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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その81

b0083728_1194614.jpg考えて見れば、
1822年の有名な
「未完成交響曲」(D759)と、
死の年1828年作と言われていた
「ザ・グレート」(D944)
の間にあって、
1824年の
グラン・デュオ(D812)が、
仮に交響曲であったならば、
年代的にも、
高名な上記二作の
架け橋のような位置づけとなる。

「グレート」が、最近の研究のように、
1825-6年の作品だとすると、
シューベルトの2年おきの成長を見ることが出来るわけだ。

「未完成」の管弦楽法と、「グレート」のそれを、
ちょうど足して二で割ったような管弦楽法で、
これを編曲するよう試みがなされたなら、
おそらく、もっとシューベルトらしい姿を現すかもしれない。

が、ヨアヒムの行った管弦楽化も、
シューベルト需要の歴史を知るための、
重要な指標となることも確かで、
このような見地から、エッシェンバッハのCDは、
解説が書かれていた。

これは、KOCHというレーベルから出ていたが、
何と、このKOCHからは、95年にも、
Leon Botsteinという人の指揮で、
このヨアヒム編曲のハ長調交響曲を録音して発売している。
ここでの題名表記は、
Arr. Joseph Joachim(1831-1907)
Sonata in C Major, D812 , “Grand Duo”
となっており、
[transcribed as Symphony in C major]と、
補足されている。
演奏は、アメリカ交響楽団である。

KOCHが、こんなにもこの曲を発売してくれるのは、
大変ありがたい。

このレーベルは、独墺系のレーベルと思っていたが、
オーケストラはアメリカ、裏面を見ると、
A product of KOCH International USAとある。

それはともかく、
エッシェンバッハのヒューストン交響楽団といい、
ボットスタインによるアメリカ交響楽団といい、
ある、重要な名前が私の脳裏に浮かぶ。

そう、稀代の名指揮者ストコフスキーのオーケストラということである。
ストコフスキーについては、前回書いたが、
常に新しい何かを探っていた、この大指揮者の精神の、
忘れ形見を垣間見たような気がして嬉しくなった。

このボットスタイン盤のハ長調ソナタ“グラン・デュオ”は、
エッシェンバッハが、強い陰影で、各部を克明に描き出した音楽とは、
違う音楽の魅力を引き出している。
より楷書風で、直線的だが、第二楽章などの歌には、
豊かに、絵画的とも言える情感を響かせている。
第三楽章は、音響は立体的だが、淡々と進み、
シューマンを想起させるトリオも、比較的あっさりしている。
反対に第四楽章は、熱狂の乱舞のような感じで、
メンデルスゾーン的な色彩が散見され、これはこれで興味深い。

さて、このCDには、さらに様々なシューベルト作品の管弦楽化の例が、
収められている。

いつか紹介したCDの解説には、
マーラーが、「死と乙女」で行ったようなアレンジは、
19世紀の音楽界の時代の流れの産物であり、
シューベルトだけに限っても、リストによる「さすらい人幻想曲」、
ヨアヒムによる「大二重奏曲」、モットルによる「幻想曲D940」
などが、同様に管弦楽曲化されているとあった。

リストやヨアヒムは、編曲者も有名がからだろうか、
記述もよく見れば、実際に音を聞いたこともあるのだが、
この、モットルの「幻想曲」とは何だろうか。

モットルは、ブルックナーの弟子のようだが、
作曲家というよりも指揮者として高名で、
ワーグナーの熱狂的な紹介者として、
例えば、「ヴェーゼンドンク歌曲集」を管弦楽化したことで、
音楽愛好家に知られている存在である。

そもそも、この「幻想曲」、
シューベルトが思いをかけていたという、
カロリーネ・エステルハージィに捧げられていて、
それが、シューベルトの死の年の作品であることもあって、
私などにとっては、
彼女との今生の別れを直接的に想起させる名品である。
何ゆえに、こうした内密な作品を、
管弦楽化する必要があるのか?
という疑問もあったが、何と嬉しいことに、
このボットスタイン盤では、この珍奇な作品が聴けるのである。

実は、このCDでも、一人の解説者(Chiristopher H.Gibbs)が、
はっきりと、「親密さの喪失は不可避」と書いている。
原曲は、ヨアヒムの場合と同様、ピアノ連弾曲である。
むろん、カロリーネと並んでピアノを弾いた日々の回想があろう。

さて、このCD、
「フランツ・シューベルト:オーケストラ化された」という解説も
二人がかりで、14ページもあって非常に読み応えがある。
表紙デザインは意味不明だが、華やかで見ていて気持ちが良い。
大指揮者の顔写真シリーズなどよりは、はるかに多くの人に喜ばれそうである。

解説を見ていくと、結構、面白いことが発見できた。
まず、指揮者のLeon Botstein氏の解説から。
演奏者が解説を書いてくれると、その演奏の意図がはっきりして助かる。
「シューベルトの交響的音楽に対し、後世の人は、
いつも何かちょっと、足りないような感じを受ける。
それは単純に不十分と思われるのである。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのようには、
シューベルトの最高の交響曲はその生前に演奏されなかった。
素晴らしい初期の交響曲があるにもかかわらず、
スタンダードなレパートリーになったのはたった二曲。」

私も、この意見には賛同したい。
共に傑作である、「未完成」や「大ハ長調」の間の4年は、
名作が連発された充実した年でもあるので、
是非、埋めて欲しい気持ちが働く。
イギリスの音楽学者が、幻の「ガシュタイン交響曲」を、
捜し求めたのも、たぶん、同じ理由であろう。

「ロ短調の『未完成』交響曲は、
作曲家の死後30年も経ってから、
エレガントで力強い合唱指揮者ヘルベックによって、
ヴィーンで初演された。
それは、即座に、不運な恋、貧困といった、
シューベルトの生涯と性格など、
人気の神話を表わす代名詞のようになった。
それはメロディと形式に対する、
シューベルトの天才を示す壮麗なる例証ともなった。
『大ハ長調』交響曲は、ちょうど死後十年で1839年、
メンデルスゾーンによってライプツィヒで初演されたが、
それはシューベルトを交響曲作家として、
ベートーヴェンの後継者に位置づけた。
19世紀風の視点から、ブルックナー、マーラーに至る、
一里塚ともなった。」

「驚くまでもなく、それゆえに、1828年、31歳という、
その早すぎる死に続いて、シューベルトの最も有名な作品、
ピアノ、声楽、室内楽などを管弦楽曲化する努力が、
脈々、累々と行われることとなった。
ブラームスは歌の数曲を管弦楽化し、
リストは「さすらい人幻想曲」をピアノとオーケストラの、
協奏曲に改作してしまった。」

「この録音のような管弦楽化によって、
シューベルトという共通の土俵の上で争われた、
19世紀の審美的論争の一部を、ある意味、理解することができる。」

「リストやワーグナーによって、
いわゆる新ドイツ運動というものが展開され、
シューベルトはその先駆者とされた。
この楽派はここでは、フェリックス・モットルの
トランスクリプションで代表される。
この作品は、ヴィーンのワーグナー派の頭目で、
1875年にはヴィーンでのワーグナー公演を成功させた
Josef Standhartnerに捧げられている。
このStandhartnerは医者であり、
ヨアヒムの親友で、仲間であったヨハネス・ブラームスと共に、
学友協会の取締役員を務めた人である。
ほかに、シューベルトに魅了されたワーグナー信者としては、
ブルックナーがいる。」

「一方、ブラームスは、この新ドイツ派に公然と異議を唱える、
作曲家グループに属しており、
彼と、ヴィーンの批評家のリーダーである友人のハンスリックは、
純粋な音楽語法を賛美する、
古典派と初期ロマン派の伝統に基づく音楽美論を支持した。
音楽は、ヴィジュアルや言葉の語りを装飾したり、
それらを付随するために使われたりするべきではなく、
器楽こそが、その最も独立しているがゆえに音楽の最高形式であった。」

「事実、反ワーグナー陣営に最初のインスピレーションを与えた、
音楽や批評を書いたシューマンによって、シューベルトは理想化され、
ブラームスは、すべてのシューベルトの交響曲を最初に校訂して、
ブライト&コップフ社から出版した。
ヨアヒムは、アンチ・リスト派に転向する数年前、
ワイマールでリストのコンサートマスターだった。
彼は、両陣営のシューベルト賛美を経験していた。
それゆえに、大二重奏曲の管弦楽化が、
名ピアニストであり、反ワーグナー派の、
シューマン未亡人クララ・ヴィークに捧げられたことは、
魅力的であると共に皮肉な結果といえる。」

しかし、このヨアヒム版交響曲は、「未完成」発見前、
「大ハ長調」しか知られていない時代であれば、
大変、重宝されたとしても不思議はない。

「この管弦楽化の仕事は、ヨアヒムの精力的な作曲家としての、
短いが印象的な時代に完成された。」

どうも、この新ドイツ派と、その反対者が、
どのようにシューベルトを担ごうとしたかを、
書き出そうとしているようだ。
ワーグナー対ブラームスを、
モットル対ヨアヒムと捉えれば良いのであろう。

