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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その90

b0083728_1827947.jpg個人的経験:
前回、ドリヨン氏が、
シューベルトの歌曲を、
ヴィオラで演奏する試みを、
ツィンマーマンのような、
ヴィオラ奏者が、
始めたと書いていた。
「ます」の五重奏からは、
今回も脱線になるが、
その試みについて、
振り返ってみたい。


この話題の演奏は、ドイツのカプリッチョ・レーベルが出したCDで聞ける。
日本でも発売され、話題にもなったと思うが、
私は、あまり、真剣に聞いていなかった。
しかし、Axel Arndtという人の、
「Gestirne(星々)」と題された表紙はしゃれているし、
ヴィオラで聴く「冬の旅」というのも斬新だったので、
早々に入手していた。

しかし、このCD、単に、シューベルト歌曲を、
ヴィオラで弾いたという代物ではなく、
ちゃんと、本来の歌曲も収めた2枚組である。
二枚目に、歌を吹き込んだのは、われらが白井光子である。
しかも、それに加えて、現代ドイツの作家ヘルトリングが、
朗読で参加したりして、一大プロジェクトの体をなしている。

とはいえ、LP時代には2枚組で売られていた大曲「冬の旅」を、
それも、2回も演奏したものを、気軽に聞けるものではあるまい。
この曲、内容も内容である。よほど、心の周波数が一致しないと、
手を取れるものではない。

国内仕様の日本語解説は、
この分野の一人者、喜多尾道冬氏が受け持っている。
この人ならではの、「市民社会発展」の中に、
シューベルトの音楽を位置づける歴史観は、
相変わらず読み応えがあるので、これはお勧めだ。
例えば、ここで失った恋人への愛憎とは、
自分が受け入れて貰えなかった都市の象徴である、
という解釈など、非常に分かりやすい。

とはいえ、この一大プロジェクトは、必ずしも、
この路線で捉えられたものではないのではないかとも思う。

そう考えて、元の解説を概観すると、
日本語解説は、この中から、適宜抜き出しながらのもので、
直訳ではないということが分かった。

もっとも、元の解説(ELLEN KOHLHAASという人)が、
難解(主語、述語が不明確な、羅列系)で、
それを直訳されたら、かなわないという感じもある。
原文のドイツ語から英訳(Lionel Salter)した人も、
困ったのではないか。

日本語解説の方も9ページもあって
(もとのは、10ページあるが左側がドイツ語、右側は英語)、
それはそれで、十分、意味深いものであるが、
この珍妙なプロジェクトに関して、
生々しさが失われていること(あるいは薄まったこと)は、
否定しようがない。

「『冬の旅』は、何か馴染みの薄い、
ロマン派の時代と現代の人間に持続する、
未知なるものを物語っている。
この傑作は、ひんぱんに聞かれているにも関わらず、
長い間、何だか我々にとっては、奇妙なものであった。
ここで、慎重にこれを覆し、この通念を破壊してみよう。
私たち4人、
声楽家、ヴィオラ奏者、ピアニストと作家が、
それを違ったように聞かせ、さらに再認識を促したいと思う。
『Disturbance(不安、動揺、邪魔)』が、
『冬の旅』の基本テーマである。
失恋、語りかけても応えない自然、霜の中を旅する男、
その旅人は私たちに似ている。」
まず、ここで、We fourとあるが、解説者のEllenさんは、
この四人には含まれていないはずで、
誰が、これを書いたかが、まず、私を苦しめる。
恐らく、順番からして、最後に作家(ライター)とあるから、
ヘルトリングの一言と考えることにする。

「『僕はこれらの歌が他のどれよりも好きなんだ。
君たちもそうなるよ』。シュパウンは、
『冬の旅』を聞いて当惑する友人たちに、
このように言ったと伝えている。
『君たちもそうなるよ』、
それは、実際、そうなったが、
シューベルトが予測したのとは、
違った道を通って来た。」

この思わせぶりな表現も気になる。
意を汲むとすると、シューベルトは、全人共通のものを見ていたのに、
聴衆は、何か自分とは無関係な憂鬱な物語として、
三文小説的に捉えて来たということだろうか。

『冬の旅』に関して言えば、
ずっと以前から、手馴れた解釈と、受動的な鑑賞の間に押し込められ、
『陰気な歌曲集』(シュパウン)、
『痛切な音の』(マイヤーホーファー)として、
現代では、かろうじて受け入れられている。
結果として、
何処でも、何時でも、誰の演奏に寄っても、
いっぱいのコンサートホールで、
『冬の旅』は演奏されている。
これら24曲の歌曲は、
実存の体験にはならず、単に雰囲気で親しまれ、
この基本的経験は、白井光子や、
ヘルトムート・ヘル、タベア・ツィンマーマン、
そして、ペーター・ヘルトリングをして、
この旅における、土台から存在を揺るがすような、
親しいものであるが、不快な自然の再構築をさせしめ、
演奏者と聴衆に、等しく自己認識を促す方向に向けさせる。」
やはり、このように、これまでの「冬の旅」の演奏は、
センチメンタルになりすぎて、人生を見つめなおす場になっていない、
ということが、この識者たちの不満であったようだ。

「近年、古典として口当たり良くされたシューベルトを、
その確固たる本質や、のっぴきならない切迫感、
妥協なき集中の中から再認識されなければならない。
こうした考察は、この異常な聴覚体験、
特に最初は、器楽的表現に踏み出す時の観念的な出発点であった。
短縮されたり、ヴィオラとピアノに移し変えられたり、
歌は圧縮されて本質的な核となり、次に続く前奏曲となった。」
何だかよく分からないが、単にヴィオラで奏するわけではないようだ。

「こうしたシューベルティアーデでは、
室内楽と朗読会と、普通の歌曲の間の相互関係に似て、
音楽の言葉と、言葉の音楽の間に、メンタルな橋渡しが行われた。」
ということで、「冬の旅」を捉えなおすのが、
このプロジェクトの目的である。
が、何故、ヴィオラなのか。それはよく分からないが、
音域とかピアノ伴奏との対比を考えてのことであろうか。

「この居心地の悪い音楽の熟考と、
その地層、時間空白、惰性のポイントなど、
いろいろなレベルでの再発見が、
フィンランドのマスタークラスで、ヘルトリング、ヘルと、
コースの参加者との会話の中から、
分解されたり、結合されたりしながら始められた。」
「,」とか「:」や、「and」がやたら出てくる文章は止めてもらいたい。

とにかく、思いつきではなく、ああだこうだと、
いろいろ考えての結果なのであろう。
内容も、複雑怪奇。前回、ドリヨンが、歌曲をそのまま器楽で演奏すると、
歌詞が失われてマイナスになると言ったのとは、
大分、問題意識が異なる内容で、
鑑賞する上で、充実感があるかどうかという点は、
この4人には、まったくどうでも良いようだ。

「ケルンの西ドイツ放送局の『音・詩』演奏会シリーズで、
最初、このツィクルスは、ヴィオラによって演奏され、
純粋な器楽曲となって、言葉による着色も、
それらによって弱められることもなく、
十分クリアに、素材を聞くことが可能になった。」
この時は、ひょっとすると、言葉が邪魔だから、
いっそ、器楽で演奏して、ピュアな構造や語法を見てやろう、
という感じだったのだろうか。

「器楽バージョンでは、ピアノが推進し、
中断し、構造が聞こえるようにし、
むき出しの内蔵や裂け目、クラックや結氷、同時に、
異なった重みを持つ単音の原子的で干上がったスケルトンの
ウェーベルンの危機をさらけ出した。
ヴィオラは、従属するものではなく、
その苦味の利いた、しかし痛みを和らげるような、
そして時に耳障りな音色を、
『孤独』という歌の中に見られるように、
一つに統合している。
この作品の巨大な現代性が明らかになり、
聞く者に作用し、掴み、開始から異常な力で集中を強いる。」
なるほど、ヴィオラの音色の、
「苦味の利いた、癒しも含んだ、時に耳障りな音」が、
期待されていたわけだ。

このあたりは、喜多尾氏の解説でもきれいに紹介されていて、感服した。
「そうすると音素材そのものは、
詩の内容や言葉の意味にわずらわされることなく、
ストレートに聴衆の耳に入ってくる。
言葉の意味から解放された音に耳が集中すると、
ピアノからはウェーベルン風の贅肉を削ぎ取ったきびしさと簡素さが、
ヴィオラからはやさしさと苦さがひとつになってひびき出てくる。」
しかし、むき出しの内蔵や亀裂にまでは触れていない。

さらに、ようするに、という感じで、
「いわば曲を裸にし、それまでの手垢を洗い落とす手立てを通して、
聴き手はシューベルトの友人たちが『冬の旅』を
始めて聴いたときの衝撃に近づくというわけだ。」
なるほど。まあ、そう読める。

「ここでのヴィオラ奏者、タベア・ツィンマーマンは、
単に器楽奏者として演奏に専念しているわけではなく、
弦楽器を演奏するに留まらず、
薄い着色で、旅の各ステージで、自由な色の解釈を可能として、
楽器を忘れ、音楽を体験できるようにしている。」
喜多尾氏は、この部分は引用していない。
が、ここにもあるように、ツィンマーマンが、様々な音色で、
歌曲にアプローチしているのが、
大きな聴き物になっているのは確かであろう。

私は、この演奏家の実演を聴いたことがあるので、
その時の彼女の、真摯で感じの良い雰囲気を、
ついつい、ここからも聞き取ろうとしてしまう。

「4人の仲間は、この作品を熟考し、編集の効果を試した。
『このように、多くは読まれるだけ、
他のは読まれたり、演奏されたり、
また他のは演奏だけなされた。
もちろん、すべてを読む試みもしたが、
結局、音詩としての集合体にしたかった。
ヘルトリングは『冬の旅』のミュラーの版を読んだが、
これはわずかにではなく、
詩の進行や言葉の順番において、シューベルトの版とは違うものだ。」
このあたり、CDを手にすると分かるのだが、
例えば、『菩提樹』などは、詩の朗読のあと、しばらくは、
ピアノ伴奏だけが演奏されるという異様な光景となっている。

では、朗読の後は、ピアノが続くかというと、必ずしもそうではなく、
まったく、シューベルトの音楽が登場しない部分もある。
(「凍った川で」、「鬼火」、「休息」、「郵便馬車」、「最後の希望」、「道しるべ」。)

