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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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カテゴリ:未分類( 3 )

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その430

b0083728_9273825.jpg個人的経験:
ヴィヴァルディが、
時の皇帝に献呈したという、
ヴァイオリン協奏曲集は、
名品「四季」を含む
作品8に続くもので、
同様に、音楽出版のメッカ、
アムステルダムで出された。
このアムステルダムで
2011年から12年にかけ
録音されたのが、
このポッジャーとHBSによる
2枚組のCDである。

写真は、音響効果抜群だが、
赤線地帯にあるとあった、
Walloon教会での
録音風景であろうか。


前回は、1枚目を聴いたので、
今回は作品9の7以降が収められた、
2枚目を聴いていきたい。

同時に、この曲集がカール6世に捧げられた、
経緯なども、再度、解説を紐解いてみたい。

このCD解説は、独奏を務めたポッジャーと、
オランダ・バロック・ソサエティ(HBS)
を代表する形で、ジュディス・ステーンブリンクが
そこそこのものを書いている。

ただし、彼女たちは、主に、
各曲への賛辞を中心にしているので、
クレメンス・ロミンという人が書いた、
「アントニオ・ヴィヴァルディ
12のヴァイオリン協奏曲集 作品9
『ラ・チェトラ』(1727)」という
全曲を包括した解説の文章も、
読んでおく必要があるだろう。

この人をネットで調べると、
「Hidden Harmonies:
the Secret Life of Antonio Vivaldi」
「隠されたハーモニー、
アントニオ・ヴィヴァルディの秘密の生涯」
という、気になる題名の本を書いていることが分かった。

オランダ海軍に務めた後、
出版業に転職し、イギリス在住という
ヘンテコな経歴の人らしい。

「18世紀初頭、バッハ、テレマン、
そしてヘンデルが、まだ若かった頃、
ヴェネチアは音楽の聖地にほかならず、
そのもっとも素晴らしい見世物と言えば、
司祭であり作曲家であった
アントニオ・ヴィヴァルディの
激しく技巧的なヴァイオリン演奏であった。
彼の演奏は1713年以降、
市の観光ガイドで推薦されてもいた。
このヴァイオリンの偉業に対する熱狂は、
この巨匠からのレッスンを受けるべく、
全欧の音楽家たちをヴェネチアへと向かわせた。」

先のロミン氏の著書も、
ヴィヴァルディの生涯を包括的に扱ったものらしいから、
このあたりの記述はお手の物であろう。

彼は様々なヴィヴァルディの文献を漁ったというが、
このような記載も、前に読んだ事があるものだ。

「例えば、1715年の2月、
フランクフルトの法律家で興行師でもあった、
ウッフェンバッハは、
サンタンジェロ劇場のオペラを見て、
『終曲に向かってヴィヴァルディは、
最も見どころとなる独奏を受け持った。
最後に即興を見せたが、
これが私を最も驚かせたものだった。
こうした事は、これまでも、
これからもあり得ないようにも思えた。
彼の指はブリッジと髪の毛の幅ほどに近づき、
弓に与えられた隙間がないほどで、
彼は4つの弦の全てを使って、
信じられないような速さでフーガを弾いた。」

マンゼのCDでも以上の事は書かれていたが、
下記のところを読むと、
ウッフェンバッハ氏は、「注文した」とあるから、
ヴィヴァルディのプロモーターでもあったのかと思わせる。

「ウッフェンバッハは、この後、
『食事の後、有名な作曲家で、
ヴァイオリニストのヴィヴァルディ氏は、
何度も私が促していたので、
私のところに立ち寄った。
私は、欲しかった数曲の協奏曲について、
彼と語らい、それを注文した。
私は、彼のためにワインを何本か用意していた。
彼は、とても真似できないような、
非常に複雑なヴァイオリン奏法で、
即興演奏を披露した。
このような近づきで、
私はさらに彼の巧妙さを賞賛することとなった。
彼は、恐ろしく難しい変化の多い曲を演奏したが、
それは心地よく流れるようなものではなかった。』」

最後の一節は、どう解釈してよいか分からない。
これは、とてもシリアスな音楽である、
ということを断っているのであろうか。

ロミン氏が以下に書くように、
ヴィヴァルディは、当時、
最先端の前衛だったはずだから、
こうした注釈も必要だったのかもしれない。

「赤毛の作曲家かつ司祭で、
ヴァイオリンの名匠、
アントニオ・ヴィヴァルディは、
ヴェネチアで暮らし仕事をしたが、
欧州の半分を旅し、
自作を演奏したり出版したりした。
生前、彼は非常に有名であったが、
はるか二十世紀になるまで、
忘れられ、無視されて来た。
彼の音楽は1920年代に再発見され、
以来、彼がいなければ、
音楽史は異なった歴史を
歩んだであろうこと、
そして、18世紀前半の作曲家では、
最も影響力のあった
作曲家だったことが明らかになった。
ヴィヴァルディはテレマン、ヘンデル、バッハ、
その他多くの作曲家たちの輝かしい模範であった。
彼ら自身の様式の開発に連れて、
ヴィヴァルディの協奏曲を
作曲技法の成熟の糧として、
解きほぐして模倣した。
何十年もの間、ヴィヴァルディの技巧的な演奏と、
革命的な協奏曲集は、全欧州のヴァイオリニストや
器楽曲の作曲家の規範であった。」

ものすごい入れ込みようだが、
一般には、バッハとヴィヴァルディの関係が知られ、
テレマンやヘンデルというのは言い過ぎではないのか。

例えば、ヘンデルなどは、
ヴィヴァルディ的な協奏曲を作曲していない。

「バッハのように、外に出なかった者でさえ、
ヴィヴァルディの流行を追っていた。
ヴェネチアの音楽は、
まず、アムステルダムで出版されたが、
ワイマール、ドレスデン、ベルリン、
ロンドンといった音楽の中心地に拡散していった。
欧州のどこででも、
ヴィヴァルディの情熱的ま様式は、
センセーションを巻き起こした。」

これは、楽譜の拡散からして
そうかもしれないが、
ひっぱりだこだったのかまでは
わからないのではないか。

「彼は、その特別な表現力を持つ、
技巧的な音楽を創意する巨匠であり、
聴衆を、高度に凝集された
器楽による感情の爆発で魅了し、興奮させた。
ムードの最も卓越した描写で、
彼らを席巻した。」

海軍出身のせいか、
非常に威勢が良い書きっぷりで爽快である。

「そして赤毛の司祭は、ヴェネチアの人たちを、
これ以上なく興奮させ、『その音楽は、
彼らの優しい繊細な魂に大きな影響を与えた。』
同時代の人は、多くの婦人が、彼の音楽で、
『涙にむせび、啜り泣き、歓喜に浸る』
のを見たと報告した。」

この曲集とピエタとの関係は定かではないが、
やはり、ヴィヴァルディの包括的な解説としては、
この孤児の使節との関係を、
外すわけにはいかないのだろう。

「彼はおおよそ500曲もの協奏曲を、
ヴェネチアのピエタ養育院のために書いたが、
ここで、彼はヴァイオリンを教え、
指揮し、作曲した。
ここはヴェネチアの数百人もの
孤児となった娘たちが身を寄せていた
4つの女子修道院の一つであった。
少女たちはおそらく修道僧のような
ヴェールをまとっていたはずだが、
ヴィヴァルディの時代、
このピエタのコミュニティの背後にあった、
新しい考え方が、音楽院の道を開いた。」