「1850年代、彼とブラームスは非常に近い関係にあり、
作曲をし、手稿を交換したりした。
ヨアヒムはブラームスにオーケストレーションを教えた。
ブラームスの暖かい賛嘆にもかかわらず、
ヨアヒムは自分の天職は演奏家であり、
オルガナイザーであるという自覚を持つに至った。
ブラームスと比べとその才能には限界があった。」
この最後の一言はなくもがなではないだろうか。

「ヨアヒムのブリリアントなバージョンである大二重奏曲は、
いくつかの序曲や、
いわゆるハンガリー風ヴァイオリン協奏曲を作曲したのと、
同時期のもので、
ブラームスはニ短調のピアノ協奏曲に注力していた。」

「後にヨアヒム四重奏団は、シューベルトの室内楽を、
弦楽四重奏曲の基本的なレパートリーに列することに貢献した。」

ここは、よく覚えておきたい。
ヨアヒムに続く四重奏団となると、
録音を残している世代の団体もあるからである。

「シューベルトに敬意を払った19世紀の公衆は、
家庭のアマチュア用に書かれた音楽から始めたが、
公的なプロの演奏会、特にオーケストラコンサートが、
1848年以降の音楽生活において、
大きな部分を占めるようになってきた。
音楽文化は演奏よりも鑑賞に重きを置くようになった。
オーケストラ化されたシューベルトへの要求も高まった。
初期の交響曲では不十分で、
成熟して独特なシューベルトを聞きたがった。」

「ヨアヒムがそのオーケストレーションを完成させた頃までには、
考慮にいれるべき第二の要因もあった。
四手のピアノ曲の人気の低下である。
独奏ピアノ曲や弦楽四重奏と違って、
二人が並んで座り、一緒に演奏するジャンルは、
コンサートのステージに順応するために抵抗しているようだった。
音響的にも、劇場イベントとしても、ピアノ連弾は、
集客できるイベントにならなかった。
モットルの例もそうであるが、連弾の管弦楽化は、
19世紀中盤までは、偉大な作品を忘却から救う作業でもあった。
ヨアヒムの版は非常な成功を収め、しばしば演奏された。
トスカニーニすら、そのレパートリーに加えていた程である。」

これは、エッシェンバッハ盤でも書かれていたことである。
あるいは、同じレコード会社なので、ぱくりもあるかもせれぬ。

ここからは、面白い論点での解説が繰り広げられる。

「1960年代になると、紛れもないローカルなシューベルト狂が、
ヴィーンに形成され、たくさんの男性合唱団のメンバーが、それに拍車をかけた。
1897年のシューベルト生誕100年には、
その作曲家は、政治的シンボルにもなり、
闘争する党派にふさわしいとされた。」

「ブラームスとその支持者たちを含むリベラル派は、
シューベルトをもっと、単純で謙虚な市民にまで手を差し伸べる、
コスモポリタン的なヒューマニストとして捉えた。
一方、Karl Luegerに率いられた、
ラディカルなキリスト教的社会主義者たちや、
右翼の国粋主義者や反ユダヤ派など、その味方は、
熱心なブルックナー信者となった。」

「国際的な古典派の基準において、
唯一、ヴィーン生まれのシューベルトは、
彼らにとって、真正で純粋な独墺精神の実例であり、
ユダヤ人や外国人に壊される以前の、
ローカルな反近代的価値の象徴となった。」

ちょっと待って、そこまで行くのか?
という解説だが、非常に興味深い。

「このような論争のさなか、
ワーグナー派の指揮者で、
長年、ヴィーン・フィルを指揮した
ハンス・リヒターに後見されていた、
フェリックス・モットルは、ヘ短調の幻想曲を、
オーケストレーションした。
それはヴィーン生まれで、新ワーグナー主義のモットルから、
生誕100年祭でのシューベルトへの贈り物であった。
これは他ならぬ、R・シュトラウスから賞賛された。」

このCDは、最後にウェーベルン編曲の作品も収められており、
次は、そのための解説である。

「1920年代までには、
ラディカルなモダニズムというヴィーンの新しい動きが現れた。
シューベルトやモットルと同様、オーストリア生まれの天才、
ウェーベルンは、後にナチスへのシンパシーを示したりもした。
彼は、その師、シェーンベルクと同様、
特に後にナチズムを装う政治的保守主義の美学に反対し、
進歩的近代主義を標榜していた。」

「シェーンベルクの理想は、ブラームス、ワーグナーの両方の
伝統の上に、それを取捨選択し、新しい流れを作ることであった。
急速なウェーベルンのシューベルト接近には、
反ロマン派、モダニズムの反産業の系譜の音が聞こえる。
そのオーケストレーションは、
19世紀初期の新古典的な造形や、
ビーダマイヤー風のデザインのすっきりしたラインに、
急進的なモダニストの魅力を加味したものである。
シューベルトは、ブルックナー、マーラー、ブラームスらの、
詰め込みすぎの音響、長大さ、大げさな身振りに対する、
必要とされた解毒剤であった。
急進的モダニズムには、シューベルトの世界、
産業がなく、大市場の商業も、近代的政治もない、
前近代に対する独特のノスタルジーがあった。
シューベルトは再度、審美運動の媒体、シンボルとなったのである。」

ついに、シューベルトが、戦争前までに演じた役割が、
述べられてしまった。すごい視点に立った指揮者である。

「文化的政治的なことはこれでおしまいにして、
上記作品に対するこの録音は、
リスナーに、傑作がいかに多くの別フォーマットが付加されてきたかを、
思い出させるものである。
私たちは、どの楽器が使用されたか、
どのような歴史的証拠で演奏が整理されたかに対し、
厳格になりすぎたので、
100年前に、音楽への愛という名のもと、
先達が過去をすり替えて近代化してきたことを忘れてしまった。
彼らは、シューベルトの音楽に手を差し伸べ、
新しい聴衆に新しい話法で語らせた。」

「この録音の作品に耳を済ませることによって、
われわれは、シューベルトの偉大さと共に、
三人の先達が、どのように過去を洞察し、聴覚の想像を
働かせたかに思いを馳せるべきであろう。」
以上が、指揮者Botstein氏の解説である。

さて、晩年の「ヘ短調幻想曲」の管弦楽への編曲であるが、
ハープを伴って演奏される主題からして甘味だが薄手で、
カロリーネへの控えめな愛を伝えるには、少しあからさまにすぎる。
激しい慟哭の表現も、安手のメロドラマを見ているようで、
ティンパニが連打されたりすると、この曲の微妙なニュアンスが、
失われてしまうような気がした。

同様に親密な情感に満ちた「ます」の五重奏曲が、
こうした扱いを受けなかったことは非常にありがたいが、
そもそも、このような歴史の中で、
五重奏曲「ます」が、どのように受容されてきたかは、
どうもまだ、よく分からない。

こうした編曲をしたモットルについては、こんな解説がある。
「モットルはワーグナーと親しかったことで有名で、
バイロイトや他の場所で、そのオペラを演奏した。
新ドイツ学派の作曲家の編曲者、校訂者であって、
ワーグナーの『ヴェーゼンドンク歌曲集』は、
オリジナルのピアノ伴奏よりモットルの管弦楽伴奏版で演奏されることが多い。
同郷のシューベルトへの編曲が最も多く、歌曲、舞曲、鍵盤楽器の作品を含む、
多くの作品に及び、Otto Neitzelと共に、シューベルトの最も重要なオペラ、
『フィエラブラス』を、1897年にカールスルーエでリバイバル上演している。」
非常に、シューベルト普及にも功労があった人と見た。

いずれにせよ、原曲ではなく、編曲作品レベルの勝負では、
ヨアヒム(反ワーグナー派)の勝ちとしたい。

解説はまだまだあり、これはすごい読み応えであった。
指揮者自らが、シューベルト受容の歴史を書き、
各作品の舞台裏まで語って演奏したCDとしても、これは強烈な存在感である。

得られたこと:「歴史は、シューベルトの音楽を何度も利用しようとした。」
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by franz310 | 2007-07-28 11:19 | シューベルト | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その80

b0083728_13142067.jpg個人的経験:
オンスロウは、
自作の五重奏曲を交響曲化し、
同時期のシューベルトの
弦楽五重奏曲もまた、
後年、日本の指揮界の先達、
近衛秀麿によって、
交響曲として改作された。

また、シューベルトの
ピアノ曲から
交響曲を作る試みや、
交響曲の断片から、
それを復元させる試みも、
多数なされているのは
周知の通りである。

これは、シューベルトという作曲家が持つ特権かもしれない。
彼は、交響曲での成功を狙っていたのに、
有名な「未完成」は、後半の2楽章が書かれることなく、
「大ハ長調」のような最高傑作ですら、演奏不可能と評され、
生前に演奏されることなく、若い命を散らしたからであろう。

