
無我夢中の感じがこの演奏からもよく出ている。

しかし、シューマンの言ったのは、
他の曲とは無関係であろう。
続いて、第6曲は省略され、第7曲「夢のもつれ」で、
錯綜した感じになって、
リヒテルもへべれけの一歩手前まで行ってるのは、
ギリシャ神話の引用では解明不能。

終曲(第8曲)は、壮大なクライマックスであるが、
最初は晴れやかな祭典のファンファーレが鳴り響き、
明るい情景が繰り広げられるのに、
何故か、シューベルトの変奏曲同様、
尻すぼみ傾向である。

「終曲『歌の終わり』では、シューマンは、
秘密の婚約者、クララにあてて、
『最後に、喜ばしい結婚に向かって全てが身を委ねるが、
やがて、悲しみが戻って来て、婚礼のベルと弔いの鐘が、
同時に鳴り響くのだ』と書いている。」

この解説は、先のリヒテルのLPにも出ていたと思う。
私は、「結婚は人生の墓場」ということかと思っていた。

しかし、今回、これを読むと、
幸福と不幸が切り離せない、
シューマンの悲劇的な人生を暗示しているようで、
もっと切実なもののように思えて来た。

シューベルトも、
「愛を歌おうとすると、愛は苦しみになった」
と書いている。

さて、最後はドビュッシーである。

「このドビュッシーのアンコールは、
CD未発売のもので、リヒテルの他の面を見せる」
とあるが、
LPでなら、出た可能性はあるのだろうか。

BBCの正規録音なので、放送されたであろうから、
海賊盤が出たとしてもおかしくはない。


「すべての作曲家に、彼は個人的なアプローチをするが、
ドビュッシーでは、鍵盤自身が、
魅惑の対象となって、優れた技巧が色彩を探求し、
多彩な糸を織り込んで行くようである。
それに対するリヒテルが幻惑され、まるで、
演奏時に作曲されて行くように見える。」

ここに、このCD解説のタイトルの理由が出てくる。
「魅惑されて魅了する」とは、
リヒテル自身がピアノの音色に幻惑された結果を聴いて、
聴衆が魅了されるということなのだろう。

私には、この数分の演奏から、そこまで聞き取る力はないが、
繊細な演奏で、耳をそばだたせるのは確か。
とても美しい。

とはいえ、今回のCD、
最大の聴きものは、私にとっては、
シューベルトの「ヒュッテンブレンナー変奏曲」であった。

これを書き終わったところで、
ふと、アインシュタインあたりが、
この曲について、どんな事を書いているだろうと思い、
白水社の本を開いてみると、
なんと、私が思った事に似たことが指摘されている。

曰く、
「和声的な奇跡に充ち満ちている」
「特に上げるべきは嬰ヘ短調の変奏である」
「残念ながら終結部には最後の強化が欠けている」。

得られた事:「1817年はソナタの年であるばかりか、ピアノのための変奏曲の年でもあった。」
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by franz310 | 2010-05-29 20:48 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その227

b0083728_14523996.jpg個人的経験:
シューベルトの
ソナタ第9番ロ長調は、
リヒテルが録音するまで、
まったく私の視野外にあったものだ。
だが、どうやら、
この英国の歴史的ライブ録音を集めた、
「BBC LEGENDS」シリーズにある
リヒテルのCD解説を読むと、
これは極東特有の現象ではなかったことが
よく分かる。


このシリーズでは、さすが大英帝国のライブラリーから、
という感じで、夢のようなライブ録音が多数出ているが、
今回の1979年3月31日の、
ロイヤル・フェスティバル・ホールでの録音は、
それほど貴重ではないかもしれない。

何故ならリヒテルは、同じ年の2月、
ユーラシア大陸を横断した島国で、
同種のプログラムのリサイタルを行い、
ビクターがめざとくこれに目をつけ、
当時最新のディジタル録音で収録、
「ライブ・イン・東京」というレコードとして、
早々に発売してしまったからである。

前述のように、私が、この曲を意識したのも、
この貴重なビクターの仕事があったからこそである。
しかし、当然、こうしたレコードは高価ゆえ、
学生であった私がほいほい買えるものではなかった。

このレコードは評判もよく、
レコード芸術では特選盤となったが、
中を見ると、
「厳格さより親密さを志向しているが、
情におぼれない強さを持つ」とか、
「作品としての問題点を感じさせる以前に、
ある真実の表現をもった音楽として直接心に訴える」
など、
変な曲だけど、リヒテルだから許す、
みたいな乗りの評価を読むと、
あまり欲しくはならない。

ということで、
このリヒテルの弾くシューベルトの初期ソナタ、
知っていたが、聴いたことはない。

この頃になると、リヒテルは、
何だか教祖的存在になっていて、
変人ピアニストが、変な曲を集めてきたぞ、
といった印象の方が強かったような気もする。

私も、リヒテルの弾くシューベルトの、
例えば13番D664など、
古くから有名なレコードに、
何となく、重苦しい気分を感じ始めていた。

そして、「ます」の五重奏曲などでは、
私は完全にリヒテルに失望することとなった。
リヒテルは出来不出来が激しく、
スタジオ録音では生気を失ってしまうという話も出てきた。

さて、今回のこのCDだが、
ライブ録音なので、期待が持てる。

デザインはこのシリーズ特有の抽象的なものだが、
セピア調の写真が、
往年の大ピアニストを偲ぶ感じになっている。
しかも、この神経質な巨人が、
比較的温厚な表情を見せているのもうれしい。
1998年の発売のようで、
リヒテルの没後1年というタイミングである。

収録は9番、11番、13番のソナタに加え、
楽興の時から1曲が選ばれている。

解説は、まず、
20世紀を代表するピアニストだった、
このピアニストの生い立ちから、
この解説は始まっている。
Shris de Souzaという人が、やはり1998年に書いたものだ。

「スビャトスラフ・リヒテルは、
今や、20世紀最大のピアニスト
としての地位を確立している。
彼は同時に、
力強いと同時に特異な演奏スタイルにおいて、
最も個性的なピアニストであった。
リヒテルは1915年に生まれ、
作曲家でオルガン奏者であった父親が、
その最初の音楽の手ほどきをしたとはいえ、
彼はピアニストとしては独学であった。
わずか15歳でオデッサオペラの練習ピアニストになり、
3年後に主席指揮者のアシスタントとなった。
1937年、モスクワ音楽院にて、
高名なハインリヒ・ネイガウスの
ピアノ・クラスに入るまでに、
リヒテルは人格的にも成熟しており、
経験を積んだ実践的な音楽家になっていた。
1942年、プロコフィエフの第6ソナタを初演、
さらに後年、第7や、彼に捧げられた第9を初演、
オデッサ以降、彼が指揮をしたのは、
ロストロポーヴィッチが独奏を受け持った、
プロコフィエフの改訂された、
『交響協奏曲』の初演が最後であった。」

私にとっても、リヒテルは、
プロコフィエフのスペシャリストとして
早くからインプットされており、
モノラルではあったが、
これらソナタ7番、9番のLPは、
私が学生時代に安く出ていたので、
ロストロポーヴィチと共演した、
チェロ・ソナタなどと同様、
愛聴盤になっていた。

また、ピアノソナタ第6に関しては、
当初、リヒテルが了承していないLPが、
大手レーベルから出回って大問題になり、
CD時代には、リヒテルが承認したということで、
マイナーレーベルからライブ録音が出た。

プロコフィエフの伝記を読んで、
必ず出てくるのが、
この「交響協奏曲」初演のエピソードだが、
指揮はリヒテル、とあって、
混乱しそうになった。

瞑想的なピアニストと思えるリヒテルが、
かくも長大かつ複雑な作品を、
指揮している姿が想像できなかったのである。

が、オペラの練習ピアニストから、
指揮者のアシスタントをしていたとあるから、
そうした事も起こりえたということだろう。

「彼は1960年まで西側に現れなかったが、
たちまち聴衆に愛されるようになった。
その登場は実に待ち望まれたもので、
その雰囲気はこのBBC放送の録音からも感じることが出来よう。」

50年代の録音から、リヒテルの演奏は、
西側で広く知られているが、
これは機材を東側に運んで行われたものである。

「1979年、ロンドンのこの演奏の録音まで、
リヒテルは神秘的な存在であった。
この時のプロデューサー、
ミッシャ・ドナートによると、
このホールで決してリヒテルは練習しなかったので、
バランスチェックの際には、
他のピアニストが代役に立つ必要があった。
彼はコンサートにただ現れ、
演奏し、BBCのプロデューサーと、
一言も言葉を交わさず会場を去った。
恐らく、これらの作品を、
このような深く集中して演奏するためには、
どうでも良いことだったのだろう。
同様に、ドナートと録音技師もまた、
こうしたクオリティーで、
多くの商業録音が捉え損ねた、
リヒテルの演奏を忠実に捉えたことに対し、
称賛を受けるに値するだろう。」

私は、これを読んで驚愕した。
ミッシャ・ドナートは、
前回、内田光子のシューベルトのCDの、
英文解説を書いていた人である。

あの解説を読む限り、ドナートは、
かなりのシューベルト通であるから、
このリヒテルの録音を担当した時には、
ものすごく興奮していたに相違ない。

「リヒテルは、シュナーベル以降、
シューベルトのソナタをまじめに取り上げた、
最初の偉大なピアニストの一人であった。」

という風に、私が冒頭に書いた、
リヒテルこそが、シューベルトの重要紹介者、
という説が展開されている。

先のプロコフィエフのLPを買った頃、
私は、リヒテルの弾く「変ロ長調D966」のLPも購入し、
こちらは廉価盤ではないので、
かなりの勇気を必要としたが、
聴いて驚いた衝撃は、プロコフィエフの比ではなかった。

プロコフィエフの演奏もすさまじいものだったが、
このシューベルトは、恐ろしいものを見た感じであった。
リヒテルは、非常に音楽に妄想する音楽家であったらしく、
様々な黒々としたもの、
あるいは、喪失感のようなものが暴き出されて、
それが聞き手の前に披露されていくのである。

「19世紀の大部分と20世紀の最初の半分は、
シューベルトは、最後のいくつかの
偉大な作品で到達したものを、
完全に利用する前に亡くなった、
いわゆる未完成の
器楽曲作曲家と見なされていて、
その音楽は若書きにすぎず、
形式的に未熟で、絵のようで、とにかく叙情的
と考えられていた。
しかし、シューベルトのソナタを一見するだけで、
喜ばしい音の繁茂の下に隠れた、
強固な構成、
キーポイントが見事な転調によって、
強調された神秘的な和声の支配力が明らかになる。」

これでは、初期のシューベルトの作品が、
思ったよりいいじゃん、というレベルで終わってしまうが、
おそらく、リヒテルは、
それを単に紹介したかっただけではあるまい。

第4や第7など、完成したソナタを押しのけて、
未完成の「11番ヘ短調」にこだわっているのも、
大変、気になる点である。

「若者が書いた音楽という点では、
そうかもしれないが、
それ自体が悲劇である。
彼は若く、若くして死んだ。
モーツァルトのように。
しかし、そうした感傷に耽っていたら、
我々はその音楽に充満した、
苦さ、孤独、深い絶望を見のがすことになる。
これらが、リヒテルがこれらのソナタを弾く時に、
我々が感じるものであって、
おそらくドイツの伝統の外で訓練されたピアニストゆえに、
こんなにも徹底的にこれらの要素を暴くことがのであろう。
彼のシューベルトのアプローチは、
経験的に得られたもので、
独学のピアニストにふさわしい。
それは自然かつ辛辣で、うわべを飾るものではない。」

