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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その176

b0083728_23242611.jpg個人的経験:
前回、シューベルトのピアノ曲に
影響を与えた作曲家として、
ボヘミアのトマーシェクを見たが、
実際に、シューベルトと同じ
「即興曲」という題名の
ピアノ曲を書いた人は、
トマーシェクの弟子であった、
Vorisekという人だということだ。
この人の「即興曲」は分からないが、
「交響曲」は日本でも紹介されている。


ドイツのARTE NOVAレーベルが、かつて大々的に売り出した時、
この「交響曲」も含まれていて、手軽な価格で入手可能であった。

このレーベルらしい、シンプルな表紙であるが、
これはいったい何の絵であろう。
ライヤー回しか何かだろうか。
カバー・アートの欄には、
「Herbert Muckenschnabel. D-94556 Schonanger」とあるが。

指揮はアルトゥリヒテルという人で、
南西ドイツ放送交響楽団の演奏。
1995年、バーデン・バーデンでの録音である。

このCDによると、Vorisekは、「ヴォジーシェク」となっている。
「ri」は、「ジー」となるようだ。
そういえば、「Dvorak」が、どうして「ドヴォルザーク」となるか、
不思議に思ったことがあった。
ここでは、「ra」が「ルザー」と読まれているようだ。

この原理のせいか、ドイツでは、「Worziscek」と表記し、
このCDでも、親切にも、
「独名:ヨハン・フーゴー・ヴォルツィーシェク」と、
二重に表記してある。
ドイツ名があるように、国を離れ、ヴィーンで活動していた。

生没年は、1791年~1825年とあるので、
シューベルトより6年早く生まれ、3年早く亡くなっている。

この人は、ドイッチュ編の「シューベルト 友人たちの回想」にも、
ちょい役以下ながら登場している。
石井不二雄訳で、
「ヴォジーシェクは官吏であったが、1823年に第二、
1824年に第一宮廷オルガン奏者になった。
シューベルトは1826年に
彼の後継者になろうとして尽力したらしい」とある。

このような注釈があるのは、
シューベルトの友人である、
レーオポルド・ゾンライトナーが、
シューベルトの時代を回想した文章に、
ヴォジーシェクが登場するからで、
シューベルトとこのボヘミアの作曲家の
直接の関係を示すものではない。

ゾンライトナーは、シューベルトと同じ年に、
同じように音楽愛好家の家庭に生まれ、
1816年以降交友関係にあり、
「魔王」など、最初の歌曲集出版に尽力した。

法律家、裁判官、弁護士となった人だが、
シューベルトが亡くなるとすぐに、
匿名で「音楽愛好家協会月報」に追悼文を書き、
求められては回想をしたため、
この作曲家の重要な伝記資料を残してくれている。

彼の言葉を借りると、
「私はシューベルトの人物を身近に知る以前から
彼のリートを知っていました。
私の学校友達の何人かが、シューベルトが学んでいた
寮学校生徒から彼のリートの写しを貰ってきたのです。
私たちはすぐにその優秀さを認め、
私自身は自分用にそれらの作品を
何冊もの楽譜帳にまとめて書き写しました」といった感じである。

しかも、彼の父親が、冬になると、
自宅で各週の金曜ごとに音楽の夕べを催すほどの音楽好きであった。
このような状況下で、シューベルトの歌曲のお披露目が企てられ、
それに続いて、その歌曲の出版までが持ち上がったようである。

これは、「シューベルトの個人的友人」とされた、
ヨーゼフ・ヒュッテンブレンナーと一緒に費用を出したとあるから、
シューベルトの一味とは少し距離をおいた関係だったのかもしれない。

しかし、この家に、シューベルトは出入りするようになり、
有名なフレーリヒ姉妹などにシューベルトを紹介したのも、
ゾンライトナーであった。

なお、フレーリヒ姉妹の一人の恋人が、
詩人のグリルパルツァーであって、
彼の詩にシューベルトが作曲した曲に、
合唱用の「セレナード」がある。

この曲は、ゾンライトナーと結婚することになる、
ルイーゼ・ゴスマルの誕生日のために作曲されたのであるが、
これを依頼したのは、ルイーゼの師匠であった、
姉妹の長姉アンナ・フレーリヒであった。

何だか説明が難しくてややこしいが、
このように、ゾンライトナーは、
シューベルトになくてはならぬ重要な友人であった。

しかし、彼は、同時に、シューベルトの時間感覚のなさが、
定職に就けなかった理由であるとして書いていたり、
金銭感覚のなさが、彼の困窮の原因であると書いていたりして、
我々には耳が痛いところではある。

こうして見てみると、
シューベルトに、ヴォジーシェクの後任の仕事を勧めたのも、
この人ではないかなどと推測されてしまう。

実は、シューベルトとの関係ということで調べた、
「友人たちの回想」の中では、
今回のCDの作曲家ヴォジーシェクは、
このゾンライトナー家での演奏会の、
演奏者の一人として出て来るだけなので、
シューベルトとヴォジーシェクの個人的な交友関係はよく分からない。

しかし、ヴォジーシェクが亡くなってすぐ、
その後任になろうとしたという話からすれば、
「即興曲」という分野での繋がりがなかったとしても、
シューベルトはヴォジーシェクの名前を知っていたであろう。

さて、このCDの解説は廉価盤としては親切な方で、
1826年に書かれた、ヴォジーシェクを追悼する文の引用、
「長く患っていた非常に痛々しい病の末にヴィーンで没した」
「帝都は最も優れたクラヴィーアのヴィルトゥオーゾと、
趣味に溢れる作曲家を失った」から始まっていて、
10歳からプラハで学び、
トマーシェクの推薦状によって、
22歳でロプコヴィッツ家のピアノ教師となり、
モシュレス、フンメル、ベートーヴェンと交わったとある。

このあたりの解説は、この時代についての博学、
安田和信氏の訳なので信頼が置けるものだ。
この交響曲は1823年1月21日に完成されて、
2年後にヴィーンで初演され、29年に再演されたとある。
初演では、「多大な賞賛をもって」受け入れられ、
特に第一楽章とアンダンテがよく、
トリオは奇妙で、終楽章はそれほどでもない、
と書かれたという。

私も、そうした耳で聞こうとしてしまう。
まず、第一楽章は賞賛されたんだな、
という具合である。

ヴォジーシェクの「交響曲ニ長調作品24」
第一楽章はアレグロ・コン・スピリート。8分26秒。
ぼそぼそと呟くような、
しかし、ちょこまかと動き回る弦楽と木管が交錯。
すると、バーンと爆発して、動機風の発展が始まる。
ティンパニや金管の炸裂の中、
弦楽がうねうねと歌うのが第二主題であろうか。
ビーダーマイヤー風の爽やかなものであるが、
いつしか、序奏だか第一主題から発展した、
ジャーンジャーンの中に消えていく。

かつて、オンスロウを聞いた時にも思ったが、
この主題が、もにょもにょと消えて行く手法は、
ハイドンの主題労作から常套化した手法のようで、
いかにも、現在、音による建築物を打ち立ててます、
という自己顕示のようで、ちょっと抵抗を感じる。

もちろん、次々に主題を振り捨てて炸裂と、
リズムの強調を繰り返す推進力は素晴らしく、
再演の際に、「本当に見事な労作」と評されたのは、
当然のようにも見える。

また、ちょこまかと動き回る弦の動きなどは、
ピアニスト的な発想かもしれない。

第二楽章アンダンテは7分23秒。
CD表記は8分53秒とあるが間違いのようである。
非常に深刻なドラマの一情景のような雰囲気に満たされている。
低い弦楽の上に木管が警告音を吹き鳴らし、
ハムレットのシーンのような、不気味な気配が満たされて行く。
そこに、時折、ベートーヴェンの「英雄」風に明るい動機が明滅する。
何やら、深刻なものから解放される予感のような気配があると思うと、
低音で、もぞもぞと不安な動きが始まって、聴衆に喚起するものが多い。
何か、特別な状況を想定した描写音楽かもしれない。
初演でも好評だったというのも理解できる。

第三楽章はスケルツォでアレグロ・マ・ノン・トロッポ。
6分25秒。
これはメンデルスゾーンのスケルツォを乱暴にしたみたいなもの。
何だか邪悪な感じすらするこのダークな雰囲気が特徴的で、
武骨な中に、弦楽と木管のかけ合いも美しい。
トリオは、木管にホルン信号が穏やかな牧歌を奏で、
ドヴォルザークを想起させるような解放感もあって、
初演で「難儀」とされた理由は不明。
この楽章、縦横無尽のオーケストレーションが、
ラロあたりの交響曲も暗示して、極めて先進的である。

第四楽章は、アレグロ・コン・ブリオで5分59秒。
初演で、それほどでもない、と書かれた部分であるが、
無窮動風で、力任せで、
確かに方向が定まらないような感じもする。
しかし、何らかのエネルギーは渦巻いている。

よく解説を読むと、1823年1月10日に、
帝室オルガニストに任命されており、
同じ年、同じ月の21日に、この曲は作曲されているので、
公職を得る前のもやもやした気持ちから、
こうした作品が出て来たような感じもする。

この楽章でも気になるのは、メロディーが形をなす前に、
消失しながら炸裂を繰り返すこと、
ヴァイオリンの音型が、ちまちま動くのが小手先感を与える点である。

この解説では、このように完成された交響曲は、
「最も優れた音楽通で、手稿譜や作曲家の肖像画の熱心な蒐集家」
であったアロイス・フックス氏に献呈されたとあるのが気になった。

訳注もあって、フックスはモラヴィア出身の音楽学者で、
バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの
自筆楽譜を収集・整理して、ハイドン、モーツァルトの作品目録は、
貴重な資料となっていると書かれている。


このフックス氏は、
「シューベルト 友人たちの回想」にも登場するが、
ここに収められた、いくつかの資料もまた、
この人の資料によるものであるという。

シントラーは、この人はあまり、
シューベルトのことを気にかけなかったと書いているが、
シューベルトの失われたカンタータの、
発見の呼びかけを行った人としても登場していて、
何だかよく分からない。

古い音楽の蒐集家というので、
シューベルトより年配の人かと思ったが、
1799年生まれでシューベルトより若く、
1853年まで存命だったらしい。

ヴォジーシェクよりは10歳近く若く、
なおかつ、同じオーケストラのチェロ奏者でもあった。
従って、ハイドンやモーツァルトの楽譜を集めるのと、
ヴォジーシェクの献呈を受けるのでは、
次元の異なる話であったはずである。

解説での書き方だと、フックスのような通の好んだ楽曲と、
読めてしまうが、そうであろうか。

なお、このアルテ・ノヴァのCDは、ヴォジーシェクの後に、
ルカーシュという聞き慣れない作曲家の作品が収録されている。
25分ほどのピアノ協奏曲で、
てっきり、ヴォジーシェクと同時代の、
忘れられた作曲家だと思いこんで入手したが、
1928年生まれのチェコの作曲家であった。

ピアノはイトゥカ・チェコヴァという女流で、
写真を見るかぎり、キュートな若手に見える。
1993年、彼女を想定して作曲されたとある。
しかも、95年7月9日に初演されたとあって、
この曲の録音日が同じであるので、
「世界初録音」とあるのは、
むしろ、「世界初演の記録」と書くべきではなかろうか。

緊密に関連付けられた5つの部分からなる、
とあるが、トラックが一つしかないのが残念である。

私は、最初、メシアンとバルトークの響きを感じたが、
プロコフィエフの進化形のような感じもする。

一方で、ファリャの「スペインの庭の夜」のような、
香しい色彩美にも溢れていて、
ヴォジーシェクの録音以上に興味深い部分も多い。

チェコで最も著名な作曲家の一人で、
共産体制を生き抜いたということなので、
実験のための実験をしているよりも、
様々な問題に向き合っていた可能性もある。
これは勝手な憶測であるが。

内容はかなり激烈で、チェコヴァは強烈な打鍵を響かせるが、
ピアノはオーケストラの一部として目立つ程度という感じにすぎない。

ただし、静謐な部分は神秘的で、
後半になって次第に、
メロディーのようなものが形成されて行くのも美しい。


b0083728_232455100.jpgさて、ヴォジーシェクの
「交響曲」作品24に戻ろう。
この作品、2008年には、
別の演奏でも、日本盤で紹介されている。
シューベルトとの関係が気になったか、
ここではシューベルトの交響曲第一番と、
カップリングされていたので、
多くのシューベルト・ファンが
耳にしたと思われる。
演奏はヘンゲルブロック指揮の、
ブレーメンのカンマーフィルである。


このCDも廉価盤で出たので入手しやすい。
そうでなければ、私は購入しなかったかもしれない。

このCDは、ドイツ・ハルモニア・ムンディの企画であるが、
日本で出た時は、先のアルテ・ノヴァと同様、
BMGジャパンから発売されている。

BMGジャパンは、ひたすら、リスクを冒して、
知られざるヴォジーシェクの交響曲を発売していることになる。
こちらの録音は、1996年なので、アルトゥリヒテルの翌年。

このCDもまた、意味不明なデザインで悩ましい。
現代画家の抽象作品であろうが、
当時のボヘミアの風景画でもあしらっていたなら、
もっと、買う人がいたとは考えられないか。

私は、このCDの指揮者、ヘンゲルブロックと、
ハーゼルベックを混同していた。
ハーゼルベックはオリジナル楽器のオーケストラで著名だが、
ヘンゲルブロックのオーケストラは、現代楽器に、
オリジナル楽器テイストを入れたもののようである。