シューベルト自身、「室内楽から交響曲への道を模索している」と書いており、
有名なもの以外にも、数多くの交響曲の断片を遺して、
この分野へのこだわりを見せているのみならず、
多くの歌曲のメロディを発展させて大作を書いて、
(もちろん、最初のすばらしい成功例として、
歌曲「ます」を発展させたピアノ五重奏曲がある。)
小さなものを、より大きなものに発展させる傾向を有していた。

後年、彼の早すぎる死を惜しむ人々が、この作曲家が、
なしえなかったことを空想して、それを手助けしようとしたのは、
以上のような要因にまとめることができよう。

それにしても、音楽を聴き始めのころは、
こうした試みに関して、全貌を知る術もなく、
小さなニュースからも、大きな心のときめきを得たものである。

私がまだ中学生だった頃にも、
シューベルトの「幻の交響曲」が、
遂にレコードになったという新聞記事を発見した。

それを読んだのが、友人の家だったのか、
あるいは、その興奮を友人の家で語ったのか、よく覚えていないのだが、
とにかくそのお母さんが、「誰の曲だって」と尋ねるので、
「シューベルト」と答えたのだけは、何故か鮮明に覚えている。

しかし、「それは『幻の交響曲』でも何でもない」、
という記事もまた、音楽雑誌で読んだような気がする。
何故なら、それは、先にも書いた、
シューベルトのピアノ連弾曲「大二重奏曲(グラン・デュオ)」を、
かの大ヴァイオリニストのヨアヒムが、
オーケストレーションしたものであって、
単に、そういったまがい物ゆえに、
長らく録音がなかっただけの話である、
というのが、その記事の論点であった。

が、時を経ずして、そのレコードを入手した私は、
それなりに楽しんだ。
その原曲となる「大二重奏曲」もまた、
当時、レコードがなかったからである。
原曲に思いを馳せながら聞く編曲ものというのも、
なかなか空想が広がるものである。

ヨアヒムは、前回紹介したように、ブラームスの友人で、
大ヴァイオリニスト、我々は、かろうじてその晩年の演奏を、
録音で聴き取ることが出来るということは、前回、取り上げたとおりである。
確かに、どうしてブラームス編曲でなくて、ヨアヒム編曲なの?
という感じがしたのは事実。ブラームスが編曲していたら、
たぶん、100倍くらい演奏機会が増えたはずである。

とはいえ、このLP、いかにも秘曲発見、
といった感じのジャケットがすばらしい。
古色蒼然たる楽譜の表紙に、シューベルトとヨアヒムの名前が並んでいる。

解説はこの曲の成立を詳しく述べているが、
「出版業者もオーケストラも取り合わないような
シンフォニーを書くことは、その限りでは空しい作業であった。
・・シューベルトの頭にシンフォニーの構想があっても、
それがすぐに実現されず、必要のあった四手用のソナタを書く際に、
その構想が利用されたということも大いにありうるのである。」
と書き、「<もう一つのシンフォニー>を所有できるようになったことに対して、
ヨーゼフ・ヨアヒムに敬意と感謝を捧げずにはいられない。」
と書いて、このレコードを歓迎しているのが良い。
この意見には大賛成である。

ただし、
「ヨアヒムのオーケストレイションが、
シューベルトよりはむしろシューマン=ブラームスの様式に
近いものになっているのはいささか残念である
-実際にブラームスの意見が取り入れられている-
が、それはやむをえぬことであろう。」
とあるのは、蛇足だったかもしれない。
「やっぱり、まがいものだったんだ」という感触がこみ上げる。

確かに、第三楽章の中間部などは、
いきなり、シューマンの交響曲が始まったような、
不思議な効果に驚いてしまう。
まさしく、交響的幻想曲である。

シューベルトの音楽でありながら、他人の手が入っているというのは、
シューベルト愛好家にとっては、座り心地が悪いもので、
後にブレンデルとクリーンの連弾での、原作そのもののLPが出ると、
そちらを聴く機会が増えてしまった。
狭い部屋で聞くにはオーケストラよりも、音響的に相応しいような気もした。

逆に言うと、この編曲は、原作をそのまま移し変えているがゆえに、
どちらを聴いても同じ曲と認識ができる感じで、これはこれで、
優れた点ではないだろうか。

近年、ヨアヒム編曲の、この幻の交響曲は、
アバドを初め、エッシェンバッハなどの有名どころが録音してくれて、
多くの人が聴く機会も増え、この編曲に対する評価も変化しているものと思われる。

この曲の表記も、私が最初に購入したアンドレー盤(1974年録音)は、
「交響曲ハ長調作品140(ヨーゼフ・ヨアヒム編曲)」
と、ものものしかったのに対し、
1987年録音のアバド(ヨーロッパ室内管)のものは、
「未完成」のおまけみたいな扱いで、交響曲という表記はなし、
単に「グラン・デュオ」となっているが、
約十年後の1996年録音のエッシェンバッハ盤(ヒューストン響)は、
少し、待遇がよくなって、「交響曲ハ長調(グラン・デュオ)」とある。
これは、ベリオによる編作「レンダリング」と一緒に収められているので、
シューベルトの交響曲が、生誕200年あたりで、再度注目されたためであろうか。

なお、アバド盤の解説は、いきなり、
「ヨアヒムのオーケストレーションは、優れたものとは言えないまでも、
一応それらしく仕上げられている。」
とあって、まったく真面目に取り上げる気はなさそうである。
天下のグラモフォンレーベル。
現在、最も高名な指揮者の一人、アバド。
いったい、どうなっているのか。

b0083728_13211637.jpgせっかく期待して買った商品に、
気持ちを腐らせるような解説が
ついている状況はままあることだが、
これは、何を言っているのだろうか。
「期待して聴かなくていいよ」と、
いうことであろうか。

出来れば、期待して聞きたいので、
今度は、エッシェンバッハ盤の
解説を見てみよう。
何か、肯定的な記述が、
読んでみたいものである。


「シューベルトの音楽のトランスプリクションや再構成は、
作曲家が存命中、活動中にも、作曲家を含め、
多くの手によってなされていたが、
それは様々な理由によるものであった。」
再構成というのは、一曲目に収録された、
第十交響曲に基づく、ベリオ作、「レンダリング」を、
想定したものであろう。

「たぶん、シューベルトの室内楽作品や、
未完成の断片のオーケストラ曲化する活動は、
優れているにもかかわらずあまりにも少ない、
彼のオーケストラ曲を増やすためのものであった。
シューベルトの時代から現代に至るまで、
作曲家たちは、彼のオーケストラのレパートリーを、
拡張しようと様々な策を講じたが、
シューベルトの存命中にコンサートホールで、
公開演奏されたことのない多くの作品にも関心が持たれるようにして、
シューベルト作品の長年の生き残りを保障した。」
確かに、ピアノ連弾曲の市場におけるシェアというものは、
シューベルトの時代から、急激に、低下したものと思われる。

「シューベルトの4手ピアノのための「グラン・デュオ ハ長調」D812は、
非常に早い時期から、こうした論議の多いものであった。」
1824年の夏に、西ハンガリーの、
ヨハン・エステルハーツィの宮殿で作曲された「グラン・デュオ」は、
シューベルトの同種の作品とは一線を画している。
それは、明確な四つの楽章構成を持ち、
公式の交響曲のフォームを固守し、
シューベルトの四手ピアノ曲の中では唯一のスケルツォ楽章を含む。
その長さ、展望、構造、話法の厳粛さから、
多くの人が隠された交響曲を確信してきた。」

確かに、私が声を大にして主張したいのは、この点である。
愛らしい少女たちの家庭教師が、こんな巨大な作品を、
何故、残す必要があっただろうか。
どんな演奏機会が想定できようか。
この恵まれた環境化で、交響曲の楽想が湧き出て、
それを書く紙も時間もあったのだとしたら、
まず、この家庭でも楽しめるピアノバージョンを作りましょう、
という話の流れになったであろう。

解説をさらに読むと、
「最初にそれを公に断言したのは、
シューマンで、彼の批評誌「新音楽時報」にこう書いた。
『彼のスタイル、ピアノの取り扱いを調べるほどに、
私はこれをオーケストラ作品だと考えざるをえない。
・・私たちは、ここに弦や管楽器、総奏や独奏パッセージ、
太鼓連打、幅広い交響曲形式を聴き取る。』」

「事実、このセオリーを証明する確固たる証拠はないが、
有名なヴァイオリニストで作曲家であったヨアヒムなど、
多くの音楽家のリーダーがこれに従った。
1850年以来、リストのワイマール管弦楽団のコンサートマスターとして、
ヨアヒムは、じかにリストの編曲を見てきたが、
1855年に、ついに、シューベルトのグラン・デュオの、
記念碑的な仕事に着手した。
彼は、特に才能ある彼の弟子で、
1870年代初期には、ヴィーンでこれを演奏することになる
ブラームスのアドバイスに助けられた。」

