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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その152

b0083728_1330555.jpg個人的経験:
多少世代が違うとは言え、
ベルリンとヴィーンで活躍した、
二人のコンサートマスターの
経歴を読んでいると、
妙に懐かしい名前が登場して、
改めて、そうした人たちについて、
聞き直してみたくなってしまった。
国も世代も違うが、
その名前は、
かなり紛らわしい二人である。


まず、ベルリンのコンサートマスターだった、
シュヴァルベの関係者として登場したのが、
ベルンハルト・パウムガルトナーである。

「1960年代初頭、シュヴァルベは、
ザルツブルク・モーツァルテウムの、国際サマーアカデミーの、
客員教授となり、彼はザルツブルク音楽祭に何度も登場し、
ベルンハルト・パウムガルトナー指揮のカメラータ・アカデミカと、
モーツァルトの協奏曲のいくつかを共演したりした。」
と、シュヴァルベの略伝にあった。

このパウムガルトナー、グリュミオーやハスキルの伴奏をしていた指揮者、
という印象ばかりが残っており、どんな経歴の人だったのかは、
あまり考えたことがなかった。

そもそも、シューベルトに五重奏曲「ます」を依頼したのが、
パウムガルトナー氏であったが、この人とは関係があるのかないのか。

有り難い事に、例のオルフェオのライブ・シリーズのCDで、
この人のことはよく知ることが出来る。

一見して心そそられるのは、パウムガルトナーの情熱的な指揮姿に、
名ピアニストのクララ・ハスキルと、ゲザ・アンダが並べられた、
表紙写真である。
演目に、モーツァルトの「2台のピアノのための協奏曲」が含まれているのだ。
この典雅極まりない名曲を、この往年の大家たちが、
どのように繰り広げるのかが、まず、興味の中心となろう。

また、よく見ると、ソプラノのエリカ・ケートの名前も見える。
つまり、この協奏曲の他に、コンサート・アリアが2曲歌われている。

1957年のライブというが、何と豪華な演目であろうか。
とはいえ、最後の曲は、何と、初期、K112のヘ長調交響曲。
私も、まったくどんな曲か、途方に暮れるエンディングである。

b0083728_13304444.jpg先のグリュミオー、
ハスキルのLPが
そうであったように、
パウムガルトナーは、
ここでもやはり、
モーツァルトの大家であって、
さらに言えば、
ここでの解説を見る限り、
現代モーツァルト解釈の
原点になったような人、
とも言えるようだ。


ちょっと、ここで、前回紹介した、シュナイダーハンの、
1952年のモーツァルトと、このパウムガルトナーとグリュミオーの、
1954年の同じ曲を聞き比べてみよう。
何と、オーケストラは一緒で、ヴィーン交響楽団である。

グリュミオーの演奏は、恐ろしく冴え渡る美音を武器に、
歌うところは思いっきり歌を伸ばして協調し、
小気味のよく早くパッセージをきらめかせ、
官能に直接、迫るものである。
そこに、パウムガルトナーが便乗し、
いかにも意味ありげな音色やテンポの変化を与えていく。
伴奏でありながら、息づくような愉悦感を振りまいている。

一方、シュナイダーハンは、
果たして、そのような官能性や愉悦感に興味を持っていたかは疑問である。
名技性を誇示すべきカデンツァでも、妙に、神妙な面持ちなのだ。
これはこれで、非常に爽やかできまじめな好青年のモーツァルトである。
美音をあえて伸ばして強調せず、きりっと引き締めながら進む。
この時、彼はヴィーン・フィルのコンサートマスターを辞めて、
独奏者になる決意をして3年の後、しかし、まだ37歳の若さであった。

まだ40歳だった、ライトナーの指揮ぶりにも、同様の傾向が伺える。
愉悦感よりも、希望を胸にして前進する様子に重点が置かれている。

グリュミオーは、カデンツァともなると、完全に忘我の境地になっている。
しかし、パウムガルトナーはそれをウェルカムとし、
そう来るならば、こう返すといった、丁々発止のオーケストラドライブ。
グリュミオーは1921年生まれなので、33歳の記録である。
パウムガルトナーは、67歳。

