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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その129

b0083728_22494730.jpg個人的経験:
CD時代になって、
いくつかのレーガー作品が、
日本でも聴かれるようになったが、
作品番号で146を数える、
彼の生涯の仕事の展望に関しては、
よく知られていないのではないか。
どうも、私も、
そのあたりの知識が断片的なので、
手っ取り早く、
概観したいと思っていた。


膨大なオルガン作品は、今はお手上げである。
あるいは、全9曲のヴァイオリン・ソナタなどを聴き進めれば、
その生涯の大部分をカバーしていそうだ。
だが、それも大変。
弦楽四重奏などはどうだろうか。
これは作品番号が、
作品54、74、109、121とあって、
晩年に至るまで適度にばらけているし、
未出版のニ短調は、最初期のものである。
また、このニ短調のものは、
終楽章にコントラバスが入るという変わり種らしい。
シューベルトの「ます」は、コントラバスが入ることで、
室内楽では異端とされるが、
このレーガーのように、終楽章だけ入れるというのも奇抜である。


うまい具合に、これも含めて全集CDが出ている。
3枚組で、ずっと前に入手しながら、
まじめに聞いていなかった。
そう考えると気になって来た。

かなりシューベルトから脱線しているが、
今回は、レーガーの「弦楽四重奏曲全集」を、
取り上げることにする。

いきなり全部は大変なので、
今回はこのCDの一枚目を聴いて見よう。
先の未出版作+作品54の2曲が聴ける。
つまり、弦楽四重奏曲(未出版)と、
弦楽四重奏曲第1番、第2番の全3曲が、
今回の対象。

このCD、これまでも、一度くらいは聴いたかもしれないが、
それで理解できる代物ではないことは言うまでもない。
また、勢いなしに気楽に聴けるものですらない。

後半の3曲は30分を超える大曲であり、
作品74に至っては50分を超える。

CPOレーベルのものだが、
ベルン・カルテットとあるから、スイスの団体。
ヴァイオリン二人がスイス人で、ヴィオラがスウェーデン、チェロがアメリカ。
第1ヴァイオリンとヴィオラが1941年生まれの男性で、
あとの二人は女性なので年齢不詳。
チェロ以外の3人は、アマデウスSQと同様、M・ロスタルに学んだとある。
そういえば、ロスタルはスイスで教えていたのだっけ。

コントラバスとして全22トラックのうち1トラック分だけ参加するのは、
Bela Szedlakという人らしい。バルトークと同じ名前。ハンガリー人か。

怪しげできれいな表紙デザインだが、クプカの「最初の一歩」?
1910年の作とある。
レーガーの活躍していた年代に相当するせいか、なかなか好きな感じ。
またまた、解説はSusanne Popp、英訳もSusan Marie Praeder。

「レーガーの音楽史における役割はまだまだ論議の対象である。
ある人にとっては、古典-ロマン派の伝統の遅れてきた後継であり、
ほかの人にとっては、モダニズムの転換点の先駆けである。
世紀の変わり目に、レーガーが最初に公衆の前に現れた時、
彼はすでに、『3大B』に連なる絶対音楽の伝統による、
室内楽、声楽曲、オルガン曲、ピアノ小品など、
50もの作品を書いていた。
音楽劇や交響詩にフォーカスしていた当時のモダン音楽に、
彼を分類しようとすると、どうもうまく行かない。
公認された、彼の作曲技法の熟達にもかかわらず、
伝統的なジャンル、形式の音楽に含まれる
彼の音楽材料の複雑さ、
禁断の領域に近づいている実験は、
伝統の羊の皮を被った革命のオオカミとして、
彼を断罪するに値するものであった。
反動的な相続人、革命的な新機軸、
これらの正反対の要素は、彼のオルガン音楽、室内楽に顕著である。
レーガーにとって、バッハは、リゲティを先取りするような、
革新的語法の出発点であった。
潜在的なプログラムを反映させたコラールのテキストの利用は、
そのオルガン音楽を身近なものとし、驚くべき音の集積体や、
突然の崩壊を、正当化するものである。
彼のオルガン作曲家としての名声は、
とりわけオルガン奏者からの指示によるものである。
長い不毛の期間を経て、彼らはようやく最高のレベルで、
後期ロマン派のオーケストラ・オルガンの音色をフル活用した、
演奏会用作品を得ることが出来たのである。」

ということで、全く弦楽四重奏曲の話は出てこない。
レーガーのオルガン曲にどんなプログラムが仕組まれているのかが、
大変、気になる内容である。

「彼の器楽曲の時代に作曲された、
大きな形式、かつモニュメンタルで、
プログラム的内容を持つ室内楽に関しては、
彼は、長い苦労の時期を要した。
室内楽は、当時、今日的なものではなく、
20年後の新ヴィーン楽派の時代まで、
流行を待たなければならなかった。
彼は時代の潮流に逆らって泳ぎ、
生涯を通じて、弦楽独奏から、弦楽六重奏まで、
また、ヴァイオリンとピアノのためのソナタから、ピアノ五重奏曲、
フルートのセレナードから、クラリネット五重奏曲まで、
様々な編成の室内楽を書いた。
作品1のヴァイオリン・ソナタは、彼の最初の室内楽への貢献であり、
クラリネット五重奏曲作品146が最後のものであった。」
いよいよ、室内楽の話になってきたが、
これだけたくさんの作品を列挙したにも関わらず、
まだまだ、ここでの主題である弦楽四重奏に関しては一言も出てこない。

が、ここから、いよいよ本題に入る。
「弦楽四重奏曲は、その標準レベルの高さ、
厳しく定義されたガイドラインからして、
非常に特別なものと位置づけられている。
ベートーヴェンの大砲のような作品群があったために、
作曲家たちに、技法熟達を要求したものの、
理論家としての創造性を一方的に否定されがちなものであった。
運命の定めによって、レーガーの作曲の師は、
20世紀初頭の厳格な音楽価値システムを理論づけた、
フーゴー・リーマンその人であった。
彼の観点からすれば、
弦楽四重奏曲は、芸術の有機体であり、
すべての音楽ジャンルで最も厳格なものであり、
論理的構成や、内的必然性や、
展開の必然を明確にしたものでなければならなかった。
ベートーヴェンとブラームスが作曲したもの以外の、
展開技法を基本原理とするすべての音楽は、
行き当たりばったりの作品として退けられた。
こうした理論的前提が、今日まで、
レーガーの四重奏を定義している。」

ということで、ヤバい先生にヤバい生徒が付いたという形である。
これはもう、最強のヤバヤバ・コンビと言って良さそうだ。

「レーガーの作曲家としての発展は、
レーガーの歴史的、美学的位置の
二つの異なる方向によって、形成されているように見える。
1888年の夏の間、15歳のレーガー少年は、
バイロイトでのパルシファルの圧倒的公演に参加したことによって、
音楽家としての道を決意した。
彼は120ページにわたる序曲を作曲し、
1888年11月に、権威あるリーマンに、
評価してもらうべく、それを提出した。
リーマンはレーガーに、『バイロイト中毒』と警告したものの、
その素晴らしい才能を認め、メロディのセンスを磨くために、
弦楽四重奏曲の作曲を勧めた。
レーガーは独学でトレーニングを続け、
最初の弦楽四重奏曲を作曲した。
3楽章形式の四重奏曲ニ短調である。
16歳の小僧は、1889年の6月、これをリーマンに提出し、
作曲家になる資質があるかの評価も求めた。
リーマンは好意的な判断をし、
こうしたことにより適した権威、
保守的な作曲家、ヨーゼフ・ラインベルガーに紹介されて、
若さゆえの未熟は認められるものの、
音楽家になる才能の、確固たる証拠を見いだされた。」

ということで、問題作は、このバイロイト小僧の、
半年がかりの作品だということだ。
「レーガーはこの作品に作品番号を付けるだけの価値を認めず、
単なる習作として出版した。
リーマンに正式に就く前の作品であるにもかかわらず、
この作品は考慮に値する。
この四重奏曲には、成熟したレーガーを特徴付ける、
作曲の特徴の最初の暗示があり、
それはリーマンの指導のもとに書かれた、
作品1から5の室内楽以上に感じられる。」
何と、ややこしいことに、前々回取り上げた、
ヴァイオリン・ソナタ作品1以上に、
今回の習作四重奏曲の方が、「レーガー的」であるということである。

「後に、ブラームス風の展開による変奏と、
細部の仕上げが目立つ作曲技法が新しく得られ、
その熟達した利用は、優等生の熱意を伝えるものである。
ベートーヴェンを参考にした四重奏曲でありながら、
レーガー風の特徴はすでに顕著である。
例えば、彼の個性的な質感や、
息の短いモティーフの切れ端にこだわり、
また、それがしばしば絶え間なく現れるといった弱点も。
さらに繰り返しや対比は、彼の最も重要な構成方法であり、
主題発展時の必然としての完全なる対比は、
リーマンに叩き込まれたものである。
最後の第三楽章は標題風のタイトル、
『急激な上昇(躍進?高まり?)』を有し、
四重奏の楽器にコントラバスが参加する。
大きなダイナミクス変化に微妙な陰影を与え、
極端なpppとfffの間の突然の対比が、
このまだ音楽書法の未成熟な若々しい作品において、
重要な役割を果たしている。」

この曲は確かに悪くない。
冒頭から総奏で奏される、ハイドン風の主題も、
かすかな憂愁をたたえて聴かせるし、
第2主題も愛らしい。
展開のぐちゃぐちゃした感じもレーガーの好みを反映して面白い。
展開部で、ヴァイオリンとチェロが歌い交わす所も美しい。
ヴィオラがニヒルな歌を歌う所も良い。

