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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その180

b0083728_22405258.jpg個人的経験:
シューベルトと、
ブルックナーという、
世代を超えた巨匠の、
共通の師匠としての、
ゼヒターの略歴を見たが、
彼がコジェルフの弟子と
あるのを見て驚いた。
コジェルフは、シューベルトの好きな
作曲家の一人だったようなので、
ずっと気になっていたからだ。


「シューベルト、友人たちの回想」には、
シュパウンによって書かれた、こんな回想(1858)が載っている。

シューベルトが寄宿学校に入る前後の事らしい。

「この頃クロンマーの交響曲も流行っていて、
その快活さのために若い人たちの間で大評判をかち得ていた。
シューベルトは、そういう交響曲が演奏される度に腹を立て、
演奏中によく『ああつまらない』と言うのだった。
彼は、ハイドンが交響曲を無数に書いているのに、
どうしてこんな代物が演奏できるのか、
わけが分からない、と言っていた。
ある時コジェルフの交響曲が演奏され、
大勢の人々がその古めかしい音楽にけちをつけていた時、
彼は文字通りかっとなって子供っぽい声で叫んだ、
『この交響曲の方が、皆さんの好んで演奏するクロンマー全部よりも、
もっときちんと手足が整っていますよ。』」

この逸話に続いて、1809年にシュパウンはヴィーンを離れ、
再び、1811年に戻って来た時、
シューベルトは背が伸びて陽気になり、
第一ヴァイオリンに昇格し、オーケストラで人望を得ていたとあるから、
コジェルフの肩を持ったシューベルトが叫んだのは、
1808年頃と思われる。

11歳の小学生風情にしては生意気極まる発言ながら、
彼は交響曲の作曲を始める前から、それなりの美学や、
理想を持っていたことが分かる。

こんな少年であるから、5年もすれば、
完成度の高い「第一交響曲」を書くことが、
出来るようになったのであろう。

コジェルフの交響曲は、
いくつかの録音がLP時代からあったが、
学生身分では、こうした当たり外れの大きそうな存在は、
なかなかアクセスできなかった。

そもそも、「ボヘミアの作曲家」などと言う、
紹介のされ方が多く、
それでは、メインストリームではないから、
後回しにしようという思考が働いてしまう。

しかし、そうしたタイトルがあるだけ、
非常に限られた愛好家に向けて発信できた、
とも言えるだろうか。

しかし、結論から言って、
ボヘミアとは、何の関係もない、
むしろ、メインストリームの作曲家と言えそうだ。
シューベルトは、決して、知られざる、
地方在住の作曲家の話をしていたのではなかった。

トマーシェク、ヴォジーシェクの先人としても、
この作曲家にも眼を向けてみたいと思ったが、
彼ら以上にボヘミア風の点は感じられなかった。
それ以上に、彼は、ヴィーン古典派の一翼だったようなのだ。

今回のCDは、かつて、クレメンティの交響曲でも取り上げた、
マティアス・バーメルト指揮による、
ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズの演奏による
シャンドスのCD。
同様に、「モーツァルトの同時代者たち」のシリーズのものである。

この指揮者は、どうも力ずくの印象であったが、
今回は、クレメンティよりも直裁な音楽のせいか、
あまり違和感はない。
特に、ト短調の交響曲の疾走する悲しみは、かなり聴き応えがある。

CDのデザインは、クレメンティのものよりも古風。
よく、古楽のCDで使われる、Philipe Mercierによる、
「The Music Party」である。
「フレデリック、プリンス・オブ・ウェールズと姉妹たち」。

背景は本物の風景か、風景がらの壁紙か分からないが、
王子がチェロを弾き、姉妹?が鍵盤楽器とマンドリンを弾いている。
右端は母親であろうか、世話役か教師であろうか。
母親なら、その母、何たら妃と表記されそうである。

私は、この手の、夕暮れ時の空をあしらった絵画に弱いが、
コジェルフを正しく伝えるものかどうかは判断できない。
後述のように、コジェルフは、イギリスでも人気があったようなので、
こうした、ロンドンにある絵画でも相応しくないとは言えない。

このように、ボヘミア生まれという以外、
ボヘミア風の要素が皆無の作曲家、
むしろ、ハイドン、モーツァルトの同僚である。

Robin Goldingが書いている、その略伝を見れば、
当時のコジェルフの立場は明らかであろう。

「レオポルド・コジェルフは、1747年6月20日、
わずか20マイルばかりプラハの北西、
ボヘミアのヴェルバリーに生まれた。
約100年後、ドヴォルザークが生まれた、
Nelahozevesの小村からもほとんど離れていない。」

なんと、偶然ながら、
ちょうどこの季節の生まれ。
コジェルフをしのぶにはもってこいである、
と考えたい。

「彼は、ヤン・アントニンと言う名で洗礼を受けたが、
1738年生まれの彼のいとこで、
1784年からその死の1814年まで、
プラハのSt Vitus’s大聖堂の楽長をしていた、
ヤン・アントニン・コジェルフと区別するために、
1773年頃からレオポルドを名乗るようにした。
生まれた村の学校で音楽の基本教育を受けた後、
プラハの大学で法律を学んだ。
しかし、彼はいとこや、モーツァルトの友人、
作曲家でピアニストであった、
フランチスク・ドゥセック(1731-1799)
のもとでも、音楽の勉強も続けた。」

ドゥセックは、モーツァルトが、
プラハに行った時に世話になった人だが、
音楽的な側面は不明。

「1771年から1778年にかけて、
彼のバレエやパントマイムが、
プラハで演奏されて好評を博したが、
この年、ヴィーンに出て、
作曲家、ピアニスト、教師としての存在を確立し、
彼の弟子には盲目のピアニスト、
マリア・テレジア・フォン・パラディスや、
フランツ二世の最初の妻となった、
ヴュルツブルクのエリザベート、
ナポレオンの二番目の夫人となった皇帝の娘、
マリー=ルイーズがいた。
1781年までに、帝都で重要な名声を得て、
モーツァルトの後任の
ザルツブルクのオルガニストの職を断るほどになり、
1792年には宮廷の室内楽指導者や宮廷作曲家に命じられた。」

コジェルフは、1747年生まれなので、
1756年生まれのモーツァルトより10歳近く年配である。
この、モーツァルト後任辞退がどれほどのことなのかは分からない。

また、92年といえば、コジェルフ45歳であって、
若くして、もっと偉くなったサリエーリよりも、
恵まれていたわけではなさそうだ。

ちなみにサリエーリは、1750年生まれなので、
コジェルフより3歳若い。

が、サリエーリとは違う側面が、
コジェルフには恵まれていたようである。

「1784年、彼は、自身の出版社Musikalishes Magazineを興し、
後には弟のアントニン・トマシュにそれを任せた。
彼の作品はしばしば他の出版社からも同時に出版され、
John Bland、Robert Birchall、Lewis,Houston&Hydeといった、
英国出版社とも契約があった。
また、エディンバラのGeorge Thomsonとも、
スコットランド、ウェールズ、アイルランド民謡の編曲で、
密接な関係を持っていた。
彼は1818年5月7日、ヴィーンで亡くなった。」

このようなビジネス面や、国際的な知名度は、
ひょっとすると、サリエーリ以上であったかもしれない。

しかし、少年シューベルトが、オーケストラを前に、
彼の作品を擁護した時、コジェルフは、
64歳頃で存命だったわけである。

ただし、92年から18年までの34年をすっ飛ばす、
この唐突な生涯概観編の打ち切りには困ったものである。

シューベルトが叫んだ時、
コジェルフがどのような立場にあったかが、
これでは分からないではないか。

宮廷音楽家として安定した立場にまで行ったのは分かったが、
いったい、何時、引退したのか。
何しろ、その頃から、ヴィーンの若者は、
コジェルフなんか、古くさいと思っていたようなので。

「1789年、チャールズ・バーニー博士が出版した、
『一般音楽史』の最後、第四巻には、コジェルフは、
『ヴィーンの賞賛すべき若い作曲家で、1785年、
巧みで性格な技法でパラディス嬢によって英国で知られるようになり、
以来、彼の作品は数も増えて人気も出た。
それらは概して洗練されており、
健全さ、良い趣味、正しい和声に満ち、
ハイドン派の他の作曲家ほどハイドンの模倣に終始していない。』
初期のオラトリオ、『エジプトのモーゼ』以外は、
コジェルフの教会音楽、6つのオペラを含む、
舞台作品の多くは忘れられた。
彼の到達点は、器楽作品、交響曲、協奏曲、
二重奏、三重奏、四重奏といった室内楽、
50ほどのピアノ・ソナタなど
ピアノ曲によって評価されるべきである。」

「11の交響曲の中で彼のものと特定されたもの3曲を、
ここに録音したが、自筆譜は消失しており、
最初に作曲家自身によって、
『ドン・ジョヴァンニ』の年、
1787年ヴィーンで出版され、
すぐにライプツィッヒとパリでも出版された。」

このCDには、ニ長調、ト短調、ヘ長調の3曲が収められているが、
これらが、すべて、1787年のものかは分からない。

いずれにせよ、どうやら、80年代後半は、
コジェルフにとってもバブルの時期だったのか、
ビジネスも作曲もいけいけの状態だったと見える。
が、バブル崩壊はなく、90年代に入ると、
すぐに宮廷に迎え入れられているのは前述のとおり。

「交響曲ニ長調は、
コジェルフがゆっくりとした序奏をつけた二曲の交響曲の一曲で、
それはこの曲の場合、短いが印象深いアダージョである。」

確かに、このアダージョは創意に富み、
だんだんと何かが生成されていく感じで、
耳を引きつけるものがある。
力強く、神秘的でもあって悪くない。

「これに生き生きとした6/8拍子の、
例外的に繰り返しのない提示部が続く。
この第二主題は、弦楽のみで奏され、
ヘ長調のエピソードで結ばれる。
精力的な展開部は第一主題をもとにしている。」

第一楽章、第一主題の脈動する主題も力強く、好ましい。
第二主題は、うねうねとして特徴はあまりないが、
これらの切り替え推移は、ヴォジーシェクのようなあからさまな、
継ぎ接ぎがなく、私には好ましい。

モーツァルトが「プラハ交響曲」を書き、
ハイドンが、「V字」などを書いていた頃のもの。
モーツァルトの豊かさよりは、ハイドン風の推進力を感じる。
ただし、5分と、それほど大規模なものではない。

「イ長調の第二楽章は、ゆっくりとしたロンドで、
たっぷりとした繰り返しで、コントラストをなす、
二つのエピソードはあえて短調となっている。」

このあたり、いかにも、シューベルトが好みそうな、
悲しげな夕暮れの情感を湛えて美しい。
ハイドンよりも、モーツァルトの歌謡性に近く、
陰影が味わい深い。
木管やホルンの響かせ方も素敵。
ただし、5分と、これまた小規模。

