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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その145

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その145_b0083728_08589.jpg個人的経験:
前回、カラヤンが、
フルニエと録音した、
シュトラウスの
「ドン・キホーテ」
について取り上げた。
このカラヤン、
この曲への傾倒を
口にしているとおり、
さらに、2回の録音を
残している。

本来の「ます」に関するテーマからも、
ケッケルト四重奏団の話題からも、
かなり離れてしまったが、
せっかく、この指揮者は音声のみならず、
画像も残してくれているので、これを見ない手はないような気もする。

カラヤンの残したLDでは、
チャイコフスキーのピアノ協奏曲を、
ワイセンベルクと残したものが、強烈に問題作である。

ワイセンベルクが一人で弾いているような映像が登場し、
完全に録音と録画が別の機会のものであることが見え見え。
つまり、これは演奏の記録ではなく、演奏の映像脚色なのである。
もし、そんなものであれば、まったく見たくないのだが、
これは幸い、演奏会の拍手から収録されているようだ。
前回のものから10年、75年1月とある。

ちなみに表面には、やはり、ワイセンベルクの共演の記録、
ラフマニノフの「第二ピアノ協奏曲」が収められたお得盤である。
これは、73年9月の録音とある。
確かに、カラヤンのラフマニノフの「第二協奏曲」と、
ロストロポーヴィッチとの「ドン・キホーテ」は、
この時代、相次いでEMIから洒落たジャケットで発売されたのを思い出す。

しかし、かつて、東芝EMIからLPが出ていた音源が、
こうして、イエローレーベルから出て来ると、
非常に不思議な気持ちになる。
何だか節操のない世の中になったような気がしたものだ。

LDの発売は88年。
もう20年も経ってしまい、LDからDVD、
さらに新世代DVDの時代になりつつある。

偶然ながら、ちょうど、最近、
中川右介著「カラヤン帝国興亡史」(幻冬社新書)を読んだ。

その終わりの方に、「映像」という一章があるので、
これを見て見ると、カラヤンの晩年のレコードの多くは、
映像の企画があって、それに便乗したものである、
と書かれている。

また、カラヤンはTV放送を想定して65年から、
このような映像作品を手がけていたともある。
が、これが花開くのはLDの時代になってからであった。
彼は、20年も待ったのである。

また、この本には、ありがたいことに、
この70年代のカラヤンの、
グラモフォン、EMIとの関係についても書いてある。

グラモフォンだけでは、自分の帝国の拡大には限界を感じ、
レパートリーの制約も多かったので帝王は不満だったとある。

が、ベルリン・フィルはグラモフォンと契約していたので、
その束縛を離れるべく、何と、ミュンシュが亡くなって困っていた、
パリ管弦楽団に近づいて、まず、そこの音楽顧問となったようだ。

パリ管と、69年にフランクの交響曲をEMIに録音、
翌年に、ワイセンベルクとチャイコフスキーのピアノ協奏曲を、
やはり、EMIに録音して、EMIへの再進出を果たす。

これによって、何と、グラモフォンは、
レパートリーの一任という好条件に転じたとあるので、
したたかな戦略は、みごとに成功したのである。
このように、パリ管は、すでに十分利用できたので、
2年で契約は終了。

それにくわえて、
グラモフォン録音時は、
ベルリン・フィルの時給も4割UP、
さらに、ここの専属から離れての録音も、
可能になったというのだから、
やりたい放題だったと言える。

73年にはベルリン市から名誉市民の称号も得た。
ということで、このLDの映像は、
このような絶頂期の記録とも言える。

さて、ラフマニノフと、シュトラウス。
ほとんど同時代を生きた作曲家ながら、
まったく異質な組合わせとしか言いようがない。

単に、二人の独奏者との共演風景を撮影しただけの
表紙デザインも、適当にならざるを得ない、
ということを如実に示している。

ロストロの方が大きいのは格の違いということか。
ソリストは、眼を開いてがんばっているのに、
カラヤンはおなじみの目瞑り指揮で、
アイコンタクトは拒否。

下の方に映った、ベルリンの楽員も呆れている。

一方、解説を書いた、Wolfgang Domlingという人も、
このカップリングには、さぞかし困ったのではなかろうか。

そのためか、非常に難解な書き出しに苦渋をにじませている。

「多くの人々に何かを語りかける音楽を書いた、
成功した作曲家の成功は
(The success enjoyed by successful composers)」、
という、奇妙奇天烈な書き出し、
このこんがらがる主語に続いて、
「しばしば、芸術の『純粋さ』を掲げる者によって、
多くの聴衆を責め立てるために使われてきた。」

成功した作品が分からない奴はダメだ、ということか?

