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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その77

b0083728_1749141.jpg個人的経験:
プフィッツナーの指揮した、
「田園交響曲」のレコードは、
「名曲決定盤」でも
取り上げられているが、
また、宮沢賢治が
大事にしていたことでも有名だ。

この詩人は、1896年の生まれ。
つまり、シューベルトのだいたい
100年後の人ということになる。

佐藤泰平という人の書いた、「宮沢賢治の音楽」(筑摩書房)は、
遺族や知人などへの精力的な取材活動が実った労作だが、
この時代の知識人の、西洋音楽への傾倒を偲ばせて参考になる。

「賢治と音楽」ではなく、「賢治の音楽」であるのは、
この高名な詩人が、実は、
数多くのレコード音楽に合わせて歌える歌詞を残していて、
作曲もしているからであろう。
実際、第一章は、そうした研究の成果となっている。

「新世界」からは、「はるはまだきのあけぼのを・・」という歌詞が、
「田園」からは、「ゆみのごとく、とりのごとく・・」という歌詞が、
それぞれ生まれたのだという。

とりわけ好んでいたとされる「田園」に関して言えば、
有名な童話「セロ弾きのゴーシュ」で、
主人公が練習しているのが「第六交響曲」である事なども、
関連付けて述べられているが、これに関しては、
第二章「『セロ弾きのゴーシュ』私見」という一章になっている。

さて、続く第三章「宮沢賢治とレコード」によると、
賢治の残したレコードは、
プフィッツナー指揮の「田園」6枚と、
クレンペラー指揮の「未完成」3枚、
さらにシュトラウス自作自演の「ドン・ファン」2枚
ヴォルフ指揮の「牧神」1枚の、計12枚だということだ。

これを見て驚くのは、1928年(32歳)から病床に伏していた彼が、
1930年に発売された「田園」を所有していることである。

この人の年譜を見ると、大正十年(1921年)の25歳頃、
「音楽熱も高揚し、レコード収集はかなり量になる」とある。

さらに、27歳の年(1923年)にはしばしば上京して、
浅草オペラなどを見たとあり、
29歳の年(1925年)には、「詩作上の必要もあって、
チェロやオルガン独習を始める」とあるから、
元気に自分で歩き回って集めていたのは、
どうやら、あらえびすの著書では取り上げられていない時代の、
機械吹き込み式のレコードが大部分であったと思われる。

ベートーヴェン祭だと言って、レコードを花巻の農学校でかけたとあるが、
これが、大正15年(何故か、没後100年の1年前の1926年)のこと。
ここでかけられたのは、時期から言って、プフィッツナー盤ではありえない。
また、先の替え歌が歌われたのも、
実は、プフィッツナー指揮ではない可能性が高い。

さて、「セロ弾きのゴーシュ」は、大正15年(1926年)、
この時期、新交響楽協会に音楽を習いに行ったという手紙があるらしく、
この時のオーケストラ練習風景が、
参考になったのではないかと書かれている。

ゴーシュをしごく指揮者のモデルは、かの近衛秀麿ではないかと、
この本の著者は類推している。

なお、新潮文庫の「喜遊曲、鳴りやまず」という、
斉藤秀雄の生涯を描いた本でも、
賢治と新響の関係を類推しつつも、
近衛は、非常に優しい物腰の人だったので、
チェロを弾いて弦楽を担当していた斉藤の方が、
この鬼指揮者には似ているのではないか、
という分析をしている。

ということで、宮沢賢治が、
どれくらい聞き込んでいたかは分からないが、
最後まで病床に残されたレコード12枚の半分を占めるのが、
このプフィッツナー盤であったことは確かである。
だが、それだけで、この録音が分かったわけではない。

おそらく、電気吹き込みで音もよく、
前に持っていたのは、抜粋盤みたいものだったらしいので、
これは、大変な宝物であったことであろう。

賢治が亡くなるのは、昭和8年(1933年)9月であるから、
本場ドイツで完成が急がれていた、電気吹き込みによる、
「ベートーヴェン交響曲全集」の完成は知っていただろうか。
(「第八」が1933年発売で完結。)

また、賢治が愛聴していたものに、
ベートーヴェンの「運命」があるらしいが、指揮者は、パスターナック。
この指揮者は、あらえびすの本には登場せず、
また、クレンペラーの「未完成」も、あらえびすは取り上げていない。

あらえびすの「名曲決定盤」も、このように、
必ずしも、当時、広く聴かれていたものを網羅していたわけではない、
ということが分かる。

ということで、プフィッツナーの「田園」を、
宮沢賢治がどのように評価していたかは、よく分からない。
賢治の記念館に、今もまだ残っているという以上のことは不明。

そもそも、プフィッツナーという人の存在すら、
彼は、どれぐらい意識していたのだろうか。
賢治が持っていた「新世界」のレコードなどは、
単に、ビクター・コンサート管弦楽団と書かれていただけだった模様。

私にとっても、プフィッツナーは、むしろ作曲家であって、
指揮者として、何がしたかったかなど、まったく想像が出来ない。
マーラーのように、その世界に君臨したわけでもなく、
音楽関係の著書を読んでも、作曲家としての存在感が強い。

たとえば、マーラーの妻の手記によると、
彼女の取り計らいで、プフィッツナーの初期のオペラは、
マーラーの目に止まって演奏された。

また、ベルクとは、シューマンの「トロイメライ」を巡る音楽論を戦わせた。

最後のロマン主義者として、伝統を重んずる昔の作曲家を題材に、
代表作「パレストリーナ」を書き上げ、
トーマス・マンや、ワルターの共感を得た。

第二次大戦中に焼け出され、
ミュンヘンの老人ホームに預けられていた老人。
ヴィーン・フィルが、そこに手を差し伸べて、年金で援助した。

この話は、「栄光のウィーン・フィル」にも、
「一九四八年の末には、私たちの、ハンス・プフィッツナーをめぐる
奔走尽力が実を結んだ。この作曲家は一八六九年生まれだが、
戦争中ミュンヘンで爆撃で家を失い、
今や身寄りもなく頼る人は誰もいなくなっていた。
・・私たちの当時の楽団長ルドルフ・ハンツルこそ、
この気の毒な状況におかれていた老作曲家のために、
主になって奔走し、そのことで、私たちフィルハーモニーに、
大いなる名誉をもたらしたのである。」
という風に特筆されている。

こうして、代表作、「パレストリーナ」の総譜はウィーン・フィルに寄贈され、
49年にはこのオペラの再演に接し、80歳の誕生日を迎えたあと、
亡くなったという。

プフィッツナーの作品で言えば、LP時代から、
長大だが美しい「ヴァイオリン協奏曲」が隠れた名曲であったが、
この「パレストリーナ」のような声楽を伴う大作も傑作が多く、
CD時代になってからは、「ドイツ精神について」という、
仰々しいタイトルの作品が日本でも紹介された。

これなどは、実態は、アイヒェンドルフの詩による歌曲集の趣きで、
非常に繊細で、ロマンティックな作品となっている。

「パレストリーナ」からの前奏曲なども、何度かCDが出ていて、
その荘厳で不思議な色調は、神秘的な感情を呼び起こすものだった。

また、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」の名演で知られる、
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団が演奏した、
ピアノ五重奏曲、六重奏曲というCDも、私は持っている。

このCDは、オーストリアのプライザーレーベルで、
いかにも、ヴィーンで救助されたばかりといった、
プフィッツナーのスケッチがジャケットで、
色気も何もありはしない。
しかも、ローカルレーベルで、ドイツ語解説のみ。
演奏時間もないというのはあんまりである。

モノラル録音であること以外、録音年代も不明。
とはいえ、第一ヴァイオリンがカンパー、
第二がティッツェ、ヴィオラがヴァイス、ヘルマンがチェロとあるので、
1950年代前半、全盛期の録音であることは間違いない。
一曲目は音に問題はまったくない。
二曲目は少し、歪み気味のところもある。

ヘルマンのコントラバスと来たら、あの「ます」と同じ弦の布陣。

六重奏曲で登場するクラリネットは、何と、ウラッハである。
ウラッハのCDとなると、結構、年代を感じさせるものが多いところ、
このCDは、妙に鮮度が高い。

ピアノは、世界的名手となったスコダではなく、
カンパーの子息のヴァルター・カンパーが弾いている。

b0083728_17494941.jpgあと、フォーゲラーの手になる、
美しいジャケットゆえに入手した、
ヴァイオリン・ソナタなどの
CDもあるが、
このCDの解説には簡単ながら、
プフィッツナーの室内楽を紹介しつつ
生涯を追った部分があるので、
それを概観しながら、
この作曲家の生き様を
展望してみよう。


「ハンス・プフィッツナーは音楽の歴史では、
20世紀初頭の重要な舞台音楽(パレストリーナ)や、
大規模な合唱のバラードやカンタータ(ドイツ精神について)を、
書いた人として位置づけられ、
初期のモダニズムの保守的な敵対者として論陣を張った人であった。」

このあたりは、断片的に知られていることであろう。

「しかし、実際は、大規模とは言えないが、注目すべき室内楽を、
後世の人に残していることはあまり知られていない。
すでに、彼のフランクフルトの音楽院時代において、
プフィッツナーは、Iwan Knorの学生として、
弦楽四重奏曲(ニ長調、1886)を書き、
伝統的な形式でピアノ三重奏曲
(変ロ長調、1886、変ホ長調、1887、ホ長調、1888-9)
などを書いている。」
このように、習作もたくさんのようだ。

「1890年のチェロ・ソナタ 嬰へ短調作品1で本格的な活動を開始し、
ピアノ三重奏曲へ長調作品8(1896)、
弦楽四重奏曲ニ長調作品13(1902)、
ピアノ五重奏曲ハ長調作品23(1908)が続いた。」

1909年、台本から書かれた「パレストリーナ」以前の、
集成のような時期に位置する、この「ピアノ五重奏曲」は、
変則的なシューベルト式のコントラバス入りではなく、
シューマン以来、
多くの名作を生んだピアノ+弦楽四重奏曲の編成。

ハ長調という調性もあるのだろうが、第一楽章は、
苦みばしったプフィッツナーの作品の中では、
比較的、明朗な響きで開始され、幾度も飛翔を試みる。
しかし、錯綜した線の動きが、非常に神経質で、
気難しいシューマンの子孫という感じがする。

