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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その55

b0083728_20583120.jpg個人的経験:
前回、
弦楽四重奏+ピアノによる
五重奏曲は、古典の時代には、
広く知られた名作が
あるわけではないから、
シューベルトの「ます」が、
ヴァイオリンを二つではなく、
コントラバスを含むのも、
当時としては、
別に特殊な編成ではなかったはず、
と書いたが、
ここに聴くCDなどは、
実にそのことをストレートに
売り文句にしているので、
ぶったまげてしまった。

つまり、演奏しているネポムーク五重奏団は、
まさに、「シューベルトだけが、
こんな編成で書いたのではないはずよ」、
と、フォルテピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、
チェロ、ダブルベースの常設五重奏団にしてしまった、
と解説に書いてあるのである。

フンメルにもあるでしょ、とばかりに
そのミドルネームを頂戴して結成された
グループなのである。

メンバーたちの努力によって、
各国の図書館から、1800年から70年にかけての
約20の知られざるこの編成の五重奏を見つけ出したという。

しかも、演奏する曲目によって、
当時の楽器を使い分けるというのもすごい。
かるい当時のピアノのバス・レジスターと、
コントラバスのバランスが重要なのだという。

楽器のコレクターで修復家でもある人との協業で、
作品に向う態度の徹底ぶりには熱いものを感じる。
日本の女性ピアニストの呼びかけで、
オランダの仲間が集まったようだ。

このように、シューベルトの時代には、
「ます」と同じ編成によるピアノ五重奏曲が、
普通に書かれていたことが分かる。

これまで、どうして、シューベルトの編成がいっぷう変わっているかを、
研究してきた人は、このCDを見て、何と言うであろうか。

ジャケットの表の絵画は、1845年作の
「バルコニーのある部屋」というもので、
アドルフ・メンツェルの作品とある。
この時代を伝えるもので、休日の朝を思わせる雰囲気が好ましい。

さて、ここには、シューベルトより一回りほど年配の
フェルディナント・リースの作品74
(あのフンメルの作品と同じ!)と、
シューベルトより10歳ほど若いフランツ・リンマーの
作品13が収められている。
はたして、これらの作曲家や作品は、
どのように位置づけられるであろうか。

解説を見るのが楽しみだ。
幸いなことに、この解説は12ページにもわたる本格的なものだ。
今回は、まず、リースから。

「フェルディナント・リース
(1784 ボン - 1838 フランクフルト)
フェルディナント・リースは、ベートーヴェンが足跡を残し、
ロンベルクが手塩にかけたオーケストラを運営していた、
生まれ故郷ボンで、幼少時代を過ごした。
フランス革命軍が街に進軍した時、
多くの人は逃れ、オーケストラは解散した。

しかし、リースの一家は、選帝侯の要請で、
そこに残らなければならなかったが、
それは、フェルディナントやその兄弟の
音楽的な教育には有益であった。

フェルディナントは、最初の音楽のトレーニングを父親から受け、
その後、ベルンハルト・ロンベルクにチェロを学んだ。
彼は最初の作品を9歳の年に作曲した。」

恵まれたエリートという感じがするが、どんな家庭だったのだろう。

「リースはアンスベルクでオルガンとヴァイオリンを勉強し、
15歳でハイドンのオラトリオ「四季」やモーツァルトの「レクイエム」
のピアノ編曲を行って、これらはボンのジムロック社から出版された。

1801年にフェルディナント・リースはミュンヘンに出て、結局、
ベートーヴェンの下で勉強を続けるための、父からの推薦状を手に、
ヴィーンに向った。
ベートーヴェンはピアノの弟子として引き受け、
対位法の勉強にはアルブレヒツベルガーのところに行った。
リースはベートーヴェンに大きな影響を受け、残りの人生を、
ベートーヴェンを奉じて生きることとなる。
彼は作品1をベートーヴェンに捧げて、後には、その人となりと作品を
「ベートーヴェン小伝」という本にあらわした。
1805年からはリースはパリ、カッセル、ハンブルク、コペンハーゲンに滞在、
作曲家、ピアニストとして考えられる限りの成功を収めつつ働いた。」

そう、この人は、何といっても、ベートーヴェンの弟子として高名なのである。

「前の先生であるベルンハルト・ロンベルクとの協演で行った、
ロシアでのいくつかの演奏会の後、モスクワでもコンサートが企画された。
しかし、ナポレオンの戦闘と焼け落ちたロシア首都への侵入によって、
リースは計画を変え、ロンドンに足を伸ばした。
それは10年にわたるイギリス時代の始まりとなった。」

何がきっかけで、どう人生が変わるか、分かったものではない。

「リースはボンとゴーデスベルクに帰還し、オペラやその他の作品を物した。
それまでに、フェルディナント・リースは、ピアノの巨匠として、
また、作曲家として尊敬され、祝福されていた。
1831年と32年に、ロンドン、ダブリン、
そしてイタリアに演奏旅行を続け、イグナツ・フランツ・カステリは、
彼のヴィーンの評論誌に有名な巨匠による、
これらのコンサートについての報告を書いた。」

こうした演奏旅行で、名を馳せるのは、フンメルに似ている。
そのフンメルは、ロンドンで挫折を味わったというが、
リースはどうだったのであろうか。

「1834年、リースは低地ラインの音楽祭の責任者となり、
そこで指揮者としての大きな賞賛を得ると共に、
地方オーケストラや、アーヘンのジングアカデミーの
音楽監督の地位を与えられることとなった。

カステリは、このことについて、レポートしている。
『フェルディナント・リース氏はアーヘンに到着したが、
彼は最も価値ある人物と見られ、またも、
今年の音楽祭のすべてを任せられることとなっている。』

1836年にリースは、第二の故郷と彼がみなす街、フランクフルトに戻った。
1837年には、再度、アーヘンで低地ライン音楽祭の音楽監督を引き受け、
そのためにオラトリオを作曲している。」

何だか旅芸人みたいな人生だったのが、
ここで、いきなり違ったものになっている。
オラトリオというのは、もう、すたれていたわけではなかったのか。

「そして、このスメットの詩によるこのオラトリオは大成功を収めた。
(数年後、この詩は、スピーアによって音楽がつけられたが、
彼は、ティミゾアラの聖堂の教会音楽監督としての
フランツ・リンマーの後任である。)
リースは、すぐに次のオラトリオを書き上げた。