ということで、
これらの「苦さ」、「孤独」、「絶望」が、
最後のソナタ「変ロ長調」のみならず、
20歳のシューベルト作品にも、
聞き取れるということであろうか。

「そして、一度、彼が、力強い独創性で、
これらのスコアの真実をさらけ出すと、
西欧における意見が変わった。
リヒテルが、堂々とした形式感で、
音響の巨大建築のように、
いわゆる『レリーク』と呼ばれる
未完成のハ長調ソナタを演奏した録音を、
初めて聴いた時、
私は啓示的なものを感じた。」

先に、私がリヒテルの弾く、
「変ロ長調ソナタ」について書いたが、
同じように、このSouzaさんも、
「ハ長調ソナタ」を引き合いに出した。

それにしても、この例えも、非常に分かりやすくてよい。
原文には、「massive columns」とあり、
つまり、「どっしりとした柱廊」といったニュアンスである。

この「レリーク」は、フィリップスの録音で聴けるが、
メロディアから出ていた「16番」「17番」も、
これまた素晴らしい演奏であった事も、ふと思い出した。

しかし、こうした後期作品ではなく、
初期作品ですら、シューベルトは、
絶望や孤独を歌っているのだろうか。

私もSouzaさんも、引き合いに出す曲が悪かった。
後年、成長するシューベルトと、
20歳のシューベルトが同じだという暗黙の了解となっているが、
本当にそうなのだろうか。

同じように聴けばよいのだろうか。

「シューベルトがロ長調ソナタを作曲した時、
彼はたったの20歳であったが、
たちまち、最も先鋭な挑戦者の姿を現した。」
と、Souzaさんは書いているが、
挑戦者が、いきなり、
「絶望」や「孤独」で挑戦するというのも、
変な感じがするだろう。

さて、以下、各曲の解説が始まる。
一曲目は「第9番ロ長調」である。

基本的にテンポはゆっくりめで、
最初の和音からフォルテッシモまでも、
それほど攻撃的ではなく、
極めて自然な流れになっているのは素晴らしい。

「第1主題の広い跳躍は、明らかに、
演奏行為の最中の喜びから来ている。」
と、解説にもあるが、
「不機嫌なソナタ」と思われたこのソナタが、
妙に楽しいソナタになっているのはどうした事だ。
いったい、どこに、絶望や孤独があるのだろう。

打ち鳴らされる和音が、まるで、痛くない。
リヒテルは、むしろ、
シューベルトの霊との交感を楽しんでいるようである。

「シューベルトは、我々が想像している以上に、
ソナタを自由に弾きこなした。
ベートーヴェンも同様の跳躍を楽しんだが、
それほどまでに見境のない様式ではなく、
シューベルトはさらに展開部の可能性を探究する。
彼は、第2主題のためにト長調、
終了時に予想される、
ロ長調への回帰の前にホ長調へ、
何度も調性記号の変更を行って、
和声のさすらいを図る。」

この解説はさらりと書いているが、
第1楽章における調性の推移は、
後の楽章の調性を予告するというのである。

「続く楽章の調性にも同様のことが起こり、
ホ長調のアンダンテ
(第1楽章で暗示される調性シーケンスからすると、
これは本来、第3楽章におかれていたと思われる)
ト長調のスケルツォと非常に短いトリオ、
第1楽章と同様、独創的な終曲の調性も例外ではない。」

という風に、かなり野心的な設計がなされた作品ということだ。

「第2楽章は、静かに沈思する開始部から、
大きく跳躍する左手のオクターブによる、
シューベルトの多くの緩徐楽章で見られる、
力強い中間部に展開される。
中間部のさざ波のような部分は反復時にも続き、
最初の主題の性格を変容させる。」

この楽章の瞑想的な歌わせ方などは、
いかにもリヒテル的で、たっぷりと深い響きで、
そこから、心が高鳴るところも、
刺激的ではなくむしろ自然で、
弱音を織り交ぜながら、
密やかに心を高ぶらせていく点が味わい深い。

スケルツォの解説は抜けているが、
リヒテルの演奏は、単に丁寧にゆっくりなのか、
惰性でこうなったのか、
そこに何かを見ているのか、
ちょっと分かりにくい。
トリオでは生気を取り戻すが、
いくぶん、攻めあぐねているようにも見える。

「終曲はロンド形式の変形で、
展開部に軽快な第3主題を有する。」

終曲は、これまた、陽気なもので、
じゃららんじゃららんでかき乱す部分以外は、
シューベルト初期の交響曲の、
青春の香りを放つ推進力を想起させて美しい。

後期作品に、Souza氏が見たような「孤独感」などが、
この演奏にあるかと言えば、そんな事はなさそうである。
むしろ、喜ばしい感情がみなぎっていて、
聞きやすさでは随一のロ長調ソナタになっている。

したがって、変ロ長調D960や、
レリークD840の衝撃を期待してはならない。

次に収録されているのは、
第11番とされるヘ短調D625である。
この作品になると、比較的録音が多くなるが、
あくまで未完成作品。

多くのピアニストは、シューベルト以外が、
補筆したものを弾くが、
リヒテルは未完成作品をそのまま提示して見せた。

「ロ長調ソナタの後、一年後、
シューベルトが彼女らのために、
ピアノ連弾の成功作を書いたほど、
すぐれたピアニストだった
エステルハーツィ家の姉妹の、
音楽教師をしていた間に、
ヘ短調ソナタが書かれた。
スタイルの点で、それはすでに前の作品から、
別世界を拓き、シューベルトの心と指は、
当然、新しいピアノの音響をめまぐるしく開拓し、
ショパンを予測させる。
奇妙なことに、彼は第1楽章を、
未完成のまま残した。
リヒテルは、そのまま弾いていて、
突然の中断を予測させることなく、
あえて弾き終え、ここで、聴衆を困惑させる。」

東京ライブも同様で、
楽章途中で未完成のままの作品を、
そのままにして演奏したレコードなど、
当時、珍しかったのではないだろうか。

こうした事も、私がこのLPを買うのを妨げたと思う。
しかし、未完成交響曲の第3楽章のような、
ちょっとだけ書かれて未完成ではなく、
ほとんど完成間近のものを放置したという感じで、
あまり、そこは強調するべきでもない。

ショパンを想起させるかはともかく、
バラード調のニヒルな作品で、
冒頭主題から、強烈な魅力を発散しており、
リヒテルのピアノは、ここから、
濃厚な幻想を羽ばたかせて美しい。

ロ長調作品は、時折、ぎくしゃくした響きが、
苦みを残していたが、
この作品もまた、アクが強い楽想が頻出し、
不連続なパッセージが置き去りにされていたりで、
その後継者であることは間違いない。

しかし、より自然な流れ、楽想の魅力で聴かせ、
後のイ長調D664などより、後期ソナタを予告するものを感じる。

執拗なリズムの反復や、まるで独白のような、きらめく装飾音など、
遠くヴィーンを離れ、エステルハーツィでの寂しい体験が、
何か彼の心に影響したのであろうか。
みゃくみゃくと息づいて流れる楽想は、
最後のソナタに直結しそうである。

特に、未完成部分に続く最後の部分など、
シューベルトの迷いが生々しく感じられて面白い。
作品はほとんど完成されているが、もう一息、
最後の羽ばたきをすると、
冗長になりすぎはしないか、
完成度が低くなってしまわないか、
そのあたりの心配があったような感じ。

その迷いを打破するような、
第2楽章スケルツォの入り方が、これまた面白い。
何となく、逡巡している後ろ姿を見て、
背中を後押しするような風情である。

解説はややこしいことに、
先に緩徐楽章の解説を書いているが、
実際は、奇想曲風のスケルツォが演奏されている。

「変ニ長調の緩徐楽章は、
『アダージョとロンド』作品145(D505)として、
独立して出版されていたもので、
恐らくシューベルトの兄、
フェルディナントによる手書きのカタログは、
これがこのソナタの第2楽章であることを示している。」
下記のように、ベートーヴェンの「第九」型の楽章配置。

「リヒテルは通常、第3楽章とされる、
スケルツォの後に弾いている。
スケルツォの調性はホ長調で、
両調性の共通の主音3度である、
変ト=変イになるまで、
ヘ短調からずっと離れた感じがする。」

この緩徐楽章は、これまた美しいが、
聴衆がまだ咳をしているのに、
リヒテルはおかまいなしに演奏に入って、
このソナタの楽想の流れの連続性を重んじている。

このダイナミックなソナタの中で、
異彩を放つ、静謐さで、星もきらめく
ロマンティックな夜の音楽となっている。
シューベルトのピアノソナタの中で、
ここまで静謐さに徹した緩徐楽章も珍しい。

「終曲は、
ベートーヴェンを崇拝しながら、
まったく異なる個性であることを、
完全に意識していた若い作曲家が、
おそらく意識的に、
やはりヘ短調である
『熱情ソナタ』の影を引きずっていて、
おそらく、それが、この楽章をやはり、
未完成に終わらせたのかもしれない。」

ということで、終楽章もきず物という事で、
満身創痍のソナタであるが、
確かにベートーヴェン風に推進力のある終楽章である。
リヒテルは、魔術のように音楽を巨大化させ、
ものすごいモニュメントを打ち立てる。

シューベルトは、書こうと思えば、
こうしたものも書けたのだが、
シューベルトらしいのは、こうした楽章でも、
中間部では、時間が静止して、
大きく呼吸するような歌謡性を取り入れている点。

しかし、この楽想とて、非常に英雄的になり、
さらに、ファンファーレのような楽想も出て勇壮無比。
これまた、第1楽章と同様、そのまま終わればいいのに、
という状態で、ぷつりと立ち消えになる。

そんな事情があっても、未完成楽章は、
いずれも6分以上の演奏時間があって、
後は、想像にまかせる、といった風情もある。
小説の中には、こうした作品も多いので、
これはこれで、私は不満は感じなかった。

ロ長調ソナタは平易になり、ヘ短調ソナタは劇的になって、
後期ソナタの演奏で、リヒテルに期待出来るような、
エキセントリックな世界が提示されているわけではない。

東京ライブは2曲がLP両面に収められていたが、
ここでは、さらに13番のソナタが収録されている。

「シューベルトの次のソナタは、
イ長調D644で、ヘ短調の翌年に書かれた。
一見、天才の無尽蔵の源泉によって、
より個性的で技巧的に優美な前の作品を、
はるかに引き離している。
それは、彼の、
『最も簡潔なソナタにして、最も完全なもの』
の一つとされてきた。
その歌謡的なオープニングから、
典型的なシューベルトで、
穏やかで簡単すぎないアルペッジョの伴奏から、
よりロマンティックな
ブラームスのピアノ書法を思い描く。
この作品が、事実、
何年も後に思い出された、
シューベルトの友人、
ヨゼフィーネ・フォン・コラーという、
若いピアニストのために書かれたのだとしたら、
彼女はかなりの能力だったはずである。
そして、シューベルトは、
第1楽章展開部の、劇的なオクターブの頻出によって、
彼女を賛美する。
リヒテルのオクターブの扱いは興味深い。
彼は、それらを怒鳴り散らさず、
すべての楽章のコンセプトとして利用している。」

ずっと一般論でシューベルトを述べていたSouzaさんは、
ここに来て、遂に、リヒテルの演奏にまじめに向き合うが、
確かに、この聞き慣れた明るい曲になると、
リヒテルの重厚な音楽作りが、妙に不気味である。
すべての音が主張しあっており、
あちこちでぶつぶつと声がして怖い。