解説によると、
フライブルク・バロックオーケストラの創設者とあるが、
この楽団は、C.P.E.バッハの作品などで、
めざましい成果を上げていたのを思い出した。

このような人のものであるがゆえに、
この演奏、さらに明晰さを増した演奏となっているが、
それによって、この曲が、
見違えるようになったというものではない。

後半に収められたシューベルト16歳の交響曲の方は、
要所要所を、びしっ、びしっと決めた快演で、
各楽器の響きも澄んでいる。
ただし、情緒的に浸るようなものではない。
様々な演奏で聞き比べられるこの曲は、
やはりマスターワークであって、
どのようなアプローチであろうとも、
素晴らしい存在感を放っている。

このカップリングは、実は問題であって、
シューベルトとヴォジーシェクが同時代人で、
同規模の作品であるがゆえに、
何となく、同時代の作品のような印象を抱かせるが、
シューベルトの作品は、ヴォジーシェクの交響曲の10年も前の作品。

ヴォジーシェクの交響曲が書かれた頃、
シューベルトは、すでに、「未完成交響曲」の危機の最中にあった。
おそらく、ヴォジーシェクの交響曲のような、
主題労作風の、細切れ素材交響曲には、
シューベルトは興味を持たなかったかもしれない。
彼は、むしろ、美しいメロディーの永遠を、
交響曲という枠組みで昇華させたかったはずである。

なお、このCDの解説は、さらに充実したもので、
廉価盤でありながら、9ページの大作である。
(アルテ・ノヴァの盤は見開きで2ページ。)

シューベルトについての解説が1ページ半、
ヴォジーシェクの解説が1ページ。
指揮者へのインタビューが3ページで、
演奏者の解説が3ページ半もある。

バランス的に演奏者についてが長すぎて、
ヴォジーシェクについてが短いが、
インタビューで、そこそこフォローもされている。

そこに行く前に、ヴォジーシェクについてもみておきたい。
ラツェクという人の解説を掘朋平という人が訳している。
東北ボヘミアのヴァムベルクに、オルガニストを父として生まれ、
プラハ大学に入って哲学、美学、数学、法学を学んだとあり、
シュポアやドゥシェックの作品を知ったとある。
ヴィーンに出て来た時の目的は少々意味不明で、
「シューベルト 友人たちの回想」にもあったように、
そこで官吏になったようで、
1822年まで法律の勉強をしていたとあったり、
楽友協会の指揮者に応募して失敗したとあったりする。
やはり、師匠トマーシェクが百科全書的知識人であったから、
弟子も何でも出来ると考えたのだろうか。

二足のわらじを諦めたシューベルトとはまるで生き様が違う。

さて、解説によると、キーゼヴェッターの知遇を得て、
芸術的発展があったとあるが、
この人もまた音楽史家であると同時に、
宮廷参謀会議の役人で、
ギリシャ、エジプト、アラブ、中世、
フランドルの音楽の最初の研究者であったとある。

その娘がシューベルト歌曲の伴奏を得意とし、
この人のサロンでは、
シューベルトばかりの作品を歌った会があったようで、
シューベルトは「もう沢山です」と言って、
顔を赤らめた事もあったようであるから、
このキーゼヴェッターによって、
ヴォジーシェクはシューベルトを知っていたに相違ない。

ヴォジーシェクは肺結核で亡くなったようだが、
鍵盤音楽、室内楽、交響曲、歌曲、教会音楽を残しているらしい。

この鍵盤音楽の一つが、おそらく「即興曲」だったのであろう。
しかし、歌曲を書いているなら、
ハイペリオンのCDに、是非、彼の作品を加えて欲しかった。

指揮者のヘンゲルブロックは、CD解説に併録されたインタビューで、
「忘れられているのは、ヴォジーシェクがシューベルトの作曲活動に
少なからず影響を及ぼしたという事実です」と言っており、
私は大いに期待したが、
「例えばヴォジーシェクの即興曲は、
シューベルトの即興曲のまさにお手本となっています」
とあって、がっかりした。
これ以上のことは、誰も言ってくれていないし、
これが本当なのかも、誰も例証してくれていない。

ヘンゲルブロックは、ヴォジーシェクは、
「ボヘミアのベートーヴェン」と呼ばれていたと書き、
たった一作のこの交響曲が、
「この時代に書かれた中ではきわめて力強い、
感動的な曲だと思います」と言ってもいて、
最も重要な楽章として第三楽章をあげている。
「その幻想性と、先へと駆り立てて行く前進的な身振りという点で、
19世紀前半の交響曲の中でも傑作に数えられます。」

こうした思い入れのある指揮者が録音した作品には、
是非とも神妙に傾聴したくなる。

また、この指揮者は、
ヴォジーシェクがベートーヴェンに直接会った事、
演奏もして作品も見せたことにも触れ、
この作品が楽聖の影響下にあることを強調。
ベートーヴェンの作品と同じ編成で、
三重協奏曲を書いていることも指摘している。

これもまた、是非、聴かせて欲しいものだ。
この指揮者は続くインタビューで、
マンネリ化したコンサートプログラムに対抗し、
新しくわくわくするような音楽体験を提供したいと書いているので、
今後の活躍に非常に期待が膨らむ。

ただし、この指揮者の興味は、
スカルラッティからバルトークに到るようで、
必ずしも、ヴォジーシェクばかりを取り上げてくれる訳ではなさそうだ。

得られた事:「トマーシェク、ヴォジーシェクは、同じボヘミア出身のキーゼヴェッター、フックスといったインテリラインに属し、シューベルトとは違った、ハイカラ知識人軍団であった。」
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by franz310 | 2009-05-30 23:40 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その175

b0083728_14252433.jpg個人的経験:
ゲーテと親交もあった、
トマーシェクの名前は、
しばしば、シューベルトの
「即興曲」と共に語られており、
何となく記憶に残っていた。
「ソナタ」とか「幻想曲」といった、
古典の時代からの曲名とは違い、
「即興曲」や「楽興の時」という名称は、
確かに斬新なものを感じさせる。
トマーシェクのような作曲家が、
こうした新奇な小品を創案したとされる。


が、私が以上のような知識をどこで得たかを、
その辺にあった資料を引っかき回してみたが、
すぐにはその元を探し出すことは出来なかった。

聞き慣れた日本盤のへブラーのものでは、
出版者のハスリンガーが考案して、
シューベルトも気に入ったということが書かれているのみ。

ケンプやフィッシャーのような大家のものの解説も、
再発盤で手抜きになっているのか、
そのあたりは明確ではなく、
ようやく、VirginのVeritasのランバート・オーキス盤で、
「アマチュアピアニストに相応しい新曲の高まる要求に応じて書かれた。
即興的な性格を持つ『即興曲』は、チェコの作曲家、
Vorisekによってヴィーンにもたらされ、
シューベルトはそれに魅せられて、
さっそく全力でこれに取りかかった。」
などと書かれている。

しかし、トマーシェクではない。

シューベルトの伝記、評伝関係も、手軽に手に入るものには、
トマーシェクの名前は見受けられず、「友人たちの回想」にも、
この名前は登場しない。

が、ようやく、アインシュタインの大著になって初めて、
トマーシェクの名前を発見することが出来た。
先のVorisekも並べて書かれている。

「ヴィリー・カールが『音楽学文庫』第三巻(1921年)において
立証したところであるが、シューベルトはこの形式の創始者ではなく、
形式の点では『独創的』ではなかった。
彼の先駆者は、すでに1821年に或る年鑑の予告の中に
シューベルトと共に名をあげられているトマーシェク(1774年生まれ)と、
トマーシェクの同国人でやはりシューベルトと共に1823年新年の
ドイツ舞曲集に名を連ねているヴォルツィシェク(1791年生まれ)である。」

しかし、面白い事に、下記のような文章を読むと、
トマーシェクは、別に関係がないような気もする。

「トマーシェクには1827年以前に八冊の、『牧歌集』、
『ラプソディー集』、『輪舞集』があり、
『即興曲』の名は、1813年以来ヴィーンにいて、
1825年にそこで死んだヴォルツィシェクの作品7の中に、
早くも1822年に現れている。」

ということで、Virginの解説はさすがである。
また、シューベルトが、こうしたボヘミア由来の音楽に、
想像以上に影響されているということはあるかもしれない。

それにしても、この「即興曲集」、よく知られている曲集でありながら、
日本盤CDの解説にはまるで迫力がない。
ご存じのようにこの曲集、作品90と142の2つがあって、
うまい具合にLP両面に収まるので、おびただしい数のレコードがある。
しかも、1827年に一括して書かれたことも知っているが、
何故、作品番号がこんなに離れているかはどこにも書かれていない。

改めて見てみると、作品142の出版は、
シューベルトの死後10年もたって行われている。
そもそも、売れ行きが良いからという理由で、
「即興曲」という題名を勧めたのではなかったか。
シューベルトも、それに気を良くして、
この作品142の分、さらには、「3つのピアノ小品」と呼ばれる、
D935もまた、「即興曲」として作曲したのではなかったか。

結局、当てが外れて、「作品90」も売れなかっただけかもしれないが。
これだけの名曲でありながら、まるで日の目を見なかった代表格が、
この曲集とも言えるわけである。

そして、「作品142」に関して言えば、
この「即興曲」というタイトルには、
シューマンすら、奇異な感じを受けていたようで、
これはもともと「ソナタ」として作曲されたものではないか、
という有名な評論が残されている。

あと、アインシュタインの本によると、
この作品142は、何と、出版者によって、
「リストに捧げられて公刊」された、
とあって驚いてしまった。

いずれにせよ、このように、
シューベルトに影響を与えながら、
シューベルトがその御利益にあやかれなかった、
トマーシェクの音楽を、今回は聞いてみたいと思う。

まず、トマーシェクの歌曲、
前回のフンガロトンのCDで、「魔王」を聞いた。
さらに、ハイペリオンの、
「シューベルトの友人と同時代者の音楽」の、
2枚目の最初にも、このトマーシェクは登場している。

うまい具合に、このシリーズ、肖像画も出ていて、
太ったおっさんであったことが分かる。

さて、そこでの解説はこうなっている。
「VACLAV JAN KRTITEL TOMASEK (1774-1850)
トマーシェクはシューベルトの生きていた時代、
プラハの指導的作曲家であった。
ボヘミア生まれだが、ドイツに学び、その影響は母国の境界を越えた。
彼は、それぞれ違う時期であるが、
ハイドンやベートーヴェンにも会っており、
1820年代初めには、ゲーテと文通もし、会ってもいる。
こうした繋がりで、パトロンGeorg Grafen von Buqouyの援助もあって、
プライヴェートで9巻のゲーテ歌曲集を出版した。
1815年から1820年に作曲された41の歌曲からなり、
二人はそれぞれの仕事を知らなかったものの、
そのうち21曲はシューベルトと共通の詩によっている。
トマーシェクの生涯における絶頂は、1822年8月に、
ゲーテの前で弾き語りした時であった。
トマーシェクはシューベルトが憧れていて得られなかった言葉を
偉大な人物から得ることが出来た。」

どうも、フンガロトンのCD解説
(ゲーテは「魔王」がうるさすぎると思った)とは一致しないが、
いくつかの曲が賞賛されたのであろう。

なお、このトマーシェク、ゲーテ会見は、
アインシュタインの本にも出て来る。
これは、「魔王」ではなく、「ミニヨンの歌」についてのものである。
「トマーシェクが1822年に、
カルルスバートで自分の作をゲーテに聞かせた時、
ゲーテははじめに、『あなたにはあの詩が理解できましたね』と、
あいまいなお世辞を言ったが、やがて言葉を続けて言った、
『ベートーヴェンとシュポアがあの歌を通作的に作曲した時、
どうしてあの歌を完全に誤解することになったのか、
わけがわからない。
各詩節の同じ箇所に出て来る同じ標識は、
わたしが単に一つのリートを期待していることを
音楽家に示唆するに十分だと信ずるのだが。
ミニヨンは、彼女の本性からいって、
単にリートしか歌えないので、アリアを歌うことは出来ない。』
ところで、ベートーヴェンもシューベルトも、
決して『アリア』を書いたわけではない。」
(浅井真男訳)

前回からの繰り返しになるが、
ゲーテは自分の書いた作品の枠組から離れるものは、
みんな認められないのである。
通作で書かれているか有節形式で書かれているかだけで、
十把一絡げにされてしまうのはたまったものではない。

なお、ハイペリオンのCDには、
シュポアの「ミニヨンの歌」も収められていてありがたい。
「魔王」もある。
「この作曲家はシューベルトの同時代の最も高名な人の一人で、
多方面の音楽才能を早くからヴィーンでも発揮していた。
シューベルトがまだティーンエイジャーだった頃、
シュポアはアン・デア・ヴィーン劇場の
音楽監督(1813-15)であった。
この頃、ベートーヴェンは不作の時代に苦しんでいたのとは、
対照的である。
シュポアの作品は、彼がヴィーンを去ってからより有名になって、
シューベルトの作品は、演目に上がると、
しばしば、シュポアの作品と並べられた。
のちにシュポアがヴィーンを再訪した時、
シューベルトはこの人に面識を得た可能性がある。
1822年頃、シューベルトは、
シュポアやクロイツァーのようなオペラで、
成功したいと考えていた。
シュポアはシューベルトの死後、何年も経ってから、
『ハ長調大交響曲』を指揮している。
このディスクで取り上げたシュポアの二曲の歌曲は、
彼のキャリアの最初と最後から取られている。
『君よ知るやかの国』は、
『6つのドイツ歌曲 作品37』の最初の曲で、
1815年に作曲されている。
ゲーテはそれが『有節歌曲』ではないがゆえに、
あら探しをするように『完全な誤解』と、批判した。
実際、この曲は、実際はそうではないが、
『有節歌曲』の印象を与えるように、
巧妙にモディファイされた『有節歌曲』である。
これはシューベルトによっても知られる、
『巧妙な手口』である。
ミニヨンの語り口のリズムを模して、
常に変化する拍子に特徴があり、
それがこの曲の創意に富んだ部分である。」

