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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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カテゴリ:現・近代( 24 )

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その417

b0083728_221652100.jpg個人的経験:
NBC交響楽団と
ベートーヴェンの
交響曲全曲演奏会という
大業を果たした後、
トスカニーニは、
休暇を取って
グランド・キャニオン
に向かったという。
1939年の12月、
この大自然の威容を前に、
トスカニーニは心打たれ、
感動を手紙に認めている。


「愛しいアーダ、私は美に酔いしれている。
グランド・キャニオン以上に、
これ以上に幻想的で超越的な脅威を、
見つけることは不可能かもしれない。
昨日の夕暮れ時、今日の日の出、
この自然の奇跡による感情に、
私の目から涙がこぼれた。
このあたりの人々、
カリフォルニアの人たちも、
良い人たちだ。
私が崇める君がここにいて、
手を取り合って、静かに、
神、自然、時の流れが、
何百万年もかけて作り上げた
この荘厳な、壮大で、
畏敬すべき奇跡を、
共に愛でることが出来たなら・・。」

アーダは、イタリアにいたはずなので、
まだ、直接の戦争には至ってはいないものの、
それどころではない状況だったはず。

米国に亡命状態のトスカニーニ自身も、
戦火のヨーロッパに戻る日が来るとは、
72歳という年齢から言って、
信じていなかった可能性もある。

トスカニーニは、そうした事にも思いを馳せて、
涙を流した可能性がある。

このトスカニーニが指揮した、
「グランド・キャニオン」組曲、
BMGジャパンが1997年に発売したCDは、
オリジナル・LPデザインを銘打っていただけあって、
楽しくノスタルジックな表紙が素晴らしい。

トスカニーニが吠えるばかりの、
彼の録音の中で、これは、出色の逸品ではないか。

しかも、非常に良い演奏で、
トスカニーニの逞しい緊張感と、
感動的な歌心がマッチして、
多くの人が、通俗名曲に数えている、
このカラフルなメロディの集合体を、
一幅の交響絵巻として繰り広げている。

私は、正直、この録音には、
まったく何も期待していなかったのだが、
これはどえらい収穫で、
台風がたくさん来たせいか、
この夏、いちばん聴いた音楽かもしれない。
戦後すぐの録音ながら、
独奏楽器の音色も美しい。

1945年9月10日という、
旧連合国側が、対日勝戦記念日(VJデー)
と呼んでいる9月2日の終戦記念の後、
すぐの録音である。

第1楽章「日の出」から、
新しい朝が来た気分が横溢し、
まるで、平和への感謝の歌のように、
どんどん高揚していく音楽に、
多くの聴衆が涙を流したのではないか、
などと妄想が湧き起る。

民間人であれば、何事もなく
戦争を終えた人もいたかもしれないが、
何十万人もの兵隊が、
アメリカでも命を落としている。

第2楽章の「赤い砂漠」も、
清冽な歌には、いささかの甘味もなく、
ただ、澄んだ情感がたちこめるが、
虚無の世界に沈んでいく。
他の指揮者では、こうはならないのではないか。

第3楽章の「山道を行く」は、
楽しくロバが行くが、
中間部で、風の流れのように鳴り響く音楽は、
はるかかなたを見つめる眼差しを感じずにはいられない。

第4楽章「日没」は、
第1楽章「日の出」と対をなす楽章であるが、
神秘的な弦楽の音色が、
単なる効果音楽としてではなく、
超俗的な雰囲気にまで高まっている。
そして、後ろ髪をひかれるようなメロディで、
痛切な響きを増し、やがて消えて行く。

このあたりがプッチーニ的な哀切を感じさせるのは、
さすが、トスカニーニならでは、と感じ入る次第。
戦争が激化する前に、グランド・キャニオンで、
アーダを思った日の事を、彼は、思いだしただろうか。

第5楽章「豪雨」は、入魂の楽章であり、
変化に富んで、一番長い楽章である。
起承転結としては、
「日没」で終わってもおかしくないのだが、
この盛り上げる終曲があって良かった。

もちろん、基本は劇伴音楽的なのだが、
危機を乗り切った後の解放感には、
カタルシスのような効果がある。

しかし、このように有名な音楽であるが、
グローフェが、どのように、この曲を作曲したかを、
書いた本を私たちは読んだ事があるだろうか。

リッチなホテルから眺めた風景なのか、
実際に山道を歩きながら見た風景なのか。
今回の試みは、ネット上に、
もう少し情報が落ちていないか、
探し出すことである。

なお、この曲のみならず、
2曲目に入っているガーシュウィンの
「パリのアメリカ人」も、
同じ意味で素晴らしい。

張り詰めた真剣勝負の雰囲気が、
聴くものの心を、どんどん吸い込んでいくような、
忘れがたいガーシュウィンである。

ただし、解説は、
どこにでも書いてあるような事しか書いていない。

b0083728_221743100.jpgちなみに、曲順は異なるが、
RCAビクターが出していたCD、
トスカニーニ・コレクション
にも、同じ音源が使われている。
この指揮者が、
大峡谷を訪れた時の写真があるし、
Made in USAの
商品ということで、
私は、きっとこの解説は、
マシだろうと考えていたが、
読んで見ると、
これまた、
たいした事は書かれていない。

「大戦中に、アメリカの音楽を沢山取り上げたが、
最も、実り豊かなものは、1945年録音の、
ガーシュウィンの『パリのアメリカ人』であろう」
とか書いてあって、
トスカニーニによるガーシュウィンの演奏が、
意外に良い、ということは強調されている。

しかし、グローフェについては、
以下のような事しか書かれていない。

「1924年、ガーシュウィンは、
ポール・ホワイトマンの楽団によって初演された、
ラプソディ・イン・ブルーによって、
コンサート作品の作曲家として、
最初の大成功を収めた。
それまで、ガーシュウィンは
ミュージカルのすぐれた作曲家ではあったが、
こうした劇場のものと同様、
オーケストレーションは、
他の人に任せていた。
ラプソディに関しては、
ホワイトマンの楽団のチーフ・アレンジャー、
グローフェに委ねられた。
グローフェには当然、
自身作曲のコンサート作品があり、
最も有名なものは、
『グランド・キャニオン組曲』である。
トスカニーニは、これを1943年と
1945年に演奏している。」

たった、これだけである。
せっかく、グランド・キャニオンと、
マエストロの写真が出ているのに、
彼が、その風景の前で、どうしたかなどは、
まったく触れられていないのである。
(なお、冒頭に紹介した手紙とは違って、
この写真は11年後の1950年に撮影されたものだ。)

音としても、BMGジャパン盤の方が、
少し良いような気がする。

さて、この指揮者が、
遠く離れた恋人に手紙を書いた、
20年以上も前になるが、
マエストロの身分とは大違いの、
若くて、たいした定職もない、
流しのピアニストが、これまた、
グランド・キャニオンの日の出を見ようと、
アリゾナ砂漠をジープで横断していたという。

「私がそれ(グランド・キャニオン)
を最初に見たのは、夕暮れの中でした。
そこで前の夜から、
キャンプしようとしていたのです。
私は、その静寂の中で
魔法にかけられたようでした。
明るくなるにつれ、
鳥たちの囀りが聞こえ、
自然が命を取り戻すかのようでした。
そして突然、ビンゴ!となりました。
日の出です。
私は言葉を失いました。
何故なら、言葉は無力ですから。」

これが、作曲家グローフェ自身の回想である。
アメリカを代表的する管弦楽曲、
組曲「グランド・キャニオン(大峡谷)」を書いた大家が、
「ビンゴ!」などと言うとは知らなかった。

このグランド・キャニオンのキャンプは、
1916年の事だそうなので、
グローフェが24歳の頃の話となる。
こじつければ、22歳のシューベルトが、
訪れたシュタイアーの街で、
「天国のように美しい」自然に触れたのと、
ちょっと似ていて、
ちょうど100年後くらいに相当する。

ちなみに、シューベルトは、すぐに作曲したが、
グローフェは、1929年まで、
「グランド・キャニオン組曲」は作曲しなかった。

そして、さらに10年して、1939年、
トスカニーニがこの峡谷を訪れたわけだが、
1945年に戦争が終わるまで、
トスカニーニは、この曲を録音しなかった。

グランド・キャニオンの悠久の歴史に相応しく、
彼らの体験が音となってほとばしるまでには、
それなりの年月を必要としたようである。

さて、ほとんど、
この曲一曲しか知られていない、
作曲家グローフェは、
1892年に、ドイツ系の家庭、
ヴァイオリン弾きの父と、
ピアノやチェロを弾くの母のもと、
ニューヨークに生まれた、
などと書かれている伝記は多い。

その後、これは、よく知られた話であるが、
彼は、前例のないようなキャリアを積み上げていく。

14歳で学業を放棄、
牛乳配達や製本や劇場の案内係から、
歓楽街のヤバい店のピアノ弾きなど、
へんてこな仕事で糊口をしのいでいる。

しかし、もともとは、
大変、教育熱心な家庭の出だったようで、
グローフェが8歳の時に、夫が亡くなった後、
母親は彼を、何とライプツィッヒに連れて行き、
作曲を含む、様々な音楽の勉強をさせたというのである。

私が、「グランド・キャニオン」を初めて聴いたのは、
もう、40年近く前のことだと思うが、
オーマンディの廉価盤LPが出た時であった。

ただし、この曲については、
野呂信次郎著の「名曲物語」(現代教養文庫)で、
それよりずっと前から知っていて、
実際のグランド・キャニオンの眺めの紹介から、
音楽の内容の紹介までを読みつつ、
果たして、どんな曲であろうかと、
妄想を膨らませたものであった。

手軽に入手できるオーマンディのシリーズが出ると、
一番に手にしたのがこの曲であった。
恐らく、かつて渋谷にあった、
東急文化会館の中のレコード屋で購入したはずである。

「グローフェは『私の音楽は、私を育ててくれた
アメリカの生活や風物をキャンバスに音で描き出しています』
と言っていますが、組曲『大峡谷』は
見事にグランド・キャニオンの美しさを描いた音画です」
と、「名曲物語」では紹介されている。

改めて読み直してみると、
母親はライプチヒ音楽院でチェロを学んだ、
とあり、
再婚した義父が音楽を嫌ったので、
家を飛び出した、ともある。

結構、この本は、いろんな情報が
詰まっていたことに驚いた。

が、改めてウィキペディアを見ると、
父親は喜歌劇のテノール歌手とあり、
ヴァイオリニストではなかった。
一方、母親の方は、遥かにすごく、
母の父はメトロポリタンの
オーケストラのチェロ奏者、
兄弟は、ロサンジェルス・フィルの
コンサートマスターであった。

こんな一家の母親が、本当に、
音楽の嫌いな男と結婚したのかが気になるが、
この母親の名前、Elsa Johanna Bierlichで、
ネット検索しても、
彼女はロサンジェルス交響楽団の最初の女性団員になったとか、
指揮者ウォーレンシュタインの音楽の先生だったとか、
そんな話題ばかりが出てくる。

しかし、JAMES FARRINGTONという人が書いた、
フロリダ州立大学の論文がたまたま見つかった。
ほとんど、グローフェの前半生がよく書かれている。

さらに、グローフェの生い立ちのあたりを見て仰天した。
彼の母親だった女性は、かなりの人物のようなのである。

「グローフェの祖父、ルドルフ・フォン・グローフェ博士は、
音楽家ではなく、ハイデルベルク大学の化学の教授だった。
化学の分野の功績でカイザーから勲章をもらっている。
父親のエミールは、ドイツのグラウンシュバイクで生まれ、
アメリカへ移住して、ボストン市民になり、
少しは知られた喜歌劇場の歌手および俳優になった。
彼およびグローフェの母親も。
アマチュア画家でもあり、よく文章を書いた。
しかし、彼は、グローフェによると、
大変な大酒のみで、よい夫ではなく、
彼女は彼のもとを去った。
その時、グローフェはまだ生まれて数か月であったが、
その後、父親と会うことはなく、
やがて、彼が、1899年に、
ハンブルクで死んだことを知った。」

という具合に、グローフェの人生は、
生まれて数か月して、いきなり波瀾万丈だったようだ。
そもそも、実の父親もかなり問題がある。

「グローフェの母親、エルザ・ジョアンナは、
熟達したチェロ奏者で、ヴァイオリン、ヴィオラ、
さらにピアノを演奏した。
彼女の父親ともどもドイツ語、フランス語、
イタリア語、スペイン語、英語の五言語を流暢に話し、
ニューヨーク在住中は、野外ガーデンの女性オーケストラで、
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを演奏し、
1892年にカリフォルニアに、家族と移住、
ロサンジェルス女性交響楽団のチェロの首席奏者となり、
その後、ロサンジェルス交響楽団の名誉会員となった。
彼女はチェロ教室を始め、
生徒には高名なアルフレッド・ウォーレンスタインがいた。」

さらに、グローフェの生い立ち
についての記載も重要だ。

「グローフェは、1892年3月27日、
ニューヨークの第1ストリート、
第1アヴェニューと第2アヴェニューの間で生まれた。
彼の母親は、カリフォルニアに出て、
ショーンメーカー氏と結婚したが、
実家のビーアリッヒ一族も一緒に、
1892年にロサンジェルスに移った。
1900年、彼女は、その人と別れ、ドイツに移り、
自分と息子の名前をフォン・グローフェとした。」

祖父がそれなりに高名な人物だったので、
酔っ払いの方の名前を選んだのだろうか。
注釈にも、何故、旧姓に戻さなかったのか謎、
と書かれているが、「フォン」が付いた方が、
特に、ドイツでは、絶対にかっこよかろう。

「彼が五歳になると、母親は、ヴァイオリン、ピアノ、
および基礎的な楽譜用記号を教え始めた。
グローフェは音楽が好きで、レッスンを楽しみ、
リサイタルを開いたりもした。
しかし、その年齢の子供らしく、
他の事で簡単に練習は邪魔された。
彼が練習をするように、
母親が部屋に閉じ込めても、
彼は窓から逃げて、
近所の子供と遊びに行ってしまったりした。
彼は、音楽を始めてすぐ、
聖ヴィンセント・カレッジに入った。
1900年3月、エルザは、ライプツィッヒに行き、
チェロの大家、ユリウス・クリンゲルに学んだ。
彼女はグローフェを連れて行き、
夏には、ビュッテンブルク近郊の
特に温泉で知られる小さなリゾート・タウン、
ウィルドバットの親戚に預けた。」

地図を見ると、ドイツ南西部で、
フランスと接する、バイエルンの西であった。

「彼はそこのプライベート・スクールに入り、
ヴァイオリンを学び、鍵盤、和声を、
オットー・レオンハルトに学んだ。
後に、グローフェは、この鍵盤、和声の勉強を、
『指先で正しい和声を探れる』
と高く評価している。
1902年の秋、彼らはアメリカに戻り、
母親は、知られざる理由で、
ニューヨークに行ってしまったが、
グローフェはすぐにロサンジェルスに戻った。
結局、彼女もカリフォルニアに戻り、
1904年に3回目の結婚をしたが、
おそらく職業的な理由から、
名前を変えることはなかった。
彼女の新しい夫、ジェームズ・B.メナスコは、
前の結婚で、
2人の息子と2人の娘の4人の子供連れであった。
グローフェは新しい家族とうまくやれず、
1906年の4月、祖父母の家に移った。
彼は、この時、第7グレードを終える直前に、
学校に行くのもやめてしまった。」

ということで、
先に述べた、いろんな伝記の切れ端は、
かなり修正が必要であることが分かった。

私は、ライプツィッヒから逃げたと思ったが、
単に、よくある話で、家庭の事情で、
不登校になったということだろう。
有能な音楽家であった、
祖父の指導も受けられる立場であったわけだ。

が、興味深い事実も、
この論文には出ていた。

「グローフェは、祖父の家で、
ピアノの練習だけはさせて貰えなかった。
祖父は、非常に繊細な耳を持っており、
ピアノの狂った調律に耐えられず、
特に高音が、彼には激しいストレスになった。
そこで、グローフェは、
近くの、ジュリーおばさんの家に行って、
ピアノを練習した。
その家の皆はアマチュアの音楽家で、
しばしば即興で合奏をしたし、
ユリウスおじさんは、
素晴らしい楽譜の蔵書を持っていた。」

つまり、祖父母のみならず、
一族を上げて、助けられた感じであろう。
これは、恐ろしく恵まれた環境だった、
と言わざるを得ない。
1908年頃、つまり、16歳頃から、
作曲を始め、ジュリーおばさんの家で、
自作の室内楽を演奏していた。

が、母親は、グローフェが、
絶対、父親同様、アル中になると信じていて、
彼が、エンジニアになるように望んでいたという。

しかし、祖父の指導もあって、
彼は、オーケストラのヴィオラ奏者としても活動、
母親の教室で教えるようなこともしたようだ。
その間、ピアノの勉強もして、劇場で弾いたりもしている。

グランド・キャニオンでキャンプした頃、
1916年の彼の一日が紹介されていて、
いかに、彼が活動的な音楽家であったかが、
紹介されている。

「朝:交響曲のリハーサル
 ランチタイム:ブルーバード・インで演奏
 午後:映画館で演奏
 夕食時:ゴッドフライ・カフェで演奏
 9時から:クラブで演奏。」

だが、ここには、残念ながら、
グランド・キャニオンでのキャンプの話はない。

1915年に彼は、ダンサーと結婚し、
1917年には、インフルエンザの流行で、
ロスでの仕事がなくなり、
仕事を探しに、アリゾナに行ったりしている。
彼は、演奏家としてだけでなく、
編曲でも稼ぐようになり、
ポール・ホワイトマンとの仕事を始め、
1920年にはガーシュウィンと初めて会っている。

ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を
委嘱、初演したことで有名な、
ポール・ホワイトマン・バンドであるが、
この論文では、彼らのが、成功し、
ものすごい社会現象になったことを詳述している。

例えば、「シンフォニック・ジャズ」といった、
「批評家が、どう呼んで良いか分からないような、
個性的な音楽」(グローフェ)の確立などに、
グローフェがいかに重要な役割を演じたかが分かるが、
(たとえば、ラプソディー・イン・ブルーには、
グローフェのアイデアがたくさん入っていることなど)
97ページの大著を読み込んでいては、
なかなか、トスカニーニの話にならないので、
非常に面白いのだが、どんどん読み飛ばす。

グローフェ自身、トスカニーニが、
「グランド・キャニオン」を振った時が、
人生のハイライトの一つだと語っているが、
トスカニーニは、何故、これを取り上げたかを聴かれ、
「音楽には、良いのと悪いのと、二つがあって、
これは良い音楽なのです」と答えた、
というエピソードが記されている。

この論文では、グローフェが大峡谷を、
初めて訪れたのは、1916年ではなく、
1917年だとしている。

そして、グローフェが、
上述のアリゾナに行く際か、
そこから帰る際に立ち寄ったのではないか、
と書かれている。
一緒にいたのは、
郡の保安官(シェリフ)だった友人だとある。

「あるインタビューでは、グローフェは、
この曲の作曲を、1922年に、
アリゾナのキングマンで、
休暇を取っていた時に思いついたという。
グローフェは後に、
グランド・キャニオンをもとにした作品は、
ホワイトマンが英国に行っている間の、
1926年の休暇に、最初に思いついた、
とも言っている。
それにも関わらず、作品のスケッチは、
1929年まで、紙に残されることはなかった。
グローフェは当初、
峡谷の日の出から日没を描いた、
4楽章の作品にしようと構想した。
ある楽章は、「ホピ族のインディアン」と題され、
他の楽章は、赤い砂漠や、石の森といった、
峡谷を囲む、他の自然の驚異を描くはずだった。
『山道を行く』は、グローフェ自身は、
歩いた事はなく、
コロンビア・レコード、
ホワイトマン担当録音マネージャーの、
エディー・キングから、
グローフェが提案されたものである。
『日の出』は、1929年の秋、
グローフェがハリウッドにいた時、
次に書かれた楽章は『日没』で、
翌年の夏に書かれた。
この楽章のアイデアは、
グローフェが、ニュージャージーの、
ハッケンザック・ゴルフ・クラブの、
第9ホールにいた時に見た日没から着想され、
彼は、その場で書き下ろした。」

「『赤い砂漠』が、何時書かれたかは、
正確には分からないが、
ホワイトマンが作品完成を促した後、
『山道を行く』と共に、
1931年の夏に書かれた事は明らかである。
終楽章の『豪雨』は、
11月22日の演奏会の2週間前まで、
着手されていなかった。
ホワイトマンのアドバイスで、
グローフェは、ウィスコンシンのティペア湖に、
チャーリー・ストリックファーデンと、
作品を完成に専念するために2、3日滞在した。
彼はすでにプログラムを構想しており、
シュトラウスの『アルプス交響曲』や、
ベートーヴェンの『第6』、
ロッシーニの『ウィリアム・テル』など、
オーケストラによる
様々な嵐の情景を研究していたが、
まだ、何も書いていなかったのである。
彼らが、湖に着いた日、
嵐が起こり、最終的にグローフェに、
この特別な情景への霊感を与え、
コンサートの6日前に、
スコアを仕上げることが出来た。」

この後、グローフェはホワイトマンの楽団を辞め、
「グランド・キャニオン」のシカゴでの演奏計画に、
横やりが入るなど、確執を深める様子が語られるが、
気が滅入る内容である。

このあたりで、この論文は終わっているが、
グローフェは、これから40年も生きているはずだ。
そして、この時、グローフェは40歳だった。

これまで読んできた感想としては、
仕事人間グローフェという感じである。

「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれた、
華のあるホワイトマンと別れ、
夭折の天才ジョージ・ガーシュウィンが亡くなり、
グローフェの人生は、
何となく、無味乾燥なものになったように見える。

あとは、自作の指揮や教育の仕事ばかりである。

なお、戦前のアメリカの音楽界で、
重要な役割を演じた、この二人の隙間風には、
ポール・ホワイトマンの当時の奥さん、
マーガレット・リビングストン
(無声映画時代の女優)
が絡んでいたようだ。
彼女は、楽団の運営に口出しし、
グローフェのやり方にも干渉を始めたのである。

なお、このCDには、バーバーの「アダージョ」の、
しみじみとした演奏があって、
スーザの行進曲など騒がしい音楽が続く。

得られた事:「音楽には、良いものと悪いものの二つがあって、『グランド・キャニオン』は良い音楽だ、とトスカニーニは考えた。」
「この曲の演奏には、この指揮者の強みとなった表現力の魔法が圧縮されており、第二次大戦終結直後の激しい感情の振幅までが記録されているようだ。」
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by franz310 | 2014-09-27 22:20 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その387

b0083728_21255775.jpg個人的経験:
ノリントンという
イギリスの指揮者は、
様々なレーベルからの、
その膨大な録音数からして、
かなりの大物であるはずだが、
もともとは歌手であり、
さらには合唱団を創設しての、
古い音楽の専門家だったし、
オリジナル楽器を用いた、
オーケストラの創設者でもあり、
異質な音楽家のイメージが強い。


が、ベートーヴェンの交響曲全集や、
ブラームスの交響曲全集などを、
これまで2回も完成させ、
ブルックナー、マーラーなど
独墺系の大家の大作もものともせず、
シューベルトの「大ハ長調」なども、
私が知っている限りでも、
2度にわたって録音している。

ありがたいことに、
定期的にNHK交響楽団に客演して、
我が国を大事にしてくれていて、
また、そこでも好評を博している。

このように今では、
通常のオーケストラを指揮して、
ユニークな演奏を聴かせているが、
様々な経歴ゆえ、
あるいは病魔と闘ったせいか、
もう80歳にもなろうというのに、
巨匠として認められるまでには、
かなりの時間を要したようだ。
そもそも、そのフレッシュな演奏は、
巨匠という言葉の持つ、
重々しさはないのであるが。

そんなノリントンが、1990年代後半に、
母国の作曲家、ヴォーン=ウィリアムズを、
デッカ・レーベルに集中的に録音した時のCDには、
「サー・ロジャー・ノリントンによる紹介」
という一文が冒頭に掲載されていて、
実は、これが、非常に味わい深い。

数多くの作曲家を取り上げて来た、
この多才な音楽家の言葉として、
特に、共感を呼ぶものである。

「遂に、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズの
交響曲集を録音できる機会を得た、
私にとって、これは素晴らしいことだ。」

という冒頭の一語からして重い。

ヴォーン=ウィリアムズの交響曲は、
まだまだ、録音しても売れない、
という現状を捉えているようにも思え、
当時、還暦を越したノリントンが、
自分が歩いて来た道を、
改めて噛みしめた言葉にも思える。

作曲家も、自分も、ようやく、
受け入れられるようになった、
という安堵感も木霊のように響いている。

「最初の3曲は、生涯を通じての付き合いであり、
他の6曲は、私の成長と共に現れた。
『第6』の初演が放送された時、
家族揃って聴いていた。
それは、私たちにとって、
その年の大きな音楽イベントであった。」

このように、ヴォーン=ウィリアムズの音楽に対し、
家庭の中のイベントとして暖かく想起し、
実体験に裏打ちされた愛情を、
そのままに表明した音楽家の指揮で、
これらの交響曲を聴けるのは、
何か、大切なものを受け継ぐような有難さがある。

ヴォーン=ウィリアムズの「第6」の、
これまた、英国での位置づけを、
このエピソードは、我々に対しても、
生々しいリアリティを持って迫る。

それだけではない。
実際に作曲家に会った体験談も貴重だ。
ヴォーン=ウィリアムズは、
1958年まで生きていたので、
1934年生まれの人であれば、
その晩年の姿を、思春期から青年期の、
多感な時期に瞼に焼き付けることが出来た。

しかし、そんなエピソードは、
あまり語られるのを聴いた事がない。

「それから、ボールトやバルビローリの指揮で、
他の交響曲を聴き、
遂に私自身が、
オックスフォードのシェルドニアン劇場で、
彼自身の指揮で演奏することとなった。
彼に会った時、
私は彼の学生のような気さくさに、
アットホームな雰囲気を感じたが、
同時に、彼の持つ力、
彼の思慮深い厳粛さ、
理想を求める集中力も感じたのであった。」