実に怖い。
この楽章12分もあったっけ。

「緩徐楽章のアンダンテは、
音階の第六音への依存が、
素朴な性格を与えている。
しかし、インターバルをもった
音階の上昇下降が、
遠く離れた山脈をほのめかし、
悲嘆に打ち勝つための
一抹の悲劇的崇高さを加える。」

この楽章も驚倒もので、
静かに息をひそめた表情で押し通して、
客席の咳の方がうるさい位である。
密やかなメロディが立ち上がる時の神秘。

これまた、恐ろしい演奏である。
ピアニストは、完全に向こう側の人になってしまっている。
この緊張の後、聴衆は堪えきらずに咳をしているが、
続けざまにリヒテルは、次の楽章で音楽を解放する。
ものすごい拍手である。

「この後にメヌエットを続けるのは、
ふさわしくないと考えたシューベルトは、
3楽章のソナタは多く書かなかったが、
急速な指遣いのアレグロで終えた。
この設計は、展開部の代わりに、
陽気な新しい主題の登場で興味深い。
最初の主題が出るが、正しいイ長調ではなく、
ニ長調になっている。
ここまで、シューベルトは、
ソナタの調性をあいまいにして、
最後にそれを強調する工夫をした。
第1主題から最後に第2主題が現れる際、
ニのサブドミナントで再現し、
あたかも、同じ調性の
第1主題の繰り返しのようにして、
単純な再現よりも強調している。」

よく分からないが、音楽之友社の、
「名曲解説ライブラリー」では、
「再現部は、まず下属調のニ長調で
第1主題が奏されて始まる。
・・経過句を経て、・・第2主題がイ長調で再現される」
等々が書かれている。

「アンコールとして、
リヒテルはシューベルトの『楽興の時』の
第1曲を演奏している。
これは彼の成熟期の作品で、
新しいジャンルのもので、
後のピアニストコンポーザー、
シューマン、ショパン、ブラームスの、
沢山の自立した小品が追随した。
長いソナタの一部よりも、
形式的に自由で、
性格作りやムード、雰囲気に、
作曲家の天才が発揮されている。」

この曲の録音は予定されていなかったのだろうか、
あるいは、リヒテルがいきなり弾き始めたのか、
妙にノイズが多い録音となっている。
これも大変ゆっくりと、
幻視者は作曲家との語らいを楽しんでいる。

得られた事:「リヒテルのシューベルトは世界現象であった。(今回も、13番のソナタの巨大な感情の振幅に圧倒される。)」
「ただし、リヒテルが弾く初期ソナタは、特に巨大な問題を提示するものではなく、むしろ、シューベルトの魂との親密な交感を感じさせるものである。」
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by franz310 | 2010-05-23 14:52 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その226

b0083728_2227972.jpg個人的経験:
20歳のシューベルトが書いた、
1817年のソナタ集を聴いているが、
完成された曲、未完成の曲、
いろいろ合わせて6曲を数える。
今回、ようやく、
頭の整理が出来てきたが、
これら6曲、様々な評価があるようだ。
例えば、前田昭雄氏などは、
その代表作として、D575の
ロ長調(第9番)を挙げている。


新潮文庫の中で、
「このソナタは交響曲的振幅をもった主題法で、
独自の力強い世界をきり拓いていく。」
と書き、
「ここには二十歳に達したシューベルトの独自の世界があり、
ベートーヴェンからロマン派にかけての
ピアノ・ソナタの発展のうちで
一つの立派な発言となっている」と続けている。

私は、この不機嫌なロ長調ソナタが、
本当に、そんなに良い曲か、
あまり自信を持って断言できないが、
リヒテルやこの内田光子なども録音しているので、
シューベルト初期のソナタの代表作と呼んで良いのであろう。

4楽章構成のがっしりとした曲である。
その昔、「シューベルトのソナタ」など、
13番イ長調以降しか知られてなかった頃、
13番、14番が3楽章形式の曲だったので、
当然、若い頃の作品は3楽章で小規模だと思っていた。

19歳から20歳頃の作品である、
ヴァイオリンのソナチネなども、
小柄の作品なので、
初期は習作だから、
簡単なところから行ったのだろう、
などと単純化して考えていた。

しかし、内田光子の盤でも、
この初期の作品、第9ソナタ、
第1楽章8分、第2楽章6分、
第3楽章6分半、第4楽章5分半と、
計25分を越える作品ではないか。

このCD、内田光子が、モーツァルトに続いて、
シューベルトを集中的に録音した時のもので、
1998年のもの。
エリック・スミスという名プロデューサーのものである。

彼女は、中期以降のソナタはすべて収録し、
即興曲や楽興の時を含め、
8枚かの集大成としたが、
初期ソナタは、完成作とされる、
第4、第7、第9を残らず録音しているので、
この第9が一番好きかどうかは分からない。

この一連のシューベルト集は、
すべて、ピアニストの頭部の
拡大写真が表紙写真に使われていたが、
この9番、16番を収めた盤では、
非常にストレートな正面肖像写真となっている。
表紙で選ぶなら、このCDであろう。

Suzie E.Maederという人の写真だというが、
この何の迷いもなく、
こちらを見据えたピアニストの表情が、
巫女のような印象を放って効果的である。
最初はどぎつい表現だと思ったが、
よく見て飽きない写真である。

かつてのフィリップスに君臨した、
欧州で活躍する日本人ということか、
内田光子と小澤征爾の違いが分からないという、
名言を聞いたことがあるが、
そうした人は、このCDを手にすればよい。

この写真にあるように、ここでのシューベルト演奏も、
自然体のものでありながら、彫琢を凝らした名演である。

あと、中のブックレットを見ると、
使用楽器はスタインウェイというばかりか、
1962年製と特記してあるのはどういうことか。
なにがしかのこだわりの名機なのであろう。

内田の肩の力を抜いた、
それでいて細部にまで血の通った弾きぶりに応え、
ピアノもまた鈴を振るようなピュアな音色で、
あるいは、多彩な色彩で全曲を彩っている。

しなやかな語りかけと、勇壮な士気を両立させたこの解釈は、
これまた不機嫌な感じではピカ1の「第16番イ短調」を、
素晴らしい親密感を持って歌わせている。
ついつい、身を乗り出し、
耳をそばだててしまうような慈しみが感じられる。

そのせいか、第1楽章の最後の絶叫のようなフレーズも、
無責任にヒステリックになったりせず、
何か、それを、同時に、
責任を持って受け止めるような表現になっている。

Misha Donatという人が解説を書いているが、
収録曲順とは逆に、初期のソナタから書かれている。

「1817年は、シューベルトがピアノソナタの芸術を、
マスターする努力を計画的に行った年と見ることが出来る。
当時、彼はちょうど20歳で、
すでに最初の6曲の交響曲、
約1ダースの弦楽四重奏曲を書いていた。
1817年に最初に作曲したピアノソナタは、
イ短調D537で、このジャンルの作品では、
最も自信に溢れ、その調もまた、
後年、彼が、さらに2曲を生み出すべく、
立ち返るものであった。
さらに、彼が最後から二番目のソナタ
D959の終楽章で借用するのが、
中間楽章のテーマであるほどに、
シューベルトはこの曲に入れあげていた。
1817年の続編ソナタは、
さらに実験的な枠組みを心に抱き、
嬰ヘ短調、変ニ長調、ロ長調といった
通常使われない調性の探索を行い、
いくつかの作品は断片として残されることとなった。」

何だか、第4番イ短調D537の宣伝のような解説であるが、
次のように、ようやく、ロ長調ソナタの解説が始まる。
しかし、これまた、不思議極まるお話が聞ける。

「この極めて特殊な調性にも関わらず、
シューベルトはソナタロ長調D575を完成させた。
全四楽章のスケッチは残されているにも関わらず、
ソナタの自筆譜は紛失している。
シューベルトの若い頃のピアノソナタは、
生前に1曲も出版されていないにも関わらず、
作曲家の幼なじみのアルベルト・シュタッドラーが、
若いピアニスト、ヨゼフィーネ・フォン・コラーのために、
写筆譜を残しておいてくれたおかげで、
この曲は幸いにも生き残ったのである。」

五重奏曲「ます」でも活躍するシュタッドラーが、
ここでもまた、作品の伝承に一役買っていたということだ。
しかも、第13番のソナタの成立にも関与しているとされる、
コラー嬢が、まさか、こんな形で登場するとは思わなかった。

「シューベルトは、1819年の夏、
後に、さらに大きなイ短調ソナタD845を演奏する、
上部オーストリアのシュタイアーで、
彼女と家族の知己を得た。
シューベルトはここから、
兄のフェルディナントに手紙を書いている。
『昨日、非常に激しい嵐がシュタイアーを襲い、
女の子が一人亡くなり、
二人の男の腕が不虞になりました。
私が滞在している家には、
8人の女の子がいて、ほぼ全員が美人です。
僕が沢山の仕事を抱えていることが分かるだろう。
フォーグルと僕が食べさせてもらっている、
コラーさんの娘はとてもきれいで、
ピアノも上手で、僕の歌をいくつか歌う練習をしている。』」

この手紙も有名なものだが、
泊まっている家と、
食事をさせてもらっている家について、
それぞれ、娘の話しかしておらず、
その間に、「忙しい」と書いているが、
シューベルトは、どんなお相手をして
忙しかったのだろうか。

しかし、シュタッドラーは、何時、
シューベルトのソナタを写譜したのだろうか。

シューベルトは、この時点で、
第4と第7の2曲の完成作を持っていたはずだが、
他の2曲ではなく、このロ長調を選んだのは誰か。

あるいは、1819年にシューベルト自身が、
自信作として、シュタイアーに持って行ったのだろうか。

「シューベルトが、シュタッドラーの詩によって、
『名の日の歌』D695を書いたのは、
1820年、ヨゼフィーネの名の日用だった。
よく知られたイ長調ソナタD664もまた、
彼女のために書いたのかもしれない。」

これは、よく引き合いに出される話だが、
本当の事を、これが証拠だ、と書いたものを、
私は読んだ事がないような気がする。

「ある機会に、シューベルトと友人達は、
グループで『魔王』を演奏した。
シュタッドラーはピアノを受け持ち、
シューベルトは父親、ヨゼフィーネは子供、
フォーグルは魔王を受け持った。」

これもまた、大変、有名なエピソードであろう。
その素晴らしい夕べに立ち会いたい気持ちが高まる。

「ヨゼフィーネが、シューベルトのロ長調ソナタの
第1楽章の中で起こる様々な出来事を見て、
何と思ったかを知るのは難しい。
この作品は、最初の音符の、
我の強い軍隊調で支配されている。
第1主題の次第に広がるメロディのインターバル、
単音と幅広い和音の絶え間なき交錯が、
展開部では、めざましい様式に洗練される。
和声的にも、シューベルトは最も冒険的で、
たった10小節で現れる最初のフォルテッシモは、
非常に離れたハ長調の和音において、
何の警告もなく現れる。
それだけでは足りないかのように、
少なくとも三つもある続く主題は、
すべて異なる調性で現れる。」