「がっしりとしたメヌエットがトリオを挟み、
ここでは、ホルンは沈黙し、
第一オーボエが、第一ヴァイオリンと重奏し、
バスーンは、チェロとベースと重奏する。」

このメヌエットは、武骨で、ハイドンに近いだろうか。
楽器の重なりは、特筆してあるが、確かに独特の色合いを施す。
3分に満たない。

「猛烈なソナタ形式の終曲の第二主題は、
ほとんど第一主題の続きである。
第一主題による劇的な展開部は、
ハイドン風の休止の連続を経て、再現部に続く。」
この激烈疾走系の終楽章は、
モーツァルトの「ハフナー交響曲」みたいな感じで、
手に汗握るものがあり、コンサートでも高揚しそう。
やはり5分程度。

このように、全曲で20分に満たないところが、
あるいは、時代遅れなイメージであろうか。
これが、もし、30分を越える大作であったならば、
ベートーヴェンの先祖として評価する人がいてもおかしくない。
力強さ、繊細さ、歌ごころを調和させて、そう思えるのである。

私は、最初にこのCDを聴いた時、
次のト長調交響曲の、不気味な低音のうめき声に、
耳をそばだててしまった。

「ト短調の調性は、18世紀後半に、
(1776-77年のハイドンの39番、
1770年のJ・C・バッハの作品6の6、
1771年とそれ以降のヴァンハルの二曲、
モーツァルト、1773年の25番、1788年の40番、
そしてもちろんコジェルフの1787年の作品など)
数知れず名作交響曲を生み出したが、
少なくとも部分的には、ドイツ文学における、
前ロマン派的な疾風怒濤運動に影響を受けている。
彼の唯一の短調作品は、メヌエットを持たず、
外側の二つの楽章のホルンはGとBフラットの替え管で、
広い和声に対応している。」

疾風怒濤かどうかは分からないが、
透明なヴァイオリンの楽節にからむ、
うつろなオーボエの響き、
ぎらぎらと切り刻むヴァイオリンの音型の下、
やぶれかぶれに動き回る低音で、主題が奏されるところなど、
何にも換えられぬ、不思議な効果を誇っている。

こうした曲になると、強引なバーメルトの指揮が映える。
7分あって、ここに収められた3曲の交響曲の中では、
一番、長い楽章である。

なお、解説から、この曲も1787年のものらしいことは読み取れる。

モーツァルトが、40番を書く前の年である。
交響曲らしいと言えば、こちらの方かもしれない。
これは是非、二人の関係を知りたいところである。
などと考えると、何と、モーツァルトの影響を明記してあった。

「第一楽章のアレグロの二つのテーマは、
形は似ているが、ムードではコントラストをなし、
一方は神経質で、一方は叙情的である。
14小節から15小節と、115小節から119小節のヴィオラと、
41小節から50小節、147小節から157小節のバスーンの
柔らかい持続音にはモーツァルトの影響を感じる。
展開部は両方の主題が珍しく用いられ、
ヘ長調の交響曲同様、素晴らしいコーダが付いている。」
コーダ直前のちゃーんちゃららの楽想は、
ここから、モーツァルトが発想したのではないか、
などと考えてしまうようなものだ。

「変ホ長調の表情豊かなアダージョは、
中間部が展開部ではなくエピソードにすぎないが、
凝集され変形されたソナタ形式である。」

ソナタ形式かどうかよりも、この曲の、
ため息に似た風情が美しく、
そこに明かりが差してくるような、
エピソードの雰囲気が素晴らしい。
ため息は、次第に聖なる気配に包まれていく。
これも6分近くあって力作である。

「終曲のプレストは、再びソナタ形式であり、
第一楽章の、緊張し、煽動的な精神を持つが、
短く簡潔である。」
これまた、すごい終曲で、爆発系。
是非、実演で聴きたいものだ。
ここでも、低音の動きがデーモニッシュである。

デーモニッシュがモーツァルトの専売特許でないことが分かる。
木管が吹き鳴らされ、弦楽が突進していく。

第二主題は一瞬の緊張緩和の効果で、ハンサムである。
5分で終るがハイドンの「V字」並みのスケールはある。

最後に収められたヘ長調交響曲は、
もっとも穏和な、幅広い楽想が魅力的だ。
ベートーヴェンの「英雄」風の楽想で、
これは覚えやすい。雄大、気宇壮大なものと言ってもよい。
6分半かかっていて、そこそこの規模である。

昔から、ト短調と、このヘ長調は日本盤が出ていたが、
これも肯けるものである。極めて個性的な二曲である。

ただし、展開される主題が、動機風なので、損をしているかもしれない。
弦がちょこちょことした伴奏音型を継続するところも、
ベートーヴェンのひな形のように見える。

「交響曲ヘ長調は、非常に似通った主題による、
ソナタ形式のがっしりとしたアレグロ・モルトで始まり、
二つの主題は共に幅広い8小節の序奏から導かれ、
大きく展開部で変容し、再現部ではそのままの再現はしない。
この楽章はコーダで結ばれるが、
木管楽器が予告なしに活躍する。」
この部分のみならず、確かに、木管の呼び声、和声、色彩が、
各所で映えているのも聴き所であろう。

「次に、華麗にデリケートにスコアされた、
変ロ長調のポコ・アダージョが来る。
これはソナタ形式ながら、提示部の繰り返しはない。
メイン主題からの材料の変形を引き出す展開部に続き、
変形された再現部が来る。」

デリケートとはうまい言い方である。
ちょこちょことして、軽く、繊細だが、
途中から、チェロが主題を奏でてからは、
何だか不思議な影が差していく所には、
耳を澄ませるべきであろう。

「ヴァイオリンをオクターブ下で補助する、
第一バスーン以外の木管が沈黙する、
優しいトリオを、堂々としたメヌエットが包む。」
この楽章の出だしのヴァイオリンは、
ちょっとぎらぎらときつすぎて、
バーメルトの力ずく感を感じた。
トリオは、解説にあるとおり、
ヴァイオリンの音色に軽妙な木管が重なって、
面白い効果を生んでいる。
このあたりの色調の柔らかさが、
ふと、シューベルトを予告しているようにも思えた。

「せわしないソナタ形式の終曲は、
珍しく魅力的な第二主題を持つが、
これは非常に対位法的な展開部には登場しない。」

ここに、魅力的と書かれた主題は、
まさしく当を得た表現で、非常に清新な、
明るい希望の光が明滅して、次の時代を予告する。
ひょっとして、このような発想は、ハイドン、モーツァルトとは、
別種のものかもしれない。

力強い推進力が、見事に、この大きめの交響曲を締めくくっている。

何度も繰り返しになるが、ボヘミア、プラハ近郊出身の作曲家、
といった感じはまったくなく、
完全にヴィーン古典派の一翼にしか聞こえない。

バーメルトのような解釈以外でも聞いて見たいものだ。
過敏にあちこちをがちゃがちゃやらず、
ゆったりと温厚な解釈でも、十分楽しめるような気がする。

この3曲、解説に読み取れるとおりなら、
コジェルフがヴィーンで作曲、自ら出版したもので、
これらのうちのどれかを、
地元民のシューベルトが手に取った可能性は大いにあり得る。

古くさいと言えば、楽器編成かもしれない。
ホルンくらいしか金管は聞こえず、
おそらくクラリネットもなし、ティンパニすら登場しない。
そもそも、木管の独奏などもあまり聴かれない。

得られた事:「ハイドン、モーツァルト、コジェルフが18世紀ヴィーン古典派の三巨匠だった、と言ってもいいような感じ。シューベルトにとっても、恐らく身近な作曲家だったに相違ない。」
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by franz310 | 2009-06-27 22:41 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その179

b0083728_2263936.jpg個人的経験:
朝比奈隆の晩年には、
ブルックナーの音楽は、
この極東の島国でも、
異常とも言えるほどの
人気を謳歌した。
私も、朝比奈の指揮で、
多くの実演に足を運んだが、
ごく少数の演奏に戦慄し、
多くの演奏には何も感じなかった。
座席の関係もあるかもしれない。


急遽、御皇室ご鑑賞ということで、席が仕切り直された事など、
音楽の本質とは無関係な事も思い出され、
一方で、感極まったコンサートマスターが、
落涙抑えきれずクライマックスに突入していった演奏もあり、
その時はまさしく背筋に走るものがある大演奏であった。

しかし、期待して足を運んでも、何も起こらなかったことも多く、
演奏会評やCD解説などで、
最高の名演などと評されているのを見て、首を傾げたこともある。

その頃が一つのクライマックスだったかもしれないが、
それより二十年も前から、私はブルックナーの交響曲には親しんでおり、
学生の金欠の最中にあっても、
ベームの「第四」、ジュリーニの「第九」などは、
出るとすぐに聴いたレコードだったし、
ヴァントの「第二」やカラヤンの「第八」なども、
CD初期に入手して感銘を受けた、忘れがたい演奏であった。

特に、「第二」には、私は大変、愛着を持っている。
そこには、自然に対する、
ブルックナーの優しい眼差しが感じられて、
初期作品に対する、私の興味は、急速にかき立てられた。

田代櫂著の「魂の山嶺」にも、
「そこに流れる自然の息吹、
風のさやぎや野のかぎろいは、
ブルックナーを聴く至福の時である」
とあって、全面的に共感した。

この著作には、前回も紹介したように、
ブルックナーとシューベルトを繋ぐ逸話も多く、
若き日のブルックナーが、シュタイヤーの街で、
シューベルトゆかりの人たちと交流を持ったところなど、
何だか、自分も、その場所に立ち会っているかのような、
不思議な感じを受けたものである。

そんな中から、いくつかの初期のピアノ曲が生まれたようだが、
この著作で、ブルックナーの最初期の重要作として、
特筆されているのが、
混声合唱のための「アヴェ・マリア」である。

「ゼヒターのもとでのブルックナーは、
58年に和声学、翌59年に単純対位法と二重対位法、
60年に三重・四重対位法、61年にはカノンとフーガの学習を終え、
すべての理論を習得した。
自由な創作も許され、彼はその年に七曲の小品を作曲している。
混声合唱のための『アヴェ・マリア』は、
成熟期を迎えたブルックナーによる最初の作品である」
と書かれている。

4年も作曲を禁止されてしまう。

シューベルトが、このゼヒターのもとで修業をしたいと、
最初に思い立ったのが、1824年だったとされるから、
その修業が終るのが死の年と重なり、
彼の円熟期の作品はねこそぎ生まれなかったことになる。

シューベルトは、この頃、健康の悪化を自覚していたので、
この条件を出されたら、受講を諦めたかもしれない。

ブルックナーの「アヴェ・マリア」は、
ゼヒターとの修業の最初の成果に当たるが、
「リンツ新大聖堂の建立ミサの際、ブルックナーの指揮で
フロージンにより初演され、『リンツ新聞』紙上で
高い評価を得た」とされる。

フロージンというのは、ブルックナーが主席指揮者を務めていた、
合唱団のことである。

そういえば、ブルックナーは、ピアノ講師をやっていて、
気に入った女弟子のためにピアノ曲を書いていた。

当然のことながら、彼は、こうした、
すぐに演奏できるものを優先して作曲したが、
さらに邪推すると、
この合唱団にもお気に入りがいたのかもしれない。
マリアを讃える聖歌であるわけだから、
それは大いにあり得るだろう。

