音楽嫋々・クラシック名演奏CD&レコードこだわりの大比較。理想の感動体験への旅。
2023-01-21T18:56:53+09:00
franz310
クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
Excite Blog
名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その482
http://shubert.exblog.jp/32800971/
2023-01-21T18:55:00+09:00
2023-01-21T18:56:53+09:00
2023-01-21T18:55:17+09:00
franz310
現・近代
個人的体験:
ウクライナの
人たちが、
日本にも
避難して来て、
少し、
生活にも
慣れて来た
頃だという。
しかし、問題は
そこから。
落ち着いてみると、
戦争は続いているし、
恐ろしい日々を思い出すしで、
そもそも、多くの人が、
ウクライナを忘れていないか、
という恐怖感もあると聞いた。
先の大戦の予感の中で書き上げられ、
しかし、戦争を前にしての
不穏な空気の中、
思う通りの上演には至らなかった、
クルシェネクのオペラ「カール五世」を聴きながら、
ウクライナ情勢を忘れないようにする試みは、
確かに、第一部を聴いたところで中断していた。
そうであってはならないと、
第二部を聴き進めることにしたい。
毎日、ニュースで状況を見ているし、
忘れているわけではないのだが、
ウクライナの反撃やロシア軍の統率の乱れもあって、
最悪の状況ではないまま、
時を待つしかないような気持ちになっていたのは確かだ。
こうしている間にも、
不断の努力で、均衡が保たれている感じなのだろうが。
「カール五世」の第一部は、
神聖ローマ帝国の最大版図を築きながら、
疲弊のうちに引退し、
やたら早い死を前にして、その業績を振り返る。
すると、様々な矛盾ばかりが突き付けられ、
皇后であった、イザベルの葬儀の幻影に重なって現れた、
異教徒たちの亡霊たちの呪いで、卒倒してしまう。
カールはカトリックの守護であるべき立場、
だが、ドイツにはプロテスタント勢力が現れる。
そんなルターとのうやむやな関係、
同じキリスト教国、フランスとの戦争や
キリスト教の名の許に行われた新大陸での略奪、
さらに資金が尽きてのローマ略奪、
実に、いろいろな事があったが、
全て、支離滅裂にも見える。
こうして、過去を掘り起こし、
あれこれ客観的に質問するのが、
フアンという若い聴聞僧で、
第二部でも重要な役割を演じる。
スーストロ指揮でボンのベートーヴェンハレ管弦楽団が
録音した全曲盤では、二枚目のCDに収録された部分。
第二部は、第一部で、走馬灯のように現れた、
カールの政治への挑戦者たちが再び登場し、
遂に、カールは絶命してしまうようだ。
Track1.
第一部と第二部は、6分で演奏されている間奏曲。
卒倒したカールの夢か、
あるいは、カールが安静にしている場所の
静かな環境を暗示してとても美しい。
しかし、途中、悪夢のような音楽が出て来る。
Track2.前の場面と同じシーンとある。
フアンの他、フランシスコ・ボルハという、
イエズス会士が同席している。
亡くなった皇后イザベルの侍従を
務めていた人とも説明されている。
この人は、実在した大物で、
ウィキペディアにも日本語で、
「聖フランシスコ・デ・ボルハは、
16世紀スペインの貴族、軍人、政治家、聖職者。
イエズス会士。第3代イエズス会総長」
とあって、
かなり長い記事となっている。
ボルハはイタリア語ではボルジアということで、
ボルジア家であれば、チェーザレ・ボルジアとか、
ルクレツィア・ボルジアといった、
悪名高い人物の集団が思い浮かぶ。
何が悪いかというと、
チェーザレ・ボルジア(1475 -1507)は、
塩野七生著「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」
の紹介文が簡潔に表している。
「十五世紀末イタリア。群立する都市国家を統一し、
自らの王国とする野望を抱いた一人の若者がいた。
その名はチェーザレ・ボルジア。
法王の庶子として教会勢力を操り、
政略結婚によって得たフランス王の援助を背景に、
ヨーロッパを騒乱の渦に巻き込んだ。」
またドニゼッティ作曲の
オペラ「ルクレツィア・ボルジア」は、
毒殺されたヴェネツィア士官が、実は自分の息子だった、
という悲劇の母親の話だが、
それは夫が、二人の不義を怪しんだから、
という極めて退廃的な背景がある。
ルクレツィア(1480 – 1519)は、
先のチェーザレの妹で、
兄妹で近親相姦のうわさもあったという。
つまり、ボルジア家は、
野心、好色、陰謀、毒殺といった点で際立ち、
いかにもヤバい家柄という感じで捉えられていたのであろう。
ただし、この兄妹は、カール五世より
一世代前の人たちという感じである。
さて、フランシスコ・ボルジア(ボルハ)
(1510-1572)についてだが、
この兄妹の間の間にいたフアンという弟(1476–1497)の
息子の子という関係で、
爺さんの世代での生臭い感じは、少し薄らいでいる。
それどころか、聖人に列せられてすらいる。
Wikiには、
「カール5世の宮廷へ出仕する頃には、
美貌と騎士としての力強さおよび謙虚さを
兼ね備えた若者になっていた」とあるが、
途中で方向転換したのである。
彼自身、
「イサベラ皇后の崩御は実にわが霊生の始めであった」
と語ったとあるように、
カール五世妃が亡くなった(1539年)衝撃から、
聖職者を目指すようになったらしい。
生没年については、
1510年10月28日 - 1572年9月30日となっているから、
カール五世より10歳年下で、
この皇帝が1558年に亡くなった時には、
48歳ということになる。
Wikiには、
「1558年に死去したカール5世の臨終に立ち会い、
遺言執行人に指名され追悼演説も行い、
順調に進んだかに見えた」とあるから、
クルシェネクのオペラは、
それなりに歴史を踏襲している。
順調でなくなったのは、
イエズス会がその過激さゆえに迫害され始めた事で、
彼は、ポルトガル、そしてローマに逃れ、
そこでローマ修練院を開設して伝道者を養成、
1568年のペルー、1572年のメキシコ派遣はうまく行ったようである。
ちなみに、日本にイエズス会のザビエルが来たのは
1549年なので、このボルハとは関係がなさそうだ。
ウィキペディアが、ここまで詳細な
記事を書いていることは南米のキリスト教布教成功に
よるものだろう。
いずれにせよ、このオペラでは、
フランシスコ・ボルハは、
ボルジア家のいささか高慢な血筋を引きつつ、
厳格なイエズス会士という感じである。
この人が第二部で登場することによって、
皇帝の告白を単に批判的に聴いていた、
若い聴聞僧フアンに対して、
当事者であるカールとは異なる、
別の客観性を獲得しようとしたようである。
ちなみに、ボルハは1546年に妻を亡くし、
修道者になろうとしたとある。
1539年にカールは妻イザベラを失っていたので、
男やもめ同士という関係でもあった。
この聖職者をこのスーストロ盤では、
ヴェルナー・ホルヴェーク
(Werner Hollweg, 1936 - 2007)
という、比較的高名なドイツのテノール歌手が受け持っている。
この人は、
シューベルトの合唱曲のCDで、
独唱部を担当もしているので、
シューベルト愛好家は書き飛ばしていけない。
解説にも、ザルツブルク、ミュンヘン、ウィーンなど
多くの音楽祭で歌を披露したとか、
モーツァルトの解釈に優れるとか、
沢山の録音がある、とか書かれている。
1993年からはフライブルク音楽大学で教鞭をとっており、
筋萎縮性側索硬化症で2007年には亡くなった
とあるので、この2000年の録音では一線を退いた後の仕事。
彼が受け持っているフランシスコは、
高らかな歌唱を聴かせるものではなく、
単に、フアンと語らっているだけの役。
しかし、フアンの、ともすると、純粋さゆえに、
一面的になりそうな批判を受け止める、
重要な役柄、と言える。
まず、オペラのト書には、
カールは眠っているとあり、
フアンとボルジアの会話が続く。
この部分の説明としては、
「皇后の以前の執事、フランシスコ・ボルハは、
今やスペインで新たに組織されたイエズス会の総長で、
教会の厳格な信条を体現している。
この信条によると、ある一つの行為のみが正しいとされる。
しかし、皇帝の信念に影響されたフアンは、
全ての判断の関係を理解し始める」とある。
(同じシーン、フアン、フランシスコ・ボルハ、カール5世は眠っている)
以下、まったく音楽は鳴らず、
単に二人が語らっているだけ。
フアン(フランシスコに):
「人生を振り返った告解の最中、
皇帝は恐ろしいご病気に襲われて中断してしまった。
もはや、手遅れかもしれません。」
フランシスコ:
「何?陛下がそなたのような若僧を通して
正当性を弁明したがったと。」
フアン:
「私はそんな大それたことを
するつもりはありませんでした。」
フランシスコ:
「そなたはこの方の人生を不明瞭な罪で埋め尽くす文脈の
圧倒的な重荷についてどこまでご存じか?」
フアン:
「フランシスコ・ボルハ、
私とは比べることも出来ぬ偉大なお方、
その高貴なお生まれで、
陛下の侍従にしてご友人であるのみならず、
その洗練とご功績ゆえに。
あなたは教皇によって、ロヨラの高遠な秩序を、
我が国に根付かせるよう求められた。
私でさえ、主にこの身を捧げており、
聖なる教会から借り受けた、
悪魔の誘惑と戦うための武器と、
信ずることを命じる教義の羅針盤を持っています。」
このあたりは、フランシスコ・ボルハが、
フアンに対して、カール五世が背負ったものの
大きさを諭そうとするが、
それでもやはり、フアンは、
カールのやって来たことは変だということを強調している。
ローマ教皇を頂点とするキリスト教世界の安定を
目指す立場でありながら、
刃向かうフランスに言うことを聴かせようとして
武力を用い、その戦費をアメリカ大陸の搾取で補い、
遂には手勢が教皇のお膝元であるローマで略奪まで行う、
ドイツではルターなどの台頭を許してしまう。
フランシスコは分が悪くなったのか、話を変える。
フランシスコ:
「皇帝をご覧あれ。もっと偉大な方は、そなた以上に危機に瀕している。」
アンリ・マティス(皇帝の医師)(入って来る)
「さあさあ、来ましたぞ、尊師。」
フランシスコ:
「まだ時間はありますか。」
マティス:
「神が奇跡をなさりますなら。皇帝は硬直して動かず、
昏睡状態で、ただ、その時計のカチカチ音だけが、
恐ろしい静けさを破り、それがさらに恐ろしさを増す。」
(出て行く)
フランシスコ:
「ああ、おかわいそうな帝国皇帝。」
フアン:
「私をおしつぶそうとするものを聴いて下さい。
それこそが、皇帝を押しつぶすものなのです。
お方が私に求めたこの審判の間、
私を混乱させ、麻痺させたものです。
このお方は、あまりにも多くの責務を背負い、
それゆえに圧倒的な悲しみで打ちのめされ、
それが計り知れぬほどの重みで
私の判断をおかしくするのです。」
フランシスコ:
「人のなすことの中に、
神でも測定が出来ないような失敗の限度を
超えることがあるのでしょうか。」
フアン:
「おそらく、私は、
それらを残念なことと見ることしかできません。
私たちが歴史から学ぶように、
自然は時間のわずかな経過の中で人間を変え、
今日、信じているものを明日は間違いに見え、
今日は間違いとして笑い飛ばしたものを、
明日は啓示として崇拝するようになると、
時々、考えたりしないでしょうか?」
こうした事は往々にしてあるだろう。
聖人として知られるフランシスコ・ボルハの言葉が待たれるが、
以下のように、難解な言葉遣いながら、
結局、異常なものは理解できないと言っているようだ。
フランシスコ:
「これは
私たちはその効果を知っているかもしれないが、
まだその力が隠されているという異常な状況で起こる可能性があり、
そこでは、新しい見方によって、
我々の理解に適合することがあるかもしれない。
しかし、道徳と信仰は、そうした突然変異とは、
完全に分けて考えるべきだ。
誘惑を追い払い、『何が真実なのだ』と問うしかなかった
ピラトの盲目に陥らないよう祈りましょう。
疑いを抱く時代に災いあれ。」
フアン:
「目を覚まされよ、皇帝陛下。
本当の、最大の、最後の闘いがそこにあります。」
フランシスコ:
「あなたに求められているのは、
一時的な幸福をもたらすではなく、
救済と真実を広めることです。
罪を犯したものに降りかかる痛みなどに、
振り回されてはいけません。」
この二人の対話がここにある理由は、
迷うフアンに対して、古い世代を代表する
フランシスコが、類型的な考え方で、割り切ってしまっている点を
あるいは、そんな視点もあり得ることを
強調したかったのだろうか。
(シュマルカルデンのプロテスタントの指導者たちが見えて来る。
ザクセンのモーリッツやルターもいる。)
次の部分は、第1部でも登場して、
神聖ローマ帝国は腐った果実、その中にいる虫、
として紹介された新教を代表するメンバーである。
Track1.は音楽だけの間奏曲だったし、
Track2.は、会話だけで成り立っていたが、
ここからは点描風の音楽が、言葉に絡み合ってくる。
Track3.
たーんという打楽器のパルスと金管の残響の後、
渋い声で、ザクセンのモーリッツの声が、響く。
モーリッツ:(ルターに)
「罪びととされた痛みなどに、
悩まされることはありません。」
モーリッツを担当するのは、
Walter Gontermannというベテランのドイツの役者。
フランシスコ:
「何と不思議な木霊か。」
こうした不思議な幻影が現れることに、
フアンは慣れているが、
後半から登場したフランシスコは、何だか分からずにいる。
フアン:
「異教徒の頭目たちが、
シュマルカルデンの会議で策を練っています。」
フランシスコ:
「偽りの免罪ゆえに、何が実るかがわかるだろう。」
このように、この二人の目には、
プロテスタントの企みは、
何か悪行であろうという偏見がある。
「偽りの免罪」というのは、
「免罪符」が出せるのはカトリック教会だけ、
という含みがあるのだろう。
事実、ルターは、
不本意な宗教戦争の環境にめげているようだ。
伴奏する音楽も、木管がひょろひょろと、
いくぶん、情けない感じを表している。
ここでのルターはTom Solという、
オランダのバリトンが歌う。
ルター:
「陛下、私は老人で疲れ果てています。
そして心臓の鼓動も弱まり、
私の教えゆえに犠牲になった叫び声を毎晩聴くのです。」
カール5世のフランス王との戦争で
諸侯がイタリアに出征していた隙に
ルター信者の農民軍が組織され決起したが、
諸侯が反撃に転じることによって鎮圧され、
過酷な懲罰で、約十万の農民が亡くなったとされる。
それとは対照的にモーリッツ(ザクセン公)は、
自信ありげである。
この人は、「マイセンのユダ」と呼ばれ、
臨機応変に状況を乗り切っている。
前半はプロテスタント諸侯を裏切ったが、
後半はカールのために働くと見せかけ、
反転して裏切り、皇帝を敗走させている。
これが、1552年、その回収に弟のフェルディナントを当たらせ、
カール自身は退位を決意したか、1556年に隠棲している。
そんなモーリッツなので、
ルターの弱気に突っ込みを入れる。
モーリッツ:
「真実の英雄たるあなたが、疑いの奴隷になったとでも。」
ルター:
「諸侯たちの奴隷になったがために
私はこの地上の主の正義と真実を
追求する方に呪われたのです。
我が主が、私を死へといざなうのです。」
これは、ドイツの領主らが結託して
ルターの考えを利用して、
皇帝に刃向かった事を言っているのだろう。
しかし、それは決して、ルターの意志によるものではなかった。
ルターはレティタティーボで、
勇ましい短い音楽が伴奏する。
モーリッツ:
「博士、私たちこそ、彼らを反逆者として扱おう
というのがあなたのアドバイスでした。
それは良かった。
あなたは帝国の諸侯たちを、
帝国の苦役から解放する手段を私たちに与えました。
あなたは今や、彼らが大衆の奴隷になることを望んだようだ。」
モーリッツのルター批判は、語りによるが、
以下の部分では、惚けた音形の音楽がついて、
いかにも、皮肉たっぷりに聴こえる。
「だから、あなたの精神は、
私たちがしっかり根を張っている、
この堅固な地域を時期尚早に去るようです。
雲の中に鼻を突っ込んだまま、
ドイツ人は故郷の森を駆け回るから、
イタリア人の悪党は簡単に裏をかく。
政治や術策だ、ドイツ人はそれを学ばないのか?」
以下のルターの部分は、
畳みかけるような言葉の背後に、
神秘的な音楽が立ち上り、
最後は、警句的な音色が飛び交う。
ルター:
「術策を持って地獄に行けばよい、関わりたくもない。
私たちは愚かな人たちの心から教皇を引き裂いたのだろうか。
国民が今、高位の政治に手を出すことができるように?
全能の尊い主が、私たちの心の奥深くに住んでおられる。
孤独な瞑想の中でそこに届きますよう。
その領分には教皇も皇帝も近づいてはならない。
宗教と政治にはつながる道はなく、
それゆえに議会も論争もいりません。
私たちを混乱させ、真の信仰から目を逸らすことは
すべて意味のないこと。」
のらりくらりとする伴奏に乗って、
合唱が始まるが、なんだか、気が抜けた感じ。
あるいは、本分と行動が分離してしまった様であろうか。
兵士たちの合唱:(現れ)
「戦場においては、俺たちは野獣で自由なのだ。
家においては、みんなが知ってる信心深さ。
矢車草の花に赤い薔薇、恋人が知っている楽しいゲーム。」
ルター:
「なんの歌だ。」
モーリッツ:
「ドイツの兵士らです。
ちょうどイタリアから帰ってきた。
私の考えをお聞きください。
今や、皇帝の独裁から国土を解き放つために、
力を結集するのです。
皇帝の疑いを招く前に、
あなたはどうやって力を集めるというのです?
彼の味方ですか。
ですから、宗教問題を討議するために
集められる会議にて無頓着を装い、
審議を遅らせ皇帝を困らせましょう。
もし、彼が力に訴えるなら、
実際は彼に立ち向かうため、
私は、彼に付くふりをしてみせましょう。」
フアン:
「お聞きになりましたか、
ヴィッテンベルクの僧の言葉を。
あなたの教義に、
そんな事まで含まれていますでしょうか。」
ここで語られた「そんな事(計画)(solche Pläne)」は、
「主は私たちの心の奥深くに住んでおられる。
孤独な瞑想の中でそこに届く。
その領分には教皇も皇帝も近づいてはならない。」
とルターが言った点だろうか。
フランシスコ:(フアンに)
「そなたは皇帝にすべて罪があると。」
兵士ら:
「無法者らに来て欲しい時、
水車屋は心地よく回る音を立てる。
彼らは見つかるだろう。
矢車草と白い百合。
恋人よ、ベッドにいるね。」
モーリッツ:
「春が来た森のように、元気な力強い国の
新しく目覚めた力が舞い上がる。
さあ、兵士らを受け入れ、我らの大義に。」
(ルターとコーラス以外消える)
兵士ら:
「楽しい歌を歌いながら戦争に行こう。昼は短く、夜は長い。
矢車草と白い百合。
殺し、死ぬのは我らが喜び。」
(消える)
ここは、シュプレヒシュティンメのような
アリアだろうか。
オーケストラの淡い色彩が要所要所で、
その声を支え、後半は、いくぶん、緊張感を増し、
錯綜するような音楽となり、銅鑼が鳴り響く。
ルター:
「私にはもはや、熾烈で無益な狂乱から、
彼らを引き返させる力はない。
私の仕事はその道から変化している。
この精神が勝ち取ったものは、
人がカードの価値を考える前に、
あまりにも早く、
昔からのパワーゲームと一緒になってしまった。
私のなしたことは、人の救いの助けになったろうか。
こんな無益な問いは遅すぎたが、
私はそうせねばならなかった。
それはまるでサタンがこの世に植え付けた何かが、
私に選択し、決断することを迫ったかのようだ。
私は自分自身を助けることができなかったし、
人が止まることを選ぶことはもはやない。
疑いは、地獄の喜び、天国の苦痛、苦悩となり、
来たるべき人々は皆、
疑いの領域に支配されるだろう。
人の心は、無のふちを示す
恐怖のフロンティアへと旅立ち、
私も、私に続くものが、
その道に沿って戻ることは許されない 。
しかし、この世から、
私が安らかに、あるいは恐れて出発しても、
私は涙の谷間のこの場所で、
怠惰ではなかったし、
そのことは私に褒美を取らせることだろう。」
(消える)
このルターの、自らの仕事の総括は、
一人の人間の何らかの行動に便乗して、
雪崩を打つように多くの人間が、
思わぬ方向に動き出してしまう、
という危機の時代の総括とも見える。
得られた事:「ルネサンスの野心家の象徴、チェーザレ・ボルジアの弟の孫、フランシスコ・ボルハは、カール五世のお気に入りの忠臣だったが、カールの妃、イザベルの死に心動かされ、イエズス会に入信、南アメリカへの布教などで認められ、第三代イエズス会総長となるが、その前にカールの葬儀の際にも働きがあった。クルシェネクのオペラの中では、聴聞僧フアンの話し相手として第二部から登場、旧世代を代表する意見でカールをかばう。」
「クルシェネクの『カール五世』では、ルターは農民戦争などの責任を感じて、宗教改革の闘士のような印象が薄れ、自分の行って来た事が、思わぬ方向に歴史を動かしてしまったことを、なすすべもなく振り返っている。」
「ザクセン公モーリッツらドイツ諸侯は、ルターを利用し、その行動をトリガーにして、ルターが思っていた以上のアクセルを踏んだ。これは、カール五世の時代のみならず、クルシェネクの時代でも同様の事が起こっている、という描かれ方であろうか。もちろん、この21世紀においても、いきなり、いろんな事が雪崩を打って起きている。このオペラでは、ルターが、『手にしたカードの価値を考える前にゲームを始めてしまった』という状況である。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その481
http://shubert.exblog.jp/32159167/
2022-08-16T17:06:00+09:00
2022-08-16T17:06:16+09:00
2022-08-16T17:06:16+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
終戦の日前後には、
様々な戦争関係資料が紹介され、
かなり勉強になる。
同時にウクライナから入って来る
リアルタイムの情報が、
そこに投影され、
戦争というものの実体が、
妙に多面的に実感できたりもする。
昨夜のNHKのビルマ日本軍崩壊の話も味わい深かった。
司令部は民間人まで軍人として防衛を任せながら、
自分たちだけは国外脱出していた。
完全に、自分勝手なロジックを作り上げて、
めちゃくちゃな行動を取っている。
しかも、結果に関して、まったく無責任なのだ。
こうしたことは、逃げる俺たちよりも、
置いて行かれるお前らの方が、
価値が低い、という前提で生きていなければ、
起こりえないと思われるのだが、
おそらく、戦時下においては、
まったくそうした価値観が普通になるのだろう。
お前らには赤紙の価値しかない、
と言っていたのが軍隊の文化だったからだ。
そして、「大東亜共栄圏」という言葉が、
自分勝手な解釈で使われていく。
クルシェネクの「カール五世」という作品も、
先の大戦の前に、
迫りくる脅威を肌で感じた人の音楽だが、
「キリスト教世界の統一」という、
この皇帝が目指した「ビジョン」について、
そもそも何だかわからんといった言葉が、
劇中で語られたりしている。
「偉大なる〇〇の復活」というのが、
最近の紛争でよく聞くフレーズであるが、
復活しようとして失敗する場合、
あるいは、威信にかけて失敗する場合が多かったのが、
20世紀の2つの世界大戦だったような気もする。
逆に言うと、復活しようとして、
当然、回りも巻き込み、
同時に、百倍返しでひどい目に会って来た、
というのがオーストリアやドイツ、イタリアであった。
ソ連は最大の犠牲者を出した腹いせだろうか、
結局、少なくとも指導部は、漁夫の利を得た、
という感じがしなくもない。
何しろ、戦争が終わってみれば、
東西冷戦という形で世界を分け合っていたし、
日本からもたくさん分捕った。
その成功体験にまだ洗脳された状態にある指導者であれば、
力ずくの何が悪い、という思考にもなるかもしれない。
オペラで描かれるカール五世にも、
力ずくであることへの反省はなく、
ただ、それ以外、道はないから仕方がない、
という感じで、これは、
今の大河ドラマの主題のような感じもある。
大河ドラマでも、
権力抗争の頂点にいた頼朝が、
悪夢にうなされるシーンがあったが、
クルシェネクのオペラでも、
カール五世は、
まったく悪気はなさそうに、
やるべきことをやらず、
やらなくて良いことをやっていて、
その話を聞いている若い理想肌の聴聞僧、
フアン・デ・レグラはいら立ち、
彼から突っ込みを入れられている。
しかし、一連の世界史的な出来事、
ルターとの宗教の問題、フランス国王との確執、
ローマ略奪などが描かれた後に待っているのは、
カールを脅えさせる亡霊との一場である。
最後には、囚人たちから、
逆に呪われて苦しみ、
皇帝と囚人(ここでは投獄された異教徒たち)が、
罪と罰を巡って平等に扱われるまでに至る。
Track.9:
ここでは4人の亡霊が次々にカールを苦しめるが、
それぞれ、「呪い」、「快活と平静」、
「誇り」、「嘆き」というものを象徴している。
真ん中の二つは怖そうでないのだが、
聴いていこう。
前の場面では沈黙しがちだった音楽も、
ここからは活躍を始め、
だんだんだんと緊迫するリズムに、
身をよじるような楽句が金管から
絞り出される。
これまでの事実ベースの展開から、
急に抽象的になるのだが、
「快活と平静」は、
フランス文化への憧れ、
あるいは、フランソワ一世との
確執を想起させたりもする。
これらは、何らかの総括のような意味を持っている、
ということかもしれない。
第1の亡霊:
「私は呪い。皇帝の船団が錨を下す海を泡立てる。
崖に船が打ち付けると、そのキールは割れる。
彼の軍隊の貯蔵品を水浸しにし、
塩漬けの食べ物で、空腹の兵士たちは彼に刃向かう。
これは、ローマが感じたことと同じものを
彼が感じるような罪に相当する罰になる。
私はそうした呪い。」
カールの傭兵は空腹ゆえに、
教皇の都に牙をむいたが、
教皇はそれに対し復讐し、
飢えた兵士が、カールを襲うように仕向ける、
そんな呪いを発したという流れのようである。
各亡霊は、言いたいことを一回言うだけ、
みたいな現れ方だが、ここでは、
クラウディア・ローアバッハという
ケルンやルツェルンのオペラで活躍した
美人歌手が担当。
可愛いコケティッシュな声で、
これまでのこのオペラの色調を一変させる。
ちょっと、「呪い」っぽくないが。
カール:
「神よ、私の神よ、異教徒の言葉で、
私を滅ぼさないでください。
私は古くて聖なる帝国を護るという、
高い目的をもっていたのに、
私はその没落の原因とならねばならず、
恐ろしい行為と犯罪の
立案者とならねばならないのでしょうか。
神よ、私を助けたまえ、
私の貧しい魂に、慈悲を賜るよう乞うべく、
私は、教皇のところに向かうことが出来ますよう。」
亡霊が言うことより、
カールの苦悩が重要なテーマなので、
彼の言葉の背景に聴こえる、
苦渋に満ちた弦楽器の暗い響きが際立つ。
第2の亡霊:
「私は快活と平静な心の精。
古代の哲学者たちの明るいメッセージに刺激され、
フランスの安全なところにいます。
陰気な力を克服するため、
自由で屈託がないのが、私の生き方。」
ちらり、ちらりと弦がきらめく中、
さすが、「快活」は、元気に出て来る。
イザベラと同じ、フランツェスカ・ヒルツェルが担当。
スイス出身であるが、ザルツブルク音楽祭では、
ブーレーズと「モーゼとアロン」を演奏したというから、
かなりの実力派なのであろう。
声はいくぶん潤いに欠けるが、
張りがあって、緊張感がある。
カール:
「幾度となく私を誘惑するものよ。
私は王冠も重荷も脱ぎ捨て、快活気ままに生きたい。」
カールもこの幽霊には心を許して、
管弦楽も生き生きとしている。
第3の亡霊:
「私は国の誇りの精。けんか腰のドイツに住んでいる。
古代の哲学者の言葉に鍛えられた。
勝利こそわが宿命。
今や絶望が皇帝を捉え、
ローマは泥の中に踏みつけられた。」
さすがに、この亡霊も軍国主義的で元気いっぱいである。
亡霊にしておくのはもったいない。
ただし、ちょっと個性が弱い。
カール五世:
「私は古代ローマの哲学者から、何か別の事を学んだ。
古い異教の帝国を主の御心に刷新するのが私の夢でした。」
彼は、我が意を得たりと、
元気を取り戻して、
元気に声を上げるが、次のように、
「時代遅れ」の烙印を押されてしまう。
三人の亡霊:
「汝は時代の兆候を見ていない。
汝を踏み越えて、その車輪は前に進んでいる。
それぞれの国民は生に目覚め、
輝かしい命に目覚めた。
それぞれが願うままの。」
この一節は、民族主義に目覚めた、
二十世紀前半の空気感から来た言葉であろうか。
この流れで、「大東亜共栄圏」が美化され、
反対にほころんでいった、とみることもできる。
それぞれの国民に、
ウクライナや台湾の姿を重ねることも
出来てしまう。
フアン:
「そのすべての上に神がおられる。」
オーケストラの黙示録のような
不思議な彩の中、
フアンの声が、妙に音楽的に響く。
カール五世:
「それこそが我が答え。
深夜の私の祈りはそうした呪いや
悪魔の誘惑より強かったのだ。」
この流れは危険だ。
神の名を語って、理不尽なことをしてくるのが、
人の世というものだ。
カールはまったく動じることなく威張っていると、
陰気な声が聞こえてくる。
第4の亡霊:
「しかし、まだ汝が知らぬ、
深い嘆きの精神たる
私だけがそれらを止めることが出来る。
私ゆえに汝は救われたのです。
私ゆえに、聖なる父は、恐ろしい罪悪感から汝を解放したのです。」
音楽は、とてもシリアスで、
深い嘆きの色調でなだらかに広がり、
この亡霊の歌も嘆きの歌に相応しい。
「私は神によって地上のすべての生き物に対する力を
与えられているからです。
この地上世界のものは私のものであり、
全てが、私に属しています。」
ここからはレチタティーボとなる。
「涙と嘆きこそが最も深い存在の本質であるがゆえに。
そなたの妻の死の床で、そなたを思い、そなたに向き合い、
そなたが世界に与えた恐怖と痛みを背負ったのです。」
余韻が深い音楽。
ここからは語り。
カール:
「破壊の爪痕から救い、
教皇と和解する。
ローマの皇帝として戴冠し、
私がマドリッドに帰り着き、
私の妻が死にかけていることを知った時、
悲しみの餌食になった。」
音楽が沈黙して怖い。
以下の亡霊の言葉も、報告みたいな感じ。
最初の三つの亡霊:
「しばらくの間だけ、我らは仕事を止めて置こう。
ここ、私たちが彼を押し込んだサークルの端で、
私たちよりも強い彼に破壊の仕事を任せて待っていよう。
彼は自分の良心を克服する力を持っているから。」
第一部の最後は、
イサベル、イザベッラ、
あるいはイザベルとも書かれる、
カール五世の妃の死のシーンである。
彼女は36歳くらいで亡くなり、
その後、約20年、
カールは死ぬまで再婚しなかった。
二人は、子供も5人残している。
若くして亡くなった印象が強かったのだが、
1539年となれば、
クレメンス7世も亡くなっており、
チュニスの攻略もしており、
フランソワ1世との講和も見ているから、
1526年以来、13年の月日が流れている。
まあまあ連れ添った感じのようだ。
1530年に、カールは皇帝としての戴冠を受けている。
Track.10:
イザベル:(現れ、死の床にある)
死に臨んでおり、夢遊病的な、
あるいは、うわ言のようなアリアとなっている。
オーケストラは、鼓動のような、
弱弱しいリズムの上、
うねうねと弦楽の流れ。
「あなたの栄光の頂点を見ました。
この世界の王、異教徒に対する勝利者。
私は、あなたの目的地まで付き添うことが出来ました。
もう十分です。深い感謝と共に、
私は父なる神の家に帰ります。」
このような登場の仕方からも推測できるように、
イサベルが、何らかの救いになるのでは?
といった期待が裏切られていく。
イザベルは亡くなり、カールは取り残され、
いったい、ゴールとは何だったんだ、
ゴールの先にあるものは何なのだ?
といった
疑問ばかりが投げつけられて、
混沌の中で、最後の場面が進行していく。
管弦楽は繊細で、ヴァイオリンが、
今にも切れてしまいそうな糸のような音。
また、時計が刻むような無機質のリズムが印象的。
カール:
「イザベル。今はまだ、離れないでおくれ。
最高の栄誉の後の、最も深い痛み。
大きな亡霊のような時計の振り子のように
この人生は永遠にあちこちに振れる。
意味不明の順番で、
この世の宴会の食事が出され、下げられる。
私たちはいつも飢えに誘惑され、屈服して死ぬ。」
カールのシリアスなアリアを、
だんだん盛り上がるオーケストラが支える。
が、音楽は、何だかギアが外れたようになり、
空とぼけた虚ろな音となって、
この夫婦の立ち位置の違いが際立っていく。
イザベル:
「あなたの言葉はおかしくて混乱しそう。
あなたはまだ、永遠の扉からは遠く離れている。
近づいているならば、もっとはっきり簡単に見えるはず。」
この部分、実はものすごく、胸を打つ部分である。
英訳のこの部分
「When one is near, all things are clear and simple」
を参照したが、ドイツ語原文では、
「Mir ist sie nah, alles ist klar und einfach
(それ(sie)は私の近くにあって、すべてはくっきり単純に見えます)」
となっている。
「sie」は「die Pforte der Ewigkeit(永遠の門)」の事であろう。
つまり、イザベルを抱きつつ、
すでに彼らは遠く隔てられているのである。
そもそも、何がら年じゅう、やれ異教徒が、
と戦争ばかりしている男である。
何が目的か分からなくなっていても
まったくおかしくはない。
「聖なる神意よ、私をそなたのもとに。
(カールに)私はあなたを愛しました(死ぬ)。」
このあたりの音楽も、
極めてそっけないながらも、
哀切で妙に情感を描き切っている。
が、音楽は急に乱暴になって、
カール:
「愛しい人。死なないでくれ。」
の前後の緊迫感を高め、
続く部分のトランペットのリズムや
ヴァイオリンの独奏の交錯を経て、
カールの錯乱が象徴される。
「私の周りから明かりが消えて行く。
今、大きなものが小さく打ち震える。
私は私の心の暗くなった部分から言葉を発した。
燃え尽きた家の窓のように塞がって、
私の幸福は、今や、暗く虚ろな洞窟となり、
悲しみの蛇が不気味に住んでいる。
もうこれ以上は行けない。ああ、もうこれ以上は。」
妻に先立たれ、
もう、何をしていいか分からないカールの前に、
さらなる追い打ちの幻影が現れる。
異教徒たちの合唱:
「もっと遠くへ、もっと遠くへ。」
カール:
「誰だ、私のモットーを嘲って叫ぶのは。」
異教徒たちの合唱:
「常に更なる痛みを。」
カール:
「誰だ。誰なんだ。」
第4の亡霊:
「そなたが牢にいれた異教徒たちが、
苦しんで叫んでいるのだ。」
カール:
「死ぬほど恐ろしい音だ。」
第4の亡霊:
「こうべを垂れよ。こうべを垂れよ。
底まで苦味の溜まった、すべてのカップを空にする時が来た。」
カール五世は様々な事を行ったが、
ここでは、異教徒の迫害が代表となって登場する。
確かに、彼の立場、神聖ローマ帝国の皇帝であれば、
ローマのキリスト教以外は、みな敵というのが基本であり、
この項目が一番かもしれない。
金管が吹き鳴らされ、
最後の審判のようである。
異教徒たち:
ここでは、ひどい牢獄の描写がなされるが、
極めて難解な言葉が使われている。
英訳は、
„ By pestiferous rats surrounded,
they like our limb that are raw and tortured,
our burning tongue are like lead in our torrid throats
(嫌なネズミどもに囲まれて、
奴らは俺たちの皮が剥がれた拷問された手足が好きで、
俺たちの燃える舌は灼熱の喉の鉛のようです)“
となっている。
「息もできない洞窟に繋がれ、嘆き、
嫌なネズミの群れの隣で、
俺たちのぼろぼろになった手足をなめ、
俺たちの燃える舌は乾いた口の中での鉛のようだ。」
(„Angeschmiedet im luftlosen Löchern,
benachbart dem widerlichen Volk der Ratten,
das unsere geschundenen Glieder leckt,
wie Blei die brennende Zunge im dorrenden Schlund.“)
ということか。
「俺たちの墓の上に太陽が昇ったのは何回か?
見えない俺たちの目が見逃した冷たい月の夜は何回か?