こうした複雑さを、
日本語解説では、このように補足してくれていて有難い。
「朗読だけのリートは全部で6曲、
朗読と器楽の両方を持つリートは3曲、
それ以外は器楽演奏のみという形を取っている。
そして器楽による演奏は自筆譜に従ってなされている。」
両方を持つ3曲とは、「菩提樹」のほか、
「村で」と、「幻の太陽」の2曲である。
こうした試みで、喜多尾氏は、シューベルトの創造の過程の再現と、
表現しているが、ここまでは原文には書いていない。

「それは『郵便馬車』の詩の朗読と付曲との相違を比べてみれば歴然とする」
とあるが、これは、いったい、どうやって歴然とすればいいのだろうか。
さっそく1枚目のCDの朗読を聴き、2枚目のCDの歌曲を聴く。
ヘルトリングは、内省的な、沈んだ声色で朗読しているが、
白井の歌は、高ぶった心を、リズミカルに歌う。
確かに、非常に大きな構想力で、
詩を持ち上げて、一つの作品にしようとした、
シューベルトの意図のようなものが分かる。
こうしなければ、さらに陰惨な歌曲集になったかもしれない。
が、ヘルトリングの読み方も極端なような気がする。

「4人の仲間は、慎重に考察し、編集の結果を試してみた。
『このように、』と、誰かの言葉が、
唐突に、かつ長々と引用されるのにも悩まされる。
いったい誰が言っているのか、
2ページ後まで分からないのである。
『このように、多くの歌曲は、読まれるのみで、
他のものは読まれたり、演奏されたりした。
また、他のものは、演奏のみである。
自然、すべてを朗読したいという誘惑もあったが、
最終的には、音・詩の集合バージョンにするべきだと考えた。
ペーター・ヘルトリングは、詩の順番や語順で、
シューベルトの版とは、少なからず異なった、
ミュラーの版による『冬の旅』を朗読した。』」

CDについた詩は一種類なので(ドイツ語のみ)、
これらのどこが違うのかは、簡単には分からない。
が、確かに、朗読と歌曲の対比や、
ヴィオラが登場しないピアノ伴奏部のみの演奏など、
聴き手をはっとさせる効果があるCDである。
前回、ドリヨンの「白鳥の歌」では、単に歌を器楽にしたのでは、
失うものが多すぎると、彼自身が書いていたが、
この4人組プロジェクトは、そもそも、そんな側面にいない。
失わせるものを増やして、本質を暴き出そうという知的な試みなのである。

「『演奏された歌曲は、シューベルトの手稿からの再現である。
器楽版で全曲が演奏されるわけではないので、興味を引く音楽学ではないが、
どこにアクセントがあり、クレッシェンド、デクレッシェンドがあり、
アルペッジョがあるかということを調べ、制作の進行を見るのに、
重要である。学者は、実際、これらについて論議している。
また、出版された版にはほとんど満足することが出来ない。
類似の箇所において、
編集者は、しばしばシューベルトとは違う、
お座なりの同様な処理で済ませたり、
何かの信念によって、個人的見解を取り入れたりしている。
何度も何度も原稿に当たると、驚きと興奮が新しい視界を広げた。
例えば、『風見』では、一小節が手書きにはなく、
このリズムの荒々しい仕草とフレーズを粉砕するメロディに、
聴く人は躓き、狼狽する。』」

ここは、喜多尾氏は、こう訳している。
「それまでのメロディとリズムはいきなりぶった切られ、
聴き手は意表を衝かれ、心を乱される。」
第十六小節だとのことだが、おや、と思うくらいで聴き飛ばしていた。

「『もう一つの例では、『幻の太陽』のピアノ後奏のあと、
ベルカント風の最後の試みが再度、繰り返されるが、
オリジナル手稿では、続く『辻音楽師』で、全てのトーンを高くして、
視界を広げ、見えざるものから解放し、明るくする。』
(ヘルムート・ヘル)。」
ということで、この長い独白は、ピアニストの言葉だったことが分かる。
この文章も、何だかよく分からないが、喜多尾訳ではこうなる。
「もう一つの例は、第23曲の『幻の太陽』の後奏だ。
ここでベルカントのメロディがもう一度反復されると、
自筆譜ではそれに続く最後の『辻音楽師』では一音高く始まる。
それによって視界は一段と開け、これまで見えなかったものが広く、
明るく浮かび上がる」。
これでは、後奏に何かあるように読めるが、
問題は、後奏があるということより、
『辻音楽師』の、冒頭にあるのだろう。

タラン・タランという、これらの序奏が、妙に浮き上がって、
『幻の太陽』の感傷性を完全に吹き飛ばしてしまう効果がある。
が、ライヤー回しが弾いていた音の模写としては、
妙に上ずって不自然である。
これまで、演奏されてきた版の方が、
聞きなれているせいか、自然な音と聞こえる。

しかも、この「幻の太陽」は、このCDでは、
例の後奏部しか演奏されていないというのがフェイントである。
ということで、この一枚目のCDは、いろいろと悩ましく考えながら、
大学の講義的に聴くものであって、リスト風に音楽を膨らませたり、
ドリヨン風に、ヴィオラの音で楽しみましょうといった類のものではない。

そもそも、最後に12分も、ヘルトリングの朗読による、
エピローグというのが続く。
ここで、ヘルトリングは、「冬の旅」の詩人ミュラーに焦点を当てて、
シューベルトと同時代に生きていたのに、全くお互いの事を知らなかった二人に、
思いを馳せている。

思慮深そうなヘルトリングが、
暖かな声で、愛情をもって語る詩人と作曲家は、
共に1790年代に生まれ、若くして火花を散らし、
1827年と28年に相前後して亡くなっているが、
子供の頃に、母親を亡くしたという境遇も似ている。

しかし、ミュラーは、ずっと行動派だったようで、
ナポレオンとの戦争では、兵役に志願し、
古代碑文の研究で、小アジアにまで赴き、
教師、図書館長、編集長などもやって、
小説、劇作、詩、評論を遺し、
宮廷顧問官としても多忙な日々を送ったとある。
旅にも明け暮れ、疲れ果てて、
家に帰り着いたとたんに亡くなったようだが、
破天荒な生き様は、シューベルトの比ではなく、
バイロンやゲーテを彷彿とさせる。

シューベルトは、こんな人には会いたくなかったと思う。
ミュラーもまた、シューベルトのような、
ただひたすらに内面を見つめたような生き方は、
まったく理解できなかったに違いない。

それにしても、こんなに盛りだくさんで、
多彩な内容が、よくCD一枚に入ったと思う。
が、歌曲を歌でなく、朗読でやると、
3-5分のものが1分くらいになっているし、
さっきのような一部しか演奏していないものもあるので、
「冬の旅」自体は、五十数分で終わっているようだ。

ここから、まだ、2枚目の白井光子の歌唱によるCDの解説が続くが、
今回は、ここまでとしたい。

得られた事:「出版社によって、また、慣習的な演奏によって、シューベルトは、本来の姿から離れ、口当たりよくされている場合がある。」
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by franz310 | 2007-09-30 18:33 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その89

b0083728_2121487.jpg個人的体験:
「Frederic Chiuは、
彼をこの歌曲集に導き、
1995年の
La Roque d’Antheronの
その演奏会に
参加させてくれた、
Jacque Drillonに、
特別な感謝を、
表明したい。」


これは、前回紹介した、チュウのCDの解説の最後に書かれていた言葉である。
このDrillon氏、私には、見覚えがある名前である。
何故なら、かつて、
「Schubert / Liszt / Drillon 『白鳥の歌』 ピアノとヴィオラのための」
という怪しげなCDを見つけて、購入したことがあった。
この三人の名前の最初の二つは良く知っているが、最後の名前は初めて見た。
そもそも、何と読むのか。ドリヨン?だろうか。
ということで、妙に印象に残っていた。

そのCD、何ゆえ、三人連名の作品なのか、
ちょっと、解説の中味を探って見よう。

これは、このドリヨンさん自らが書いたもので、
何だか、言い訳が沢山書いてある奇妙な文章である。
「On transcription of the second degree」とあるから、
第二次編曲について、という感じであろうか。

「ヨーロッパでは全く新奇なアイデアというわけではないが、
トランスクリプションのトランスクリプションというもので、
幸いにも遺されたものは稀である。
リストは、数年前に書いた歌曲の改作であるソネット104の、
4手ピアノ版を書いている。
グレン・グールドも、すでにアレンジされたラヴェルの『ラヴァルス』を、
自身のために二台(「二手」の間違い?)のピアノ用に編曲している。
もっとも、これは原曲がピアノ独奏用なのだが。
それほど苦労しなくとも、レパートリーには、そうした例が点在している。
ジャズでは、いくつかの例があり、
同じテーマで何百回も演奏し、
オリジナルのスナンダードナンバーに、
常に最新の推敲を続けているセロニアス・モンクも例外ではない。」

この人の解説は、思いつくことを全て、次々に息継ぎなしに、
書き連ねるもので、ブログではあるまいし、
是非とも、「最新の推敲」をしてもらいたいものだ。
モンクの例は、以下のように、列挙されている。
「例えば、コールマン・ホーキンズ(1939)の伝説的バージョンより古く、
すでに誰が原曲を書いたかも分からない『ボディアンドソウル』、
無数のバージョンの『サマータイム』、『アラウンドミッドナイト』が存在し、
これらはメロディの原作者に敬意を表したものだろうか。」
ここで、即興演奏を命とするジャズの例を挙げたのは、
少しずるいような気がするが、ドリヨンもそう思ったのであろう。
カッコ書きが続く。
(全身関節障害のような厳格な音楽の障害となる原典のカルト的崇拝と、
ジャズのハートであり、その生命力と言われる、
スタンダードナンバーに対するジャズのアプローチを比較すれば、
多くの事が確かに得られることを、ついでに、ここで指摘しておきたい。)