前回、このブログでは、
ノヴェッロ・ショート・バイオグラフィーの、
オッタウェイ著、「ヴォーン=ウィリアムズ」を、
途中まで読んだが、
ノリントンの回想は、先の伝記の後半を、
うまく補足するような内容となっている。

この伝記は、作曲家の後半生は、
かなり急ぎ足で書いている感じで、
1953年に80歳を超えて再婚した後は、
十数行しか割かれていないのである。

ノリントンの次のような回想は、
この十数行に、みごとな花を添える。

「最後に私がヴォーン=ウィリアムズと会ったのは、
彼の心温まるオペラ、『恋するサー・ジョン』を、
BBCで録音した時であった。
(これは私のプロの歌手としての最後の仕事となった。)
私は、この80歳の作曲家が、
すべての女性キャストにお休みのキスをする元気さや、
地下鉄でさっさと帰る気取らなさが嬉しかった。
これは、一人の男である作曲家を理解する、
重要な手がかりであった。
彼は情熱的で理想主義者であった。
自然な社会主義者であり、
大衆と共にあった。」

ノリントンの言葉はまだ続くが、
このあたりで、ノヴェッロの伝記の後半に戻ろう。

「今や、作曲家は50代になって、
これまでよりさらに活動が充実してきた。
作曲に集中するのに、
妬まれるほどの許容力の他に、
彼は、異なる方面に、
自身のエネルギーを向ける能力があった。
夫人の病気による必要性から、
ロンドンからドーキングに引っ越す決断によって、
ただ、バッハ合唱団の指揮は1928年に諦めた。
しかし、まだ10年以上、
R.C.M.での授業は続けた。
偉大な教師ではなかったが、
彼はパリーの精神を引き継ぎ、
学生たちに、自分に忠実であることを奨励した。
その初期の生徒の一人に、
ゴードン・ジャーコブがいてこう言った。
『彼は、音楽における天性の詩人で、
職業的技法と技術優先を嫌っていた』。
彼は年を取るにつれ、
彼は、表面上の滑らかさを加える、
こうした能力は必要がないと気づくようになった。
そして、後年の生徒はよく検査をされた。
ジャーコブについても、ヴォーン=ウィリアムズは、
『技法にかけては、
私より彼が知らなかった事はなく、
彼に教えることは何もなかった。
以来、私はオーケストレーションにおいて、
彼のアドヴァイスを受けた。
実際、私は、作曲家の技術において、
何かちょっとでも工夫したかったからね。』
と明かしている。
2つの心が出会う時、何かが起こり、
ヴォーン=ウィリアムズにとって、
教える事も、学ぶことも、常に実りある関係であった。」

これは驚くべきエピソードだと思った。
この作曲家は大家になってからも、
何の気取りもなく、
謙虚に学ぶ姿勢を保っていたのである。

もちろん、そうした気さくさは、
副作用もあったのであろう。

「ある者にとっては、疑いなく、
彼のアプローチは好感を与えるとともに、
失望でもあった。
絶対的な権威者を求める生徒には、
自分自身による判断を促した。
彼が全く寛容でなかったただ一つのものは、
生徒からであれ、同僚からであれ、
わざとらしい芸術性を感じた時であった。
そうした一例となる
ウォルフォード・デイヴィスに関する逸話があった。
デイヴィスは一度、こう言った。
『レイフ、この荘厳なメロディは、
私自身、祈りながら書いたのだよ』。
その答えは、
『君が聴いた私の新作交響曲は、
キッチンのテーブルで書いたけどね。』
キッチン・テーブルとは、音楽における詩人の、
抗弁や保護手段であろうか。
一部はおそらく、後年、ほとんど伝説になる、
ぶっきらぼうさは、
一般に考えられているより、
その内気や神経質を隠すためのものであった。
彼が『めかし屋』と呼んだ、
気取りやエリート意識への彼の敵意の見せ方には、
洗練されたものは何もなかった。」

ぜひ、その毒舌の例を書いて欲しかったが、
それ以上に以下の記述は味わい深い。

「自身の作品への態度も、際立って実務的、
かつ現実的なものであった。
彼は常に、自らの体験の光に導かれ、
自身の、あるいは他人の作品を、
改訂するかどうかを考えており、
しばしば、そうした。
作曲家-指揮者として、彼は非常に公平で、
彼のコメントは、常に変わらず、
テンポ、強弱法、フレージング、音の重み、
といった純粋に技術的な事柄に限られていた。
オーケストラは詩的な指示や、
個人的な啓示を期待しても無駄だった。」

これはこれで、一つのやり方だが、
エルガーのように、オーケストラは、
作曲家直伝の秘話を聴きたかったに違いない。
私も、そんな話を読んでみたいものだが、
どうやら期待できそうにない。

「1920年代の半ばから終わりにかけて、
『Flos Campi』、
『Sancta Civitas』、
そして『海を目指す者』といった、
3つの非常に違った作品で、
ヴォーン=ウィリアムズの幻視の力は、
深まり、増幅された。
そして、バレエ『ヨブ』(1930)では、
悪魔という重要な存在が、
さらなるスタイルの拡大を導いた。
この新しい悪魔的な傾向は、
『第4交響曲』に直接受け継がれた。
1935年、この交響曲は、
民謡収集家、田舎の休日派、
それからすべての、(誤って)田園情緒を、
安息の逃げ道にしていた連中を追いやってしまった。
同時に、それは、ずっと、この作曲家を見下していた、
多くの『モダニスト』の賞賛を得た。
力強い不協和音の利用、いわゆる音階和声の放棄、
多調に向かう傾向、
こうしたものが示唆する特徴が、
ヴォーン=ウィリアムズを時の人にした。
しかし、実際は、彼は、ずっとこれまでと同じであって、
無所属であった。
1932年、ペンシルヴァニアの、
Bryn Mawr大学で行われた講義
(『ナショナル・ミュージック』として出版された)
の中で、流行や好みを楽しんだだけ、
といった心情を語っている。」

このように、彼の、創作の霊感は、
ある意味、謎に包まれている。

「この独立不羈の精神は他の面でも見られた。
1934年にエルガーが亡くなると、
ヴォーン=ウィリアムズは、
国王の音楽師範の地位を継ぐよう誘われたが、
少し前に、ナイトの叙勲を拒んだように、
彼は、これを辞退した。
翌年、彼は、彼はメリット勲位を受けたが、
これは、彼が官庁から受けた唯一の栄誉であった。
単なる「ミスターや、お好みならドクター」
であることは、(天路歴程の)バニヤン、
(ヨブの)ブレークや、
(海の交響曲の)ホイットマンに連なる芸術家であれば、
また、サリー州の自治体で合唱を楽しむ者にとっては、
自然なことであった。
彼は、ホルストのように、
いかなる形での上流崇拝を嫌うばかりか、
社会的なエリートという罠に想像力が奪われ、
プレッシャーにさらされることを彼は知っていた。」

こう書かれると思い出すのが同僚、バックスのケースだ。
Master of the King's Musickという肩書を得てから、
バックスはほとんど作品を書くことが出来なくなった、
などと言われている。

「グスタフ・ホルストの死は、辛い打撃であった。
『私が思うただ一つの事は、
彼なしにどう行けば良いのか、
何をすれば良いのかということだ。
すべての事が彼に帰結し、
グスタフなら、どう考え、助言し、
行動するかということだ。』
これは彼の友人の未亡人に宛てた手紙にあるもので、
ホルストとヴォーン=ウィリアムズの関係を、
良く物語っている。
彼らの人生は創造の世界でも、
実際の多くの音楽活動を通じても、
織り合わされていた。
ヴォーン=ウィリアムズは、
モーレイ・カレッジにおける事業や、
セント・ポール女子校、
Whitsuntideシンガーズでの仕事などで、
ホルストに関与していた。
ホルストのヴォーン=ウィリアムズの
作曲への影響は、
この十年あまりにわたり、
かなりのもので、
ホルストは、この分野で、
彼の指導者であり良心であった、
オーケストラのテクスチャーにとどまらず、
『ヨブ』や『第4交響曲』に明らかなように、
音楽のスタイルにおいても影響は大きかった。
ある人々は、『5つのチューダー王朝の肖像』(1936)や、
『音楽へのセレナード』(1938)、
『第5交響曲』(1938-43)など続く作品で、
ヴォーン=ウィリアムズが、
初期の様式に『復帰』しているのは、
ホルストの死に直結した問題だと示唆している。」

ヴォーン=ウィリアムズは、ホルストに導かれ、
新しい表現様式を手に入れ、
盟友亡き後は、道を見失ったとも読める。

「この観点に関しては確かに何かありそうだが、
回帰とはあまりに限定した見方である。
なぜなら、この作曲家が、
一貫した発展を妄信した人、
といった見方を、
我々はできないからである。
1910年あたりから、
彼は様々な表現方法に対しオープンであり、
最もふさわしい想像的形式を使ってきた。
カンタータ『Dona Nobis Pacem』
(「私たちに平和を与えよ」(1936))
のような機会音楽には特に、このことが言える。
実は、これは、ずっと初期の、
ホイットマンの詩による
『二人の老兵への哀歌』への付曲が、
いささか危なっかしく様式を揃えて、
組み込まれたものである。
『Dona Nobis Pacem』は、
フッダースフィールド合唱協会の
100周年のために作曲されたが、
同時に『時世のミサ』でもある。
これは、賢明な民衆みんなが感じていた、
怒りや焦燥を、30年代の痛みを伴う進展に対する、
ヴォーン=ウィリアムズの共有のようなものである。」

私は、ナチスとヴォーン=ウィリアムズの関係を、
これを読むまで知らなかったが、
下記のような顛末があったようだ。

「1937年、ハンブルグ大学が、
シェークスピア賞で、彼を讃えようとした際、
彼は特有の露骨さで答えた。
『私は、現在のドイツの政権の
すべてと戦うことを目的とする
英国社会に、単に、
属しているだけではありません・・
私はこの素晴らしい賞を、
良心の満足を無視してまで、
受け入れることができません。
受け取ることによって、
自身の意見の自由な表現が、
阻止されていることすら、
感じなくなるような賞を。』
賞金はドイツから持ち出せなかったので、
彼は、うまくいかなかったものの、
ユダヤ人亡命者のための、
クエーカー教の福祉基金に寄付しようとした。
1939年初頭、さらに異なる領域の栄誉が転がり込んだ。
ナチスによって、彼の音楽は禁止された。
これはドーキングの亡命者委員会のメンバーに、
彼の存在を知らしめた。」

勲章は拒否しながら、賞金は貰おうというのも、
使い方はともかく、ヘンテコな感覚である。
が、ドイツでヴォーン=ウィリアムズが、
演奏できなかったのであれば、
バルビローリが、マーラーなどと同様、
戦後のドイツで、自国の作曲家を、
取り上げようとした歴史的意味がよく分かった。

「戦争中、亡命資金や畑仕事から、
外国人収容者の解放のための内務省委員の仕事まで、
彼は、出来り限り、戦争と向き合っていた。
ナショナル・ギャラリーの
ランチタイム・コンサートの立ち上げに協力し、
音楽芸術奨励のC.E.M.Aや、
音楽活動を続ける組織のために多くの時間を割いた。
1943年、新音楽推進委員会が設立されると、
V.W.は自然に総裁に選出された。
若い世代の音楽家と、
音楽愛好家一般の両方と交流可能だということで、
これまでに、彼は家父長的な存在となっていた。
ヴォーン=ウィリアムズを、
英国第一の音楽市民であるという見方は、
彼の戦時中を代表する作品、
『第5交響曲』として結実したように見える。
彼の英国気質のみならず、
彼の初期の作品にあった、
もっとも価値ある気品ある部分が、
ここに統合されている。
彼は、この時、70歳を超えており、
バニヤンによる未完のオペラ『天路歴程』に基づき、
深くキリスト教的含蓄に富む、その精神性からも、
多くの人々は、当然、これは、
彼の最後の交響曲だと考えた。」

このような感覚も、この本を読んで知った。
私たちは、最初からV.W.の交響曲は、
ベートーヴェン同様9曲と知っているが、
確かに、70歳を超えた人が、
瞑想的な大作を披露したら、
そんな感覚に捕われても不思議はない。

「しかし、作曲家はすべての先入観を打ち砕き、
さらに4曲の交響曲が続いた。
そして、『第6』(1944-7)は、
前作の精神的基盤に、
完全に挑戦するものに見えた。
異常なエピローグは、まったくの空虚、
生命なき虚無の世界に見えた。
これがヴォーン=ウィリアムズにとっても、
どのように響くものであったかは明らかだ。
彼は、決して、信仰を公言する、
キリスト教徒ではなかったことも。
(ウルズラ・ヴォーン=ウィリアムズの
『バイオグラフィー』29ページ参照。
『彼は、チャーターハウスやケンブリッジでの、
最後の何年かは、無神論者であった。
彼は後に、楽観的な不可知論者となったが。
彼は、信仰を公言したキリスト教徒ではなかった。』)
表現の性格はまったく異なるとはいえ、
『第5』と『第6』交響曲は、
予兆、予言の音楽である。」

この一節は、名言であろう。
簡潔にこれらの兄弟作の共通点を言い当てている。
音楽の様式は全く異なるが、
背景にある作曲家の精神は同じなのである。

「ホイットマンが『広大な比喩』は、
『すべてを繋ぐ』と書いたように、
普遍的真実を忘我的に感得しようとする
彼の探求において、ヴォーン=ウィリアムズは、
『宗教的な』芸術家であるが、
彼の探求は、人間の経験に向かうもので、
宗教学な意味合いのものではない。」

このあたりから、伝記の記載は、
簡潔に飛ばし気味となる。

「彼の最後の10年は、
輝かしく行動的であった。
戦争中、彼は映画音楽に新しい刺激を得た。
その彼の最もすぐれた映画音楽は、
『南極のスコット』(1948)で、
彼の様式に印象的な刻印を残し、
色彩的に楽しく、
彼が、『フォーンズ』、『シュピールズ』と呼んでいた、
特にはっきりしたピッチの打楽器が、
最後の色彩を決め、これらは、
彼の最後の3つの交響曲を彩ることになる。」

私は、常々、彼の「第4交響曲」などは、
もっと打楽器がさく裂すればいいのに、
などと考えていたので、
ヴォーン=ウィリアムズ自身も、
時代の流れと、自作を比較して、
そんな楽器の不足を発見したのであろう。

「これらの3曲の交響曲は、
第4から第6に比べると、
もっと気楽な、もっと奇抜なもので、
そんな理由から、
特に『第8』などは大騒ぎするフィナーレゆえに、
安易に過小評価されてきた。
『第8』のカヴァティーナ、
『第9』の多くのページには、
老年に対する洞察があり、音楽的にユニークである。
『第7(南極交響曲)』は、
その多くの印象的なパッセージに関わらず、
交響的というより描写的で、
これらの中では、もっとも成功しなかった。
彼は聴覚が衰える中、自作の指揮を続け、
プロムス、チェルトナム(Cheltenham)音楽祭、
3つの合唱団の顔として出演を続けた。」

問題作ぞろいの戦争交響曲群に比べ、
晩年の3曲は、今一つ、
ピンとこない作品群だが、
これを読んで、妙に関心が掻き立てられた。

一方、作曲家の作曲以外の活動の方は、
元気なのは良いが、後進の活躍を阻害していないか、
いささか心配になる記述である。

そうこうしているうちに奥さんの方が、
限界となったようだ。

「アデリーン・ヴォーン=ウィリアムズは、
長年、関節炎で不自由な暮らしをしていたが、
1951年、80歳で亡くなった。
1953年、作曲家は、
親しく家族の友人として付き合ってきた、
ウルズラ・ウッドと再婚し、
リージェント・パークの
ハノーバーテラスに移り住んだ。」

Hanover Terraceを、
地図検索すると、
ロンドンの北部、動物園もある大きな公園、
クイーン・メアリーズ・ガーデンなどもある
リージェント・パークに
隣接した場所が出て来るが、
こんな都会の真ん中のような場所に、
81歳の老作曲家が住んだのだろうか。

それまでは、ロンドンの南方、
郊外の田舎町ドーキングに住んでいたのだから、
湘南とか相模ナンバーの車の走る場所から、
いきなり上野あたりに出て来た感じを連想した。

「ロンドンの文化生活が再度、
彼の身近なものになった。
30年代から、久しく経験しないものであった。
音楽会やオペラ、映画や特にお好みの演劇は、
いささか難聴で楽しみを妨げられたが、
多くの友人たちには、
彼が年を取るより、むしろ若返ったように見えた。
彼はさらにアメリカに足をのばし、
カーネル大学で講義を行い、各地を旅行した。
イタリアやギリシャで休暇を過ごし、仕掛品があった。
1958年8月の夜、
眠っている間に、彼が突然死んだ時、
その真実は把握するのが難しかった。
彼が想像できたより、はるかに多くの人々にとって、
V.W.なき英国音楽は痛ましく戸惑いを感じるものだ。
公共の舞台を満たす他の音楽家もいるが、
彼自身はかけがえのない存在である。
ある時代は終わり、その欠落は埋められていない。」

以上で終わり。
かなり余韻の短い記載なので、
私が、ノリントンの回想を補足したかった意味を、
ご理解いただけたものと思う。

ノリントンのCD解説は、
「これらの録音で、音楽の表層の下を探り、
この傑出した作曲家の火と情熱とを、
掬い上げることが出来れば、と思う。
彼は私が会った中で最大の人物であった。」
という熱意で締めくくられている。

私は、ヴォーン=ウィリアムズが、
極めて即物的に音楽を語った事を読んで、
このノリントンという指揮者に通じるものを感じた。

この指揮者の膨大なレパートリーも、
ひょとしたら、そうした実務的手腕によるのかもしれない。

彼は、マーラーだろうがベートーヴェンだろうが、
身もだえして苦悩することはなく、
極めて明確な立体感で、風通し良く、
充実した音楽を鳴り響かせる。

今回聴くのは、ヴォーン=ウィリアムズの問題作、
「第4」と「第6」を収めたCDである。

ちなみに、見たこともない変わった体裁で、
RWVの銀文字はケースに印刷されており、
このパワフルな交響曲に似合わず、
赤い花咲く牧場の写真があしらわれている。
が、曲想を暗示してか、赤い部分には、
たくさんの傷状の模様が施されている。

演奏は、この難解な作品を、分かりやすく、
上質の肌触りで聴かせてくれており、
金管がさく裂するところでも、
絶叫にならず輝かしく、
木管が浮かび上がるところなども、
爽やかで効果的、
リズム感もノリノリノリントンで、
実演で聴いたこの指揮者の特徴が確認できる。

スケルツォ楽章など、非常に心地よい。

が、この路線では、これらの問題作の背後に込められた、
何らかの情念へのヒントは手薄にならざるを得ない。

得られた事:「指揮者ノリントンが、今まで会った最高の人物と書くヴォーン=ウィリアムズは、人々と語らうことが出来るような音楽を書こうとした理想主義者であった。」
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by franz310 | 2013-08-15 21:27 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その386

b0083728_21321774.jpg個人的経験:
前回、作曲家自身が、
「田園交響曲」と名付けた、
三番目の交響曲が、
戦争体験を音にしたものと知り、
今更のように驚いてしまった。

私は学生時代から
ヴォーン=ウィリアムズの音楽が好きで、
卒業旅行でロンドンに行った時にも、
この作曲家に関するパンフレットを、
持ち帰っていた。

ハフ・オッタウェイという人が書いた、
ノヴェッロの伝記シリーズの一冊。
20ページ足らずの冊子だが、
結構、難しい内容で、
ほとんど読んでいなかった。


ヴォーン=ウィリアムズの生涯については、
ラヴェルに学んだとか、
英国の民謡を採取したとか、
古いイギリスの音楽を発見したとか、
映画音楽を転用して交響曲を書いて、
生涯にわたって交響曲を書き継いで、
大往生を遂げたみたいな断片的な知識しかなかった。

しかし、ショスタコーヴィチ並みに、
戦争の時代を生き抜いた作曲家だったことが分かり、
いかにも、田園風景を描いた交響曲が、
何と、生々しい戦場体験に基づくと知って、
私は、彼の人となりに、これまで、
まったく注意を怠っていたと反省した。

今回は、この小冊子を読んで、この作曲家について、
もう少し、勉強しておこうと思う。

「ヴォーン ウィリアムズ
(1872年10月12日-1958年8月26日)
もし、ヴォーン=ウィリアムズがパーセルや、モーツァルト、
シューベルトと同様の年で死んでいたら、
彼は、音楽史において、
世紀の変わり目の英国の作曲家の中で、
たいした地位を占めなかったであろう。
もはや、これは『大器晩成』の好例という以外にない。
40歳の時に、ようやく、
自分の進むべき方向を見出したにすぎず、
ハウズマンの詩による歌曲集
『ウェンロック・エッジにて』(1909)や、
『タリスの主題による幻想曲』(1910)は、
個性的なスタイルがしっかり確立した、
最初期の作品である。
70歳にして、特に、『第5交響曲』(1943)の後、
英国音楽界に確固とした地位を築いた。
今世紀、ヴォーン=ウィリアムズの晩年のような
成功と個人的尊敬を勝ち得た作曲家は少ない。
疑うことなく、専門的な聴衆から、
より広範な反応を得た作曲家はいた。
シェーンベルク、ストラヴィンスキー、ヒンデミットなど、
すぐに思いつくが、それらは、違う尺度のものであった。
ヴォーン=ウィリアムズは一般の人たちから
数多くの崇拝者を勝ち得、
しかも妥協をすることもなかった。
たとえば、第6交響曲の初期の受け止められ方を考えてみよう。
いかなる基準であれ、これは、頑固で無防備な作品ながら、
何度も何度も、多くの聴衆の前で演奏され、
実際、『ベスト・セラー』になった。
このような痛々しい思いっきりモダンな音楽が、
空前の規模で、である。
人々は、この曲を覆う難しい響きに関わらず、
作曲家が純粋な抽象をもてあそび、
難解なパズルを楽しんでいるわけではないと理解した。
その音は、何か人間の言葉を思わせ、
それは何か差し迫った、
やむに止まれぬ経験を差し出し、
『多くの経験』は、啓示のような独特の効果をもたらした。
私は、これを危険な偶像崇拝だと知っている。
我々が語られる音楽は、自給自足のもので、
その『意味』は、その中で語られている。
この抽象的な見地は、古くから、そして近代においても、
ずっと厳格に尊重された意見であった。
しかし、それは絶対の普遍のものなのか。
我々は、自らの音楽体験の改ざんなしに、
それを受け入れることが出来るだろうか。」

ということで、一般の聴衆が、
その意味を、心を込めて聞き取ろうとした音楽を書いた、
稀有な20世紀の作曲家という切り口が紹介される。

「ヴォーン=ウィリアムズは、
音楽の意味という疑問と向き合った時、
非常に慎重であって、
彼は気まぐれで、表面上の『解釈』の危険性を知っていた。
彼のこの立場を疑うことはできない。
『作曲家は』と彼は書いた。
『自分を隔離して芸術の事を考えるべきではなりません。
彼は仲間たちと生き、コミュニティの全人生の表現として、
その芸術を語らせなければなりません。』
そして、また、
『作曲家の人生から、
彼の生きるコミュニティ、
その属する祖国に向かって育たなければ、
芸術にどんな意味があるでしょう』と書いている。
(1912年に最初に、R.C.Mの雑誌で掲載された、
『誰が英国の作曲家などを望むのか』による。
1950年フーバート・フォスの
『Ralph Vaughan Williams』に再録。)
このレベルにおいて、ヴォーン=ウィリアムズは、
音楽には意味がある、
単に、受け入れられやすいとか、
分かりやすいとか、論理的であるだけでなく、
人間の言葉として意味があると主張している。
現実世界で生身の人間に属しているという感覚、
音楽的市民性の感覚が、
彼の生涯を通じた仕事に行きわたっており、
これが彼が多くの人に支持される理由となっている。
こうしたアプローチは、音楽的資質と共に、
卓越した人間性を求められる。
ヴォーン=ウィリアムズが到達したところを、
単に、いわゆる創造の天才という点でのみ論ずるなら、
沢山の重要な点を見逃すことになるであろう。
天才が、混乱した新聞記事みたいな表現で、
高度な技法という事なのであれば、
我々はそれをすべて無視しよう。
ヴォーン=ウィリアムズは、
けっしてすらすらと書いた人ではなかった。
彼の生来の資質には、エルガーや、バックスや、
ブリテンのような輝かしさはなかった。
彼が、生涯を通じて『素人みたいな技法を克服する』
ことと格闘していたと、彼が言う時、
彼は、それをお話として言ったのではなく、
まったくもって事実だったのである。
彼の偉大な才能は、技術的な名技性ではなく、
ヴィジョンのようなものにあった。
彼の音楽は、それゆえに、狭い了見のプロを、
しばしば困惑させた。
事実、イマジネーションを抗しがたい魔法と、
直接性で翻訳した、初心者のような作曲家がいた。
ヴィクトリア朝の名士で、
ケンブリッジや王立音楽院で学んだ、
初心者などを考えることは困難である。
しかし、私は、彼が最も特徴的な表現技法を、
知りえるための重要なステップであったと、
信じている。」

著者は、ヴォーン=ウィリアムズは、
その技法においてすぐれているのではなく、
音楽に描こうとした内容(ヴィジョン)が、
素晴らしいと言っているようだ。

「この郷土の名士は、グロースターシャー(Gloucestershire)と、
ウィルトシャー(Wiltshire)の境界近くの村、
ダウン・アンプニー(Down Ampney)の生まれなので、
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズは、
グロースターシャーの作曲家とされるが、
生まれた所に関する限りの話である。
彼の父親のアーサー・ヴォーン=ウィリアムズ牧師は、
レイフが3歳になる前の1875年に亡くなっており、
少年は母親の実家、
サリー州のライス・ヒル・プレイスで成長した。」

