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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その197

b0083728_9154023.jpg個人的経験:
前々回、コジェルフのオラトリオ、
「エジプトのモーゼ」を聴いたが、
このオラトリオは、1772年、
ガスマンによって創設された、
ヴィーン音楽家協会
(Wiener Tonkunstlersozietat)の
委嘱を受けての作品であった。
この協会は、
音楽家の互助会のような性質を
持っていたようである。


コジェルフは1787年のクリスマス担当で、
その他、ディッタースドルフが「エステル」を、
ハイドンが、「トビアの帰還」を書いたとされるが、
モーツァルトもまた、この協会から委嘱されていたようだ。

「悔悟するダヴィデ」という問題作が、
こうして生まれた。
ケッヒェルの番号で、469番がついている。

彼のピアノ協奏曲が好きな人は、
あの有名なニ短調K.466や、
ハ長調K.467を思い出すかもしれない。

あるいは、室内楽なら、このあたりでは、
ハイドン・セットの最後の「不協和音」K.465、
ピアノ四重奏曲K.478が有名である。

このような、高みにあったモーツァルトのものながら、
ほとんど知られていない作品である。

これは、一般には、スヴィーデン男爵が創設した、
ヴィーン芸術家協会のために書かれたとされていたが、
どうやら、ガスマン創設の音楽家協会と同じ団体のようである。

例えば、このCDの英文解説でも、
Vienna Society of Artistsとあるので、
「芸術家協会」が正しく思えるが、
同じCDのドイツ語解説では、
Wiener Tonkunstler Societatとあり、
これは「音楽家協会」と訳されるべきものであろう。

音楽家の未亡人や孤児のための募金集めの演奏会であるから、
芸術家協会では、少々話が合わなくなってしまう。

このナクソスのCD、
演奏は、ライプツィヒ室内管弦楽団のもので、
何と、ゲヴァントハウスでの収録とある。
シュルト=イェンセンという指揮者が振り、
ルンド、ヴァーリンといった人たちがソプラノを受け持ち、
オディニウスというテノールに、
不滅のバッハ合唱団というすごい合唱がバックについている。

2006年の4月の録音で、非常に澄んだ音で聴ける。
指揮者がデンマーク人、ソプラノがノルウェーとスウェーデン出身、
といった北欧の風があるからだろうか。
ルンドは1979年生まれ、
ヴァーリンも2000年に学校を卒業した人のようなので、
その若さが爽やかなのだろうか。

後述のように、この作品、成立がクリーンな感じではないが、
演奏がクリーンな感じで救われているかもしれない。

表紙には、Simeon Solomon(1840-1905)という人の、
『David』が使われている。
儚げな様子が、ミケランジェロの作品とは大違いであるが、
悔悟する場合は、こんな顔になったのかもしれない。
この絵画の消え入りそうな感じは、
「私は声を上げて泣く」などと歌われる、
この作品の歌詞とマッチしていると言えなくはない。

さて、このCDの解説には、この問題作は、
どのように書かれているであろうか。
Keith Andersonという人が書いているが、
私の感覚では、分量の比率として、
少々、曲に対する解説が不親切のような気がしているが。

最初の半ページは、モーツァルトの生涯の概観なので、
今回は省略、次の半ページに、
この曲の成立の由来が現れる。

「モーツァルトの教会音楽の大部分は、
雇い主の求めに応じて書いた、
ザルツブルク時代のものである。
1781年からのヴィーン時代には、
他に多くの優先事があったが、
1783年には、もう一度、ザルツブルクを想定し、
1曲のミサ曲の作曲に専念した。
1782年8月、彼は、
作曲家、カール・マリア・フォン・ウェーバーの、
親類でかつての女地主の娘、
コンスタンツェ・ウェーバーと結婚した。
最初、彼はこの縁組に反対していた父親に、
このことを隠そうとしており、
このカップルがザルツブルクで、
彼女の義理の父と姉と会うのは1年後のことだった。
この機会に、モーツァルトは、
断続的に作曲していながら、
クレドとアニュス・デイが未完成だった、
『ミサ曲ハ短調K.427』を携えていた。
この作品は、最初に彼らがザルツブルクを訪れた際、
コンスタンツェが、彼の地の聖ペーター・ベネディクト教会で、
ソプラノ・パートを歌う約束を果たすためのものだった。」

ここまでは、このオラトリオと無関係の内容に見えるが、
このミサ曲が、このオラトリオの原曲となった経緯が、
以下のように説明される。

「1785年、慈善組織であった、
ヴィーン音楽家協会(英訳文では芸術家協会)から、
作品を依頼された時、絶頂期にあり、
作曲家としても演奏家としても多忙だったモーツァルトが、
頼りにしたのは、実に、この以前の作品であった。
この団体は、亡くなったメンバーの、
貧困な寡婦や孤児の面倒をみていたことで、
明らかにモーツァルトも興味をもっており、
その会員になりたがっていたものだった。」

このような編作は、はたして、
どのような評価をすればいいのだろうか。
厳密には、オリジナルではないから、
こんなのはまともな作品ではない、
と考えるのが普通かもしれない。

そのせいか、この作品、
モーツァルトには珍しいオラトリオでありながら、
また、その絶頂期のものながら、
ほとんど知られていない作品として放置されている感じがある。

「この新作、『悔悟するダヴィデ』は、
おそらくロレンツォ・ダ・ポンテのイタリア語のテキストにより、
モーツァルトは、ラテン語の歌詞を、
しぶしぶ新しいイタリア語に置換えて行った。
しかし、彼は、2曲の新しいアリアと、
最後のカデンツァを追加している。
『悔悟するダヴィデ』は、
1785年3月13日と15日に、
ホーフブルクの国立劇場で演奏された。
モーツァルトの『後宮からの誘拐』で、
コンスタンツェ役を歌った、
サリエーリの弟子カテリーナ・カヴァリエーリが、
ソプラノを受け持った。
第2ソプラノはエリザベス・ディストラーで、
テノールは、ヴァレンティン・アダムベルガーだった。
レオポルド・モーツァルトは、
この時、ヴィーンに息子を訪ねて、
その活躍に当惑していたが、
残っている娘への手紙には、
おそらく聴きに行ったと思われる、
音楽家協会の演奏会の予告の短信が残るだけである。
声楽家の数、コーラスの大きさに対応し、
必要とされるオーケストラは大きなもので、
各コンサートは、ハイドンの最新の交響曲、
同じくハイドンの、『トビアの帰還』からの合唱、
ガスマンの『プシシェの愛』の合唱や、
独唱アリア、器楽曲などを含む、
ごちゃ混ぜの内容だった。
最初の演奏会はレオポルド・モーツァルトの弟子、
ハインリッヒ・マーチャントのオーボエ協奏曲が、
二回目の演奏会では、
同じ人のヴァイオリン協奏曲が演奏された。」

こうしたごたまぜの演奏会であったせいか、
この作品は、未完成の作品の焼き直しで済むくらいの規模で、
CD二枚を要した、コジェルフの「エジプトのモーゼ」
のようなものを連想してはならない。

40分程度で、このCDにも、余白にはもう1曲の宗教曲、
12分半の「レジーナ・チェリ」K.108が収録されている。
このK.108は、1771年、ザルツブルクでの作品とされ、
題名は、「天の女王」を意味し、つまり、聖母賛歌のようである。

逆に、モーツァルトがこの程度しか書けなかったから、
父レオポルドにも頼んで、
他の作品をかき集めてもらったようにも見える。
レオポルドが、何故、この演奏会の様子を書かなかったのか、
などということも気になる。

意外にも、レオポルドの弟子の作品の方が、
評判が良かったもかもしれない。
そうした場合は、報告も、しにくかったかもしれない。

ミサ曲ハ短調も、この作品も、
両方とも知っていた人は、
レオポルドと、コンスタンツェの二人だけだったのか、
それとも、公衆にもバレバレであったのかは不明。

入りたくて仕方なかった協会のために、
このような作品しか提出できなかった事について、
モーツァルトはどう思っていたのであろうか。

少なくとも、10年前の春に演奏され、
前年にも再演された、ハイドンの大力作や、
2年後のクリスマスに現れたコジェルフの力作と比べ、
今日から見ると、かなり見劣りがするのは確か。

モーツァルトは俺様だったかもしれず、
これで何が悪いと思ったかもしれないが、
レオポルドは、少し、呵責を感じていたのではないか。

あるいは、コンスタンツェが、
うっかり、これは私の曲だ、などと、
つい口を滑らせたかもしれない。

歌詞がぴったり当てはまる点なども怪しく、
あるいは、ポンテに、適当にこんな感じの歌詞を書いてくれ、
などと頼んだのはモーツァルト本人だったと考えるべきであろう。

どう考えても、あまり褒められた来歴のものではない。

さて、以上のように、初演の様子などが、
事細かに書かれているにもかかわらず、
どのような内容なのかはよく書かれていない。

(ちなみに好評だったという解説もどこかで読んだ。)

前回、コジェルフの「エジプトのモーゼ」が、
モーゼのようでモーゼでなかった以上に、
この作品のダヴィデは、まったくもってダヴィデではない。

モーゼと言えば十誡であるように、
ダヴィデといえばゴリアテであるが、
テキストにそんな内容は皆無である。

どこがどのようにダヴィデであるかなど、
この曲のテキストを読んでもさっぱり分からないのである。

そこで仕方なく、私は、聖書の要約から、
ダヴィデが何故に悔悟しなければならなかったかを、
探そうとしてみたが、
ミケランジェロの彫刻で有名なこの人には、
やたらとエピソードがあって、どこで悔悟してもおかしくはない、
という感じがしなくはない。

ひょっとすると、ダヴィデは、「悔悟する」人物の、
代表格として捉えられているのかもしれない。

そういうことがないとしたら、ここで、
抽象的な言葉の羅列によって、
悔悟するのは、ダヴィデであろうと、
モーゼであろうと、はたまた、
ハイドンのトビアであろうと関係なさそうである。

あるいは、キリスト教の決まりか何かで、
この年は、どの素材を扱う、などという、
常識的な関係があったのかもしれない。

あと、ケッヒェル番号を見ていくと、
このあたり、フリーメーソン関係の音楽も多いから、
そうした背景があったりするのだろうか。

解説に戻ろう。

「『悔悟するダヴィデ』は、オーボエ、バスーン、ホルン各2、
弦楽合奏に3本のトロンボーンに、おそらく鍵盤コンティヌオ、
外側の楽章には、トランペットとドラムを要する。」

ここからは、全10曲の各曲についての説明となる。

「オラトリオはハ短調の合唱とソプラノで始まり、
ミサ曲ハ短調の『キリエ』が使われている。」

こんな感じで、ハ短調ミサとの関係が述べられるだけで、
ほとんど、内容に触れてくれないじれったい解説である。

解説者は、内容は、たいしたことないと思っているのか、
あるいは、「どこがダヴィデか」という事を追求されるのを、
怖れているのかもしれない。

仕方ないので、別ページにある歌詞を、
書き出して見て、内容についてもさぐりつつ行きたい。

この部分は、こんな歌詞である。
Track1:合唱。
「私は主に向かい声を上げて泣く。
悪に責められて私は、
神に向かって声を上げて泣く。」

とにかく、嘆いているのであろう。
いきなり、ハ短調ミサ曲の冒頭が現れるが、
切々と、途切れがちな、その進行は、
ティンパニの連打を伴いながら、たいそう劇的である。
途中で現れるソプラノ独唱は、そんな中から舞い上がって、
非常に美しい効果を上げるが、これも、ミサ曲のまま。