ブルックナーは、修業を終えると、
猛然と就職活動を開始し、
ゼヒターによる終了証明書と共に、
この合唱曲をも就職希望先に披露したとされる。

このような経緯を見ると、やはり、
シューベルトも求職を有利にするために、
ゼヒターに就きたかったのかもしれない。

ゼヒターの後任のような形で、
ヴィーン音楽院の教授になってから、
教壇でのブルックナーは、
「ゼヒター理論の権化だった」と書かれている。

ある学生は、
「この教授法が、音楽と何の関わりもないように思えた」
と書いたそうなので、
シューベルトのようなタイプは、
修了証を手に出来なかったかもしれない。

ここで、この「アヴェ・マリア」を聴いてみよう。
フリーダ・ベルニウスのCDを手にしたのは、
いくつかのモテットと、初期のミサ曲が一緒に入っていたからである。
モテット4曲は無伴奏で、前半の「ミサ曲第二番」だけが管楽合奏を伴う。

CDの表紙は、修道女のような女性が、
教会の中を黙々と掃除している絵画があしらわれており、
背景の祭壇が輝いて、日常の延長の中に、
こうした崇高な彼岸が続いているのだ、
という感じが伝わってくる。

何で、掃除の風景などが絵画のテーマになるのか、
理解できないが、そう考えることによって、
少し、分かったような気分になる。

ただし、ブルックナーは、こうした、
日常の努力のかなたに神の栄光を見たというより、
もっと一足飛びにその恩寵に浸ろうとした作曲家に見え、
この絵画がブルックナーの作品に相応しいかと言われれば、
ちょっと違うような気がする。

Gotthardt Knehlの作品とあるが、
色遣いも印象派風で、ブルックナーのような古色蒼然ではない。

とはいえ、Brucknerという作曲家名を金の飾り文字にしてあるあたり、
何となく、良いデザインのような気もする。

このCD、モテットの最初に入っている、
昇階誦「この所を作り給うたのは神である」は、
とても厳粛な感じながら、我々を包み込んでくれるような、
メロディーが美しい。

歌詞は切れ端で、
先の題名のあと、
「そははかりしれぬ秘蹟、誤りはない」
と繰り返される。

ブルックナーの生涯は、かなり危なっかしいので、
こうした祈りは切実だったかもしれない。

モテットの二曲目は、「イサイの杖は芽を出し」で、
続けて、「花を咲かせ、マリアは神にして人なる彼を生み給うた。
神は再び平和をもたらし給うた。
神はもっとも低きものと最も高きものを和解させ、
結ばせ給うたからである。アレルヤ。」
と歌われるが、
ブルックナーは高きものには媚びへつらい、
低きものには暴君として振る舞ったようなので、
これまた、悩ましい歌詞。

しかし、この作品は、まるで「第七交響曲」のアダージョのような、
陶酔的な上昇が見られる。

モテット三曲目は、昇階誦「キリストはおのれを低くして」で、
これまた、ブルックナーが共感した詩句が読み取れる。

「キリストはおのれを低くして、
死に至るまで、
しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、
すべての名にまさる名を彼に送った。」

このような内容を読むと、ブルックナーの祈りというか、
願望、自画像のようなものが透けて見えるようである。

この曲などは、「第八交響曲」のアダージョそっくりである。
私は、このように、これらの作品に耳を澄ませたことはなかった。
この曲は6分で、他の曲が3分台であるだけに長さが目立つ。

最後の「アヴェ・マリア」は、
「めでたしマリアよ、
恵みにみてるもの、神、汝と共にいます。
汝は女の中にて祝されたもの。
また汝の胎の実イエスも祝されたもう。
聖なるマリア、神の御母よ、我ら罪人のため、
いまも、我の死の時も、祈りたまえ。
アーメン」という内容。

ようするに、マリアに甘えている歌であるが、
評伝を読む限り、ブルックナーの母親が、
そんなタイプの女性であったとは思えない。
ブルックナーが少女ばかりを恋愛対象にしたのも、
肯ける記述が、「魂の山嶺」にも出ている。

「父親は貧しいながら安定した環境で成長し、
鷹揚な性格を身につけたと思われる。
一方母親は、富裕な家庭に生まれながら、
早くから窮屈な環境に身を置き、
屈折した性格を育んだのだろう。」
「後年のブルックナーに顕著な、
神経症的不安、やみくもな上昇志向、
創作に対する異様な周到さなどに、
この母親の影が感じられる。」

1861年に、この曲は書かれたが、
この母の死は、その前年のことだったという。

この曲だけが、7部合唱になっていて、
さすがゼヒター門下である以上、ここまで、
精緻な作りにしなければならないか、
という感じ。

19世紀中葉に、こうした作品が出て来たことを、
奇異に感じるばかりである。

他のモテットが、四部合唱で、比較的素直に聴けるのに、
この曲になると、メロディーが美しいという第一印象はない。
ゼヒターの教育は、これをもってしても、
何だか無味乾燥なものだったと、
納得できてしまうような感じ。

是非、この曲の、ここが良いというアドバイスが欲しい。
この曲は、初演時から好評で、自信作でもあったようだが、
清澄な雰囲気は分かるが、絶対、こうあるべきかは分からない。

さて、このCD、これら4曲のモテット以外に、
「ミサ曲第二番」が入っていて、こちらがメインである。

私は、これまで、彼の「ミサ曲」を何度か聴いたが、
どうも楽しんで聴いたことがなく、
今回は再挑戦の機会としたかった。

今回、このCDを聴いていて感じたのは、
第五楽章、「ベネディクトス」の美しさで、
管楽器の伴奏が、初夏の草地、森の奥から聞こえる、
鳥たちの囀りのようにも聞こえ、
まるで、ディーリアスのような世界。
美しい「第二交響曲」の雰囲気に満ちている。

ひょっとして、このCDのデザインの色調、
正しいのかと思い直した。
つまり、よくCDやLPで使われるような、
フリードリヒの絵画のような、
北ドイツ風の幻想の世界ではなく、
もっと、開放的で色彩感に溢れた世界が、
本来のブルックナーなのだ、と、そう感じたりした。

それにしても、あの「交響曲第二番」の第二楽章は、
「ミサ曲第三番」の「ベネディクトス」からの引用がある、
ということからして、
「ベネディクトス」は、交響曲の緩徐楽章に相当する、
というのがブルックナーの思考回路だったと思われなくもない。

音楽事典によると、「ベネディクトス」は、
ミサの通常式分のサンクトゥス(感謝の賛歌)の後半とある。
歌詞は、
「ほむべきかな、主の名によりて来たる者。
天のいと高きところにホザンナ」とある。

こうした恩寵に満ちた内容から、
このような考えは、通常のことだったかもしれず、
ベートーヴェンは、ここで長大なヴァイオリン独奏を、
10分近く響かせ続けた。

さて、ここCDの解説を見てみよう。
「『ブルックナーさん、
かつてあなたはよく私を楽しませてくれましたが、
私もあなたのことはよく考えていたのです。
もう一度、私に、感謝の念を告げさせて下さい。
聖なる場所の小さな場所はあなたのものです。
私は、この場所をあなたの墓地として、
あなたに捧げたいと思います。』
このような言葉で、リンツの主教は、
新しいカテドラルの地下聖堂に彼を案内し、
ブルックナーの『ミサ曲第二番』に対する返礼とした。
これは1866年に作曲され、
ブルックナーはこの時、リンツ大聖堂のオルガニストであり、
チャペルの奉献の仕事として依頼され、
1869年9月29日に初演されている。
この間、彼はヴィーン音楽院の教授となっていたブルックナーは、
この曲の指揮も任された。
この曲は、主教を深く感動させ、聴衆もマスコミも巻き込み、
ブルックナーが体験した、数少ない満場一致の成功となった。
このことを彼が思い出すのを好んだのは、
こうした理由によるものであった。
20年後になっても、『生涯で最も素晴らしい日』として、
彼は書いているのである。
この『ホ短調ミサ』は、
ブルックナーの三曲の大ミサ曲の真ん中に位置する。
これらは、ブルックナーの生涯の
極めて短い4年という間に書かれたが、
彼は、この間、その生涯の仕事の基礎を完成させた。
歴史的に見れば、それらはその作品群の最初期に位置し、
最初の交響曲が同時期に位置するだけだが、
コンセプトの上では、これらのミサ曲は、
すべての彼の交響曲の基本となっている。
ある意味、それらは『声楽交響曲』であって、
特に『ヘ短調ミサ』はそうである。
一方、同様に、交響曲にも当てはまり、
時として、『テキストのないミサ曲』と呼ぶことも可能である。
後者には無理があるかもしれないが、
しかし、ブルックナーの交響曲には疑いなく、
宗教的な側面があって、ミサ曲で、
彼が、深い言葉の洞察から、
テキストのための語法、音楽のための語法、
これら二つの意味における言葉を編み出したように。
このことは、特に『ホ短調ミサ』に特に言え、
ここでは、最終的な1882年改訂版に寄っている。
歴史的に前例のない、
ブルックナー自身、『ハルモニーとダブル・コーラスのための』、
と書いた、異例な編成ゆえにか、
この曲の音楽は各ミサ曲の中で最も詩的であると同時に、
最も交響曲的である。
『ハルモニー』とは、通常、通常、管楽合奏のことで、
独唱者がないこと、弦楽がないことが、
もっとも大きな特徴である。
この理由としては、演奏時の環境によるものとされる。
通常の編成やミサのためには、
実際、この奉納チャペルは小さすぎた。
ブルックナーにはこれ以外の余地はなく、
初演は屋外で行われた。
この事実から、弦楽は屋外では弱すぎるからと、
削除されたと邪推する向きもあるが、
文献を調べると、この編成が、
最初からのコンセプトであったことが分かる。
『ホ短調ミサ』には、ブルックナー、つまり、
『アダージョの作曲家』を聴くことが出来る。
不協和であっても、サウンドは熱狂的で暖かく、
計算され、支配的な、ゆっくりと動くラインとカンタービレは、
すべて言葉のように語られ、それは交響曲でもそうで、
金管と木管が性格付けして独特の和声のスタイルを成す。
これらすべてが、彼のアダージョのモニュメントなのである。
他の見方をすれば、ブルックナーの交響曲のアダージョの、
源流をここに見ることが出来る。
歌っている合唱を弦楽に置換えても、本物の声が聞こえてくる。
他に何がいったい弦楽を代用できよう。
このミサ曲の交響的なアダージョのサウンドは、
それでいて声楽的であり、教会音楽のスタイルを踏襲している。
一部、 ポリフォニックで、木管楽器もテキストとの関係で登場する。
テキストと音楽は常に包括的で、その言葉と構造は直結し、
すべての事が、様々な方法で表現されている。」

このように、声楽部を弦楽と同じような感覚で聴いていると、
ああら不思議、まるで、本当に交響曲を聴いているような感覚になってくる。

特に、この曲の場合、最初から静謐感あふれる清澄な響きが、
純粋な音としても楽しめるようで、
古楽を得意とするベルニウスの指揮が、
いっそう、そのクリアな感じを醸し出していて好ましい。