私は、こんな冒険的な作品を、シューベルトが、
コラー嬢のために持って歩いていたとは考えられない。

ひょっとしたら、最も野心的な作品として、
シュタイアーへの旅行の際に、
鞄に忍ばせていた、ということかもしれない。

シュタイアーの旅は、幸福な事ばかりに見えたが、
最近、少し、妙な事が気になっている。

というのは、今回の作品もそうだが、
「ます」の五重奏曲も、イ長調のソナタD664も、
みな、シュタイアーがらみのものは、
自筆譜がなくなっているのである。

誰かが私物化したか、あるいは、
シューベルトからもらったものを、
ぞんざいに扱ったということだろうか。

「軍隊調」と解説にあったが、
内田の演奏も、若さの気負いを表現してか、
ものものしく大仰な表現で始まる。

テンポをゆったりととって、
刻一刻と陰影を変えて変化する、
気まぐれとも思える楽想を、
まるで、風景の移り変わりのように、
風のそよぎ、雲の流れの感触へと変えて行くのは素晴らしい。

「何の警告もなく」と解説にもあったが、
しかし、冒頭の「だだだーん」が、
唐突に夢を破るのは何故なのだろう。

現代でいえば、
楽しい高原列車の旅が、
突然の脱線事故に遭う感じ。
あるいは、天を突く雄峰が、
突然、前方の眺望に現れる様であろうか。

が、そんな楽しい景色の中に、
シューベルトが遊んだような時期のものではない。

「緩徐楽章は、
めまぐるしい左手の力強いオクターブを伴う、
中間部、短調部分のエピソードの、
暴力的な部分が特筆されるべきである。
シューベルトらしい感情表現だが、
この中間部の音型は、
この楽章の最初の主題が戻ってくるまで、
底流している。」

解説は「暴力的」な点のみを特記しているが、
むしろ、この第2楽章は、
夕暮れの情景のように美しく、
しみじみと想いを馳せる様に、
類似の感情を思い出す。

「シューベルトのスケルツォは、
ベートーヴェンのものよりも、
一般的にもっと優しいもので、
このソナタの第3楽章も例外ではない。
この魅惑的な筆遣いの中、
その前半の終結のフレーズは、
スプリングボードとなって、
後半部を新しい調に投げ入れる。
トリオは優しく流れるレントラーである。」

解説の前半は、特に書く必要もないような内容。
この妖精のようにつかみ所のないスケルツォもまた、
内田の演奏では、余裕のあるテンポ設定で、
あえかな色彩感や無重力感をよく出している。

トリオはさらにテンポを落とし、
失速寸前になりながら、
この絵画的な楽章に奥行きや、
広がり感を与えている。

「フィナーレについて言えば、
メインテーマを予告する、
オクターブの小さなフレーズが統一感を出し、
同様のアイデアが提示部の終結部をもたらして、
その反転形が、
展開部の奇妙にも子供じみた開始部に続く。
このソナタは、シューベルトの中で、
最も素っ気ないと言えるようなコーダ、
断固たるロ長調の和音で終わる。」

まるで、あちこちドリルで工事されたような、
遊園地のような楽章である。

全体的に、工事中の立て看だらけのような、
このソナタを、果たして、何故に、
シュタイアーの友人が写していたのだろうか。

内田の演奏はさらに慎重になって、
どこにも弾き飛ばしがないようにと、
心を砕いた表現。

丁寧に音色や強弱を対比させて、
複雑な曲調を描き分けているが、
これまた、失速寸前まで行って、
展開部に入る。

ばきゃんと看板にぶつかって終わるような終結。
変なソナタである。

さて、ここからは、名作である16番のソナタの解説が始まる。
こちらのソナタは、昔から聴き知った名作で、
内田自身も、より気構えのない表情を振りまいて魅惑的。

「1825年5月20日、シューベルトは、
再度、シュタイアーを訪れるべくヴィーンを発った。
最近完成させたイ短調ソナタD845を携え、
このソナタの緩徐楽章を自身で演奏した時、
彼は誇らしげに両親に報告している。
『何人かの人は、私の手の下で鍵盤が、
歌い出すのを聴いたと言いました。
それが本当なら嬉しい事です。
何故なら当代随一のピアニストさえ好む、
呪わしいぶつ切りは、耳も心も楽しませないし、
耐えられないからです。』」

内田の解釈もまた、呪わしいぶつ切りとは無縁で、
息づくような強弱やテンポの変化が絶妙で、
その意味で、とてもよく歌っているピアノと言えよう。

「シューベルトはヴィーンに、
このソナタの写しを置いて来たのであろう。
何故なら、シュタイアー滞在中、
出版社の代表アントン・ペンナウアーから、
作品の試し刷りの準備が出来、
オーストリアのルドルフ大公に献呈する、
公的な許可を待っている状態であるという、
手紙を受け取っているからである。
ソナタがベートーヴェンの熱心なパトロンに贈られたのは、
シューベルトによるものか、
出版社によるものか分からないが、
シューベルトはその創作力が最高のレベルと、
比べられるにふさわしいという自信を
感じていたに違いない。」

ここで、このエピソードを出してくれたのも、
この解説を読んで良かったと思える点である。
私は、これまで、勝手に、シューベルトか出版社が、
ルドルフ大公の名前を使っていたのかと思っていたのだが、
これを読むと、大公も、
それなりに吟味して受け取ったように思えるではないか。

ベートーヴェンのあの崇高な作品群を受け取った人である。
それなりの鑑識眼は持っていたはずだ。
最終的に献辞付きで出版されたのだから、
それなりの作品として、当時から認められていたのであろう。

「この作品は彼のピアノソナタの最初の出版作品となり、
それにふさわしく、『第1グランドソナタ』として登場した。
この作品に取りかかる2、3週間前に、
シューベルトは同様に野心的な、
ハ短調ソナタ(いわゆる『レリーク』D840)を試みたが、
彼は明らかに後半二つの楽章に不満を持ち、
共に未完成に終わらせている。」

「レリーク」を中断させ、「グランドソナタ」を完成に導いたのは、
スケルツォ以下のできばえの差異によるのだろうか。
このあたりの研究はあるのだろうか。

「イ短調ソナタの最初の数小節は、
放棄されたハ長調ソナタの冒頭と同様の衝動が見られ、
共に、単純なオクターブのフレーズに、
優しい和音の繰り返しの中、
なめらかな、ほとんど聖歌とも言える応答がある。」

ハ長調ソナタは、前半2楽章は、あるいは、
イ短調より壮大なスケールを持っているとも見えるが、
確かに、よく似た楽想である。
聖歌かどうか分からないが。

「イ短調ソナタの寒々としたムードは、
ハ長調の舞曲風の開始部と共に、
次第に明るさを増すが、
シューベルトはすぐに短調に戻し、
冒頭のテーマはさらに切実な表現となる。」

私は、ポリーニの盤が出た時から、
この曲とは付き合っているが、
この短調と長調の繰り返しに、
当惑しまくったのを思い出した。
いったい、これによって、作曲家は、
どこに行きたいのだろうか。

酒に酔って、ああだこうだと、
とりとめのない戯言を言っているようである。

しかし、展開部に至り、
ベルリオーズの「幻想交響曲」ではないが、
薬におぼれ、幻想の中に沈み込んで行くような感じとなる。
それからが一種異様な鬼気迫る説得力で、
推進していくのが不思議。

「こうした出来事の驚くべき行程は、
再現部の形にドラスティックに帰結する。
主調のメインテーマを増幅させての再現によって、
繰り返しが多いという危険を避け、
シューベルトはメインテーマを無視して、
エネルギーの連続した爆発の中で、
展開部と再現部を融合させて結合させている。
これは素晴らしいインスピレーションで、
この作曲家のこれまで書いたものの中で、
疑いなく、最高の第1楽章の中でも、
最もめざましい瞬間の一つであろう。」

内田のピアノは、この曲が愛おしくてたまらない、
といった風情が、特にこの楽章では微笑ましい。

「緩徐楽章は、シューベルトによる
最も独創的な変奏曲である。
特に、各テーマ後半、最後のカデンツが、
続く変奏曲に和声的に変わっていくという
アプローチ手法は絶妙である。
第2変奏は、開始部では短調だが、
これは続くハ短調の変奏の前兆となっている。
代わってハ短調の変奏は、
残る楽章の印象に影を落とし、
特に最後の変奏では、
デリケートな、ホルン信号が、
長調と短調の間を揺れ動く。
最後にホルンは遠くに去り、
この楽章は完全な沈黙の中に終わる。」

私は、この緩徐楽章が、
妙に地味なものと思っていたので、
シューベルトが両親に送った手紙が、
本当にこの作品に関してのものだったのか、
最初は疑いを持ってさえいた。

わざわざ、上部オーストリアに出かけてまで、
披露するような華麗さがあるわけでもなく、
終止静かに語られるような風情。

しかし、「最も独創的な変奏曲」と言われると、
聴き方を変えなければなるまい。

内田の演奏は、ここではやや勢いがあり、
軽やかな足取りに心浮き立ち、
シューベルトが聴衆を唸らせたであろう、
表情や陰影の隈取りも美しい。

「ダイナミックなスケルツォは、
ほとんど5小節のフレーズで埋め尽くされ、
終止ソフトペダルを使った、
優しいレントラー風のトリオと、
不規則ながら釣り合っている。」

このスケルツォこそ、跳躍しながらの、
ホルン信号を思い出させるものであるが、
内田は野趣溢れるこの主題を、
力強く解放すると共に、
アラベスクの細かい表情を付けて、
憎い表現を聴かせる。

レントラー風のトリオも、
たっぷりとしたテンポで歌っており、
物憂げですらあり、
内省的な表情が印象的である。

ここでの角笛風の音型は、
次第に木霊となって、
寂しげな余韻は、
まるで、ミニヨンの歌のようにも聞こえて来た。
「どこへ、どこへ」と、虚空に向かって呟くような感じになる。

「終楽章についていえば、
既に存在していた、
この調の、唯一の偉大なソナタである、
モーツァルトの素晴らしいイ短調ソナタK310の
後を歩んでいる。
モーツァルトの例と同様、シューベルトの終楽章は、
常に鳴り響く8分音符が広がる地味な主題を持ち、
やはり同様に、長調による中間部のエピソードが一時、
輝かしく鋭い光を放つ。
最後に、シューベルトは、
音楽を竜巻のように遠くに押しやるように、
まっしぐらの終結部に向かって加速し、
二つの強勢和音が劇的な完全終止に導く。」

内田のピアノは、疾風の吹きすさぶ、
このデーモニッシュな楽章に、
ぴちぴちとした生気と、
親密な独白の真実味を与えながら、
最後はアクセントも効果的に、
興奮の中に弾き終えている。

しかし、どのような評価条件で、
ルドルフ大公は、このソナタを受け入れたのだろうか。
彼はそれなりのピアニストであろうから、
「のだめ」同様、この曲を弾いてみることも出来たはずである。

さて、先に、シューベルトは、
ゲーテの詩による「魔王」を、
シュタイアーでの夏の休暇中、
そこに集まっていたみんなで歌って楽しんだ
という話が紹介されていたが、
このような形で「魔王」を歌ったCDとしては、
「ゲーテの詩によるシューベルトの夕べ」と
題された、ハイペリオンのCDが上げられる。

もちろん、「魔王」に出てくる登場人物ごとに、
違う歌手が歌った試みは他にもあるが、
これについては、歌曲おたくのピアニスト、
グレアム・ジョンソンによって、
このCDではさすがに、
最初から断り書き付きで解説されている。