ミサではコンスタンツェが脚光を浴びたが、
このオラトリオでは、サリエーリの愛人とも言われた、
カヴァリエッリが、大きくクローズアップされたのであろう。

しかし、神に向かって泣き叫ぶと歌われても、
神様も困るであろう。

これが、「悔悟」している証拠であろうか。

「第2の合唱は、ハ長調。
前作のグローリアのオープニングが使われている。」

Track2:合唱。
「栄光と賛美を歌わせたまえ、
それを百度も繰り返し、
最愛の主を賛美させたまえ。」

ここでは一転して壮麗な、
ヘンデル風の押しの強い音楽が、
神を押しつけがましく、
叩きつけるように讃える。

まったく悔悟していない。

「ヘ長調のソプラノのアリアは、
オーボエ、ホルン、弦楽を伴い、
前作のラウダムスが繰り返されている。」

Track3:アリア。
「悲しい苦しみから遠く離れ、
再び自由を感じよ。
かつて怖れた者は、
いまや喜びの時。」

どうやら、今度は、独唱で神を言祝ぐ部分のようだ。
ダヴィデである必然はまるでない。

が、おそらく、キリスト教の、こうした言葉は、
千年の時を経ても、信者を勇気付けたに違いない。

速いテンポで弦楽が細かく動き回り、
音楽は明るく、天かけるように進む。
オーボエがソプラノに唱和して、
非現実的な天上の響きを思わせる。

悔悟とは無関係である。

「イ長調の合唱は、フル・オーケストラで、
オリジナルの『グラティアス』を用いている。」

Track4:合唱。
「永遠に恵み深い神よ、
この祈りによって、その慈悲を給われますように。」

ここでは、合唱が神妙に神秘的な響きを聴かせる。
すぐに終ってしまう。
泣きを入れているだけで、ダヴィデには相応しくない。

「続いて、二人のソプラノによって、
オリジナルの『ドミネ・デウス』のバージョンが、
ニ長調の弦楽で奏される。」

Track5:二重唱。
「主よ、来たりて、敵を追い散らしたまえ。
追い散らし、追い払いたまえ。
あなたを害するものすべてを敗走させたまえ。」

ここでは、勇壮で深刻な曲想を、
二人のソプラノが歌い交わし、
神を害するものを、しっかりと見つめる視線が鋭い。
ミサ曲でも取り分け印象的な一節であろう。

敵が悪いと、人のせいにして、
まったく悔悟している様子はない。

「第6のパートは、変ロ長調のテノールのアリアで、
最後のアレグロ、『あなたが私の祈りを』で、
新しく作られた部分が登場する。
これはフルート、オーボエ、クラリネット、バスーン独奏と、
高い変ロのホルン二つと弦楽によって演奏される。」

Track6:アリア。
「こうした苦難の中に、慈悲を求めます。主よ。
わが心に善を見いだしたまえ。
あなたが祈りの声を聴けば、それだけで心が弾む。
あなたを通じて、胸の嵐はおさまるがゆえに。」

前半、テノールによる、切実な歌を、
様々な木管楽器が、ある時は同情するように、
ある時は鼓舞するかのように、寄り添うに支え、
チェンバロの響きも、印象的で、
きらきらと耳に飛び込んで来る。

後半は、「心が弾む」という部分で、
オーケストラもチェンバロも興奮し、
ホルンの信号音やめまぐるしい木管群の交錯も加わって、
テノールは、軽やかに舞い上がる。

ここは、男声で歌われるがゆえに、
ダヴィデを想起できるかもしれない。

付点リズムのフル・オーケストラを伴う、ト短調の合唱が続き、
ここは、オリジナルの『クイ・トイス・ペカッタ・ムンディ』による。

何だか、それがどうした、と言った感じの解説だが、
下記のように、何だか、自虐的な内容の詩で、
自分が罰せられることが前提になっている。

Track7:合唱。
「あなたが私を罰するとしても、
でもまず主よ、あなたのさげすみやお怒りは、
なだめられるでしょう。
罰して下さい。思われるままに。
お怒りがしずまるように。
私の青ざめた顔を見て、
主よ、私を慰め、助けて下さい。
助けたまえ、主よ、あなたにはそれが出来ます。」

先ほどの喜びはどうしたのか、
急に深刻な内容になって、
が、これこそが「悔悟」というに相応しい。

「フルート1、オーボエ、バスーン、ホルン各2と弦楽による、
ハ短調のアリアは、カタリーナ・カヴァレッリのために新しく作られた。」

Track8:アリア。
「暗く耐え難い陰を通って、
ちょうど穏やかな天が輝く。
嵐の中にも、真実の心には平穏がある。
公正な魂は、そう、喜ぶのです。
誰も妨げぬ喜びと平穏。
神のみがその創造主。」

これは、1785年の時点で作られたので、
ちゃんと、新奇な部分を期待して聴かなければなるまい。
さすがに、先ほどのテノールのアリア同様、
楽器法が凝っていて、いろいろな表情と音色で歌を彩る。
しかも、テンポの変化も面白い。

後半は、神を讃える歌となって、これまた、
高揚した心を歌って、聴衆をも巻き込んだと思われ、
さすが、当代のプリマの活躍を際だたせた力作と思わせる。
この演奏では、このあたりは、少し、若さが出たかもしれない。
風通しはよく、力強いのだが、余裕はない感じ。

この曲、尻切れトンボ的な変な終り方である。
次が、三重唱で、ソプラノが再び入って来るので、
そんなに違和感はないが、ここで、拍手を入れるには、
ちょっと歯切れが悪い。

「これは、オーボエ2、バスーン2と弦楽と、
独唱者たちによる、ホ長調の三重唱に続くが、
これはオリジナルの『クオニアム』による。」

Track9:三重唱。
「私のすべての希望は、
あなたの中にあります。
神よ、私を追いかけて苦しめる
あなたの凶暴な敵から私を護りたまえ。
ああ、神よ。救い給え。」

この曲も、女声による、
高い所9での声の交錯が美しいが、
凶暴な敵が悪いと、
当事者意識に欠け、「悔悟」の要素はない。

つづいて、いよいよ終曲である。

「終曲のハ長調の合唱、
『神のみを希望とするもの』は、
オリジナルの『イエズ・クリステ』により、
ポリフォニックな、『何の怖れもない』は、
本来、伝統的な典礼のテキスト
『クム・サンクト・スピリトゥム』に、
うまくマッチしていた。
これに対し、モーツァルトは、
独唱者たちが最後の栄光を歌うための、
新しいカデンツァを追加した。」

Track10:合唱。
「このような危機にあっても、
神のみを希望とするものには、
何の怖れもない。」

何だか短い歌詞であるが、
4分半にわたって、フーガの書法もちらつかせながら、
合唱の壮大さや、技巧に聞き惚れる部分。
ティンパニの連打、オーケストラも豪壮で、
木管群は独特の音色と音型で和声を支えている。
弦楽のちょこまかした動きは、
シューベルトにも連なる要素がある。

やがて、独唱者も加わってくると、
その精妙な声の交錯の妙味に続き、
バーンと盛り上げて終わる迫力もあって、
さすがに、絶頂期のモーツァルトが書き上げた、
晴れある舞台のための作品という感じがしてくる。

が、かなりひいき目に書いての話で、
実際は、え、これだけ?という感じの方が強かろう。

悔悟している率は2~3割程度で、
ダヴィデっぽさは、1~2割程度。
「悔悟するダヴィデ」の含有率は、
10%程度と言えるのではなかろうか。

解説は、
「よりテキストにマッチした、
二つの新作の劇的なアリアと、
最後の何小節かに、全作品の興味の中心がある。」
という感じで、かなり突き放してくれる解説である。

いずれにせよ、モーツァルトの「悔悟するダヴィデ」は、
ライヴァル、コジェルフの大作、「エジプトのモーゼ」以上に、
内容に偽り有りの作品のような気がする。

カンタータが、ヘンデルの「メサイア」のようなものであるならば、
この「ダヴィデ」は、まったく物語がなく、オラトリオというより、
祝祭声楽作品といった感じが強い。

こうして、隅から隅まで、
このCDに書いてあることを精査しても、
内容からして、「悔悟」でも「ダヴィデ」でもない。
ナクソスという廉価盤レーベルの、
制限されたページ数など予算の限界であろうか。

それにしても、この作品の委嘱はいつなされたのであろうか。
1784年から1785年の春といえば、
確かに、モーツァルトは父親の来訪があったし、
すでに書いたように、「ハイドン四重奏曲」の作曲、
有名なピアノ協奏曲20番、21番の作曲などで多忙ではあった。

特に、ハイドンに捧げられた四重奏曲群は、
かなり苦心惨憺だったとされているので、
このために、うまく時間が取れなかったのかもしれない。

「悔悟するダヴィデ」鑑賞には、
さらなる介護が必要である。
どこがどうダヴィデなのか。
結局はよく分からなかった。

さて、このCD、次に収められた「レギナ・チェリ」は、
同じハ長調ということで選ばれたのだろうか。

解説には、こんな事が書かれている。
「1770年と1771年に、
モーツァルトと父親は、
イタリアにいて、ボローニャにて二・三ヶ月を過ごし、
ここで、マルティーニ神父から、
モーツァルトは、伝統的な対位法を授かった。
このイタリア旅行の結果として、
『レギナ・チェリ』K.108が1771年5月、
帰国後にザルツブルクで書かれた。」

1771年といえば、
モーツァルト15歳である。
イタリアにプチ留学した中学生が、
帰郷後に意気揚々と書いた作品という感じだろうか。

「オーボエ、ホルン、トランペット2、
ティンパニ、弦楽合奏とソプラノ独唱、
4部の合唱、オルガンのバスによる。
祝祭的な最初のハ長調部は、
二つのフルートと弦楽合奏によって伴奏される、
華麗なソプラノ独唱と、対位法的展開を見せる合唱の、
ヘ長調の部分に続く。」