死刑執行人の皇帝を呪い、
この運命に導いた金を呪う。」
四つの亡霊たち:
「そなたが豊かにしようとした世界が
どんなに哀れかを見よ。」
合唱が交錯する中、
オーケストラは、ぶすぶすと
不完全燃焼のような音楽で、
妙な圧力を感じさせている。
カール五世:
「無垢は崩れ去った。
妖術の金によって真実は分解した。」
異教徒たち:
「聞け、聞け、甘い光の上に物音がする。
そのあとでようやく自由になれる
火あぶりの台を作っているのか。」
カール五世:
「いやいや、
それは私の幸福を葬るための絞首台だ。
もう、彼らは最愛の人を墓場に連れて行ってしまったのだから。」
異教徒たち:
「我々の牢獄の前で誰かが叫んでいるが。」
カール五世:
「そなたらのように、不幸な者よ。」
異教徒たち:
「この柵の向こうにいるあなたは、
不幸なものより幸福だ。」
弦楽の緊張感に満ちたテンション。
カール五世:
「しかし、そなたらに罪はないか。」
このあたりで、オーケストラは、
合唱と一体となって、
怒りの宣告をカールにぶつける。
異教徒たち:
「彼は、俺たちを裁くために何をした。」
(イザベルの葬列の上に松明が現れる)。
ちーんちーんと鐘が鳴り、
木管も、ぽんぽんとリズムを刻む。
いささか緊張をはらむ展開の中を、
女声合唱の響きが重なってくる。
尼僧たちの合唱:
ここで尼僧たちに歌われるのは、
レクイエムの歌詞である。
が、オーケストラが打ち鳴らす太鼓で、
レクイエムの安息はまったく感じられない。
「主よ、彼らに永遠の安息を与えてください。
そして絶えることのない光が彼らを照らしますように」
カール五世:
「永遠の安息を与えたまえ。
その光は何時、我が身を照らすのか。」
異教徒たち:
「永遠の安息だって。
永遠の苦痛と天罰こそ、
嘆かわしい罪によった我ら皆の運命。」
カール五世:
「今や、これ以上の痛みはいらない。」
4つの亡霊:
「常に更なる苦しみを。」
尼僧ら:
「神よ、あなたはシオンにおいて賛美されるものです
そしてエルサレムであなたに誓いが捧げられるでしょう」
異教徒たち:
「死刑執行人の皇帝に呪いあれ。
我らをここに連れて来た悪夢を呪う。
地獄に落とす千の呪い。
お前は地獄に行け、地獄に。」
カール五世:
「こんなにも痛みの滝が私を溺れさせる。
主よ、主よ、この痛みは何と代えられるのでしょう。」
尼僧ら:
「どうか私の祈りを聞き入れてください。
すべての人の肉体が、主のもとへと戻ることが出来ますように。」
4つの亡霊:
「こうべを垂れよ。罪に苦しむ頭を深く下げよ。」
異教徒たち:
「主よ、彼らに永遠の安息を与えてください。
そして絶えることのない光が彼らを照らしますように。」
カール五世:
「ああ、これで終わるのか。」
「うわーっ」という、
カールの叫びは、平安を祈る女声合唱と、
罵倒する呪いの男声合唱に掻き消え、
絶叫するオーケストラで
カールは頭を抱えて悶絶しそうになる。
フアン:
「化け物ら、去れ。」
(亡霊や合唱は消える。彼はベルを鳴らす。)
「医者を、すぐに秘蹟を。皇帝が危ない。」
最後はオーケストラが、
締めくくるような音を立てる。
得られた事:
「毎年、終戦の日に特集される戦争資料のテレビ番組は、今年はウクライナや台湾もあって、まったく新しい切り口でアプローチしたものに見えた。『大東亜共栄圏』は、偉大なるロシアの復活や、『一帯一路』を想起させたし、他国との関わりという点で、侵攻地域住民の日記、手記、あるいは肉声が紹介されていたのも新機軸に見えた。クルシェネクが、ナチスに併合される前のオーストリアで書いた『カール五世』にも、『キリスト教世界の統一』という言葉の意味が問われたり、『それぞれの国民は生に目覚め、それぞれが願うままの輝かしい命に目覚めた』といったフレーズがあったりして、改めて考えさせられる。」
「日本軍司令部の人名軽視は、完全に腐敗の文化の産物に見えたが、『カール五世』も、異教徒の烙印で、多くの人間を虐待した。このオペラでは、その囚人たちの呪いがカールを追い詰めて行く。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その480
http://shubert.exblog.jp/32155761/
2022-08-15T16:07:00+09:00
2022-08-15T16:07:19+09:00
2022-08-15T16:07:19+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
2022年の終戦記念日を迎え、
ソ連の北方からの
雪崩れこみや
原爆投下の問題などが
テレビ、新聞でも取り上げられ、
考えさせられる事も多い。
ウクライナで続く戦闘を、
ソ連対日戦になぞらえるのも
理解できるが、結局、
力づくでやりあって来た結果が、
現状だよね、
と結論づけられてしまわないだろうか。
今回の台湾を包囲した形での
中国の軍事演習などは、
それらにもまして、
品位も尊厳もあったものではない、
という感想を持ったが、
そんなことに価値を置いていないのだろうから、
負け犬の遠吠えみたいになってしまう。
第二次大戦前のオーストリアもまた、
ファシズムの大国、ドイツやイタリアに囲まれ、
恐ろしく困難な状況だったため、
オーストリアのアイデンティティを模索した人たちもおり、。
そんな中にクレメンス・クラウスや、
エルンスト・クルシェネクといった音楽家もいた。
台湾がアイデンティティとして、
過去の中華王朝の残照を持っているかは知らないが、
オーストリアは少し前までは、
大ハプスブルク帝国の首都があり、
皇帝がいる街であったウィーンを抱え、
その歴史をたどって、
オーストリアの来し方に想いを馳せることは、
確かにやりがいのある仕事だったに相違ない。
スチュワートの評伝によると、
こんな風に書かれているから、
必ずしも、クラウスが多くを決めたわけではなかったようだが。
「1929年初頭、
フランクフルト国立歌劇場の仕事を離れ
ウィーン国立歌劇場のトップになった
指揮者のクレメンス・クラウスは、
クルシェネクに手紙を書き、
彼が新しい役職に落ち着いたときに、
もっとよく知り合うこと望んでいると記した。
その後、彼が着任した後、
クラウスは若いオーストリアの作曲家を招待し、
歌劇場のためにオペラを作るアイデアを思いついた。
彼には完全な委嘱作として提供するお金がなかったので、
彼らが思いついたものはすべて、
何の制約もなく受け入れられるはずだったが、
それでも、欧州で最も保守的なオペラハウス
の一つのトップからの新作への関心の表明は
注目に値するものだった。
ジョニーの人気により、
クルシェネクの知名度は群を抜いており、
クラウスのアイデアによる作品が、
公衆から支持される可能性が最も高いと思われたため、
クラウスは、クルシェネクが諦めかけていた
1930 年 9 月末頃になってようやく彼に近づいた。
クルシェネクは、この機会を名誉とし、
主題と彼自身の台本書きを
自由に選ぶことができることを喜んで、
クラウスの提案を受け入れ、
神聖ローマ皇帝カール5世(1500年-1558年)の
生涯からの資料を使用して彼自身のテキストを準備することに決めた。」
クレメンス・クラウスという指揮者は、
私生児で、その隠された父親は、
ハプスブルクの高位の人だったのではないか、
という説もあったそうなので、
若いクルシェネクが提案した
オーストリアにとっての祝典劇としての
「カール五世」という舞台作品に対して
特に、反対する理由はなかったかもしれない。
ハプスブルクは長らく、
カトリックを守護する
神聖ローマ帝国の皇帝の家柄として存在したので、
「キリスト教共同体」という概念を持ち込むことも、
それほど不自然でもなく、
台頭するドイツとの線引きには、
重要な要素のような感じもあっただろう。
カール五世は、しかし、
ライバルであるフランスが、
同様にカトリックの国であり、かつ、
フランソワ一世というやり手の国王が、
イスラム勢力と手を組んでまで、
刃向かってくることに対して、
何故、そうなるのかが理解できない。
このあたり、プーチンが兄弟国家のウクライナが、
自らの陣営から離れようとすることに理解が及ばないこと、
中国人が、何故、台湾の人たちが、
同じ偉大な中華民族の復興に参加しようとせず、
意地を張っているのか理解できないことに完全にシンクロする。
オーストリアの場合、
ウクライナや台湾より、
もの分かりがよかったのか、
喜んで、ナチス・ドイツに併合されてしまった。
理想を夢見ていたクルシェネクは逃げるしかなかった。
プーチンや中国指導部は
このオーストリアの従順な態度を、
もっと研究すれば、もっと簡単に目的を達成できるかもしれない。
しかし、同時に、大戦が終結するや、
オーストリアは独立を回復し、
自分たちはドイツ人などと関係はない、
と言っている事実も同時に研究する必要があろう。
スチュワートの本では、クルシェネクを魅了したのは、
カールの事績より、その性格だったとあり、
こんな風に書かれている。
「領地にオーストリアが含まれていた
神聖ローマ帝国の皇帝。
物思いにふけりがちな、やや地味な性格で、
(ジョニーの主人公である)マックス、
秘密の王国の王であるトアス、
そしてクルシェネク自身に似ていた男であるカールは、
ギムナジウムでの日々からクルシェネクを魅了していた。
そして、カールの人生は
重要な哲学的および政治的意味を持っているように見えたが、
最初にクルシェネクをこの主題に引き付けたのは
カールの性格であった。」
こう考えると、闇雲に自らの使命を信じて、
戦争に突き進むカール五世は、
ヒトラーであり、プーチンの戯画であると同時に、
それに疑問を感じ、あるいは自分は違うと、
対抗しようとしたクルシェネク自身の自画像だということになる。
さて、前回、マルク・スーストロの指揮した、
「カール五世」全曲盤のCD1のTrack.7まで聴いた。
フランス王との確執は一段落した形だが、
次に、カール五世を襲うのは、
ローマ教皇との関係である。
カール五世は神聖ローマ皇帝であるから、
いわば、ローマを護る立場にある。
この二人は立場的には相補的であるはずだが、
どうやらそうではなく、
教皇のお膝元であるローマでは、
図らずも、カールの傭兵たちが狼藉を働いたりする。
そのあたりのエピソードの部分である。
ちなみに時の教皇はクレメンス7世である。
ラファエロ、マキャヴェッリ、コペルニクス、ミケランジェロを
援助したことでも知られ、芸術、学芸面においては、
忘れることが出来ない活動をした人である。
こうした人であるから、何やら洗練に欠けるカールよりも、
むしろ、優雅なフランスのフランソワ1世に近いものを感じたのか、
こちらに近づきすぎた。
そのせいで、ローマに、カールの軍勢がいるのである。
「カール五世」という作品は、
死を前にした、カールが様々な過去の状況を想起していく形で進行する。
カールのそばに仕える若い僧侶、フアンは、
その幻影を一緒に見るような感じで、
その都度、カールに質問をしたり、意見したりする。
最初の部分は、
前のトラックで、カール五世が、
フランス王との関係をうやむやにしたことに対する、
純真な若者、フアンの感想である。
また、後半は、ローマ教皇と、
カールの軍勢を率いた傭兵隊長、
フルンツベルクの関係が語られる。
この人は、「パヴィアの戦い」で、
フランス王フランソワ1世を
捕虜にした英雄だという。
このあたりの歴史を、かいつまむとこうなる。
「カール5世が報酬を支払っていなかったため、
ランツクネヒト(ドイツ傭兵師団)は不満が表面化、反乱を起こした。
病で伏せていたフルンツベルクは、駆けつけて説得しようとしたが失敗。
フルンツベルクは倒れ、傭兵師団はローマに乱入した。」
以下、音楽はどどどん、と太鼓が響いたり、
低音の弦がずるずる、と音を立てる以外、
まったく鳴らず、
約5分半にわたって
語りだけで劇は進行していく。
トラックは8分強なので、2/3が音楽なし。
前半は、フアンが、カールに、
複雑な状況やら言い訳はいろいろできるだろうが、
個人として何らかの責任はないのか、
と、厳しい突っ込みを入れている。
真ん中あたりは、教皇の言い分、
最後は、傭兵たちとフルンツベルク、
そして教皇とのやり取りである。
Track.8:
フアン:
「陛下、もうこれ以上、
私は隠しておくことはできません。
これらのことは、すべては妥当です。
これらの事が何故起こったか、
すべての証拠から証明することが出来ます。」
フアンは、カールに遠慮しながらも、
語り始め、控えめながら反論をする。
「それでも内なる声は、こう語るのです。
真実で重要で、決定的な原因は、
ここにあり、どこにでも、
同時に絶望的に硬く、磨かれ、
騙すように変化しやすい
表面から深いところにあるのだと。
私にわかるのはこれだけで、
あなたは最初、
主なるキリストによって定められた法は、
我々のそれぞれに平等と言われました。」
何とでも言えるが、
あなたには他に何かできたことがあったのではないか、
ということであろう。
「私たちは個人として行動し、
個人としての責任があり、
政治やこの世の力が、
真の義務を変えることはないはずです。」
カール五世:
「神学校での議論であれば正しく良いことだろう。
しかし、そなたも、
74隻のガレオン船の帆を渡る風の音を聴いたであろう。
それと共に、私はアフリカにわたり、
トルコと戦ったのだ。
そしてローマ近くで傭兵たちが、
飢えて叫ぶのを聞いただろう。
これが、私をがんじがらめにした事実なのだ。」
ちなみにクルシェネクは、「カンパーニャ・ロマーナの
ドイツェン・クネヒト」とか書いてあって、
英語訳ではかなり意訳になっている。
「私の言葉を信用しないならば、
私が世界の長であるべきとかんがえている教皇が
何と言っていたかを聴いてみるがいい。」
このオペラでは、こうした言葉に続いて、
すぐに、シーンが切り替わり、
教皇が現れたりする。
教皇クレメンス7世と枢機卿が現れる。
クレメンス:
「恐ろしい陰謀だらけの
このカールという男には用心が必要じゃ。
この男と友好に過ごすか
フランスと一緒に逆らうか、どちらが無害なのだ。」
このように、枢機卿に語りかけるのを、
カールはフアンと一緒に盗み聴きするような感じとなる。
カール:
「彼は自身の小さな領地の境界を超えての考えが出来ぬ。
ルターがルターから生じる、彼を脅かす危険が理解できていない。」
カールは、そんな事をつぶやくが、
フアンにとっては、同じ穴のムジナに見える。
フアン:
「あなたこそ、
それをご理解なされておられますか。
何故、実行しないのです。」
これに対する答えの前に、
教皇と枢機卿の会話が続いている。
枢機卿:
「昔ながらの大言壮語が奴の口から出よる。
一つの剣の下の全キリスト教徒の連合、
主のもとの完全なる帝国だと。
今となっては何を意味するか分からん。」
枢機卿の声は、よく選んだのだろうか、
教皇より偉そうでなく、
虎の威を買って偉そうにしている人の声を
想起させる。
ステフェン・ラウベという、
カールスルーエ出身の役者が演じている。
写真を見ると、谷原章介みたいな、
顔立ちで、すっきりしている。
また、教皇は、完全に偉そうな人、
威厳を持って自信満々な人の感じ。
この役を演じるハンス・シェルツェは
デュッセルドルフで学業を終えたのが、
1952年というから、かなりのベテランである。
ウェストファーレンのドラマ学校の校長も務めた、
という重鎮。
そこらでも見かける、
何故か理由はわからないが、自信満々の人とは違うようだ。
クレメンス:
「奴の母親と同様、気がふれておるのでは。」
枢機卿:
「所詮、力と富を恋ねがう連中と同じで、
問題は単純なのです。
彼はあまり力を持つべきではなく、
我々が力を持つべきなのです。
彼はアフリカで力を消耗したが、
一方で、彼の権威は上がってしまった。」
クレメンス:
「教会は汚れてしまった。」
枢機卿:
「この点で気を付けるべきということが肝心。
世界は巨大なボードゲームのようになって、
神聖であるということも、
その他多くのものの一つになってしまった。」
クレメンス:
「教会は自身の力で、
こうしたみじめな状況から立ちなおることを望む。」
枢機卿:
「左様で。しかし、こうした考えより緊急なのは、
市街に警告を持って攻め寄せる皇帝の傭兵たちを
どうするかを考えなければならぬということ。」
何と、呑気に、教会の権威を高める作戦を立てている場合ではなく、
すぐそこに反乱者が押し寄せている状況だったようだ。
クレメンス:
「フルンツベルクやペスカーラなど、
連中の将軍らを説き伏せるのも無駄であった。」
枢機卿:
「連中のボスの状況が今より悪かったから無駄だったのです。
ここにフルンツベルクが面会に来ております。」
(フルンツベルク現れる)
このような緊迫した状況で、
カールが口を挟むのは、久しぶりに見た、
フルンツベルクの姿が懐かしかったからであろうか。
カール五世:
「いいやつだフルンツベルクは。
彼は、私が彼を見捨てたと信じているかもしれないが。
彼は昔かたぎの信頼できる男。
恐ろしい絶望で、教皇の許に向かったのであろう。」
声も優しい慈愛に満ちている。
フルンツベルク:
「聖なる父よ。
あなたは、他のキリスト教徒を
地獄に送るようなこと以外は何もしていなくても、聖なる者です。」
恐ろしい皮肉であろうか。
教皇は何のためにいるのか、
ということを突き付ける台詞になっている。
フルンツベルクの登場も、
何かしっかり決意をしたもの、
という感じでうまい。
フルンツベルクを演じるのは、
ワルター・ゴンターマンという
ミュンヘンとケルンで学んだ役者。
テレビ、ラジオ、映画で活躍したとあるから、
教皇たちより、顔がよく出る人だろうか。
とにかく、この部分は、
こうしたベテランの役者3人が(フアンも含めると4人が)
緊迫したやり取りをしている。
フルンツベルクは続ける。
「あなたは、あの方が、恐ろしいストレスと緊張にさいなまれる中、
我々が主人や皇帝を裏切るように仕向けた。
これは簡単な交渉です。
あなたが私たちに出す金があるなら、
恥ずべきご提案は忘れ、ここを離れましょう。
もし、それがなければ、立派な街であるローマは、
異なる種類の言葉を、我々から聞くことになりましょう。」
クレメンス:
「私には、すべてのドイツ人が
我々の耳にまで届く悪魔の嘲りのように聞こえる、
ぞっとする異端の芽に苦しんでいるように見える。
そなたは、そなたの主人の会計係と
話をしているわけではない、
ということを忘れておられる。
そうではなく、精神の世界のみを案じておる
全キリスト教のトップなのだ。」
クレメンス7世は意外に落ち着いている。
大物が小物に対応するような声の出し方もそれらしい。
が、大きく出た教皇に対し、傭兵隊長の質問も厳しい。
フルンツベルク:
「われらに反逆を扇動することも、
神聖なお勤めでしょうか。」
教皇は明らかに痛いところを突かれたので、
言葉は逆切れ気味だが、
ここでの演技では、それがどうした、
という感じを出している。
クレメンス:
「鋤から逃げて来た百姓と、
我らは神学を論じる気などない。
こいつら下衆どもを黙らせるのに与える金はないか。
(枢機卿は首を振るが、「ナイン(ありません)」と聴こえる)
では、そなたは、神の前でどう言い訳するつもりかな。」
この対応では、フルンツベルクが、
頭にくるのもわからんではない。
フルンツベルク:
「同志、入れ。手あたり次第、貰っていけ。」
(兵士ら、現れる。)
フアン:
「冒涜です。」
カール五世:
「彼は私を裏切らなかったし、
彼の兵士を飢えさせることもしなかった。
その意図ゆえ、放免してよい。」
フアン:
「正しいわけがない。
全ての人間は自分の目では無罪でも、
永遠の審判ではそうではない。」
カール五世:
「決まる前に選ぶのなら簡単なこと。
しかし、みよ、今、何が起こるか。」
カール五世ならずとも、このような状況下で、
フアンのような意見が空しいことは想像できる。
特に、教皇の言動や描かれ方からして、
悪者に見えるから、
むしろ、その場にいたら、
やれーっと、
言いたくなるかもしれない。
ここでようやく沈黙が破られ、
ティンパニが連打され、
合唱が始まる。
弦楽もうねり、金管は警告音を発し、
12音技法のオペラという実感が湧いてきて嬉しくなる部分。
兵士ら:
「バビロンに向かえ。
悪徳の黄金都市に向かえ。
女を犯し、宮殿を焼け。
金の崇拝者である偽キリスト教徒を
見つけて殺せ。
すべての邪悪な偶像を引き裂け。
主の騎士は汝らなれば。
ドイツ人は山を越えて来た。
不道徳な街ローマにふさわしい名誉を与える。
全てはゴミにしなければならない。
不浄の器からむさぼり食い、姦淫の葡萄酒を飲み干せ。
欲望と悪徳の寝床に転がり、
日常の生活や辛苦の終わりなき足取りを休めよ。
アンチキリストの教皇を捉えよ。」
クレメンス:
「お前たち全員を永遠に呪う。
異教徒より邪悪に、
キリスト教徒がその長に対して怒り狂う。」
兵士ら:
「最後はどうせ地獄に行くなら、
その前に満腹になるのだ。」
フルンツベルク:
「こら、やめんか。神の名を侮辱するか。
われらの皇帝を蔑むことだ。」
傭兵隊長は、兵士に懇願して声を上げる。
兵士ら:
「皇帝も教皇も餓死はしないぜ。今の俺たちの君主は空腹だけだ。
誰も怖くはないぜ。」
(破壊と放火)
大太鼓が打ち鳴らされ、
ジグザグに弦楽が錯綜してローマ略奪の音楽。
フルンツベルク:
絶叫のシーンである。
悲劇の英雄という感じが出る。
「錯誤と狂気が自分たちを食らいつくす。
我々を待つ地獄さながらに真っ暗だ。
これ以上は、陛下に合わせる顔がない。
この恐怖を終わらせられぬゆえ、
聖なる都の廃墟の上に我が命を絶つ。」
(自ら命を絶つ)
拍子木と小太鼓が連打され、
緊迫感がいや増す。
クレメンス:
「ローマを破壊するものに呪いあれ。」
(皆、消える。)
カール五世:
「その教皇の呪いは、
トルコからぶんどったチュニスの要塞、
アフリカにいた私にまで海を越えて及んだ。」
カール五世の遠征は1535年のチュニス遠征と、
1541年のアルジェ遠征が有名だが、
後者の方が天候の影響もあってひどい目に会っている。
しかし、教皇クレメンス7世の死は1934年であるから、
直後のチュニスでひどい目に会ったという事にしないと、
関係が薄くなってしまうと、クルシェネクは考えたのかもしれない。
なお、この部分は、久しぶりにシュプレヒシュティンメで、
カールを演じるアメリカのバリトン、
デヴィッド・ピットマン=イエーニングの声が聴ける。
しかし、話し相手の僧フアンも、
ドイツのベテラン役者であるし、
ドイツ人だらけの中、
この主役だけがアメリカ人というのも、
ちょっと奇妙な配役だと思った。
得られた事:
「クルシェネクのオペラ『カール五世』の第1部の終わり近くで取り上げられた大きな歴史上の事件は、教皇クレメンス7世との確執と、それによって引き起こされたローマ略奪についてであった。カールはフランスと戦うために傭兵隊を作ったが、その生みの親にして隊長、フランツベルクは、フランス国王、フランソワ1世を捕縛した英雄となった。」
「さすがのフランツベルクも、カールが戦費を用立てせず、傭兵たちが飢えて反乱を起こしそうな状況下では無力。何とかローマ教皇のところに交渉に行って憤死する。結果、傭兵軍は暴徒となり、クルシェネクは合唱と緊迫した管弦楽で、この状況を描いた。」
「カールは、この状況下、偉そうな対応をする教皇は敵にしか見えず、この暴徒らを罰することができない。第二次大戦前に当時の情勢を反映して作られたオペラではあるが、ロシアのウクライナ侵攻と照らし合わせて、聴くと、妙に、各シーンで思い当たる点があるのだが、戦場で命がけの兵士のすることは、もはや制御不能、という点でこの部分も生々しい。」
「ただ、若い聴聞僧のフアンだけが、人間の理性の最後の希望のように、『どう考えても正しくない』と怒っているが、それさえも現場に居ないのだから空しい。戦争は始めてしまうと、ルール無用の混乱に陥るしかない、という事を知る。第一次大戦には参加しなかったが、体験はした世代の作曲家ならではのリアリティかもしれない。」
「なお、最近の新聞記事で、B29による日本の諸都市空襲も、爆弾を落として帰らないと燃料が持たないから、などという現実的な理由で不必要な投下があった、とかいう研究があることを知った。きれいな理論とは異なる死に物狂いの状況が現出するようだ。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その479
http://shubert.exblog.jp/31321834/
2022-05-02T22:18:00+09:00
2022-05-02T22:18:52+09:00
2022-05-02T22:18:52+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
クルシェネク作曲の
「カール五世」は、
未だに評価の定まらぬ
大作である。
背負っているものが
大きすぎて、
持て余されている感じもある。
全曲を収めたCDが登場したのが
作曲されてから60年を超えてだったし、
また、短縮されながらも
録音されたものが、
CDとDVDが一種類ずつ、
という状況からもそれは想像できるだろう。
登場人物もカール五世に関係した、
歴史上の有名人物を、
彼の母親、狂女ファナから、
宿敵フランソワ一世に加え、
それに加勢したトルコのスルタン、
さらには、インカ帝国を滅ぼした、
間接的な部下であるピサロまで、
脈絡なく取り揃え、
映画的な手法を取り入れて、コラージュした感じ。
クルシェネクは第二次大戦前に、
この作品を、いわば、ナチス・ドイツへの反旗のように、
あるいは、併合されることになる
オーストリアの立場で書いた。
この声が、戦争の影響もあってかき消されてしまって以来、
自分事として捉えられる戦争がなかったので、
クルシェネクの絶叫は、以来、現実味を失ってしまった。
が、今や、一方的に膨らもうとする
ロシアの姿を見て、
戦争が再び身近になったため、
恐ろしいことに、
「カール五世」が構想された時と、
同様の時代背景になってしまった。
少しずつ、
スーストロがMDGレーベルに録音した
全曲盤を聴き進んで来たが、
ここまでをまとめると、
カール五世が大帝国の帝位を譲って、
肩の荷を下ろしたところに、
神の声が聞こえて来るという部分が
プロローグのようにある。
神の期待に沿った活動をしたか、
という問いかけである。
帝国は神聖ローマ帝国という、
国名だけからすると、
カトリックを守護するような
アイデンティティがある。
次のシーンでは、カールの母が登場。
狂気の母親は、彼のことを覚えていない。
ただし、幼い頃の事を思い出すが、
母親に虫が食ったリンゴを食べろ、
と命じられる展開。
プーチンも崩壊間際のソ連にいて、
それをロシアとして受け継いだ。
リンゴは帝国の象徴であり、
虫とは、その帝国が抱える難題であろう。
もはや、崩壊は時間の問題、という感じなのである。
続くシーンでは、その問題のうちで、
内部に抱えるもの。
つまり、カトリックに刃向かうプロテスタント勢力である。
むしろ、ドイツでは、その勢力の方が力をつけている。
カール五世は、ルターの申し立てに対して無力であった。
プーチンはそうはいっても、
同胞のような国々に囲まれていたはずだった。
しかし、どこの国も、旧ソの世界観を拒絶しようとした。
次は帝国の外である。
隣国フランスには、かつて神聖ローマ帝国の帝位を狙った、
フランソワ一世が王位にある。
膨大な戦費で傭兵を雇って、
彼を捕虜にまでして、
友好を迫るが、まったく相手にその気はなく、
むしろ、フランスの文化の方が、
優れているようにも見える。
プーチンも、ふと、西側を見ると、
いろんな新しい産業が台頭しては、
ロシアが成し遂げられない、
イノヴェーションが起こっている。
彼は西側に天然ガスを送るようなビジネスしかしていない。
プーチンは、化石燃料を是とする世界に留まっている。
情報化社会にあってインターネットを見ないというが、
本当なのだろうか。
カール五世の戦費はどこから来たかというと、
何と、ピサロが南米で荒稼ぎした宝物を流用したもので、
スペインの民衆は、皇帝が、彼らの冒険の成果を取り上げるので、
不満を募らせる。
プーチンの戦費は、西側に天然ガスを売った金でまかなわれている。
お客様に対して敵意を募らせているという状況は、
かなりのパラドックス状態と思われる。
オペラの次のシーンでは、
また、フランソワ一世が登場し、
囚われながら脱走を試みる。
何と、キリスト教世界の守護のカール五世には、
信じられないことに、
異教徒のトルコと結託しようともしている。
ロシア正教で団結していたはずのウクライナが、
ゼレンスキーの手によってその魂を売っている、
とプーチンが考えてもおかしくはない。
そんな事を思わせる情景である。
では、Track.6から聞いてみる。
双方の言い分を聴きとることが出来る。
前半は、カールが、フランソワの悪口を言い、
後半はフランソワが、カールを非難する。
それぞれ、相手のいないところで言い合っている構図。
すでに、聴聞僧フアンは、
カールに対して、かなりの不信感を持っている。
前のシーンで、カールが、
アメリカで好き勝手に略奪したピサロが
献上した宝物を使って、
戦争をしていたことを、
若い聴聞僧のフアンは知っていたからだ。
したがって、彼の困惑から、この部分が始まる。
本当に短い、血が弾くような弦楽の序奏に、
小刻みに駆け上がる弦楽を打楽器が受け止め
フアンの当惑を表し、
「あなたは、私を深く困惑させる
陛下、あなたは異教徒を根こそぎ皆殺しにしようとしたのですか、
それは全て正しいことだったのか」と、
すごい早口である。
私もまた、プーチンには、
「根こそぎ、皆殺しにしようとしているように見えるのですが」
と、ミサイルが飛んだ後を、
案内したい気持ちになっている。
話を戻すと、フアンの役柄は、
歌手ではなく役者が演じるので、
歌でもレチタティーボでもなく、語りとなる。
(よって、このパートは、我々自身が演じる場合、
自分なら、どんな風に叫ぶかを考えることが出来る。)
一方で、カールは、彼との対話のすえ、
語りからアリアになる場合があり、
歌手が演じている。
ここでは、わーっと盛り上がり、
レチタティーボ風に語り、
最後には、ゆるやかな歌唱となる。
高音でのたうち回る弦楽と、
単調な乾いた太鼓のリズムが、
イタリア派遣の軍を描写し、同時に、
痛いところを突かれたカールの心情に
リアリティを添える。
「私の良心以上に、苦しめないでくれ。
イタリアの我が軍隊は無報酬で、
恐ろしい事が起こったのだ。
私が提案した事を彼はすべて拒絶し、
フランソワと講和を結ぶことが出来なかった。」
この辺りから、饒舌になる感じで、
アリア風に、フランソワの傍若無人さ強調する。
ファンを納得させようと、
押しつけがましい弦楽のリズム。
やがて、
うねうねと高まって行く波のような弦や、
それを堰き止めてパルス状に緊張感を高める管楽器が
以下のアリアを伴奏する。
「ひそかに私は、
マドリッドに彼を引き留めたが、
彼は居座って自由の身であるかのように、
こちらの方が奴隷のようだった。
そうだったろう。
彼は、呑気に気兼ねなく、
詩を書いたり、色恋を手紙に書いたりしていた。
我が王国の騎士たちや淑女たちに好かれ、
世界の統治者たる私はと言えば、
自分を失うように、
団結が消えて行くように憂えていた。」
鋭く響く管楽器は、彼の自己否定を描写して、
警告的な音を発し続け、
ドーンとティンパニ。
以下は語りに戻る。
「彼は、騎士にふさわしい言葉を語る一方で、
逃亡するために、悪だくみを練っていたのだ。」
「上着を持て」と声が響いてフランソワが登場。
クラリネットの人を食ったような、
とりとめのないメロディが、
このフランス王の軽薄な、
しかし、軽やかな様子を描写すると、
黒人奴隷に見えるように、
「顔は黒く塗った方がいいな。」
と歌う。
ト書には、何人かの従者に囲まれ、
後ろには一人の黒人がいる、と書かれている。
この後は、かなり長いフランソワのアリア。
「モハーメッド、喜びよ」と歌い出し、
しかもテノールなので、
ずっと主役のカールより華やかな存在に見える。
しかし、この歌詞からも明らかなように、
ゼレンスキー大統領が、
隣国ロシアの誘いを蹴って、
さらにロシアの向こうにある
日本の国会で演説するような、
現代との相似形になっている。
このあたりでは、金管が有無を言わさぬ、
運命的な音色で伴奏を点描する。
しかし、やがてピッチカートに乗って
軽やかなステップでワルツ風の音楽が浮遊し、
管楽器や弦楽器が短い装飾を加える。
「絞首台から逃げられるなら、
今日と言う日が、お前を金持ちにしてくれる。
すぐにでも黒人のように黒く変装して、
木を運ぶ黒人のふりをして
獣道の峠をスペインの歩哨から逃れ、
自由になってフランスに戻るのだ。
私が約束を破っていると?
それは頑固な皇帝のせいではないか?
私は、友情をもって、いろんな事を語り合うために、
皇帝の兄弟のように、ここ、マドリッドに来た。」
このあたりで、少し雰囲気を変え、
理不尽を訴えるような声色に変わり、
伴奏も暗いものになる。
「しかし、彼は現れず、
耐えがたい条件で、私は、
次から次にやっかいな役人に対応した。
彼はフランスの重要なブルゴーニュを要求する。
私は喜んですべてを約束する。
トルコ(英訳はムスリムと書いている)と戦う助け。
私は、彼に対抗するために、
トルコ(同上)の助けを模索しているのに。
彼が欲しい金銭も(約束した)。」
ぽぽぽぽーっと、ホルンが柔らかく響くのは、
祖国への思いだろうか。
「しかし、祝福されたフランスを取り囲む
花輪のような美しい国土を渡しはしない。
それは永久にあり得ない。」
次に、このオペラが、おそらく、最も訴えたかった言葉が来るが、
特に際立った音楽がついているわけでもないのは、
少し不思議だ。伴奏も抑えられており、
地味な扱いだが、耳を澄ませ、ということだろうか。
「私たちの国民の家庭的(居心地の良い)な内面の生活
(für das trauliche innere Leben meines Volkes)の安全は、
空想の世界の統一より価値があり、
それは、取り囲む土地によって守られるからだ。」
このフランソワ一世のアリアには、
訳の分からない統一を求める暴君に立ち向かう、
彼こそが主人公のように思わせる説得力がある。
全てを言いなりにしようとする覇権主義や、
全てが統制される社会統制への強烈な「No」があり、
まさしくこうした隣国に挟まれた、
我々自身の意見のようにも思えて来るからだ。
しかし、クルシェネクがこれを書いた時は、
ドイツとオーストリアの関係がやばい状況で、
このフランソワの言葉は、
当時のオーストリアのあるべき姿を、
彼自身の言葉として書いたものなのだろう。
そう考えると、本当に現在の状況は、
先の大戦の直前の状況にも似ているが、
どの戦争も攻める方と攻められる方があって、
双方の言い分の論理は同じということがあるだろうか。
とにかく、この
「für das trauliche innere Leben meines Volkes(内面の居心地の良さ)」
という一節が、この抗争の中心にある。
ヒトラーもプーチンも、そんなものには興味がないし、
それは、間違った考えに侵されているからだ、
というだろう。
実際、クルシェネクの期待は外れ、
オーストリアは、自らそれを捨て、
強いドイツに含まれる道を選んだ。
「準備はいいか?」
とフランソワが尋ねると、
従者が彼が指示したとおりにする。
「鏡!」と言って、自信を見る。
「うまく行った、うまく行った、
今、カールが来ても、彼自身、黒人のしもべに蹴りを入れ、
追い出すことだろう。
よし、行こう」と出て行こうとする。
そこに、士官アラルコンが現れる。
太鼓が打ち鳴らされ、音楽が途切れる。
「とまれ。全員動くな。黒人が二人?
