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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その103

b0083728_2318560.jpg個人的経験:
前回、ヤノヴィッツの、
ザルツブルク音楽祭での
実況CDについて
取り上げたが、
彼女が、
プログラムの最後に
置いたのが、
20分を要する大作、
「孤独」であった。

これは、シューベルトが作曲当時、自身の最高傑作と呼んだものだが、
後世の人は、それをシューベルトの判断力の欠如の証拠とした。
しかし、フィッシャー=ディースカウなどは、
そうではない、と弁護している。
この100行もの詩を書いたのは、
シューベルトの友人のマイヤーホーファーで、
全体は六つの祈りからなっている。

1.まず、「孤独をお与え下さい」で、ここでは、
谷間の修道院でも、若者の情熱は治まらないと歌われる。
音楽も、前半の静謐な情感から、激しい奔流があふれ出る。

2.次に、「行動をお与え下さい」が続くが、ここでは、
仮面舞踏会や芝居の楽しみが、戸外の緑や牧場に対比される。

3.「友情の幸福をお与え下さい」では、
友人とのひと時の平和、彼が去った時の「憧れの苦しみ」が歌われる。

4.「幸福をたっぷりとお与え下さい」では、
愛する女性との散歩という叙情的な風景に、
何故か、戦いのさなかに馬を走らせるという情景が、
不自然に配置され、勇壮なファンファーレが鳴り響く。

5.「暗黒をたっぷりお与え下さい」では、
先の状況の続きであろうか、
戦場の陰惨な光景に、「残忍な兄弟殺し」を見て、
森での生活の憧れが歌われる。

6.最後は、「孤独の祝福をお与え下さい」で、
断崖と渓谷において、ようやく、
老人が手にした孤独の幸福が歌われる。

このように、人生の情景が、様々な象徴的シーンを交えて、
説明的に描写されるが、シューベルトはこうした物語に、
柔軟に、かつ適切な音楽を付けている。

とはいえ、最高傑作とは思えない。

曲の構成上、何となく、意思的、恣意的な響きが充満して、
想像力の自由な飛翔より、何だか堅苦しい音楽に聞こえる。
非常に肩肘の張った音楽である。

などと考えながら、
例のハイペリオンのシューベルト歌曲全集では、
何と、この作品、29巻の1819年と、
1820年のシューベルトを扱ったCDに併録されている。
この作品、1818年の作曲であり、
このCDに含まれる資格は、本来ならないのである。

しかも、このCD、
メゾのリポブシェクが歌った歌が集められているのに、
この曲だけが、バリトンのNathan Bergによって歌われている。

これはいったい、どうしたことだろうか。

ということで、そうこう考えながら、
「ます」の五重奏曲が書かれたとされる、
1819年のシューベルトについて調べつつ、
シュレーゲル歌曲が書かれた頃の事も学ぶことが出来、
なおかつ、この問題作を味わうことが出来るというのが、
このCDのお得なところである。

さて、このCDの解説を読んでびっくりした。
この「孤独」という歌曲は、
ベートーヴェンに対抗して書かれた作品であるという説が、
紹介されていたからである。
そして、私が感じた、何だか意思的で柔軟性に欠ける感じは、
当然であると読める内容になっている。
手短に言うと、この作品は、ベートーヴェンが放った、
画期的な歌曲集「遥かな恋人に寄す」に照準を合わせ、
それよりも長大で、全曲をさらに緊密な構成力で締め上げた、
対抗的秘密兵器、実験的声楽作品であるということなのである。

ついでに、この曲が、何故、このCDに収められたかも、
この解説では、釈明した形になっている。
グレアム・ジョンソンは、この曲の解説でこう書いている。

「この長大で重要な歌曲は、
1818年に最初に日の目を見たが、
作曲家は、これを何年もかけて改良した。
明確な自筆のコピーは1822年のものであって、
これは、1818年から22年のいずれかの時期に、
いくつかの修正と書き直しが行われたものから、
作られたものであろう。
この『孤独』を、年代分類で、1819年から、
1820年の一連の歌曲に収めることには、
こうした理由からである。
この作品は、
作曲家の『哲学的な側面』に属する多くの歌曲の中で、
最初の、しかもおそらく最も重要なものの一つであろう。
これは、シューベルトの偉大な作品の大部分が、
哲学的な側面を持っていない、ということを言っているのではない。
彼は、彼らしい方法であれ、生涯にわたって深く考える人であった。
しかし、1818年から1820年の間、
多くの人が強調するように、
彼は、同時代の詩を取り上げて歌曲の領域を拡大し、
物語的な興奮や、旋律的な美しさ以外を狙い、
簡単に言えば、単なる音楽的娯楽を超えるものを意図した。
特にシュレーゲル歌曲集では、
何か信条表明のようなものに聞こえ、
作曲家の汎神論への共感を強調し、
自然の働きを通じて、
精神の世界を垣間見るようなものとなっている。
ロマンティシズムが、これらの時代にヴィーンを支配すると、
芸術家にとって、露骨に、想像的な個性として、
『私』をさらし出すことが、ほとんど決まり文句となっていた。
『孤独』のテキストにおける二番目の単語は、『mir』であって、
マイヤーホーファーは、
『私に、孤独をたっぷりお与え下さい』と書いたが、
シューベルトは、音楽も『mir』も、自分を表わすものとして作曲をした。
20歳代初めにあって、彼は、
考える人としての自分を主張し、
世界を構成しようとする詩との一体化の自信や、
必要性を持っていた。
それは、より素晴らしい所ではないかもしれないが、
詩や音楽によって、解釈され、豊かにされる神秘の場所なのである。
1818年、シューベルトは、ツェリスにおける、
エステルハーツィ侯爵令嬢たちの音楽教師として招かれた。
多くの本や紙束と一緒に、彼が、5ヶ月にもわたる長い逗留のために、
持って行ったものの中に、おそらく、まだ草稿であった、
マイヤーホーファーの長編詩があったのだろう。
これは、古代詩の様式で、
6つの応答を有する6つの連からなるものであった。
(ハンガリー訪問中のシューベルトに、詩が送られた可能性もあるが、
シューベルトとマイヤーホーファーの間の書簡には、
この委託への言及はなく、
この仮設は違うと考えられる。)
8月の初めに、シューベルトは友人たちに、
作品の完了を誇らしげに報告することが出来た。
彼に親しいみんなが、このプロジェクトに、
彼が携わっていたことを知っていたようだ。
作曲家の手紙は、次のように始まる。
『ツェリス、1818年8月3日。
最高にして親愛なる友人たちに。
僕がどうして、僕の全てである君たちを忘れることが出来よう。
シュパウン、ショーバー、マイヤーホーファー、ゼン、ご機嫌いかが。
元気ですか。僕の方は順調です。
僕は生きており、すっかり専念して神のように作曲している。
マイヤーホーファーの『孤独』は出来ている。
それに熱中し、
それは僕の仕事の中で最高のものになったと信じている。』
シューベルトはあらゆる点で、
この作品を誇りにする権利を持っていたが、
彼のベストという彼の確信については、
彼が何度も改訂を試み、その完成においても、
完全に満足できなかったという事実を離れても、説明の余地がある。」

ここから、先に書き出した、
ベートーヴェンとの関係についてが書かれている。
「1816年、ベートーヴェンの『遥かな恋人に寄す』の出版は、
おそらく間違いなく、彼を魅了し、発奮させた。
先輩作曲家たちがあまり関心を示さなかった領域を開拓し、
歌曲作曲家として、シューベルトが独自の地位を確立したと考えていた、
ちょうどその時に、ベートーヴェンは、
驚嘆すべき成功した歌曲集を携えて現れた。
それらは6曲が連続した作品のように繋げられ、それぞれ単独では、
成し遂げられなかった累積的な効果を持つものであった。
ベートーヴェンは音楽形式の革新者として知られ、
この作品は、だれかが求めるならば、
彼がいつでも巨大さを発揮しうるという証となった。
もちろん、このように小品をつなげたことはないが、
『遥かな恋人に寄す』よりも長大なバラードを、
いくつも書いていたシューベルトは、
これを挑戦と受け止めたかもしれない。
おそらく、これが、シューベルトがマイヤーホーファーに、
ある特別な目的のための詩を依頼した理由であると考えられる。
こうして、『孤独』は、
ベートーヴェンの概略設計通り6つの部分からなっており、
シューベルトは、これの作曲を夏の課題として
ハンガリーに持って行くこととなった。
ベートーヴェンが、恋人を熱望する詩の作曲によって、
年配層から注目されたがゆえに、
シューベルトとマイヤーホーファーは、
まったく反対の視点から作品を選定した。
それは、社会的交際を離れ、『孤独』の主人公は孤独を求める。
従って、これら二つの歌曲集は、ほとんど近接した時期に書かれながら、
全く異なった時代精神を代表することとなった。
ベートーヴェンの場合は、
ロマン派の灼熱を帯びた古典主義であり、
シューベルトの場合は、
古典のモデルに鍛えられたロマン主義なのである。
これら二人の詩人はともにヴィーンの同時代人であり、
ベートーヴェンは、
より保守的なジャーナリストのヤイテレスの作品に基づく。
この人は、むしろ、詩人としてよりも、
ユダヤ教の業務の専門家として知られている。」
Jewish affairsというのは何だろうか。
一般的には、このヤイテレスは、献身的な医者として、
紹介されることが多いようだが。

「シューベルトは、年配の同僚よりも、
ドイツからの最新の思想や著述にずっと詳しく、
彼の詩人、マイヤーホーファーは、
異常に近代的で、比較的左派でもあった。
『遥かなる恋人に寄す』を規模の点で出し抜く、別な試みもあった。
『孤独』は、ベートーヴェンの曲集より長大で、
人生を概観する、
『Seven Ages of Man』のようなものを創造しようとしていた。
こうした曲集を完成させる時のシューベルトの喜びは十分に理解できる。
彼は、歌曲作曲における再前衛に確実に躍り出た。
彼が今まで書いたものとは全く異なり、
作品は最新のものであったがゆえに、
彼はベストだと思ったのである。
彼は生涯にわたって、
昔の作品より、最新のものを好む傾向があった。
曲の最初から、我々はこれが通常のものではないと気付く。
オペラの設備を一切必要としない劇場に足を踏み入れ、
作曲家自身が案内し、指揮する、活動的な舞台の音を、
この歌曲に聞き取ることだろう。
事実、家庭内での音楽こそが、もっと経済的な方法で、
シューベルトの劇的な天才を、我々によりよく感じさせる。
それは、モーツァルトや他のオペラ作曲家とは異なる点である。
若い頃から、プフェッフェルやシラー、
ベルトランドやケンナーの詩による、
ぞっとするようなバラードによって、
その兆候は若い頃から明らかであった。
しかし、これらはリートからは離れたものだった。
『孤独』は、この規模を持つもので最後のものとなったが、
ジョン・リードが指摘するように、最後のソロ・カンタータではなく、
むしろ、最初の歌曲集として考えるべきものである。」

この起伏に富んだ、
しかし、いささか、冒険的にすぎる大作は、
この解説にあるように、
その実験精神や野心の点では納得できても、
シューベルトらしい美観や、親密さから言うと、
聴衆の外側に立った作品と言えるような気がしている。

何度も繰り返し、私はこの作品を繰り返して聞いたが、
心に染みこんだ部分はあまり多くはない。
が、ベートーヴェンとの関係など、論考は非常に面白かった。

さて、隔絶した実験作『孤独』から離れ、
一連のシュレーゲル歌曲が書かれた年として、
1819年から1820年は、シューベルトにとって、
果たして、どんな時期だったのだろうか。

このCDには、この2年を概説した解説がついている。
一部、例外を除いて、この時期に書かれた曲が集められている。
シュレーゲルと並ぶ、ドイツ・ロマン派文学の巨星、
ノヴァーリスの詩への付曲も、しっかり、5曲収められている。

表紙のデザインは、リポブシェクがにっこり微笑んで、
真紅の口紅と背景のカーテンが調和し、
黒く渋いトーンから浮き出して鮮やかな印象を与える。
シューベルトの歌曲を表わすものではないかもしれないが、
そこそこしゃれた手がかかったデザインで、
人にあげても恥ずかしくない内容となっている。

とにかく、この充実した解説に書いてあることを、
まずは、読み進めてみよう。
「SCHUBERT IN 1819 AND 1820

このシリーズの21巻の導入部は、
1817年と1818年のシューベルトの生活をカバーした。
その記事の中で、1818年は、
『すべての分野がちょっとだけ掘られた年』
として表現した。
この年の夏、シューベルトは4.5ヶ月という長期間、
ハンガリーのツェリスで、
二人のエステルハーツィ家の
プリンセスの音楽の先生として過ごした。
この時期、そこで書かれた声楽曲のうち、
最も重要なものは、巨大なマイヤーホーファーの歌で、
『孤独』と題された声とピアノのための印象的なカンタータである。
そのほか『ブロンデルからマリア様』以外は、
1819年から1820年に書かれた歌曲を集めた、
今回のCDでは、この曲を中央パネルとして配置した。」

ということで、先の表題とは違って、一曲だけ例外がある。
この演奏時間20分となる大曲『孤独』は、
前回紹介したソプラノのヤノヴィッツ盤ではメインの曲目として、
最後に収録されていたが、問題作なのに、十分に紹介できなかった。
このハイペリオン盤の解説を読むと、単に長いだけでなく、
とても興味深い作品だと分かった。