シューベルトは、
「ごぞんじでしょう?その国へ!その国へ、
あなたと二人して行きたいのです、ああ恋人よ!」

「ごぞんじでしょう?その国へ!その国へ、
あなたと二人でて行きたいのです、ああ、やさしい方!」

「ごぞんじでしょう?その国へ!その国へ、
さあ行きましょう、ああ、父のような方、あなたとともに!」
と繰り返される部分に苦心したが、シュポアはうまい具合に、
嫌味なく乗り切っている。

シュポアの作風に相応しく、爽やかな空を感じさせ、
同時期のシューベルトより開放的な感じがする。
ゲーテは、この曲の変幻自在なリズムに、
むしろ付いて行けなかったのではないか。
こんな複雑な変転は、ミニヨンの歌というより、
ミニヨンの独り言みたいに思えるかもしれない。

さて、ハイペリオンのCDのトマーシェクの解説に戻ると、
「ライプツィッヒとヴィーンで同時に出版された彼のピアノ曲は、
小さな形式と、巧妙な構成に集中したもので、
長調と短調の対比など、
シューベルトの『即興曲』に影響を与えたものと思われる。
シューベルトの最も強いチェコ音楽との繋がりは、
おそらく、ヤン・ヴァーツラフ・ヴォルツィシェクとの交友であろうが、
この人はトマーシェクと数回会う機会があった。
ヴォルツィシェクは2組の『即興曲』を1822年と24年、
シューベルトがその題名のものを作る少し前に出版している。」

ということで、ここでも、ヴォルツィシェクは登場している。
それなら、トマーシェクよりもヴォルツィシェクが気になってくる。

が、とにかく、トマーシェクは当時の大立て者であった。

ハイペリオンのCDでは、残念ながら、「ミニヨンの歌」はない。

二枚目のトラック1には、
ゲーテの詩による「海の静けさ」作品60の3が収められている。
これは驚くべし、三重唱で歌われている。
ピアノ曲で有名な人だけあって、ピアノ伴奏の不気味さは格別のものがあり、
低音で鳴り響き、まるで「海」というより、「黄泉の川」みたいである。
「三人の船員か乗客が、広い海原に不安を募らせているのが連想できる」
と解説にあるが、確かに、印象は強烈である。

このCDのトラック2は、なんと「野バラ」。
この曲がトマーシェクの最初の歌曲集の最初に置かれたもので、
もっとも愛らしく、ゲーテが書いた18世紀を思わせるとある。
ゲーテと同様、トマーシェクも、
モーツァルトを最も崇拝していたからという。
と書くと格好もつくが、それだけで勝負なら、
シューベルトの作品の、メロディーの魅力の方が上であろう。

前回、トマーシェクの「魔王」も聞いたが、
これも同種のものであったような気がする。
ピアノ伴奏においても、単調と言ってもいいのではないか。

さて、トマーシェクのCDは、
かつてスプラフォン原盤で日本コロンビアから出たことがある。

これそこが、あの有名な、「牧歌集」である。
ピアノはパヴェル・シュチェパーンとある。
「新編《ボヘミアの失われた名曲をたずねて》-2」
というサブタイトルがあり、1973年の録音を、
1988年にCDとして再発売したものである。

このCDは、表紙が実に紛らわしい。
私は、当初、この表紙の人物がトマーシェクだと思っていた。
しかし、ハイペリオンの解説の肖像と違いすぎる。
そもそも、シューベルトの同時代の服装でも画風でもない。
では、この人は何者なのかと、
いろいろ見ているが、どこにも、この肖像画については書かれていない。
その割には、プラハの「Domovina」スタジオで、
Jan Vranaをディレクターとして録音されたことなどは明記されている。
この表紙はいったい、買う人に何を訴えたいのだろうか。

偉そうにして厳めしく横目で睨まれて不愉快である。
トマーシェクの作風を表わしているとも思えない。
聞くと、スカルラッティのソナタのような、
メロディーも心に残りやすく、単純ながら気持ちのよい作品が並んでいる。

長いものでも6分40秒、短いものでは2分ほどのものが、
11曲並べられ、47分ほどしか収録されていない。

小林緑という人が解説を書いていて、
スメタナ以前のチェコの音楽家として有名とあり、
理論家、教育者として高名であったとある。

織物工の13子で、兄弟に育てられ、12歳で修道院の歌手となり、
オルガンと音楽理論を学び、1790年にプラハに出て大学に入ったとある。
1774年生まれ、ベートーヴェンより4歳若い。
16歳の事。

作曲の傍ら、法学、数学、化学、歴史、美学を修め、
後年、百科全書的教養人となったとある。
「ドン・ジョヴァンニ」再演に接して、終生消えない感銘を受けたとある。
ピアノは独学ながら名手となり、
1806年、デュクワ伯爵家で音楽教師兼作曲家の任についたとある。
「こうして物質的安定を確保したのちのおよそ20年の長きにわたり」
その職にあって、チェコの国民音楽再興にひたすら力を尽くしたとあるが、
ゲーテとの交友などを見る限りにおいては、実感できない事項である。
ただし、歌曲にはドイツ語とチェコ語を混用した例などもあるという。

シューベルトも進学していれば、
こういった安定した立場になったかもしれない、
という当時のキャリアの好例である。

ゲーテと親交を結び、ベートーヴェンやシュポアより高く評価された、
などという逸話も出て来る。
1806年からソナタや変奏曲のようなありきたりなものを捨てて、
13集、総計66曲の小品集を出したとある。

これが、チェコ音楽に対する最大の功績だという。
エクログ、ラプソディー、ディテュランボス、アレグロの4種があり、
1807年から1823年の間に出版されたらしい。

そのうちのエクログ(牧歌)こそが、その真骨頂だとあるから、
ここに聞く音楽がそのエッセンスということになる。
これは古代詩の名で、定義は、
「単純な生活を送りながら
他の普通の人間と同じような様々な試練に会う、
一人の牧人を主人公とし、
その生活体験から生じる彼の体験を音楽上に映し出したもの」
だとあるが、
「霊感の源はあくまで作曲家自身」と書かれているので、
まあ、即興曲という感じなのであろうか。

しかし、著者は、その形式そのものは、
シンプルであると指摘している。
「曲の構成は判で押したように、
中間に調を転じた叙情的な部分をはさんで、
冒頭部分がそのまま反復されるダ・カーポ形式を取る」。

後の、「スラブ舞曲集」みたいな感じであろうか。

さらに分析があって、
・ ダ・カーポされる部分も大抵は反復を含む2部または3部形式。
・ 中間部は旋律的。
・ 主部は生き生きとしたリズム、
短小なモチーフのゼクエンツ的処理でエチュード的。
・ バグパイプを思わせる空虚5度の伴奏で牧歌的旋律はひなびた雰囲気。
・ 旋律の作りは主和音の単純な様式化、分散和音だが素朴で田園的。
・ 半音階を受け付けず全音階支配で民俗的。

あと、曲ごとの分析にはこうある。
解説に書かれていることは、「・」で示し、
その後、私の聞いた感じを続けた。

・ 作品35、39は教則本的画一性が残る。
このCDでは35の5、6、39の1、3が収められており、
全体の1/3以上が、この教則本的なものと思うと、
選曲の再考を促したくなる。
35の5はホ短調で、憂いに満ちた感じ。
スカルラッティのような、夕暮れ時の雰囲気がある。
中間部は、気分を変えようとそれを長調にしただけのような感じ。

35の6はト長調で、呑気な曲想で、散歩でもしている感じ。
これまた、装飾トリルがスカルラッティ風。
ちょっと道に迷ったような中間部。
これらは3分ほど。

39の1もト長調であるが、少し長くて4分。
途切れ途切れのメロディーで、カプリッチョという雰囲気。
低音のどろどろにメロディーが二つ重なって、
どうなってるんだ?という感じがする。
中間部も活発で複雑な曲想に妙な味わいがある。

39の3はまた3分弱。イ短調で激しい。
牧人はお怒りだろうか。
中間部では、いきなりスキップし始めて、情緒不安定である。

・ 作品47、51、63は情緒的、集中した表現。技術的に高度化。
ここでは、47から3曲、51の1曲、63の1曲
つまり、大部分はこの辺から取られている。

47の2は、変イ長調。希望いっぱいで走って行く感じ。
長い。5分45秒。

47の3は、ハ長調。へんてこなリズム、メロディーで面白い。
4分ほどである。しかも、中間部は音が細かくなり、
何だか妖精さん登場、みたいな展開で新鮮。

47の6は、変ホ長調で、これまたリズムの交錯が面白い。
3分半で、中間部は先の曲と同様、何だかわき上がって来るような、
陽光に照らされたような効果が素敵。

51の5のホ長調は、一番長いもので、6分43秒。
ショパンのようなメロディーに、時折、影が差した後、
メランコリックな中間部がとっぷりと深い感情を吐露していく。
これくらいの規模になると、主部自体にも陰影が出て来て、
シューベルトの即興曲に近づいて来た感じ。
しかし、ショパンのワルツといった感じもする。

63の1は、ニ長調。
またまたスカルラッティ風に、
乾いた感じと情緒的なものが交錯。
が、だんだん迫力を増してベートーヴェンに近づく。

・ 作品66は円熟した成功作。
ここでは、そんなものから1曲、66の6が収められているだけ。
これはハ短調で、モーツァルトの幻想曲みたい。
悲劇的なもので、低音が轟く中、英雄的なメロディーが浮かび上がる。
「運命の動機」も響いて、ベートーヴェン化するが、
中間部は剽軽な軽妙さに傾く。

・ 作品83は再度ミニチュア化。
跳躍もめざましく、もう完全に「スラブ舞曲」といった感じである。
中間部もきらきらときらめくパッセージが眩しく、
2分という長さもあって、あっと言う間に終ってしまう。

さて、この解説によれば、これらの曲集のまとめとして、
モーツァルトのロココ、ベートーヴェンの激情が共存し、
ロマン派の予兆があると結ばれている。

しかし、トマーシェクは1850年まで生きたとあるが、
1823年にこれらの作品を出してから(50歳以降)は、
具体的には何をしていたのだろう。
引退後の余生を送った邸宅は私的芸術サークルになったとあるが。

このCD、何故か、英独仏版の解説がついていて、
それを見ると、1820年から40年は実質上、
作曲を諦めて、その百科全書的な知識もあって、
国民復活運動の先導者となったとか書かれている。

得られた事:「安定した環境に生きたトマーシェクの『エクログ』には、シンプルな牧人の生活への憧れの感情があり、陽光の輝きが魅力である。不安定だったシューベルトとの違いが音楽にも滲み出ている。」
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by franz310 | 2009-05-24 14:29 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その174

b0083728_23454446.jpg個人的経験:
前回、シューベルトの先人、
ライヒャルトやツェルターの
紹介を省略したが、
今回のCDでは、
彼らだけでなく、
もっと遡った
ドイツ歌曲の流れが概観可能である。
これは、ゲーテの名作、
「魔王」の需要の系譜とも言える、
極めて興味深いものである。


表紙デザインもそのものずばりで、
ゲーテの肖像が、いろいろな切り口で染められている。
Peter Nagyというデザイナーによるもので、
怪しいドット表示からして、かなりぶっとんでいる。

ともすると、現代音楽を連想させるものがあるが、
新しいところでは、ヴァーグナー、ヴェルディまでである。

ハンガリーの名門、フンガロトン・レーベルのものであるが、
旧共産圏とは思えぬデザイン。
弾けてしまったということかもしれない。

Andrea Melathがメゾ・ソプラノで大部分16曲を歌っており、
2曲のみ、バリトンのAnatory Fokanovが担当、
ピアノはEmese Viragである。
ただし、トラックは19もあって、
16+2=18と数が合わないのは、
最後のヴァーグナーがメロドラマで、歌手ではなく、
ナレーターがしゃべっているからである。
しかも、Eva Schubertという人だ。
シューベルトの関係者であるとは書かれていないが。

ヴァイオリニストとして有名なシュポアの「魔王」では、
Katalin Kokasというヴァイオリニストが伴奏の補助を務める。

解説がこれまたありがたい。
ゲーテが、この詩をどのような意図を持って書いたかまで、
説き起こしてくれているからである。
Sandor Kovacsという人が書いている。

「ゲーテ(1749-1832)の『魔王』は、
世界文学の中で最もよく知られた詩の1つで、
沢山の音楽の主題となっている。
この詩は、もともと『漁師の娘』という題の劇のために書かれ、
1782年にヴァイマールのTiefurt城の公園で演じられた。
イルム川の岸に沿って、公園はハンノキに縁取られ、
それにちなんで、ゲーテは誘惑する魔物に、
Erlkonig=the alder king、Erle=alder=ハンノキと、
名付けたものと思われる。」