第2楽章は、完全にベートーヴェンの第1番の第2楽章の乗りである。
まさしくロミオとジュリエットの墓場のシーンの音楽であろう。
とても美しい。しかも、がりがりがりと弦楽を震わせて、
より表現主義的な色彩も加えている。

終楽章では、コントラバスが、
バーンと入って来て、一気に音楽がふくらむ。
その意味で、「高まり」はよく表現されている。
が、主題は悲愴なものではなく、
希望に満ちた明るいもので、いつか、このシリーズで取り上げた、
オンスロウなどが好きそうな感じ。
オンスロウの五重奏はコントラバスを含むので、
音響上の連想かもしれないが、
メンデルスゾーンなどを含め、古典~初期ロマン派風の見通しの良さである。
とても好ましい印象で、ラインベルガーのような、
保守的な人なら大喜びしたはずである。
この曲は、演奏会で聴いても、純粋に楽しめるはずである。

このCDには続いて、作品54の二曲が収められている。
CD1枚に3曲入っていることからも分かるように、
いずれも20分台の曲で、3曲中、4楽章作品は作品54の1のみ。

「レーガーが弦楽四重奏に目覚め、
若々しいベートーヴェン信仰に至るまで、しばらく時を要した。
リーマンに師事していた間も、彼は弦楽四重奏曲を計画したが、
終楽章のフーガが『地獄の対位法』になってしまった。
次の四重奏を書くまでの12年間に、
彼は素晴らしいオルガン作品で作曲の経験を積み、
自身の語法を見いだしていく。
彼が作品番号を付けるに値すると考えたものは、
1900年11月の日付を持つト短調作品54の1である。
彼はこれに熱中したが、
彼は終楽章の古風で楽しい自由なフーガから着手した(11月14日)。
彼は第1と第3楽章を理解困難なものと書いていたが、
その冬にでも演奏されるはずだった。
『もし、ある人が、こんな“クレージーな”ものの演奏を、
きっぱりと拒絶したりしなければ。』
この四重奏曲の、何かクレージーで混乱したものが、
1910年10月26日にHosl四重奏団が初演するまで、
初演を10年も待たせることになった。
確かに、伝統的な全体構成ではあるが、
各楽章はまったく独特の性格を持っている。
つまり、嵐のようなアレグロ・アジタートのソナタ形式、
短い3つの部分からなるヴィヴァーチェ・アッサイのスケルツォは、
ブルレスクなフモールを有し、
アレグロ・メストの緩徐楽章は憂鬱なモノローグであり、
カプリシャスなプレスティッシーモ・アッサイの終曲フーガは、
素晴らしい対位法処理である。
楽章の標題がすでに、この作品の強烈さと表出力を示している。
第1楽章は、特に、音楽的な沸点に向かって行く、
火のような解釈を求めるものだ。
嵐のような動きと、
不安定な調性の中の、
緊張に満ちた幅広い音域は、
突然の休止を伴うダイナミックの増大を推し進める。
混乱と軽率な狂気という批判は、
四重奏の展開の作法や、
異常なテンションの高さに向けられている。
その展開は、テーマによるもののみならず、
リズム、ハーモニー、メロディの要素や、
その無限のニュアンスや細部の無限の変容にまで至っている。
これらすべてが、古典的な主題展開と比較されて、
発育不全と見なされた。
音楽のテンションの高さの点で、
解決も打開もない噴火と激動を伴う、
あまりにも論理的な作曲技法ゆえに、
あまりにも難解という説とは矛盾する。
レーガーの四重奏曲は、
決まり切った論理や、思いつきの展開を否定して、
あらゆる可能性に挑戦するものである。
彼は、どれか一つを選べと言われた時には、
あらゆる可能性の総体を選ぶのである。」

この解説者のいつもの例で、非常に難解な解説であるが、
レーガーは単に主題労作をしたのではなく、
あらゆる可能性を、炎のように極めようとしたという点は良く分かる。
しかも、音楽は、レーガーが言うとおり、
第1楽章と第3楽章は難解で、第2、第4楽章は楽しい。
冒頭主題は、さすがこの作品を、
「弦楽四重奏曲第一番」としたくなるような、
荘厳な雰囲気が漂っている。あの習作の後で風格がある。
しかし、展開部の魔法のような変化や対比は、
胸がいっぱいになりながらも、どうしていいか分からなくなる。

こうして、奇数楽章は暗い世界に触手を伸ばしていくような音楽。
11分と7分で、他の楽章の倍くらいある。
第三楽章は、モノローグのように厳しく深い。
偶数楽章は、軽妙。終楽章のフーガも、妙におどけた感じ。
こんな風に各楽章の性格がばらばらに見えるのが、
おそらく敬遠される所以であろう。

が、こうしたユーモアと深淵を並置したのは、
考えてみればベートーヴェンの創始である。
シューベルトみたいなまじめ人間音楽を模範としていれば、
レーガーの作品は違ったものに発展したはずである。

「レーガーは彼の四重奏曲イ長調作品54の2を、
1910年の4月の終わりから6月の半ばまでかけて書いた。
これは、彼のワイデン時代の最後の作品で、
作品64のピアノ五重奏曲に続けて書かれている。」
作品54が、いったいどんな意味があるか分からないが、
作品54の1と2の間には10年の歳月が流れているようだ。

「この五重奏曲の強烈な音の爆発の過多、
異常に目の詰んだ質感、圧倒的な複雑さは、
野蛮な作品と呼ぶにふさわしいが、
それゆえにレーガー自身、
これは出版するには革命的にすぎると見なした。
こうした並外れた音楽の後で、
レーガーはリラックスした音楽を書く気になった。
そして、これが、ト短調の作品と対をなす、
イ長調四重奏曲を書くきっかけになったものだろう。
調性の明るさ、3楽章構成、親しみやすい第2楽章の変奏に着目すると、
この作品は、無邪気なものと思われるが、
それはあくまで、比較の上の話。
アレグロ・アッサイ・エ・ビザーロのオープニング楽章は、
明らかにこうした意図を否定するものである。
遊びと瞑想、風変わりさの噴出は、激しいリズムの変容、
和声のシフトを伴い、テーマは断片化して、
別々のイベントが進行するかのよう。
そのめまぐるしい彫琢もまた風変わりである。」

この曲も恐ろしい作品である。
ショスタコーヴィッチの先祖である。
解説にもあるように、常に気分を変えながら、
諧謔と崇高が隣り合わせになって交錯する。

「そのアンダンテ・センプリーチェという表記に関わらず、
この変奏曲楽章は、和声的にも旋律的にも矛盾した、
13に区分されたテーマによっている。」
この楽章も、先の楽章と同様。
ある部分は非常に清澄、ある部分は瞑想的で美しいが、
次々に現れる意味不明な連続によって、かき回されて、
散髪屋のくるくるみたいに目が回る。

第三楽章は、完全におふざけみたいな音楽。
と思うや、強烈に印象的な深々としたメロディが浮かび上がって、
はっとさせられる。
ものすごくフモレスク調の音楽。
これも、第一番のような凝集感に耐える必要がない分、
演奏会では楽しめるかもしれない。
解説にはこうある。
「アレグロ・ヴィヴァーチェ・コン・スピリートの終楽章は、
このコン・スピリートの表記にふさわしいが、
それは驚くべきものである。
レーガーは、Hosl四重奏団が、
1904年にこの曲を初演したのを聴いて激怒した。
『完全に、全体的にハーモニーが欠如している。
誰も何をどう演奏しようとしているか分からない。
最初のリハーサルの間、私は何度か救いの手をさしのべようとした。
しかし、あまりにもひどい扱いを受けて、
二回目以降は行かなかった。
いや言い方を変えると、
Hoslは、ベストを尽くそうとしていた。
が、あとの3人はよくなかった。
結果として、私の四重奏曲は、
牧神が、完全に酔っぱらって作曲したみたいな風に聞こえた。
(1904年4月25日、Kroyer宛)』
この四重奏曲は音楽家を完全に置き去りにしていた。
そして、レーガーの四重奏曲をベートーヴェンの後期作品と比べると、
内容的にも技術的にも、
ベートーヴェンが子供のように見えたとしても不思議ではない。
それは、音楽の高貴さと美しさの境界を越えたものと評された。
(1903-4、Wilhelm Altmann『音楽』)。」

マーラーやショスタコーヴィッチを愛聴する人は、
レーガーの「第2弦楽四重奏曲」を忘れないようにして欲しい。
今回の視聴ではそう考えた。
が、非常に難しい音楽。
解説なしに聴くには、非常な集中力と記憶力、
そして先入観の排除を必要とする。

得られた事:「レーガーの未出版の弦楽四重奏曲は、終楽章のみコントラバスが入る珍曲。が、習作としてかたづけるには惜しい。続く2曲は10年のスパンを置き、先駆的な充実した個性派。」
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by franz310 | 2008-06-28 22:56 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その128

b0083728_2317762.jpg個人的経験:
私がレーガーの作品に
初めて触れた時、
ある意味仲立ちを
してくれたのが
シューベルトであった。
傑作ヴァイオリン曲、
「幻想曲」の決定盤
と言われたブッシュの
レコードにレーガーの
作品の一部が収められていた。

もう30年以上前、
いや40年近く前になると思うが、
東芝EMI株式会社が、「世紀の巨匠たち」シリーズとして、
ブッシュ名盤シリーズというのを出していた。
その中の一つがこのレコードで、
A面にシューベルトが、B面にやや短いシューマンの1番が収められ、
余白のわずか2分34秒が、レーガーの、
「アレグレット-ヴァイオリン・ソナタ第5番 嬰ヘ短調 作品84より」
だった。ピアノはゼルキンである。