面白いことに、このCD、メゾのリポブシェックが他の曲を歌っているのに、
この曲だけは、NATHAN BERGというバリトンが歌っていて、
まるで別の曲のように妙に重々しく聞こえる。
「孤独」という題の曲としては、これで良いのかもしれない。

いきなり、この曲だけの話になるには、惜しいほど、
先のノヴァーリスを初め、シュレーゲルの「森にて」や、
ウーラントの詩による名作「春の想い」などもあり、
このCDには興味深い作品が目白押しである。

さらに、先の解説も大部で、実は、この内容が強烈である。
シューベルトは、この2年に何と多くの体験をしたことであろうか。
ということで、まず、この解説を読み解いて行きたい。

「1818年の夏の終わりまでに、シューベルトは文明生活に戻ることを、
待ち望んでいた。自身の音楽の中では、自然に共鳴していたのに、
彼は心底、都会の住人なのであったし、
エステルハーツィ家の所領での延長期間は、
気晴らしや代償が少なく、友人たちとのひと時の代わりになるものもなかった。
11月19日、彼の死のちょうど10年前に、
彼はヴィーンに戻り、詩人のマイヤーホーファーのところに、
直接、転がり込んだ。
ツェリスに行く前に約束があったのか、
作曲家が不在の間に文通で決められたのかは、
知る由もない。
(9月18日に友人に手紙を書いた際には、マイヤーホーファーに、
特別メッセージを同封している。
『僕が11月を待ち焦がれるのは、
決して君がそうである以下ではあるまい』)。
いずれにせよ、
彼は協力者のために『孤独』を演奏したくてたまらなかったはずで、
これが残りのサークルのメンバーを
再び結びつけることと信じていたに違いない。」

「作曲家が、詩人とシェアしたシングルルームは、
ウィップリンガー通りにあって、1820年の終わり、
つまり、シューベルトが生涯で始めて
ひとり住まいした貸間に出て行くまで続いた。」
なるほど、1819-20の生活は、
1818年の晩秋から始まった、
マイヤーホーファーとの共同生活の日々として、
捉えなおすことが出来るということか。

だとすると、二人の共同事業の大きな成果である、
「孤独」を、ここに持ってきた理由も分からなくはない。

エリザベス・マッケイは、彼女の最近の著書、
『フランツ・シューベルト-生涯』の中で、
1818年の最後の時期、マイヤーホーファーは、
病気で金がなく(帝国書籍検閲官のポストにつく前だった)、
この処置は金銭的にも好ましかったと指摘している。
それにもかかわらず、特に狭く暗い一部屋に、
31歳の孤独好きな男が、10歳若い誰かと、
一つ屋根の下に住まなければならないというのは、
異常なことである。
マッケイが認めるように、
『こうしたキャンプのような状況下で、
こんなにも長い間、彼らがどうして、
比較的幸福に暮らすことが出来たのか、
想像することは困難である』。
しかし、彼ら二人の間には、
クリエイティブな魔法があった。
1829年、マイヤーホーファーの書いた言葉が明快である。
『家も部屋も古びていて、天井は落ちかけていたし、
反対側の建物で日の光もなく、使い古したピアノ、狭い本棚。
長らく一緒に過ごしたのは、そんな部屋だった。
それらは私の記憶から消すことはできない。』
同じ回想の中で、マイヤーホーファーは、
シューベルトの性格をこのように表わしている。
『優しさと粗野、みだらで誠実な、そして社交的で憂鬱なミックス品』。
シューベルトの死の翌年のマイヤーホーファーの言葉のトーンには、
作曲家と詩人の関係には、これまで思われていた以上の、
親密さや情熱的な何かがある。
もちろん、二人の落ちぶれた芸術家たちが、
あまり快適とは言えない小部屋で、
何をしていたかをもっと書くこともできたであろう。
二人は論議し、とりわけ金銭の苦境を体験したであろう
(どんな親密な関係であっても、
貧困が来れば崩れてしまうという事実からも明らかだが)が、
シューベルトが(6時から1時までの)朝の間に作曲をしたことが、
マイヤーホーファーの午後の仕事を
邪魔しなかったということは事実である。」
机か何かのシェアをしていたのだろうか。
不思議な生活である。

「これはラ・ボエームのような、財政的なストレスに強いられた、
単なる平等な分かち合いだったのかもしれない。
また、主に1817年に、
シューベルトによって書かれたテキストの多く、
『メムノン』や『ウラーニアの逃走』などが、
このペアがウィップリング通りに一緒に住んでいた頃に書かれた、
オペラの断片『アドラスト』と同様、
ホモセクシュアルな底流を持つもとに対する疑問が起こる。
詩人と作曲家が、1818年の終わり以前に、
情熱的な関係にあって、長い同棲の時代に先行し、
その同棲後には、解消されたと考えることも出来るであろう。
1821年までには、シューベルトは、あらゆる意味で、
進歩を必要としており、マイヤーホーファーの個人的な影響を脱し、
庇護者の保護や嫉妬から、
知的にも肉体的にも自由になることを欲していた。
おそらく、このフェーズの後で、彼は女性体験を必要とした。
そして、彼を駆り立てた自由こそが、
(マイヤーホーファーの代わりに、
作曲家の生涯に大きな位置を占めることとなる、
フランツ・フォン・ショーバーの影響も混ざり合って、)
1822年の終わりの彼の疾病の主な原因となる。」

「作曲家のヴィーン帰還を、もう一人の庇護者、
ヨーハン・フォーグルからの良い知らせが待っていた。
それは、ケルントナー劇場からオペラの依頼を計らっておいたものだった。
1818年から19年のシーズンに少なくとも8つの大役を計画していた、
ヴォーグルが主役の二人の双子の兄弟を演じるという、
『双子の兄弟』の作曲に繋がった。
作曲家のリブレットに関する保留にもかかわらず、
(それは、ゲオルグ・フォン・ホフマンによるフランス製の寄せ集めだった)
失敗するわけにはいかない重要な機会だったので、
シューベルトは意気高揚して着手し、
1819年の1月19日までには用意された。
信じがたいことに、数週間しかかからず、
作曲家は、1819年にすぐに演奏するつもりで、
疑いなく、この作品は迅速に出来上がっていた。
シューベルトはツェリスへの二度目の招待を断りさえして、
初夏のうちにでも、または、もっと前に興行に乗ると期待していた。
そうは問屋がおろさず、
結局、彼は、1820年の6月まで待たされることとなった。」

このように、オペラの仕事などもあって、
1818年の終わりくらいから、1820年までは、
シューベルトにとって、一連の流れの中になったように見える。

おそらく、1818年の冬は、初めてのオペラの事で、
頭がいっぱいだったはずであろうことが察せられる。
また、翌年の冬も同様に、気になって仕方がなかったかもしれない。

1819年の夏に依頼を受けて、その冬に、完成されたとされるのが、
「ます」の五重奏曲なのだが、彼は、この曲を書き進めながら、
オペラのことを案じていたのだろうか。
そうした、世俗的な煩いから隔絶されているのが、
この五重奏曲の魅力だと思っていたのだが。

「彼の音楽は、今、ヴィーンでは順調に聴かれるようになっていた。
1816年のカンタータ『プロメテウス』
(我々の時代が失った最も重要なシューベルト作品)
が、1月の早い時期に繰り返し演奏され、
『羊飼いの嘆きの歌』は、少なくとも3回、
別の機会に歌われている。
さらに序曲(恐らくホ短調、D648)が3月14日に演奏された。
シューベルトはアントン・フォン・ペッテンコファーの館において、
木曜の夜のオーケストラ・リハーサルにしばしば現れ、
4月6日のハイドンの『十字架上の7つの言葉』の演奏に参加した。
こうした機会を通じて、
彼の名前は市内に広く知られるようになっており、
重要な高位の人々や音楽化たちのサロンに、
彼の音楽が紹介されると、好ましい結果をもたらした。
5月のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーへの手紙には、
ロッシーニのオテロの上演について書いている。
ここで、シューベルトは、彼は最も明らかな、
イタリア音楽へのコメントを残している。
それに対する熱狂が、やがて、彼のオペラの進展に対し、
深刻な脅威となるのだが。
『君は(ロッシーニ)の異常な天才を否定することは出来ないよ。
時に、オーケストラの扱いは、最も独創的で、
そして声楽パートに関してもしばしばそうだ。
ただ、平凡なイタリア式gallopadesや、
いくつかのタンクレディの余韻を別にすれば。』」

しかし、これだけ、オペラのことで頭がいっぱいであるとすると、
あのシュレーゲル歌曲は、何時、登場するのであろうか。
まるで、出る幕がないように思えてきた。

とにかく、まずは、マイヤーホーファーとの蜜月と、
そこから生まれた意欲作、「孤独」について、
今回は知ることが出来た。

得られたこと:「1816年以降、シューベルトは、ベートーヴェンの存在を意識して、1818年には、友人たちと団結して秘密兵器を用意した。」
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by franz310 | 2007-12-31 23:18 | シューベルト | Comments(1)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その102

b0083728_2273333.jpg個人的経験:
ここしばらく、
シューベルトと、
その友人たちを、
夢中にさせたと
思われる、
ロマン派の詩人、
シュレーゲル兄弟
について、
取り上げて来た。


が、実は、ハイペリオンのCD解説にはまだまだあって、
グレアム・ジョンソンは、シュレーゲルと、
シューベルトの友人たちとの関係を、
まとめた記述も行っているのである。

しばらく読むと、ここにも怪しい話が出てきて驚いた。

「シューベルトのサークルを最もひきつけた、
(後にシューマンもひきつけた)
『ルシンデ』や『アテニウム断章』は、
あからさまな修正主義によって、シュレーゲル全集から削除された。
しかし、最も新しい文学上の展開の前線にでもいない限り、
シュレーゲルの心境の変化は知りうるべくもない。
とりわけ、リベラルで国際的なシンパシーを持った人物が、
いかにして、かくも堅苦しい人物になってしまったのかを、
どうすれば知ることが出来よう。
人は、詩人の初期の作品を読んでいた頃、
シューベルトがいかにシュレーゲルに会いたがっていたかを、
推測するのみである。
どうやって、そして何時、それが可能となったかは、
作曲家と詩人が結局会ったことがなかった、
という資料がないので、証明することは難しい。
しかし、多くのシューベルトの友人たちが、
シュレーゲルとコンタクトしていたかを、我々は知っている。
ロザムンデの作者、ヘルミーナ・フォン・シェジーは、
転向前のパリ時代の教え子の一人であったし、
マティアス・フォン・コリン、カロリーネ・ピヒラー、
クレイガー・フォン・ヤッケルッタは、シュレーゲルと、
一方的な、または双方的な交流を持っていた。
1876年のような遅い時期に、
フランツ・フォン・ショーバーは、
シューベルトのD732の『アリフォンゾとエストレッラ』の台本を、
褒めてくれたと言っている。」
何となく、ロマン派の文学と音楽には、相当の時期の隔たり、
場所の隔たりがあるように感じていたが、どうやら、
かなり近接した活動だったようだ。

「ある事実がある。
1827年までに、シューベルトの友人、ヨーハン・ゼンは、
フランツ・フォン・ブルッフマンに興奮した文通を行い、
改心したシュレーゲルを、いかさま師、ペテン師と、
はっきりと告発している。
これがシューベルトサークルの一般的な見方であって、
当然、後期のシューベルトのキャリアにおいて、
シュレーゲルはまったくいかなる役割も演じなくなってしまう。
1827年6月、ブルッフマンのジュリエッタ・フォン・ウェイローターとの、
不幸な結婚の場には参加していたシュレーゲルなのだが。」
気になるが、この不幸な結婚が何であるかは、書いていない。
他の資料には、息子の生後一ヶ月で、奥さんが亡くなったとある。

以下、最新のシューベルト研究の成果に触れる記述が頼もしく、
こうした部分が、このシリーズを価値あるものとしている。
「私たちは、傑出したシューベルト研究家、Susan Youensの教え子、
Lisa Feurzeigが、この領域の魅力的なリサーチ、
特にゼンとブルッフマンの間の激しく強烈な友情に関する研究を、
大々的に公開してくれたことに感謝したい。
これは全シューベルトサークルにおいて、重要な意味を持ち、
シュレーゲルのサークルに繋がる糸にも繋がっているのである。
Feurzeigも結論づけるようなリンクの証拠は持ち合わせていないが、
シューベルトがシュレーゲルと遭遇したが、
共感することはなかったという興味深い可能性は、
ほぼ確実なようである。
かつてはシューベルトのサークルで愛された、
複雑で繊細な青年、ブルッフマンは、
シュレーゲル自身の転向の影響を受け、
彼の昔の友人たちのライフスタイルを、
激しく拒絶したということである。
ブルッフマンが、
シュレーゲルの影響を受けていたことは疑うべくもなく、
『新しい異端者の時代の偉大な汎神論者』に対する
解毒剤のような、後期の彼の書き物
(それ自身シュレーゲルにインスパイアされた)は、
自虐的になったブルッフマンによれば、
友人たちのサークルには受け入れられなかった。
その論文において、Feurzeigは、
シュレーゲルの動物磁気のヒーリングパワーの処置の実施に関する
さらに興味深い情報を付け加えている。
これは、フロイトの治療法を余地させる、
その時代特有の現象である。」
NAXOS盤では、交霊術を行っていたシュレーゲルが、
このハイペリオン盤では、磁気治療の医者となっているのである。
いったい、どっちが本当なのだろう。
こっちの方が、研究者の名前付きなので、信用がおけるが、
あるいは、交霊しながら、動物磁気の火花を散らしたとも考えられる。
いずれにせよ、怪しい世界であることに違いはない。