この指摘も面白かったが、重要なのは、以下の部分。
「劇中、この詩はなんらドラマの上で重要な部分ではなく、
主演の女優が誰かを待つ際に、不安を和らげるために、
民謡のような感じで口ずさむものである。
漁師の娘ドルトヒェンを演じた女優、
Corona Schroterは、
自身のためにシンプルな歌を作った。」

Track2にこの曲は入っている。
漁師の娘が、何気なく口ずさむとしたら、
まず、こんな歌になるだろう。
劇中で歌われるなら、これで十分かもしれない。
伴奏者が仰々しく、
出て来ないといけないような歌であってはならない。

ということで、当初、ゲーテは、民謡みたいに、
誰でも歌えるようなものを想定していたようだ。
日本にも「とおりゃんせ」みたいな怖い童歌もあるが、
言うなれば、あのような感じのものを想定していたのかもしれない。

ちょっと気になるので、
このあたりの経緯を、フリーデンタールが書いた研究書、
「ゲーテ、その生涯と時代」から読み取ってみよう。

このヴァイマール時代の33歳のゲーテを指して、
ヘルダーは、
「つまりゲーテはいまや現職の枢密顧問官、
大審院長、軍事委員長、下は道路工事まで含めた建築総監督であり、
同時に娯楽監督官であり、祝祭や宮廷オペラや、
バレーや仮面舞踏会の衣装や銘や芸術作品等の製作者であり、
美術学校の校長であり・・」
とゲーテの何でも屋ぶりを皮肉っているようだが、
そんな権力の塊のような男がのぼせていたのが、
このコロナ・シュレーターであった。

この本によると、
「ゲーテはすでに学生のときに、
ライプチヒでこの女性に驚嘆していたが、
後にワイマルに呼び寄せて言い寄った」とある。
「彼女は、ゲーテのワイマル初期の時代を通して、
すでに当時の人々にもよく理解できない幻のような人であった。
貧しい軍楽隊の隊員の娘であり、早くから神童として訓練を受け、
幼くして歌わねばならず、激しい訓練に耐えねばならず、
早々と舞台に立たなければならなかった。
・・彼女は美しく、教養もあり、四カ国語をしゃべり、
作曲をし、スケッチをし、このうえなく見事な表現で朗誦をする。」

そして、この本の著者は、こうも書いている。
「こういう事柄のすべてがそうであるように、
相変わらずよくわからない。
ゲーテが彼の生涯でやはり一度は真に美しい人と
恋愛したと想像したくもなる。」

「ワイマルを訪問した人々はすべて彼女のまわりにむらがった。
彼女の冷たい近寄りがたさは有名であり、
彼女がギリシア風の衣装をまとって町の通りを歩く」
「彼女は、限りなく高貴なギリシア風の優雅な体つきをしていて、
まるでのどかな岩場の上のニンフのように見える」
と言う風の人である。

しかし、有り難い事ではないか、こんな人の作った歌が聴けるとは。
曲はのんびりした感じで、まったく死の気配はない。
しかし、何だか夕暮れの情感のようなものが漂っていて、
不思議な女性が作った不思議な音楽という感じは実感できる。

さて、こんな女性、いったいその後、どうなったのか。

先の本によると、どうやら、
ゲーテとコロナの関係には、
やがて隙間風が吹き出したようだ。
上司のカール・アウグスト公自身が彼女に夢中になって、
スキャンダルの様相を呈したようである。

「退職後のこの女優の生活はもの悲しいものであった。
彼女はワイマルに留まった。・・
わずかに残された声でルソーやグルックの歌曲を歌った。
二三冊の歌曲集を作曲した。
その中にはシラーの『女性の尊厳』もある。
絵も描いた。
乏しい年金をおぎなうために人をも教えた。
・・
宮廷の人々は彼女のことを忘れていた。
ゲーテはとっくに忘れてしまっていた。
・・
コロナはイルメナウで一人寂しく死んだ。」

このような女性を想定してゲーテが書いたのが、
「漁師の娘」であり、「魔王」であったのである。
あまり、この女性にまで触れた解説は見たことがないが。

以下、CDの解説に戻る。

「彼女は、詩の中に四人の人物(?)が、
登場するという事実には、
まったく注意を払っていない。
最初と最後の節は、中立の語り手であり、
残りは、父、子、魔王の3人で、
最初の節は問いかけで始まることも、
遠景から次第に近景に移り、
さらに結論に到る点も考慮していない。
(最初、我々は、何かがフルスピードで、
闇の中を動いていくことしかわからず、
その節の終りには、父親が子供を抱きしめている様子を、
心の中で見ることが出来る。
寒い霧の中の情景の最後の言葉は、『暖かい』である。)」

何のことかと、改めて詩を見ると、
確かに、
「子供を腕の中にかかえこみ、
しっかりと暖かく抱いている。」
とある。

「一言で言うと、この女優は、
詩に敏感な作曲家なら重要視する、
コンテンツに含まれる情緒を表現するための効果を、
まったく考慮していない。
ゲーテはしかし、演技にも歌にも満足し、
これこそが彼が想定していたものだと述べた。
彼は、普通の人は複雑な音楽を歌うことは出来ないとして、
8つの節が同じ音楽で歌われることを気にしなかった。
1780年代に一般的に、
言葉だけでそれが内容が分かるべきで、
音楽がそれを補助する必要はないと考えられていた。」

前述のように、伴奏者が必要な歌曲は、
実にやっかいなものであることは確か。
さて、歌ってみよう、といってみんなで歌えるものでもあるまい。

「ドイツ歌曲の主唱者にとって、
単純さが最も重要なことであった。
このアイデアは、
当時最大の歌曲集であった、
ヨハン・アブラハム・シュルツの、
有名な『民族の歌曲』と呼ばれたシリーズに見られる。」

「しかし、世紀の変わり目になると、
こうした嗜好にも変化が訪れる。
作曲家たちは、もはや単純な有節歌曲には、
満足できなくなっていた。
ゲーテの音楽の助言者であり、
ベルリン・ジングアカデミーの指導者であり、
年少期のメンデルスゾーンの師でもある、
カール・フリードリヒ・ツェルター(1758-1832)は、
この形では、『魔王』にはプリミティブすぎると考えた。
1797年の最初の印刷後、
最終版を完成させるまでに、彼は10年も苦労した。
彼のこの音楽では、第二節までは、
最初の節に類似した変奏であるが、
『魔王』の言葉には大きく変化が付けられている。
最初のニ長調から最後はニ短調になっており、
最後のカデンツでは、最後の瞬間でだけ長調となる。」

Track4にある。
この歌曲については前回も聴いたが、
今回のMelathの歌は、かなりのんびり歌っている。
3分57秒かけている。
ハイペリオンのものは、もっと切迫した感じで男声で歌っているが。
ちなみに私は、この曲の後奏のニヒルな感じが好きである。

「ゴットローブ・バッハマン(1763-1840)は、
さらに先に行っている。
今は忘れられたこのザクセンの歌曲、バラード作曲家の『魔王』は、
1798年に作曲されており、
語り手、父親、子供の音楽に比べ、
誘惑する魔王はえらく違っていて、
テンポもリズムもしばしば変化する。
語り手は、ロ短調4/4拍子のアレグロ・モルトで始まり、
三連音の伴奏を持つ。
父親の言葉のテンポは、
常に2/4拍子のアンダンテで、
子供はさらに激しい3/8拍子の、
アンダンテ・ピウ・モッソで性格付けされている。
これらの声楽部は、彼らに相応しい叙唱となっている。
それに対し、魔王のパートは、
8分音符で伴奏されるニ長調のメロディーは、
まだ童謡風に穏やかなものとは言え、
アレグレットやアラ・ブラーヴェの音楽で、
明らかに速い。」

Track1でこれを聴く。
最初からかなりの緊迫感で、前奏の効果もすばらしい。
「馬を走らせているのは誰か」という部分は、
まさしく緊迫した状況を目の前に彷彿させる。

次の、「子供を腕の中にかかえこみ」と歌われるところは、
非常に優しい情感を漲らせているが、
テンポが落ちて、馬に乗っている感じはなくなってしまう。
さらに、高音で降ってくるような魔王の音楽は、
眠りの精の如く、子供が大騒ぎするのが不自然な程である。
シューベルトよりずっと難しい歌のようにも聞こえる。

このように、シューベルト以前の魔王が、
3曲紹介されているが、
メンデルスゾーンも賞賛した、
当時、最大の歌曲作曲家とされ、
1794年出版のライヒャルトの作品は、
奇っ怪なことに、このフンガロトンのCDでは取り上げられていない。

ここらで、少し脱線して、
前回のハイペリオンのシリーズ紹介で、
文字オーバーで紹介できなかった、
ライヒャルトと、ツェルターについて、
書き写しておこう。
これによって、ゲーテと当時の作曲家との関係が、
愛人コロナ・シュレーダー以上との話以上に明確になる。

「JOHANN FRIEDRICH REICHARDT (1752-1814)
ライヒャルトは、ジャーナリスト、才能ある作家であると同時に、
当時最大の歌曲作曲家であった。
彼の『パリからの親書』(1804)は、作曲家によって書かれた、
最高の書物の1つである。
1775年、23歳の時にポツダムのプロシャの宮廷音楽家となり、
これは彼の急進的な政治的信条によって解雇されるまで15年続いた。」

このように、ライヒャルトは、
何となくシューベルト登場以前に、退屈な歌曲を書いていた人、
という先入観は改めなければならない。

「しばらくして、彼は、ティーク、ノヴァーリス、
ブレンターノ、アルニムら、音楽家や詩人が集まった
ギーベッヒシュタインの近くのハレに移り住んだ。
ライヒャルトは、1772年にはゲーテの詩への付曲を始め、
1790年、『ゲーテ作品への音楽』6巻を企画した。
『ヴィラ・ヴェッラのクラウディーネ』の音楽を携えて、
1789年、彼はゲーテを訪れた。
ライヒャルトは、それまでゲーテが飽くことなく、
オペラを書かせようとしていた、
フィリップ・クリストフ・カイザー(1755-1823)の代わりに、
ゲーテお気に入りの音楽家となって、
詩人と新しい音楽家は、オシアンの主題による、
大規模なオペラを計画した。
ゲーテの名声にライヒャルトは自分の立場を譲ることはなかった。
ゲーテはライヒャルトのフランス革命への共感を受け入れられず、
次第に仲違いをするようになった。
ゲーテとシラーのコラボによる「Xenien」(1797)の中で、
ライヒャルトは、いつも落ち着きなく精進できない、
飛ぶことの出来ない不完全な鳥、ダチョウと批評された。」

何だかゲーテもシラーも俗物に見えて来る文章だ。
「数年は交流があり、ゲーテは何度か、
ギーベッヒシュタインを訪れたが、
1804年、ツェルターがゲーテお気に入りの音楽家になると、
1810年、ライヒャルトとの関係は消失した。
彼は150曲のゲーテ歌曲を書いたが、
シラー、ヘルティ、クラウディウス、クロプシュトックが霊感となって、
1500曲もの歌曲が書かれたことを忘れてはならない。」

「CARL FRIEDRICH ZELTER(1758-1832)
ツェルターはベルリン生まれ、ほとんど生涯をその地で過ごし、
ベルリン人らしく、木訥ながらはっきりものを言う人だった。
彼はザクセン生まれでプロシャに来た工を父とし、
1815年までは、音楽の精進と同時に家業の経営もしていた。
彼はオーケストラのヴァイオリニストだったが、
特にヘンデル、バッハなど古い時代の作曲家の、
『マタイ受難曲』を含む宗教曲を専門とする、
ベルリン・ジングアカデミーを、次第に率いるようになった。
音楽教育のパイオニアで、メンデルスゾーン、マイヤベーア、
ニコライを教えている。
彼は美学と実行の人で、一見してぶっきらぼうな作品も、
繊細で非常に思慮深い個性が隠されており、
自ら課した責務に驚くべきエネルギーを費やした。」

「ゲーテはツェルターの集中と専念を賞賛し、
彼らの結びつきの強さは、30年にわたる、
850通の書簡(1799-1828)に表れている。
ヴァイマール、カールスバート、テプリッツ、
ヴィスバーデンなど、総計20週間を共に過ごしている。
1812年、作曲家の息子が自殺を図り、
ゲーテは彼を慰め、以来、
音楽家としては、前代未聞の『Du』で呼び合うようになった。
ゲーテのサークルに若い弟子メンデルスゾーンを紹介し、
この神童は大詩人の喜び、賛嘆の源になった。
二人の気楽なつきあいもあり、ツェルターを通じ、
ゲーテはベルリンとの繋がりを楽しんだ。
作曲家は慣習的な気質であったが、指揮者としての仕事柄、
過去の作曲家に愛着があり、ベートーヴェンを受け入れず、
(後にUターンして英雄視するが)
1829年にはウェーバーを酷評し、
ベルリオーズの『ファウストの情景』に対する
ゲーテの興味を打ち切らせた。
ベッティーナ・フォン・アルニムのような、
ゲーテの好意を取り合う人たちは、
ツェルターを憎み、『有害な番犬』と呼んだ。
ゲーテは、同輩と親密な友情を結ぶのを拒んでいるように見え、
シラーですら、Duと呼び合うことはなかった。
彼は常に主導権を握ろうとした。
モーツァルトに依頼すれば出来たのに、
何故、15年もカイザーのような作曲家と不毛な労働をしたのか。
彼がそれを悔いたのはモーツァルトの死後である。
ツェルターを中傷する人は、安易な友情に甘やかされて、
音楽的なチャレンジをせず、高い代償を払ったという。
しかし、誰が音楽アドヴァイザーなどできただろう。
これだけ音楽についてゲーテが語ったのは、
ツェルターのおかげであった。
ツェルターは、自身が言うように音楽教育が遅かったので、
その思いに技法がついていっていない。
彼の最良の作品は、ゲーテのテキストへの愛情に満ち、
情熱的な気まぐれが加わって親しみやすく、
私たちに雄弁に語りかけるものがある。」