「新しく、また、同時に、
多くの人々に聴かれるような音楽を書くことの問題は、
ベートーヴェンの時代から存在し、
作曲家たちは、それぞれの方法で対処しなければならなかった。
中傷と非難はしばしば一緒になるがゆえに、
成功した作曲家を、時代の『前衛』ではないからと責めるのは、
歴史的にも、人間的にも不当であるし、
成功は理想への裏切りを伴うという連想は、
一般にまったく根拠のないことなのである。」

以上の文章は、英訳者のMarry Whittallも、
正しく訳せているのだろうか。

とにかく、ラフマニノフとシュトラウスは、
共に成功した作曲家であったということが共通点だ、
ということを導くための枕詞を考えるようにしたい。

「セルゲイ・ラフマニノフとリヒャルト・シュトラウスは、
彼らの世代の最も成功した作曲家であったことに、
疑問の余地はないが、
彼らはどちらも、イージーな道を歩まなかったし、
また、大衆を喜ばせようと慎重に作品発表を行ったわけでもなかった。」

確かに、そうかもしれないが、
共に作曲家でありながら、指揮者やピアニストなど、
演奏家として活躍でき、なおかつ、長寿を授かったこともあって、
自作自演によるコマーシャルもうまくいった人たちとも言えよう。

レーガーなどが前衛のチャンピオンだったはずだが、
この人はまともな録音技術が出来る前に亡くなってしまっている。
マーラーなどもそうかもしれない。

さて、ここから前半のラフマニノフの話になるが、
こんな事が書いてある。
ざっと読み飛ばす。
「ラフマニノフの音楽が分かりやすいのは、
その音楽が自発的な即興の結果だからではなく、
注意深い推敲の結果だからである。
良心や憂鬱と戦いながらの、
ラフマニノフの作曲のスピードはいつもゆっくりで、
自身の技術や超絶技巧を完成させるべく、よく改訂を行った。
彼の大規模の作品は、できあいの設計に乗るものではなく、
むしろ、形式のいずれもが新しい着想に満ちていた。
彼の『第二ピアノ協奏曲』においても、交響的な着想
(ここに独奏楽器が特別な音色を添えるような)と、
伝統的な協奏曲(オーケストラと独奏楽器の交錯が素晴らしい)
の圧倒的な総合を目指していた。
また、テーマの結合も独創的で、例えば、
第一楽章の再現部では、第一主題が展開された形で、堂々と現れる。
この作品は冒頭から非凡なもので、
独奏者のための8小節は、和音の繰り返しで聴衆を魔法にかけながら、
ピアニッシモからフォルテッシモに変化し、
ヘ短調から始まるのに、ハ短調のカンタービレの主題を準備する。
第二ピアノ協奏曲は、ラフマニノフの伝記において、
特別な場所に位置し、1897年初演の第一交響曲の失敗による、
鬱病の危機から創造力を取り戻しての解放を意味する。
この鬱状態は、精神科医のダール博士の催眠療法が、
作曲家の創造力を復活させるまで、2年の長きに及んだ。
1900年の夏に彼は、この作品の第二、第三楽章を書き、
その年の12月に初演した。
曲は翌年、全曲が完成され、モスクワにおける、
1901年11月のジロティ指揮の初演によって一気に名声を確立した。
これは同時にラフマニノフが、
国際的なヴィルトゥオーゾとしてのキャリアを踏むための一歩となり、
彼自身、この作品や後に出来た協奏曲を演奏することを好んだ。
1904年、彼は、この作品によってグリンカ賞を得ている。」

今回のテーマはシュトラウスなので、
個人的にはラフマニノフの方が好きだが、
これはこれで紹介するにとどめ、
後半に書いてあることを詳細に見て見よう。

だから、ラフマニノフとシュトラウスとは、こうである、
といった話は、もうおしまい。まったく何も書いていない。
先の難しい前置きの後は、完全に別個のことが書かれている。