位置関係が良くわからなかったが、
調べてみると、
グロースターシャーは、
ロンドンのはるか西であり、
サリー州は、ロンドンのすぐ南であった。

「コッツウォールドではなく、
ノース・アンド・サウス・ダウンズが、
彼の幼少期の風景を形成したもので、
生涯を通じて、ドーキングやレイス・ヒルの地域で、
彼は過ごした。
彼は、ロンドンっ子だと自分のことを考えており、
彼の母親、マーガレットは、
ヨシア・ウェジウッド三世の娘であり、
チャールズ・ダーウィンの姪であった。
ヴォーン=ウィリアムズの独立不羈の性格が、
こうした方面から来たことはおそらく考えられるだろう。
父親の家族は多くは弁護士で、
作曲家の祖父、
サー・エドワード・ヴォーン=ウィリアムズは、
民事訴訟の最初の判事であった。
レイス・ヒル・プレイスでの生活は洗練されたもので、
控えめであり、いくぶん偏狭で禁欲的であったが、
様々な点で自由であった。
子供たちはそれぞれ好きな事に集中することを奨励され、
母親、みな年上であった兄、姉より、
レイフと最も近い関係にあったのは、
叔母のソフィーであった。
彼女は最初の音楽レッスンを担当し、
『子供の通奏低音入門』と呼ばれる本を教えた。
これに、スタイナーの『和声』が続き、
彼は私立小学校に入学するまでに、
ヴァイオリン、ピアノ、オルガンと、
音楽理論を知るようになっていた。
『私と兄と姉は、私が好きだった、
<メサイア>、<イスラエル>のコーラスを含む
妙な古い本で連弾することを奨励されたが、
<ドン・ジョバンニ>や<フィガロ>のアリアは
退屈だった』という、彼のこうした初期の日々の言及は、
いかにも典型的な当時のアマチュアらしくまじめな、
何より家庭的な音楽生活を物語っている。
多くの『少年とソフィー叔母さん』は当時いたので、
彼も、それほど素質があるようには見えなかった。
恐らく、ヴァイオリンを除いては。
鍵盤楽器については不器用で、
音楽ではヴァイオリンが唯一の救いだった。
小学校でもヴァイオリンとピアノを学んだが、
バッハとの出会いがあった。
そこには、すばらしい、
『私が知っていたものとは違った何か』があった。
ヴォーン=ウィリアムズにとっては、
バッハは、『私の中で安置されている』のであり、
多くの音楽家にもそうかもしれないが、
こんなにも早い時期からそうなのは、
きわめて稀なことである。
これは、通常とは異なる音楽能力の
最初の明らかな証拠である。」

ヴォーン=ウィリアムズの幼少期の環境は、
おそらく現代の我々と、それほど違わない印象である。
都市があって、そのベッドタウンのような場所で暮らしている。
しかも、古典的な音楽のダイジェストのような楽譜を見て、
初歩的な勉強をしている。
が、名門であり、父親がいない末っ子というのは、
偏見かもしれないが、いかにも偏屈そうな感じがする。

「チャーターハウス校での3年は、
多くの新しい経験があった。
レイス・ヒル・プレイスや、
未婚の叔母が担っていた役割が取って変わられた。
特に宗教的な事など、
後の作曲家の生涯で明らかな、
基本的な公正な心情が目立つようになる。
家族のために教会には行っていたが、
宗教的儀式は自分には意味がないことを知っていた。
学ぶ者として彼は勤勉で、
ラテン語と数学に特別な才能を見せたが、
それ以外はそれほどでもなかった。
文学は彼には重要で、多読家であり、
特に他の者が遊んでいる時は本を読んでいた。
しかし、この頃までに彼は、
音楽の中に身を置きたいと考えるようになり、
ヴァイオリンをヴィオラに持ち替え、
学校のオーケストラで演奏し、
家族が、それがあまりに不安定だと主張しなければ、
オーケストラの楽員になっていたかもしれない。
この頃の安定と社会的地位を考え、
大部分の職業音楽家が座った教会オルガン奏者を目指した。
そして、それは許され、他に何が出来たであろうか、
レイフはオルガニストになる訓練をしなければならなかった。
ロンドン近郊、南ランベスの聖バルナバス教会で、
オルガニストになった彼は、
それが、実にやっかいな仕事だと知った。
しかし、それは後の事で、
この後、5年は、ロイヤル・音楽カレッジと、
ケンブリッジのトリニティ・カレッジで過ごした。
これほどまでに長い間、正規の教育を受けた音楽家は稀で、
彼の先生たちからは、そこにいったい、
何の実益があるのかと思われたはずである。」

ということで、何だか分からない大学生活を送っている、
現代の若者像と、これまた、あまり違いはなさそうだ。

「ヴォーン=ウィリアムズが王立音楽院(R.C.M)に入った、
1890年、それはまだ創立7年の新しい施設であった。
あらゆる面で洗練されておらず、
あまりに英国内での音楽活動を反映したものであった。
しかし、当時最大の英国の音楽的良心であった
ハーバート・パリーが、そこで作曲を教え、
2学期を経た後、ヴォーン=ウィリアムズは、
彼について勉強した。
パリーは学生たちに深い印象を与え、
教師としての力と共に、
その高潔さと芸術的理想がさらに強い印象を残した。
後にヴォーン=ウィリアムズは、
自身を、『実に初歩的な生徒で』
『痛々しいばかりに教養がなく』と書いたが、
パリーについては、常に永続的な感謝を感じていた。
激励と、作曲における何か特徴的なこと、
個性の尊重、そして新境地を拓く能力、
これらがパリーの原則で、
これらが若いヴォーン=ウィリアムズに、
驚くべき作用を与えた。
しかし、スタンフォードの場合は、
まったく違っていた。
その露骨な皮肉、『すべてがくだらないよ、君』は、
頑固な気質に痛く響いた。
ケンブリッジでは、チャールズ・ウッドに作曲を習ったが、
この人に対しては、本物の職人芸を見たが、
パリーの理想や高潔さを見出すことはできなかった。
彼は、この3人の先生を、
何年も後に、『音楽的自伝』の中で、
あからさまに描き出した。
誰を描きだしたのか。
1890年代の若い音楽家か、
グランド・オールド・マンか。
基本的に、ヴォーン=ウィリアムズは、
50年か60年前の事を、
驚くべき明晰さと冷静さで見つめなおしたように見える。
彼は、いくぶん厳しすぎるかもしれない。
しかし、私たちは、
『スタンフォードは、
私も無駄に終わることを恐れたのだが、
私のテクスチャーを軽くしようとした。
私は、どうしても教えられない存在だった』
とあるのを読むと、
そこに思い描くのは、
カリカチュアそのものでしかない。
チャールズ・ウッドは、決して、
作曲家を作り出しているとは思わなかったが、
それは、彼だけがそう思っていたのではなかった。
グヴェン・ラヴェラットは、
彼女のケンブリッジでの幼少期に関する回想で、
何度も、『気違い小僧、ヴォーン=ウィリアムズが、
どうしようもなく絶望的なのに、
音楽に取り組もうとしている』という会話の断片を
耳にしたと回想している。
そっとそれを裏付ける証言もある。
しかし、これらすべては、
私たちが最も知りたいことを伝えるばかりだ。
彼が不撓不屈の男だということ以外、
彼のことは何も語られていない。」

このあたりを読むと、小泉八雲や、夏目漱石のような、
癖のある先生がいた、当時の日本を想起してしまった。
この問題児は、「坊ちゃん」みたいなものかもしれない。

「1895年、ヴォーン=ウィリアムズが
音楽の学士と歴史の学士号を取って
ケンブリッジからかえってくると、
彼は、もう、アカデミーサイドが烙印を押した、
気違い小僧ではなかった。
彼は内気で、いくぶん神経質な気質であったが、
見せかけを蔑み、自分の意見に関しては、
とてつもなく誠実だった。
マーラーが『トリスタン』を指揮したのを聴いた後は、
一晩中寝られなくなるほど、
想像的経験に関しては集中力を持ち、
自分の判断には、非常な自信を持っていた。
もったいぶって、遠回しに言うので、
すぐに、その内気な後ろには、
強烈な性格が隠されていることが分かった。
明らかに、あるものは腹を立てたが、
ハフ・アレンやG.E.ムーア、
G.M.トレベリャンなどは生涯の友人となった。
音楽的に彼は、いまだ手さぐりであって、
自身、それが分かっていた。
自分自身の技法の問題や、
支配的なアカデミズムの事もあって、
彼は再びR.C.Mに戻り、
そこでグスタフ・ホルストに出会った。」

出来たてほやほやのこうした特別な学校で、
奇人変人有名人が出会うのも、
世紀の変わり目に、我が国でも繰り返された風景である。

「ホルストとヴォーン=ウィリアムズ、
ドビュッシーとラヴェル、
ブルックナーとマーラーなどなどは、
どの場合も紛らわしい一対である。
彼らを取り巻く世界の外見は、
共に過激であるとはいえ、
ホルストとヴォーン=ウィリアムズは、
気質の上で大きく異なっており、
それが、その音楽にも反映している。
1934年のホルストの死まで続く、
彼らの友情は、実にユニークなものだった。
ほぼ40年にわたり、彼らは、
生みの苦しみの最中にあっても、
互いの批評を求め、
ホルストは、ヴォーン=ウィリアムズの美学を重視し、
ヴォーン=ウィリアムズは、ホルストの鋭い耳に信頼を寄せた。
腹を割った、そして独立した、
共通の目標を持った者だけがこれを可能にした。
1897年、ヴォーン=ウィリアムズは、
ベルリンでマックス・ブルッフに教えを乞い、
11年後には、パリでラヴェルに学んだ。
どちらの機会にも、自身の技法を深めるために、
大陸に向かったが、同時に彼は、
真の英国音楽の復興は、
外国の音楽の真似からは、
決してなしえないと確信した。
一方で彼は、最高のプロの基準を求め、
一方で自分自身と伝統の音楽語法に忠実だった。」

ということで、ブルッフやラヴェルも、
何だか変なのが来たなあ、と思ったのではないか。
ちなみに山田耕筰がブルッフに学んだのは、
1910年頃で、少し後の話のようだ。

「彼が英国の民謡と、
エリザベス朝とジャコビアン様式の音楽の偉大さを
発見するまで、
音楽的にこの遺産は、
限られているように見え、
それにうんざりさえしていたが、
ホルストと共にこれに熱狂した彼は、
そこに明らかな道を見出した。
彼は、1903年に、
最初の民謡集『藪と野ばら』を編纂し、
すぐに、宗教的なまでの情熱を持って、
サセックス、エセックス、
ノーフォークに向かった。
『ノーフォーク狂詩曲』と名付けられた、
3つの管弦楽曲集(1906-7)は、
それらの中の最初の果実であるが、
この時期の作品として
記憶に留められるべき最大の作品は、
民謡の影響はほとんどない、
『海の交響曲』(1903-9)である。
ここには単純な、既製品的な書法はなく
この大規模な劇的な作品の語法には、
民謡もチューダー王朝風のポリフォニーも
見受けられない。」

こうした合唱と管弦楽の大作を書いたのは、
バッハの影響もあるのだろうか。

「その間、ヴォーン=ウィリアムズは、
ケンブリッジで会った才能あるアマチュアの音楽家、
アデリーン・フィッシャーと結婚し、
ロンドンに居を構えていた。
こうした期間に、教会オルガニストとして、
英国聖歌の編纂をし、
1905年に彼の姉が始めた、
レイス・ヒル音楽祭の主力となった。
約50年にわたって、この有力な音楽祭に、
彼は、指揮者としてだけでなく、
啓蒙者、奨励者として、精力的に参加した。
彼の演奏するバッハ、
特に『マタイ受難曲』は、
歌った人たちの記憶に長く残った。
彼は実際の演奏家として、
そして音楽をする人たちとの交流も、
非常に高く評価され、
1953年まで、その指揮棒を置くことはなかった。
金銭に関しては問題になることはなかった。
後年は、ヴォーン=ウィリアムズは、
自身の音楽で十分に生計が立てられたが、
世界大戦の前には、
こまごまとした私的な不労所得によっていた。
写譜の仕事やもっと単調な音楽指導などの話もなかった。
彼は、報われるとは思われない
いかなる音楽的雑用も拒むことが出来たので、
実際、彼は、そのいくつかは放棄した。
ハイドン以来、こうした外部の活動と、
想像の中の内的生活を調和させられた例はまれであった。」

おそらく、名門であるから、いろんな資産があったのであろう。
このあたりから、ようやく、我々が良く知った、
彼の作品のリストが並び始める。

「その想像力の凝縮は、
ダブル弦楽オーケストラのための、
『タリスの主題による幻想曲』で発揮された。
ここにあるのは独特の声部であって、
新しい量感と華麗さ、静かな熟考、
常に感じられる不思議な感覚が、
ヴォーン=ウィリアムズ特有のエッセンスとして、
認められるようになる。
つづいた、『揚げひばり』や『ロンドン交響曲』や、
1914年に大部分が完成された、
オペラ『牛追いのヒュー』には、
強い個人的な様式が開花している。
『ロンドン交響曲』は、その想像力の豊かさによって、
生き生きとした創造的な外見を誇っている。
それは、その頃、作曲家が主張していたもので、
前に、『コミュニティのための音楽であれ』と
言ったことを述べた通りで、
この段階に彼が発展したことを示している。
彼の増大化する自信は、
彼こそが、その世代で、
もっとも約束された英国の音楽家である、
という認識の高まりとマッチしたものであった。」

第一次大戦と「田園交響曲」の関係を、
この前、スラットキンのCD解説で学んだが、
続く一節が、まさしくそれに相当する部分である。

「そして戦争が始まった。
ヴォーン=ウィリアムズは、
42歳になろうとしていたが、
彼はR.A.M.Cに志願し、
救護兵としてフランスで任務につき、
Salonika(ギリシャのテッサロニカ)
の前線に配備された。
1918年の初頭、王立守備砲兵隊の任務で、
フランスで再び駐屯した。
休戦後、すぐに彼は、第1陸軍、B.E.Fの
音楽監督となって、
彼が得意とした素人音楽団の編成を任じられた。
彼は戦争を必要悪だと感じていたが、
力ずくで積極的な活動をさせられたとも感じていたが、
喪失感、無意味さを感じ、嘆きは深かった。
こうした思いは、抵抗活動とか、
因習打破といった方向には向かわず、
より瞑想的な哲学的な表現の探求となった。
『田園交響曲』(1921)には、苦痛が底流し、
作曲家の戦時中の体験が関係しているとされる。
西部前線のEcoivesで、
彼が救護兵として働いていた時に、
その大部分の構想が発芽し始めた。
この作品や、他の戦後の作品、
特に、『ト短調ミサ』や、
『楽しい山の羊飼い』の中には、
胸に秘めたような音符が現れ、
集中し、思索的で内的凝集の産物である。」

前のCDの解説では、このあたり、
作曲家は戦争後遺症に悩んだとあったが、
ここでは、いきなり仕事に追われ出している。

「ロンドンに戻ってみると、
やるべきことがたくさんあった。
1920年、ヴォーン=ウィリアムズは、
新しい校長、ホフ・アレンの招きで、
R.C.Mの教員に加わり、
アレンの後任として、
バッハ合唱団の指揮者の地位を引き継いだ。
レイス・ヒル音楽祭の復活は、
当時のもう一つの重要な懸案事項で、
民謡協会の仕事も忙しかった。
1922年、裕福なアマチュア音楽家の招きで、
彼はアメリカを訪れ、
『私はパトロンなどいらない。気が滅入るからね』
と、『田園交響曲』の公演を指揮した。
これらの活動の影で、彼は作曲にも勤しみ、
古い作品を改訂し、新作を書いた。
彼の音楽は、今や広く関心を惹き、
ますます議論の種となったことからもそれが分かった。
彼の多くの新しい友人には、
若い指揮者のエイドリアン・ボールトがいて、
たちまち、彼の最も共感豊かな解釈者になった。
国際現代音楽協会の新設も1920年代のことで、
そのヨーロッパ音楽祭で、
彼の作品のいくつかが演奏され、
ザルツブルク、ヴェネチア、プラハ、ジェノヴァなどでは、
この機会に彼の音楽が初めて演奏された。」

音楽祭があって、そこから知名度が上がる、
というのも、現代の感覚に近いものがある。

という事で、これまで聞いていた、
「第3交響曲」のあたりまで読み進め、
この有名だが、まだ未知だった作曲家の、
円熟までの道のりを知ることが出来た。

得られた事:「ヴォーン=ウィリアムズは、シャイで神経質な性格をぶっきらぼうな仮面で隠していた作曲家であったが、その素晴らしいヴィジョンを作品にする技法に関しては、常に研鑽を続けていた。」
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by franz310 | 2013-08-03 21:34 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その385

b0083728_22592547.jpg個人的経験:
今回聴くCDは、作曲家の夫人が、
解説を書いていることが興味深い。
「第3」の演奏は、繊細、流麗であるが、
気になる「第4」に関しては意義がある。
レナード・スラットキンといえば、
アメリカ近代の作品の
すぐれた紹介者であると共に、
名指揮者、名ヴァイオリニストの
両面で多くの名演を残した
フェリックス・スラットキンの
子息ということで、
優秀な血筋の人としても知られる。


そんな彼が英国のフィルハーモニア管弦楽団を指揮し、
1990年代に、RCAビクターに録音した、
ヴォーン=ウィリアムズのシリーズは、
当時、まだ珍しかったこの作曲家の交響曲を、
すべて録音したことでも記憶に残るものであった。

表紙デザインは、
いかにも、英国のジェントルマンの雰囲気で、
スーツ姿で、パイプまで加えた
ヴォーン=ウィリアムズの白黒写真を、
落ち着いた紫色でデコレーションしたものだ。

背景の煉瓦造りの家屋も当時というか、
その土地というか、いずれにせよ、
この作曲家の音楽の背景のようなものを感じさせて、
興味深く、ピンクで仕切られた、
文字のレイアウトなどもしゃれている。

が、肝心の作曲家の表情は、
怒っているのか笑っているのか、
澄ましているのかよく分からない。

この前聴いた、ハンドリーのCDでは、
解説に、多くの人々が感じたことが、
必ずしも、作曲家の意図とは
一致していなかった事が書かれていたが、
今回の解説も、ちょっと気をつけてかかりたい。

というのも、作曲家の夫人であった、
ウルズラ・ヴォーン=ウィリアムズ
(1911年3月15日-2007年10月23日)
が書いているからで、
おうおうにしてこうした身内の書いた文章は、
美化されたり、正確性を書いたり、
書いた本人の都合の良いように、
曲解されている場合が多いからである。

そして、何十年か経つと、
すべて権威的な事実になってしまうだろう。
例え、それがCDの付録のような文章であったにせよ。

ヴォーン=ウィリアムズは1872年の生まれである。
ウルズラは最初の妻が死別して結婚した2番目の妻だが、
(ウルズラも軍人と結婚していて死別した)
実に40歳近く年が離れている。
ここに収められた「第3交響曲」や「第4交響曲」
が書かれた1920年から30年代といえば、
彼女が子供であったり、作曲家と知り合う前であったりで、
何故、彼女の文章で、これらの作品を味わう必要があるのだろう、
と悩ましいではないか。

出だしの、『まさしく、戦時中の音楽さ』と、
ヴォーン=ウィリアムズの言葉が紹介される所から、
私は、「またか」という気持ちになる。

「『エコワブルで私は毎晩のように
救急車で高い丘に登った。
そこは、コローの絵のように素晴らしい
日没の眺望が見えるところだった。
みんなが想像するような、
子羊が跳ね回っていたわけではないのだが。
そんな時に、この音楽の大部分が出来たのだ。』
(1938年のUVWへの手紙から)
このような、あるいは、
夕景の中のラッパの思い出は、
負傷兵を集めて野戦病院に運ぶ、
救護兵として過ごした数か月について、
RVWが語ったすべてである。」

が、このCDは、戦争交響曲とされる、
「第4」だけでなく、「第3」も収録されていて、
この書き出しは、「第3」の解説に続いている。

「田園交響曲」として知られる、
「第3交響曲」の書き出しとしては、
意外にも思えるかもしれない。

なぜなら、この交響曲は1921年に完成されており、
第1次大戦から数年以上経過しているからである。

それにしても、自分に来た手紙、
しかも、作曲されてから17年も経った時点での
どのような文脈で出て来たかも分からない1節を、
出してくるところなどが、
私には、どうも、不信感を抱かせるたりもする。

「彼はもう42歳になっていたが、
戦争が勃発するとすぐ、
王立陸軍医療隊の志願兵として入隊し、
隊の誰よりも年配だった。
英国での訓練の後、
彼はフランスやトルコのガリポリ半島に派遣され、
王立駐屯砲兵隊に入り、
再び、フランスに送られた。
休戦の後、彼は第1英国派遣陸軍の音楽監督となり、
1919年初頭に復員し英国に帰るまでその職にあった。
彼の創作生活のうち、このような長い中断の後、
戦時中に殺されたたくさんの友人を失って、
RVWは、どうやって仕事に復帰して良いか分からず、
自身の創作が、こんなにも長い間抑圧されて、
生き延びられるかも分からずにいた。」

なるほど、戦争が終わったからと言って、
ほいほい作曲が出来たり、演奏が出来たりするわけではない。
このあたりの事情、私には想像力が欠けていた。

伸びやかで幻想的な「第3交響曲」も、
ささっと書けたわけではなかったのである。
さすが、身内の人が書く内容は違う、
といつしか術中にはまっている。

「幸いな事に戦前に書いた作品に
改訂が必要であることを彼は発見し、
それで創作生活のパターンを取り戻すことが出来た。
彼の古くからの友人、ホフ・アレンが、
王立音楽院の院長の座をスタンフォードから引き継ぎ、
生き生きとした才能ある若い世代や、
出征していていくぶん年配のパトリック・ハドレーや、
イゴール・ガーネイを教えるために、
RVWを作曲科の教師に招いてくれた。」

この記述も教えられる。
やはり、それなりの環境が整わないと、
85歳まで交響曲を書いていたRVWのような大家ですら、
作曲をすることはできなかったのである。

「彼は『田園交響曲』を。除隊後、2年で書いた。
1921年6月に完成され、
初演時の彼のプログラム・ノートは、
『この交響曲のムードは、タイトルが示すように、
二、三のフォイルテッシモ、いくつかのアレグロしかなく、
ほとんど全体的に静かで瞑想的である。
本当に早いパッセージは、
第3楽章のコーダにしかないが、
それもすべてピアニッシモである。
形式の上では、古典的なものに則っており、
4つの楽章からなる。』」

この交響曲は、日本では、非常に愛好されているが、
私も、RVWの交響曲で最初に聞き入ったのは、
この曲であった。
確かに全編が静かでなだらかな作品なので、
第3楽章のリズミックな音楽が、
なくても良いと思ったくらいであった。

最初に、スラットキンの演奏に文句を書いておいて何だが、
この第3楽章は、抑制が聴いた表現で悪くない。

この交響曲、長すぎず、うるさすぎず、
LPでも再生がしやすかったが、
この楽章の金管の咆哮だけは、
ダイナミックレンジぎりぎりの感じがした。

スラットキンの演奏は、
アメリカ出身の指揮者ということから連想される、
飛び跳ね系の表現ではないことが好ましい。

この一般的には、ここぞと張り切って、
オーケストラのヴォルテージを全開にする、
やかましい(やかましくなりがちな)第3楽章も、
重心を低くして、根を張ったような曲作りで、
落ち着いて聴ける。

「田園交響曲」第1楽章から、
ヴァイオリン独奏(ホフ・ビーン)の、
いくぶん、線が細いながら美音が線を紡ぐところからして、
繊細、美麗な曲作りで嬉しい。

ちょっと言い過ぎかもしれないが、
名弦楽四重奏団を率いていた父の影響か、
室内楽的な側面を生かした演奏で、
独奏楽器が浮かんでは消えるのに聞き入ってしまう。

刻々と変わる陰影も良く、
盛り上がりにも嫌みがない。

今回、この解説を読んで聴き直し、
第3楽章のコーダが、
軽く跳ね回る妖精のような音楽であることを、
改めて確認した。

「緩徐楽章の長いトランペットのカデンツァは、
戦場に夕陽が近づいた頃、
ラッパを吹き鳴らした記憶である。」

このような断定的な表現が許されるのも、
作曲家の夫人ならではの特権かもしれない。

第2楽章は、しかし、最初はホルンの独奏で始まる。
この楽章などは、もの悲しさをたたえて、
墨絵のような風情であるが、
何となく、葬送の歩みにも思え、
確かに、戦場の夕暮れと言われても納得するしかない。

私は、ずっと、雲が流れていくような音楽だと思っていたが、
作曲家は、上を見ていたというより、
丘から、下を見下ろしていたのだろうか。

9分の曲のちょうどど真ん中くらいに、
この兵隊さんのトランペットは、
空しく戦場に響き渡る。

マーク・デイヴィッドという人の名前が出ている。
ホルンはナイジェル・ブラックである。

「終楽章のソプラノ独唱は、
『遠い昔の不幸な事、昔々の戦争』の木霊に聞こえる。」

この部分は、「seems」とあるので、
さすがの夫人も、作曲家から、
正確な言質を取れなかったものと思える。
しかし、私は、今の今まで、この終楽章が、
戦争の木霊と考えたことはなかった。

夫人は、さらにそれを強調しているから、
なるほど、そうした鎮魂の音楽だろうか、
などと思えてくるのだが。

「RVWのたくさんの友人や同僚の音楽家が亡くなった、
フランスの戦場は、さらに、クレシーやアジャンクールがある。
多くの作曲家たちが、経験や想像力、感情によって音楽を書いたが、
それを思うたびに、メンデルスゾーンの言葉、
『音楽は言葉より正確な言語である』が思い出される。
いかなる言葉による注釈を越えて。」

この解説、意外に節度をわきまえて、
最後は、音楽が語るに任せている。
が、第2楽章で、作曲家は下を見下ろしていたのか、
夕陽のあたりの雲の流れを見ていたのか、
どちらかも分からないのが、
音楽の限界でもあろう。

が、さんざん、語った挙句なので、
負け惜しみのようにも言い訳のようにも思え、
出しゃばりか、控えめか分からない。

この女性は、単に作曲家の結婚相手で秘書だっただけでなく、
詩人でもあったというから、一筋縄ではいかないのである。

このスラットキンの演奏では、
ソプラノ独唱は、何と、スラットキンのおひざ元、
セントルイスのパウエル・ホールで、
1991年11月14日に別個に録音されており、
交響曲本体は、同年6月7日、8日、
または、11月29日に、
英国のワットフォード・タウン・ホールで録音されている。
オーケストラが声楽なしで演奏し、
その後、声を重ねたのであろうか。
その方が簡単そうだし。