さて、こんなパウムガルトナーが、
シェフを務める演奏会の記録はいったいどんなものだったのだろうか。

このように喜び勇んで書き始めたものの、
ミシェル・シュヴァルベが関与する前の記録かもしれない。

中川右介著「カラヤン帝国興亡史」には、
フルトヴェングラーが、自分が生きている間は、
カラヤンにザルツブルク音楽祭を振らせないようにしたという話や、
54年にフルトヴェングラーが死んで、55年から早速、
カラヤンと音楽祭の間に、交渉が始まった話などが出ていた。

その結果、何とカラヤンは、
57年からは音楽祭の全権を掌握したという話が出ているから、
あるいは、このコンサートがあった時、ベルリン・フィルは、
この地にいたのかもしれない。

先の著書では、カラヤンがベルリン・フィルと、
この音楽祭のメインになってしまったので、
モーツァルトの祭典の意味が薄れてしまった、
という記述もあった。

まさしくそうした転換期の記録なのだが、
パウムガルトナーのマチネーの音からは、
そうした影響があったようには聞こえない。

何と、パウムガルトナーは、カラヤンの恩師にあたる、
というので、ここだけは聖域であったのかもしれない。

解説を読み進めよう。Gottfried Krausという人が書いている。
「What Bernhard Paumgartoner Achieved for Mozart」
という題名のものである。

「1920年の夏、ザルツブルク・カテドラルの前で、
『イエーダーマン』が最初に鳴り響いた時、
ベルンハルト・パウムガルトナーは、まだ33歳になっていなかった。」
ということで、1887年頃の生まれだということが分かる。

「1960年からは、パウムガルトナーはザルツブルク音楽祭の監督となり、
1971年7月27日、音楽祭が50周年を迎えた翌年に、
84歳でなくなっている。
彼は、指揮者の中で、第1にランクされるような人ではなかったが、
いや、それ故にか、この音楽祭で育っただけでなく、
この音楽祭の発展に寄与した。
しかし、パウムガルトナーは、非常に複雑な芸術肌の人物で、
その影響と輝きを簡単に分類できるようなものではない。
彼は根っからの音楽家であったが、実際はそれ以上の存在だった。
彼の受けた広範な教育もあって、
その関心は、音楽に留まらず、美術、文学、歴史にまで及んだ。
モーツァルト、シューベルト、バッハに関する本、
そしてザルツブルクの町に関する著述、
音楽祭を中心とした非常に興味深いメモワールなど、
今でも十分、読むに足る内容となっている。
1917年、この作曲家にして、ピアニスト、指揮者は、
ヴィーンの芸術を愛好する家庭に生まれ、
モーツァルテウムの校長に招かれた。
彼はブルーノ・ワルターの門下であり、法学博士の学位も得ていた。」

私は、少々、頭の中が混乱するような感じがする。
というのは、ベルリンのシュヴァルベの経歴で出て来た人が、
この、ヴィーン生まれのワルターの弟子だったという点である。

「ザルツブルクは彼の第2の故郷となったのみならず、運命ともなった。
パウムガルトナーは、この町を、おそらく『よそ者』の愛し方で愛した。
彼は、知る人ぞ知るザルツブルクの歴史を知っており、
その町の美しさを賛嘆して飽くことを知らなかった。
この流れの中で、彼はモーツァルトと特別な関係を形成していく。
モーツァルトの音楽才能が育まれた文化的背景を熟知していた。
レオポルド・モーツァルトや、
ザルツブルクの宮廷音楽の環境についての研究に没頭しただけでなく、
所謂、フィレンツェ追放の時期(1938-1945)には、
17世紀、18世紀のイタリア音楽を、極めて詳細に研究していた。」

恐ろしいおっさんである。
言うまでもなく、ナチスの時代であるが、50歳を過ぎてなお、
この苦境を研究で乗り切ったというのだから、もはや、鬼である。
このように、パウムガルトナーは、国際的な視野でモーツァルト理解を深め、
ハスキルやグリュミオーのような独墺系以外の演奏者との交流を深めたのか。