「喜べ、天の女王よ、アレルヤ」と歌われる、
かなり激しい始まりの曲に比べ、
このソプラノは優しく、
「その言葉のとおり、
彼は復活された」と歌う。

「弦楽合奏を伴奏に、イ短調のソプラノ独唱は、
『アダージョ・ウン・ポコ・アンダンテ』と記され、
『我らのために祈れ』と歌われる。」

この部分は、一転して、憂いの表情を見せ、
シンプルながら、伴奏音型にも切迫感がある。
「神のために祈れ」と、
ソプラノ独唱が切々と歌う。

最後の『アレルヤ』では、独唱、合唱に加え、
フル・オーケストラが戻って来る。」

いきなり、ティンパニが鳴り響き、
晴天の青空を思わせる解放感の中、
混声合唱の中から、軽やかなソプラノが浮かび上がる。

「悔悟するダヴィデ」よりも、
こちらの方が、純粋に楽しい音楽で、
これをCDの最後に持って来ているのは良かった。

得られた事:「コジェルフ対モーツァルトのオラトリオ対決は、力作という意味でコジェルフ圧勝。」

(追記:この作品、私の知識レベルにまだ問題があり、再検討予定。)
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by franz310 | 2009-10-25 09:16 | 音楽 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その196

b0083728_14212723.jpg個人的経験:
前回聴いた、コジェルフ作、
「エジプトのモーゼ」。
私たちが知っている、
モーゼの印象とは、
かなり違っている。
今回は、コジェルフの
作品から150年を経て、
1930年代の作品でずっと有名な、
シェーンベルクによる、
オペラも見て行きたい。


コジェルフの作品はオラトリオであったが、
シェーンベルクの作品もまた、
オラトリオとして構想されたという。

この作品、実は未完成である。

が、最盛期のシェーンベルクによって、
巨大な労力を費やされた大作が、
無意味なものだったわけはなく、
近年、しばしば、最も過激な歌劇として、
語られる機会が増えている。

私が音楽を聴き始めた頃、
このブーレーズ指揮による全曲録音が、
CBSソニーから出て、
メロディーがない現代音楽の大作、
(2枚組で高い)
しかも未完成?ということで、
いったい、誰が、こんなレコードを買うのだろう、
などという感想を持ってしまった。

しかし、当時のブーレーズは、
現在の彼の老巧から考えると嘘に思える程、
「現代音楽の闘士」というイメージが強く、
同時期にシェーンベルクの「グレの歌」
(これは昭和50年度のレコード・アカデミー賞受賞)や、
ベルクの歌劇「ヴォツェック」や、
バルトークの「青ひげ公の城」といった、
20世紀オペラの傑作や、
ベルリオーズの「レリオ」、マーラーの「嘆きの歌」のような、
問題作を、次々に世に出していたので、
このレコードもまた、妙に印象に残っている。

それに加えて、ジャケットも、
十誡の石版を捧げ持ち、シナイ山から降りてくる、
モーゼの姿がものすごく印象的だった。

頭部からは何を意味するのか、
2本のサーチライトが暗雲たれこめる天空に投射されている。
山の下で待つ群衆は、恐れと期待を持って、
彼の下山を待っている。

しかも、当時のソニーのカタログには、
こんな解説(コピー)があって、
かなりそそるものがあったのは確か。

「この作品は、十二音音楽の集大成と言われ、
その難曲さゆえに作曲者自身、
上演不可能と予想した。
しかし、その懸念もブーレーズによって完全に打破された。
鮮明な音色、鋭利なリズム、劇的な効果、
寸分の隙もなく直結する確かな表現、
それに優れた録音技術を得て、
この不滅のモニュメントは蘇った。」

見ると、昭和50年度文化庁芸術祭レコード部門大賞受賞、
などとも書かれている。

この後も、このオペラは録音されることは少なかったが、
名作として高名にはなっていて、
例えば、昭和54年の芸術現代社の「オペラ全集」には、
武田明倫氏がこの曲を受け持って解説を書いている。
おそらく、このブーレーズの画期的レコードがなければ、
こうしたことはあり得なかったと思われる。

でも、私は、このオペラは買わなかった。
私がブーレーズのシェーンベルクを聴いたのは、
まず、コロンビアから出ていた
廉価盤の「浄められた夜」が最初で、
それから10年近く経って、
「ワルシャワの生き残り」のレコードが出た時に、
聴いたのが、ソニーに録音していたものの最初だったと思う。

それから、続けて、「ピエロ・リュネール」もブーレーズで聴いた。

ということで、この作品はこれまで、
まともに味わっていなかったのだが、
コジェルフの「エジプトのモーゼ」が、
単に、母子の別れの葛藤という個人的な話になっていたので、
ここは一つ、もっと有名な作品で、
モーゼ観をリセットしておく必要があろう。

そもそも、聖書において、モーゼの話は、
非常に多岐にわたっており、以下のポイントを、
無視するわけにはいかない。

1. BC14世紀、エジプトの
ラムセス大王が残酷な命令を出す。
これはエジプトに生まれるユダヤ人の子供が、
男の子だった場合、全員殺せ、
というものである。
モーゼは、ナイル河に流され、
王の娘がたまたまそれを見つけて育てる。

2. しかし、何故かモーゼは、育った時には、
自分がユダヤ人であることを知っていて、
老いたユダヤ人をいたぶっていたエジプト人を殺してしまう。
逃げたモーゼは、砂漠で羊飼いになって暮らしたが、
簡素な生活の中で、エホバの神の信仰を思い出す。

3. エジプトはミネバ王の時代になっていて、
モーゼはそこに戻ってみたが、ユダヤ人たちは、
すっかり奴隷根性が染みついている。
モーゼは彼らを引き連れて、エジプト脱出を夢見るが、
モーゼの言葉など、誰も聴かなかった。

4.ここで、モーゼは、言葉による説得は、
弁舌爽やかな兄のアロンに任せる。
(このあたりがシェーンベルクの着眼点である。)

5. モーゼがユダヤ人解放を王様に願い出ると、
王はさらに苦役を厳しくし、ユダヤ人は余計にモーゼを憎む。

6. 神はモーゼとアロンに不思議な力を授け、
様々な災害で、王様を追い詰めた。
ここでの災害は、まるで、地球温暖化と、
新型インフルエンザ蔓延に苦しむ、
現代に通じて、背筋が凍るではないか。
以下、地球温暖化ネタではG、
インフルネタではIの記号を振ってみた。

T1:水を飲めなくする(G)。
T2:蛙大発生(G)。
T3:蝿大発生(G)。
T4:家畜への疫病(I)。
T5:体中に膿が出る疫病の蔓延(I)。
T6:雹による農作物の全滅(G)。
T7:火事(G)。
T8:いなごの大群(G)。
T9:砂嵐(G)。
T10:赤ちゃんの全滅(I)。

ほとんど、これでもかこれでもかの世界。

7. 王はいったんは解放を宣言するが、
モーゼ一行の後を追って紅海まで追い詰めるが、
モーゼらはここを平然とわたり、
王の部下はみな溺死してしまう。

8. ユダヤ人たちは40年もさすらって故郷を求める。
嫌気がさしたユダヤ人らの絶え間ない不満がモーゼを苦しめる。
彼らをまとめるには、神の言葉しかないと、
モーゼはシナイ山に上って、40日の山ごもりを決行。
ついに、エホバの言葉が書かれた十誡の石版を得る。

9.一方、モーゼのいない間、ふもとに残っていた、同胞たちは、
金の仔牛の偶像を作って、乱痴気騒ぎをして楽しんでいた。
モーゼはそれを怒って、石版を打ち壊す。

10.モーゼは怒り狂って、3000人のユダヤ人を殺し、
律法を徹底し、故郷に近づいたが、
約束の地を見たところで死んでしまう。

ということで、とんでもない、
殺人鬼のような人がモーゼということになる。

コジェルフは、この10ポイントのうち、
1を背景に、3と6のあたりをストーリーに採用した。
得点25点である。

一方、シェーンベルクは、コジェルフ採用部分には、
あまり興味がなかったようだ。

作曲家が手こずって、10の部分は未完に終わったが、
3と4と8、9を取り扱い、6の一部も取り上げて、
40~50点の出来である。
両方足すと、かなりの合格ポイントまで行きそうなのだ。

モーゼの十誡は、こんな内容である。
1. エホバのみが神。
2. 偶像崇拝の禁止。
3. 神の名をみだりに唱えない。
4. 6日労働、1日は礼拝。
5. 両親を敬う。
6. 殺さない。
7. 姦淫しない。
8. 盗まない。
9. 偽証は駄目。
10.隣人のものをむさぼらない。

コジェルフは、こんな事には無関係で、
ただ、ユダヤ人の解放にのみに焦点を当て、
王様との交渉を主軸においた。

コジェルフが民族問題を意識していたかは不明。
だが、王様と民衆という構図は、
フランス革命の直前、けっこうナウなテーマだった可能性はあろう。

一方、ナチスの時代にあって、
シェーンベルクは、むしろ、同胞への怒りが、
その興味の中心になっているようなのが面白い。

意識は我々に近いようである。
悪いのは相手であって、
「我々は正しい」と繰り返すコジェルフは、
すこし、共感を呼びにくい。

彼は、母子の別れ、親離れという普遍的なテーマを扱ったが、
シェーンベルクは、自らの内なる敵を注視している。

というか、人間とはこんなものだ、
と言いたいのかもしれない。
ナチスによるユダヤ迫害期にあって、
彼は、改めて、人間の本質にまで、
思索を深めたものと思われる。

つまり、モーゼが主人公ではなく、
まるで、ジキル博士とハイド氏のように、
同じ人間の両面を、理想主義的なモーゼと、
現実主義的なアロンの兄弟に代表させて、
二人合わせて主人公となっている。

コジェルフが、アロンを女声にして、
単なる伝令みたいにしてしまったのではなく、
シェーンベルクは、血肉を分けたアロンを語ることで、
モーゼの苦しみをさらに深掘りした。

常に問題は我らの内面にあるということであろう。
これは、人生において、非常に重要な認識で、
多くのビジネス書なども、これを語って留まるところがない。

シェーンベルクもあの時代にあって、
単に、ナチスが悪い、と考えて糾弾したわけではなく、
どうしてそんな連中が出て来てしまったのかを、
熟慮したような姿勢が伺える。

しかし、このオペラの民衆のように、
そんな考え方は、一般には受け入れられなかったかもしれない。
そもそも、第2幕の酒池肉林の世界などは、
ナチスを描いたものではなく、
自らの民族の過去を恥をさらしたような面があろう。

アメリカはユダヤ人社会の国であるとも言える。
しかも新しい国で、勧善懲悪のような考え方しか出来ない。
そんな場所で、この作品の上演を夢見られるような、
単細胞のシェーンベルクではなかった。

だから、完成など出来るわけはなかったのではないか。

さて、このシェーンベルクのCD、
LP発売時の懐かしいジャケット採用なのが嬉しい。
このモーゼのデザインについては、作者など書かれていないが、
最近、出回っているシリーズものでは、
このデザインは不採用となっている。

BBC交響楽団の演奏で、モーゼにギュンター・ライヒ、
アロンにリチャード・キャシーが配されている。

コジェルフは、4人の独唱と合唱からなったが、
こちらは、他にも、11人の歌手名が並んでいる。
合唱はBBCシンガーズ、オルフェウス少年合唱団。

CBSオペラ・ライブラリーというシリーズでの発売であるが、
これは、実は、かなりふざけたもので、レギュラー価格ながら、
歌詞対訳が付いていないという禁じ手を平気で使っている。