この終楽章もきわめて好感が持てる曲作りで、
楽器の分離がよい、遠近感のある録音が嬉しい。
ソプラノ独唱も、別録音とは思えないほど、
自然に響いてくる。

録音時、オーケストラには、
この声が聞こえなかったのだとしたら、
ちょっとかわいそうな感じもする。

このCDの冒頭には、
「グリーンスリーヴズの主題による幻想曲」
が入っているが、今回は、この曲はパス。

早く、謎の、「第4」について読みたい。

「交響曲第4番は、RVWの他の8曲の交響曲より、
より思索的な主題の作品である」と書き出され、
単純に、この曲は、第二次大戦の予告である、
などと書いてない所が、まずは安心。

「エイドリアン・ボールトが、
BBC交響楽団を指揮した、
クイーンズ・ホールでの初演は、
1935年4月10日だった。
この後、彼は、作曲家に、
『あなたがこの交響曲に感じたものは、
すべて表現できたと思います。
もし、演奏にインスピレーションがあったとしたら、
作品の中にそれがあったのです』。
この作品を献呈されたアーノルド・バックスを含め、
多くの音楽家がコンサートに居合わせ、
喝采は長引き、興奮が続いた。
しかし、批評家たちは、一般聴衆と同様、
その意見を2つに分けた。」

何だか、音楽家と聴衆を分けた点がいやらしい。
その道に通じた人には分かったようだが、
それ以外は、分かってなかった、
と言われているようでもある。

「あるものは、民謡の世界や、
『ひばりは舞い上がる』の世界からの、
危険な旅立ちだと考え、
他のものは、『Job』(オーケストラ版初演は1930年)や、
ピアノ協奏曲(1933年)の発展と見た。」

確かに私も、前者に入っていた事は事実なので、
こういった書かれ方をされて不愉快なのである。

「この作品は、情熱、興奮、強さを特徴とする作品であり、
フーガのエピローグは、感情の振れ幅の全域を、
荘重な高貴さと共に描いている。」

前半は肯けるが、後半は、いきなり終楽章の話に飛んで、
いささか不自然である。
しかし、「戦争交響曲」とは書いていないのでありがたい。
むしろ、感情世界の産物だと、
夫人も認めていたようだ。

「問題は、音楽が頑固に主張する『意味』であるが、
作曲家は、コンサートの予告に、
それは戦争、または、深い個人的な衝突、
あるいは、批評家が思い描いたであろう何であれ、
書かれていることに苛立ちを見せていた。」

「戦争交響曲」のレッテルはないが、
他の解釈もすべて否定して、
まったく取りつく島のない解説になって来た。

そして、以下の文章になると、
怒りが込み上げてくるばかりである。
個人的な創造活動に、他人が土足で踏み込むな、
ということであろうか。
芸術家のおごり高ぶりが感じられる一節である。

「いかなる者も、多くの心と精神を縫い合わせ、
技術的表現に至る多くの糸、
リハーサルで他の人の耳に入る前に、
彼だけが知っていた音を
議論されたくはない。
この交響曲に対する彼のコメントは、
『私はそれが好きか知らないが、
それは私が意図したことである』だった。」
この最後の言葉は、いつも、この曲をはぐらかすための、
名文句となった。
夫婦して、この印籠が目に入らぬか、
といった感じである。

そして、この女性は、いかにも、
一心不乱に、何かを隠ぺいしようとしている風に思える。

「戦争の脅威にヨーロッパが陰った時期に書かれ、
大学生のように歴史書を読み漁った男によって書かれた、
こまごまとした事ではなく、
事実、言葉にするには正確にすぎ、
俗世界の限界や言葉の単純さを超えた、
強い意志の証しなのである。」

戦争ではない、と書いておきながら、
戦争の予感の中、歴史書を読み漁った、
と書いてあるのが滑稽でもある。

それなら、やはり、戦争交響曲ではないか。
そもそも、歴史書を読み漁っていた、
と言われる時代、彼女はまだ、
作曲家と出会っていない。
誰から聞いたのか、その出典の明示がない。
「私に送った手紙による」といった、
必殺技も出てこない。

それにしても、このような問答無用の、
激しい言葉を連ねた終わり方の解説は、
実に異常としか言いようがない。
私は、ますます、この「第4交響曲」が気になって来た。

ウルズラ・ヴォーン=ウィリアムズ(1993)とあるが、
この96歳まで生きたスーパー婆様が、
82歳で書いた文章ということか。

ここまで読んで、最初に私が、このCDの演奏は、
「第3」は良いが、「第4」はどうも、
と書かざるを得なかったのにも、
理由があるような気がしてきた。

ウルズラ女史の解説が載っている以上、
彼女は、この演奏を聴く立場にあったはずだ。
こんな人が、解説は書くけど、
演奏には興味ないわ、などと言うとは到底思えない。

この演奏は、ヴォーン=ウィリアムズ夫人の
息がかかった演奏と考えて差し支えないだろう。

第3交響曲が、比較的、丁寧、繊細な表現なのに対し、
第4交響曲、特に第1楽章は、
いかにも、快速で飛ばして、即物的。
隠ぺいに一役買って、ごまかそうとしているように思えるのは、
この解説の印象そのままである。

第3交響曲は、1と1/3ページ費やされているのに対し、
第4交響曲は、2/3ページほどの記述しかない。
そもそも、4つの楽章のうち、
名指しされたのは終楽章だけ。

また、そう考えると、「第3交響曲」が、懐かしくも美麗なのは、
これまた、夫人のこだわりそのままのようにも思えてくるではないか。

第2楽章は、一転して、思わせぶりなほど、
荘重な表現で、他の演奏で感じる女々しさがまるでない。
ショスタコーヴィチの音楽に通じるような無力感は、
おそらく、夫人の好むところではない。

「強い意志の証し」と書き飛ばしたが、
「it is a personal statement of great strength」
とあるから、
「お前らとは違う、すごく強い男の、
あんたらレベルには分からない
(分からなくて良い)個人的表明」
と書いているようにも思える。

この悩ましい音楽を、スラットキンは、
よくもここまで、思索的な音楽に鍛えなおす事が出来たものだ。

第3楽章は、「君の嫌な面が出ているね」と、
作曲家の友人が語った音楽だが、
ここでも、アメリカの摩天楼の下を行きかう、
目まぐるしいトラフィックのようにさばいている。

第4楽章は、夫人が唯一、言及した楽章で、
「感情の起伏」と「荘重な高貴さ」がキーワードである。
確かに、卑小なおどおどしたメロディが出てきて、
それが、自信たっぷりの
冒頭のファンファーレ風の楽想や、
コラール風の強奏と対比されるが、
その意味ではすごい起伏のある音楽である。

ファンファーレ風は、まさしく荘重に演奏され、
ちょいこまかする部分は、比較的スマートに、
あっさり表現されているので、
「荘重な高貴さ」が際立った表現となっている。

さすが名家の2代目スラットキン、
世渡りがうまい、と書いたら書き過ぎだろうか。
私の持つ、この曲のイメージから飛躍して、
スマートでスポーティなモニュメントを築き上げている。

もちろん、夫人の言うことが正しいのかもしれないが、
あまり素直になれないのは、
私の思い込みが激しすぎるからだろう。

得られた事:「この曲は、あんたらは分からんでも良い、と問答無用の名解説。」
「作曲家の未亡人がからんだCDでは、夫人の思惑に沿った解釈になりそうで、何らかのバイアスを感じる。」
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by franz310 | 2013-07-20 23:01 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その384

b0083728_223898.jpg個人的経験:
ヴォーン=ウィリアムズの、
「第6交響曲」と言えば、
表題もメロディもない音楽、
という印象が強くて、
ちょっと苦手な作品だったが、
バルビローリのライブを聴いて、
少し、興味が出て来た。
特に、第1楽章の緊張の中、
浮かんでは消える、
田園情緒風の情感が忘れがたい。
それが、無残に引き裂かれる
「戦争交響曲」かもしれぬ。



エルガーの交響曲で、引き締まった、
充実の限りを尽くした演奏を聴かせてくれた、
ハンドリーが、演奏したCDが、
HMVクラシックスから安く出ていたが、
これで、もう少し復習してみたい。

一度、苦手意識を持った音楽作品に、
何とか、見直しの機会を与えてくれるのは、
演奏者への信頼が何よりだ。
こうした機会に、復習しておかなければ、
二度と、聞き直す機会はないかもしれない。

うまい具合に、これまた、あまり聞きたくない、
「第4交響曲」も含まれているではないか。
ロイヤル・リヴァプール管弦楽団の演奏。

ハンドリーは、エルガーの長大な交響曲を
素晴らしい演奏で紹介してくれたから、
この難解な作品を分かりやすく聴かせてくれるに相違ない。

私は、昔、ボールトだかのCDで、
これらの曲のカップリングのものを
持っていたような気がするが、
手放してしまったようだ。

この豪快で、ダイナミックレンジが広く、
音響効果が重要な音楽を聴くには、
録音も今一つだったかもしれない。

今回聴くCDの表紙は、
サミュエル・パルマ―(1805-1881)作、
「ティンタジェルの城」という絵画で飾られているが、
前に聞いた同じハンドリーのCDは、
ジョン・モグフォード(1821-1885)作、
「ティンタジェルの日没」という絵画が表紙だった。

しかも、この二人の描いた絵画のタッチは、
やたら似通っている。
よほど、ハンドリーはティンタジェルが好きなのか、
19世紀にはティンタジェルの主題が流行ったのか、
いろんな妄想が沸いてくるが、
ここでは深追いしない。

ヴォーン=ウィリアムズより10歳ほど若い、
アーノルド・バックスの交響詩に「ティンタジェル」というのがあり、
これは、かなりの傑作であった。
が、それは、このCDとは何ら関係がないように思える。

実は、バックスは1919年にこの作品を書いたのだが、
このコーンウォールの城を訪れた時、
ハリエット・コーエンという女流ピアニストを伴っていた。
このような廃墟をはるばる訪れるのであるから、
むろん、彼らは愛し合っていた。

ヴォーン=ウィリアムズは、
何と、生涯を通じてこのピアニストと親密な関係にあったそうで、
1931年のコーエンのアメリカ・ツアーに際しては、
「アメリカの人があなたを愛しすぎて、
あなたは帰ってこないのではないか」などという、
悩ましい手紙を書いているらしい。

彼が書いたピアノ協奏曲は、
あまり知られていない作品だが、
コーエンに捧げられており、
1933年の作品である。

そして、今回、聴く第4交響曲は、
1931年から1934年にかけて作曲されている。
作曲家は、1872年の生まれであるから、
コーエンにのろけたのは、
60歳の頃ということになる。
ちなみにコーエンは、1895年の生まれであるから、
30代後半の女盛りである。
(逆に、バックスは初心な20代前半の彼女を連れ歩いていたのか。)

このコーエンというピアニスト、
バルトーク、アイアランド、ブロッホといった、
多くの作曲家に愛されたようだが、
写真で見ると、気位の高そうな風貌で、
実力もあったのか、40代で早々と、
デイムの称号を受けている。

話がそれすぎたが、
今回のCD、そのような「煩悩じいさん」たる、
ヴォーン=ウィリアムズに思いを馳せて聴くと、
かなり、興味もわいてくるというものだ。

私は、作曲家のこうした一面を知らずにいて、
ラヴェルの弟子でありながら、
師のような色彩的な音楽は書かず、
頑なに民謡や中世の音楽を調べながら、
田園情緒に浸りつつ、90歳近くまで長生きした作曲家、
みたいなイメージで満足していた。

コーエンに関する逸話や手紙は、
このようなイメージを一撃で破壊してくれた。
ティンタジェルつながりで、いろいろ調べた結果である。
ちなみに、ティンタジェルは、アーサー王伝説にからみ、
必然的に「トリスタンとイゾルデ」の愛の隠れ場を想起させる。

このようなイメージは、
隠者のようなバックスにはふさわしいが、
頑固一徹な感じで9曲の交響曲を生涯をかけて並べ、
功成り名を上げたヴォーン=ウィリアムズには、
ちょっと不釣り合いだと思っていた。

このCD、ブックレットもぺらぺらな廉価盤であるが、
アンドリュー・バーン(Andrew Burn)という人が書いた、
解説がついている。

この中に、私の好きな一節も出てくる。

「『この曲が好きかどうかはわからないが、
私が書きたかった曲ではある』は、
ヴォーン=ウィリアムズの『第4交響曲』に対する意見である。
この音楽は、1931年から34年にこみ上げてきたもので、
主に怒りと不協和音を性格として持つものに仕上がったが、
音楽的構成が熟達したものである。
ある人は怒りを表すべき外的要因を見出し、
ボールト指揮BBC交響楽団によって
1935年に行われた初演のすぐあと、
ファシズムの不吉な台頭、
来たるべき衝突を憂えたものと考えた。
一方で、作曲家は、この作品は、
『タイムズ』に書かれた、
典型的なモダンな交響曲に関する記事に
張り合うように書かれたものだと主張している。
しかし、この作品が、真の説得力を越えた何かや、
内的な音楽的ダイナミズムの創意を反映しているにせよ、
この作品は、決断力あり、心温かく、
ユーモアと自己省察の人、それでいて怒りに駆られやすい、
ヴォーン=ウィリアムズその人の個性を表している。
すぐにこの事に気づいた人は少なく、
ある洞察力ある友人は、
『スケルツォには、君の嫌な一面が出ている』
と書き送った。」

この部分に、私は非常な興味を覚えた。
もちろん、その人が作った音楽であるのだから、
その人となりが出てもおかしくないが、
嫌な所が出る部分が興味深い。

が、チャイコフスキーは、
音楽からして神経質で、ねちねちしていそうだし、
モーツァルトは一面軽薄であり、
シューベルトは、いささか、無頓着かもしれない。

この解説で知った、
作曲家の性格の弱点が、図らずも浮き出た
とされるスケルツォを聴いていると、
田園情緒に逃避せずにはいられなかった、
この作曲家の弱さみたいなものが感じられる。

「密度とエネルギーに満ちたオープニング以外は、
この交響曲には数多くの情緒豊かな瞬間がある。」

確かに、この交響曲は、最初の絶叫からして、
聴きたくなくなる感じの音楽である。
が、それを耐えるべし、と解説者は言いたいのであろう。
以下、解説者が書き上げた、「情緒豊かな」部分を中心に、
聴いて行こうではないか。

Track1.第1楽章、アレグロ:
「第1楽章の凝縮された情熱的な第2主題、
第3の主要主題の展開によるその謎に満ちた終わり方」
が聴きどころだとある。

怒りのやりどころを探すような主題で始まり、
警告のような音形が出る冒頭は、
私にとっては、
とばっちりがこちらに来ないか、
などと祈るばかりの音楽である。

第2主題は、リズミックな木管に乗って、
弦楽が歌うなだらかなものだろうか。
これは、非常にヴォーン=ウィリアムズ的で、
これだけ聴けば、非常に美しい。

第3主題は金管による勇ましいものであろうか。
進軍を表すように勇壮だが、
どこか悲壮感に溢れている。

このように、かなりいろんな材料が詰め込まれた交響曲で、
各部各部は非常に魅力的な瞬間を持っているが、
冒頭の凶暴な動機が現れては、台無しにしていく。

そんな中、蘇ってくるメロディも高潔であり、
よく聞くとかけがえのない瞬間を持っているが、
何故か最後は、まどろむような、
あるいは空中を浮遊するような静寂の中に消えて行く。
たしかに謎に満ちている。

Track2.第2楽章、アンダンテ・モデラート:
この悲しげなメロディは、虚無感を交え、
かなりショスタコーヴィチ的である。
この静かな楽章が、この曲の中では一番長く、
凶暴なテーマも現れず、聴きやすい。
ここに何か核心的なものがあるのだろうか。
延々と、続くモノローグのような音楽で、
解説には、
「悲しみが織り込まれた悲歌」とある。

確かにそうなのだが、何だか悪夢のような音楽で、
悲しみより、恐怖とか慟哭に近い。
ショスタコーヴィチが好きな人は聞くべきである。

ちなみに、1930年代というと、
ショスタコーヴィチは、後半になって、
ようやく、第4、第5の傑作に手が出る感じ。
ヴォーン=ウィリアムズは、むしろ、先達なのであった。

Track3.第3楽章、スケルツォ:
これこそ、友人が見出した、
ヴォーン=ウィリアムズの嫌な側面で、
確かに、意地悪そうで、いじけ虫みたいな音楽。
これまた、ショスタコーヴィチ的であるが、
ショスタコなら、もっと、どんぱちやりそうだ。
そうだ、ヴォーン=ウィリアムズは、
もっとめちゃくちゃにやればよかったのだ。
ティンパニが連打されているが、
ショスタコなら、打楽器奏者が、
あちこちを歩き回ったり、立ったり座ったりする音楽にして、
もっと聴衆の喝采を浴びたことと思う。

解説には、
「おどけたようなスケルツォのトリオ部のユーモア」
を聴きどころに上げているが、
これにも同感である。

Track4.第4楽章、終曲:
「ブラスのコラールから不協和音を積み上げて、
クライマックスを築く、エピローグのフガート」を聴けとある。

スケルツォから流れ込むピエロのような音楽である。
ショスタコーヴィチなら、スターリンの肖像だ、
とかいう説で、もっとみんなの注目を集めただろう。

戯画的で、無窮動風で堂々巡りみたいな音楽が、
だらだら続くが、何だか様々な音形が交錯して面白い。

そんな中で、6分くらいで、コラール風のラッパ出た。
かなり錯綜感ある展開で、このあたりの交通整理は大変そうだが、
さすが名手、ハンドリーは、落ち着いてさばいて行く。
小太鼓もさく裂が続き、ショスタコもかくやの大混乱を、
ばん、と締めくくる。
もっと、意味ありげに長々とやれば、
もっと日本で人気が出たはずだ。

ショスタコーヴィチの場合、本人のパーソナリティが、
恐怖の時代にパッケージされていて、
ちょっと良くわからない感じになって、
ある意味、得をしている。

次は、第6交響曲。
「ヴォーン=ウィリアムズのキャリアを通じて、
その交響曲が何を意味しているかを、
批評家たちは探っている。
『第6交響曲』は、
核戦争の恐れが予告されたものと予想された。
しかし、作曲家は、これを激しく否定、
苛立たしげにコメントしたのは、
『単に書きたいものを書いただけ』。
1944年から1947年にかけて作曲され、
緊密な構成で書かれ、楽章間はつながっていて、
長調と短調の緊張関係を追及していて、
あいまいな4thのintervalがエネルギーを増している。
再びボールト指揮のBBC交響楽団による、
1948年の初演で、この交響曲は好評を博した。」

ボールトは、このように、ヴォーン=ウィリアムズと、
最も緊密な関係で結ばれた指揮者であったようだが、
ハンドリーはボールトの影響で指揮者になった人である。

Track5.アレグロ:
「長調と短調の和声の諍いがつばぜり合いし、
第1楽章は、狂乱じみた活気に突入する。
テンポの変化を伴って、対照的な楽想が現れ、
第1のものはぎこちなくトランペットで、
第2のものは民謡風な抒情的なものがヴァイオリンに出る。
ドラマの展開が静まると、
民謡風の主題が晴朗な弦楽で回帰するが、
交響曲の冒頭のように押しつぶされ、
主要な不協和音がかえってくる。」

序奏は粘りがある方が「第6」と、
「第4」と、ほとんど同じのような感じ。

最初から荒れ狂っているので、
第4交響曲と似たような作品だと思っていたが、
第4は勇ましい第3主題まであるので、
実は、かなり違う内容だと考えるべきだろう。

気合いの入りまくった演奏で、
アタックがものすごい。
音の塊の投げつけられ方も、
しかも、ぐちゃぐちゃしておらず、
スマートな感じなのが良い。

解説に書かれたように、
丁寧に聞き直してみると、
第1主題は、よっぱらったような、
千鳥足の音楽で、「第4」のような、
シリアスさはない。

第2主題は、共に田園的だが、
「第6」の場合、どれもこれも、
「第4」よりも自由で即興的、
アメリカナイズされた音楽に聞こえる。

気難しいのは、序奏だけである。

この開放的でのどかな広々とした、
第2主題が、序奏のテーマが蹂躙する様は、
いかにも不気味である。

Track6.モデラート:
「緩徐楽章は、不吉な三拍子で、
忍び歩く半音は寒々として脅迫的である。」
居丈高なブラスのファンファーレのような楽想は、
次の部分の基礎となる。」

この「ファンファーレ音形」とは、
ファンファーレというには寸詰まり感の強いもので、
ぶすぶすと燻った爆発間際のエンジンのようだ。

その後、むにゃむにゃと意味不明の、
瞑想的、というか、虚脱感に満ちた部分が来るが、
このような状態から、
以下のような恐怖の表現がこみ上げてくると、
完全にショスタコーヴィチの音楽そのものである。

「ファンファーレの音形と組み合わされ、
持続リズムがかえってくると、
4回の凝集したクライマックスが来る。
痛切なレクイエムのような効果を持つ、
コール・アングレが出て、
全てが終わって残っているのは、
無味乾燥の感情の抜け殻である。」

小ファンファーレは、冷酷無比な、
機銃掃射みたいにも思える。
したがって、残っているのは死体の山、
無味乾燥だけが残ってもおかしくはない。
コール・アングレは、
そこから這い出して来た霊魂のような響き。

Track7.スケルツォ、アレグロ・ヴィヴァーチェ:
「スケルツォは嘲笑の調子のもの。
クロス・リズムで対位法的な素材が、
次々と起こる大混乱を繋ぎとめている。」

先の掃討戦の後、この諧謔味は、
まるで笑えない。

「トリオは、オーケストラの前を、
テノール・サクソフォンが顔をしかめて通り過ぎ、
残忍なジャムセッションのようだ。」

とにかく、まったく人間味の感じられない大騒ぎで、
それでも足りないとばかりに、
耳をつんざく不協和音や打楽器のさく裂は、
まったくもって、精神衛生上よろしくない。

ショスタコーヴィチでも、
一連の戦争交響曲で、
ここまで残忍な描写はしなかったのではいか。

Track8.エピローグ、モデラート:
「初演の後で多くの意見が出たのは、
ミステリアスなエピローグのせいだ。
ヴォーン=ウィリアムズが述べた、
『テーマの呼吸』と呼んだ、
静止した不思議な景観の上を縫うように進む、
全編ピアニッシモである。」

この楽章は、この猛暑の夏に聞くのは、
辛い音楽である。
扇風機の音にかき消されて、
良く音楽が聞き取れない。
おそらく、音楽プレーヤーで、
電車に乗っていても、
カーステレオで高速を走っていても、
何も聞こえないのではないか。

「テーマの呼吸」は、
まるで雲の上の傍観者のように、
荒涼たる風景の上から鳥瞰していく。

このような楽章が、全曲で一番長く、
しかも、下記のような意味深、
あるいは思わせぶりな寸言が添えられているのだから、
もうかなわんと言いたくなる。

「この異常で独創的な楽章に、
音楽外の視点が何か手がかりがあるとすれば、
ヴォーン=ウィリアムズがマイケル・ケネディに示唆した、
『我々は夢と同じ素材でできている。
そして我々のちっぽけな人生は眠りと一緒に回っている。』
という、『テンペスト』において、
プロスペローが最後に語る言葉だけだ。」

ドミトリ・ショスタコーヴィチ(DS)と、
ヴォーン=ウィリアムズ(VW)の交響曲を比較すると、

1934年、VW:第4交響曲
1936年、DS:第4交響曲
1937年、DS:第5交響曲
1939年、DS:第6交響曲
1941年、DS:第7交響曲
1943年、VW:第5交響曲
      DS:第8交響曲
1945年、DS:第9交響曲
1947年、VW:第6交響曲

という関係である。

ショスタコーヴィチの「第4」が
「戦争交響曲」でないように、
ヴォーン=ウィリアムズのそれも、
「戦争交響曲」ではなかったのに、
聴衆が誤解したせいで、
先に、ショスタコーヴィチの方が、
本格的な「戦争交響曲」を書きならべ、
敷き詰めてしまった感じがある。

勇ましい音楽も、虚脱の音楽も、
もはや書く意味はなくなり、
残された音楽は廃墟になるしかなかった。

今回、ヴォーン=ウィリアムズの、
「第4」と「第6」の2曲を聴き比べて、
私は、下記のような印象を持った。

得られた事:「ヴォーン=ウィリアムズは、私小説的な『第4交響曲』を聴衆に間違って解釈され、『第6』をやけっぱちの返礼のように作曲した。」
「あるいは、『第4』には、誤解から守るべき理由があった。」
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by franz310 | 2013-07-13 22:04 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その383

b0083728_141830100.jpg個人的経験:
亡くなる5年前、
1965年のバルビローリが振った
マーラーの第2交響曲「復活」は、
その前年の有名なスタジオ録音、
マーラーの「第9」などより、
遥かに燃焼度の高い演奏であった。
オーケストラは同じベルリン・フィル。
そもそも気迫とか、
曲に迫る鬼気迫る雰囲気や、
めりはりのようなものがまるで違う。
では、同様に、表紙写真がかっこいい、
ライブでのブラームスはどうなのだ。


実は、私が生まれて初めて、
ブラームスの「第2」を聴いたのは、
東芝EMIから出ていた、
廉価盤シリーズにあった、
ウィーン・フィルの演奏のものであった。
もちろん、指揮はバルビローリである。

が、この有名なオーケストラを振った演奏は、
まったく私には合っていなかったようで、
ブラームスの交響曲の中で、私が、この曲を、
最低ランクに評価していた時代は長かった。

その後、私は、ブラームスの「第2」を、
日本のオーケストラの実演で聴いて感銘を受け、
バルビローリって駄目だったのだな、
と痛感させられたのであった。

この発見はショックだった。
なぜなら、バルビローリのエルガーやディーリアスは、
私の記憶に刻印された名レコードだったからで、
また、バルビローリ、ウィーン・フィルのブラームス全集は、
泣ける演奏として、多くの人に語られて来た、
いわゆる「決定盤」の一つだったからである。