「ドイツ語圏にて、19世紀終わりの10年、
その中心に二人の作曲家があった。
1860年生まれのマーラーと4歳年少のシュトラウスである。
彼らは早くから互いをライヴァルと意識し、
一般的に、彼らは同じように高く評価されながらも異質、
という風な位置づけとなっている。
マーラーは交響曲に優れ、シュトラウスはオペラに優れる。
しかし、シュトラウスもまた、
交響的な作品の作曲家としてデビューしており、
最初の交響詩『ドン・ファン』は、マーラーの『第一交響曲』と同時期、
1888年から89年にかけて書かれている。
(シュトラウスのオペラ作曲家としてのキャリアは、
8つめの音詩『家庭交響曲』の後、2年した、
1905年の『サロメ』まで離陸しなかった。)
シュトラウスもマーラーも、非常に色彩的な音楽を書いたし、
文学との結合も中心的要素として作品の中に持っており、
この観点からすると、二人とも、
リスト風の交響詩のコンセプトの後継者と言える。」
このあたり、だいぶ分かりやすいが、
マーラーとの関連をここまで長々と書く理由は不明である。

「『ドン・キホーテは、彼の音詩の第六番であって、
1897年のものである。
風刺の効いたセルバンテスの騎士ロマンス、
『ラマンチャの男、ドン・キホーテ』(1605、1615)に
基づいているが、タイトルだけ拝借したものではなく、
シュトラウスは材料として、いくつかの章を選び、
明白な内容のリストを作ってもいる。
スコアにある言葉の引用としては、しかし、
これら2人のキャラクターを表す、
主題が最初に出て来る時の、
『ドン・キホーテ』と『サンチョ・パンサ』の名前があるのみである。
騎士は独奏チェロで表され、恐らく、
シュトラウスは、ベルリオーズの、特異な協奏曲風交響曲、
『イタリアのハロルド』(1834)を踏襲したものと思われる。」

「イタリアのハロルド」については、このブログでも取り上げたので、
何らかの関連性が出来てよかった。
このところ、シューベルトから大きく離れてしまったので、
少々、心配であったのだが。
ちょっと、前の文章とのつながりが出来た。

「『ドン・キホーテ』の形式は、よくある1楽章形式の交響曲ではなく、
エキセントリックな英雄の個々のアドヴェンチャーの主題に相応しく、
序奏部と終曲に挟まれた10の変奏曲からなる。
シュトラウスは後に『ドン・キホーテ』の中に、
当時流行の騎士道に強烈な風刺を効かせた、
セルバンテスの精神に基づいて、
『へんてこな変奏曲の形に悲喜劇的な冗談を振りかけた』と書いている。
古くさい仰々しいフル・タイトル、
『序奏と主題と変奏と終曲。騎士的な性格の主題による幻想変奏曲』は、
作曲家の伝統からのアイロニカルな距離の取り方を示し、
1912年の『ナクソスのアリアドネ』では、
音楽そのものに、より明確に、
そうした、彼の距離の取り方が反映されている。」

アリアドネといえば、劇中劇のような、
二重構造の構成を持つことで知られているが、
「ドン・キホーテ」にもそうした要素があるのだろうか。

実は、この解説、ここから最後にかけての記述が嬉しかった。
「『英雄の業績』と題された部分において、
作曲家自身の以前の作品が引用される点が重要な役割を演ずる、
どこか尊大な音詩『英雄の生涯』にも劣らず、
『ドン・キホーテ』の風刺的視点は、
シュトラウス自身にも向けられている。」
私は、こうした事実を単刀直入に聞きたかった。

「『英雄の生涯』は、
1898年まで完成しなかったとはいえ、
『ドン・キホーテ』と共に着想され、
同時期に描き始められたものである。
1897年4月の彼の日記には、
『交響詩“英雄と世界”は、形をなし始めている。
まるでパンの笛が、“ドン・キホーテ”を伴奏するかのように。』
彼は常々、これら二作品は一緒にプログラムに載せることを主張していた。
『ドン・キホーテ』と『英雄の生涯』は、一対の作品と考えられ、
特に、『ドン・キホーテ』は『英雄の生涯』と並べられて、
初めて完全に理解できるのである。」
このように、この解説では、
これまで見てきた解説のどれよりも、
この作品の作曲家の内面における位置づけに、
言及したものとなっているのだ。