難しい表現だが、ピエタは、
自立した成人にするために、
特に音楽教育に注力したので、
確かに、音楽院という側面を持っていた。

「少女たちは一人寂しく暮らし、
尼のように隠棲する義務があったが、
音楽に秀で、
天使たちのように歌う事が求められた。
シャルル・ド・ブロスの報告によると、
『少女たちはヴァイオリン、フルート、
オルガン、オーボエ、チェロやバスーンを演奏し、
いかに大きな楽器であっても、
彼女らを驚かせることはない』とある。
ピエタのオーケストラは、
テクニックといい、音響といい、
技術面からも表現面からも、
明らかにヨーロッパで最も素晴らしいものだった。」

このあたりも、資料を駆使して本を書いた人としては、
どうしても引用しておきたい報告であろう。

「少女たちの独奏は、
オーケストラでの技術と同等であった。
『何と、完璧で正確な演奏だろう。
ここでしか、
最初の弓のアタックは聴くことは出来ない。
パリのオペラばかりを賞賛することはない。』
と目撃者は証言している。」

以上は、今回の「ラ・チェトラ」と、
どういう関係があるかはわからないが、
ヴィヴァルディが、こうしたオーケストラを指導した、
卓越した指揮者であり、教育者であったということ、
あるいは、このような最高の手兵を持つことで、
最高級の音楽が書けた、
ということなどが言外にあるのかもしれない。

以下、ようやく、この曲集の話となる。
ただ、これは、すでにマンゼやチャンドラーが、
紹介していた内容である。

「1728年の9月、
ヴィヴァルディはハプスブルクの皇帝、
新しい港建設の視察に来たカール6世に
トリエステ近郊で会っている。
カール6世はヴィヴァルディの賞賛者で、
ナイトの称号とメダリオン付き金の鎖を与え、
ヴィーンへと招待した。
そのお返しとして、
ヴィヴァルディは皇帝に、
『ラ・チェトラ』と名付けられた
協奏曲集の手稿を渡している。」

マンゼは、ここで、ヴィヴァルディが、
もっと欲しかったものを分析していたが、
「お返しとして」というのは、
やはり不自然であろう。
メダリオンをもらったからと言って、
即座に書いた訳ではあるまい。

「これはおそらく、
この作曲家が、ここに収められた
12曲のヴァイオリン協奏曲集
作品9『ラ・チェトラ』(リラ)に、
同じタイトルを付けたことと関係していて、
これは前年にアムステルダムの『ラ・セーヌ』から、
皇帝への献辞付で出版されていた。」

ここで、どうして二つの曲集が現れたかについて、
今回の記載は、いささか物足りないが、
手稿版は、今回の議論の対象外なので、
やむを得ないかもしれない。

「ヴィヴァルディ研究家の
マイケル・タルボットによると、
リラは、ハプスブルク家の、
音楽への愛を象徴したものである。
これより前、1763年に、
ジョヴァンニ・レグレンツィは、
時の皇帝レオポルド1世に、同様に、
『ラ・チェトラ』と題した曲集を捧げている。
タルボットはさらに、
第6番と第12番の協奏曲のヴァイオリンの
スコルダトゥーラ(調弦の補正)
は、ハプスブルクの皇帝への賛辞だと考えている。
スコルダトゥーラの習慣は、
ビーバーやシュメルツァーの
ヴァイオリン曲で見られるように、
オーストリアやボヘミアでよく見られる習慣である。」

タルボットが、
リラはハプスブルクの象徴と
書いたのは知っていたが、
スコルダトゥーラにも
そうした意味があるとは知らなかった。

ある意味、ローカル言語だったのだろうか。

「1728年、トリエステで行われた、
カール皇帝とヴィヴァルディの
注目すべき会合に関して、
アッベ・コンティは、
『皇帝は音楽について、
ヴィヴァルディと長い間、語り合った。
2週間の間に、皇帝は、
2年の間に大臣たちと話したより長く話をした、
と言われている。」

この話は、このブログで紹介するも
三回目になるかもしれない。

では、今回は、2枚目のCDの各曲を味わって行こう。

CD2、Track1.
第7協奏曲は、変ロ長調の作品で、
この調の持つ開放的で平明な感じは、
明快なアレグロから感じられる。
序奏からわくわく、浮き浮きとした感じで、
全編を彩る繊細な弦楽器のテクスチャーが、
聴くものの耳を虜にしてしまう。

Track2.
夢想的なラルゴで、
弱音が支配的。
前の楽章から続いて、
独奏ヴァイオリンには名技性は乏しい。

Track3.
爽快で朗らかで、
大きく広がる楽想が、
前の楽章を受けるかのように、
憧れの感情を大きく羽ばたかせ、
ヴィヴァルディの作品の中でも、
極めて魅力的な一曲と思ったが、
唐突に終わってしまう。

この曲に関しては、
演奏者たちからのコメントはない。

CD2のTrack4.以降
第8協奏曲:
「第1楽章のテクスチャーにおいて、
そのリトルネッロは半音階的で複雑、
各声部は互いに綱引きをしているように見える。
J.S.バッハは好きだったのではないかと妄想。」
レイチェル・ポッジャー(RP)

いかにも、演奏者が言うとおりの、
切迫感に満ちたもので、ニ短調。
バッハ風の楽想が繰り広げられる。
そのようなリトルネッロをかいくぐるかのように、
名技的な独奏ヴァイオリンが冴えを見せる。

Track5.ラルゴで、
ここでも、低音に引きずるような音型の繰り返しがあり、
ヴァイオリン独奏は、嘆きの歌のようでもある。

Track6.アレグロ。
この楽章などを聴くと、
バッハの受難曲風の楽想が、
レチタティーボのようなもので、
爆発的な情念を漲らせる、
アリアのための前置きのように感じられる。

そんな風に、ばーんと感情の限りに歌われるアリア。
オペラの一シーンを思い描いた。
バスの連中も乗りに乗っている。

2枚目、Track7.以降
第9協奏曲:
「この曲集でたった一曲の二重協奏曲。」(RP)

これも変ロ長調であるが、
ヴィヴァルディの二重協奏曲の中でも、
出色の愛らしさで魅了する。
むしゃぶりつきたくなるにフレッシュな、
魅力的な楽想に、独奏楽器が二つ、
それぞれにアプローチする。

Track8.
ラルゴ・エ・スピッカートとある。

オルガンの豊かな低音の上を、
ロマンティックなメロディを、
ヴァイオリン二つが心を合わせるように歌い、
さしはさまれる、時の刻みのような部分が、
心臓の鼓動のようにも聞こえて、
胸がうずくようだ。

Track9.アレグロ。
ここでも、二つの独奏楽器の扱いは、
親愛の情に溢れている。

このCDの表紙写真は、
レイチェル・ポッジャーと、
オランダ・バロック・ソサエティのヴァイオリン、
ジュディス・ステーンブリンクの、
陶酔した表情が印象的だが、
まさしく、この楽章などのワンシーンであろうか。

2枚め、Track10.以降
第10協奏曲:
この曲は、序奏から、
単調な動機の繰り返しが強調された、
杓子定規な感じの音の力感が特徴的だが、
ヴァイオリン独奏も強烈で、
演奏家としてはやりがいがあるのだろう。

なお、昔は、この曲の分散和音が、
「ラ・チェトラ(竪琴)」に相応しいとあるが、
分散和音は、先にも書いたように、
激烈なので、とても簡素な竪琴で
弾けるようなものではない。