一人しか知らんな。すぐに、どっちが本物か見抜いてやろう。
(フランソワのメイクをぬぐい、黒人に向かって)
モハメッド、私はあなたの首に一銭も賭けていません。
連れていけ。そして、陛下、あなたは?」
フランソワ:
「マスカレード、この退屈な牢獄の娯楽である。」
アラルコン:
「それは、パリでお願いします。
マドリッドでは国王たるものが、
こんな風に変装したりはしないものです。
警護を二重にせよ。」(出て行く)
こもあたりは語りで演じられている。
低くうめくようなチューバの音。
フランソワの短いアリア。
「裏切られた、裏切られた、
二心ある沈黙の中、
不信と恨みに満ちた、
彼らの主人のように、
復讐をする卑劣な悪党らの領地で。」
スペインの淑女たちの合唱が重なる。
(フランソワが囚われた塔の前で、
仮面を付け、マンドリンでセレナーデを歌う。)
とト書に書かれている部分で、
これまでの男同士のやり取りに、
女声合唱の柔らかな響きが花を添える。
「フランスの誇りよ、
キリスト教世界の勇敢な騎士よ。
私たちはみな、あなたと共にある。
あなたの心に寄り添い、
私たちは誠実にあなたと共にある。
私たちはあなたの英雄的な心を知っているから。」
このシーンなども、まるで、
西側の多くの国が、ウクライナのために祈っているのと
同様の光景に見える。
カールは、こうした情景を見ている。
「夜の闇の中、彼の塔の壁沿いに集う、
淑女たちの姿が見えるか。
我が帝国の敵である彼にセレナーデを歌う。」
淑女たちは、「スペインの淑女たちは、
夜も昼もあなた様の炎の弱まりを夢に見て、
あなた様の恐ろしい孤独に心からの悲しみを感じています。
フランスの誉れよ、ご挨拶申し上げます」と歌う。
フランソワは、
「私にはこの音はぞっとする嘲笑に聴こえる。
止めさせよ。あれを止めよ」
と、言うし、
カール、「嫉妬といら立ちに苦しめられ、
この狂気の女たちの中に、
私は変装して紛れ込んだ」と語るし、
淑女の声は、両雄を苦しめる。
フランソワは、
「ああ、何と私は惨めな事か。
私の命はもう長くない。」
などと、声を響かせるが、
よく通る声(アンドレアス・コンラートが担当)で、
このオペラのモノローグ調の中で、
比較的、開放的な空気感を醸し出すのに
役だっている。
「この獄生活が終わらない限り、
私は病に倒れるだろう」と言って消える。
淑女たちは、まだ、そこに見えている。
Track.7:
ここからは、かなり奇想天外、
あるいは、強引な展開とも思える事件が始まることになる。
何故なら、敵将であるはずの
フランソワを慕う女性の一群の中に、
カールは自分の姉の姿を認めるのである。
前のシーンで、フランソワは、
「兄弟としてここに来た」などと言っているから、
そう仕掛けたのはカールだと思っていたが、
どうやら違ったらしい。
カールは、こう語る。
「しかし、私は淑女たちに、こう語った。
彼は、あなたがたの国王の大敵であるのに、
何故、彼を称賛できるのか、と。」
オーケストラは、
決然とした調子で、ばん、ばばばん、
ひょろーっと、その当惑を暗示。
突然、カールの姉のエレオノールが、
淑女たちの中から現れる。
「私が愛する人は敵ではありません。」
と高らかに歌い上げるので、
短いデュエットとなる。
カールは、「何を聴いたのか。仮面の下から。」
打楽器がその驚きと、訝りをたたきつけ、
オーケストラが盛り上がる中、
エレオノールは強気である「さあ、どうします」
カールが「私はあなた方の王である」と答えると、
彼女はマスクを取って「カルロス」と叫ぶ。
女声合唱は、「ああ」と言って消える。
カールは、ようやくエレオノールを認め、
「姉さんではないか」と叫ぶ。
この後は、エレオノールのアリアとなる。
ここで演じているのは、
トゥリド・カールセン(Turid Karlsen)という、
何となく、カール・ニールセンという
デンマークの作曲家を想起させる名前のソプラノだが、
1961年オスロ出身とあるのでノルウェイ人ということか。
ただ、学んだのはドイツで、
活躍の場、ボン・オペラでは、
「魔弾の射手」のアガーテなども
受け持っているという。
写真で見る限り、
恰幅の良い人であるようだ。
伴奏は、控えめで、
錯綜した感情を静かな弦の動きで支える。
声は、なだらかな抑揚を持って、美しく流れる。
「弟よ、私を許して。
私はあなたに、この愛をあえて伝えることが出来なかった。
私の心は、あの王様を見てから、燃え続けています。
私も家系から来る強迫観念、悲しみと世界の苦悩に圧し潰されていますが、
私は愛することもできるのです。
私の血液は、燃える火のように血管を流れ、
幸福への憧れは、
他のすべての者たちと同様、私を満たすのです。
すべてがうまく行くではありませんか。
あなたは彼と再び平和な世界を作るべきです。
私が彼の側に立つことで、
あなたは友情を築きやすくなるでしょう。」
エレオノーレは、自分の出自に縛られることを嫌っている。
カールの「それが信じられるだろうか。
そうだとすれば無上の喜びなのだが」
という当惑では、管楽器が、
そうだよな、という感じで響く。
エレオノールは、「彼を殺してはいけません」と叫び、
カールが「私は、彼を私に結び付け、
本当の兄弟にすることが出来るだろうか」というと、
エレオノールは消えてしまう。
このように登場人物は、
カールの回想の中の人物が多く、
勝手に出たり消えたりするのが、
鑑賞を困難なものにしている。
さて、幻影が消えたからには、
フアンとの対話が待っている。
フアンが声を出す前に、オーケストラは、
ホルンが下降音形を繰り返し、
弦楽が反発して上昇し、管が鳴り、拍子木で打ち切られる。
フアンの意見はいつもながら、
太鼓がたたたん、どどどんと、その生真面目な正論を補足する。
「陛下、すみません、
私たちが調べている歴史の大きな流れから、
これらのことは全て気を逸らしてしまいませんか。
これらの逸話は、儚い個人の不確実性に左右されませんか。
ここに何の重要さがあるでしょうか。」
カールが、
「私はこうした小さな弱みで自分を正当化したくはないのだ。」
と、逆切れ気味に弁明すると、
オーケストラの動きが、活発になる。
小刻みに揺れて小間切れになった楽句が、
もやもやうねうねと続く中、
彼は、フアンを諭すアリアを歌う。
「だが、君は無数の情報源から、
力あるものもちっぽけなものも一緒になって、
それが人間の人生と経験のすべてになっていることを知るべきだ。
どんな巨大な流れも無数の知られざる小川によって成長しているように、
それでも、その巨大さを理解するためにも、君は全てを知るべきなのだ。」
銅鑼が何度か鳴り響き、弦楽がうねる。
ここからは、回想になるので、
少し、あいまいな記憶をかき分けるような音楽。
弦が、問いかけのような楽句を奏で、
管楽器群がもやもやした音響を形作る。
「私は今、愛や友情や人間的感情、音楽への憧れが、
明るさや甘さにゆえに、自発的に私を魅了した
私の人生の正午前の話をしている。
しかし、この男、フランソワは、
私が与えられなかった全てを持っていた。
彼に打ち勝ちたいと思い、
密かに彼の魅力と優雅さを学び、
彼のようになりたいと思ったが、
それは出来なかった。」
この間、オーケストラは多彩な響きで、
カールの優雅さへの憧れなどを描く。
ヴァイオリンやホルンの独奏が孤独を表すのか。
ピチカートが牢獄に降りる。
「彼は牢獄にあって深刻な病気になり、
死の想念が彼を苦しめ、
彼の遠くにいる恋人に手紙を書いている。」
音楽は、その雰囲気のまま、
病床で手紙を書くフランソワのアリア。
明滅する楽器、管楽器のなだらかなラインが彩る。
「死の床で。恋人よ、私はもう一度、そなたに挨拶を送らん。
真っ暗な黄泉への旅立ちに際し、そなたの涙を求めん。
もう、そなたの目の輝きは見ることもあらじ。
惨めにも死に至る病。
ハーデスにすら、オルフェウスは
彼の愛する妻を連れ戻しに行った。
彼は、妻のために7年も泣いたのだ。
病の床で死ぬ。
愛してくれますか、愛する人、
あなたから離れて以来、
あなたは、私のことを考えただろうか。」
ここで、伝統的なアリアのように、
声を伸ばして、憧れをぶつける。
「私はいつまでもあなたのもの。
死の床にて。」
洒落た手紙を書き終わった感じのある、
ハープの弾奏も、澄ました表情。
音楽は休止を置いて、
再び動き出す感じ。
ここで一瞬、過去の幻影ではなく、
フアンを相手に語るカールである。
「この時点で、私は彼を見舞った。
兄弟であり親友である彼を。
こんな形で会うことになろうとは、
何と悲しいことだろう」
と言う。
ここでフラッシュバック、
フランソワがそれに答えたりする、
「もっと早く来てくれたなら、
遅すぎることはなかったろうに」
と言ったりして、
二人の会話になる。
音楽は、二人の騙し合いみたいな、
あるいは茶番のような状況を表して、
ぽつぽつと途切れがちだが、
そのたびに勢いも盛り返しながら
二重唱になっている。
「いやいや、あなたは回復する。
あなたの部屋で私たちの仕事に戻るのだ。」
「私たちの仕事?」
「主の十字架の下に世界を統一するのだ。」
「あなたは多くを望みすぎだ。
死の境にあるから、それが分かる。
それぞれの見方で、それぞれの持ち分(engeres Bereich(狭い領域))に
気をかければ良いではないですか。」
この「Lass jeden sein engeres Bereich versehen, wie er es richtig meint.」も、
統一と独立の考え方の違いを明示する。
ここで、カールの声は、
まったく反対の考えを気化され
癇に障ったかのように高ぶる。
「ドイツの異教徒を罰するのを、
止めさせたのはあなただ。」
「私がしたように、放っておけば良いのです。
フランスは、その信じるがままに正しい道を進むでしょう。」
どん、とティンパニの一発で、
カールの気持ちがぶつけられる。
以下は独白調の語りである。
「ここで、彼は、
私の誘惑の原因、死ぬほどの羨望を起こす
大もとに触れるのだ。」
どんどんどんと太鼓でアリア。
ぱああ、と金管もさく裂しながら語り。
「それは私に征服されても、平和を約束するだろう。
私の姉エレオノールは、あなたの妻となり、
ブルゴーニュは持参金だ。こうして、あなたのものとなる。」
長い沈黙がある。
ここは、クラリネットか、
暗い闇の中での熟考を想起させる音色。
そして、オーボエ、ホルンが続く、短い間奏曲と沈黙。
フランツは、「わかった。あなたの言う通り」
と、いかにも二心ある、緩慢なレチタティーボで答えるが、
完全に平行線なのは、明かである。
現代に例えると、プーチンが、
ゼレンスキーを捕縛して半殺しにして、
「君がギブアップすれば、クリミアは君たちに戻るではないか」
と言っているようなものである。
カール五世とフランソワ一世の対比は、
これまでは、前者がキリスト教世界の平和を希求する義の人、
後者は日和見主義者で恥知らず、信用できない奴、
みたいなイメージになり勝ちだが、
現代の事象に対比させると、
「義」というものが、恐ろしく胡散臭く見えて来る。
「義」を調べると、儒教における
「人として守るべき正しい道」とあるが、
ここまでどうしようもない概念はない、
とまで考え及んでしまう。
そんなもののために、
この「カール五世」では、
アメリカにおける征服事業が語られたし、
ウクライナでは、国境地域でも大虐殺が行われている。
そんな事を考えながら
ぱぱっとトランペットの破裂音を伴いながら
次のカールの言葉を聴くと、
多くの人は、悶絶してしまうのではなかろうか。
「私が、あなたの苦しみを終わらせることが出来るのに、
役だつことが出来たことに、どう感謝すればいいか。」
彼は、姉を嫁がせることが出来たので、
一面、そんな風にも言える立場ではあったのだが。
「今や、平和と友好が永遠になった。」
ここまでが、フランソワとの会話で、
以下は、フアンへの説明であろう。
「しかし、私が彼の許を立ち去ろうとした時、
彼は不誠実な企みを企てた。」
オーケストラは錯綜して、
この両者の不和の到来を告げる。
フランソワは、ベルを鳴らして何人かの役人を呼び、
以下の事を書き留めさせる。
「顧問官、入れ。
よく聴いて書いて留めるのだ。
私が誓約の下に宣言し署名するものはすべて、
牢獄にあり、病を得て強いられたものであるがゆえに
神の前では無意味で無である。
私は命を守るために、誓う必要があったのであり、
私はこうした制約には縛られることはない。」
拍子木のような音に、ホルンが絡む。
どどん、とティンパニと金管の強奏。
「今に大臣が来るだろう。
彼の野望と権力欲を隠し切らぬ
度し難い蒙昧主義が、
彼の空想的なたくらみの背後にある。」
と叫んで消える。
若くて、ずばり意見を言うフアンは、
この光景を見てどう語るだろうか。
「陛下、あなたは本当に彼を信じたのですか。」
音楽もずばっと、閃光。
「あなたは、こうした背信が、
通常の政治の部分をなし、
一部であることをご存じのはずでは。」
カールは、「私はおそらくわかっていた。」
ばばーん、とオーケストラもショックを受ける。
以下はレティタティーボで。
「私は、自分がそう望んだゆえに、
彼を信じたのだ。
司祭はまだか?」
(ここで、エレオノールが現れる)
カールは、こう続ける。
「将来の嘆きを予想しながら、
求めていた喜びを抱きしめることを躊躇う彼女が、
いかに動揺しているかを見てごらん。
ああ、私の若い頃のいくつかの残像について、
少し考えさせてくれ。」
エレオノールは、
控えめなオーケストレーションの伴奏を背景に、
抒情的なアリアである。
「高名な英雄に会うことと、
彼の妻になることの想念に、
私の心は震える。
彼の派手な宮廷の
優雅さと豪華さを知ることは
私を不安にする。
彼の回りで彼を賛美する
魅力的な女性たちに囲まれていると、
私はみすぼらしく、退屈に見えるでしょう。
ああ、私の愛が、
私を見栄えよくしてくれますように。」
フランソワが再び登場するが、
婚礼の行列の随行員と一緒に見える。
カールは、「豪華な祝祭で偽りの平和は終わり、
彼は別れを告げる」と絶叫。
祝祭の行進の音楽は、明るく快活。
ファンファーレ風に金管が吹き鳴らされ、
軍楽調で太鼓も弾む。
カールは告げる。
「フランソワ王、栄誉の中に我が姉を抱くよう
お願いする。」
フランソワは、
「どうして、このような美女を傷つけることなどできよう。
私は、彼女を愛する」と、優雅に歌って答えて消える。
背景では、行進曲が続いている。
カールは、遠ざかる軍楽を聴きながら、
語りになる。
「彼は、私を、重い心のまま残して行った。
私は、私の心の中の宝と私の勝利を、
同時にはねつけたと私は気づいたのだ。
私は彼をものにすることが出来なかった。
私の状況は不安定だった。
彼が私に競わせたトルコがスペイン沿岸を荒らし、
それがイタリアにも及ぶことを見るだろう。」
フランソワ一世との確執と、
彼に、姉、エレオノーレを嫁がせた当たりの逸話は
ここで一段落する。
得られた事:「私は現在のウクライナ情勢を対比しなければ、クルシェネクのオペラ『カール五世』のカールとフランソワ一世の会話を異なる解釈で聴いたかもしれない。『義』の人カールの押しつけがましさに辟易するが、それはクルシェネクにとっては、台頭するナチス・ドイツの一方的な言い分がそれに相当したであろうし、我々の前には、同じ言葉を繰り返すプーチンの姿が浮かび上がる。」
「あくまで、主人公はカールなのだろうが、敵であるフランスの王様の卑怯にも見える立ち居振る舞いさえも許したくなって来る。フランスが異教徒のスルタンに援軍を求めていることに眉を顰めるならば、ゼレンスキー大統領と岸田首相が手を組むのさえも非難しなければならなくなる。」
「フランソワ一世が、統一されたキリスト教世界よりも重きを置いたのは、『für das trauliche innere Leben meines Volkes(内面の居心地の良さのため)』という、おそらく、現在のウクライナの士気を高めている価値観に基づくもので、これを守るためには異教徒との連合をも厭わない、という考え方は、極めて合理的にも思え、彼こそが主人公なのではないか、などという考えが浮かぶ。」
「カール五世も、フランソワの『フランスは、その信じるがままに正しい道を進むでしょう』という言葉に、クルシェネクはドイツの覇権主義への反論を重ねたと思われるが、我々は、本当に、この言葉の重さを感じる時代になってしまった。果たして我が国(の主権者)は、将来までをよく考えて、正しい選択をしているだろうか。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その478
http://shubert.exblog.jp/31299719/
2022-04-24T18:25:00+09:00
2022-04-24T18:25:57+09:00
2022-04-24T18:25:57+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
ナチス・ドイツに勝利した
5月9日に勝利宣言をするべく、
ロシアのプーチンは
要衝マリウポリを
制圧したと発表したが、
実際には、兵糧攻めである。
つまり、
餓死者が出るのを、
ただ待つ状況である。
先の大戦とは異なり、
全世界が、状況を把握して、
事態の打開を望みながら、
何もできないというのはいかなることか。
大学生が、「ただ心配だという事に意味があるのか」
といった投書をしているのを新聞で見たが、
まったくもってそのとおりだとも思う。
国連のトップくらいが動けば、
何らかの意味を持つだろうが、
いかなる効力があるとも思えない。
かつて、同様の状況下で、
松岡洋右は、国際連盟を、
捨て台詞を吐いて脱退しただけだった。
アメリカなどが武器支援しているのも、
いつ、どこに届くのかも不明、
どこまで効果があるのかが見えず、
先般、西側が集めた武器は、
ミサイルで破壊されたのではなかったか。
日本が防弾チョッキを送っても、
封鎖されたというマリウポリには届かないであろう。
そうした加勢に対しても、
ロシアは報復をほのめかしており、
逆上した指導者の狂気の火に、
ただ、油を注いでいるという見方が出来るのか否か。
ある種、生命線を脅かされる危機感という意味で、
プーチンのウクライナのこだわりと、
戦前、戦時の日本の満州へのこだわりは、
似ているのではないか、
などという点にも妄想が飛ぶ。
ただし、ロシアでは
親分だけがこだわっているように見えるが、
日本の場合は、満州放棄は、
国民が許さないだろう、という空気があり、
軍部がそれに従ったという説がある。
教科書では、
今はなき軍部が暴走したことになっているが。
また、ロシアにおけるプーチン支持も、
ものすごいと聞く。
現代ですら、
こんな危険な国と接しているのであれば、
何らかの緩衝地帯が必要だ、
という考え方すら、
蘇って来そうではないか。
かつて、日独伊三国同盟は、
ソ連を巻き込んだ四国同盟にしたかった
という説もあるが、
肝心のドイツにはその気はなく、
むしろ、彼らの人口を養うには、
東部に拡大するしかない、
というのがヒトラーの考えであった。
日本も資源のない国であるから、
満州確保などが重要、と考えられていたから、
何らかの資源確保が背景に戦争になることはよくある。
特に人口が増加傾向の場合は、
その欲求が強くなるはずで、
実際、19世紀から20世紀にかけて、
ドイツや日本は人口が2倍くらいに増加していた。
それに対して、ロシアは人口減少が目立つ国である。
今回のロシアの動きを見ると、
これらの背景、動機、下心がよく見えないが、
肥沃なウクライナの小麦などは重要なのかもしれない。
もちろん、黒海という出口も重要なはずだ。
例えば、今でこそ、オーストリアは、
海のない国になっているが、
第一次大戦まではちゃんと海軍があって、
アドリア海、地中海から日本にも繋がっていた。
サラエボで銃弾に倒れることとなる
フランツ・フェルディナント大公などは、
1893年に巡洋艦「皇女エリザベート」で、
日本に来航して明治天皇と会っている。
アドリア海を自由に航行するには、
スロベニアとかクロアチアとか、
ギリシアまでのバルカン半島に敵がいては大変なので、
今回の文脈で言えば、オーストリアの海へのこだわりが、
サラエボ事件に繋がった、という見方が出来るかもしれない。
四方を海に囲まれた日本においては、
海に繋がることへの欲望が理解されにくいかもしれない。
が、ロシアが、たびたび不凍港の確保を目指して
南下していることを見ても、
もはや、この北の大国のDNAのようなものに
なっているとみても良いのだろう。
ウクライナが持ちこたえた場合、
今度は、東から南下してくるかもしれない。
海に出ての交易については、
かつて、ポルトガル、スペインが、
ヨーロッパの辺境という意識から、
外に飛び出してからの成功体験で、
カール五世が生まれる前くらいからの伝統である。
つまり、ポルトガルは、
エンリケ航海王子(1394年 - 1460年)の時代
あたりからアフリカ沿岸に沿って海外進出が本格化し、
1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を回った。
クルシェネクのオペラ「カール五世」では、
この大航海時代の逸話が、
インカ帝国を征服したピサロと共に語られる。
ピサロは、カール五世の時代の人であるから、
間接的には、カールがインカ帝国を滅亡させた。
というか、1529年には、
成功報酬(総督の地位、キリスト教化の対価の年貢の権利)について、
契約をしているのだから、直接的な戦争犯罪人と言ってもよい。
いわば、プーチンの走りであって、
岸田首相が繰り返す、
「力による現状変更」を許したのが、
カール五世であったということだ。
しかし、こう書いてみて、
現代のロシアの侵攻とを照らし合わせると、
カール五世のインカ帝国侵略は、
何を動機にしていたのか訳が分からない。
やはり、金が目当てで、
キリスト教の守護というのは、
後付けとしか考えられない。
全曲が収められた貴重な2枚組CD、
(写真は録音のもととなった演奏会風景)
スーストロの盤のCD1のTrack.5は、
このピサロ登場のシーンになっている。
先立つTrack.4では、
フランスとの抗争で、
資金が底をついた様を表していた。
若い無垢な聴聞僧フアンは、
カールに対して、
傭兵への支払いが出来ずに、
彼らの傍若無人を許したのは何故か、
と素朴に問うのである。
「アメリカから、どんどん、
富が舞い込んでいたはずではないですか」と。
このような流れを現代のロシア・ウクライナ問題に
当てはめてみると、
「天然ガスをどんどん輸出できる国なのに、
いったい、これ以上、あなたは何を望むのですか」
という感じであろう。
音楽は、カールの心の胸騒ぎか、
あるいは、当時の浮ついた貿易熱か、
ピーヒョロ、ピーヒョロ系の管楽器に、
太鼓が低く打ち鳴らされて、
喧騒を感じさせる中、
始めて女声も含んでの混声合唱となる。
「セヴィーリャの人々」と題されている。
ピサロが財宝を持ち帰ったので、
町中の人々が歓呼して、それがまるで、
自分たちのためのもののように祝っているのである。
フアンの言葉を直訳すると、
「戦争を早急に終わらせるために、アメリカから、
数え切れぬほどの富があなたの手に入ったと思います。
ピサロがあなたにその宝をあなたに献ずるため、
セヴィーリャに凱旋した時の様子を、
私の父が何度語ったことでしょう。」
と言っており、
若いフアンは知らないが、
前の世代にはあった話のようですね、
といった時代感覚を語っている。
これは、高度成長期があったそうですね、
と今の日本の若者たちが言いそうな言葉を想起させる。
ト書には、「セヴィーリャの人々、
ピサロと彼の船の乗組員たち、
捉えられたインディアンが現れる。
金で出来たエキゾチックな産物やその他宝物を運ぶ。」
とある。
人々は珍しい物産や、何よりも、
連れてこられた見たこともない人種に興奮している。
いわば、バブルの時代に、
いろんなブランド品が出回ったようなものだろう。
このCDでは、ピサロは、
フロリアン・モックという、
アウグスブルク出身の若手テノールが担当。
この録音では合唱に重なり勝ちで、
声量はよく分からないが、
そんなに良く通る声でないものの
心高ぶる様子を伝えている。
「陛下、今、たくさんのカラベル船(3本マストの小型帆船)、
フリゲート艦(軍艦)と共に上陸いたしました。」
神妙なフアンの声とは対照的に、
いかにも浮ついた音楽が続く。
合唱:
「金、金が私たちの土地を潤す。途絶えることなく。」
ピサロ:
「離れた土地には多くの宝と富に満ちていて、
それらの輝きが、我らの貧しい大陸の目をくらませる。」
音楽は控えめながら興奮して膨らんでいる。
ピサロもそれに乗って陶酔している。
合唱:
「楽園が見つかった。我々はもはや、
あくせく働き、苦役に励むこともない。」
狂気の沙汰とも思える前のめり感で歌われるが、
こういった台詞がピサロではなく、
民衆の声というのも不気味と言えば不気味だ。
クルシェネクは、こうしたシーンを書きながら、
何を想起していたのだろうか。
彼の場合、第一次大戦で、
故国オーストリアが崩壊するのを見た。
あるいは、かつてのオーストリア=ハンガリー二重帝国の
栄華などを思い出していたのだろうか。
太鼓が打ち鳴らされ、
ひょろろーと甲高く管楽器が鳴る。
すると、音楽は、急にワルツ風になり、
ピサロが、「これはお見せするのは、ごく一部です」と
嫌らしい声を出す。
小さなファンファーレに続き、
太鼓と笛に踊らされる感じで、
合唱が、途切れ途切れに歌う、
次の内容もいかがなものか。
「この素晴らしいカラフルな人たちをご覧あれ。
我々、スペイン人は莫大な富の支配者です。
西の方の部族は、私たちが命ずるままに
金を出さないといけないのです。
私たちは重荷から解放され、
世界の頂点に立ちました。
そして、すべての者たちが、私たちに従います。」
早口でまくしたて、有無を言わさぬものがある。
いかにも、傲慢な民衆である。
「この素晴らしいカラフルな人たちをご覧あれ。
ピサロに乾杯。」
音楽は控えめな持続音風になり、
カールがフアンに語りかける冷静な声が聞こえる。
しかし、言っていることは、何となく他人事に聴こえる。
「君の父親が、群衆に混ざっているようだが、
この財宝が、
遠くの人たちの苦役と血の色に染まっていると
考えたことはあったのだろうか。」
「それは、つまりこう思ったからだ」と言い、
そこからはアリアとなる。
カールは、アメリカのバリトン、
ピットマン=ジェニングスが担当。
暗い弦に管楽器が明滅する緩やかで内省的な深い音楽に、
次第に警告音が加わって、
この皇帝のやばい立ち位置を暗示する。
「世界は丸い。今日、その頂点に立っていても、
明日には儚く滑り落ち始めるだろう。
おそらくそこに、この世界の完全性がある。
キリストの御旗を立て、これらの国々に向かう者、
信仰の灯で彼らの闇を照らすべき者らが、
血まみれの手でこの金を手にしたのだ。」
ここまではよく分かる。
が、以下は、結論が違うだろう、という感じ。
「同じキリスト教徒との戦いに使うことで、
これらは浄められるのだろう。
これらの富を王室の金庫に運べ。」
キリスト教徒同士が殺し合うことの理由が出来た、
血を出した異教徒に詫びるためだ、という感じだろうか。
恐るべき、ロジックである。
「ここで、金の品々は運び出される」とある。
カールは、ピサロの侵略も、是としたようだ。
そこに、もっと活力のある合唱とピサロの歌が重なる。
「その金は我々のものではないのですか。
それらはまた外交政策に使われるのですか。」
ピサロは、「好きでみすみす宝を手放す奴がいる、
と考えるとは馬鹿じゃないのか。
私の手から、それを貢物として受け取りたいと思うものは、
それがいかにして得られたかなど、決して聴かないものだ。」
と言って消える。
合唱は、「それは私たちの力と強さの賜物ではなかったのですか。
そしてその力が金を得たのではないのでしょうか。
その金は私たちのものではないのですか?」
ト書に妻たちは姿を消すが、男たちは静かに話を続ける、とある。
フアンとカールは落ち着いて会話を続ける。
「彼らは何に不平を言っているのでしょうか。
私の父はそこには関与していないはずですが。」
「フアンよ、私も、それを信じている。
それでもしかし、私の知ることなしに、
古いスペインには異端の萌芽が現れていた。
彼らは不平を止めず、暗い夜のこと、
王家の金庫に何が起こったか、そこに見えるだろう。」
男声合唱の低い声が、ぼそぼそと無伴奏で語る。
「静かに、静かに。
では、私たちから引き離された金を、
あの外国の金を運び去ろう。
それらは我々のもの、我々のもの。
我々は、それが遠い帝国で使われることなど望んでいない。
遠く離れた帝国など知ったことはない。
スペインこそが俺たちの国。
スペインの勇気が得たものは、自分たちの報酬よ。
止まれ、止まれ、誰だ、守衛か。」
小太鼓が打ち鳴らされ、
管楽器、弦楽器が閃光を放つ。
第二の男声合唱、その中の一人、もう一人が声を出す。
「守衛は賄賂で消えた。」
「聞いてくれ。遠いドイツでは、
民衆が立ち上がった。
坊主たちの言いなりにならないよう
自由になるにはどうするかを書いてある
そのドイツの本を買うのに金を使わせてくれ。」
他の男たちはこういう。
「異端者じゃないのか。罪深くないのか。
死と地獄とを背負うぞ。」
先の一人は、「それは俺たちを支配する奴らの言うことだ。
それが何について書いてあるか調べてみよう。
学びと、自由と公正でしか、目標に近づくことはできない。」
「取り掛かろう」と、
全員で、合唱が始まると、
「素早く、袋や箱を持ち出して、
待っている船に積むんだ。
夜明け前に俺たちの宝を安全に持ち出す手はずだ。
ずんずんとオスティナートで、
暗い行進があり、独奏ヴァイオリンが静かに奏でながら消えて行く。
ト書に「言ったようにして、消える」とある。
フアンとカールが残される。
会話である。
フアンは、「無知な連中が、
無邪気にあなたを騙すのを見るのは恥ずかしい」
などと言っているが、
「しかし、スペインは祖国です。
それが私の心を高ぶらせる。
スペインが何よりなのです。」
カールは、
「さらにその上に神がおられる。
いたるところで若い世代に声を上げる
新しい考え方を見て来た。
それをとがめる気はない。
私とてスペインを愛しているが、
私のゴールはさらに高く、
もっと神聖なものにまで足を延ばさなければならない。
若い者たちには彼らの視点があろう。
それら二つを両方持つのは難しかろう。」
得られた事:
「クルシェネクのオペラにおいて、主人公のカール五世は、同様にキリスト教の国である隣国フランスとの戦争に明け暮れ、金策が尽き、ピサロたちが海外から搾取した富で、それを補おうとする。スペインの民衆は、自分たちの冒険心で勝ち得たものが、何故、そんな事に使われるのか理解が出来ない。余談になるが、プーチンも、毎日、大金を使って同胞に大砲を撃ち込んでいるが、敵とする西側諸国が天然ガスなどの購入でそれを補っているようだ。例えば、天然ガスのインフラを作った人たちは、どんな風に考えているだろうか。」
「カール五世は、『世界は丸い。今日、その頂点に立っていても、明日には儚く滑り落ち始めるだろう。おそらくそこに、この世界の完全性がある』などと権力の虚しさを語りながら、同時に、インカの財宝を搾取する事を許した。異教徒から奪った財宝は、キリスト教徒同士が血を流す(フランスとの戦争に使う)ことで浄められるという、意味不明のロジックまでを繰り広げている。」
「いかなる理由によっても戦争は起こる、それぞれの理屈があるがゆえに、という点を改めて感じさせるクルシェネクのオペラ。戦争に明け暮れたカール五世、その活動の資本のやりくりのために、一つの国が滅び、キリスト教の信者同士で血が流された。その行動原理から現代の出来事が解釈される、というクルシェネクの思惑に乗せられた感じであろう、なかなか聴き飛ばすことが出来ない。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その477
http://shubert.exblog.jp/31275857/
2022-04-17T19:31:00+09:00
2022-04-17T19:31:29+09:00
2022-04-17T19:31:29+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
ロシア黒海艦隊の旗艦
「モスクワ」が
ウクライナ軍に撃沈される
という記事と、
その反撃で再び首都が危ない、
という二つの記事が
同時に入ってくる情勢で、
予断を許さない。
また、首都キーウ近郊では、
様々な惨状が明らかになった。
残虐非道な作戦遂行が、
いかにも組織的になされていることに、
恐怖と憤りを感じるが、
そんな気持ちがあっても、
あるだけでは、何もできない、
という無力感ばかりが実感される。
クルシェネクの心境としても、
自分の意志とは無関係に、
非情にも動いていくヨーロッパ情勢の前に、
何かしなければならない、
という焦燥感があったことは、
容易に理解できる。
そんな中で起こった第二次大戦。
訳も分からず世界中が巻き込まれての、
未曽有の状況からの長い長い残響の中で、
「戦争反対」とさえ言えば、
全てが解決したように思っていた
「平和ボケ」という状況下で生まれ育っていると、
対岸の火事と思っている人がいてもおかしくはない。
ウクライナは、そうは言っても遠い。
が、ウクライナを攻撃しているロシアは、
我々の隣国でもあるという「脅威」なのである。
おそらく、先の大戦前のイギリスなどにも、
ドイツが大陸内で、一部の隣接地帯に干渉を始めた時には、
自分とは無関係と思った人はいたはずだ。
また、第一次大戦で疲弊したフランスなども、
ドイツが東を向いていれば無関係と考えた人も
いたはずである。
そもそも厭戦気分が満ち溢れていたので、
ナチスが侵攻すると、たちまち降伏した。
有無を言わさぬやり方で
国土を奪われたと感じていた当時のドイツでは、
戦争は唯一の不満打開策であったので、
何でもありの空気が漂っていたようだ。
しかし、こうした、
暴力をも辞さないナチスのやり口は、
当然、離接する国々には評判が良いはずもない。
後に、もろ手を挙げてヒトラーを歓迎するオーストリアにも、
ナチスのやり口に嫌悪を感じる人が
多くいたことは容易に推察される。
クルシェネクは、オペラ「カール五世」の中で、
ドイツ人をルターに代表させ、
「彼は、ドイツ人の性質にある
何か暗いものを目覚めさせ、
途方もない抑制のなさを引き起こした」
などと表現した。
こんな風にプロテスタントを否定すると、
音楽の父、J.S.バッハからして
否定してしまうことになりそうだが、
大国ドイツに隣接し、
同じドイツ語を話すオーストリア人にとっては、
宗教の違いを強調することで
自らの存在意義を確認し、
アイデンティティを確立する
しかなかったのかもしれない。
スチュワートによるクルシェネク評伝では、
この意欲的なオペラについては、
あえて一章を費やしており、
「カール五世とクリスチャン・ヒューマニズム」
というタイトルになっている。
ここで、著者は、この台本を選んだ時の
クルシェネクの状況を伝えているが、
この作曲家が、
「カール五世のリブレットをスケッチするにつれ、
ルターに率いられたドイツのプロテスタント国粋主義者に対して
格闘するカールの姿が、その当時の政治情勢に似ていることに気づいた」
と書いている。
さらに、
「彼は単にオペラを書こうとしたのではない。
ヒトラーとドイツのナショナリズムに対する
超国家的なキリスト教ヒューマニズムを守ろうした」
などとも書かれている。
音楽と政治の関係は、
ベートーヴェンが「英雄交響曲」で
フランス革命の産物としてのナポレオンを
賛美しようとした例もあったが、
これは「第九」などと同様、
ヒューマニズムの要素が強いイメージに
今となってはなっている。
それから一世紀を経て、
ショスタコーヴィチなどが交響曲でロシアの革命を賛美する?