このあたりで、フンガロトンのCDに戻る。

「時代的には、シューベルトの『魔王』が、
次に語られなくてはならない。
バラード作曲家、カール・レーヴェ(1796-1869)は、
シューベルトとほぼ同年の生まれながら、ずっと長生きした。
3年後に作曲された彼の『魔王』は、
シューベルトの傑作の前にしても、
我々の嗜好に沿う興味深い作品である。
ピアノ伴奏で強調されているのは、
ハンノキの葉の葉ずれの音を示すものであろう。
主調は短調であるが、魔王の誘惑は長調となる。
構成に関して言えば、シューベルトのものよりも、
ずっと慣習に則しているが、
節は変化し、時に大きく変動する。
これまた興味深い偶然だが、レーヴェの作品も、
作品1のシリーズに含まれる。」

Track9に、レーヴェは登場。
漆黒の闇の感じがよく出た色調。
しかし、嵐の感じはあまりしない。
が、雄弁な伴奏、心理表出の効果で聴かせる。
魔王の登場も、超絶の存在という感じが出ている。
きらきらした伴奏も、崇高な雰囲気たっぷりで、
確かに、ヴァーグナーが好きそうな感じ。
これに比べると、シューベルトの魔王は、
戦えば勝てる感じの魔王。
なぜ、父親は戦わなかった、という意見が出るかもしれない。
柳の中から出て来るシューベルトの魔王に対し、
レーヴェの魔王は、天界から降って来るのでどうしようもない。

フンガロトンのCD解説、次はトマシェック。

「プラハの作曲家、
ウェンツェル・ヨハン・トマシェック(1774-1850)
は、レーヴェの作品とほぼ同時期、
1818年に書かれた『魔王』では、
ピアノによる、スタッカートの三連音の8分音符に満ちている。
魔王のメロディーは、半音階的に色づけされ、
官能的でイタリア風である。
1822年、ボヘミアのEger(現Cheb)で、
作曲家に会ったゲーテは、序奏があまりにも騒々しいと考えた。
『もっと快活であるべきで、魅力的ではない』と言った。
これに関しては、我々は詩人の王子に同調する必要はあるまい。」

このトマシェックは、確か、シューベルトのピアノ曲に影響を与えた先達。
ハイペリオンのCDにも、彼の歌曲は登場する。

Track5にトマシェックのもの。
しかし、やはり一世代古いせいか、
同時期のレーヴェより古くさくないか。
明るい分散和音で伴奏された音楽は、
その中で浮かび上がる親子のやり取りも、
魔王のお誘いも、昔むかし、こんなことがありました、
という感じしかしない。
序奏が騒々しいというか、伴奏が鬱陶しいという感じ。

次に、フンガロトンのCD解説に登場するのは、
シュナイダーである。
「ベルリンのピアニスト、教師であった、
ユリウス・シュナイダー(1805-1885)の『魔王』では、
長調で誘惑する部分に対し、短調のムードが行き渡っている。
1828年に作曲された、この曲の、
トレモロのピアノ伴奏、メロディーは、
今日の聴衆には、15年も後の
『さまよえるオランダ人』を思い出させる。」

Track3でシュナイダーの「魔王」が聴ける。
シューベルトの死の年の作曲ということだが、
伴奏部の不思議な色彩感、天上から降り立つ魔王など、
非常に効果的かつ魅力的な作品と思える。
とはいえ、コンセプト的には、
バッハマンの作品の進化形という感じがする。
それにしても、シューベルトのようなギャロップが響き渡る歌曲は、
本当に誰も考えつかなかったのだなあ、と思ってしまう。

「信頼できる記録はないのだが、英国の作曲家、
アン・シェパード・マウンゼー(1811-1891)
による『魔王』は、おそらく1850年頃に、
バートロミューの翻訳に基づいて書かれた。
この作品はするどく対比された性格が与えられており、
長いピアノの序奏と最初の節の伴奏は、
左手の嵐のようなパッセージであって、
魔王の媚びるようなメロディーは、
高いピアノのトリプレットで伴奏される。」

Track7にこの女流作曲家の作品があって、
ようやく、疾駆する感じの伴奏が聴ける。
が、リスト風に華美なパッセージが縦横無尽に駆け巡り、
時折、シューベルト風のメロディーが出て来て、
ひょっとして、この人は、
シューベルトの作品を知っていたのではないか、
そして、それをピアノ部の進化形という形で、
それを越えようとしたのではないか、
と思ったりした。
しかし、この曲の誘惑する魔王は、バッハマン、シュナイダーの後継で、
きらきら出て来て、実態が薄い。


「有名なヴァイオリニストで作曲家であった、
ルイ・シュポーア(1784―1859)の
魔王におけるヴァイオリンの演じる効果に関しては驚くしかない。
彼はこれを1856年に作曲、
病気の子供の幻影の魔王の勧誘と、
このヴァイオリンが主に利用されている。」

Track10で聴けるが、いきなり、
ヴァイオリンがピアノとも歌とも無関係に弱音で、
引きずるように入ってきており、何なんだ、という感じ。
この時代のドイツであれば、
絶対にシューベルトの名声は知られていたはず。
そんな中、あえて、これを発表したのは、
やはり、ヴァイオリンの新しい可能性に自信があったからに相違ない。
しかし、まるで切迫感のない父子である。
ヴァイオリンの音色に二人してうっとりしているのではあるまいな。

「Jules Abassartの翻訳による、
フランス-ベルギー系の指揮者で作曲家、
エミール・マシュー(1844-1932)の
『Le Roi des Aulnes』は1873年の作曲。
魔王の誘惑の音楽だけが、他の節とラディカルに異なっている。
ピアノパートはハープのような分散和音を奏でる。
作品はホ短調で始まり、非常に離れたホ長調で終る。」

Track6に聴ける。
もう世紀末の音楽になっていて、とっぷりとシャンソン風だが、
ドイツ語だなあ、という感じ。
これまた、魔王の部分に魔法の感じを表出させた点に自信があったのだろう。
すごい虹の洪水のような中から、
「旅への誘い」みたいに魔王が手を差し伸べて来る。
しかし、これも父子の疾駆している感じはまるでない。
魔王の描写がしたくて仕方なかったという感じ。

Track8のルイ・シュロットマンの「魔王」には、
何の解説もないが、これまた、デュパルクみたいな歌曲である。
バリトンが英雄的に歌っているせいか、
何だか劇中のエピソードという感じが全面に出ている。
これも、馬は疾走していない。

Track11、シューベルトの「魔王」。
前半の真打ち登場という配置だが、
それもやむなしという感じ。

もちろん、ゲーテの劇中で歌われるとしたら、
支離滅裂ではあるのだが。

このように聴いて来ると、状況描写、性格のそれらしい描き分け、
全てが出来ている作品はこれしかない。
絵画的とも言えようか、マルチメディア的に、
目に状況が浮かぶようである。
馬に乗って、我々も運ばれていく。
それゆえに、父と子の会話が、こうもはっきり聞こえるわけだ。

後半、グレートヒェン歌曲が8曲あるが、文字数オーバーで書けないのが残念。

得られた事:「みんなが口ずさめる歌を書きたかったゲーテの意図と、そこに壮絶な表現を盛り込んだシューベルトの意図は、最初からまるで噛合っていない。」
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by franz310 | 2009-05-17 00:01 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その173

b0083728_11154043.jpg個人的経験:
ハイペリオンによる、
シューベルトと同時代の
作曲家の歌曲集。
CD1枚目には、
彼の先人の作品が収められ、
シューベルトが、
歌曲を書く時に、
強い影響を受けたとされる、
ツームシュテークの
歌曲なども聴ける。


この3枚組CD、1枚ごとに異なる解説書がついているのが有り難い。
各解説書の表紙には、そのCDに収められた作曲家が列挙され、
当時の風俗画があしらわれている。

1枚めCDの解説書の表紙は、男女のカップルである。
男性はハンカチのようなものを持っており、
女性は胸元に花束を抱いている。
「ヴィーン芸術時報の付録のファッションプレート」とある。
ファッションプレートとはなんぞや、
と辞書で調べると、「新型ファッションのイラスト」として、
ちゃんと出ていた。

男性は、高いシルクハットで、女性も大胆なリボンをあしらった、
縁の大きな防止をかぶっている。
お上品なお出かけといった風情であろうか。

何だかマネキンのように見えるのは、
こうした用途の絵画だからだろう。
電気も自動車もなかったかもしれないが、
そんなに昔の話ではないような感じもしてくる。
現代の延長にシューベルトがいたんだなあ、
という感慨を受ける洒落た装丁。

年代までは書かれていないのだが、このシリーズのこだわりからして、
シューベルトの時代だと推察しても良いのだろう。

以下、トラックごとに聞いていこう。
演奏者はGRITTON、MURRAY、PADMORE、FINLEYと、
男女様々、重唱になったり、合唱の登場もあって飽きさせない。
伴奏は、グレアム・ジョンソンである。

Track1
ハイドンからは最晩年の「老人」という四重唱曲が選ばれている。
「我が力は萎え、年老い弱った。ユーモアとワインだけに生かされて。
我が力は萎え、年老い弱った。頬の赤みも消え、死が戸口に立っている。
怖れることなくそれを開こう。天に感謝。心地よい楽の音は我が人生。」
という、諦めに満ちたもので、これを彼は、音楽的遺言とされる、
作品103の弦楽四重奏に転用しようしたという。

それでなくとも、弦楽四重奏の父の作品に相応しく、
この四重唱でも、最高の四重奏と同様の深さ、崇高さに達していると、
解説には書いている。
非常に味わい深い名品であることに間違いはない。

1832年生まれのハイドンは1809年に亡くなったが、
1806年の彼の名刺には、
この曲の冒頭楽譜が載せられているらしい。

以下、Track2~5はライヒャルトの作曲。

Track2
続いて、1752年生まれの、ライヒャルトの
「憧れ」(ゲーテ詩)が始まると、
何だか、非常にどろどろした世界が始まる。
男女が声を合わせて歌うもので、
情念の綾が怪しく、非常な切迫感をもっている。
ライヒャルトの歌曲、十分に鑑賞に耐え、
無味乾燥という従来の評判は一新する必要があるという、
このCD制作の意図を再確認させられる歌曲。

解説を読むと、この詩は、ゲーテが、
ヴィルヘルム・マイスターの中で、
竪琴弾きとミニヨンのデュエットとして書いているという。
歌詞を見ると、あの有名な、
「ただ憧れを知る人だけが」である。
シューベルトも6回も曲を付けているとある。
D310、D359、D481、D656、D877の1と4が、
それであるという。
D310aという異稿もあるらしい。

本来なら全部と聞き比べながら進みたいが、
他の曲に触れられなくなってしまう。

一番有名なD877の4を聴くと、
神秘的な少女、ミニヨンの雰囲気は、
シューベルトの方がうまく捉えているような気がする。

が、原作では、竪琴弾きとの二重唱だということで、
ライヒャルトの方が場面に則している。

しかし、ミニヨンに、
こんな迫力のある歌が歌えるとは思えないし、
悩ましいところだ。

彼は当時最大の歌曲作曲家とされ、
メンデルスゾーンなどは、シューベルトより、
ライヒャルトを高く評価していたという。

Track3
「憩いなき愛」で、ゲーテの詩。
先にこのCDの解説で、シューベルトより曲想が激しいとされたもの。
確かに詩の内容に相応しく、落ち着きのない切迫感のある歌曲である。

シューベルトの歌曲は、作品5に含まれるD138がある。
作品5はサリエーリに捧げられたというから、
旧世代の師匠からも喜ばれたものに相違ない。

詩は、「雪にも、雨にも、嵐にもめげず」という疾走感は、
どちらの歌曲も同様。
ピアノの奔流も同様である。
「ひたすらに突き進む」という詩句に倣っている。

次の「むしろ苦しむ方がまし、これほどの喜びに耐えるならば」
の部分が、シューベルトは、にやりと微笑みをこぼす。
ライヒャルトは、前と同様の苦しみを引きずっていて野暮ったい。
何となく時代遅れの劇を見ているようだ。

最後の「安らぎのない幸せ、お前の名は愛」と結ぶところまで、
ライヒャルトも疾駆しているが、最後の方はアジテートになっていて、
完全に目の前の聴衆を意識している。

この詩は、Track14のツェルター歌曲にも登場する。
やはり、ピアノが達者に駆け回り、疾駆する楽想である。
しかし、ツェルターの場合は、「むしろ苦しむ方が」の部分など、
テンポを落とし、さらに悲愴感を増した表現になっていて、
場面転換が激しい。
完全に、役者が舞台をうろうろしながら歌う曲のようになっている。

ライヒャルト、ツェルター共、より一般の聴衆を意識しており、
シューベルトのような、個人的感情で玄人を唸らせるスパイスより、
これはお涙頂戴の場面なのだ、と白黒はっきりさせたがっている。
ジェラルド・ムーアなどが、彼らの作品を軽視したのも分からなくはない、
という感じである。