第二楽章は、間奏曲と題され、ピッチカートが多用された、
とてもラプソディックな一コマ。

アダージョの第三楽章は、14分にわたって、
悲痛な思い、過去の憧憬の歌が美しく歌われるが、
オスティナートのリズムの思索、
音の流れをかき乱す楽想の乱入が重い。
時に、やさしい楽想が舞い降りて、
希望を与えてくれる瞬間もあるが、
これは荒れ果てた風景を見ながらの墓場への行進でしかない。
カンパーのヴァイオリンが、つややかな音色で輝く。

終楽章は、そんな思いを一転させて、晴れやかな楽想。
が、たった6分の音楽で、第三楽章の沈痛な後味は拭い去れない。

「何年もの間、「パレストリーナ」に費やした後、
ヴァイオリン・ソナタホ短調作品27(1918)や、
弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品36(1925)という2作を生み出した。
後者は、交響曲に書き直された。」

「パレストリーナ」は構想から作曲終了まで、
15年以上の歳月をかけた渾身の作品とされ、
音となって響き渡ったのは、さらに2年後、1917年である。
しかし、台本を書くにあたって、
音楽史の本や歴史的文献を読み漁ったとされ、
恐ろしく理知的な人であったようだ。
したがって、政治的発言も微妙で、危険人物である。
ナチスにも好かれたり疎まれたりした。

この「パレストリーナ」の中のテキストも、
彼の立場を表わしたものに他ならない。
パレストリーナは、珍奇な新音楽から、
伝統音楽を守るために、苦しんでいるが、
どうしても思うような音楽が書けないでもがいている。

何と、そこに昔の巨匠たちの霊が現れて、
主人公を慰めるのである。
「おまえにはまだ発揮されたことのない
もっと強い光が残っている、
妙なる和音を生み出すためには、
まだ最後の音が不足している。
おまえがその最後のひびきを生むのだ。」
さらには、
「壮大な建物を築くための
礎石が置かれるところまでやって来た。
それが今の時代の意味なのだ。」
とあり、完全に、
苦しい立場を美化して乗り切ろうとしている。
「おまえは美しい鎖を飾る最後の宝石なのだ。」
この台本の執筆は、作曲者40歳(1909)からはじめられ、
初演の時、作曲家は48歳になっていた。

「パレストリーナ」に続いて、1921年には、
またも、大作「ドイツ精神について」が書かれている。
私が学生時代に好きだったヴァイオリン協奏曲は、1923年の作。
これも大曲だった。

室内楽の生産もすぐ開始されたようだが、
「パレストリーナ」直後のヴァイオリン・ソナタ作品27にしても、
1918年といえば、ほとんど50歳になる頃の作品だが、
その番号は、全作品ナンバーの半分に満たない。
頂点を極める前も後も、彼の人生は長かった。

第一楽章からして、恐ろしく興奮した音楽であり、
第二楽章は、一転して穏やかな歌だが、
これも次第に緊張感と密度を増して行く。
第三楽章は、独特のリズム感が面白く、
力強い推進力と上昇する気概が見られる。

ドイツの君主制の危機、それに伴う、
価値観の喪失などが、解説には書かれているが、
そこまで、この音楽は背負うというのだろうか。

さきのCDの解説に戻ろう。

「彼の生涯の最後の10年になるまで、
プフィッツナーは、
弦楽四重奏曲ハ短調作品50(1942)、
フガート(1943)、
ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ダブルベースと、
クラリネットのための六重奏曲(1945)を作曲するまで、
室内楽には戻らなかった。」
この最後の10年に、短いながらも印象的な、
交響曲ハ長調作品46が書かれ、「友人たち」に献呈され、
作曲家自身、またはベームなどの手で、録音もなされた。
戦時下の交響曲、妙に意味ありげな音楽である。

では、1925年以降、1930年代は、
いったい何をしていたのか?
実は、宮沢賢治が大事にしていた、「田園」の録音などの年が、
この時代なのである。そこが、この解説には欠落している。

さて、先の交響曲から、まだ10作近くが書かれたようで、
六重奏曲は作品55。
「ます」の編成に、クラリネットを加えた、この六重奏曲は、
なんと、最晩年の作品だったわけだ。
「ます」にこだわれば、同じ5楽章形式。

しかし、とても、家を焼け出されて、
老人ホームに入っていたとは思えぬ創作意欲である。

第一楽章の冒頭、霧に煙る田園風景のような風情が素敵。
クラリネットの独特な響き、
コントラバスの印象的な低音を響かせながら、
何か往時を偲ぶような楽想が飛翔を試みる。
ピアノ五重奏曲よりは、楽想の透明さが増し、
流れに身を委ねやすい(約5分半)。

第二楽章は、鄙びた軽やかな舞曲(約5分)で、
幻想の中のメリーゴーランドみたい。
クラリネットの音色やコントラバスの響きも軽妙である。
中間部の弦の対話のようなワルツも美しい。

第三楽章は小さなロンド(約4分)で、ここでは、ピアノが、
軽やかなステップを踏む。

第四楽章(約7分)は、いきなりコントラバスが導入を果たし、
クラリネットが応答して、ピアノやヴァイオリンの、
コンヴェンショナルな響きは、その後で登場するセンプリーチェ。
ミステリオーソという表記もある。
緩徐楽章である。ピアノが、チェロが、懐かしい歌を奏で始める。
様々な楽器の重なり合いも、時に寂寥感も交え玄妙である。

次の楽章には休みなく入り、これが終楽章(約3分半)となる。
この終楽章は推進力も、自然な推移も素晴らしい。
老人ホームも悪くはないようだ。
余分な力が抜けて、この作曲家の美質が素直に流れている。

1945年といえば、終戦の年。二度の大戦を生きのび、作曲家は76歳。
最晩年になって、
この戦士のような作曲家にも晴朗な境地が訪れたのだろうか。

1896年、27歳の時のピアノ三重奏曲も、
改めて聴きなおして見て、やはり室内楽の限られた響きの中に、
この作曲家が盛り込もうとする幻想なり思い入れなりが、
重すぎるという感じ。
41分にわたって、興奮と沈潜が繰り返されてきつい。

「ドイツ精神について」や「パレストリーナ」などの方が、
歌詞がある分、言いたいことは歌詞が言ってくれるから、
音楽は余計なものを背負う必要なく素直である。

「ドイツ精神について」のテキスト、
「私が求めるものは、打ち砕かれてそこにある
主よ、嘆きはしません
そうすれば心は静か
だが、私が望まぬものも
耐えうる力をお与え下さい」
という言葉などは、
プフィッツナーの生き様そのまま、
そして全作品を覆う色調と言えまいか。

さて、1920年代後半からのプフィッツナーは、
かなり人生のひと時に頂点と絶望を体験したようだ。

音楽之友社の「新音楽辞典」によると、
この頃、叙勲や名誉職への任命もあったが、
1926年の妻の死による創作力減退もあったらしい。
しかも、ナチスには目をつけられ、
活動の機会が制限されるなどの不遇もあった。

さて、宮沢賢治の持っていた「田園」に戻ると、
この妻の死あたりの録音ということになる。
賢治がベートーヴェン100年祭だと興奮していた頃、
この音楽家は、絶望のどん底にいたわけである。

「英雄交響曲」も続いて録音されたが、
第二楽章、「葬送行進曲」で、
60歳のプフィッツナーは泣いたかもしれない。
この時、彼には、まだ人生が20年も残っていた。

一方、賢治が33年に亡くなった時、
プフィッツナーは、ナチスの監視下に置かれ、
敗戦が近づくとまた復活してきて、
80歳の長寿を全うした。

得られた事:「プフィッツナーの音楽は、時代に対する強烈な危機感と、過剰とも言える自意識に支えられたもので、彼の指揮した録音も、その例外とは考えられない。」
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by franz310 | 2007-06-30 17:53 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その76

b0083728_10473131.jpg個人的経験:
長らく私は、
あらえびすの著書は、
SP時代の名盤を、
ことごとく
網羅したような本だと
思っていたが、
バックハウスの「ます」などが
掲載されていないことから、
改めて、この名著のテーマ、
「よき曲、よき演奏、よき録音」
を思い出した。

つまり、よき録音でないものは、
あまり触れられていないようなのである。

私たちにとって、
漠然と、歴史的録音(ヒストリカル)に、
戦前の録音、あるいは、SPの復刻、
といった分類はあろうとも、
電気吹き込み以前、
電気吹き込み以降という分類になると、
少し、経験も定義もはなはだ怪しくなる。

デジタル録音とアナログ録音で、音質がどうだ、
という議論はよくあるし、
LPとSPの議論も聞いたことがある。
しかし、SPの中で、
どのような録音技術の向上が図られたかというと、
あまり、考えたことがなかった。

が、バックハウスの「ます」や、
クライバーの「第二」などについての記述がないことから、
改めて、「名曲決定盤」を眺めてみると、
録音に関しては、当時はさらにシビアな目で、
見られていたことが分かる。
このような事が書いてあることに気づいた。

「レコードの蒐集は、常に音楽愛に終始すべきもので、
絶対に骨董いじりに堕してはいけない」。
「骨董的なレコードの蒐集は、電気以前のレコードに懐古的な夢を追う
老人に任せておくがいい」。
これを読むと、いわゆるヒストリカルも、
1920年代以前となると、老人の分担のようである。

特に、「管弦楽」について書かれた章などには、
こんな一節がある。
「然るに一九二五、六年に到って電気吹込み法が完成し、
管弦楽の吹込みに一大革命が齎された。」
「初期の電気吹込みでは、楽器の分離が甚だ粗雑で、
ほとんど絃と管との区別がつかず、
ただむやみに大きな音を出した時代があった。」
電気吹込みであっても、
1920年代末から1930年代初期のものは、
やはり、あまり薦められないということであろうか。

たとえば、ベートーヴェンの「第一交響曲」などは、
この著書の中では、1930年代後半の
ワインガルトナーの演奏が紹介されているのみである。

したがって、というべきであろうか、
今回聴けた1931年録音の近衛秀麿盤、
1928年録音のプフィッツナー盤などは、
あらえびすは知っていたはずだが、この著書には登場しない。

シューベルトの室内楽を管弦楽化した、
日本の指揮界の先達、近衛秀麿には、
残されたレコードが極めて少ない。

この時代のものは、さらに稀少で、
いったい、日本人のパイオニアが、
どのような音楽を奏でていたかということが、
妙に気になってしょうがない。

そもそも、遠い異国の古典音楽を、
我々の先祖はどのように受け入れてきたか、
ベートーヴェンと私たちの距離や、
シューベルトと私たちとの距離感を、
私は何とか実感したい。