といった、より特定思想に偏った事例が現れてくるが、
クルシェネクも同様にそうした流れの中にあった。
ショスタコーヴィチが「十月革命に捧げる」という交響曲を書いたのが、
1927年なので、クルシェネクが新しい流れを模索していたのと
ほぼ同時期ということになる。
「英雄」と「十月革命」は、同様に、「革命」に関係しているが、
政治的かと言われると、前者は少し違うような気がする。
ベートーヴェンは特定の国を背負った形で発信したのではないが、
ショスタコーヴィチやクルシェネクは、
「その時のその国」というもののが大前提
ということを無視できなくなっている。
クルシェネクの「カール五世」は1933年5月24日に完成したが、
奇しくも同年1月30日、ヒトラーは首相になっていた。
同年6月18日に新ウィーン新聞に掲載された
「私の新しい舞台作品」という記事には、
作曲家はさっそく、この作品を紹介していて、
「カール五世の中で、神聖ローマ帝国の時期に、
宗教改革によって、各国にナショナリズムが目覚め、
カトリックの普遍的ヒューマニズムという高貴な思想が生まれ、
それがオーストリアに受け継がれた」と書き、
さらに、
「真のオーストリアのコンセプトを強化することに貢献でき、
新しい道に導けるなら、私にとって最高の満足になる」
などと、この作品がまさしく、
この時代ならではの作品であることを強調している。
これは、当時のキリスト教社会党の考えに似ており、
この政党はやがて、ムッソリーニ的なファシズムに傾斜した。
(また、現代のオーストリアの第1党である、
オーストリア国民党にも繋がっているようだ。)
これを、現代のウクライナ情勢に照らし合わせると、
ウクライナが、自らのアイデンティティを強調して、
ロシアとは違う、と言い張っているような構図になる。
プーチンは、それを力づくで、阻止しようとするだろう。
実際、この作品は、まったく受け入れられることがなかった。
また、このオペラのプロットにおいて、
カール五世は、ルターの前に無力である。
クルシェネクは、オーストリアのアイデンティティを
普遍的な人間主義で描こうとした、というが、
結局、途方もない暴力の流れの前においては無力だった、
ということになるだろうか。
現在でもオーストリアにおける
プロレスタントの割合は5%程度らしいが、
この多様性を重んじる現代にあって、
ルターをヒトラーに重ねるというのは、
いくらなんでもやばすぎる。
アイデンティティで独自性を規定すればするほど、
長い間に解決されていたものが、
未解決の問題として蘇ってくる。
そうしたジレンマ自体を、
抱え込んでしまっているのが、
この「カール五世」という作品なのである。
こんな感じで、ドイツとは、
一線を引きたいような立ち位置に対し、
同じカトリックの国という理由から、
クルシェネクは
フランスには、親近感を持っていたようだ。
「カール五世」の依頼がある前、
彼は、真剣に南フランスでの居住を検討していたらしい。
彼は、休暇旅行でかの地に夢中になっていたともいう。
また、ドイツがファシズムに走ったのに対し、
フランスには、第一次大戦後、
文明が復興しているといった考えもあった。
そういえば、彼のヒット作である
「ジョニーは演奏する」でも、
パリは重要な舞台であった。
したがって、
「カール五世」でも
洗練や文明の象徴のようなフランス国王とのかけひきは、
混沌とした帝国内に抱え込んだ宗教の問題に次いで、
対比のように登場する重要なテーマとなっている。
ルターの幻影が消えた後で、
カール五世の前に現れるのが、
そのフランソワ一世であった。
国内にはいわば異端がいて、
国外の同じカトリックの国とは戦争をしている。
そうした矛盾を描くことで、
作品は多様性を増すと同時に、
解決するわけのない禅問答の連続のような
様相を呈してくる。
このスーストロ指揮のCDでは、
Track4に相当する部分、
カールには何か幻影が見えているので、
「何が見える」とフアンに問いかけている。
ぽっぽーぽっぽーとホルンの信号から、
木管のぴーひょろひょろと、
何とも呑気な音楽が背景に鳴っている。
ト書に「パントマイム、フランス宮廷における
バレー付きのお祭り騒ぎ。
フランソワ一世は最愛の人に別れを告げる」とある。
このCDでは、フアンがこれを、
神妙な声で読み上げている。
さらに彼は、
「ああ、この陽気な国では素晴らしいお祭り騒ぎ。
若い男がじゃれて若い女を愛撫しています」
というと、幻影が消える。
装飾的にヴァイオリン独奏が活躍すると、
木管が絡んで興奮気味に音楽が盛り上がるが、
まるで、口笛を吹いてはやし立てている感じ。
これは、陰気な神聖ローマ帝国と比べて、
フランスが、もっと陽気に、
いささか退廃的に楽しんでいる感じを伝える。
もちろん、そんな映像(幻影)は面白くない。
太鼓が連打され、カールがうめく。
「もうたくさんだ、このイメージは私を幾度となく苦しめた。
この男はフランソワ一世で、イタリアで、私と戦うために、
彼の愛する女に別れを告げているのだ。」
ここからは、またまた、
聴聞司祭フアンが、カールの行動に突っ込みを入れる部分。
「なぜ、彼はこんな面白くない軍事展開をしたのでしょうか。」
この突っ込みは、現代の我々からも素朴に発せられるであろう、
カールのやり方に対する疑念を代表している。
音楽は切り裂くような金管の響きや、
小太鼓連打くらいしかなく、
単に声と声のぶつかり合いがあり、
アリアでもレチタティーボでもない。
「彼は何も知らなかったので、
私の支配権を恐れていたのだ。
彼は、私が利己的な目的でそれを作り上げようとしていると考えた。
彼の軍隊がアルプスを力づくで越えて来たのに、
ルターのためにドイツでの終わりなき戦いに絡まれていられようか。」
フアンは、「陛下、あなたは、問題から目を背けている。
政治上の事実と、真実と精神的な責任に対する問題に対する
答えとしては間違っている。」
この問いかけは、分かりにくいが、
出来事についての責任の所在を聴いたのに対し、
カールは、自分は巻き込まれただけといった答えなので
ファンはいら立ったものと思われる。
カール「意義は、もっと聞いてから言ってくれ。
すでに近づいている戦いを拒絶することはできなかったのだ。」
声を荒げ、小太鼓が鳴り響く。
フアン「でもあなたは、
この戦争でブルゴーニュを得ようとしたではないですか。」
これは、カールとフランソワのそれぞれが、
叔母とか母とかを代理にして交渉させたので、
貴婦人の和約と呼ばれるカンブレーの和約において、
カール側が、ブルゴーニュを奪ったことを指している。
フアンは、あなたは戦争を私的に悪用した、
と突っ込んでいるわけである。
カールは、「それは賞品のようなものだ。
しかし私は一時的なもののためではなく、
嫌々ながら、心にもなく始めた格闘を、
指揮しなければならなかった。
異教徒とではなくキリスト教の軍隊と戦い、
敵対者とではなく、友人、兄弟になりたかったフランソワと戦った。」
この間、間歇的に小太鼓連打で緊迫感。
このあたりでカールの声はアリア風に高まり、
最初は、何となく空々しく響いていた音楽も、
ファンファーレを交えながら
弦楽がもわっと響き
次第にシリアスに盛り上がって、
再び落ち着く。
「しかし、主の加護とお力で、
彼はパドヴァの私の牢獄の囚人となった。」
ここまでは、カールの回想だが、
以下は、幻影の中で見えることへの解説だろうか。
「今、彼は、私が知らなかった悪だくみを考えている。
ほら、彼は牢獄でもよい扱いを受けているだろう。」
各楽器がぎくしゃくと鳴らすリズムの中で、
今や、囚われて獄中にあるフランソワ一世と、
密使、フランジパニの対話が、
レチタティーボで交わされていく。
フランソワの役は、アンドレアス・コンラートという、
ドレスデン出身のイケメン・テノールが担当。
アバドや小澤とも共演し、
オペラのみならずコンサートもこなす。
フランジパニは、アレックス・メンドロックという、
デトモルトの陽気な兄ちゃんという感じのオペラ歌手。
フランソワ一世は、密使フランジパニを呼び、
トルコの支配者、スレイマン帝に手紙を託す。
何と、キリスト教世界の王様が異教徒と手を組んで、
カールに対抗しようとしているのである。
いかにも秘密の会話にふさわしく、
音楽は、時に声を潜め、時に緊張感を出しながら進むが、
カールの暗い声に対し、いかにもフランソワもフランジパニは明るい。
ピチカートやパルス音の上を、
管楽器や弦楽器が、さあっと色付けしていくような音楽が、
これまた、なぜか洒落た感じを出している。
「小さな紙に小さな手紙を書いたから
ブーツに隠して東に向かい
トルコのスレイマンのところに急いでくれ。
彼は、皇帝に対抗する私を助けてくれるだろう。」
フランジパニ、「思し召しのままに。私は喜んで、
この獄中生活を共にしますが、
彼は異教徒ですが、そこをお考え下さい。
イスラム教です。あなたはキリスト教国の陛下ではないですか。」
彼にとっても、これはただならぬ状況で、
その声は、切実に響く。
なんと、フランソワは、それを気にしていない。
「それがどうした。私は何か月もこのピッツィゲットーネの塔に
幽閉されているのに、お前はためらうのか。
私は悪魔にでも自由を願い出て、
報酬を与えると騙すまで。
お前は私を自由にするよう、
スレイマンとカールを戦わせるのだ。
分かったか?」
弦楽が、あらまあ、といった響きでくねくねと動き、
管楽器が警告音をぱぱぱーっと出と、
フランソワの声も興奮して高まる。
フランパジーニ、「躊躇ってすみませんでした。
マーキュリーのようにここを発ちます。」
マーキュリーはギリシア神話の神ゼウスの子、
ヘルメスで、翼を付けたサンダルを身に着けている。
フランソワ、「マーキュリーのように。翼があるサンダルの。」
彼は、以下のように書く。
この部分、説明的ではなく詩的だが、
フランソワのアリアのような感じになって、
歌うように語られている。
この音楽も、何だか浮き立つような響きがあって、
自由を志向するフランソワ、あるいはフランスの考え方を
表しているのだろう。
「新しい神、マーキュリーによって、
翼のサンダルが嘆願を進めます。
危険な道を避けて
私の信頼する真実と勇気の使者が東に飛ぶ。
彼は苦しみの訴状を運ぶ。
素早く、道を急げ。
今や、人生の時計は時を刻むが、
翼のついたサンダルが嘆願を届ければ、
私の救出が見えてくる。」
このような幻影をカールは見せつけられ、
ここで、戦争に勝った方の大将として、
どん、とティンパニ一発で介入、
あるいは、それ以上に神聖ローマ帝国の皇帝として、
フランソワの様子を評する。
「聴きたまえ、悲惨な苦悩も彼にとっては、
軽薄な歌になるのだ。」
フランソワ、「自由は私の望み。
抑圧的な悲しみは消え、
祝福の希望が私を抱擁すれば、
苦悶は私を毒殺しようとする。
マーキュリーよ私のメッセージを頼む。
翼のサンダル、私の嘆願を運んでくれ。」
彼は書き続けている。
オーケストラは、様々な楽器が重なって、
色彩的な壁紙のように立ち上がって来て美しい。
ここからは、カールのフアンとの対話。
いきなり太鼓で雰囲気がじめじめしてきて、
木管も弦楽も神経に障るようなぎすぎす感。
「聞いただろう。
彼は、キリスト教の誓いで、
クリスチャンの世界を広げようとしている
私に逆らい、異教徒に救いを求めた。
彼の罪は、ただ誠実に行動した、
ルターの罪より重くはないか。」
ルターの話が出ると、音楽は、
その行動を暗示するように、
さささと動く。
フアン、「ルターは自由になりました。」
カール、「彼が?」
フアン、「フランシスは自由奔放な男で、
彼は出来る限り、自分勝手をします。」
カール、「彼が正しいとでも。
お前も、彼の優雅さに惚れ込んだのだな。」
これで、フランソワとの経緯は終わり、
次に、ナポリ総督ランノイと兵士たちが現れる。
カールは叫ぶ。
「見よ、また我が行く手に新手の障害物だ。
我が軍のイタリアの総督ランノイがいて、
ドイツの兵士たちも立ちふさがっている。」
ここから、次第に軍隊調の小太鼓連打に導かれ、
兵士たちの合唱となる。
この合唱は、傭兵たちが、支払いがないと嘆くように、
脅すもので、
「隊長、我々に気を遣い、声を聴いてくれ。
教皇や皇帝や王様たちは、
何だか高いところにいて、
奴隷以下の扱いとなると、
奴隷どもと戦い、
彼らの頭を割ることになる。
人の死の上に生があるのは世の習い。
あなたは、約束通りに賃金をきっちり払うべきだ。
死ということだけが、自由にできること。
だが、それは犠牲者のみに許されている。
殺し屋はきっちり全額の払い戻しを求めている。
スポンサーがどうなろうと関係ない。
緑の谷間にある家が、俺たちを救ってくれる。
安全に槍と銃は置いていく。
もし敵がまだ居るというなら、隊長、
きっちり我々に支払うことだ。
さもなくば、武器はあなたに向けることになる、
誰かほかのものに助けてもらうため」
という、嘆願と脅迫が混ざったものだが、
時に、調子を外し、時に、
たんたたたたーんと単純なメロディのような要素が混じり、
いかにも手に負えない連中の卑俗な感じが出ている。
伴奏の管弦楽も結構凝っている。
ナポリ総督ランノイがいきなり語りだすが、
これは、自問自答的な一言。
演じているのは、トム・ゾルというオランダのバリトンだが、
「不満だらけの兵隊たちを前に、報酬の賃金なしに、
イタリアで獄中にある王様をこれ以上、置いておくことはできない。」
そして、兵士たちの不満を聴いたうえで、
ここは危険と、フランソワ一世に提案したようである。
「(フランソワに)陛下、あなたをスペインにお連れします。
ここにいるより、あちらの夏の方があなたにはよろしいでしょう。」
そこにフランソワの声が、いかにも上品に響いてくる。
ぽんぽんというピチカートの伴奏に、
柔らかく木管が調和した響きを奏でる。
フランソワの声は、アリアのように軽やかに舞い上がる。
「望むところだ。すぐに皇帝のところに連れて行け、
そうすれがこの紛争は解決しよう。
そして私は愛するフランスの地に戻ることが出来よう。」
フランソワ一世は、敵の役のはずなのに、
何故か、その優雅さで、やぼったいカール五世と対比されるのである。
(彼らは消える)
つまり、カール五世の軍隊は危険だということで、
カール麾下の総督自身が、
そこにいた敵方の王の身を案じるという始末だった。
得られた事:「クルシェネクのオペラ『カール五世』では、ドイツの象徴としてルターが登場したが、フランスの象徴も重要で、フランス国王、フランソワ一世が、これは、何か暗いものを抱えたドイツに対し、何か明るく優雅なものを象徴し、クルシェネクがナチス・ドイツに併合される前のオーストリアで、同じカトリックの国に期待を寄せた印となっている。クルシェネクは、『カトリックの普遍的ヒューマニズム』という概念で、ファシズムに対抗しようとしたのである。」
「『カール五世』の中で、フランソワ一世は、史実の通りカール五世に囚われの身となっているが、まったくめげることなく、自由への憧れを歌い、音楽としてもアリアの要素が楽しめる。イスラム教徒とも手を組む国際性が国粋主義の逆を行っており、むしろ、勝っているはずの主人公の方が、何やら背負うものが大きすぎてがんじがらめになっている様が分かる。」
「カール五世が雇ったドイツの傭兵たちは、まったくもって不気味な存在として描かれ、ルターの一派と同様に、野卑な合唱が、ナチス台頭の時代において、クルシェネクの心を悩ませていた闇の部分が、繰り返し想起される。こうした状況を打破すべく発信しようとしたオペラが『カール五世』であったが、この歴史の流れは、逆にこの作品の上演を不可能にしていった。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その476
http://shubert.exblog.jp/31193307/
2022-04-10T18:59:00+09:00
2022-04-10T19:35:44+09:00
2022-04-10T18:59:20+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
超大国というものは、
様々な人々が住み、
それぞれの考え方や
価値観の矛盾を、
何らかの形で見えなくする
工夫が必要で、
最近でも、国威を発揚して、
この国の指導者に従っていれば
将来の生活が今よりもいいよ、
というメッセージを出すことが、
トレンドになっている。
オリンピックや万博が成功した、
といった、比較的穏便ながら、
妙に押しつけがましい方法もあれば、
あちこちのインフラ等に関与したり、
これ見よがしにお金を配ったり、
カネに物を言わせ、
品性、礼節を欠く方法がいろいろ頭に浮かぶ。
これが効かないと、
あるいは、これに飽きると
ロケットやミサイルを飛ばして、
広告代わりにしたり、
実際に近隣に暴力を見せつけたりして、
どうだ、わが国は強いだろう、
と言うしかなくなるのだろうか。
日本はその点、最近は、
政府は率先して自国の自慢をしていないが、
そのつけなのか、少子高齢化が進み、
若者から夢が失われ、
国際競争力も下がるばかりである。
それに比べれば、
「余はドイツへ9回、スペインへ6回、
イタリアへ7回、フランドルへ10回、
フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、
合計40回におよぶ旅をした」と言って、
疲れ果てた病身で退位した、
カール五世は、
「太陽の没することなき帝国」を
身をもって自分事として必死で守ろうとしていたように見える。
が、その実、
帝国内部には課題山積で、
40回の旅はいいから、
もっと腰を据えて統治せよ、
と言いたくなる人もいたのではないか。
クリミアを攻め、東部ウクライナを攻め、
遂には、その首都近郊で殺戮を繰り返し、
今、また、南部に非人道的攻撃を加えている
軍隊を動かしているプーチンも、
同様に、
「計40回に及ぶ活躍をした」と言うかもしれない。
彼のロジックでは、それによって、
国家の威信が高まるのであろう。
彼の行動を見て、
かつてあり、
今は失われたものに対する、
強烈な思いが先行して、
第一次大戦で多くの国土を喪失した
多くのドイツ人が、
「実力行使によってしか、未来は開けない」
と考えたパターンと
酷似しているように思ったりもしている。
中公新書にある「ナチスの戦争1918-1949」
(リチャード・ベッセル著、大山晶訳)には、
「1920年代半ばに全国で40万から50万の会員を有していた
退役将校の右派組織、鉄兜団のブランデンブルク支部が、
1928年9月に次のように述べている。
多くのドイツ人は間違いなくこの意見に賛成したことだろう。
『われわれは現体制を心から憎悪している。[・・・]
なぜなら、奴隷となった祖国を解放し、
ドイツ人が戦争で着せられた汚名をそそぎ、
生存に必要な場所を東方に得て、
ドイツ人民を再び兵役につかせるというわれわれの目的を、
この体制は妨げるからだ。」
この時、「現体制」と言われているのは、
言うまでもなく、「ワイマール(ヴァイマル)共和国」の体制であった。
この共和国を支えた「ワイマール憲法」は、
国民主権や女性参政権などで、
民主主義憲法の典型として教わって来たものだ。
このような民主主義を誇っていたドイツの体制が、
自国民に憎まれ、たちまちファシズムを礼賛したように、
民主主義は暴力に対して無力な場合が多いようだ。
日本の場合も、アジア初の男子普通選挙が成った、
「大正デモクラシー」の時代も、
民意をいかに操るかに長けた者たちによって、
終焉を迎えたが、
民主主義は簡単に力の前に迎合するのであろう。
「散る桜残る桜」という、
海軍の航空兵養成制度であった予科練の出身者は、
「海軍の体罰は訓練によってしごくことはまだ納得できたが、
主流は体罰による恐怖心により命令服従を強制したとしか思えない。
日本帝国そのものが、帝権の絶対的専制化そのものがこの方法」であった、
などと書いて、当時を振り返っている。
この手の著作は、気が滅入るような、
体罰紹介のオンパレードで、
徹底的に日本人に厭戦意識を植え付けており、
2015年の国際調査では、
「自国を守るために戦う」と答えた割合が、
世界最悪のような状況になっている。
完全に余談になるが、
ウクライナから逃避してきた人たちは、
そんな国で、安住が出来るのだろうか、
と、
ふと、考えてしまったりもする。
一方で、民主主義は往々にして、
様々な矛盾が表に出て分断をももたらす。
先の、「ナチスの戦争」にも、
「ヴァイマル・ドイツ」の特徴を、
1.暴力に対する暗黙の容認
2.「ヴェルサイユ条約」の不平等性に対する外部への怒り
3.ポーランドへの領土割譲による再度決戦の必要性
などと要約し、
「いつ内戦が勃発してもおかしくない状態にあった」
と書かれている。
現在のロシアが、
同様の危機感を持っているかはわからないが、
為政者はこうした状況では、
内戦だけはまずい、という気持ちになるはずだ。
さて、
クルシェネクのオペラでは、
カール五世が母親から渡されたのは、
世界帝国ではなく、
虫が食った果実だった、
というエピソードがある。
(プーチンは少なくとも、
何故か、虫が食ってしまっている
旧ソビエトの価値観を受け継いだ、
あるいは、
手渡されたと考えていることは確かだろう。)
また、クルシェネクが、
この作品を構想していた時の世界は、
上述のヴァイマル体制下のドイツは言うに及ばず、
第一次大戦で、あちこちでひっくり返された後で、
何だかよく分からないうちに
また、蓋を閉められたパンドラの箱が、
再び、妙なエネルギーでほころびを見せ始めていた。
ソ連には共産主義があり、
ドイツやイタリアはファシズムに向かっていた。
MDGレーベルから出された、
オペラ「カール五世」のCDには、
マティアス・シュミットという人が、
「歴史の変化する絵」というタイトルで、
解説を書いているが、こんな一節がある。
「クルシェネクの『カール5世』では、
世界がこれまでの連続からの継ぎ目になるように見えた1930年代に、
何らかのスピリチュアルな姿勢をとる必要があった。」
この「スピリチュアル・スタンス」は、
何か、特別な意味で聴衆に訴えるということだろうが、
それゆえに、独特の2つの部分に分けられているらしい。
つまり、
前半は、「フラッシュバックの形で皇帝の人生の思い出を表す」、
後半は、「彼の人生の最後の期間の観点から、
これらの歴史的な出来事を振り返って説明する」
とのことだ。
さらっと読むと、何が違うのかわかりにくいが、
前半は「単なる回想」で、
後半は「解釈の入った回想」なのだろう。
さらに転記すると、オペラ「カール五世」が、
どのような舞台設定になっているかの説明がある。
「プロットのデザインは、
エストレマデューラのサン・ジェロニモ・デ・ユステ修道院
を舞台にした最初のシーンの弁証法的な緊張感をベースにしている。」
主人公は、この修道院に隠棲し、
最後が近いのを予感しているのである。
ここで、聴聞僧からの厳しい突っ込みがあるので、
「弁証法的(対話・弁論の技術)サスペンス
Dialektischen Spannung」と書いたものであろう。
まず、母の思い出を経て、
若きカールが直面したのは、
宗教改革の波にカトリックの守護が、
何らかの対策をしなければならなくなった、
ウォルムス帝国会議への臨席である。
Track3.の
「高い天井の部屋で、王子たちが醜い騒ぎをするのを聞いた。」
というところまでは、前回、聴いた。
「彼らは理解できない議論でお互いを攻撃し、
このゲルマンの国は、
冷たい霧に満ちた大釜のようなもので、
触れるものは目に見えず、
見えたものは、私を無限の混乱のもつれに流れ込む。
最も近い結び目が遠くで繋がっていて、
最も近い関係が不吉な不調和になっている。
私が手がかりを得ると、
もつれとなって寝ていた幽霊を起こしてしまう。」
皇帝が回想する部分の音楽は、
あまり共感のない白々しいリズムで点描されているが、
さすがに帝国会議の混乱の描写になると、
太鼓が打ち鳴らされ、ぎざぎざしたリズムを伴って
目くるめくように音楽が充実してくる。
「ヴィッテンブルクの僧、ルターが現れた。
彼がやった事で召喚されたのだ」
という部分に雪崩れ込む。
「彼を聖人と崇める混乱した人たちに囲まれて、
彼は入場してきた。」
宗教改革の総本山が現れる時の音楽は、
ぽーっと、管楽器が鳴り、小太鼓が打ち鳴らされ、
難物が登場するのを告げる金管の持続音である。
ルターの声が響き渡る背景を、
ぱぱぱぱぱと、
リズミックに順次鳴らされる管楽器と弦楽器、
「友よ、ドイツの兄弟たちよ」、
と、まるで、「第九」のような歌い出しになっている。
このCDで歌っているのは、
トム・ソルというオランダのバリトンで、
ヘンデル、ハイドン、プッチーニ、シュトラウスと共に、
モーツァルトを得意とするらしい。
特に、ワーグナーを歌う人ではないようだが、
「サロメ」のヨカナーン(ヨハナーン)のようなイメージか。
「主の救済を信じるのだ。すべては心と信仰にある。
子供のように主に近づくのだ。」
と言っているが、ほとんど、アジテーションである。
何しろ、だんだん、不穏な空気を孕む内容となるのだから。
「心の底から叫ぶものの声を主は受け取る。
新しい世界が来て、古い腐った組織は砕け散るのだ。」
背景の音楽は、時に不信感を表し、
時に、すっとんきょうな驚きを表し、
リズムが変転する。
当然、古い組織の守護であるカールは、
「大臣は彼を捉えるように守衛に伝えよ」
と、思わず叫ぶ。
が、ルターの方が大物で、
まったく動じることなく歌いながら答える。
「皇帝と話せば、
彼は我らの信仰を許して下さるはずだ」。
伴奏は、さきほどとは異なり、
信念を全うするような音を刻んでいる。
かえって、びびったのが、
ザクソンのモーリッツである。
彼は、もともとカール五世の臣下なのだが、
ルターと今は結託している。
「博士、罠にはまってはいけない。」
カールは、「あれはザクソンのモーリッツではないか」
と驚くが、まさしく、帝国は腐った果実、
中に虫がいるリンゴなのである。
このあたりの音楽は、耳を澄まし、
ああ、言っちゃった、とばかりに大きな音を出し、
ルターの言葉を聴いているような趣きである。
ルターは雄弁である。
「私は自由にふるまって良い。それが彼の言葉でもある。」
モーリッツは、「ここでは裏切りが常套なのだ」と、
お前はどうなのだ、と言いたくもなるような言葉を発する。
ルターは、「恐れなくて良い。主は私の味方なのだ」
と落ち着いて、朗々と歌っている。
音楽はその信念を畳みかけるリズムで後押しする。
その後、ルターも、その仲間たちも消えてしまう設定。
若い聴聞僧フアンが、
「彼は何が欲しかったのですか」と、
すかさず突っ込みを入れる。
カール五世の言葉は、そんなの知るかよ、
という感じで、
「ドイツ人の性質にある何か暗いものを目覚めさせる
何か暗いもの彼の中にあり、
途方もない抑制のなさ、無限の不服従を引き起こした」
と説明している。
このテキストでは、クルシェネクは、
いかにも、第二次大戦前にドイツに充満していた、
暗い感情を想起しているように見えるが、
その文脈では、ルターとヒトラーが重なってしまう。
しかも、最後に皇帝は、
「彼は、帝国会議でここに立ち、私に向かって叫んだのだ」と、
被害者意識丸出しなので、クルシェネクがこのあたりに、
どのような批判的要素を盛り込んだのかには、一考を要する。
音楽もやけくそ気味で、
たたーんたったたーんたっと前のめりになり、
打楽器がだんだん、ちゃっちゃっと締めくくる。
すると、何と、さっき消えたはずのルターが、
再び現れてくるという悪夢のような展開。
ルターは、聞き捨てならん、とばかりに、
こう皇帝に呼びかけている。
非常にごもっともな内容で、
ヒロイックでもあり、クルシェネクは、
むしろ、ルターの方に味方しているようにも思える。
「閣下、ドイツのキリスト教徒は、
あなたを崇拝し、裏切られないことを信じています。
信仰を悪の世俗から切り離して下さい。
主は人のみを見ており、身なりを見ているわけではありません。
この世界の心の部分は切り離してお考え下さい。
シーザーのものであった部分は、
喜んでお返しします。」
音楽は、決然としたリズムで刻まれ、
たたたーんと力強い。
やがて、ルターに反対する聖職者たちの合唱が始まる。
「我々の力を取り上げようとする。
あれは異端者で反逆者だ。」
音楽は、ぱーんぱんぱーんぱんと、
次に起こることを予言し、
果たして、ルターは、
これまた、ベートーヴェンの「第九」の、
バリトン独唱の歌い出しのように、
「自由、キリスト教徒の。
私たちと神との間には、誰も立つことはできない。」
と高らかに宣言する。
このあたりは、
くろぐろとした音楽を背景に、
「彼は教皇を冒涜する」などと言って、
既得権益の保護を訴えて旧態依然とした勢力を指さし、
ルターが、
「教皇から私たちを自由にしてください、皇帝、
私たちは、ドイツ帝国のもの、あなたのものではありませんか」
とごもっともな、
あるいは、カール五世の心に刺さる一言で応じるシーン。
合唱は、「冒涜者に死を」と連呼する。
ルター信者は、
「ここは剣で決するしかない」
と対応する。
大臣が捕縛を命ずると、
聖職者は「冒涜者に死を」と叫び、
信者は、「これはドイツの恥」と応じる。
切迫した状況なので、
音楽もピーンと張り詰めたり、
じゃんじゃんじゃんと騒動を描写したり、
臨機応変に変化するが、
最後は、カール五世の、
「やめい」という言葉で打ち切られる。
彼は、
「彼は私の言葉で守られている。
彼を傷つけることなく家に帰せ。
ただし、布教は禁ずる」
と言ってルターを釈放したのである。
かっこいいファンファーレが響くが、
これは、いかにも、ここで、
決定的な判断ミスが起こった、という風情のもの。
カール五世は、うやむやにした。
あたかも、ヒトラーを大目に見た英仏のように、
あるいはプーチンのクリミア併合に、
何もしなかったメルケルのように。
が、ここは、難しい選択であることも理解できる。
歴史がその場しのぎというレッテルを貼るのは容易なのだが。
議会は消え、若いフアンは、
まっすぐに疑問をダイレクトにぶつける。
「キリスト教の統一はどうなったのです。」
とぼけたような白々しいような、
断続的な音楽を背景に、
フアンとカールの会話が続く。
「私は、彼に沈黙を命じた。」
フアンは、
「彼は従わなかった。背信は常套手段ではないですか。
どうしてそうしたのですか、閣下。」
このあたりは、カールのやって来た事が、
鋭く問われる部分であり、
音楽は、バルトークの「弦チェレ」などを思わせる、
鋭い透徹した弦楽の響きが印象的である。
「彼がどうしようが、私に何ができよう。
どうせ、彼がおかしいなら、彼がしたことなど、
消えてしまうだけではないのか。」
などと、カールは、自分事として捉えていないので、
フアンは、「あなたの救済は危機に瀕している」と、
まったく同情を見せない。
「君は何が起こったかを知っている。だから裁けるわけだ」
とカールが言っても、
「あなたのために言っているのだ」と答えるばかり。
こうしたフアンの厳しい指摘は、
強烈な打撃となるのか、
カールの声は、遂に、
「君は残酷だ」という絶叫のアリアとなる。
「私は、神が許さなかったことをしたと言うのか。」
フアンは許さない。
「あなたの良心はどこにあるのですか。」
カールは、「結論を急ぐな」といって、次の回想に入る。
管弦楽も針のように突き刺さって行く。
得られた事:「クルシェネクのオペラ『カール五世』は、ウォルムス帝国会議を開催したカールの姿も描いている。彼は、カトリックの守護であるにも関わらず、ルターの語る信仰への信念に圧倒され、さらに、『私たちはあなたの臣下ではないか』という言葉を受けては、迫害も出来ず、プロテスタントの動きを止めることが出来なかった。」
「『自由よ、兄弟よ、友よ』と高らかに歌うルターは、まるで、ベートーヴェンの『第九』を想起させるが、カール五世は、ドイツの混乱を嫌悪するように語り、ルターを、ドイツの暗いものや抑制のなさを掘り起こす人物として描いている。」
「マティアス・シュミットという人の解説によると、クルシェネクは、歴史の不連続点になるように見えた1930年代に、何らかのスピリチュアルな姿勢をとる必要を感じて、『カール5世』を作曲したということだが、ルターを語ることによって、作曲当時のドイツの状況や、それに対するカール五世の対応を描いて見せたのかもしれない。それによって、オーストリアの立ち位置を相対的に浮かび上がらせようとしたのだろうか。」
「魑魅魍魎の跋扈する帝国会議の描写や、何故、ルターを許したかという問いかけに苦悩するカールの姿などで、音楽的が高まり充実する。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その475
http://shubert.exblog.jp/31138022/
2022-04-03T17:07:00+09:00
2022-04-03T17:07:59+09:00
2022-04-03T17:07:59+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
広大な領土を収めた大帝
と言えば格好も良いが、
独りよがりで迷惑な独裁者と、
どこがどう違うのか。
作曲が依頼された1930年の時点で、
クルシェネクが
オペラの題材に取り上げた
カール五世を、
台頭前夜のヒトラーに
彼は、重ねて考えていたかどうか。
ナチスが台頭したのは1933年とされるが、
第1次大戦で敗戦国になった時、
ヴェルサイユ条約で過酷な賠償責任を負わされ、
多くの国土を失った時から、
ドイツには、戦争でやられたから、
やり返すしかない、という考え方が底流していた、
とも言われる。
ヒトラーならずとも、何か、暴力的なもの、
戦争によって過去の領土と栄光を
取り戻そうという空気が、
クルシェネクに、あるいは、オペラを依頼した、
ウィーンのクレメンス・クラウスにのしかかっていた、
ということは考えられそうだ。
では、過去の姿の目標として、
「神聖ローマ帝国の栄光」という地点
にまで遡って行くのか、
というと、それが目指す姿であるとも思えない。
そんな試行錯誤が、このオペラの構想の背景には、
あったことはあり得る話であろう。
早くも、トーマス・マンなどは、
1922年の時点で、異変を感じていた。
6月24日に起こった
外相ヴァルター・ラーテナウ暗殺事件である。
もともとは大実業家で、
第一次大戦中には、物資不足に対応して戦争に協力、
戦後には外相に就任したという大物であったが、
ユダヤ人であり、共産国、ソ連と交渉をしたということで、
極右テロ組織に狙撃されてしまったのである。
トーマス・マンは、第1次大戦に酔いしれた人であったが、
この事件について、
「センチメンタルな蒙味主義がテロルへと組織化され、
吐き気をもよおす狂気の殺人行為によってこの国を汚している」
と講演で述べるに至った。
トーマス・マンは、
第一次大戦時には、
ドイツは偉大な文化の国だが、
民主主義は、それを平板化する、
などとして、戦争を賛美していた人である。
祖国というものを、
何か特別なものとして絶対視することで、
それぞれの思惑がずれてゆく。
現代におけるロシアとウクライナの関係もまた、
過去に返ることこそが最良の道と考えるプーチンと、
そうはさせまいとするゼレンスキーとの綱引きの結果から、
生じているものと考えることが出来る。
むろん、クラウス、クルシェネク連合は、
膨張するドイツに対するオーストリアの立ち位置、
つまり、
現代におけるウクライナ・サイドにあると思える。
ただし、実際のオーストリアは、
ナチスによる併合を歓呼して迎えることになるのだが。
「カール五世」は、このように考えると、
ドイツをオーストリアが逆に包含していた時代の物語であり、
しかも、それが、まったくもって英雄的なエピソードではなく、
次から次に起こる難題に焦点が当てられることになった。
もし、カール五世の治世において、
ドイツ・オーストリアが最盛期となった、
などと歴史を解釈すればするほど、
「第三帝国」の思想に近づいてしまう。
MDGレーベルから出された、
クルシェネクのオペラ「カール五世」のCD解説には、
マティアス・シュミットという人が、
「歴史の変化する絵」というタイトルで、
この大作を手掛けた時点における
クルシェネクの状況を解説している。
この作曲家が1931年7月に
ジャーナリストの友人である
フリードリッヒ・グラブラーに宛てた手紙には、
彼の深刻な芸術的危機について語られているとある。
つまり、早くから天才としてもてはやされていた
クルシェネクは、それまでの巧妙で多彩な曲作りが
もう出来なくなってしまったというのである。
「私は袋小路に迷い込んだことを公に認めますが、
そこから、今だ、道が見えていません。
一方で、私は、現在の情勢に対して
積極的な姿勢をとることを
絶対的かつ必然的に強いられていると感じています。
その一方で、この目的に対しては、
自分の本来の性分によって、
習得するような方法では不十分である
という事実の前に立っています。
私が生きている時代の状況との関係が、
この点に対して厳密に意味のある音符を、
一音でも書くことが日に日に難しくしています。」
ここで述べられた事が、
オペラの依頼を受けた1930年の時点ではなく、
その年の選挙(1930年9月14日のドイツ国会選挙)で、
ナチスが躍進した事実を見てから、
約1年しての手紙なのが気になるが、
「Die Bezogenheit auf die Situation der Epoche,
in die ich mich eingelebt habe,
(私が順応した時代状況との関係)」とあるから、
「この時代ならではの何か」が、
作曲に影響した事は明らかであろう。
マティアス・シュミットは、
「クルシェネクは、
特にオーストリアの近隣の二つの大国での
独裁政権の出現に関して、
重大なイデオロギー的・政治的状況を
考慮する義務があると感じた。」
このように、クルシェネクは、
これまでの新ロマン主義を超えて行く必要を感じた。
確かに、新ロマン主義路線は、
かつてのトーマス・マンのような、
自己中心的な戦争賛美路線に繋がり兼ねなかったであろう。
クルシェネクはしかし、
トーマス・マンとは違って
ドイツではなく、オーストリア人であった。
そして、ようやく行き着いたのが12音技法だった、
というわけである。
また、こうした野心に満ちた大国に隣接する、
比較的小さな国における悩みという位置づけとしては、
ウクライナ、日本にも他人事とは思えない状況であった。
解説は、このように続く。
「ウィーン国立歌劇場の監督であるクレメンス・クラウスが
クルシェネクに『歴史的な内容を持つ』オペラの作曲を依頼したのは、
1930年の春にすでに危機が迫っていたときであった。
この主題の選択は明らかにクラウスと協議してすでになされていた。
チャールズ5世(カール5世)のテーマを支持する