「このように、パウムガルトナーは、
それまでよく研究されていなかったモーツァルト初期作品の、
様式や音楽的なルーツ研究のパイオニアの一人となった。
そして、彼は、それ以前の音楽家たちとモーツァルトを隔てるものを、
どのように引き出すかを心得ていた。
ベルンハルト・パウムガルトナーは、ごく初期から音楽祭に関与しており、
Einar Nilsonによる『イエーダーマン』の音楽を編曲し、指揮し、
2年目からは、1番の目玉、マックス・ラインハルトの
『イエーダーマン』の他に、モーツァルトをも出し物にした。
1921年の夏からは、4回のオーケストラ演奏会、
3回の室内楽演奏会、そして1回のセレナード演奏会が、
モーツァルテウムのイベントとして公表された。
これらは特にモーツァルトに捧げられ、ヴィーン国立歌劇場や、
モーツァルテウムのオーケストラのメンバーを、
パウムガルトナーが組織したアンサンブルによって演奏された。
パウムガルトナーは2つのオーケストラ演奏会、
室内楽演奏会を一つ、セレナードと、
カテドラルにおける『レクィエム』の演奏を受け持った。
パウムガルトナーは、マチネーにおいて、
その広範な知識をモーツァルトの作品演奏に利用、
当時のどの音楽家よりもモーツァルト需要に寄与したのである。
しばらくの間、音楽祭は、パウムガルトナーの、
思うようにならなかった時期がある。
1922年にリヒャルト・シュトラウスが、ザルツブルクで、
国立歌劇場でオペラを指揮、そしてヴィーン・フィルと演奏会を開き、
こうなると、単なる『地方行事』ではなくなってしまった。
このようにして、この後数年は、ザルツブルク音楽祭は、
演劇とオペラの他は、当時の大物たち、
つまり、シュトラウス、フランツ・シャルク、
ワルター、クレメンス・クラウスらによるヴィーン・フィルの演奏会、
または、ヴィーンから来たアンサンブルや独奏者による、
室内楽演奏会ばかりになり、モーツァルトもまた、
めったに演奏されなくなってしまった。
1927年に、パウムガルトナーは、
それまで演奏されなかった、『グラン・パルティータK361』を含む、
モーツァルトの大作を独自にプログラムした、
ヴィーン・フィルによる、
7つのセレナード・チクルスを演目に加えるのに成功した。
その後の年も、ワルターやトスカニーニの年でクライマックスを築く、
音楽祭の中にあって、これらのセレナードは、
引き続き、パウムガルトナーの手によって演奏された。」

ザルツブルクだから、当然、モーツァルトが演奏されて来たと思うと、
どうやら、大間違いだったようだ。
言うなれば、パウムガルトナーのような人の努力によって、
モーツァルトの町としての真価を得たとも言えるようである。

「オーストリアの政局の変化がこれに終止符を打ち、
パウムガルトナーはザルツブルクからフィレンツェに逃れた。
1945年、わずか数週間前に戦火が収まったばかりの時期に、
この精力的な指揮者は、ザルツブルクに戻り、戦後最初の夏に、
即席メンバーで、オーケストラコンサートを一つ、
そして、3つのセレナードの夕べを開催した。
1946年、ザルツブルクならではの、
モーツァルトのセレナーデ演奏会の新演出実現模索を始めた音楽祭と同様、
モーツァルテウムもまた、パウムガルトナーを先頭にして再建された。
1949年、二つのマチネーが加わり、
ここでまた、パウムガルトナーは、
モーツァルトの知られざる初期作品と、有名な協奏曲に、
素晴らしい声のための声楽作品を、
組み合わせたプログラムの新基軸を打出した。
パウムガルトナーは、上手に名手たちと契約するコツを心得ており、
1949年には、偉大なベルギーのヴァイオリニストグリュミオーや、
1950年には、ハスキルが『ジュノーム協奏曲』を演奏し、
1952年には、センセーショナルな音楽祭デビューに続き、
アンダが、『変ホ長調』の協奏曲を演奏している。
ハスキルとアンダは、以来、ほとんど毎夏登場し、
遂にパウムガルトナーは1957年、
素晴らしい『二台のピアノのための協奏曲』で、
ここに記録された、名手二人による共演を実現させた。
音楽祭で、彼女はこの年、リサイタルを開いたのみで、
病気と死のため、二度と来ることはなかった。
彼女は、1960年、65歳で世を去ったので、
これが最後の共演となってしまった。
一方、ゲザ・アンダもまた、マチネー、オーケストラコンサート、
リサイタルを通じ、音楽祭の常連スターであったが、
1975年の悲劇的な病気によって、早すぎる死を迎えた。」