この近衛盤、珍しくもミラノ・スカラ座管弦楽団の演奏とあり、
当時のSPレコードのレーベルを表紙デザインにして、
かなりノスタルジアを感じさせる仕上がりになっている。

ケンレコードというところから出された日本製であるが、
初めて聴くレーベルだ。

解説はたった2ページで、
ここにレーベルの意図や正体が書かれているわけでもない。
解説は、歴史的事実が述べられているだけで、
録音のいきさつなどは不明。

ただ、第一交響曲は、
「邦人によるベートーヴェンの交響曲全曲盤の第一号」、
「邦人の指揮者が海外で録音した最初のレコード」とあり、
これが、いろんな意味で原点となる録音である旨が読み取れる。
とはいえ、あとは、聴いて判断せよという感じである。

近衛は、1930年、「越天楽」を編曲しながら、
シベリア鉄道でヨーロッパに向かったようだが、
先に取り上げた、例の評伝では、
この楽旅は、フルトヴェングラーや、
クライバーと知己を得たことが、
最大の収穫のように書いてある。

翌31年年初に、
スカラ座を振ってレコード録音したことにも、
触れてはいるが、ここでも経緯は分からない。

この本の中で、フルトヴェングラーに会う時は、
ライヴァル、トスカニーニの話は厳禁、と言われているが、
スカラ座のオーケストラといえば、
わずか2年前の29年まで、
そのトスカニーニが振っていた楽団である。
フルトヴェングラーと交遊しつつ、
アンチ・フルトヴェングラーの、
トスカニーニとも接点を探っていた可能性もある。

このあたり、海外の最新事情を強引に吸収しようとする、
黎明期の貪欲さが感じられて良い。
このようななりふり構わぬ存在があったゆえに、
短期間で、洋楽が、この国に根付き、
あらえびすのような愛好家が、現代にも通用する著作を、
残すことができたのであろう。

このCDの嬉しいところは、3曲目に、
トスカニーニとさらに縁の深いNBC交響楽団との演奏(1937)が入っていることである。
(評伝にも、1936年には、
この大指揮者との交遊が始まったことが書かれている。)

このように、近衛は、この時代、
ドイツ、イタリア、アメリカ、ロシアなどを拠点に、
活躍の場を広げていったようだが、
果たして、プフィッツナーとは面識があったのだろうか。

1930年には、ベルリン・シュターツカペレのオーケストラによる、
プフィッツナー指揮の「田園」が、
また、33年にはベルリン・フィルとの「第八」が発売されているから、
近衛の近辺で、何らかの話題はあったはずである。

さて、プフィッツナー盤の「第一」は、例のNAXOS盤なので、
解説で、丁寧な演奏の特徴が書かれているはず。

そこに期待して入手したが、やはり、
クライバーの「第二」と同様、Rob・Cowanという人が、
タイミング表示付きで、演奏の特徴を要約してくれていた。

前回、バックハウスの「ます」が、シューベルトの没後100年を、
機会とした録音と書いたが、このプフィッツナーの「第一」も、
ほぼ同じ年、1928年頃の録音ということになる。

さっそく解説を見てみると、
この前のものと同様、最初の方は、
演奏と関係なく、曲に対する説明から入っている。

「奇数番号が、穏やかな偶数番号の曲より、
ドラマティックであるという、
ベートーヴェンの交響曲に対する広く知られたセオリーは、
第一と第二を考える時にはうまく行かない。」


「第二交響曲の作曲は、迫り来る難聴や、
いわゆるハイリゲンシュタッドの遺書とほぼ同時期であり、
エレガントな第一に比べ、明らかな古典的話法を使いながらも、
よりタフで拡張されたものとなっている。」
ということで、まるで、「第二」の解説みたいである。

「第一交響曲は、1800年の4月に初演され、
幾度となく、『18世紀の白鳥の歌』と呼ばれてきた。
第一と第四楽章はゆっくりとした序奏で始まるが、
もっとも目新しい語り口調は、
ユーモラスにためらうアダージョが、
徐々に歓喜に満ちたアレグロ・モルトに道を譲るフィナーレにある。」

確かに、世紀の最後に出たエポックメイキングな作品ではあるが、
「十八世紀の白鳥の歌」とまで呼ばれるとは知らなかった。

とはいえ、1800年といえば、モーツァルトは亡くなっていたし、
より高齢のハイドンは、名作を書き終わっており、
シューベルトは3歳の幼児であって、
特に知られた大作曲家に限れば、ベートーヴェンしか、
こうした作品を書く候補はいなかったかもしれない。

「中に据えられた、アンダンテとスケルツォは、
コントラストの両極をなし、
特にスケルツォでは、明るく爽やかな味わいで、
シューベルトを予言している。」
そういわれて耳を澄ませると、確かに、「大ハ長調」の、
壮大な活気を思い出すような楽想である。

このように、曲の解説は続き、併録された「田園」についての記述が続く。
ここは、よく知られたことが書かれていて、8年後の作品で、
五楽章形式となってベルリオーズの先駆をなし、
各楽章に作曲者自身のタイトルが記され、
「描写や絵画ではなく感情の表現である」というその言葉が、
紹介されている。

ここからが、いよいよ、曲の詳細と、演奏の特徴を示す部分である。

「戦前の78回転盤で、もっとも有名なものは、
トスカニーニがBBC交響楽団を指揮した、
1930年代のものであった。」
と、先ほど来、話題にも出した、
トスカニーニの事が書かれている。

「様式の点から言えば、この二人の指揮者は、まるで違ったものだ。
トスカニーニが比較的、客観性や、文字通りの真実味や、
表現力豊かなテンポのシフトを避けた方法を好むのに対し、
ドイツの作曲家で指揮者であるハンス・プフィッツナーは、
あふれるような愛情を持って接している。」

なるほど、「客観的」のみならず、
誠実、真実を表わす、「truthfulness」ゆえに、
かのイタリアの大指揮者トスカニーニは、
ベートーヴェンが書いた楽譜に忠実で、
そこに書かれていない表現以外では、
テンポは動かさないという論法である。

こう書かれると、誠実と愛情は別物だったのか、と、
妙な早合点と納得とをしてしまう。

プフィッツナーの表現は、
主題などをこれみよがしにゆっくり演奏したりして、
現代の目からすると、酔っ払いのテンポのようにも思えるが、
これは、杓子定規な表現を嫌い、
作品に対する愛情ゆえだ、という解釈のようである。

クライバーの「第二」が、スタイリッシュだったのに対し、
同じCDにカップリングされた「第四」(こちらはプフィッツナー指揮)も、
どうも、へなへなした軟弱風と聞こえたが、
それは違う聴き方をしなければならないようだ。

先般のCDの写真にも明らかなように、
時代錯誤のマッド・サイエンティストの風貌。
おかしなおっさんが、勝手な解釈をした、
としか思えないのだが、
こう書かれると、よく耳を澄ます必要があろう。
同時に、頭も切換が必要である。

「実際、1928年、
プフィッツナーの『第一(ベートーヴェン)』の録音が、
オリジナルリリースされた年は、
トスカニーニがニューヨーク・フィルを指揮していた年である。
これはトスカニーニのベートーヴェンに対するアポロン的視点が、
ドイツの偉大な同時代者、フルトヴェングラーの、
きわどい柔軟性に対抗していた時代にあたる。」

このように、フルトヴェングラーとトスカニーニとの確執は、
輸入版CDでも、日本の書物でも、必ず触れられる話題なのである。
ナチスの時代に入って、さらに、これがややこしい事になるのは、
周知のとおりである。

しかし、主人公のプフィッツナーからいきなり、
フルトヴェングラーの話にするのは止めて欲しい。

このCDには、もう一曲、
先の「第六番、田園交響曲」も収められており、
むしろ、こちらの方に、この音楽家の特色が出ているようである。

「作曲家としてプフィッツナーは、
偉大なドイツロマン派の伝統を保持しようと努め、
美しくも影響力のある傑作と位置づけられ、
一部、 自伝的でもある歌劇『パレストリーナ』が、
後世に残る代表作とされる。
指揮者としては、プフィッツナーは、
霊感に満ちてはいるが、気まぐれである。
彼のアプローチのすべては、この『田園』に最も集約されており、
わずかな速度の変化、強調が、
楽譜の裏側まで見通す、先鋭な創造精神を示唆している。」

なるほど、マンネリのようにも思えるテンポの変動も、
実は、想像力の発露だったわけである。
こうした援護は、近年、聞いたことがなかった。

「どちらの交響曲(第一と第六)も、
いくつかのリピート表記は守られていないが、
正当にも、重要な『第一』のスケルツォは、
繰り返されている。
プフィッツナーの『第一交響曲』に対する姿勢は、
音楽的に豊かな鑑賞眼を感じさせるものの、
様式的には正統なものである。」

「最初の楽章の快活な第一主題(1:23)は、
かなりの優美さを伴いつつも、
手早く処理されるが、第二主題(2:13)は、
巧妙なテンポの緩和で、際立たせられる。」
さっそく、このタイミング表示の恩恵が味わえる。

ここまでのところを聞き比べると、
一聴して、近衛盤の方が新しいのに録音が悪い。
ざらざらノイズが多く、音量が弱々しく、そのせいか音が薄っぺらな感じがする。

2年後の録音であれば、
近衛盤に求められる「レコード市場で勝つポイント」は、
「最新の録音」くらいではないのだろうか。

ドイツを代表する高名な音楽家が、
天下のベルリン・フィルを振ったものが、
競合盤なのだから。

しかし、この二つの録音とも、あらえびすが、
特に評価した形跡がないのは残念だ。
そもそも、近衛とは交友関係があり、レコード愛好家仲間だったはず。
録音が悪いと切り捨てられたのだろうか。

2年後の「田園」ですら、あらえびすは、
「古いながらも今でも評判のよいレコードである」と書いている位だから、
曲も録音も落ちるとなれば、「名曲決定盤」には、
取り上げなかったとしても、不思議はない。

しかし、プフィッツナー盤は、すくなくとも、
今回のCDを聞く限り、比較的、良好な音質と思える。
あらえびすが、古いと書いた時点で10年も経っておらず、
この時代の技術進歩の速さを偲ぶことが出来る。