クルシェネクの決定を強化したのは、
神学的、政治的背景であり、
彼自身の内面と外面の対立を
手本のように扱う機会を彼に提供した。
皇帝カール5世によって迎えた
統一されたキリスト教世界のアイデアは、
その後、エンゲルベルト・ドルフース政府によって
公式のイデオロギーオーストリアとして宣言された
『christlichen Ständestaat (「キリスト教企業国家」)』
というイデーのモデルのように、クルシェネクには見えた。」
ちなみに、ドルフースのとった政策も
ファシズム、右翼保守主義と分類され、
ドルフースはすぐにナチスに暗殺されてしまう。
「当時、クルシェネクは、オーストリアを、
ナショナリズムを超え、
ハプスブルク家が支えてきた
「古く普遍的な超国家的帝国」のための
宗教的に根拠のある現存する避難所と見なすことが出来ると、
少なくとも想像することができると信じていた。
明らかに、彼は1930年代に大国になるという野心で
彼の国を脅かし始めた国家社会主義の
文化的政治に対する精神的な対位法を形成したかった。」
つまり、「カール五世」は、
ナチス・ドイツに対する文化的な挑戦状だった、
ということだろう。
「そう、彼は彼の舞台作品が、
新オーストリアの祝典劇になることを
望んでいた」とあるが、
これはまた、何と暗い祝典であろうか。
「クルシェネクの『カール5世』は、
世界がばらばらに分かれて行くように見えた1930年代にあって、
彼の特別な立ち位置を表明する必要から、前例のない形式をとっている。
劇は、2つのドラマティックなEben(水準)に割り当てられている。
1つのEbenは、フラッシュバックの形で皇帝の人生の思い出を表し、
もう1つのEbenは、支配者の人生の最後の期間の観点から、
これらの歴史的な出来事を振り返って説明する。
プロットは、エストレマデューラの
聖ジェロニモ・デ・ユステ修道院を舞台にした
最初のシーンの弁証法的緊張感に基づいている。
キリスト教の普遍的な帝国の創設という、
人生の目標を達成できなかった皇帝に
残された時間は少ないが、彼は神の声に直面している。
劇がさらに進行する過程で、
皇帝は彼の過去の行為を、
豊富な回想の中で明らかにする
(最初の部分では若い僧侶フアン・デ・レグラの前で、
2番目の部分では同じ僧侶とフランシスコ・ボルハの前で)
そして同時に、それを神の前で自己批判的に正当化する。」
前回、この最初の部分は聴いた。
基本、モノローグで、
音楽は、それを軽く装飾する程度。
神の問いに対して、
カール五世が、
「人間の多様性の海に
スペインから精神を注ぎ出し一つのものになるようにした」
などと答えるところは、
木管、金管楽器が、ぷかぷかと暗闇に浮かび上がるような趣き。
「この部屋にある時計がある法則に従って、
同じ方向に時間を輪のように進むように、
私の日の没することなき帝国の人民の多様性は、
均一なもので統べられる。」
このあたり、とぼけたような、
いぶかるような、まゆつば感が音楽に現れている。
ただ、皇帝自身は、信念をもって、
威厳のある声を発している。
この伴奏と声の対比を、クルシェネクは、
よく考えたものと思われる。
「日の没することなき」のあたりは、
絶唱になってもよさそうだが、
まったく音楽的には盛り上がらない。
そして、以下のような言葉が語られ、
彼の母親、狂女ファナが登場するが、
警告音のようなものが背景で響いているだけで、
まったくもって起承転結感がない。
この接続は、いささか理解するのが難しい。
「魔法、魔力(Magie)」とか「前兆(Zeichen)」とか、
隠喩のような言葉が連なる。
「若き日の魔力は、触手を他の領域に引き伸ばし、
そして近づいて来る死が、また、私に何か前兆をもたらす。
明暗の2つが1つとなる魔法も、
私がずっと前に貧しい母親に会うために
トルデシリャスに来た時に
受け取った秘密の印だった。」
おそらく、スペインからの船出と、
スペイン訪問は、一つの事柄として扱われているのであろう。
「フラッシュバックの形で皇帝の人生の思い出を表す」
とあった部分なので、
カール五世の最も古い記憶に相当する部分である。
ファナは様々な政略や夫の不実や死によって狂気に取り付かれている。
当然、言葉がすべて矛盾だらけである。
息子を愛しているのか憎んでいるのかわからない。
それが、明暗2つの魔法の一つかもしれない。
音楽もそれらしく、霊妙な響きを発している。
ファナは、狂ったまま幽閉されたが長命であった。
75歳まで生きたので、
21歳の時に産んだカール五世が58歳で亡くなる、
つい三年前まで生きていたのである。
ここで、カールにはファナが見える。
ファナの役を歌うのは、
アンネ・イェヴァンというノルウェイのアルトである。
音楽も歌も波打って緊迫感が高ぶる。
「彼女が目の前に見える、忘れていたものが蘇り、
記憶の中から過去が認識される。」
打楽器と管楽器が掛け合い、
じゃーんと状況の急変を告げるなか、
「Nichts hab ich vergessen」と、女声が響き渡る。
「私は何も忘れていないし、
何も認識しない。
私の記憶の中からだけそれは来るの。」
弦楽が駆け回る中、
カールは、彼女は、
まだ自分の夫が死んだと思っていないことを告げ、
「彼女は狂っていると皆が言うが、
すべてが終わった後で、
原因を探す我々よりは狂っていない」と述べる。
フアンは、
「悲しさが彼女を曇らせ、彼女は失ったものを今見る」
と解説する。
この素朴な意見に対し、カールの答えは難解だ。
「世界の終わりへの悲しみは、我々を
たちまちにして忘れていたものを認識する、
興奮した夢想家の如く
『hellsichtig(慧眼、先見の明がある)』にしないだろうか。」
何らかの悲劇的状況が、
過去を思い出させるということだとしたら、
今日、破壊しつくされたマリウポリが、
ゲルニカの惨状を思い出させる、
といった類に関連付けるのは間違いだろうか。
この間、音楽は、ベルクのヴァイオリン協奏曲を思わせるような、
いかにもロマン派を背負った十二音技法的な高まりを見せる。
それも収まると、カールとファナのやり取りとなる。
ファナは、何故、死んでもいない私の夫を連れて行くのか、
と性急に問いかけ、
カールは、
「こんな風に入っていくと、
彼女は、私を父のところに連れて行った」
と言いながら、母親に近づく。
弦楽のピチカートと、
ハープの弾奏。
ファナは、カールを夫のフィリップだと勘違いするが、
カールが、自分はあなたの息子だと告げると、
「私に息子など居たかしら」と母親はとぼける。
カールが、
「あの青空の下、
ブリュッセルの庭で遊んだことを覚えていますか」
と問いかけると、
ファナは、「あの庭。あなたは木に登るのが好きだったわね」
と思い出し、
「鷲に連れられて、あなたがインドまで行ってしまうかと心配した」
と母親らしいことを語るかと思えば、
「あなたは、リンゴを投げてよこした。
ほら、ここにリンゴがある。食べなさい。
インドまでの道のりは遠いからね。」
と、ヒステリックな怒りに変わる。
このあたりの音楽は
弦楽のなだらかなメロディで、美しい庭を描くや、
ファナのヒステリックな声に合わせて
金管がびりびりと連続的な警告音が緊迫感を高めるなど。
「ありがとう、お母さん、でも空腹ではない」
音楽は、恐れ入るカールの心情に合わせて、
弦楽が震えると、
ファナの狂気が金管からぱんぱんと放たれる。
「食べるのよ、このいたずら者、鞭うつよ」
と襲いかかる。
元の皇帝もたじたじのシーンである。
この後の展開もすごい。
コラール風に金管が吹きならされ、
意を決したように、
カールはリンゴを受け取って食べるが
そこで彼は大声で叫ぶ。
「このリンゴには虫がいる!」
なんと、それを聞いたファナはいかにも満足げに、
これまでの中で、もっとも安らぎに満ちた歌を聴かせる。
「リンゴの芯にいる虫。
私の幸せはそんなだった、ガラスでできた地球。
それは内側から壊れて行く。
かりかりと音を立てる虫のように、
生きている者は、死の住処。
そして何かがいつも無くなっていく・・・
(immer、immer・・いつもいつも)」
ここでファナは消える。
後半は、ぶかぶかと暗い色調の金管のうめき声に、
ショスタコーヴィチ風の拍子木の音(木琴か?)なども
効果的に重なって面白い。
CDでは、ここでTrack3となるが、
この後、カール五世が、
この顛末を総括するような、
長い独白をするので、
ここまで聴かないと一区切り感がない。
母親が消えたことで、
明かにほっとしたカールは、
「私が母の子宮の暗い門を離れた時、
私の前には、人生の海峡があった。
明るい側には行動、希望、充溢に満ち、
その暗い方には不活発な空虚、狂気の壊れた夜があった。」
とつぶやくが、それを彩るのは、
妖艶なヴァイオリンの独奏である。
行動と空虚は、今のウクライナ情勢を見れば、
妙に腑に落ちる対比である。
「そこで私は紋章に二つの円柱を描き、
その間に私はこう書いた。
『プラス・ウルトラ、もっと遠くに』と。」
この瞬間、弦楽合奏は、劇的なメロディの断片を奏でる。
このプラス・ウルトラは、ヘラクレスの伝説にまで、
遡った知識が必要なモットーで、
ジブラルタル海峡を越えて行くことが
地の果てになっており
危険であるとして、
ヘラクレスが二本の柱を建て、
「Non Plus Ultra(これより先何もなし)」
と記したという。
ここまでは、何となく勇ましい音楽であるが、
以下の問答では、音楽は沈黙する。
ファンは、先の伝説を口にする。
「それこそがコロンブスが西に超えて行った、
ヘラクレスの柱ではないですか?」
カールは、「たぶんそれも、狭さと矛盾。
それらを不可分につなぐ絆であり、それらを打ち砕く衝動。」
と答えているが、難解。
すると、弦楽の動きは錯綜を始め、
皇帝のやって来たことの混乱ぶりを伝える。
「その間、私は皇帝となり、
ウォルムスの帝国会議に赴いた。
そして、矛盾と衝動が恐ろしく私にのしかかった。
まさしくそれが、今起こっているかのように、
高い天井の部屋で、王子たちが醜い騒ぎをするのを聞いた。」
ウォルムス帝国会議は、
1521年にあったというので、
カール五世が神聖ローマ帝国皇帝になって2年、
まだ21歳のことであるから、
幼少期の母親ファナの回想に続いて、
このテーマが来るのも納得できる。
この後、マルティン・ルターが登場するが、
今回はここまでとする。
得られた事:「クルシェネクは、台頭するファシズムの時代にあって、新ロマン主義を背負った音楽を書くことが出来なくなってしまった。過去からの決裂の表明として、必然、彼は12音技法の方向に向かうこととなった。」
「クルシェネクの大作『カール五世』は、ナチス台頭前のオーストリアにとっての祝典劇として書かれた。クルシェネクは、キリスト教共同体としてのオーストリアのアイデンティティを元に、古のカトリックの守護を主人公とし、同時にナチスの『民族共同体』の前に立ちふさがり、それを超克しようとしたものと思われる。」
「一方で、『キリスト教共同体』というものも結局は胡散臭いものになるはずで、必然として内容は矛盾をさらけ出す体を取らざるを得なかった。彼の最初の回想は、母親である狂女ファナとのやり取りであるが、彼女は、カールに虫が食ったリンゴを食べさせ、それが世界というものだ、中から壊れて行くのだ、などと不吉な予言をする。」
「カール五世は、コロンブスがジブラルタル海峡を越えて行った事績になぞらえ、自分は、母親の胎内から出て来るや、行動と空虚の矛盾の前に立っていたという。しかし、それを超えて行くべく、『プラス・ウルトラ(さらに遠くへ)』をモットーとした。これは、しかし、行き着くところまで行ってしまう前に、考え直すべきモットーであることは、現在のウクライナ情勢を思えば容易に理解できる。ここにも、行動と空虚の矛盾がある。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その474
http://shubert.exblog.jp/31107704/
2022-03-22T20:51:00+09:00
2022-03-22T20:51:28+09:00
2022-03-22T20:51:28+09:00
franz310
クルシェネク
個人的体験:
クルシェネクのオペラ、
「カール5世」は、
この作曲家の
畢生の大作として知られ、
また、12音技法で書かれた
記念すべき最初の完成されたオペラ
などと位置付けられるもの。
近年になってようやく、
再評価されるか否かのレベルまで、
浮上して来た感じであろうか。
作曲家の故国の先祖ともいえる
ハプスブルク王朝最盛期の君主を描く、
ということは、
迫りくる不穏な空気の中で、
先の大戦(第1次大戦)が
崩壊させたものを再考するような趣きとなった。
大ヒット作であった「ジョニーは演奏する」では、
新しい時代の幕開けを賛美する傾向が強かったのだが、
本当にそれでよかったのか、という揺り返しが見られる。
この度のロシアによる
ウクライナの軍事進攻は、
また我々にも、
様々な歴史的考察を迫るものではなかろうか。
膨れ上がるエネルギーと拮抗しての世界大戦の都度、
大国間の均衡を保つように、
多くの国が緩衝地帯のように分かれて誕生した。
が、ばらばらになっての不都合も生じて、
結局は、大国の影響下に留まってしまう場合も多かろう。
クルシェネクが颯爽と音楽界に登場したのは、
ハプスブルク帝国やオスマン帝国が崩壊した、
第1次大戦の後の時代である。
何百年も続いた王朝が崩壊しまくったのである。
この時代が極めて危なっかしい状況だったことは、
容易に想像でき、
30年も待たずして次の大戦が起きてしまった。
帝国の首都でもなく、皇帝のいる街でもなくなってしまった
音楽の都、ウィーンもまた、ヒトラーの侵攻を受け入れるしかなかった。
そうした不穏な状況は、オーストリアの作曲家クルシェネクにも、
何か、再検討を迫るものだったようである。
クルシェネクは、「ジョニーは演奏する」のヒットで、
一躍、有名なオペラ作曲家になっていたため、
ウィーン国立歌劇場から、
新作の要請すら受けられるようになっていた。
依頼したのは、日本でも有名な往年の名指揮者、
クレメンス・クラウスであった。
この指揮者は、どうも、ニューイヤーコンサートで、
ウィンナ・ワルツを振っていたイメージが強すぎるが、
戦前のウィーンでは一番の大物で、
1929年ウィーン国立歌劇場の音楽監督、
翌年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の
常任指揮者に就任している。
クラウスは、1930年に、アルバン・ベルクの
代表的オペラ「ヴォツェック」を取り上げており、
新しい音楽にも理解があったようだ。
また、大作曲家リヒャルト・シュトラウスとの関係は、
師弟関係とも言われ、1940年の新作「カプリッチョ」では、
作曲家と一緒に台本を書いていたりする。
クルシェネクにオペラの依頼があったのはまさに、
クラウスが音楽監督就任の1929年のシーズンで、
大恐慌の年で、社会不安もあってナチスが躍進した年でもあった。
ナショナリズムを背景にした政党ゆえ、
黒人が痛快な活躍をするオペラの作曲した(台本まで書いた)
芸術家の覚えがめでたいはずもなく、
クルシェネクは本能的な危険な予感を感じていたようである。
やがて、故国を去ることになる作曲家は、
自らのアイデンティティ、
さらには、オーストリアの何たるかに想いを馳せた。
彼は、図書館に通い、
ハプスブルク王朝の最盛期にあった、
カール5世をテーマにしたオペラの構想を始めたのである。
カール5世と言えば、16世紀の前半、
神聖ローマ帝国の皇帝とスペイン王を兼ね、
何度もフランスやオスマン帝国と対峙した、
いわば、英雄とも言える君主であるが、
宗教改革に絡んだ戦争で国内は疲弊、
海外では、遣わしたピサロがペルーで暴虐を働き、
インカ帝国を滅亡させたりもしている。
極めてブラックな一面を併せ持つ人物だったわけで、
妙に内向的でもあり、良心の呵責に責めさいなまれている。
はたして、クルシェネクが、
こんな時期に想いを馳せた主人公は、
まったくもって、英雄的ではない。
そもそも、オペラは、この皇帝の最後の日々、
生涯を回想するような、
あるいは、悪夢にうなされるような内容となっている。
きわめて、ドラマ性が薄く、
ひっきりなしに襲いかかって来る妄念と戦っているという、
異常な内容の作品とも言える。
登場人物の一覧を見れば、
それの取り散らかしぶりが垣間見えよう。
歴史的に有名な人を片っ端から並べ、
「狂女フアナ」として知られる
母親(カスティーリャ女王)さえも登場する。
父親のブルゴーニュ公フィリップ
(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男)が、
この人を娶ったことから、
ハプスブルクは大帝国となったので、
語らずに済ますわけにもいかなかったのかもしれない。
結局、一人の王がこの広大な領土を支配することは不可能として、
弟フェルナンドに、オーストリアの方を相続させた(1556年)が、
この人も登場する。
あとは、カールを苦しめた面々、
フランス王、フランソワ一世、
オスマン皇帝、スレイマン一世、
さらに宗教改革のルター、
それに南米征服のピサロと、
豪華共演陣である。
彼らの生没年も、参考のため、
下記一覧に書き記してみた。
カール五世(1550-1558)
フアナ:彼の母
エレオノーレ:彼の姉
フェルディナント:彼の弟
イザベル:彼の妻
フアン・デ・レグラ:聴罪司祭
アンリ・マティス:侍医
フランシス・ボルハ:イエズス会総長、皇后の元執事
アラルコン:帝国陸軍大尉
アルバ:帝国陸軍大尉
フルンヅベルク:帝国陸軍大尉
ランノイ:ナポリ総督
大蔵大臣
ピサロ(1470?-1541):スペインの軍人、探検家
フランソワ一世(1494-1547)
フランジパニ
教皇クレメンス七世(1478 - 1534)
枢機卿
ルター(1483-1546)
モーリッツ・フォン・ザクソニー(1521 - 1553)
ルターの信奉者
プロテスタントの指導者
スレイマン大帝(1494-1566)
宮廷占星術師
四人の亡霊
四つの時計
コーラス:神の声、聖職者たちの声、
異教徒たちの声、兵士たちの声、
スペイン女性たちの声、尼僧たちの声、
ドイツとスペインの人々、死の合唱
ここで名を連ねているモーリッツは、
シュマルカルデン戦争でカール五世の方に付き、
従兄のフリードリヒ豪胆公を破りザクセン選帝侯となったが、
実は、自身もプロテスタントであった。
そして、後にその因果で裏切りも行ったということで、
カールを悩ませた。
この辺りの人たちは、画家クラナッハが肖像画を残していて、
何となく、我々にも身近であったりする。
また、身近に感じるための一例として、
アジアの近隣諸国の一つ、フィリピンがある。
1521年、ポルトガル人マゼランが攻めたフィリピンは、
1529年のサラゴサ条約でスペイン領有となっている。
1543年に種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えた、
などという西洋との関係史があるが、
すべてカール五世の治世に
重なって起きたことである。
カール五世が退位する時に、
分割した帝国の片割れである、
もう一方のスペイン側(ネーデルラント込み)は
息子のフェリペ二世に相続させた。
フェリペの名前から、フィリピンという国名が出来ている。
カール五世は、神聖ローマ帝国の皇帝(1519-1556)なので、
カトリックの守護のような位置づけになる。
日本に来て布教したザビエル(1549-1551滞在)とも、
直接的ではないが、関係がある。
ザビエルは、カール五世の妻イザベルの兄、
ポルトガル王、ジョアン三世に遣わされたからだ。
なお、カール五世の妻イザベルは、
よくできた人だったらしく、
彼女が26歳で難産で死去した後、
カール五世は再婚もせず、喪服で過ごしたとされる。
この人の名も登場人物の中にある。
この作品がなかなか満足な形で上演されなかったのは、
このような筋書に加えて、この作品が持つメッセージの複雑さ、
凝りに凝った音楽が難解であることなど、
いろいろあるだろうが、
フランスの指揮者、マルク・スーストロが全曲盤を、
20世紀の終わりの年に演奏してCD化している。
しかも、ボン・ベートーヴェンホールのオーケストラ、
合唱はブルノのチェコ・フィルの合唱団とある。
CDのレーベルは、MDGである。
クルシェネクとクレメンス・クラウスが、
ナチの時代にあって、ただ光明を求めて
オーストリアのためにぶち上げた、
渾身のプロジェクトであったはずだが、
オーストリアを取り巻く各国が関係して、
ようやく作られたという形のものである。
私は、このCDを見つけた時、
こんなことがあり得るのだろうか、と目を疑った。
が、当惑したのが表紙絵画である。
カール五世には、様々な肖像画があり、
特にティツィアーノという大家中の大家が、
すぐれたものを残しているが、
この群像の絵画は見たことがないし、
どのような状況かもさっぱりわからない。
それぞれの登場人物の視線がまったくバラバラで、
この絵画の中のどの部分が重要なのか、
さっぱりわからない。
文字で隠れている部分の黒い服を着た人物が、
カール五世なのだろうか。
では、この人が見つめる
床石が剥がれたような所に足を突っ込んでいる、
それなりに堂々とした人物は、
いったい何者なのか。
画像検索すると、「ルターの墓の前のカール五世」
といったページに飛ぶが、日本語版はない。
(M. Luther's Death)https://www.luther.de/en/tod.html
飛んだからといって、作者や内容が書いてあるわけでもない。
ひょっとしたら、ルターの墓を暴くのは、
やめておけ、という図なのだろうか。
あまり、このCDの内容を表すのに、
相応しい内容とも思えないが。
ただし、MDGは、
ゴールドCDで有名な、立派なレーベルなので、
それでも、とCDを取り寄せてみると、
ケースの中から、分厚いブックレットが出てきて
かなり満足した。
演奏会の様子や、歌手たちのプロフィール紹介も、
写真入りでしっかりしている。
ドイツ語のみならず、
英語訳もついた解説に目を通すと、
この作品の意義を語った、
マティアス・シュミット氏の解説、
クルシェネクの言葉から、
クルシェネクの未亡人であった、
グラディス・N・クルシェネクの寄せた文章、
さらには、台本までを収めた力作となっていて、
この作品を聴くためには、
まず、手にすべき二枚組だということが分かる。
さらに、グラディス・N・クルシェネクは、
このように、この演奏を称賛している。
「2000年になって、
ボンの国際ベートーヴェン音楽祭が
クルシェネクの名誉を救ってくれました。
これまでで初めて、彼らはオペラの全曲盤を
CDにしてくれるために準備してくれました。
コンサート形式の演奏はボンとケルンで行われ、
私は出席したリハーサルで電撃に打たれたかのようでした。
全出席者がそれぞれのパートに
集中して取り組み、
何か異常なことが起きているという感じがしたのです。
衝動性と炎は音楽の大部分、
特に2つの幅広いフィナーレを特徴づけます。
そこでは、巨大なポリフォニーが支配し、
巨大な大量の音が一緒になります。
オペラの媒体として十二音技法の音楽が、
これほど輝きを得たことはありませんでした。
ここでそれを確信できます。
特に指揮者がマルク・スーストロのように
活気があり情熱的で熱狂的で、
ボンのベートーヴェンホールのオーケストラのごとく、
エキサイティングに演奏し、
ブルノのチェコフィル合唱団のように、
非常に正確かつ実質的に歌われている場合は
特にそうです。
私がこれまで聴いたこの曲の演奏の中で最高のものです。」
オペラは、大きく分けて二つの部分からなる。
第1部は、カール五世が退位して、肩の荷を下ろしたシーン。
何と、ティツィアーノの「最後の審判」の絵から、
「お前はどんな風に義務を果たしたか?」
という神の問いかけを聴いておののく。
聴罪司祭フアン・デ・レグラが重要な話し相手で、
以下のようなシーンが連続する。
・狂ってしまった母親を見舞う。
・マルティン・ルターとの対面。
・フランソワ一世との戦いで、彼を捉えるが、彼には人望がある。
・ピサロが大陸から財宝を持ち帰る。
・フランソワ一世はスレイマン一世と組んで、脱走を図る。
・フランソワ1世に姉のエレオノーレを結婚させるが、
キリスト教世界の統一は挫折する。
・堕落した教皇クレメンス七世は、フランソワ一世と組み、
カール五世の傭兵たちはローマを破壊してしまう(ローマ略奪)。
・イザベル皇后の死とカールの錯乱。
第2部は、錯乱の果てに卒倒し、死の床にあるカール五世を描く。
ここでも様々な出来事が走馬灯のように現れては消える。
・ルターとザクセン選帝侯モーリッツ
・姉のエレオノーレが現れて、彼を救おうとする。
・カール五世が目覚める。
聴罪司祭フアン・デ・レグラは、様々問いかけで、
カール五世に人生を総括させようとする。
・プロテスタントたちの暴動が見えて来る。
・トルコのスレイマン一世の占いでは、
すでに、カールの死の運命が見えている。
・弟のフェルディナンドが現れる。カール五世の地球儀は砕け散る。
・四つの時計がカール五世の死を導く。
まずは、第1部の冒頭を聴いてみよう。
まずは、カールが位を譲って、引退し、
あとは、心の平安を祈るばかりという状況である。
「サン・ジェロニモ・デ・ユステ修道院
におけるカール」という部分で、
ほの暗いトランペットとトロンボーンが
吹き鳴らされ、
これまた、陰鬱な弦楽のピッチカートが、
何やら忙し気に動き回り、焦燥感を高め、
木管が虚無的な空気を張り詰めた中、
カール五世のモノローグが始まる。
彼はフランクフルトからの手紙を受け取り、
自分が皇帝の位を譲り、それが決まった事を告げる。
アメリカのバリトン、
ダヴィッド・ピットマン=ジェニングの声は、
落ち着いて威厳があり、
皇帝の声としてぴったりくるものだ。
太鼓の轟き、弦楽の素早い動きからして、
何やら、異常な事が起こった事が分かる。
無機的な男声合唱で、
神の声が聞こえてくる。
カールに対し、そうはいかないぞ、
この世界を統一しろと言ったことに対して、
あれはどうなったのだ?
「裁きを待て」
という警告の声である。
この声は、ティツィアーノの絵から聴こえて来る、
とされるものだが、「聖三位一体(ラ・グローリア)」と題され、
最後の審判も描かれているという。
カール五世が委嘱したものである。
再び音楽は立ち騒ぎ、
胸の高まりを押さえられない感じとなり、
カールは「何だ今の声は」などとうめきながら
自問自答する。
「神が無駄ではないと言ったことを、
私はいつもやらなかったとでも?」
彼は、一人で悩むことに恐れをなしたのか、
若い聴聞僧フアン・デ・レグラを呼び、
相談を求める。
音楽は苛立たし気であったものが、
傾聴を促すような感じで消えて行く。
フアンは、自分のような若僧が、
という感じでおどおどしているが、
クリストファー・ベンツァーという、
役者が演じている。
歌う部分がなく、むしろ、
カールをたじろがせる突っ込みの言葉を発する役柄だからであろう。
カールは、そなたは、世俗的なややこしさに無知であるがゆえに、
純粋な評価が出来るはずだ、と言う。
そして、ここからの独白は、
あたらめて悩ましい内容である。
特にこの時期、身につまされる。
音楽は、すっとぼけたような、
神妙なような、どこ吹く風と言ったような、
控えめな色調で、モノローグを縁取るだけ。
「主なる神は、コロンブスによって、
地球の広がりを私たちに教え、
神は私にキリストの印で、
世界を統一するように求められた。」
カール五世が日の沈むことなき帝国を作り上げた、
という事は、前述のように、
新大陸からアジアにまで及ぶ偉業であったが、
果たして、それは何だったのか、
そもそも、彼を突き動かした神は、
いったい、何がやりたかったのか、
ということが、妙にクルシェネクが見た現実、
我々が今、プーチンに見る現実と重ねて考えることで、
異なる様相を呈して来るではないか。
何と、カール五世の言葉には、
「人間の多様性の海に
(Über den Ozean der menschlichen Vielheit)
スペインから精神を注ぎ出し(den Geist ausgießen)、
一つのものになるようにした
(zur Einheit werde)」というのがある。
クルシェネクの時代、ヒトラーは近隣各国を蹂躙したが、
カール五世が書かれた時期にも、
その兆候があったのだろうか。
「スペイン」からを、「ドイツ」から、
「ロシア」から、と書きなおすと、
「Geist(精神)」を注がれることが、
いかに、迷惑で嫌な事であるかを痛感してしまう。
これを気質、魂と訳すと、いかにもやばい感じが増す。
今回はこのあたりまで。
得られた事:
「史上初の12音技法で完成されたオペラ『カール五世』(クルシェネク作)は、戦前のウィーンの親分、クレメンス・クラウスの委嘱による。ナチスの台頭時期と重なり、状況設定や個々の台詞に考えさせられるものがあり、それは、今日のウクライナ情勢にもつながるもので痛い。」
「キリストの教えをバックに『日の沈むことなき大帝国』を作りながら、フランス王との抗争、宗教改革やルターとの関係で、内憂外患の嵐で足元すら危ない状況下、新大陸では皇帝の権威を笠に着ての略奪、法王のお膝元では、傭兵たちが略奪を繰り広げる。そんな皇帝のエピソードが走馬灯のように過る。」
「そんなカール五世が位を譲った時、『お前はその務めを果たしたのか?』と神の声を聴く。それは、ティツィアーノの大作絵画『最後の審判』(聖三位一体(ラ・グローリア)と呼ばれるもの、カール五世が委嘱)から聴こえて来る。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その473
http://shubert.exblog.jp/30637791/
2021-08-15T12:59:00+09:00
2021-08-15T12:59:42+09:00
2021-08-15T12:59:42+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
盆休みだが、
出かける事も憚られ、
クルシェネクのオペラ
「ジョニー」を
最後まで聴きとおす。
これは、
このオペラの
いかにも
現代的な側面を
強調した駅のシーン。
オリンピックが終わると、
コロナの感染者はもはや災害レベル、
と言われるまでに増加。
それに加えて、台風が来たり、
数十年に一回レベルの、
体験した事のないような
長雨が始まったり、
散々な状況である。
そろそろ、コロナのワクチンの
2回目接種を受けられるが、
先に職域接種などを受けた
同僚などの話によれば、
ほぼ全員が高熱やだるさなど、
体調の不調があったらしい。
この話が、ますます、気分を暗くするが、
各地での水害には、かなり自分に関係する場所もある。
また、医療現場のひっ迫も大問題で、
救急車が向かう病院、100か所に断られた、
という話もある。
日本中が、天災と疫病で、
それどころではないのである。
そんな時期に、
ほとんど週刊誌のスクープのような、
オペラを聴きこんでいては、
顰蹙を買いそうだが、
明日はどうなるか分からないような世の中、
聴けるものは聴いておく。
路上飲みをして、問題になっている人々も、
同様の言い訳をしていたことを思い出すが。
シーン8:
3分ほどの短いシーンで、ジョニーが、
警察に追われる様子を描く。トラックも
Track13.のみ。
ハイライト盤では省略されていた。
道の交差点。
激しいアタックで弦楽が叫ぶ中、
いかにも逃走シーンである、
緊迫した打楽器、金管楽器が重なる。
弦楽がうねり、木管、金管楽器が警告音で彩る。
ジョニーはヴァイオリン・ケースを抱え、
逃げ回ったせいか、疲れ果てている。
ジョニーは、想像を絶する悪役のはずだが、
妙に、神妙に、郷愁を訴える。
アムステルダムに向かう切符を持っているが、
額を拭くハンカチを出した時に、
落としてしまう。
ジョニーの主題が歌われるが、それは、
驚くべきことに、
フォスターの「スワニー川」のメロディに変容していく。
「アラバマに帰って、スワニー川から離れないようにしよう。」
弦楽が機械的に刻む音楽をバックに、
3人の警官がジョニーを探し回っている。
が、第2の警官がたばこに火をつけ、
マッチを捨てると、そこにジョニーの切符が落ちている。
解説に、「ジョニーは警察に追われて逃げる途中に、
道に列車の切符を落とし、
それは警察に拾われる」とある通り。
「アムステルダムへの切符だ。」
「駅に向かえ」で、幕となる。
シーン9:
駅のプラットフォームのシーンだが、
その舞台を説明したト書がやたら長い。
1928年のウィーン公演時の
舞台写真が載っているが、
下記の要求とは、少し違ったアレンジがされているようだ。
大きなガラスと鉄で覆われた駅、
右手は駅ビルで、「オフィス」と書かれ、
左手はアーチを柱が支え、
傍らに新聞を売るキオスク。
右側の背景には、右側から中央に向かって
橋があって階段と正面玄関。
橋に大きな鉄道シグナルがある自立型のバルコニー。
このバルコニーから、中央の大時計にアクセスできる。
等々、クルシェネクの指示は細かい。
おそらく、最後にジョニーが時計に乗るので、
ここまでの指示が必要だったのだろう。
荷物を持った旅客が下りてくると、
アーチから左に移動、
上に登って右に移動して
橋の影に消えて行くという設定で、
そこには「出口」の看板があるが、
マックスが歌い始めると、
職員にそれも取り外されてしまう。
背景にはサーチライトのようなものが動き回り、
時計は11時40分を指しているという。
Track14.
ばーんと爆発する音楽もやたら賑やかで、
軽妙なものと渦巻くようなものが交錯し、
ずんずんとリズムが刻まれ、
ピアノやトライアングルのようなものも、
にぎやかさを表し、
いかにも往来の激しい現代文明の象徴たる駅。
やがて、コーラスが聞こえてくる。
「楽しみのためでも
仕事のためでも、
列車の旅は時間がかかりすぎる」
などと、妙な歌詞である。
沢山の旅客の気持ちを表現したものであろう。
マックスが
「彼女はどこだ。
もう一度、会いたい」と歌うが、
妙に、アメリカ国歌風の節回し。
ポーターが荷物を持ってくる。
ポーターはキオスクのところに
荷物を置いて右手に上がって行く。
ヴァイオリン・ケースを抱えたジョニーが来て、
時計は11時44分になり、
11時58分のアムステルダム行きが、
53分に来るとメッセージが出る。
一分単位で劇の進行を制御しようとする、
クルシェネクの性格や嗜好に思いを馳せる。
非常に、せっかちな音楽。
ジョニーは、列車に乗ればこっちのもの、
とか言っているが、かなり焦って叫んでいる。
彼は事務所を覗いて後ずさりして、
追手が迫っていることを知る。
そうこうしている間に、
プラットフォームには人が増えて来る。
騒がしい状況下、マックスの歌は、
冴え冴えと響く。
「あなたはどこにいる?」
3人の警官が現れ、
「列車が来る前に捕まえよう」などと言っている。
マックスが、「アメリカへ」と高らかに歌い上げるので、
警官は、怪しみ、「あ、ヴァイオリンだ」などと叫び、
マックスを犯人だと考え、事務所に連れて行かれてしまう。
そこにアニータとそのマネージャーが現れる。
Track16.
じゃんじゃか鳴る音楽に続いて、
ちょこちょこ動く音楽で、
「彼は来ると言っていたわ」とマックスを探し、
マネージャーは「アメリカ行きのビザは取ったのですか」
などと返す。
アニータは、「今や、平和な場所に行くの」
マネージャーは「この契約は100万ドルの価値だ」
とそれぞれの思いを歌う。
「彼は何故居ないの?」と彼らはキオスクに入る。
するとイヴォンヌが「どこに行ったのかしら」と現れ、
駅の事務所やキオスクが重要であった事が分かる。
そこに何と、ダニーロが現れ、
「マックスは警察に連れて行かれたぜ」と、
キオスクから出て来たアニータに詰め寄ると、
イヴォンヌは、状況の深刻さに気付く。
解説に、「駅でジョニーはヴァイオリンを
マックスの荷物に紛れ込ませてしまう。
マックスはアニータを待っている。
彼はアニータの元に戻り、
彼女と一緒に、かつて彼女が仕事をしていたアメリカに渡ろうと思った。
しかし、楽器が見つかって、マックスは捕まってしまう。
成り行きを見守っていたダニーロは、復讐心に燃えて、
マックスを心配して待っているアニータに出来事を伝える。」
と要約された部分。
ちなみに、マネージャーは、
アニータがマックスの事を考えていて
真面目に公演を考えておらず、
きっと変な声を出すだろう、
などと嘆いている。
すると、駅員が
「あと五分でアムステルダム行きが来ます」
と告げる。
Track16.
列車の到着を告げるベルだろうか。
けたたましい音楽の中、
アニータ、イヴォンヌ、ダニーロ、マネージャーの
四重唱で、それぞれの思いを歌い上げる。
アニータは、どうやって助けよう、
イヴォンヌは、マックスは捕まったが、
ジョニーは安全だ。しかし、それでいいのか、
と最も、複雑な状況。
ダニーロは、復讐だ、と言い、
マネージャーは、この列車を逃してはならない、と。
アニータはイヴォンヌに警察に行って頂戴と言い、
イヴォンヌがためらっていると、
ダニーロが邪魔しようとする。
鉄道員が「列車が通過します」とアナウンスすると、
低く無情な音の塊が近づいて来る様子が描写される。
イヴォンヌが、意を決して、行動に移した瞬間、
ダニーロは「やめろ、やめろ」と叫ぶ。
無機質な音響がずんずん近づいて来る。
ト書にも、
「橋の下に、列車の二つの光が近づいて来る」とある。
その時、イヴォンヌが階段の方に行こうとするのを、
ダニーロは阻もうとして、彼女が避けるので、
プラットフォームの端っこでのもみ合いになる。
「行かせて」とイヴォンヌ、
車掌が、「要注意」と叫ぶと、
列車の光はプラットフォームに近づき、
もみ合っていた男の方は、
近づいて来た列車に轢かれてしまう。
加速する、じゃんがじゃんがに、
ばーんと鳴ると、旅客の叫び。
恐ろしい描写の音楽の後で、
静まり返る闇。
解説に、
「イヴォンヌが、警察にマックスの潔白を
伝えようとしている間に、
ダニーロは、到着する列車にひかれてしまう」とあったシーン。
これだけでは、よく分からなかったが、
ト書なども読むと、イヴォンヌがある程度、
手を下した感じと分かる。
カーテンが下りるが、
シーン10.に移っている。
このシーンは、スペクタクルによって、
「ルパン三世」並みのスリルが味わえる
極めて斬新な効果に満ちて、
漫画的な筋なども含め、
当時の実験的な映画などが、
影響を与えているのかもしれない。
カーテンや光を、
有効利用している点からしてそうだ。
幕(カーテン)の前に明かりが点き、
駅の前に止まっているパトカーの中の様子。
警官の制服を着た運転手が眠っている。
Track17.