ということで、一期一会の素晴らしい音楽会だったようで、
この日の聴衆が大変、うらやましい。

「ベルンハルト・パウムガルトナーは、1952年に、
彼のマチネーやその他の目的のために、
モーツァルテウムの教授や生徒を集め、
カメラータ・アカデミカを創設した。
楽器や編成の点で歴史的、オーセンティックとは別観点で、
マチネーや室内楽演奏会のプログラム用に、
理想的に最適化されたアンサンブルであった。
そうしたものが、世間一般の流行になるずっと昔のことである。
世界中の音楽愛好家たちは、この音楽祭やその放送を通じて、
ザルツブルク時代の、数多くの喜遊曲、カッサシオン、セレナードや、
同様に初期の交響曲、素晴らしい協奏曲、アリアの宝庫など、
モーツァルトの音楽の豊かさを知った。
モーツァルトが若い頃から、素晴らしく独創的な劇作家であることも、
他の人が初期オペラの上演を考える前に、すでに多くの人が知っていた。」

以上で、パウムガルトナーと音楽祭の一般論の話は終わり、
これらの録音がどのように残されたかが書かれている。
「ザルツブルク放送の音楽祭アーカイブに、
多くのこれらコンサートの記録は保存されており、
パウムガルトナーが、後に有名になる
歌手や奏者とコラボレーションしたドキュメントとなっている。
現在の耳からすれば、これらのすべてが、
技術的に満足できるものというわけではないが、
パウムガルトナーが第1に求めたのは、技術的な完成度ではなく、
表現力や正しいスタイル、音楽内部のプロポーションであった。
彼はまた、その知識や理解、情熱を伝えるための機会でもあった。
マチネーの前の公開練習での独特の会話は、
音楽家や生徒、ザルツブルクに来た、
音楽愛好家にとって、最高の瞬間でもあった。」

「このドキュメントは、1957年8月のもので、
モーツァルトのマチネーの完全な記録のうち、
最古のものの一つである。
その独奏者が高名ゆえに、協奏曲が最も目を引くが、
1927年、ダルムシュタッドに生まれ、
ミュンヘンオペラの花形だったエリカ・ケートが、
ここで共演しているのはまさしく掘り出し物である。
この人は音楽祭でも『魔笛』だけでなく、1956年、セル指揮、
57年、カイルベルト指揮の『後宮からの逃走』の、
コンスタンツェ役でも人気が高かった。
パウムガルトナーのモーツァルテウムでの長年の盟友であり、
カメラータ・アカデミカの共同創設者であった、
クリスタ・リヒター=スタイナーが、
1775年のオペラ『羊飼いの王様』からのアリアの、
ヴァイオリン独奏を受け持っている。」
このように、ケートの登場のみならず、
何と、控えめなヴァイオリニスト、
リヒター=スタイナーという人についても特筆しているのが嬉しい。

「プログラムの最初に、パウムガルトナーは、
彼のお気に入りの一つ、オペラ全曲もよく指揮していた、
『劇場支配人』からの序曲を演奏している。」
さすがにお気に入りということだけあって、
非常にエプスレッシーヴォな、活力溢れる力演である。
ただの音楽院の教授ではない。
こんな魂を込めた演奏をする人が、カラヤンの師という事実も、
どうもピンと来ない。何となく不思議な感じがする。