が、ゲーテは、劇が引き立てばいいので、
当然、この二人の歌曲の方が有り難かったに相違ない。

ここで、曲順に戻り、ライヒャルトの歌曲。

Track4
ゲーテの「魔王」である。
これも、不気味さが底流し、心落ち着かないもの。
シューベルトの絵画性はないが、
ヤバいお話をひそひそやる雰囲気が出ている。
メンデルスゾーンは、
息を潜めて語られるようなこの曲を評価していたらしい。
前述のように、歌われる背景が異なる感じ。

Track10に、先のツェルターの「魔王」もあるが、
これなどは、楽しい童謡になっている。
最後の最後に、息子は絶叫するが、
童話の世界の出来事にすぎない。
歌われる目的、対する聴衆が違いすぎる。

シューベルトの生まれた年に書き始められ、
1808年までかかって、完成させたとある。
一気にどばーっと楽想があふれ出したシューベルトとは、
素性からしても違いすぎる。

Track5
ライヒャルト作曲、ゲーテのテキストによる、
「イピゲーニアのモノローグ」
ソプラノと合唱のための大作で、約9分もかかる。
題材からして、グルックのように雄弁である。
1778年、ゲーテが当時愛した女優、
コローナ・シュレーターのために書いた、
「タリウスのイピゲーニア」という劇で、
何と相手役のオレステスは、ゲーテ自らが演じたという。

Track6
ライヒャルトの娘のルイーゼの手による、
ノヴァーリスの夜への賛歌である。
父や多くの訪問者によって才能を育てられ、
シューベルトがノヴァーリスを理解しはじめた頃、
彼女の歌曲が出たので、
シューベルトも参考にしたかもしれないという。
ノヴァーリスの難解な詩に、
ロマンティックな親しみやすい音楽をつけている。
しかし、この人は、不幸な結婚で体を壊し、美しい声が損なわれ、
音楽教育に専念したが、48歳で亡くなっている。

Track7は、サリエーリの曲。
前回取り上げた。

Track8、9は、
シューベルトの伝記には必ず登場するが、
ほとんど聴いたことがない、
ツームシュテークが登場する。

「JOHANN RUDOLF ZUMSTEEG(1760-1802)
ツームシュテークはシュトッゥトガルトで生まれ、
そこで全生涯を過ごした。
ちょうど地理学的には、彼の立ち位置は、
ベルリン学派とシューベルトの中間に位置する。
彼は、悪名高い独裁者のカール・オイゲン公の創設した、
ビュルツブルクの軍隊アカデミーに入った。
詩人のシラーは、10歳の時からツームシュテークを知っており、
二人の芸術家は親しい交際を続け、
惨めで苦労の絶えなかった学生時代以来の友情で結ばれた。
彼はチェロの教育を受け、10曲のチェロ協奏曲を残し、
1782年、シラーの『群盗』の最初の付随音楽を書き、
以来、次第に歌曲を書くようになった。
1785年から1794年の間、カールスルーエの音楽教師となり、
それからは宮廷音楽のコンサートマスターの地位に上った。
そこで、シュトッゥトガルトでのモーツァルト復活を指導、
自らもオペラで成功を収めた。
シュトッゥトガルトでゲーテはツームシュテークに会っており、
ツームシュテークの死後、その未亡人のため、
シラーはゲーテにヴァイマールでの、
ツームシュテークのオペラの上演を勧めている。
彼はまだ若かったが、心臓病で亡くなった。
彼の作品の多くは未出版で、ライヒャルトの場合同様、
ツームシュテークは娘エミリー(1796-1857)が、
注目すべき歌曲作曲家になった。」

このようにシラーとの関係が重要な作曲家ゆえ、
ここでも、取り上げられた歌曲は、
シラーの詩による「期待」である。
シューベルトは、この詩に、1816年5月、
D159として知られる付曲をした。

「小門の開く音ではないかしら?
かんぬきのきしむ音ではないかしら?
いや、あれはポプラにそよぐ風のざわめきだ。」
と歌われる、恋人を待ちあぐねる歌である。
まさしく、シューベルト的な朗唱風の部分もあり、
メロディーも移ろいやすく、ピアノ伴奏も美しい。
まさしくシューベルト登場前夜の感じがする。
それにしても、このCDの中で最長の曲。
10分半も歌っている。
こうした規模も、若いシューベルトの心を捉えたのかもしれない。
シューベルトの「期待」D159も、10分半の大曲だった。

「このバラードのツームシュテークの版は、
『小さなバラードとリート集』の第二巻として、
1800年に出版された。
モーツァルトやベートーヴェンを他にすれば、
シューベルトは過去の作曲家としては、
ツームシュテークと強く結びついていると記録される。
シューベルトの学校友達ホルツアプフェルは、
いかにシューベルトがツームシュテークの
『小さなバラードとリート集』
(1791年から1805年に出版された、
170曲からなる7巻)に専念して夢中になっていたかを、
詳しく述べている。
朗唱の利用、三度の関係、同名異音の探求、
テキストと音楽の音楽的統一など、これらすべてが、
シューベルトの心を捉えた。
若い画家が有名な作品を模写するように、
シューベルトは目の前のツームシュテークの作品をモデルに、
多くのバラードを書いた。
それは直に、雄弁さ技術より、ピアノ書法の冒険と、
劇的雰囲気の醸成という点において、
ツームシュテークを追い越した。
シューベルトの歌曲では、『ハガールの嘆き』D5、
『愛の歌』D109、『夜の歌』D314、『期待』D159、
『酒宴歌』D507などがツームシュテークに近い。
1811年から『期待』の第2版を書いた1816年の春までの間、
シューベルトは、ツームシュテークの影響下にあった。」

さらにツームシュテークの歌曲から、「テークラ」が歌われる。
シューベルトはこのシラーの作品を「乙女の嘆き」として、
1811年または12年に最初に作曲(D6)した後、
1815年5月にD191、1816年3月にD389と、
3回トライしている模様。

「かしの木がざわめき、雲が流れ去って行く、
乙女は緑なす岸辺に座っている、
波が大きく、強く打ち寄せては砕け散る、
そして乙女は暗い夜に悩みを打ち明けている、
涙で眼を曇らせながら。」という内容。

「この作品は、1801年
『小さなバラードとリート集』第三巻
として出版された。
30年戦争に基づく、シラーによる、
ヴァレンシュタイン将軍の悲劇三部作
に関し、テークラはヴァレンシュタインの娘である。」

ということで、上の詩は、
結ばれぬ恋を予感して、テークラが歌う歌である。
ややこしいことに、この詩にツームシュテークは、
「テークラ」という題をつけたが、
シューベルトの「テークラ」は別にある。
同じシラーの劇により、同じテークラが歌うものながら、
別のシーンのものにシューベルトは「テークラ」と題したのである。

「シューベルトは、
『テークラ、霊の声』(D73、D595)として、
二つの歌曲を作曲している。
これらの歌曲はテークラが墓の向こうから、
彼女の気持ちと彼女の父親のことを、
幽霊の声のように語るもので、
ヴァレンシュタインの死の霊界の結尾のようなものである。」

下記のような内容が歌われる。
「わたしは死んだあのひとに再会できたのでしょうか、
そうなのです、今はそのひととともにいるのです。
一緒になった以上はもう決して別れることなく、
ここでは別離の涙を流すこともないのです。」

「この『かしの木はざわめき』で始まる方の詩は、
1798年のもので、これもまた、
苦しむテークラによって語られる。
これはもっと前の劇『ピッコロミーニ』の第5幕のもの。
1800年のシラーの詩集では、『乙女の嘆き』となっている。
ツームシュテークの作曲にあるのと同じように、
ここは『ピッコロミーニ』の中の詩の2節のみが取り出されている。
作曲家は、劇から直接持って来たはずで、
だから、詩のタイトルも主人公の名前となっている。
シューベルトは、この詩に明らかに魅了されたが、
難儀したようだ。
3回作曲しているが、どの場合も、
ツームシュテークとはまったく異なる方法を取っている。」

ツームシュテークの「テークラ」は、
伴奏の色調も美しく、広がりを感じさせるが、
この曲ならではの切迫感は感じられない。
二節しか作曲しておらず、歌謡曲にとどまっているようで、
シューベルトの第二作(D191)のドラマ性で親しんだ者には、
少々、スパイスが足りなく感じられる。

Track10
これはすでに述べた。

Track10から14はツェルターの歌曲。
「魔王」、「最初の喪失」、「真夜中に」、
「竪琴弾きの嘆き」、「憩いなき愛」とすべてゲーテの詩による。

彼はベルリン人らしく、
朴訥ながらハートの熱い人とあるが、
「魔王」なども、素朴すぎること以上のことに気を配ると、
確かに、ひたむきな実直さが魅力かもしれない。

Track11
「ああ、誰があの美しい日々を、
あのやさしい時間を取り戻してくれるのだろう」
と歌われる「最初の喪失」(シューベルトの作品5の4と同じ詩)
も、メロディーが木訥ながら、
何かしら涙がぽたぽたと落ちてくるような感じは出ている。

Track12
「真夜中に」は、非常に感動的な曲想。
(シューベルトのD862は同じ題だがシェルツェによる。)

「真夜中に、幼子のごとく我は行く。
心ならずも、墓地を横切り、
父の家、牧師のところに。星の上に星。
すべて輝く、美しく。
真夜中に、真夜中に。」
という風に始まるが、新潮文庫のゲーテ詩集にも出ていた。
「1818年2月イエナで作る。ゲーテ自ら非常に愛唱した詩。
夜の三態を、幼年、青年、老年に配合して趣を示している。」
とある。
確かに、しみじみと夜の気配が広がり、
様々な思いが去来する聖なる歌曲である。
「星の上に星」の語句が、妙な歌い回しであるが、
それ以外は、愛唱したくなるかもしれない。

ちなみに、あとの二節は、
「それからもっと遠く、人生の旅路にて。
恋人のもとに。彼女に惹かれ、是非ともと。
星と北の光が頭上にてせめぎ合い、
行きつ、帰りつ、幸福を吸う。
真夜中に、真夜中に。

そして遂には、満月の光。
我が闇照らす明るく清らかに、
そして我が心は勇み、深く、いそいそと。
過去と未来が溶け合って、
真夜中に、真夜中に。」

Track13
この「竪琴弾きの歌」は、
「涙と共にパンを食べたことのないものは」
で始まる歌で、
シューベルトの強烈な名歌曲(D480c)に比べると、
どうしても感情移入も、伴奏も前時代的な感じがする。
ただし、オーケストラのハープのように仰々しいが、
竪琴を模した前奏は、こんな風に解釈されるのも面白いと思った。

Track14
これもすでに述べた。

Track15
さて、このCDには、まだまだ気になる作曲家が登場する。
それも、シューベルトにかなり近い人物なので、飛ばせない。

アーダルベルト・ギロヴィッツなどは、
知られざる作曲家でありながら、ものすごく重要人物にも思える。

「孤独な少女」という、感傷的な曲が一曲収められているだけだが。
「花々と清らかな歌だけが、
私の一日を幸福にする。
疲れた眼を閉じて夢に帰る。
花々と清らかな歌だけが、
私の心の憧れ。」
と歌われる、ANTON PANNASCHという軍人の詩によるもの。
ナポレオンと交戦した経験もあり、
シューベルト一派とは別の体制派からは、
彼の詩は重宝されたという。

ハープをつま弾くような、ショパンの夜想曲を思わせる、
慎ましいものである。
1824年に出たので、シューベルトも見たであろうとある。
イタリアのアリエッタの影響があり、

「ADALBERT GYROWETZ(1763-1850)
この恐ろしく多産な作曲家はボヘミア生まれ。
彼はシューベルトが羨ましがるような世界を経験した。
彼はいつもちょうど良い時に良い場所に現れている。
ヴィーンではモーツァルトに会え、交響曲を演奏してもらい、
ローマではゲーテに会い、
1790年代、3年ほどロンドンに住んだ時にはハイドンに、
プラハではナポレオンにさえ会ったと言われている。
特に弦楽四重奏など、ギロヴェッツの作品の大部分は器楽曲で、
1818年、少年ショパンがデビューで弾いたのが、
ギロヴェッツのピアノ協奏曲であった。」
確かに、遠山一行著の「ショパン」にも、
「18年には、イーロヴェツの協奏曲によって、
最初の公開の演奏を行っている」とあった。

「1804年、ヴィーンで第2宮廷楽長になった時、
彼の人生は変わり、イタリア語の数多くのオペラ、
ジングシュピールなどを書いた。
1819年8月、シュタイアーでの休暇で、
シューベルトがフォーグルの
51歳の誕生日を祝うカンタータ(D666)を書いた時、
シュタッドラーの歌詞には、フォーグルが得意とした、
オペラの役を入れたが、これは1811年ギロヴェッツ作の、
有名なオペラ『眼科医』の中の、
連帯付き軍医のロマンティックな希望の歌を表わしている。
これはシューベルトが年少時代に好きだったものである。
ギロヴェッツはシューベルトよりずっと長生きし、
ベートーヴェンの棺をシューベルトと担いだ。
それ以前に会う機会がなかったとしても、
この時、彼らは確実に会っている。」

Track16
ワイグル(ヴァイクル)(サリエーリの後任)の歌曲。
これは聴きモノである。
何故なら、これこそが、少年シューベルトが魅了された、
「スイス人の家族」というオペラの中のアリアだからである。

カステリという人の詩で、
「もし、彼女が遠くからでも見てくれたら」というもの。
とてもかわいらしいヴィーン風の小品。
先の一節に続いて、
「出来る限りの速さで走って来る。
小さな頬を火のように染めて。
でも、彼女は全然こちらを見てくれない。
僕の腕が抱きしめようとすると、
するりと身をかわす、
でも、めくらにだって見えるだろ、
これが愛ってもの」と続く。