非常に、まどろっこしいが、自分が編曲した作品を、
必死に弁護しているだけにも見える。

「多くの場合、このセカンドディグリーのトランスクリプションは、
ソネット104の独奏版からの4手用ノトゥルノや、
グールドのラヴェルのワルツの例に見られるように、簡約形になる場合が多い。
(しかし、簡約が必ずしも、作品を貧弱にしているわけではないことを、
強調しておいた方がよい。)
ソネット104が、歌曲『平和を見出さず』から作られた時、
増量されたが、それは粉飾されたのではなく、
より豊かにされたのであって、これらは正確には別物とも言える。
しかし、4手のためにノトゥルノが作られた時には、
ソネット104は美しさも豊かさも失ってしまった。
グレン・グールドの10の指のために、
ラヴェルの『ラ・ヴァルス』が編曲された時は、
彼自身が演奏したというだけで、
デュオから大きく変わったとも思えない。
一方、歌手たちが登場しない、リストによる、
2台のピアノのためのピュアな編曲を一度聞くと、
ベートーヴェンの『第九』の終楽章には戻りたくなくなる。」
このあたり、意味不明。
どうやら、この人は、「第九」の声楽パートは嫌いなようである。

「『白鳥の歌』の歌曲は、完璧な美しさを有しているが、
それを執拗に主張する必要もない。
明らかに熟達した書法、完成された美、
修正、追加の余地なき美があるが、
しかし、『作品』として見るならば、
それらはスケッチの域を出るものではない。
そもそも、誰が、『作品』の完成時点を、
正しく決めることなど出来るだろうか。」

このあたりから、この解説者の真骨頂というか、
極端に走る傾向が再度、加速してくる。
結局、無茶な例題を加速度的に、自己弁護に持っていく、
めちゃくちゃな論法である。
ここから、どうでもよい例がたくさん登場する。
「死が修正のプロセスを中断することもあれば、
出版や金の必要、疲労などによって、人は、
作品の完成前にその愛着を忘れることが出来るのだ。
何とか、『ボヴァリー夫人』や『英雄交響曲』のように、
コントロールできたとしても、作品の解釈によっては、
未完成といった感情を呼び起こし、
特に音楽においては、その受容の進化が、大きな要因となり、
演奏の音響効果、原典の和音の解釈、楽器や歴史的、政治的文脈が、
評価に影響する。」

さらに、暴走が始まるが、私にはどうすることも出来ない。
「モーツァルトのピアノソナタの演奏を、
ピアニストが弾くとき、ピアノフォルテで弾くか、
現代の楽器で弾くかで、同じ作品とは思えないことがある。
だいたい、17世紀のフランドルのハープシコードは、
18世紀に大きなモデルチェンジを果たすが、
どちらがオリジナルと言えるだろうか。」

ここからは、もう読みたくないぐらいだが、
この変人の特色が出ているので、いやいやながら、読み進める。
「ロマネスク様式の教会を復元する場合、
その後、何世紀にも渡って補修された時に、
それぞれの重要さは認識できるものの、
大きな変更を行わなかった建築家による修正の、
どの時点までを採用すべきだろうか。
作品の起源なるものが、すでに論議されるべき主題なのだ。
ソネット104の作者は、ペロラルカかリストか。」
おいおい、こんな話まで始めるのか。

あの知性派のピアニスト、チュウが、
こんな発散系の文章を書く人に触発されて、
シューベルトを録音したとは知らなかった。

「フランス人にとって、『異常な歴史』の作者は、
ポーなのか、ボードレールなのか。
後者は、翻訳者だが、常に自分の作品と呼んでいた。
こうした、原典不明の問題作の例はいくらでも列挙できる。」
いくらでも列挙できるならしなくても良いが、
この人はどうしても博覧強記を陳述したいようだ。
いったい、『白鳥の歌』はどこに行った。
ここまでで2ページを要している。
残り1ページ半で、シューベルトは出てくるのだろうか。

「ジークフリートの物語に魅せられたGiraudouxは、
このテーマの小説を1922年に書き、
ここから1928年に劇を作った。
この二つに満足せず、彼は1934年に違うエンディングを出版し、
完全に改作された第四幕は、劇の正確を変えてしまった。
どちらの終幕を演じるべきなのだろうか。」

ここから、また、連想ゲームロケットが炸裂する。
「バッハのマグニフィカートでは、
ニ長調のトランペットが用いられるべきか、
変ホのリコーダーが使用されるべきか。」

まだまだ、関係ない話は続くぞ。
「実際、小さな9歳のジャン・パウル君は、
50歳のサルトルには似ていないが、
どっちも同じジャン・パウル・サルトルであって、
違いを論ずるには意味はない。
もっと言えば、人は死んでも、彼は生きていて、
私たちはそれを読み、批評し、彼の声を聞きさえする。
彼は私たちの存在に影響を与え続ける。
作品は成長し、成熟し、死に、生き残る。
まるで、血と肉を持つように。
私たちは50年間、殺人を試みられながら、
勇敢にそれに抗っている作品を賞賛する。
人は架空のつまらない原典を忘れようとするが、
それは動き続け、変化を続けている。」

ああ、やっと、ここからがシューベルトの話。
何とか、約1ページ分残っている。
ドリヨン氏は、脱線せずに、同じテーマで語り終わるだろうか。
それを祈るばかりである。
「1828年、シューベルトの死後、
出版された歌曲集『白鳥の歌』は、
その完成された美しさにもかかわらず、
運命づけられた改編を待っていた。
多くのシューベルトの歌曲は高い声のために書かれているのに、
F=ディースカウのようにバリトンで歌うようなものも含め。」
おお、こう来たか。
テノールで歌うべき作品を、バリトンで歌った時点で、
作品としては完成されていないので、この編曲の存在理由もあり、
ということが、彼は言いたいのである。
そこで、ヴィオラで、この曲を歌わせてみたのであろう。

「どうしても美しいものを、
より豊かにしたがるリストは、
それらを見事なピアノ独奏曲に仕上げた。
このトランスクリプションは、
1840年に出版されて再版を待っていたが、
ようやく1995年にデュラン社によってそれがなされた。
また、さらに別の一歩を踏み出す他の一章が、
このトランスクリプションの歴史に書き加えられていた。
シューベルトの歌曲を、
オリジナルの伴奏によってヴィオラで演奏する、
という試みが特にタベア・ツインマーマンなどによって、
試みられていたのである。
が、その際、テキストの詩の消失は、
取り返しのつかないロスとなってしまった。
他の方法がありそうである。」
これで、だいたい筋が読めた。
単に、声のパートを他の楽器に移すだけではダメなのだ。

しかし、チュウの演奏したCD(1998)は、
デュランの楽譜が出てすぐの録音だったということか。
ちなみにこのCDの録音は今世紀初頭のもの(2001年)。

ここから、またまた、区切りのない、恐ろしい文章が続く。
私はこの息継ぎが出来ないので、ぶつ切りにした。
「興味を歌からピアノに移すと、このパートは、
考えられうる限り豊かにされている。
つまり、リストのトランスクリプションが、
1992年、さらに編曲されることになったのである。
特に異常に展開された部分など、
いくつかの天才的な火花はそのままにして、
大胆なキーボードパートの輝かしい性格、
そこに加えられた、溢れるような装飾によって、
ポーピングで興奮させられたピアノ書法が、
テキストの詩の欠如を補うかもしれない。」
なるほど、単にシューベルトをヴィオラで演奏しても、
それは、歌詞を失った分だけ、音楽が引き算になるので、
リストの音楽的装飾を採用して、それを埋め合わせたということだ。
何とはなく納得できる作戦だが、
何故、あえて、ヴィオラで演奏しないといけないかは、
タベアに任せてしまった感じである。

「歌とピアノの関係はひっくり返され、ピアノを伴奏とした声ではなく、
独立したピアノが、控えめなヴィオラを、
ドンキホーテとサンチョパンサのような関係で、
引き連れていく。」

このCDの演奏を、何とはなしに聞いている限り、
第一曲「愛の使い」から、普通に、ヴィオラが目立っているが、
第四曲「セレナード」になると、確かに、最初の一節は、
ピアノ主体で歌われ、第二節からヴィオラが入って来る、
といった工夫がなされている。
リストが工夫した第三節の輪唱形式の部分など、
ヴィオラに続いて、ピアノが合いの手を入れる。
しかし、主客転倒という感じでもない。

さらに、リストが凝った曲順の変更は、ここでは、
何故か歌曲集の順番に戻っている。

「リストのバージョンで、
一体化されていたヴォーカルパートは、
ピアノパートから引き離し、
一節のみをシューベルトのオリジナルに戻したり、
伴奏をヴィオラに委ねてみたり、
ヴィオラ独奏にしてピアノなしで歌ったり、
ピアノはシューベルトの書法を残して、
リストの装飾をヴィオラに受け持たせたりした。」
いろいろな工夫が凝らされているようだ。
第七曲「別れ」など、最初はヴィオラで歌われるが、
中間は、豪壮にリストらしいピアノ独奏となり、
また、ヴィオラが戻って来るといった流れになっている。

ハイネ歌曲集の最初の第八曲「アトラス」では、
ヴィオラのカデンツァみたいな絶叫がある。
第九曲「彼女の絵姿」に至っては、荘厳壮麗な無伴奏ヴィオラ曲となっている。
これは最高に面白い発想だ。
第十曲「漁師の娘」でも、ヴィオラの装飾がおびただしく空を舞う。
これは、しかし、原曲の舟歌の軽さのようなものが、
この騒ぎで、少し失われた感じがしないわけではない。

「シューベルト/リストをベースとした、
ピアノとヴィオラによる『白鳥の歌』という、
第三の作品とするために、二者択一、または同時採用の改編等、
多くの処置は、その他の百にものぼった。」
先の「アトラス」もそうだが、
第六曲「遠い国で」、第十一曲「町」、第十二曲「海辺にて」などでは、
ヴィオラもピアノも興奮しきっており、
二つの楽器が一体化した、白熱した世界が繰り広げられる。
「町」は、エンディングにもう少し余韻が欲しいが、
これらの曲では、演奏者のすごい集中力が聴ける。
これこそが、この演奏の特徴かもしれない。
この曲集の持つ虚無感や寂寥感より、こうしたパッションが身上なのだろう。

これで解説は終わるが、演奏についてのコメントが、
以下のように、小さい字で続いている。
「この曲集は、トゥールーズで、Cyril Huveのピアノと、
Gerard Causseのヴィオラで初演された。
その後、ブリジット・エンゲラーのピアノと、何人かのヴィオリストが、
たびたび再演した。
この録音の演奏者が、変容の鎖に、本質的なリンクを加えてくれたことに感謝したい。
最後に、ここで採用した曲順は、リストのものではなく、
最初の出版社が採用し、以来、伝統的に歌われて来た曲順になっていることを、
書き留めておきたい。」
何故、リストのこだわった曲順にしなかったかは、
ここからでは読み取りにくいが、慣習に従ったということか。
こんな文章を書いている人らしくないが、一般には聞きやすいだろう。
最後に、「鳩の便り」が舞い上がって、爽快に終わる。
が、チュウのピアノが鳴り響かせた、はじけ散るような演出もなつかしい。