「ここでの最後は、交響曲ヘ長調K112で、
1771年イタリア楽旅の際のもので、
15歳のモーツァルトはここで、
フォーマルなイタリア・バロック様式を離れ、
古典的な交響曲の間にあって、独自の独立した様式を達成した。
ザルツブルク音楽祭での初演の旨、
プログラム冊子には書かれており、
パウムガルトナーが行ったユニークなマチネーの好例となっている。」

このように、このCD、というか、このコンサート、
非常に多面的な楽しみ方が可能である。
独唱、独奏の人気アーティストを目当てにしても良いし、
力の入ったパウムガルトナーの解釈を聴くもよく、
最後に知られざる名曲の発見の楽しみや、
若き日のモーツァルトに思いを馳せるなどなど。

私は、「2台のピアノのための協奏曲」が好きで、
この二人の、惜しまれつつ亡くなった大家たちの共演が、
最も聴きたい演目であったが、ひょっとすると、
これ以上に他の演目を楽しんだような気がする。

やはり即席の共演ということからか、
ミスも目立つし、何となく、完全には興が乗っていないような気もする。
あるいは、ハスキルの調子が悪かったのだろうか。
また、このCDの中では、ピアノのタッチに輝きがなく、
唯一、録音に不満を感じる演奏が、この協奏曲ではなかろうか。

それに引き替え、エリカ・ケートの声は、非常に美しい。
か細い、リヒター=スタイナーのヴァイオリンも楚々として美しい。
さらに言うと、この「羊飼いの王様」からのアリアのメロディは、
何と、あの「ハフナー・セレナード」の第2楽章のアンダンテの、
魅惑的なメロディと同じなのである。

あのセレナードでは、ヴァイオリン独奏だけでも、
十分、蠱惑的であったが、この30歳のケートの声がまた愛らしく、
もはや、天上の音楽としか言いようがない。

この独唱、2曲目には、「レチタティーヴォとアリア、
『おお、運命の星々よ、
憐れなるデルチューアがおまえたちになにをしたのか/
岸は近いと望んでいた』」という長々しいタイトルのものが歌われている。
デルチューアという恋人がいるのに、
政略結婚を強いられたティマンテの状況を歌ったもの。
歌っているティマンテは男のはずだが、ソプラノのアリア、
という点がややこしい。
歌詞はついていないので、何だかよく分からないが、
ケートの声は、かなり高い声までクリアして、
非常に華やかな熱演となっている。

また、最後の交響曲、たった13分程度の音楽だが、
ちゃんと4楽章形式になっていて、
解説に軽く述べられているように独自の魅力を持っている。
推進力のあるアレグロに始まり、
シンプルなアンダンテも、時折、影を宿して美しく、
爽快なメヌエットに、楽しいフォークダンスのような終曲が続く。
きりりとした感触が爽やかで、
パウムガルトナーも愛おしむように演奏している。
そのせいか、盛大な拍手と歓声が待っている。

このCDは、恐らく、名作である「協奏曲」を目当てに買う人が多いと思うが、
買って来てCDプレーヤーにセットした後、
この日の会場にいる自分を想像できるかどうかで評価が分かれると見た。
あるいは、全曲を聴き通す余裕があるか否かでも評価は分かれよう。

以上、パウムガルトナーについてであった。
素晴らしい音楽家であったことは分かったが、
シューベルトと先祖が関係あったかは不明。
むしろ、自分自身が、マーラーばかりか、
ブルックナーにも会ったという経歴がびっくり。

今回、字数がいっぱいになってしまったが、
まぎらわしい名前の、ルドルフ・バウムガルトナー氏についても、
書いてみたかった。この人は、ヘッツェルの師匠である。

得られた事:「シューベルトに五重奏曲を依頼したパウムガルトナー氏以上に、ベルンハルト・パウムガルトナーは音楽の鬼。どうやら、シューベルトに関する著作もある模様。二人の姻戚関係は不明。」
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by franz310 | 2008-12-07 13:34 | 音楽
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