その後も、この演奏は高い評価がなされ、
音楽之友社のONTOMO MOOK、
クラシック不滅の名盤800
「20世紀を感動させた21世紀への遺産800タイトル」
にも取り上げられている。

ベルリン・フィルを感動させて録音した、
とされて、これまた、巷では評価の高い
マーラーの「第9」も同様の印象で、
(これも先のMOOKで取り上げられている)
作品の本質にむしゃぶりつくような表現が見当たらず、
えぐるような情感に不足する。

したがって、このバイエルンの演奏を集めた、
オルフェオのライブ・シリーズが20年前に出た時、
ケンペやクーベリックは聞きたいと思ったが、
バルビローリは聞きたいと思わなかった。

それは、何と言っても、
因縁のブラームスの「第2」が、
バーンとメインに据えられていたからである。

しかし、改めてこのCDを手に取ってみると、
1970年4月10日の収録と、
まさしくバルビローリの亡くなる3か月ほど前の演奏で、
しかも、マーラーのCDとは違って、
ステレオ録音とされている。

マーラーのドラマティックなライブを聴いた後、
あるいは、ライブのバルビローリは違うのではないか、
という期待が頭をもたげた。

私は、わくわくしながら、これを入手、
期待の中で、この演奏を聴き始めた。

解説のゴットフリート・クラウスも、
「20世紀の偉大な指揮者の中で、
イギリス人のサー・ジョン・バルビローリは、
与えられるべき評価に対して、
名声を得るのが比較的遅かった」
と書いているから、晩年になっての客演は、
さぞかし、期待の中で執り行われたのであろう、
と推察した。

Track1.
第1楽章:
冒頭の序奏の深々とした低音も、
スタジオ録音では感じられなかったもので、
続く主題ののびのびとした広がりも素晴らしい。
第2主題の楽器の受け渡しの分離なども、
かつて聞いたウィーン・フィルとの録音より美しい。

また、刻印していくようなリズムが特徴的で、
平明になりがちな作品に劇的なスパイスを与えている。
中間部の寂寥感も空気の香りを伝えるようだ。

展開部は遅く、先のリズムががりがり来て面白い。
とにかく、この曲には、豊かな広がりがないと、
まるで意味がないと思うのである。

第1交響曲の緊張からの解放、
「第1」で、ベートーヴェンを意識したブラームスは、
この「第2」では、シューベルトの傑作、
「大ハ長調」の広がりを意識していたとも言われる。

解説には、むしろ、ベートーヴェンが取り上げられているが。

「ヨハネス・ブラームスの『第2交響曲』は、
しばしばベートーヴェンの『田園』と関連付けて語られ、
『第1』のドラマティックな構成と比べ、
その牧歌的な性格と明るさが強調される。」

また、もう一つのこの曲の性格は、
第1楽章でも、田園に雲が流れるように、
時折、深い憂愁の影が差すのも事実。

「しかし、1877年に出版社に語った、
『スコアには暗い歎きが見え、
あまりに憂鬱にも思えるでしょう。』
このセンテンスは、主に、皮肉と見られ、
意識的に誤解を招くコメントと考えられてきた。
しかし、ブラームスのすべての音楽の、
暗い側面を言い当てている。」

バルビローリは、このあたりの表現も、
一面的ではなく、多層的な表現で聞かせる。
寂しげな木管の色彩に、明るい弦楽が交錯し、
コーダの何とも言えぬ、胸につかえたような
ホルンの呼び声の憧れとも諦観とも取れるため息の美しさ。

私は、この部分の情感を無視した演奏を聴きたくはない。
が、このCDでは、期待は十分に満たされる。
ウィーン・フィルとのスタジオ録音がどうだったか忘れてしまった。

Track2.
第2楽章:
この楽章の最初の重苦しい感じだけを取り上げれば、
「あまりにメランコリック」と自虐気味に書いた、
ブラームスの言葉は、まさしくその通りに思える。

青空は見えそうで見えない。
暗い雲は動きそうで動かない。
が、しかし、壮大な地平線の眺望には、
胸に迫る広がりが感じられる。

バルビローリの指揮は、小さな楽句ひとつひとつの、
躊躇いがちな表情を大事にしたもので、
めまぐるしくテンポも陰影も変化して、
耳を澄ますほどに、引き込まれるような音楽である。

長く長く引き伸ばされた歌もあり、
強烈にパンチの効いた慟哭あり、
この指揮者がマーラーの「第9」を得意にしていた事を思い出す。

バイエルン放送交響楽団の、応答性のよい機能性や、
バランスの良い色彩感が、バルビローリの思惑を、
適確に表現しているものと見た。

Track3.
第3楽章:
解説には、
「第3楽章は舞曲風の優しい形式をとっているが、
緩徐楽章の劇的展開が表面に現れたものだ」とある。
このシリーズの解説は、
指揮者の特徴とその聴きどころなどお構いなしのものが多いが、
これもそうである。

第3楽章をバルビローリがどう解釈したかなどはお構いなし。
単に、この楽章のリズミックな点と、
第2楽章との対比を書いただけだ。

が、第2楽章はなだらかではあるが、
充分に劇的だと思う。

この第3楽章は、かなり力技で聞かせる部分で、
舞曲ながら野暮になってはならないが、
バルビローリは、リズミックな部分と、
なだらかな部分の対比をたっぷりと取って、
ノーブルな味わい、というか、
やはり、多面性を生かしている。
ポルタメント風な処理も交え、
感情たっぷりである。

Track4.
第4楽章:
解説には、下記のようにあるが、
これでは、まるで、これまでの陰影豊かな、
抒情と侘しさの入り混じったような、
愛おしい音楽を否定しているような感じがしないか。

「最初の2つの楽章の、
柔らかく消えるような終わり方の鋭い対比が、
フィナーレとなっている。
それはしかし、節度を持って始まり、
突如として威勢のいい快活な、万全の輝きに移行する。
まるで、これまでの素材は、
この効果のためのようでもある。」

この「効果のためのよう」かもしれないが、
それだけではない。
バルビローリは、この威勢の良い楽章も、
単に突進したりはしていない。

さすが、バイエルンのオーケストラ、
金管を鮮やかに、しかも清潔に強奏させ、
推進力のある歓喜はあるが、
沈潜するような部分の表情をおろそかにしていない。
停滞寸前の内省的とも言える対位法進行には、
バルビローリの激しい身振りが垣間見えるようである。

この陽とも陰とも言えぬ複雑な自問自答を、
バルビローリは、実に大切に、割れ物を扱うように、
きめ細かくドライブして行く。

弦楽の刻み、ティンパニのさく裂、金管の興奮など、
実演ならではの生々しさがあって、
古いながらも、それを十分に捉えた録音が嬉しい。
音に広がりとジューシーな豊かさが感じられれば、
多少のデッドさはやむをえまい。

コーダも、節度を持ってコントロールされており、
オーケストラのためのショーピースとなることが防がれているが、
最後の音を引き延ばす長さの長いこと。
サー・ジョンは、この瞬間だけは、すべての音を、
これまでの入念なコントロールから解放してやったかのようである。

我々の心も、びゅーんと遠くに飛んでいきそうな、
聴いたこともない引き伸ばしに、
あるいは、オーケストラも、この指揮者とのひと時を、
終わらせたくない、といった意識があったのではないか、
などと考えてしまった。

ずっと聴かずにいたが、聴いてよかった名演奏であった。

では、バルビローリについて書かれた、
このCDの解説を読んで見よう。

「フランス人の母親と、
イタリア生まれの英国の音楽家の父親の息子、
1899年ロンドンに生まれた、
ジョバンニ・バティスタ・バルビローリは、
11歳の時、チェロの神童として世に出た。
バルビローリは、様々なオーケストラのチェロ奏者として
プロフェッショナルのキャリアをはじめ、
1925年に室内管弦楽団を創設、
後に、イングランドやスコットランドの
様々なオーケストラを指揮した。
1937年、ニューヨーク・フィルが、
彼をトスカニーニの後継者として選んだ。」

このあたり、多くのファンが知っていることが書かれているだけ。
が、確かに、ニューヨーク・フィルが、
どうして、こんな若造を選んだのか、
実は気になってきているのだが、
この解説には、その辺の事を期待してはならない。

「しかし、バルビローリは、特に、
マンチェスターのハレ管弦楽団の首席指揮者として、
その世界的名声を高めたことで知られる。
バルビローリは1968年までマンチェスターにいたが、
当時のレコードは、いまだ、
コレクターに高く評価されている。
1949年にナイトに叙され、
彼は1970年に亡くなったが、
晩年はたびたびゲストとして、
大陸の有名なオーケストラを指揮した。
ウィーン・フィルとはブラームスとマーラーの
スタジオ・レコーディングを残し、
ベルリンでは、熱狂的に迎えられた。」

マーラーのスタジオ・レコーディングは、
ベルリンの間違いであろう。

極めて客観的な事実が述べられているが、
この演奏が、だからどうなのか、
が購入者の知りたいところではある。

とはいえ、最後の2行は、
あまり知られていないことであろう。

「バイエルン放送交響楽団には2回招かれ、
モーツァルトやブラームスの他、
郷土の音楽家ウォルトンやヴォーン=ウィリアムズの
作品を演奏した。」

ここでは、ブラームスの2番の他、
ヴォーン=ウィリアムズの「第6」が収録されているので、
もう一つの演奏会は、モーツァルトとウォルトンだったのだろう。

ウォルトンと言えば、乾いた音楽を書く感じがあり、
しっとり系のバルビローリが録音したとは、
にわかには信じられない感じもする。

一方、バルビローリには、
モーツァルトについては、いくつかCDがある。

このCDの後半には、ヴォーン=ウィリアムズの、
「第6交響曲」が収録されているが、
この演奏は、私には、少々、違和感が残った。

田園情緒の感じられる「第5」と異なり、
この「第6」は、ベートーヴェンを逆にしたように、
緊張感漂う交響曲である。
一説によると、戦時下にあって書かれた、
戦争交響曲だという。
が、このCDの解説では、それを否定するような内容である。

「1872年英国に生まれた、
ラルフ・ヴォーン=ウィリアムズの4曲の交響曲には、
表題的な副題があり、『海の交響曲』、『ロンドン交響曲』、
『田園交響曲』、『南極交響曲』とされる。
1944年から47年に作曲された、
彼の6つめの交響曲は、
しかし、戦争交響曲でもなく、
終楽章が核戦争後の世界のヴィジョンを、
表しているわけでもない。」

と書かれていて、
「a war symphony」ではない、
と、どういう根拠からか断言されているのである。

「1956年に作曲家は、『簡素なピアニッシモ』が、
シェークスピアの『テンペスト』からの、
プロスペローの有名な言葉、
『我々は夢と同じようなものでできていて、
ちっぽけな人生は、夢の中のことなのだ。』
を使った。
事実、これは、この瞑想的な終曲に対するコメントで、
絶対的静寂に導き、
作品は、劇的で、すべての楽章が虹色で彩られている。」

根拠が、作曲されて10年も経ったときの、
作曲家の、このコメントだとしたら、
いささか心もとない。

「戦争交響曲」が夢のように終わっても、
別に矛盾はないからである。
そもそも、この演奏は、重苦しく、
解説の内容と一致していない感じもする。

Track5.アレグロ:
「第1楽章はジャズを暗示して、
両端のセクションの強調と対比される。」

ものすごく、力瘤の入った、
怒りに満ちた序奏から、
恐ろしい感情表現だと思う。

ドイツのオーケストラだからであろうか、
プレヴィンなどの演奏で聴くと、
管弦楽のための協奏曲のような、
愉悦的な雰囲気や、軽快な推進力さえあるものが、
リズムもぎくしゃくとして、
曲想の晦渋さを増幅している。

途中で現れる、田園情緒を感じさせる、
なだらかな主題も、閉塞感を感じさせるのはなぜだ。
ティンパニの連打もおどろおどろしく、
多彩な管弦楽を操りながら、
ものすごくモノクロームの表現である。
リズムが粘るので、ものすごく長い曲に聞こえる。

最後に流れ出す美しい田園情緒を、
冒頭の破壊的な主題が容赦なく押しつぶす様は、
戦争交響曲的としか言いようがない。

Track6.モデラート:
このあたりになって来ると、
不安をかきたてる執拗なリズムが、
なんとなく、ショスタコーヴィチみたいな感じ。
それが、やはり「戦争交響曲」というニックネームを想起させる。

バルビローリの指揮は、本場モノのはずだが、
やたら黒々と渦巻いて、
日本人が妄想するエルガーやディーリアスの世界から遠く、
まるでイギリス的に聞こえない。

しかも、まったく流れない停滞する音楽で、
バルトークの「弦楽器と打楽器とチェレスタの音楽」みたいだ。
くどいようだが、プレヴィンの振るこの曲とは、
まるで別の音楽である。
この曲から、生々しい作曲家の肉声を伝えるのは、
ひょっとすると、バルビローリの方かもしれないが。

シンバルが打ち鳴らされるクレッシェンドも、
やたら興奮していて、ど迫力であろうが、
おそらく9割がた、初めてこの曲を聴いたであろう、
ミュンヘンの聴衆は、さぞかし途方にくれたことであろう。

Track7.スケルツォ、アレグロ・ヴィヴァーチェ。
「飛び跳ねるようなリズムの第3楽章は、
軽音楽の影響があり、サクソフォンのソロがある。」

ようやく、前に進み始めたような、
リズム感に満ちた音楽であるが、
縦横というか、ななめ左右にというか、
様々な楽器が錯綜して、極めて息苦しい。

これがまた、ショスタコーヴィチ的と書けば、
あまりにボキャブラリーが乏しいだろうか。

粋なサクソフォン独奏が出るが、
日本のお祭りのような大騒ぎがかき消して行き、
破れかぶれのようでもある。
バルビローリの指揮は、各楽器を興奮させすぎで、
すべての音に思い入れが籠るが、
確かに、これでは命を縮めそうな感じ。

この曲を良く知った人が、
これを目の前で奏でられるのを聴いたなら、
感極まるかもしれない。

もし、続く終曲が核戦争の後の光景だとしたら、
この楽章では、原子爆弾が落ちていることになる。

Track8.エピローグ、モデラート。
「一つのテーマをひたすら変容させる終曲は、
これに対する完全なアンチテーゼで、
人生の戦いの音楽で描かれたものは、
静かなあきらめで終わる。」

この楽章も、ショスタコーヴィチの「戦争交響曲」、
「第8」のような音楽のようである。

沈鬱な音楽。
廃墟のような空白感、虚脱感。
何と、この楽章が一番長い。
延々と、きゅるきゅると鳴らされる静かな弦楽の上を、
モノローグのような楽器のソロが浮かんでは消える。
が、意外にも、この楽章が一番、すんなりと通り過ぎる。

一切は夢であった、というには、
あまりにも重苦しい音楽である。

この楽章が、消えるように終わった時、
いったい、聴衆はどんな反応をしたのだろうか。
残念ながら、拍手までは収められていない。

得られた事:「バルビローリのブラームスもまた、ライブで聴くべし。」
「妄想。バルビローリは日本公演を前に、被爆国に思いを馳せ、同様の敗戦国であったドイツにて痛ましさを追体験した・・のかもしれない。」
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by franz310 | 2013-06-29 14:18 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その382

b0083728_14264059.jpg個人的経験:
これまで多くの
日本の音楽ファンが、
バルビローリの指揮する音楽に、
非常な信頼感を持って、
接し続けて来た事は、
私も良く知っているつもりであった。
1970年の万博の際、
待ち望まれていた名指揮者のうち、
ジョージ・セルは来日して亡くなり、
バルビローリは来日を前に亡くなった。
このCDの表紙の写真に捉えられた、
白黒報道写真風の
情熱的な指揮ぶりも素晴らしい。


確かに、こうした演奏を聴くことができたなら、
などと、妙な感慨が湧き起って来た。

しかし、調べてみると、この二人の亡くなったのは、
同じ1970年の7月29日と30日だった。
セルは5月の来日でセーフだったのであり、
セルの死後も万博は続いていたという構図である。

万博は半年もやっていたのだから、
バルビローリ指揮のフィルハーモニア管の公演は、
秋に予定されていたのだろうか。

写真に見るバルビローリの目が良い。
楽員を優しく見つめながら、
何か、遠いものを見ているような、
不思議な目つきである。

このような激しい身振りや、表情も、
何となく、ライブならではないか、
という気がしなくもない。

バルビローリは、多くの近代英国音楽を紹介し、
エルガーやディーリアスに、
素晴らしい録音を残してくれており、
私も、バルビローリがいなかったら、
これらの音楽に親しむ事はなかったかもしれない。

が、バルビローリはまた、
30代でニューヨーク・フィルの
首席指揮者を務めた本格派でもあって、
ブラームスやマーラーの演奏も名演奏とされていた。

しかし、実は残念なことに、私の経験の中で、
バルビローリのブラームスやマーラーで、
感動した経験は一度もないのである。
一言で言うと、ハートのある指揮者ではあるが、
締まりのない、立体感に不足する演奏をする人、
というレッテルをいつしか貼ってしまっていた。

が、今回、改めて、
ジャネット・ベイカーを独唱者にして演奏した、
ベルリオーズの「夏の夜」などを聴くと、
何だか印象が大きく違う。
細部を彫琢しつつ、
ドラマティックな起伏にも欠けてはいない。

そして、そのジャネット・ベイカーつながりで、
いろいろ物色していて、
巡り合ったのが、
今回聴いた、
マーラー「第2(復活)」のライブである。

一聴して感じるのは、やはり、1音1音の勢いというか、
気迫のようなものである。
すごい推進力で、ぐいぐいと聞かされてしまう。
ベルリン・フィルの重心の低い、
パンチの利いた音の立ち上がりが、
この演奏の説得力を高めている。

マッシブな量感が、
バルビローリの、情に流されて、
うすっぺらになりがちな音楽に、
立体感を与えることに役だっているような気がする。

ベルリン・フィルは、先に書いたように、
バルビローリが振るマーラーの「第9」を聴いて(弾いて)、
感動した楽団だが、バルビローリは、そのほかにも、
ベルリンでマーラーを演奏していて、
聴衆に深い感銘を与えていたようだ。

今回のCD解説には、そのあたりの事を、
アラン・サンダース(Alan Sanders)という人が、
非常に詳しく、よく書いてくれていて、
ものすごく勉強になった。

「ジョン・バルビローリが、
最初にマーラーの音楽に遭遇したのは、
1930年4月、
彼が第4交響曲のリハーサルに参加した時だった。」
と、
何と、バルビローリのマーラー受容史から、
説き起こされているところが素晴らしいではないか。

「指揮者はオスカー・フリート(1871-1941)という、
マーラーの取り巻きの一人であった。
フリートの1924年の『復活交響曲』の録音は、
マーラーのすべての交響曲の初録音であり、
この作曲家の音楽に対する素晴らしい解釈を、
垣間見せたに違いない。
しかし、バルビローリは感動せず、
友人にこう書いた。
『楽想はうすっぺらで、
オーケストラの音響に関して言えば、
ベルリオーズやワーグナーの方が、
ずっとうまくやるだろう』。
しかし、わずか9か月後、
ロイヤル・フィルハーモニック・コンサートで、
偉大なリート歌手、
エレーナ・ゲルハルト(1883-1961)
のために、
『子供の死の歌』を指揮し、
初めて、バルビローリは、
マーラーの音楽との直接的な遭遇をする。、
1930年代、まだ、英国では、
マーラーはめったに演奏されなかった。」

1930年4月の9か月後ということは、
1931年の初頭のことであろう。
ゲルハルトは、大昔の歌手という感じがするが、
当時は、まだ、48歳くらいであったということか。
ちなみにバルビローリは1899年生まれなので、
まだ、31か32といった若造であった。

「国内の、ハミルトン・ハーティや、ヘンリー・ウッド、
エイドリアン・ボールトといった国内の音楽家によって、
たまたまやって来た外国の音楽家が、
ほとんど忠実で、しかし、理解していない演奏に
突っ込まれることはよくあることだった。
マーラーが生きて仕事をしていたヴィーンでのみ、
あるいは、強力な支持者メンゲルベルクのいたアムステルダム、
ニューヨークといったある土地でのみ、
彼の音楽に対する信奉が残っていた。
そして、ヨーロッパでは、
ナチスの台頭とともに、それは後退が見られた。
まず、ドイツでマーラーの音楽は禁じられ、
そしてオーストリア、それから、
第2次大戦中の占領地で禁じられた。
1930年代にバルビローリは、
第5交響曲のアダージェットを2回演奏したが、
彼が、ハレ管弦楽団の音楽監督になって2年後、
マンチェスターにおける1945年から6年のシーズンで、
『大地の歌』を取り上げるまでそれが全てであった。」

これは、バルビローリのこと、
イギリス楽壇のことを越え、
そのままマーラー受容史とでも言える内容になっている。

「大地の歌」はなかなか初演されなかったりして、
不遇の交響曲だと思っていたが、
どうやら、バルビローリが指揮した最初のマーラーは、
「大地の歌」だったようだ。
あとから出てくるカラヤンも、
「大地の歌」だけは早くから振っていたようである。

「1952年にマンチェスター・ガーディアンの
音楽評論家でマーラー擁護者であった、
ネヴィル・カーダス(Cardus)(1889-1975)が、
1930年、ハーティがハレ管弦楽団を振って行った、
マーラーの『第9』の演奏の回想を記事にした。
『この作品はバルビローリにこそふさわしいものだ。
彼はなぜ、ここ数年、それに惹かれないのだろう。』
プライヴェートな会話で、カーダスは、
この問題をサー・ジョンと語り合い、
マーラーの交響曲は、あなたのための音楽で、
あなたのオーケストラは、それにぴったりの音が出せる、
英国で唯一のオーケストラだ、と言った。
バルビローリは後に、
マーラーの音楽に魅了され、
研究するようになったのは、
カーダスの影響だ、と認めている。
そして、最初にアプローチしたのが、
『第9』であった。
彼は1943年、アメリカから英国に戻って以来、
偉大な同時代の英国音楽を入念に研究し、
演奏するようになった。
そして、未だ知られざる、
偉大な音楽に、もっと注意を向けるべきだと感じた。」

バルビローリがベルリンの聴衆を、
『第9交響曲』で熱狂させたのも、
かなりの歴史があったのである。
1930年、ハーティが演奏した事実までを、
彼は背負い込んだ形である。

「すべての新作に対してするように、
彼は時間をかけて『自分の血肉になるまで』
スコアを勉強した。
彼は、マーラーの音楽が浸透しないのは、
常にムードが変化し、すべてのものを、
大きな統一の中に導く必要があるからだと考えた。
1954年2月、50時間近くのリハーサルを経て、
彼は『第9交響曲』をブラッドフォード、
そして、マンチェスター、その他で初めて演奏した。
翌年、彼は『第1』に注意を向け、
この作曲家に対するリアクションが無関心で、
ある時は冷淡ですらある環境下、
すぐに英国における指導的なマーラー支持者となった。
不屈のバルビローリは、着実にマーラーのスコアを、
自身のレパートリーに加え、
次第に、『第8』を除く、全交響曲を指揮するようになった。
1966年4月、彼はマンチェスターとロンドンで、
サー・ネヴィル・カーダスのジャーナリズム50年を祝い、
演奏会を指揮した。
マーラーの『第5交響曲』を含むプログラムだった。」

「第9」の後、「第1」というのは意外であるが、
「第5」となると、今でも愛聴されている録音がある。

「おそらく、この頃、マーラーの演奏会は、
ベルリンよりマンチェスターの方が多かっただろう。
1920年代、30年代初めには、
フルトヴェングラーがベルリン・フィルで、
『第1』、『第3』、そして『第4』を振っているが、
戦後の時代になると、彼は実質的にマーラーの全作品を無視した。
彼の後任のカラヤンは、
1960年から『大地の歌』を取り上げていた他は、
比較的キャリアの後期になるまで、
同様にマーラーに無関心であった。
バルビローリがベルリン・フィルと、
最初に契約したのは1949年で、
エディンバラ音楽祭の一部として、
3つのコンサートでこのオーケストラを振った。
指揮者と楽壇員との親密さは強烈かつ瞬時であった。
8か月後、1950年4月、
バルビローリはベルリンに飛び、
ロッシーニ、ディーリアス、ルーセル、
ブラームスの『第4』といった多彩なプログラムを指揮した。
ベルリン・フィルは、その時、
ルーマニアの指揮者チェリビダッケが、
ナチスの時代に縮小されたレパートリーを
拡大しようというポリシーを持っていたので、
慣れていない作品への適応力があった。」

このような文章を読むと、
ベルリン・フィルって世界最高のオーケストラ、
というより田舎の最高のオーケストラじゃないの?
などと皮肉な感想を持ってしまう。

「ベルリンっ子たちは、バルビローリの再演を望んだ。
しかし、様々な理由から1961年までは、
それが妨げられた。
それ以来、オーケストラは、
再び伝統的なドイツ音楽偏重へと変えられていた。
1952年にチェリビダッケは去り、
1954年にフルトヴェングラーが亡くなり、
アンサンブルは、1955年に音楽監督となった、
カラヤンによって改造されていた。
彼らの総支配人、ヴォルフガング・シュトレーゼマンは、
すぐれた管理者で外交官であるばかりか、
洗練された音楽家であった。
1937年から43年に、
バルビローリがニューヨーク・フィルの首席だった時、
彼はアメリカにいて、
それがサー・ジョン招聘にも働いた。」

こういう話を読むと、人生は、度重なる努力の上にあるのだ、
ということが妙に実感される。

「1961年の最初のコンサートでは、
バルビローリはシベリウスの第7、
バックハウスを独奏者にしての、
ベートーヴェンの第3ピアノ協奏曲、
ブラームスの『第2』を指揮した。」

ここまで読んで、サー・ジョンが、
若い頃、伴奏指揮者的な扱いを受けていたことを
ふと、思い出した。

確か、名手クライスラーや、
ハイフェッツの協奏曲の伴奏をして、
バルビローリの指揮が残念、
と書かれるのが、落ちであったと記憶する。

しかし、そんな苦労も報われてか、
1949年には叙勲されて、
サー・ジョン・バルビローリとなっていた。
したがって、最初に、ベルリン・フィルと仕事をした時は、
ちょうど、叙勲の頃だったわけだ。