解説は、Wolfram Steinbeckという人が書いている。

この後、
「キリエの懇願は、
聴いているだけで、テキストが感じられるし、
幾度となく現れる、沢山の異なった意味は、
音楽でしか表現できないものだ」とあって、
この曲の各部の解説が始まるが、
それを読まなくとも、この曲の魅力は十分に私の心をヒットした。

最初の「キリエ」は、ちなみに、
「主よ、あわれみたまえ」が連呼される部分。
まったく劇的なところのない、清らかな無伴奏合唱で始まり、
管楽器の伴奏も、ほとんど、和音を補足する程度。

シューベルトのミサ曲では、
交響曲の序奏のように雄大で、
美しい憧れのメロディーとともに、
情感が高まって行くが、そうしたものとは違う。
まったく違う。

続く「グローリア」は、
「天の高きところには、神の栄光」と歌われ出すが、
まるで、グレゴリオ聖歌のような、
時代錯誤的な朗誦がついている。
そのあと、ファゴットか何かの軽妙な音型の上に、
晴れ晴れとした合唱が、
時折、ブラスに彩られて力を得ながら進行する。
7分ほど。

シューベルトの第六番などでは、
金管の炸裂にティンパニが鳴り響き、
十数分の長丁場となって、
最初のクライマックスを形成するのだが。

ブルックナーのCD解説にはこうある。
「グローリアにおける、『我らをあわれみたまえ』や、
クレドの『我らのために十字架につけられ』は慰めに満ち、
あがないの確信がそこにある。
『アーメン』のフーガが、
巧みにグローリアを締めくくり、
複雑に絡み合った暗いニ短調から、
明るい澄んだハ長調の光の終結に続く。
ユニゾンで歌われるクレドの冒頭の意味深さ。
それはあたかも、
一人の口から次々に全員にハーモニーが伝わるようだ。」

第三楽章に当たる「クレド」には、スケルツォ的な音型が現れ、
これまた、完全にブルックナーのその後の発展を予言している。
音楽の前後のバランスからして、このあたりに頂点を持って来た感じ。
9分と一番長い楽章。
途中で、第七交響曲のアダージョのような響きもあって、興味深い。

ちなみに、このクレド(信仰宣言)は、最も複雑な歌詞を持ち、
その冒頭は、「全能の父、天と地、見えるもの、見えざるもの、
すべての造りぬしを」と歌われ、
その後、キリストの受難などが概説される。
シューベルトが、自作のミサ曲で、このあたりの歌詞を改変して、
無神論者と評されるのは有名である。

シューベルトの「第六番」では、この「クレド」は、二十分近くを要し、
轟くティンパニに、意味深なピッチカートがからみ、
痛切な危機意識をにじみ出している部分。

第四楽章の「サンクトゥス」は、
感謝の賛歌ゆえ、「サンクトゥス(聖なるかな)」を繰り返し、
「万軍の神なる主」という所では、ブラスが厳かに鳴り響く。
「主の栄光は天地に満つ」という晴れ晴れとした3分ほどの小品。

シューベルトのミサ曲も、この部分は4分ほどで短いが、
不思議な爆発を繰り返しながら、
堂々たる万軍を描写する。

「同時代人は理解できなかった、
『われらをあわれみたまえ』のアニュス・デイに先立つ
ベネディクトスは、
『われらに平安をあたえたまえ』での霊的な成就のために、
半音階的に処理されて、ほの暗い。」

ここで、いきなり同時代の人の理解の話が出て来るのが唐突。
別に難解とも思えないが、やはり印象派風の点描ゆえか?

このブルックナーの「ベネディクトス」については、
最初に書いたように、そよぐ緑のような感触が満ち、
木管楽器の軽妙な響きが、牧歌的な情緒を強調していくが、
歌詞は、別にそれを暗示するようなものではなく、
「ほむべきかな、主の名によりて来る者。
天のいと高きところにホザンナ」という短いもの。
それを6分弱にわたって歌う。

シューベルトは、独唱の四重唱で、
朗らかな美しいメロディーを歌わせている。

終楽章のアニュス・デイは、
「神の子羊、われらに平安を与えたまえ」と、
ひたすら、沈潜するような5分ほどの音楽で、
集中して祈っているが、戸惑っているような、
呆然自失といった風情も感じられる。

このように、冒頭から、神秘的な始まり方をしたこの曲は、
虚無的な木管の音型が頻出し、
何だか闇雲な集中の表現が聴かれる、
不思議な消えるようなアンダンテで曲を閉じる。

「各楽章の音楽形式は、テキストを明確にするもので、
全体に意味を与えている。
例えば、グローリアにおける、『主のみ聖なり』は、
再びその楽章の最初を取り上げ、
クレドにおいて、『われは信ず、主なる精霊』の部分も、
『全能の父、天と地の造り主』という冒頭の音楽に返り、
音楽的にもテキスト的にも引用が行われる。
そしてミサの最後には、キリエの音楽が、
『我らに平安を与えたまえ』に重なり、
構造的なアーチが全曲の構造に対して差しのべられる。
こうして、同時に我々は、平和に対する祈りという、
中心テーマの基本コンセプトと、全曲の基本原理とを、
聴くことが出来るのである。
その上さらに、この曲の主題的な仕掛けを、
交響曲群においても応用している。
第三交響曲以降、彼は最初の楽章のメイン・テーマを、
フィナーレの終結クライマックスにおいて炸裂させることとなる。」

シューベルトは、最後のミサ曲の終曲で、
永遠の未解決のような壮大な、
しかも不気味なドラマを演じたが、
ブルックナーもまた、より簡素ながら、
弱々しい人間存在をあぶり出しているようだ。

それゆえか、次のモテット集が始まると、
なぜか、一息付ける感じである。

このモテットについての解説部を読んで見よう。
「神聖な無伴奏合唱のモテットのうち、
ここに収められた『ホ短調ミサ』と同じ宗教的スタイルを持つ。
ミサと同様、典礼のフレームワークでの
純粋な教会音楽として作曲されているが、
その高い芸術性によって、ブルックナーの生前から、
通常のコンサートでも演奏されてきた。
最も古い作品は、おそらくブルックナーの最初の傑作で、
ヘ長調七声からなる『アヴェ・マリア』である。
これは1861年にリンツで作曲され、
当時、ブルックナーが指揮をしていた、
合唱団『フロージン』の創設を祝って初演された。」

「魂の山嶺」では、
リンツ大聖堂の建立ミサのための作品とされたが、
フロージン創設の祝賀曲でもあったのだろうか。

「四声からなる『この所を作り給うたのは神である』は、
1869年作曲。ホ短調ミサと同様、チャペルの奉献用であったが、
そこでの演奏は一ヶ月後になった。
この合唱曲においても、
その清澄さ、最も親密な表現の純粋さは、
『計り知れぬ秘蹟』と歌われる部分にある。」

この曲の場合は、冒頭から、恩寵の予感に満ちている。

「他の二曲の四声のモテットは、
昇階誦で、特別の機会にミサに挟んで演奏したもので、
もっと後の創作時期に書かれた。
ブルックナーの好んだニ短調による
『キリストはおのれを低くして』は、
1884年の作曲。
メロディ、リズムは類似ながら、
同じテキストへの3番目の作曲。
先の曲に比べると、何よりも和声の点で、
ブルックナーの音楽的発展は明瞭である。
『イサイの杖は芽を出し』は、
その1年後の作曲で、ブルックナーは、
聖フローリアンに滞在していた。
この曲でも、さらに成熟した語法が聴かれる。
『花を咲かせ』から、『処女マリアは』への遷移や、
または、『神は再び平和をもたらし給うた』における和声の連なりが、
4ヶ月前に初演された『テ・デウム』のものと
酷似していることは明らかである。」

私には、むしろ、『第八交響曲』のアダージョとの類似が明らかだ。
この難解な解説は、以下のように結ばれている。

「曲を聴きながらテキストを読むことによって、
これらのモテットが、強烈に直接的、徹底的に主観的でありながら、
極度なポリフォニー語法が駆使されていることの妥当性が分かるのである。」

得られた事:「ゼヒターから解放されて作曲された『アヴェ・マリア』には、特別な感慨はないが、五年後の『ミサ曲第二番』は、曲全体を、ブルックナー最長の『アダージョ』として聴くことが出来る。」
「ブルックナーのモテットは、まさしく彼の願望の自叙伝であった。」
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by franz310 | 2009-06-21 22:09 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その178

b0083728_23365575.jpg個人的体験:
ジーモン・ゼヒター。
シューベルトとブルックナーを結ぶ、
ミッシングリンクのような存在。
前回、この人の歌曲にも
言及しようと思ったが、
字数オーバーでアウトになった。
ただし、シューベルトは、
結局、この名物教師からは
一度しかレッスンを受けていない。
シューベルトの生命が尽きたのである。


一方、ゼヒターは、ブルックナーには、
どのような影響を与えたのであろうか。
そのあたりもちょっと気になって、
ブルックナーの初期の作品を集めた、
CDを聴いてみたくなった。

これは、交響曲作家として高名な人の、
ほとんど知られざる一面を示して、
大変、興味深いCDであるが、
ブルックナーにこだわったレーベルとも思えない、
スウェーデンのレーベル、BISのもの。
World premiere recordingsとあって貴重と思えるものの、
何故、弾いているのがfumiko shiraga?