CDが出たての頃の殿様商売である。
LPのように頻繁に面を交換する必要もなく、
きれいにクリーニングしなくてもそこそこ聴ける、
という点で、みんなCDを欲しがったのである。

しかも、このCDの解説は、作曲家で、音楽分析にも優れ、
マーラーなどの作曲家の紹介に力あった、故柴田南雄氏、
やはり作曲家でこうした舞台作品に造詣が深い林光氏が、
名を連ねているところがすごい。

柴田氏は、
「シェーンベルクは、モーゼとアロンの物語の
最も劇的な部分を借りて、叙情的な筋の運びの間に、
自己の宗教観、世界観の表明を行おうと試みた」作品とし、
モーゼとアロンの葛藤を、
「それを換言すれば、精神的:没精神的、
神性:魔性、法:幻影、想像できぬもの:可視的なもの、
神への祈り:自身の神化、聖:罪、
精神:肉体、信念:行動、信仰:知性、
神秘:現実、確信:疑問、宗教性:世俗性といった、
幾多の相反する両極端で代表されている」
と書いている。

しかし、信念と行動を極端とされては、
信念を持った行動が出来なくなってしまいそうだ。

「台本はシェーンベルク自身の手で1925年頃に着手、・・・
作曲はやや遅れて1930年7月に着手、
ほぼ2年後の1932年の3月10日に、
当時好んで滞在していたスペインのバルセロナで、
第2幕までを完成した。
ナチ・ドイツからの追放の後、
1934年から35年にかけて、
シェーンベルクはアメリカで第3幕の台本を書いているが、
作曲は遂に未完に終わった。」
とあるように、シェーンベルクの音楽の完成期とされる、
1920年から1933年にすっぽり覆われ、
50歳から60歳までの円熟期に悪戦苦闘した作品とされる。

こんな年になってから、追放宣言されたシェーンベルクは、
さぞかし辛かったに相違ない。

なお、作曲者自身、演奏不可能とされた手書きスコアを、
ヘルマン・シェルヘンが、恐ろしい集中力で、
フルスコアに清書していったというエピソードが泣ける。

各曲の構成については、アレン・フォートという人が概略に触れ、
故深田甫氏があらすじを書いているが、
何度も書くように歌詞対訳がない。
こうした、思想的な作品では、あまりにもハンディが大きい。

しかし、乗りかかった舟なので、
非常に不安ながらも、
ひたすら、聴き進むことにする。

CDの解説に、音楽之友社の、
作曲家別名曲解説ライブラリーを参照した。

CD1枚目には1幕(情景が4つと間奏曲)、49分35秒、
CD2枚目には2幕(情景が5つ)、50分45秒が収められている。
したがって、音楽は10に大別できる。
さすが、十誡がらみの作品である。

第1幕情景1は、8分22秒。
「モーゼを召す喚び声」とされ、
神に祈りを捧げるモーゼに、燃える荊の繁みから、
民衆の悲惨な状況を救うべしというお告げが下る。

様々な楽器(寂しげな木管や弦楽の錯乱)に、
声(語りと朗唱)、メロディアスな合唱が交錯する神秘の音楽。

砂漠でアロンと会うので、彼に語りを代弁させよ、と言われる。
モーゼは、口べたで、ただ、羊の番人を続けることしか、
求めていなかったからである。

第1幕情景2は、7分15秒。
「モーゼ荒野にてアロンと会う」情景。
へんてこな二重唱である。
アロンが陶酔的に朗々と歌う中、
モーゼは、観念的な神をシュプレヒシュティンメで、
まくし立てる感じである。
とにかく、ここで彼らが出会い、
役割分担が出来たということだ。

しかし、ここで、いきなり二人の相違を際だたせている。
想像を絶する神の概念は、純粋な思考のみとするモーゼ。
アロンはイメージなしには人々は神を愛せないと言う。

個人的にはアロンの方が正しい気がするが、
シェーンベルクは、
こうした人間本来の習性に立ち返るしかなかった。

第1幕情景3は、6分36秒。
「モーゼとアロン往きて、
民に神の福音を告げ知らしむ」の情景。

ようやく、女声独唱が活躍する。
民衆が彼らの不安と期待が交錯して、
合唱団の分割や、様々な声の重なりが、
この情景を生き生きとしたものにしている。

群衆からは、
「昔の神は権力者ばかりを助けたが、
新しい神は民の味方、美しく高く深い御心の、
我らの新しい神を信じよう」と歌われる。

ここではモーゼとアロンは、最後に登場する。
「見ろ、モーゼだ、アロンだ、二人とも着いたぞ!」
と群衆が叫ぶ。

第1幕情景4は、25分とかなり長い。
ここでは、民衆と彼らの軋轢が表現され、
「新しい神のお言葉を持って来てくれたか」という民衆に、
彼らは神の姿を証拠立てることが出来ない。
アーロンは、「心正しき者には、神の姿が見える」といい、
「神様の栄光が私には見える」と、
少女や若い男は言い出すが、僧は毒づく。
アロンは、「神が見えないのは破滅だ」などと、
極論を持ち出す。

民衆は、それなら全員破滅だ、と応酬。
「アロンの言葉に頼った私の思想は無力でした」と、
前半6分ほどで、すぐに弱音を吐く。
やはり、神の姿が見えないのは不安なことなのである。

このあたりから、奇跡が少し開陳される。
アロンは、民衆に向かい、
「黙れ、言葉は私のもの、そして行為もだ!」
と叫んでモーゼの杖を蛇に変えて見せる。
さらにアロンは、ライ病の人を治し、
ナイルの水を血に変えてみたりして見せる。

これによって民衆の心は一つになって、
砂漠に向かって出発する準備が出来る。

大衆というもののとらえ方が、
18世紀末と20世紀前半で、
大きく変化したことを意識せざるを得ない。

コジェルフにあっては、言われれば動くはずの民衆は、
アロンの指示で、すでに出発を待つばかりになっているが、
シェーンベルクでは、民衆は、モーゼとアロンが、
力を合わせて、1幕をかけて説得しないと、
まるで動かない皮肉に満ちた存在である。

しかし、モーゼの言葉は、民衆には通じない、
という設定は、どこから来たものであろうか。
聖書は、ただ、事実として述べたのか、
それを、うまく利用し、シェーンベルクが、
新しすぎる自分の音楽になぞらえただけなのか。

最後は、ヒステリックな管弦楽が咆吼し、
砂漠に向けて出発する民衆を描いている。

最後の「間奏曲」は、2分。
武田明倫氏の解説には出ていない。
CDには、単に「間奏曲」とある。
名曲解説ライブラリーには、
いつのまにか見えなくなったモーゼを、
民衆がいぶかるシーンとある。
ひそひそ声に、不思議なリズムの合唱が重なる。

第2幕情景1は、3分18秒。
壮大なオーケストラの開始部に、
男性合唱が重なり、70人の長老たちの怒った様子が描かれる。
「アロンと70人の長老たち、啓示の下るシナイ山のまえにいる」
と題されている。

アロンが奇跡で民衆を動かしたことを、
モーゼは快く思っておらず、
神の啓示を求めて、シナイ山に籠ってしまったのである。
民衆の怒りは当然である。
もう、40日も経っている。

第2幕情景2は7分11秒。
かなりヤバい状況である。
民衆は不安に駆られ、暴徒化しており、
モーゼを八つ裂きにすると騒ぐ。
長老はアロンに助けを求め、
アロンは遂に、自ら福音者になって、
偶像崇拝を許してしまう。

民衆を前に怖れ、
やむなく信念を曲げるシェーンベルクのアロンは、
あまりにありそうな政治家像である。

しかし、もはや、この民衆は正気を失っている。
アロンでなくとも、とても恐い。
革命前の扇動された民衆は、こんな感じではないか、
と思われるほどリアルである。

第2幕情景3は、「黄金の仔牛と祭壇」と題され、
28分35秒という長丁場。
シェーンベルクの妄想のシーンが前開となった、
問題満載のスキャンダラスなシーンとなる。
CDにも、「破壊と肉慾の乱痴気騒ぎ」と書かれている。

オーケストラは、ホルンの咆吼が続き、
不気味な弦楽のノイズ音が現れて、
何やら、悪いことが行われている感じ。

ティンパニの連打。
人を喰ったような珍妙な管楽器の破裂音に弦楽が軋む。
様々な楽器の細かい音型のメロディーの断片の、
集積に、ややこしいリズム音型の修飾が重なり、
怪しい打楽器群が鳴り響き、黄金の仔牛の偶像を前にしての、
酒池肉林の場が活写される。

このトラックには、インデックスが17もついていて助かる。
かいつまむと、
「屠殺者たちの舞踏」、「若者を打殺」、
「酩酊と舞踏の乱痴気騒ぎ」、「処女たちの刺殺」、
「エロティックな放縦乱舞」などなど、絶対にいかれている。

この偶像にあやかろうと、病人の女や、
馬に乗った部族長が集まって来るので、
理想主義の若者が偶像を壊そうとするのを、
反対にみんなで撲殺してしまう。

やがて、様々な独奏楽器が静かに勝手なメロディーを歌い出し、
酩酊の様子が描かれる。
完全に、このめちゃくちゃ状態に、民衆は満たされている。
長老たちは、民衆の陶酔を見て神を賛美する。

やがて、裸の処女たちが登場、これまた酔いしれた独唱に続き、
合唱でも、「おお、黄金の神様」と艶めかしい賛歌が続く。
この連中もしかし、僧に殺されてしまう。
その血は供物とされ、民衆は扇動されて、ますます、いかれていく。

打楽器が刻むリズムに、滅茶苦茶な金管の炸裂が重なっていき、
例の放縦乱舞が続いていく。
若者が飛び出し、女を祭壇に供えると、
わーっと合唱が叫び、女の略奪の部に入る。
快楽賛美の合唱と共に、次第に音楽は遠ざかっていく。

このような状況で、モーゼは何をやっていたのか。
第2幕情景4(1分10秒)になってようやく彼は下山する。
このシーンこそ、このCDの表紙に描かれた部分である。

「モーゼが降りて来るぞ」という叫び声。
モーゼの声は強烈である。
「消え失せろ偶像!」

第2幕情景5は完成された最後の部分で、10分28秒。
ここでは、リリカルなアロンと、
意思に満ちたモーゼの舌戦が繰り広げられる。
思想も言葉も何にもならない、奇跡を見せるのが、
自分の任務だと、アロンは歌う。

モーゼは、思想そのものの力を信ずる。
しかし、アロンは納得せず、モーゼは遂に、
十誡の板を割ってしまう。
謎の合唱が響き、アロンが奇跡で、
民衆を味方につけたのである。
「おお、言葉よ、言葉よ、
我に欠けたるは汝なり。」
そういって、モーゼは絶望して倒れる。

まったく理解されない音楽を書いた、
シェーンベルクならではの絶叫だと思う。

アロンがどこから、奇跡の力を仕入れたか分からないが、
これは言うなれば、
大衆へのこびへつらいであって、
確かに信仰の本質は、
それによって左右されるようなものではあるまい。