ハイペリオンのシューベルトエディション24の、
Track11である。

「レコード収集家は、『Le roi des aulnes』(ハンノキの王)
として、フランス語訳で、
テノールのジョージ・ティルがナレーターと魔王を歌い、
バスのHB・エッチェベリーが父親を、
そして少年役をクロード・パスカルが受け持った、
フランスのキャストで歌われた
SP盤(コロンビアのLFX336)、
の演奏を思い出すだろう。
こうした配役は、非常に疑問が多いように思うだろうが、
これは実際、作曲家の同意があったのみならず、
作曲家自身が参加した機会で起こったのである。
シューベルトの学校友達で、
『ミンナ』、『聖命祝日の歌』、
それに恐らく、『川』といった詩の作者であった、
アルベルト・シュタッドラーは、
『シューベルトの思い出』を、
1858年に書いている。
彼の最も生き生きとした記憶は、
1819年のシュタイアーの夏で、
シューベルトは歌手のフォーグルと共に、
休暇中であった。
彼らは商人ヨーゼフ・フォン・コラーとその家族の家で、
大変な歓待されて過ごした。
『非常に才能あるこの家の娘、ヨゼフィーヌと、
シューベルト、フォーグルと私は、
代わる代わる、
シューベルトの歌曲を歌ったり、
彼のピアノ曲を演奏したり、
フォーグルの絶頂期のオペラからの
沢山の歌を歌ったりして楽しんだ。
私は今でも覚えているが、
『魔王』を、シューベルトが父親役を歌い、
フォーグルが魔王役を、ヨゼフィーネが子供の役を歌い、
私が伴奏して三重唱のようにして歌う試みをした時、
奇妙な効果が現れた。
音楽の後、夕食の席に着いたが、
さらにそれから1時間か2時間、
一緒にいて楽しんだ。』
今回の演奏では、シューベルトの夕べのスピリットで、
ジョン・マーク・エインシュレーがナレーターと魔王を、
マイケル・ジョージが父親、
クリスティアーネ・シェーファーが子供の役を歌った。
この歌の人気は、これより大胆なアレンジを生んでいる。
弟の死から18ヶ月もしないうちに、
フェルディナンド・シューベルトは、
独唱者と合唱のために管弦楽版を作曲、
フリートレントラーは、声楽なしで、
独唱部分をフルート(ナレーター)、
C管クラリネット(子供)、変ロのホルン(魔王)、
バス・トロンボーン(父親)に置き換えた、
管弦楽版を作っている。」

ものすごい編曲の紹介で終わっているが、
こうしたものの楽譜は残っているのであろうか。

演奏は、非常に贅沢なメンバーであることも興味深いが、
シェーファーの声が透明で美しく、
とても死にそうな子供には思えない点には、
いくぶん、不自然さがある。
たぶん、しかし、この演奏はそうした些細な事を、
無粋にも、分かった風に評論するためのものではないだろう。

得られた事:「ロ長調ソナタは、『ます』の五重奏曲と同様、シューベルトの友人、シュタッドラーの手で写しが作られた作品であった。」
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by franz310 | 2010-05-15 22:27 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その225

b0083728_21444648.jpg個人的経験:
シューベルトの、
1817年のソナタ、
完成作もあるが、
ばらばらソナタ第3作は、
「第8番嬰ヘ短調」である。
ヴィーンの名ピアニスト、
バドゥラ=スコダの肝いりで、
完成された事で有名なようで、
チャールズ・オズボーンの
著作でも、これは大書されている。


音楽の友社から出ている、
「シューベルトとウィーン」
(岡美知子氏の訳)では、
このようになっている。

「これら1817年の一連のソナタの中で
一番おもしろいのは、
おそらく『第八番嬰ヘ短調』だろう。
ドイッチュ番号ではこの作品の四つの楽章は、
異なる三つの順で演奏された(D.571/604/570)。
それをつなぎ合わせて作品をひとつにまとめることに
初めて成功したのは、バドゥラ=スコダである。」

異なる三つの順で、「分類された」とか、
「作曲された」ではないかと推測するが、
いずれにせよ、
比較的新しい1985年の評伝では、
そのように書かれている。

今回取り上げる、仏アルカナ・レーベルに、
スコダがこの曲を録音したのが、1993年。
オズボーンの激賞を経て、自信満々で臨んだだろうか。

95年に日本語訳が出た時も、
この日本びいきのピアニストは、
きっと嬉しかったに違いない。

このCDは、デザインも格調高い色調で、
いかにも、こじつけかもしれないが、
フランスの文化の深みを感じさせる。

ただし、フランスのプライドだろうか、
表紙にはフランス語以外、何語も書かれていない。
オーストリアの作曲家の作品を、
本場の名手が演奏したものだ、
などとは、まったく主張する気はないのである。

ただし、シューベルトの肖像画は、
ずっしりとした額縁に納められ、
一段と高貴な雰囲気に仕上がっている。

シューベルトに対する敬意は、
びしびしと伝わって来て、
非常に好ましい。

今回のCDで最も恐ろしいのは、
背面に書かれたソナタのナンバリングで、
嬰ヘ短調ソナタが8番なのは良いにせよ、
併録のD850、通常17番の勇ましいニ長調が、
何と、16番になっているのである。

このシリーズでは、シューベルトのピアノソナタは、
全20曲と数えられているようで、
第12番はなきものにされ、
通常13番とされる有名なイ長調D664が、
12番に番号付けされている。

従って、調性かドイッチュナンバーを、
確認して買わないと、12番以降で、
危険な事が起こる。

もう一つの特徴は、ソナタの年代に合わせてか、
あるいは曲調に合わせてか、
ピアノを使い分けていることで、
ここでの2曲も、
1817年作曲の嬰へは、
1810年のDonat Schofftosが使われ、
1825年のニ長調は、
1824年のコンラート・グラーフが使われている。

解説もバドゥラ=スコダ自らが手がけたもので、
ここにも、このシューベルトを愛するピアニストの、
微笑ましいこだわりがあって、これを見ているだけで、
何だか、温かいものがこみ上げて来た。

ありがたい事に、解説は英独仏伊の4カ国語分あるが、
何と、英語は最後。順番は仏独伊が先になっている。
ここにも、何だかフランス的思考を見るのは私だけだろうか。

スコダの解説、さすが、問題の
嬰へ短調ソナタから熱い語り口である。

「約1年後に書かれたヘ短調のソナタに似て、
この嬰へ短調のソナタは、我々を、直接、
ロマンティシズムへと導く。
調性の選択一つとっても、
十分、興味をそそるものである。
シューマンもブラームスも、
この調性で後にソナタを書いたとは言え、
古典期の作品では、
これまで多くは取り上げられなかった。
シューベルトがこれを書いた時、
ブラームスは生まれておらず、
シューマンはいまだ6歳であった。
さらに、後の両巨匠とも、
その上、このソナタの存在を知らなかった。
(これは、1897年まで出版されなかった!)」

第6ソナタの歌謡的な叙情も美しかったが、
これは、簡潔さを追う一面もあった。
この第8ソナタも同じように、
めんめんと歌われる歌が叙情的、神秘的で、
さらに開放的な感じである。
この種の作品を、シューベルトは、最終的に、
第18番ト長調、第21番変ロ長調で完成させるが、
そのひな形のような風情がある。

「しかも、もっと長く、
もっと低い音域であるとはいえ、
同様の序奏を持つシューマンのソナタ作品11に、
似ているということに気づくと、
さらに驚きは大きくなる。
開始部において、和声は4小節を経て、
嬰ヘ短調に定まり、歌曲の開始部、
あるいは、ショパンの『舟歌』のようである。
この後、同じハーモニーの上に、
嬰ハの三度の繰り返しで、
シンプルなカンタービレの主題が生まれ、展開され、
ライトモティーフのように何度も何度も現れ、
この楽章全体を支配する。
第2楽章の鳥の歌、
または、最後の和音のように、
時にひっそりと、
終楽章のように、時にあけすけに。」

なお、シューマンの嬰ヘ短調ソナタは、
ここにある「第1番」作品11だが、
ブラームスの嬰ヘ短調ソナタは、
「第2番」作品2である。

ただし、この作品は、実際には、
「第1番」より早く作曲されたはずだ。

シューマンのソナタの第1楽章序奏部も、
やはり、さざ波が打ち寄せるような曲想で、
たゆたう伴奏にメロディが乗って来るような風情は、
スコダの言うとおりにそっくりかもしれない。

「主題労作のみならず、
ピアニスティックな書法の上でも、
革新的な性格を示している。
この序奏部の音符間の重要な休止は、
後に伴奏部に現れ、ペダル使用を要求する。
このことは、終始オクターブの重音である、
メインテーマのメロディにおいても同様に言える。
さらに珍しいのは、このメインテーマが、
伝統的なソナタの原理と対照的なことで、
ABAのリート形式で構成され、
嬰ヘ短調のカデンツで終止させている点である。
(シューベルトは二年後に、イ長調ソナタD664で、
同様のパターンを採用する。)
この終結部にもかかわらず、
(実際の終結部では、まったくないのだが)
全体の進行は全く不自然ではなく、
この世で最も自然に、
シューベルトは同じ和声を続け、
伴奏モチーフを高い音域に動かしながら、
左手は自由な模倣を奏でる。」

特にショパン、シューマンが引用されているように、
この作品は極めてピアノ的な思考で書かれているように見え、
前後に書かれたソナタ第7番、第9番が、
何となく、管弦楽的な立体感を感じさせるのと対照的だ。

リート形式と書いてあるが、
どの部分も継ぎ目なしに、
流れるように推移していく点も、
一聴して明らかである。

「典型的な鍵盤スタイルの三和音分解を経て、
これらのハーモニーは、
異なる和声のメロディが、形を成し、
提示部の最後まで通して奏され、
経過句と、コラール風の第2主題を支配する。」

コラールの第2主題というのは、
何となく荘重なものを連想していたが、
高音で歌われる清澄なメロディであろう。

「展開部は、ホームキーから遠く離れ、
より暗い音響に突入する。
主要主題の繰り返し音符が、
低音、または高音に現れ、
それらは、
感情たっぷりのもう一つのメロディと結合される。
不思議な事に、この希有な美しさの楽章は、
まさに、再現部を予測させるところで、
終わってしまっている。」

展開部は、さらに深い水の中のようである。
ただし、ここにあるように、
提示部からの繰り返し音型がちりばめられて、
特に大きな変化を感じない。
感情たっぷりのメロディというのも、
何か懇願するようなもので印象的である。

ただ、シューマンの作品の序奏もそうなのだが、
シューベルトの嬰へ短調ソナタの第1楽章もまた、
メロディアスではあっても、
ちょっと、構成感には欠ける。
ベートーヴェンの「月光」路線である。

以下、この極めて特異な美しさに満ちた楽章が、
残念ながら、未完成に終わっている点について、
スコダの見解が述べられる。
あと再現部がないだけで、
この音楽が演奏されないとしたら、
非常に残念である、という想いはとてもよく分かる。

また、この見解は、とても面白く、
なるほどと、様々な事に想いを馳せてしまった。

「これが、長らくこのソナタが未完成とされ、
80年も出版にかかった理由なのである。
シューベルトは明らかに、再現部の作曲は、
多かれ少なかれ事務的に出来ると考えて後回しにし、
他の楽章作曲時の新しい霊感に、
取りかかりたかった。
同様のケースとして、
D575のロ長調ソナタなども、
まず、断章の版が残っており、
さらに、後で書かれた第2の完成版の二つがある。
出版社がこのソナタを出版したがったら、
シューベルトはこれを完成させていただろう。
しかし、こうした展開は死後になった。」