とにかく、シューベルトとレーガーは、
1831年5月の録音のSPの復刻であって、
LP時代の常識からすると非常に雑音の多い音であった。

が、評判のとおり、シューベルトの「幻想曲」は圧倒的な演奏で、
ピアノが文字通り幻想的な序奏を奏で始めた瞬間から、
ぞくぞくしてしまったことを良く覚えている。
事実、それからいろいろな演奏を聴いたが、
この演奏の呪縛から逃れられないでいる。

このLPは、ジャケットもブッシュらしい武骨な感じが出ていて良い。
背景の本棚が衒学的な感じもする。整然と並んでいないのが、
今は少し気になる。
しかも、改めて見ると、本棚が、えらく近く感じられる。
ゼルキンが興奮したら、手をぶつけそうな距離である。
まるで、当時の私の狭い部屋とあまり変わらないような感じ。
そういう意味では何の変哲もない写真である。

ただこれも、入手した時には、
ただ、ありがたい感じだった。
そもそも、1000円から1500円までの、
廉価盤しか入手できなかった学生が、
レギュラー盤と変わらぬ2000円の盤に手を出したのである。
二倍ありがたくても仕方がない。
CD化された時には、シューベルト同士ということで、
「幻想曲」は「ピアノ三重奏曲第二番」と組み合わされた。
このカップリングは、名大作の組み合わせで何の不満もないが、
チェロが入ったり入らなかったりするのは不自然とも言える。
また、シューマンとレーガーはどうなったのだろう。
「ブッシュの芸術」という、全集の形では再発されたのは知っているが。

このLP、絵に描いたようなセピア調で、古式ゆかしい。
ブッシュは神妙な面持ちで左手にぐぐっと力が入っている。
右手はゼルキン共々、白熱してぼけている。
この写真を縁取る唐草模様状のデザインも味がある。
これなら、2000円出してもよいと思ったはずである。

なお解説は、各曲の解説があって、最後に裏面の1/6ほどを使って、
「ブッシュとゼルキン」という演奏者にスポットを当てた部分が来る。
「世紀の巨匠たち」シリーズなのに、巨匠の方があとに出てくるのも悪くない。
やはり作品が一番重要であろう。
「厳格」、「禁欲的」、「真摯」という、
ブッシュを語る時の決まり文句が並んでいるが、
実際、格調高い名演と思う。

これを聴いた後では、多くの「幻想曲」の名盤が、
何だか実体のない軟体動物のような感じになる。

こういう事を書くと、単に、先入観や郷愁のようなものだと、
非難もされるかもしれないが、針を落として、演奏が始まるや否や、
強烈な感動に突き動かされるという経験はそうたくさんあるものではない。
そのときの体験は生涯大切にしたいものだ。

あらえびすの「名曲決定盤」でも、
「『大幻想曲』に示した、幽玄不可思議な美しさはどうだろう。
少しく大げさに言ったならば、あらゆるヴァイオリン曲中、
この曲ほど人の心に食い入る美しさと、
何人の心も浄化せずんばやまざる床しさを持つ曲が幾つあったであろう。」
と書かかれているが、まったく同感と言わずにいられない。

さらに、彼は、
「単にブッシュのレコードとは言わない、
あらゆるヴァイオリン、ピアノ二重奏曲中、
この曲こそは.私の最も好きな曲の一つだと言ってもいい」
と書いてさえいるのである。
私は、それにも同調してしまいそうである。

とはいえ、さすがのあらえびすも、
レーガーの曲については記述がなく、
ブッシュが「マックス・レガー」に認められたという、
ブッシュの略歴での記載のみ。
が、こうした関係で成立した録音なのであろう。

ただし、このLP、1937年のシューマンは、
曲がのっぺりした印象であるだけに、録音の古さが残念であった。
一方、レーガーは、奇妙な曲だと思った。
とても繊細で美しいメロディが、途中、ぶちこわしになる音楽。
そもそも2分ばかりの演奏時間で、どれだけ、
この作曲家が何たるかを知ることができるだろうか。
解説はわずか7行で、他の楽章に関する記述もなく、
解説者自身、レーガーをどう捉えて良いか分からない風情。

「マックス・レーガーは、ドイツ以外では、
まだ親しまれているとはいえない作曲家である。」
こんな風に始まるが、事実、現在でもそう思える。
精力的にレーガーを出しているのはドイツのレーベルだけのような気もする。

だが、前回のCDの解説では、この作曲家は生前から海外で人気があり、
プロコフィエフなどもレーガーのファンだったというから、
少し、見方を改めないといけないのかもしれない。

さて、解説を引用すると、
「ワーグナーの影響をうけた後期ロマン派の作曲家の一人であるが、
その影響は和声法を主とし、基本的には絶対音楽的性格を守り続けた。
その点、オーストリアのブルックナーと通ずる点がある。
このアレグレット楽章(第2楽章)では、
和声法の多彩さを誇ったレーガーの特質がよくうかがわれよう。」
大旨、現在の認識と変わらないが、
交響曲ばかりを書いていた作曲家と、
それから知ったのだが、交響曲を残せなかった作曲家を、
唐突に比べられても、どうしていいかわからない。

とはいえ、当時はよく分からなかったことで、
前回取り上げたCDなどを入手したことで、
ようやく少し分かって来たことがある。

この輸入盤CDの解説はこのようなものである。
「レーガーは、作品84の、
ヴァイオリンとピアノのためのソナタ、
彼のこのジャンルにおける第5作を、
1905年の初めにミュンヘンで作曲した。
手稿から、この年の2月28日が、この作品の完成日が分かる。
この曲は、レーガーが、
作曲家として演奏家として、
その地を離れて、国際的な知名度を上げていった、
彼のミュンヘン時代の作品であるが、
こうした海外での成功は、かえって、ミュンヘンの派閥からの
むちゃくちゃな誹謗中傷をあおり、
彼は、ブラームスの亜流、乱筆家などと批判された。
1901年にミュンヘンに移り、
悪意ある感情に耐えなければならなかった
レーガーであるが、
今や、その創造的な作品や才能を自覚するに至った。
彼は、その敵対者に対する意見を、
こんな面白い表現で要約して語ったという。
『牛肉の一切れ以上に、牛までを想像することは出来ないんだよ。』
ソナタ作品84は、
ピアノ小品集『私の日記から』作品82や、
『10の男声合唱のための歌』作品83や、
『四つのオルガン用前奏曲とフーガ』作品85や、
壮大な『ベートーヴェンの主題による変奏曲』作品86と、
接した作品番号を持つ。
レーガーは前の2作品を1904年の8月から書き始めていたが、
1912年まで仕上げることが出来ず、
後の二つは1904年の8月に作曲した。
彼はこのソナタを『親愛なるアンリ・マルトーに』捧げた。」

このアンリ・マルトーはベルリン音楽大学における、
ブッシュの前任者である。
ヴァイオリン科の主任教授で、
ちなみに、その前はヨアヒムであった。

それにしても、1912年まで完成されなかった作品が、
何故、若い作品番号を持っているのかは分からない。
レーガーは、ひょっとして、出版とは関係なく、
自分で番号を割り振っていたのだろうか。

よく、ベートーヴェンやショパンのピアノ協奏曲の作品番号が、
作曲された時期とずれていて、それは出版のせいだという話が出るが、
レーガーの場合は、作曲家のせいで、
こうした意味不明なことが起こるということか。

「彼はマルトーと1905年の3月7日、
ベルリンのベヒシュタインホールでこの曲を初演し、
ベルギーのヴァイオリンのヴィルトゥオーゾ、
ユージン・イザイとも1906年12月に、
非常に成功したツアーの途上、セント・ペテルスブルク
などで演奏している。
ミュンヘンの名物批評家が、
レーガーに精神病院行きを勧めたのは少し前のことであったが、
ペテルスブルクの熱狂した音楽家たちは、
レーガーに銀の月桂樹を贈ったのだった。
レーガーの同時代者たちは、
この嬰へ短調のソナタを疑いなく後世に残るものと認めた。
フリッツ・スターンは、『幸福に流れる人生の喜び』と評し、
同様にレーガーの伝記作者グイド・バギアは、
1923年になって、こう書いている。
『この作品の魅力は無比の主題統一にある。
真の室内楽的着想、力強く変容して発展する種子を内包している』。
6/4拍子の第一楽章は、冒頭から、
流れるようなメロディと明確に聴き取れる構成感で我々を魅了する。
この冒頭主題によって、この構成は形作られ、
ここから第二主題が形成される。
この曲の構造では、主要主題が、
強弱や速度法を変更しながらたびたび現れて、形式を決定している。」

このようにあるように、レーガーの作品では珍しく、
冒頭から流れるようなメロディが美しい。
これは、ピアノの分散和音に導かれながら、
黄泉の国から蘇るようにヴァイオリンが登場し、
ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第2番を思わせるものだ。
非常に無理のない、流れるような旋律で、
細かく興奮して高揚していくという点で、
レーガー特有の美観をも無理なく発揮しており、
彼の作品の中でも完成度が高いものと思われる。

第2主題も落ち着いて、上品なもの。
憧れを追い求めながら、時折、夕暮れのような情感が挟まれる。

この素敵な第一楽章は、第三楽章(終楽章)と共に、
15分の大作で、その間に、例の2分程度のアレグレットが挟まっている。
ブッシュの録音では、この第二楽章しか録音されていなかったので、
全体で30分を超える大作であろうとは想像することも出来なかった。