とはいえ、シェーンベルクの音楽が、
神の福音の本質に迫るものであるから、
理解が困難である、という論拠もおかしかろう。

しかし、このモーゼ、
俺様口調で言い張るコジェルフのモーゼと違って、
自分の思想そのものに時折悩み、
懐疑的でもあるところが好感が持てる。

何が正しく何が正しくないかなど、
なかなか分かるものではない。

民主党が50年も前に計画された、
ダム計画を見直したくなって、
建設を中止したいのも分かるし、
ダムがないと治水や、
食料時給時の水資源が枯渇するという、
推進派意見もまた、間違っていないはずなのだ。

さて、未完の3幕では、
反対にモーゼがアロンに打ち勝つが、
それでもなお、この兄弟は論争をしているらしい。
このCDでは、何も演奏されていないが。

今度は、「自由」というものに対して、
モーゼとアロンの論争はさらに続くようだが、
最後は、約束の地を見る前にアロンは死んでしまう、
と言う構想だったらしい。

アロンの自由は彼自身の精神の自由、
モーゼの自由は、神の心に仕えることだという。
強制収容所に送られたユダヤ人を思えば、
モーゼの自由は、何の効力もなさそうなのだが。

林光の解説では、この作品は、
「拡大された室内オーケストラ」の作品、
などと書かれているが、
管弦楽は非常に繊細、ブーレーズのような透明な解釈は、
作品の見通しをよくしてくれて助かる。

それにしても、同じモーゼが題材でも、
兄弟のアロンは、コジェルフでは年少の伝令風、
シェーンベルクでは、現実路線を模索する年長者風と、
まったく解釈も異なり、モーゼも前者では若者、
後者ではおっさんである。

さらに取り上げた部分もまったく異なり、
シェーンベルクにはファラオは登場しない。
ユダヤ人だけの話に終始している。

得られた事:「コジェルフの時代、まだ民衆は信頼するに足りたが、シェーンベルクの時代、それはすでに不気味なカオスと化している。」
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by franz310 | 2009-10-18 14:33 | 音楽 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その195

b0083728_15571220.jpg個人的経験:
前回、コジェルフの大作、
「エジプトのモーゼ」を聴いたが、
前半で力尽きた。
今回は、後半を続けて聴いて見よう。
ユダヤの同胞を率いて、
隷属していたエジプトから、
モーゼが出立する前に、ファラオと、
モーゼの育ての親で王女のメリームが、
邪魔立てしようとして神の怒りを買う。
天変地異が起こり、えらいことになった。


そこで、全能の正しき神ならば、
いっそ、ファラオもメリームも亡き者にすれば良かったのに、
第二部でも、この分からず屋たちは相変わらず、
敵対してモーゼの前に立っているようである。

そもそもモーゼは、ファラオの許しだけでなく、
ファラオに信心まで求めたので、話がこじれたのである。
キリスト教圏の人がみな、
こうした思考だとすれば、
とても、まともな交渉など出来はしない。

二枚組CDの二枚目を始めから聴いて行こう。

ちなみに、解説によると、こんな内容である。

「第2部の最初の部分で、
改めてイスラエルの民は自由を求める。
これまでにファラオは、
これ以上の抵抗はしないと決めている。
メリームは別れを言わねばならぬことで悲しむ。
1790年のヴィーンでの2回目の上演時に作曲された、
情景とアリア、
『何を見るのか、何を怖れるのか』(CD2のトラック6)は、
1787年の初演では、ここに置かれていた、
ことわざのアリア、
『風の強いひと吹きが』(CD2のトラック5)よりも、
音楽的にもスタイルの点でも近代的である。
こちらの方が母の愛をさらに感動的に表わし、
印象的な人間的感情を加える。
今回の録音では、
二つのバージョンを聴き比べられるように、
どちらも聴けるように並べたが、
演奏会で並べられたことはない。」

私は最初、このような事情を知らずして、
このCDの二枚目を聞き流していて、
延々と続くメリームの歌に辟易したが、
ちゃんと解説は読まないといけないと痛感。
トラックのみ見ていても、
そこまでは書いてない。

何しろ、Track1とTrack3の合唱が、
そもそも繰り返しなので、
Track4に来た時点では、
かなり、うんざりした精神状態になっているので、
この攻撃はかなり耐え難いものであった。

しかし、このように、
Track4、5(計9分)と、
Track6(7分19秒)は、
どちらかを聴けばよいということが分かった。

このCDの二枚目は、聞き流してはいけない。

さて、続き。

「モーゼは神に嘆願し、助力を嘆願する。
アーロンが、人々の出発の準備が出来た事を知らせると、
メリームは虚しく息子に留まるよう再度願う。
ファラオは自らの気違いじみた憎悪と戦う。
アーロンはメリームに、父王に、
良い印象を与えるようにとアピールし、
虚しくも、彼女が神の善性を確信するように試みるが、
彼はモーゼを『危険な魔法使い』と考えている。
王女が、モーゼはそのミッションを捨てることはなく、
すでに、なすすべがないと気づくと、
彼女は理解を示さず、怒りに身を任せ、彼を完全に拒絶する。
モーゼとしては、結局、民と共に去っていく。
モーゼとメリームという、
二人の主役の間の確執が、第1部より目立ち、
モーゼにとっては、神の指示と養母との関係の矛盾となり、
メリームにとっては、息子への愛情と、
同時に、彼の行動への悲劇的な理解しがたさが矛盾となる。
彼が与えられた責務を果たすには、
自らが根無し草となって、そして母をも捨て、
自由になるしかなかった。」

こんな内容のオラトリオであるが、
いったい、ここに何を我々は読み取ればいいのか。
コジェルフも、台本作家も、いったい、
どんな気持ちでこれを書いたのだろうか。

結局、話し合っても無駄、みたいな教訓しか私には感じられない。
モーゼが行ったのは、神が言うから仕方がないんだ、
という狂人のロジックでしかなく、
隷属状態からの解放には、力ずくでやるしかない、
ということであろうか。

フランス革命を前にした当時の人々の感覚とは、
こんな感じだったのだろうか。

で、それをコジェルフは代弁して見せたということか。
ナポレオン戦争を経て、第一次大戦に突き進む思想の萌芽を、
ここに見るべきなのだろうか。

このような意味でも、
聖書を傘にしたこのドラマを、
我々が正しく鑑賞するには、
かなりのハードルがあると言わざるを得ない。

CD2を順番に聴いて行こう。

はたして、分からず屋たちは和解したのだろうか。

Track1:合唱。
「知られざる神の強力な手が、
我々を打ち崩し、破壊した。何が起こるのだろう。
隷属のイスラエルの民を自由にし、
我らの惨めな境遇を終らせよ。
モーゼを解き放て。」

静謐なクリスマスの夜に奏でられるに相応しい、
晴朗なメロディーの美しい合唱だが、
内容はちょっと、いや、かなりヤバい。
このような清純な音楽にする必要が、
どこにあったのかはよくわからないが、
これが、当代とっての人気者たる所以であろう。

Track2:ファラオのレチタティーボ。
「もういい。
残った連中をここから去らせ、
多くの災いの種を追いやってくれ。
哀れなエジプトよ。
最後には一息つけるだろう。
私はこの怒り、憎しみ、憤怒をぶちまけ、
復讐できればいいものを。」

この怒りに満ちたレチタティーボ、
36秒しかないが、おそらく、
先の合唱に変化をつけるために挿入されたもの、
あるいは、この怒りを理由に、
それを慰撫するような合唱を置く理屈をつけた、
と考えてしまうほどだ。

Track3:合唱の繰り返し。
後半に入って、コジェルフの悪い所が顔を覗かせる。
このメロディーが気に入ったものと見え、
コジェルフは何度も繰り返して、
いつか読んだ、コジェルフは似たような繰り返しが多い、
という当時からの評判を思い出した。

そもそも、天変地異が起こったので、
1から3の、何も起こっていないような、
意味のないトラックは省いても良いのだ、
何故なら、次に、メリームがもっと恐れおののいた歌を、
次に歌っているからである。

前述のように、以下、
メリームのレチタティーボとアリアが続く。
以下は、トラック6と差し替えてもよい。

Track4:メリームのレチタティーボ。
「どこに行けばいいのだろう。
どこに隠れればいいのだろう。
この凶暴で残忍な野獣の住む恐ろしい場所で。
この恐ろしい夜、エジプトの民たちをなぎ倒したのは誰。
この国の動物たちに、ここまで冷酷に出来るのは誰。
誰がこの血を流させたのか。
可愛そうな哀れな母よ。どんな神が、
あなたがたを、その力の的としたのか。」

このレチタティーボは、
先の天災に対する恐れをダイレクトに表わして、
私は悪くないと思う。
人々の動揺を示す、伴奏の動きも説得力がある。

Track5:メリームのアリア。
「風の猛威。
よくしなる藻のついた蘆はそのままに、
大きな古いオークの木をなぎ倒すつむじ風。
抵抗するものを苦しめ、
屈する者を許す寛大な心。」

確かに、この内容、比喩が多く、評論家的である。
ただし、音楽は、高らかなファンファーレに続き、
壮麗である。それだけに形式的にも聞こえるのかもしれない。
妙に英雄的で、話の筋としては、ファラオにでも歌わせたいものだ。

Track6:メリームのレチタティーボとアリア。

こちらが再演時のメリームの担当分である。
音楽も葛藤を表わし、メロディーも精妙で心に染みる。

さらにそれが、快活なリズムになだれ込んで、
まるで、オペラの情景のように、鮮やかな印象を与える。
これは、全曲でも屈指の部分であろう。
コジェルフは1790年まで、その実力は健在であった。

「私は何を見るのか。何が私を圧倒するのか。
私はモーゼを見ることが出来ない。
心の中に起こったこの戦い。
彼が去り、別れを言わねばならぬというのに、
私の血は氷のようだ。私の心は引き裂かれた。」

登場人物の心理描写という点では、
まるで、モノローグのようで秀逸。

「臆病な恐れによる声ではなく、
私の恐れは理由なきもの。
たぶん、私の不運な、なおも愛する息子は死ぬでしょう。
私は私が死ぬのも分かる。
そして涙が溢れる。
この涙は、息子よ、たぶん、これで最後でしょう。
この別れの言葉、愛する息子よ、これも最後でしょう。
心の苦悩。もはや、神よ、慰めはありません。
何と言う瞬間。
恐怖に満ちた永遠の神よ。
私の苦痛は大きいのに、まだ、こうして生きて呼吸している。
神よ、かくも恐ろしい運命を前に、
この心をどうすればいいでしょう。
母の純粋な愛が、せめて、あなたの同情となることを。」

それにしても、天変地異で、
回りがめちゃくちゃになっている時に、
この人たちは、何の働きもせず、
ただ、何の助けにもならぬ自分の感想を言い続けているところが、
完全に大企業病である、というのは皮肉にすぎようか。