先の静寂を打ち破る、乾いたドラムスのサウンド。
もちろん、ジョニーが登場するためには、
しみったれた雰囲気はぶち壊す必要がある。
とぼけたファゴットの音に乗って、
ジョニーは、まだ、「ヴァイオリンは諦めない」
などと歌っている。
そこにイヴォンヌが来るが、
まったく、人が死んだ後とは思えない。
音楽はたちまち、洒落た気配を帯び、
「マックスを助けて」と頼む。
ジョニーは、ヴァイオリンもマックスも
助けるには、と考える。
そして彼が、あたりを見回すと、
音楽も迷宮をさまようような趣きとなる。
彼はパトカーの運転手を殴り倒し、
その制服や帽子を奪い取ってしまう。
恐るべき悪党である。
解説に、
「警察署の外で、イヴォンヌは、
再びあのヴァイオリンを手に入れようと
機会をうかがうジョニーに出くわす。
彼は、マックスを自由にするからと約束し、
マックスを取り調べると言って、
パトカーに乗り込む」とあったが、
「警察署の前」ではなく、駅の前だと思う。
呑気なリズムに乗って、
第2、第3の警官がマックスを連れて来る。
第3の警官はヴァイオリンを抱えている。
「ヴァイオリンは取り返したが、
ヴァイオリン弾きは死んでしまった」
などと神妙である。
また、「オペラの女と口論してな、
彼女は恋人を待ってたのに、無駄だった。
アメリカ行きの列車は、あと5分で出るってよ」
などと、状況を全部、報告してくれる。
マックスは、彼らの話を聞きながら、
「何」、「ああ」とか言っているが、
ヴィオラだかチェロだかの独奏が、
物憂いモノローグのようなメロディを奏でる。
それを吹き飛ばすドラムの響き。
パトカーが走り出すと、
ネオンの光が明滅して、
車の中の一人一人の顔が照らされる。
様々な楽器が錯綜して、落ち着きのない伴奏。
マックスは、そうした状況であるせいか、
独り長いアリアを歌う。
「この過程で、マックスは、
自分は自身の運命をコントロールしたりせず、
自分に起こる人生を受け入れて来たために、
こうした事全てが起こってしまったということに気付く」
と難しい解説があった部分。
「私は、今まで何もしてこなかった。
人生は私のためにそこにある。
いつも自分の事を棚にあげて、
他の人に文句を言っていた。
真実の時は来た。」
音楽は、さまよう警告音から盛り上がり、
一瞬、壮大さを増すが、その都度、
小太鼓やラッパで茶化され、
最後は怒涛のように崩れる。
ほとんど爆発音にも聴こえ、
アニメの効果などは、
すでにこの時代に確立されていた、
というような実感が湧く。
マックスは決意したのだ。
「私を人生に導く列車に乗らなければ。
運転手、駅に向かえ。」
余韻のようにジャズのリズムが聞こえてくる。
解説には、「今、遂に彼は、駅に戻ろうと決心をする。
ジョニーは彼を捕まえようとする警官をやっつけてしまう」
とあるが、何と、ト書きには、
ジョニーは車を駅に走らせ、隣の警官を突き落とし、
隣にマックスを乗せ、後ろの警官を殴り倒す、
などと書いてある。
しかも、ヘッドライトは、聴衆の方を向いて、
目くらましまで食らわせるという趣向。
こんな演出効果まで見せられたとなれば、
100年前の聴衆は、大興奮したことであろう。
シーン11.
降りていたカーテンがゆっくりと上がると、
前のシーンのプラットフォームが現れる。
赤いテールランプの最後尾車両も見える。
11時58分発アムステルダム行き。
アニータは窓を開けてプラットフォームを眺め、
駅員は時計を見ている。
あと、数秒で11時58分になる、
という頃。
Track18.
静かな時計の刻みを思わせる、
どきどきするような音楽。
管楽器が小ばかにしたような響きから、
メロディに発展し、収まると、
ちりちりと、あちこちから時計のベルが鳴る。
かなりけたたましく、
この長雨の警戒警報と重なるような
耳をつんざく感じである。
アニータ、イヴォンヌ、マネージャーの不安げな合唱。
「もう少しで発車だわ。苦痛の時。彼は来るかしら。」
「発車」と駅員が叫ぶと、
マックスがホームに駆け下りてくる。
アニータとマックスの、
「ああ、ああ」とだけ言うやり取りから、
じゃんじゃか音楽が景気よく鳴るが、
フレクサトーンも聞こえ、
やがて、この曲の最も有名なメロディが立ち現れる。
どうやら、マックスは列車に飛び乗り、
列車は走り去ったようだ。
ジョニーが階段上に現れ、
ヴァイオリンを手にして、
スイングする。
橋に架かっていた覆いが消え、
カラフルなスポットライトを浴びて、
多くの人がダンスを始める。
時計にジョニーはよじ登り、
ゆっくりと一緒に降りて来る。
合唱は、「古い時代の時が来て、
新しい時代に手が届く。
繋がりを見失うな。
自由な未知の国への旅が始まるぞ。」
ジョニーが乗った時計は輝く地球となって、
北極点に立ったジョニーは演奏を始める。
このCD解説にある写真が、
そのまま参考になる。
この時、ジョニーを歌った、
ルートヴィヒ・ホフマン
(Ludwig Hoffmann)
German bass (1895-1963)
で検索すると、ちょうど、
彼が歌ったジョニーの
古い録音がYouTubeに
アップされている。
解説に、「ついに、マックスは
アニータと一緒になるために、列車に飛び乗る。
彼の能動的な行動で彼女を取り戻す。
ジョニーは背後に立ち、
今や、地球に変わった駅の時計の上で、
遂に手に入れたヴァイオリンでダンスの音楽を弾き始める」とある。
盛り上がった音楽に、
パトカーのサイレンが被ってくるという、
恐るべき凝りよう。
フレクサトーンの戯画的な音色が、
完全に、権威を失墜させている。
第1と第3の警官は悲劇と喜劇のシンボルを担って現れ、
アニータとマックスとマネージャーが右から、
イヴォンヌ、ダニーロ、ホテル支配人が左から現れる、
と解説にある。
ダニーロまで生き返って出て来るわけだ。
Track19.
この人たちが、そろってジョニーを讃えるという、
訳の分からない勝利の賛歌から、
一転して静かになり、
ヴァイオリンの独奏でジョニーが現れ、
つっけんどんに幕となる。
得られた事:「駅のシーンではクルシェネクの才気が総動員されている。単に、ジャズ・オペラとひとくくりにされることを拒絶する魅力満載。舞台に展開されたプラットフォームから見えるものすべてに配慮があり、まずは、分単位での時間進行を早め、大詰めの列車の発車シーンでは秒単位の進行となって緊迫感を高めるなど、縦横無尽の音楽が響き、合唱とダンス、クルシェネクの細部に拘る性向を改めて認識させられる。」
「ジョニーはパトカーの運転手に変装、次々に警官をノックアウトして、捕まったマックスに、人生の価値を気づかせるとともに、欲しかったヴァイオリンも手にしてしまう。まさに『ルパン三世』並みの活動劇。パトカーを運転する時のネオンやヘッドライト、ダンスシーンを彩るスポットライトと、煌びやかな都会を自在に飛び回る悪漢。最後は、警官までがそんなジョニーを賛美する音楽となって幕切れ。これは、見世物としては、当然、大うけに受けただろう。充実した音楽の効果は素晴らしいが、仕えている対象からして、まさしく、とんでもない退廃音楽と言って良い。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その472
http://shubert.exblog.jp/30637665/
2021-08-15T11:20:00+09:00
2021-08-15T11:20:50+09:00
2021-08-15T11:20:50+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
クルシェネク作曲
「ジョニーは演奏する」
(あるいは、「演奏し始める」)
というオペラの
1927年の
公演時パンフレットは、
こうしたもの。
中央に時計、
下方に蒸気機関車、
上方と左右に女性、
左に警官が見つめる先に、
男が上を見上げている。
極めてお下劣なコラージュである。
警官の背後は山塊であろうか。
氷河のシーンは後半の見どころだが、
それを暗示したものか。
この曲の全曲盤CDの前半を、
東京オリンピック2020が、
始まる前くらいに聴いて、
その間、水泳、卓球、ソフトボール、野球など、
自由が利く時間帯だったものは
テレビでそこそこ観戦させてもらった。
ありがたいことに東京が脚光を浴び、
コロナの影響で様々な意見で世の中が再認識される中、
ホテルや交通機関の「感染対策」の話題があれば、
「息も詰まりそうな報道陣の監視体制」など、
相反するような苦情も海外メディアから出ている。
海外からの批評は辛らつで、
「開会式のまとまりのなさ」から、
「夏の東京の殺人的な暑さ」を経て、
「日本のマスコミの閉鎖性」に至るまで、
改めて、目の前の状況を再認識させてもらえる機会となった。
日本人もずっと前から論じていた、
東京の暑さを、今頃論じてもらっても、
という気がする一方で、
再度、地球温暖化の問題が把握されるきっかけにでも、
なれば、それで良いような気もする。
ただ、初めて日本に来て、期待を裏切られて帰国した、
選手やオリンピック運営関係者、報道陣などがいたとしたら、
釈明する機会があれば、などとも思う。
一方で、新たに登場した新種目では、
日本の若手が強烈なアピールをしてくれたので、
アニメやマンガに続く、
新しい日本の概念が現れる可能性もある。
こうした発信力によって、
我々は、次の世界を模索することが出来るだろう。
クルシェネクが、このオペラを作曲した時、
これまでも見て来たように、
氷河にまで音響が届いて来るラウド・スピーカーや、
ジャズのリズムの新しさなど、
アメリカという新世界の持つ魔力を象徴する小道具が、
使われていたが、
第1部最後は、
ヒロインである、歌手のアニータに、
アメリカ公演のチャンスが巡って来る、
という流れになっている。
では、第2部(CD2)を聴いて行こう。
第1部の前半が、主人公マックスとアニータとの出会い、
(後半に、ジョニーが出てきて大騒ぎになる)
であったように、
第2部も前半は、マックスとアニータを中心とした場面。
このマックスは、ヨーロッパの伝統を背負った、
くそ真面目な作曲家であるため、
そうしたものからの自由も求めるアニータとのやり取りは、
あまりぱっとした感じがない。
第2部
シーン5.「マックスは虚しく一晩中、アニータを待っていた」
と解説にある部分はトラック2つに収められている。
このシーンは、マックスの描写には重要かもしれないが、
単なるモノローグにも見え、
ホルライザー指揮のハイライト盤では、完全にカットされていた。
全曲盤ならではというシーンともいえる。
ト書には、「シーン2と同様、アニータの家の部屋、夕方」とある。
Track1.
空虚な金管と、暗くうごめく弦楽が、
マックスの心境を描き出す。
弦楽の刻みは、暴力的ですらある。
マックスは電報を手に持っている。
アニータは帰る、と連絡しながら、
結局、パリで一夜を過ごしてしまったから、
帰って来るはずがないのに、
「荷物を取るのに5分、車で12分」
と、分単位で計算して待っている。
ちなみに電報は、モールス信号で知られる
モールスが1844年に最初に行った、とされ、
日本も1872年には欧州とつながった、とあるから、
それから半世紀以上、経過したクルシェネクの時代には、
別に文明の象徴でもなかっただろうが、
モールスはアメリカ人であるし、
あまり、ロマンティックな小道具ではないだろう。
いたずらに時間が過ぎるのを待つのは、
「蝶々夫人」でもあったドラマであるが、
もちろん、電報でピンカートンの帰りを待ったのでもないし、
マックスのように、いらいらして騒いだわけでもなかった。
この男は、もう少し、頭を冷やせ、
などと、自問自答し、深呼吸もしている。
そうしているうちに、
手配していた花屋から、
花束が届くが、
ここはかわいらしい音形が並べられる。
店員の女性とやらは、
発言することなく去る。
マックスは、「花が来た。彼女は薔薇が好き」
「ピアノに蘭を、百合はテーブルに」
と、アニータが喜ぶ様子を想像して喜ぶ。
しかし、時計を見てびくっとし、
「10時41分、あれは車だろうか」などと、
窓辺に行ったり、耳を澄ませたり、忙しい。
このあたりになると、
音楽は、低い音で、這いずり回るような様相。
時に金管が騒ぎ、ピッチカートが、
心臓の高鳴りを表現する。
緊迫感を増す音楽の中、彼は電話を手にし、
駅に列車の運行を確認する。
「一時間前に到着した?」と叫び、
「アニータ、アニータ」と叫びつつ、
「なぜ帰らない、君を幸せにしなかったのか」
などと、どす黒い感情を音楽も引きずる。
Track2.
彼は、待ちくたびれて、作曲の仕事に取り掛かるが、
全然、集中できず、ドアを見ては、
耳を澄ませ、あの氷河での出会いにまで、
彼女への思いが巡る。
音楽は、何か、旋回するような趣き。
解説のあらすじに、
「彼は、氷河の上で感じた安定を失ったことを認めた。
彼の凍った心は、アニータによって暖められた。
彼は生きているということが何かを知り、同時に苦しみも知った。」
と書かれた部分であろう。
「私の心は、君の手の中に」と歌い上げるが、
彼は、肘掛椅子に座り込み、
「待つべきだ、花は枯れて行く」
とつぶやき、シガレットに火をつける。
舞台は暗くなり、その火だけが見えている。
音楽もたばこの煙が消えて行くような感じ。
CD2のTrack3.
シーン6.である。
このあたりも、ハイライト盤では、
カットしたくなる、いくぶん、重たい部分。
解説のあらすじに、
「夢の中で、彼女が戻って来ることを再び確信した。」
とある部分。
ト書に、前と同じセットで、
窓から、朝のほの暗い明かりが見える、とある。
音楽は、最初は、不鮮明ながら、
このオペラの冒頭の氷河のシーンを特徴づけた動機が、
ティンパニで湧き上がって来るあたり、
それに気づくと、少し痺れられるだろう。
そして、ようやく希望の兆しが見えるような柔らかさで、
マックスは、
「眠ってしまったが、嬉しい夢を見た」
と、歌い始める。
音楽はイギリス田園楽派さながらに、
牧歌的な和声を響かせ、少しずつ力も増し、
彼の歌も、「私の頭上に星が輝き、
月が銀色の声で歌う」などと、
いささか抽象的な夢の内容となる。
「そして、ドアがさっと開き、彼女はそこに」
と言うと、彼女が現れており、
マックスはその場に固まったまま、
彼女を見つめる。
CD2のTrack4.
「彼女が遂に戻った時、彼らは互いの違いについて語り合った。」
とある部分。
「かえってきたわ、また、幸せになるのよ」
などという、彼女の声は、
半音くらい高い感じの、
浮ついた感じ、あるいは虚ろな感じで、
マックスの渋い声と調和しないというのも、
この演奏、あるいはクルシェネクの音楽も、
さすがだ。
いったい、どうやって歌っているんだ?
と、ト書きを見ると、
「彼女はマックスを見ないようにして、
行ったり来たりして、コートを脱ぎ、
背中にかけて来たバンジョーをピアノに乗せる」
とあり、
「素晴らしい成功だったわ」
「どこと契約できたと思う?アメリカよ」
と歌われる部分も相まって、
上っ面な感じ。マックスとは違う性格として描かれている。
当然、マックスは「遅かったね」と聞くし、
アニータは、「あなたが言うのはそれだけ?」
などと答えるし、かなりひりひりする。
どろどろと、氷河の音形が盛り上がる。
アニータにはマックスが重すぎる。
マックスは、君を楽しませようとすると、
必ず、うまくいかない、などと言う。
Track5.
ここでは、アニータが、妙に深い声になり、
「あなたは人生の目的ばかり考えている。
あなたが恐れているものに向かって、
向かっていけば、怖いものなしなのに」などと、
たっぷりと慰めるようなアリアを歌うが、
マックスの入れる合の手は、
「どうしてそんなことが分かる」
「僕は一人ではいられないんだ」と、
いくぶん、ぎすぎすしている。
アニータが、「氷河では一人でいたじゃない」
と歌う時、このオペラの冒頭の氷河の動機が頭をもたげる。
ここでは、マックスは、「海なんか嫌いだ、
形もなく、強さもない」などと言ったり、
「氷河でこそ強くなれる」と言ったりする中、
アニータは、あなたは氷河のように頑なだけど、
強くはないのよ。支えがなければ、ひびが入る、
と答えている。
アニータは躊躇しつつ、
ぴょこぴょこしたリズムで、
ハスキー気味な声で、
「あなたが分かろうとする世界は動いているの。」
と歌い始めるが、これはやがて、
かなりロマンティックな雰囲気となって、
「人生の真っ只中にいること、それがすべて。
常に自分らしくあり、常に充実した生活を送ること」
と、自分らしく生きることを勧める。
解説のあらすじに、
「この動乱の世界は、形のない海原のような異界であるが、
彼は、いつも変わる事のない、
帰って行くことのできる氷河を愛している。
しかし、アニータにとって、
それは不変のものなどではなく、単なる麻痺状態で、
人生と幸福は、活動の中にあって、
マックスは、そうした安定を
他の者(彼女)には求めたりはせず、
彼自身の中に見出すべきだと言う。」
と書かれた部分で、かなり、この二人の関係に、
突っ込みを入れた部分になっている。
しかし、そのシリアスな部分は、
イヴォンヌが荷物を運びこんで来た事で中断され、
アニータは、パリから連れて来たメイドだと紹介する。
また、アニータは、
「旅で疲れたわ。すべてまたうまく行くわ」
と、部屋から出て行く。
マックスは、「うまく行くだって?」
「彼女は花にすら気づかなかったでないか」
などと、再び、ふさぎ込む。
Track6.
先ほど、イヴォンヌが入って来た時と同様の、
スキップするような楽しいリズムの音楽が始まり、
イヴォンヌが再び入って来て、
得意げに、マックスに話かけるが、
彼はなかなか気づかない。
彼女は、ややこしいことに、
ダニーロに頼まれた、指輪を、
マックスに渡したいのである。
イヴォンヌの説明は、
「新しいご主人と同様、あるホテルにいて、
マネージャーと喧嘩して失敗したの」
などと言っているので、
マックスは、しばらくは、相手にしていない感じだが、
結局、「なぜ、昨夜、彼女は戻らなかったのだ」
と、核心に迫る質問をする。
ここで、音楽はワルツのように、
イヴォンヌらしいお茶目な雰囲気で進むのは、
イヴォンヌが、それをはぐらかそうと、
「ハンサムなヴァイオリニストがいて、
ダニーロというの」とか、
「ヴァイオリンが盗まれた」とか、
思いつくままを口に出すからで、
マックスはだんだんイライラしてくる。
イヴォンヌは、訳も分からず、
「ダニーロから、あなたに指輪を預かったわ」
と手渡し、「これは賭けだとか」などと言ってしまう。
マックスは、ようやくすべてを理解する。
音楽は、先ほどの楽しいものから一転、
シェーンベルクさながらの激しい無調となって、
「アニータの指輪だ。
ダニーロからと言ったね。
隣の部屋だって。」
と絶叫する。
ハイライト盤では、この指輪を巡ってのあたりを中心に、
全曲盤CD2のTrack6までが、
3分程度に切り貼りされていた。
全曲盤では、30分近く経過している。
「賭けだって、勝ったのか、負けたのか。
彼女が遅くなった理由が分かった。
これが言いたかったことだな。
十分わかったぞ」と叫んだところで、
銅鑼が一発入って、
「氷河に行くぞ」とマックスは走り出て行く。
解説には、
「ダニーロによって、予期もしない復讐の道具にされたイヴォンヌは、
マックスにアニータの指輪を渡す。
彼は、どのようにダニーロの手に落ちたかに思いを馳せ、氷河に向かう。」
とあったが、このシーンはこれだけではない。
Track7.
イヴォンヌは訳が分からず、
「この国の人間は、みな変だわ」などとつぶやき、
指輪を検分しているが、
窓から、このオペラの題名にもある、
神出鬼没のジョニーが入って来る。
音楽もクラリネットとチェロの独奏が、
うねうねと抜き足差し足風で、
怪しさがよく出ている。
「よし、やっと来た。
なんという旅だったか。
車を見失うところだったが、
もう安全だ。さて、ヴァイオリンを拝借しよう」
などと、完全に悪まる出しである。
イヴォンヌに気づき、
イヴォンヌも、「ジョニー」と小さく叫び、
二人の会話を中心に、
元の恋人同士の楽しい音楽が、
ここでも再現され、広がって行く。
明かに、マックスとアニータの、
しみったれた世界とは
異質なものである。
音楽は楽し気に変転するので、
筋もどんどん進行する。
ダニーロはどうしたとか、
その指輪は何だとか、
やりとりしているうちに、
仲直りのように、ジョニーの音形が、
現れてきたりする。
そして、「ヴァイオリンはここさ」と、
ピアノの上のバンジョーのケースから、
取り出して見せる。
これは、前半の終わりに、
ジョニーが、こっそり、ダニーロの名器を、
偲ばせておく、というトリックの結論となっている。
Track8.
ここでは、激しいリズムで、
ヴァイオリンを手にした(盗みおおせた)
ジョニーの喜びに、
つられたイヴォンヌのはしゃぎようと、
アメリカ国歌風に荘重に歌われるジョニーの
勝ち誇った歌
「すべて価値あるものは俺様のもの。
旧世界が作ったものだが、奴らには使い方がわかっていない」
が中心となって盛り上がって行く。
ある意味、このオペラの中心主題のようなものである。
ジョニーは窓から消えてしまう。
アニータが、何かあったの、
と飛び込んでくると、
イヴォンヌは、呑気に、
指輪を見せて、ダニーロがマックスに渡せって、
などと言うので、
アニータは絶望の淵に沈んでいく。
この部分の音楽が、入魂の充実を示し、
聴きごたえがある事は、
ハイライト盤を聴いた時にも特筆した。
ハイライト盤でも、
ジョニーの登場と、
イヴォンヌのやり取りから、
アニータが指輪についての経緯に気づく
Track8.の終わりまでは、
そこそこ収録されていたのである。
Track9.
シーン1と同様の氷河のシーン。
夜の設定なので、すぐに何も見えなくなるようだが、
ホテルのテラスの一部が張り出し、その間口がある。
マックスはそのあたりから現れ、
「ここだ。彼女がホテルを探して迷っていた場所は。
しかし、あの時は真昼であったのに、
夜になってしまった」と、
アニータとの遭遇によって、
登山を諦めた事を思い出す。
忍び足で現れた様子がよく分かる、
不安げな音楽だが、
いかにも、惚けた金管楽器の音色、
弦と木管が、ちゃかすような音楽を奏でて、
戯画的な主人公の言動を彩る。
今度は、「助けてくれ、氷河よ。
帰って来たぞ、何か言ってくれ」
などと叫ぶ中、
いったん、音楽は鎮まる。
Track10.
すると、氷河は不思議な微光を放ち、
「誰が呼ぶのか」と女声合唱が聞こえて来る。
「人生に拒絶されたものは、
家に帰りたい」とマックスが言うと、
氷河の声は、神秘的な合唱となって広がり、
「何があなたの安らぎを妨げるのか、
氷河の無限は痛みもなく喜びもない
天上から地上への旅なのだ」
と答えるので、
マックスは「連れて行ってくれ」とせがむが、
氷河の答えは、明快である。
「生きる事、苦しむ事こそ、人間の務め」
と、無邪気な清純さである。
マックスが「無限の中に溶けていきたい」と言うと、
今度は、合唱もいら立つような震えで、
「人は死すべきもの。割り当てられた空間を満たすのです」
と、結構、感動的な忠告を行う。
解説には、「絶望したマックスは、
苦悩の末、氷河に身を投げようとする。
しかし、永遠の氷河は、
いずれ死すべき存在であるマックスに応える。
恐れて尻込みすることなく、
割り当てられた場所で生きるべきであると」
と書かれたシーン。
マックスが身を投げようとすると、
氷河は「立ち去りなさい」と答え、
「恐れることなく、生きる事に戻りなさい」
と言いながら消えて行く。
マックスが岩の上に座り込むと、
ホテルのテラスが明るくなり、
いくつかのテーブルに座っている客が浮かび上がる。
このあたりの絵画的にも幻想的なシーンは、
ハイライト盤ではすっかり省略されていた。
Track11.
氷河の合唱が闇に消えて行くに連れ、
今度は、スピーカーから、アニータの声が聞こえて来る。
「海辺に一日、立ち尽くしていた時」
という歌詞は、シーン2でアニータがピアノの前で歌った、
マックスの歌である。
マックスは、やがて、それがアニータの声であると気づく。
解説のあらすじに、
「近くの山のホテルの拡声スピーカーから、
アニータがマックスが作った歌を歌うのが聴こえて来た時、
彼は、降りて彼女のところに戻ろうと強く感じる」
とある部分。
が、マックスがどうなったか分からないまま、
劇は、ホテルでの騒動へと進んでいく。
ホテルの客たちも、
「あの声を聴いてごらん。
単純だが神々しい。
彼女がモダンな音楽が好きなのは残念だな。
しかし、彼女がそれを手掛けると、
本当の音楽のように聴こえるね」
などと言っているが、
これは意味深の言葉で、どう考えてよいのか。
とにかく、モダンな音楽は、
本当の音楽ではない、という考えはあったのだろう。
が、アニータが歌っている歌は、
そんなにモダンにも思えない。
やがて、スピーカーからは、唐突に、
ジャズを放送するというアナウンスが入る。
そして、楽しいバンドの音楽が、
さきほどまでのしみったれたシーンの余韻を一掃する。
Track12.
激しいヴァイオリンの音色を伴う音楽で、
客たちは喜び、だんだん、身を揺らし、
やがて、踊り始める。
ホテルから、テラスにホテルの支配人が出て来る。
客たちは、大喜びで、
「ジョニーのジャズバンドだ」と言うが、
支配人は、
「氷河を見ていても詰まらないですから、
音楽で気を紛らわせてください」
などと言う。
客は、「あの見事なジョニーをご存じですか」
というと、
支配人は、「ますます、腕を上げてますね」
などと通ぶっていると、
何と、いささか惨めに見えるダニーロが、
両手に女性を連れて入って来る。
「それからジョニーのジャズバンド音楽がラジオから聴こえ、
ゲストとして居残っていたダニーロは、
彼の盗まれたヴァイオリンの音色に気づく。
彼は警察に通報する。」
と解説にあるが、
スピーカーからの音楽はしばらく途切れており、
支配人はダニーロにお世辞を言ったり、
ダニーロは、ヴァイオリンがなくて仕事にならん
と言っていたりする。
この間の音楽は、低音がうごめく中、
様々な楽器がちょっと出ては消えるような感じなので、
いきなり、フレクサトーンの軽妙な音色が始まる効果は、
素晴らしい。
スピーカーから再び音楽が始まり、
ダニーロは、その音に気付く。
「一音、聴いただけで、あのアマティだと分かる」
とダニーロは言い、
支配人を連れて、警察に知らせるのだ、
と足早に立ち去る。
得られた事:「クルシェネクのオペラ、『ジョニーは演奏する』の第2部の前半は、主人公である作曲家マックスが、愛するアニータの帰宅を待ち、帰って来たと思ったら、やはり、彼女との間に隙間を見つけざるを得ない展開が辛い部分。この作品は、アルプスに広がる氷河が重要な背景となるが、マックスが好きな氷河の持つ、がっしりとした造形は、アニータによって、否定されてしまう。彼女にとって、世界は変転するものだからである。」
「そうした二人の難しいやり取りを根本から揺るがすように、悪党、ジョニーが現れ、かつての恋人、イヴォンヌと楽しい掛け合いをしたかと思うや、さっさと、ヴァイオリンを盗んで消えてしまう。『この世の価値あるものは、すべて俺様のもの』とアメリカ国歌風に歌い上げる点が、今だ、君主制の名残が濃厚であった当時は爽快だったのだろう。」
「前半、冒頭の氷河の主題、前半シーン2でアニータが歌った歌が、うまい具合に後半の冒頭から繰り返されて、見事な効果を上げている。しかも、それぞれが、人間を拒絶しながらアドバイスをしてくれる自然の主題、生きる喜びに立ち帰る生きる事の主題のように扱われ、現代の長編アニメ映画にしても感動してしまいそうな効果を上げている。主人公マックスは、このシーン7にて、神秘的な氷河の声を聴いて、再び歩き出すのである。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その471
http://shubert.exblog.jp/30624815/
2021-08-01T19:52:00+09:00
2021-08-01T19:52:03+09:00
2021-08-01T19:52:03+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
クルシェネク
作品を代表する
オペラ、
「ジョニーは演奏する」
の続きを、
ここに、
何とか
書く
機会を得た。
職域接種は弾切れになって、
今だ、ワクチンを受けておらず、
何時、どうなっても
おかしくない状況だが、
オリンピックのおかげで、
ずれた休日に時間が出来た。
開催国の特権であろうか、
開催前に始まっている予選の
男子女子のサッカーはそれぞれ、
ちょうどよい時間帯に楽しんだ。
ソフトボールも調子が良いと聞くと、
うれしくなってしまう。
そして、遂に東京オリンピックの開催日になった。
コロナの感染者は増えるばかりで、
外国から来る選手たちも
検査をすると陽性だったりする。
こんな状況下でありながら、何だか悲壮感がないのは、
オリンピックのおかげで4連休となって、
日本中が夏休みになったためだろうか。
空港や高速は混雑しているという。
緊急事態という言葉までが、
よく分からなくなっている。
こんな風に、いろんな歴史上の事件は、
多くの人が、おかしいと思っている中で、
止まることなく連鎖の中で起こってしまうのであろう。
長雨で山が崩れようが、
猛暑で死者が出ようが、
不思議な祭典は開催される。
どういう経緯だかもわからないのだが、
呪いのように、直前になって不祥事が明らかになる。
それも次々に。
これまでもボイコットとか、
様々な事件がオリンピックにはあり得たが、
今回のイベントは、それと何か異なる、
強烈な逆風が感じられ、その風が吹く度に、
馬脚が明らかになる感じだろうか。
馬脚が現れ、それが、新しい時代に繋がるのであれば、
この満身創痍の極東の地でこそ、
問い直されば良かろう。
改めて、オリンピック精神というものを
調べてみると、
「スポーツを通して心身を向上させ、
文化・国籍などさまざまな違いを乗り越え、
友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、
平和でよりよい世界の実現に貢献すること」
とある。
必ずしもスポーツをする人ばかりではないし、
平和でよりよい世界にするには、
感染拡大防止が最優先じゃないの、
という意見があってもおかしくはない。
しかし、これを契機に、
こうした事が再認識され、
今後に生かされるなら、
コロナ禍における無観客開催にも意味はあるのだろう。
「こうした事」というのは、
民主主義的に個人の裁量は認められる中、
その裁量の背景にある
理性と、それに反する欲望のバランスが、
世情としては、理性に反するような方向に、
追い風が吹いている中、
個々人の判断は、はたして全体の解決に導かるか、
という事になろうか。
夏休みの交通混雑と、
絶叫されるコロナ感染拡大と、
予選で繰り広げられる好プレーと、
何か、違和感だらけのモニュメントのような開催式が、
何故、同時に共存できるのか。
これは、後世の歴史では、どのように語られる事になるのであろうか。
テレビの中継では、
集まらなくてもよいところに
押し寄せた人が、
競技はTVで応援します、と言っていたり、
緊急事態宣言下の街中に買い物に来た人が、
オリンピック反対と言っていたり、
そこにありありと見える「矛盾」が、
「矛盾として認識されるかどうか」は、
個人ごとに適当に決めてよいものらしい、
などと、改めて気づいたりもする。
自分も例外でなく、
人間はそうやって生きているのだろう。
それがあぶり出され、
みんながそれを確認できる状況下にいる。
ただし、すべてが矛盾だらけ、などということは、
昔からあった事のはずで、クルシェネクの作品なども、
その最たるものと言ってもよかろう。
クルシェネクがオペラのために、
自ら作り上げた物語は実に馬鹿げている。
しかし、作曲家は、そこは、
作品の本質ではない、と言っている。
とはいうものの、作曲家の主張を鵜呑みにすれば、
この作品はヒットしなかったはず。
一方で、作曲家自身も、
これを発表した時、この作品で、
自分の立場を表明したかったとも思えない。
むしろ、単純に一山当てたかっただけのように見える。
今回の五輪スキャンダルで、
ユダヤ人の問題があったが、
この作品も黒人への偏見は濃厚だ。
作者がそうだったかはわからないが、
それを含めて、事実、このオペラは受け入れられた。
ただ、これは「退廃音楽」である、
と決めつけたのはナチスであったりする。
ということで、
もう30年も昔になってしまったが、
「退廃音楽シリーズ」の録音で、
沢山の禁断の音楽を指揮して録音してくれた、
ローター・ツァグロセク(Lothar Zagrosek)の指揮による
全曲盤2CDを通して聴いてみよう。
CD1には、第1部が収録されていて、
シーン1からシーン4からなる。
全部通して、56分である。
あらすじ
第1部
シーン1.「高山の氷河の縁にあって、作曲家のマックスが、
登山をしようとすると、偶然、道に迷い、
氷河の荒々しさと凍り付いた孤独に怯えていた歌手のアニータと出会う。」
Track1.
ト書には、氷河の上の岩だらけの台地で、
真ん中に岩があって、両サイドからは見えなくなっている。
左が下り、右が平らになっていて、
氷河が広がっているのが見渡せる。
前部のゴツゴツした氷の塊が、
後部の雪の巨大な広がりに溶け込んでいて
背景は高山に囲まれている。
明るい正午の光とある。
音楽は、こうした荒涼、無慈悲ともいえる
風景を表す荘厳な音楽と、
その前で右往左往する小さな人間を表す、
いかにも落ち着きのない音楽が組み合わせれて始まる。
そこから、山々を賛美する主人公マックスの歌が始まる。
アニータ登場の序奏は、Track2.で、
おびえたような声。
「彼女は、ホテルに、
そして誰かの元に連れ帰って欲しいと乞い願う。」
この音楽は、完全にナイトクラブ風の音楽で、
雄大な山々も氷河もあったものではない。
つまり、マックスの自然賛美とは、
冒頭から、相いれない女性登場である。
が、マックスは、彼女の顔を見たことがある、
また、彼女も、彼が、
自分が歌った歌の作曲家であることを認識する。
「彼はそうすることを約束するが、
彼はまたいつか、自分の好きな氷河のところに行きたいと願う。
それは、彼にとって、自然の象徴を表すものだった。」
後奏曲のようなジャズ風の音楽があるが、
マックスの自然賛美などは、
都会の喧騒にかき消されてしまうという象徴か。
シーン2.ト書には、
アニータの家の部屋とある。
月桂樹の飾りのカーテンで仕切られ、
グランドピアノ、その上にバンジョーが乗っていて、
スーツケースが傍らにあると書かれている。
「二人は恋に落ち、
マックスはアニータにいつも隣にいて欲しいと思うが、
彼女は時々、それを息苦しく思う。」
と解説にあるが、
Track3.では、
マックスの腕の中にアニータとある。
「君からはいろいろと教わった」
「あなたはどんどん成長しているわ」
などという、面白くもない会話からして、
彼らはいくぶん、倦怠期にあるのか、
それほどハッピーではなさそうだ。
「口論の後の仲直りの時に、
彼は、彼女に素晴らしいプレゼントを渡す。
それは彼の新作オペラの原稿であった。」
アニータのしぐさには、
「少し、驚いて」、とあり、
台詞は「Es ist zuviel (It is too much)」と来る。
クルシェネクは、このオペラを書くまでに、
こうした現場に何度か立ち会ったはずだ。
このオペラを書き始める、
1925年8月までに、
まず、マーラーの娘、アンナとの破局があったが、
1923年に作曲した大交響曲(第2番)は、
このアンナに捧げられている。
続いて、アンナとの緊張関係から逃避するように、
アルマ・モーディというヴァイオリニストに
クルシェネクは熱を上げ、
1924年の秋から1925年の初めにかけ、
これまた大作となった、
無伴奏ヴァイオリン・ソナタを書き上げ、
このヴァイオリニストに原稿を渡したが、
それが演奏されることはなかったようである。
かなり、脱線したが、
こんな事を想起すると、
このような、いささか軽薄なオペラの台本にも、
自己投影をしている点が、
さすが、クルシェネクという感じがしないでもない。
オペラに戻ると、アニータは、
そんな事(新作オペラがどうしたか)より、
早く出かけて行きたいのであろう。
また、彼の方も、どうやら、
あまり楽観的ではなさそうで、
彼女の「すぐに戻るわ」という言葉に対し、
「もはや一緒にいることは難しい」などとも言っている。
マックスはピアノの前に座って、伴奏を弾き始める。
彼女はメイドにタクシーを呼ぶように言いつけると、
ピアノに近づく。
Track4.は、
いくぶん、感傷的な悲歌である。
オペラの第2幕にあるらしい。
だらだらと暗い序奏。
「海辺に立ち尽くし、郷愁にさらわれる。
あなたはひどく私を傷つけた。
なみだがただただ零れ落ちる」と、
押さえた声が、
ゆっくりと引き伸ばされる歌。
ここだけを聴けば、
ラフマニノフあたりの歌曲のようにも聞こえる。
そのロマンティックな状況を嘲笑するように、
軽妙な音楽でマネージャーが現れる。
「しかし、彼女がこのオペラを歌うために
パリに旅立つとき、
虚しい名声を捨て、一緒にいて欲しいと願う。」
と解説にあるように、
いささか戯画的で大げさではあるが、
それなりに真実味もある別れの三重唱となる。
アニータは、「あなたの愛に息が詰まる」と歌い、
マックスは、「一緒に居てくれ、名声が何だ」と歌う中、
マネージャーは、「たわごとを言っているが、
彼女は、確かに、この愛によって声も良くなった」
と、総括するように、声を張り上げている。
シーン3.