この感興は、このCDのジャケット写真には合っている。
EUTERPレーベルらしいしゃれたデザインであるが、
最初は「白鳥の歌」を連想させるものではないと思った。
このレーベルだからか、芸術監督は、あの作曲家ケーリングである。
ドリヨンとケーリングはどんな関係なのだろうか。

今回、ピアノを弾いているのは、
Edouard Oganessian、これまた、読めない。
チャイコフスキー音楽院に学んだとあるから、
ロシアの人だろうか。しかも、1988年、
リストオルガンコンクールなるもので、
賞を取ったとあるように、ピアノ専門ではないようだが、
幅の広い音楽家なのだろう。

ヴィオラは、ウクライナ人とある。
Guennadi Freidineは、ウクライナ国内コンクール優勝とあるから、
おそらく、ピアニストより一世代上の人だ。
各オーケストラの主席を勤め、教授でもあるらしい。
Boris Bratischevのヴィオラを弾いているとある。
さすが北方の音楽家たちで、燃える時の迫力がすごいと思った。
前回、透徹した演奏を聞かせたチュウのピアノよりも、
自然な感興に導かれている感じである。

残念ながら、今回のCDには、五重奏曲「ます」に関連するものはないが、
面白い試みを聞かせて貰ったと思っている。
シューベルトは、家族でアンサンブルを楽しむ時は、
確か、ヴィオラのパートを弾いたというから、
こうした試みでシューベルトの声を聞き取っても良いのかもしれない。

「ます」の五重奏曲で、ヴィオラの演奏家に魅力がないと、
台無しになるのは、こうしたことにも起因しているのだろうか。

得られた事:「現代においても、シューベルトの作品は、作曲家の霊感を刺激し続けている。」
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by franz310 | 2007-09-22 21:06 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その88

b0083728_13202281.jpg個人的経験:
シューベルトが
亡くなった時、
最期の時期に
手がけていた
素晴らしい歌曲の
原稿が残されていた。
それをうまく
出版社の
ハスリンガーが
利用した。

「白鳥の歌」と題して、一まとめにして、
死後早々に出版してしまったのである。
この中には、何と、死んだばかりのベートーヴェンから
転がり込んでいた仕事も含まれていた。
つまり、詩人のレルシュタープは、
自分の詩をベートーヴェンに送ったが、
死の床の楽聖は、それには手をつけず、
それをシューベルトに託したというのである。
もちろん、ベートーヴェンとシューベルトの関係は不明なので、
これも伝説の範疇を出る話ではない。

ただし、シューベルトの最初の連作歌曲集「水車屋の娘」を見て、
ベートーヴェンが感激したという話は広く伝わっているものだ。
また、レルシュタープが、思いも知らぬ筋から、
突然、自作が作曲されていることを知って、
「感動をもって受け取った」という話は、感慨深いものである。

このレルシュタープの詩による7曲が、
シューベルトが、友人の読書会で出会ったハイネの詩による6曲や、
さらに様式的に単純な、「鳩の便り」(ザイドル作詞)と、
一括してまとめられたことに異論を唱える人は多い。
が、繰り返し、この組合せで聞いていると、何となく、
自然にこの流れに身を委ねてしまうようになる。

重苦しいハイネの後に、それを解放するかのような、ザイドルが来ると、
ほっとする愛好家も多いようである。

物語性の強い「水車屋」や「冬の旅」は、
一部しか編曲しなかったのに、何故かリストは、
この問題の歌曲集については、全曲を取り上げているのである。

しかも、上述の非統一性を、再度、考えさせる形での編集となっている。

今回、取り上げるCDは、不思議なことに、この「白鳥の歌」に、
追加で一曲のみ、「ます」が収められているという選曲である。

ハルモニア・ムンディ・USAのレーベルから、
1998年に出されたもので、
「芸術家のスタジオからの眺め」という、
シューベルト、リストの時代を生きた
Jacob Alt(1789-1872)という人の、
1836年頃の作品が表紙デザインに使われていて、
往時を偲ばせる。
これは好きなデザインである。

ただし、ピアノを弾いている、
中国系アメリカ人FREDERIC CHIUの芸風とは、
ちょっと違うようである。
そもそも、冒頭に置かれた「ます」からして、
奇妙なビートが効いていないだろうか。
ここでは、リスト編曲の「第二版」が用いられているようだが、
明晰なタッチで、各音符が明瞭に聞き取れるとは言え、
ますがすいすいと泳いでいるような感じではなく、
個々の音符が独立し、それらが、元の曲とは異なった息づかいで、
ぽつぽつと並んでいるような感じである。
それを、前述の、不思議なビートの推進力が押し流して行く。

また、曲順もリストに従ったのか、
いきなり、シリアスな「都会」が、不気味な低音を轟かせ始める。
本来、小川のさざめきの「愛の使い」によって誘われる、
「白鳥の歌」のイメージは、冒頭からぶち壊される。

チュウの硬質のピアノが、感傷性を排除して、
とにかく本質に踏み込もうとするので、
しっとりと身を委ねられるといった演奏ではない。

その解説は、このピアニスト自身が書いていて、
それを読んでみると、いろいろと面白い見解を表明している。

「シューベルトは、『作曲するだけのために生まれて来た男』
と呼ばれることが多いが、彼は文学的な才能にも恵まれており、
書簡や日記の断片は膨大であり、詩的で誠実なひらめきに満ちている。」
確かに、「シューベルトの日記」などという本も、
出版されている。

「彼の読書はドイツ文学のみならず外国のものまで、
また古代から同時代のものまで広い範囲に及び、
130人を超える作家に詩的な共感を覚えていた。
シラーのような峻厳で深い詩人に感応するかと思えば、
気取らないベストセラーの類にもレベルを合わせることはなく、
楽しんでいた。
彼の音楽は、前者によって拡大され、普遍化されたが、
後者によって豊かにされ、個人的なレベルにもマッチさせられている。」
なるほど、うまい言い方である。
このピアニストの論理的な解釈が伺える一節である。

「リストがトランスプリクションにおいて取った立場も同様で、
彼が取り上げた作曲家の数は、
シューベルトが作曲した詩人の数に匹敵するほど多い。
彼は、これらの雑多な各作曲家に適切に自身の芸術を反映させ、
バッハやベートーヴェンには忠実な改作を行い、
ベルリーニやドニゼッティのパラフレーズでは、
凝って作り変えたテーマで完全な新作を作り上げている。
また、この両極端の間に、ワーグナーでは構造的な変更から、
もっと高い抽象的な必要性から、芸術的に改作したものもあり、
シューベルトの歌曲などは、そこに含まれるが、
これらはトランスクリプションを、
弾いたり聞いたりしているということを、
忘れさせるものとなっている。」

「二人の人生は対照的という以上のものと言えるかもしれない。
リストは穏やかに高齢まで生き、
シューベルトは熱病のパニックの中に若くして死んだ。
前者は王侯のように世界中を旅行したが、
後者は、田舎に三日行く金にも難渋した。
だが、同様の苦境を味わってもいて、
その本質を公衆から正しく認められなかった。
シューベルトは歌曲の作曲家以上のイメージを持たれず、
ピアノ曲は、その難しさゆえに出版社から拒絶され、
交響曲は、オーケストラから演奏を拒まれた。
リストは超絶技巧の見世物としてのイメージと戦い、
ワーグナーや未来の芸術の助言者であったにもかかわらず、
厳格な作曲家としての尊敬は決して得られなかった。
1830年代に、ヨーロッパ中で成功を収めるはじめにあたり、
リストは無意識にシューベルトの中に、自らの詩人の魂、
公衆に理解されないさすらい人の同伴者の先駆を見出したのだろうか。」
こう書かれると、リストがいかに、
シューベルトを大切に考えていたかが偲ばれる。

「シューベルトのハイネとの邂逅は、
『ここまでの理解が出来る人は、同等の詩人なのだ』と言われてきた。
これは同様に、シューベルトの詩的な力がリストに乗り移り、
シューベルト-リストのハイブリッド型以上に、
ロマン派の理想的な重要人物を創造することは不可能であり、
両者の共鳴、相補的関係は、リストの自我が、
シューベルトを利用したということではない。」

「ハイネ、レルシュタープ、ザイドルの詩に付曲した、
『白鳥の歌』の14の歌曲は、『冬の旅』や、『水車屋の娘』のような、
物語性は持たず、作曲家の死後に、
出版社がシリーズのタイトルや曲順を決めたのにもかかわらず、
出版された版での演奏や録音が通常となっている。
このドラマ性の欠如が、リストをひきつけたのかもしれない。」

「事実、この曲集のみが、全曲の編曲がなされている。
色彩とテクスチャーの彼らしいパレットのみならず、
鍵盤の全域を利用して、類似の歌曲には明瞭な性格付けを行った。
それから、彼は歌曲を自由にドラマティックな構成で並べ替えた。
さらに、各曲を調性で関連付けた。
偶然の集合体は、こうして一つのネックレスとして生まれ変わった。
それは、二つの歌曲、「君の絵姿」、「春への憧れ」を、
一体化させたペンダントを有する。
このようにリストは歌曲集全体を再構成し、
シューベルトが長生きしていたら、
きっと、そうしたであろうことを実現した。」
このように、このCDの曲順は、リストの意図を忠実に反映したものである。