そういった意味で初演時の歌の方が、
筋としては通っている。

Track7:モーゼのレチタティーボ。
「至高なる神よ。
あなたの叡智と力をへりくだってあがめます。」

モーゼは主人公なのだから、
周りを助ける働きをして欲しいものだが、
洪水の後は、なすすべもないのか、
まるで、他人事であるのが悲しい。

これまた、自分の世界に浸った歌で、
マルクス・シェーファーの内省的な声も、
この緊急時とは思えぬ敬虔なもの。

「イスラエルの民を罰する恥ずべき鎖は、
遂に打ち砕かれた。
神よ、許し給え、罪ある民衆を。
人の心をよく知る神ならば、
彼らの自責と後悔は分かりましょう。
彼らを良きものにて守りたまえ。
信頼と愛と希望と。」

Track8:モーゼのアリア。
「苦く恐ろしい自責の念を心から感じ、
愛を求め、あなたからの助けを請う民には、
慈悲を受ける価値がある。
彼らは一度は裏切ったが、
その盲目を恥じています。
このような愛情を見て、
彼らの不動の信頼が、
失われることはないでしょう。」

明朗な歌唱を、木管が優しく彩る。
このような歌が続く際、前のアリアは、
初演版は、動と静の対比という意味では自然であり、
再演版は、心理と心理の対比という意味で興味深い。
意外に、初演版が正解のような気がする。
神の怒りをまの当たりにした人々の歌としては、
少しリリカルにすぎる。

Track9:アーロンとモーゼのレチタティーボ。

これから出発の時。
何度も書くが、何故か女声のアーロンが使者となってくる。
しかし、アーロンを担当するぴんと張り詰めたものがあって、
ペリッロの声は至純で、急を告げる感じはよく出ている。
また、レチタティーボとは言え、伴奏のメロディは素敵だ。
これなどもシューベルト風としか言いようがない。

「アーロン:王女様、兄弟、すべての民の準備は出来ました。
民も家畜も、自由を味わっております。
母の腕にあってまだ自由の贈り物を知らぬ赤子とて、
喜びの様子を明らかに見せています。
すべては整いました。
後はリーダーを待つのみです。」

ピアノフォルテのぱらぱら音に続いて、
モーゼの歌が始まる。

「モーゼ:長く待ち焦がれていた贈り物を、
虐げられた民が喜んでいる。
行こう。
何が命じているか、
言わば、聖なる炎が、
シナイの山頂でくびきを断って、
それが、彼らの導きとなると、
そしてそれが、すべての過ちを厳しく報いると伝えよう。」

このあたりの流れは自然なものとして受け入れられる。
葛藤の後、使者が来てそれが中断され、
その後、再度、分かれの状況が盛り上がっていくわけだ。

Track10:メリーム、アーロン、モーゼの三重唱。

「メリーム:ああ、息子。もはや、あなたを見ることもない。
モーゼ:愛しいお母さん、
私をあなたから引き離すのは運命なのです。
アーロン:この厳しく不確実な状態で、
私はどうすればよいか分からない。
モーゼとアーロン:ああ、別れ。
メリーム:ああ、やめて。
アーロンとモーゼ:駄目です。義務がそれを許さない。
3人:理不尽な運命よ、
苦痛に満ちた心に安らぎを。それでようやく、呼吸ができる。」

この場面も、穏やかな曲調に、三つの声が響き合って、
牧歌的なものを感じさせる。
一幅の絵画のようだ。
アーロンの声が重なって来るところは、
非常に美しい。

Track11:ファラオとモーゼのレチタティーボ。
「ファラオ:モーゼはどこだ。
あの危ない魔術師はどこに隠れた。」

ヤバい展開である。
また、前半の、「ああだ、こうだ」が、繰り返される兆候あり。

「モーゼ:陛下、魔法などではありません。
あなたが目にしたのは大いなるもののなせる不思議。
その力を、あなたの頑迷さも、最後には受け入れ、
すべてをなだめ、無礼を服従させる、
神の手腕を知ることになります。」

モーゼがしゃべる度に繰り出されるのは、
ほとんど気違いの論理で、私には耐え難い。

ゲーテのプロメトイスも気違いだったが、
こうした無礼者が当時の人たちは、
大好きだったのだろうか。
音楽も、これまでの静謐、穏和なものから、
やけに人を苛立たせる挑発的なものに変る。

「ファラオ:全能の神!
ファラオであっても、王であっても、
あえて、その力を試すほどに、
かくも弱いものなのか。
私はこの胸の中になおも持つ不敬を試し、
エジプトに対して何が出来るかを確かめようとする。」

Track12:ファラオのアリア。
「私の前から離れ、視界の外に消えてくれ、
我が苦痛、我が恥辱。
見せかけの神の外見には騙されない。
稲妻はまだ続いている。」

この興奮したアリアに続き、
メリームも、もう、正気の沙汰ではなくなっている。

Track13:アーロンとメリームのレチタティーボ。
この会話は、ソプラノが二人だが、
アーロンは自信満々で、
メリームは動揺しているので、
混乱することはない。

「アーロン:メリーム、王女よ、
あなたしかいません。
王様の心を変えられるのは。
メリーム:この大きな不幸が、
エジプトを傷つけているというのに、
私に何ができましょう。
あなたの神に?
血と死を好み、人々が苦しむのを、
喜んでいるような異教の神に?」

メリームがこうして取り乱すのも、
私には当然と思える。
無茶な要求を出す、
テロリストにしか見えないはずだから。

「アーロン:神をそのように言ってはなりません。
神はその力をいつかお見せになり、
私たちに永遠の利益で満たすのです。
王女様、あなたも帰依すれば分かります。」

Track14:アーロンのアリア。
「心から神を信じるなら、
感謝をもって神を見るなら、
神は苦しみを楽にしてくれ、
良いもので満たし、苦痛をなくすでしょう。」

Track15:モーゼとメリームのレチタティーボ。
「モーゼ:
王女様、王様は私が立ち去るよう催促しています。
もはや出立を遅らせるわけにはいきません。
常に私の味方であったあなた。
まだ若くか弱い、お母さん。
メリーム:黙って。母という聖なる言葉を使わないで。
あなたがヘブライの民であるなら、
もう、ここに留めおかれることはありません。
何があなたを駆り立てるのです。
モーゼ:私を常に導く、
大いなるものの手によって。
メリーム:行って、恩知らず。」

最後は、「away、you monster!」
この曲の結論のような緊迫に再度向かう、
序章のようなやり取りである。

Track15:メリームとモーゼのデュエット。
「メリーム:恩知らず、行って。
そしてもう二度と、
私のことは言わないで。
決して予期さえしなかった、
こんなむごい行い。
モーゼ:その哀しげな目を、
開けて、恩知らずなどと言わないで。
あなたの所に留まれないのは、
私のせいではない。
メリーム:母のことは忘れて、愛を破壊して。
モーゼ:そんなことは出来ません。
二重唱:(ああ、何故偽りを。)
(あなたの不幸)可愛そうな。
正義の天空が、この瞬間、
私の苦痛は混乱を起こす。
私の義務が分からなくなってきた。」

あの憎しみあったレチタティーボの後で、
この二重唱は割と落ち着いて、結構、良い感じである。
ここでは、少し、モーゼの方が、
折れそうになるのが良いのだろうか。
いたわるような優しい歌で、
これならメリームの心も癒されたかもしれない。

伴奏も、別れの歌を、さざ波のような音型で、
優しく包み込んでいる。
後半の加速でも、二人のデュエットは大変、美しい。

Track17:モーゼのレチタティーボ。
「私はこのしがらみを断つ。
最終的に、この楽しからぬ場所を去る。
家畜を連れて、
種族を率いていく。
至高の神に、
すべての思いは向かい、
空は感謝の賛歌が響き、
解放者に対して、
かつては辛く、
いまや幸福になった人たちの、
歌声が響く。」
何だか分からないが、
メリームは捨てられて、モーゼは決心する。
この決意が述べられると、爆発するように、
人々の声が響き渡って、全曲は結ばれる。

Track18:合唱。
「最高の力によって、苦役のくびきは外された。
我々を苦しめるものはもはやない。
あなただけが、ただ一つの真の神。
栄光は神のもの。力は神にあり。」

Track19:合唱フーガ。
「あなただけがただ一つの真の神。」

低音で管弦楽が唸る中、
混声合唱の荘厳なフーガが舞い上がる。
ラッパが鳴り響き、ティンパニが轟き、
これはなかなかの聴き所であるが、
ファラオもメリームも、みんな消えてしまった。

何だか知らないが、フランス革命と関係はあるのだろうか。
王様は悪く、民衆は正しいという雰囲気が後半の全編を覆う。

「エジプトのモーゼ」の名を借りた、
革命賛歌といった感じがする。

啓蒙君主、ヨーゼフ二世の治世でなければ、
不可能だったような出し物ではなかろうか。
シューベルトの時代、反動的なフランツ二世が、
ヴィーンを統治したが、
コジェルフ、モーツァルトの時代と、
シューベルトの時代では、おそらく、時代を覆う空気自体が、
違っていたのではないかと実感できるほどだ。

例えば、この王女メリームは、
民族施策が穏和であったマリア・テレジアであり、
ファラオはその子で、
かなり厳格だったヨーゼフ二世とすれば、
モーゼは誰だか分からないものの、
民衆は、ハプスブルクに支配されていた諸民族と、
見えなくはないではないか。

もちろん、コジェルフはその諸民族の地、
ボヘミアの出である。
コジェルフは、こうした急進的な思想の代弁者だったのだろうか。

しかし、そんな危険人物を、宮廷作曲家にするとも思えず、
これは単に私の妄想しすぎないものと思われる。

以上、聴いて来たように、
コジェルフの大作「エジプトのモーゼ」は、
聖書に題材を取りながら、何だか、換骨奪胎して、
別の思惑に当てはめたような作品に思える。

アーロンも、単なるモーゼの代官、あるいは伝令にしか過ぎない。

ただし、そうした裏のストーリーは別にして、
このオラトリオは、変化に富み、
前半最後の天変地異から、後半最初の聖歌調、
後半に向かっての心理劇の緊迫、
最後の壮麗なフーガなどなど、
かなりの力作となっているのは確か。

ただし、主人公のモーゼの人間像には少々抵抗が残った。
また、メリームもファラオも、結局、置き去りのままである。
このあたりの後味の悪さが残る。

ポーランド分割の時、
最初は反対していたのに、
結局は、署名して承諾したマリア・テレジア。
プロイセンのフリードリヒ大王は、
こういったと伝えられる。
「彼女は泣きながらも受け取る。」

メリームの嘆きから、その余韻を感じたりもした。

書き忘れたが、指揮は、
解説によれば、ドイツ古楽研究の大御所とされている、
ヘルマン・マックス。
合唱は、プロの歌い手を集めたとされる、
Rheinishe Kantreiで、
オーケストラは、Das kleine Konzertという手兵。