フェルディナント・リースは、1838年の1月13日に44歳の生涯を、
フランクフルトで閉じた。」

確かに、こんな生活をしていたら、若死にしてしまいそうである。

「彼の、ピアニスト、作曲家としての、疲れることなき仕事ぶりにも関らず、
同時代のウェーバーやシュポアほどの人気を得ることは出来なかった。
リースのオリジナリティは、初期ロマン派の要素で、古典派から、
完全には離れていない点にある。
彼はヨーロッパの民謡のピアノ編曲に優れ、これらは広く賞賛されている。

彼の室内楽はピアノが主導するもので、
特に、ピアノ五重奏曲作品74ではそれが顕著である。
彼の同時代人にとっては、彼は新しい音楽記号を考案したことで知られる。
これはテンポを緩めることを表わすものを小節に長いラインを入れるもので、
伝えられるところによると、ピアノ協奏曲でこの記号を使用したようだ。」

これは、具体例を知らないので、よく分からない。

「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ダブルベースとピアノのための五重奏曲作品74は、
1817年にロンドンで出版されている。」

おお、これは、シューベルトの名作「ます」の、
わずか2年前の作品というわけだ。
シューベルトは、別に、新しい編成を編み出そうとしたのではなく、
当時、普通に行われていた合奏の形に準じただけのことであった。

「第一楽章は、ハンガリーの民族音楽のようなメロディに、
ピアノがレティタティーヴォを発するラメントで開始される。
彼は作曲家としてのキャリアで、幾度となくハンガリーのメロディに向った。
続くアレグロ・コン・ブリオでは、ピアノの華麗なパッセージが、次々と現れるが、
弦楽は、従属的な役割しか与えられていない。
この楽章は国際的な賞賛を勝ち取った
ピアノのヴィルトゥオーゾとしての才能を持つリースの姿が見える。」

曲の冒頭からして、当時の楽器によるふくよかな響きが味わい深い。
ドラマティックで暗く、深刻な序奏である。
第一主題も、叩きつけるように激しく悲愴味を帯び、素晴らしい。
ベートーヴェンの弟子らしく、壮大な気宇を感じさせるが、
フンメルの作品との同時代性ゆえであろうか、
絶え間なく鳴り響くピアノばかりが冗舌で、
弦楽はジャーンと盛り上げたり、たーらららーとピアノを導く序奏ばかり、
かなりおざなりな感じで、ピアノばかりが、
ここぞと技巧を見せ付ける瞬間があるのが惜しい。
シューベルトは、もっとどの楽器をも平等に扱っている。
第二主題も、呑気なものである。

「ラルゲットは、ピアノだけに伴奏されたチェロの独奏で始まる。
この主題をピアノが変奏していく。
いくつかのカデンツァのようなパッセージが音楽を中断し、
次第に第三楽章のロンドに導かれる。」

緩徐楽章における印象深いチェロの独奏、
ブラームスの協奏曲のようだが、
その後、またまた出てくるピアノの超絶技巧。
夜想曲風に、嫋々と悩ましい。
こうした人たちがいて、
やがて、ショパンやリストらが出てきたのである。
フンメルの作品に似て、
この楽章は、すぐに次の楽章に行ってしまう。

「きらびやかなピアノパートによるアレグロの後、
効果的に中世の雰囲気を伝えるような静かな間奏曲があり、
このメロディは、ピッツィカートによって弦楽器によって交互に奏され、
ピアノで奏される。
ロンドのオリジナルの主題への回帰は、
技巧的に困難なパッセージを経て、
とどろくようなフィナーレに突入する。」

中世的な雰囲気とは、よく言ったものだと、
聞いていて、顔がほころんでしまう。
確かに、静かなパヴァーヌのような趣きすらあり、
千変万化する楽想の多彩さは、シューベルトの比ではない。
むしろ、シューベルトは、本質のみを朴訥として歌い続け、
あのような高みに達したのであろう。

この終楽章、開始部の朗らかなテーマは、非常に愛くるしく、
ベートーヴェンの最高の作品にも比肩できるかもしれない。
弦楽がピッチカートで伴奏するのも、楽器の音自体もとても美しい。
そのあと、楽器ががちゃがちゃ言う、悲劇的な楽想が続くのが、
ちょっと惜しいくらいである。
それから、例の中世風の静かな部分が来て、また、愛くるしいのと、
騒がしいのが目まぐるしく交代して、変化にとんだ作品が終了する。

この曲は、フンメルの五重奏曲よりは、繰り返し聞きたい作品だ。

得られること:「シューベルトの作品の編成は、当時の楽器編成として、
ノーマルなものであったが、その精神はかなり独創的であった。」
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by franz310 | 2007-01-27 21:01 | 音楽 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その54

b0083728_20145057.jpg個人的経験:
さて、シューベルトが、
「ます」の五重奏曲を書くのに際し、
参考とした可能性がある
フンメルの作品に、
前述の七重奏曲作品74以外に
もう一曲候補となるのが、
シューベルトと同じ編成の
ピアノ五重奏曲。
ただし、作品ナンバーは87と、
出版は遅かったようだ。

この作品がお手本となったという根拠は、
フンメルの唯一のピアノ五重奏曲というに止まらず、
それに加えて、ポピュラーな、
ピアノ+弦楽四重奏
(ヴァイオリン×2+ヴィオラ、チェロ)
の編成ではなく、
弦にコントラバスが含まれ、
そのかわり、ヴァイオリンが一丁という、
あまり類例のない編成で書かれていることが、
まさしくシューベルトの名作に似ているという点にあろう。

しかし、弦楽四重奏+ピアノ形式の五重奏曲は、
ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンが、
名作を作っているわけではなく、
それから2世代くらい後の、
シューマンやブラームスが名作を残したから、
ポピュラーになっただけの話であり、
その中間に位置するシューベルトの、
知ったことではなかったはずである。

つまり、ベートーヴェンが、
プロにしか演奏できないような
難しい弦楽四重奏曲を作曲したために、
常設の弦楽四重奏団の活動が開始されたのであって、
それ以前は、弦楽四重奏団というものが存在しなかったので、
ヴァイオリンを二人集めるのも、
ヴァイオリンとコントラバスを1人ずつ集めるのも、
同じ難易度であったはずである。

そもそも、モーツァルトの、
「13管楽器のためのセレナード」でも、
コントラバスは使われており、
ベートーヴェンもシューベルトも、
七重奏、八重奏になるとコントラバス必須である。