シューベルトのピアノソナタの楽譜を校訂した、
エルヴィン・ラッツが1953年に書いた文章でも、
実際、このソナタは、
「1817年7月の嬰ヘ短調の断章は同様に
ひじょうに個性豊かであるが、
第1楽章の断片のみでは
その実用性が問題にならない」と、切り捨てられている。

スコダは、それに対して、対峙する形で、
こう断言しているのが格好良い。

「私は、過度の謙遜なしに、
この楽章における私の補作は、
これは4回目の試みであるが、
作曲家の意図に、
かなり近いものでないかと考えている。
非常に似た構成を持つD574の、
ピアノとヴァイオリンのデュオや、
先に挙げたロ長調ソナタが同様の構成を取っているし、
この作品が短調になっていることから、
作品142の1、D935の1の、
ヘ短調の即興曲の終結部に倣った。
ここで、主要主題は短縮された短調で再現している。」

それはそうとして、スコダの弾く第1楽章、
高音に弾けるような音響を伴い、
まるで、ギターのつま弾きのような繊細な味わいの、
フォルテピアノの音色にしびれる。

当時のピアノの構造は、
低音から高音の
音色の均一さを出すのが難しかったとされるが、
そのような現象が現れているのだろうか。
しかし、このソナタでは、
その不思議な音色の絡み合いが、
かえって味わいを増しているようにも思える。

解説に楽器に対する言及はないが、
スコダの演奏は、あえて、この楽器の特徴を、
前面に出そうとしたものに相違ない。

水滴が弾けるような、
この楽章のメロディのぴちぴち感を、
見せつけるような表現である。

「第2楽章は、1897年以前に出版された、
このソナタにおける唯一の楽章で、
『アンダンテD604』として独立していた。
これが完成されているのは驚きである。
手稿に見られる、その調性、全体の雰囲気、
スタイル、材料のすべてが、マッチしており、
この小品が、ソナタ嬰ヘ短調の緩徐楽章であることは、
疑うべくもないと考えている。
もしこの作品が単発品なら、
間違いなく、シューベルトは、
日付とサインをしたはずである。
しかし、私の確信は、このアンダンテが、
嬰ヘ短調のカデンツァから始まることで、
これは、イ長調の独立した小品にはあり得ないことである。
私たちは、同様の調性上の繋がりを、
同時期に書かれた、四手ソナタ変ロ長調D617の、
第2、第3楽章で見ることが出来、
ここでは、第3楽章が間違った調性で始まっている。
シューベルト研究のスペシャリスト、
モーリス・ブラウンは、この主題でこう書いている。
『1817年のシューベルトの、
作曲法の知見からすると、
失われた楽章は、
イ長調のアンダンテD604である
という事実を示す。
経済的な制約から、
作曲家は自身の旧作のスケッチや、
きれいな写譜の空いたページも使った。
このアンダンテは、
序曲変ロ長調D470のスケッチの裏に書かれている。
序曲は1816年9月に書かれたから、
アンダンテはその後のもの、
おそらく、ソナタの残りの楽章と同様、
1817年6月のものであろう。
イ長調アンダンテのスタイルも美しさも、
他の楽章にぴったりと手袋のように当てはまる。
これはシューベルト初期の、
最も愛らしい霊感の一つで、
曖昧な状況から救われ、
嬰ヘ短調ソナタに含まれることは、
私にとって、特に理由は必要なく、
よろこんで受け入れたい。』」

ブラウンが「最も愛らしい霊感」と書いた、
第2楽章は、しかし、4分に満たない小品である。
中間部で妙に深みを見せ、
ぐっと詩情を増すが、
スコダが「鳥の声」と書いたのは、
高音部でのきらめき音型だろうか。

これまた、ソナタとして蘇らせなければ、
非常に惜しい一章であろう。

また、下記、スケルツォ以下の説明は、
スコダ自身の体験まで出てきて面白い。

「このソナタの外側の楽章は、
もっと前の作品の断章を含む楽譜に記譜されている。
スケルツォと終曲は、
二つ折りの紙に、正しい順番でなく写譜されており、
未完成の終曲は1ページから3ページに、
完成されたスケルツォは4ページめに書かれ、
これによって、
前の曲が典型的フィナーレの様相を持つのに、
ドイッチュの分類では、
『アレグロとスケルツォ』D570と記載された。
このアレンジは妥当で、シューベルトは、
4ページめを最初の紙と間違えたのだろう。
(私も日曜作曲家として、
何度も同じことをしたことがある。)」

それで音楽の内容は、いきなり、ヨハン・シュトラウス的、
とあるのが、ちょっと肩すかし感がないわけではない。

「非常に陽気なスケルツォは、
ヨハン・シュトラウスを予告するパッセージを含み、
何も評論する必要はないだろう。」

「フィナーレに関して言えば、
嬰ヘの音符が3度繰り返され、
3和音に分解され、
第1楽章の主題が明らかである。
ムードの上では悲劇的でなく、
力強く喜びに満ちた舞曲のものになっている。
喜ばしいスケルツォによって、
また、後の歌曲『エルラフ湖』D586や、
『うずらの声』D742を思わせる、
第2楽章の慰めの雰囲気にもかかわらず、
完全に最初の楽章の憂愁を払拭するわけではない。
悲劇の暗い色に染められたエピローグは、
新しい三連音のリズムで展開部を支配し、
憂愁はこみ上げ、非常に感動的な表情を呈する。
この楽章は、再現部が欠落しているが、
第1楽章と同様の措置で完成できる。
ソナタは、始まった時と同様、
優しいメランコリーの中で終わる。」

シュトラウス的と書かれた、
第3楽章の楽しげな雰囲気に続いて、
狂おしい舞曲が旋回するうちに、
我々は、いかにもシューベルト風の
さすらいの旅に出てしまったようだ。

が、何となく寂しい終わり方であるように、
楽章冒頭の雰囲気は、虚無的なものがあって不気味である。
聞き直すと、舞曲の中にも暗い影があって、
ぞっとしてしまう。

スコダが、こうした素敵な瞬間に満ちた断片を、
何とかしたくなった理由も、
チャールズ・オズボーンが、
その仕事を評価し、
「この措置の結果、格調高く魅力的で
一層磨きのかかったソナタが誕生した」
と激賞した理由もよく分かった。

また、オズボーンが、
「当時脈絡の乏しい展開を続けていた
シューベルトのソナタ様式を考える時、
その重要な転換期に位置している」
と書いた理由も分からなくはない。

同時期の他のソナタに比べ、
幻想的な歌謡性から狂おしい舞曲へと、
明解な流れがあるのは確かである。

もちろん、脈絡の乏しい展開は、
シューベルトの実験であったはずで、
それを否定すると元も子もなくなってしまう。

このCDには、さらに1曲、
というか、こちらがメインなのだが、
ソナタニ短調作品53、D850が、
収録されている。
何と、失われた交響曲並の、タイトルも並記、
「ガシュタイン・ソナタ」と書かれている。
この曲については、様々な情報が入手できるので、
駆け足で紹介するに留めたい。

スコダの言葉であるから、
一言一句おろそかにしないでおきたいのだが、
そんな時間もない。

「このソナタは、1825年8月、
ガシュタインで作曲された。
シューベルトの作品の中で、
この作品ほど喜びを表現したものはない。
我々は、作品と作曲家の人生を、
ごっちゃにすることについて、
用心しなければならないとしても、
この作品は、この夏の休暇の間に、
シューベルトが体験した、
幸福な瞬間を反映しているように見える。
このソナタには、
悲しみの感情は皆無だが、
雲の流れを示唆する以上のものはなく、
それらによって、風景は、いっそう、
陽光に照らされるようである。
ガシュタインの温泉は、
オーストリアで最も美しい場所にあって、
シューベルトがザルツブルクから、
バート・ガシュタインにかけての田園風景を、
どんなに愛したかを、その手紙から知ることが出来る。」

ここからは、1825年9月12日と、
25日(または21日)に書かれた作曲家の手紙が、
引用されている。

私は、この解説を読んだだけでも、
妙にすがすがしいひとときを過ごせたような、
何だか満ち足りた気分になった。

「第1楽章は、
そのオスティナートのリズムが、
勝利の行進曲のように喜ばしい、
雄々しい主題に支配され、
楽章の終わりにかけて、
この行進曲のテンポは速くなって、
完全に管弦楽的な様相を帯びる。
ホルンが響き、その上をヴァイオリンが歌う。
第2主題は、一方、静かな瞑想的な散歩を思い出させ、
このソナタ全編に現れる。
先人の作とは異なり、
シューベルトの作品は、
同様の和声の響きを聴いた時に、
彼が感じたであろう明らかな喜びに、
性格づけられ、
この事は特に、第1楽章に言える。
まるで、エクスタシーの中にあって、
ただ、この和声を繰り返すためのように、
音楽をいわゆる三和音で終止させる。
換言すると、和声、音響そのものが、
メロディ、リズムなどから独立して、
音楽のスタイルの構成要素となる。
ここに、ブルックナーだけでなく、
ドビュッシーなど、後の作曲家の音楽を経て、
現代のある種の作曲家につながる同様の軌道を見る。」

ドビュッシーは、シューベルトを小馬鹿にしていたが、
シューベルトがその先を行っていたと書かれると、
ちょっと嬉しくなってしまう。
しかし、とにかく、ハーモニーを聴かせたい音楽、
という解釈も面白い。

先のソナタに比べ、ここでの楽器は重量感を増したが、
音色は素朴になっている。

スコダは、クライマックスで、
どすんと、妙なペダル効果を付与して、
恐ろしい効果を上げているが、
これについては、解説に言及がない。

「第2楽章アンダンテ・コン・モートは、対比から、
急速で秘めやかな第1主題と、
元気で喜ばしく、シンコペートリズムの第2主題の間で、
民族音楽的なロンド形式に近づく。
一種の痙攣に達した後、
第2主題のパッセージは、
すぐに、壊れやすいピアニッシモになり、
木霊のごとく、あるいは、
森の中、強烈な太陽に照らされた影のごとく、
シューベルトの最高のページに数えられる。
最初のメロディによる最後の再現部で、
第2主題のリズムは、
タンゴのようではないが、
最初の主題に重なり、
最後に、憂愁の悲歌の、
非常に深い響きの中に身を沈める。」

ここでのスコダの比喩、非常に共感できるものだ。
この人は心底、この音楽を愛している。

また、こうした内省的な音楽では、
この時代の楽器の古雅な味わいが言いようもない
親密感を与えてくれる。
しかし、この楽章のダイナミックレンジは、
この楽器の限界を行っているようにも見える。
スコダは、完全に音楽の中に沈潜して、
思い切った爆発を見せる。

「スケルツォは、突然、私たちを、
冒頭の意気揚々とした気分に連れ戻す。
あらゆる意味でポピュラーな舞曲を思わせ、
第2主題は、特に、
オーストリアのレントラーから
生まれだしたように見える。
しかし、その出典を探しても無駄に終わろう。
実際、シューベルトは、後から世界的に有名になり、
民謡の世界に仲間入りするようなメロディを作る、
ものすごい才能を持っていて、
こうした例は、『ます』などで見ることが出来る。
しかし、このスケルツォのオープニングのテーマは、
オーストリアのものではなく、
実際、正確には、
後に、ドヴォルザークやスメタナが、
再創造、再使用することになる、
ボヘミアの『フリアント』舞曲である。
こうした舞曲の要素と対照的に、トリオ部は、
非常に自由なリズム様式で書かれており、
そのメロディ、その繰り返し音符に、
オーストリア教会での説話や連梼との親近性がある。
第2楽章ではある種の瞑想の性格を持っていたが、
通常、宗教的な傾向を口にしなかったシューベルトが、
1825年7月25日(または28日)の
両親宛の手紙では、それとなく、
宗教性についてほのめかしている。」