二人の奏者が、下記のように、
演奏上のポイントをかなり熱く語っている。

「第1楽章は、ほぼ絶え間ないアルペッジョで実験。
その高度に技巧的な書法は、
冷静さとテキパキとした手を要求する。
私は、あまりにも面白くて、
返って心が落ち着くほどだ。」(RP)

「本当にチャーミング。
ラルゴ・カンタービレでは、
コンティヌオ奏者のバスラインから、
高い弦楽器群が支配権を奪う。
ヴァイオリンやヴィオラが
一緒になってかき鳴らす音符に、
バスラインは柔らかく優しく丁寧に寄り添う。」(JS)

Track11.
ジュディスが言っていることは、
聴けば分かるという感じか。
バスはなくて、弦楽器群が、
シンプルなぽろぽろ音を鳴らしているだけで、
そこに独奏ヴァイオリンが控えめな
メロディを差し挟んでいく感じ。
ラルゴ・カンタービレとある。

Track12.
この楽章も、メロディの美しさより、
力と動きで、多面的な構造体を作って行く感じで、
正直言って、演奏家たちのモチベーションと、
聴衆の求めるものは、必ずしも一致していない、
という感じを露呈したト長調。

が、ヴィヴァルディの類型的なものではなく、
その意味では、実験的であって、
もっと良く聴きこむべきなのかもしれない。

CD2枚目のTrack13.
第11協奏曲であるが、これは、
さきのものと比べると、
ずっと手慣れた領域にあるものと思え、
ヴィヴァルディの音楽に期待する、
豊かな情感とメロディに満ちている。

リトルネッロ部の、小粋でニヒルな感じもよい。
ハ短調のもので、適度に深刻な感じ。
強いアタックを伴い歌われる独奏部は、
ほとんど人の声のようでもある。
浮かび上がるチェロの音色も劇的だ。

Track14.
切々たるオーケストラのため息を背景に、
ヴァイオリンが歌謡的な、
心を奪うような歌うが、
わずか二分ほどで終わってしまう。

Track15.
合奏が飛び跳ねるようなリズムを強調し、
独奏ヴァイオリンは、熱狂的な節回しで高まって行く。
エキゾチックで陶酔的な舞曲。

この曲も、演奏者たちは言葉を寄せていないが、
私は、この曲にも特別の愛着を感じる。

2枚目、Track16.以降
第12協奏曲:
ポッジャーのお気に入り。
スコルダトゥーラの調弦をした2曲目。

ロ短調協奏曲で、出だしのメロディから、
覚えやすく、これまで、ニ短調、ハ短調と聞いて、
この曲後半の短調協奏曲は、
いずれも魅力的な情感に溢れていることを実感。
合奏部の方が、十分に感情をかきたてる効果を持っているが、
独奏ヴァイオリンの不思議な音色も、
下記のようにポッジャーが書いた通り、
どこか心ここに在らずといった、
虚ろな響きが独特の効果を上げている。

「ヴァイオリンの音はヴィオールのような響きで共鳴。
内向的で物思いに耽るものだが、
進行するにつれ、劇的な興奮にも至る。
この音色は、開始部から聴かれ、
これによって強く、パワフルだが、
同時に不安定さを感じさせる。」(RP)

第1楽章は5分程度で、この曲集では、
突出して最大規模である。

Track17.ラルゴ。
虚ろな響きと書いたが、
この楽章では、全体的に喪失感の漂うもの。

Track18.アレグロ。
この楽章は、強い意志で、
運命を変えてやるぞ、みたいな、
強い意志が漲っていて、
いかにも、皇帝に捧げるに相応しい楽想だと思える。

やはり、独奏部を声に変えて、
オペラの中ででも歌われると、
聴衆の興奮は高まって行くような音楽。

しかし、ヴァイオリン独奏の、
この楽器ならではの技巧の開陳を聴き進むと、
これは、声では無理だという結論に至る。

得られた事:「『ラ・チェトラ(竪琴)』の名称の由来であるとされた、第10協奏曲の分散和音は、とても竪琴と呼べるような情緒的なものではなく、かなり実験的かつ激烈なものであった。この曲は、今回の演奏者も興奮して語っているが、私にはよくわからない。」
「後半の6曲では、劇的な第8番(ニ短調)、第11番(ハ短調)、第12番(ロ短調)が、オペラの一場のような、感情の高ぶりが聴かれて忘れがたいものであった。」
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by franz310 | 2015-05-17 09:35

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その401

b0083728_20243296.jpg個人的経験:
プロデューサーから
現場のエンジニアまで、
大きな悩みを抱えずに
いられなかった
1930年代の
トスカニーニの演奏記録。
半世紀を超えてようやく、
その全貌が見えてきている
感じなのかもしれない。
が、あるところにはあるもので、
このBBCのCDも、
大曲を惜しげもなく収めている。


表紙はトスカニーニの鬼気迫る表情の写真で、
あまり、手にしたくなるものではないが、
このシリーズ共通のシンプルな色のコンポジションで、
かなり、印象が緩和されている。

たとえば、1989年に出た、
諸石幸生著「トスカニーニ」(音楽之友社)では、
1935年のBBC交響楽団のライブ録音として、
5曲しかディスコグラフィに載せていないが、
前回聴いたWHRAの4枚組では、
倍以上の曲目が収められていた。

今回のCDでは、この1935年のライブでも、
大きな反響があったとされる、
ベートーヴェンの「第7交響曲」が再び聴けるが、
クレジットによると、2夜あった公演の最初の方、
6月12日のものだと書かれている。

信じがたい事だが、2日後の「第7」は、
先のWHRAレーベルの最新復刻で聴けるのだから、
21世紀に生きる我々はぜいたくなものである。
とはいえ、WHRAが採用した6月14日の「第7」は、
諸石本のディスコグラフィにも出ている。
こちらのものは、さすがBBCレジェンズ、
未発掘のものを掘り出して来た。

ただし、6月3日のケルビーニの序曲と、
6月14日のモーツァルトの交響曲は、
ディスコグラフィにはないが、
WHRAには入っていたもの。
とはいえ、あちらは2012年の発売で、
こちらは1999年のものだから、
このBBCのCDが初発売で、
さすがBBCレジェンズということになる。

しかし、この2枚組のBBC盤の本命は、
1939年5月28日の「ミサ・ソレムニス」で、
後半のCDまるまると、前半のCDの最後を占めているので、
演奏時間の55%を占め、まったく躊躇することなく、
WHRAの4枚組と一緒にコレクションすれば良いのである。

BBCレジェンズは、BBCなのだから、
もともと、BBC交響楽団の演奏は、
全部、持っているのではないかと類推できるが、
あえて、これら4曲しか出さなかったのは不思議である。
ブラームスの4番とか、EMIに持って行かれたものは、
しかたなく省いたのかもしれない。

解説は、そんなに長いものではないが、
かなり興味深く読める。
「天上からの光」と題されている。
Harvey Sachsという人が書いている。
イギリスのレーベルなのでイギリス人かと思ったが、
フィラデルフィアのカーティス音楽院で学び、
ヨーロッパにも長く住んだという、
トスカニーニの本を多く出しているアメリカ人であった。

フィラデルフィアに縁のある人だけに、
「トスカニーニ、フィラデルフィアとニューヨーク」
などという本を書いている。

「アルトゥーロ・トスカニーニは、
20世紀で最も名高い指揮者であったが、
彼のキャリアは、60歳を過ぎるまで、
主に、イタリア、米国、
わずかアルゼンチンでしか知られていなかった。」