「彼は初歩的なドイツ語しかできなかったが、
サー・ジョンとオーケストラは、
親密な理解に至り、何人かの楽員が、
シュトレーゼマンに英国の指揮者の再度の招聘を願い出た。
次の10年は、バルビローリはBPOにレギュラー出演し、
オーケストラ、聴衆、批評家から愛された。
彼の暖かい、コミュニケーティブな
感情豊かなスタイルの指揮は、
明らかに、卓越しているがコントロールされた、
一段構えたカラヤンの音楽づくりと、
際立った対照を示した。」

カラヤンがどう思ったかも、
何か情報が欲しくなってしまう。
同様にマーラーを得意にした
バーンスタインに対しては、
並々ならぬ敵意を見せたとされる人である。

「1963年1月、サー・ジョンは、
ベルリンで初めてマーラーを指揮した。
『第9』である。
ベルリンではめったにマーラーは演奏されなかったし、
嫌われてもいたので、
BPOがこの曲を一緒に録音したい、と言うほど、
オーケストラと聴衆に大きな印象を残した事は、
バルビローリにとって、特別な勝利であった。
1964年1月、これは実現した。
これは、彼らが録音した最初のマーラーの交響曲であり、
英国の指揮者によってのセッションも、
1937年のビーチャム指揮のモーツァルト、
『魔笛』のHMVへの録音以来であった。」

このように、バルビローリ指揮のマーラーの『第9』は、
単に名演というばかりでなく、
ベルリンにおいて、ようやくマーラーが需要されたという、
記念碑的なものであったことが理解できた。

当然、今回のこのCDも、
このような大きな流れの中に位置するものだということだ。
実演の記録ゆえ、第9のスタジオ録音より、
生々しく伝えるものがあるだろう。

いや、実際、あるのである。

私は、そもそもマーラーの『第2』を、
進んで聴きたい方ではなかった。

パリ万博で、この曲をマーラーが自作自演した時、
当時のフランスの作曲家たちは、
第1楽章で帰ってしまったというが、
私も、おそらく一緒に帰る口だったかもしれない。

やたら長い第1楽章は、このCDでも1枚目に単独で入れられ、
残りの4つの楽章がCDの2枚目に入っている。
そして、CDの裏面には、
「マーラーのスコアには、第1楽章演奏後、
少なくとも5分の中断を入れろ、と書いてある」
と注釈がある。
これは事実だが、いちいち、裏表紙に、
こんな事を書いたCDは初めて見た。

おそらく、この5分を使って、
フランス人たちは、あほらし、と帰ったのであろう。

が、彼らが言ったとされる、
「シューベルトみたいなものだから関係ない」
とかいう一言には疑問を呈したくなる。

まず、どこがシューベルトみたいなものなのか、
すぐには分からない。

仮に、オーストリアの民謡風なものを基調としていて、
その意味でマーラーは、
シューベルトみたいなものかもしれないが、
だからと言って、
「関係ない」というコメントはないだろう。

どちらもワーグナーを信奉し、
その体験を経て出て来た世代ではないか、
などという感じがしなくはない。

が、第1楽章で、もうたくさん、となる気持ちは良くわかる。
この演奏でも22分もかかる長い楽章で、
何だか、騒いだり、沈黙したりして、
むやみにやかましく退屈な印象である。

CD1のTrack1.
しかも、最初から出る弦の思わせぶりな大言壮語が、
うすっぺらで、月並みで青臭い。
ラッパが重なって来るのも、
妙に悲愴味を掻き立てる伴奏音楽のようである。

ここまでのどれもが、シューベルト的ではない。

そこでそのまま、一度、頂点を築いて、
今度は、いかにも憧れに満ちた弦楽のメロディがあふれ出す。
あるいは、ここはシューベルト的であろうか。

これだけ書いただけで、
うんざりするような交響曲であるが、
バルビローリの指揮で聴くと、
この安っぽさに、妙なリアリティと、
心からこみ上げる情念が加わる。

カラヤンの指揮の下、
こうした安手の普請に対して、
覚めた美学で付き合っていたベルリン・フィルも、
明らかに、そう来たか、そうだよな、
と納得して演奏している感じがする。

第6交響曲のカウ・ベルも出て来そうな、
高原の情景のような部分では、
心から打ち震えて、
新鮮な大気を吸い込んでいるような感じがする。

弦のトレモロ一つとっても、
入魂の演奏であり、感情の裏打ちがあることが、
生々しく伝わってくる。

すべてのフレーズの立ち上がりが、
思い入れたっぷりであって、
それが、ばねのように弾けながら、
前へ前へと突き動かしてゆく。

こうした、ある意味、人工的な力学も、
あまり、シューベルト的ではないが、
あるいは、弦楽に木管が重なって鳴り響く、
その色調自体が、シューベルト的な匂いを発しているのか。

フランスのオーケストラ曲は、
確かに、色彩的には、ここで繰り広げられる、
内向きで粘着質のブレンドよりも、
外向的で発散するような美観を重んじているようであるが。

マーラー自身、第2交響曲以降は、
このぐじゃぐじゃ感を整理して、
もっと伸びやかな、
個々の楽器の主義主張を生かす作風に
変わっていったような気がする。
特に、展開部以降、本当に、この曲には、
マーラーの多くの交響曲の
萌芽のようなものが感じられる。

それだけ内容充実とも言えるが、
未整理の習作といった風情もある。
そして、確かに、シューベルト的に長大である。

しかし、重厚で長大は、ダンディの「第2」、
デュカスの「ハ長調」とて同様である。
が、マーラーの曲は、同じ調子で長く、
第1楽章の終わりも、作為的で低俗である。

ということで、このように私は、
この交響曲は第1楽章からして苦手だったのだが、
この演奏に漲る熱気にほだされて、
かなり聞かされてしまった感じがある。

以下、解説はほとんど終わりである。
バルビローリのマーラーのレコードが、
振り返られ、この演奏の記録が、
いかに重要かということが描き出されている。

「バルビローリは1957年6月に、
パイにハレ管弦楽団と『第1』を録音しており、
今や、『第2』をベルリンで録音すべき時だと思われた。
しかし、この提案はEMIによって蹴られた。
すでに、クレンペラーが指揮したものが、
コロンビア・レーベルで入手可能であったからである。
そして、1965年には『第7』の、
ベルリンでのレコーディングが提案されたが、
これも実現しなかった。
バルビローリはさらに2つのマーラーの交響曲を、
商業録音している。
1967年8月の『第6』、
1969年7月の『第5』であるが、
しかし、2つとも、
フィルハーモニア・オーケストラの共演であった。
1960年にカラヤンがEMIから去ったので、
この会社は、バルビローリが、
自身のオーケストラにこだわらなかったら、
彼を誘ったのではないかと思われる。
幸いなことに、サー・ジョンが振った、
すべてのマーラーの交響曲は、
ライブ録音があって、
そこには、ベルリン・フィルとの、
『第2』、『第3』、『第6』が含まれる。」

ここにあるように、このCDと同じレーベル、
TESTAMENTから、
「第3」も「第6」も入手できるようだ。

「最終的に1965年にBPOとスケジュールを組まれたのは、
『第2』で、6月の初めに3回演奏された。」

ここでの録音は6月3日とされ、
独唱者はジャネット・ベイカーであるが、
約3か月後、8月30日には、バルビローリとベイカーは、
ロンドンで、エルガーの『海の絵』を録音するという流れである。

「1966年1月13日、14日には、
モーツァルトの『34番』と共に、
『第6』を指揮しており、
1969年3月8日と9日に、『第3』を指揮している。
彼は、ベルリンで多くの作曲家の作品を取り上げたが、
そのいくつかはBPOにとって初めての作品であった。
しかし、最大のインパクトはマーラーの交響曲紹介であり、
それゆえにベルリンでは長く記憶された。
カラヤンがバルビローリの死後2年たって、
1972年に『第5』を演奏するまで、
マーラーを演奏しなかったのはその証拠に見える。」

CD2のTrack2.
これまた、私の苦手とする楽章で、
勝手に付き合わされた、
第1楽章の阿鼻叫喚のジェットコースターの後、
緊張感をほぐしてくださいと用意された、
甘ったるい甘味どころである。

私は、この楽章がなくても、
マーラーの重要性はまるで変わらないのだが、
これが好きな人もいるらしいので、
あまり書かないようにしたい。

バルビローリの指揮で嬉しいのは、
強力な低音部隊で、
この豊かなずずんずずんに浸っているだけで、
不思議な充足感を感じてしまう。
しかみ、バルビローリならではの、
入魂の彫琢が加わり、
この平明な音楽が息づいている。

後半に現れる弦のピッチカートの部分のみ取っても、
驚くべき表情の豊かさであり、
交錯する弦楽の綾を愛でているうちに、
かなり充足したひと時を味わった事に感謝してしまった。

CD2のTrack2.
第2楽章を「繋ぎ」として、
ここからが、この交響曲のもう一つの目的が現れる。
これは、もっと素朴で、
民謡に眠る太古からの感情の呼び起こしみたいなもの。

フランスの作曲家たちは、ここまで聞いた場合は、
もっと怒って帰ったかもしれない。

作曲家で評論家の柴田南雄氏は、
これは舞踏会の情景であると解釈しているが、
確かにそんな音楽でもある。
シューマンに倣った、
失恋した相手の舞踏会の情景という説も面白い。

確かに、この無限に旋回するような広がりは、
名作、第5交響曲のひな形みたいに、
聴こえないこともない。

しかし、途中、拍子木みたいなのが入ったり、
最後に爆裂したり、呼び起こされる感情は、
それよりは原始的で破天荒である。
このあたりの生き生きとした生命力に、
バルビローリならではの美質を聴いた。

この楽章はしかし、放っておいても楽しいので、
バルビローリは緊張をいくぶん緩めているような気がする。
それでも、ベルリン・フィルの重戦車風の機動力に圧倒される。

CD2のTrack3.
「子供の魔法の角笛」の「原光」から取られた、
へんてこな割り込み楽章。
完全に歌曲であり、5分程度の短編である。

「おお、深紅の愛らしい薔薇よ」と、
いきなり、歌いだされるので、
かなり感動的な部分であるが、
「薔薇」は、ここで出てくるだけで、
尻切れトンボ風の要素を持っている。

「人間は大きな苦悩に閉ざされ、
むしろ、私は天国にいたいと思う 」
と言って、後半は、
「天使がそうさせないようにしたが、
私は、神のもとに行って、
永遠の喜びの生命で照らしてもらう」
といった感じの内容をしみじみと歌う。

ここでベイカーが登場するが、
もっと聴いていたいくらいに、
味わいのある声を聴かせ、
すぐに終わってしまう。

CD2のTrack4.
これまた、第1楽章の「大げさ編」再開といった音楽で、
太鼓連打あり、金管の爆発あり、鐘ががらんがらん鳴り、
ぶった切れた楽想の羅列。
合唱あり、オルガンも出て、疲れ切ってしまう部分。

フランスの作曲家たちは、最後までいなくて良かった。
この独りよがりの音楽に、最後まで付き合わされたら、
途中で、もっとひどい妨害工作にでも出たかもしれない。

が、この演奏は凄い。
解説にもあったように、
マーラーの弱点も知り尽くしたバルビローリならではの、
交通整理が周到にされていて、
バルビローリが唸りまくって、
オーケストラをドライブする様は、
手に汗握るものがある。

マーラーが最後の審判を表現しつくそうと空回りして、
長すぎてうんざりした頃、
ようやく平穏な楽想が広がるが、
ここからも長い。
楽章が始まってから20分も経過して、
ようやく、この交響曲が「復活」と題された理由である、
「お前は蘇るだろう」と、
クロプシュトゥックの賛歌が歌われるのだが、
チョイ役ながら、往年の名ソプラノ、
マリア・シュターダーが出ていて、
美声を聞かせているのが嬉しい。

バルビローリが操るベルリン・フィルの音色も、
水も滴るように美しい。
ベイカーが出ると、バルビローリは、
愛娘が心配でならないのだろうか、
唸り声が止まらなくなっている。

バルビローリが導く、強引とも言える、
気持ちの良いドライブ感と、
ベイカーとシュターダーの声の綾が美しい二重唱を経て、
オーケストラと合唱がさく裂する最終局面に移って行く。

「私は生きるために死のう!」とあるように、
これは、結局、キリストの復活にあやかった、
換骨奪胎の個人的音楽であり、
俺は関係ない、と帰るのもありかもしれない。

ベルリンの聴衆の拍手が収録されているが、
半分は戸惑いがあったようだ。

得られた事:「有名なバルビローリとベルリン・フィルの伝説を実感できる貴重な白熱の記録で、『復活』アレルギー患者対策効果あり。」
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by franz310 | 2013-06-16 14:33 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その381

b0083728_1641329.jpg個人的経験:
エルガーのオーケストラ歌曲、
「海の絵」を聴いて、
同様の題名を持つ
ショーソンの傑作を、
同じベイカーの歌唱で
聴きたくなった。
1965年録音のエルガーは、
若い頃(32歳)のスタジオ録音で、
少々、硬い感じがあったが、
この75年のライブはどうか。
エルガーこそ収録されていないが、
うまい具合に、このCD、
こんな風に解説が始まっている。


「BBCのアーカイブからの録音シリーズは、
メジャー・アーティストの例外的な演奏を多く発掘してきたが、
とりわけ重要なのは、ジャネット・ベイカーのもので、
彼女がスタジオ録音よりも、
ライブでとりわけ発信力のある歌手だったということを、
確信させるものである。」

これは、ここにあるとおり、
イギリス放送協会BBCが、
恐らく、放送に使った昔の音源を発掘して、
20ビット・リマスタリングでCD化した、
BBCレジェンド・シリーズの1枚で、
伴奏が、英国人でもなく、かといって、
ショーソンと同じフランス人でもない、
ロシアの巨匠、スヴェトラーノフが、
「愛と海の詩」を振ったことでも話題になったもの。

オーケストラは、ロンドン交響楽団で、
バルビローリが「海の絵」を振った時と、
同じオーケストラである。

なお、このCD、ジャネット・ベイカーの
スナップ・ショット的な写真も、
好感が持てるものである。

紫を基調にして、微妙な色合いが上品だが、
この色調は、「夏の夜」的ではあっても、
「愛と海の詩」的ではないような気がする。

シューベルトの時代のサロンとは異なり、
19世紀後半の後期ロマン派の作曲家たちは、
コンサートを前提として、
伴奏をオーケストラにして歌曲を書いたが、
私は、この「愛と海の歌」あたりが、
一番の傑作ではないかと思っている。

このCD、かなりお買い得感があり、
ベルリオーズの歌曲集、「夏の夜」とか、
シェーンベルクの「グレの歌」から、
「森鳩の歌」なども収録されている。
収録時間が75分もある。

驚いた事に、この「夏の夜」の録音は、
伴奏がジュリーニ指揮のロンドン・フィルなのに、
ショーソンと同じ1975年、
いちおう一か月ずれて4月と5月にだが、
同じロイヤル・フェスティバル・ホールで行われており、
当然、どちらもベイカーが歌っている。

これら大曲を一か月の間をあけただけで、
ロンドンの聴衆にお披露目するとは、
彼女はすごい人気者だったということか。

その時、ロンドンにいて、
どちらかを選べと言われたら、
どっちを聴くだろう、
そんなわくわく感を、
この事実だけから感じてしまうではないか。

2001年にAlan Blythという人が書いた
解説を見てみると、最初にベルリオーズが語られている。

「このディスクでは、主に、
彼女のフランスのレパートリーを収めている。
これらは、彼女のリサイタルや録音での、
ドイツ歌曲、英国歌曲が重要視されるのに対し、
時に忘れられているもので、
彼女は、すぐれたフランス歌曲、
フランス・オペラの解釈者なのである。
事実、それらのうち、うまい具合に、
スコティッシュ・オペラや、
コヴェントガーデンでの「トロイ人」における、
忘れがたい彼女のディドを、
聴くことが出来た幸せな人が証言するように、
彼女のベルリオーズの歌唱は別格であった。
ここに書いたように、
それは、音楽を手中にする完全な献身や、
歎きから喜びの間に、
瞬間的にムードを変えられる天性の技術を示している。
これらの才能を証明するものに、
ベルリオーズが同時代人、
ゴーティエの6つの愛の詩を作曲した、
歌曲集『夏の夜』をおいて他にない。」

このように、ベイカーのベルリオーズとの
親近性から、解説が始まっている。

ショーソンを聴く前に、
このベルリオーズを聴くことに、
私は、まったく違和感を感じない。

むしろ、エルガーの「海の絵」に近いのは、
こちらであり、各曲は独立していて、
しかも、「入り江」や「島」が出てきて、
海を感じさせる曲集であることでも類似性がある。

しかも、歌われているのは、
「海」ではなく「愛」である。

ゴーティエは、1811年生まれだから、
シューベルトなどより若いばかりか、
ベルリオーズよりも若い。

エルガーが、時代遅れの詩を選んだと揶揄されるのに対し、
または、シューベルトが、音楽の可能性を広げるために、
意識して前衛的な詩を選ぶようになったのに対し、
ベルリオーズは作品7にして、
自分より若い詩人を選んでいる。

とはいえ、1803年生まれのベルリオーズは、
これらの歌曲を、
1834年くらいから作曲を始めたというから、
シューベルトが同時代人ハイネの詩に
作曲を始めたくらいの年と変わらないとも言える。

テオフィル・ゴーティエと言えば、
岩波文庫に「死霊の恋」とか「ポンペイ夜話」などがあり、
幻想的な小説を書く人としても知られている。

さて、このベイカーのBBCのライブ録音には、
このように書かれた部分がある。

「デイム・ジャネット・ベイカーは、
この歌曲集を、8年前に、
やはり深いロマンティックな心情の持ち主であった、
バルビローリの指揮で録音している。
ジュリーニの指揮は、いくぶん気だるく、
彼のゆっくりとしたテンポは、
歌手の難しいブレス・コントロールの限界に近い。
しかし、ベイカーは、指揮者と一体化し、
歌曲集に底流する感情を探ろうとする読みを聴かせる。
バルビローリ指揮の同様に魅力的なアプローチに対し、
この演奏は価値ある補足であり、コントラストをなしている。」

ということで、私が持っている
EMIのICONシリーズが出番となる。

この5枚組二千円程度の超廉価盤、
イコン(アイコン?)シリーズの、
「Janet Baker」の解説を読むと、
John Steaneという人が、
「愛されたメゾ」というタイトルで書いていて、
やはり、このCDボックスにおいても、
この曲が聴きものの一つであることが確認できる。

そもそも、このICONシリーズは、
EMIがブリリアント・レーベルの向こうを張って、
特定のテーマで、出ているCDをいっさい合切、
同じボックスに入れたもの、と感じていたが、
必ずしもそうではないようである。

ベイカーのボックスには、
一枚目にブラームスやワーグナー(指揮はボールト)、
二枚目にベルリオーズやショーソン(バルビローリとプレヴィン)、
三枚目にマーラー(バルビローリ)、
四枚目にバッハやヘンデル(指揮者いろいろ)
五枚目にシューベルトやシューマン(ピアノはムーアやバレンボイム)
が入っていて、
多彩な演目が、特定のテーマで選ばれている感じ。

このボックスの解説には、
「ある人は、ソプラノのような高い声を好む人もいて、
これは少なくとも3人の歌手が歌う、
単独の声部のための作品ではないという人もいるが、
ベルリオーズの『夏の夜』の録音は、
古典的なステータスを持つものとして賞賛されている。
ベイカーとバルビローリの盤では、
最初の曲の鋭いリズムと、
最後の曲『未知の島』の微笑ましい魅惑が、
特に我々をひきつける。
人は、これこそ、実際の現実に誘う、
真のパートナーだと感じる。
間に挟まった歌曲は、
事実、内的な感情のもので、
『君なくて』の不在感の暗い声色、
抑制された情熱を感じさせる『墓地にて』では、
声とオーケストラと指揮者が一体となって、
これを表現している。」
と書かれている。

日本では、バルビローリは、
マーラーやディーリアスの専門家として親しまれたから、
ベルリオーズに期待した人はいなかったのではないか。

私は、これまで、ベイカーの歌ったもので、
バルビローリが指揮したものは、
「海の絵」かマーラーくらいしか
意識したことがなかった。

そもそも、「夏の夜」が、
まともに鑑賞され始めたのは最近のことではないか。
しかし、確か、ハロルド・ショーンバークだかが、
ベルリオーズのメロディはしょぼい、
と言われる意見に反対して、
この歌曲集を聴け、とか書いていたはずで、
これらの曲は、知る人ぞ知る名品なのである。

だが、LP時代には、
デイヴィスのものやアンセルメといった、
その道のスペシャリストと言われた指揮者が、
細々と録音していたイメージである。

ラプラントが男声で歌ったものもあったが、
あれなどはまさに、フランス歌曲集の流れで、
取り上げられた印象が強烈であった。

ベイカーは、コンサートでも、
レコードでも、実は、こうして、
ベルリオーズに傾倒していたようだ。

そもそも、「トロイ人」のディドで鳴らした、
というのが、かなり例外的ではなかろうか。

では、BBCレジェンズの解説を見ながら、
各曲を聴いてみよう。
残念ながら、歌詞はついていないのだが。

「これらの最初と最後は、明るく外交的であるが、
他の四つは凝集していて激しい。
デイム・ジャネットは、『ヴィラネル』の単純な陽気さを、
それに相応しい新鮮で開放的な色調で捉えている。」
Track4.
「新しい季節が来たら、ふたりで森へ行こう」
みたいな内容の詩で、
中間部では、
「この苔の長椅子で君の声を聴かせておくれ」
とあって、
最後は、
「帰ろうよ、苺を持って森から」とあるので、
恋人たちは、一応、全行程を踏破した模様。

これは、67年8月23日、まさに夏に、
バルビローリ指揮ニュー・フィルハーモニア管と
録音したものの方が、春のときめきは良く現れている。
「ベイカーとバルビローリの盤では、
最初の曲の鋭いリズム」が良い、
と書いてあったが、
バルビローリは、ファゴットなど木管の音形を際立たせ、
いかにもマーラーの自然描写みたいに聴かせる。

ジュリーニは、重心が重い指揮ぶりで、
ベイカーは、小粋な感じを出すのに、
時折、スナップを効かせるように苦労している。
これは、2分半ほどの小品だが、
一応、一枚で完成した絵になっている。

が、私は、この曲の情景描写は、
シューベルトの粋には達していないように思う。
言葉に鋭敏に反応しているようにも思えない。

それにしても、いきなり春の歌で、
まったく、「夏の夜」というタイトルに相応しいとは思えない。

「より音色の暗めな『ばらの精』は、
ベルリオーズの主観性を要約した、
歌の中の音楽と言葉の情熱的な壮大さを放射している。」
Track5.
これは、かなり緩やかな音楽であるが、
詩情漲る序奏から、強烈な音楽で、
バルビローリは、なんだか唸り声を上げながら、
情念を注ぎ込んでいる。
ベイカーも、その表現力豊かなオーケストラの色彩の中、
神々しいまでの歌唱を聴かせる。

ジュリーニは停止寸前の音楽である。
8分程度を要し、かなりの大曲。
解説の人が「情熱の壮大さ」と書いたゆえんであろう。

「私は、あなたが舞踏会でつけていた
ばらの精」だと言って、乙女の夢に現れる。
モノローグの音楽。

このばらの精の性別は分からないが、
「私に死をもたらしたあなた」とか恨み言を言いながら、
「この香りこそ私の魂」、
「天国から私はやってくる」と言って、
(このあたりのオーケストラの色彩感は目くるめくものがある)
夢枕で踊るので、女性なのだろうか。

この精は、「あなたの純白の胸で死ぬ」とか言っている。
そして、「あらゆる王を嫉妬させた一輪のばら」という
宣言のような一節で終わる。
バルビローリは一瞬、一瞬に魂を埋め込んでいくような、
血管が膨れ上がったような集中力を見せる。
先に触れたオーケストラの色彩も、
魔法のように素晴らしい。

ジュリーニ指揮の方は、
より脱力感のあるののであるが、
のびやかな詩情がある。
「星がきらめく宴会で、あなたは私を連れ歩いた」
という部分の憧れの念。
ただし、放送録音のせいか、
オーケストラの楽器の分離は、それほどでもない。

この曲のみ、「バラ」という季語もあるし、
眠りもテーマで、「夏の夜」というタイトルに相応しい。

『入り江のほとり』は、
茫然とした歎きの感情を表し、
正確にそれがベイカーによって伝えられている。」
Track6.
これは、いかにも海鳴りを感じさせる、
「海の絵」になっている。

が、詩を見ると、まったく入り江の事は出てこず、
先に死んでしまった美しい恋人への思いが嘆かれて
爆発するように繰り返される、
「ああ、愛もなく海へ船出していくとは」
という言葉が入り江を暗示するだけである。

この歌曲は、歌曲というよりも、
発想としてはオペラ的で、
伴奏がぼわーっと盛り上がって、
「ああ、なんとあの人は美しかったか」
などと、類型的な激情が重視、強調されている。

「白い体が棺桶に横たわっている」の所で、
楽想が変わるが、これは、特に言葉に反応したわけではなく、
むしろ、音楽に変化をつけたためと思われる。

ただし、
「私の上には巨大な闇が死衣のように広がる」
の所では、歌手には低い声が要求されており、
バルビローリの指揮では、
さらにわかるが、
「置き去りにされた鳩は泣き」のような部分には、
ものすごく雄弁なオーケストラが付けられている。

『君なくて』にかけて、
ジュリーニの非常に遅いテンポを楽しむように、
ベイカーはすべての陰影と表現の幅をつぎ込み、
憧れという最大限の感情を歌い上げる。」
Track7.
これは、夢から覚めたような前奏があり、
バルビローリの指揮では、
唸り声が入りっぱなしである。