「そして、シューベルトも、
ショーバーのガールフレンドの一人、
マリー・スミスという名前の女性を通して、
精神をわずらっていた彼女の治療に立ち会う形で、
こうしたことに参加していた可能性がある。
ジャスティーヌ・フォン・ブルッフマンと、
フランツ・ショーバーの関係の破局にも疑問がある。
後者は、ブルッフマンの友人であったが、
新しいカトリックの教義に照らして改宗者の目で見ると、
彼は悪魔の化身に見え、ブルッフマンは、何のためらいもなく、
無慈悲にもこの結婚をやめさせた。
こうした出来事の背景のどこかに、
フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの影があって、
ピリオドを打った宗教的反動の力を現す黒幕タイプで、
これは、気前のよい若者が、厳しい当局の要職についた時に起こる、
典型的な変化である。
ブルッフマンは、何かセクシャルな罪の意識を持っており、
(手紙で遠まわしに触れられているのは、
シューベルトのサークルに一定のモラルがあった証拠であろう。)
昔の友人たちの振る舞いに、
我慢できない一人よがりと押し付けで、激怒していた。
それは、ゲーテをそのパンテオンから掃きだすほどだった。」
シュレーゲルも転向し、ブルッフマンも転向したのであろう。

「シューベルトがシュレーゲルを目の当たりに見たのだとしたら、
いかに彼は失望したことだろう。
そこには、おそらく、『夕映え』の詩人の面影はなかっただろうし、
むしろ、彼は、改宗した偏狭で風変わりな人、
つまり下記のような人間となっていた。
世俗的な力を完全装備することをあからさまに好む、
精神的法悦を求める男。
かつては大胆にまで論理的だったのに、今や、モーツァルトの、
『コシ・ファン・トゥッテ』の昔からパロディ化されている、
磁気の呪文を唱える男。
かつては、広く開いていたその扉を、
ぴしゃりと閉じてしまおうとしている男。
さらに、シュレーゲルには性的に偽善者だった証拠があり、
精神的に若い女性を、ヴォルフの『イタリア歌曲集』の、
死んだ少女の告白にあるような偽坊主のような手段で、
助けていた。
手短に言うと、帰化したヴィーン人、シュレーゲルは、
シューベルトやその友人たちが忌み嫌っていた、
オーストリア当局の全てを表わしていた。」
かつての英雄、フリードリヒ・シュレーゲルも落ちたものである。
とはいえ、これだけの矛盾も平気で生き抜けるくらいでないと、
貴族には列せられなかったであろう。

「そのリアクションが、ゼンの場合ほど激しいものではなかったにせよ、
シューベルトは、シュレーゲルを、少なくとも完全なる退屈と、
見なしたかもしれない。この作家の昔からの友人と一緒になって。
これと同様の心と方向の変化は、多くの作家にも幾度も繰り返されただろうが、
当然、シュレーゲルほど急激なものはなかった。
多くの昔からのファンは失望し、裏切られ、
英国では、Malcolm Muggeridgeや、それより若いPaul Johnsonだけが、
改訂版になったあとも、変わらず彼を好きだった。
宗教的な行動から、シュレーゲルの文化に対する貢献を、
ぼかすべきではない。
この貢献は、実際に一人の男が達成したものであって、
その初期に練り上げられた理論によって、
すべての種類の予期せぬ方向に果実を育んだのである。
ベンヤミン、ルーカスとアドルノの
ネオ・マルキシズムはシュレーゲルに範を求めていたし、
近年のトレンドであるフェミニズムや、文学解体の理論同様、
Szondiの文学理論、ディルタイやガダマーの哲学などがそうである。
フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの最も不滅の印象は、
絶え間なき探求と検索、そして、
どんな量の作品や成功でも達成することの出来ない、
個人の空虚を満たそうとする無益な試みである。
ティークのような、それほど知的ではないかもしれないが、
それとは、比較にならないほど偉大な芸術家は、
アウグスト・フォン・シュレーゲルに、フリードリヒの死後、
こう書いている。
『あなたはよく知っているでしょうが、彼は、
学問や芸術においても、真実と宗教においても、
何も達成しませんでした。』
この一度は、『哲学博士』であった人は、
『カトリックの専制者』になり、
思考の世界を変節し、
継続的に役割を変えて行き、
何かになることを失敗したのである。」

このようなシュレーゲルではあったが、
彼のおかげで、シューベルトの素晴らしい歌曲が生まれたのも事実である。
「夕映え歌曲集」第一曲の「夕映え」も、印象的な名曲だったが、
終曲の「茂み」もまた、素晴らしい。

ハイペリオンのCDにもこうある。
「『茂み』は、まごうことなき偉大な歌曲である。
(a very great song)
特に、静かで、ゆっくりとLangsamという、作曲家の指示も含め、
歌うのに難しい音楽だが、詳細に研究するに値し、
シューベルトの「実験的な日々」と呼ばれる時期の中で、
もっとも高いポイントを示すものの一つである。
同様に幻視的な『夕映え』と並んで、この作品の神秘的な質感は、
歌曲集を締めくくるのに相応しい二つの「極」であり、
今日の演奏者に、シュレーゲル歌曲集の演奏の試みに駆り立てるものである。
フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの初期の詩の熱狂的な世界に、
リスナーをひきつけるインセンティブにもなりうるもので、
シューベルトとシューマンの作品を偶然ではなく結びつける、
特別なリンクの一つなのである。」

詩は、このようなものである。
「涼しくそっとそよ風が、
暗い野原を吹き抜けると、
天空だけは微笑んで、
沢山明るい瞳を向けている。
一つの霊が動いている。
海原の轟きの中、
木の葉を渡る囁きの、
その柔らかな言葉にも。
波が波に木霊する、
精霊が秘かに嘆くところ。
言葉が言葉に連なるのは、
精霊たちが息づくところ。
こうした全ての音を経て、
大地を彩る様々な夢の中、
一つのかすかな音が木霊する。
秘かに耳傾けるもののため。」

このような美しい作品ながら、
最初に出版されたのが、1885年の、
ペータース版のシューベルト歌曲集第七巻まで、
出版されなかったというのは、いったいどうしたことだろうか。
本当に、それまで知られざる歌曲だったのだろうか。

よく分からないが、1972年に、
ヤノヴィッツが、ザルツブルク音楽祭で、
歌った時には、まだまだ、珍しい選曲だったことが、
この実況録音のCDによって、確かめられる。

ヤノヴィッツといえば、ドイツ・グラモフォンが、
フィッシャー=ディースカウのシューベルト歌曲全集を作った時に、
彼が歌わなかった女声による歌曲を担当した人として、
私の記憶に残っているが、このCDに見られるような活動の延長で、
あの仕事は行われたのであろうか。

このゆっくりした歌は難しいと、ジョンソンは書いていたが、
少し、ヤノヴィッツは、歌のスピードが速すぎるのではないだろうか。
ゲルネが3分19秒かけているところを、2分24秒で歌っている。
まだ、この歌曲の解釈が煮詰まっていない時期なのだろうか。

ゲルネやボルヘェルトが、神秘的な情感を醸し出すのに対し、
ヤノヴィッツのテンポでは、何か焦燥感のようなものが、
ドラマ性をかき立てるが、前述の内容の詩なので、
特にドラマ仕立てにしなくても良いような気もする。

さて、このCDでは、このような曲目が並んでいる。
1. 戸外にて D880(ザイドル詩)
2. 茂み D646(シュレーゲル詩)
3. 憧れ D516(マイヤーホーファー詩)
4. ギリシャの神々から D677(シラー詩)
5. アテュス D585(マイヤーホーファー詩)
以上、シューベルトの歌曲。
いずれも、一級の歌曲で、選曲も、歌唱も傾聴する価値がある。

以下、ヒュッテンブレンナーの歌曲が7曲
6. ひばりの歌、7.糸紡ぎ歌、8.丘、9.春の歌、
10.航海、11.海草、12.星《シューベルトのD939と同じ詩》
これらは、シューベルト狂の贔屓目で見るせいか、
ピアノ伴奏は活発であるものの、
口当たりのよい軽い小唄に聴こえてしまう。

最後に、また、シューベルトで、
13.川 D693(シュレーゲル詩)
14.孤独 D620(マイヤーホーファー詩)
で締めくくられる。

ちなみに、グラモフォンに録音したものは、「戸外にて」と「川」の二曲のみ。

このオルフェオ・レーベルも、
輸入CDファンには忘れられない会社であるが、
ヤノヴィッツの経歴は、こんな風によく書いてあるが、
音楽の紹介についてはいささか心もとない。

「歌曲の声楽家と彼女のパーソナルノート

グンドラ・ヤノヴィッツというソプラノの星は、
1960年代初頭に、ヴィーン歌劇場の空に上った。
ヘルベルト・フォン・カラヤンが、当時、国立歌劇場の監督で、
ベルリン生まれでグラーツに育ち、1959年にグラーツ音楽院を出た
若い歌手とElevinとして契約した。」
このElevinとはなにか分からなかったが、
下記の文を読むと、見習いかなにかのように思える。

「グンドラ・ヤノヴィッツは、長くはElevinではなく、
フィガロのバルバリーナとしてのデヴューの後、
『蝶々夫人』のケート・ピンカートン、
『トラヴィアータ』のフローラのような小さな役、
ラインの娘たちやヴァルキューレが続いただけではなく、
『魔笛』のパミーナ、『ボエーム』のミミ、
『フィガロ』のマルツェリン、『カルメン』のミカエラなどの大役を務めた。
さすがカラヤンだけあって、彼はすぐにこの若い歌手が、
彼女の声のタイプ以外の役柄にも挑戦すべきことを見抜いていた。
1964年6月、彼の指示で『影のない女』の女帝の役を歌った。
しかし、これは例外的な機会となり、
カラヤンはヴィーンを去って、
二度とシュトラウスのオペラを振ることはなかった。
しかし、グンドラ・ヤノヴィッツは、
モーツァルト、シュトラウス、そしてヴァーグナーなど、
すぐに大きなリリカルロールをこなし、世界中の歌劇場を征服した。
ザルツブルクでグンドラ・ヤノヴィッツが成功を収めたのは、
コンサート・ステージであった。」
こう見てくると、文字数の大部分を、
グンドラ・ヤノヴィッツ(Gundola Janowitz)が占めていて、
結局、どこかしこで名声を馳せた、ということしか頭に残らない。

「また、今度は、1963年にカラヤンが『第九』のソプラノ独唱で、
彼女をこの地に招き、続いて、ハイドンの『天地創造』の、
ガブリエルとエヴァを2年後に歌った。
彼女のパートナーは、フリッツ・ヴンダーリヒや、
ヘルマン・プライで、後にコンサートのレパートリーは、
ペルゴレージの『スターバト・マーテル』から、
ヴェルディの『レクイエム』にまで及んだ。
その頃までに、彼女は舞台でも確固たる地位を築き、
カラヤンの『ドン・ジョバンニ』のドンナ・アンナ、
ベームの『フィガロ』の伯爵夫人、『コシ』のフィオディリージ、
後には、マルシャリンやアリアドネといったシュトラウスの大役も務めた。
ザルツブルクでのデビューからわずか9年で、
グンドラ・ヤノヴィッツは、今度はリート歌手として、
公衆の前に現れた。
彼女は、この分野でも、その高い完成度と、
通常とは異なるプログラム、そして、彼女自身の解説によって、
独自の地位を築いた。」

以下の部分で、ここで歌われた歌曲が珍しい選曲であることが、
何とか読み取れるが、何故、彼女が、これを取り上げたは、
さっぱり分からない。
この歌手の勲章は分かっても、どんな人柄であったかなどは、
まるで読み取れないのである。
「ここに録音された、
1972年夏の最初のリサイタルの夕べでも、
プログラムの選曲は一般の境界を越えたものであり、
ほとんど専門家にも知られていないシューベルトの珍しい歌曲に、
シューベルトの友人のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーの、
手稿しかない歌曲を対比させた。
この2年後にも、同様に珍しい選曲がなされ、
ドビュッシーやリストを含むもので始まり、
シューベルトだけのリサイタルが続いた。
ここでも、良く知られた歌曲に、知られざる歌曲がミックスされ、
ヒンデミットの『マリアの生涯』が最後に演奏された。」
以上で曲の解説は終わりである。

「細心のパートナーであり、
何よりも熟達したエキスパートであり、
歌曲の研究家であるアイヴァン・ゲイジとのコラボレーションが、
みごとに実を結んだ。」
私は、このゲイジのピアノによるルートヴィヒの歌唱で、
シューベルト歌曲に親しんだので、ゲイジとなると少し嬉しくなる。
しかし、こうした伴奏ピアニストが歌曲に占める役割は絶大である。

「グンドラ・ヤノヴィッツは、
その声の扱いだけでなく、テキストとフレージング、
自発性と芸術的な抑制のバランスのよい統合への配慮など、
独唱者としての、取って置きの手を使っている。
経験豊かなステージ歌手は、
どこにドラマや劇場的な活力があるかを、
いつも熟知しているが、
叙情的表現の芸術が要求する、
様式や限界点もまた保持している。
比較的早い時期、あまりにもすぐに、
グンドラ・ヤノヴィッツはザルツブルク音楽祭に出演しなくなった。
1981年、ディーター・ドルンの演出によって、
カール・ベームの死後行われたサヴァリッシュ指揮のアリアドネと、
ヒンデミットの『マリアの生涯』が、音楽祭での最後の舞台となった。
しかし、音楽祭の多くの聴衆の記憶の中で、
彼女は名誉ある位置を占めている。」