ここにも、ブラームスの名があり、前回、取り上げた二人の青年音楽家が、
この作品を協力して作り上げたことに思いを馳せてしまった。
が、55年ならブラームスは、まだ22歳の若輩である。

「シンフォニーとして頭の中に仕上がっていたのに、
おそらく取り急ぎソナタと表題を書いたのであろう」と曲を断じた、
師匠各のシューマンは、翌年亡くなるが、こうした時期までも考えると、
有名なヨアヒムが気軽に編曲したといった類のものではなく、
もっと高い志で作り上げた作品である、といった感じがする。
「記念碑的」とは、よく書いてくれたものである。

「この曲のトランスプリクションのメリットの意見は分かれた。
英国の批評家Toveyは、ヨアヒムのアレンジに賛意を評し、
『シューベルトの大交響曲の書法の見本』と書いたが、
音楽学者のアインシュタインは、
『この試みは良いが、それでもこの曲の語法はピアノ的である』と書いた。
ヨアヒム自身の作曲の才能に関し、異なった意見があることから、
何人かの音楽家、メンデルスゾーンやレイボヴィッツから、
近年では、レパードまで、彼ら自身のバージョンによる、
グラン・デュオが作り出された。」
是非、こうした作品を耳にしてみたいものである。

「それにもかかわらず、
最終的にオーケストラ曲と決まったわけでもないのに、
シューベルトの後継者風ファッションを着せたと言われつつも、
ヨアヒムがこうした作品を作ってくれたので、
家庭で、ピアノデュオ音楽を楽しむよりも、演奏会に足を運ぶようになった、
多くの音楽愛好家が、この偉大なシューベルトの作品を聞くことができたのである。」

何年かぶりに、この曲を最初に聞かせてくれたアンドレー盤を聴くと、
ミュンヘン・フィルの非常にふくよかな響きが印象的である。
ヴァイオリンは、両翼配置なのだろうか、左右の対称性が、
妙に、居心地のよい音響空間を作り上げてくれている。

広々とした楽想を持つ、第一楽章から、
悠然とした足取りであって、いかにも、評価の確立した正統的な作品に、
真摯に向き合って、その美しさを紡ぎだそうとする感じの演奏である。
ベートーヴェンの「第二交響曲」の同じ楽章に似ていると言われる、
情感に満ちた第二楽章も、浮かび上がる木管とみずみずしい弦楽の調和が美しい。
終わり近くに、荒々しい楽想が突如沸き起こるが、
これも、平安の中に消えていく。
第三楽章のスケルツォも、中庸の表現で、第四楽章ともども、
響きの海に身を横たえることの出来る、純音楽的な名演であると思う。
録音と、オーケストラの美感という意味では、隋一の名品である。

アバド盤は淡々とした中庸の表現だが、音楽の響きに魅力がなく平板である。
新しい録音なのに、楽器の分離にも不満が残る。

エッシェンバッハ盤は、一呼吸一呼吸を大切にした、
陰影の濃い、緊迫感を秘めた演奏。作品をじっくりと語らせており、
恐ろしい程に、寂寥感に満たされる瞬間がある。
晩年のシューベルトの心境に迫る孤高の名演奏である。

エッシェンバッハの熱いパッションが隅々に感じられ、
シューベルトの秘められた物語に耳を澄まそうとしている。
この人はピアニストとしても高名で、後期作品を得意としていたし、
原曲のレコードも残していたのではなかろうか。

アバド盤は、スケルツォに頂点を持ってきたのか、
ここだけは、野趣に溢れた思い切った表現が聞かれる。
エッシェンバッハは、ここでは、悠然とした歩みで、
金管が荘厳に鳴り響き、王侯の狩の音楽である。
ぬばたまの夜の表現が、トリオで聴かれる。

終楽章における葛藤と、そこから抜け出そうとする楽想の対比も、
妙に胸に迫るものがある。
エッシェンバッハは明らかに、この曲を愛していると見た。
表紙デザインはカンディンスキーの絵と思うが、
どこにも何も書いてない。

得られた事:「作品への共感なしの商品を受け取ったユーザーは不幸になる。」
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by franz310 | 2007-07-22 13:28 | シューベルト | Comments(2)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その79

b0083728_22353951.jpg個人的体験:
この前も書いたとおり、
私は長らく、
SP期の録音などは、
十把ひとからげに
して考えていたが、
「名曲決定盤」などを、
改めて読むと、
あらえびすなどは、
録音の差に対して、
非常に厳しく、
容赦ないことが分かった。

特に電気吹き込み式以前の録音に関しては、
管弦楽曲は「ほとんど無価値」とすら言っており、
協奏曲もダメ、弦楽四重奏曲も「聴くに堪えない」とあり、
ヴァイオリンも「大した値打のものではなく」とあって、
電気吹き込みのないヨアヒムなどに興味があるだけだと、
書かれている。

ということで、ヴァイオリンの項を見てみると、
「過去の巨匠たち」として、ヨアヒムの紹介が出ている。

「言うまでもなく、ヨアヒム(一八三一-一九〇七)は
十九世紀後半の名ヴァイオリニストであるばかりでなく、
ブラームスらの友人として、楽壇的に大きな足跡を遺し、
その雄渾かい麗な演奏は、」とある。

そこで紹介されているのは、
ブラームスの「ハンガリアン舞曲」第二番であるが、
「おぼろげに大ヨアヒムのおもかげを偲ばせるに過ぎない
極めて心細い録音である」と書かれている。

この1902年の録音は、音楽の友社が出した、
「あらえびすSP名曲決定盤」シリーズで聴くことが出来る。
解説には演奏者の紹介と曲の来歴があるだけであるが、
盟友ブラームスの作を、自ら編曲しただけあって、
自信に溢れた豪壮で、「雄渾」な演奏に聞こえる。
かい麗というのは、「すぐれて美しい」という事らしい。

即興的でありながら、大きな表情の演奏だが、
何しろ3分くらいしかないので、ここから多くを詮索するのは難しい。
1902年といえば、ブラームスの死後であり、ヨアヒムは71歳。
亡くなる5年前の演奏ということからすると、
晩年まで若々しい演奏をしていたことが分かる。

「極めて心細い録音」とあるが、ノイズの向こうから、
これくらいは聞き取れそうである。

「名ヴァイオリニストたち」(M・キャンベル著)にも、
ヨアヒムが、大変タフな男であったことが書かれている。
「ずっと高齢になるまで若々しい回復力を保っていた」
と書き、24時間の旅のあとで、大学に出てレッスンをしたり、
オーケストラのリハーサルの後で、弦楽四重奏の演奏をしたりした、
といった逸話の紹介も、成る程とうなずけるのである。

この本によると、ヨアヒムは、メンデルスゾーンに可愛がられ、
その死後は、リストの組織したオーケストラに誘われて、
コンサートマスターを務めたが、その未来音楽志向に耐えられず、
ブラームスと友情を育んだとある。

そこから、有名なヴァイオリン協奏曲や、二重協奏曲が生まれたのは、
周知のとおりである。

ヨアヒムは、12歳でデビューしたようなので、
シューベルトが若くして亡くならなかったら、
親子のような年齢関係だったはずである。

こういう人の演奏がまがりなりにも、
スピーカーから、鳴り響くのが聴けるのは、
100年の時、さらにその人の若い頃、
150年以上の昔にまで思いを巡らすことが出来る、
至福の一瞬と言える。

当時の批評家ハンスリックは、彼の演奏に接し、
「彼の大きく確実な運弓がその楽器から引き出す音色には、
何と大きな力が流れていることか・・」
と書いたというが、録音からも片鱗を確信した。

うまい具合に、このヨアヒムの演奏は、
イギリスの「SYMPOSIUM」レーベルの、
「About A HUNDRED YEARS」という面白いCDでも、
聴くことが出来る。

ここでは、レコード100年にわたる歴史が解説されており、
興味深い録音資料が38も収められている。

残念ながら、シューベルトの曲は一曲もなく、
まるで、五重奏曲「ます」とは無関係だが、
レコードの歴史や、シューベルトゆかりの音楽家が登場するので、
今回は、このCDを紹介したい。

もちろん、ヨアヒムは、シューベルトのピアノ曲を、
管弦楽曲に仕上げた人である。

このような企画ゆえ、その最初に登場するのは、
もちろん、エジソンの声であるが、
2番目に登場するのが、作曲家のブラームスなのである。
ブラームスが、シューベルトの作品紹介に力あり、
熱心に自筆譜の収集をしていたことはよく知られている。

また、シューベルトの室内楽を系統的に紹介したのは、
1849年創設のヘルメスベルガー四重奏団であったが、
先のヨアヒムは、このヘルメスベルガーに師事しており、
いわば、彼らは、元祖シューベルト演奏の直系と言える。
メンデルスゾーンもまた、シューベルトの大交響曲の紹介者として知られるが、
ヨアヒムは、上述のようにメンデルスゾーンからも影響を受けている。

さて、このCDだが、実は、
クラシック音楽のCDとは言いがたい。

高名な歌手、カルーソーやシャリアピンの声、
パデレフスキ、ハイフェッツ、トスカニーニらの演奏に加え、
名女優、サラ・ベルナールや大作家トルストイに、ドイルの朗読のみならず、
レーニンやガンディ、チャーチルの演説までが収められているからである。

表紙デザインも芸術的というより工業デザイン的だ。
初期の蓄音機の下に、ヨアヒム、シャリアピン、ヒンデンブルク、
ハイフェッツ、トスカニーニ、メルバの写真があしらわれているが、
音楽家と政治家が同列なのがすごい。

このCD、最初に登場するエジソンの声からして、
興味深いエピソードが傑作である。

何しろ、1877年の実験機が壊れて再生不可能になったゆえ、
50年後に吹き込み直したものであるという。
「50年」と軽く書くが、人生の記録としても、
技術環境も、あまりに違いすぎるのでは?