「シューベルトの繰り返しの多い有節歌曲は、
詩のムードに従って変化する、
多様な伴奏を行わせる機会をリストに与えた。
7つの節からなる『鳩の使い』などは、
シューベルトによって各々、ペアとして分けられ、
最後の一節は終結のエコーとして扱われている。
連続する8度の音形は、左手では等分化され、
右手ではシンコペーションされている。
両方の手は、全曲を通じて、同じ音域に留まっている。
リストは、この単純な伴奏に、9つ以上の異なったヴァリアントを施した。
オクターブ・ダブリング、和音の変更、アルペッジョへの分解、
両手の交錯、16分音符の追加など。
リストは、テキストからの示唆を拒絶したわけではなく、
3オクターブにわたって飛翔する、右手の16分音符のさえずりは、
歌曲が伝書鳩に、こう言わせる部分である。
『鳩は飛ぶことが出来れば、それだけで嬉しいのだ。』」
本当に、この曲などは、まるで魔法のような千変万化の変容を見せる。
恐ろしくも素晴らしい音のパレットである。
それでいて、原曲はしっかりと歌いこまれている。
とはいえ、この曲は最後から二番目の配置である。
まず、ここから聞くことになってしまう。
しかし、これを読んで聞くと、シューベルト最後の歌曲の大きな飛翔を聴くと、
思わず胸が詰まってしまった。
シューベルトが描こうとした未来を、
リストが正しく汲み取って、羽ばたかせてくれたことに、
感謝せざるを得ない。

「『影法師』では、鳴り響く和音が、
pppからfffに増大化する、
ほんの2オクターブに収まるシューベルトの書法が、
リストによって異なった音声までを付加されて、
ダイナミックな進行を強調する。
左手の単純な和音と右手の旋律の線で始まる、
すぐに、右手はその和音と結合し、
ダイナミックがppから離れる前に、
緊張は高まり始める。
今回は両手のアルペッジョで奏される和音に、
継続的に支えられながら、
メロディは、最初のクレッシェンドに向かって、
オクターブを倍速で歌われる。
左手のトレモロを通って、
fffに至る最後のクライマックスの高揚が訪れる。
原曲における明らかなシューベルトの意図は、
この編曲の中でリストによって裏切られることはない。
一方、シューベルトの一見、
シンプルなフレームワークに内在する素晴らしい可能性が、
リストによるドラマティックな構成を超えた肉付けによって、
白日の下に晒される。」
この曲も最後から三番目に収められるが、
チュウの解説は熱い。
確かに、シューベルトの作品が持っていた可能性を、
ここまであの手この手で開陳して見せながら、
それでいて、原曲を損なっているようには見えない。
確かに、これは、音楽による、シューベルト歌曲の、
素晴らしい解釈の一例と言えるのだろう。
それを、シューベルトの枠組みから外れることなく、
成し遂げているというのは凄いことである。
もっともっと、リストは幻想の翼を広げていくことも可能だっただろう。

「オリジナルの歌曲の形から、リストが行った改変は、
すべて音楽的で筋が通ったものである。
『漁師の娘』において、リストは第四節を付与したが、
それは、タイトルから連想される、
水の世界を想起させる流れる小波を描いたものであると共に、
最後の一節、『ぼくの心は海のよう。嵐もあれば、潮の満ち引きもある』
の反映を垣間見せるものだ。」
これは、リストが二曲めに置いたもの。

「名高い『セレナーデ』では、リストは主題を、
三つの異なったオクターブのレンジで提示する。
最初には、中音域で、二回目にはもっとメランコリックなチェロの音域で、
そして最後の三回めには、ここで輪唱の形で主題が高い音域で伴奏されるが、
バルコニーの恋人が彼の声に唱和する、
ギャラントなセレナードのシーンを音で描いたものだ。」

何と、かつて、ホロヴィッツがこの曲を弾いた時には、
指が何本あるんだ?ということばかり話題になったが、
リストがここでやりたかったことは、
もっと具体的な幻想シーンだったということだ。
こう見ると、リストがみんなに誤解されていたということも、
どういった次元で、何が誤っていたかを見せ付けられた感じである。
この名曲は、リストによって7曲めに置かれ、まさしく、
ネックレスのペンダントのような位置にある。
チュウが書いた、2曲は、それに続いて置かれている。

「リストが音楽旅行の間に作った、
これらのトランスクリプションの成功が、
シューベルト歌曲に対し、空前のブームを引き起こした。
(皮肉なことに、シューベルトは『冬の旅』を、
わずか15グルデンで交渉しなければならなかったが、
リストは同じ出版社から500グルデンの利益を受けた。)」
この出版社こそ、冒頭に書いたハスリンガーである。

「これらのポピュラリティは、リストの生涯にわたって持続したが、
その死後、急激に忘れられた。
続く世代のピアニストたちにも、リストの前例は霊感を与え、
タウジヒ、ラフマニノフ、ゴドフスキーなどは、自身のバージョンを、
ある歌曲には作り、リストの域に数や気品に迫ったものは皆無であった。
シューベルトがテキストに与え、リストがそのトランスクリプションで与えた、
普遍性というものは、すでに興味を引くことはないのだろうか。
近年、これら二人の作曲家に対する視線は暖かい。
その録音は多くないし、受け入れられることもないけれど、
厳格な研究が進み、その生涯や作品の再検討が行われている。
彼らの天才は疑うことなく明らかになった。
『白鳥の歌』の再発見は、この重要なギャップを埋め、
シューベルトの最も峻厳な部分と、リストの天才と巨匠性が、
明らかにするものである。」

感服しました。

確かに、寄せ集め歌曲集のような「白鳥の歌」が、
このような観点で再解釈されると、何だか未知の世界に踏み込んだような、
神妙な気持ちにさせられる。
レルシュタープとハイネの歌曲の違いを超えて、
渾然一体となった、最晩年のシューベルトの世界観とは、
ひょっとしたら、こうしたものだったかもしれない。

得られた事:「リスト編曲の『白鳥の歌』は、的確にシューベルトの世界観に共鳴し、そこからの幻想を余すことなく描き出した逸品であると見た。」
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by franz310 | 2007-09-16 13:27 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その87

b0083728_23335575.jpg個人的経験:
シューベルトの、
歌曲「ます」に対し、
ピアノ独奏用の編曲を
リストは2度行ったと、
前回取り上げた
CDの解説に
書いてあったが、
今回のCDには、
この「第二版」が
収められている。

このCD、かなり凝った選曲になっていて、
「ミュラー歌曲(第二版)」として、
「美しい水車屋の娘」の6曲が、リストが並べた順で収められていて、
それについての解説もある。

また、シューベルトの歌曲を集めて、
「宗教的歌曲集」として編んだ4曲も、
リストの思惑を尊重し、そのままの形で収められている。

その間に、「水車屋の娘」からの
「いらだち」(第一版)というのまであるが、これは、
先の「ミュラー歌曲集」の第六曲と原曲は同じものである。
従って、この曲だけは2度聴けるわけだ。

また、ややこしいことに、「ミュラー歌曲集(第二版)」に含まれる「いらだち」は、
第三版ということになっている。
ということで、この曲には、まだ知らない第二版もあって、
リストは、たびたびこの曲を取り上げたということが推測できる。

第一版は、解説によると、「ます」の第一版などと一緒に、
「6つの歌」として、1844年にパリで出版されたとある。
なんだか、尻切れトンボみたいな終わり方である。

だが、もう一方の「第三版」は、「ミュラー歌曲集(第二版)」を、
締めくくる曲なので、しっとりと余韻を残して終わる。
なぜ、このCDのプロデューサーやピアニストは、
「いらだち」の二つの版を収録しておきながら、
「ます」については、第一版を取り上げなかったのか、
私には理解できない。

とはいえ、こうした混乱の責任は、編曲者にあって、
リストは、事あるごとに、シューベルトの歌曲の好きなのを集めて、
いけばなのようにして出版していたということであろう。

それにしても、「ミュラー歌曲集」にも、第一版というのもあるのだろうか。
また、「水車屋の娘」からの、もう一曲「萎める花」はここに含まれていない。

このCDは、ナクソスのリスト・シューベルト歌曲編曲集Ⅱとなっていて、
「編曲集Ⅰ」の方には、この「萎める花」が収められているので、
重複を避けたとも考えられるが、このⅠとⅡでは、ピアニストが違って、
どうしたわけか、「水車屋の若者と小川」は、両方のCDに収録されている。

b0083728_23332069.jpgちなみに、この第一集には、
かなり早い時期(1838年)
の編曲、「12の歌」から、
6曲が収められているが、
第二集には2曲しかなく、
両方揃えても、
すべてが揃うわけではない。
また、同様のアンソロジー
「6つの歌」も、両CDに一曲ずつ
(「萎める花」と「いらだち」)で、
あとの「ます」、「乙女の嘆き」などはなく、
これまた揃わない。

NAXOSは、まだ、この続きを計画しているのだろうか。
「リスト・ピアノ曲全集」の第五集と第十七集なので、
当然、「冬の旅」や「白鳥の歌」も出るのであろうが、
そのたびにピアニストを代えたり、
重複を許したりするのだろうか。

改めて見ると、5年も録音に間隔があり、
プロデューサーも違うようだが。

(ここまで書いてふと思ったのだが、この「6つの歌」に、
「水車屋の娘」から、上記2曲が収められているので、
これらを「ミュラー歌曲集(第一版)」と呼ぶのかもしれない。)

とはいえ、このように、このCDは、
こうした版のことまで、視聴者に意識が行くように、
しっかりと明記しているのがありがたい。
これまで取り上げたCDでは、こうしたことは皆無であった。
リストの作風を考えると、このような措置は、必要不可欠であろう。

その他の曲としては、「ばら」、「海の静けさ」、「ゴンドラの漕ぎ手」、
「愛の便り」、「アヴェ・マリア」なども収められ、
「宗教的歌曲集」の後には、「涙の賛歌」、「魔王」が続いて締めくくられる。

演奏は、Valerie Tryon(ヴァレリー・トリオン)という人で、
12歳の頃からピアニストとしてBBCから放送されたという経歴。
王立アカデミーを最年少で入学、最高位を取った女性だとのことである。
奨学金でパリに行き、フェブリエに学んだらしく、
バッハから現代まで60もの協奏曲のレパートリーを誇り、
ショパン、リスト、ラフマニノフなどロマン派を得意にしているとある。
生涯にわたるリスト普及で、ハンガリーの大臣から賞をもらったとあるから、
ひょっとして、かなりの高齢?
いずれにせよ、リストの専門家と見てよいのだろう。

第一集のヤブロンスカヤより、落ち着いた表現で、
今まで聞いたどのリストよりも高雅な感じがする。
カバーのリストの肖像画のデッサンも悪くない。
第一集は、有名曲をとにかく集めましたという選曲であるが、
カバー写真が晩年のリストで、
これらの編曲を行っていた時期とかけ離れていて、
私には抵抗がある。
第二集のデッサンは、若きリストの横顔を捉えている。
価格も安いし、お買い得のCDと言えよう。