極めて緊張感の必要とされる、
「かえっておいで」の部分の切望感を、
切実に感じさせる。
この歌曲は、もう、喘ぐように、
歌われては静まり、歌われては静まりの繰り返し。
後奏などでも聞かれる木管のメロディは、
痛切な美しさを感じさせる。

三節でわかるのだが、
恋人は何らかの事情で、遠くにいるみたいである。
ベルリオーズは、イタリア留学で、
恋人と離れていた経験があるから、
こうした感情には親しかったはずである。

バルビローリ盤では5分半程度の歌曲が、
ジュリーニ盤では6分20秒もかけられていて、
ジュリーニの唸り声からしても、
これは、心の痛みを、傷口をいたわるように、
それでも歌い上げようとしている。
この曲あたりになると、
ベイカーの優等生的な側面に加え、
深々とした表出力を、
強靭に感じさせる声の魅力が分かるような気がする。

ほとんど失速寸前の中、
表現力の幅を広げ尽そうとしている。

これらの曲は、「夏の夜」というが、
夏でも夜でもなさそうである。

「この二人のアーティストは、
墓地を訪れた時に起こる宿命感を歌った詩につけた、
暗い色の『墓地で』の音楽で要求される、
予感のような感情をすべて生み出している。」
Track8.
この曲は、もっとも、陰惨なイメージのタイトルであるが、
最も鮮やかな一瞬を持つ歌曲である。
ほとんどモノローグ調であるが、
「白い墓のところで歌っている鳩の歌を知っていますか。
病的なほど甘く、抗しがたく、
愛の天使が天国で嘆息しているような」
といった、妄想の前半。

中間部では、大地の下では、魂が目覚めて、
涙を流しているとある。

ここまでは良いが、
後半は、かなりやばい感じである。
「その調べの翼にのって
思い出がゆっくり戻って来る」
というところまでは良い。

実際、ジュリーニ盤では、
弾けるように、木管が美しく歌いだし、
思い出が回想される効果が素晴らしい。

が、
「天使の形の影が白いヴェールを覆って、
光線の中を通り過ぎる」とは何か。
バルビローリ盤では、この部分の、
亡霊のような影が現れる様を、
妙にリアルに可視化している。

ジュリーニ盤では、こうした小細工はない。

また、最後は、幻影は、
「あなたは戻ってくるだろう」と話かける。
それを聴いて、もう、私は、
鳩の歌を聴きに行ったりはしない、
と言うのである。

おそらく、死の国からの使者に、
魂を持って行かれそうになるのを、
すんでの所で自制した、という内容なのであろう。

私は、この光景には、秋の虚ろな心情が重なり、
夏のイメージは受けなかった。

「特にベイカーの解釈によると、
『未知の島』は、主人公が、永遠の愛のある、
未知の場所へのに思いを巡らすかのように、
暗さを晴らしていく。」
Track9.
確かに、この中間の4曲は、暗かった。

「美しい乙女よ、言ってください。
どこに行こうとしているのですか。
そよ風が吹き始めます」という、
歌詞が前後にあって、中間部に妄想満載である。

が、「夏の夜」というには、一曲目同様、
「春風の到来」みたいなのを感じさせる音楽だ。

「ここはバルト海か、ジャワか」
などと、主人公はかなり混乱しているが、
レチタティーボ調で、
オペラの軽妙な一幕を思わせる。

喜ばしげな浮き立つような音楽が、
全編を支配して、
「美しい人」が、
「いつも愛し合える真実の岸辺に連れて行って」
などと言いだすに至る。

その混乱の喜びを正当化する音楽の推進力は、
どちらの盤も同じだが、
ベイカーの声は、さすがにライブの方に、
勢いと自信が感じられる。
ジュリーニの指揮も、海原の高鳴りを強調して、
より劇的かもしれない。

このように聴いて行くと、ベイカーは、
34歳と42歳の時の録音なので、
さすがに成熟と一発勝負的な勢いで、
BBCの記録が貴重なのはよく分かった。

ただし、バルビローリ指揮の伴奏は、
ものすごく緻密な計算を感じさせ、
指揮者の思いが溢れかえっているという意味で、
スタジオ録音とは言え、
一期一会的な緊張感を感じさせるのも事実。

どちらかと言われれば、録音の優位さもあって、
私は、バルビローリ指揮のスタジオ録音を取るであろう。

バルビローリといい、ジュリーニといい、
マーラーの演奏で鳴らした指揮者が、
ベルリオーズを取り上げ、それぞれの見方から、
料理する様が味わえたことも収穫であった。

マーラーとベルリオーズを繋げるのは、
インバルなども強調していたことである。

ジュリーニはブルックナーなども得意とするだけあって、
悠然とした純音楽的な表現で聞かせ、
バルビローリはディーリアスなどが得意であるだけ、
細部の配慮や強調に特色があり、
非常に細密な曲作りをしている。
それゆえに、マーラーなどでは、
時に線の細い、たくましさに欠ける演奏があった。

それにしても、ベルリオーズは、
1860年に、シューベルトの「魔王」を、
オーケストラ伴奏版に編曲している
ことからも類推できるとおり、
言葉の描写においては、
怪奇方面の妄想に敏感で、
シューベルトならもっと反応したであろう、
「星」とか「天国」という言葉には、
まるで無頓着であることもわかった。

今回は、このCDのショーソンまでは、
手が回らなかった。

得られた事:「ベイカーの聴き比べをしようとして、指揮者の個性が比較できたという貴重な体験。」
「ベルリオーズの『夏の夜』は、むしろ春の芽吹きを感じさせる2曲の間に、季節感のない情念と幻想の4曲が挟まれた歌曲集。」
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by franz310 | 2013-06-09 16:42 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その380

b0083728_23341927.jpg個人的経験:
フェリアーや、ベイカーといった、
英国の名歌手でさえ難色を示す
エルガーの歌曲集「海の絵」は、
録音が多い作品ではないが、
英国音楽ファンには忘れがたい、
ヴァ―ノン・ハンドリーの指揮で、
アイルランドのコントラルト、
ベルナデット・グリーヴィイが
歌ったCDがEMIにある。
ロンドン・フィルの演奏。


これは、廉価で鳴らした、
「clessics for pleasure」シリーズのもの。
が、表紙の美しい絵画(ジョン・モグフォード作の、
『ティンタジェルの日没』)も含めて魅力的だ。
同じくエルガーの「交響曲第2番」が収録され、
カップリングとしても優れている。

交響曲の方は、1980年のアナログ録音である。
この交響曲のこの演奏を聴くのは、
このCDが初めてではない。

実は、私は、学生旅行でイギリスに行った時、
この同じ録音を、カセット・テープで売られていたのを、
おそらく、ロイヤル・フェスティバル・ホールの売店で
売られているのを発見し、安かったので買って帰って、
数少ない自分へのお土産としていた。

このテープを私は愛聴し、
当時、それほど知られていなかった、
この大作が、素晴らしく魅力的な
大交響曲であることを、
この演奏から叩き込まれてしまった。

よって、私は、CDが出始めた頃、
バルビローリやボールトの録音が、
復刻されたのを見つけては狂喜したものである。

ということで、ハンドリーは、
私の恩人のような指揮者であり、
実は、ボールトやバルビローリといった、
エルガー教の教祖的な指揮者の演奏を聴いても、
どうしてもこのフレッシュで滋味あふれる演奏に、
まず、指を屈したくなるのである。

解説は、ANDREW ACHENBACHという人が書いていて、
何だか、「ヴェニスに死す」の主人公みたいな感じだが、
簡潔に参考になることを書いている。

「海の絵」は後回しにして、この「第2交響曲」が、
いかに素晴らしいかを、この解説で読んでみよう。

「『彼らに何が起こったんだ、ビリー。
まるで、ぬいぐるみのブタみたいに座ってるが。』
終演後、エルガーの苛立った観察は、
(彼の親友で、1911年5月初演の、
クイーンズ・ホール管弦楽団のリーダー、
W.H.リードによると)
確かに初演時の聴衆の判断は間違っていた。
『第1交響曲』が熱狂的に迎えられたのと同様の熱狂からは、
『第2交響曲』は程遠く、期待外れに終わったが、
これは、この曲が、前者より、感情的に複雑で、
和声的にも進化させたものであったからに相違ない。
事実、『ヴァイオリン協奏曲』と同様、
『第2交響曲』は、エルガーの最も個人的に深い発言であり、
スコアに書かれた、非常に公的な献辞、
『亡き国王陛下エドワード7世への思い出に』を、
信じてはならず、これは、自伝的な霊感を隠ぺいしている。
例えば、長らく亡くなった国王へのラメントと思われていた、
悲歌風のラルゲット、緩徐楽章は、事実、
1903年の11月という早い時期に、
親友のアルフレッド・ローデワルトが亡くなった時に、
エルガーが打ちのめされた時のものに遡ることができる。」


「エルガーの管弦楽法の想像力は、
この交響曲以上に豊かに働いたことがあっただろうか。
第1楽章の中間部での不吉なエピソード、
情熱的なチェロの憧れにみちたメロディによる、
神秘的な美しさを思い出すかもしれない。
(『私は夏の夜、庭でさまよい歩いた時の、
奇妙な体験の影響で、異常なパッセージを書きこんでしまった。』
(明記されていないが、エルガーの言葉であろう。))
または、同じメロディが、ロンドの第3楽章の中間で、
うなされるように蘇ってくる。
(『熱を出した時に、恐ろしくずきずきと頭の中が痛むような、
がんがん叩く感じを、想像してほしい』と、
エルガーはリハーサルの時に言ったものである。)
さらに、すべての英国の音楽の中に、
複雑なハープの刺繍を伴う、
慰めに満ちた弦楽の音色での、
この交響曲の魔法のようなエピローグのような、
華やかなページがあるだろうか。」

このように、この解説を書いた人は、
本当に、この曲が好きなのであろう、
交響曲の魅力を具体的に描き出してくれて、
大変、ありがたい。

「この大建造物のエモーショナルな要求と、
構成的な要求のバランスをとることは、
いかなる指揮者をも怯ませる仕事である。
この1980年、ロンドン・フィルとの、
力強い記録で、ヴァ―ノン・ハンドリーは、
彼の信頼していた師匠、サー・エイドリアン・ボールトをも、
喜ばせるような正統的な解釈を聴かせる。
他のどの指揮者よりも、
この傑作の評価を定めたのは、ボールトであって、
1920年3月のロンドン交響楽団との、
クイーンズ・ホールでの公演は、
ボールト自身の運命と共に、
この作品の運命のターニング・ポイントとなった。
『第二次大戦の終わり頃、
私はコンサートを聴きに行きました』と、
ハンドリーは回想する。
『自己流の音楽家だった私は、
指揮者がしていることを見て愕然としました。
なぜなら、私が机上の空論で考えていた作品に対し、
こんなにいろんな事が出来るとは思っていなかったからです。
私が最初にボールトを見た時、
私は、むしろ、すべてのアクションが、
音に作用していくところを見たのです。
近年、芸術の華やかな視点に集中した指揮が横行し、
本当の音楽に損失を与えています。
エキサイティングな指揮者とは、
目を閉じて、彼を見ずとも、
興奮させてくれる指揮者であるべきです。
最も色彩的で、官能的なレパートリーでも、
いわゆる、飾り立てた部分は、
主要設計に従うもので、
指揮者の最も重大な仕事は、
これらの最も特別な瞬間も、それ自体ではなく、
もっと重要なものを彩るために取っておくことです。」

このように、ここで演奏している、
ハンドリー自身の真摯な言葉がさしはさまれることで、
この録音を聴きたい気持ちが高まることは言うまでもない。
しかも、下記のように、その言葉を反映して、
紡ぎだされる音楽をこう要約している。

「事実、魅力的な厳格さと、長大な形式論理のセンスが、
ハンドリーの最良の仕事を特徴づけており、
このきりっとした演奏で、
(フィナーレの、素敵な、そして真実味ある、
ソステヌートの弦楽の音色を見れば明らかだ)
正確なペースを刻むエルガーの2番も、その例外ではない。
最後に一言。
最後の楽章の最後のクライマックスで、
(fig.165の後の8小節)
低音のオルガン・ペダルを付加するハンドリーの決定は、
ボールトの回想に従ったものである。
(王室オルガン・カレッジでの1947年の公演より)
『エルガーは、32か64フットのオルガン・ペダルを、
可能なら加えただろう。』」

Track6.
堰を切って流れ出すような、
勇壮な楽想だが、妙に苦み走って、
輝かしさの中に、苦しさがある。

この解説にある、魅力的な厳格さ(compelling rigour)
というものを実感させる、
きりりとした推進力が魅力的な指揮ぶりである。

ホルンの強奏も豪快で、この極めて複雑な構成の大作を、
迷いなくさばく様子、その自信が心地よい。

第2主題は、何となく、亡霊のようなもので、
茫然自失して、内省を通りこして、
人を戸惑わせるものがある。

回想しているような趣きにもなり、
焦燥感に駆られているような趣きにもなる。

たびたび、興奮から一転、高度低下する。
ぶつぶつと途切れながら進行し、
迷路に入ってしまったような音楽だが、
勢いのある楽想が湧き上がって、
各楽器のきらめくような効果のおかげもあって、
何とか進んでいく。

6分5秒くらいから、
夕闇が迫って、不思議な霊がちらつきはじめる。
ハープの微睡と独奏ヴァイオリンの不思議な音色が重なり、
いかにも夢遊病の体験ができる。

8分59秒くらいでは、
この不気味なメロディが本格的に出て、
夏の夜、子鬼たちに取り囲まれるエルガーの姿がある。

解説者が、「第1楽章の中間部で現れる、
情熱的なチェロの憧れにみちたメロディによる、
不吉なエピソードの神秘的な美しさ」と書き、
エルガー自身、「私は夏の夜、庭でさまよい歩いた時の奇妙な体験」
と語った部分で、かなり長い。

金管の強奏、ぱちぱちと弾けるような木管の効果で、
鞭がしなるようにクライマックスが導かれて行くが、
それも、すぐにむにゃむにゃと、言葉足らずに消えたりする。
第1楽章最後は、超人的なエネルギーで終結させているが。

このような音楽で、聴衆が戸惑わないと思う、
エルガーもエルガーである。
ハンドリーの、見通しのよい棒さばきがあって、
何とか導かれて来た感じ。

Track7.
極めて痛切なメロディや、葬送の太鼓が交錯する、
悲しく暗い、しかし、非常に感動的に美しい第2楽章も、
基本的には、テンポも厳格に進行する。

これも管弦楽の音色の魅力が満載で、
エルガーらしい工夫、彫琢のほどこされた、
楽器のコンビネーションやテンポ設計によって、
目くるめく陶酔を伴いながら、
我々を浸らせてくれる。

途中、これまた、喪失感満載の葬送行進曲の楽想が出るが、
ここでひらひら舞う弦楽と木管の装飾に、
まるでゴルゴダの道行くような、
引き摺るような歩みの表現は、
極彩色で彩られた宗教画のように印象的だ。

それでも、音楽は希求しては、諦観するような、
身もだえをくり返して進行して、
痛々しいほどの説得力が生まれていく。
そして、10分50秒くらいで、
決然としたメロディがあふれ出し、
感極まって砕け散る。

再び現れる、抒情的なメロディにも、
ハープや唐草模様の音形の弦楽群が絡み付いて、
マーラーの「第九」のアダージョの進化型みたいな様相さえ呈する。

12分40秒くらいで、音楽は一線を越えてしまう。
このあたり、ブルックナー的なイメージと重なる。
が、ちょっと違う虚無的な終わり方。

ハンドリーの指揮では、この感傷的とも言える楽章を、
みずみずしく、風通し良くまとめている。

Track8.
第3楽章は、急速なパッセージが縦横無尽に交錯する、
軽妙な開始ながら、エネルギッシュな音楽で、
だんだん、戦闘シーンのように、
妙に生々しくスペクタクルなものになっていく。

楽器による主題変容の妙も聞きどころであろう。

だが、妙に他人事で、
心ここにあらず、みたいな、
虚しさ付きまとっている。

風に吹かれてきりきり舞いするような、
楽想も出て、まるで、フランチェスカ・ダ・リミニである。

木管による優美な、しかし、経過句的なメロディが、
遥か遠くを思いやる時に、ようやく真実味が出る。
が、この間も、時々、音楽が空中分解しそうな瞬間は、
多々あって、何とか、それを紡いでいくのが大変である。

このような時に、ハンドリーの指揮は、
小気味よい推進力で、見通し良く進行するので、
安心して身をゆだねることが出来る。

それから、またまた盛り上がって、
タンバリンまで打ち鳴らされて、
戦闘シーンも華やかになる。

第1楽章でさまよっていた子鬼が、
ちらちらと現れ出し、
4分45秒くらいから姿ははっきりするばかりか、
5分を過ぎると、モンスターのように襲いかかってくる。

エルガーが、「熱を出した時に、ずきずきと頭の中が痛むような」
と表現したような、がんがん感である。

6分3秒くらいから、
再び、このロンドを特徴づける、
風に揉まれるような楽句が出る。

最後の盛り上げも、エッジを立てた、
鮮やかなオーケストラ・ドライブが爽快である。

Track9.
終楽章は、これまでのもやもや感を払しょくしてくれそうな、
晴朗な主題が、粛々と現れる。
これが対位法的に立体的に膨らむと、
勇壮な第2主題が出て、
まず、一里塚を形成しながら、管弦楽がさく裂していく。

ハンドリーは、かなりブレーキをかけながら、
このあたりをまとめて行くが、
その後どうなるのだという、
緊張感が高まって、壮大な平原にたどり着く感じ。

ここからは、めまぐるしく楽想が錯綜するところだが、
ハンドリーは、それらを丁寧にあるべき場所に配置する感じ。

トランペットの甲高いファンファーレがあるかと思うと、
なよなよと弦楽が失速して行くなど、
まったく方向の定まらぬ作品で、
奮い立つようにティンパニがリズムを刻んで、
ようやく空中分解を免れている。

改めて、朗らかな主題が出ると、
興奮と高揚、内省などが交錯して進むが、
爆発しても、けっして先を急がない。
その都度、ブレーキをかけながら、
出てくるやんちゃ坊主を次々に、
整列させて行くように、
ハンドリーは振る舞っている。

この過程の中で、充足したクライマックスが築かれており、
そこに、静かに、荘厳なオルガンの音が添えられる。
11分15秒くらいから、11分35秒くらいにかけてである。

高音の清純さにハープがきらめき、
まるで、マーラーの「大地の歌」の最後のように、
人跡未踏の彼方を志向する部分が高まって音楽が終わる。

なるほど、この部分を解説者は、
「複雑なハープの刺繍を伴う、
慰めに満ちた弦楽の音色での、
この交響曲の魔法のようなエピローグ」
と表現したようだ。

また、この録音では、解説にあるように、
この諦観のエピローグの前に、
しめやかにオルガンのペダル音が添えられているが、
私は、このオルガンがあることによって、
この作品の魅力が倍加したことを認めずにはいられない。

どうしてもハンドリーの録音を聴いて、
充実感を感じてしまうのは、
このわずか8小節、20秒だかの、
充足感あってのことのように思えてならない。

奥付には、聖オーガスティンのキルバーンという、
ロンドン北部の教会のオルガンが使われた、
と書かれている。
ウィキペディアには、「北ロンドンの大聖堂」とある。

なお、オーケストラ演奏そのものの録音は、
ワットフォード・タウン・ホールとある。

何と、このオルガン(演奏はデイヴィット・ベル)は、
もう一つの収録曲、
「海の絵」の第3曲「安息日の海の朝」と、
第5曲「スイマー」にも使われているらしい。

では、ハンドリー指揮のCDの解説で、
「海の絵」についても見てみよう。

「エルガーはいまだ、一般聴衆にも批評家にも、
名作『エニグマ変奏曲』によって賞賛に酔っている頃、
1899年7月、『海の絵』に最後の筆を入れていた。
これはコントラルトとオーケストラのための
歌曲集で、3か月後には26歳のクララ・バットが、
(作曲者の回想のように、人魚のような衣装で)
たいへんな成功を収めた
Norwich音楽祭での初演で独唱者を務めた。」

この人魚の服のぴちぴち歌手が、
成功した主要因なのではないか、
などと勘ぐってしまう。

「全部で5つの歌からなり、
おそらく、もっとも霊感を感じて書いたのは、
ロデン・ノエルの詩による、
重苦しく印象的な海景を描いた、
最初の『海の子守唄』と、
第4曲、この上なく感動的な、
リチャード・ガーネットの詩による、
『珊瑚礁のあるところ』
(ハープと木管の楽しげな色彩の断片で終わる)
であろう。」

この解説を書いた人は、
かなり、この作品を評価しているようで、
少しうれしい。

Track1.「海の子守唄」。
びっくりするのは、
心を込めきったオーケストラの繊細な音色である。
グレーヴィイの声は、暗いが格調高く、
内省的な感じすらして好ましい。

オーケストラが風のように舞う中、
決然と進んで行くので、
エルガーの書いたわずらわしい装飾が、
あまり気にならない。

途中で「妖精の光」のあたりで、
軽やかに舞い上がる声楽部を、
エルガーの音符の多いオーケストラが、
邪魔している所も、
そこそこカバーした演奏である。

バルビローリの演奏を聴くと、
録音のせいか、いくぶん、音が籠っている感じ。
若いベイカーも、少し硬くなっている。

ヒコックスの演奏では、
フェリシティ・パーマーもオーケストラも、
すべてが地味な感じである。
楽器の分離も良くない。

今回のCDの解説の後では、
この歌曲が、妙に美しく聞こえるが、
実際、演奏も優れている。

Track4.「珊瑚礁のある所」。
やはり、ハンドリー盤は、
オーケストラと声のバランスが良い。
グレービイの声の美しさが、まず堪能でき、
背景のオーケストラの粋な色彩が、
従の関係で、この声を引き立てている。
この曲の軽やかで、エキゾチックな感じに合っている。

名手ベイカーも若かったのであろう、
歌いだしからして、遠慮のようなものがある。
が、このバルビローリ盤の録音は、
1965年という、半世紀も前のものなのに、
かなり優れものである。
ベイカーもだんだん乗ってきて、
その澄んだ声を味わえる。

ヒコックス、パーマー盤は、
ディジタル録音初期というハンディか、
いかにもEMIから連想される、
模糊とした録音となっていて、
楽器の個性が味わえない。
パーマーの声は風格があるが、
みずみずしさに不足するのは、
おそらく録音のせいであろう。
独奏ヴァイオリンなど、全然、フレッシュに聞こえない。

また、解説にもあった、最後の木管とハープが彩る色彩も、
バルビローリ盤などの方が、粒が立って聞こえる。

「『海の安息日の朝』と、『スイマー』
(それぞれ、エリザベス・バレット・ブラウンと、
アダム・リンゼイ・ゴードンの詩による)
は、大オーケストラで素晴らしく
(印象的なオルガンも聴かれる)鳴らしているが、
魅力的で単純な第2曲
(作曲家の妻、アリスの筆による『港にて』)で、
エルガーはオーケストラを切り詰めている。
さらに言うと、これらのスリリングで豪華な付曲は、
最初の曲の材料を活用して、
うまい具合に全曲を有機的に結合している。」

まず、あまり問題のない、第2曲から聞いて見よう。

Track2.「港にて」。
この軽妙な小唄のような小品を聴くには、
ぜひ、この3種の録音では、
ハンドリー、グリーヴィイ盤で聴きたいものだ。
歌いだしから、かつて、ダブラツが歌った、
「オーヴェルニュの歌」を想起した。

私はここに来て、なるほど、
エルガーの「海の絵」とは、
そういう文脈上で語るべき歌曲かと納得した。

オペラでもなく、歌曲でもなく、
進化した民謡としての側面からして、
歌い崩しても良いと思うくらい、
歌手に大きな自発性がないと、
歯が立たないのではなかろうか。

歌のお姉さん的な魅力が欲しいのである。
ベイカーの歌などは、まるで、しゃれっ気がなく、
パーマーの歌は、見せ場がなく、途方に暮れている感じ。

グリーヴィイの歌では、しっかりと歌手が、
すべてを受け持っているので、
伴奏に小うるさい弦楽が重なってきても、
それが華を添える感じで微笑ましいが、
パーマーでは、伴奏に存在感がなく、
ベイカーでは、安っぽく聞こえた。

さて、大オーケストラを駆使した問題の2曲。
まず、「安息日」から。

Track3.「安息日の海の朝」
もう、ここまで来ると、あばたもえくぼ状態かもしれない。
ハンドリー盤のすべてが好ましく思える。
舞い上がるグレーヴィイの声のハンサムさ。

伴奏の立体感の広がり、出たり入ったりする楽器、
そのすべてが嬉しくなってしまう。
2分10秒あたりの、「この日を讃えよ」では、
オルガンがばっちり充足の伴奏をする。

4分45秒あたり、
フレッシュなヴァイオリン独奏を伴う、
素晴らしい高揚感を、うまく、オルガンが支えている。
5分半過ぎでも、オルガンの存在感は絶大だ。
グレーヴィイの歌唱は、メリハリがあって、
主体的にこの曲を背負って立っている。

ベイカーの声は、
解釈の多くを指揮者に任せたのであろうか、
小技を出しているが平板に聞こえる。

この喜びと期待に満ちた、
夢想家の女流詩人の妄想の爆発と、
完全にはシンクロしていないようだ。

ヒコックス盤には、どーんとオルガンも加わり、
管弦楽も縦横無尽に動き、歌手の興奮も感じられ、
今まで聞いた中では、突出して良い演奏を繰り広げている。

Track5.「スイマー」
ハンドリーの指揮は、かなり引き締まったもので、
楽器もすっきりと清潔に響き、
そんな中、グリーヴィイが、
「愛よ、愛よ、私たちがここにさまよった時、
手に手を取って、輝かしい天候の中、
高みから、シダやヒース生い茂るくぼみに。
神は確かに私たちを少しだけ愛していた。」
というフレーズを歌う時のぞくぞく感。

5分50秒あたりから、オルガンを交え、
声が裏返るかと思うほどに、音楽をさく裂させて圧巻だ。

フェリシティ・パーマーは、ここでも、
かなり圧巻の演奏を聴かせている。
このような複雑な音響の塊をさばくのは、
ヒコックスも得意とするところで、
ヒコックス盤は、CDの最後のこの曲に至って、
妙に、共感豊かな演奏を聴かせる。