ということで、
現存する最古の録音は、次に登場する、
ブラームスの声であると、解説で紹介されている。

このCDの解説では、こうした録音再生技術の歴史まで説明してくれており、
それが、非常に参考になる。

「装置が有名になるにつれ、さまざまな要求が生まれてくる。
『トーキング・マシーン』のケースでも、最初に録音を行い、
また、それを再生したのが、その機械を作ったエジソン(1847-1931)
であることを、信じることが出来る。
力強い声をもった話し手が、薄い振動板の近くで話すと、それを振動させる。
すると振動板の後ろの針が、動いているアルミ箔に、くぼみをつける。
アルミ箔が動いて針を動かすと、振動板が振動して話したことが再生される。
回転する金属シリンダーに巻かれたアルミ箔は、
振動の刻みを受けるのに十分やわらかく、
また、振動板を振動させるのに十分に硬いものである。」

こんな微妙なアルミ箔を保存するのは、困難であっただろう。
したがって、トラック1のエジソンの声には、こんな解説がある。
「オリジナルの装置は粗雑で、再生可能な状態では、
当時のアルミ箔は残っていない。
しかし、50年後、もっと相応しい言葉もなく、
エジソンは世界初の録音された言葉を繰り返して録音した。」
エジソンは、この時、80歳。
この「言葉」とは、有名な「メリーさんの羊」だが、
歌っているわけではない。これは想像と違った。

1847年生まれということだから、チャイコフスキーなどと、
同世代の人だったということになる。

「彼は、その音再生の弱さに興味を失い、
すぐに、電気照明やその電力供給に興味を移していた。
この分野で、他の人によって着手されたと聞いたからである。
しかし、10年後、再度フォノグラフの分野に戻り、
改良を決意した。これまた、他者の動向を耳にしたからである。
1888年、一年の集中の後、アルミ箔をワックスに代え、
新しい改良版が成った。
アルミ箔にぎざぎざをつけていた針は、ワックスに溝を刻むようになった。
(その差異は分かりにくいが、弁護士を儲けさせた。)」
いずれにせよ、エジソンは、金になれば何でもよかったとも読める書きぶり。

もちろん、声ばかりを録音していたわけではなかろう。
「最初に録音を行ったのは、アメリカを訪れた神童、
ピアニストのヨーゼフ・ホフマンであるが、これもまた存在しない。」
このピアニストの来日を、あらえびすは期待していたらしいが、
大震災で来なくなったと、「名曲決定盤」にある。
(が、このあらえびすが、
「古い吹込みのハンディキャップを超えて燦然たるもの」
と評した、ベートーヴェンの「トルコ行進曲」が、
このCD(TRACK 34)には収められていて、確かにすごい。
解説によると、アメリカデビュー時のシリンダーはなくなったが、
その50周年の、コンサートの記録らしく、聴衆のノイズが聞こえる。
解説にも「breathtaking」(わくわくする)とあり、異例の絶賛である。
ただし、1937年の録音とあるから、
あらえびすが聞いたものとは違う機会のもののようだ。)

「エジソンは、特にヨーロッパ、
英国にG・E・Gouraud、オーストリアにA.T.E.Wangemann
といった代表を送って宣伝をした。」

「Track2:
最初の信頼できる録音は、1889年、ウィーンで作られたシリンダーで、
他ならぬ、作曲家ブラームス(1833-1897)のものである。
最新の技術の補助をもってしても、
何が起こっているかわからないようなものだが、
以下のようなことが聞き取れる。
1. 非常にかすかな声で、たぶん、
Ladies and Gentlemen, I am Theo Wangemann.」

なるほど、先の解説で、エジソンがワンゲマンを派遣したとあったが、
彼は、大物を仕留めたわけである。優秀なビジネスマンである。
が、その声は、ノイズの海の中で蚊の泣くのを聴くようである。

「2.そしてクリアに、Haus von Herrn Dr.Fellinger,
I am Dr.Brahms, Johannes Brahms」

甲高い声で、どれだけ忠実に再現されているか分からないが、
確かにそう聞こえる。しかし、ファイニンガー博士の家にいると宣言したり、
自分をドクターと呼んでいるのが、奇妙である。

言葉の最後を跳ね上げるようにする癖が聞き取れる。

シリンダーの回転か、どこんどこんと、
太鼓が鳴っているようなノイズの中である。
それから、唐突にピアノがじゃらんじゃらんと鳴り始める。
演出も何もあったものではない。
短時間に何でもかんでもぶちこんだ、
歴史的断片である。

この音楽、ほとんど、何だか分からないが、
ヨアヒムも好きな、ブラームスの代名詞、
例の「ハンガリー舞曲」のようである。
こちらは、もっと有名な「第一番」のようだ。

その後も、ピアノらしい音が聞こえるが、下記の解説のように、
何だかよく分からない。この間、約1分である。
ワイゲマンは、必死でいろいろ指示したことであろう。

「3.ハンガリー舞曲第一番ト短調の最後の部分。
 4.あまりにも不明瞭で、特定できないが、その続きか、ピアノ曲2曲。」

イギリスの名ピアニスト、ファニー・デイヴィスが、
ブラームスのピアノ演奏を評して、
「タッチは温かく豊かだった」、「レガートは筆舌に尽くしがたかった」
と書いたが、指がしなやかに音をつむぎだしているのは分かるが、
とても、そこまで聞き取れる代物ではない。

「この録音に関する信頼できる記述は、1986年8月の、
『Opus Classical Music Magazine』の中の、
William Crutchfieldによるものだ。
Ronald Smithのような優れた耳をもってしても、
この最後の不明瞭な部分は、
舞曲と同じ調であるということ以上のことは
聞き取れないということである。」

さて、このようなシリンダー式では、
かさばるし、壊れやすいということから、
円盤状のレコードが登場するが、そのあたりの経緯が、
Track3と共に、紹介される。

このトラックは、この円盤の発明者ベルリナーの声であって、
「きらきら星」の詩が朗読されている。
これも歌っているわけではないのが、変である。
「アメリカに名声と富を求め、あるいは、仕事や安全を求めて、
移住する人の波の中に、エミール・ベルリナー(1851-1929)がいた。
1879年に渡った彼は、様々なありふれた仕事で、
しがない生活をしていたが、
それ以外の時間は勉強に当てていた。」

「彼は改良されたマイクロフォンを発明し、
ベル電話研究所に売り込みを続け、彼らと仕事をしているうちに、
彼は音響録音実験の資金を得た。
1888年、円盤に録音することに成功した。
これはエジソンのシリンダーに対し、2つの顕著な優位点があった。
i)一つのオリジナルから大量生産が可能。
ii)重力によって、エジソンのシリンダーより深い溝が可能。
これによって、複雑なメカニズムが不要となった。
これによって、ベルリナーが「グラモフォン」と呼んだ、
再生機がより簡単に安く作られるようになった。」

「市場に最初に出たのは、しゃべる人形用で、3・1/2インチの円盤であった。
1890年頃、手作りのグラモフォンのために、5インチのディスクが作られた。
手回しの機械は音楽再生に不適切で、多くはスピーチであった。
強いドイツなまりからベルリナー自身の声と思われ、
その音質ゆえに片面ディスクの裏面にはテキストの紙が貼り付けられていた。」

こんな風に、何だかおもちゃ箱のような感じで始まるCDだが、
貴重な演奏記録も多数、収録されている。
Track7は、イタリア歌劇の巨人、カルーソーの歌う「アイーダ」、
あらえびすは、「絶品的」と書いている。
続いて、スーザの自作自演の「星条旗よ永遠なれ」、
Track9は、カルーソーの先輩、タマニヨ。
ヴェルディは、この人のために、傑作「オテロ」を書いたが、
期待にたがわず、「オテロ」の中の曲を歌っている。