シューベルトの同時代のシュポアなども、
八重奏、九重奏では、コントラバスを使っているから、
ゴージャスな音を出すときには、コントラバスが必須であったに違いない。

ということで、
フンメルの作品87を聴いてみよう。
ここで、その前に、CDの解説を読んでみる。

「シューベルトは、
18世紀の終わりから19世紀の始めの、
音楽上の人種の坩堝のようなヴィーンにおける、
数少ないヴィーン生まれの作曲家であった。
彼の前の世代にいたヨハン・ネポムーク・フンメルは、
さらに普遍的なトレンドを求めてヴィーンに移り住んだ一人である。
実際、彼は、ドナウ下流の第二の都市、プレスブルグの出自であり、
1786年、8歳のときに、一家と共にヴィーンに移住し、
そこで、モーツァルトのよき友人となり、弟子となった。」

「名技的なコンサートピアニストでもあった彼の膨大な音楽は、
たくさんのピアノ協奏曲やかなりの量の独奏曲など、
自然、その楽器のために書かれている。
外向的な演奏家と見られていた彼の作品は、
同種のシューベルトの音楽より、
はるかに広い聴衆を想定して書かれている。」

「しかし、1802年にヴィーンで作曲された、
フンメルの唯一のピアノ五重奏曲は、
後期の激しい作風以前の、
シューベルトの作品同様、
快適で和やかな室内楽となっている。
それは、1822年まで出版されなかったので、
(フンメルの作品番号は、作曲の年代学を全く反映していない)
パウムガルトナーが、シューベルトに手本として引き合いに出したのは、
手稿の形だったのかもしれない。」

「シューベルトのイタリア風のメロディアスな傾向、
ベートーヴェンが中期の作品群で追求した、
簡素な主題のスタイルと力強さのコントラストが期待できることによって、
(この時期のベートーヴェンの名声の高まりは、
しばらく、フンメルの自信を揺るがせていた)
それは実際、極めてシューベルトに似た作品である。」

「それにもかかわらず、この五重奏曲は、
シューベルトの五重奏曲に比べると短い。
長調と指示されているにもかかわらず、変ホ短調が主調であり、
珍しいことに、曲の最初も、終わりも短調である。」

「四つの楽章(第一楽章は突進するアレグロで、第二楽章はスケルツォで、
第三楽章は、大あらしの第四楽章の短いラルゴの序奏以上のものだ。)
それぞれにおいて、ピアノは必ず主導的な立場を取り、
同時に名技的な装飾が展開される
(緩徐楽章の最後でカデンツァのような誇示がある)。
しかし、この明快なピアニズムの独特な流儀は、
シューベルトが同種の作品で行ったと同様、
活気に満ちた作品を高揚させるのである。」

私は、この作品は作品74のようには高く評価することが出来ない。

第一楽章序奏から、悲愴感を称えた作品で、
いったい、どんな展開が待っているかと期待すると、
何だかお気楽な第二主題が始まり、それに加えて、
リズミックな楽想が出るや、例の序奏の悲痛なテーマが、
完全に呑気な伴奏を始めるので、ずっこけてしまう。
次々に様々なピアノ奏法を披瀝できるので、
ピアノを演奏している人は、楽しいかもしれない。
それにしても、この序奏の悲痛さは何だったのか、
何かテーマの切れ端を見つけると、
さっそく、それに夢中になってピアノが走り出すが、
目先の事しか考えていない音楽と言えよう。

第二楽章は、スイングするスケルツォで、
ピアノが、これでもかこれでもかと、様々なパッセージを散りばめ、
鳴り響かせらせる。

静かで神秘的な第三楽章は、水の上に反射する月光のように、
ベートーヴェンのような深さに至る期待を抱かせるが、
本当に序奏のような長さしかなく、最後はお決まりの、
大見得を切ってピアノが鳴り響く。

第四楽章はハンガリー舞曲である。
中間部で、チェロが美しい歌を歌うが、
それは、一瞬の箸休めでしかなく、
その他は、ピアノがその激しいリズムに乗って得意満面である。

シューベルトに比べると、この音楽は、
まったく名技のための作品で、
独りよがりもいいところである。

演奏団体は、ロンドン・シューベルト・アンサンブル。
ウィリアム・ホワードのピアノ、ヴァイオリンは女性で、ジャックリーン・シェイブ、
ヴィオラはダグラス・パターソン、チェロのジェーン・サルモン、
コントラバスは、ピーター・バッコーク。

ピアノと弦楽のための作品をするべく、1983年に設立のされたイギリスの団体。
コンサート・ツアーや音楽祭の参加に加え、国内では、BBCラジオや、
クラシックFMでレギュラー出演しているという。

シューベルトを名乗っているが、レパートリーは広く、
現代音楽もよくし、たくさんの現代作曲家に新作を依頼している。

ハイペリオンのダイアッド・シリーズで2枚組。
2枚目には、シューマンのピアノ四重奏、五重奏曲が入っていて、
一枚目の最初は、我らがシューベルトの「ます」である。

こちらの演奏は、さすがにフンメルより興が乗っているし、
現代の団体で、シューベルトを名乗っているのに相応しく、
よく練られた、隙のない、それでいて生き生きとした表現である。

フンメルが書けなかった、内省的な第二楽章の表情も良い。
第四楽章の変奏曲も、生き生きとしたリズムでありながら、
しっかりと、歌が歌われているのが好ましい。

エルンスト・フロームホルドの絵画、「森の小川」が、
フロント・イラストレーションに使われており、
シューベルトの「ます」を表わすには、非常に好ましい印象。
ただし、併録のフンメルは、こんな感じの曲ではない。

得られた事:「シューベルトは、第二楽章で、名技的なジャンルに魂を込めた。」
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by franz310 | 2007-01-21 20:20 | 音楽 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その53

b0083728_20193453.jpg個人的体験:
フンメルの作品をもとにして、
シューベルトの名曲、
ピアノ五重奏曲「ます」が
生まれたことは、
よく知られているが、
先に、スコダが書いているように、
フンメルの
どの作品を手本にしたかは、
あまり明確な根拠がないようだ。