「2/4拍子、ニ短調の第二楽章スケルツォは、
戯れのような軽さと、壮大さを併せ持って、
作品77aや作品141aのフルート・トリオなど、
多くのレーガーのセレナードを思い出させる。
コン・ソルディーノの主題も、強く捉える第2主題も、
その点で際だっている。」
前回、プロコフィエフとレーガーの関係を読んだが、
ロシアの作曲家の名作、「束の間の幻影」に似た、
かそけき美しさが幻想的な小品。
中間部で、ラプソディックな曲想を見せるが、
これですら、プロコフィエフへと続く道が見える。
これまで、レーガーは袋小路のような作曲家と思っていた。
ロシアのアヴァンギャルドにひょっとしたら直結しているかもしれない。

そういえば、プロコフィエフも古典形式にこだわりを見せた音楽家であり、
ヴァイオリン・ソナタにも名作を残している。
そして、彼の作品を愛奏した人は、ブッシュと同様、
バッハやブラームスを得意としたシゲティであった。

さて、冒頭から書いて来たように、
この第2楽章は、30年来のつきあいである。
この部分に来ると、ふと、懐かしさがこみ上げる。

ブッシュがこの大作から、この一輪の花を、
摘み取ってではあるが、見せてくれたことに感謝したい。

「終楽章は、無理なく内容と形式を結びつける、
素晴らしいレーガーの作曲技法の手練を見せつけるもので、
まず第1に、彼はソナタの緩徐楽章とフィナーレをリンクさせ、
第2に、最初の部分は、主題と七つの変奏という変奏曲群で始め、
フーガでこれを締めくくっている。
第3に、変奏曲フーガで、前の変奏曲と主題が繋がっている。」

レーガーといえば、
巨大なフーガの化け物を書いた作曲家として思い浮かぶと、
アメリカの批評家、ショーンバークなどは書いているが、
そうこなくっちゃと言いたくなるレーガーの真骨頂。

が、主題は妙にしみじみとした曲想で、
ピアノのつぶやきのような感じ。
ここから、15分にわたる大変奏とフーガが始まるとは思えない。
事実、以下に書き連ねるように、何だか推進力のない変奏曲である。
変奏曲として聴く必要はなく、束の間の幻影集と言った方がよさそう。
第1変奏は、レーガーらしい、人の神経を逆なでるキンキン系。
第2変奏は、また、まったりとした雰囲気。ねじくれたメロディが奇妙。
第3変奏は、またまたレーガーらしく、同じ所を旋回して脳みそがぐるぐる系。
第4変奏は、ちょっと英雄的な高揚を試みる。
第5変奏は、少しメロディアスで、民謡風。
第6変奏は、怪しくピアノが駆け回り、幻想的。これは非常に面白い。
第7変奏は、ここで再び情緒的な雰囲気になる。
フーガになって、レーガーそのものと言える、
剽軽にくねくねと輪を描く曲想が立ち上がって、
ようやく推進力が出てくる。
なるほど、ソナタの緩徐楽章と終曲が、そのまま、
変奏曲とフーガになっているわけだな。
フーガになると、あっという間に音楽は終わってしまう。
変奏曲が10分程度、フーガは5分程度。

さて、さすがに、先の第6変奏は、解説者も一言言いたかったようで、
下記のような解説が続く。
「第6変奏の真珠の光沢のような半音階は、
ドビュッシーの音の世界で、
レーガーは、後に、マイニンゲンの宮廷楽団の音楽監督になると、
コンサート・プログラムに、その『牧神の午後への前奏曲』を入れた。」

しかし、私には、これのどこがドビュッシーなのかよく分からない。
ドビュッシーの場合、妙に意味深なぼかしを入れるが、
これは、もっと、独特で、不思議な感触。
印象派ではなく、シャガールなどの雰囲気もある。
あちらの世界をしっかりと掴んでいるように見える。

「レーガーは、この変奏曲とフーガを、
まず、オルガン用のコラール幻想曲で採用し、
さらにピアノのためのバッハ変奏曲でも使った。
この嬰ヘ短調のヴァイオリン・ソナタは、
こうした増強されたフーガを終曲に有する、
彼の最初の室内楽曲である。
ここで、二つの主題は相互に浸透して、
この構造のみならず、楽曲全体を締めくくるための、
素晴らしく多層化された終曲の効果を発揮する。」

フーガは最初、有名な「ヒラー変奏曲」のような、
軽妙な開始であるが、後半になると集中力が増し、
厳然とした幅広いメロディがヴァイオリンから舞い上がり、
素晴らしく求心力のある終曲部に続く。
これは、たぶん、会心の作であろう。

得られた事:「レーガー・プロコフィエフライン。」
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by franz310 | 2008-06-21 23:23 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その127

b0083728_22583142.jpg個人的経験:
前々回から脱線して、
画家のベックリン関係のCDを
取り上げて見たが、
ベックリンが影響を与えたとされる、
キリコの絵画作品が、
CPOレーベルの
レーガーシリーズを飾っている。
キリコは、イタリア近代の画家で、
その不思議な詩的な幻想は、
まるで白日夢のような効果を与える。


私は、この人の作品を美術の教科書で見て、
心奪われた経験を持つが、これまで、
レーガーの作品を連想することはなかった。

そもそも、キリコは1888年生まれで、
1873年生まれのレーガーとは少し時代がずれている。

画家は私が教科書を開いた時にはまだ存命であったが、
作曲家は、それより半世紀以上前に死んでいるので、
活動時期のイメージは、それくらいの差異がある。
南欧らしいからっと乾いたキリコに対し、
レーガーは、重くどろどろした印象である。
しかし、ある意味、共に幻視者であったであろうことは間違いない。

このレーガーの作品番号1を収めたCDでは、
ほとんどシュールレアリスティックな、
「不安な女神たち」という作品が表紙を飾っているが、
17歳の天才少年の作品は、
ロマン派の影響を引きずって、もっと湿度が高い。
が、レーガーがどうかという事を考えなければ、
こうした美しい美術品をあしらってもらうと、
少なくとも私は嬉しくなってしまう。
これなら、誰にでもプレゼントできそうだ。

あと、この絵の奇妙さについて行けない人には、
おそらくレーガーの音楽は向いていないだろう。
ということまで考えると、このデザインは、
音楽とまずまずの相性である。
例えば、ベックリンの絵よりは、
ずっとレーガーの音楽はぶっ飛び派といえる。

さて、これまで、シューベルト歌曲を編曲した、
晩年のレーガーしか見てこなかったが、
ここで最初期のレーガーを垣間見ておかないと、
不公平かもしれないと思って、これを取り上げる。
私は、ずっと前からこのCDは入手していたが、
じっくり聴いてはいなかった。
こういう機会でもないと、そのまま忘れてしまう可能性もある。

解説は思ったとおり、比較的レーガーの何たるかを、
手際よくまとめてくれてもいる。
実はレーガー、作品1をヴァイオリン・ソナタで始めたが、
死の前年の作品139の第9番まで、生涯にわたって、
このジャンルの作品を残しているのである。
ここでは、その最初の作品と、真ん中の第5番が聞ける。
解説を書いたのは、Guido Barth-Purrmannとある。
英訳はSusan Marie Praederとある。
このまえ、シューベルト歌曲をレーガーが編曲したものの解説を、
英訳していた人である。

「私の作品がポピュラーになるまで、
私自身が生きて見てみたいとは思わない。」
というのが、解説の題となっていて、
不敵なレーガーの顔が思い浮かぶ内容だ。

しかも、冒頭から、レーガーの音楽をよく表していて、
うれしくなってしまう。
晩年に、おとなしくシューベルトを編曲していた彼とは、
違う姿をさらけ出して欲しい。

「『精神病院にでもぶち込んでしまえ。
音で作ったどろどろの雑炊、野蛮な騒音、
混沌としたバロック、
堕落した女神との近親相姦と流産、
あまりにも悲劇的に気取った恥知らずの前に、
音楽は逃げ去り、デカダン、病的、不健全な疾患、
ドイツ精神から逸脱した拒絶の山脈。』
マックス・レーガーの音楽に対する、こうした客観的なレビューは、
さらに続けることも、さらに表現を広げることも出来るだろう。
レーガーは、そのキャリアを通じて、このような批判にさらされていた。

こうした批判は絶え間なく続き、
その徹底的な表現は激しさを増した。
このレベルの言葉の攻撃は当時ほどでないにせよ、
今日でも、音楽の専門家にもジャーナリストの間にも、
その名残は残っている。
世紀の変わり目には、マックス・フォン・シリンクスや、
ルートヴィヒ・トゥーレのような作曲家が書いた、
交響詩の夢のような管弦楽の響きに対しても、
こうした讃辞が送られた。
これらの作曲家や彼らの周辺は、
明るさや香気、幻惑や、しばしば見せかけの異国情緒の経過句などが、
音楽形式の法則や、メロディを犠牲にしているとは考えなかった。
レーガーはこうした状況も自らのドイツでの使命をも自覚していた。
イギリス、ベルギー、オランダ、スイス、ロシアなど、
他のヨーロッパ諸国では、当時、最もよく演奏される作曲家の一人だった。
1905年5月、彼の賛美者である、
ライプツィッヒのトーマス教会のカントール、
カール・シュトラウベにこう書いている。
『シリングスやトゥーレが私を悩ませることはありません。
彼らのことなど、まともに考えてはいないのです。
今日のオーケストラで彩られた音楽は、
装飾過多で、音楽のあるべき姿から外れています。
俗物どもが舵を握っているので、
それを埋め合わせるのは困難です。』
しかし、即席の束の間の成功だけを追い求めていた、
これらの作曲家たちに、どうやって、
挑発的に差し出されるレーガーの本物の天才を、
理解してもらうことを期待できるだろうか。
また、絶対音楽に専心し、骨折り損のような、
室内楽の作曲を義務としているような彼を、
どうして彼らが理解などできるだろうか。
まるで氷河の後に残された迷子石のように邪魔されることなく、
レーガーは、一方で、古典的なソナタ形式のような、
古い様式の熱心な擁護者であると同時に、
他方では、
経験豊かな聴衆でさえ、自分の居場所が、
どこにいるのか分からなくなるような、
幻想未来を剥き出しただけでなく、
新しい鋳型に古い伝統を流し込み、
風格ある外観に個人的な音楽語法を適用して、
和声的な構成、無限旋律に満ちた様式の作品を書く作曲家だった。
音楽理論の帝王、フーゴー・リーマンですら、
彼の昔の生徒の急進には付いて行けなかった。
一度は賛美し、彼が眼をかけた昔の助手に対して、
1905年以降には、距離を取るようになり、
その音楽を、1913年には、その『大作曲家教義』の中で、
『ヴァーグナーのトリスタンで炎症を起こした、
音楽学校の生徒の脳みそから出た産物』であると評した。
彼は、レーガー自身が、
『バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの熱狂的崇拝者』
であると考えていると書いて中傷した。
しかし、反対に、ルドルフ・ルイスなどは、
長年、辛辣かつあからさまに戦いを挑んでいた批評家だったが、
後年、公衆の場でその評価を変えて見せた。」