以下に実際の音楽祭でのプログラムが掲載されているが、
Gottfried Krausという人が書いたもので、
何が、ヤノヴィッツ自身の解説なのかよく分からない。
実際は曲間にスピーチでもあったのだろうか。
「A Genuine Festival Programme
モーツァルテウムの大ホールでの、
1972年8月10日の歌曲リサイタルは、
すでに述べたように、シューベルトの歌曲と、
アンゼルム・ヒュッテンブレンナーの2つのグループの歌曲で、
コントラストを付けられたものである。」
ヒュッテンブレンナーの歌曲が、どう2つに分けられるのかは、
よく分からない。確かに、9曲目と10曲目の間で拍手が入る。
春を題材にした前半より、海を題材にした後半の方が、
幾分暗く、深い味わいがあるようだが。

このヒュッテンブレンナーは、あの「未完成交響曲」を、
何故か隠蔽していた人物として有名な人で、
弟のヨーゼフは、歌曲「ます」の自筆稿を献呈された人として有名である。
したがって、このようにシューベルト所縁の人の
作った音楽を聴けるというのは、
非常に楽しみな企画ということになる。

「ヒュッテンブレンナーはシューベルトより3歳年長で、
詩人のマイヤーホーファーやヨーゼフ・フォン・シュパウン、
画家のモーリッツ・フォン・シュヴィント、歌手のミヒャエル・フォーグル、
台本作者のヨーゼフ・クーペルウィーザー、作曲家のフランツ・ラッハナーと共に、
作曲家に最も深い友人たちのサークルの一員であった。」
こういう解説は嫌いである。
名前を列挙してあるだけで、ほとんど何の情報にもならない。
シューベルトを愛する人は、すでに知っていることであるし、
そうでない人には、何の薬にもなるまい。
グンドラ・ヤノヴィッツを連呼したように、
下記の文では、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーを連呼する。
だんだん、このゴットフリート・クラウスという人が嫌いになってきた。

「シューベルトと同様、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、
アントーニオ・サリエリの指導を受けた。
シュタイヤーマルクの地主の息子で、
法律を学んだが、最も惹かれていたのは音楽であって、
早くも1816年には最初の作品を出版している。
父親の死後、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、
グラーツに戻り、家族の財産を管理したが、
彼の人生の中心には音楽があった。
にわかの批評家になったり、1825年には、
シュタイヤーマルクの音楽協会の芸術監督に就任したりした。
これは彼が、ヴィーン楽友協会の路線で、
彼が1815年に設立したものである。
短い中断はあったものの、この今日まで続く組織を、
アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは1839年までリードし、
シュタイヤーマルクの音楽シーンに重要なインパルスを与えた。
ヒュッテンブレンナーは、
三つの歌劇、5つの交響曲、ミサ曲、
3つ以上のレクイエム、室内楽、ピアノ曲、膨大な歌曲など、
豊富な作品群を残している。
アンゼルム・ヒュッテンブレンナーは、19世紀のシュタイヤーの、
最も重要な作曲家であるが、出版されているものはほとんどない。
グンドラ・ヤノヴィッツによって選ばれて歌われているのは、
手稿を用いてのものである。
これらはヒュッテンブレンナーの申し分ない職人芸を示し、
自然、テキストの扱いや形式の点で、シューベルトに近い。
ここにあるライトナーの詩による「星」などを、
シューベルトの曲と比べると、決して劣ったものではない。」
私には、そうは思えない。情感も類型的で、変化も少ない。
むしろ、その前の二曲の方が渋い。
とはいえ、詩人も歌詞も、解説にはなく、不親切この上ない。
ということで、このCDは背負っているものの割に、
内容が不親切である。これでは、ヒュッテンブレンナーの復活は難しい。
ジャケットも、ヒュッテンブレンナー復活を祈る風ではない。

そもそも、解説者もシューベルトの方に、
より興味を持っているのは、以下の文からも明らかであろう。
「いっそう興味深いのは、グンドラ・ヤノヴィッツが、
このリサイタルのシューベルトのパートで、
よく知られた曲を選んでおらず、代わりに、
シラー、シュレーゲル、彼の友人のマイヤーホーファーの詩による、
珍しい作品を選んでいる点で、とりわけ、歌曲カンタータである、
『孤独』がこのリサイタルを締めくくっている点で、
これは、シューベルト自身、高く評価しており、
1818年8月の手紙でも、『これまでで最高の出来』と、
書いているものである。」
以下、前述のフィッシャー=ディースカウの著書から、
この曲に関する解説が引用されているだけで、
シュレーゲルは名前が出てきただけとなる。
が、彼については、ここの前半で、かなりヤバい話まで触れたので、
我々には十分であろう。
ちなみに、「川」の方も、何と、1872年まで出版されなかった模様。

得られた事:「シュレーゲルの『夕映え歌曲集』の何曲かは、19世紀も後半に出版され、長らく知られざる歌曲であった。」
その2、「人名をフルネームで無闇に列挙する、かさ増し手抜き解説に注意せよ。」
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by franz310 | 2007-12-22 22:18 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その101

b0083728_18525836.jpg個人的経験:
前回は、
シュレーゲル兄弟の、
兄、アウグストを
取り上げたが、
今回は、
引き続き、
例のG・ジョンソン
の解説から、
弟フリードリヒの
略伝を見てみよう。


うまい具合に、「夕映え歌曲集」をまとめて歌っている最新CDも入手した。
これは、NAXOSレーベルが体系的にシューベルト歌曲を、
その詩人別に集めて企画している、
「シューベルト・ドイツ語歌曲全集」の第24集である。
ここでは、「ロマン派の詩人による歌曲集 第一集」として、
真ん中に、この知られざるシュレーゲルの歌曲集が集められ、
前後には、クライガーの「若い尼」や、ウーラントの「春の想い」、
リュッケルトの「君こそは憩い」などの傑作が散りばめられている。
有名、無名、取り混ぜて、この前のハイペリオン盤よりは、
楽しい選曲と思われる。

しかも、ここでは、全曲を通して、
ソプラノのボルヒェルトが通して歌っていて、
「夕映え」歌曲集も、非常に説得力のある歌曲集に聞こえる。
もちろん、第一曲「夕映え」や終曲の「茂み(藪)」などは、
ゲルネの方がずっと意味深く聞こえるが、あちらは歌曲集と考えるには、
少々無理があった。
二曲目に「蝶々」を持ってきたのも成功している。
ゲルネは、重々しい第一曲に、続けて「山々」という、
手ごわいのを持って来て、人間世界を睥睨するような厳しさが、
聴き手を拒絶し、なかなかこれらの詩に入り込めない感じを、
醸し出していた。

ソプラノのか細い響きでは、こうした曲などは苦しそうだが、
曲集の一貫した感触は得がたい。最後の「星」、「茂み」といった、
崇高な歌曲になると、このひたすらな歌唱が、
祈りのような高みに至るかと思わせる。

ただし、この廉価レーベルの常として、ジャケットはしょぼい。
このぽっちゃり系シュレーゲルの肖像を見て、
「これはいかにもロマンティックだな」と感じて、
聞きたくなるユーザーがどれくらいいるだろうか。皆無であろう。

だが、解説は、このフリードリヒ・シュレーゲルを取り上げていて、
予想をはるかに超える話題で、我々を異空間に運び去ってしまう。
なんと、このシリーズも、一貫して、ピアニストのアイゼンロールが、
伴奏を務め、かつ、解説も書いてくれている。
(Ulrich Eisenlohr、英訳は、Keith Anderson)。

ということで、今回はまず、このNAXOS盤の解説にある、
異様なエピソードから。

「1825年、3月20日のこと、
ヴィーンで、シューベルトの友人、
画家のルートヴィヒ・シュノア・キャロルスフェルトの家で、
奇妙なイベントが執り行われた。
霊界との交信の集い(telepathic séance)で、
文学でのドイツロマン派の指導的パイオニア、フリードリヒ・シュレーゲルと、
最初の『ロマンティックな』ドイツ語圏の作曲家で、
歌曲分野での比類なき世界の創始者、フランツ・シューベルトが、
ここで出会ったのである。
シューベルトは、おそらく、奇妙なオブザーバーとして居合わせ、
そればかりか、この霊的なイベントで、
自身の音楽で伴奏したりもしたようだ。」
ちょっと待った!という始まり方である。
いったい、シュレーゲルもシューベルトも何をやっているのか?
霊的なイベントの伴奏???

これ以上の内容は分からない。
「残念ながら、この交霊会の進行の完全なレポートはなく、
シューベルトが演奏した音楽やこの二人がこの時のみ会ったのかなど、
我々は知ることが出来ない。
しかし、これ以前にすでに、
この二人が『ロマン派』文化の一時代の発展に対し決定的な貢献をし、
歌曲作曲家としてのシューベルトに、
シュレーゲルの詩が数年前に霊感を与え、
新境地を拓かせたことは事実なのである。」
このあたりのことは、前々回取り上げた、
ハイペリオン盤にも書いてあった。

「これらのシュレーゲルの詩が、1818年から1823年の、
彼の『ロマンティックな歌曲』のフェーズに強い衝撃を与えた。
この時期以前は、文学上名声の確立した古典的なシラーやゲーテ同様、
とりわけ多感主義の詩人たち、マッティソン、クロプシュトック、
ヘルティその他が、シューベルトの作曲時の飢餓感を満たしていた。
続いての詩の調達者として、
まずマイヤーホーファー、そしてショーバーその他、
というふうに、シューベルトの友人たちが現れた。
『ロマン派』の詩人への付曲は、1819/20年に集中的に行われ、
結果として350曲以上の歌曲が作曲された。」

私は、この時期が、シューベルトのロマンティックな歌曲のフェーズだとは、
これを読むまで知らなかった。
そもそも、そんなことを書いた評伝があっただろうか。
全部と見なおす気にはならないが、最新の、
作曲家◎人と作品シリーズ「シューベルト」を見ても、
最初のリート公開演奏や、何曲かの大曲を作曲した年、としか書かれていない。

「フリードリヒ・シュレーゲルは、1772年にハノーヴァで、
ルター派の牧師の息子として生まれ、ゲッティンゲンやライプツィッヒで、
法律、数学、哲学、医学、古典文献学を学んだ。
1796年、彼は、兄のアウグスト・ウィリアムらが作り、
ノヴァーリスやティーク、シュライヤーマッヒャーが参加していた、
ロマン派のサークルに合流した。
彼らは、ハイネによって、ロマン派の創設者と見なされた。
1797年、ベルリンにて、シュレーゲルは、
10歳年長で、銀行家の妻であったドロテア・ヴェイトと出会った。
1798年から、彼は彼女と暮らし始め、
1804年にようやく、彼女の離婚の後、結婚することが出来た。
彼の小説『ルチンデ』は、その状況に基づいており、
二人の平等でよく釣り合った人間の自由で、
『ロマンティックな』愛をテーマにしていたが、
文字通りのスキャンダルになり、
それによって小説は、衝撃的な成功となった。
1802年から1804年まで、シュレーゲルは、
パリでペルシャとインドの語学と文化の研究に熱中した。」
これはいかにも、リアルとバーチャルの連動で、
最高のプロモーションになっただろうと思われる一節。

「1802年から1804年までは、ヴィーンに住居を定め、
重要で広く知られた講義を行った。
おそらく、シューベルトの詩人の友人は、
彼の歴史、文学、審美学の見解を耳にし、
それについて議論したはずである。」
む、この部分、どうもおかしい。
パリにいたか、ヴィーンにいたか分からないではないか。
そもそも、シューベルトの世代はまだ、1802年の時点では、
幼稚園児であろう。1812年だろうか??それでも中学生くらい。
ナポレオンの時代に、ちょっと相応しくないような気もする。
1822年ならば話は合ってくるが、この時期になると、
シュレーゲルは、前述のようにヤバい分野に突入していて、ちょっと、遅すぎる。

「また、シュレーゲルの詩集『夕映え』もまた、
この友人たちのサークルで読まれ、
彼の『ロマンティックな歌曲』の時代の中心となる、
これらの詩をシューベルトもまた知ったと思われる。
22の詩集から、シューベルトが曲を付けたのは11曲である。
これらの歌曲を1919年から23年の間の、
数回に分けて書いたという事実ゆえに、
これらは音楽的チクルスに計画されたのではないと推測されている。
しかし、作曲上のスタイルからは、これらの曲は統一されている。
民謡風の単純な詩は、
形式の明確さ、簡潔な和声、
素朴で気取りなく、それでいて、
神秘的で、さりげない音楽の完璧性に支えられた、
分かりやすいメロディ書法とからなる、
明晰、かつ、ほとんど古典的なまでに優雅な傾向の、
作曲スタイルで付曲されている。
これは、他のものの中にあってとりわけ、
詩と音楽からなる『ロマンティックな音』の、
典型的な形象である。」