それにしても、先の共通する一曲、
悲しい悲しい「若者と小川」の演奏を聴き比べると、
トリオンが5分で弾いているのに、
演奏時間を見ると、なんとヤブロンスカヤは7分もかけている。

イギリス人とロシア人の差であろうか、後者はどっぷりである。
トリオンが比較的聞きやすいのは、こうしたテンポ感が良いのかもしれない。
ヤブロンスカヤでCD一枚全曲聴くのは、かなりヘビーな体験となる。

関係なかろうが、トリオンはハンプシャーの教会での録音、
ヤブロンスカヤは、カリフォルニアのフィッシャーホールでの録音。
これを見ると、余計に、先入観も手伝ってしまい、
トリオンの方が、落ち着いているように感じられるではないか。
重複曲があったおかげで、いろいろと考えてしまった。

解説を見てみよう。
すると、第一集は誰だかわからないが、第二集には、
Keith Andersonという記名があるのも頼もしい。

このトリオン盤の解説では、冒頭に、これらの編曲に対する、
1839年という早い時点での批評が紹介されている。

「シューベルトの歌曲の、
このトランスクリプションによって、
リストは新しい形式を創造した。
これは古典的な歌曲の旋律的和声的美観を、
ピアノだけで奏する叙情詩に翻訳し、
彼の手になる豊かなピアノ語法をいっさい犠牲にすることなく、
歌と朗唱の力強さを完成させることに成功している。」
Carlo(Oietro Mechetti)
Wiener Zeitschrift fur Kunst, 7th December, 1839

ちなみに、後述のように、この時点で発表されたものには、
「ます」や「水車屋の娘」からの編曲は含まれない。
これらは1940年代のものだからである。

トリオンのCDの解説は、ここから、リストの生涯が概説されるが、
それよりも気になるのは、「ミュラー歌曲集」である。
ここから見てみよう。
「シューベルトの歌曲集『美しい水車屋の娘』からの、
6つの歌曲の編曲は、彼自身の小さな第二の歌曲集をなし、
調性の流れを注意深く考慮してプランされている。」
ということで、なんと、リストは、すっかり、
原作のストーリーを無視していたことがはっきりした。

「オリジナルはデッサウの詩人ミュラーが、
1820年に出版し、1824年には、
後にシューベルトが歌曲集『冬の旅』を作った詩と一緒に
再版された詩による、20曲の歌曲である。
この第一サイクルの詩は、粉引き職人が、
修行を終えて旅に出て、この詩の題名となった娘を恋するが、
恋敵の狩人ゆえに彼女に拒絶され、最後は旅の友であった、
小川の中に身を沈めるというというもの。
リストはシューベルトの第一曲『さすらい』で、
彼の曲集を開始し、5節のうち3節を編曲した。
このうち最初の一節は原曲に近く、第二節はアルペッジョで飾られ、
第三節は、メロディはさらに複雑なテクスチャーに織り込まれる。
第二の曲はシューベルトの歌曲集の最後から二番目の曲であり、
若い粉ひき職人と小川の対話で、
前者の失恋と絶望に対し、後者は彼を励ます。
ト短調の若者の言葉は、中音域で表わされ、
小川の声はト長調で高音域で表わされ、さざなみを示す装飾音形が伴奏し、
若者の返答ごとに、テクスチャーは次第に複雑さを増していく。」

「ここで、リストはシューベルトの第十四曲『狩人』に戻り、
狩猟ホルンで中断されながら彼の呼び声が表現される。
リストは、この曲にオリジナル第十七曲の『嫌な色』
(狩人の緑)を、フレームワークのハ短調に合うように、
ハ短調に移調されて、三部構成に構成している。
『どこへ』は、シューベルトの原曲の第二曲で、
楽天性が幸福にも戻って来て、
「いらだち」は、オリジナルの第七曲で、イ長調から変ロ長調に移調されて、
このサイクルを締めくくるのに相応しい調とされている。
リストの『ミュラー歌曲集』は、1846年に書かれ、
同じ年にパリで出版されている。」

このように書かれると、リストは、原作侵犯の確信犯であることが分かる。
前回のPeeblesのように、こうして、一度曲集として完成したものを、
原作どおりに並べ替えると、調性のプランが崩壊してしまうわけだ。
「冬の旅」で、Duisが取った方法が正しかったようだ。

しかし、こう考えると、各曲をばらばらに演奏することに対しても、
なんだか難しい問題を生じそうである。
今度は、リストをオリジナルとする原典尊重が犯されるわけだ。

ここで、リストがあえて、あからさまな編作を行った背景を、
こじつけとして考察してみると、1846年といえば、
リスト35歳、三人の子供を儲けたダグー伯爵夫人と2年前に別れ、
次なる運命の女性、ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人と出会う前年にあたり、
ちょうど、これらの中間地点に相当する。
死で終わる失恋をそのまま描くには抵抗があったかもしれない。

「この版の『いらだち』は、リストが作った三番目のもので、
ヘ長調のものは、1844年に『6つのシューベルトの歌曲』の
一つとしてパリで出版され、シューバルトの詩による『ます』のある版も、
そこに含まれている。
この『ます』の第二版は、続いて行われた修正の結果であり、
釣り人が、魚を罠に追い込む水辺の情景を生き生きと示唆する
相当な推敲が盛り込まれている。」

このように、この解説では、シューベルトの五重奏曲「ます」の、
原曲の歌曲から、派生したリスト作品の2曲の違いについても触れられ、
非常に助かる。しかし、前回のCDでは、ほぼ同時に作られたとあったが、
ここでは、第一版から第二版は、何年か経過している書き方である。

とはいえ、罠に追い込む様子というのは、
ちょうど歌曲で、ますが捕らわれたタイミングで鳴り響く、
ぴょろぴょろぴょろという冗談みたいな、装飾的展開のことだろうか。
ここは、第一版でもすでに目立つ追加部(原曲にはない)だ。
ただし、この二つの「ます」を比べると、序奏からして、「第二版」の方が凝っていて、
水中に潜っていくような描写が倍くらい長いので、より煙に巻かれたような感じ。
しかも、最後も名残惜しく、長く音が続く。
第一版の方は、「はい、これでお仕舞い!」という感じだが、
それではあんまりだ、という意見もあろう。
第二版には、悲しみの余韻がある。

こうして聴き比べると、トリオンのピアノは、
主旋律を生かして、装飾音に、粒立ちや弾け感など、
派手さがないので、上品に感じるのかもしれない。
リストは、もっと派手にやっただろう。

あとの収録曲にも詳細な解説が当然続く。
「シュレーゲルの詩による『ばら』は、
ばらが咲き、日中の暑さに萎れ、死んでいく様子を、
人生になぞらえたものである。
リスト編曲の第一版は、1833年、パリで出版されているが、
これは取り下げて、彼は改訂版を出しているが、
1838年に、ヴィーンで『ヴィーンの婦人への賛歌』として出したのが、
初お目見えとなった。
これは、原曲のデリケートでシンプルな性格を捉えた編曲だ。」

「ゲーテの詩による『海の静けさ』は、
海の不気味な深さを示唆し、リストの編曲もこれを受けて、
朗々と鳴る深いアルペッジョが反響する。
1838年に第一版が、シューベルトによる、
12の様々な歌曲の一つとして出版された。
これに続けて演奏されているのは、非常に異なる雰囲気のもので、
シューベルトの友人、マイヤーホーファーの詩による男声合唱曲
『ゴンドラを漕ぐ人』で、1838年にヴィーンで出版され、
ヴェニスのマーク教会の真夜中の鐘の音が聞こえる。」
歌曲の編曲と言いながら、リストは、
こうした男声合唱曲も手がけていたのである。
シューベルトが、こんなしゃれた事をやっていたかと、
オリジナルの男声合唱も聞いてみたが、確かに、
鐘を模倣した場所がある。
リストは、それを盛大にやっているだけだった。

「『愛の便り』は、出版社がシューベルトの死後集めた、
歌曲集『白鳥の歌』の最初の歌である。
レルシュタープの詩は、小川に恋人への便りを言付ける。
リストは1840年にヴィーンで再注文に応じた。」

「リストによって編曲されたシューベルト歌曲で、
最も有名な曲として知られるアヴェ・マリアは、
スコットの『湖上の美人』で歌われる三番目のエレンの歌で、
聖処女への祈りであり、1824年にシュトルクの独訳が現れ、
翌年、シューベルトは三曲を作曲した。
ピアノ編曲は、1838年に、12の歌曲の一曲として出版された。」

「リストは四曲からなる『宗教的歌曲集』を編み、1841年に出版した。
最初の『連祷』は、哲学教授のヤーコビの詩にシューベルトが付曲したものである。
ムードは平静であり、これに、『天のまたたき』(天国の光)が続く。
これは、ヴィーンのフランス語の教授、ジルベルトの単純なものに思いを馳せる祈り。
『星座』は、クロプシュトックの詩により、
野や森、渓谷や山岳での神への賛美である。
トランスクリプションは、主題に相応しく歌に先立つ序奏を拡大している。
この編曲集の最後は、1815年、シラーの詩への付曲、
パートソング『無限なるものへの賛歌』から改作された『賛歌』である。」
この最後の曲は、どうも、劇音楽「ロザムンデ」の合唱のようだが、
この解説は合っているのだろうか。

「シュレーゲルの詩による『涙の賛歌』は、
1818年の作曲であり、1837年に編曲され、
翌年、ヴィーンで初演された。これも、
『ヴィーンの婦人への賛歌』に収められた。
今回のシューベルト歌曲のトランスクリプション集の最後は、
『魔王』のドラマティックなピアノ版で終わる。
リストは死にかけた子供を抱いて森を駆け抜ける父親の騎馬の恐怖や、
最後に子供の命を奪う魔王の誘惑の声を捉え、
『彼の腕の中で子供は死んでいた』という終結部を表わしている。」

得られた事:「リスト編曲の歌曲『ます』は、第一版は寄せ集め歌曲集(1844)の一曲で、拡大された第二版は独立して出版された模様。間をおかず同じパリで出版、当時から人気の歌曲だったと思われる。」
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by franz310 | 2007-09-08 23:46 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その86

b0083728_19365740.jpg個人的経験:
シューベルトの歌曲を、
リストがピアノ独奏曲として、
編曲し、各地で演奏したことが、
それら歌曲の普及に繋がった。
しかし、
いろいろなCDを見てみると、
どうも、中途半端な印象がある。
リストが取り上げた歌曲、
特に歌曲集に関して言えば、
妙にばらばらではないだろうか。