このように、レーガーの音楽は、難解極まりなく、
当時から、どう扱っていいのか分からない難物だったわけである。
それは、キリコの比ではない。
さらに、批評家ではなく、同業者の意見が出てくる。
シェーンベルクがレーガーの崇拝者で、
その「ロマンティック組曲」を編曲したりしているのは知っていたが、
その名声がロシアにまで至っていたのは知らなかった。
「オリンポスの山に神格化されて久しい、
彼の同時代の、古典的モダニズムの作曲家たちも、
レーガーが世紀の代わり目の後に起こった、
音楽史の激動の最中にあって、いかに、
対立するものの前面に挟まれていたことを教えてくれる。
ストラヴィンスキーの判定は短くも残酷なもので、
『1906年頃、レーガーと会ったことを覚えているが、
確かリハーサルで、その音楽にぞっとしただけだった』
というものであった。
しかし、同時期、15歳だったプロコフィエフは、
違った意見を持っていた。
『レーガーのゲストとしての登場は、
私には強烈な印象を残した。
友人のミヤスコフスキーはその鞄から、
セレナード(作品95)を取り上げて、
四手用のアレンジを作り上げたので、
二人でそれを弾いて楽しんだ。』
それから10年。1916年、5月19日、
レーガーの死の5日後には、
ドイツとロシアは戦火を交えていたにもかかわらず、
サンクト・ペレルスブルクではレーガーの記念コンサートが開かれた。」
これらの記述には驚くと同時に安心した。
私は、ストラヴィンスキーに共感したことはあまりないが、
プロコフィエフやレーガーには、等しく親近感を感じるからである。

「レーガーの音楽は、また、
新ヴィーン楽派の音楽家たちにも高く評価されていた。
ヴィーンの郊外、メートリンクにシェーンベルクが開設した、
私的演奏協会の進行役を務めたウェーベルンは、
ラヴェル、ベルク、ストラヴィンスキー、バルトーク、シェーンベルク、
ウェーベルンの弦楽四重奏だけでなく、
皆の同意によって、レーガーの作品をも研究するべきであると主張した。
ヒンデミットの評価は短いが明快であった。
『レーガーは最後の音楽の巨人です。
私は、彼なしには何一つ出来なかった。』
このように、同時代の作曲家で、
今でも有名な人たちは、レーガーを重要視していたが、
聴衆はどうだったのか。

「公衆や評論は、レーガーの受容に関して、
長く相変わらずばらばらだが、
演奏者からはずっと支持されている。
指揮者のニキシュは、自身を『熱狂的レーガー信者』と呼び、
カール・シュトラウベは、オルガン音楽を普及させ、
ヴァイオリニストのカール・フレッシュ、Gustav Havemann、
カール・ヴェンドリング、アドルフ・ブッシュ、
アンリ・マルトーは、室内楽を取り上げた。
シュトゥットガルトの宮廷劇場のコンサートマスターの、
ヴェンドリングは、最も重要な四重奏団を率い、
マルトー(1874-1934)は、ベルリンアカデミーにおける、
ヨアヒムの後継者で、世界中を楽旅する名手で、
レーガーの音楽の倦むことなき代弁者であった。
マルトーは、ほぼレーガーと同年で、
1903年に、本格的に音楽的親交を結んだ。
たった1年後には、彼はこう語ったりしている。
『レーガーは天才であり、ドイツ音楽の最大の個性である。
彼のミューズは多産であり、彼の意志は強く、
そのスタイルは厳格にして純粋。
そして、公衆にこびを売らない様など、
バッハを思わせる。』
レーガーはヴァイオリン協奏曲作品101とソナタ作品84を、
マルトーに捧げ、二人で初演している。」
このレーガーの、超重量級のヴァイオリン協奏曲を、
何年か前に実演で聴くことが出来たのは、
私には忘れられない思い出となっている。

「音響と形式によるヴァイオリンとピアノのコンビネーションは、
レーガーを25年にわたって魅了し、
1890年、ヴィスバーデンでリーマンに師事していた時、
17歳の時に、この楽器のために最初の作品、
ソナタ・ニ短調作品1を書き、これは、若い作曲家の自己批判に耐えて、
作品番号を与えられた最初の作品となった。
1915年、彼はこの作品群の最後のものを、
ハ短調作品139として、イエナで書いた。
この2作品の間の四半世紀に、彼は7曲のソナタ、
『古いスタイルによる』を含む、2つの組曲、
ソナティネや小品、自作、他の作曲家の編曲を含む作品を残した。
これらはレーガーの室内楽の中では最大の集団であり、
オルガン曲、ピアノ曲、11のソナタと15のプレリュードとフーガを含む、
ヴァイオリン独奏曲のみが、彼の器楽作品の中でこれを上回る。
彼にしてみれば、自分自身が最大の自作紹介者であったので、
高い評価のピアニストであり、歌曲伴奏者であり、室内楽奏者として、
解釈を伝えることに誇りを持って取り組んだ。
レーガーの友人で伝記作者のフリッツ・シュタインは、
レーガーの『比類なき』ピアノ奏法を、
『独特の効果を持ち、まさに超人的な表現による表出力で、
懐疑的な人たちをもたちまち魅了した。
彼の手の下で鍵盤楽器が歌い出す時の事は忘れがたい。
彼の巨人的な体躯とは反対に、それは小さく、ソフトで、
引き締まったものであった。
異常にデリケートで、それでもちゃんと聴き取れるピアニッシモから、
雷鳴の爆発のように、すさまじいパワーで鳴り響くのに、
まったく乱暴になることのないフォルテッシモまで、
レーガーの羽のように軽いスタッカートとレガート奏法は、
まったく比較できるものはなかった。
その上で、多様なポリフォニーのテクスチャーが明確になる。
彼がピアノの前に座ると、それは精力的ながら平静であり、
まったくヴィルトゥオーゾのようなポーズはなかった。
訳の分からないハーモニー、
たくさんの誤りの連なりによる、明らかに不明瞭な和音の意味が、
彼の演奏で聴くと、たちまち明確になっていくのであった。」

ここまで、書かれると、レーガー自身の演奏が聴きたくなる。
レコードやCDで面食らうのは、演奏が悪いのではないか、
そう思わせるような記述である。
しかし、そうした要素はあったものと思われる。
普通、理解不能だろうと思われる彼の作品が、
作品番号150に迫る勢いで出版されたのは、
何か、同時代者にしか分からない神秘の魅力があったに相違ない。
その一つが、作曲家自身の圧倒的な演奏であったことは、
ありそうな話である。

さて、そんな作曲家の最初の作品である。
とってもスイートというわけにはいかない。
17歳の作品というが、やたら成熟した印象である。
憂いを秘めたヴァイオリンの出だしからして、
どこからどこまでがメロディなのか分からない。
異常な火照りを伴いながらも、激高するピアノ伴奏に、
どこに向かうか分からないヴァイオリンの興奮が加わる。
なんだかしらんが情熱的で、神秘的に美しいようだが、
我々を落ち着かせてくれない。
したがって、このソナタについて、
レーガーの先生が言ったという下記の記述も分からなくもない。

「1891年の初頭にレーガーが書いた、
彼のヴァイオリン・ソナタ作品1は、
彼の父親のような友人で、師匠でもあった、
ワイデンのアーダルベルト・リントナーのために書かれた。
『私の教授のリーマンとその奥さんは、
第一楽章の感情と表現の点で、
私がまさしく何をなしとげたかを、
私自身が正しく理解していないと言いました。
彼らにとって、私はまだまだ若く見え、
それらをむしろ直感的にやったので、
私は10年もすればそれが分かるようになるというのです。
フランクフルト音楽院の二人の教授は、
心からの讃辞を私に与えてくれましたが、
このソナタには本当に個性的な財産がある、
ということです。
このソナタは教授たちの誇りなのです。』」

確かに、1890年と言えば、まだ、
ブラームスもチャイコフスキーも存命の折。
こんな作品を書く生徒が出てきたら、ぶったまげるだろう。
メロディーラインがどこに向かうか分からないものの、
書法は明快、ピアノもヴァイオリンも、
きらきらとその美観を最大限に発揮している。
どの楽器にも曖昧な部分はなく、
妙にくっきりとして、確信に満ちた進行を見せる。
不思議な微光をたたえながら、実体があるようでないようで、
変な感触だが、堂々としていて巨匠風である。
今回の記事冒頭のように、
「あまりにも悲劇的に気取った恥知らず」
とは言わないまでも、苦心惨憺して、
何が言いたいのかを模索しているようでもある。
が、何かを、言わなければならないのであろう。