ここで、あえて、one of とか、
みみっちい事を付けずに言い切っている点がうれしい。
それだけ、トスカニーニに心酔している人なのだろう。
上記の本は1978年に出されていて。
32歳の時の仕事、ハーベイ・ザックスにとって、
トスカニーニは音楽の象徴なのかもしれない。

「たとえば、ほとんどの英国の音楽愛好家は、
彼がニューヨーク・フィルのツアーで演奏した、
1930年代まで、生で彼を聴くことができなかった。
そして、トスカニーニは、
68歳になった1935年まで、
イギリスの楽団と共演することはなく、
この時、クイーンズ・ホールで、
創立5年のBBC交響楽団を指揮した。
ここに聴かれる素晴らしい演奏は、
彼の最初と最後のコンサート・シリーズの間で
録音されたものである。
『私は、皆が、トスカニーニ来訪こそが、
BBC交響楽団のキャリアの頂点であり、
ゴールだったと思っていたと思う。』
この楽団の創設指揮者のエイドリアン・ボールトは、
そう回想した。
『このオーケストラを彼に紹介しながら、
世界最高、という言葉を使って、
みんなが願っていた我々の到達点について、
私は何か挨拶をした。
その時、マエストロは優しく、
私の肩を叩き、
“ちがう、ちがう、ちがう、ちがう、ちがう。
それは全然違う。
ただの誠実な音楽家だよ“と言った。
したがって、みんな笑うので、
私はそのまま放っておき、
椅子に座って、
いったい、何がいつ起こるだろうと、
最初の爆発を待った。
しかし、それは結局なかった。
実際、ブラームスのホ短調交響曲の
真ん中の2つの楽章は中断なく演奏された。
“祈れ、祈れ、祈れ”、彼は言った、
“ただ、3つのことだ。”
それから、彼は3か所ほどパッセージを見つけ、
それを正し、さらに続けた。
トスカニーニは、一度、良しとすると、
さらに鋤を入れることは良いと思っていませんでした。
言うまでもなく、オーケストラは、
この最初のリハーサルからマエストロを賞賛しました。』」

ここまでは、最初のリハーサルの模様を伝えるもので、
ブラームスについては、ごく順調に練習が終わったことが分かった。

このCDに収められている曲目についてが気になるが、
この後も、おそらく、うまく言ったのであろう。
下記のような文章で、
トスカニーニと英国の関係が締めくくられている。

「この感覚は共通のものだったようで、
続く4年、トスカニーニはBBC交響楽団を4度訪れ、
トータルで22公演を振り、
(コレルリからショスタコーヴィチに至る)
7回の録音セッションを持った。
戦争がなければ、トスカニーニとBBCのコラボが、
さらに続いたであろうことは間違いない。
戦争中、マエストロはロンドンに来ることはなく、
1952年、85歳の時、
新しいロイヤル・フェスティバル・ホールで、
フィルハーモニア交響楽団と2回のコンサートを行い、
英国に別れを告げた。」

トスカニーニのBBCとの演奏は、
上記セッション録音は、非常に有名であるが、
演奏会の記録としても、
WHRAが出してくれた1935年のものの他、
ベートーヴェンの「第9」や、
ヴェルディの「レクイエム」など、大作が、
ぽつぽつと復刻されている模様。

そういうものと比べても、
今回のCDの1939年の「ミサ・ソレムニス」などは、
音質は古いが聴きやすいのでありがたい。

リマスターは、20bitとあり、
Arthur M.Fierroなど、
3人のエンジニアによるらしい。

解説は、ザックスという人の力量発揮で、
そもそもトスカニーニは、
という感じの部分もある。

「トスカニーニのキャリアは、
1886年、この演奏の半世紀も前に始まっているが、
ここに聞く曲目のうち、
たった1曲のみが、
この期間の半分以上の演奏経験に入っていた。」

私は、こんな書き方の解説は初めて見た。
つまり、これらの曲が、何時、彼のレパートリーに入ったか、
ということをザックスは気にしているのである。
さらりと書いているが、かなりの研究を経ないと、
こんな記載はできないだろう。

では、その1曲、つまり、この中で、
もっとも古くから手掛けていたものはどれか。
それは、モーツァルトらしい。

「彼は、モーツァルトの『ハフナー交響曲』を、
1908年という早い時期から、
スカラ座のオーケストラで指揮しており、
トリノ、ニューヨーク、ヴィーン、フィラデルフィア、
そしてNBC交響楽団とも演奏している。
彼はスタジオ録音も2回しており、
抒情的で柔軟、今の基準からすると、
極めてロマンティックなバージョンによる、
1929年ニューヨーク・フィルとのものと、
1946年の、いささか硬いNBC交響楽団とのもの。
この1935年のBBCでの演奏は、
ニューヨークとのコンセプトに近い。」

1908年から1935年までは、
27年経過しているので、
確かに、半世紀の半分は経過しているわけだ。

この演奏はWHRAのCDで聴いた時にも感じたが、
まったく、解説者に同感である。
柔軟で、歌に満ち、どうも、後期6曲として紹介される、
モーツァルトの交響曲の中では、
一本気な、お硬い長男みたいな感じを受けがちな、
この交響曲の中に、優しい心情を見せてくれた。

じゃーんという序奏に続く楽句が、
ためらいがちに演奏され、
ばーんと出る主部の華やかさを強調しているが、
これが、決して強引ではなく、
丸みを帯びた微笑みを伴っている。

経過句における楽器のやり取りも、
後年のピアノ協奏曲のような、
典雅な風情を漂わせている。
こうした間の取り方や、
音の伸びやかさなど、
メンバーの自発性を生かした感じで、
ニューヨーク・フィルとの演奏以上かもしれない。

WHRA盤に劣るのは、
トスカニーニの歌声あたりに、
フィルタ特性がかかっているのか、
それがかすかにしか聞こえず、
指揮者と一緒に共感するための情報が、
薄まっている点であろう。

「トスカニーニは、ケルビーニのオペラ・バレエ、
『アナクレオン』への序曲を、
1925年にスカラ座のオーケストラで、
最初に振っている。
輝かしいが名作とも言えないこの曲を、
彼は8つのオーケストラと演奏している。
指揮者の死後、RCAは、1953年の
NBCでのこの序曲の放送録音を発売している。」

ちなみに、アナクレオンは、酒と愛の詩人。
軍人でもあったらしい。
ゲーテが、「アナクレオンの墓」という詩を書いているので、
18世紀から19世紀の疾風怒濤の時代に、
流行った人物なのであろう。
1803年の作品で、
「逃げた愛の神」という副題があるように、
軽妙な要素もあったのだろうか。

トスカニーニ好みの潔い序奏に、
鮮やかなメロディが続く作品で、
複雑に声部が交錯して発展して爆発するのが快感である。
このBBCレジェンズの音質は、
非常に聴きやすい。

WHRA盤は、ノイズを取らずに、
色彩が生々しい反面、
ざらざら感にデッドなイメージが付きまとうが、
このBBC盤は、なめらかに仕上げている。
迫力や立体感はいくぶん劣るが悪くはない。