さて、ヨアヒムの演奏はようやく、Track11に登場するが、
このような解説がついている。
「ヨアヒムは、メンデルスゾーンの推薦で、
1844年に初めてロンドンを訪れた。
彼はリストの友人でもあり、1868年には、
ベルリンの音楽ホーホシューレの学長となった。
長きにわたって、自身の四重奏団を率い、
名誉博士の学位を、ケンブリッジをはじめ、
グラスゴー、ゲッティンゲン、グラスゴーの大学から授与された。
今日ではブラームスのヴァイオリン協奏曲を捧げられた盟友として知られ、
そのハンガリー舞曲は、ヴァイオリン用に編曲された。
遺された五つの録音のうち二つは、これらの舞曲であり、
一つは自作である。
驚くべきことに、残る二つはバッハの無伴奏作品からの楽章である。」

私は、何故、「ビッグ・サプライズ」なのかは最初、ぴんと来なかったが、
確かに、たった五つのうちの4割を、
はるか昔の作曲家に捧げられているということは、
ロマン派の生き残りにしては、不思議なことである。

例えば、次の世代の名手たちは、みな、近代ヴァイオリン奏法の先駆、
サラサーテやヴュータンやヴィエニャフスキらの録音を繰り返した。
バッハの、しかも、無伴奏曲というのは、高踏的にすぎるのである。

「グラモフォンは、『きらきら星』から、遠くまで来たものだ。」
と書く解説は、たぶん、そうした事を言っているのであろう。
気になって、解説者の名前を、ここで見直したが、見つからない。

「TRACK11-ヨアヒムは非常な、しかし、
過剰ではない熱情を持って演奏している。
我々はヴィブラートが少ないことに気づき、
イザイやクライスラーがヴィブラートを、
定常的に使うようになる以前、
強さと速さのバリエーションが、
表現の規範であった世代であることを思い出す。」

「Great verve」と評されているように、
このバッハ(パルティータ第1番より「ブーレ」)は、
やはり、自信に溢れた演奏で、
リズムをきっちりと取った、推進力のあるもの。
がっちりと描かれたセザンヌの絵画のようである。

ノイズは激しいが、盟友ブラームスより10年長生きしたのは、
技術の進化の点で大きかった。
音色や演奏の特徴まで何とか聞き取ることが出来る。
これは1903年、ベルリンでの録音とある。

ちなみに、このCDには、
夏目漱石がロンドン留学中に聞いたとされる、
パッティの歌も録音されている。(Track 14)

1901年11月に、寺田寅彦に、
「明日の晩は当地で有名なPattyと云う女の歌を
『アルバート・ホール』へききに行く積り
小生に音楽などはちとも分からんが話の種故
此高名なうたひ手の妙音一寸拝聴し様と思ふ」
という手紙を書いているが、正しくはPattiで、
グノーの「ファウスト」から「宝石の歌」が聴ける。

これは1905年の録音とあり、1843年生まれのパッティは、
60歳を過ぎていたはずだが、愛らしい声を技巧的に響かせている。
ノイズはあるが、声もピアノも鮮明である。

あらえびすは、この歌手については、「歌の骨董レコード」の項に、
「歌の女王」として書いているものの、
レコードで聴くとたいしたものではない、と断じている。
「蓄音機音楽はあまりに若く、パッティはあまりに老いた」
という言葉を紹介してくれている。

ただし、中古市場で高騰していたとも書いており、
CDの1トラックで、気軽に聞ける我々は、非常に幸せである。
ちなみに、パッティは、ジェニー・リンドの再来と言われたらしいが、
リンドといえば、メンデルスゾーンの交遊で知られる、
美貌の歌手で、こうした事に思いを馳せるのも楽しい。

その他、英国の指揮者、ヘンリー・ウッドの「魔弾の射手」の
リハーサル風景なども素晴しく感興に乗っており、
買っておいて良かったと思われるCDである。

ただし、全部通して楽しむことは困難、音楽の後に、
いきなり政治演説が始まると、後味も何もあったものではない。

それにしても、恐るべき商品である。
いったい、レコード屋では、何のジャンルに分類されるのだろうか。
裏面にも、登場する人物名が記載されているのみ、
曲目すら分からない。

めくらめっぽうだったが、購入しておいて良かった。
二度と回り逢えないかもしれないと思うと、
ぞっとする。

得られたこと:「電気吹き込み以前には、ヴァイオリンのヴィブラート技術確立以前の記録が聞ける。」
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by franz310 | 2007-07-14 23:11 | 音楽 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その78

b0083728_983598.jpg個人的経験:
1938年の
「名曲決定盤」で、
総合的、包括的に、
SP時代の名盤を語った
あらえびす以前の、
日本人のレコード鑑賞を
知るには、
1933年に亡くなった
宮沢賢治の収集などが、
参考になりそうだ。

しかし、「宮沢賢治の音楽」のような本を読むと、
彼が残したレコードの演奏者の多くは、
現代では忘れられた人が多い。
最後まで持っていたものも、
例のプフィッツナーの他、
クレンペラーの「未完成」、A・コーツの「ドン=ファン」、
A・ヴォルフの「牧神」のように、録音の古さゆえか、
早く演奏者が亡くなったせいか、
現代では聞かれないものばかりである。

あらえびすが激賞した、ワルターや、トスカニーニが、
現在でも、定番となっているのとはかなり違って、
この戦前の5年ほどの間に、いろいろな変化があったようである。
コーツもヴォルフも、「ロンドン・シンフォニー」と、
「コンセール・ラムルー」の指揮者として、
あらえびすは取り上げているが、1ページほどの記述に終わっている。

その他、賢治が持っていたレコードで他の人に上げたものには、
シュトラウスやフリート指揮のものもあったようだが、
あらえびすの本では、プフィッツナーやクレンペラーと並んで、
ドイツ系の過去の人として、取り扱っているようだ。

賢治も持っていて、あらえびすも褒めているのは、
アメリカのストコフスキーくらいであろうか。
この指揮者は、「オーケストラの少女」や、
「ファンタジア」の映画出演でも有名で、
音楽を改変することも多く、私の若い頃には、
ともすると、キワモノ的な扱いをされがちであった。

それを、あらえびすも認めており、
「ストコフスキーは、恐らく、どうしたらアメリカの聴衆が
最も感銘深く聴くかと考えているようだ」とか、
「これは後世の批判を俟って論ぜられるべき」と書いて、
それほど目くじらは立てていない。
むしろ、「この人の指揮棒は、ほとんど昔噺の
フェアリーの魔法の棒のように思われている」と書いて、
読む人の興味を書きたてる。

アメリカではストコフスキーは「天才」と呼ばれていることを、
近衛秀麿から聞いたとも、この本には書いてある。

日本指揮界の先達は、この「天才」にいろいろと世話になっていたようで、
戦後、日本に戻った時にも、ストコフスキーによって手配してもらった、
アメリカでの活躍が、戦争勃発で反古になったことを悔やんでいた。

ストコフスキーは、しかし、単なるアメリカの人気者ではなかったようで、
驚いたことに、ヴィーン・フィルの元楽団長も、
「栄光のウィーン・フィル」の中で、
「私の若い時代には、稀にみるほど正確に弾かれた
ストコフスキー指揮の、フィラデルフィア・オーケストラの
レコードが市場に多く出廻っていて、それを聞いた時、
いくぶんの羨望の念を覚えないわけにはゆかなかった。」
「当時存在していた最高のオーケストラ音楽を
提供してくれた」と書いているように、
この時代の、全世界の音楽愛好家のアイドルであったようだ。

1955年には、ヴィーン・フィルに客演した時にも、
「完璧であり、情緒豊かな表現力に富み」、
「『編集』の抱える問題を除いては、
音響そのものについては名人芸」と、
評価されたのである。

ということで、シューベルトの「ます」とは、
まったく関係がないが、今回は、SP時代の音の魔術師、
このストコフスキーについて書いてみたい。

とはいえ、宮沢賢治を始めとする当時の専門家以外の日本人が、
ストコフスキーを、そういった指揮者として、
聞き分けていたかどうかは分からない。

ただ、例の著作によると、賢治は、
ブラームスの「第三」の第三楽章と、
イッポリトフ=イヴァノフの「酋長の行進」は、
ストコフスキーのレコードで持っていたという。

確かに、ストコフスキーのレコード一覧によると、
フィラデルフィア管弦楽団の演奏で、
1921年に、ブラームス「第三」の第三楽章というのがあり、
1922年と、27年に、「酋長の行進」がある。
後者は、賢治は22年のものを持っていたのだろうか。
例の著作には1925年のレコードとあるから、
22年のものが日本に来たのが25年だったということか、
あるいは誤記か。

このイッポリトフ=イヴァノフは、1935年まで生きていたので、
存命中のレコードである。

27年の録音は、激安輸入盤のHISTORYレーベルの、
MAESTRO CELEBREシリーズにも入っている。
10枚組で、バッハからシェーンベルクまでの、
ストコフスキーの主だった演奏が聴けるが、
シューベルトやブラームスが収められていないのが残念だ。