得られた事:「コジェルフの『エジプトのモーゼ』は聖書を題材にした、何だか別の思惑の話。ここで高らかに歌われる自由思想は、おそらく、モーツァルトの時代とシューベルトの時代を大きく隔てるものだ。」
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by franz310 | 2009-10-11 16:04 | 音楽 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その194

b0083728_2035104.jpg個人的経験:
さて、ピアノ三重奏曲の巨匠、
コジェルフについて書いた所で、
ピアノ三重奏団に、
ついつい脱線してしまった。
ここで、コジェルフに戻って、
その大作についても見て見たい。
そもそも、シューベルトは、
コジェルフはまだましだ、
などという発言をしていているから、
どうも気になる存在なので。


しかも、前回の話によれば、
シューベルトの初期作品には、
コジェルフの様式の模倣があるらしい。
これは避けて通れなくなってきた。

前にも書いたように、コジェルフは、
モーツァルトの後任の宮廷作曲家である。
しかし、モーツァルトより年配で、
サリエーリなどと同様、この天才小僧が、
気になって仕方がなかった立場である。

モーツァルトが早世したので、
先のポストも回って来た。

これまで、交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ三重奏曲などを聴いたが、
今回は、さらなる大作、オラトリオも聴いて見た。

1785年頃、コジェルフとモーツァルトの戦いは、
しのぎを削っている感じで、必死で、飽きっぽい大衆を前に、
それぞれが戦おうとしているイメージがある。

モーツァルトお得意のピアノ協奏曲の連作も、
この頃、打ち止めの兆候が始まり、
24番や25番では、すでに一連の実験もやり尽くした感が漂う。

分かりやすいが、くどいということで、
コジェルフの作品にも、
そろそろ飽きの兆候が来ていたようなので、
どっちが勝ったかはよく分からない。

コジェルフのシンプルさの方が、
モーツァルトのごてごて趣味よりも、
どうやら、大衆は支持していたようにも思える。

このあたりは、いろいろ聴いたり読んだりして来て、
勝手に妄想した印象である。

そんな絶頂期、あるいは、
そこから転げ落ちる一歩手前のコジェルフが、
1787年に放ったのが、今回、取り上げる、
オラトリオ『エジプトのモーゼ』である。

このCD、二枚組で高いので、買う時に大いに迷った。
そもそも、モーゼが何者であるかなどは、
キリスト教圏の人でも、よく分からず、
何だか知らないが、海の前で手を広げると、
海が半分に分かれる魔法使い、
という印象しかないのではなかろうか。

最も、日本では売りにくいCDと見た。

聖書の要約を見ると、
エジプトでユダヤ人が迫害された時、
王女の手で隠されて育てられていたユダヤのモーゼが、
同胞をエジプトから脱出させる物語が出ている。

ただし、簡単にはいかず、すっかり奴隷根性に陥っていた同胞や、
王様を納得させるのに四苦八苦する様が印象的である。

何しろ、王様が反対する度に天変地異が起こるのだから、
それを描写すれば、すさまじい音楽になりことは必至である。

ようやくエジプトから脱出した後で、
王の軍隊が追ってきた時、紅海が割れて、
その中をユダヤの民が進み、軍隊は波に飲み込まれてしまう。

それでめでたしめでたしとはならず、
長らく異教徒に支配されていた、
イスラエルの民たちの信心はしょぼく、
唯一の神エホバの元での結束を欠いていた。

そこで、モーゼはエホバの言葉を聞くべく、
シナイ山に登り、そこで二枚の石版を得る。
エホバの律法、十誡である。

このCD、疲れ果てた爺さんが、腕を広げ、
何やら見せているが、これがモーゼと、
彼が得た石版であろうか。

1600年から1625年の間に描かれた作者不詳の、
「Gesetzestafeln(掟の板)を持つモーゼ」とある。

コジェルフの作品は滅多に聴けないので、
思い切って購入したが、
先に述べた知識から来る期待は、
実は、ほとんど裏目に出る。

この絵からの印象ともまるで違う。
モーゼは若者だし、石版も出てこない。

解説は、Angela Pachovskyとあり、スラブ系のイメージ。
コジェルフはボヘミア出身なので、
こうした研究家が出るのかもしれない。

「出エジプト記に基づくエジプトのモーゼ、
または、イスラエルの民の解放」
という題のようである。

まず、いつものように、コジェルフの生い立ちである。
これまでも何度も取り上げたが、
なかなか暗記するまでにはなっていないので、
復習することにする。

「今日では、コジェルフは、
ハイドンやモーツァルトから派生する文献で、
二流の人物として知られているにすぎない。
19世紀に書かれた音楽史においては、
ハイドンやモーツァルトに対する陰謀を企む悪役で、
これが生前、異常に人気を博し、成功した作曲家を、
喜んで忘れることに貢献している。
レオポルド(本来はヨーハン)・アントン・コジェルフは、
1747年6月26日、ボヘミアのヴィルバレーで、
音楽一族の家に生まれた。
彼の兄弟のアントン・トーマスは、
1784年にヴィーンにて音楽出版を営み、
年上の従兄弟、同名だった、
ヨーハン・アントン(1738-1814)は、
プラハの聖ヴェイト聖堂の合唱指揮者で、
この分野の作曲で知られていた。
この作曲家の従兄弟との混乱を避けるため、
コジェルフはファーストネームを、
1770年代のはじめにレオポルドに変えた。
法学を志しながら、従兄弟とF・X・ドゥセックに音楽を学んだ、
プラハでの修業期間のあと、31歳のコジェルフはヴィーンに向かう。
まず、ピアノの名人として短期間に名声を確立、
同時に教師としても引く手あまたとなり、
貴族階級とも繋がりを持つようになった。
彼の素晴らしい名声は、たちまち、ヴィーンを越え、
1781年に、ザルツブルクから、
モーツァルトの後任の宮廷オルガニストの職の誘いを受けた。
彼はその地位がキャリアアップに不要と考え、
その申し出を断っていることからも、
コジェルフが甘受していた当時の雰囲気が偲ばれる。
彼は当時の嗜好を取り入れた作曲で成功し、
作品は普及し、ヴィーン内外で、
数多くの作品が出版された。
1792年6月12日、皇帝フランツ二世は、
高給をもって、宮廷作曲家と室内楽指導者に迎えた。
1818年5月7日、コジェルフがヴィーンで亡くなった時、
彼は、当時あったほとんど全てのジャンルにわたる、
膨大な作品を残していた。」

このようなコジェルフの生涯概観は、
これまでも読んでいたものと何の付け足しもない。
いったい、この高給というのがいくらなのか、
そこが知りたいのだが。

ここからが、この作品の解説となる。

「1787年、すでに名声の絶頂にあったコジェルフは、
ヴィーンの音楽家協会から、1曲のオラトリオの委嘱を受ける。
この協会は、1772年、
フローリアン・レオポルド・ガスマンによって、
寄付を音楽家の未亡人や、
孤児救済にあてるために創設されたもので、
音楽家からの寄付や、
受難節とクリスマスの期間に、
定期的に開催される音楽会によって、
資金を得ていた。」

冬と春の二回あったことを覚えておこう。
そして、この作品は、クリスマス用である。

「特にこの機会のために委嘱されたオラトリオの公演は、
18世紀のヴィーンにおける最初の公開演奏会の、
メインのアトラクションであった。
コジェルフは、今日、台本作者が知られていない、
イタリア語のリブレットを使ったが、
これは当時のヴィーンでは普通のことであった。
イタリア語オラトリオは、ヴィーンの宮廷では、
17世紀中葉からの長い伝統であった。
宮廷詩人、アポストロ・ゼーノや、
ピエトロ・メスタージオがいたように、
18世紀の終りに到るまで、
ヴィーンのオラトリオは必ずイタリア語で書かれていた。
これらの台本は、ヴィーン音楽家協会の作曲家によって扱われ、
ガスマンによって、『La betulia liberata』が、
ディッタースドルフによって、『Esther』や『Giob』が、
ハイドンによって、『トビアの帰還』が書かれた。
コジェルフの『エジプトのモーゼ』は、すでに、
こうしたイタリア語オラトリオの最後期の作品である。
ハイドンの『天地創造』(1798)、
『四季』(1801)の成功によって、
次第にこのジャンルはドイツ語のものが主流となっていく。」

ということで、シューベルトの時代、
イタリア語のこの作品はすでに時代遅れになっていたのであろう。
しかし、音楽の問題ではなく、言語の問題で、
忘れられた音楽作品もあるのだろう。

「1787年12月22日(23日再演)、
皇室国民劇場(昔のブルグ劇場)にて、
『モーゼ』は、ヴィーンで初演された。
1790年12月22日、23日には、
少し改訂されたものが上演された。
さらに、1792年、ベルリンで、
1798年、ライプツィッヒで演奏されている。」

作曲されてから12年経っても再演されているのは、
立派な事と言えるだろう。

「旧約聖書の『出エジプト記』をベースにしながら、
タイトルから想像されるのとは違って、
エジプトからイスラエル人が行進していく、
全過程を描いたものではなく、
出発の前のひとときを捉えたものである。」

ということで、かなり内容に偽りあり、
と言わざるを得ない。

出エジプト記では、様々な天変地異が起こったり、
有名な紅海の水を分けるシーンなどが強烈であるが、
大スペクタクルを期待して、
親子連れで、クリスマスの劇場に出かけると、
とんでもない肩すかしを食らわされる。
連れて行かれた子供は、退屈してぐずったものと思われる。

私も、これを読むまでは、すごいアクションと、
人智を越えた奇跡の連続を期待したものである。

そもそも、登場人物を見れば、それが予想できたのだが。

「モーゼとその弟アーロン(年若いのでソプラノ)と、
彼らに反対する、ファラオと、
モーゼを育てた、その娘マリームに焦点が当てられている。」

この時点でも、私はかなりのけぞってしまった。
アーロンは、てっきり、兄だと思っていた。

以下のように音楽付きストーリーが展開される。
今回は前半を見てみよう。

「ゆっくりとした序奏を持ち、
次の合唱とテーマが共通する序曲の後、
奴隷のくびきに繋がれて嘆く、
イスラエル人の合唱で始まる。
これらの人々を、自由に導く準備が出来たことを、
モーゼが告げると、彼の養母のメリームが現れ、
あらゆる手段で、彼がその決意を変えること、
その企みから遠ざけようとする。
そして同時に、彼がいなくなった後の、
自分を心配する。
モーゼは神の存在を疑う彼女に注意するが、
彼女は神の天罰を人間の計略と見なす。
ファラオの性格は、尊大で執念深い暴君として、
台詞としても、音楽的にも類型的に表わされている。
すでに、彼はイスラエル人を解放すると言っているが、
モーゼはまだ足りないという。」

このあたり、かなり理解不明な思考パターンである。
解放すると言っているのに、いったい、さらに何が必要なのか。

「彼は、エジプトが被った天災を、
単に何者かによる魔法と考えているファラオに対し、
神の意志であることを認めることを要求する。
この要求に、暴君は激怒し、
何だか知らない神が、
勝手に彼の人民を救いに来れば良いと言う。」