シューベルトが五重奏曲を
作曲した時期からすると、
フンメル自身の
ピアノ五重奏曲の方が
後の作品となってしまう。

それでは、つじつまが合わないので、
「ます」の作曲時期を後ろにずらしてみたり、
フンメルの作品の草稿が、もっと早く出来ていたと、
こちらを前にずらしたりして、
何とかつじつま合わせを試みているのが、
研究の実態のようである。

もう一つのアイデアは、
手本となったフンメルの作品は、
ピアノ五重奏ではなく、ピアノ七重奏曲だった、
という作戦で、五重奏バージョンも作られていた、
とかいう話で、つじつま合せを行うという考え方。

では、実際に、このピアノ七重奏曲と、ピアノ五重奏曲は、
どんな曲なのだろうか。
シューベルトは、果たして、何を手本にしたのだろうか。

ということで、フンメルのピアノ七重奏曲作品74を聴いてみよう。

その前に、CDの解説を概観して、
このフンメルが何者であるかを学んでおくのもいいだろう。

「フンメルは非常に幼い時分から音楽に対する異常な才能を見せ、
1780年代にヴィーンに連れて行かれた時には、モーツァルトに見出され、
彼がフリーのレッスンを申し出たという、幸運にも浴することが出来た。
そして、1780年代の終わりから1790年代の初めにかけて、
ピアニスト、作曲家の神童として、行く先々でセンセーションを起こした。」

というように、シューベルトが生まれる前から、
大変な人気者であったことが分かる。
年は20歳ばかり年長で、ベートーヴェンの8歳年下である。
フンメルが神童として大成功を収める中、
師匠のモーツァルトは、1791年に若くして亡くなっている。
ちなみに、ベートーヴェンはモーツァルトに師事しようとしていたが、
モーツァルトの死によって適わなかった。
それだけでも、フンメルはラッキーだったことが分かるだろう。

「1793年、まだ15歳のときに、彼はヴィーンに帰り、
さらに進んだ作曲の教えをアルツベルガーやサリエリから受け、
ハイドンにはオルガンを学んでいる。」
いずれも、ベートーヴェン、シューベルトを教えた巨匠たちである。

「何年かの勉強と教師としての生活の後、1804年には、
最初の大きなポストを得ている。ハイドンの後継者としての、
アイゼンシュタット宮廷楽長の職である。
彼が、作曲に対する必要な経験を積んだのがここであり、
それは、彼が創造的芸術家になるのに絶対に必要なもので、
1811年に職務上の義務履行無視のため1811年に解雇された後も、
彼は次第にピアノ、室内楽、ドラマ作品の、
著名な作曲家として立つことが出来た。」

「フンメルは、いちはやく
ヴィーンの音楽シーンにおける人気者の1人となり、
ドイツでも高い成功を収め、
1816-8はシュトゥットガルトでポストを得、
1819年からはヴァイマールに移り住んだ。
次の10年にわたりまさしく最高の力を発揮して、
膨大な数の作品が生まれ、有名なピアノメソッド(1828)が書かれ、
常に演奏旅行にも出た。」

シューベルトは、1828年に亡くなったが、
どうやら、その頃のフンメルは、絶頂期に居たようである。
そのためか、シューベルトの最後のソナタは、
フンメルに捧げるつもりで書かれたと言われている。

「雇用者はフンメルの度重なる不在にいらだちを募らせ、
最終的には、1829年には、例年の休暇も取り消され、
さらに遠くまでの演奏旅行をしたりしたにもかかわらず、
フンメルの力が下降しているのは、
聴衆には明らかになって行った。」

「ロンドンでは、パガニーニに席を奪われる屈辱を味わい、
ヴィーンでは、亡くなる1837年まで、忘れられてしまった。」
パガニーニの人気にやられたのは、
ベートーヴェンもシューベルトも同じである。

「彼の同時代者は、フンメルのことを、ベートーヴェンに匹敵する作曲家と
考えていたことを良く知っておく必要がある。
しかし、フンメルの人気の凋落と同時に、
ヨーロッパで起こった音楽界でのロマン派運動の興隆から考えると、
フンメルはまさに18世紀の子であったと言えるだろう。」

「比較的人気のあるトランペット協奏曲のように、
彼は交響曲を除くメジャーな古典形式に通暁していたが、
作曲家としての最高の作品は室内楽にあり、
特にそれは、ピアノを用いたものである。
もちろん、ここに録音された二つのピアノ七重奏曲は、
特に素晴らしい実例なのである。
ニ短調の七重奏曲は、彼の傑作と考えられている。」

このように、フンメルが、モーツァルトやハイドンの後継者として、
ベートーヴェンに並ぶ巨匠だったことが分かり、シューベルトが、
「ます」の五重奏曲を書く際に参考にしたという(説がある)、
「作品74」のピアノ七重奏曲ニ短調は、そんな彼の、
最高傑作とされていたものだったのである。

七重奏曲というだけあって、シューベルトの「ます」より、
楽器は多彩、ヴァイオリンがない代わりに、
フルート、オーボエ、ホルンが加わって、
時折、それらの管楽器が、交響的な広がりを導く。

曲はドラマティックな序奏から始まり、
いかにもニ短調の深刻でニヒルな楽想が展開されていく。
ただし、このニ短調は、ベートーヴェンの「第九」のような
深遠なニ短調ではなく、
モーツァルトのピアノ協奏曲的に疾走するニ短調で、
同時に、
シューベルトが最晩年に試みた交響曲のようなテイストも感じさせる。

第一楽章だけで14分もかかり、室内楽を越えたスケール。
ショパンのピアノ協奏曲は、この延長線上にあるのかもしれない。

そもそも、ピアノが絶え間なくせせらぎのように、
鳴り響いており、それが、ピアノの巨匠フンメルの面影を偲ばせる。
しかし、この曲が、壮大な空間を構成できないのは、
次々に束の間の楽想が曲想を変えていくからかもしれない。
第二主題など、完全にお気楽ムードになってしまうと思うと、
ピアノが突然、深刻な突進を始めるなど、ある意味、
非常にユニークである。

第二楽章のメヌエット・スケルツォがまたまた、神秘的な音楽である。
変則的なリズム、幽霊のように浮かび上がる管楽器のパッセージ。
そんな中、ピアノがひとり悪戦苦闘している。
トリオもまた、シューベルト的な浮遊感があるような気がする。

第三楽章の変奏曲のテーマは、
童謡のように親しみやすい主題によるが、
だんだん、このぺちゃくちゃ喋り捲るピアノが鬱陶しくなって来る。
しかし、当時は、この変幻自在なピアノの装飾が、
さぞかし聴衆に、夢幻の世界を想起させたことであろう。