1967年日本生まれだが、6歳で両親とドイツに渡っており、
日本人が何故、という質問は不要なのかもしれないが。
解釈にすぐれ、色彩的で繊細でありながらすごい集中力がある、
という批評が紹介されている。

室内楽演奏で、リンツのブルックナーハウスに招待された、
とあるから、こうしたことがこの録音に関係しているのか?
こうした推測を勝手にすると、違うと言われそうだが。

ソナタの断章、舞曲、幻想曲など小品が10曲、
1. ト短調ソナタからの第一楽章(1862)
2. 「秋の夕べの静かな想い」(Stille Betrachtung an einem Herbstabend)(1863)
3. シュタイエルメルカー(Steiermarker)(1850)
4. ランシェ・カドリル(Lancier Quadrille)(4曲)(1850)
5. 小品 変ホ長調(1856)
6. 幻想曲 ト長調(1868)
7. Erinnerung(回想、追憶)(1868)
が収録されている。

そして、最後に「第七交響曲」からの長大なアダージョが、
26分40秒かけて演奏されている。

が、このCDのデザインは、
何とかならないのだろうか。
ピアノの弦のクローズアップだが、
まるで、集積回路のワイヤーボンディングを見ているようで、
何だかイライラする。
しかも白黒。ピントも合ってるか、合ってないかわからん。

ただし、今回、ざっと聴き通して言えたことは、
ブルックナーの成長過程はそれなりに聴き取れるということ。
この変人巨匠の評伝を読んだことのある人なら、
楽しめるかもしれない。

舞曲調で単純なものは楽しく明るい。
また、小品はトマーシェクなどから続く即興曲風とも言えよう。
さらにベートーヴェン風の緊張したものがあり、
1868年くらいの作品になると、ブルックナーの交響曲の、
長大な幻想が羽ばたき始めるのが感じられる。

特に、最後のErinnerungの恍惚とした高揚感などは圧巻である。
まるで、第八交響曲のアダージョではないか、これは。
最後のぴらぴらぴら、といった感じは、
あの大交響曲のハープそっくりである。

Rudiger Herrmannという人が解説を書いている。

「広く一般聴衆にとって、
交響曲と宗教曲の大家として知られるブルックナーの、
ピアノ曲が知られていないのは決して不思議なことではない。
しかし、ブルックナーのピアノ曲を知ることは、
単に音楽的にどうかということを離れても、
音楽史に特異な位置を占めるこの作曲家の芸術が、
どのような変遷を見せたかという興味をそそる。
音楽上の規範、様々な作曲技法、感情や心情の表出、
作曲した当時の状況までもが明らかになり、
ブルックナーの個性のイメージを満たし、
音楽発展の軌跡を見ることができる。」

ということで、今回、このCDを取り上げた事と、
完全にマッチする内容が書かれていることが分かった。

「1850年から1868年に書かれた、
ブルックナーのオリジナルのピアノ作品を見る時、
まず、ロマン派の性格小品、抒情小品、『無言歌』
のような規模の小ささに我々の関心は寄せられるが、
それが作曲された場所についても注意するべきである。
つまり、それは聖フローリアンの修道院か、
または、聖堂の街、リンツか。」

ブルックナーは、ちょうどこの時代、
ジーモン・ゼヒターに教えを請うている。

「1845年9月、ブルックナーは、
かつて自分が少年聖歌隊として参加していた、
聖フローリアンの商業寄宿学校への採用が決まった。
10年の間、まずは補助教師として、そして上級中学の教師として、
この学校で教え、1850年からは修道院のオルガニストも務めた。
学校での業務に加え、聖歌隊で声楽やヴァイオリンも教えながら、
さらに彼はピアノのレッスンの時間も作っていた。
彼は、友人でパトロンであった修道院の書記フランツ・ザイラーの死後、
譲り受けた新しいベーゼンドルファーでレッスンを行った。
彼の教え子には、秘書のマーベックの3人の子供たちや、
教区の行政官リュッケンシュタイナーの娘や、
彼の前任の教師ミヒャエル・ボーグナーの娘、
アロイジア・ボーグナーがいた。
彼女は、ブルックナーのピアノ曲の中で、
残っているもののうち最古のもので、
その手稿には指遣いまで書き込まれた教則用の、
『Lancier Quadrille』を献呈されており、
この若い将来の巨匠は明らかにこの生徒を愛していた。
この4楽章のコントルダンスは、作曲家の世俗音楽への愛情と、
彼が実際にダンス音楽も担当しただろうということを明らかにする。
作曲のテクニックはモンタージュであって、
1840年頃、リンツで舞台にかかった、
ロルツィングやドニゼッティのオペラの中のメロディを繋げ、
序奏と、中央部のメロディ変容部、終結部のコーダを追加している。」

ということで、Track4から7は、この曲が入っている。
とても楽しいダンス音楽で、シューベルトのワルツ集に、
紛れ込んでいてもおかしくない長さ(1分半から4分程度)で、
長大重厚なブルックナーらしさは皆無である。

このような音楽を彼はダンスの伴奏を行ったのだろうか。
そのピアノの席から、見つめていたと思われるアロイジアとは、
いったいどんな女性だったのだろうか。

いずれにせよ、シュトラウスのワルツやポルカと同じ土俵のもので、
気楽に楽しめるという点では、録音されるに値する。

シューベルト的という意味では、
もっと繊細なのが、Track3のもの。
物憂げな情緒はまさしくシューベルト的だ。
そのことは、この解説にも書いてあって驚喜した次第。

「『Steiermaker』は、様式化されたレントラーで、
同様に1850年頃の作品。
やはりアロイジアに捧げられるはずだったこの作品は、
4つの8小節が繋がって楽しい舞曲となっており、
上部オーストリアの民謡『Dirndal,merk’dir den Bam』の引用があり、
シューベルトの舞曲の影響が見られる。」

これは非常にロマンティックなもので、
『初恋のワルツ』とでも命名してもよさそうだ。

「手稿にある献辞は、最終的に×印で消されており、
彼がかくも愛した生徒から拒絶された事を示唆している。
そして、これは、おそらく彼の確実だった音楽的成長を遅らせ、
彼が愛した第二の故郷への失望を募らせた。」

ちなみにこの話はブルックナー・ファンには有名な話なのか、
新潮文庫の土田英三郎著「ブルックナー」にも、
かなり詳しい記述がある。
シュタイエルメルカーとは、「シュタイエルメルク州の人、舞曲」を表わす、
と楽譜のコピーまで載っているのでびっくりした。

なお、春秋社から出ている田代櫂著
「アントン・ブルックナー、魂の山脈」にも、
このような記述がある。
「恐らくこのアロイジアが、
ブルックナーの少女崇拝の発端だったのであろう。」

なお、ブルックナーは21歳で正教員になる以前は、
クロンシュトルフという小村の補助教員をしていたが、
この街はエンス河のほとりにあって、
シューベルトが「ます」の五重奏曲を作曲した、
シュタイアーの街は、その上流にあった。

この春秋社の本によれば、
そこを訪れたブルックナーは、「シューベルトの最後の女友達」
と言われた、カロリーネ・エバーシュタラーと知り合ったとされている。
カロリーネと言えば、エステルハーツィ伯爵家の息女を思い出されるが、
エバーシュタラーはノーマークであった。

「彼女を通じてシューベルトの世俗音楽に触れたといわれる」
と書かれているが、聖フロリアンには、シューベルトの宗教曲が、
あったのだろうか。
「聖フロリアンの図書館には、すでにシューベルトの生前から、
写譜や楽譜のコレクションがあった」と書かれているのが気になった。

なお、この本にはさらに、
「歌曲では『冬の旅』の第一曲『おやすみ』を
特に好んだといわれる」とあり、
歌曲の他に、ピアノ・ソナタ第16番と第21番の
楽譜を、ブルックナーは所有していたとある。

この本掲載の地図を見ると、
このシュタイアーの街のさらに上流には、
シュタイアーマルクの記載があり、
おそらく、これが、先の舞曲「シュタイエルメルカー」であろう。
このエバーシュタラーさんとの交流の中で得られたものであろうか。

ブルックナーの初期作品が、このように、
「ます」の五重奏が生まれた風土の中から生まれた事の方が、
ゼヒターを介しての繋がりより重要なような気がしてきた。

しかし、エバーシュタラーという名前は、
「友人たちの回想」には出て来ないようである。
この女性はブルックナーより長生きしたとあるので、
「最後の女友達」というのは、
「最後まで生き残っていた女友達」という意味ではなかろうか。
シューベルトは、シュタイアーで歓迎された時、
泊まっていた家の8人の美人娘について言及しているが、
その友達として、エバーシュタラーさんがいたとしてもおかしくはない。

CD解説に戻る。
「収税官吏の娘、アントーニエ・ヴェルナーへの求婚に対しても、
否定的な返事を返され、彼の失望は、その芸術家としての野望の発展、
社会的地位の改善に関しての努力を潰えさせた。
孤独と自信喪失と修道院からの援助の不足が、
フローリアン時代の最後の5年、
個人的、芸術的な危機の時代を招来させた。」

確かに、これらの後、このCDに入っているのは、
1856年の一分半に満たない「小品」があるだけで、
あとは1860年台のものとなっている。
したがって、若い頃の作曲の記録とはいえ、
かなり離散的な記録となっているのである。

「大聖堂と教区の教会のオルガン奏者となり、
学校教師を辞めて、1856年から1868年のリンツ時代に、
職業の点ばかりか芸術的にも飛躍があった。
ブルックナーは社会的地位を向上させ、市民社会の中で、
プロとしての、芸術上の名声を獲得し、
雇い主大司教フランツ・ヨーゼフ・リューディガーの援助や激励も得、
何よりも、収入も増やすことが出来た。
彼のたくさんの時間を費やす業務、教会音楽の用意、
演奏会での演奏、オルガンのメンテと改修、合唱指導、
音楽理論や対位法の徹底的な勉強の合間を見つけ、
リンツでも個人的なピアノ教授を続けていた。」

危機の時代は去った。
さて、どんな曲が書かれたのだろうか。

「たった18小節の、非常に短いピアノ小曲変ホ長調は、
1856年に書かれ、ブルックナーのリンツ時代の、
おそらく最初のピアノ作品であろう。
彼の手による指遣い、フレージング、ダイナミックスのマークが、
この作品が彼の音楽レッスンに使われたことを示している。
歌うようなメロディの扱い、音楽素材の扱いは、
メンデルスゾーンの雰囲気を漂わせ、
教材に使っていた『無言歌』からの影響があるかもしれない。」

この曲(Track8)もそれほど個性的ではないが、
とても親しみやすいもので、
後年の大交響曲群のブルックナーに怖れをなす必要はない。
シューベルトから、規範はメンデルスゾーンに移ったようである。

「メンデルスゾーンのスタイルへの通暁は、
1863年10月10日に書かれた、
性格小品『秋の夕べの静かな想い』にも明らかである。
この作品は、思索にふけるムードが強調され、
1857年から63年にかけて、毎週教えていた、
ブルックナーの生徒、エンマ・タンナーに捧げられ、
彼女の証言によれば、『恋人の望みのなさ』が、
この作品に底流しているという。
調性、テンポ、リズムや技法がメンデルスゾーンの、
『ヴェネチアの舟歌』作品30の6と明らかに類似しており、
さらに3部形式という形式上の外観も、
ブルックナーが規範として、
『19世紀のモーツァルト』を採用したことを示している。
しかし、その模倣を越えて、ぎっしりと書き込まれたカデンツァが、
ブルックナーの執拗さを示しており、
オットー・キツラーの元での修行を終え、
1863年6月には『赦免』されていて、
『自由な創作』の個性を感じさせる。」

ここでは、何故か、キッツラーの名前しか出ていないが、
この間、ブルックナーは、冒頭で話題にした名教師、
ジーモン・ゼヒターに学んでいる。

こう見ると、ブルックナーは、
危機の時代をメンデルスゾーンで克服し、
続いて、ゼヒターに学んでいる間に、
シューベルト風からメンデルスゾーン風になってしまったようにも見える。

確かに、ゼヒターが、シューベルトはいいよ、
シューベルトに倣いなさい、などと言ったとは思えない、
ような気もする。

とすれば、ジーモン・ゼヒターを、
シューベルトとブルックナーを繋ぐ、
ミッシングリンクなどと考えるのは、
まったく間違いであったと言わざるを得ない。

ここで、ゼヒター自身の作品も見て見よう。
前回、取り上げた、「シューベルトと同時代者の歌曲集」に、
ゼヒターの歌曲「おやすみ」が収録されている。

ブルックナーが好きだったシューベルト歌曲と同じ題名??