「リーマンはレーガーの作品1は、
天才の閃光とみなしたが、
若い作曲家自身はそう確信することは出来なかった。
『お願いですから、“天才”という表現を使わないでください。
私はそんなものは信じないし、
うまくいった難題としか思えないのです。』
レーガーはこのニ短調ソナタを、
ヴィスバーデンでの勉強の最初の何ヶ月か、
1890年の冬の間に書き、
尊敬していた教師で庇護者のフーゴー・リーマンに捧げた。
この人は、様々な側面において、
この優れた生徒を支持し、励ましていた。
そして、その広いコネでロンドンの出版社、
Augenerにコンタクトを取ったのもリーマンで、
1893年にこの作品は、レーガーの最初の作品として出版された。
レーガーは1891年の12月21日に、
音楽院の試験演奏会で友人のヴァイオリニスト、
グスタフ・コードとこれを初演、
さらに1893年8月には、ダンツィヒでも演奏された。
この時は、レーガーのパートナーは、
ヨアヒムの生徒のWaldemar Meyerで、
この人は、1894年2月、
ジングアカデミーにおける、合同室内楽演奏会、
レーガーのベルリン・デビュー時にもこのソナタを演奏した。
しかし、批評家や聴衆の反応は必ずしも良いものばかりではなかった。
『問題ない。要するに慣れの問題だ。いい人たちだよ』。」

私もいい人になりたいが、なかなか手強い作品である。
メンデルスゾーンのモダン版の、第二楽章の軽快なスケルツォや、
第三楽章、ベートーヴェンの『悲愴』ソナタを思わせる緩徐楽章は、
メロディ的にも分かりやすく美しいが、リーマン夫妻のいうように、
第一楽章が難物。
手助けしようにも、拒絶する若者の風情。

しかし、このスケルツォの、
同じ所をくるくると回っているような表現は、
レーガーが後年まで好んで、あるいは、好まないでも、
よく使った手法である。

「想像できるように、17歳の作曲家の作品1は、
多くの偉大な先達の模造品の上に成り立っている。
彼の弦楽四重奏曲作曲における経験は、
彼自身の批評には耐えられなかった。
『アダージョは、ベートーヴェンのスタイルをとどめ』、
また、ピアノパートの分厚い和音の質感や、いくつかの材料は、
ブラームス的である。」
確かに、全体のイメージはブラームス風だが、
ブラームスには、もう少し色気があろう。
ここで泣かせようという意図も見えよう。

レーガーにそれがあるとすれば、
第三楽章のアダージョ冒頭であるが、
その泣かせ方ならブラームスと同様。
ということで、この楽章も素直なのは最初だけ。
中間部で大げさなピアノの巨匠風パッセージが入ったりするが、
だんだん、求心力がなくなって、
分解していくような感じがユニークなのか、力不足なのか。

解説はさらに続くが、楽器の取り扱いに関するもので、
曲の内容について書いているわけではない。

「もしダイナミック記号が額面通りに扱われれば、
ヴァイオリンパートは、
この楽器の特徴を引き出したものではなく、
ピアノパートと調和させるのが難しい。
しかし、レーガーはそれを認識しており、
それについて書いたものを見つけることもできる。
また、レーガーには、作曲家、解釈者としての、
二つのプライドを持っていた。
過去の作品との関係はさておき、
ここには、受け入れがたい方向に働く、
レーガー自身の典型的な音楽語法がある。
表出力強く、断固たるもので、内気かつ厳粛、
形式の点では、主題が脈絡なく展開される。
私たちが記憶すべきは、
レーガーの作品が、ソナタ形式の室内楽で始まったことで、
彼の同時代者であれば、時代遅れとして笑ったであろう、
ジャンルであり内容であったが、
彼はここに新しい苦労して手に入れた新しい次元と音楽内容が、
開かれたのである。
そして、これは、彼が生きた時代において、
彼を本物の例外として位置づけるものであった。」

何だか、だまされたような解説である。
演奏が難しいのは分かるが、聴く方には関係がない。
どのように聴くべきかは、何も解説されていないではないか。

ただでさえ、曖昧模糊としたレーガーである。
ここはこうだっと、言って欲しいが楽章ごとの記述すらない。
全体は27分で、第一楽章が10分、第三楽章が7分で長いが、
あとは、4~5分と簡潔である。
終楽章は、とにかく焦燥感をみなぎらせたアレグロ・アパッショナート。
レーガー特有の同じ所を旋回するような曲想も、
ここでは、若い火照りの中で、つむじ風のように通り過ぎて行く。
恐ろしく、ものものしいエンディングである。
これは効果があがりそうで、もっと演奏会で取り上げてもよさそう。

得られた事:「レーガーは、作風は晦渋ながらも、恐ろしく魅力的な鍵盤楽器奏者であり、それもあってか、良い演奏家仲間に恵まれ、生前から欧州各地で広く演奏された。」
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by franz310 | 2008-06-14 22:59 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その126

b0083728_1211222.jpg個人的体験:
前回、画家のベックリンが描いた
絵画作品をあしらったCDを
二枚紹介したが、
この人は、世紀末のドイツで
大変もてはやされたという記述が
印象に残った。
ただし、この画家、日本では、
まとまった画集が出た記憶もなく、
時折、レコード、CDの表紙になって、
その方面の方が、
あるいは、知名度が高いかもしれない。

それに加えて、何と、「ベックリン交響曲」なる作品もあって、
STERLINGというレーベルから出ている。

作曲したのはフーバー。
スイス音楽界の重鎮で、最も成功した作曲家だったらしい。
1852年生まれなので、チャイコフスキーとマーラーの、
間に挟まった世代である。

「フーバーは、自ら、ブルジョワの音楽家と考えており、
北方ドイツから来た重厚なロマン主義に、
南方の明るさ、快活さや官能性を混ぜ合わせている。
シューマン、ヴァーグナー、ブラームスの道を参考にしながら、
R・シュトラウスやドビュッシーにも影響を受けている。
彼はシューマンとその詩、自然と共にある音楽観、
つまり世界観を理想としていた。
その伝記作者、Edgar Refardtとの1898年の会話の中で、
彼はメンデルスゾーンのような古典を日々の糧と形容し、
シューマンは砂糖をかけた果物と表現した。
このようにフーバーは、世紀の変わり目のスイス音楽界の代表となり、
その作品は、8つの交響曲、ピアノとヴァイオリンの各協奏曲、
5つの歌劇、宗教曲、室内楽、ピアノ曲、
合唱曲や沢山の歌曲などを含む。」

「フーバーの作品にアカデミックな厳格さを求めてはならず、
初期においては批評家たちを苦しめた、
詩的で自発的な自然さがその音楽を支配している。
彼の感情の頻繁に変化する嵐のような生々しさが、
こうした因習的な嗜好にとってはあまりにもモダンで、
衝動的に見えたのである。
彼のスイスに対する結びつきは強く、
故郷やその自然に対する愛情は、
テル、ベックリン、スイス交響曲や、
ルツェルン湖のレントラーのような作品のテーマとして描かれた。
フーバーは、19世紀を通じて男声合唱ばかりが書かれていた、
スイスの音楽やその歴史に対する果断な変革者であった。
典型的にスイス的なものとは、言葉で表すよりも、むしろ、
エモーショナルなものだが、Karl Nefはそれを、
和音を鳴り響かせることと表現し、アルペンホルンなどの響きを例にした。」

このような人物、フーバーはしかし、
非常に自己批判の厳しい人だったようで、
厳しい出版前の審査によって、
20ばかりの作品が残っただけだと言う。

彼は書簡で、こう書いているらしい。
「芸術作品を創造するには、知性より心情が必要です。
人生もまた偉大な芸術作品であって、
それゆえに私もまた知性よりも心情を大切にしてきましたが、
がっかりしたでしょうか。
芸術は永遠の若さを持ちますが、芸術家もまた、
永遠の若さの中にあるのです。」

解説では、ここで収録作品の紹介に入るのだが、
非常に怪しい記述があるので後回しにする。

その後、フーバーの生い立ちの話になるが、
よく書いてあり、このCDでフーバーを復活させようという、
高い志を買った。
Hansjorg Lengerという人の執筆で、英訳はAbdrew Bernettとある。