さて、フリードリヒ・シュレーゲルについて、
興味も沸いてきたので、先の、ハイペリオン盤の、
解説の続きを読んでみよう。
前回は、枚数オーバーで、ここまで書けなかったが。
「フリードリヒ・シュレーゲルは、
7人の子供たちの末っ子である。
この兄弟の早熟さの基準からすると、彼は大器晩成型で、
両親は彼がなんの才能を示さないのを嘆いた。
15の時に、シュレーマンという名の銀行家の実習生として、
ライプチヒに送られ、彼は、ここで、未熟な眠りから覚めた。
この時から、すべての兄弟の中で、
最も絶え間なくエネルギッシュな存在となった。
彼はまずプラトンとギリシャの文学に心酔し、
言語学、歴史、哲学を学ぶために、
兄とゲッティンゲン大学で合流した。
学生として、彼は、細部にも驚くべき精通を見せ、
歴史や思想の小さな流れを、大きな意味を持つ、
一見して、迫真性ある論理的な一つの流れに総合するという、
生涯を貫く能力の兆候を見せた。
シュレーゲルは、
ギリシャ文学におけるヴィンケルマンとなることを目指し、
偉大な歴史家が、古代の芸術を蘇らせるのと同様に、
古典の作家を詳説した。
彼はさらにライプチヒに行き、そこで、非常に深い印象を与えた、
フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク(ノヴァーリス)と会った。
互いに尊敬し、ノヴァーリスにこう書き送った。
『私はあなたのような人を見たことがない。
エレウシス(アッティカの都市)の高僧であった。
あなたを通じて、私は天国と地獄を学んだのだ。』
だが、4年後、ノヴァーリスはシュレーゲルの著作に対し、
より批判的になっていた。
『それらは、満足のできない魅惑であり、
我々が最も高く調和しようとすると、
まさにその時になるとはぐらかさせるといった、
無限の期待とほのめかしにすぎない。』
この早い時期にあっても、シュレーゲルの賛美者は、
彼の常にアクティブな頭脳をもってしても、
その努力が結果として、さらに偉大な到達点として、
花咲かないことを残念に思っていた。」
むむう、大器になりそうな書き出しだったが、何だか雲行きが怪しい。

ここから、例のハイペリオン盤にも出ていた事が詳説される。

「ベルリンにおいて、フリードリヒ・シュレーゲルは、
ヘンリエッテ・ヘルツとラヘル・レーヴィンのサロンを訪問した。
こここそが、彼が、モーゼス・メンデルスゾーンの娘で、
まだ生まれていない作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンの、
将来の叔母であるドロテア・ヴェイトと出合った場所であった。
8歳年長のドロテアは、夫を捨て、シュレーゲルに走った。
その関係は、反ユダヤ主義のシュレーゲルの父の怒りを買った。
彼女は彼の生涯の伴侶となり(彼らは1804年にやっと結婚する)、
彼の最も情熱的かつ辛抱強い伝道師となった。」
兄シュレーゲルは、結婚で大変な目に会ったが、
こっちの弟シュレーゲルは、結婚を前に大変な目に会ったのだ。
いずれにせよ、女性によって、大変なことになった。

「フリードリヒは、兄と協業し、
より壮大なプロジェクト、アテネウム創刊を果たした。
1798-1800の六回の刊行で、初期ロマン派の才能を集めた。
フリードリヒ・シュレーゲルは理論家であり、哲学者であって、
アウグスト・シュレーゲルは言語学者で批評家であった。
フリードリヒ・シュライヤーマッヒャーは、
ロマンティックな学派の、モラリストであり、神学者であった。
ルートヴィヒ・ティークはそのストーリーテラーであり、
ノヴァーリスは難解な神秘主義者であった。
アテネウムのコアは、ノヴァーリスの『夜への賛歌』
(そのいくつかは1820年にシューベルトが作曲している)や、
フリードリヒ・シュレーゲルの『イディーン』と題されたアフォリズム、
そして、彼の『詩についての対話』であった。
彼の思考の流れは、大部のノートに書き連ねられ、
有名な『批判的断章』となり、
これはリヒテンベルクの皮肉によって拡大され、
Chamfortの箴言的なスタイルから、ドイツ文学へと昇華された。
断章形式のからかうような捉えにくい芸術の中に、
熟達したシュレーゲルの小形式の最高の表現が見出せる。
チャールズ・ローゼンが『ロマンティック・ジェネレーション』で、
指摘しているように、断章は、文学のみならず、
音楽においても、後に、ロマン派そのものの中心となる。」
いずれにせよ、錚々たるメンバーが集まって、
その中核にいたのがシュレーゲルだったわけだ。

「シュレーゲルは、こう書いている。
『我々の詩歌には古代人における神話のような焦点がない。』
彼の新しい時代の新しい神話を探すことにあった。
新しい言葉は、詩が、『幻想と愛』によって美化された、
ヒエログリフのような自然の表現になるべき言葉が発明された。
彼の神秘主義と象徴的表象の意味の再定義によれば、
シュレーゲルは、ニーチェやフランスの象徴主義者の、
初期の作品を導く道を拓いたといえる。
このシュレーゲリズムは、花びらは、電気火花と対をなし、
女性のフォルムは木の花が対をなし、
また、あるときは、宝石は『ミネラルの花』であるなど。
ノヴァーリスとシュレーゲルは、
不思議な物理的な混沌の融合と非融合が起こる、
『Symphilosophie』を計画していた。
これは、ジョンソン博士が定義した、
シュレーゲルが書いたフモールが反映される。
『これは、異なるイメージのコンビネーション、
または、明らかに異なるものに、
オカルト的な類似を見つけること』で、ここでは、
『最も混成のアイデアが暴力によって繋がれる』。
ロマン派のサークルは、すぐに、イエナのアウグストの家を中心にした。
1799年9月、フリードリヒもそこに入り、
ドロテアも続き、兄弟に見出されたともいえるティークも続いた。
彼の素晴らしい訳、セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、
アウグスト・シュレーゲルのスペイン文学の関心から生まれた。
彼らは哲学者のシェリングとも交わり、
これが、アウグストの結婚の解消へと繋がり、
シェリングはフリードリヒ同様、初めて、突然、抒情詩を書くようになった。
共に不器用な詩人であったが、ここで詩は目的ではなく、
むしろ、アイデアの媒体であった。
シュライヤーマッハーは、フリードリヒにこう書いた。
『超越が彼に充満し、永遠は終わりの始まりであり、
世界は彼のただ一つの不滅の愛』。
シューベルトが作曲したシュレーゲルのテキストの大部分は、
この活気ある日々のものである。」
ロマン主義は、闇を愛するがゆえに、暴力とかオカルトとか、
物騒である。が、それが、あの不思議な会合に繋がっていったのだろうか。

「シュレーゲルの『無限なるものへの憧れ』は、
彼は初めて宗教的、汎神論的な記述で、
これこそが、『夕映え』の詩を結ぶ糸でもあり、
シューベルトは、このにわか詩人に不朽の音楽的肉声を与えた。
シューベルトのサークルのメンバーは、
ブルッフマンが、その自叙伝で書いたように、
シュレーゲルのよく知られた小説、
1799年に登場して以来、ドイツ語圏にあまねく知られた、
『ルシンデ』のコピーを、手に入れていた可能性はあるかもしれない。
今日の目から見れば、ほとんどショックではないが、
特に、著者が当時、人妻と親しくなって以来、
当時はわいせつなものと考えられていた。
(ドロテアは、この最も不適切な時期に、
その出版に耐えなければならず、
しかし、彼女は自らのプライドより、
フリードリヒのキャリアを優先した。)
ルシンデは性的な自由を主張し、
ありもしない見せ掛けの純潔を馬鹿にして中傷していた
シューベルトの世代をひきつけ、
そしてそれは、女性を責任ある多感な性的な存在として、
新しい光で照らした。
それは、性的役割の取り交わし、両性の愛の理解の答弁であった。
露骨なエロティシズムは、シュレーゲルの汎神論の描写の一部に見え、
これがまた、作曲家、そしてその友人たちの、
シュレーゲルへの熱狂を起こさせたと思われる。」
なるほど、シュレーゲルの示唆した、
新しい両性の関係が、まず、シューベルトたちを惹き付けたということか。

「この時点でシュレーゲルはゲーテの領域では、
居心地の悪い客人であった。
彼らのシラーに対する敵意は、この偉大な人物を当惑させていたが、
フリードリヒはゲーテの詩こそ、真の芸術と純粋な美の日の出だとたたえ、
ヴァイマールの獅子も、文学世界における彼の立場を、
兄弟が賞賛していることを知らないわけではなかった。
事実、シュレーゲル兄弟は、単に『ゲッツ』や『ウェルテル』の作者である以上に、
ゲーテの名声を紹介し、イタリア旅行から帰ってからの出版作品、
とりわけ、『ウィルヘルム・マイスター』を文学の最前線として位置づけていた。
ゲーテはそれに応えて、フリードリヒの劇作への努力を激励し、
カルデロンに影響を受けた『アラーコス』を、
1802年、ヴァイマールで受け入れた。
しかし、この類音の脚韻を散りばめた実験は、
鎮静化にゲーテが非常な努力をしたにもかかわらず、
観客に笑い飛ばされた。
これを別にしても、シュレーゲルから、
『親父さん』と呼ばれていたゲーテは、
彼を『扇動者』、『トゲイラクサ』と見なすようになり、
これ以上の個人的な共感は生まれなかった。
このエッセイの目的のために、
残りのシュレーゲルの話は、ささっと切り上げよう。
『アラーコス』の完全な失敗の直後、
シュレーゲルはドロテアと共にパリに行き、
この地をベースに講義を行い、
若いスコットランドの学者アレキサンダー・ハミルトンと共に、
サンスクリットの研究に邁進した。
この時期、厳しい努力で、芸術と建築の歴史に通暁し、
この東洋との出会いに関しては、
彼の素晴らしい研究、『インドの言葉と格言』に結実する。
この点、彼は驚くべきそしてシリアスなヨーロッパ共同体のヴィジョンを得た。
これらは今日、驚くほどモダンに見え、現在のフランス・ドイツ枢軸も、
新しい発想ではないことを思い出させる。
ステファン・ツヴァイクやロマン・ロランもまた、
同じ世紀の終わりに同様の着想をしている。
シュレーゲルはさらにケルンに行き、
彼が得意とするドイツ文学の歴史をベースにした、
読書のシリーズを催した。
(兄弟は、のちにリストがピアノ・リサイタルで、
巻き起こしたような騒動を起こしたようだ。)
ここに来て彼はドロテアと結婚し、この宗教上の手続きと、
旧式の信仰と美学のニューエイジを確立しようとする試みが、
彼の生涯の次の決定的転換の合図となった。
1808年4月、フリードリヒとドロテアはカトリックに改宗した。
この出来事は、『ルシンデ』の出版と同様のスキャンダルを巻き起こした。」
こう見てくると、エネルギッシュではあるが、
どうも方向の定まらない人生で、この人は、何の専門家なのだろうかと、
だんだん、分からなくなって来た。

「このすぐ後、二人は、
アウグストが講義シリーズを受け持っているヴィーンに向かった。
兄を出し抜くというわけではないが、フリードリヒは、1810年、
ヴィーンの新しい歴史の講演シリーズを企画、
保守性や反動主義傾向を強める新聞の出版者として、
また、社会的な花形として、彼はそこでの地位を固めていった。」
こうあるので、シューベルトの友人が、シュレーゲルを見たとすれば、
このあたりのことと思われる。

「彼はアイヒェンドルフに会い、この偉大な詩人の小説のタイトルを、
『予感と現在』とするよう提案した。
彼はそれにつれて、社会的な虚飾を好む傾向を強めた。
ナポレオンをきっぱりと拒否し、
オーストリア愛国者としてのスタンスを身に付け、
1809年にはハンガリーで広場でのキャンペーンに登場、
そこにいる時にはその国の言葉や文学の研究にも余念がなかった。
彼はメッテルニヒ自身と知り合い、民間奉仕にも手を広げた。
(間違いなく、ゲーテ中年時代のヴァイマールでの、
政治活動に張り合うことを狙ったものだ。)
ヴィーン会議では裏方外交で活躍した。」
このように、体制派になってしまうと、
何がロマン派かわからなくなってくる。
フリードリヒの人生は変節の人生であった。

「これは特に記憶すべきだが、秘密警察は、
シュレーゲルの言動を監視しており(メッテルニヒは誰も信用していなかった)、
可愛そうな探偵は、シュレーゲルのよく変わる宿泊施設や、
時には、一日14回も入る飲食店に関する、
長いレポートを書かなければならなかった。
彼はたくさん食べ、それがかっぷくが良いというレベル以上の外見に反映された。
また、ある種のヘビー・ドリンカーであった。
彼はオーストリア政府にいかなる重要な地位を占めることはなかったが、
彼の自信は計り知れなかった。
1808年になると、彼は精力的に以前の信念を取り消しはじめ、
『この美学的な白昼夢、臆病で汎神論的な不正、そして公式の弄びは、
すべて終わりを告げた。それらは、この偉大なる時代には無価値で、
もはやふさわしいものとは言えない。』
我々は、このように、シューベルトがシュレーゲルの汎神論を見出す、
はるか以前に、シュレーゲル自身、そしてヴィーンの街自身もまた、
これをすでに放棄していたという事実に直面する。
同様に、シューベルトが1814年に『ファウスト』を発見した時、
すでにゲーテは西オーストリアの国政に関与しており、
読者はその著者の最後のアイデアをキャッチアップするには、
時間がかかることが分かる。
1809年まで、シュレーゲルはメッテルニヒの昔なじみで、
Papal Oeder of Christのナイトであり、
ヴィーン芸術アカデミーの会員であった。
彼は親戚の中で最も高い爵位を手にし、1815年、
貴族の「von」を授けられた。」
あちゃー、といった感じ。
シュレーゲルのファンはがっかりだったはず。
ここに来て、兄、アウグストの方が見直されることになる。
長生きしたのも兄の方だった。