第四楽章は、ジプシー音楽を思わせるリズミックな曲調で、
ブラームスも喜びそうな音楽である。
第二主題は、シューベルトが好きそうな、
遠く憧れを求めるような調べがこれまた印象的である。

このような大規模なピアノ付室内楽という意味で、
シューベルトが、この作品の影響を受けたことはありえるだろう。
特に、スケルツォ以降、変奏曲に、活発な終曲が続くあたり、
まったく同じスタイルと言ってもよい。
歌謡的な変奏曲は、これを見せられて、主題を「ます」にすればいかが?
などと言われれば、シューベルトなら、
あの楽章をすぐに構想したかもしれない。
ただし、第一楽章に続けて、シューベルトは緩徐楽章を設け、
スケルツォの前に置いた。
スコダは、これを、「一つのとても魅惑的なアンダンテ」と呼んでいた。

再び、CDの解説に戻ろう。
「第一ピアノ七重奏曲(1816)は、
このピアノの大家が上り坂にあった頃に書かれ、
それがこのような楽しさと共に、それと同じだけの空虚さをもたらしている。
これは、1809年のエバーのピアノ四重奏曲や、
1810年のフィールドの「喜遊曲」と同じような作品で、
極度に技巧を誇示したピアノ書法に特徴付けられる。
フンメルは確かに、このような習慣を打破するものではないが、
内部のバランスや、曲想の配分は、
この時期のベートーヴェンしか、凌駕しえないものである。」

「この作品は、恐ろしい成功を収め、
フンメルが一家を成すに少なからぬ役割を果たした。
批評家のJ・エラ(1802-1888)は、この作品を、
「一世紀以上にわたってヨーロッパ中で、
確固たる地位を占め、演奏され続けられるもので、
共感と賞賛によって、人々の心に結びつき、
一時の流行や気まぐれによって途切れるものではない」と表現している。

演奏は生き生きとして、録音も良く、ピアノを始め、
各楽器の美観が十分に味わえる。

ただし、ジャケットの絵画が、17世紀のBorshという人の「招待」
というのは、何か意味があるのだろうか。
曲想にも関係なく、時代的にも、風俗的にも、
シューベルトの同時代を生きた、
フンメルを連想させるものは、何一つない。

このCD、シューベルトに関する記述はないが、
シューベルトの後輩にあたる、シューマンの、
「ピアノ五重奏曲のオープニングの前兆」などという一節がある。

ちなみに、
「作品74の七重奏曲・・フンメルは、後に、もっと演奏しやすい
ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとダブルベースのためにアレンジした」とあり、
シューベルトの「ます」と同じ編成のアレンジ版があったことが解説に、
記述されているが、それが、何年に流布していたかまで教えてほしいものだ。

得られる事:「今は忘れられたとはいえ、同時代を生きた有名人の影響を、
天才、シューベルトも受けずにはいられなかった。」
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by franz310 | 2007-01-13 20:26 | 古典 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その52

b0083728_10112462.jpg個人的体験:
往年のヴィーンを代表する、
コンツェルトハウス四重奏団と
バリリ四重奏団。
私は、自分でも、
どちらの演奏家が好きなのか、
分からないでいる。

もっと、身近に接していた人は、
どうなのだろうか。

彼らと、同じ曲目「ます」で協演したピアニスト、バドゥラ=スコダは、
常々、1950年、コンツェルトハウス四重奏団との録音を評価していたようだ。

この二つの演奏が、
一つのCDに収められたものが
日本で出された時、その解説には、
「私個人としてはコンツェルトハウス
弦楽四重奏団とのものの方が気に入っています。」
と明言しているからである。

バリリとの協演についても、
「技術的にはより完成されたものができた」とか、
「収録作業には3セッションかかりました」とか、
生真面目なバリリの性格を反映したであろう記述が興味深い。

しかし、私が聴くかぎり、コンツェルトハウスとの協演が、
そんなに素晴らしいとも思えない。
シューベルトの専門家としても名高いスコダが、
これで満足しているとしたら、不思議としか言いようがない。

そんな思いを確かめるためのようなCDが、
イタリアのAmiata Recordsから出ているのは喜ばしい。
このCDは2枚組で、あの日本で出た盤と同様、2つの演奏を収めたものだ。
ただし、一枚目には、1997年に改めて、
若いメンバーと協演したディジタル録音が収められ、
二枚目には、あのコンツェルトハウスとの協演盤が、
ディジタル・リマスターされて収められている。

CDの題名は「IN THE MIRROR OF TIME」。
時の鏡?往年の自分の演奏に、自分の姿を見る、
という意味合いであろうか。

その期待に漏れず、
昔年の録音をなつかしむ発言が、ここにも記載されている。

About the recording:
「これらの作品(「ます」以外にも、もう一曲が併録されている)の
最初の録音は、ヨーゼフ・ヘルマンのコントラバスと
コンツェルトハウス弦楽四重奏団と一緒に行なった、
1950年、ヴィーンのコンツェルトハウスの
モーツァルト・ザールでのものに遡ります。

それは、私の生涯のとても美しい時期でした。
将来の妻、エヴァと婚約しており、
たった1回のセッションでこれを録音できました。

これが、ワールドワイドの成功を収めるとは
思ってもいなかったので、それも幸せでした。

それから47年後、97年の五月になされた新しい録音も、
幸運の星の下に生まれました。私と協演した若いメンバーは、
理想的なパートナーで、我々のコラボレーションは、
純粋な喜びとなりました。」

1回のセッションで録音できたということが、
この文章からも、よく読み取れる。バリリとは3回かかったのである。

さて、このCDの曲目解説も、スコダ自身のものなのでありがたい。
ここから、彼がこの作品に何を見ているかが読み取れよう。
(ただし、スコダは、ドイツ語で書いたものであろう、
英訳は、めちゃくちゃなところがある。)

「疑いなく、五重奏曲「ます」は、
クラシック音楽の中で最もポピュラーな作品です。
その名声は、モーツァルトのセレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」や
ヴィヴァルディの「四季」に比較できるでしょう。
この信じられないほど感動的な作品が、
何故、かくも容易に、聴衆の心に、
晴朗さと喜びを染みこませるすべをもっているか、
単に古典的というだけでは片付けられないでしょう。