対位法教師の作品ゆえ、もっと異質な世界を期待したが、
単純で穏やかな世界が広がっている。

内容は、「お母さんがおやすみを言うと、優しいベルが鳴るのです」
という感じの子守歌風。
解説を見ると、
「驚くべき事に、ここには対位法的なものはなく、
ビーダーマイヤー風の歌曲で、まったく複雑なところがない」
と、私がびっくりがっかりしたのと同様のことが書かれている。

「SIMON SECHTER(1788-1867)
ゼヒターはボヘミアに生まれ、
ヴィーンにて同郷のコジェルフに学び、
Gumpfendorfの盲人施設の音楽教師となった。
1824年、宮廷劇場のオルガニストとなった。
1851年の晩年になってようやく、
ヴュータンやブルックナーを教えることになる
音楽院のスタッフとなった。
彼はラモーのグランド・バス理論を担当し、
これを彼の理論書の最初とした。
シューベルトは1824年になると、
おそらく、ラッハナーか誰かの薦めで、
ゼヒターに学びたいと思ったが、
ゼヒターの堅苦しい音楽がうつることを怖れた、
他の友人に忠告を受けてやめている。」

1851年といえば、まさしく、ブルックナー危機の時代。
また、ゼヒター自身は63歳の高齢ではないか。

「シューベルトは仲間の作曲家のヨーゼフ・レンツと、
1時間のフーガのレッスンのために、
1828年11月4日に遂にゼヒターを訪れた。
これはちょうど死の2週間前であり、
シューベルトはD965bのフーガの練習を残したものの、
二度目のレッスンの機会はなかった。
彼がゼヒターに入門しようとした理由としては、
正式な地位に就くためには、
こうした修行が必要という示唆があったからかもしれない。
また、晩年のベートーヴェンのように、
ヘンデルやバッハの音楽に惹かれたからかもしれず、
あるいは単純に複雑な対位法を手中にしたかったのかもしれない。
この問題に対しては、近年のレンツの研究結果が待たれる。
このゼヒターの歌曲は、
1835年の雑誌への付録である。」

ゼヒターが残したシューベルトに対する手記は、
非常にそっけないものであるが、
(1857年8月21日のものとある)
今回、改めて読み直すと、
「天才シューベルトとわたしとの関係に対し、
わたしには、わたしたちがたがいに尊敬し合っていたが、
あまり会うことはなかった、とだけ申し上げるしかありません。」
と書いている。
シューベルトの前に、「天才」とあるのは、畏敬か皮肉か。
「ハ短調フーガ」という作品を、彼は、
「天才」の死後、シューベルトに捧げているともいう。

一方、先の新潮文庫でゼヒターとブルックナーの関係を読むと、
「1855年7月に始まるゼヒターの指導は足かけ6年に及んだ」とある。
この間、ゼヒターは、シューベルトの思い出を書いている。
30年近く昔の話で、ゼヒターは70歳近い高齢ではないか。

「ゼヒターはボヘミア生まれの音楽理論家で、
当時ヴィーンの宮廷オルガニストと楽友協会音楽院の
和声法・対位法の教授を務めていた。
彼は理論の古典的な伝統を継承し、
特に和声論の分野では十九世紀中葉を代表する人物のひとりだった。
大変な多作家でもあり、毎日必ずフーガを一曲書いたという。
教育家としても多数の優れた弟子を持ったが、
フランツ。シューベルトが死の少し前に
彼に教えを請うた話は有名である。」

こう書かれると、シューベルトに一曲くらい捧げても、
日記の切れ端にしか見えないではないか。

「ゼヒターの教育は57年の秋から本格的に開始された。
ブルックナーはゼヒターが教えることのできるすべてを吸収した。
・ ・1861年3月26日、カノンとフーガの修了証書をもって、
ブルックナーはゼヒターのもとでの勉学を終えた。
ゼヒターは弟子の修業期間中の作曲を禁じていたので、
リンツに移ってからこの時点までの作品は10に満たず、
しかもそのほとんどはピアノの弟子のための小品とか、
聖フローリアンやフロージンのための機会音楽的作品である。」

と読むと、シューベルトは、つくづく、
ゼヒターの弟子にならなくて良かったと思う。

しかし、もう一曲、ゼヒターから巣立ってすぐに書かれた、
「ソナタ楽章」がこのBISのCDには収録されている(Track1)。
冒頭におかれている。

この曲は、シューベルトの16番のソナタにも似た、
ほの暗い情熱に満ちた作品で、シューベルトの未発見の作品、
といっても良いような情感を持った力作である。
決して断片ではなく、7分47秒の規模。
4楽章あれば、30分くらいの大作になったかもしれない。

「ソナタ楽章ト短調は1862年6月に書かれ、
おそらくスケッチか作曲練習のためのものである。
リンツ劇場の指揮者で、ブルックナーの管弦楽法の師匠、
オットー・キツラーのための練習帳に記されているので、
明らかに習作だが、ブルックナー自身の手で、
形式的な質問や、作曲技法上の問題が書き込まれ、
第三者によって、修正の長所やアドバイス、指示が書き込まれている。
ベートーヴェン、シューベルトへのスタイル上の近接、
あまりにも尊敬していた先人と格闘によって、
純粋で直感的な霊感ではないが、
ブルックナーの精神で古典形式に魂が与えられている。」

このように、メンデルスゾーンの他、
ソナタのような厳格な世界では、ブルックナーの眼は、
ベートーヴェン、シューベルトに向かっていたようだ。

ただし、この場合、ゼヒターよりキツラーに負うところが多い模様。
このあたりの経緯も、新潮文庫には詳しい。
「キツラーは46年にヴァーグナーの指揮で、
ベートーヴェンの『第九』を歌い、
翌年にはシューマンの『楽園とペーリ』の初演に参加するなど、
若い頃から貴重な体験を積み、ヴァーグナーをはじめ、
当時の新しい音楽に傾倒していた。
実践的かつ進歩的な音楽家であり、
その意味でも厳格な理論家ゼヒターとは対照的な人物だった。
ゼヒターの純理論的なきわめて限定された教育に
物足りなさを覚えるようになったブルックナーは、
61年の秋から自分よりも10歳も若いこの青年に師事することにした。」

キツラーの練習帳は有名らしく、多くの習作が、
ここに埋もれているらしい。

さて、この新潮文庫によると、
ピアノ用の「幻想曲」が、リンツ時代の最後の作品、
と紹介されているが、
これもまた、このCD(Track9)で聴くことが出来る。

CDの解説にはこうある。

「二つの楽章からなる幻想曲は、
強烈なコントラストをなす、明らかに繋がりにくい、
ダ・カーポの二つの音楽を並べたものである。
最初の部分は、『ゆっくりとよく感じて』とあり、
リストやショパンの息がかかっているように見え、
第二のセクションでは、アルベルティバスに特徴があり、
古典的、ロココ風がモデルになっている。
両方の中間部は、ブルックナー風の語法が見える。
最初の方は、大きなインターバルとブルックナー風のリズムで、
二番目の方は模倣の連続と大きな転調である。」
この解説のとおり、「愛の夢」のようなまどろみが、
疑似古典の楽しいリズムのスカルラッティ風の音楽と組み合わされている。

何だか奇妙な作品である。
これはこれでブルックナー風とも思える。

さて、続く、Track10は、
最初に私が言及した作品。
「『回想』は、ブルックナーの最初に出版されたピアノ作品であり、
ヴィーンのドブリンガーから死後、1900年に印刷されたが、
当時44歳の作曲家の最も重要な作品とみなされている。
メロディが中声部でオクターブで発展したり、
右手が低音の輝かしいサウンドを模倣するなど、
ここには明らかに交響曲からの影響がみられる。
同様に伴奏の幅広いアルペッジョもハープを思わせる。
詳細な表現指示も、オーケストラ風で、
これはブルックナーの管弦楽へのアプローチを示すものである。」

ちなみに1868年の作曲とされている。
新潮文庫には、1860年とあったが、この違いは大きい。
1868年なら、最初の交響曲群が書かれているが、
60年では、まだ、ゼヒターやキツラーに教えを請うている段階である。
しかし、この曲、もっと後年の作品
と言われてもおかしくない魅力を持っている。

このように、この「回想」があることで、このCD、
みごとにブルックナーの音楽発展が描き出される事になった。
ピアノの先生としての1850年の小品、
失恋の危機をメンデルスゾーン風に乗り切って、
今度は、ゼヒター、キツラーの指導を経て、
ソナタのような大曲が現れ、
交響曲の作曲を反映しながらのピアノ作品は、
今度は晩年の交響曲を示唆するような響きを持つに到る。

この「回想」が、死後まで出版されず、
いまだ、よく知られていないのは、不思議というしかない。
手軽にブルックナーのエッセンスを味わえる、
貴重な逸品のようにも思えるのだが。

最後にこのCDは、ブルックナーが最初に栄光を手にした、
「第七交響曲」の、しかも、もっとも賞賛された「アダージョ」の、
ピアノ編曲版で閉じられる。
この長大で崇高な曲想を、ピアノのきらきらとした響きで聴くのも、
格別な体験だろう。
確かに集中力の高い、聴き応えのある演奏であった。

得られた事:「ジーモン・ゼヒターは作曲家としてはビーダーマイヤー風で、シューベルトとブルックナーを繋いだわけではない。」
「ブルックナーが愛した楽器の一つが、ベーゼンドルファーであり、彼は、数多くの愛をこれで語った。最初期のものはシューベルト風であった。」
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by franz310 | 2009-06-14 00:04 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その177

b0083728_10463396.jpg個人的経験:
ハイペリオンが出している、
「シューベルトの友人と、
同時代者の歌曲集」という、
3枚組のCD、
一枚あたり10人もの作曲家が
取り上げられていて、
一枚聴き通すのに、
かなりの覚悟がいる。
意を決して連休に一枚目を聴いたが、
ようやく二枚目にチャレンジする。


前回、ベートーヴェンなどは省略したが、
今回も他の機会に聴ける作曲家は省略したい。
省略対象は、ピアノ曲で有名なトマーシェク、フンメル、
ヴァイオリンのシュポア、そして作曲家のウェーバーである。

また、ゲーテとの交友で有名なトマーシェクは前々回取り上げた。
ごめんなさい、ノイコム、クロイツァーは、別のCDに回させてください。

それでも、エバーワイン、ディートリッヒシュタイン、
クラフト、べーガー、ワイラウフ、ゼヒターは、
是非とも聴かなければならない。
6人もいる。

特に、シューベルトとブルックナーを繋ぐ、
名教師として知られるジーモン・ゼヒターは気になる。
が、解説を読んでいると、べーガー、クロイツァーが、
隠れた大物のような感じである。

おそらく、企画した人も、
同様の取捨選択をしたものと思われる。
シュポア、フンメルのような一世を風靡した人たちが、
一曲ずつしかないなか、
ベーガー、クロイツァーは7曲が収録。
解説を読んでみると、
シューベルトの「美しい水車小屋の娘」と、
「冬の旅」は、彼らと共に語られるべきものであるらしい。