「作曲家の父、ヨーハン・フーバー(1817-1902)は、
Eppenbergの教師として働いていて、1854年からは、
事業を営み、Schonenwerdの教会の合唱指揮者をしていた。
彼は小柄で物静か、生真面目で、
柔らかく親しみやすい物腰の人物で、
思慮深い話しぶりであったが、
母親のマーリエ(1818-1904)は、
反対に大柄で、堂々とした快活な人で、
魅力的な眼と話しぶりであった。
1852年7月28日に二人には息子、ヨハンが生まれ、
Shonenwertの魅力的な受禄聖職者用の修道院の中の家で、
手厚く保護されて成長した。
最初のピアノと音楽のレッスンを父親から受けた後、
7歳のヨハンは、Aarau合唱団の指揮者で、
後にNeuenburgの音楽監督となった、
Eduard Munzingerの下での勉強を始めた。
3年後、フーバーは、St.Ursの神学校で学びはじめたが、
ここでは、裕福ではない家庭からの才能ある少年たちが、
声変わりするまで、特に宗教音楽の音楽教育を受けられるのだった。
10人の少年が日課で3回、礼拝のために歌うのだが、
彼らは神学校で、後にベルンの音楽監督となる、
Carl Munzingerから、ピアノと音楽基礎の教育を
受けることができた。
フーバーはピアノ熱中し、すぐにベートーヴェンの『悲愴ソナタ』、
出版されたばかりのブラームスの『パガニーニ』変奏曲、
リスト編曲のヴァーグナーの『タンホイザー』を弾くようになった。
この学校を卒業するまでに、
教会の礼拝のためのオルガン奏者になるよう求められていたが、
彼はまた、男声合唱団に入ってその伴奏を務めていた。
父親とこの学校の僧正は、教会音楽家の修行をすることを望んだが、
ヨハンはCarl Munzingerの勧めもあって、
自由な音楽家の道を選ぶべく、1870年、ライプチヒ音楽院に向かった。
彼はピアノと室内楽、作曲や合唱を、
カール・ライネッケ(1824-1910、ゲヴァントハウスの監督)に学び、
エルンスト・フリードリヒ・リヒター
(1808-1879トマス教会カントール)に音楽理論を、
オスカー・パウル博士(1836-1898)に音楽史を学んだ。
ピアノはRobert PapperitzとErnst Ferdinand Wenzel
(クララ・シューマンの父、ヴィークの優れた弟子)についた。
まだ、学生の頃からフーバーは(流行りからハンスと名乗り)、
未完成の変ホ長調交響曲を含む、
現在はほとんどが失われた様々な音楽を書いていた。
変ロ長調のヴァイオリン・ソナタは1872年5月15日に、
ゲヴァントハウスで演奏され、教授連に賞賛された。
彼は引き続き室内楽を書き、1873年には、
ピアノと管弦楽のための小協奏曲を書き、
これは1874年5月19日に、彼の卒業試験として提出された。」
なんだか、それほど重要とも思えない作品の初演日まで列挙されると、
だんだん、嫌気がさしてくるが、興味がある人には貴重な研究用資料になろう。
そこまで、フーバーに惚れ込んだ解説になっている。

「彼のメンデルスゾーン、シューマンに連なる保守的な立場に対し、
ライネッケは、もっと先を行くよう激励し、
リストやヴァーグナーに、直ちにもっと影響されるようになった。
1872年、ライネッケは、このように批判した。
『フーバーが大規模な作品で成功できないのは、
その技量の限界のみならず、
そのバランスを欠いた傾向にある』。
後に有名な音楽学者となるHugo Riemann(1849-1919)、
Otto Klauwell(1851-1917)らの友人らと、
フーバーは、伝統的音楽とモダンな音楽の両方に魅了されるようになった。」
おっと、このリーマンというのは、
レーガーにバッハやブラームスを叩き込んだ人ではないか。
フーバーとレーガーにはこんな繋がりもあったのか。

この後、フーバーはいろいろな成功を、
ピアニスト、指揮者として収めるが、
音楽学校のポストなどを蹴り、
指揮者になりたいと考える。
ライネッケは彼をもっとも優秀な生徒と考え、
Wenzelはそのピアノ技量を学生の域を超えているとした。

さらに、早くから、自作を聴くことを好まない性分も明らかになった。
1870年代の彼のことが、延々数十行以上続くので、
だんだんいらいらしてきた。
この人は1852年の生まれで、
レーガーより長生きして1921年まで生存していたのに、
20代の話からさっぱり先に進まない。

オルガン奏者や個人教授などをしながら作曲も続けたが、
「力強い流れ」や「音色や強いられない自然さ」
「詩的で高貴、深い感情」、「個性的な道の発見」
などを賞賛される一方で、
バーゼルの音楽学校の校長からは、
「和音は聞きづらく、自然主義が支配していて、
才能はあるかもしれないが、不協和音だらけである」
と酷評された。

かなりすっとばしたが、次のように、まだ、1870年代の話が続いている。
「1874年12月、
バーゼルでシューマンの『コンツェルトシュティック作品92』
を演奏した後、
フーバーは、ここで、作曲家の道を歩むべく、
1877年、この街に引っ越した。」
それから、August Walter(1821-96)に師事して、
ピアノ協奏曲第一番作品36を1878年に作曲。

ずっとはしょったが、
まだ、26歳の頃の話が続いている。疲れた。

あと44年の話は、1ページで語られるようだ。
1880年にヴァイオリン協奏曲作品40を書いた。
とあって、ようやく80年代の話になるが、
まだ20代である。
同じ年、彼は、バーゼルの有名な歌手、Ida Potzondと結婚した。

1881年、「テル交響曲」(ウィリアム・テルであろう)作品63を書き、
リストに賞賛され、有名になって、ライプチヒからも新作の委嘱が来る。
アルザス地方とも関係ができる。

アルザスといえば、ドイツとフランスの係争地帯であるが、
どうやら、ドイツ系にどっぷりという感じのフーバーは、
フランスとの関係もありそうだ。

そんなこんなで、バーゼルの彼の個人教授の弟子は増え続け、
音楽大学ができる。
1992年、ゴットフリート・ケラーの原作による、
「Schweizer Festspiel zur Kleinbasler Gedenkfeier」の作曲によって、
その人気は一段と高まり、
1901年の二番目の野外劇、「1501年バーゼルのスイス参加記念祭」
によって国民的英雄となった。
そして新音楽監督となり、スイス人だけでなく、多くの後進も育成した。
ブラームスやブゾーニが頻繁に訪れ、
ダルベール、R・シュトラウス、フィッツナー、レーガーなどと交遊し、
1920年にはサン=サーンスがナイトに推薦した。

ここでも、唐突にフランスの作曲家の名前が出る。
強力なドイツ音楽からの独立という点で、
何らかの親近感があったかもしれない。

しかし、1918年には重い糖尿病でリタイアし、
Locarnoで治療に専念、ここでは主に教会音楽が書かれたが、
肺炎の悪化で1921年に死去、Vitznauに葬られた。

ということで、こんな生涯を送った人の、
「ベックリン交響曲」で、解説にはこうある。

「1897年、バーゼルはそこで生まれた有名な画家、
アーノルト・ベックリン(1827-1901)の70歳を記念して、
大きな展覧会を催し、ベックリンメダルとベックリンストリートで祝った。
1897年10月23日からは、
これまたこの市で有名な作曲家、ピアニストで指揮者、
音楽院長でもあるハンス・フーバー博士によって、
ベックリンの絵画に霊感を受けた野外劇が催された。
展覧会は、『Sieh’,es lacht die Au』、『プロメテウス』、
『愛の春』など、ダルムシュタッドのマキシミリアン男爵のコレクションにより、
85点の展示物からなった。」

ということで、シューベルトの「プロメテウス」から脱線して来て、
ここで一応、ここでまた、「プロメテウス」が登場して、
何となく、まとまりがついて安心した。

「健康を害し、その配慮からベックリンは1892年から、
フィレンツェに住んでいたが、
息子のカルロと兄弟のヴェルナーをこの祝祭に、
代表として参加させた。
シュナイダーによると、ベックリンは、
音楽精神の画家であって、特に、
ベートーヴェン、シューベルト、バッハ、モーツァルトを好んでいた。
また、グルックの『精霊の踊り』を自身で弾いて、
感動して涙を流すほどだった。
ショパンとヴァーグナーは嫌いで、
バイロイトの『パルシファル』のステージデザインを拒絶している。
ベックリンの絵画の多くが、音楽に霊感を与えており、
交響詩『死者の国』を書いたワインガルトナーを別にしても、
多くの絵画が書かれ、レーガーの『4つの音詩』、ラフマニノフの『死の島』が、
レパートリーに残っている。
彼の同時代のCorinth、Thoma、フォイエルバッハと同様、
彼の絵画への興味も長続きしなかった。
彼らは、後期ロマン派の作曲家同様、
印象主義によって忘れ去られた。
それはまるで、世紀末の多産が消化しきれなかったようなものだ。
幸い、こうしたものが広く人々に再発見されつつある。
ハンス・フーバーもまた、再発見を待っており、
彼はベックリンを尊敬し、多くの絵画を賞賛していた。
1897年のベックリン祭とその展覧会に魅せられて、
彼の第二交響曲ホ短調が作曲された。
オリジナル版は、1898年の3月20日に登場し、
ヴァーグナーのパルシファル第三幕の『聖金曜日の音楽』の、
引用を含む。
(パルシファルがクンドリーに、
『あなたの涙も恵みの露となったのです。
あなたは泣いている。
ご覧なさい!
野原は微笑んでいるのです』という。)」

非常にややこしい。
この「ご覧なさい!野原は微笑んでいるのです」は、
前述のベックリン展に出た、『Sieh’,es lacht die Au』のことである。
しかも、この絵画が、このCDの表紙になっている。
ベックリンはヴァーグナーが嫌いで、
「パルシファル」のステージ画も断ったのではなかったか?
しかも、フーバーは、ヴァーグナーのファンときている。
ベックリンは、こんな曲を書かれて嬉しかったとは思えない。

この絵画、無垢の少女が、吟遊詩人か何かに、
花びらのようなものをかざしているようだが、
いったい、何なのだろう。
ベックリンの絵画は、この思わせぶりが魅力であるとはいえ、
何やら背景もありそうで、滅多なことは言えない。
が、ヴァーグナーの楽劇で、パルシファルが語る、
「草原が今日はなんと美しく見えることでしょう。
私はかつて不思議な花に出会い、
その花は情欲をもって我が頭にまといついたが、
このようにやさしい茎や花は
私は見たことがないのです。
すべてが無邪気にやさしく匂い、
親しげに私に語りかけます」
という情景だろうか。
左半分が暗くて、よく見えない。