楽想に、きらきらと輝くパッセージあり、
軽妙な弦楽の弓使いあり、
豪壮な金管の咆哮ありと、
リヒャルト・シュトラウスの古典版みたいな感じ。

かつての大指揮者たちがこぞって取り上げたのも、
良くわかる管弦楽のパレットの豊かな作品である。
トスカニーニの密度の高い音の采配が、
説得力を持って迫る。

「ベートーヴェンの『第7』交響曲は、
彼が49歳になるまで、
そのレパートリーに入らなかったものである。
『第2』と『第8』以外は、10年、20年前に、
ベートーヴェンの全曲を取り上げていた。
彼は、『第7』をスカラ座時代に頻繁に取り上げ、
1920年から21年に、イタリアや北米で、
マラソンツアーし、その後も全欧やアメリカで演奏した。
1951年のNBCとのスタジオ録音は、
良く知られているが、
1936年のニューヨーク・フィルとのバージョンが、
これまでなされた交響楽録音の中でも
最高のものとされるのがふさわしい。
『ハフナー』交響曲の場合同様、
コンセプトにおいてBBCとのものは、
ニューヨーク・フィルとのものに近く、
この演奏の時、トスカニーニと会って、
2週間しか経っていなかった楽団が、
マエストロとの10年の共演の中で到達した、
ニューヨーク・フィルの突出した名技性や、
意志の統一に迫っている。
演奏は息を飲むもので、
音質も当時のものとしては素晴らしい。」

この「第7」は、重心が低い音質で、
WHRA盤のような、
楽器の分離を生かしたものに比べると、
ずーんと来る序奏からの密度の高さに圧倒される。

主部に入ってからも、
ティンパニの連打を伴って、
すごい迫力で脈打って盛り上がる。
トスカニーニの魅力は、
これまで、なかなか言葉にすることが出来なかったが、
ここに聞くような、
内部から膨らんでくる生命感のようなものが、
その一つかもしれないと思った。

第2楽章の悲壮感も、
このしっとり気味の音質はマッチしている。

トスカニーニは終始歌っているが、
彼の声のあたりの周波数帯をいじっているのか、
このCDではWHRA盤よりはっきり聞こえない。

リズムが息づくように刻まれ、
まったく生命体のように音楽が脈動する。
聴けば聴くほど、ベートーヴェンの「第7」とは、
こんな音楽だっただろうかと、
新鮮な気持ちになる。

もっと力ずくの、単調な割にあくの強い音楽、
というのが私の先入観であったが、
強引な指揮をするはずのトスカニーニが、
そうではなく、むしろ、すっきりとした、
律動感と生命感にあふれた演奏を聴かせてくれ、
まったくこの曲のイメージが変わってしまった。

第3楽章では、トスカニーニの声は、
あちこちで響きまくりである。
ここでの、執拗なリズムも、
何故か嫌味にならず、
むしろ、軽快で洒脱な感じがする。

第4楽章なども、豪壮な表現だと思うが、
その跳躍の柔軟さに、無重力感すら感じてしまう。
いったい、この演奏のエネルギーは、
どうなっているんだ、などと考えているうちに、
あれよあれよと曲は進んでいて、
目を回しているうちに、
ぶわーっと巻き込まれて音楽は終わっている。

この演奏など、聴衆の拍手も録っておいて欲しかった。

「トスカニーニが最初に『ミサ・ソレムニス』を
演奏したのは、1934年のことで、
ニューヨーク・フィルの演奏であった。
彼はこの曲を1935年、1942年に、
同じ楽団と演奏し、1936年にはヴィーン・フィルと、
1939年にはBBC交響楽団と、
1940年、1953年には、
NBC交響楽団と演奏している。
7つもの非正規な商品が出た、
1940年のNBC盤と同様に、
このBBCとのものは、
輝かしい解釈で演奏されている。
しかし、この録音に使われた、
マイクのすぐれた配置によって、
トランペットとティンパニの
突出したバランスが気になる
アメリカ録音より優れている。」

録音時の楽器のブレンドは、
演奏のイメージが変わってしまうので、
たいへん、重要だと思う。

一聴すると、このレジェンズ盤は、
平板で奥まった感じがしたが、
確かに、M&Aなどから出ている、
NBCとのライブのやかましさに比べると、
ずっと聴きやすく、上品で、
この時代のトスカニーニのイメージに合っている。

「両方の盤に登場するソプラノ、
ジンカ・ミラノフは、この録音では、
クレドの終わり前の23小節で、
明らかなミスをしているのが分かるが、
それ以外は、他の歌手同様素晴らしい。」

このように、最初のキリエとグローリアについては、
すっとばして、クレドの話になっているが、

「キリエ」の独唱とオーケストラ、
合唱のブレンドも大変美しく、
しっかりと刻まれて膨らむ音楽の歩みも素晴らしい。

私は、この演奏なら、
この大曲を聴きとおすことが出来そうだ、
などと感じてしまった。

「グローリア」の爆発的な歓喜のファンファーレも、
推進力があって、宗教曲という抹香臭さがない。
トスカニーニの決然とした音楽作りが、
この曲に、どうも親しみを覚えられない私も、
巻き込んでくれてありがたい。
もう、この部分などを聴いていると、
1939年という古い録音だなどとは、
意識していないで聴ける。

独唱者が出たり入ったりするところや、
合唱が包み込む時の雰囲気の豊かさは、
奇跡的な感じさえする。

「クレド」では、トスカニーニは、
もう、渾身の指揮ぶりだったと思われる。
ミサ曲の中心をなす、この複雑な音楽を、
すごい緊張感で解きほぐしていく感じ。
ティンパニの一打一打が入魂に思える。

「1953年のVBC-RCAの正規録音は、
音質の点では、他のトスカニーニが指揮した、
このミサ曲より良いが、演奏はと言えば、
しばしばそれ以前の演奏のような深みに欠ける。
事実、マエストロは86歳になって、
70代で持っていたような、
驚くべき技術を失っていたのである。
BBCでの演奏の多くで、
トスカニーニのテンポは、
1953年のものよりも
明らかに遅いが、
1940年のものよりはいくぶん速い。
1939年の盤における、
アニュス・デイは、しかし幅広く、
3種の中では、おそらく最も美しい。
この作品の最後にベートーヴェンが書き込んだ、
『内部と外部の平安への祈り』は、
戦争が始まる3ヶ月前に、
トスカニーニが英国に捧げた、
最後の捧げものであった。
『ミサ・ソレムニス』の
トスカニーニの解釈は、
印象深く、かつ衝撃を、
ロンドンの音楽愛好家にもたらした。
たとえば、『タイム』の批評家は、
1939年5月27日の記事で、
ミサの中でベートーヴェンは、
声楽と交響的に扱っていることを認めながら、
『多くの指揮者はこうしたやり過ぎを、
これまでやわらげようとして来たし、
聴衆もそれに満足していたが、
トスカニーニは、そこに狂喜している。
“et vitam venturi”
(クレドの最後の「来世の生命を待ち望む」)の
主題における管楽器のスタッカートは強調され、
声楽も同様にそれに倣い、
わずかに主題の荘厳さを加える。
“アレグロ・コン・モート”の部分では、
歌手たちは、それに相応しく忘我に至る。
このベートーヴェンが作品を書くときに、
異常なまでにこだわった書法によって、
彼の思い描いたものまでに、
至ったかについては疑問がある。
明らかにベートーヴェンのスコアには誤算がある。』
しかし、トスカニーニは、スコアの特異性を、
単に眺めて悦に入っているわけでも、
音楽テキストの字義に、
自身を縛り付けているのでもなく、
ベートーヴェンの、音楽コンセプトや、
感情の驚くべき扱いという挑戦に対し、
ただ、受けて立っている。」

このCDは、このように、
「クレド」の最後について、
ソプラノが間違っているとか、
声楽が器楽のように扱われているとか、
やたら集中した部分で具体的な話題が多いが、
確かに、このコーダ部の高速さは、
ほとんど、何を歌っているか分からないくらいで、
声楽部が交響曲のパート化している。
難しい独唱者たちの交錯はこの後で来る。