この手紙は省略するが、
ここでは、自分の歌曲が、
聖母マリアへの思慕させる効果があるのは、
自分が、そうした気分の時に作曲したからだ、
と書いて、素直な感情表現の大事さを述べられている。

しかし、この曲のトリオ部に、
そんなローカルな宗教性があるとは、
さすが本場のピアニストならではの指摘ではなかろうか。
私は、単にしみじみとした夕暮れの情景かと思っていた。

しかし、連檮にしては、スコダのピアノには、
かなり力こぶが入っている。

それから、またまた、ここでも、
偶然ではあるが、「ます」に関する話題が出て良かった。

「第4楽章は、湖を発した小川に沿って山の頂上に向かう、
光が充満する小道での晴朗なさすらいだろうか。
あるいは、食べて踊れる、どこかの宿であろうか。
素晴らしい書法が、さすらい人の歌を伴奏するギターを示唆し、
第2楽章と調和する、
a-b-a-c-aの5部からなるロンドである。」

何という比喩であろうか。すべて納得。

「第2の詩的なエピソードは、
自然の力で巻き起こった嵐や雷雨や、
まさに阻まれ、中断されてしまった、
湖の船旅を想起させるかもしれないが、
我々の魂の最も深いところより出てきたものに見える。」

この部分、そう言われれば、
さざ波の音型が、船旅を想起させる。
それが、だんだん、黒々とした雲に
包まれていくような展開を見せるのも事実。
感情の爆発でもあろう。

「第2主題の再現部によって、
さすらい人の伴奏のようなモチーフは、
今やねじれ、リズムを加速する。
ソナタの終結部は、比類なき美しさで、
永遠の巡礼は遠くに消え、
最後のうねりに、ただ、憧れだけが残る。」

最後にこの曲の演奏の印象だが、
作曲当時のピアノの、いくぶんかっちりとした響きを活かしての、
エネルギッシュかつ地味豊かな名演と思っていただければ良い。

得られた事:「シューベルトのソナタ第8番は、ばらばらに発見されながら、繋げてみると、この時期の作品では、最もそれらしい均衡を持つことになった。」
「スコダの説では、シューベルトはいつでも再開できる状態で作品を放置した。ゆえに未完成作品が多い。(ただし、第15番『レリーク』はどう解釈するのだろう。)」
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by franz310 | 2010-05-08 21:45 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その224

b0083728_20482375.jpg個人的経験:
1817年に書かれた、
シューベルトの一群の
ソナタ集について、今回、
聴き進めているが、
私は、ソナタ全集といった、
企画でもない限り、
聴かれないような作品集という、
間違った偏見を持っていたようだ。
「第4番」や「第9番」は、
単独録音があることは知っていたが。


特に、未完成作品とされる「第5」など、
有名どころではルプーがあるが、
「第6」は、どうだろう。

そんな風に見て見ると、
例えば、ロシアの女性ピアニストの
トヴェルスカヤなどが録音していた。

(ひょっとして、ルプーもトヴェルスカヤも、
実は、全集を完成させようとして、
うまくいかなかった名残りだったりして。)

さて、この「第6ソナタ」、
今回の解説にもあるが、
ものすごい苦労の連続で、何年もかけて、
全貌が見えて来た作品という感じである。

実は、このCD、表紙のデザインも素敵で、
楽器もシューベルト当時のものであるばかりか、
こんな風に、演奏家自らが、作曲家への親密感を、
語っている点が嬉しい。

デザイン、解説、演奏と3拍子揃った名品と言えよう。

オーパス111というフランスのレーベルだが、
これは、老舗レーベル、エラートからスピンアウトした、
女性プロデューサーが立ち上げたレーベルとして有名だ。
表紙絵画は、Margurite Tagerという人の作品らしいが、
これまた女性だろうか。

ただし、表紙絵画が、何か、シューベルトらしさ、
または、収められた曲を表しているかと言えば、
少し苦しい。

とはいえ、「第6番」のソナタと一緒に収められた、
「第13番」イ長調ソナタの美しさなら、
ここまで華美な表現も許容範囲と言えるかもしれない。
また、「即興曲作品90」から選ばれた2曲も流麗で、
この金髪女性の長い髪を想起させる。

実は、今回、よく聴いてみたい、
「第6」ソナタも、非常に流麗な曲想を誇るもので、
この表紙のトーンから逸脱するものではない。

ブックレットでは、
ピアニストのオルガ・トルヴェスカヤの言葉が、
最初に紹介されているが、
これは、どれも当たり前の事が
書かれているだけに見えるが、
語り口のせいであろうか、
妙に心に残る味わい深い内容だ。

「現代のグランドピアノに習熟した音楽家が、
別の時代の先祖であるフォルテピアノの演奏に、
どうやればそんなに適応できるのかと、
みんなは疑問に思うようです。
私は、フォルテピアノこそが、
シューベルトの作品が、
どんな風に響いたかを知っている、
唯一の生き残りの証人で、
私の解釈の最も信頼できる案内人だと思っています。」

といった、気負わない風情に好感を持った。

「完全なる楽器への信頼、
それに過度の負担をかけない事が、
どんなテンポ、ダイナミクスが、
私が弾きたい曲に、
最もふさわしいかを教えてくれます。
その色彩の幅のすばらしさ、
ぬくもりがあり、歌うようで、
しかし、深く力強いサウンドによって、
楽器自身が、
シューベルトが念頭においた雰囲気のみならず、
フレーズ、形式、コントラストに、
生き生きとした内容を与えていきます。」

ここまで書かれると、
トヴェルスカヤと一緒に、
シューベルトの時代にタイムスリップする以外ない。

前に読んだ、オールト先生のような、
妙な、博識開陳とは違うアプローチである。
ただし、オールト先生は、ピアノフォルテにも、
いろいろありまっせ、という点を強調していたが、
トヴェルスカヤは、そこまで厳密には考えていなさそうで、
今回の1817年のソナタに対し、
1823年のブロードマンのレプリカを用いている。

あと、このように、
本来、この楽器は、
楽しい集いのための楽器である点を、
強調しているのは新鮮だ。

「そしてもちろん、フォルテピアノは、
歌曲と舞曲、つまり歌と踊りが、
彼の音楽の本質的要素であることを、
忘れるすきを与えません。
それはさらに、
一方にある、彼の構成感、
フレージング、メロディーの優美さと、
他方にある、その着想の深さとのバランスを、
最高の形でとることを、
助けてくれます。
この楽器は、非常に霊感に働きかけるもので、
私とシューベルトが書いた音楽の間に育まれる、
親密感に対する強い感覚をはぐくみ、
私は、彼に近づいているような、
また、彼と私が聴衆と一緒に、
感情と思想を共有するような、
そんな広がりを感じさせます。
そのムードの頻繁な変化、
音域と音色の劇的な対比を通し、
私は、彼の音楽に自分自身を見つけ、
最も注意深く選ばれた言葉以上に、
自分自身を表現できるように感じます。」

と、我々が、演奏家に期待するものを、
的確に言い表してくれている点も、
信頼がおけるピアニストと見た。

コンクールで名を馳せた演奏家は、
ともすると、こうした問題をすっ飛ばして、
うまく弾けたとか弾けなかったとか、
技術的な問題に偏りがちであるが。

「これこそ、演奏家が求める、
最も包括的で満ち足りた、
作曲家との関係です。」
という結語にも共感してしまった。

さて、解説も、この「第6番」のソナタを聴くのに、
最適なものとなっている。
BRUNO GOUSSETという人が書いている。

「1828年11月19日に、
シューベルトが31歳で世を去るまでに、
彼は、全作品の1/6相当の100曲以上もの作品を、
重要な出版社に売ることが出来た。
同年齢において、ベートーヴェンは、
40曲ほどしか出版できておらず、
少なくともこの点に関しては、
その人生は作曲家にとって、
不公平だったという見方は間違っていた。
我々は同時に、
シューベルトの努力にも関わらず、
彼の出版社たちは、まったくではないが、
ほんの少しの大規模器楽曲しか出版せず、
そのいくつかは決定的な傑作の歌曲や、
舞曲のようなピアノ小品、
それに市場が形成されていた4手用ピアノ曲など、
主に小品のみを、受け入れた事を残念に思う。
彼のすべての五重奏曲、
交響曲、歌劇は死後の出版となり、
たった3曲のソナタ、
15曲書いたうち、1曲の四重奏曲、
2曲のピアノ三重奏曲のみが生前に出版された。
ここに収められた作品はすべて、
出版も演奏も死後になったものである。」

このあたりは、なるほどと思わせる、
包括的見地であろう。

ここから、具体的なバラバラ作品の問題が論じられる。
シューベルトの散らかった室内に、
足を踏み込んだような生々しい表現が新鮮だ。

「しかし、そこには、
いささか更にシリアスな事実がある。
彼は頻繁に住居を変え、
彼が亡くなった時、彼はほとんど整理不可能な、
めちゃくちゃな状態で、莫大な手稿を残した。
例えば、完全に異なる器楽の曲が、
同じページの表裏にごたまぜに書かれていて、
こうした作品の再構成は、しばしば、
シューベルトをいつも連想させる、
『未完成』の作品として分類するしかないような、
困難な仕事となった。
このことが、
彼は23曲のピアノソナタに着手したが、
現在の全集版では、
作曲家の思惑通り完成作とされるのは11曲しかない、
ということになった理由である。」

11曲とは、下記の11曲だと思われる。
私が最初に読んだシューベルトの評伝、
(ブリュイール1965)では、ピアノソナタは、
10曲とされていたが、
それは下記の()内の番号付けものであった。
この人の場合は、作品番号で並べていたのである。

1.4番(第7番作品164)
2.7番(第4番作品122)
3.9番(第6番作品147)
4.13番(第3番作品120)
5.14番(第5番作品143)
6.16番(第1番作品42)
7.17番(第2番作品53)
8.18番(ブリュイールは「幻想曲」に分類)
9.19番(第8番遺作)
10.20番(第9番遺作)
11.21番(第10番遺作)
ということであろうか。

ブリュイールの本を、久しぶりにめくってみたが、
このあたりのことは半世紀を経た今でも、
状況は変わっていないと確認できた。

「他のものはラフスケッチか、
孤立した断章として、
ようやく日の目を見ており、
時に、半完成品で
(5つのケースで、終曲が数小節しかない)、
いくつかは仮説によって
再構成されただけのもので、
一つ楽章が足りない。
このように、
1817年の5月から1818年の9月まで、
シューベルトは、我々にとって、
再構成された形でのみ知られる、
6つのソナタに着手したが、
それらはそれらしく出来ているが、
それぞれ疑うべき点がある。」

1817年のソナタのうち、
3曲もの作品が完成作として、
エントリーされているのは、
ほとんど綱渡りのような感じさえしてきた。

下記のように「第6」は、
しかし、シューベルト自身、
何らかのこだわりを持った作品であったようだ。

「ホ短調ソナタ、
ドイッチュのカタログ番号で、566番のものは、
それらの第2番、あるいは第3番である。
エルヴィン・ラッツは、
ボンにあるプライヴェート・コレクションは、
ここに録音された3楽章からなると主張するが、
バドゥラ=スコダによると、
残っているもののすべては、
1817年6月の手稿の断章にすぎず、
オープニングのモデラートと、
スケルツォのトリオ部でしかないということである。」