第1部の中心となる山場であり、
オペラのタイトルでもあるジョニーが
ここでようやく登場し、
主人公マックスの恋人、アニータの誘惑シーンがある。
Track5.は、ちんちん鐘が鳴り、
打楽器が打ち鳴らされ、
金管がぶかぶかとスイングする
めくるめく雰囲気の豪華な序奏がある。
「パリのホテルではジャズバンドが演奏している。
黒人ミュージシャンのジョニーが、
部屋係のイヴォンヌと恋仲になっている」
と解説にある。
Track6.
音楽が一度、潮を引くように静かになるが、
ピアノのリズムも軽快に、
もっと軽妙なリズムでジャズバンドの響き。
そして、ここが、「待ってました」の部分。
イヴォンヌが、あの特徴的なジョニーの音形で、
「私のジョニー、何というヴァイオリン弾き、
すごいアーティスト」と登場する。
ジョニーも調子に乗って、
「演奏しているとき、
考えているのは、君の事だけ」などと言って、
イヴォンヌの方も、彼の演奏で踊ったりする。
高笑いもあって、
マックスとアニータの難しい二人と違って、
極めてシンプルなカップルだということだ。
もちろん、この軽薄さが、
どんどん、ややこしいことを引き起こすのだが。
そして、「ヴァイオリンの名手で、
女性にもてるダニーロの部屋に忍び込んで、
その名器を取って来てほしいと頼む。」
というシーンとなる。
そして、一番のトラブルメーカーが登場する。
女たらしの音楽家、ダニーロである。
ここに出て来る主な男性登場人物は、
全部、音楽家だが、根暗なマックス以外は、
ジョニーもダニーロも悪で、女たらしである。
これは、クルシェネク自身の音楽家のイメージが
投影されたものであろうか。
あるいは、マーラーの娘や、美人ヴァイオリニストに
次々と接近した、自身の半分の投影であろうか。
Track7.
ダニーロがファンに囲まれてやって来る。
設定としては、ハンサムで超絶技巧で、
女性をめろめろにしてしまうような存在。
彼は、粋なしぐさで、
先ほどまで、ジョニーに首ったけであった、
イヴォンヌまでをうっとりさせて、
部屋に入っていく。
「私はヴァイオリンの王様」と、
陶酔しながら、自画自賛の歌を歌う。
ファンもイヴォンヌもぼーっとなっている間、
抜け目ないジョニーは、
ダニーロのヴァイオリンを盗むチャンスを狙っている。
すると、そこに、
アニータのくたびれた声が、
聴こえてくる。
長いモノローグで、成功はしたけど、
この町は変だわ、帰りたい、などと言っている。
「アニータがオペラから戻り、
マックスの元に戻ろうと準備をしていると、
ジョニーが言い寄って煩わせる。」
という状況だが、
そんな感傷を吹き飛ばすエネルギーで、
ジョニーは、近づいてくる。
二人の会話は緊迫感の中で盛り上がる。
「この都市の雰囲気が彼女の頭をおかしくし、
アニータは抵抗できなくなる。
ダニーロは、この状況から彼女を救い、
混乱を収めて信用を得る。
彼は、彼女の誘惑に成功する。」
つまり、最初はジョニーが、
アニータに接近し、そこに割って入った、
ダニーロが、実際は、アニータを誘惑してしまう、
ということである。
Track8.
ここは、ジョニーとイヴォンヌの
痴話げんかの楽しい状況で、
このオペラ全体を代表する二重唱と合唱が聴ける。
フレクサトーンの、
いささか、人を食ったような響きが、
素晴らしい効果を上げている。
アニータを演じるアレッサンドラ・マルクの声が、
いくぶん、深い暗めの声に対し、
イヴォンヌのポッセルトの声は、
明るくて心が晴れやかになる。
ここで、彼らはそれぞれ左右に分かれて舞台を去るが、
その後で、ホテルの夜警が廊下の灯を消して歩いていく。
スイングする音楽、楽し気な合唱。
ジョニーとイヴォンヌの別れの言葉を、
「さようなら可愛い人、あなたは私なしでやっていけるわね」
など、と繰り返しているだけなのだが、
この作品の置かれた状況を思い描くと、
あるいは、クルシェネク自身の愛の変遷を思い描くと、
こうした、不安定な関係性が、妙に身に迫るが、
それを彼は、何と魅力的に描いてみせたことだろう。
この軽音楽風の愛の場面に対比され、
次のワーグナーのような強烈、重厚な禁断の愛の場面を
対比させて聴かせるあたりが、これまたものすごい、
とも言える。
相いれないはずのものが、
まるで、当然のように、並置され、
それぞれの最高級の絶唱となっているのは、
改めて、感心せずにいられない。
Track9.
ダニーロとアニータが左手から入って来る。
男は女の演じたオペラで、
感動したことを告げる。
この町に生まれたが、
この町の事を知らなかった事を
あなたが教えてくれた、といった殺し文句で、
アニータは自信を取り戻したのか、
急速に盛り上がる二重唱となる。
アニータは列車に乗って帰りたいのだが、
ものすごい絶叫のクライマックスで、
「全部の星が私たちの上で砕け散っている」という言葉が歌われ、
最後は抱擁となり、アニータの部屋に向かっていく。
合唱が、祝福するかのように歌う歌は、フランス語。
「おお、空想よ。やさしさは無限に。」
となっている。
ものすごい背徳感と陶酔のミックス技で、
このようなシーンを持つオペラは、
どう考えても退廃音楽ものだが、
魅力には抗しがたい。
ジョニー、「続きは決して終わらない」
ダニーロ、「この歌を聞いて目を閉じて」
とか、ややこしい言葉が聞こえるが、
音楽はやさしくスイングを続ける。
この間、ダニーロの部屋がノーケアになっていたのであろう。
アニータとダニーロの、
悩ましい声が舞台裏から聴こえてくるという、
これまた、恐るべきお下劣な効果付きである。
「彼らが夜を共にする間、
ジョニーはダニーロのヴァイオリンを盗み、
アニータのバンジョーのケースに隠す。」
と解説にあるが、
アニータのバンジョーは、
どうやら、ドアのところに掛かっていたようだ。
その後は、ジョニーが押し殺したような、
別れの歌を歌う。
シーン4.
Track10.
何だか、不気味な低い音が持続する、
夜明けの描写であろうか。
クルシェネクの音楽は、
ほの暗いであろう、あるいは、湿っぽいであろう、
パリの朝という独特の空気感をよく表している。
しかし、聴衆は、こうした事は無視して、
この作品を歓迎したはずだ。
ホテルの部屋係イヴォンヌの仕事が始まっている。
「ジョニーに捨てられた」とか、ぶつくさ嘆いているが、
ホテルの支配人が、
何故、アニータは昨日出発しているはずが、
まだ、部屋にいるのか、などと質問をする。
Track11.
「翌朝、アニータは家路につく準備が出来たところで、
マックスこそが、彼女の生涯の男と聴いて、
ダニーロは、虚栄心から彼女を勝ち取りたいと思い、
逆らえない魅力のドン・ファンとしての名誉が傷つくと感じた。」
と解説にあるシーンで、
ほぼ、レチタティーヴォで、会話が進む。
「彼はどうやって復讐できるかを考え、
記念に指輪が欲しいと言った。」
ダニーロは別れを惜しみ、
形見をせめて欲しいというが、
「指輪をどうぞ」と言ったのは、
むしろアニータであった。
こうした、
後半で生かされるトリックの仕込みなども
この中で進行している。
彼は最後にヴァイオリンを演奏して見送ろう、
と部屋に入っていく。
Track12.
「あーっ」という絶叫で始まるが、
「彼のヴァイオリンが無くなっているのが分かり、
ホテルの支配人に連絡する。」
と解説にあるシーン。
支配人やイヴォンヌが集まって来る。
ダニーロは、鍵をかけて、
ちょっとレストランに行っただけだ、と説明するので、
部屋が開けられるのはイヴォンヌしかいない、
という流れで、
「支配人は、客室係のイヴォンヌを解雇した。」
そして、
「とっさにアニータは
イヴォンヌを自分のメイドとして雇い、彼女と一緒に立ち去る。」
Track13.
緊迫した空気を伝える、
弦のリズムに管楽器が、
警告音のような響きで重なって、
いかにも、絶望を怒りに持って行く、
状況にふさわしい音楽である。
独りになったダニーロは、
ヴァイオリンも女もいなくなった、
と苛立たし気に声を張り上げる。
その時、アニータからもらった指輪に気づき、
それを利用しようと思いつく。
Track14.
何か、悪い事を思い付いたのであろう。
音楽は、急に、優し気なステップを踏んで、
忍び寄る感じ。
クルシェネクは、ヘンテコな台本を自作しても、
その状況にふさわしい変幻自在な音楽をつけることが出来たので、
台本は、ますます、なんでもありのような感じになる。
イヴォンヌがちょうど居合わせたので、
「ダニーロはアニータの指輪をイヴォンヌに渡し、
こっそりマックスに渡せ、と指示する。」
イヴォンヌは、「何なりと、思し召しのままに」
などと言って去っていくので、
ダニーロは、勝利を宣言し、
音楽も、トランペットが凱歌を上げる。
すると、ホテルの支配人と警察官が現れ、
ホテルマンは、テーブルを用意して、
何か、調書を書く準備をする。
ホテル支配人は、ダニーロに調書に書くことを、
申告するように伝え、警察との話が始まる。
ジョニーも現れ、ホテル支配人に、
「自分にも言わせろ」などと絡む。
ホテル支配人は、邪魔そうにするが、
ジョニーは引き下がらずに、
こんなホテルにはいられないから、
すぐに辞めると言い出す。
唐突に、解説には、
「ジョニーはホテルのジャズ・ミュージシャンを辞める。」
とあるが、ヴァイオリンが無くなるような
物騒なホテルには居られない、
という理由が語られる。
ホテル支配人は、「アッハ、アッハ」と驚いている。
(英語訳には、「Oh,oh」とある。)
そんな中に、帰り支度のアニータが、
イヴォンヌを伴って現れ、
「明日の朝には家に着くわ」とか言うのに、
イヴォンヌは雇われたので、
「新しい生活が始まるのね」と答え、
「さようなら、また会おう」というジョニーや
「まだ、ゲームは終わっていない」という
ダニーロがそれぞれの思いを、
声にして歌いだすので、
めちゃくちゃな混乱で声が交錯する。
そこに、アニータのマネージャーが、
「アメリカからの契約が来た」などと言って
飛び込んでくるので、
ホテル支配人だけは、自分のホテルの信用の失墜を嘆くが、
アニータやイヴォンヌは新しい生活に夢を馳せ、
マネージャーは「アメリカで一山当てる」と喜んで、
Track8.の軽妙な楽想を使いながら、
ものすごい盛り上がりを見せ、
うまく、第1部の締めくくり感を出している。
アニータがバンジョーケースを忘れて、
出て行こうとするので、
ジョニーがそれを手渡すという、
落ちまでついている。
その中には、
ダニーロのヴァイオリンが、
隠してあるのである。
ジョニーは、そこから、ヴァイオリンを手に入れる算段。
後半の第2部は、また、別途、聴き進む。
得られた事:
「アルプス山中の男女の出会いのシーンから急転直下する、パリのホテルでの安っぽい情事で20世紀文明の人工的な側面をえぐり出し、ジャズの手法による、いかにも軽い男女の別れと、ヴァーグナーばりの絶唱で欲望を高めるもっと安っぽい男女の交情、そのリアルな描写などまでが対置されて、さすがに才気あふれる作曲界の新星が、二つの大戦の間の矛盾に満ちた実情を描き上げている。」
「出て来る男たちはみな、救いようのない音楽家たちである。作曲家のマックスは、歌手のアニータを愛し、彼女のためにオペラを書くが、アニータ自身はあまり興味を示さないあたりは、クルシェネクの自伝的要素なのかもしれない。」
「アニータも舞台での成功に酔いしれながら、時に、その虚栄のむなしさに悩みながら、マックスとの落ち着いた生活との間を振り子のように揺れ動く中、色男のダニーロの誘惑に負けてしまう。これまた、なんだかわからないことにばかり急き立てられる我々の自画像のような要素を体現している。」
]]>
名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その470
http://shubert.exblog.jp/30597547/
2021-07-05T21:24:00+09:00
2021-07-05T21:27:48+09:00
2021-07-05T21:24:15+09:00
franz310
現・近代
個人的経験:
オリンピックは
やるということだが、
コロナ患者は再び増加している。
一方で、ワクチンの職域接種は、
ワクチンが足りない
という説もある中、
一応は計画的に
進んでいるような感じである。
薄氷を踏むような状況下であるはずだが、
全然ダメという感じではない。
クルシェネクが生きた、
大戦間の時代も、
何だか変な感じだが、
妙な楽観論が支配していた時代だったはずだ。
その時代の代表作として、
やはり、この「ジョニーは演奏する」
というオペラは、無視できないヒット作で、
今、聴いても楽しめるものだと思うのだが、
録音には恵まれておらず、
全曲盤としては、この盤しか知らない。
(イタリア語によるものがあるようだが、聴いた事はない。)
何しろ、ジョニーという役柄が、
西洋文明を手玉に取るという点は良いかもしれないが、
盗み、暴力、なんでもありで、かなり道徳的にやばいうえ、
黒人という設定がまずかった。
トランプ政権を経て、
アメリカで、人種問題が再燃してしまった
このご時世からして、
当分、再録音はないかもしれない。
ローター・ツァグロゼクが指揮し、
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団という、
名門が演奏したこの録音、
アレッサンドラ・マーク(ソプラノ)が
ヒロイン、歌手のアニータを演じ歌い、
ハインツ・クルーゼ(テノール)が、
主人公の作曲家、マックスを演じ歌うもの。
ちなみに、パウル・ゲルハルト教会という、
録音効果の高い教会でのレコーディングとある。
ただし、そうした高品位なイメージとは、
少し異なる表紙で、黒地に電光で、
文字が飛び散ったようなデザインである。
ただし、解説書の中には、
見ごたえのある写真が多数、
掲載されている。
すでに、前に書いたように、
ジョニーは、彼らをかき乱す黒人音楽家だが、
クリスター・セント・ヒルが受け持つ。
ジョニーの恋人イヴォンヌは、
ホルライザーのハイライト盤でも、
ルチア・ポップという美人が受け持ったが、
この録音のマリタ・ポッセルトも美人である。
この録音は、1991年の12月、ライプツィヒにて、
クリスマスを挟んで、約2週間かけて行われているので、
もう30年も前のものだった。
ベルリンの壁は2年前に崩壊、
ソ連の崩壊のニュースを知りながら、
この録音がなされたのであろうか。
東西の冷戦は終結し、
ある意味、かなり、楽観的な時代が生み出した産物、
とでも言えるCDなのかもしれない。
日本人はバブル崩壊が進む中、
まさか、失われた30年などと言われる低迷期に
足を踏み入れてしまった事に気づかずにいた時代である。
国際会計基準などが導入され、
成果志向などが叫ばれながら、
何が何だか分からず、
闇雲に働いていた時代だったという感じもする。
そんな時代に録音され、発売された、
このCDは2枚組ながら、容積はかさばる。
解説もたっぷりとして豪華である。
Claudia Maurer Zenckという人が書いた、
「クルシェネクの『ジョニーは演奏する』」
という解説は、20世紀最後の視点で、
大戦間の時代を振り返り、
「1920年代の終わりには、政治的、社会的問題を、
新しい解放的な時代の中で克服するという望みは、
単なる自己欺瞞であったことが暴かれることになる。」
と総括する重厚なものだが、
2020年代になった今、
我々は、
「2020年代の終わりには、政治的、社会的問題を、
『民主主義』の名のもとに克服するという望みは、
単なる自己欺瞞であったことが暴かれることになる」
などと、この時代を総括されないように、
と祈るばかりである。
さて、このツェンク女史の解説を読んでみよう。
「1924年、すでに、
怒れる若い無調の作曲家として、
故郷ウィーンでは評価されていたエルネスト・クルシェネクは、
特に新音楽と聴衆の関係において、
中欧における君主制崩壊に続く、
今や、数え切れぬほどの大衆
(コンサートゴアーズになりえる一群は
芸術家を惹き付けるとともに恐れさせた)
が代表する政府の民主的形態の樹立に続いた
近代的な文化生活の新しいトレンドの影響でスイスに住んでいた。
こうした事情を認識して、クルシェネクは一連の新古典的な作品を作った。」
このように、100年前の状況は、
今とは異なり、君主制崩壊の後の時代、
と位置付けられている。
「しかし、彼が探し求めた幅広い喝采は得られず、
オペレッタ用の適当な主題を探していた。
不適当な台本で二つのプロジェクトが失敗した。
この挫折は彼自身の、
アンナ・マーラーとの結婚の破局によって、
さらに悪化された。」
アンナとの破局の経験までも、
このオペラには流れ込んでいる、
とみると、興味はいっそう、掻き立てられるだろう。
「この危機に際し、
1925年にカッセルの州立劇場の新しい監督、
パウル・ベッカーからの、
彼のアシスタントとしての誘いを受け入れた。
当初の不慣れな作業に戸惑いをよそに、
クルシェネクはやがてこの仕事のメリットに気づくことになる。
彼は新音楽に対する聴衆の反応を試験することが出来たのである。
彼は一連の劇場作品の伴奏作品を書き、
1925年には、
自身のオペラ『ジョニーは演奏する』の台本を書き始めた。」
こうしたピンチを節目に、
チャンスをつかんでいく姿にも、
何か、教えられるものがある。
「決定的な刺激がフランクフルトの大晦日にやってきた。
彼は黒人レビュー『チョコレート・キディース』を
デューク・エリントンの音楽付きで見た。
彼は黒人のエンターテナーを
彼の作品のメインキャラクターに対照させ、
脇役として配置した。
彼はオペラのフィナーレから書き始め、
1926年の6月に全曲を完成させた。
クルシェネクが成功を夢見たこのオペラは、
グスタフ・ブレッヒャーによって、
ライプツィッヒでの演奏が許可された。」
デューク・エリントンがこんなところで出て来るのも、
驚きであるが、
このCD演奏が録音されたライプツィヒの
歴史的なかかわりも、読み取れたりして興味深い。
「この成功は、共に1924年に書かれた
舞台カンタータ『要塞』や、
コミック・オペラ『影を飛び越えて』といった、
彼の初期の無調の劇音楽を否定するものだった。
1927年2月10日の『ジョニーは演奏する』の初演は、
一夜にしてクルシェネクを有名人にしたばかりか、
クルシェネクにとってありがたい、
第三帝国がその特権を取り上げるまでの
数年分の経済的独立を保障するような勝利であった。」
1927年から1928年の間に、
このオペラは50回も舞台にかけられ、
1930年まで70回以上も上演され、
同時代のいかなるオペラよりも多く演じられた。」
このジョニーの欧州制覇を図示したものも、
解説に掲載されているが、
これを見て、その圧倒的なヒットを改めて実感した。
このような圧倒的な勝利を得た音楽が、
演奏される機会を失っているのは、
いささかもったいない感じもする。
「もっとも受けたナンバーは、
とりわけブルース・ソング
『Leb wohl, mein Schatz(さようなら、恋人よ)』で、
単独に出版され、様々なアレンジをされて録音された。」
これは、混乱したホテル内の第3場、
ホテルの部屋の前で、
アニータにジョニーが言い寄り、
それを助けた色男のダニーロが、
アニータの手を取って去り、
このCDでは、CD1、Track.8で、
その場に残された、
イヴォンヌとジョニーによって、歌われるもの。
イヴォンヌはホテルの部屋係をしていて、
恋人のジョニーが、アニータに言い寄るのを
見ていて、呆れて別れを告げるもの。
コーラスも交えて、
まことに、洒落た感じで歌われる。
録音もすっきりして見通しが良く、
この部分のゴージャスなジューシーさを
この上なく再現して聞かせてくれる。
美人歌手、ポッセルトと、
ジョニーのセント・ヒルの
声の絡まりも美しい。
このあたり、パウル・ゲルハルト教会での
録音に感謝すべきなのだろうか。
歌われているシーンは、
教会には不似合いな痴話げんかであるのだが。
「当然ながら、レズニチェクの『ザトゥアラ』、
ダルベールの『黒い蘭』、
ヴァイルの『ロイヤル・パレス』など
他の作曲家も同様の手法で一山当てようとした。
政治情勢の徹底的な変化によって、
『現代オペラ』の時代は終焉を迎え、
『ジョニーは演奏する』も忘却に消えた。
その最初の兆候は早くから見られ、
1927年から28年の冬、ウィーンで、
オペラの聴衆と、
実際にはクルシェネクはそうではなかったのに、
『チェコの半分ユダヤ人』による
『ユダヤ系黒人の腐敗の恥知らずの採用』に対して抗議する
国家社会主義者の間で深刻な衝突があった。
ドイツでも、ミュンヘンでの『ジョニー』公演中に、
ナチスが悪臭弾を投げ、
1930年初めには、
プロシア州会議で黒人人口に対する問題が出されると、
ドイツのナショナリストが騒動を起こした。
1938年、クルシェネクは、
このオペラのせいで、デカダンの作曲家の烙印を押されていた。
米国においても同様で、
1929年1月のニューヨーク公演では、
ジョニー役の歌手は、
黒人のメイクをした白人であることが
分かるようにしなければならなかった。
ここでは、すでにパリでそうだったように、
オペラは完全に失敗した。」
いかにもナチスが台頭した時代を想起させる事件だが、
当時の人は、もちろん、時代がどこに向かって
動いているか、はっきりとわかっているわけではなかっただろう。
第1次大戦が終わって十数年で、
まさか、再び、騒乱の時代になるなどとは、
思いもせず、何とか良い方向に行くはずだ、
と考えていたかもしれない。
「クルシェネクにとって、
最初はこの作品に対するこうした政治的な攻撃は、
単に苛立たしいものとみなすようにふるまっていたが、
じきに、どこがイベントを操っているかに気づき、
『Gesänge des späten Jahres(後の世の歌 作品71)』(1931)
では恐怖を表現している。
これらの出来事は、
1938年、マックスと同様の道を(理由は異なるが)
クルシェネクに歩ませることになる。アメリカへ。」
このように、「ジョニーは演奏する」は、
その作曲家に富と名声を与えると共に、
祖国を失うという一歩を踏み出させてしまった。
「1928年になると、そうはいってもクルシェネクは、
その内面的な作品で新しい美学の方向を取る。
この時期は、1931年頃まで続く。
この措置は、『ジョニーは演奏する』が受け入れられたのとは
異なる見地から行われる必要があった。
それが空前の賞賛を聴衆から受けていたとはいえ、
メディアはそれほどでもない反応を続けていた。
それは主題の問題ではなく、
むしろオペレッタに向いていると判断された
音楽のスタイルのせいであった。
しかし、何よりも、彼の同時代者が
クルシェネクに賛同しなかったのは、
この目を見張る要素を持った作品によるものであった。
すぐに、彼はもはや
当時の第1の本当の現代オペラの作曲家とは認められず、
むしろ、日和見主義者と見られてしまった。」
これは、祖国を去るよりも恐ろしい判決だったかもしれない。
確かに、ジョニーまでは、彼は、最先端を行く、
恐るべき子供たちといった、存在だったはずだ。
「クルシェネクは、
最も重要なキャラクターはジョニーではなく、
作曲家のマックスだとして、これに最大限抵抗した。
しかし、主としてドイツにおける政治の展開によって、
日和見主義のレッテルはそのまま貼りついてしまった。」
クルシェネクの反論も苦しいものがある。
彼は、一発、当ててやるためには、
出来ることはすべてやる、という作戦を取っていたからである。
「1920年代の芸術への関心、
また大戦間の世代の作曲家への関心がかき立てられたのは、
1958年に『ジョニーは演奏する』
のリヴァイヴァル以来のことである。
1980年には、
例えば、オーストリアとスウェーデンの
三つの異なる劇場で上演された。
このオペラが初演されたライプツィヒでは、
クルシェネクの90歳の誕生日に合わせて
1990年に新しい演出で上演された。
ウド・ツィンマーマンによるこの時の演出が、
今回の録音のベースになっている。」
こんなに演奏される機会があったのなら、
他にも放送録音くらい残っていそうなものだが。
先に紹介したホルライザー盤は、
1964年くらいの録音であったはずだが、
ここでは、特に紹介されることなく、
無視された形である。
「『ジョニーは演奏する』は、
ワイマール共和国時代に現れた新作に期待される特徴を
すべて盛り込んだ『現代オペラ』の元祖と表現することができる。
このオペラは機械の時代の到達点とみなすことができ、
電話、ラジオ、自動車に電車、
それらをもっと崇めるべき新奇なものとしてステージに上げた。
それはアメリカの影響の幕開けであり、
活気ある社会への願望であり、
恐らく新世界からきた未開人による
過去の文化の宝物である
アマティのヴァイオリンの窃盗によっても表されてもいる。
これがジャズを伴ってヨーロッパの音楽の伝統に
アメリカが入ることを許した。」
なる程、このオペラをそのまま、
現代に置き換えるなら、
5GやAIや量子コンピュータの技術を舞台に上げて、
(いや、それよりも張り巡らされた監視網と書いた方がよい)
G7に中国の参加を受け入れるようなものになろう。
それをアメリカの作曲家が行い、
彼が、中国に亡命したら、
ほとんど同じ事が繰り返されたことになる。
「クルシェネクは、
コミカルなサイレンス映画の
どたばた喜劇のシーンを入れることによって
(例えば、偽装しての恐ろしいカーチェイスや、
警察をノックアウトするギャングたるジョニー)、
人生を導く芸術という受け継いだ理想を拒絶している。
もっとも人生の核となるのは、
そのユーモラスな視点で描かれる。
よく考えずにジョニーやアニータが他人に色目を使い、
何のはばかりもなく、アニータは不貞そのものである。」
この部分は、100年後の今なら、
これまで、疑われることのなかった、
「民主主義の正義」を否定とかになるのだろうか。
「モダン・ダンスの集成で
(ジャズのスタイルであったりタンゴであったり)、
単純な和声の語法によって大衆の興味を引き、
戦後の不安定な時期に必要とされたニーズの何かに出会った。
作曲家のマックスとしてクルシェネクは
オペラの中心にあり、
このオペラが上述のように描いた
何か現代的なものと矛盾する存在として一部、自伝的に登場する。」
このような切り口で見ると、
クルシェネクの分身たるマックスは、
結局、何もオペラの中でなすことが出来ないが、
クルシェネク自身も、その人生において、
同様であった、とも見ることが出来る。
「1948年にクルシェネクが書いたように、
『ぎこちなく抑圧され、思い悩んだ中欧の知識人で、
西から来た陽気で率直な奴の反対側にいる。
ドラマの終わりに向かってのどんでん返しに、
自由の行為によって彼は彼の抑制の絆を破り、
外の世界の自由の中で救いを見つけることに成功する。』
マックスの中に、私たちは、自己疑惑に満たされ、
社会の喧騒より孤独を好み、普通の生活への憧れと無関心の間を漂う、
典型的なロマン派芸術家の末裔を認める。
一方でジョニーは、いかなる社会からもかけ離れた
ルソーの「未開人」以来のイメージを象徴している。
むろん、ここでは「高貴な未開人」ではなく、純粋な活力の象徴である。
事実、クルシェネクは、
先に述べたような熱狂で迎えられた『ジャズ・オペラ』というより、
芸術家とその作品のドラマとして捉えていた。」
このように、あくまで、クルシェネクは、
この喜劇的な作品の中で、目の前に広がる世界を映しだし、
自分の立ち位置を見出そうとあがいていた、
という見方もできるのだろう。
確かに、作品そのものの壮大な茶番の中で、
作曲家自身、自分は何なのだ、
と問いかけもしたくなっただろう。
それを行えば、行うほどに、
切実な茶番として、茶番の迫真性は増していったようだ。
「聴衆はマックスの苦悶の熟考や深刻な行動に対しては、
ジョニーの突拍子もない離れ業ほどには興味を持たなかった。
作曲家の意図と、聴衆のリアクションの隔たりは、
もともとあった着想と出来栄えの矛盾によってより大きくなった。
このことはすべてのレベルで言える。
一方で、台本と劇の構成、
起きている出来事に対する駄洒落や皮肉なほのめかしや、
唐突な対照的なシーケンスが、
作品の真面目な意図を侵食し
(さらにすでに述べたドタバタ劇や
アニータのシリアスな歌から
ジョニーの電化されたジャズバンドの音楽への突然の推移など)、
もう一方で、音楽の付け方でもそうだ。
もっとも後を引いて残るのはジャズ風のナンバーなのである
(これは主に、ポール・ホワイトマン・オーケストラの
欧州ツアーで広められた形式にクルシェネクが精通し、
ジャズフレイバーの楽器法を取ったことによる)。」
ポール・ホワイトマンの名前が出た事で、
我々は、ガーシュウィンの名前を想起する。
ガーシュウィンは、
上述の流れでとらえられるクルシェネクと比べてみると、
旧世界などを引きずってなどおらず、
短命ではあったが、幸福だったかもしれない。
「これらのナンバーには、
シミー(ジャズダンス)のような、
イヴォンヌとジョニーのデュエット
『ああ、あれは私のジョニー
(Oh, das ist mein Jonny!)』(CD1のTrack.6)
(これは、第1のフィナーレやシーン6でも繰り返される)
のみならず、
イヴォンヌのブルース・ナンバー
『さようなら、恋人よ』(これらはすべてシーン3にある)や
ジョニーのスピリチュアル(シーン6)、
ジャズバンドの音楽(シーン7)や
ジョニーがダンスを演奏し始める
最終曲の第2のフィナーレなどに聴く事が出来る。」
このフレーズについては、
ホルライザー盤でも、もっと詳細に分析されていた。
「最初にイヴォンヌによって紹介される
ジョニーのテーマソング
『Oh! das ist mein Jonny!』
(6つの上昇する半音で、最後の2つは主三和音、Ⅴ-Ⅰ-Ⅱ-Ⅳ-Ⅲ-Ⅴ)、
はオペラ全曲に登場する。
アニータのメイドでジョニーの愛人のイヴォンヌは、
際立ったリズムのスキップパターンで、
彼女の若さや浮かれ気分が表され、
彼女がジョニーの窃盗や、
ダニーロの抜け目なさ、彼女自身の罪に直面し、
その性格が変わるにつれ、そのパターンは、
アクセサリー(付属物)だったように消えてしまう。」
などと書かれていた。
この全曲盤では、このような処理は、
以下のように、むしろ失敗であった、
と書かれている点が、興味深い。
「当初の強調点は、オペラの素材というより
オペレッタのそれに近い
これらの伝染性の軽いメロディやリズムによる
芸術家の葛藤といった深刻な事項から離れてしまった。」
さらに、この全曲盤解説では、
軽い要素とクルシェネクのバックボーンであった、
シリアスな音楽のぶつかり合いが、
かえって、お互いをつぶし合った、
という感じで総括されている。
「これは、軽めのナンバーでも、
クルシェネクの取り扱いが決して単純ではなく、
例えば、第1部の最後のジョニーのブルースのシーケンスは
カノン風の技術を駆使し、
それぞれのパートが独自の展開を見せながら、
それでも最後には勝ち誇った統一に至る
アンサンブルを作り上げるといった風に拡張している。
クルシェネクは、
音楽の無調の背景とは不釣り合いな
マックスの苦悩の嘆きの音楽で、
彼のドラマの深刻な側面にも同様の重みを見出そうとした。
しかし、相いれない音楽の領域は
お互いに引き立たせ合うことがない。」
この解説では、本来、クルシェネクが狙っていたのが、
シリアスな芸術家の苦悩の描写だった、
という切り口での見方に傾いているので、
どうしても、辛口になってしまうのであろう。
「シーン1におけるアニータとマックスに当てられた
軽いトーンは社交的な雑談調だからと思われるが、
こうしたものがあちこちで見られる。
フィナーレでアニータは、減三度を大々的に披露するが、
これはブルースの三度と呼ばれるもので、
これはオペラ全体のプランに浸透し、
マックスが自殺しようとするシーン7でも使われ、
彼が氷河に話しかける言葉に対しても
最後のブルース調が繰り返され、
ここでの伴奏もダンス風になっている。
こうした軽音楽調がオペラ全体を支配し、
ドラマのシリアスな面に、
この素朴なジャズスタイルが不適当にも見える。」
が、この批評は、以下のような結論に至るので、
これは、必ずしも、クルシェネクにのみ起こった失敗ではなく、
時代そのものの失敗であり、
そのあたりを正しく書き留めたオペラとして、
賞賛している、とも見える。
「この着想と実態の矛盾の中に、
1920年代の新しい活力の虚しさを正しく結晶化したものがある。
1920年代の終わりには、政治的、社会的問題を、新しい解放的な時代の中で克服するという望みは単なる自己欺瞞であったことが暴かれることになる。」
得られた事:
「30年前に録音された全曲盤『ジョニーは演奏する』のCDは、何と、初演の地、ライプツィヒのオーケストラを使った入魂もの。ブルース・ソング『Leb wohl, mein Schatz(さようなら、恋人よ)』(CD1、Track.8)を聴いて、ゴージャスな響きに心奪われてほしい。極めて充実した内容の解説付き。CD全盛期の贅沢仕様で、箱入りで3cmの幅を要する大物であるが、いまいち、理解に苦しむ表紙デザインで損をしている。」
「君主制崩壊後のヨーロッパが、新しい秩序の模索の中、無法者のパワーみなぎる新天地を志向するが、主人公のマックスは、その中で戸惑う役回りで、クルシェネク自身の自画像になっているものの、作曲家の意図から外れ、その悲劇性がかき消されたことがヒットの原因ともなった。」
「1920年代の価値観の喪失は、100年後にコロナ禍や新しい冷戦構図の中、失われていく我々の価値観にも思いを馳せずにはいられない。タイトルロールのアメリカ人ジョニーが、舞台上をかく乱しながら、新時代を象徴したように、我々の時代も覇権主義にかく乱されて行くのであろうか。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その469
http://shubert.exblog.jp/30475472/
2021-03-31T21:13:00+09:00
2021-03-31T21:13:37+09:00
2021-03-31T21:13:37+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
クルシェネクの代表作、
「ジョニーは演奏を始める」の要約版CDは、
本来なら2時間以上かかるこのオペラを50分に圧縮したものだが、
トリッキーな内容もあって、筋を理解しながら聴きとおすのに手間取った。
コロナも第3波が収束するか、という時期に聴き始めたが、すでに第4波が囁かれている。
桜も満開を通り越して散り始めた季節となった。
さて、このオペラ、鉄道やスピーカーなど
近代的大道具、小道具が出て、
不敵な黒人のジャズマンが、
悪役を演じる点がスキャンダラスなもの、
あらすじも音楽も千変万化するので、
大ヒットした理由もわからんでもない。
前半を聴き終わって、
ようやく、人間関係もわかってきたので、
図示をしてみた。
後半、第2部は、再び、
アルプス山中のシーンで、
前半、第1部の最初のシーンが、
氷河のシーンであったことに
対応している。
そこで作曲家のマックスは、歌手のアニータが、
道に迷っているのを助け、恋に落ちる。
彼らは結ばれ、アニータはパリに行って公演するが、
つい、成り行きで、同じホテルに宿泊していた
ヴァイオリンの名手、ダニーロと夜を過ごしてしまう。
これでは、どこにも、主人公のジョニーが登場しないようだが、
実際、ジョニーは、彼らの行動様式を超越した存在となっている。
ホテルの部屋係にイヴォンヌという若い女性がいて、
その恋人が、ジョニーである。
この悪役は、欲しいものは全部自分のもの、
みたいな考え方の持ち主で、
ダニーロとアニータのラブアフェアに乗じて、
ヴァイオリニストの持つ名器のヴァイオリンを盗もうとする。
彼は、そのヴァイオリンをアニータの持っていた、
バンジョーのケースに忍び込ませてしまう。
アニータは、ヴァイオリンが無くなった、
君もどこかに行ってしまうのか、
と騒ぐ、ダニーロを振り捨てて、
早く、マックスの待つ家に帰ろうとしていた。
こんな感じで、前半は終わった。
今度はマックスの家に場面が戻る。
Track.5:シーン6とある。
シーン5は省略されているが、
ここは、単に、マックスがもんもんとするシーンらしく、
いきなり、二人の破局が近づくところから始まる。
音楽は、嵐の前の静けさのような、
あるいは、いくぶん、白々しい空虚さを持ったもので、
木管の響きがのどかさに、何か茶化すような調子を加える。
マックスは何故、うまく行かないかなどと語り、
アニータも、自分のキャリアの心配などをして、
どこかちぐはぐな会話に、
イヴォンヌが登場する。
この部分の音楽は、リズムも警戒なものになっている。
この辺りも、全曲盤と比べると、かなり端折られた感じである。
アニータが、彼女を紹介すると、
前のシーンでの示し合わせの通り、
イヴォンヌはアニータの隣の部屋のダニーロの、
ヴァイオリンが盗まれた事件の説明に続き、
ダニーロが、これをマックスに渡せ、
と指輪を預けてくれた、などと無邪気に言う。
全曲盤では、アニータは休むために別室に行ったようである。
よって、ここは、マックスとイヴォンヌが
二人っきりの状況である。
嘲笑的な伴奏の音楽が、
見事に、緊迫感のあるものに変容する。
その指輪は、マックス自身が、
アニータにプレゼントしたものであるから、
狂ったような叫びの音楽となる。
原作では、ここで、マックスは、
氷河に向かったことになっていて、
イヴォンヌは、なんだかわからず、
変な人ばかりいる国だと思うことになっている。
Track.6:
このトラックも目まぐるしくたくさんの事が起こる。
原作が8分くらいかけているところを、
6分で説明してしまう部分。
マックスが去ると、何と、
ジョニーが、窓から忍び込んで来る。
音楽は忍び歩き風のグロテスクなもの。
イヴォンヌは、いきなりのジョニー登場に驚き、
見つかったジョニーもまた、何故、お前がここにいる、
などと言っている。
それぞれの都合で、ここに居合わせた模様。
音楽は、リズミカルになり、
二人が声を合わせはじめ、
やがて楽しげな二重唱になる。
ジョニーは、ダニーロのヴァイオリンを、
アニータのバンジョーのケースに入れたので、
それを取りに来たのだが、
最初はしらばっくれて、
イヴォンヌが持っている指輪について、
からかったりしている。
が、結局は、ジョニーは、
バンジョーケースからヴァイオリンの名器を取り出し、
勝利の凱歌をアメリカ国家風のメロディで、
声をはりあげて歌うが、
内容は、これを俺は、
かつて、ダヴィデ王が竪琴を弾いたように奏でてやる、
世界中の良いものは俺様のもの、
旧世界のヨーロッパは、
それの扱いがわかっちゃいない、
ダンスで、古いヨーロッパは、
蹂躙してやろう、などと言って、
来た時同様、窓から消えてしまう。
すると、アニータが来て、
何があったのかを問うと、
イヴォンヌは、指輪を見せて、
マックスが出て行った事を告げる。
アニータは、「破滅だわ」と叫ぶ。
やがて、
音楽は急転直下、
地獄落ちのような様相を呈して、
素晴らしい効果を上げている。
クルシェネクの第2交響曲か、
ショスタコの第4かといった風情。
Track.7:
ここは、約3分で、マックスは、
氷河の近くに来ている。
初めて、アニータと会ったところである。
「ここだ、私が彼女に最初に会ったところは」という、
マックスのレチタティーヴォは、
最初は、恐ろしくシリアスに聴こえるが、
「あの時、私は上に向かわず降りたが、今度は登っていく。
夜の暗さは無くなり、真昼の太陽が昇っている。」
という段では、
何だか軽妙、軽薄な調子の伴奏が重なって、
マックスの調子も高揚し、
「氷のようなまぶしさ、
私の氷河はどれほど素晴らしかったか。
ああ、再び暗闇の奥深く沈んだ
私のために輝いて欲しい。」
などと歌っている。
すると、どこかから、
アニータが歌う声が聞こえてくる。
全曲盤を参考にすると、
スピーカーから聴こえて来る設定だという。
氷河の近くまで聴こえるとは、
さぞかしやかましい放送なのだろう。
クルシェネクは、上述のように、
様々な国々や地方に移り住んだので、
こういう描写はリアルな体験によるものかもしれない。
「郷愁が心を満たし・・・」
マックスは、それが、
自分の作曲した歌だと気づいて、
「生きることに呼び戻してくれる」
と唱和し、
「それが音楽になるかも」と、合唱も重なる。
クルシェネクは、このような、
作曲家マックスの葛藤の方を、
本当は描きたかったのだと言われている。
Track.8:
解説に、中欧のシーンでは、
ジャズの要素に、レントラー風の浮き立つようなものを加えた
とあった部分。
ホテルのテラスのシーンという
2分ほどの音楽がヴァイオリンの軽快なリズムで現れ、
コーラスは、「これはジョニーのジャズバンドよ」
などと喧騒を表すが、
急に現れたダニーロは、
マネージャーにシリアスに詰め寄る。
彼らのバックでは、
ヴァイオリンが妙なる音色で奏でられる。
「この音は、私のアマティだ。
さっさと警察に電話しろ」とダニーロは言う。
Track.9:シーン9。
駅のシーンである。プラットフォームとある。
6分弱の中で、これまた、ややこしい状況が錯綜する。
クルシェネクは、こうしたトリックが大好きである。
このドタバタにふさわしい、
音楽の前奏に続いて、
「彼女はどこだ、もう心が耐えられない」
などと、マックスは、アニータを待つ歌を歌うが、
シンプルな、かなりベタな歌である。
彼は、もう一度、やり直そうとしている。
が、背景では、いかにも続くシーンにふさわしい、
気ぜわしい音楽に打楽器が鳴り、
弦楽、木管が駆け巡り、
警察に追われるジョニーが、追い詰められて、
「あ、警察だ、さよなら、俺の可愛いの」と、
置いてあったマックスのバッグに、
盗んだヴァイオリンを忍び込ませる。
マックスは気づかずに、
「君は僕のことを忘れたのか」
などと、アニータを思って、
これまた対照的に敬虔な感じで歌う。
警官が3人現れ、遠くで
「もう逃がさないぞ」
「アメリカとか言っていたか」などと
騒ぐが、やがて、ヴァイオリンを見つけ、
「これはあなたの荷物か?」
と問いかける。
マックスは、「いかにも」と答えて、
「逮捕だ」と捕まってしまう。
どんちゃん騒ぎを表す音楽も軽妙だ。
そんな中、アニータは「なぜ、あの人は来ないの?」
「私が間違っていた。あなたを待つわ。」
と声を張り上げる。
イヴォンヌも、
「彼はどこ?逃げることに成功したの?