1940年のNBC盤などは、
このあたりは、ラッパが合唱を飛び越えて、
最後の審判みたいになっている。
それに比べると、BBCの録音は素晴らしい。
ワルターの「大地の歌」で独唱を受け持った、
スウェーデンのコントラルト、
トルボルイが共演しているのも、
聴いていて嬉しくなる要素である。

ちなみに、テノールは、
Koloman von Patakyという、
ハンガリーの人、
バスは、Nicola Mosconaという、
ギリシャの人で、
国籍が多彩である。
ちなみに、Milanovはクロアチアの人らしく、
南欧、北欧、東欧の歌手が集まっている。
合唱はBBC合唱協会。

「サンクトゥス」の導入部の、
独唱も、そんな連想からか、
マーラーの世界を想起してしまった。
何か、原初的なものが現れるような、
神秘的で秘めやかな雰囲気がまた、
ドライに割り切ったトスカニーニのイメージが、
間違っていた事を証明している。

そんな事を考えながら聴きながら解説を見ると、
下記のように、トスカニーニ自身が、
このあたりの雰囲気を、
いかに神聖視していたかが書かれていて、
まるで、マエストロと心が通じたような、
厳粛な感動を覚えた。
私も、この楽章だけは、
常に、非常な感動を持ってしか、
聴くことが出来ない。

「典礼用の作曲を越えて、
ニ長調のミサ曲は、
複雑で抽象的な音楽の象徴を通して、
人間的な精神の追及がなされている。
テクスチャーは透明な時でも、
その内容は濃密で、いかなる試みも完成、
または、ほとんど完成されていて、
作品の演奏は不可能なほどである。
トスカニーニは、これを知っていたが、
挑戦を続け、他の指揮者たちが、
到達しえなかったような水準に至った。
ボールトは、トスカニーニが、
『ベネディクトスの独奏ヴァイオリンの
危険性について恐ろしい不安』について、
語ったことを報告している。
『事実、彼は金管とティンパニの
スフォルツァンドで、打ち切ろうかと、
私に相談しました。』
しかし、ベネディクトゥスの序奏の論議では、
トスカニーニは、ボールトにこう言った。
『あまりの素晴らしさに、
そこを指揮している時に眼を瞑る。
目を瞑ると、ついにはオルガンが響いてくる。
それは天上の光なんだ。』
この合唱と管弦楽の最高の傑作のひとつの、
圧倒的で啓示的な演奏に触れると、
今日の聴衆もまた、
同様の隠喩を完全に感じることが出来るだろう。」

トスカニーニは、まるで、
彼自身の鼓動のように低音を響かせ、
跪いて、天上の光にひれ伏さんばかりの、
痛切な表現を聴かせている。

この時のヴァイオリニストは、
Paul Beardという人だったらしい。
線が細く、いくぶん特徴に乏しいが、
格調が高く、トスカニーニやボールトの信頼が厚かった。
バーミンガムのコンサートマスターを皮切りに、
ビーチャムのロンドン・フィルを経て、
BBCに移ったという。

最後の「アニュス・デイ」は、
かなり、オーケストラも疲れているのではないか。
これだけの集中の後なので、
もう、勢いだけで持っている感じもする。
私も、「ベネディクトス」の美しさに触れた後は、
かなり満足しているので、
ちょっと唐突な終わり方でも言うことはない。
暖かい拍手が沸き起こっている。

得られた事:「初対面から2週間で、トスカニーニとBBC響は、10年来の主兵、ニューヨーク・フィル並みの名演を聴かせた。」
「トスカニーニは『ベネディクトゥス』で『天上の光』を感じ、我々もまた、同じ光を感じることが出来る。」
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by franz310 | 2014-02-08 20:24

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その398

b0083728_2317829.jpg個人的経験:
1936年に録音され、
当時の人々を驚かせ、
その後のスタンダードとなった
トスカニーニのベートーヴェン。
パールや、ナクソスのCDで、
リマスタリングを担当したのは、
どういうわけか同じエンジニア、
オバート=ソーン氏であったが、
音質に明らかな違いがあって
驚いてしまった。
機材や原盤が違うのだろうが、
演奏のイメージも変わるのには困った。


しかも、ナクソスの
日本語ホームページを見て、
さらにびっくりした。

ナクソスは、「復刻エンジニアの第一人者」、
オバート=ソーンと契約しているが、
「音響復刻技術の発達」によって。
同じ人が、前に行った復刻より、
「良い音がする場合がある」と書いてあるではないか。

やはり、音が違うのは間違いではなかったようだが、
トスカニーニの「第7」(36年)に関しては、
ナクソスの勝ちという感じはしなかった。

ナクソスの復刻がどうかという以前に、
トスカニーニの36年の「第7」から、
いったい、多くの人は何を聞き取って来たのだろうか。

オーケストラの華やかさを全面に押し出した、
この曲は、ショーピース的な側面もあって、
ベートーヴェンの交響曲では珍しく、
初演時から成功したものであったとされる。

野村あらえびすの時代から、
この曲は、「不思議な情熱を持った曲」、
「奔放な表現を要するもの」とされており、
言外に、どんな理由で、ベートーヴェンが、
こんな興奮した音楽を書く必要があったのだろう、
というような疑問が感じられるが、
私も、そういう意味の「不思議」さには共感できる。

あらえびすは、さらに、
「この曲の奔騰する美しさは、
トスカニーニの表現を以て
第一とすべきである」と書いているが、
この録音から感じられるのは、
「奔放」とか、「不思議さ」からは、
かなり遠いものではないか。

トスカニーニには、この3年後、
NBC交響楽団とライブで、
ベートーヴェン・チクルスをやっているが、
そちらの演奏の方が新しいせいか、
あるいはオーケストラが変わったせいか、
もちろん、ライブのせいもあるだろうが、
あらえびすが、36年盤に対して書いた、
「燃え上がる焔のような激しさ」が、
生々しく記録されている。

私は、「36年盤」から、どうやったら、
「奔放さ」、「奔騰する美しさ」や、
「燃え上がる焔のような激しさ」が聞き取れるのか、
むしろ、それがよく分からなくなってきた。
「激しさ」よりも、「均衡」とか「抑制」が、
感じられてしょうがないのである。

もちろん、この演奏のしなやかで、
晴朗さすら感じられる古典的な格調によって、
私は、これらのCDで聴ける音楽を、
否定することはできないのだが。

そこで、改めて、1991年に出た、
RCAビクターの遺産を引き継ぐ、
BMGの「トスカニーニ・コレクション」の
同じ曲を聴いてみることにした。

このBMGの「トスカニーニ・コレクション」は、
82枚にも及ぶ、トスカニーニの録音の集大成で、
いっかつで買っても中古では、かなり安く入手できる。
ただし、私は、数えるほどしか持っていない。

これは、日本で出た、30タイトルの
「トスカニーニ・ベスト・コレクション」や、
20タイトルの「エッセンシャル・コレクション」の、
もとになったものと思われるが、
私の印象では、日本で出たものより、
音が自然なような気がしている。

表紙は、トスカニーニの
指揮姿の写真をベースにしていて、
白黒を基調にしていて、シックで悪くない。
解説もそこそこしっかりしていて、
「ベスト・セレクション」にあるような、
いい加減なものではない。

この「トスカニーニ・コレクション」で聴くと、
ざらざらノイズが目立つ代わりに、
アタックの強靭さなどが、
ナクソスやパール盤より、
再現されているような気がしてきた。