たくさんの真に偉大な作曲家の場合と同様、
この作品は、シリアスな音楽と、
エンターテイメント音楽の境界を無効にしています。

この五重奏曲は、シュタイアーのパトロン、
ジルヴェスター・パウムガルトナーの招待を受けて着想されたものです。
1858年のフェルディナント・ルーイプ宛の手紙で、
シューベルトの友人の一人、アルベルト・シュタッドラーは、
はっきりとこう書いています。

『彼(シューベルト)は、楽しい歌曲(ますの歌曲)に対して
賛嘆していたジルヴェスター・パウムガルトナーに勧められて作曲した。
パウムガルトナーによると、
この五重奏曲にはフンメルの最後の五重奏曲(七重奏曲)の影響がある。
シューベルトは、この作品を非常に賛嘆していた。』

事実、1819年の夏にシューベルトは、友人の一人、
声楽家のヨハン・ミヒャエル・フォーゲルと共に、
シュタイアーで休暇を過ごしました。

そして、しばしばサロン・コンサートが開催されていた
パウムガルテンズ・ハウスに滞在したのです。

フンメルの七重奏曲ニ短調は、ヴィーンで出版され、
彼のほかのピアノ付き五重奏曲の一つも、
その時代のものと考えられます。
この作品が室内楽のレパートリーから忘れられているのは不思議なことです。

フンメルの五重奏曲は4つの楽章で書かれています。
シューベルトは、この作品からインスパイアされましたが、
第一楽章とスケルツォの間に、
一つのとても魅惑的なアンダンテをおいて、
全体を、プレスト-レント-プレスト-レント-プレストという、
大きなシンメトリー構造にしています。

調性のシークェンスとしてもまた、
同じようにA-F-A-D-Aというハーモニーを辿ります。
テンポの構造一つとっても、あるバランスが発見できます。

第二と第五の両楽章は、まるでソナタの一部のようですが、
直線的な発展なしに、むしろ御伽噺のようで、夢見るように、
厳格でなく作られています。

これは1817年から19年の間の
シューベルトの典型的な作曲スタイルですが、
他の3つの楽章は、もっと複雑なアレンジがなされています。

第一楽章にさらに注意を払うと、
それは注意深く、古典的なソナタのテンポで扱われ、
各パートのフレージングを生み出しています。

主要主題は二つの動機を有し、
互いに非常に違ったものとなっています。

ピアノによって演奏される、突然爆発するような「ロケットのようなもの」と、
新鮮でハイドンの四重奏曲を思わせるメロディアスなモチーフです。

メロディの展開にも、シューベルトは
ベートーヴェン的なサウンドのアプローチを見せ、
それは、すべての楽器とたくさんの調性をうまく使いこなしています。

彼は音を強く押し出して繰り返しますが、
それは、しばし変奏曲の形で中断します。

第三楽章のスケルツォは、
酔っ払ったようなトリオで性格付けされていて、
その主題の変奏によって終結します。

「ます」の歌曲による変奏曲は、
有名なパッセージから最も遠い第四のテンポに基づいています。

シューベルトは主題を非常に穏やかに、
まるで弦楽四重奏曲のために書かれているかのように、厳かに導きます。
それにもかかわらず、前の変奏で彼は、他の形を採用しました。
それは、ハイドンが皇帝四重奏曲ですでに経験したコラール変奏曲の形です。

主題は、ピアノ、ヴィオラ、そしてバスのためには変化せず、
しかし、実際には豊かさを増しながら、いくらか装飾されていきます。

第四変奏曲にて、シューベルトはこの構成からはなれ、
突然のニ短調の完全に主題から離れた土砂降りのようなものを挿入しますが、
それはへ長調で和らげられます。

悲歌的な第五変奏では、独奏チェロが、ますの主題を奏で、
ロマンティックな間奏曲の後、新鮮で生き生きとしたオリジナルの形で、
歌曲の主題が帰って来ますが、それは、ますの敏捷なますの動きを思わせます。

この五重奏曲の作曲の期日について一言。
1823年の夏、それから2年後の1825年にも、
シューベルトはシュタイアーにいました。

最近の研究には、五重奏曲の作曲を、
もう少し遅い日付に位置づけるものもあります。

もしそうだとすれば、
フンメルの最後の五重奏曲の一つ、変ホ長調のものが、
シューベルトのインスピレーションの源泉になったのかもしれません。

しかし、その仮定は、完全に実証されたわけではありません。

「未完成」を経た、後の器楽曲においては、
ますの五重奏曲よりさらに複雑な音楽的フレームワークが見られるからです。

不幸なことに、我々は、正確な作曲の日付は分かりません。
あるシューベルト研究家、マックス・フリードレンダーの見解によると、
オリジナルの手稿は、19世紀の終わりに、
シュタイアーの商人に、紙くずとして売られたということです。」

このように、解説としては、楽曲の分析まで立ち入って、
研究家ならではのもの。しかも、この作品への愛情が感じられて好ましい。

1997年、ブラティスラヴァで録音された新しい方の演奏は、
無名の人たちを集めての共演であるが、想像を超えて秀逸である。

共演者も若いのだろうが、スコダの若やいだ軽やかさが微笑ましい。
コンツェルトハウス盤と同様、速めのテンポで、かつ美音ながら、
弾き飛ばしている感じがせず、非常にデリケートな表情があって、
心惹かれる。バリリ盤のような硬さも、もちろんない。

特に、スコダ自身、
「非常に魅惑的なアンダンテ」と呼んだ、第二楽章には、私も満足した。
これを聴くと、カンパーは職人芸で逃げ切った感じすらある。

スコダの再録音の意図は、成功したものと思われる。これは買いである。

ヴァイオリンは、1974年生まれキエフ出身のペルガメンチコフ、
ヴィオラはセント・ペレルスブルク出身のマツレンコ、女性なので生年不明。

チェロは76年、Gifhorn生まれのボホケッツ、
コントラバスは、64年生まれ、ドイツ出身のツィーグラーである。

チェロは文化村賞を受賞しており、
ヴィオラは今井信子に師事したとあるから、
日本にも縁のある若手たちのようである。

1950年録音のコンツェルトハウスとの協演の2枚目のCDも、
フランチェスコ・バレリーニという人のマスタリングとあり、
日本盤とは、音が少し違って、明るく聞こえる。
新しい演奏に比べ、ほとんど遜色なく聞こえるのは驚異であった。

b0083728_1031651.jpgしかし、この商品も万全とはいえない。
演奏とは反対に、
このCD、ジャケット写真は、
少々、大味なものを感じる。

ますが飛び跳ねそうな風景というより、
なんとなくブラックバスか何か、
あるいは、
ネッシーが出て来そうではないだろうか。
ただし、
中のスコダの写真にはいかすものもある。