つまり、単なる、セルバンテスの文学作品の描写、
とは完全に別次元の側面を有していたわけである。
反対にこれまでのCDにあったような、
描写の内容などには一切触れていない。

とはいえ、これまで、
マーラーとは違って、外面的なことばかりに、
労力を割いていたとされるシュトラウスの、
違う一面を見たような気がした。

マーラーは、美しい自然の中で、
「ここにあるものは、すべて作曲してしまった」
と言ったが、やがて、「アルプス交響曲」を書く、
シュトラウスもまた、見た物、聴いた者、
すべてを作曲していたことでは変わりない。

さて、貴公子フルニエとは異なり、
カラヤンの言うことをまったく聴かずに、
自由自在に演奏していたという、
ロストロポーヴィッチの解釈も聴きものである。

このLD、映像付で楽しんでいるうちに、
あっと言う間に終わってしまった。
とても美しい演奏で、
これを買って、有り難い気持ちになって、
満足するのではなかろうかと思った。

私には、しかし、基本的に65年の、
フルニエ盤との大きな差異は感じられなかった。
あいかわらず、流麗な演奏であるが、
カラヤン流に料理され尽くしたシュトラウスで、
先の解説にあった、シュトラウスがアイロニーの中に込めた、
二重三重の意味のようなものは、
ほとんど滲み出て来ない。
この作品に対する愛着を語ったとおり、
カラヤンは、冒頭から、非常に満足そうな表情である。
もう一人の主役のロストロポーヴィッチは、
彼の独奏が始まるまで、まったく姿を現わさない演出もすごい。

演奏会とは別に、
わざわざ、この部分は、ロストロ抜きで撮り直したとしか思えない。

おそらく、この巨匠は、
まさか、極東のリスナーごときに、
そんな風に取られるとは思わなかっただろうが、
この映像が、余計に、彼の解釈の平板さを剥き出しにしてしまった。

どこまでカラヤンの息がかかっているかは分からないが、
Artistic SupervisionにHerbert von Karajanとあるから、
彼の責任の範疇に数えてよいかと思うが、
まず、絵作りが常套的である。
この時点で、平面的にしか、音楽を見ていないことが明々白々。

映像編集は、時間ばかりかかって、
労多くして、というような単調な苦行であるが、
おそらく、こうした労力に専念しているうちに、
それ自体が目的になってしまったのかもしれない。

そうした落とし穴があれば、
作品数を落とすべきであるが、
彼は、その落とし穴にすら気づかなかったのであろうか。
大量に録音するスター指揮者とは、
実は、そうした宿命を背負うものなのかもしれない。

晩年のバーンスタインが、ライブ録音という形を好んだのも、
おそらく、そうしたルーチンに流れるのを、
聴衆の力で引き離す効果を求めたものに相違ない。

今回のLD、具体的に書き出すと、
とにかく、光で滲んだような楽器の光沢を背景に、
眼を瞑った指揮者の大写しばかりが映るものと思って頂ければよい。

そして、音楽が強奏になると、力一杯に力んで見せ、
流麗な部分では、なだらかな動作を見せる。
曲想が激しくなると、楽器のコラージュが始まる。
このような演出のルーチンワークの中に、
いったいどんな創造性があるのか理解できない。

とはいえ、確かに、これはこれで、
かつては、かっこよく見えたかもしれない。
眼を瞑った彼は、まるで、念ずるだけで、
魔法を繰り出すことの出来る超能力者に見えるではないか。
高度成長期のお父さんなら、
こんな風に、自由自在に部下を操ってみたいと、
憧れたとしても不思議はない。

我々の時代、多くの力を合わせて、
個々の力を超えようとする、
オープン・イノヴェーションが主流となりつつあるなか、
これは、完全に時代遅れの町工場の発想である。
(もちろん、今でも、こうしたスタイルが好きな、
中間管理職は多いものだが。)