ボンのコレクションは、プライヴェートのもので、
内容不明ということだろうか。

「長い間、モデラートだけが知られていた。
それは、簡潔な書法の素晴らしい一例であって、
リズムに細かな工夫が施され、
彼にとってもそれが重要であったことは、
ほんのわずかな違いの
2つのバージョンがあることからも、
明確である。
この作品には、ベートーヴェンの残照のような
あるいは、中世以来の悲しみの表現である、
下降する四音音階の使用によって、
悲哀の情念が満ちている。」

いきなり、「モデラート」は、というに始まるが、
これは第1楽章のことである。

このような作曲家のこだわりや、
悲しみの表現の追求ゆえに、
私は、今回は、前回以上に、
このソナタ第6番に耳を澄ませた。

確かに、ラメント風の主題が悲哀に満ち、
それを慰めるようなメロディーの交錯が、
非常に美しく、「第5」のハイドン風に対し、
かなりロマン的な音楽であることが分かる。

トヴェルスカヤの音楽は、この悲劇性を、
鋭い打鍵と、柔らかく流麗なさざ波で描き出すもので、
苦しみを分かち合うかのような表現である。

なお、このソナタは変則的なもので、
モデラート、アレグレット、
スケルツォ(アレグロ・ヴィヴァーチェ)の、
3楽章形式とされている。

下記のように、続く2つの楽章についても書かれている。

「ホ長調のアレグレットは、1907年に、
変イ長調のスケルツォは、1928年になって現れ、
いずれも別々の小品として出版されたが、
特に調の進行の関係から、
これらがモデラートと関係あるとは見えなかった。」

とあるが、モデラートで始まるソナタも、
スケルツォで終わるソナタも、何だか変則的である。

「1948年になってようやく、
英国の音楽学者カスリーン・デールが、
ソナタとして再構成できると主唱し、
さらに作品145として1847年に、
別に出版されていたロンドを加えた。
しかし、後の楽章は、
他の二楽章のメロディー素材を借りており、
終楽章の追加は余分な措置と思え、
それが、省略される理由となっている。
三つの楽章を良く調べると、
これらの間に、
いくつかの微妙な連関があること
が明らかになる。」

第2楽章は、何故かアレグレットで、
緩急緩のソナタとは違う感じだが、
最初に、微笑に満ちた優しい楽想を交え、
それほど違和感があるものではない。
また、途中、この楽章は、非常に朗らかな表情で、
素晴らしい高揚感を発揮することも特筆しておきたい。

「アレグレットの中に、
例えば、シューベルトが好んだ強弱弱のリズムによる、
流れるような音型でテーマが伴奏され、
スケルツォのトリオで、それは再現される。」

この強弱弱のリズムとは、「さすらい人幻想曲」を、
彩ったものであろう。
スケルツォが、激しい跳躍を見せるのに対し、
トリオは、妙に神秘的なもので、
左手をよく聴かないと、
さきのリズムは分からない。

「しかし、最も重要なのは、最初の二つの楽章に、
二つの対照的な要素の重ね合わせからなる、
デリケートに洗練されたリズム要素があることである。
つまり、左手には、
二つの異なるパターンの進行に分解される二拍子があり、
(二つの16分音符のグループに、
付点音符を有するものが続く)
これらは、右手の流れるような三連音に対比される。
これは特にアレグレットの展開部に顕著である。
(この部分は、偶然にも、
第1主題を再現させる経過句以上のもので、
ロンドのように、ソナタの中では、
かなりきらびやかな楽章で、
形式と配置に疑問を抱かせるものである)」

この意見に、私も共感した。
深い悲しみに満ちた第1楽章と、
この晴朗で元気の良い第2楽章の組み合わせで、
かなり私は満足してしまう。
第3楽章は、前の楽章の、
楽しい回想のようにも感じられる。

このように書いてもらって、
私は、この「第6ソナタ」の重要性に、
気づかされた感じがしている。

交響曲の場合と同様、これはこれで、
出来ている感じがした。

さて、第13番のソナタも、ついでに読んで見よう。
CDでは、こちらの方が先に収録されている。

「イ長調ソナタD644は、
手稿が失われているとはいえ、
こんなにも多くの問題はない。
シューベルトの死の翌年出版されているが、
その作曲時期は、
ルートビッヒ・シャイブラーが最終的に、
同種の調とムードを持つ、
『ます』の五重奏曲が作曲されたのと同時期に、
ヨゼフィーヌ・フォン・コラーのために、
1819年7月にシュタイアーで、
作曲したソナタであるという事実を示すまで、
長い間不確定であった。
しかし、シューベルトがこの作品を、
本当に3楽章形式の作品として意図したのか、
アインシュタインが主張するように、
メヌエットやスケルツォが紛失したのかは分からない。」

シューベルト研究の碩学アインシュタインが、
こんな事を書いているとは知らなかった。

が、その著作を見ても、
「メヌエットあるいはスケルツォは欠けている」
(浅井真男訳)とあるだけで、紛失したとは書いていなかった。

「このソナタを構成する楽章主題の、
際だって舞曲風の本質を見ると、
その楽章なしでも、実際、問題はない。
終曲の主題を一例にとると、これらは共に、
ミュゼット風の持続音を有する三拍子である。」

私は、この曲は歌謡的な作品だと思っていたので、
「舞曲風」と書かれて驚いたが、
確かに、終曲の伴奏は、
ここに書かれているような、
素朴な舞曲にも聞こえる。

「最初の楽章は、ホ短調ソナタの関係を思わせるような、
リズミカルな重ね合わせが示され、
短い展開部に効果的に利用される。」

展開部に耳を澄ますと、
リズムの粒立ちに、改めて感じ入った。

「アンダンテはいささか奇妙に、
下中音の和音の転回和音で始まり、
2年後に歌曲『不幸な男』に再現される、
たった一つのメロディからなる。
事実、この楽章は、リートの形式で書かれており、
交互に現れる短調のパッセージの憂愁が切迫感を表し、
3番目の最後の『節』は、
驚くべき和声を導くカノンで書かれている。
一方、終曲は、1816年の歌曲『至福』から、
第1主題は取られ、
歌曲からの材料が借用されている。」

この「不幸な男」D713は、
ハイペリオンのシューベルト・エディションでは、
マーガレット・プライスの絶唱で聴けるが、
8分近くを要する大歌曲である。
アインシュタインは、
『夜がはじまる、そよ風とともに夜は』
という一節を挙げているが、
事実、冒頭が似ているにすぎない。

また、アインシュタインは、終曲の主題は、
「孔雀の求愛」D552を想起すると書いている。

これは、ハイペリオンの歌曲全集では、
マティスが歌っているが、
非常に軽いダンス音楽で、
名曲に数えられる「至福」の方が、
私としては親近感を感じる。

「この曲はシューベルトが書いた、
最高のソナタ形式の一例であり、
彼が展開の力に欠けていたという、
よくある過小評価が
不当であることを示している。
モーツァルトが考え出した、
再現部を下属音で開始し、
第2主題で元の調に戻すアイデアが、
特にここでは適切で、
まず第1主題の引用が脱線し、
離れた調に転調していく。
イ長調ソナタは、鍵盤の全域を利用していて、
一見したよりも演奏するのが難しく、
おそらく、フォン・コラー嬢の技量を超えていたに違いない。
これは、シューベルトの若さと、
生きる喜びが吹き込まれた最後の作品の一つであるが、
それであっても、外側の楽章の展開部は特筆すべきで、
牧歌的な雰囲気が暗い思考で曇らされている。」

トヴェルスカヤの演奏は、素直で清潔で、
素朴な中にも輝きがある楽器を存分に呼吸させ、
その美感を発揮したものである。
確かに、彼女自身が、そこで羽ばたいているような、
解放感が魅力となっている。

従って、あまり切実なものではない。
この曲の持つ、青春の輝きの表現としては、
それで良いのかもしれない。

「作品90の最後の二つの即興曲も、
同様の田園的な雰囲気
(1827年6月、シューベルトが、
一月を過ごした、ヴィーン近郊のドルンバッハの
美しさを賛美したものと思われる)
を見せているのも関わらず、
重苦しい感覚を隠すことができない。
激しく興奮したリートである第3の即興曲では、
左手の悲しいごろごろ音型から、
その重苦しさは来ており、
第4の即興曲の中間部では、
その歌うようなメロディが、
時に情熱的に、嘆願するようになり、
低音のすべての音符が胸を引き裂いて唸る。
これら、人気を呼びそうな作品が、
最初の2曲だけを出版して、
当時流行の『即興曲』というタイトルを選んだ、
出版社のホフマイスターが拒絶したとは、
信ずることが出来ないだろう。」

私は、こう書かれるまで、
モーツァルトの出版で有名なホフマイスターが、
シューベルトに関係するなどとは、
考えたこともなかったが、
調べるとホフマイスターは1812年に亡くなっており、
おそらく、Goussetは、ハスリンガーと混乱したものと思われる。

「最後の2曲は、ようやく1857年に加えられたが、
変ト長調は、あまり優美でないト長調に移調され、
各小節は、2分割された(オリジナルは2/2拍子で、
4/2拍子に変えられた)が、
これらは譜読みをしやすくしただけのもので、
しかし、内的な感情がゆがめられ、
線の動きは乱されてしまった。」

この譜読みしやすくした版というのは、
どうやったら聴くことが出来るのだろうか。
普通、変ト長調で録音されるものなので、
改めて書かれると気になってしまう。

トヴェルスカヤの演奏は、
作品90の4がCDの最初におかれているが、

先ほどのソナタの幸福感とは打って変わって、
特に中間部の怒濤の表現など、切迫感に満ち、
楽器の限界に挑む激しい表現を見せている。

しかし、ソナタの間に置かれた、
作品90の3のどろどろ音の方が、
私は恐ろしく感じた。

何故なら、このCDの表紙のような、
夢見る優美な曲想にたゆたっている中、
突然、異質な低音部が轟き出すところ、
ブロッドマンの底力か、妙に気味が悪い。

ここで使われた楽器は、
ペダルが五つあるそうだが、
どれかを効果的に使っているのだろうか。

この不気味さを秘めた曲の後に、
実際に悲劇的な「ソナタ第6番」が始まる、
というのも妙に納得できるレイアウトであった。

「こうした、むしろ、作品に対する共感の欠如や、
理解するのには難しすぎるという見方など以上に、
単なる当時の慣習にすぎないものは、
幸いにも、我々には無関係であるが、
ベートーヴェンに大差を付けられている領域であった、
シューベルトのピアノソナタを取り巻く、
無知を、長い間、養ってきた。
このレコーディングは、
これらの見方が理由のないものであり、
19世紀初期にあって、
シューベルトが、
この分野の同等の巨匠であったことを、
明らかにするはずである。」

それにしても、このCD、よく見ると、
収録時間が57分しかない。

「4つの即興曲」の2曲のみならず、
後の2曲を入れようとすれば、入るはずではないか。
先ほど、ハスリンガーがなかなか出版しなかったのを、
憤っていた割には、この企画もまた、
ちょっと、人の事を言えない感じがしないでもない。

プログラムの構成が、
という難しい問題もあっただろうが、
例えば、アンコールの形でも良かったではないか。

得られた事:「シューベルトのピアノソナタ第6番は、古典的な5番に対し、悲劇的な感情をあらわにしたロマンティックな作品である。」
「題名を付けるなら、第5=ハイドン風、第6=ラメント風。」
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by franz310 | 2010-05-01 20:48 | シューベルト | Comments(0)