王も妥協を知らないが、
私には、モーゼの方が理不尽であるように思える。

「モーゼから助言を求められた、王女のメリームは、
ここで何の結論も出せない。
彼女は、ファラオへの忠誠と息子への愛に、
引き裂かれる。
イスラエル人は、この苦しみの終結を、
神に嘆願する。
オペラのフィナーレの様式による、
効果的で劇的な構成を持つ、
コーラスを交えた大四重唱、
『恐れと希望の間で』(CD1のトラック14)が、
第1部は終了する。
嵐が起こり、土手を越えて洪水が起こる。
このような効果で、音楽家協会のオラトリオは人気を博し、
1784年、ハイドンが『トビアの帰還』の、
有名な『嵐の合唱』に範を求めたものだった。」

登場人物は、こんな感じ。
メリーム:王女でファラオの娘。
Simone Kermesというソプラノ。妖艶な美女の写真有り。

モーゼ:メリームに庇護され養育された。アーロンの兄弟。
Markus Schaferというテノールが歌う。真面目そうなダンディ。

アーロン:司祭。Linda Perilloというソプラノ。
写真は、やさしいお姉さんの感じ。

ファラオ:エジプトの王。
Tom Solというバス担当。恐いハゲのおっさん。

あと、イスラエルの民衆を表わすコーラスがある。

CD1:
Track1:シンフォニア。
1787年の作品という事だから、
モーツァルトの三大交響曲前夜の作品。

さすがに、ものものしく、神秘的で、
聴き応えある序奏である。
ティンパニや金管の炸裂に、
木管の不安げな和音が重なる。
主部でも、金管が壮大に吹き鳴らされ、
神話の世界に我々を効果的に連れて行く。
この炸裂感、
ロッシーニの影響を受けたシューベルトと呼んでも良さそう。

Track2:イスラエル人の合唱。
「楽しい時は、主よ、我らに訪れるのですか。
偉大なる神は、我らをこの苦役の中に葬るのか。
主よ、あなたの敵による理不尽な虐待は強まるばかり、
あなたの力も徳も、この不幸には無力なのですか。」

曲そのままの管弦楽の序奏に続き、
混声合唱が悲痛な嘆きを歌う。
活発な伴奏音型も耳に残る。

Track3:モーゼのレチタティーボ。
「何と言う声、おお主よ、何と言う嘆き、
落胆の悲痛が心から溢れている。
違う、不幸な人たちよ、違う。
ここは死すべきところにあらず。
苦役の鎖のくびきは、神のために砕かれん。
今こそ、自由に向けて旅立つのだ。
暴君もその頑固な心を和らげている。
彼もいまや、我らの救出に手を差し伸べている。」

Track4:モーゼのアリア。
「暴君の憤怒も神の掟に従って、
もはや、暗い漆黒の空はない。
心配や恐れを捨てて、不幸で悲しい者たちよ、
今や、自由に帰るのに、
何も怖れることはないゆえに。」

勇ましいメロディーで歌われる、
英雄的な歌で、トロンボーンも鳴り渡り、
気分を大きく高めてくれる。

Track5:メリームとモーゼのレチタティーボ。
「メリーム:息子よ。
モーゼ:母よ。
メリーム:行くの。
モーゼ:神が求めるがゆえに。
メリーム:これが私が受け取る報いなのですか。
モーゼ:メリーム、神よ、出来ることなら。
メリーム:あなたがまだ私に相応しい同情をしてくれるなら、
もし、この嘆きを忘れていないなら、
私の苦しみは去り、涙も乾くでしょう。
だから決心を変えて、お願いです。決心を。
愛しい息子の情愛を、愛する母は請うているのです。」

Track6:メリームのアリア。
「この苦痛に、ああ、息子よ、心動かして下さい。
私の最後の涙に心を。
もし、あなたが行くのなら。
あなたなしにここにいることなど。
私の愛、私の情愛。
もし、最愛のあなたが行くのなら、
私なしに、あなたもそうなるの。」

これも、切迫感に満ちた、
しかも、美声を聴かせるみごとなアリアである。
モーツァルトの「ト短調交響曲」もこうした嘆きの歌の、
延長にあるように思える。

ちなみに、筋としては、
全編が、この延長と考えて差し支えない。
行くの、行かないの、で押し通されている感じ。

Track7:
モーゼ、メリーム、アーロンのレチタティーボ。
レチタティーボといえど、効果的な伴奏。
ピアノフォルテのぽろぽろ音も美しい。

「モーゼ:おちついて下さい、母よ。
あなたのもとからの出発は何も無謀なことではない。
同様の感情はありますが、天が望んでいるのです。
その意思にあなたもわたしも逆らうことは出来ない。
この兆候が分かりませんか。
それは私には十分すぎるほど語りかけるのですが。
メリーム:私は狂って、目も見えないというのですか。
無茶な掟をあなたに突きつけるのは、
何らかの人為であって、神はそんな無謀なものではない。
アーロン:王女よ、何をしようとするのです。
その不注意な唇を抑えて下さい。
信ずるものを働かせ、目を覚まさせるのは偉大なる神なのです。
そんな態度はいけません。
彼を敬い怖れるのです。
彼は不信心に怖れを与える力もお持ちです。」

Track8:アーロンのアリア。
このアリアはゆっくりした主部に、
激烈な警告の音楽が挟まれる。
「彼は、彼を信じる全て、
彼を求める全てにとって、
信心の泉、純愛の源。
しかし、彼の意思を感じることは出来ない
不信心な者には、その怒りしか感じられぬ。」

Track9:合唱。
Track10でこれは、緊張感溢れるフーガとなって、
ファラオの登場を印象付ける。
「神の意思を感じられぬ尊大な暴君が、
きっと、その怒りと憤怒を感じることだろう。」

Track10:ファラオとモーゼのレチタティーボ。
緊迫した場面が続く。
「ファラオ:何故、お前の仲間たちと行かないのか。
モーゼ:迫害された可愛そうな民に自由を与えると、
約束を下さるまでは行く事は出来ません。
ファラオ:何を約束したかな。
それでは不十分か。
この苦役からの解放だけでは不十分かな。
モーゼ:十分とは言えません。
ご存じでしょう、
あなたから神はもっと求めておいでです。
これ以上、その尊大さで神を害さず、
神の怒りを怖れて下さい。
ファラオ:貴様のような下賤が、脅すのか。
この不遜な恥ずべき男に我が怒りの重さを思い知らせようか。
私に逆らう、天の力を見てみるか。
私は全てを動員するぞ。怒り、敵意、憤怒。」

Track12:ファラオのアリア。
「私の王権と我が力は敬いもせず、あがめもしない。
悪党め、私の怒りに何が出来るか教えようか。
訳の分からぬ神に言え、この手、このくびきから、
助けに来るようにと。」
このアリアは、怒り狂った王様の歌としては、
皮肉にみちた嘲笑風のもの。
リズムが弾んで、この陰鬱な押し問答の作品に、
ここらで変化を付けたくなるのも納得。

Track13:モーゼとメリームとファラオのレチタティーボ。
このあたりのやりとりが、
次第に前半の緊迫感を盛り上げるスタート地点であろうか。
しかし、メリームの言葉こそが、私の言いたいことでもある。
モーゼが一人、問題をややこしくしているように見えまいか。

「モーゼ:やめて下さい。何を言うのです。
あなたの硬い心、盲目の誇りが、あえて天に逆らう。
ああ、王女よ、あなたに私が何か意味あるものであったとすれば、
私に、あなた自身に、王様に、この地に、この国の民に、
愛情を感じるのであれば、王様のお怒りをお鎮め下さい。
メリーム:息子よ、すべての問題があなたから出ている時に、
私に何が出来るでしょう。
ファラオ:すべての希望は無駄だ。私が言い、私がするように、
反対の事はありえないのだ。
モーゼ:ならば好きになさるがよい。
行け、兄弟よ。
苦しむ民を集め、こう言うのだ。
跪き、謙遜し、神にこの苦しみの終りを請うようにと。
そして、天の力が王に対し、
悲しみに混乱したエジプトが王に対して何と言うかを、
確かめようではないか。」

Track14:合唱付き四重唱。
この9分の大フィナーレは非常に聞き映えのするもので、
緊張感を保ちながら、
シューベルトの作品にでも出て来るような、明るい歌も響かせ、
いかにも、ヴィーン風の印象を受ける。
金管が盛り上げ、弦楽の精妙な伴奏、合唱の効果的な利用によって、
充実した音楽が繰り広げられる。
「メリーム:怖れと希望の狭間で、
私の絶望はどうなるの。
私と息子と王の両方に愛情を見せるのが私の役目。
アーロン:悪人の怒りと気まぐれ、
偏屈や頑強から、
さらなる虐殺や恐ろしい出来事が、
起こるに違いない。
ただ、あなたのために。
モーゼ:この日の記憶は、
我々の心に残り、王の王に何が出来るかを、
驚きを持って見ることになるだろう。」

不気味な金管が暗雲を告げるものの、
アンサンブルは晴朗に響き、
心浮き立つリズミカルな足取りで終盤へと続いていく。
典雅にピアノフォルテの音が響き、木管が弧を描く。
シューベルトは、このあたりが苦手だったかもしれない。
シリアスなシーンは、シリアスに書くのがシューベルトだ。

「ファラオ:これら悪人たちの騒ぎと無謀が、
我が心に憤怒を焚き付け、
恐怖のみが彼らへの恵みとなろう。
アーロンとモーゼ(神に):この凶暴な心を鎮めたまえ。
あなたの敵を追い散らして。
合唱:不運に哀れみを。神よ、哀れみを。
メリームとファラオは、幸福の日々を願わぬ狂人です。
4人:希望は消えた。
殺戮と死の恐怖。
すべてが恐ろしい。
合唱:この不運に哀れみを、偉大なる神様。」

Track15:嵐の合唱。
「太陽を闇が覆い、
天は燃え、怒りの稲妻が光る。
地震が起こり、津波が来る。
洪水が川の堤を越えた。」

どろどろとわき起こる弦楽に続いて、
金管の咆吼と爆発。
この合唱の歌詞の説明調にはぶっとぶが、
すごい迫力であることに間違いはない。

ここは、年末のクライマックスイベントの役割を果たしている。
聴きに来た人たちは、息を飲んで聞き入ったことであろう。

果たしてこの妄信的な四人の頑固者は、
この後、どうなるのでろうか。
分からず屋の押し問答の末に神の怒りが下った。
(私にはそう見える。)

会社や組織でありがちな、生産性のまるでない、
低レベルの不毛なディスカッションに、
うんざりする内容であるが、
ヴィーン在住のボヘミア人のコジェルフは、
「エジプトのモーゼ」ならぬ、
「ヴィーンのコジェルフ」という側面を、
ここに照らし出しているのだろうか。

時あたかも、ヨーゼフ二世の治世。
急速な改革が、
民族問題を含む様々な方面に飛び火したようだが、
ここまで私は語る力がない。

こんな具合に、前半だけで力尽きて、後半は次回にする。

得られた事:「コジェルフは、器楽曲でかろうじて知られるが、こうした大活劇を描く力量も有り。」
「ヴィーンでは、イタリア語オラトリオが流行っていたが、シューベルトの時代には廃れていた。」
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by franz310 | 2009-10-03 20:45 | 音楽 | Comments(0)