さらに言えば、この「第一」、
話題の「田園」に比べれば、
はるかに癖のない演奏と思える。
第二主題のテンポ変化も、それほど大きなものではない。

むしろ、特徴的なのは、低音の動きが出ると、
大きくそこをゆっくり克明に陰影付けするところで、
その時に描かれる太い輪郭線が、この人の味のような気もする。

とはいえ、このようなテンポの変動は近衛盤でも聞き取れる。
近衛盤では、少し早めのテンポに推進力がある代わりに、
録音のせいか、復刻のせいか、プフィッツナーのような低音の陰影が乏しく、
そこにあるはずのオーケストラの存在感を薄める要因ともなっている。

「楽章の展開と共に、プフィッツナーはテンションを高め、
そして、第二楽章のアンダンテ・コン・モートの、
軽快な最初の小節で、改めてそれを緩和させる。」

緊張を高めとあるが、テンポがゆっくりの部分もあって、
そこで緊張が途切れるので、それほどのものではない。
ロマン派風かどうかという問題も気になるが、
SP録音ゆえのツギハギスタイルということはないのだろうか。

第二楽章の記述は、「最初の小節」だけで、
次の話題に飛ぶのが、少しさびしい。

「スケルツォの渦巻き状の第一主題(0:05)の頂上から、
トランペットが鳴り響き、
オーボエの四分音符で開始されるトリオでは、
それが失われたように響く。
プフィッツナーは、この時代の習慣に従い、
中央のトリオ部のテンポを急に落としている。」
ということで、これだけでこの曲の解説は終わって、
「田園」の解説に移る。
第四楽章については言及なし。
これまた寂しく、残念。

近衛盤においても、トリオ部のスピードは急に落ちる。
どちらも、この時代の習慣の影響から脱皮したものではなく、
聴衆もまた、こうした演奏を求めていた可能性が高い。

こうして、みんなで同様のテンポ処理がなされると、
どうも、「愛情」とは反対の、「無意識」、
「想像力」とは反対の「マンネリズム」を感じるが、
ものは言いようよも言えるし、
擁護して考えると、確かに、そもそもは、
楽譜からの自由な飛翔を意味するものだったのかもしれない、
などとも思える。

それにしても、近衛盤の音質は全体にわたって劣悪で、
「ほとんど絃と管との区別がつかず」と書く、
あらえびすの表現に近いものである。

近衛は、颯爽とした指揮姿を想像させる洒脱な味を出して、
ドイツの大家に伍する演奏を繰り広げているだけに残念である。

あらえびすの目からは、両方ばっさり、という感じなのだろうが、
当時の、他の批評を読んでみたいものである。
ベートーヴェンが個性を出し切っていない「第一」の演奏では、
なかなか特徴を出すのは困難であることも痛感。

そんな中で、何ゆえ、近衛はこの曲を録音したのだろうか。
プフィッツナーの場合は、「没後100年記念の全集完成」という大義名分があった。
イタリアまで行って、何ゆえ「第一」?
他の名曲にはライヴァル盤目白押しだったということか?

このCDには、他にもいろいろ入っている。
ベートーヴェンに続いて収録された、
1937年録音のシュトラウス「こうもり」からのワルツは、
前述のNBC交響楽団のものだが、思わず笑みを漏らしてしまうような、
快演となっている。

RCA放送用の録音の私家盤とのことで、大変貴重。
数年を経ているが、録音技術の進展を体感できるものではないのが残念である。

日本のオーケストラによる二曲が続き、
一曲は、あの「越天楽」の自作自演であるのが嬉しい。
が、録音は28年、32年とも同上。
黎明期の日本のオーケストラ演奏がどうかと言えば、
海外の楽団と並べて、大きな違和感があるようなレベルではないようだ。

最後は、プフィッツナーが、先のベートーヴェン演奏で使っていた、
ベルリン・フィルによる「君が代」。
1938年録音。ナチス時代のもの。
ここから、何か音楽的な感興を引き出すのは、かなり無理がある。
重要な記録ではあろうが、鑑賞したい類のものと言えるだろうか。

ベートーヴェンの「第一」の前には、
リムスキー・コルサコフの、「スペイン奇想曲」が、
ベートーヴェンと同じオーケストラで入っているが、
これは、シュトラウスと同様、
楽しい、しかも味のある表現が微笑ましい。

貴重な記録で聞けてうれしかったが、玉石混交という感じであろうか。

得られたこと:「ロマン派風のツギハギテンポは、本来、演奏家の愛情や想像力の発露であった。」
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by franz310 | 2007-06-24 11:18 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その75

b0083728_2235223.jpg個人的体験:
先日、NAXOSの
グレート・コンダクター・
シリーズに収められた、
ベートーヴェンの
「交響曲第二番」
(E・クライバー指揮)
のCDを、
この前、紹介したが、
ここには、以下のような
興味深い一節があった。

このCDのプロデューサーは、
David Lennickという人だそうだが、
Producer’s noteと題して、
ベートーヴェンの死後100年と、
録音技術の発展について書いているのである。

「ベートーヴェンの没後100年、
偶然、時を同じくして、電気処理によって、
録音技術に飛躍的な改良がなされた。
英国コロンビアによって、全交響曲を含む、
大規模なベートーヴェン作品の企画が立ち上がった。
同時に独グラモフォンレーベル(輸出時はポリドール)は、
自主的なベートーヴェン交響曲全集を発表した。」

ちなみに、ベートーヴェンの死後100年というのは、1927年である。
以前の機械式吹き込みから電気式吹き込みになって、
大幅に音がよくなったというのは、よく聴く話であるが、
これが、ちょうど、ベートーヴェンの記念の年のあたりの出来事だった、
というのは、これを読んで初めて認識した。

「ベルリン・フィルと、ベルリン歌劇場のオーケストラが、
録音をシェアし、フィッツナー、R・シュトラウス、O・フリート、
E・クライバーが、指揮を受け持った。
しかし、このシリーズは、100周年には完成されず、
1933年、第八が録音されるまで完成されなかった。
ナクソスは、この全集を再発売する。」

確かに、私もR・シュトラウスの「第五」や「第七」などを、
店で見かけたが、カットも多い演奏と聞いているので、
購入には到っていない。

が、英国が先に出そうとしたのを、
ドイツが威信をかけて、最高の団体と指揮者で対抗したような感じである。
完成が遅れたのは、1929年の大恐慌の影響もあったのであろうか。

「グラモフォン/ポリドールの記録は、とても信用できず、
正確な録音日時は不明である。
マトリクスナンバーも正確な情報ではなく、
同じ録音を複数のバージョンで出すので、
グラモフォンは知られていた。」

このグラモフォンの話、
カラヤンを擁しての、戦後の急成長からすると、
ちょっと、嘘みたいな話であるが、
何となく2流レーベルという感じがする。

「著作権のデータは、オリジナルの78回転盤に示されているが、
これは発売の年であり、また、マトリクスナンバーが更新されるごとに、
変えられていることが知られている。
ということで、ここではむしろ録音年より、発売年を採用した。」

だから、例のクライバーの「第二」にも、
「First issued in 1929 on Polydor 66905/8」とある。
ベートーヴェンの100年祭の2年後であり、
ひょっとすると、大恐慌の影響を受けて、
まったく売れなかったというようなこともあったかもしれない。

クライバーのドヴォルザークのCDのリマスタリングエンジニアは、
復刻の考え方を書いていたが、この人には、そうした記述がなく、
原盤の記録の不備を嘆いて終わっている。
同じヒストリカルシリーズなのに、このあたりは統一性はないようだ。
一方、ドヴォルザークのCDでは、「新世界」が1929年ベルリン、
「モルダウ」が1928年と明記されている。
これもポリドール盤のはず。
いろいろプロデューサーに任されているようだ。

さて、ベートーヴェンが亡くなった翌年に、
シューベルトも亡くなっている。
だから、この録音革新は、シューベルトの没後100年にも、
連動したような形となる。

今回取り上げる、20世紀ドイツを代表する大ピアニスト、
バックハウスによるシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」は、
先の「モルダウ」と同じ1928年の録音で、70年後の1998年に、
「バックハウスの遺産」として再発売されたCDである。

解説にも、
「シューベルト没後100年を記念して、
1928年、バックハウスは各地でこのシューベルトの『ます』を
演奏する機会に恵まれた。そこでHMVはこの機会にこの曲の録音を
バックハウスを起用してロンドンで行うことになった。」
とある。

私は、このCDが出るまで、
こんな録音があったことをまったく知らなかったが、
それは、バックハウスといえば、
何と言っても、ステレオになってからの、
デッカへのベートーヴェンのソナタや協奏曲の全集、
あるいは、モーツァルトやブラームスの協奏曲などが有名で、
SP(78回転盤)時代が省みられることがなかったからであろう。

また、「鍵盤の獅子王」というイメージが強く、
室内楽のピアニストという印象がなかったことも、
あるいは、影響していたかもしれない。
(事実、ブラームスのチェロ・ソナタくらいしか、
すぐに思いつく室内楽演奏はない。)

また、あらえびすの名著「名曲決定盤」にも、
この録音は登場しない。
「当代、まことに得難きピアニスト」、「演奏芸術家として最高最良の天稟」
などと書いて激賞して、
「コルトーとバックハウスだけは、みんなかき集めて、
折々に聴きたいような気がする」とまで書いているのに、である。
あるいは、持っていたのに、たいしたことはないと思ったのだろうか。

この本の推薦レコードには、
やはり、協奏曲やソナタの大曲が並べられ、
晩年まで愛奏したシューベルトについては、
触れられていない。
むしろ、ここでは、リストやショパンなど、
後年の評判とは少し違うところでの評価が高い。

さて、この「ます」であるが、1928年といえば、
1930年代に録音された、シュナーベルの名盤や、
1938年録音とされるナイらの演奏より古い。

したがって、電気吹き込みとはいえ、ノイズは盛大であるが、
復刻の影響もあってか、それらのものより音に芯があるように思える。
あるいは、この明晰さが、バックハウスの面目躍如とするところかもしれない。

とはいえ、この新星堂のCD、イギリスのミドルセックス州の工場の、
原盤台帳まで参照できたらしく、「ます」は、4月7日の録音とあり、
2面不合格で6月18日に再録音というデータまで書かれている。
当時の苦労が手に取るような記載。
さっきのNAXOSの苦肉の策とは好一対になっている。

競演はインターナショナル弦楽四重奏団ということだが、
第一ヴァイオリンのマンジョー(1883-1970)以外は、
メンバー不明というのが、少々心もとない。
録音の日付より、こっちの方が重要なような気がする。
演奏が決して、単なる伴奏に陥ってはいないところからして、
奏者は、それなりの経歴の人たちに違いない。