得られること:「演奏家は、録音時に取り巻いた環境や、セッションの数で、レコードの良し悪しを判断することがある。」
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by franz310 | 2007-01-07 10:32 | 音楽 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その51

b0083728_22205818.jpg個人的経験:
前掲の書、
「栄光のウィーン・フィル」
によると、名指揮者の、
エーリヒ・クライバーが、
戦後ヴィーンにやってきて、
最初にヴィーン・フィルの
楽長に発した質問は、
「いったいいくつの弦楽四重奏団が、
オーケストラ内に存在するか」
ということだったという。


五十年代の四重奏団として、
コンツェルトハウスと、
バリリ四重奏団の二つが有名であるが、
このうち、バリリ四重奏団は、
コンサートマスターの
シュナイダーハンが率いていたのを、
バリリが受け継いだものとされ、
そのシュナイダーハン四重奏団創設の
逸話もまた、
先の書物には詳述されている。

つまり、ヴィーン・フィルには、吹奏楽団(管楽合奏団)があって、
彼らが、1938年から9年のシーズンの最後に、
シューベルトの八重奏曲をプログラムに乗せ、
それを演奏するために、弦楽の四重奏団の参加を、
シュナイダーハンに依頼したというのである。

「シュナイダーハンは、
各弦楽パートから首席奏者を選んだ。」
この一文からも、
この四重奏団がエリート集団であることが分かるし、
第二ヴァイオリンに選ばれた、この本の著者でもある、
シュトラッサーの誇りとか気負いのようなものを、
私などは感じてしまう。

この吹奏楽団とは、いったい誰なのであろうか。
1948年から49年にかけて、シュナイダーハン四重奏団
(シュナイダーハン、シュトラッサー、モラヴェッツ、クロチャック)が、
コントラバスのリュームに加え、
クラリネットのヴラッハ、ホルンのフライベルク、
ファゴットのエールベルガーらと、
コロンビアに残した録音がCD化されているので、
この人たちがその吹奏楽団だったのかもしれない。

彼らは、各々、28年、32年、36年に、
ヴィーン・フィルの首席奏者におさまった人たちなので、
おそらく、間違いはあるまい。

オーストリアの批評家、ハンス・ヴァイゲルの書いた、
「ウィーン・フィルハーモニー賛」という本にも、
この楽団のすべての名手の名前を連ねることは断念するが、
次の人たちだけは、という表現で、この人たちの名前が紹介されている。

「そういうわけで私の賛歌は過ぎ去った時代の達人に捧げられることになる。
ウィーンはいつもそのオーケストラを愛したばかりか、それと並んで、
とくに偉大なホルン奏者カール・シュティーグラー、
その甥のゴットフリート・フォン・フライベルク、…
ヴィオラのエルンスト・モラヴェッツと才子アントーン・ルーツィッカ、
チェロのフリードリヒ・ブクスハウムとリヒャルト・クロチャックと
オットー・シュティーグリッツ…
クラリネットのヴィクトル・ポラチェクとレーオポルド・ウラッハを愛した。」

このように、このレコードは、弦も管も、
まさに決定盤に値する顔ぶれによってなされていたことが分かる。

ところが、この管楽器の首席奏者たちは、
そのわずか2年後に、ウェストミンスターに、
同じ曲を録音していて、
現在では、こちらの方がはるかに有名なレコードとなっている。
しかも、協演した弦楽四重奏団は、
シュナイダーハン四重奏団の後継たるバリリ四重奏団ではなく、
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団であった。

ウェストミンスターの売りは、
LPに相応しいテープ録音である。
細切れに録音されて、
SP盤用のシュナイダーハンらのレコードは、
演奏の質の如何にかかわらず、早晩、忘れられる運命にあった。
個々の楽器に対する録音の生々しさからも、テクノロジーの差異は明瞭だ。

ただし、ウェストミンスターが、ベートーヴェンの七重奏曲を、
3年後に録音したとき、このエリート木管グループには、
より相応しい相手が選ばれた。
シュナイダーハンの後継者、バリリらのアンサンブルである。
弦楽器群も再び、すべて首席奏者で固められたわけである。

とはいえ、コンツェルトハウス四重奏団のチェリスト、
クヴァルダは、一目置かれる存在だったようだ。
シュトラッサーの著作でも、「大ドイツ帝国」に編入された
ヴィーン・フィルが、実質的に若返ったという証拠として、
シュナイダーハン、ボスコフスキー、バリリの、
3人のコンサートマスターを得たこと、
若い3人のソロ・チェロ奏者を得たことを特筆している。

「エマニュエル・ブラベッツ、フランツ・クヴァルダは、
リヒャルト・クロチャックと共に、そのランクにおいて、
知識において、私たちの最良の時代同様のソロ奏者たちだった」
と書いているからである。

コンツェルトハウス四重奏団が、57年に、チェロのクヴァルダを失ったあと、
ウェストミンスターは、当然のように、「ます」のステレオ再録音に、
バリリ四重奏団を選んだ。

グラモフォンがカンパーらを使った時、コンツェルトハウス四重奏団としてではなく、
シューベルト四重奏団という偽名のようなものを使ったのも、
すでに、「格下」という扱いが働いていたのではないだろうか。

そもそも、コンツェルトハウス四重奏団を率いたアントン・カンパーは、
ヴィーン・フィル内で、どのような立場にあったのだろうか。
シューリヒトが指揮台に立っている写真などを見ると、
ヴァイオリンの前から三番目くらいに坐っているのが、
カンパーではなかろうか。コンサートマスターからは遠い席である。

このカンパーらの「ます」(すでに紹介済みのデムスとのステレオ録音)と、
栄光あるコンサートマスターであり、ソリストとしても大成した、
シュナイダーハンの独奏によるヴァイオリンのソナチネの一曲を、
組み合わせて出したドイツ盤LPがある。