「もはや誰も、アウグストのうぬぼれなど反応しなくなった。
彼はリベラルに止まり、フリードリヒのコンコルディア誌における、
宗教的な記事を読んで激怒した。
ゲーテはフリードリヒ自身の口から語られる転向を聞いて、
懐疑的に額にしわを寄せた。
彼は後に、『この種の男は』、単に、『もっともっと低級に』なると書いた。
ハイネは、フリードリヒの『個人的な宗教上の言い逃れ』について、
軽蔑をこめて言及した。
フリードリヒ・フォン・ゲンツは、
シュレーゲルのファミリーネーム(シュレーゲル=太鼓のばち)にあやかって、
こう書いた。
『何年かのあいだ、彼の宗教的、または偏狭な熱中は、
彼をずっと笑いものにしてきて、その妻がまたそれに大きく貢献している。
現在、この兄弟の違いは大きいが、私はアウグストの方に全面的に味方したい。
彼は確かに虚栄心は強いが、活力と才能がある。
フリードリヒは鉛のばちにすぎないが、
同じ太鼓のばちでもアウグストのは鋼鉄である。』」

ざっと、フリードリヒ・シュレーゲルの、なんとも変化に満ちた、
生涯を、グレアム・ジョンソンに教えて貰った。
あまり、好かれるタイプではなさそうである。
実は、さらに、このエッセイ、シューベルトたちとの関係にも触れている。
それは次回に回すこ1とにする。

得られた事:「弟シュレーゲルは、派手な行動とスキャンダラスな小説で、時代の寵児となり、進歩的な若者を強烈に痺れさせた。シューベルトも1819年頃、この詩人?によってロマンティックな時代に突入した。」
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by franz310 | 2007-12-15 18:54 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その100

b0083728_2255818.jpg個人的経験:
前回取り上げた、ゲルネのCD、
さすがに、シュレーゲル特集だけあって、
この兄弟の、10ページ分の、
バイオグラフィーが載っている。
いくらなんでも、ここまでは、
読まないつもりだったのだが、
前回書いたように、
アウグストとフリードリヒの兄弟についても、
私は混乱していたので、すこし脱線して、
この部分も読んでみることにする。
弟は、シューマンの「幻想曲」の、
モットーとなった詩句を書いた人でもあり、
シューベルトへの影響も重要に思えて来た。

そもそも、私は重大なあることに気付いたのである。
これらフリードリヒの作品のドイッチュ番号と、
ピアノ五重奏曲「ます」のドイッチュ番号の関係。

ピアノ五重奏曲の方を見ると、D667で、
シュレーゲルの「夕映え歌曲集」の最初が「蝶々」のD633、
最後が「夕映え」のD690なのである。
(633+690)/2≒667ではないか。
これは、このまま通り過ぎるわけにはいくまい。

さてさて、その長大なバイオグラフィーはこんな感じで始まる。

「シューベルトとシュレーゲル兄弟、ロマン主義の夜明け」
この題名だけでも、期待が高まる。
いけいけ、グレアム!

「『ロマン派詩歌は、いまや世界のものだ。
それは、他のシステムを抱合する最大の芸術分野から、
子供の唇から漏れ出た自然のままのため息やキスに至る、
すべて純粋なるものをその腕に抱きよせる。』
Athenaum-Fragment No.116(アウグスト及びフリードリヒ・シュレーゲル)

この兄弟は、文学史に、とりわけ19世紀のドイツにおいて、
しばしば大きな位置を占めた。
もちろん、ゴンクール兄弟はフランスの偉才だが、
ドイツの紙幣を飾るグリム兄弟ほどには、知られておらず、
ドイツは他にも多くの兄弟、
つまり、ストルベルク兄弟、フンボルト兄弟、マン兄弟、
そしてもちろん、アウグストとフリードリヒのシュレーゲル兄弟を輩出した。
彼らのキャリアの多くの部分は、お互いに依存して、
『聡明なゼウスの息子たち』と呼ばれた。

彼らは歌用の詩を書くわけではなかったが、
彼らの抒情詩は、シューベルトに霊感を与え、
多くの歌曲が生まれたので、これらを集めてCDを作ることが出来た。
今日、シュレーゲル兄弟が、ドイツ語圏の知的水準を向上させた、
という功績については、自国の人たちからも理解されておらず、
英語圏の聴衆にも、哲学的に興味の少ないシュレーゲルより、
むしろヘーゲルが有名だが、どちらも知らないのが一般であろう。」

という書き出しである。ここからは家族の話。
「シュレーゲル一家は、プロテスタントで伝統を重んじ、
質素ながらも教育熱心な家庭で、
ここで歌っているゲルネの故郷にも近い、
ザクセンのマイセンの出自である。
父、ヨハン・アドルフ・シュレーゲルは、
神学者、翻訳家、寓話作家、美学者として、
辞典に載せられるような業績を挙げた。
叔父のエリアスもまた、
レッシング以前の最も傑出した文学批評家の一人であった。
二人の才能ある女兄弟を含む七人の子供たちは、
兄弟の生涯において、ことあるごとに、重要な役割を演じ、
大仰なアイデアに対しては、冷や水をかけたし、
金銭的な援助もおこなっている。
年長のカール・アウグスト・シュレーゲル(1761-1789)は、
この一家に典型的な、不屈の精神を示し、ゲオルグ三世のハノーヴァ連隊に、
技師として仕え、インド内部の地図を作成してマドラスで死去した。
1800年の最初のアウグスト・シュレーゲルの詩句の最初の版では、
カール・アウグストのメモリーを含み、彼の死への悲しみを書き留めた。

彼らのキャリアの最初の時期、アウグストとフリードリヒの生涯は二人三脚である。
その家系の知的な特色からして、
彼らが共にこの一家の名声がどうなっていくかを、
いつも考えていたということは驚くに値しない。
フリードリヒは兄を『父、友、教師』と考え、彼らは互いに、
あからさまなシュレーゲル家的なエリート主義で称えている。
彼らは次のように書いている。
『戦友に道を教えるために、
そして、秘密の入り口を見つけるために、
二人の戦士が、夜中に密かに峡谷に登る』。
アウグストは、1802年にフリードリヒに書いている。
『君は君の終着点を求める。
そしてすべての冒険は君自身の探究心のため。』
この詩は次のように続く。
『そして、私たち二人が手にする。
もう一人のために蓄えることは、
我々の喜ばしい使命。
このように互いを高める。
たとえ、離れていても。』」

ここからが、兄、アウグストに関する話が始まる。
分量からして、今回は、弟、フリードリヒまでは触れられそうもない。

「アウグスト(1767-1845)は、
フリードリヒより5歳年長で、
最初は二人の中では、より才能があるように見え、
実際、ある程度はそうであった。
彼はゲッティンゲン大学に学び、そこで師事した、
ビュルゲルに『アポロの息子』と呼ばれさえした。
教授と生徒は、ダンテやシェークスピアの『真夏の夜の夢』の翻訳に従事、
これがアウグストの、後のキャリアにおける最大到達点の雛形となった。
個人家庭教師としてのアムステルダムでの4年
(ここでフリードリヒは、『あなたは沢山書き、私は沢山読んで、
我々の使命を全うした』と書き送った)を経て、
彼は1795年、イエナに移った。
ここで、彼は弟と一緒に、『アテネウム』という雑誌を創刊したが、
これは、新しいロマン派の最も重要な機関紙となった。
彼は歯に絹着せぬ、カロリーネ・ベーマーと結婚したが、
彼女はすさまじい批評家で、その容赦なさは、
この兄弟のシラーに対する低い評価(その代わりのゲーテ崇拝)に関しての、
微妙な状態をさらに悪化させた。
アウグストはシラーの『ホーラとミューズの年鑑』に寄稿したが、
偉大な詩人は、いみじくも、カロリーネを『悪魔貴婦人』と呼んだ。
1803年、彼女は、シュレーゲルのもとを去って、
哲学者のシェリングのもとに走った。
1798年、イエナで哲学博士となり、1801年には、
ベルリンで読書会のシリーズを行ったが、
これは、彼を、ヨーロッパ中でも重要な文学史学者に位置づけた。」
この解説、年代がやたらと前後するのが難点。

「1803年、ワイマールにおいて、
彼の古典的な劇『イオン』(エウリピデスによる)が作られたが、
これはあまり成功しなかった。
この時期、この兄弟に、そして創成期のロマン派にとって重要だったのは、
これから後で述べる、フリードリヒの活動であろう。
イエナ以降、彼らの道は分岐する。
アウグストはスタール夫人のもとで14年間を過ごし、
彼女の旅行がちな日々、それに随行したり、
ジェノバにおける彼女の地所、コペットにあったりした。
彼らが愛人関係にあったとは思えず
(彼女は当時、ベンジャミン・コンスタンと不倫の関係にあった)、
むしろ、ドイツにおけるスタール夫人のカウンセラーであり、
家庭教師であったと思われる。
彼は彼女の子供たちの教育担当者であり、彼女のみごとな、
『ドイツ論』(1813)のアイデアの源であった。
これは、彼に相応しい日々であった。
世紀の知性(スタール夫人のサロンでの止まることなき会話)との、
高いレベルの夕べの会話、
読書と勉強のための豊富な時間
(『私は何日もずっと、ラテン語の語源学に没頭できるのだ』
と1805年に彼は書いている)、
素晴らしい偉大な人物との交わりは、
ヨーロッパの中心で何が起こっているかを知ることが出来た。
1808年、彼はヴィーンにおいて、
そこでの弟の成功を予告するような、重要な講義シリーズを行った。
そして、1812年、スウェーデン王、ベルナドッテの随行員として、
彼はペテルスブルグとモスクワへのドラマティックな旅行した。」
私も、こうした生活をしたいものだ。

「1797年から1810年の間に、アウグスト・シュレーゲルは、
最も重要な業績を残した。
それは17のシェークスピア劇の翻訳である。
兄の翻訳の『ロメオとジュリエット』を友人に贈った時、
フリードリヒは、誇らしげに
『もし、僕が有名な批評家ケルナーだったら、『ゲーテすらなしえなかった』、
と言うだろう。しかし、僕は、フリードリヒ・シュレーゲルとして、
こう言おう。『友よ、これは詩歌以上のものだ』と。』
これらの翻訳は、19世紀のドイツ文学の最大の収穫の一つであろう。
英語の劇に含まれる、いくつかの最も複雑なパッセージも、
無理なく優美に優しく、かつ信じられないほど正確に移し変えられている。
ノヴァーリスは彼の初期の努力の成果について、
『私は英語版よりドイツ語版のシェークスピアの方が良いと確信した』
と書いている。
アウグストはこの分野における彼自身の重要さについて気づいており、
おそらく、これらは、シェークスピアの翻訳において、
むしろ下記のように、低く評価されている、
レッシング、ヴィーラント、ビュルガーの訳が、
彼の業績の強固な礎となっている。
『シェークスピアやダンテの精神を捉え、
ドイツ語翻訳に敢然と挑んで、優れた規範となった最初の人は、
後世の者らがいかに評価するかを、時が教えよう。
しかし、彼らはその名前を知っている。
アウグスト・ウィルヘルム・シュレーゲルと。』
残念ながら、いくつかの悲劇、
『マクベス』や『リア王』は、
素晴らしい『ハムレット』があるにもかかわらず、
シュレーゲル版がない。
彼の仕事は、ルートヴィヒ・ティークの娘、
ドロテアと、その夫、グラーフ・ヴォルフ・バウディッシンによって完成された。」

ここまでのアウグストは、世間を超絶した学者のようにも見えるが、
どうも、この兄弟、下記のような運命をたどる宿命にあるようだ。
「スタール夫人の死後、アウグストは、新しく創設された、
ボン大学の東洋文学の教授に就任し、
使用人をはべらせて、最もエレガントな流行に身を包んで、
講義をすることで有名になった。
1815年、貴族に列せられると、そして、『von』が名前に加わると、
この儀礼を無視した手紙については、開けることすら拒むようになった。
この外見や言動のうぬぼれは、ハイネのからかいの的となる。
このいささか馬鹿げた自己陶酔が(これは、この家族の特徴と思われる)、
すべての時代、国の言葉と文学における、彼の重要な貢献を、
ぼやかすことがあってはならない。
彼のスペイン、イタリア語の翻訳は、シェークスピアと同様に人口に膾炙し、
サンスクリットやその他東洋に対する熱愛は、彼の後半生に新しい地平を開いた。
歴史的、国際的な文脈において、広い領域で、彼は第一人者の一人であった。
このような立場ゆえ、例えば、ピューリタンで、
また、反ロマン派風であったミルトンなどは、彼は過小評価したが、
反対に、エウリピデスやラシーヌのような作家は、
比較文学において新しい評価をされることとなった。
彼自身の創作によって、詩人としてのアウグスト・シュレーゲルが、
今日、当時ほどの評価を得ることはありえない。
彼の文学の意味と作法に対する深い理解は、
自然なオリジナルな詩作の才能とは相容れなかったようだ。
しかし、彼の理論家、弁明者としての詩作は、
多分に知的な雰囲気に満ち、そこでシューベルトの才能が花咲いた。
彼の詩の持つ、新しい文学の香りと個人の自由が、
シューベルトを作曲に専念させたのも必然のことと思える。」
シューベルトの音楽の解説として重要なのは、この部分であろう。
シュレーゲルは、知的でナウいというところ。

「このように、9年以上にわたり、シューベルトの作品に、
彼の詩は、折に触れ現れる。」
D395が一番初期で、後述のD856が最後の模様。
フリードリヒの作品のように、600番に集中しているわけではない。
600番台では、D628、629、630の3曲のみ。
「ペトラルカのソネット」である。