このように、画竜点睛を欠くものの、
解説は、懇切丁寧、曲の解説も要点を押さえている。
ただし、定常的なノイズからして、一般に薦められるものとは言いがたい。
不快な歪などはないので、聴きやすいのだが。

同じ年に録音された、シューベルトの小品3曲が併録されているのも、
私には、何となく嬉しい。

この録音から約40年後、85歳のバックハウスは、
「最後の演奏会」で、「楽興の時」を取り上げたが、
この曲集の中でも有名な「第三番」が聞き比べられる。
録音のハンディを超えて飛び込んでくる、
43歳の彼の溌溂とした感性、輝かしい音色に圧倒される。

最後の演奏会のものは、滋味豊かかもしれないが、
やはり、年には勝てないという感じがあり、
バックハウスがどんなピアニストであったかを知るには、
あるいは、この戦前の録音の方が相応しいとも言えよう。

一緒に入っている「即興曲作品142-3」もまた、
自在なルバートを聞かせながら、端正なたたずまいを保ち、
すばらしいピアニズムが堪能できる。

あらえびすが書いた、
「彼の技巧は古い形容詞を使っていえば、颯爽たるもので、
水もたまらぬ切れ味である」という表現も肯けるものである。

そう考えると、この世紀の大ピアニストの、まさしく全盛期に、
「ます」の録音が残されたというのは、非常にありがたいことと、
言わざるを得ない。

このCD、表紙デザインも、
単なるおっさんの顔になりがちな歴史的録音にあって、
かなり工夫を凝らして、ハイセンスに仕上げてあることも、
特筆すべきかもしれない。
(ただし、写真は、もっと若い頃のものであろう。)

これは、このところ取り上げて来た、クライバーのCDで、
かなり、我慢してきたポイントで、一息付いた感じすらある。
日本製は、こうあって欲しいものだ。

演奏は、リズム感が良く、クライバーの演奏と同様、
全体的に一筆書きの推進力を感じる。
耳につくポルタメントもなく、清新な感じがする。
マンジョーが1883年の生まれ、バックハウスが84年であり、
共に、脂の乗った、同時代のメンバーが集まっての演奏と言える。

1882年生まれのシュナーベルが、
1893年生まれのオンヌーらのプロアルテ四重奏団と組んだ、
1930年代の名盤と比して、
格別古い様式、テクニックというわけではないだろう。

あらえびすは、このシュナーベル盤は、
「比類を絶する情緒」と特筆するが、
私は、バックハウス盤と比べるうちに、
少々、違和感すら覚えるようになった。

シュナーベルのピアノも粒の揃ったものだが、
バックハウスの方に、水しぶきの切れが感じられる。
第二楽章など、シュナーベル盤が深い水底に沈潜するのに対し、
バックハウス盤は、あくまでも高原の空気の感触を失わない。

第四楽章の有名な変奏曲でも、
バックハウス盤も、意外にもすべての楽器がよく歌っており、
その都度、内省的な表情を見せるところが胸を打つ。
繰り返しになるが、各楽器の奏者の名前が伝わっていないというのが、
おかしいくらいである。

バックハウスは、その中に清流の輝きを添えながらも、
決して「獅子王」の独り舞台にしようとはしていない。

この楽章の前半は、何故か、シュナーベル盤は何故か慌ただしく、
当時、ヨーロッパ最高の四重奏団と呼ばれたプロアルテのメンバーが、
名技性に浸っているようにも思われる。

終楽章も、同様に、シュナーベル盤は効果を狙ったような表現が気になる。
それに比べ、バックハウス盤はもう少し、素朴で土の香りがする。

ただ、第三楽章は、あるいは、シュナーベル盤の方が、
中庸のテンポと言えるかもしれず、
バックハウス盤は、スケルツォの繰り返しも省略して、
先を急ぎすぎているような感じもする。
2分42秒という演奏時間からして、異常である。
SPレコードとはいえ、無理すれば片面5分弱入ったはずなので、
ここまで急ぐ必要はないだろう。

このように、全体的に闊達な表現であるが、
丁寧で、弾き飛ばすような所は皆無。
しかし、録音が古いのは確かで、弦の艶も少し劣るようだ。
あるいは、シュナーベル盤は、ノイズを落としすぎて、
全体に丸っこくなっているのかもしれない。

ウィーンの研究家、ローレンツは、著書の中で、バックハウスを、
「素晴らしく大きな音、力強さと表現力のある完成された技巧家」
と書いているが、
「ニュアンスに乏しく、軽音楽的単線性を呈していた」とも評している。

シュナーベルは、
「ヴィルトオーゾとしてよりは音楽家を自覚していた」、
「比類なき様式精神」、「構築の論理は無欠」ということなので、
ローレンツは、バックハウスより高く評価している様子だが、
「ます」のような音楽では、「軽音楽的単線性」の方が重要なのかもしれない。

得られたこと:「第二楽章も、シュナーベル&プロアルテのように沈潜しすぎると、清流の趣きを失わせる。」
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by franz310 | 2007-06-16 22:37 | シューベルト

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その74

b0083728_11551677.jpgE・クライバーの残した
録音の中では、
後年、デッカに残した
ベートーヴェンの交響曲集が、
録音からも、
推進力からも、
推薦するに足る
すばらしいものだが、
今回、私が特に心を動かされたのが、
NAXOSレーベルから復刻された、
スメタナの「モルダウ」であった。

1928年という、
非常に古い録音であるが、
Mark Obert-Thornという人が、
丹念な復刻を行っており、
聴きやすい、自然な音質でCD化されている。

この人が何者であるかまで、
ちゃんと、このCDの解説には書かれているのもうれしい。
録音時を取り仕切る、
レコーディングのプロデューサーとか、エンジニアは、
よくレコードやCDの記載にも登場するが、
一度、録音が終わった記録が、
きれいに再生されるように音つくりを担当する、
エンジニアは、あまり、よく知られた商売ではないだろう。

しかし、こうした古い録音を、
多くの愛好家が満足して楽しめるようにする技術者は、
むしろ、アーティストなのだと言う。
確かにそうかもしれない。
技術者と呼ぶには、あまりにも感性的な要因が多すぎる。
こんな解説が載っている。

「Mark Obert-Thornは、世界でもっとも尊敬されている、
トランスファー・アーティスト/エンジニアの一人である。
彼は、パールやビダルフ、ロモフォン、ミュージック&アーツといった、
多くの専門レーベルと仕事をしている。
彼の三つのトランスファーは、グラモフォンアワードにノミネートされており、
最近では、フィラデルフィア管弦楽団の12CDからなる記念事業の、
芸術コンサルタントにも任命された。」

ということで、トランスファー・アーティスト/エンジニアというのが、
何十年も前の録音を聞きやすい形に直してくれる職業だということだ。
トランスファーは、古いSPレコードをCDに「転写」するという意味であろう。

日本ではリマスタリングという言葉がよく用いられるが。
これも英和辞典で調べると、
「remaster =(通例デジタル録音により音質を向上させて)
・ ・の新しいマスターテープ[原版]を作る」
とあり、和製英語ではなさそうだが、何か使い分けがあるのだろうか。

「Obert-Thornは、古い録音の音響品質に、
大きな変更や、多大な付加を行うような、
『純粋主義者』や、『再加工者』というより、
自らを、『控えめな介在者』と表現している。」

もちろん、そういった姿勢は大歓迎である。
こうした人が、勝手な効果を付けてしまうと、
何を聞いているのか分からなくなってしまう。

「彼の哲学は、良いトランスファーは、
それを気づかせず、むしろ、
演奏に注意が行くようなものであるべきだ、
というものである。」

「bert-Thornの復刻は、残響の多いカテドラルサウンドでも、
多くの権威ある商業復刻がそうであるような、
可もなく不可もない音に、貧弱な低音が響くだけのものでもない。」

確かに、ノイズを消して、肝心な音楽の一部まで消してしまった、
薄っぺらな復刻では、興ざめも良いところであるが、
このCDでは、十分に演奏を味わうに足る自然な音響となっているし、
豊かさもある。

「彼は、もっとも状態のよい78回転盤を選び、
しばしば、オリジナルマスターを保管している
会社のアーカイブのメタル原盤から復刻する、
復刻エンジニア以上の結果を得ている。」

ということで、この人の特徴は、
そこらの収集家の持っているSPレコードを音源として、
みごとな音質でCDを作るということにあるようだ。

「彼のトランスファーは、古い録音特有の、
オリジナルトーンを保存しており、
他の多くの商業復刻にはない、
低音の周波数と重要な中高音域に気を配り、
音楽的な高忠実度を達成している。」

このCDにはありがたいことに、たくさんの、
クライバーの演奏によるチェコ音楽、
特にドヴォルザークが集められていて、
いろいろ楽しめるのがお買い得感を高めている。
「偶然今回リリースのセレクションは、
だいたい、オリジナルのレコーディングの逆の順番になっている。
『謝肉祭』序曲は、英国デッカプレスから取られた、
初期の“ffrr”レコーディングである。」

これなどは、1948年の録音とあるが、他の戦前の録音に比べて、
特に音質良好とも思えない。
大戦中、軍事用に開発されたというffrrのよさは良く分からない。
ロンドン・フィルの演奏。

その前に収められた「スケルツォ・カプリチオーソ」は、
私の好きな音楽だが、短縮版だったのが残念だが、
その理由も書かれている。

「『Scherzo Capriccoso』は、
初期のドイツのUltraphonのコピーである。
オリジナルはシビアなピッチの不安定性によって、
むしろ残響過多のものであったが、
私は、今回のトランスファーでこれを改善することを試みた。
(SPの)両面に作品を収めるために、
後にオーマンディがミネアポリスで録音するのと同様、
クライバーはスコアを短縮している。」

このようにSP期のレコード録音の制約(片面3-4分)上の措置だったようだ。
演奏時間は8分55秒である。
これが1930年の録音。ベルリン・フィルを振っている。
戦争の影響が、この年代差からも読み取れるというものだ。