それとも捕まった?」
と、歌うがこれは、ジョニーの事であろう。
何と、そこにダニーロが、
「復讐の日だ。彼女はあの男を待っているだろう」と、
とても、ややこしい感じで現れる。
そこで、アニータは、
「私はあなたを感じている」と美しい流れで歌うのに対し、
マネージャーが、せわしなく、
「ああ、こんな感傷的な事で声がだめにならなければいいが」
などと唱和するのも面白い発想だ。
すると、ダニーロが、「彼女だ」と、
アニータを見つける。
マネージャーが、「何を狙っている」と言うと、
ダニーロは、「復讐だ、マックスなら警察に連行された。
嫉妬からヴァイオリンを盗んだのだから」などと、
勝ち誇った歌を歌う。
それを聞いたアニータは、
「何ですって」と尋ねるが、
同時にイヴォンヌは「神様」とつぶやき、
マネージャーは「狂ったか」とつぶやき、
同時に、駅長は、
「アムステルダム行き特急はあと5分で到着」
と告げる。
アニータ、イヴォンヌ、ダニーロ、
マネージャーの四重唱。
「時間が過ぎていく」と、
それぞれの想いを歌い上げるが、
上昇する感じの焦燥感と高揚感のあるものとなっている。
アニータは、「どうやったら彼を救えるの?」
イヴォンヌは、「マックスを救えるなら、ジョニーを裏切ってもいい」
ダニーロは、「運命はわが手にある、俺をだましたあの女に復讐だ」
マネージャーは、「彼女の声とビジネスが心配だ」
という感じ。
ここからは、音楽はレチタティーヴォを茶化すような調子となり、
アニータは、「すぐに警察に行って」
マックスは、「あの夜は不幸には見えなかったぜ」
イヴォンヌは、「どうしたらいいの」
と続き、アニータは、
「あと5分で列車が来たら、もう、マックスとは会えない」
と自分に問い詰める。
「警察に行かなくちゃ」、「神様どうしよう」、
「いや、行くべきではない」などと、
再び、声が絡み合うが、
「列車到着」という駅長の声に、
イヴォンヌが警察に向かおうとし、
「行くな」と遮って来たダニーロを、
ホームから突き落としてしまう。
列車が轟音をあげて近づき、
描写力と迫力で、
悲劇が起こったことをオーケストラが告げる。
このあたりも、なんだかショスタコーヴィチが好みそうな、
非人間的な破壊力を持った音響である。
Track.10:
わずか2分弱、シーン10の
車の中の状況。
何と、不思議なことに、
犯人たるべきジョニーが運転するパトカーとある。
この奇想天外なアイデアを思い付いた時、
クルシェネクはにやりとしたに相違ない。
軽快な小太鼓のリズムに、
弦の刻みが加わり、
原始を呼び起こすような不思議な
木管のメロディが立ち上り、
これが、何等かの急き立てるような
疾走感を表している。
木管があわただしい警告音を発するが、
そこから、マックスの歌が高まって行く。
「すべて過ぎ去り、ゲームは終わった。
すでに失うものはなく、この世で何ができたか、
何故、私は罰せられたのか。」
彼は、単に警察に捕まったと思っているのだろうか。
ジョニーとマックスには、
特に利害関係はないので、
ジョニーが何を企んでいるのかわからない。
時に、ブルース風の伴奏も流れ、
太鼓の連打やさく裂もあって、
全体として黒々とした
混沌とした中である。
しかし、どうやら、
マックスは、運転しているのが、
警官ではないと知っているようだ。
「私は人生から、そして私自身から逃げた。
そして、私が望んでいた世界を動かす流れが、
私の中に集まってきている。
決断の時、人生を取り戻す列車に乗るのだ。
シャウファー(運転手)、駅に戻れ。」
と英雄的な声を張り上げている。
こうした、内省的というか評伝的と言うか、
あるいは英雄的ともいえる主人公の表現が、
クルシェネクが本来、狙っていたもの、
とも言われている。
ショスタコーヴィチも真似したのではないか、
と思われる
不気味な時を刻む乾いた拍子木風の音が、
静かに響く中、結末を迎える。
Track.11:
シーン11、「駅」とされる4分強のシーン。
駅では、ダニーロが死んでしまったので、
残された、アニータ、イヴォンヌ、マネージャーが
何らかの衝撃を受けているべきシーンだが、
彼らがぼそぼそと歌うのは、
先の拍子木の刻む中、
「来るか、来ないか、
彼は、列車が行く前に来るだろうか?
来ない場合は、二度と会えない、
あああああ」
などという内容である。
何故か、そこにジョニーのふてぶてしい、
「あああ」が重なる。
そのしみったれた雰囲気を、
突き破って、シンコペーションの効いた
レビュー風に合唱が明るく楽しく歌うのは、
「ベルは鳴った。古い時代は去り、新しい時代が始まる。
ジョニーが踊れ踊れとダンスの音楽を弾いてくれる。
新しい世界が海を越え、ダンスを通して、
古いヨーロッパを征服する」
という内容である。
これは、時節柄、権力者や右寄り思想、
愛国主義者にとっては、まことに腹立たしい歌唱であっただろう。
第1次大戦で欧州が疲弊した中、
確かにアメリカは強烈な存在であったはずだ。
合唱に続く、八重唱は、最終の場面となる。
解説に、「アメリカ愛国歌のような響きの歌を歌いながら、
登場人物たちは、アメリカに向かう」と書かれた部分。
アニータ、イヴォンヌ、マックスといった主役級に、
ホテル支配人、第1の警察官、ダニーロ、
マネージャー、第3の警察官が歌うようだが、
ダニーロは生きていたのか?
「ジョニーが私たちのために弾いてくれる。
それが気に入ったのなら、感謝するがいい。
彼は、私たちの全生活が単なる遊びだと気づかせてくれた。
彼のヴァイオリンがどこにでも連れて行ってくれる。
ほら、ジョニーが来た。ジョニーが弾き始める。」
という、
軽薄な、反社会的、不道徳な内容。
それが、比較的、平易なメロディで歌われ、
最後は、ジョニーのヴァイオリンの音色。
じゃじゃんとオーケストラが鳴って終わる。
歌詞を作ったやつも、曲を作ったやつも、
(どれもクルシェネク自身だが)
国粋主義的な見地からすると、
十分、厳戒処分にふさわしいと納得できた。
何故なら、痛いところを突いて来ているからである。
これがまた、ヒットした点が、許しがたい、
という感じでもあろう。
得られた事:
「クルシェネクの代表作、『ジョニーは演奏する(あるいは『弾き始める』、Jonny Spielt Auf)』は、作曲家マックスが歌手である妻の行動にヤキモキしているうちに犯罪者に仕立て上げられてしまう筋で、そういったものを超越したジャズマン、ジョニーが『人生なんて、しょせん遊びだ』などという考え方で勝利するという、いかにも不道徳な内容のオペラである。ジョニーは、新世界アメリカの象徴で、旧世界に属する他の登場人物らの小さな悩みをすべて吹き飛ばしてしまう、という点では、売国奴的な内容すれすれを行き、欧州ではスキャンダラスな大成功を収めた。」
「第一次大戦で、自身を失ったヨーロッパのダメダメ感を、音で暴き出した作品とも捉えられ、アメリカの方が進んでいるじゃないか、という自虐的な歴史観が、当時の人々の共通の心情だったことが伺われる。このような感覚は、現代の日本でも蔓延してもおかしくはない。クルシェネクは、単に、それを風刺し、暗に批判したものとも考えられる。」
「音楽は短い期間で変遷を重ねて万華鏡のように移り変わるが、その様々な実験的手法の中に、明らかにショスタコーヴィチを先取りしたものが聞こえる。例えば、シーン6のアニータのお先真っ暗の音楽(トラック6の最後)、シーン9の列車の突入の音楽(トラック9の最後)や、シーン10(トラック10)の時を刻む拍子木。」
「この『要約版』は、1963年の録音で、極端に左右に開いた歌手の位置関係が生々しく、『オリジナル3トラック・マスターからのオーディオファイルCD』と銘打ってある。ドイツ歌劇の実力者、ホルライザーの手堅い指揮で。なお、オーケストラはCDのクレジットではウィーン国立歌劇場とあるが、LP時代までさかのぼって検索すると、フォルクスオパーのオーケストラとある。いずれにせよ、よく演奏している。」
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その468
http://shubert.exblog.jp/30475144/
2021-03-31T16:46:00+09:00
2021-03-31T16:46:13+09:00
2021-03-31T16:46:13+09:00
franz310
クルシェネク
個人的経験:
コロナ禍の息苦しさに
クルシェネクの
苦境時代を偲び、
わりと内省的な作品ばかり
聴いて来たのだが、
第3波は下げ止まりとはいえ、
緊急事態宣言も終わった。
少し、楽しい路線に戻っても
良いのではないか?
そんな心境である。
桜の花も咲き始めた矢先に、
春の嵐もあって寒い。
緊急事態ならずとも、
外に出て行く感じでもない。
さて、ウィーンの出自ながら、
ナチス台頭の影響もあって、
アメリカの作曲家となるしかなかった
エルンスト・クルシェネクの運命は、
オペラ「ジョニーは弾き始める」
の大ヒットが分岐点であった。
この作品は、第1次大戦によって
旧来の道徳観が消失した束の間の空白期間に生まれた、
「退廃音楽」の代表とみなされた。
おそらく、今でも、この危なっかしい時代を
代表する作品とみなされているのだろう。
有名な割には、録音そのものが少ない、
恐ろしく録音不毛の作品となっている。
それは、あるいは、クルシェネク自身が、
「ジョニー」だけを代表作とみなされては敵わない
とばかりに、まったく異なる作風に転じ、
なおかつ、後続オペラも量産した、
という背景もあろう。
生みの親の作曲家自身からも、
否定、封印された、
悲運の大作となってしまった。
音楽史の中では、
必ず活字に取り上げられるのだが、
時代は急激にこの作品を押し流してしまい、
1964年という時期に、
ドイツオペラ界の名匠、
ハインリヒ・ホルライザーが、
抜粋盤を出していたようだが、
私は、こんなものがあるとは
中古CDが出回っているのを発見するまで、
まったく知らなかった。
表紙からして強烈である。
カバーアート、Seymour Chwastとあるが、
1931年生まれのグラフィック・デザイナーとして、
ネットでも調べることが出来る。
このデザインのLPは検索できないので、
新たにCDのために作られたものかもしれない。
大きく描かれた、レビューの装束の女性の顔から、
黒人のヴァイオリニストがはみ出している、
という大胆というか、でっちあげた感じすら
あるものとなっている。
こんなものというのは、
いろいろと、合点がいかない点が多い、
というニュアンスもあって、
そもそも、レーベルがアメリカのヴァンガード、
ストコフスキーとかアブラヴァネルとか、
アメリカで長く活躍した指揮者の録音を想起する。
しかし、オーケストラは、
ウィーン国立歌劇場管弦楽団。
ほとんどウィーン・フィル。
合唱もウィーン・アカデミー合唱団である。
またまた驚くべきは、
イブリン・リアー(ベーム盤の「ルル」)、
ルチア・ポップ(ハイティンクの「ダフネ」)といった、
欧州系大手レーベルで活躍した
美人歌手たちが出演していることである。
ただし、若い頃のもので、
リアーは38歳、ポップは25歳という
妙齢での記録となっている。
録音は古いが、歌手の声がフレッシュなのは嬉しい。
私が入手したのは、
93年にアメリカで発売された、
CD化された復刻盤だが、
日本では、話題になった記憶がない。
この強烈な表紙のCDが、
日本で出ていたら、忘れるとは思えない。
表紙を見れば見るほど、
この女性はルチア・ポップの顔に見えてくる。
実際、彼女をかなり意識したデザインだ。
脇役にすぎない
その名前「Lucia Popp」が、
表紙では先頭に来て
目立つようになっていることからも、
そう確信できる。
セイモア・チュワストは、
デザインを依頼され、
配役の中で最も有名な、
ポップの顔でも参考にせよ、
と入れ知恵されたものと思われる。
タイトルになっている「ジョニー」は
黒人のヴァイオリニストである、
などと、
説明を受けたのかもしれない。
ただし、ポップが演じるイヴォンヌは、
ホテルの客室係もしくは、
メイドのはずなので、
まったく、このデザインのような、
レビューのダンサーのような役柄の
キャラクターは存在しない、とも言える。
ちなみに、ポップは早く亡くなって
惜しまれた歌手であったが、
調べてみると、54歳という若さで、
脳腫瘍のために亡くなっていた。
それが、このCDが出た93年。
彼女の追悼盤でもあったのだろうか。
また、準主役級のイブリン・リアーは、
2012年まで存命だったようだ。
彼女は、このデザインで格下げされて、
腹立たしく思ったかもしれない。
これだけの布陣を誇っても、
オペラの「抜粋」では、
どうしても迫力がないから、
広く出回らなかったのかもしれない。
同時期にDECCAから全曲盤が出ていたから、
余計に影も薄くなろう。
クルシェネクは1991年に
亡くなっているので、
作曲家がつべこべ言えなくなってから、
こっそり出しちゃった、
という感じすらしてしまう。
解説は、Katherine H.Allenとある。
ネットで調べたが、ヒットしなかった。
彼女が書いた事を読んでみても、
クルシェネクが亡くなったから、
ようやく書けたような内容になっている。
「プログラムについてのノート:
エルンスト・クルシェネクはまだ26歳であった、
1927年2月11日、ライプツィヒでの初演で、
『ジョニーは演奏し始める』は、
スキャンダルと全音楽界からの賛辞を引き起こした。
ジャズとコンヴェンショナルなオペラ書法、
そして実験的な調性を組み合わせたオペラは、
18の言語に訳され、
1928年には、ニューヨーク・メトロポリタン・オペラを含む
100以上の舞台にかけられた。
この作品の成功は、作曲家の人生を変え、支配した。
75歳になっても、彼はまだ、
この英語翻訳に悩んでもいた(ここに紹介したもの)。」
が、ここには、このように、
このCDの録音だか対訳だか、
作曲家の何らかの関与も
ほのめかされている。
作曲家75歳とあるが、
LPとしてのこの録音と、
CD化された時の間に、
何らかのイベントがあったのだろうか。
クルシェネクは、このオペラをドイツ語で書いて、
ドイツの演奏家たちが演奏しているわけだが、
アメリカのレコード会社としては、
この録音の本国への紹介には、
ためらいもあっただろう。
そんなこんなで、64年の録音の発売、
あるいはプロモーションが、
75年まで遅れた、といった事情でもあったのだろうか。
以下、クルシェネクという作曲家を
総括する文章が始まるが、
読んでみると、生前には、
とても、こんな事は書けなかっただろう、
という内容も含まれている。
「1900年、ウィーンに生まれたクルシェネクは、
1916年には最初の作品集を書いている。
そのころから、彼は、
1923年にかけて、
まずはウィーンの音楽アカデミーで、
ついで、1920年から23年にはベルリンで
フランツ・シュレーカーに学んだ。
ブゾーニやシュナーベルと出会い、
重要な交友関係を結んだのも、
ベルリンであった。
当時、同様にベルリンで、
1921年から24年にブゾーニに学んだ中に
クルト・ワイルがいる。
ワイルの『三文オペラ』は、
『ジョニーは演奏を始める』の一年後の
1928年に初演され、
これらはともに、レビューのような音楽であるばかりか、
伝統的な劇場作品とジャズの融合という点でも似ていた。」
クルト・ワイルとクルシェネクは
ほぼ同年代だが、これらの二作品を似ている、
と書いている記事は初めて見た。
「ベルリンを去った後、
クルシェネクはフランスとスイスに滞在、
マーラーの娘のアンナと出会い、結婚した。
パリでの暮らしの後、
若いクルシェネクはカッセルとヴィスバーデンに2年住み、
指揮や作曲をした。
クルシェネクが『ジョニーは演奏を始める』の
台本を書いて、作曲をしたのは、
ヴィスバーデンであった。
実験的な書法と、物質的な成功という
彼の要求の間で、
彼はこの作品によって両方を手に入れた。」
かなり、思い切った表現で、
読み方によっては、彼はとっても欲張りだった、
だから、たまたま成功した、
という風にも読めてしまう。
「しかし、彼は『ジョニー』のあと、
新ロマン主義に入れ込み、
さらにはシェーンベルクと十二音技法
の熱心な信者となった。
この後者の関係によって、ナチスは、
彼の名を『文化的ボルシェヴィキ』と結び付けた。
ヒトラーがオーストリアを併合すると、
1938年、クルシェネクは欧州を離れ、
アメリカに向かった。
彼は、ニューヨークのポーキープジーの
ヴァッサー・カレッジ、
ミネソタのセント・ポールのハムリン大学、
イリノイのシカゴで作曲を教えた。
1945年にはアメリカの市民権を得て、
1950年にはカリフォルニアで、
劇場やテレビジョン用の作品を書くのに助成金を受け、
12音技法から離れた。
彼は決して初期において手にした成功を
再び得ることが出来なかった。」
このように、
このアレン女史のものは、
意地悪な見方の評伝になっている。
彼はこの後、電子音楽などにも手をつけ、
常に前衛でいたはずだが、これでは、
生活のために妥協した作曲家といった構図しか見えない。
彼が12音技法で手にした、
「カール五世」や「エレミアの哀歌」のような作品の高みを、
完全に無視した書きっぷりである。
まあ、こうした評価もあるのだろう。
また、この「ジョニーは演奏を始める」のCD解説としては、
面白くもなるだろう。
つまり、これは、クルシェネクという、
最近亡くなった作曲家の作品の中では、
一番のもので、買ったあなたは、
ラッキーなのですよ、
というメッセージにもなっている。
あるいは、このCDが売れなかった時の、
言い訳にもなっているのかもしれない。
いや、LP時代に売れなかった怨嗟のようなものが
ここにあったとしてもおかしくはない。
というか、この解説を書いた人は、
このCDを聴くことを、あまり、
嬉しい事とは考えていないようにも見える。
「『ジョニーは演奏し始める』の作曲時期が、
その新規さ、評判という意味での高みに見える。
二つの技術進歩、無線ラジオと本物の機関車がステージにあって、
ストーリーも、黒人ジャズマンと白人女性のもつれという
スキャンダラスな主題に触れている。
筋書は、恋とヴァイオリンの2つの窃盗と、
続く復讐への切望がある。」
この解説も、すごい要約で、
かなり大胆な飛躍を感じるが、
なるほど、ここまで簡潔に言い切ってくれると、
かなりストーリーとしてすっきりはする。
しかし、クルシェネク自身を投影した主人公は、
無視された感じになる。
「黒人ジャズ音楽家、ジョニーによる、
クラシックのヴィルトゥオーゾ、
ダニーロからのヴァイオリンの窃盗は、
比喩的に、当時確立していた音楽語法の
価値への疑問である。
事実、クルシェネクは、
彼がクラシックのヴァイオリニストを殺しているのに、
最終場でジョニーを神格化している。
すでに書いた通り、クルシェネク自身、
当時確立された音楽語法を反証し、
それに代わるシステムである
12音システムを受容した。」
12音音楽を持ち出すまでもなく、
クルシェネクが「恐るべき子供たち」であった事は確かで、
彼は、早くから、何か新奇なものを求めていた。
「『ジョニーは演奏し始める』の
登場人物たちは、劇的、音楽的に展開される。
アニータの恋人で作曲家のマックスは、
作品中、最も美しいメロディで、
彼の登場の間奏曲で描かれる。
アニータはマックス同様、
変わりのない長いフレーズを歌い、
トラック7のアニータとマックスが、
彼らの愛を再確認する二重唱では、
オペラ全曲で最も痛切な書法となり、
バッハのような対位法と、
モーツァルトの優美さで繰り返される。」
以下、各登場人物の関係図が、
音楽上の特徴と共に、
浮かび上がる解説になっている。
「アニータとの夜を過ごした、
洗練されているが利己的な
ヴァイオリンの名手、ダニーロは、
音楽的にチャーミングなラインで紹介されるが、
彼が、嫉妬と楽器の紛失で、
感情を害するにつれ、
いかつく、短い音楽に悪化していく。
一方で、ジョニーは、
短い破裂音で歌い、アメリカのフレーズを散りばめて
あらゆる状況に巧妙に適応する。
最初にイヴォンヌによって紹介される
彼のテーマソング
『Oh! das ist mein Jonny!』
(6つの上昇する半音で、最後の2つは主三和音、Ⅴ-Ⅰ-Ⅱ-Ⅳ-Ⅲ-Ⅴ)、
はオペラ全曲に登場する。
警官ですらモティーフを持ち、
(アメリカのコメディアングループである)
キーストンコップスを想起させる。
アニータのメイドでジョニーの愛人のイヴォンヌは、
際立ったリズムのスキップパターンで、
彼女の若さや浮かれ気分が表され、
彼女がジョニーの窃盗や、
ダニーロの抜け目なさ、彼女自身の罪に直面し、
その性格が変わるにつれ、そのパターンは、
アクセサリー(付属物)だったように消えてしまう。
ダニーロを偶然、鉄道に突き落とし、
殺してしまうのも彼女だった。」
窃盗だけでなく、殺人まで扱った、
ゴシップ満載の内容であることが分かるが、
そもそもオペラとは、
そんな芸術であったような気もする。
「クルシェネクは洒落たジャズの打楽器のリズムを、
パリのシーンを導くために使い、
また、中欧のシーン(トラック8)では、
ジャズの要素に、レントラー風の浮き立つようなものを加えた。
最終幕では、コーラスは古いヨーロッパを離れ、
アメリカに向かうことを歌うが、
クルシェネクは、アメリカ風の音楽スタイルに
スイングさせている(バーレスクやミュージカルのように)。
簡単なピアノコードによる終結部八重唱への
スムースな遷移では、
アメリカ愛国歌のような響きの歌を歌いながら、
登場人物たちは、アメリカに向かう。」
第一次大戦の後、
ヨーロッパでは多くの王国が消えうせたが、
何らかの支柱が失われていったのか、
これからはアメリカだ、
といった空気が支配していたのだろうか。
「オペラの幕引きに、巨大な地球に跨って
ジャズの天才のようにジョニーが現れ、
その最低の音域で、ヴァイオリン独奏が戻ってくる。
1927年、
エルンスト・クルシェネクは、
ジョニーの役割をこう書いている。
『このコミカルな音楽家のアイデアは、
私が思い出せる限り古くは、
パリに住んでいた時、私は本当に、
人間の時代の音符を打ち上げる
この笛吹きの可能性に目を開かされた。
そして、この音楽家は時代の子であって、
私たちの一人として、
私たちの間をさまよう必要がある、と。』」
このオペラは、解説にもあったように、
かなりのシーンの転換がある。
私が驚いたのは、冒頭シーンが、
アルプス山中の氷河の近く、
という奇抜さであった。
そこで、作曲家のマックスは、
歌手のアニータと出会い、恋に落ちる。
マックスはブランケンシップのテノール。
アニータはイブリン・リアーのソプラノである。
Track.1:
その様子を描いた部分が、
このCDの冒頭の5分半で、
「中欧、氷河のそばで」の部分。
序奏からして、悠久の響きのような
トランペットがその雄大な風景を暗示し、
マックスは、
「素晴らしい峰、私をひきつけ、
家や仕事から引き離してくれる」
と感慨にふけっている。
しかし、その雄大な状況から、
いきなり、不安なリズムが広がり、
音楽が矮小化すると、
「道に迷ってしまった、孤独が怖い」
などと、アニータが困っている。
アニータはマックスに声をかけ、
ホテルに連れ帰って欲しいと懇願する。
同時に、マックスの顔を見たことがある、
といい、有名な作曲家であり、
彼のオペラを歌った事があるとさえ言う。
そんなこんなで、
二人が二重唱で、「氷河の力やあなたの作品を教えて」
とか、
「あなたはきっと氷河に魅了されます。一緒に行きましょう。」
などと、プッチーニ風に盛り上がって終わる。
何だか、妙に展開が早いが、
どうやら、この部分、
シーン1と書かれているが、
その部分からも抜粋されているようだ。
可愛そうなクルシェネク。
このような仕事にも
付き合わされていたということか。
Track2.「パリのホテルの部屋」
このCDではわからないが、
アニータはパリで歌いに来る設定である。
シーン3とある。
このシーン3はトラック2の7分弱と、
トラック3の5分強にかけて、
かなりややこしい状況が発生する。
整理しないと混乱する。
犯罪もあれば、様々な伏線が張られる感じ。
冒頭から、ジャズ風の打楽器と、管楽器の
猥雑な雰囲気がたっぷりである。
ここでは、ホテルのメイドのイヴォンヌ、
つまり、ルチア・ポップの若々しい魅力的な声が
冒頭から聴ける。
解説にも
彼のテーマソング『Oh! das ist mein Jonny!』とあった、
6つの上昇する半音で、最後の2つは主三和音、Ⅴ-Ⅰ-Ⅱ-Ⅳ-Ⅲ-Ⅴ
という音型が登場。
黒人ジャズマンのジョニーとの会話である。
ジョニーは、フェルドホフというバリトンが担当。
イヴォンヌは、
宿泊客のヴァイオリニスト、
ダニーロの部屋の掃除をしていて、
ジョニーがそれをからかう設定。
このジャズマンは、
ダニーロのヴァイオリンの名器が、
見てみたいのである。
ホテルの掃除をしているときに、
以下のように続々、客が戻って来る、
という設定に少々違和感があるが、
そこは目を瞑らないと先に進まない。
ヴァイオリニストのダニーロは、
演奏中で部屋に不在だったが、
ファンに取り巻かれながら帰って来る。
自分で「私はヴァイオリンの王様」とか言っていて、
まことに嫌な奴である。
ここは、トーマス・スチュワートというバリトンが歌うが、
この人はアニータを演じるイブリン・リアーの旦那なので、
公私混同状態になるのが、
この録音のある一面となっている。
ジョニーは「このペテン師め」と言うが、
イヴォンヌは「ジョニーより美しいわ」と、
ダニーロの目の輝きにうっとりする。
そんな中、アニータも公演を終えたのであろう、
バンジョーと花束を抱えて、疲れ果てて現れる。
何故、バンジョーかと思うが、
後でこれが意味を持つ。
今度はジョニーが、こんな女は見たことがない、
とか言って、アニータに言い寄る設定が、
めちゃくちゃである。
それを見ていたダニーロが、
アニータをジョニーから引き離す。
後半のイヴォンヌとジョニーの二重唱は、
単なる痴話げんかなのだが、
コーラスまで絡んでくるあたりの音楽は、
実にゴージャス。
Track.3
ここはダニーロがアニータを誘惑するシーンで、
彼女の虚脱感につけこみ、
その心の中をいたわるようにして取り入っていく。
あたかもワーグナーのように
高まり続ける官能的なオーケストラに
二人の二重唱が砕け散るという濃厚なもの。
前述のように、リアーとスチュワートの夫婦絶唱なので、
完全に様になっているが、
劇の中では、そういった設定では全くなく、
主人公マックスの妻アニータの堕落シーンである。
最後に洒落たコーラスと、
怪しげな軽妙な音楽が続くのは、
黒人ジャズマンのジョニーが、
こっそり、ダニーロのヴァイオリンを、
アニータのバンジョーケースに隠す
という、極めて巧妙な窃盗の準備をした様子を
描いているからである。
Track.4
シーン4、同じ場所とある。
6分強の中で、いろんな事が起こる。
当然、ヴァイオリンは亡くなっているから、
ダニーロは大騒ぎである。
ホテルの支配人を呼んで大騒ぎするので、
部屋係のイヴォンヌは首にされてしまう。
アニータはそれを憐れんで、
彼女を小間使いとして連れて行くという。
ダニーロはヴァイオリンも女も、
自分のもとから無くなってしまったので、
イヴォンヌを呼び止める。
このあたりの、ひそひそ会話を暗示する音楽も、
非常によくできている。
束の間の二人の心の交流を表して秀逸だ。
持っていたアニータの指輪を、
イヴォンヌに渡す。
そして、
「これを彼女の友人の作曲家に、
こっそり渡してくれ」と耳打ちする。
ダニーロは、アニータに復讐を企んでいるのである。
イヴォンヌが快諾すると、トランペットが、
勝利のリズムを刻む。
しかし、このあたり、
このダイジェスト版では、
筋も音楽もかなり端折っているようで、
いきなり指輪が出てきたりして無理がある。
しかも、そこに、ジョニーが出てきて、
ホテルの支配人に突っかかるという展開。
これがかなりしつこく、音楽は、緊迫感を増す。
このややこしい状況で、
ここではヴァイオリンが無くなるようだから、
こんなところには居られない、
という事である。
ジョニーの勢いのある歌によって、
音楽はだんだん盛り上がって行き、
それからは、なんだか、四重唱になる。
アニータは家に帰りたいというし、
イヴォンヌは新しい生活が始まるのだわ、というし、
ジョニーも出て行くと言うし、
ダニーロは、あんたは俺をもてあそんだが、
ゲームはまだ終わってないぜ、と言っている。
このあたりの音楽の複雑な対位法は、
どのように表現すべきか。
そんな中、アニータのマネージャーがやって来て、
アメリカから契約が来たと告げる。
そこからは、このマネージャーと
ホテルの支配人も交えての六重唱へと発展。
マネージャーは大仕事だ、アメリカだ、と騒ぎ、
ホテル支配人は、ああ、お客が何と言うだろう、と悩み、
アニータは帰りたがり、
イヴォンヌとジョニーは恋人に別れを言っている。
ますます音楽は、複雑に絡み合い、
オーケストラも様々な色彩を放ちつつ、
目まぐるしい変転を見せる。
最後にジョニーは、
おっと、バンジョーはお忘れなく、
などと、悪党の片りんを見せる。
おそらく、その中に隠してあった、
ダニーロの名器を抜き取ったのであろう。
このようにして、
作曲家マックスと歌手アニータの
アルプス山中における出会い、
パリにおけるアニータと
ヴァイオリニスト、ダニーロのアヴァンチュール。
そのホテルの部屋係のイヴォンヌと、
その恋人、ジョニーの別れ話で、
オペラの前半、第1部は終わる。
得られた事:
「クルシェネクの作品の中で、最も成功したとされる『ジョニーは演奏を始める』は、あるいは、タイトルロールの黒人ジャズマンが悪役という、きわどい筋によってか、かなり短縮された『abridged(要約)』版しか入手できない時期があった。」
「この『要約版』、単純な抜粋ではなく、うまく要約されていて、そこそこ劇の筋が追えるし、演奏はかなりの演奏家がそろっていて、ドイツオペラの重鎮、ホルライザーの指揮、ウィーンのオーケストラが演奏し、歌手はイブリン・リアー、ルチア・ポップと、ビッグネームが揃っている。」
「1964年という古いものであるが、ポップが亡くなった時期にCD化されて復活した。その際に、ポップの似顔絵のような女性をあしらった派手なイラストの表紙となっていて、その表紙では出演者の一番目にポップの名前が来ている。が、ポップが演じるイヴォンヌは踊り子ではなく、ホテルの部屋係である。」
「こうした適当なデザインからも分かるように、このオペラが正しく評価されている状況ではない。音楽は万華鏡のように移り変わり、この一作だけでも、クルシェネクが、どんな作曲家であるかを言い当てるのは困難である。時にワーグナー風、プッチーニ風、メロドラマ風であって、スイングするジャズのテイストやアメリカ国家風の平明なメロディが、天才的ともいえる巧妙さで紛れ込ませてある。」
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