「アウグスト・フォン・シュレーゲルの詩や翻訳に基づく作品十曲のうち、
7つがこのディスクに収められている。
ここにはない、『まちがった時』D409と、
『とらわれの歌びと』D712は後に収録予定。
シュレーゲル兄弟の詩による最後は、
アウグストの『去って行った人への夕べの歌』D856で、これは6巻に収めている。
何故、シューベルトが1825年になって、フリードリヒの作品に戻り、
また、少ししてアウグストの2つの詩
(その一つは、ここにある『再会』D855)を手がけたかは、
少し謎めいている。
恐らく、作曲家は、この兄弟の関係が終わった後も、
この二人を結びつけて考えていたものであろう。」
以上が、シュレーゲル(兄)、つまり、アウグストに関する解説である。
いや、アウグスト・ウィルヘルム・フォン・シュレーゲル閣下の略歴である。

シューベルトが作曲したものの中では、
リストがピアノ独奏曲に編曲した、
「涙の賛美」D711が最もメロディも美しく有名であろう。
このCDでも、最初に収められている。

これは、以下のような詩である。
どんなに陽気な騒ぎも心を満たすことはないが、
涙はそうではないという、
どうも信じがたい観念的な詩のせいか、
あまり春や青春の輝きはない。
夢見るような蜃気楼のような音楽。

「暖かい風、香る花、
すべての喜びは春と青春にあり、
新鮮な唇からのキス、優しい胸にもたれながら。
そして、ぶどうから、霊酒を盗む。
踊りとゲームと戯れと、すべて五感が感じ取れるもの、
ああ、それが心を満たすだろうか。

だが、涙に濡れた瞳が、
悲しみの優しい露で光るとき、
そこに映るものを見ると、
ひと目で天国の野原が現れる。
どんなに心が洗われ、どんなに早く、
荒々しい感情を鎮めてくれることか。
雨によって、花が蘇るように、
私の弱々しい心も生き返るのだ。」

シューベルトが最後に作曲したという、「再会」は、
これまた、象徴的で、春の太陽に従って、
どっかに行ってしまう男の歌。
誰だかに、愛の挨拶を送るが、それが何なのかはよくわからない。
ジョンソンは、シューベルトの知られざる歌曲の中で、
もっとも魅惑的なもの、と書いているが、メロディも非常に美しい。

もう一曲の「去っていった人への夕べの歌」は、
8分を超える長大な作品で、これまた、不思議きわまる内容。
去って行った人はさっぱり登場せず、
抹香臭いお説教を、自分に垂れている内容。
「心が自分のために創り出すものは、
どんな運命も奪い取れない」と、心に期待をかけるべし、
と歌われるが、これで、去って行った人を忘れようとしているのだろうか。

アウグスト・シュレーゲルは、妻に逃げられたようだが、
それと関係があるのかないのか。
シューベルトは、控えめな伴奏の、瞑想的な音楽を付けている。
時折、ピアノが変則的な装飾で舞い上がるのが、
いかにもあたりを包む月明かりを思わせる。
このシューベルト歌曲全集でこれを歌う
アンソニー・ロルフ・ジョンソンは、
とても甘味な歌声で、ジャケットのイメージとはかなり違う。

さて、「ます」の五重奏曲と同じD番号600番台の、
ペトラルカのソネット3曲は、アウグストの翻訳家としての、
重要な一面を伝える音楽となったが、フィッシャー=ディースカウなどは、
「シューベルトの音楽によるその解釈の唯一の欠点は、
原語に作曲していないことである」と書いている。

しかし、14世紀イタリアの詩聖の詩歌に、作曲した作品は貴重で、
「音楽史において独自の地位を占めている」とF=ディースカウは続けている。
第一曲は、春の日差しを祈るような内容ながら、
ルネサンス期の作品らしく、詩句は大仰で、音楽もそれに合わせて、
時として大きく振りかぶり、ある時は素朴なピアノを鳴り響かせて、
音楽がそれに寄り添っている。
ゲルネは、ペトラルカの永遠の女性ラウラを慕うように、
愛情をこめて歌っている。
第二曲は、不安な焦燥感に溢れ、愛の苦しみに荒野を彷徨う歌、
第三曲は、一日何千回も死んでは生き返るという、神秘的な状況ながら、
裏切られた女のことを思うときには、強烈な怒りの表現が現れる。


得られた事:「シュレーゲル兄弟の兄、アウグストはむしろ学者であって、ドイツに各国の文学を普及させ、知的でナウい感じが、シューベルトをしびれさせた。」
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by franz310 | 2007-12-08 22:10 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その99

b0083728_20522265.jpg個人的経験:
リストが何度も
ピアノ用に編曲した、
シューベルトの
歌曲「ばら」。
前回、書いたように、
シューベルトの
歌曲の段階でも
2ヴァージョンが
あるらしい。

従って、ハイペリオンのシューベルト歌曲全集でも、
この曲は2度登場する。
しかも、こちらのCDは、他のシュレーゲルの歌曲を、
まとめて収めている。

前回のものは少し歌いやすく低めのヘ長調版、
今回のものは、ずっと若いシェーファーが歌って、
より繊細なト長調版ということである。

このCD、シェーファーがそこそこ活躍しているのに、
表紙ではゲルネしか登場せず、損をしているのではないだろうか。
クリスティーヌ・シェーファーは、容姿も端麗、
一躍、グラモフォンレーベルでも活躍した逸材であったので、
写真を変えるだけで、売れ方も変わって来そうである。

そもそもシュレーゲルの歌曲を集めながら、
どうも、それを感じにくいデザインとも言える。
同じシリーズでも、前回のものの方が、はるかに華やかである。
ゲルネも、来日して素晴らしいシューベルトを聞かせたばかりなので、
人気者、実力者であるには違いないが。

さて、このジャケット写真、ただし、隠されたオチがあるようだ。
夕日のような色に、染まっているが、実はここには、
何と、この夕焼けにちなんだ歌曲が収められているのである。
つまり22曲のうち、11曲が、こんな名前でまとめられている。
「フリードリヒ・フォン・シュレーゲルによる『夕映え』歌曲集。」
シューベルトは、三大歌曲集ばかりが有名だが、
これはいったいどういうことであろうか。

このCD、長大なシュレーゲルについての解説もあるが、
この歌曲集についての部分を読んでみよう。
何と、あの「ばら」も、この歌曲集に含まれるというのである。

「フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの『夕映え歌曲集』
『夕映え』と題された、
フリードリヒ・シュレーゲルの詩集から取られた、
シューベルトの11の歌曲は、リヒャルト・クラーマーが、
いくつかある「歌曲集の失敗作」と呼んだ、興味深い一例である。
シリーズ18巻で、私は、エルンスト・シュルツェの、
「Poetishes Tagebuch(詩的日記)」からの10の歌曲集に対し、
実際のシュルツェの詩集を見て、
シューベルトが、歌曲集というコンセプトを抱き、
それを実現しようとしたのかもしれないと想像して、
『Auf dem wilden Wegen(野の小道にて)』と題すべき、
未知の歌曲集ではないかという推察を行った。」
このハイペリオンの全集は、いろいろな歌手が起用され、
次々に様々なテーマでの歌曲を歌っているのが特色だが、
ここに書かれた18巻とは、シュライヤーが担当したものである。
何と、この「野の小道にて」歌曲集には、有名な「春に」も含まれている。

いずれにせよ、三大歌曲集以外にも、道半ばにして、
完成されなかった歌曲集もあるということだ。
「このことは、シュレーゲルの歌曲集についても言え、
これらはばらばらに書かれ、
おそらく、作曲家はセットとしては見ていなかったと思われ、
全体を納得のいくものにしようとすることは、
ほとんど不可能である。」
では、何故、ここで、あえて歌曲集としてまとめる必然があるのだろう。

「シュレーゲルの詩集は1800年から1801年の間に書かれ、
1809年の彼のGedichteの12ページに現れる。
同じ詩は、後に、10巻からなる全集(1822-25)の、
第一巻を構成することとなる。
この詩集の名前は、大文字で『夕映え』と書かれている。
最初の詩にはタイトルがなく、単に『パート1』と書かれている。
この詩に作曲した、1823年3月の手稿(D690、原曲の調はイ長調)では、
シューベルトはその頭書きを、『夕映え-パート1』と、そのまま写している。
このことが、作曲家がこの曲を、
この詩集の中から、最後に作曲したと考えられ、
大きな歌曲集の先頭に置くべきと考えた
とする主張の根拠となっている。
いずれにせよ、詩人が集めた詩集の題名である、
『夕映え』が、この曲のタイトルとなった理由である。」
夕映えがトラック8である。

ここから、シュレーゲルの詩集とシューベルトの作曲の関係が示される。
「この一連の詩集は、各詩にタイトルを有し、シュレーゲルの、
出版の順序からすると、下記のようになる。

山   D634 原調はト長調   1820 3月?→トラック9
鳥   D691 原調はイ長調。  1820 3月 →トラック10
少年  D692 原調はイ長調。  1820 3月 →トラック12
川   D693 原調はロ長調   1820 3月 →トラック11
羊飼い シューベルトは作曲していない
ばら  D745 2ヴァージョン、原調はへ長調、ト長調 1820?もっと後?
                          →トラック13
蝶々  D633 原調はへ長調   1820 3月 →トラック14
太陽  シューベルトは作曲していない
風   シューベルトは作曲していない
詩人  シューベルトは作曲していない

このように、シュレーゲルの詩集の最初のパートは終わり、
夕方になった時に、山、鳥、川、ばら、蝶々、太陽、風が、
それぞれの感情を語り、私たちに語りかける。
シュレーゲルはさらに、
導入の詩(シューベルトの歌曲『夕映え』)での語句、
『全世界は、同じ声で歌われる多くの歌からなる一つの合唱』
にあるように、子供や羊飼いなど、
ここでは、人間も、自然を構成する一要素としている。
そして、それらは全て詩人に向かって語りかけられるが、
それは、彼がその意味を見抜くことの出来る、
これらの音の選ばれた解釈者だからである。
このように、詩人自身の詩『詩人』は、
パート1のエピローグのようなものとなる。
1856年、ラスキンが、人間の情動や共感を自然に帰することを、
『感傷的な欺瞞』と呼んだとき、
彼は、『非常に単純な、葉の茂ったサクラソウ』を、
『呼吸する花や喜びにあえぐ小枝』(時のパロディとしての言葉)より、
好んだのである。
それにもかかわらず、ワーズワース、シェリー、テニソンなど、
他のロマン主義の詩人たちは、シュレーゲル同様、
森羅万象の統合を拡大するために、
感傷的な欺瞞を必要とした。」

とにかく、シュレーゲルの詩集『夕映え』の大部分に、
シューベルトは同時期に曲を付けており、
最後に、それを抱合するような歌曲『夕映え』を作曲したというのである。
この、歌曲『夕映え』は、こんな歌詞のもので、曲想は荘重、
神秘的なトレモロがとどろく中、太陽が沈んで行く。
このコンセプトの中で、あの有名な『ばら』も書かれたということか。
「日の低く落ちるとき、
すべての場所に憩いあり、
日々の労働も片付いて、
子供らの声の楽しげ。
緑の大地はより青く輝く、
日没の時。
花の息吹も柔らかく、
芳香は大気に広がり、
優しく魂を抱きしめる
恍惚の美酒に酔いしれるように。
小鳥たちや、遠くの人たち、
天に聳える山々よ。
銀色の大河に、
谷間を吹き抜ける風の流れ。
全てが詩人に話しかけ、
それらをすべて解するゆえに。
そして、全世界は一つの合唱となる。
あまたの声が一つの声で歌われる。」
このトレモロは、詩人の心に響く、万物の声の象徴であろうか。
ゲルネのバリトンが威厳をもって、このモットーを語りかける。

さて、全体がこのように総括され、各曲が始まるが、
続く曲たちは、いきなり、各論になる。
まず、「山」は、人間の小ささを語り、
比較的有名なのは、次の「鳥」であるが、
ここでも鳥までが、軽妙に人間を小馬鹿にして、
飛び去ってしまう。
すると、続いて、シェーファーの声で、ゆったりと、
しかし銀色に輝く、「川」(雄大な日没の光景の描写)
が歌われ始めると言った具合で、
あまり、歌曲集の統一感がないのは確かである。
何しろ、万物の声なので、統一されないのが普通であって、
これが一つの声になって神秘を語るところがロマン派なのであろう。
この後、これまた楽しげな「少年」がゲルネで歌われ、
空を飛びたい小僧の夢が語られる。少年というより無邪気な小僧。
次に、シェーファーによる可憐な「ばら」来る。
この「ばら」については、また、後で触れよう。
さらに、「蝶々」が忙しげに飛び回り、前半は終了。

次は、「さすらい人」から始まるが、有名な幻想曲のもととなった、
「お前のいないところに幸福がある」と歌われる、
恐ろしいリューベックの詩のものとは違う。
これは、「どこにも故郷を作らないように」と、
諭すように、月が語りかける設定。いずれにせよ、夜である。

次に、シェーファーが歌う、いたいけな片想いの「少女」、
ピアノ伴奏にも、愛情たっぷりである。
最後に、美しい「星」と「藪」が、ゲルネの深い声で歌われる。
これらは、「我々が何と神聖な光を放つのかと人間は驚く」と、
清らかな星の瞬きが歌われたり、
「ひそかに耳を傾けるものには、様々な地上の夢の中に、かすかな音を聞く」
というロマン派のモットーが歌われたりする。
そう、これは、シューマンの「幻想曲」に書き込まれたものなのだ。