続く、スメタナの「モルダウ」は、11分03秒なので、
無理に両面に収めようとしたら、どんな音楽になっていただろうか。
危なかった。

「残りのセレクションは、
すべてドイツ、フランスのポリドールプレスの黒ラベルから取られている。
興味深いことに、クライバーは、2年の間に2回録音しており、
同じカタログナンバーで配給された。
今回のものは後からのもので、前のものよりテンポの動きが自由で、
よりコンヴェンショナルな解釈になっている。
同じスラブ舞曲の録音が、これらのセットのいずれにもフィルアップされた。」
ということで、1927年のスラブ舞曲第一番が、
片面用にあったので、計2枚とし、
3面を使って「モルダウ」がSP化されたものと思われる。
これらは、ベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ)。

私も学生の頃は、二枚組のLPを買うのには、
大きな決断を要したが、2枚組と1枚の差は大きい。
スケルツォ・カプリチオーソでのカットの決断も、
やむをえないものがあろう。
それにしても、違う録音に同じカタログナンバーというのは、
あまりにも紛らわしい話ではないか。

さて、「モルダウ」のどこが、私の心に響いたのだろうか。
それを振り返ってみたい。

戦前の録音だが、前述の復刻の効果か、みずみずしい音を楽しめる。

曲の冒頭、川の二つの水源を表わす、
ゆらゆらと奏されるフルートですら、
繊細な響きが再現されており、独特の弾みを持って立ち上る。

有名なメロディも、
低音の弾力のあるリズムによって、
まるで生き物のように音楽の細胞が、
脈動しているようにすら感じられる。

ハープの弾奏が、水の泡が弾けるような効果を生んでいる。
おそらく、こうした泡立ち感が、この川の音楽に相応しいのではないか。
それが、私の心の川岸を、ひたひたとさざなみで洗うのである。
水の流れや深さまでが、何故か感じられる。

森の狩猟の場面は、控えめに遠くで響き、
あくまで、河畔の森の中、
エピソードとしての光景であることが暗示される。

特に、農民たちの婚礼のダンスでは、
先へ先へと急き立てられるような、
この指揮者特有の音楽作りが聴ける。
聴いている方も胸が躍り出し、クライバーの感興に乗った指揮姿が、
目に浮かぶようである。

中間部の夕暮れや水の精の描写も冴え冴えと、
清らかな水の底から湧き上がって来て、
それを取り囲む冷気が伝わって来る。
各楽器の自発的な弾力性が、ぴんと張り詰めた感触を盛り上げる。

母なる大河、モルダウの主題が戻ってくると、
やがて、聖ヨハネの急流に差し掛かる。
突如、あわ立つような音形が繰り返されると、
木管が水しぶきの輝きを撒き散らし、
ヴァイオリンの慌しい動きでは、
短めのフレージングで、その響きにも銀色の飛まつが飛び交うようだ。

プラハの町に川が流れ込むときの、
浮き立つような喜びも、あるいは、この指揮者らしいかもしれないが、
古城ヴィシェフラドの主題が誇らしげに奏されると、
コーダのリズムはさらに活力を増していて、
爽快に音楽が閉じられる。

ついつい、この指揮者がプラハにゆかりが深く、こうしたチェコ音楽を、
多く録音したことにも理由があるであろうことを想起した。

この指揮者の盟友、フルトヴェングラーが、
戦後、1951年に録音したもので、同じ曲を聴いてみると、
同時代を生きたとは言いながら、二人の音楽作りの違いが、
明瞭に感じられ、クライバーの魅力が浮かび上がる。

この曲でフルトヴェングラーが使ったのは、
天下のウィーン・フィルである。

最初のフルートからして、あまりにも重々しく感じられ、
曲頭から、いきなり、モルダウは大河となっている。

美しい主題は、たっぷりと豊かな情感を漲らせ、
何か沈痛な悲しみすらたたえている。

狩りの場面の金管の炸裂は、
流れる水の音楽というより、
ヴァーグナーのオペラの英雄の入場のごとき、
大地を踏みしめるものものしい音楽となっている。

このような音楽作りから当然のように、
村人の婚礼も荘重な儀式になっており、
あたかも古式ゆかしいパヴァーヌのごとし。

神秘的な夜の音楽の後、再現されるモルダウの主題は、
川は下流になっているのに、流れはかえって速くなっており、
聖ヨハネの急流に向かって押し寄せて行く。

プラハの町に入って行くところなど、
もはや母なる大河というより恐ろしい土石流になっていて、
後半で無理やり盛り上げる感じになっている。

こうして見てみると、フルトヴェングラーは、
まさしく各場面ごとを、精一杯、絵画として拡張して、
12分30秒かけて眼前に描き出しており、
一方、クライバーは、各場面の対照を際立たせながらも、
11分03秒で、一筆書きのように、音楽が滞りなく、
終着点に到ることを第一としていることがわかる。

フルトヴェングラーの好まざる後継者とされた、
カラヤン(1968年録音)ですら、壮大な音絵巻として、
この作品を繰り広げており、
各部分を説明的になぞっている感じ。
12分27秒かかっている。

実際のライヴァルで、フルトヴェングラーと対立していた、
トスカニーニの1950年盤は、11分08秒で、
クライバーの演奏時間に近い。
冒頭部のピッチカートを強調して期待させるが、
全体に、いくぶん、音楽が磨かれすぎているせいか、
楽器が型どおりに鳴っているような感じ、
わくわくさせる要素が少ない。

私が、クライバーの演奏に惹かれたのにも、
どうやら、それなりの理由がありそうだ。

しかし、このクライバー盤は、
おそらく、モルダウがメインの曲目ではないだろう。
ドヴォルザークの「新世界交響曲」が、真ん中に、どっしりと、
41分34秒かけて居座っているからである。

例のトランスファー・アーティストは、
この曲については、控えめに音質について触れている。

「『新世界交響曲』の原盤ディスクの、
すばらしい状態にもかかわらず、
ほぼ5分にもなろうとする比較的長い録音ゆえに、
いくつかの面の終わりでノイズが聞こえる。
例えば、最後と最初の面の最後近くにラウドな部分があった。」

というが、実際、あまり気にならなかった。

b0083728_11533711.jpg実は、この音源、
すでに、日本でも、ポリグラムから、
「SP名盤コレクション」として、
CD化されていて、
復刻の違いを聞き比べることができた。

このような解説だったので、
私は、きっと、NAXOS盤は、
あまり音をいじっていないのではないか
と思っていたが、
一聴して、あっと気づくのは、
このポリグラム盤の方が、
ずっとノイズが多いことであった。

つまり、NAXOSの方が何か手を加えている感じ。

さらに、むしろ、迫力ある音質なのは、ポリグラムの方なのである。
先の解説にも、うるさくなるところがあると書いてあったが、
ポリグラム盤は確かにうるさいが、反対に、演奏にはかえって伸びがある。

さらに気づいたのは、ポリグラム盤の方が、勢いがあるということで、
何と、全曲が、41分14秒とあり、どうやら、何かが違うようだ。
第一楽章で10秒、第二楽章で9秒、第三楽章で19秒、第四楽章で7秒、
すべてポリグラム盤が短いのである。

トータル表示が10秒差というのを超えて、45秒も長いのがNAXOS盤である。

幸い、どちらにも、SPの原盤の表記があり、
773-74、824-26、775までは一緒、
ポリグラムはここで776を使ったようだが、
NAXOSは615というのを利用、
どうやら第三楽章の後半は別の盤を併用した模様。

最後の827-28、829は同じ番号である。
今回、ここまでしか調べていないが、
なかなか、戦前の78回転盤の回転数管理というのもやっかいな問題と見た。
クオーツ制御もないだろうから、
録音時も再生時も、いったいどんな管理をしていたのだろうか。

こうした録音の問題、音質の好き嫌いはあろうが、
いずれのCDも商品全体として悪くはない。
曲目解説もあるし、その他の解説も読み応えがある。
ポリグラムは、クライバーの略歴に注力、
NAXOSは、前述の、トランスファー・アーティストにスポットを当てた解説。
しかし、ポリグラム盤は、お家元にしては、しょぼすぎる表紙写真ではないか。
「新世界」一曲というのも、サービスが足りないような気がしないか。
NAXOSならより安く、74分にわたって楽しむことが出来る。

今回は、大きく、シューベルトの「ます」から脱線してしまったが、
戦前の録音の復刻の差異や、各巨匠の音楽作りの差異を概観することが出来た。

得られたこと:「SPからの復刻は、ノイズ処理の調整のみならず、回転数管理なども困難、演奏時間10分で10-20秒程度の誤差もありうる。(2-3%)」
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by franz310 | 2007-06-10 11:55 | 音楽

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その73

b0083728_17594761.jpg個人的経験:
前々回、ターラのCD解説の
E・クライバーの生涯概説編を、
無理やり訳して、掲載しようとしたら、
字数オーバーで怒られた。

今回は、それに再度トライしたい。
ここから、いろいろな事が、
読み取れたからである。

書いたのは、誰か不明。
ただし、English revision: Julian Crandall Hollikとある。
「エーリヒ・クライバーは1890年4月5日、ヴィーンに生まれた。
1956年、彼の突然の死によって、世界は一人の大指揮者を失った。
ベルリン、ヴィーンでは誰一人泣かなかったが、
彼が長年過ごしたブエノスアイレスでは、
モーツァルト生誕200年のコンサートで、
彼の死が報じられると、全市が文字通りショック状態に陥ったという。」

やはり、こうした一徹系の人物は、伝統的な場所では、
理解が得られなかったものと見える。
ここで、同時代の巨匠がどうなっていたかを振り返ると、
4歳年配のフルトヴェングラーは、2年前に死去、
NBCの主、トスカニーニは、23歳も年上だが、
翌年まで生きている。
ワルター、クレンペラーには、まだ、数年、十数年の余命があり、
ステレオ録音を残すことが出来た。

「彼の父親、フランツ・オットー・クライバーは、偉大な学者であり、
余暇には哲学や言語学の研究をするという、
ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語の教授であった。
1888年、8月14日、プラハにて、
彼はVroni Shopplと結婚し、二児をもうけた。
1889年8月生まれのエリザベスとエーリヒで、
彼らはKettenbruckengasseの自宅で生まれた。
エーリヒの父は1895年に亡くなり、一家はプラハに移住、
そこのWasagymnasiumで幼いエーリヒは8年間学んだが、
顕著で早熟な音楽的素質を見せることはなかった。
それにもかかわらず、彼はヴァイオリンのレッスンを受け、
歌曲の作曲を始めている(ただし、ピアノ伴奏なし)。」

このような日付調査まで行うところが、
考古学のTahraレーベルたる所以であろうか。
ただし、1895+8=1903年だが、その後、どこに行ったのか?