F・ディースカウの書いた、
「シューベルトの歌曲をたどって」(原田茂生訳 白水社)を見ると、
リストが編曲したシューベルト歌曲54曲は、次のようなものになるようだ。

ハスリンガー社から:
1. セレナード
2. 涙の賛美
3. 郵便馬車
4. ばら

ディアベリ社から:
5. 私の挨拶を
6. 水の上で歌う
7. 君こそは憩い
8. 魔王
9. 海の静寂
10.若い尼僧
11.春の想い
12.糸を紡ぐグレートヒェン
13.セレナード(1との違いは不明)
14.憩いのない愛
15.さすらい人
16.アヴェ・マリア

以下、数社から
17.連祷
18.天国の光
19.星座
20.賛歌
21.別れ(Abschied D578)
22.乙女の嘆き
23.弔鐘

という風に、うまく、歌曲名曲集の体をなしている。

が、次からは、3大歌曲集のバラバラ事件が始まる。

以下、「美しい水車屋の娘」からのものには、(美)を、
「冬の旅」からのものには、(冬)を、
「白鳥の歌」からのものには、(白)を付し、
その中の本来の曲順を番号で示した。

24.(美18)枯れた花
25.(美7)いらだち
26.ます
27.(美1)さすらい
28.(美19)小川のほとりの水車屋
29.(美14)狩人
30.(美17)邪悪な色
31.(美2)どこへ

と、このように、まず、「水車屋の娘」の7曲がリストの手にかかる。
何故、「ます」が混入したのかは分からない。
いきなり、「枯れた花」で始まる理由も不思議といえば不思議。

この前、取り上げた、クズミンのCDでは、
ここから、「Die Schone Mullerin」と、
「Der Muller und der Bach」を取り上げていたが、
前者は妙な題名に置き換えられているが、
実態は、上記(美1)で、後者は(美19)である。

従って、どうせ、抜粋なのだから、
最初と最後だけ取り上げてやろうという
算段であろうか。

また、実は、「Der Muller und der Bach」も、タイトルには問題があって、
シューベルトの原作では、「水車職人と小川」であるのを、
リストがあえて題名を変えたのではないかと、F=ディースカウは推測している。

さて、今回のAntony Peeblesというイギリスのピアニストが、
イギリスのMeridian社から出したCDは、
いかにも、ロマンティックなジャケット写真が気になって購入したものだ。
ただし、絵の作者はどこにも書かれていない。

ここでは、

1. Das Wandern(美1)、2.Wohin?(美2)、3.Ungeduld(美7)、
4. Der Jager(美14)/Die bose Farbe(美17)、
5. Trockne Blumen(美18)、6.Der Muller und der Bach(美19)

と、リストが編曲したすべてを収録している。
(ただし、後半は、何故か、「白鳥の歌」の「抜粋」である。)
トラック4が2曲の混成体であるのも気になる。

改めて、表紙の絵を見直すと、荒涼たる廃墟の風景で、
緑の中で歌われる「水車屋の娘」のイメージからは遠い。
また、「白鳥の歌」になると、もう少し都会のテイストが出てきて、
この絵がそれに合っているとも思えない。

大筋、こんな雰囲気の時代にシューベルトは憧れていたのではないか、
と思わせるのみで、この絵を見ながら、
曲想に思いを馳せることは出来ないかもしれない。

さて、リスト編曲の「水車屋」の順番は、
全20曲中、1/3の7曲のみが、
順番も無残に入れ替えられていて、これでは、
小川に身を投げた若者が生き返って、
どこかへ行ってしまうような構成である。

さすがに、Peeblesは、これではいかんと考えたのか、
曲順はオリジナルに戻してある。
それでも、(美7)から(美14)までの、
肝心の「娘」が活躍?する所は、リストは興味がなかったことが分かる。

このCDの解説はどうだろうか。
「リストはシューベルトの56曲の歌曲をピアノ独奏曲に編曲したが、
そのほとんどは、1838-40年の、リスト20代後半に書かれている。
彼は、その時、『白鳥の歌』の14曲すべてを編曲したが、
このうち10曲はこのCDに収めており、残りの4曲は、
このシリーズのvolume1に収めてある。」

解説の冒頭から、別のも買えという指示も、めちゃくちゃであるが、
何故、14曲を10曲と4曲に分割したかと、声を大にして叫びたい。
リストがばらばらにして、レコード会社までがそれに加担する。

ちなみに、収録されなかった4曲は、(白1)、(白4)、(白5)、(白12)で、
「愛の使い」、「セレナーデ」、「すみか」、「海辺で」となり、
これが、何か意味を持っているとも思えない。

このCDでは、ここから、「美しい水車屋の娘」の解説になる。

「『美しい水車屋の娘』から7つの歌曲。
シューベルトは『美しい水車屋の娘』を1823年に作曲した。
20の歌曲が物語りの筋で、サイクルを構成している。
i)(歌曲no.1)若い粉引き職人が、希望に満ちて、
特に当てもなく、楽しいさすらいの旅へと出かける。」

どうやら、この解説は、リストとは無関係に、
ひたすら、歌われない詩の内容を説明する作戦らしい。
物語の代用で、音でシーンを想像せよという趣向と見た。

この曲でリストは、
次第に弧を描くような音形の追加で、若者の心の高まりを、
ぴちぴちとした装飾の追加で、
楽しい旅の弾む心を強調している。

前回のコズミンでは、これらをことさらに強調して、
しかも、やけに速いので、ほとんどふざけたピエロの巡業のようだったが、
今回のピーブスは、それよりは節度を持っている。
フレーズの終わりでは、小さくテンポを緩めて、粋な表情を見せたりもする。
ただし、これは、シューベルト的とは言えず、リストの様式であろう。

「ii)(歌曲no.2)このさすらいで、小川を見つけ、
歓迎のさざめきを聞き、どこであろうと、
それに沿って行くことを決める。」
ここでも、縦横に鍵盤を跳ね回る装飾が付加されているが、
もう、真珠だかパチンコ玉だかが、そこらじゅうに転がっている雰囲気。

「・・その小川は水車屋に導き、
そこに彼は滞在し、働き場所を見つける。
美しい水車屋の娘というタイトルにある、
愛らしいそこの娘と当然恋に落ちる。」

曲がないところは、こんな風に解説がストーリーを補足する。

「iii)(歌曲no.7)若者は、その情熱を激しく爆発させ、
『私の心は君のもの、いつまでも』と宣言したくなる。」
シューベルトの歌曲の伴奏そのものも輝かしいので、
歌手が歌う部分を付加したくらいで控えめに聞こえる。
リストの貢献は、上記、興奮をものすごい音の洪水で埋め尽くした点。

「・・しかし、娘は、冷たいままで、イケメンの狩人が現れると状況が一転し、
彼女は、そっちに夢中になってしまう。」
当然と言えば当然、ぺえぺえの新人が、
目の肥えたOLに相手にされないようなものだ。

「iv)(歌曲no.14)と、v)(歌曲no.17)。
リストはこの歌曲2曲をABA形式に融合させてしまった。
『狩人-嫌な色-狩人』といった風に。
『何故狩人は現れた。君のいるべき森へ帰れ。
猟犬も連れて行け、角笛も吹くな、狩人の着ている緑の服は、
嫌な色だ。彼女は、それに合わせて緑のリボンを付けている。』」

なるほど、7つの歌曲と言いながら、6つしかトラックがないのは、
こうした理由なのである。
リストの編曲は、二曲をうまくつなぎ合わせていて、
継ぎ目が分からないまでに改変している。

ここでは、ピアノの技巧よりも、この改作に力が入っている。
比較的、忠実だとされたトランスクリプションも、ここでは、
かなりのアレンジとなっていて、
「狩人の主題によるパラフレーズ」とでも言うべきか。

ここから、後半の「花」のような、第十八曲「枯れた花」になるが、
先の「パラフレーズ」の大騒ぎで、エネルギーはすっかり消耗し、
もう、若い粉引き職人の命運は、すでに決したと思われる。

「vi)(歌曲no.18)この絶望した若者の心は、
死への想いに満たされて、それが高じていく。
この歌曲は二つの部分からなり、短調の部分は、
彼女が前にくれた花は、すでに枯れてしまったが、
彼はそれをじっと見つめる。
彼は、それも一緒に墓に埋められることを願う。
もう一方の長調の部分では、彼は、春の花のように、
再び大地から芽生えることを願う。
彼女がそこに佇み、彼の愛の真実を思い出すように。
その時、花よ、咲き出るのだ。」

リストの編曲は、さすがに、ここでは、派手には出来ないといった感じ。
思えば、この曲を最初に手がけたのだが、初心では、極めて原曲に忠実、
あの「狩人」のような構想は、なかったのだろうか。

「vii)(歌曲no.19)全曲を通じて、若者の最も打ち解けた友で、
相談相手は小川であった。彼は小川に悲嘆の痛みを語り、
小川はそれに対して慰め、最後に小川は応える。
『小川よ、君の言うことはよく分かった。
その冷たい水の下に安らぐとしよう。」

実際に歌曲を聞いていても、この曲のあたりになると、
短絡的な若者への批判も忘れて、涙が出そうになるものだが、
リストは、ピアノの色調をデリケートに制御して、
この歌曲を大切に扱い、この情感を非常にうまく増幅している。
シューベルトの原曲では、若者の独白部のピアノは、
単に和音を連ねたようなシンプルなもの。
小川が応える時に、それが、水の流れのようなせせらぎの音を響かせる。

リストの編曲でも、当初は、原曲と同様にシンプルだが、
次第に、一息ごとに、ぽろぽろと合いの手のようなピアノが鳴るようになる。
声のパートのフレーズもぴろぴろと装飾が施され、
虹の架け橋を描くように歌われて、川のせせらぎの煌きも輝きを増し、
まるで、全体が一面の星空のようになる。

この曲などでは、コズミンの激情系の演奏も、妙に心に残る。
弔いの鐘のように、克明に沈み込むような低音を鳴り響かせるが、
川のせせらぎは対照的に粒立ちよく明るい色が立ち上がる。
立ち上る装飾音の揺らめきもなまめかしく、
川のせせらぎにも妙な渦が見え隠れして、
いかにもそのまま飲み込まれてしまいそうだ。
が、終結部は少し、詰めが甘いか。