こう見ると、ロマン派の歌曲集の幕開けのような気配が漲った曲に、
様々な声が収斂していく構成だということが分かる。

「詩集の第二のパートは、夜の帳がおりてから起こることである。
同様に反復されたように、『Als die Sonne nun versunken』で始まる詩が、
タイトルなしであって、これにはシューベルトの付曲はない。
そして、最後は、やはり、『詩人』でエピローグを構成する。
一連の詩は、下記のようになる。

さすらい人 D649 原調はニ長調   1819 2月 →トラック15
月     シューベルトは作曲していない
二羽のナイチンゲール 同上
少女    D652 原調はイ長調   1819 2月 →トラック16


歌手    以上、シューベルトは作曲していない
星     D684 原調は変ホ長調  1820    →トラック17
藪     D646 原調はト長調   1819 2月 →トラック18
詩人    シューベルトは作曲していない

このように、シューベルトは1819年の初めに、
シュレーゲルの詩を発見し、
それから詩集の『パートⅡ』の3曲に付曲したように見える。
約1年後、彼は再度、『パートⅠ』に戻って、
たぶん3曲、あるいは6曲の歌曲を、
パートⅡの『星』と共に作曲した。
同時に、彼は、シュレーゲルの詩集『夕映え』以外の、
『舟人』(D694)にも作曲をした。
そして、さらに3年後、この詩集『夕映え』の、
一番初めの詩に戻った。
このことから、彼は、すでに作曲してあった歌曲も含めて、
歌曲集を作ろうと考えたとしたら、この遅い段階だと思われる。
そして、このことが、彼が最終的にシュレーゲルの詩集に、
調性の統一感を与えようとした理由なのである。
これは、『水車屋の娘』の年の後であり、
歌曲集というものについて考え、たな卸しをした時であった。
(この年の『すみれ』というバラードは、
小さな歌曲の連続にも見えるものから、
大きな構成を作り出す試みを代表している。)」

このように、シューベルトはこれらを歌曲集にしようと考えた。
最初に作曲を始めてから、ずいぶん、決断までに時間がかかっているが、
前述のように、大家によるロマン派の宣言のような詩集ゆえ、
その価値は十分にあったことだろう。

「しかし、シュレーゲルの歌曲集は、
むしろ、クラーマーの言うように、
まだ見ぬ、循環形式のような形式に対する、
消極的な浮気心を表わしているようだ。
ベルケは面白いポイントを突いており、
1819年の詩を、作曲家は、『1802年の芸術年鑑』で発見し、
1820年の詩は、1809年のシュレーゲルの上記エディション、
または、全集が出る前に書かれた詩の、
1816年のヴィーン版から取って作曲したとしている。
これは、『冬の旅』で、作曲家が体験したように、
まず年鑑『ウラニア』で12の詩のみを発見したので、
2つの版で小さな違いがあるというのとは、
少し事情が異なっており、
『夕映え』は、各々の出版で完全に同じものがプリントされている
(芸術年鑑ではまだ二つのパートには分割されていないが)し、
作曲家は、最初から循環する自然の全貌に気づいていた。
彼は、単純にこれらの詩から、一曲ずつ、
または、いくつかのグループで、作曲を楽しんでいたようだ。
しかし、シュレーゲルのコンセプトは、
おそらく、テキストとテキストを一緒にして、
歌曲集の形にし、
様々なキャラクターが『一つの声で様々な歌を歌って』初めて、
その全てを明らかにするものであろう。
この最後のフレーズは、シュレーゲルの強烈な汎神論の表明だが、
作曲家にとって、それは、歌曲集を作りたいと思わせるものに違いない。」

確かに、歌曲集として構想したくなる構成を持っている。
「この『一つの声』は、
シューベルトにとっては関係ないかもしれないが、
異なる意味で問題となる。
1825年、フォーグルはエレンの歌『アヴェ・マリア』を歌って、
熱狂的な歓迎を受けたのは事実であり、
公の席で『少女』や『ばら』を男性歌手が歌っても、
当時は、恥ずかしくない時代だったと思われる。
しかし、今日、我々はそれに抵抗があり、
フィッシャー=ディースカウも、
その膨大なシューベルト・レパートリーにおいても、
これらの曲は歌っていない。
むしろ、シュレーゲルの歌は女声によって歌われるのが相応しいと思われ、
『少年』はズボン役としてやればよく、
『さすらい人』も、女声による『冬の旅』に慣れた聴衆には問題なく受け入れられる。
しかし、この場合、どんなタイプの女声歌手であろうか。
ここに来て我々は声のタイプ、声の区分の問題を考察しなければならない。
五線の広域用に書いた『ばら』を、『夕映え』の最後の音符の低音は、
言うまでもなく、完全に音域の異なる『星』を、シューベルトは本当に、
同じ声で歌うことを想定していたのだろうか。
原調が変ホ長調の『星』を、シュレーゲルの順番で次の詩、
原調でト長調の『藪』を続けて歌うことが難しいと考えない歌手がいるだろうか。
『歌曲集のできそこない』は、私には、
シューベルトが、個々の歌の原調を思いついた時、同じ歌手、または、
同じ歌唱のタイプの歌手を想定して書けなかった失敗にあると思われる。
例えば、『山』のような歌は、明るく若いテノールがよいが、
他は軽いソプラノがよく、また、あるものは高いバリトンがよい。
ただ、主題の統一という観点でのみ、
創造のプロセスから生じた、シュレーゲルの記述の多様性を、
実際的に考察する時のみ、
シューベルトの作った形での、『夕映え』歌曲集は、
一人の歌手が、これらの詩に声と曲集としての統一性を与えて、
演奏することを可能とする。」

考えて見れば、シュレーゲルのやろうとしたことが、
そのそも、むちゃくちゃであって、
全くの異なる趣旨の詩を並べながら、
「異なる歌だが一つの声だ」、などと言っている点が、
我々を悩ませるのである。
それを現実の世界で演じようということ自体、
非現実的な話になってしまうのかもしれない。

「明らかに、高い音域のものを、
メゾ・ソプラノに移調することによって、
歌いやすさや、多かれ少なかれテキストの適合性という意味で、
歌曲集を全体的に手堅く取りまとめることが出来るが、
これは、シューベルトが想定したものではないだろう。
演奏家はここで、ベルリオーズの『夏の夜』や、
その他の、異なる声や性別に相応しい、
異なった歌からなる、いわゆる歌曲集に対するときと同じ問題に直面する。
これを全て同じ歌手が歌おうとすると、音楽的な妥協物のようなものになる。」
「夏の夜」も、デイヴィスの指揮した盤などは、
確かに、雑多な歌手が歌っていたが、最近では、
一人の歌手が歌うのが普通になってしまった。
これは妥協だったのか。

「しかし、私には、シューベルトの音楽、シュレーゲルの詩を理解し、
そのとらえどころのない、
しかし、詩と音楽の持つ明らかな統一性のセンスを持つ、
現代の演奏家には、この歌曲集を救済する権利があると思われる。
それをどうするか。
まず、一つの解決策として、二人の歌手、
またはもっと多くの歌手が、『夕映え歌曲集』を分担する方法がある。
シューベルト以降、よく知られた分担歌曲集、
シューマンの『ミルテ』、ヴォルフの『イタリア歌曲集』などが現れた。
シューベルトも、D877のウィルヘルム・マイスターの歌で、
ミニヨンと竪琴弾きが参加して不ぞろいな、
少なくとも二人の歌手を要求する歌曲集を出版した。
作品52の『湖上の貴婦人』の歌曲は、さらに大掛かりなキャストを必要とし、
有名な『エレンの歌』は、男声合唱や女声合唱、テノール、バリトンによって、
割り込まれている。
これは、歌曲のフレームワークによるオペラといったタイプであろう。
『夕映え』においても、何人かの歌手により、
歌曲のアジェンダによる小さなオペラキャストで演奏することも可能であろう。
ここでは、ピアニストが共通の分母となって統一感を出しながら、
別々の歌手がそれぞれの特性を活かして、各曲を歌えば、最高の効果を奏するだろう。
この統一感は、作曲されていない詩を、詩人の役が朗読すれば増強され、
それぞれの作品に糸を通して結ぶことが可能となろう。
仮面劇のように、衣装を身に付け、大学のコラージュ風パフォーマンスで、
かつてのベルリンの『ミュラーの歌芝居』のように演奏されると面白そうだ。」
この意見には興味をそそられる。
是非、そんな形式での演奏を見てみたいと思う。

「さて、これら歌曲が分担されたとしても、
シュレーゲルの詩集通りでは、
A-G-A-A-B-F-Fといった調性の退屈な連なりとなり、
印象がよくない点が難しいところである。
コンサートで取り上げるときには、この調性の連なりは、
第一に、出来る限り、快適で興味が持続するように考慮するべきである。
このCDでは、出来るだけシュレーゲルの詩集の順番としたが、
『鳥』と『少年』は、その調性と雰囲気が似ているので分けた。
シューベルトがシュレーゲルと同じ順番を意図していたかは、
議論されるべきであろうが、顕著に長くゆっくりとした歌曲集で、
この二つの快活な歌が並んでいるので、その他は全体的に進行がゆっくりである。
ここでは、ソプラノが『少女』、『ばら』、『川』を歌っているが、
これは、もし低く移調すると、典型的なシューベルトの調性、
ロ長調の銀色の響きが脅かされるからである。
各演奏者が違った並びに配列しなおし、歌手の条件や声のタイプによって、
最終的な順番は見つけられるであろう。
それにもかかわらず、『夕映え』は最初に置かれることが好ましく、
『藪』が最後に置かれることが好ましい。
これは、ヴォルフの『イタリア歌曲集』が、いろいろな順番で歌われながら、
モットーのような『Auch kleine Dinge』で始まり、
祝福された『Ich hab』で終わるという、
ヴォルフの指示以上のことが出来ないのと同様である。」
このように、「ばら」は、もっと雄大な構想の中で、
捉えられるべき作品であったのだ。

では、このCDにおける「ばら」の解説を見てみよう。
「『ばら』
この曲はシューベルトが『ヴィーン時報』にて出版する、
ずっと前に作曲されていたと思われ、
他の『夕映え』パート1の歌曲と同時期に書かれたと思われる。
シュレーゲルの詩集のパターンは、ここでも同様で、
ばらに、自身の言葉で、その窮地を語らせている。
20世紀の読者には、この詩の哲学的なポイント、
貞節に無関心な婦人につきまとう危険に対する、
詩人の警告であるというところが、紋切り型だと考えられていた。
しかし、19世紀初頭、世界は、もっと大きな変化や、
性に対する自由に騒然となっていたということを、
考慮に入れるべきであろう。
シューベルトは自身の経験から、女性に限らず、
自由な生活の危険を知っていて、このテキストは、
特に彼自身の生涯に相応しく、つまり、ばらと同様、情熱ゆえに、
肉体を苛まれるのである。
この詩は、シュレーゲルがすでに、
彼の小説『ルシンデ』で表明したものの見方に、
背を向けることを示しているようである。」
この小説は、性の解放の賛美のような側面があったようだ。
それにしても、彼を苦しめることになる病気に羅感するのは、
もう少し後のことではなかろうか。

「この曲のような美しさ、それに、薄いヴェールのように、
発展するテキストの魅力は、当時の出版者には理解されなかった。
作曲家は最初、この曲をヘ長調で書いたのに、
もっと新鮮ではかないト長調にすることにした。
これがヴィーン時報で発表された時の調で、ジョン・リードは、
シューベルトは高い調で出版するよう説得され、
結局、この時点では、作曲家はそれに納得したのであろうと考えている。
1827年、強力なコマーシャルの実用性のアイデアを持った、
ディアベリによって、再度出版された。
この歌曲がト長調では、特に中間部では難しく、
多くのソプラノにとって、ヘ長調の方が簡単である、
ということが事実として分かったのであろう。
1827年、作曲家は、おそらくディアベリに、
もともとのヘ長調でのアイデアに戻すよう、
説得されたのであろう。
いわゆる芸術支配階級であった若い女性という、
想定購買層が、ヴォーカルのラインを眺めて驚かないように。
この曲には二つの版があり、ドイッチュのカタログには、
ここで録音されているト長調が第一版とされ、
ヘ長調が第19巻でフェリシティ・ロットが録音した第二番とされる。
作曲の便宜のため、詩は3部に分けられている。」

今回、シェーファーと前回のロットを聞き比べることが出来たが、
シェーファー自身は安定した歌唱を聞かせるとはいえ、
確かに、空中分解寸前の天上的な響きになっている。
それは性別を超えた天使の声にも聞こえる。
ロットの方が、その意味では、普通の話声の延長で、
包み込むように、語りかけるように歌われている。

このCD、他の収録は以下のとおり。
1. 涙の賛美 D711
2. 生の旋律 D395
3. 愛の言葉 D410
4. 再会   D855
以上、アウグスト・フォン・シュレーゲルの詩(F・シュレーゲルの兄)。
5. ソネットⅠ D628
6. ソネットⅡ D629
7. ソネットⅢ D630(以上、ペトラルカの詩をアウグストとグリース訳。)
私は、リストがまとめた曲集が、「涙の賛美」と「ばら」だったのを、
同じシュレーゲルの作品と思っていたが、兄弟の作だった。

これに、「夕映え歌曲集」が続き、
19.ブランカ D631
20.舟人   D694
21.愛の横溢 D854
22.森にて  D708
(以上、フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの詩)
が最後に並んでいる。

得られた事:「シューベルトには、歌いやすさによって、やむなく調を変えた歌曲もある。」
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by franz310 | 2007-12-01 20:53 | シューベルト | Comments(0)