解説に戻ると、
「各楽章は、
1. 春の目覚め
2. 輪舞(ベックリンの好きな『精霊の踊り』から)
3. 春と愛
4. 終曲、ベックリンの絵画による変容
という副題があった。
が、最初のリハーサルで、フーバーはこれを撤回、
改訂に入った。全体のタイトルも各楽章のタイトルも削除、
第一楽章のゆっくりした序奏も取っ払ってしまった。
中間部をのぞき、第二楽章も書き直し、
終楽章の3つの部分も消してしまった。
この交響曲はフーバーの友人、
フリードリヒ・へーガー(1841-1927)の指揮で、
1900年、6月2日にチューリヒで初演されたが、
これは、第一回スイス作曲家フェスティバルの、
勝利のクライマックスとなった。」

紆余曲折があったようで、さすが、自己批判の人。
単なる流行便乗男ではなかったようだ。

「たちまち、この作品は『ベックリン交響曲』として、
知られるようになり、
ドイツでもミュンヘンでワインガルトナーが、
ニキシュがベルリン・フィルを振って成功させ、
R・シュトラウスやF・シュタインバッハらも演奏して、
多くの機会に演奏されるようになった。」

ベックリンの死の前年であるが、いったい、画家は何と思ったのだろう。
また、1900年という年は、どう考えればいいだろう。
ブルックナー、ブラームス、チャイコフスキーは亡くなっており、
ドヴォルザークは活動を終え、
マーラー、シベリウス、ニールセンが台頭してきた時代。
が、フランスの巨匠たちの黄金期、
フランク、サン=サーンスはもとより、
ダンディ、ショーソン、デュカスらの傑作群から比べても遅い。
しかし、エルガーよりは早い。

ということで、様式が時代遅れと言っても10年くらいかもしれない。

「燃え立つようなファンファーレの動機で、
ホルンが第一楽章を開始するが、
(どの楽章もホルンで開始される)
これは交響曲のメインテーマ(ベックリン動機)に引き継がれ、
これはまずヴィオラで奏され、
アルペンホルンの呼び声のように、
この作品全体に行き渡る。
これは何度も何度も繰り返され、
オーケストラの各楽器に受け継がれて、
他の動機とも組み合わされる。
色彩的で雰囲気豊かな展開のあと、
穏やかなコーダが続く。」
ということで、この楽章、撤回されたものの、
当初、「春の目覚め」と題されていたというが、
もっと、激しい音楽。「春」というより、
燃えさかる夏のような楽章に聞こえる。

木管による第二主題も夕暮れ時の情感を忍ばせて、
非常に美しい。
私は、先ほどからフランスにこだわったが、
ラロやダンディ、あるいはデュカスの交響曲と共通する真摯さと、
詩情を感じる。
この作曲家たちの作品も滅多に演奏されないが、
フランクやサン=サーンスの交響曲などは演奏回数を半減させてもいいから、
このフーバー作品を含め、ラロやダンディ(特に「第二」)、デュカスは、
もっと、演奏されるべきではなかろうか。

この切羽詰まったような力強い表現や色彩感は、特に晩年のラロを思わせ、
モニュメンタルな広がりや、伸びやかな詩情ではデュカスを思わせる。
全曲42分のそこそこの大作で、第一楽章は12分。

「マイルドな」と表現されたコーダは、
ティンパニの連打の中に、日没の静寂が訪れる雰囲気でこれまた美しい。

第二楽章は粗野なコーダで、これまた聴き応えある、
野趣あふれる楽章で、当初の「精霊の踊り」などではなく、
「ワルプルギスの夜」さながらである。

今回、私が怪しい一文を見いだしたのもこの部分で、
解説にはこんなことが書いてある。
理解が間違っていたら教えてほしい。

「第二楽章のスケルツォは、野性的なバッカスの祭典の狂気の音楽で、
活力にあふれたディオニソス的な音楽である。
ここではベックリン動機は、中間部にみだらで粗野な性格で現れる。
本当かどうか分からないが、ベックリン自身の官能性、
チューリヒにおけるゴットフリート・ケラーとの、
酔っぱらった会合がこの楽章のインスピレーションになったという事を、
聞き手に想起させる。」

いったい、この「well-libricated」なミーティングとは何か。
なぜ、急に、ここで、唐突に小説家、詩人のG・ケラーが出てくるのだろうか。
この有名な画家と文学者はチューリヒで何をやっていたのか。
音楽愛好家にも、ディーリアスのオペラで知られる、
ケラーは、調べて見ると、1819年の生まれ、
ベックリンとは10歳と離れていない。

第三楽章は、当初、「春と愛」と題されたというが、
これはその名残を感じる。
まるで、蜃気楼の中のような神秘的なアダージョで、
水彩で描かれたような、一幅の音画となっている。
いまいち、全体の構成感はわかりにくいが、
時折、ヴァイオリン独奏やハープの音色がきらめく。
雲の流れのようなものも見えるようである。
だんだん音楽は盛り上がって、スイスの雄大な眺望を空想しても良さそうだ。
これを聴くと、このCDの表紙に、
「A Great Discovery!!」と書かれ、
「ROMANTIKER SUISSE」と特筆してあるのも理解できる。

「第三楽章で、クラリネットが夢見るような聖歌
聖金曜日の音楽の春の雰囲気を思い出させる。」
こう書くと身も蓋もないが、確かにヴァーグナーの、
「パルシファル」の聖金曜日の音楽の雰囲気といえば、
内容は予想できる。
これまで書かれた内容から察するに、
ここで、CDの表紙のデザインを見て、思いを馳せるべきなのか。
しかし、この絵画、春にしては、
木々は茶色、吟遊詩人の足下も茶色。
微妙。よく分からない。
少女は、秋の紅葉を差し出しているようにも見える。

さて、いよいよ、直接的にベックリン的な最終楽章。
ベックリンの絵画による「変容」って何なんだ。
どっひゃー、第四楽章の冒頭は壮大なオルガン付き。
「カラフルな第四楽章は英雄的で聖典のような、
序奏がソロ・クラリネットの『ベックリン動機』に先立つ。
ベックリンが、展覧会で、
彼の絵画の前を見ながら歩いているような感じを受ける。」
ということで、スイス版「展覧会の絵」も兼ねているわけである。
ここでのクラリネット独奏によるベックリン動機を聞くと、
確かにアルペンホルンのような印象を受ける。

「変容、むしろ性格的変奏曲は、
各絵画の内容の描写ではなく、
それらを見ながら芸術家の感情が変化していく様を表している。
絵画を見て行くうちに、
静けさや激しさの間を変化し、
『海の静けさ』から、『バッカナール』の急速なワルツに至るまで、
絶え間ない増強がなされ、驚異的な神格化がなされていく。
この変容は、各変奏にトラックがついていて、
とても親切で助かる。
「海の静けさ」:不気味な沈黙である。37秒。
「プロメテウス」:この部分も48秒しかないが、
私の印象では、鷲が飛来し、プロメテウスの肝臓をついばむ感じ。
本当にベックリンの絵画がその場面かどうかは未確認。
「ニンフ」:2本のフルートとハープが牧歌的。1分22秒。
「夜」:幅広いチェロの音が広がって、夜の雰囲気たっぷり。1分33秒。
「波の戯れ」:木管が旋回して、神秘的な音楽。1分31秒。
「ヴァイオリンを弾く隠者」:ヴァイオリンとオルガンの独奏で大変美しい。
これはレーガーもテーマにしていたが、美しさでフーバーの勝ち。
1分46秒。
「死者の国」:スケルツォ的な軽妙な動きで楽しげだが、どんな絵だ?
59秒。
最後は、「愛の春」(55秒)と、
「バッカナール」で、壮大な光景が現れ、
強引に視野が開かれる。

「ベックリンの英雄的な人となりと作品が、
交響曲の両端楽章の導入部に反映されている。」
とあるが、
確かに、随所に、非常に剛毅。
不屈の独立国スイスの精神を思わせる。
特に、「愛の春」のあたりは、オルガンも鳴り響きすごい迫力。
これが、最後の軽妙な「バッカナール」に続くが、これは、
3分以上もかけて、快活なクライマックスへと盛り上がって行く。
レーガーの「ベックリンの音詩」でも最終楽章はバッカナールであった。

オルガンが壮大に鳴り響く、
スペクタクル超大作は、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」を、
サン=サーンスの「オルガン交響曲」風味に仕上げたものにも見える。
これは実演で聴くと盛り上がりそうだ。
行け行けフーバー!
という感じ。
とても聴き応えがあり、変化に富んだ楽しい作品であった。
単に、流行便乗型のお祭り人間かと思ったフーバーであったが、
この作品には、とても、共感できるものがある。

見てきたように解説もよく、絵画をあしらった表紙も、
作品に関係していて、美しくかつ参考になる。

が、作曲家は、例の自己批判癖が出たのか、
「これはベックリンとは無関係に、
単にホ短調交響曲として聴いて欲しい」と言っているらしい。
確かに、ベックリンを知らずとも、十分魅力的な作品と見た。

この曲の他、このCDには、より明るく快活な、
「交響的序奏」と「コメディー序曲作品50」が収められているが、
力尽きたので、ここで終了。

得られた事:「スイスの作曲家フーバーの『ベックリン交響曲』では、知られざる作曲家再発見の喜びを感じた。」
その2:「スイスの画家、ベックリンはシューベルトも好きだったようだが、それに関係する絵画はないのだろうか。」
「ベックリンは音楽愛好家には有名だが、まだまだ日本では未知の画家である。」
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by franz310 | 2008-06-08 12:11 | 音楽