ピーブルスは、ここまで表現力豊かではないが、
誠実な音楽で、コズミンのようなどろどろはないかわりに、
押し殺したような沈痛な歌が聴ける。

この人は、解説によると、ウェストミンスターで学び、
ケンブリッジのトリニティカレッジに学んだとある。
ピアノの師はピーター・ケイティンで、
ルフェビエールにも学んだとある。
BBCのピアノコンクールで優勝し、
翌年ドビュッシーコンクールで優勝したとあるので、
1964年生まれのコズミンより一世代上であろう。

中国、台湾、エル・サルバドルを含む121の都市で演奏し、
ロンドン・フィル、ロイヤル・フィル、バーミンガムなど、
沢山のオーケストラと競演したとあるから、
英国のエリートという感じか。
このリスト編曲のシューベルトのシリーズ1は、
各雑誌で賞賛され、“disc of pure magic”などと評されたらしい。

さて、このディスク、「水車屋」の次に、
「白鳥の歌」からの10曲が収められている。

これの解説は最初に、「水車屋の娘」や、「冬の旅」と違って、
「白鳥の歌」は歌曲集ながら歌物語ではなく、
シューベルトの死の2,3ヶ月前に書かれた歌曲を集めたものである、
というみんなが知っている話が出ているのみ。

何故、10曲しか収めなかったかが気になるが、
ざっと見たが、それには触れられていない。
各曲(原曲)の解説があるだけで、
原曲と違う曲の順番に関しても、何も解説されていない。

ここで、例のディースカウの本によると、
この「白鳥の歌」の編曲は、以下のような構成だったらしい。
一応、リストは全14曲を、まとめて取り上げている。

今回、Peeblesが取り上げたのには、※印を付けてみた。
その後の数字は、彼が演奏した順番である。
()内は、「白鳥の歌」本来の曲順である。

32.(白11)都会※1
33.(白10)猟師の娘※2
34.(白5)すみか
35.(白12)海辺にて
36.(白7)別れ※4
37.(白6)遠い地にて※3
38.(白4)セレナード
39.(白9)彼女の肖像※5
40.(白3)春の憧れ※6
41.(白1)愛の使い
42.(白8)アトラス※7
43.(白13)影法師※8
44.(白14)鳩の便り※9
45.(白2)戦士の予感※10

こう見ると、「別れ」と「遠い地にて」だけが、逆になっているが、
そのほかは概ね、リストの順番に沿っていて、原曲の順番は、
先の「水車屋」とは違って、あまり考慮されていない。

リストによる、歌曲「ます」の編曲は、
何故か、「水車屋の娘」に混じって行われたようだが、
このCDは、残念ながらこの歌曲の編曲は収めていない。

さて、ここで、例のF=ディースカウの本に戻ると、
三大歌曲集のうち、残る最大作「冬の旅」24曲は、
リストによって、以下のように料理されていったようだ。

46.(冬1)おやすみ
おっ、原曲どおりでこれはなかなか期待できる滑り出し、と思いきや、
47.(冬23)幻日
と、いきなり終わり近くに飛ばされてしまう。
何を考えているんだ、リスト!

48.(冬22)勇気を
49.(冬13)郵便馬車
50.(冬4)氷結
51.(冬6)雪解けの水流
52.(冬5)菩提樹
53.(冬24)ライヤー回し

「冬の旅」も、心象風景の連なりのような作品ゆえ、
多少の順番変更はあっても耐えられるかもしれないが、
前半のオアシス「菩提樹」から、最後の「ライヤー回し」の、
閉ざされた雪の世界に、主人公の若者を突き落とすのは、
あんまりではあるまいか。

54.(冬19)幻
55.(冬21)宿屋
56.(冬18)嵐の朝
57.(冬17)村にて

ということで、これまた、わずか半数が編曲されるに留まった。
54曲というのに、ナンバーが57まであるのは、
上記3と49の郵便馬車のように、重なりがあるからであろうか。

b0083728_19363983.jpgこの12曲の「冬の旅」、
イギリスのピーブルスも
録音しているようだが、
未入手である。
私は、フランクフルトで、
1958年に生まれた
Thomus DuisのCDを
持っていた、というか、
持っているのに気づいた。
(Capriccioレーベル)

これも、なんだかお洒落な表紙デザインが気に入って、
ずっと前から持っているものである。
1986年、ルービンシュタインコンクールの覇者ということで、
ミュンヘンのARD国際コンクールでも優勝、
イスラエルやフランクフルトのオーケストラと競演している人らしい。

が、このCD、先の順番で曲が収められていて、
リストの意図を汲んだか、無批判に受け入れた形である。
「冬の旅」の原曲を聞きなれた人には、どうしても抵抗ある曲順である。

また、ここでは、この「冬の旅」の12曲の他、
「ます」の編曲も収められている。
「魔王」、「海の静寂」、「セレナード(シェークスピア)」、
「アヴェ・マリア」、「セレナード」、「ます」といった、
いかにも名歌曲6曲に続き、後半が「冬の旅」である。
何故、これらが選ばれたかはよく分からない。
1995年に「冬の旅」、その他は翌年の録音なので、
最初からこのようなプログラムを想定していたのではないのかもしれない。

このピアニストは、歯切れの良い、
明確さを第一にしたような演奏をする人であるが、
こうした曲から、あえて、「冬の旅」をメインにすえるとすれば、
かなり、渋い嗜好の演奏家のような気もする。

謎が気になって、解説を見てみた。
1ページ半で短いが、難しい英語である。
「1854年、リストがシューベルトのオペラ
『アルフォンソとエストレッラ』をワイマールで初演した際、
彼が改訂したピアノ・ソナタを弾くピアニストは、
驚くべき財宝が、シューベルトのピアノ曲から掘り出されたのを、
驚くに違いないと語ったという。
しかし、むしろリストはシューベルトの歌曲のトランスクリプションで、
真の伝道者になったのである。
今日でも、ヴィーン市の図書館では、150以上もの別々の編曲が見られ、
『魔王』に至っては、14の異なったヴァージョンが同時に市場に出回った。
Ernst Hilmarは、これらをエッセイで列挙している。
『アヴェ・マリア』は10のヴァージョンがあり、
演奏上のテクニックに応じており、この編曲は大成功を収めた。」

話がどんどんややこしくなる。演奏家ごとに、どれを使っているかを、
考察する楽しみがあるということか。

「ベルリオーズの『幻想交響曲』の1839年のピアノ編曲は、
この友人の革命的傑作を援護し、シューベルトの歌曲の編曲でも、
リストは当時知られていなかった傑作に再検討の場を与えたかった。
一例を挙げると、『冬の旅』などは、1828年に出版されていた。
オーストリアのフォーグルや、パリのグランドオペラのテナー、
L・A・Nourritなどが、シューベルトの解釈で貢献したが、
評価を普及させるには至っていなかった。」
フォーグルはシューベルトの友人である。
ノリットは、ディースカウの本にも出ていないが、
珍しく、パリでシューベルトを歌っていたのだろうか。

「リストは1838年、これらのトランスクリプションを持って、
公衆の前に初登場した。
すぐに、それらは多くのコンサートの不可欠な要素となった。
1840年三月、ライプチヒで『魔王』を演奏したとき、
聴衆は椅子の上に立ち、いままで聞いたこともない音が、
ピアノでどうやって鳴らされているかを目撃しようとした。
リストの手によって、ベートーヴェン、ウェーバー、シューマン、
メンデルスゾーン、ショパン、ロッシーニの歌が編曲され、
多かれ少なかれ、効果的な演奏会用小品に改作された。
しかし、第一にシューベルトの伝道師となるべく、
50以上の歌曲編曲を行ったのである。」

「同時代者は、鍵盤で歌うリストの芸術を賛美し、
一方で、視覚的な効果も賞賛した。
この恐るべき鍵盤の魔術師は、
歌曲のテキストを意識させずに聴衆に知らしめ、
いうなれば、彼の楽器によって、表現の組み立てを拡大したのである。
まず、歌曲の歌のパートは左手で出る。
最初の一節が、バリトンで歌われだす形である。
したがって、自然とピアニストは、その技量に加え、
その中で、これまではあまり主張されてこなかったが、
オリジナルへの忠実さをも評価されることになる。
装飾や小さなカデンツァのために休止が現れ、
有節歌曲では、特に、可能性の限界に向かって、
過激な力配分でクレッシェンドが繰り出される。」

難しい割には、得るものの少ない解説である。
このCDの収録曲に関しては、申し訳程度に、以下のように触れられている。
「図らずも、自作の演奏よりも、編曲物によって、
名声を得たともいえるリストは、特に三大歌曲集から素材を得た。
華麗なオクターブのヴィブラートを有する『魔王』は、
彼の重要なレパートリーとなり、何度も何度も演奏を乞われた。」

この調子で、解説者(Hans Christoph Worbs)は、
ざっと、各曲に触れるだけで、私が知りたいことには応えてくれないようだ。

「『ます』は二つのバージョンが同時に作曲され、
すでに原曲でも、マンドリンの効果が取り入れられた、
レルシュタープによる『セレナード』、
シェークスピアからの『セレナード』、
スコットの韻文に作曲された『アヴェ・マリア』
(最初、歌はテノールの音域で歌われ、
あとで、両手に分けられて歌われる)は、
リストのトランスクリプションの中でも、
第一に選ばれるものである。」

「ます」に2バージョンあることが分かったが、
ここで録音されているのが、そのうちのどういったものか、
是非、教えて欲しかった。

ボレットのような老獪さはなく、実直な演奏であるが、
「ます」に関しては、もう少し華を添えてもよかったかもしれない。
慎重な演奏で、あまり、澄んだ水の中を跳ね回っているような感じではない。
ボレットの演奏も跳ね回っているとは言えないテンポであるが、
なんだか水中にいるような不思議な浮遊感があった。

が、「冬の旅」では、ドゥイスの地に足がついた表現が、
若者の足取りに真実味を与えているかもしれない。

得られたこと:「リストによるシューベルトの歌曲のトランスクリプションは、時に、二つの曲を合体させるような荒業を見せる。」
「シューベルトの『ます』を編曲した時、リストは、『水車屋の娘』を編曲中であった。」
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by franz310 | 2007-09-01 19:49 | シューベルト