つまり、ここでの楽団は、
遠隔操作で操られるロボット集団なのである。
ロボット集団などを率いて嬉しい価値観は、
北朝鮮を想起させる。

これは、団員の顔は写さないで良い、
音楽は俺様が奏でているのだ、と言ったという、
彼の言葉からもすでに分かっていたことだが、
第四変奏などで、カラヤンの手のひらが大写しになって、
そこに楽器が重ねられていくような編集までを見せられると、
もう、ほとんど、ギャグではないかと思ってしまう。

この後、ぺろっと舌を出して、
いかがでしたか?というような、やらせでもあった方が、
ずっと芸術として深いものになりそうだ。

シュトラウスは、自画自賛の「英雄の生涯」の毒消しのように、
「ドン・キホーテ」を書いたに相違ない。
が、カラヤンは、この作品までも、
自らの「英雄の生涯」にしてしまっている。

例えば、第三変奏の後半で、
騎士は崇高な理想に向かって、
素晴らしく美しい間奏曲のような音楽を奏でるが、
ここでは、カラヤン一人が、この世界で俺様を発揮して、
流麗に弧を描きながら陶酔している。

まるで、「英雄の完成」のような表現である。

シュトラウスが補完が必要だと思ったものに、
同じものを当てはめて、
それは、果たして、意味のあることなのだろうか。

また、前回の演奏でも気になった点だが、
序奏で、ドン・キホーテが、妄想の世界に突入する様子は、
音として、美しく磨き上げられているだけで、
あまり説得力を感じないし、
主人公が死んだ後の余韻も物足りない。

が、多くの人がすでに書き連ねたことを、
真似したように、ケチばかりを書いても仕方がない。
これはこれで完成した商品であることは間違いない。

先ほど、書いたように、あっと言う間に時間が流れ、
快適なひとときは約束されているのである。

コンサートマスターのシュヴァルベの活躍もそこそこ見られるし、
ヴィオラ独奏のコッホの登場もかっこよい。
ロストロポーヴィッチも、体当たりの熱演だが、
その力演以上に音が出ていないような気がする。
おそらく、音はレコード用に撮って、後から、
演奏会の絵を継ぎ接ぎしたのではないだろうか。
実演は、もっとホットな部分があったと想像した。

第三変奏で、ロストロポーヴィッチがコッホと、
アイコンタクトをしながら、シュヴァルベも絡んで来る三重奏は、
まことに美しい。これは、やはり、三人の個性がぶつかるからであろう。

双方向性といった特徴を有するweb2.0時代には、
このようなひとときに至福がある。

もちろん、眼を瞑って他人の介入を拒絶し続けるカラヤンには、
こうした喜びは無縁であろうが。

ハープの弦の向こうに時折見えるハーピストの女性も、
良く見えないがロマンティックである。
第五変奏で、夜風が主人公に襲いかかる時に、
眼があってはっとする。
シュトラウスの方は、こんな楽しみもある。
でも、何故、ウィンドマシーンは、画像に出て来ないのであろうか。
あまりにも、へんてこなので、失望させないようにだろうか。

一方、ラフマニノフの演奏は、どうも楽しめない。
音が硬いのか、音楽が堅苦しくてぎこちない。
曲想のせいか、画質も暗い感じがするし、
(よく見ると、ピアノが黒、ワイセンベルクの服も黒、
カラヤンの服も黒。オーケストラもみんな黒。
聴衆も黒くて、9月の録音とは思えない。)

ワイセンベルクは髪型も表情も兵隊のようで、気が滅入る。
それぞれが、それぞれの仕事をして帰って行きました、
という感じ。

このコンビによるラフマニノフの2番のLPは、
教会のステンドグラスのデザインで、
とても素敵だった印象があるが、
あの時のイメージはたぶん、ぶち壊しになる。


あまりにもカラヤンが映る比率が高く、
主役のはずのワイセンベルクですら居場所がなさそうなので、
我々聴衆の居場所などあるわけがない。

得られた事:「『ドン・キホーテ』+『英雄の生涯』≒シュトラウスの自画像」
カラヤンの場合:「『ドン・キホーテ』=『英雄の生涯』=俺様」
by franz310 | 2008-10-19 00:27 | 音楽
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