「JOSEPH WEIGL (1766-1846)
ワイグルは、優れたチェリストであった父が、
宮廷楽団に席を持っていた、
アイゼンシュタットで生まれた。
ワイグルは、アイゼンシュタット最高の守護神、
ヨーゼフ・ハイドンの名付け子であった。
ヴィーンに出て、アルブレヒツバーガーに学び、
サリエーリにも庇護を受けた。
ケルントナートーア劇場のオペラ指導員として、
1786年にはモーツァルトの『フィガロの結婚』、
1788年には『ドン・ジョヴァンニ』の稽古をつけた。
おそらく『コシ・ファン・トゥッテ』もリハーサルしている。
彼の自伝には、
『モーツァルトの演奏を聴いて、
その個性的なしなやかさで難しいスコアを仕上げ、
同時に歌いながら、他の人の間違いを直す様子には、
最高の賛嘆を持って、興奮する以外なかった」
と書いている。
20代後半にケルントナートーア劇場の音楽監督となり、
たくさんの成功したオペラを書いた。
彼はイタリアにもいたが、1808年にはヴィーンに戻り、
この年、オペラ『孤児院』でヒットを飛ばし、
翌年、『スイス人の家族』で一時代を画した。
これらは共にジングシュピールで、
早くから学校のオーケストラで、
多くのワイグルの序曲を知っていた
シューベルトもよく知ったものだった。
1821年、ワイグルはサリエーリと共に、
シューベルトの音楽的能力を示す証明書にサインしているが、
これはシューベルトを助けることはない事務手続きであったが。
1827年、すでに彼のオペラは時代遅れとなり、
厳しい時を過ごしていたが、
シューベルトと共に宮廷副楽長のポジションを争って、
ずっと年配のワイグルが勝ったが、シューベルトはそれに納得している。
ワイグルの兄弟のThaddausはヴィーンの出版者であり、
彼自身の校訂で、多くのシューベルト歌曲を出版している。」

Track17
ドレスデンのシューベルトの小唄、「生涯の連れ」。
1分ほどで終る。
この作曲家は、「魔王」の作者として間違われ、
「誰が私の名を語ったか」と、怒り狂った人として有名。
1768年、ドレスデンでは有名な音楽一家の出で、
コントラバス奏者、1808年からはイタリア歌劇の監督、
1814年からは王立教会作曲家にもなったという。
ドレスデンではウェーバーの同僚でもあったらしい。
1827年に亡くなっている。

Track18
何と、シューベルトの友人で庇護者、
解釈者で、有名な歌い手で、その歌曲を広めた恩人、
フォーグルが作ったシェイクスピア歌曲、
「デズデモナの歌」である。
この人は非常な博学であったらしく、
シェイクスピアからの翻訳も、自ら行ったとある。
自分で出る劇のための歌曲なので、
ちょっとした飾りのようなものだろうが、
情感豊かなもので聴かせる。
彼は歌曲の他に、ミサ曲など宗教曲も残しているとある。

ギロヴィッツ、ワイグル、アントン・シューベルト、フォーグルの歌曲は、
一曲ずつなので、何だか印象がはっきりしないまま終わってしまった。

Track19~25
ベートーヴェンの歌曲。
「輝ける星の下の夕べの賛歌」と、
「遥かなる恋人に寄せる」等、有名なので省略。

最後のTrack26
ウンガーの作曲。
彼については、また、別の機会に触れてみたい。
ライヒャルト、ツェルターの評伝も訳してみたが、
字数オーバーで省略せざえるを得ない。

得られた事:「シューベルトの先人たちの歌曲、歌われる目的や聴衆までを妄想して聴くべし。」
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by franz310 | 2009-05-10 11:49 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その172

b0083728_1915319.jpg個人的経験:
少年シューベルトが、
ドイツ語の歌曲創作に熱を上げるのを、
イタリア語こそが音楽的な言葉と
疑わなかったサリエーリは、
あまり良く思っていなかった、
というのが通説であるが、
それは単純化しすぎた話かもしれない。
師のヴィーン在住50年を祝って書いた
「祝いによせる曲」D441は、
事実、ドイツ語で書かれている。


また、サリエーリ自身がドイツ語の歌曲を作ったことも事実のようで、
ハイペリオンから出ている
「シューベルトの友人と同時代者の歌曲集」には、
一曲だけとはいえ、サリエーリのドイツ語が収録されている。

このCDは、まず、シューベルティアーデの有名な絵画をあしらった、
素敵なデザインで眼を引く。
モーリッツ・フォン・シュヴィントという、
シューベルトの親友の描いた絵画なのも嬉しい。

収められた作品の点でも、
この3枚組CDは、恐ろしく貴重なもので、
ライヒャルト、ツェルターら、シューベルトの先人から、
ハイドン、ベートーヴェンといった巨匠、
トマシェック、ツームシュテークのように影響を与えた人、
サリエーリ、ワイグル、ゼヒターら、シューベルトの師匠筋、
フンメル、ロッシーニ、ウェーバー、レーヴェといったライヴァルや同僚、
メンデルスゾーン、シューマン、リストなど後継者たちばかりでなく、
フォーグル、ヒュッテンブレンナー、ラッハナーなど、
シューベルトの伝記を賑わす友人たちの作曲までが収められている。

「シューベルトの時代を生き、活躍した、
40人の作曲家による81の歌曲」というすごい題がついている。
これは、ハイペリオンの巨大プロジェクト、
シューベルト歌曲全集の補遺をなすものであろう、
グレアム・ジョンソンがピアノを受け持って、
なおかつ、シューベルトが同じ詩につけた歌曲がある場合には、
それも参照できるような解説がつけられている。

まさしく百科全書的仕事であろう。

サリエーリは「第一巻」に登場し、
このような解説がついている。
「アントニオ・サリエーリは、
この可愛そうな作曲家が、
墓に入ってすぐの時期、
1826年に書かれたプーシキンの
『モーツァルトとサリエーリ』でこきおろされた。
これは後年、リムスキー=コルサコフのオペラとなり、
近年のピーター・シェーファーの劇でも取り上げられた。
無関係であったモーツァルトの死は別にして、
サリエーリのヴィーンでの成功の連続は、
彼の偉大な同時代者のことを、
必要以上に考える必要はなかったように思われる。
いずれにせよ、彼が劣等感にさいなまれるようなことがあれば、
彼はもっと偉大な作曲家になっていたかもしれない。
彼は17歳の時、この街に来て、
崇拝する師グルックを手本とした。
『アスクール』や『ダナイード』のような作品で、
オペラ作曲家として国際的な成功を収め、
1791年、宮廷楽長に任命され、36年もそのポストにあった。
サリエーリ自身の死の1825年までの間に、
モーツァルトはヴィーンでは神格化され、
生き残ったイタリア人は、様々な程度の感謝を感じる、
数え切れない程の教え子たちを教えた。
シューベルト以外に、ベートーヴェン、ヒュッテンブレンナー、
フンメル、リスト、マイヤベーア、ラントハルティンガー、
ゼヒター、ワイグル、カロリーネ・ウンガーがこのCDに含まれる。
シューベルトは、1816年6月、
サリエーリのヴィーンに来て50年の、
祝典に参加して、その機会にいくつかの作品を残した。
彼はさらに作品5のゲーテ歌曲集を先生に捧げている。」

伝説のように、サリエーリがドイツ語歌曲が嫌いだったとしたら、
わざわざゲーテの歌曲などを捧げたりするだろうか。

なお、作品5とは、「憩いなき愛」、「恋人のそばに」、
「釣り人」、「はじめての失恋」、「トゥーレの王」の5曲である。
このうち、「憩いなき愛」については、
このCDの解説で、後で、いろいろ語られるので、
乞うご期待である。

また、このCD、サリエーリの歌曲としては、
マティソンの「想い」が選ばれている。
言うまでもなくドイツ語である。

これは、シューベルトが1814年4月にD99として書いたものと、
同じ詩に基づくものである。
石井不二雄訳ではこうなっている。
何だか、5W1Hの練習みたいな、
粋なのか、単純な問答の内容である。

「私はあなたのことを想います。
林の中にナイチンゲールの合唱が響く時に!
いつあなたは私のことを想って下さるのでしょうか?

私はあなたのことを想います。
夕方の明るさがたそがれる光の中で、
蔭になった泉のほとりで!
どこであなたは私のことを想って下さるのでしょうか?

私はあなたのことを想います。
甘味な苦しみをもって、
不安な憧れと熱い涙を持って!
どのようにあなたは私を想って下さるのでしょうか?

おお、私のことを想って下さい、
よりよい星のもとで
一緒になれる時の来るまで!
どんなに遠いところにいても
私はあなただけを想っています!」

このCDの解説はさらに続いている。
ここが、そもそも、今回、このCDを取り上げた理由の部分である。
「ヨーゼフ・フォン・シュパウンによると、
彼は、これもシュパウンによると、
ゲーテやシラーに個人的に面識があったという事実にもかかわらず、
(ゲーテは確実にサリエーリのオペラの賛美者であった)
サリエーリはドイツ語を、作曲に適した言葉としては評価していなかった。
彼はいくつかのジングシュピールを、
もちろん、ドイツ語で書いており、
晩年、シラーの詩を取り上げようともしており、
生徒のシューベルトには、練習用にいくつかの詩を勧めてもいるのである。」

ということで、何やら、サリエーリが、
シューベルトのドイツ歌曲嗜好を、
快く思っていなかったというのは、
半ば、伝説にすぎないのかもしれない。

「ここに収められたマティソンへの付曲は、
1825年9月の『芸術、文学、劇場、モードのためのヴィーン時報』
の付録として出版されたもので、
作曲家自身は同じ年の5月に亡くなっていた。
これは彼が生前、出版をためらっていたもので、
レッスンの時に話題になったであろう、
シューベルトの『想い』より前の作曲か、
後の作曲かは知るよしがないが、
ヴォーカルラインには、
ソプラノ記号があって旧時代の作法を見せ、
おそらく、1810年出版のベートーヴェンの、
『想い』と同時代のものと考えられる。」

さて、このサリエーリの「想い」は、
ハイドン、ライヒャルトの後、
トラック7に入っている。

また、シューベルト自身の作曲の「想い」は、
ハイペリオンのシューベルト・エディションの、
12巻(CDJ33012)に収録されている。
ここにある解説によれば、
「シューベルトはたぶん、
フリードリッヒ・フォン・マティソンの詩を、
ツームシュテークやベートーヴェンの歌曲から発見した。
サリエーリもこの詩人の言葉に作曲している。
巨大なバラードや、それよりは短めの叙情詩に真剣に取組んでいた頃、
マティソンは同時代の詩人としてシューベルトの射程圏内に入って来た。
マティソンは、Magdeburgで生まれ、ハレで学んだ。
ビュルツブルク公の庇護を受けて、
安静な心地よい生活を送った。
彼の詩は19世紀初頭に流行したが、今では、
単に器用なものと思われている。
彼は古典を賛美して、その韻律はしばしば、
無意識なパロディーにも見え、
クロプシュトックのような崇拝していた先人に比べると、
力強さに欠ける。
彼の時代にあっても、シラーには手厳しくこき下ろされ、
シュレーゲルのサークルには拒絶された。
彼の作品が時代の産物であったとはいえ、
その優美さと、繊細さは、1814年の春と夏、
シューベルトの目的にかない、
その年の秋のゲーテ発見への道筋となった。」

シューベルトの歌曲は、男声テノールで歌われている。
1分40秒の小品。
さざ波のような伴奏に乗って、
爽やかな、希望をいっぱいに含んだメロディで歌い出される。
終始シンプルに、前に進む曲調である。
再会の希望に夢想する、若者の歌である。
歌唱は、アドリアン・トンプソン。

グレアム・ジョンソンが解説すると、こんな風になる。
「ピアノの4小節の序奏は、木管アンサンブルを想定したのであろう。
フルートとクラリネットを想起させる。
モーツァルト風の木管合奏が、全曲の単純で楽しい性格に続いている。」
私には、ピアノの音が、ぶっきらぼうに、
五つ鳴っただけにしか聞こえないが。

「D97の『Trost An Elisa』が、説明調のレチタティーボであるのに対し、
この曲は純粋で単純なメロディである。
『アデライデ』と違って、自然の模倣も行わず、
ナイチンゲールの歌もトリルなどは使われず、
愛の甘い痛みと、憧れの涙も、短調で彷徨うこともない。
波打つ伴奏で、甘く分かりやすいメロディが繰り返され、
詩にある光景は反映されない。
第二節は8分音符になって、夕暮れの光を反映するが。
各節の終わりの属音7度のカデンツは、
切望する感じに相応しい。
最後の節で、『よりよい世界への旅立ち』は、
和声とヴォーカルラインの装飾を少し変える。」
ということで、あまり、焦りはなく、
楽天的な若者像を描き出す。

一方、サリエーリの方は、女声で歌われている。
アルトのアン・マレイが担当。

シューベルトの場合とは異なり、
歌に含まれるナイチンゲールのせいか、
玉を転がすようなピアノ伴奏が雄弁で、
途中から、妙に陰影を増し、後奏も立派である。

イタリア人の作品ということか、
妙に一言一言に、しなを作ったような所がある。
「どこであなたは私を想うのでしょう」と、
詰め寄られている感じがする。
何だか、したたかな女性を思わせる。