「14歳の時に、彼はロルツィングの
『Waffenschmied(刀鍛冶)』の演技に参加し、
俳優になりたいと思った。1916年の5月には、
学校で、Minna von Barnheimのメイド役を演じているが、
彼は道化の役で有名であった。」
この一節も、微妙。子供の頃、道化をやりすぎて、
大人になって、怖いおじさんになったということか?
そもそも、この日付、正しいのか?1906年では?

「1906年の終わりには、作曲者指揮のマーラーの第六の初演に接した。
コンサートの後、彼は友人のHans Galに向って、
『僕は、できるだけ早く指揮者になりたい』と宣言した。
この時代、指揮者になる唯一の道は、ピアノを弾き、
オペラハウスの合唱団のリハーサルをする
アシスタント指揮者になることだった。
1907年の最初の9ヶ月は、
クライバーはお決まりのオペラを見て暮らし、
トリスタンに圧倒された。
彼はすぐにプラハに帰るべきことを自覚し、
1908年にヴィーンを後にして、
プラハの音楽アカデミーに入学し、
1912年まで学んだ。」
どうやら、ヴィーンで13歳から18歳くらいの、
多感な時代を過ごしたものと読める。

「1911年の秋、プラハのドイツオペラの合唱のピアノ伴奏を始め、
1912年1月4日、Alfred Piccaverの歌う
プッチーニとポンキエッリのアリアを伴奏し、
最初の公開演奏を行った。
一週間後、フランス音楽のリサイタルで、スイスのソプラノの伴奏をした。
(1911年10月、Nestroyの劇、
『Einen Jux willer sich machen』の舞台で指揮して、
彼はオペラデビューを果たした。
11月21日に、オイリアンテの序曲など、次のコンサートが開かれ、
1912年3月10日にはオペレッタ『Mam’zelle Nitouche』を指揮した。)」

「1912年7月15日、彼はプラハを後にして、
ダルムシュタットのホーフシアターのアポイントに応じた。
ここで、彼は、Molnarのオペラや『ボエーム』の断章を含む、
最初の公開演奏を行った。
そして、1913年2月25日、『フィデリオ』を指揮した。
春になると、ニキシュがダルムシュタットへ来て『トリスタン』を指揮したが、
それはクライバーに忘れがたい演奏となった。」

「1919年5月1日、85人の候補者の中から、
Barmen-Elberfeld(現ウッパータル)の指揮者に選ばれ、
『カルメン』や『魔弾の射手』の公演の後、ダルムシュタットを去った。
1920年、彼は3日の休暇をとり、
メンゲルベルクの指揮するアムステルダム・マーラー祭に出かけた。
そして1921年7月1日、デュッセルドルフの楽長に任じられた。
デュッセルドルフ着任早々、シェーンベルクの『室内交響曲』を演奏した。
さらにヴェルディのレクイエム、大地の歌、ピエロ・リュネールを指揮した。」
とんとん拍子に出世して、大曲、新曲など、
意欲的な演目で鳴らしたということだろうか。
曲目の『』をいちいち書くのが面倒になってきた。
実は原文にもない。

「1922年8月1日、マンハイムの音楽アカデミー演奏会の楽長となり、
最初の3ヶ月で、ローエングリン、アイーダ、フィデリオ、ドン・ジョバンニ、
バッハのヨハネ受難曲、マーラーの第三を指揮した。」
それに加えて、恐ろしく精力的な男だったということか。

「1922年の3月、Bittnerの歌劇das Rosengartleinを初演した。
1923年の8月23日、フィデリオでベルリン国立歌劇場の仕事も開始した。
(マックス・フォン・シリンクスの時代であった。)
ベルリンでの彼の四年間(1922-26)の間、
リングや、モーツァルト、R・シュトラウスのチクルスを指揮した。」

1923年は、そのチャレンジャブルな仕事振りが評価され始めた時代であろう。
次の部分は、よく企画された大曲を繰り出して、さらに評価を高めたと読もう。

「11月19日、ギーゼキングを独奏者として、
ベートーヴェンプロで、ヴィーンでの最初の演奏会を開き、
3週間後、国立歌劇場で、最初のコンサートを開いた。
シュターツカペレでのオーケストラ演奏会は少ないが、
元来の保守的な経営陣への配慮から、
フーガの技法や、ベルリンで演奏されたことのない
モーツァルトの作品といったプログラムで、バランスを取ることを試みた。
(1927年の11月には、ティート帝の慈悲の演奏会形式上演を含む、
全モーツァルトチクルスを行った。)
彼は、同時に、ブルックナーの4、5、9番にテ・デウムや、
マーラーの4、5、7番に「大地の歌」を指揮した。
1924年3月3日、ヤナーチェックのイェヌーファを指揮、
11月26日にはブゾーニのアレッキーノ、
12月29日にはバクダットの理髪師、
1925年の春には、コルンゴルトの死の都を指揮した。」

「しかし、1925年のメインイベントは、12月14日の、
ヴォツェック初演で、傑出した成功を収めた。
1925年の6月と1927年の6月に、
彼は、ヴィーン・フィルを率いてドイツ公演を行い、
チェコのプラハで最初の演奏会を開いた。
1928年4月20日、バルトークがクライバーと自作のピアノ協奏曲で協演し、
1929年5月24日、フリードリヒ大王の交響曲、ワインガルトナーの序曲、
シュトラウスの英雄の生涯という一風変わった興味深いコンサートを開いた。
クライバーのコンサートのどれもが愛の行為(an act of love)だった。」

ここから盤暦の話。
「1923年の早い頃から、
クライバーはレコード録音を始めた。
最初は当然アコースティック方式で、
ドイツのレーベルVox、1926年の終わりには、
78回転盤50面分をポリドールに行った。
1928年の終わりには、Odeon/Parlophoneに8面、
1928年から9年にかけて、Electrola/HMVに録音し、
さらに、30年代には、Ultraphone/Telefunkenに101面の録音をした。」
この大量の録音のおかげで、
著作権が切れた今、いくつかの録音が復刻されて、
聴きやすくなっているのである。

「1926年5月、国立歌劇場が改修のため閉鎖されると、
クライバーは、クロールオペラ(Krolloper)でリング、パルシファル、サロメ、
薔薇の騎士、マイスタージンガーや多くの歌劇を指揮した。
1926年7月5日、最初にブエノスアイレスに発つ前、
生涯を通じて深く愛した魔弾の射手を演奏している。
8月4日、大西洋を渡るGiulioCesare号にジェノアから乗り込み、
8月20日にはテアトロ・コロン(TheatroColon)のオーケストラの
リハーサルを行っている。
10月7日までに14のコンサートを開き、
ベートーヴェンの第九、マーラーの第四、
マリピエロのImpressioni del veroなどを演奏した。」

放浪の騎士、クライバーは、こうして、南米にも足がかりを掴んだのである。

「1927年と29年の8月、9月は、ミサ・ソレムニス、
モーツァルトのレクイエムなどで、ブエノスアイレスに戻った。
1926年10月、ベルリンに戻ると、
しばしば、ランチタイムから深夜まで9時間も指揮をする
猛烈な時代が始まり、エレクトラ、魔弾の射手、マイスタージンガー、
トリスタンなどを指揮した。
この時代、彼は、アメリカ人のルース・グッドリッチと出会い、
12月29日に結婚した。
ルースとエリックには、ヴェロニカとカルロスという子供が出来た。」
エーリッヒ・クライバーが家で、エリックと呼ばれていたのだとしたら、
何だか妙に印象が変わってしまう。できれば、やめて欲しい。

「1927年の初め、彼は妻を置いて、モスクワとレニングラードへ
コンサートツアーに出かけ、12月に最初のヴィーン・フィル登場となった。
ヘンリー・パーセルの組曲という変わった曲目で演奏会を始めた。
1928年、4月28日、国立歌劇場はクライバーの指揮で再開し、
コンサートの後、バルトークは、
『わたしの協奏曲が正しく鳴った最初の演奏会でした』と語った。
1929年、トスカニーニ、クレンペラー、シュトラウス、
フルトヴェングラーが集った大きなイベントであるベルリン祭に参加した。
(クライバーは『ヴォツェック』の他、『ティート』の演奏会形式、
シュレーカーのSingende Teufelを指揮した。)」

「1930年の5月5日には、ベルリンサマーフェスティバルで、
ミヨーのクリストフ・コロンブを初演、作曲家はクライバーにこう書き送った。
『あなたが与えてくれた喜びに対し感謝致します。
私の考え、感覚がすべて表現されており、
深さと感情が溢れ、ストレートに心に響きました。』
1930年から31年、彼はニューヨーク・フィルを、
6から8週間指揮し、20から30のコンサートを行った。
(ベルクの叙情組曲は素晴らしい成功となった。)」
このあたりは、順風満帆である。

しかし、次のセンテンスあたりから怪しくなる。
「1933年1月、ヒトラーが政権を取ると、
当然、音楽生活にも大きな影響が出てきた。
すべてのオペラ、コンサートはゲッペルスの管理下に置かれた。
これは全演目のワーグナー化を意味した。
1934年11月30日、ベルクのルルから、
5つの交響的小品の演奏許可を得たが、
この演奏会は、1920年代のベルリンとの別れをほぼ意味した。
コンサート終演時、聴衆の誰かが、「ハイル・モーツァルト!」と叫んだ。
4日後、クライバーは、『音楽が空気や太陽や光と同様、自由でない』
ナチ政権下では活動継続不可能と職を辞した。
1935年1月1日と3日、国立歌劇場での最後の演奏は、
タンホイザーだったが、ナチスの会員とゲストだけが入場を許された。
7月に、音楽監督と客演指揮者として招聘するという、
監督官ゲーリングからの手紙を受け取った。
彼はそれには応じず、彷徨える客演指揮者としての後半生を開始した。
それがただ一つの利益だとしても、世界市民でありたいと考えた。」