解説も読んでみると、こんな事が書かれていた。
「トスカニーニ/フィルハーモニックの録音の中で、
ベートーヴェンの『第7』は、
もっとも高く評価されたものだ。
これは、マエストロの解釈のスタイルの、
ほとんどすべての美徳が表された演奏である。
常にぴんと張った彼の手綱さばきによって、
成し遂げられた劇的な緊張に至る、
フィナーレの統御されつくしたドライブがある。」

私は、どちらかと言うと、
曲の冒頭で、だんだん高まって行く、
感興のようなものを期待していたが、
この解説によると、
フィナーレこそが最初に語られるべきもののようである。

いや、確かに、このBMG盤で聴くと、
フィナーレでは、トスカニーニの興奮した唸り声と共に、
するどいリズムの切り込みから、
次第に高揚して行く音楽の確かな足取りが小気味よく、
気迫と集中で煽り立てられていく様子が、
より明確に感じられるのである。

この解説は、Mortimer H.Frankが
書いたものだが、このように続く。

「そして、ここでは、
きびきびとした推進力によって、
第1楽章が長短短のリズム構成で鮮やかに描かれ、
その表現力を豊かにしている。」

長短短の話が出たので、
リズムパターンを気にして聴いてみると、
序奏部は、たたたた・たー、たたたた・たーと、
背景から、後にシューベルトが影響を受けそうな、
音形の集積が聞こえてきて興味深かった。

解説にあるように、第1楽章は、きびきびと、
むしろすいすいと描かれて行く方が目立つ、
とてもなだらかな音楽であって、
尖がっているリズムよりも、
リズムをしなやかに歌わせている感じが強い。

「また、第2楽章と第3楽章のトリオは、
しばしば、テンポが正統的ではないと言われ、
これらは、当時の慣習よりも速く演奏されている。
疑いなく、これらの特徴は、
1930年のフィルハーモニックのヨーロッパ・ツアーで、
トスカニーニがこの曲を演奏した時、
欧州の聴衆を驚かせたものである。」

第2楽章は、十分、慟哭する感じで、
今日的には早すぎるとは思えず、
トリオは、素っ気ないので、
速すぎるように感じてもおかしくない。

このように、速いテンポで、
きびきびと演奏されているのは分かるが、
「燃え上がる焔」を感じるまでにはいかない。

そんな私の感じ方を代弁してくれるように、
この解説は、こうも書いてくれている。

「のちのトスカニーニの録音と比べても、
この録音は、多くの点で異なっている。
彼の4種類のNBC交響楽団との、
放送録音と比べても、軽めで、音がよりまろやかで、
第1楽章では、リズムに柔軟性があり、
(再現部直前のリタルダンドのように)
アレグレットはいくぶんゆっくりで、
終楽章はたっぷりと演奏されている。
とはいえ、テクスチャーの明解さ、
推進力やどんどん増大する力など、
後年の彼の解釈に刻印されているものは、
ここでも同様に聞き取れる。」

そして、最後に括弧書きで、
「この再発売では、
第1楽章の導入は、
より推進力があり、良い録音の、
第2テイクを使っている。
すべてではないが、
過去、多く発売されたものは、
トスカニーニの好みを無視していた。」
と、記載してある。

このあたりは、前回、ナクソスのCD解説で、
読んだものと同じである。
この演奏のピュアなコンセプトや、
ノイズも厭わず、ストレートな音質を、
より追及した姿勢からすると、
このような選択は十分、妥当性が感じられる。

が、総じて、腹に響く低音があまり感じられない。
これは、この時期のトスカニーニの特徴なのか、
録音上の制約なのかは結局、判然としなかった。

さすがに51年、カーネギーホールにおける、
NBC交響楽団との放送録音とされる、
有名で、広く流通した演奏では、
いきなりズーンと来る低音が聴ける。
(97年にBMGジャパンから出た、
トスカニーニ・ベスト・コレクション)

このCDでは、「厳格なる情熱」という言葉で、
演奏の特徴が述べられているが、
低音が響くのはともかく、
高音も刺激的な音響が多く、
演奏がどうかを語る前に、
全体として下品な印象を残す録音となっている。

第2楽章も声を張り上げるような盛り上がりが、
微妙なテンポの揺れを伴いながらの、
精妙な息遣いをかき消してしまう。
ヒステリックなまでに盛り上がろうとする気配に、
耐えがたくなってCDを止めてしまった。

「燃え上がる焔」ではなく、
アクセルを踏みっぱなしのエンジンみたいに、
いかにも戦後のアメリカ文化を象徴し、
人工的なゴージャス感に疲れてしまう。
つくづく、ニューヨーク・フィルの録音を、
よい音で聴きたいものである。

一方、ニューヨーク・フィルとの、
貴重な演奏を集めた、
先のBGMのCDでは、
続くハイドンの「時計」交響曲なども、
序奏から雰囲気が豊かで、繊細さすら感じさせ、
ついつい、引き込まれてしまう。
1929年と、ずっと古い録音ながら、
木管が軽やかに舞う空気感も良い。

なお、ハイドンのこの曲も、
トスカニーニは、戦後に再録音しているが、
強奏になると、たちまちやかましくなって、
いかにも、放送用の狭いスタジオで録音された感じ。

この曲は、悪名高い8Hスタジオより狭い、
3Aスタジオでの録音とのこと。
経費の節約でもあったのだろうか。

ひょっとして、トスカニーニの戦後の録音の、
息苦しい感じは、こうした商業主義の影響を、
間接的に受けているのではあるまいか。
貴族的なおおらかさが、
ニューヨーク・フィル時代にはあった。

第2楽章のような静かな部分は、
このスタジオでも悪くはないが、
第3楽章のような、てきぱきした部分では、
ぎらぎら感が出てしまう。

トスカニーニが目指したとされる、
室内楽的な表現の部分なら、
狭いスタジオなら、むしろ好ましいはずだが、
指揮者はともかく、
時代は、そこまで成熟していなかったのだろう。

さて、パールのCDで、
オバート=ソーンが書いていた事を、
読み終えてしまおう。

「ベートーヴェンを録音してすぐに、
トスカニーニとフィルハーモニックは、
ブラームスの『聖アントニー』変奏曲に取り掛かった。
これは、ネヴィル・カーダスが、
BBC交響楽団との他のブラームス演奏(『第4』)
で、絶賛してから10か月後の記録となっている。
『彼は、もっとも満足のいくブラームスを聴かせてくれた。
雄弁かつ率直、そのバランスされたラインの美しさ、
そしてエネルギーに満ちている。
それでいて、常に人間的で多面的である。
これは男性的なブラームスであると同時に、
人生における優しさを愛するブラームスである。』
こうした質感は、この作品56aについても言え、
恐らく、マエストロによる、
この最初のブラームス録音の素晴らしさは、
明るさ、透明さ、解釈の流れにあって、
当時のブラームス演奏家たちの多くに見られる、
退屈にリズムが変化するような、
ブラームスへのアプローチではない。」

このトスカニーニによるブラームスは、
私は素晴らしいものと断言せずにいられない。

交響曲を書く前の試作品のように語られてきた、
この大変奏曲に、これほどの愛情をこめて演奏したのは、
初めて聴いたような気がするのである。
木管楽器などの寂しげな風情や、
機動的に動く弦楽器群の精妙さなど、
表現の上で聴くべき所が満載で、
録音も立体感や生き生きとした立ち上がりが素晴らしい。
唯一の難点は変奏曲ごとにトラックが振られていない点で、
BMGのトスカニーニ・コレクションでは、
その点、変奏曲ごとのトラックに加え、
変奏曲ごとの解説まである。