私は、シュナイダーハンの弾く、シューベルトのソナチネ3曲のレコードを、
中学生の頃より愛聴しているので、
このようにそこから一曲だけ切り貼りしたようなレコードにも、
複雑な気持ちを禁じえない。

また、かつて、SP期からLP期の変わり目で、
八重奏曲をめぐって因縁あったヴァイオリニストたちが、
同じ盤面に演奏を刻んだ形になったが、こう書いてくると、
この盤に対しての複雑な心境はさらに深まる。

編集の都合で、演奏者の意志とは無関係に出来上がった製品であろうが、
偶然のことながら、想像以上に意味深な製品ということだ。

ここでは、カンパーの名前は、一切、あがっていないのも象徴的。
クヴァルダが参加していたら、こうはならなかっただろう。

そんなことを考えながら聴くと、チェロのバインルの存在感が、
いまひとつなのも、勝手にうなずけてしまう。
そもそも、録音技師が、それを拾う気がなさそうだし、
録音に対して、ふざけるなと、言えるだけの経験がなかったかもしれない。

こうした時は、カンパーが、若い奏者に代わって、
ふざけるな、というべきだったかもしれない。
が、それも出来なかったかもしれない。

それを推し量って、デムスが、注文を出せばよかったのだろうが、
ピアノとヴァイオリンはクリアであるし、ステレオ初期の実験段階でもあり、
そこまで意識が働かなかったかもしれない。
たびたび来日しているデムスであるから、
早く、どなたか、このあたりの秘話を聞き出して欲しいものだ。

第五楽章が終わると、
シュナイダーハンの演奏(ピアノはクリーン)が始まるが、
非常に説得力のある、陰影に満ちたシューベルト。
聴きなれているせいもあろうが、前半の曲目より、私のシューベルト像に近い。

ジャケットのデザインは、ある絵画から一部を切り出したもので、
廉価盤ならではの、可もなく不可もないものと言えよう。

得られる事:「大組織における格付けは、様々な側面で影響を及ぼす。」
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by franz310 | 2007-01-01 22:13 | 音楽 | Comments(0)

クロメダカちゃんの物語の結末。KGB愛の野望の挫折。

b0083728_2158171.jpgデパ億総務庁の店長が、
うかつにも、未確認で
送信した電子メールは、
何と、KGB愛の
euショップではなく、
これまで、
総務庁が、
いたるところに
張り巡らせていた、
メダカのネットワークのすべてに
即刻、送信されてしまった。


これは、先日、最高機密を握っていた、
怪しいドジョウの行方を捜すため、
店長が独自のネットワークを駆使して、
特別なアドレス指定をしたままに
設定していたから生じたアクシデントであった。

そうはいっても、この時送った文書は、いかにも内容がやばすぎた。

ペットショップをこのまま、デパートの屋上に設置しておいたままでは、
デパートの衰退と共に、自分の身も危ないと、常々感じていた店長が、
最近話題の、「エチュード大見得」など駅中商店街に進出すべく、
無尽蔵の妄想と創造力を膨らませて、書きまくった、
あることないこと全ての構想、可能性が、
誰にでも、一目瞭然となる形で書かれていたからである。

しかも、顧客の要望に応え、署名欄には、「KGB愛、euショップ」と、
皆が知っている、話題性のある企業、ブランドの名称が書かれていた。

つまり、この文書を見れば、KGB愛の次の構想が、
まさしくおサイフ携帯を使った、顧客の財産操作にあると、
誰にも信じさせずにはおれないという内容となっていたのである。

さらにやばいことには、耐震偽装とか、通信と放送の融合とか、
光通信とか、興味深い技術キーワードなどもちりばめてあったから、
ネットにでもUPされれば、冗談ではなく、
世界中にたちまち伝播され、流布してしまうような代物であった。

店長の送った情報は、
各地に売りさばかれたメダカのハードディスクに転送、入力された。

無垢なメダカは、そのデータを音声再生しながら、回りに言いふらした。
メダカの回りには、様々な生物がいて、伝言ゲームのように、
そのうわさは、文字通り尾ひれをつけて広がって行った。

「KGB愛のおサイフ携帯はやばそう。」

そうした噂がメダカからメダカへ、
メダカから魚へ、魚から犬猫へと、
いわゆる食物連鎖の流れを模して広がって行った。

ところが、さすがは優良企業。
KGB愛の素晴らしいところは、そこからであった。
一部の猫から、その情報を察知、
早晩、人間にもその情報がリークすることは明らかになったとして、
即時、この事業を停止したのである。

某キャリアが、小さな疑惑に対し、ソフトに対処しようとして、
むしろ、バンクバンクバンクと、やられたような失態を演じる前に、
完全対処を決定したのである。

「むしろ、我々の計画の方が、革新的にソフトなバンクだったのにい、
残念なことですわあ。」
などと、euショップ店長の穴須タシアは、なぜか平静であった。

実は、すでに、本国からは、方針変更の通知が来ていた後だったからである。

「ムシロ、イマハ、エネルギーカンケイヲ、キョウカスベシ」

というのが、プッチンしたTOPの指令だったのである。

さっそく、KGB愛のeuショップは、サハリン2号からの天然ガス、
ではなく、さばリン2号からの天然魚油を、
灯油にして売り出す方向に進路を変更していたのである。

もちろん、これまで、モバイルめだかの開発を通して、
デパート屋上のペットショップに流れていた資金は、
それこそプッチン大統領と、途絶えてしまった。

デパ屋総務庁、店長の野望は、JR麩菓子日本と協賛して、
エキナカにペットショップを進出させようとする夢と共に、
露と消えてしまった。

慌てて、懇意のDog・OFFの社長に、
研究継続のための資金援助を訴えたが、
もう、これだけ、町中の猫が知っているとすれば、
すぐにでも、扱っている犬たちの耳にも入るであろう、
今動くのは危険すぎるというのが、彼の判断であった。

というわけで、
いま、店長は、失意のどん底にいるが、
最近になって、テッポウウオを利用した、
自然環境重視型のお尻洗浄便座の特許が登録となり、
何とか、そこに希望を見出していると聞く。

メダカの耐震偽装から発展した、この一連のIT戦略を巡るドラマは、
国家の存亡をかけた緊急事態に至る前に、こうして2匹のクロメダカと、
ドジョウたちの、命をかけた活躍によって阻止され、
めでたく収束、落着したわけである。
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by franz310 | 2007-01-01 22:09 | どじょうちゃん | Comments(0)