改めて、このCDのデザインを見ると、
二枚目の解説は、女性の冬のお出かけスタイル。
馬車が待っているあたりがブルジョワ感に拍車をかけている。
コートのあちこちにふわふわが付いていて、
帽子もいろいろ付いて重そうである。

左手に持っているのは、手を温めるマフであろうか。
劇場に観劇にでも行くのだろう。
マフに手を入れているのは見たことがあるが、
ナマコのようなものをぶら下げている絵は初めてだ。

さて、急いで取りかかろう。
Track1、2はトマーシェクで、すでに聴いた。

Track3 エバーワインである。
肖像画からしてふてぶてしい面構え。
ハンサムなベートーヴェンといった風貌だ。
ゲーテにオペラを書きたいと申し出て、断られた逸話が出ていたが、
当然、そんなことは無視しそうな感じ。

シューベルト円熟期の1826年、
ゲーテの『魔王』を含む5曲と共に作曲したとされる、
『憩いなき愛』が歌われる。
メンデルスゾーン風のピアノ書法の伴奏が聴けるとあるが、
まさしく、無言歌の一曲といった感じ。
焦燥感のある楽想が影を宿しながら、突き進んで行く。

解説にはこうある。
「MAXIMILIAN WBERWEIN (1775-1831)
ゲーテはエバーワインの名前を、
Alexander Bartholomaus Eberwein(1751-1811)が、
町の音楽責任者であったことから、
1775年ヴァイマールに到着した時から知っていた。
その二人の息子がマキシミリアンとカール(1786-1868)で、
ゲーテの息子アウグストの学友となったのは後者で、
いっそうゲーテとの関係が深く、
ベルリンに出てツェルターに学び、
ほとんど毎日のように詩人と会い、
ファウストのための音楽さえも書いている。
彼の夫人はヘンリエッテ・ヘスラーといい、
様々な機会にゲーテ家で歌ったりしている。」
父と弟とその嫁は、密接にゲーテと関係があったということだ。

「一方、マックスは早くから息苦しいヴァイマールを離れ、
パリ、ナポリ、ヴィーン、ベルリンと渡り歩き、
弟より優れた、より個性的な音楽家になった。
彼はルードルシュタットの地位を引き受け、
多数のオペラを作曲、ゲーテが禁じたにもかかわらず、
ゲーテの『クラウディーネ』を完成させている。
作曲家の名声に寄与するのに有力な、
音楽雑誌がこの町の音楽状況を取り上げなかったので、
そこでの成功はあまり知られていない。
そのせいで、彼の作品は流通せず、印刷されたものも少ない。
この時期の素晴らしい作品は大量に失われた。
各町、各宮廷は各々、自分たちの楽長を抱えていて、
そこで生まれたもの以外を演奏する機会も少なかった。」

こんな人の作品が、発掘されだしたら、
などと想像するとわくわくしてしまう。
風貌に相応しく、歌曲もまた陰影に富んだものだ。

しかし、シューベルトにもこうした選択肢はあったのだろう。
放浪の音楽家として、ヴィーンを離れたら、
彼の音楽はどうなっていたのだろうか。

Track4は、ディートリヒシュタインの『悲しみの喜び』。
この人などは、シューベルト愛好家は、
特に、よく耳を澄まさなければならない。
この人はこの作曲家の恩人なのである。

ゲーテの詩によるもので、
「涸れないで涸れないで永遠の愛の涙よ!
なかば涸れた目にはこの世は死んで見える」と歌われる。

当時の立派な貴族の例に漏れず、
すぐれた作曲家であったディートリヒシュタインは、
1811年に16曲のゲーテ歌曲を出版。
詩人から丁寧な返事ももらっている。
それは技巧的なものではないが洗練されているが、
ベートーヴェンの同曲(1810)を思わせるという。

解説には、この人を賞賛する文章が連ねられている。
「MORITZ VON DIETRICHSTEIN (1775-1864)
小説家のアンソニー・トロロープの母親、
フランシス・トロロープが書いた、
1838年の『ヴィーンとオーストリア』の中で
彼は大変、賞賛されているが、
その理由はわからないでもない。
彼は最も強力で影響力のあった役人であり、
愛嬌があって教養もあり、非常に知的、
いつも判断力優れて他人を助けた。
当時のエドワード。マーシュのようなものである。」

このように書き始められるとわけがわからないが、
いずれにせよ、女性には大変モテモテだった可能性はある。
権力があり、太っ腹で、肖像画もハンサムである。

「彼はナポレオンが二度目に結婚した時の息子、
シェーンブルンで監視されていた、
Duc de Reichstadtや、
シューベルトの『夜と夢』の詩人である、
マティアス・フォン・コリンの家庭教師であり、
さらに、ディートリヒシュタイン監督下にあった、
若い囚人は全部、彼が教育していた。
シューベルトはディートリヒシュタインに、
最初にアンゼルム・ヒュッテンブレンナーを通じて、
学校時代に知り合っており、その頃、様々な機会に援助もうけ、
彼には感謝しなければならない。
公務員であったのに、権力のある人はめったに持ち得ない、
本能的な予知能力でシューベルトの天才を見抜いていたようだ。
1821年1月24日の、彼のシューベルトに対する保証書は、
『生来の天才』と褒めそやすものであり、
彼はレオポルド・ゾンライトナーと共に、シューベルトの歌曲が印刷され、
出版されるのに協力した。
この傑出した人物に、シューベルトは、作品1の『魔王』を献呈した。」

彼が作曲したものも、素朴だが、誠実な歌曲で、
こういう曲を書く人が、賛嘆したならシューベルトも嬉しかったはず。
ただし、この歌曲そのものは、あまり印象に残るものではない。

Track5は、クラフトの「君よ知るやかの国」である。
ディートリヒシュタインの歌曲が、地味な曲想だったのに対し、
この曲は、レモンの花咲く国への思いを描いて、
さっと周りが明るくなるような効果がある。
ピアノのシンプルな伴奏ながら、メロディーが憧れに満ちて舞い上がる。

解説によると、この詩には、
1810年にベートーヴェンが作曲して出版しているが、
これとは違って、幅広いハ長調の魅力的な歌曲と書かれている。
クラフトは明らかに、ベートーヴェンの御影石のような伴奏より、
浮遊するトリプレットの、女性的な伴奏を好んでいたとある。

「NIKOLAUS VON KRUFFT  (1779-1818)
シューベルトにとってこの人が重要なのは、
彼が同様にヴィーン人であって、1818年まで活躍し、
その地域のもっとも身近な歌曲作曲家のモデルであったということ。
シューベルトとは違って、ニコラウスはかなりの資産を持つ、
貴族の家に生まれたことである。
当時、作曲の教師としてはサリエーリのライヴァルとされた、
アルブレツベルガーに学んだ。
彼は作曲を教会音楽、かなりの量の室内楽、
ピアノ独奏曲、歌曲に限定した。
彼はヴィーンの音楽雑誌を共同創刊し、38歳という若さで死去した。
彼の早い死は、当時の死亡記事によれば、
彼が夜昼かまわず、ミューズに捧げ、過労で死んだとされているが、
こうした不明瞭な書きぶりは、
彼がシューベルトを蝕んだ病気にかかっていたことを示唆する。
1798年、19歳の時にクラフトの最初の歌曲集が印刷され、
ここに収められた歌曲は1812年ヴィーンで出版された、
17曲の歌曲集「Sammlung deutscher Lieder」からのものである。
これはシラー、コッツェブー、マッティソン、ヴォス、ヘルティ、
ザリス=ゼーヴィス、ゲーテ、そして女性親族の詩による。」

歌っているのは、Stella Doufexisという人だが、
いかにもミニヨンを思わせる可愛らしい歌声が忘れがたい。
ここには悲劇の気配はなく、大空に舞い上がる情感のみが残る。
ピアノ伴奏も簡素ながら効果的である。

Track6以下は、
ベーガーの歌曲、「美しい水車屋の娘」から7曲が続く。
Mark Padmoreという男性が歌っている。

まず、このシューベルトの歌曲で有名な詩集の成立と、
この作曲家が、いかに密接な関係にあったかを、
CDの解説から学ぶ必要があろう。

「LUDWIG BERGER (1777-1839)
ベーガーはかなりの暮らしぶりの家庭に生まれた。
ベルリンでの音楽修行中に才能を示し、
20代にしてプロの音楽家となった。
ドレスデンに移ってからは
画家のフィリップ・オットー・ランゲと親交を結んだ。
その後、すぐにクレメンティに出会って師事し、
ペレルスブルグに楽旅に出かけ、そこでピアノ教師として成功、
1808年、幼なじみと結婚した。
しかし、10ヶ月で妻は亡くなり、ナポレオンのロシア侵攻によって、
ペテルスブルクを去る必要が生じ、
以降、忌まわしい運命がベーガーにつきまとい、
みすぼらしい人物となりはてていく。」

ものすごく運の悪い人という感じ。
このような人生だってまた、シューベルトにもあり得た可能性はある。

「彼はロシアを去り、スウェーデン、そしてロンドンに至り、
そこで彼はピアノ教師として働きながら、
クラーマーやサミュエル・ウェズレイと出会う。
彼は腕に大きな怪我をしてベルリンに戻り、
1814年、最後の公開演奏を行った。
24年間にわたる彼のピアノ指導中、
フェリックス・メンデルスゾーンのような弟子もいた。
1816年、彼自身の38歳という年よりは若いグループと交わる。
ベルリンのバウホッフシュトラーセの、静かな室内、
詩を真剣に趣味としていた役人、
フリードリッヒ・アウグスト・フォン・シュテーゲマンの家では
定期的サロンが開かれていた。
アキム・フォン・アルニム、シャミッソー、フケーらが集い、
客人として、ファニー・メンデルスゾーンと結婚することになる、
傑出した芸術家のウィルヘルム・ヘンゼルや、
デッサウから来た22歳の詩人、ウィルヘルム・ミュラーがいた。
ヘンゼルとミュラーはナポレオン戦争の時の同僚であった。
従軍して帰ったばかりの、
批評家で詩人のルートヴィッヒ・レルシュタープもいた。」

落ちぶれた人は、ここでようやく居場所を見つけたのだろうか。

「女性のメンバーでは、ミュラーが愛した、
ヘンゼルの妹のルイーゼと、この家の16歳の娘、
ヘドヴィッヒ・フォン。シュテーゲマンがいた。
当時、人気のキャラクターとして、
水車屋の美しい娘があったが、
これは、パイジェルロのオペラが大流行し、
この主題で、ゲーテ、リュッケルト、アイヒェンドルフまでが、
詩を書いていて、
『少年の不思議な角笛』のような
有名なアンソロジーが生まれることになった。」

まさに新しいドイツ文学勃興の中、
年配の音楽家がどんな役割を演じたのかが、
非常に気になるではないか。

さて、「水車屋の娘」についてである。
パイジェルロのオペラとの関係は不透明ながら、
改めて、下記のような市民たちによる、
自分たちで演じられる舞台作品が成立したということか。