これは、やはり、
Mortimer H.Frankが書いたもの。
この人は、生粋のニューヨーカーで、
トスカニーニの演奏に若い頃から心酔し、
音楽評論の道に入った人で、
ニューヨーク市大学の名誉教授の肩書を持つらしい。

「ブラームスの『ハイドン変奏曲』は、
トスカニーニお得意の演目。
長年にわたり、彼のコンセプトは変わらず、
演奏の違いは、もっぱらバランス上のものか、
第7変奏(Track14)の第2のリピートが
あるかどうかの違いである。
多くのマエストロの現存する演奏の中でも、
1936年の録音は、その音響の豊かさ、
オーケストラの技量の魔術、
後年の演奏では、ここまで強調されていない、
いくつかの劇的な対比によって傑出している。
特に目覚ましいのは、
第6変奏のホルンの豊かさや、
第5変奏の跳ね回るユーモア、
さらには、パッサカリア終曲の開始で、
低音弦が歌いだす時の
異常なまでの壮大さである。
同様に、素晴らしいのは、
このパッサカリアに対する、
トスカニーニのしなやかさである。
たとえば、誇らしげな結尾の主題爆発での、
わずかなリズムの弛緩や、
いかに、かように微妙な脈動の変化が、
この主題が古典的な変奏の過程を経て、
素晴らしく変容したかを強調しているか、
が注目される。」

トスカニーニの後年の録音は、
日本でも廉価盤で大量に出回ったので、
「ハイドン変奏曲」の1952年の録音も、
簡単に入手することが出来る。

最初から、このNBC交響楽団との演奏で失望するのは、
痩せた音で、割れ気味になるオーケストラの音響で、
新しい録音だけに、明るく色彩的ではあるが、
乾いていて堅苦しく、1936年盤で聴けた、
魔法のようなひらめきが捉えられていない点であろう。

やたら、威勢よく鳴っていて、
微妙な節回しも慌ただしく落ち着きがない。
したがって、前述の第5変奏も、
機動戦車部隊みたいであり、
第6変奏もこのスピードで鳴る事が重要、
みたいな一過性のアプローチに聞こえる。
ニューヨーク・フィルの録音には、
もののあわれの風情があったのだが。

最後のパッサカリアは、
NBCの録音でも、ためらいがちに始まるが、
すぐに絶叫気味の力技がさく裂するので、
聴いていて、しみじみできない。
それどころか、リズムが先走って、
混乱、錯綜の様相さえ示すのはいかなることか。
爆発するような主題回帰も唐突で、
この演奏では、何度も聞き直す気にならない。

さて、これまで、4回に分けて読んできた、
パール盤の解説は以下のように語り終えられている。
「RCAビクターは、ベートーヴェンとブラームスに、
2つのフル・セッションを用意していたが、
すべて順調に行ったため、
2日目には時間が余った。
トスカニーニは個人的に、
残った時間で、
2曲のロッシーニの『序曲』を
録音することを希望した。
(『セミラーミデ』はとっさの思いつきに見え、
12分を12インチの4面にたっぷりと収めてある。)
6面のうち、1面のみが録り直しされたが、
何年もかかって、これほどまでに、オーケストラは、
マエストロの要望に沿えるようになっていた。
それに引き替え、
このコレクションの最後に収めた、
『セヴィリャの理髪師』序曲は、
1929年11月21日のものだが、
録音中に5回のセッションを必要とされた。
そのため、ユーモアをたたえながら、
自然な響きを持っている。
7年後のロッシーニ録音を比較して聴くと、
フィルハーモニックとの時代を経て、
トスカニーニの解釈アプローチにも、
明らかな進化が見られるのが良くわかる。
後の録音の方がずっと微妙で、
明白な修辞的な手段に依存していない。
全体的なコンセプトが流れるようである。
一方で、初期の録音では、
幅の広い歌うような線が、
当時のオーケストラの習慣での
弦でのポルタメントの使用が、
心に触れ、輝かしい完璧さの
1936年のシリーズにはない、
自然な魅力を垣間見せる。
1929年の時点で、
ブラームスの『変奏曲』や、
『ジークフリート牧歌』などが残されたら、
さぞかし、後年のものとは違ったものになっただろう、
と推測すると楽しい。
いかなる場合においても、
フィルハーモニックの録音は、
トスカニーニの芸術の鑑賞や、
当時の聴衆や
多様なバックグランドを持つ音楽家たちから、
何故、それほどまで彼が尊敬されたかを
理解するのに絶対的に重要な
グループをなすものである。
後の、より高忠実度をもつ、
NBCの録音以上に、
彼の力の絶対的な頂点や、
10年を超す共演で得られた
第1級のアンサンブルとの境地を、
これらの録音は示している。
これらの録音のほとんどが、
これまで30年にわたって、
一般には手に入りにくかったり、
手に入ったとしても単発だったのは、
信じがたい事である。
パールによるこれらのCD登場で、
こうした状況は正されることになり、
アルトゥーロ・トスカニーニの、
並外れた力を、後世にまで、
正しく伝えることが出来た。」

BMGジャパンから出ていた、
トスカニーニ・ベスト・セレクションに続く、
トスカニーニ・エッセンシャル・コレクションからも、
ベートーヴェンの「第7」、ハイドンの「時計」など、
ニューヨーク・フィルの演奏が出ているが、
リマスタリングを行ったのが誰か分からず、
たまに中古で見かけても、購入には至っていない。

そもそも、BMGファンハウスの時代になって、
20世紀の終わりに出た、
「不滅のトスカニーニ」シリーズでは、
先の「トスカニーニ・コレクション」を否定し、
「前回より良好な状態のマスターテープを発見した」とか、
「前回のものは概して硬く、メタリックで、
しかも厚みのないサウンドであった」とか、
無責任な能書きが書き連ねられているのである。

ここでは、トスカニーニの孫までを駆りだして、
正統性を主張しているが、
「かつて出していた商品はすべて嘘の音でした」、
と謝っているのがすごい。

とはいえ、ワルターの録音などは、初期のCDの方が良い、
という伝説もあって、
何が何だか分からないのが、この世界である。

そもそも、「不滅のトスカニーニ」シリーズには、
ニューヨーク・フィルとの録音は含まれていなかった。
確かに、「20bitリマスタリング」
と強調しているだけあって、
きめ細かい感じはするが、
音源が遠ざかって、
無理に彩色したような印象が出た。
ダイナミックレンジはやはり狭く、
金管などが割れ気味なのは同じで、
最悪なのは、表紙デザインが手抜きであることだった。

その点、ほとんど満足する音質のものはないのだが、
BMGジャパンの「ベスト・セレクション」や、
「エッセンシャル・コレクション」は、
オリジナル・ジャケットを使用していて、
眼で見る楽しみは100倍も大きい。

得られた事:「トスカニーニ、ニューヨーク・フィルの録音で、ただ、足して欲しいのは、腹に響く低音であるが、彼の場合、新しい録音になると、低音と引き換えに、ぎらぎら音がついて来る場合がある。」
「ナクソスはパールなどのリマスタリングより、良い場合がある、と書いているが、例外もあり、BMGは、過去の自身の復刻を完全否定しているが、過去の復刻も悪くなく、ナクソスより良い場合もある。」
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by franz310 | 2014-01-12 23:21