ベルクの評伝を読むと、
フルトヴェングラーがヒンデミット問題で辞任したのに、
何故、クライバーは、ベルク問題で辞任しないか?
などという論舌があったという。

「彼はどこからでも招待された。
プラハへ(薔薇の騎士、フィデリオ、スメタナのBaiser)
ブリュッセルへ(1937年秋)
ロンドンへ(クイーンズホールデビュー)
アムステルダム(ヴァルキューレ)
ザルツブルクフェスティバルへなどなど。
各シーズン、一般に8月から10月まで、
彼はブエノスアイレスのドイツオペラを指揮した。
(1937:フィデリオ、タンホイザー、イフェギニエ、名歌手、
1938:薔薇の騎士、トリスタン、ジークフリート、他、
1939:ヨハネ受難曲、
1940:エレクトラ、ジプシー男爵、薔薇の騎士、オルフェオ、売られた花嫁、
1941:ヴァルキューレ、サロメ、パルシファル、オランダ人、ジプシー男爵他、
1943:フィガロ、名歌手、魔笛、ローエングリン、イフェギニエ、こうもり
1944:エレクトラ
1938年の春、コヴェントガーデンでレーマンと薔薇の騎士を、
12月には、スカラ座でフィデリオを指揮した。」
ドイツの名作のオンパレードである。
しかも、1シーズンに5つもの長大なオペラ!
恐ろしく精力的で、こんな指揮者が来たら、
歓迎する楽団と、拒絶する楽団があっておかしくはない。
また、戦争中なのに、別天地である。
いったい、ブエノスアイレスとはどんなところなのであろう。

「1939年6月24日、クライバーはモンテビデオに行き、
7月から11月まで7つのコンサートを指揮、ブエノスアイレスにも行ったが、
11ヶ月も妻子と別れていた。」
アメリカ女性がよく黙っていたものだ。
その間、本人は、愛の行為を繰り広げていた。

「さらにペルー、チリ、メキシコ、ブラジル、
たった一回のためにグアテマラでも指揮した。
1943年3月25日、彼はハバナ・フィルとキューバで最初の演奏会。
これはエルマン独奏のチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、
モーツァルトの交響曲、ストラヴィンスキーの火の鳥を含むものだった。
彼は中南米の契約(特にキューバ)を履行するまで、
戦後、欧州には戻らなかった。
1947年、8月から10月まで、コロン(リング)で指揮、
1948年、再度指揮(トリスタン他)、
1949年も(マイスタージンガー他)。」
しかし、これら中南米のオーケストラは、
クライバーの指導で、スキルアップしたのだろうか?
あまり、近年、聴いたことがないのだが。

「1947から8年の冬のシーズンでは、
ニューヨークでNBC交響楽団を指揮、
1948年2月、ヨーロッパに一度戻り、
ブリュッセル、ロンドン、プラハ、
アムステルダム、ミラノ、ヴィーンに招かれた。
その年、ロンドン・フィルでの演奏会シリーズを再開、
1946年に再開したコヴェントガーデンの
オペラシリーズでの契約を行った。
(薔薇の騎士、ヴォツェックを指揮、エリザベス二世の戴冠前夜の
ヴォツェックは聴衆を圧倒した。)」
ターラのCDのコンサートはこの時期のものであろうか。
この一時期の演奏を収めた1枚のCDの解説に、これだけの情報量が、
こめられているのは脅威としか言いようがない。

「1951年6月、彼はベルリンに戻った。
1945年2月3日、国立歌劇場が破壊されたので、
アドミラルパラストで薔薇の騎士を指揮し、
これはフルトヴェングラーも臨席した。
そして、シュトラウスの四つの最後の歌を含む
コンサートを指揮した。」
だんだん、戦前の活動に近づいて来た感じがある。

「1952年12月、ライプツィヒとドレスデンから招待され、
一連のシリーズの後、ケルンのラジオオーケストラと演奏、
フィデリオ、魔弾の射手の録音が残っている。
1955年3月16日、ベルリン国立歌劇場のポジションに復帰した。」
長い長い苦闘の時代であった。
出たのが1935年だから、まさに20年もの空白が生じてしまった。
クライバーのレコードが、1920年代後半から30年代のSPのあと、
まったく記録が途切れ、50年代から再度、録音が始まる理由は、
このような理由なのである。

さて、解説もここからが最終ページ、クライバーはベルリンに復帰した。
「クライバーはレコーディングに強い興味を示したことがなく、
最後の年(複数)に、デッカへの録音を行ったのは、きわめて、
矛盾しているように見える。
(ヴィーンでの薔薇の騎士、フィガロ、ベートーヴェンの3番、9番、
そして、アムステルダム・コンセルトヘボウにて)。
1955年の夏の間、ダルムシュタットのオーケストラと活動を再開、
これは最初期の勝利を思い出させ、彼は幸福であった。
11月23、24日には、
ヴィーンでシンフォニカーとヴェルディのレクイエムを演奏した。
1956年はケルンでの1月20日のコンサート(ウェーバーの第1)
で始まり、イースターでは、ミラノスカラ座でパルシファルを指揮した。
しかし、彼は健康に留意したことなどなかった。
(奴隷のように働くのが好きだ、と言っていた。)」
こんな指揮者と演奏するオーケストラはたまらない。

「チューリヒのグランドホテル・ドルドラは、
彼の好きな保養地だったが、ここに1月27日まで泊る計画だった。
クライバーは指揮者としては珍しく、
自分の指揮をショーアップしない人だったが、
その日は、まさにモーツァルトの200回目の誕生日にあたる日だった。」

なるほど、じぐざぐの指揮は、見た目を気にしない、
なりふり構わぬものだったようだ。
こうした指揮者は理解されにくいかもしれない。

「彼は妻が車でルガーノに来てローマに行くまで、
演奏予定のティートの演奏に集中すべく、
ホテルにこもって過ごすことに決めていた。
彼は具合の悪い夜を過ごし、翌日、医者に来てもらうよう頼んでいた。
妻はルガーノから電話したが彼の部屋の電話には誰も出なかった。」

何だかサスペンスみたいでどきどきしてきたが、あと3行である。
「彼らが、彼の部屋のドアを開けた時、バスタブの中にクライバーの体を見つけた。
彼が常に願っていたように、大きな突然の心臓マヒで彼は死んでいた。
彼は、チューリヒのHonggerbergの墓地に葬られた。」
彼らというのは、医者と妻か?

ということで、録音嫌いもあって、クライバー全盛期の正規の録音は少ない。
さらに、戦争中の南米での演奏会など(さらに大部分が大曲である)、
まさか記録が残っているわけはあるまいと思っていた。
そもそも、どんなオーケストラで、どんな歌手が出るというのだろう。

が、ちょっと探せば、あるということが分かった。
この38年の「トリスタンとイゾルデ」などなど、
英語表記を繰り広げる謎のMade in Germany のレーベル、ARCHIPEL。
DESERT ISLAND COLLECTIONというシリーズ。
砂漠の島とか、不毛の島と一文字ずつ訳したら欲しくなくなるが、
無人島のコレクションとすれば、
これだけで満足できるシリーズということになる。

しかし、そのレーベルの隣に、こんな警告文も出ている。
「この録音のサウンドクオリティは、
録音のなされた貧弱なコンディションを反映しています。
コレクターのみに購入をお勧めします。」

このCDが漂わせる雰囲気からして、コレクターしか買わないと思う。
そもそも、表紙の写真は誰?
クライバーではないし、
トリスタン:マックス・ローレンツ
イゾルデ:Anny Konetzni
とあるから、性別で判断するに、ローレンツか?
20世紀前半を代表するワーグナー・テノールと言われている人。
さすがに輝かしい声である。
日本ではあまり知られていないので、写真を見るのは初めてである。
とすると、非常に貴重な写真に見えてきた。

立っているだけなので、スーツの広告にも見えるが。

イゾルデのKonetzniも清楚な感じでよい。

さらに、このCDのリーフレットは、トラックの説明のみ、
むしろ、別の解説のほうが、はるかに充実している。
「注意:トラック11は非常にダメージを受けているパッセージを含みます。
これはマスターによるもので、CDのテクニカルミステークではありません。」
「オリジナルのアセテート盤のダメージによって、
ときに目立つクラックノイズが除去できておりません。
記録の完全性のため、そうした箇所もオミットしてありません。」

しばらく前の私だったら、絶対に欲しくないCDである。
最初の音や途中でもどうやら音の欠落まである。

が、そんなことは、確かにどうでも良いような気がしている。
1938年、9月18日、ブエノスアイレスで鳴り響いたヴァーグナー。
こうした70年も前の演奏様式を伝え、
オーケストラにも、朗々と歌う歌手たちも、やけに立派なのである。
この時代、たくさんの人がドイツから脱出を始めており、
ここでは、そうした人たちの希望が輝いていたのであろう。

しかも、クライバーには、仲の悪いヴィーン・フィルとの録音しか、
オペラはなかったのである。
先の解説の冒頭を思い出してみよう。
「1956年、彼の突然の死によって、世界は一人の大指揮者を失った。
ベルリン、ヴィーンでは誰一人泣かなかった」。

例の「栄光のウィーン・フィル」という本を紐解いてみても、
「彼の死去の知らせは、様々な動機から私たちに辛い打撃であった」
と書かれているが、一番の理由は、長い間交渉して計画されていた、
アメリカ演奏旅行が、危うくなったという点にあるように読み取れる。
この交渉も、フルトヴェングラーが死去したから、
クライバーに頼んだという書き方になっており、
彼の死を知るや、今度はシューリヒトに指揮を依頼して、
これぞ「神の思召と思われ」たと、書いてもいるのである。
とんでもない追悼である。

確かに私も、これらのヴィーンの名盤にはお世話になったが、
こんなにも精力的で、血管が膨らみきっていた時代の、
大演奏のヴァーグナーの熱気には、ただただ、圧倒されるのみであった。
退屈なところなど何処にもなく、3枚のCDがすぐに終わってしまう。
オペラで、こんな経験は、実はしたことがないような気すらしているのである。
究極の愛を描いた「トリスタン」であるがゆえに、
「an act of love」の実感も沸くのかもしれぬ。

ということで、シューベルトでも、
「ます」でもない所まで脱線してしまったが、
妙に考えさせられるCDであった。
こうした商品は、決して一般向けではないので、
限られた人に出来るだけ入手しやすくする必要がある。
したがって、このような解説なし、ジャケット手抜きでも、
やむをえないような気がする。
この辺に金をかけても、決して高くしては売れるとは思えない。
音質が、まともな商品のレベルを満たしていないのだから。
とはいえ、何としても入手したい人もいるはずである。

ターラのような親切丁寧なレーベルと、
アーキペルのような手抜き廉価レーベルが、
ヒストリカルCD市場を補完しあっているようだ。
このバランスが続けばよいのだが。

得られた事:「ジャケットも解説も録音さえもどうでもいいから、とにかく聞きたい演奏も有り得る。」
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by franz310 | 2007-06-02 18:03 | 音楽