とはいえ、このシリーズ、誤字はあるがそこそこの解説もついていて、
ジャケットデザインも悪くない。
ノイズや歪もなく、歴史的録音としては、非常に聞きやすい。
どの曲も、違和感なく聴くことが出来た。

ひょっとすると、後年、フェイズ4という、
ポピュラー音楽用の技術を応用して採られたものより、
自然で聞きやすいかもしれない。

このセットで、「酋長の行進」は、6枚目の最後に入っていて、
このCDには、他に、ムソルグスキー、スクリャービン、リャードフなど、
ロシア音楽が収められている。

「酋長の行進」は短く、エキゾチックなメロディが、
効果的な装飾で歌われるもので、
金管や打楽器が炸裂する中、
弦楽器がたっぷりと鳴り響くという、
いかにもストコフスキーが好きそうなものである。
賢治も、このメロディに合わせて歌詞を作って歌ったということだが、
どうやって、このレコードを捜し求めたのであろうか。

私も、この曲は知ってはいたが、賢治のように、
愛聴して歌にしてしまう程の聴き方はしていなかった。
SPレコード1面程度の曲は、最近では、なかなか、
ここまで、気を入れて聴くことは出来ない。
恥ずかしながら、今回、改めて、聞きなおしたものである。

これは、組曲「コーカサスの風景」の一曲だが、
賢治の中で、岩手の風景と、
このコーカサスの風景が結びついたというのは、
本当なのだろうか。
そもそも、彼は、コーカサスという場所が、
どんな場所か知っていたのだろうか。

さて、このCDの解説を見直してみると、
「レオポルド・ストコフスキーは、20世紀最初の、
スターコンダクター、または、指揮をするスターであった。」
と書き出され、「指揮をするスター」という表現にびっくりした。

面白いので、解説者の名前を見たが、特にないようである。

「異常なほど人気を博した表現や、
その人となりと仕事ぶりは、
独特のアメリカ的媒体であり文化現象であった。
個人として芸能人として、彼はエキセントリックであり、
多彩な私生活に基づくコンサート会場の外での言動においても、
挑発的であった。
このことが、彼の人生に対して、
終始、メディアの注意を引きつけ、
彼自身や仕事に有効に作用した。」

この部分の記載は、
ストコフスキーの評伝を書いたポール・ロビンソンが、
本(「音の魔術師ストコフスキー」(音楽の友社))の冒頭から、
この指揮者の3回の結婚が、
いずれも妻の側から申し出によって破局に到った、
ということを書いていることを思い出させるものだ。

b0083728_991075.jpg余談になるが、
このロビンソンの著作、
全編を通じ
ストコフスキーの言動に
おおかた批判的で、
時折、いくつかのレコードを褒め、
しかし、業績は否定しないという、
愛憎渦巻く不思議な書物である。

彼を屈指の実力者と認めつつ、
本質は自己顕示の塊と断定、
かなりの分量を占める
レコード評も、
大部分は憎しみに満ちている。

そもそも、1800年以前の古典や、
ベートーヴェン、ブラームスの録音に関しては、
それぞれ一章を設けながら、
次の一章は、「その他の作曲家」となっている。

多くの人が知っているように、
ベートーヴェンもブラームスも、
ストコフスキーの中心レパートリーではなく、
改めて、目くじらを立てて文句を言う類のものではあるまい。

これを聞きたければ、同時代の、
フルトヴェングラーや、トスカニーニを
聞けばよいという見方はしていない。
(といいながら、ストコフスキーのレパートリーが、
偏った理由として、トスカニーニが同じレーベルにいたからだ、
という、冷静な説明も忘れてはいないのだが。)

幸い、私たちは、
こういった選択が出来る時代にあって、
ロビンソン氏のような執拗な糾弾も、
余裕を持って面白く読める。

一方、無論、この「その他の作曲家」の方が、
ストコフスキーの、得意とする分野であろうが、
ここでも彼は、ワーグナーの編作や、チャイコフスキーの改編を、
次々に取り上げては、無意味さを列挙しているだけに見える。

例えば、チャイコフスキーの「第四」のレコード。
ストコフスキーの誇張した解釈に関して、
「音楽をまったくのナンセンスなものにしてしまっている」
と痛罵しているが、私は、この曲は、録音もよく、
気持ちよく、スリリングに聞くことが出来ると思う。

さて、ここで改めて、
HISTORYレーベルのCDの解説の続きを読むと、
「トスカニーニ、フルトヴェングラーら、
彼の有名な同時代者とは異なり、
ストコフスキーのライフワークは知られていないし、
彼の生きた時代に比較して、評価もされていない。」
そうであろうか。

「それにもかかわらず、以下の理由によって、
他の偉大な指揮者の中にあって、特別な地位を占めるのである。
1917年から77年までの、音響工学上のエポックに沿ってなされた、
700を超えるレコーディングによって、多大なレパートリーを誇ったこと。
同時代の作曲家の作品の伝道に、
彼以上、力を注いだ人はいなかったこと。
解釈者として、彼は重要で有名なオーケストラサウンドを発展させ、
これは何十年もかけて完成させていった。」

この部分は、ストコフスキーの業績を簡潔にまとめている感じ。
フルトヴェングラーの残したレコードの作曲家は、40人くらいだが、
ストコフスキーは、その3倍の作曲家を録音に残している。
この中には、近衛秀麿の名前もある。

「ストコフスキーは、常に、最新のレコード録音技術の発展に、
芸術的発想や音楽の把握を従わせて、時に実験も厭わなかった。
彼は、スタジオやレコーディングの開発に影響され、
パイオニアとして、ステレオフォニック・ピクチャリングや、
ロング・プレイ・レコードを活用した。
デジタルの時代のはるか以前から、ストコフスキーは、
世界で最も重要なコンサートホールでの演奏で、
「マルチメディア」プレゼンスを楽しみ、
レコード、ラジオ、TVだけでなく、映画にも登場した。」
「オーケストラの少女」に出てきたストコフスキーは、
傲慢で尊大で、近づきがたい役を演じて、私にも、
強烈な印象を残したが。

「USAにおけるクラシック音楽の普及や需要という、
一般大衆化に、決定的に貢献した。
(伝説的な、ディズニーのアニメ、
ミッキーマウスとの競演の「ファンタジア」(1940)など。)
第33代大統領のトルーマンは、彼を、
『アメリカの音楽を溶接するモニュメント』と呼んだ。」

「前例のない70年近いキャリアの中で、
7000もの演奏会を指揮し、2000を超えるコンサートで、
新作の紹介、初演を行った。
残念ながら履行は出来なかったが、
95歳にして、さらに5年の録音契約を結びさえした。」
これはもはや、唯一無二の存在と言えよう。
近衛秀麿が、「天才」と呼ばれていると紹介したのも、
こうした理由を見ていけば、分からなくはない。
先の評伝で、ロビンソンは、ストコフスキーを、
「なんでも自分の思いのままにやり通さずにはいられない人間」と評したが、
そうした人間でなければ、
こうした前人未踏の世界に突入することは出来まい。
が、95歳からの5年契約だけは思うとおりにならなかった。

ここからは、生い立ちの話になる。
「彼は、1882年4月18日、彼が常々言っていた、
クラカウではなく、ロンドンで生まれた。
彼の父親は、ポーランド出身で、母親は、アイルランド出身と言われていたが、
スコットランド人であった。英国で成長し、早くから音楽に目覚めた。
彼は13歳でロンドンのロイヤルカレッジへの入学を許され、
指揮と共に、ヴァイオリン、ピアノ、オルガンを学んだ。」
カレッジが大学だとすると、やはり天才的である。

「彼は、1903年、オックスフォードのクイーンズカレッジで修行を終え、
ロンドンとニューヨークでオルガン奏者、合唱指揮者になった。」
ロイヤルカレッジとの関係は不明であるが、卒業が21歳なら、
普通のような気もする。

「彼はベルリン、ミュンヘン、パリで、修行を続け、
1908年にはパリにて指揮者としてのデビューをした。
その転機は、1909年、シンシナティ交響楽団の指揮者になって訪れた。
そして、伝説的なフィラデルフィア時代は3年後に始まった。
1915年、アメリカ国籍を取得し、フィラデルフィア交響楽団を率い、
(ここには1936年まで約25年在籍した)
アメリカ最高のオーケストラとして、世界に知られるまでに育て上げた。」

宮沢賢治が聞いたレコードが1922年の録音とすれば、
ストコフスキーがフィラデルフィアに就任して10年ほどで、
日本にもその成果が届けられたということになる。

「彼は、時にオルガン的と評される独特のオーケストラサウンドを、
この時期に開発し、発展させた。
事実、彼は早い時期にはオルガンを演奏し、
巨大な音のスペクトルを楽器から引き出すことに専念した。
彼はここから、
コントラバスとチェロといった深いレジスターを土台にして、
オーケストラに幅広く、力強い音響を与えた。」
やはり、一つところに落ち着いての、信頼関係に基づく実験活動や、
テクノロジーをよく知っての効果の探求があってこそ、
全世界で賞賛されるレコードが生み出されたのである。