「甘味な痛み」を、時が解決するのか、
あるいは、最後のあがきが必要なのか、
それぞれの解釈であろう。

しかし、どちらがドラマティックであるかと言えば、
百戦錬磨のサリエーリかもしれない。
シューベルトの「魔王」などが、劇性が天才的だとすれば、
ここでは、そのような側面は見られない。
むしろ、シューベルトには、等身大の心の震えがある。

いろいろ書かれたマティソンの詩も、分かりやすく、
こうした比較するにはもってこいであった。

このように、同時代の作曲家と、
シューベルトを比較も出来る、
まことに興味深いCDである。

心して取りかかる必要があろう、
解説を頭から読んでみよう。
ピアニストのグレアム・ジョンソンによるものと思われるが、
いつもの博覧強記の話題が、
シューマン、ブラームス、シェイクスピア、
ゲーテ、ツェルターと縦横無尽に錯綜するので、
ご注意頂きたい。
まずは、シューマンとブラームスから。

「『新しき道』(1853)と題された記事の中で、
シューマンは若い知られざるブラームスを、
ジュピターの額から戦闘準備した出で立ちで飛び出した、
女神ミネルヴァになぞらえたが、
これは、俗物たちと英雄的に戦う者として、
シューマンがブラームスを捉えた比喩であった。
これは、我々が、普通のことを軽視して、
神がかった衝撃を強調したがる、天才への賞賛であるが、
才能ある生徒が偉大な芸術家になるためには、
日常というものが容赦なく影響するものである。
アイドルを語る時、合理的なことより奇跡を好むのが、
我々の習性なのである。
音楽界へのブラームスの到来は、青天の霹靂のように、
病気がちではあれ精神は寛大であったシューマンを打った。」

シューマンは、この後、精神を病むので、
この表現が正しいかは疑問である。
とにかく、ここで、シューマンの話は終わり。

これを導入にして、シューベルトの登場の話。

「軍隊に入るには身長が足らず、
武装して動くには太っていたにもかかわらず、
音楽的伝承によれば、
シューベルトの登場もまた、
それに劣らず衝撃的なものであった。
事実、ゲーテの『ファウスト』のヒロイン、
グレートヒェンは、
ニ短調で旋回する糸車で武装して、
音楽を身にまとって作曲家の額から飛び出した。
歴史の教科書の重要な日付は、1814年10月19日、
『糸を紡ぐグレートヒェン』は、それまで存在しなかった、
歌手と伴奏者という職業を一撃で生み出し、
稲妻の閃光のように、ドイツ歌曲、リートが生み出された。
この時点でリートが生まれたというのは、
ある点でだけ事実であるが、歴史を単純化している。」

「シェイクスピア主義者は、
田舎からぽっとでのシェイクスピアが、
いきなり、実験的で素晴らしい腕前で、
衝撃的な傑作を書き始めたと思っている。
シェイクスピアの名を知っていて、
彼と同時代人全てを取るに足らないと思う人たちは、
楽しみのない殺風景な、悲しげで活力のない、
不景気で、救済を待って息を潜めていたロンドンに、
若い詩人がやってきたと考えているかもしれない。
こうしたシナリオは、英雄登場にはもってこいであろうが、
現実はこうしたものではない。
シェイクスピア以前、ロンドンは、芸術活動で騒然としており、
もう一人の天才がその作品によって、それをより豊かにするのを、
待ち構えていたのである。」

「シューベルト以前にこの皇帝の街が、
例外的な音楽の中心であったことは言うまでもない。
この若い作曲家が幸運だったのは、
両親が生まれたシレジアの町ではなく、
このヨーロッパ最高の芸術中心にて育ったことだった。
彼が生まれた1797年、
ヴィーンは、ハイドンやベートーヴェンの街で、
前者は二度目の勝利のロンドン訪問から帰ったばかりで、
後者は、初期のピアノ独奏やチェロのソナタで成功を収めていた。
『そう、そう』と、歌曲ファンが答えるのを聴く。
『シューベルト以前にも、もちろん、
交響曲、弦楽四重奏、ピアノ・ソナタ、オペラだってあった。
しかし、歌曲はなかった。』
閉じかけた眼を開いてみよう。
モーツァルトのたくさんの美しい歌曲、
ハイドンのカンツォネッタ、ベートーヴェンの初期の歌曲、
これらはシューベルトの特殊性を犯すものだ。
我々は彼の交響曲、四重奏が彼の先人たちに、
多くを負っているのを知っている。
しかし、歌曲は新しい始まりを告げたのだ。
『糸を紡ぐグレートヒェン』や『魔王』はその証拠である。
この3枚組のCDの1つの目的は、シューベルト以前、
そこに事実、歌曲があったことを示すためである。
それが、彼が、まさしく彼になることを助けたのだ。
彼の友人であれ、同時代人であれ、
その時代にあって、彼はそうした人たちに形づくられている。
もちろん、『グレートヒェン』も『魔王』も、
とりわけ賛美されるべきである。
シューベルトの天才は疑うべきもない。
特に、衝撃的な音の刻みを聴く時、
この音楽は稲妻の閃光のようにも思える。
実際、ろうそくの光での勤勉と努力が、
その独創的創造の重要部分のように思えるが、
若い作曲家の到達は、偉大な先人の作品の消化を含む、
長くつらい、見習い期間あってのことだった。
ハイペリオンによる、年代順のシューベルト歌曲全集では、
『グレートヒェン』はようやく4枚目のCDで現れ、
『魔王』は10枚目に登場する。
これらの作品におけるゲーテの役割は決定的であるが、
最初の作品からして、シューベルトの言葉に対する感性は、
並外れたものである。」

ここから、このようなCDを作った背景が語られる。

「これらの有名作品を注意深く聴く時、
それらはもっと大きな絵画の中の一部のように見えてくる。
もっと見る点を広げると、そのパノラマは見えて来る。
当時、ゲーテの詩に付曲したのは、
音楽界の活気に溢れるヴィーンだけを見ても、
シューベルトだけではなかったし、
文化不毛の地ではないベルリンでも、
当地の作曲家たちは10年も前からゲーテに着目していた。
我々は、ヴィーンは南方の土地で、
ベルリンよりイタリアやイタリア文化に近いことを思い出す。
このオーストリアの首都では、
ゲーテのグレートヒェンの悲劇同様に、
グルックのイピゲーニアの偉大さがあった。
そして、音楽の練習として、
メスタージオのオペラ台本の断片に作曲させようとした、
アントニオ・サリエーリによって教え込まれた、
シューベルトによるイタリアのベルカントの感覚なしには、
『糸を紡ぐグレートヒェン』は、決して生まれえなかった。」

この部分、なかなか泣かせる一句である。
サリエーリが、やはり、重要な役割を果たしたわけだ。
まさに、天才シューベルト産褥期にあって、
産婆のような役割を担って付き添っていたのがサリエーリなのだから、
当然なのだが、イタリアなしに、グレートヒェンはない、
なんていう表現は、何と明快であろうか。

以下、別の作曲家についても話が続く。

「長い間、どういう訳か、シューベルトの音楽の先人は、
何か冗談のようにあしらわれていた。
疑いなく、若い作曲家に決定的な役割を及ぼした、
ハイドン、グルック、モーツァルト、
ベートーヴェン以外のことを、私は言っているのである。
私は、言うところの、みすぼらしい一群、
シューベルト以前に歌曲を作曲した、
浅はかなBチームについて語りたい。
何度、ライヒャルトを、そして同様にZの頭文字を持つ二人、
ツームシュテーク、ツェルターがけなされるのを聴いただろうか。
偉大なシューベルティアン、ジェラルド・ムーアは、
この三人の引き立て役を笑いものにした。
我々がそれを否定できようか。
私たちのお気に入りの作曲家が、
ただの闇であった歌曲の世界に、
光明をもたらしたとされてきた。
英国における歌曲の最高権威のエリック・サムズでさえ、
ツェルターをツームシュテーク(いつかそのうち)に、
研究する余裕があればなあと、冗談を言った。
イギリス人の耳には、初期バロックのシュッツ、シャイト、シャイン
にはかなわないとはいえ、ライヒャルト、ツームシュテーク、ツェルター
というと、何だか、コミカルな感じがする。」

「ツェルターの場合、特に、ゲーテが、
シューベルトがヴィーンからヴァイマールに送ってきた、
長くてお堅い手紙を受け取らなかったという事から、
信用できないことになっている。
この時期(歌曲の小包は1816年4月に送られ、送り主に戻された)、
詩人は、ベルリン在住のツェルターと近い関係にあった。
近い友人というだけでなく、この作曲家は音楽アドバイザーであった。
ツェルターはしばしば、シューベルトを無視した責任を問われている。
我々の知る限り、まだ、詩人とその友人が若いヴィーンの作曲家について、
一言でも交わした形跡はない。」

以下、ゲーテ事件の真相が、いくつかの方面から考察されている。

「シューベルトの場合、
おそらく、この小包についていた手紙の、
作曲家の友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンの名前が、
その叔父でゲーテの敵対者であった、
フランツ・ゼラフィウス・シュパウンを思い出させ、
一見して『フォン・シュパウン』と見えたことが、
ゲーテが小包を無視させた原因になったのかもしれない。
もう一つ、私がこれまで知らなかった可能性がある。
作曲家のMaximilian Eberweinにあてた
(シューベルトが小包を送った6週間ばかり前の)
1816年2月24日の手紙に、
彼の劇『Des Epimenides Erwachen』の上演に際しての、
ある作曲家の無礼なふるまいゆえに、
彼は自分のテキストによる新曲の作曲は当面許さない、
という誓いを立てたというのである。
この事件は、事実上、ヴァイマールで、
自分の台本によるオペラを上演しようとした、
ゲーテの積年の努力を終わらせてしまった。
彼は、それによって何も得るものもなく、
作曲家の才能を知っていながら、Eberweinによる、
『ヴィッラ・ベッラのクラウディーネ』の計画を許さなかった。
ベルリンからベルンハルト・アンゼルム・ウェーバーが来て怒るまで、
この誓いを守っていたかは分からないが、
二、三ヶ月後、見知らぬオーストリアの作曲家から、
歌曲のつまった楽譜がドア口に送られてきたのは、
明らかに、悪いタイミングだった。
ゲーテは行ったことのない土地に興味を持つことはなく、
ヴィーンといえば、陰謀の街として有名だった。
彼は、さらにこの時期、妻の病気に悩んでおり、
(彼女は1816年6月に亡くなる)
有名な人がそうであるように、この老詩人のもとにも、
大量の頼んでもいない手紙が舞い込んでいた。
伴奏ピアニストの私のもとにも、
知らない作曲家からの期待に満ちた小包が届くが、
それらすべてに返答するのは不可能なのである。
当時、どれだけの量の作曲家たちが、
彼のところに歌曲を送ってきたのかは分からないが、
歴史からなんの咎めもなく、
99パーセントは適当に処分されている。
Eberweinへのゲーテの説明を信ずるならば、
シューベルト作品の拒絶は、彼に認めてもらうおうとした、
全ての作品の無視といった暗黙のポリシーの履行の一部にすぎず、
すくなくともしばらく続いた、こうした独断的措置は、
この詩人がよくやる事であった。」

「熟練した音楽家でも、読んで、頭の中で鳴らせただけでは、
その作品を間違って評価してしまうことはよくある。
ゲーテ自身はこうした事は出来なかった。
もし、誰かに頼んで聴かせてもらっていたなら、
彼は退屈したりしなかったことは明らかだ。
この貴重な郵便物を、彼が、不躾に、うかつに扱ったことに対して、
非難は出来ようが、これは計算ずくの俗物嗜好ではなかった。
彼がその歌曲集にざっと眼を通し、
グレートヒェンや魔王による、その詩句を眺めていたら、
彼が歌曲はこうあるべきだという理想からして、
複雑すぎる事が分かったという事も言えるかもしれない。
しかし、私はゲーテがシューベルトの音楽そのものによって、
感情を害したとも思えない。
『憩いなき愛』は、ライヒャルト、ツェルターによっても作曲されており、
これはディスク1に収められていて、
ゲーテへの小包に入っていた、
シューベルトの『憩いなき愛』の方が、
それらに比べて、むしろ穏やかであることに、
リスナーは気づくであろう。
よく知った、尊敬さえしていたこれら作曲家の作品を、
ゲーテが受け入れていたとすれば、
彼はシューベルトから送られてきた歌曲の中のあるものは、
それほど大きな違いはなく、
異議を申し立てることはなかっただろう。
シューベルトの作品は、先人たちにない天才を示しているが、
一般に思われている以上に、
先人たちとの共通点も多かったのである。
それを知るためには、当時流通していた同時代の音楽を知るべきだが、
シューベルト信奉者でそこまでやる人は少ない。
ライヒャルトやツェルターによる『魔王』への付曲が、
シューベルトと同じではないとしても、
それらは、退屈でも、取るに足らないとも言い難い。
これらは聴衆の心を掴むにたる素晴らしい作品である。
こうした歌曲は疑いなく、
シューベルト自身の関心をも引いたに相違なく、
いわゆるベルリン楽派などと呼ばれる、
無味乾燥なものからは遠く離れている。」

このように、シューベルトの先達の作品も、
立派な歌曲であるというのが結論となっている。
この後、各作曲家の略歴や、
シューベルトとの関係が書き出されている。

得られた事:「グレートヒェンの熱唱は、イタリアの影響なしには成立しなかった。」
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by franz310 | 2009-05-02 19:07 | シューベルト