「勇敢な白い馬たちよ」のところで聴かせる、
はったり感満点のオーケストラのドライブも、
私には、とても素晴らしく思えた。

が、いずれにせよ、最初に書いたことだが、
このややこしい状況(稲妻が走り、大波が寄せるのを、
遠くから見て、自分の愛を回想する)の主人公は、
本当に泳いでいるのだろうか。

このパーマーが歌う、
ヒコックス盤の解説(バーネット・ジェイムズ)も、
実は、「海の絵」に関する情報はかなりのもので、
「エルガーの声楽曲の中で、
もっとも永続的に人気を得ているもののひとつ」と書いて、
各曲にそれぞれ、そこそこ言及している。

(が、「最初から時代遅れの詩に作曲していて、
もはや、我々には訴えることのない詩だが、
エルガーにはぴったり当てはまったようだ」
などという批判めいた一言もある。)

「第1曲、『海の子守唄』は、
上がったり下がったりする弦楽で表される、
ひたひた波がやさしく寄せる海の夜想曲。
第2曲、『港にて』は、作曲家の妻で、
慎ましい詩的才能があったアリスの詩により、
エルガーは他に1、2曲、彼女の詩に作曲している。
この曲には特別な歴史があり、
最初は1896年『愛だけ』という題で出された。
『海の絵』では、『カプリ』という副題を持って登場、
海の嵐を見ている二人が、お互いに、何があっても、
『愛だけはそのまま』と安心させる。・・
第3曲『海の安息日の朝』は、
フル・エルガーらしい(full Elgarian)
音楽的発案の豊かさとエネルギーを持つ
2曲の1曲である。
ここでのエルガーは自然に力と雄弁さを発揮した、
交響曲やオラトリオの作曲家である。
最後の節で、最初の曲の引用がある。
全曲は、直接の引用はないものの、
すべての船乗りが知っている聖歌、
『海での危機にある人たちに』の雰囲気が底流している。
第4曲は、全曲で最も有名な『珊瑚礁のある所』で、
覚えやすいメロディとリズム構成、
ハープが目立つ相違豊かな楽器法で知られる。
第5曲で、曲集の最後の曲『スイマー』は、
オーストリアの詩人、アダム・リンゼイ・ゴードンの詩による。
全曲の中で、もっとも力に溢れたもので、
嵐の力に逆らって泳ぐ男が描かれ、
世界の敵意に立ち向かうエルガー自身のように、
たくましく、自信にあふれ、
彼は、それを自身のもがきや野望に見立て、
思想と、被害を受けながら恐れ知らずの精神の、
寄港地のような愛の追憶でそれを強化している。」

では、最後に、ハンドリー盤の解説を見てみよう。

「ヴァ―ノン・ハンドリーが、
1981年にコントラルトの
ベルナデッテ・グレーヴィイと、
素晴らしい共感をもってコラボしたこの演奏は、
最初にリリースされた時から、
国際的な熱狂を持って迎えられ、
(グラモフォン誌は、
『この素晴らしい録音は、我々の世代を代表する、
エルガーの解釈者だと確信させた』と述べた)
今でも、いかなる競合盤にも比肩しうる。」

ということで、私は、まったくこの意見に同意する。

得られた事:「エルガーは、歌曲であろうと交響曲であろうと、ここぞという時には、オルガンの低音のパワーを欲した。」
「主体的かつ個性的な歌唱力と、すっきりした録音なくしては、エルガーのごちゃごちゃしたスコアの中で、スイマーのような歌手は溺死する。」
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by franz310 | 2013-06-01 23:22 | 現・近代 | Comments(0)

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その379

b0083728_1145589.jpg個人的経験:
エルガーが書いた、
合唱付き交響詩のような、
「ミュージック・メイカーズ」という
不思議な作品(作品69)を聴いたが、
これは、第2交響曲作品63や、
ヴァイオリン協奏曲作品61という、
円熟期の絶対音楽と三部作をなす、
これまた、へんてこな位置づけであり、
共感して良いような悪いような、
悩ましい内容の作品でもあった。
音楽家であることの誇りと疎外感が、
ごちゃ混ぜになった歌詞である。


ヒコックスのCDの解説者はシュトラウスの
「アルプス交響曲」になぞらえていたしが、
多くの人は、自作引用の自画自賛に見えるのか、
「英雄の生涯」と比較したりもする。

が、聴いた感じのとりとめのなさでは、
アンチ「ツァラトゥストラ」みたいに聞こえる。

エルガーはシュトラウスの技法に憧れていたというが、
出来上がったものは、
ニーチェ、シュトラウス連合なら、
鼻で笑って一蹴するような、
めそめそ音楽になってしまっている。

EMIから出ていたヒコックス指揮のCDでは、
この40分ほどの作品に、
逆に、作品番号の若い、作品37の、
「海の絵」という20分ほどの歌曲集が、
併録されていた。

一つ前の作品36が、出世作の
「エニグマ変奏曲」であるから、
その位置づけは、私の中では、
「若書き」という感じである。

「ミュージック・メイカーズ」は、
どうもつかみどころのない作品で、
終わり方も消えるような感じであったが、
この「海の絵」の方も、
大オーケストラを駆使して、
あちこちで盛り上がるのだが、
どうも、散漫な印象を感じる。

ヒコックスのCDでは、
「ミュージック・メイカーズ」が、
消えるように終わると、
「海の絵」の、センチメンタルで
静かな序奏が始まるので、
前の曲がいつ終わって、
後の曲がいつ始まったか、
分からない感じであった。

この曲は、古くから、バルビローリのレコードで、
広く知られていたが、他に、どんな歌手が歌っているか、
考えても、まるで思い出すことが出来ない。

そもそも、自作の録音を多く残したエルガー自身、
この曲を録音していないのではないか。

さらに書くと、バルビローリが指揮した録音でも、
この曲は、ひどい紹介のされ方になっている。

私はずっと昔から、バルビローリが指揮し、
悲劇の女流チェリスト、
ジャックリーヌ・デュプレが独奏を務めた
エルガーのチェロ協奏曲のLPは持っていたが、
それはディーリアスのチェロ協奏曲が入っていて、
「海の絵」が併録されたものではなかった。

改めて購入したのは、
先ごろ、やたら安売りしていた、
EMIマスターズの、
Great Classical Recordingsシリーズのものである。

安いが、ちゃんと解説もあって、
オリジナル・テープからリマスタリングしたという、
何となくお買い得感のあるものだが、
表紙写真がデュプレの大写しというのは、
いかがなものだろうか。

演奏者名もデュプレだけが大きく赤字で、
エルガーに迫っており、
「海の絵」を歌うジャネット・ベイカーも、
バルビローリのロンドン交響楽団も、
みな、デュプレの文字の半分以下の黒字なのである。

1965年録音の「チェロ協奏曲」や、
ベイカー独唱による「海の絵」だけでなく、
表紙には書かれていない、
演奏会用序曲「コケイン」が、
(オーケストラはフィルハーモニア)
最初に収められているので、
むしろ、バルビローリが主役のようなCDである。

こんなCDを聴きながら「海の絵」を語ろうというのも、
多少、気が引ける感じがする。
が、マスターテープからのリマスタリングのせいか、
1962年録音の「コケイン」序曲も、
けっこう、豪壮な鳴りっぷりで、
EMIの録音で感じがちだった、
もこもこ感が解消されてうれしい。

また、解説はかなり読み応えがあり、
「エルガーの生涯」(2004)とか、
「桂冠指揮者バルビローリ」(1971、改訂増補版2003)
といった、かなりディープな書物の著者、
マイケル・ケネディという人が書いている。

ただし、「海の絵」に関しては、
いかに、この筋の専門家の筆であろうとも、
聴き始めるに当たって、気分が高ぶらない内容。

「作品へのその愛情と比べると、
バルビローリは演奏会で、
これをあまり取り上げなかった。
彼は、この作品を好きではなかった、
キャスリーン・フェリアと、
不幸な経験を持っていた。」

なんなんだ。いったい、何があったのだ。
が、それに関しては、それ以上は書かれていない。
文脈からして、想像できるのは、
コンサートで失敗したのであろうということ。
が、まったくの妄想かもしれない。

ウィキペディアによると、
何と、この曲で、名歌手フェリアは、
この指揮者のバルビローリと出会ったとある。
1944年12月の事である。

フェリアは、1912年生まれであるから32歳、
バルビローリは、1899年生まれなので45歳である。
この二人が親密な関係であったのは良く知られた所であるが、
フェリアは1953年にわずか41歳で亡くなっているから、
そうした事いっさいを含めて、
この解説者は、「不幸な体験」と書いたのだろうか。

「しかし、バルビローリは、1964年に、
『ゲロンティアスの夢』の録音で共演して、
ジャネット・ベイカーに、
この曲が合っていることを知っており、
特に、『珊瑚礁のある所』の
彼女の魅力的な歌唱は彼にそれを確信させた。」

ベイカーは1933年生まれなので、
64年と言えば、フェリアが現れた年に近い。
さすが碩学、フェリアの話から、
いきなりベイカーに話が移っている。

が、せっかく出て来た、
このCDでの独唱者であるが、
下記にあるように、
ベイカーもまた、この曲が好きではないという。

「彼女は最近のインタビューで、
この曲をお気に入りだったことはない、
と認めているのだが。
『<珊瑚礁>と<海の安息日の朝>は、
美しいと思います。
でも、JBの天才は、それを確信させました。
あなたもそう信じるでしょう。
私は録音の間、そう信じました。
みんなそう思い、私も歌って嬉しかった。』
私は、サー・ジョンがまさしく、
その録音セッションの合間に、
電話をかけてきて、
いかに興奮しているかを伝えてきたことを覚えている。」

いったい、この解説者は、何歳なのだろう、
と調べてみると、1926年生まれで、
ヴォーン=ウィリアムズの晩年の友人でもあったらしい。

1965年の時点では32歳である。
66歳のバルビローリが、
自分の半分の年にも満たない小僧に、
わざわざ電話をかけて来たのだろうか。

「『彼は、砂浜に打ち寄せる波を、
(海の安息日)あなたの前に描きだし、
あなたは潮の満ち干を感じることが出来るだろう。
そう思わないかい、ディア・ボーイ?』
そういって、実際、彼は実際、そうしていて、
オーケストレーションは、
前年の『エニグマ変奏曲』同様、
生き生きとして、それでいて、
透明感のある質感を保っている。」

ここでの「彼」は、エルガーということであろうか。
碩学が書くと、いろんな人がいっぺんに出てきて、
絶え間なき頭の切り替えが重要となる。

「クララ・バットが、
その年のNorwich Festivalで歌うために、
1899年に書かれた『海の絵』は、
オーケストラ歌曲集の初期の一例である。
エルガーは、ロデン・ノエル、エリザベス・バレット、
リチャード・ガーネット、
アダム・リンゼイ・ゴードンによる、
様々な愛に関する5つの詩を選び、
第2曲『港にて(カプリ島)』は、
作曲家の妻、アリスによるものである。」

こんな風に、一部、公私混同があったりするから、
この曲は、なんだか散漫な印象があるのだろうか。
それにしても、1899年といえば、
バルビローリが生まれた年で、
こんな事からも、
彼のこの曲への愛着があったのかもしれない。

「この曲をエルガーは1897年に、
ピアノ伴奏歌曲として書き、
後に歌曲集に入れ込むために、
改訂してオーケストレーションした。
この曲と、1880年代のカドリール舞曲から発展した、
『珊瑚礁のあるところ』は、軽い編成であるが、
『安息日の朝の海』の宗教的、官能的な情熱や、
『泳ぐ人』のワーグナー的な嵐には大編成を使った。」

このように、「海の絵」の解説は、
最初に書かれているが、収録は最後である。

なお、このCDには、この手の廉価盤の常として、
歌詞はついていない。
幸い、ヒコックスのCDには、歌詞があったので、
これを参考にすることが出来た。

Track6.「海の子守唄」(ロデン・ノエル詩)
1834年に生まれ、
エルガーが、この曲を書く頃まで生きていた詩人。

この曲のセンチメンタルな導入が、
どうも、なよなよしていて、私は苦手である。
エルガーは、もっと剛毅であって欲しい。

「海鳥たちは眠り、世界は悲しむことを忘れ」
と歌いだされるもので、
時折、扇情的な盛り上げや、
ハープや木管楽器による装飾的な音形なども、
何となく安っぽい広告のようだ。

歌詞も、どうもぴんと来ない。
「私は心優しき母。
心落ち着けてわが子よ、
荒々しい声は忘れて。」
と、メルヘンチックである。

エルフィン・ランドでの光景のようだが、
これは、「妖精の島」とでも訳すのだろうか。
どしんどしんと打ち付ける波の描写は、
だとしたら、大げさにすぎないだろうか。

どうも、クラシック音楽というより、
童話の挿入歌みたいな感じがする。
「ヴァイオリンのような海の音。
悲しみ、おののき、罪は忘れなさい。
おやすみ、おやすみ。」

しかし、味わうべきは、
ジャネット・ベイカーの、
いくぶん陰りのある、しかし、
冴え冴えとした格調の高い歌いぶりで、
非常に、情感を込めながら、
安っぽくなっていないのがすごい。

ヒコックス盤では、フェリシティ・パーマーが、
いくぶん、成熟した強靭な声を聴かせ、
オーケストラもよく反応している。

Track2.「港にて(カプリ)」(C.アリス・エルガー詩)
これも、In Havenという題名に、(Capri)と、
わざわざ断っているのが、意味深で嫌味な感じ。

なぜなら、下記のような情熱的な歌詞は、
別に、カプリ島である必要はないと思われるからである。
軽妙な小曲で、曲想は、まさしく童謡みたいだ。

「わたしの唇にキスして、やさしく言って。
『喜びは、波で洗われ、今日、消えるかもしれない。
でも、愛だけは残るだろう』。」

ヴァイオリン群がヴィヴラートで伴奏する部分など、
ムード音楽的発想である。

Track8.「海の安息日の朝」
(エリザベス・バレット・ブラウニング詩)
この人は、19世紀初頭に生まれた女流。
肖像画で見る限り、かなりロマン派的な、
やばそうな感じの風貌。

これは、ベイカーも美しいと書いた曲だが、
解説者も官能的、宗教的と書いた。
そんな感じの序奏から期待が高まる。

かなり、前の2曲とは異なり、
この魔性の瞳の詩人のせいか、
レチタティーボ調で、エルガーらしい、
剛毅と感傷の交錯が成功している。

ベイカーが、このほとんどメロディを歌わない、
禁欲的な歌を「美しい」と書いたのには、
何故か、嬉しくなってしまった。

「厳粛に船首を向けて船は進んだ、
深い闇を見つけるために、
厳かに、船は行く。
私は力なくうなだれ、
別れの涙と眠気によって、
瞼が重みで下がって来る。」

安息日の朝とあるが、
とても朝とは思えない。
また、女流とは思えない、
妙なイケイケ感が漂っている。

「新しい光景、新しい不思議な光景、
回りの海は、荒れ狂い、
空は、私の上で、
月も太陽もなく穏やか。
ただ、その日の輝かしさを讃えよう。」

ここで、交響曲のような、
壮大な楽想が現れるのは、少々、安っぽいが、
いかにもエルガーらしい、
いや、ワーグナーみたいだが、
居丈高な様子が、何となく許せてしまう。

「私を愛せ、友よ、この安息の日に。
回りの海は歌う、君たちの歌う讃美歌に合わせ。
私が跪いた所で、祈ってほしい。
君たちの声は、届かないのだから。」

こうなって来ると、もう、歌詞の内容は理解困難。
いったい、この人は、どうなっているのだ。
ナルシスムと、意味不明な高揚感で、
確かに、官能と宗教の交錯だ。

「わたしのこの安息日には、会衆の賛歌はないが、
神の精霊が慰めを与えてくれる。」

この人はイタリアに駆け落ちをしたというが、
その時の歌であろうか。

以下の部分は、まるで、マイスタージンガーのような、
英雄的な歌となって高まって行く。
波が打っては返し、すごい高揚感である。

「私を助け、高いところを見せてくれます。
聖者がハープと歌で。
終わりなき安息日の朝。」

Track9.「珊瑚礁のある所」(リチャード・ガーネット詩)
エルガーがこの曲を書いた時、
まだ存命であった1935年生まれの詩人。

軽い編成で、ベイカーも好きな曲だとある。
ヘンテコなリズムで、
エキゾチックな南国への憧憬。

ベルリオーズの「夏の夜」みたいな感じである。

「深い所に優しく静かな音楽がある。
風がしぶきを優しく誘うと、
僕に行こうと誘う、
珊瑚礁のある場所を見に。」
という感じの軽めのソネット風。

Track10.「泳ぐ人」(A.リンゼイ・ゴードン詩)
1833年生まれ、1870年に早世した、
オーストラリアに渡った詩人。

この曲は、編成の大きさで知られる。

この詩は、長いし、ごちゃごちゃしている。
結局は、目を凝らして眺める海の嵐になぞらえた愛の歌。

エルガーの音楽は、風雲告げる序奏から、
雄大な楽想の断片が見えて、
レチタティーボ風の歌唱が始まる。

何となく、シューベルトのバラード風の緊迫もある。

「短く鋭い激しい閃光で見える
南の方に、見える限りに見えるのは、
渦巻く大波、
海は盛り上がり、波頭が砕け散る。」
などと、恐ろしい描写のたびに、
音楽は素晴らしい高揚を見せ、
これまた、ワーグナーのような 絶唱となる。

こんな所で、いつ泳ぐのかと思うのだが、
長い長い詩を読み飛ばして行くと、
「血塗られた刃のような一筋の光が、
水平線を泳ぐ。緑の湾を赤く染めて。
虚ろな太陽の死の一撃で、嵐の絡まりを打ち破る。」
などと後半になって出てくるから、
「泳ぐ人」とは、こうした嵐が終わる光景を、
見ている人か、嵐の中の太陽の光を指すのだろうか。

愛の歌だと思えるのは、
何だかよく分からないなりにも、
最後がこんな風になっているから。

「集まり、跳ねた、勇敢な白馬たちよ。
嵐の精は吹きすさぶ手綱を緩めた。
今や、もろい小舟もがっしりとした船だ。
そのへこんだ背中に、その高く弧を描くたてがみに。
誰も乗ったこともないような乗り方で、
眠たげな、隠された渦巻く大波の中、
禁じられた衝突を越え、予告された湾に向かう。
光が弱まることなく、愛も衰えない所へ。」

が、これは、いったいなんだろうか。
困難な愛に向かって突進していく男の美学なのか。
あるいは、嵐が収まったところで、
改めて、愛情を再確認しているのだろうか。

何となく、しょぼい感じで始まった歌曲集だが、
演奏会で、この大言壮語の美辞麗句と大音響で、
これだけ盛り上げれば、聴衆も喜ぶかもしれない。

が、この曲にエルガーの好みと、私の拒絶反応の、
エッセンスのようなものが同居していることが分かる。

過剰なレトリックで、言葉が濫用され、
その一つ一つに過剰に感情を膨らませ、
何だか、結果として、聴くものが興味のない世界にまで、
むりやり誘おうとしている。
これでは、ついて行けない。

ひょっとして、これは、何の象徴、みたいな解説があれば、
もう少し楽しめるのだろうか。

さて、「海の絵」の解説の後、
エルガーの「チェロ協奏曲」の解説になるが、
この文章を書きながら、これを流していても、
リマスタリングの効果が素晴らしいことが分かる。
生々しいチェロの音色は、
その弦の震えまで見えるようである。

それに加えて、当然語るべきは、
デュプレの演奏、その気迫のすさまじさだが、
解説に面白いエピソードがある。

先の解説の引用は、「海の絵」に関するところから、
抜き出して始めたが、
冒頭は、こんな感じで、この録音の意義から、
書き出されている。

「1965年の8月に、
サー・ジョン・バルビローリが、
エルガーの『チェロ協奏曲』と、
『海の絵』を録音した時、
彼は、アーティストとして多大な賞賛をし、
個人としても大きな愛情を持っていた、
チェリストのジャックリーヌ・デュプレと、
メゾ・ソプラノのジャネット・ベイカーという、
二人の若手を起用した。
1956年に彼は、
ジャックリーヌ・デュプレが、
11歳の時に、スッジア賞を受賞した時の、
コンクールの審査員であった。
彼は、興味をもって、
彼女のキャリア発展を見ており、
1965年、ハレ管弦楽団に彼女を、
エルガーの演奏に招いた。
彼女は作品に自由奔放に接し、
バルビローリは、彼女の解釈を、少し落ち着かせ、
常に気持ちを途切れさせることのないように説得した。
しかし、彼は彼女のテンペラメントを賞賛し、
『若い時にやり過ぎなくて、
後で何を切り詰めるんだい』と語った。
生粋のエルガー信者の中には、
彼らの解釈はもっと平静を保つべきだ、
という人がいるかもしれないが、
エルガー自身はそうは言わなかったかもしれない。
1932年、少年だったユーディ・メニューインが、
『ヴァイオリン協奏曲』を演奏して、
その厳格さを奪ったとして、
やり玉に上げられた時、
作曲家は、こう言い返した。
『厳格さなどどうでもよい。
私自身、厳格な人間ではない。』
経済的理由から、EMIは、
これらの録音に際して、
バルビローリの愛したハレ管弦楽団ではなく、
ロンドン交響楽団(LSO)を起用した。
若い頃、バルビローリは、LSOのチェロセクションで、
エルガーのチェロ協奏曲の初演でリハーサルを経験し、
1927年には、エルガーの『第2交響曲』を、
24時間以内に勉強して演奏するという機会に、
このオーケストラを初めて指揮した。」

これは、ビーチャムの代役として登場したのである。
さすがバルビローリ研究家である。
すごい薀蓄だが、あまりこのCD鑑賞とは関係ない。
むしろ、コケイン序曲が、
何故、フィルハーモニア管との録音か、
などを知りたくなるのだが。

「1965年8月19日、
彼らは協奏曲の第1楽章とスケルツォを、
ほとんど一回のテイクで録音し、
オーケストラから自然に、
ジャックリーヌ・デュプレに拍手が沸き起こった。」

スケルツォとは、
第2楽章の「レント―アレグロ・モルト」のことで、
前半2楽章がぶっとおしで演奏された結果が、
ここに収録されている、ということである。
自然に拍手が起こるというのも、
分からなくない演奏の勢いである。

第2楽章は、主題をぽろぽろ、
ピッチカートでチェロがかき鳴らして始まる。

豪壮な悲哀のメロディを挟んで、
めまぐるしい軽妙な部分が続く。
ここでも、大きく、デュプレは、
出て来たメロディを、これ以上ないほどに、
共感を込めて歌いながら、
集中力を切らさず、細かいパッセージを散りばめていく。

オーケストラが薄いのに対し、
チェロは、すごい技巧を畳み掛けなければならない。

確かに、緊張感からしても、
これを弾ききった時には、
拍手が起こってもおかしくはない。

が、この録音の説明の最後には、
意外な事が書かれている。

「このレコーディングのリリースは、
予想どおりの成功だった。
彼女が、最初にこのディスクを聴いた時、
『私がやりたかったことと全然違う』と、
大泣きしたにもかかわらず。」

しかし、
This is not at all what I meant!
と演奏者自身が言ったという録音が、
我々の心を打つとしたら、
彼女が満足した演奏は、
我々の心をもっと打つのか、
打たないのか。
悩ましい言葉である。

この曲は、この演奏と共に語られて来たような、
幾度も語り尽された世紀の名演奏であるから、
私が、それに付け加えるべきはない。

LPでも買ったし、CD化されてからも買った。
そして、このリマスタリング盤も購入した。

解説には、まだ、この曲についての説明がある。
「1918年から19年に書かれたチェロ協奏曲は、
彼が毎年、訪れていた、
最後の3曲の室内楽曲を書いた、
サセックスのコテージで書かれた。
彼は病気がちで第1次大戦の殺戮に絶望し、
協奏曲は悲劇的で秋の気配が濃厚なものになった。
ある世界への郷愁が消え去ってしまった。
作品はなおも精力的で、
最後の楽章のある部分は、
1914年以前の作品の持つ
ある種の居丈高や興奮があるが。
彼は、この作品を、
『真の意味の大作で、
良い作品で生命ある作品だと思う』
と書いた。
聴衆の脳裏に残る
アダージョでの寂しい晴朗さや、
フィナーレの最後に爆発的な怒りがあるが、
この録音では、それが痛切に描かれている。」

デュプレは、おそらく、こうした要素を、
直観的に嗅ぎ当て、
共感を増幅させ、感情を没入させて、
チェロをうならせていったのだろう。

19歳の青白い炎が、
エルガーが晩年まで持っていた、
鬱屈した情念に見事に引火した感じであろうか。

第3楽章のアダージョ。
諦念に満ち、苦み走った美しいメロディを、
ひとり任されたチェロ独奏は、
恐ろしいほどの感情移入で、
オーケストラを圧倒している。

というか、バルビローリといえども、
これを邪魔するようなノイズを入れるわけにはいかない、
などと思ったはずである。

終楽章冒頭は、みごとに、
チェロの没入に見合った迫力で、
びしっと決めているが、
楽団員は、目の前で神がかり状態になって、
興奮と沈潜を大きく行き来する、
巫女的な演奏者を見ないように、
ただ、バルビローリにすがり付いている感じ。

このCDで聴くと、何やら唸り声が聞こえるようだが、
バルビローリの叱咤激励であろうか。
確かに、このような独奏を前に、
自分たちは何をして良いのか、
茫然自失となってもおかしくはない。

「海の絵」が盛り上がるにつれ、
私の頭が真っ白になるのと同様の作用が、
この場合、スタジオ内で起こって行ったに相違ない。

得られた事:「エルガーの歌曲集『海の絵』は、ワーグナーの壮大さと、メルヘン・ワールドの混合体で、修辞的表現満載。」
「安っぽさと熱気が同居しながら、最後は盛り上げ、無理やり一つの曲集になっている。」
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by franz310 | 2013-05-26 11:47 | 現・近代 | Comments(0)