先のロビンソンの著書でも、
このようなストコフスキー自身の言葉が紹介されている。
「最初わたしはレコード作りを、
あまりにひどいため拒否しました。
私は音楽をゆがめるのを拒否したのです。
しかし、自分がいかに愚かだったことに気がつきました。
私はレコードを作り、なぜレコードが悪いのか
発見してみようと決心したのです。」
素晴らしい心がけではなかろうか。

うまい具合に、機械式録音から電気式録音の時代になりつつあった。
なんと、このフィラデルフィア時代には、
ストコフスキーは、ベル研究所に、録音技術向上の依頼までしたと、
ロビンソンの著書には書かれてある。

往年の巨匠で、こんなことまで努力している人がいるとは思えない。
イメージとしては、自分は機械のことは知らん、
ただ、自分の最高のパフォーマンスをする、
といった態度の人が多かったのではなかろうか。
ストコフスキーが、レコードがよく鳴るように、
様々な試行錯誤を行ったとすれば、
それは、美しい音を何とかお客様に届けようとする、
真摯な取り組み、試みだったに違いない。
仮に、それが、自分の名声のためであったとしても。

さて、CDについていた解説の先を急ぐと、
「彼はしばしば、慣習を超えて、
論議されることの多いアレンジをスコアに行い、
古典的な楽器の配置も変えて、細心の配慮を行った。
また、すでに評価の確立された古典を改編する、
その解釈は、彼に賞賛だけをもたらしたのではなかった。
バッハのオルガン曲のトランスクリプションは、
この良く知られた賛否両論の例である。」
晩年まで、ストコフスキーは、バッハを管弦楽曲化したものを録音していた。
私が、最初に買ったストコフスキーのレコードも、
やはりバッハの編曲ものであった。
これは録音もよく、非常にロマンティックな、心落ち着くものであった。

「彼の意図は、常に意味があり、宗教曲、室内楽を、
限られた演奏機会から解放し、
より広い聴衆に聞いてもらうことにあった。」
しかし、先のロビンソンは、
「真実そのような音楽を理解できなかったという事実」の証拠と、
簡単に断言し、これらの録音の価値を総て否定している。

「ストコフスキーは、重要なフィラデルフィアの時期の後、
フリーのコンダクターとなり、自らのオーケストラを作り、
それぞれの楽団を長期、短期の間、指揮した。
1940年には、全米ユースオーケストラ、
1944年には、ニューヨーク交響楽団、
1945年には、ハリウッドボウル交響楽団、
最後に、約10年指揮したアメリカ交響楽団。」

このように、既成の組織に受け入れられず、常に、
自分の自由になる楽団を持とうとしたのは、
日本における近衛秀麿とそっくりである。

そういえば、先のロビンソンは、
どうして、全米最高のニューヨーク・フィルの常任に、
彼ほどの実績がある人がなれなかったのか、
という問題提起をしている。

ニューヨーク・フィルとの相性や、トラブルメーカーとしての、
彼の性格が根拠とされているようだが、
いずれも考えられることである。
さらには、楽譜改ざん癖は理由にならなかったのだろうか。
伝統あるオーケストラほど、受け継いでいる楽譜に、
新参者が手を加えるのには、抵抗があるはずだ。

「彼は、トスカニーニと並んで、NBC交響楽団にしばしば客演し、
1955年から60年まで、ヒューストン交響楽団の指揮者も務めた。」
ロビンソンは、このようなマイナー楽団を引き受けたことも、
非常に異例であるとし、「才能の浪費」とすら呼んでいる。
ストコフスキー自身、腰かけ仕事的態度を隠そうとしなかったらしい。

「彼のキャリアは、以下の作品の初演によって、彩られている。
ラフマニノフの第三交響曲、第四協奏曲、パガニーニ狂詩曲、
ストラヴィンスキーの『春の祭典』、マーラーの『第八』、
ベルクの『ヴォツェック』、ヴァレーズ、アイブス、シェーンベルクの諸作品。」

もちろん、全貌は2000もあるというから、こんなものではない。
とはいえ、このうち、ラフマニノフはすべて名演だと思う。
「第三交響曲」は、録音もよく、得がたい。
今回のシリーズには、ラフマニノフの「第二ピアノ協奏曲」の、
作曲者自身を独奏者とした歴史的名盤が含まれている。
これらのうちのいくつかは、世界初演ではなく、
アメリカ初演であろう。

「彼の最後の公開演奏は、1975年であり、1977年には、
最後の録音がなされ、同じ年、95歳で、イギリスで亡くなっている。」

近年、わざわざ、ストコフスキーが編曲した版での、
演奏を録音する指揮者も出てきたりしており、
これから、また、この指揮者が再評価されることになろう。

今回、このCD10枚セットを聞いてみて、1934年録音の、
ベートーヴェンの「第九」にしろ、チャイコフスキーの「第五」にしろ、
ポルタメントを聞かせつつも、きびきびとした音楽進行が快かった。
大時代的な演奏と、聴く前から思っていたが、
テンポの急変などは、因習的なものではなく、
よくコントロールされた感じで、あまり気にならなかった。

ベートーヴェンの「第九」などは、英語で歌われるところが珍妙だが、
別に、こういった演奏もあってもよかろうという感じ。

特に、チャイコフスキーの「第五」は、
あらえびすも、「指揮者としての魔術的な魅力ある態度や、
非常に感受性の鋭敏なことや、その創造性やが、
レコードの上にまで思い起こされて興味が深い」と賞賛しているものだ。

「名曲決定盤」の推薦コーナーでは、
「ストコフスキーのレコードは、豪華艶麗なものほど総て良い」
として、「新世界交響曲」を「躊躇なく」推薦盤としている。
このCDセットにも含まれており、
非常にドラマティックに音楽を鳴り響かせている。
これは1935年の録音。
33年に亡くなった宮沢賢治は聞けなかったもの。

とはいえ、これまた、ややこしいことに、
ストコフスキーは27年にも同曲を録音しているらしいので、
あらえびすが推薦しているのは、あるいは、そちらかもしれない。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」では、
宇宙空間で唐突に、「新世界交響楽」のメロディが聞こえて来るが、
これは、センチメンタルな「第二楽章」のメロディと思われる。
賢治は、イギリスの指揮者、ハーティの演奏や、
ビクター・コンサート管弦楽団の演奏を聞いていた模様。

ストコフスキー盤は、第一楽章から、テンポを激変させ、
全霊を上げて、神秘感をかもし出して、
確かに「オーケストラの魔術師」という言葉を想起させる。
これに対応するオーケストラもオーケストラで、
さすがのヴィーン・フィルの楽団長も、恐れ入る結果となったのであろう。

我らが、シューベルトに関しては、
この時代、「未完成」くらいしか、
まともに知られていなかったのだろうか。
宮沢賢治の本には、「アヴェ・マリア」と、
謎の、ハンガリアン・ラプソディ管弦楽団による「シューベルトの夢」
というのが、出てくるだけである。

あらえびすなどは、様々な歌手を取り上げ、
シューベルトの歌曲を盛んに紹介しているが、
この手のものは、歌詞の問題もあるからであろうか、
一般には敬遠されていたのかもしれない。

特に、宮沢賢治が、最後まで手元に残していたレコードは、
総て、管弦楽曲であり、様々な楽器の融合や壮大な音響に、
もっぱら彼の聴覚は刺激されたのであろう。

一方、ストコフスキーのレコード一覧にも、
シューベルトの欄、「未完成」は、4種類も出ているのに、
その他は、「楽興の時」第三番がやはり4種、「ロザムンデ」の音楽が2種ある他は、
すべて小品である。
これまた謎の「ウィーン舞曲」、」「チロル舞曲」、
あと、「アヴェ・マリア」といった編曲ものが1種ずつ残っているだけだ。

一方で、「まったく理解していない」とされた、
バッハの編曲ものは100種類くらいあるようだ。
同じトランスクリプションでも、大曲では、
バッハのヴァイオリン用の「シャコンヌ」、
ムソルグスキーの「展覧会の絵」のように、
大仰な迫力を追求したものが目立ち、
近衛秀麿のように、弦楽五重奏曲の音響上の限界を考慮して、
交響曲化するといった傾向のものとは、
かなり発想の根本が違うような気がする。

やはり、ストコフスキーの場合、自己顕示の方が、
どうしても先に感じられてしまうのは事実。

しかし、この時代、シューベルトの「ます」の五重奏曲は、
まだ、通俗名曲になっていなかったのだろうか。

得られた事:「自己顕示欲に支えられた飽くことなき実験精神と、テクノロジーへの信頼と習熟が、世界最高のサウンドを生み出した。」
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by franz310 | 2007-07-08 09:16 | 音楽 | Comments(0)