「粉ひきの少年が美しいが不誠実な水車屋の娘を巡って、
ライヴァルと競争するというものである。
このグループの若者たちは、『美しい水車屋の娘』を主題とした、
歌物語を作ろうと計画した。
ヘドヴィッヒは水車屋の娘の役割を想定され、
おそらくその名字からであろう、ミュラーが、その求婚者となった。
ヘンゼルは狩人、他の沢山の求婚者もアサインされていた。
キャストのメンバーのほとんどが自ら詩を書き、
ルートヴィッヒ・ベーガーは作曲を依頼された。
ミュラーの作詞は明らかに他者よりも優れていたが、
ベーガーは当時、ミュラーの詩をぶしつけに非難していた。
しかし、シューベルト愛好家にも親しい5つのミュラー詩に作曲、
他のキャストからの詩にも5つ作曲している。
しかし、それはミュラーがベルリンから離れてだいぶ経ってからで、
ミュラーは1821年、1816年からのスケッチをもとに、
プロローグとエピローグ、さらに23の詩を作って作品を仕上げた。
これこそがシューベルトが出会って、
1823年に出版した歌曲集の詩となったものである。」

ものすごく長い話で、ベーガーよりミュラーの方が主人公に見えるが、
以下、ベーガーにフォーカスされた話が続く。

「ベーガーの歌曲は単純で、あきらかにアマチュア向けである。
しかしながら、一見して感じるよりも、
これらは、非常に効果的で、洗練されたものである。
『小川の歌』のみは例外で、通常とは異なるピアノ書法が、
何か深いものを感じさせる。
我々が予想するものよりも感動的なものである。
ここにはシューベルト愛好家が知らない詩が2つあって、
シューベルトの歌曲では不気味に何も言わない
狩人用が歌う『Am Mainengfeste』と、
単に説明されるだけの水車屋の娘が歌う『Rose』がそれである。」

これらは後で書くが、ものすごくあからさまな歌で、
シューベルト歌曲愛好家は、びっくりしてしまうだろう。

「このCDでは、1818年、作品11として出版された、
10曲のベーガー歌曲から、7曲が録音されている。
3つの他の歌は、他の求婚者の庭師が歌うもので、
詩はルイーゼ・ヘンゼル、ウィルヘルム・ヘンゼル、
ヘドヴィッヒ・フォン・シュテーゲマンのものである。」

こんな感じで解説は終るので、ベーガーがその後、どうなったのか分からない。
また、知識人たちが片手間で楽しもうとした曲の成立からして、
ミュラーが、シューベルトの歌、伴奏共に難しい歌曲を、
果たして認めたかどうかも疑わしい。

Track6は、「粉職人のさすらいの歌」。
シューベルト版では、第二曲「どこへ」である。
小川のざわめく音がピアノで表わされながら、
歌のメロディーも魅惑的なシューベルトの前では、
木訥すぎて、とても同じ歌とは思えない。
そもそも、このぽつぽつしただけのピアノは何なんだろう。
が、素人集団なら、こうしたもので十分満足したはずである。

「これはぼくの行く道なのか」と歌われる時の、
胸の締め付けも、ここでは素通りされてしまっている。

Track7は、「粉職人の花」、シューベルトの9番。
シューベルトの聴き所は、
ピアノの間奏曲と歌の密接な繋がりによる、
しなやかなメロディラインであろうが、
ベーガーのものは、それには欠けるかもしれないが、
「あのひとの窓のすぐ下にこの花を植えよう」
「忘れないで、僕のことを」というナイーブさは出ていて、
まったく同様の悩み深い情感を描き出している。

Track8は、ヘンゼルが作詞したもので、
「狩人が娘に近づく」。
シューベルトには比較対象がないが、
14曲の「狩人」がそれに相当するだろう。
狩猟ホルンを模したピアノの音型だが、
童話の中のかわいい感じ。
歌もおとぎ話の世界でかわいい。

Track9は、「粉職人」と題されているが、
ミュラーの詩で、シューベルト版の17曲「いやな色」である。
いらだちがよく表わされ、焦燥感で空が真っ暗な感じである。

Track10は、「ローズ、水車屋の娘」で、
Stagemannの作詞、シューベルトは曲をつけておらず、
しかも、ここは娘役の歌がからだろう、女声での歌唱になる。
Susan Grittonが歌っている。

ミュラーの詩、あるいは、
シューベルトの歌曲ではほのめかされていただけの事が、
大胆に歌われている。

「鳥のように飛んで森に行きたい。
私は緑の色が好き」と告白している。
「狩人の笛が聞こえるかしら」と、あまりにも直裁。

Track11は、「しぼめる花」で、ミュラーの詩。
シューベルトの18番。
ベーガーもしっかり、この詩の喪失感を描き出している。
簡素なピアノも効果的で、これくらいなら、
素人でも歌えるだろうというシンプルさながら、
「そのとき咲き出でよ、すべての花よ咲き出でるのだ」
という終曲も、ほのかな色調で染められている。

Track12は、「小川の歌」で、ミュラーの詩。
シューベルトの20番、終曲である。
ここでは、小川はごろごろと水音も騒がしく、
女声によって、悲劇的な子守歌が響き渡る。
叙事詩的なところまで行っており、
最初の方の曲の明朗さが嘘のようである。

これはこれで、すごい効果で劇を彩ったかもしれない。

先ほどの解説を再読して驚いた。
確かに、この曲は別格の高みに引き上げられている。
ベーガーさすがである、という結論。
苦労人が本領を発揮した時は、こうあって欲しいものだ。

Track13以降のフンメル、ノイコム、クロイツァーはパス。

Track26は、フランツの歌曲。

「STEPHAN FRANZ (1785-1855)
この12歳ばかりシューベルトより年長の作曲家は、
ヴィーンの多忙なプロのヴァイオリニストにして、
指揮者、作曲家である。ハンガリーの出自。
彼の名前はシューベルトの文献に二度登場する。
1826年、12月28日、フランツ・フォン・ハルトマンの日記に、
シューベルトの『若い尼』が演奏された、
ムジークフェラインのイブニング・コンサートに参加したとある。
ハルトマンが『退屈な』ヴァイオリン協奏曲と書いたのが、
フランツのヴァイオリン変奏曲で、
その生徒のKarl Durrが演奏したものである。
この時、フランツはこのブルク劇場の
オーケストラのリーダーであった。」

この解説はこまったものである。
フランツの作品は「退屈」と書かれているようなもの。
しかし、聴いてみると、そこそこ楽しめるので先案じしないように。

「1827年4月22日、宮廷劇場のコンサートで、
シューベルトの『ノルマン人の歌』が演奏された時、
作曲家は伴奏を務めたが、
この時、ベートーヴェンの『エグモント』序曲でコンサートは始まり、
指揮がステファン・フランツであった。」

「1813年、ヴィーンへの別れ」という、
2分ばかりの小品が収められている。
いかにも愛国詩人、テオドール・ケルナーらしい内容。

「さらば、さらば、
鈍い鼓動と共に、君を迎え、義務を果たそう。
ひとしずくの涙が眼から溢れ出す。
何故あがく必要があろう、涙は恥ずかしいか。
ああ、安らかな小径にあっても、
死が血みどろの花輪を砕こうとも、
君の甘い愛らしい姿は、
いつも僕を愛と憧れで満たすことだろう。」
題名や内容どおり、しみじみと聞かせる。

「1813年、ケルナー(1791-1813)が、
ヴィーンを訪れた際、彼はシュパウンによって、
16歳のシューベルトに紹介されて、二人はしばらく話をした。
ということで、この詩はシューベルト自身の人生における一こまとも関連し、
前線に発つ前に、ケルナーが、
ヴィーンにおける彼のファンの前で別れを述べたものだ。
シューベルトはその場で友人になったが、
おそらくステファン・フランツも個人的にケルナーを知っていたのだろう。
ライプツィッヒの戦いの二・三週間後、
ケルナーの若くしての死去は、
たくさんの伝説を生んだ。
シューベルトの17曲のケルナーの歌曲のほとんどは、
1814年出版の愛国的な詩集『Leyer unt Schwert』から採られ、
作曲家の喪失感を物語っている。
ケルナーには深い音楽センスがあり、
いかに家族が反対しようとも、
シューベルトに音楽の道を続けるよう激励した。
(詩人の両親はゲーテ、シラーに親しく、
若いテオドールはここから影響を受けた。)」

このような若き英雄からのアドバイスもあって、
シューベルトは音楽の道に専念していくことになる。

「ステファン・フランツのこの歌曲は、
『テオドール・ケルナーの6つの詩による歌曲集』という、
1814年の歌曲集の最後に収められ、
ベルリンのものとは異なり、
完全にヴィーン風である。
彼はノイコム同様、
モーツァルトのオペラ・アリア風を、
歌曲に持ち込むことや、
ピアノを活躍させて、感情移入させ、
ラプソディックに扱うことを怖れなかった。
他の5曲は、すべて、シューベルトによっても、
1815年に作曲されている。」

このようなケルナーの絶唱と思って聴くと、
また味わい深く、フランツによるこの歌曲も、
それに応える内容となっている。

Track27のウェーバーもパス。

Track28は、ワイラウフの歌曲。
いきなりフランス語でのけぞる瞬間である。

このシックで美しいメロディーは、
まさしくシャンソンの雰囲気たっぷり。
解説を読んで、びっくり仰天の名曲である。
ただ、詩の内容は、死者との別れでロマンティックなものではない。

「この歌曲との関係以外、ワイラウフの事はほとんど分かっていない。
この曲は1835年頃、パリで『アデュー』という題名で出版された。
タイトルページには、『F・シューベルト氏の作曲』と、
Belanger氏によって印され、シューベルト歌曲の普及に貢献した、
テノールのヌリ氏への献辞が印されている。
この歌曲は1824年からあって、作曲家のワイラウフによって、
『Nach Osten』と題され、自家出版されている。
詩はWetzel作という。
ワイラウフがこの偽造に関係していたのか、
本当の作者なのかどうかは分からない。
この曲は1843年、シューベルトの名前のもとで、
ピアノ曲としてドイツで再版されている。
シューマンですら、この曲をシューベルトのものと考えた。
有名であるがゆえに、1873年のシューベルト・エディションでも、
この曲は、『シューベルト作ではない』という注記付きで、
第六巻に含められた。
偽のとはいえ、シューベルト作曲とされた唯一のフランス語歌曲で、
カヴァティーナと呼ぶに相応しい叙情性を持ち、
何度も演奏され、否応なしにシューベルトの名前が使われた。
この曲の息の長いメロディーはグノーを予告し、
フォーレの『夢の後に』のように花咲く、
フランス歌曲の先駆けとなった。」

Track29はゼヒターの歌曲、「おやすみ」。
文字数オーバーの警告が出たので、これまたパスするしかない。

得られた事:「シューベルトには、インテリになる道もあったが、解放戦争の時代、ケルナーのような闘士の影響もあって、二足のわらじどころではないと、音楽に邁進したのかもしれない。」
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by franz310 | 2009-06-07 10:56 | シューベルト