名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その137 |
個人的経験: 10年ほど前に、新星堂から出ていた、 ドイツ・オーストリアの弦楽四重奏団の CDシリーズは、 多くがSPからの復刻ものゆえか、 レーガーの弦楽四重奏曲第四番が、 3つの団体で聞き比べすることが出来る。 日本盤で発売されて入手しやすい レーガーの弦楽四重奏曲は、 ここまで古いものしかない、 という言い方も出来るだろう。 レーガーは、死後、何年かは名声を維持していたが、 その後、第二次大戦復興期になると消え失せてしまった作曲家、 と言ってもいいかもしれない。 しかし、オルフェオのCDでは、 1974年1月に、ケッケルト弦楽四重奏団が作品121、 つまりレーガー最後の弦楽四重奏曲を演奏したものが聴ける。 バイエルン放送局の録音とあるが、放送用の録音であろうか。 ハイドン、シューベルトが共に収録されているが、 ハイドンは1972年、シューベルトは1969年とあって、 いったいどういった経緯で録音され、集められたものであろうか。 収録の限界があるとは言え、 シューベルトは「四重奏断章」ですぐに終わってしまうし、 ハイドンはあまり演奏されることのない作品74からNo.1が 収められている。 最後がレーガーなので、ここまで渋くできることが出来るか、 と言えそうな選曲である。 室内楽が好きな人でも、よほどのことがないと、 欲しいとは思わないはずである。 1974年の時点では、 日本ではアマデウスやジュリアード、ラ・サール、 あるいは、イタリア、スメタナ四重奏団などだけが、 継続的なレコーディングで商業的に成功していたのみ。 あとは、東欧やフランスにそれぞれの本場物に強みを持っている団体がある、 というのが私の世界観であった。 そもそも、東独の団体は素晴らしいが、 西独には、メロス弦楽四重奏団しかない、といった印象すらあった。 ドイツが誇るイエロー・レーベルでも、 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスはアマデウス、 シューベルト、メンデルスゾーンはメロスに任せ、 ケッケルト四重奏団の出る幕はなかったのである。 ケッケルト四重奏団は、かろうじて、 エッシェンバッハの伴奏をしている、 無名の団体といった印象しか、私にはなかった。 何となく、エッシェンバッハが若かったこともあり、 若い団体かと思っていた。 が、このCDの解説を読むと、 この四重奏団が、ドイツの室内楽の基準となるような、 しかも長い伝統を持った団体である旨が、書かれていて驚いた。 Karl Schumannという人が書いている。 「室内楽愛好家が、旧ケッケルト四重奏団を思い出す時、 他の場合にはそんなことはないのに、その瞳は輝き出し、 有頂天となって、最上の言葉を並べずにはいられなくなる。 室内楽の伝統である厳粛さと、 ボヘミア風の音楽作りによるバイタリティに満ちた楽しさを融合させ、 40年以上の長きにわたって、ケッケルト四重奏団は、 室内楽の基準であった。 それは、深みに潜り込み、そして、高みに駆け上がる。」 こうあるように、ケッケルト四重奏団は、 エッシェンバッハの世代などではなく、 さらに古い世代の古豪だったわけである。 確かに、このオルフェオのCDでも、 第1ヴァイオリンに座っているのは、 かなりの老人に見える。 第2ヴァイオリンが、かなり若く、 エッシェンバッハの世代であろうか。 ケッケルトの息子のルドルフ・ヨアヒムである。 あとの二人は、リーデル、メルツで、 老ケッケルトと同世代である。 それにしても、いきなりボヘミア風の音楽作りとは、 どういう事だろうか。 そのあたりのことも、このCDの解説を読めば分かる。 「ケッケルト四重奏団の成功の秘密は単純だが、 まねの出来るものではなかった。 まだ、フランツ=ヨーゼフ帝の治世下の一地方であった、 ボヘミアに生まれた4人の仲間が、一緒になって、 プラハ音楽院に学び、 1938年、ヨーゼフ・カイルベルトによって創設された、 プラハのドイツ・フィルの弦楽器の第1奏者を占めた。 そして一年後、1939年には、 若い四重奏団は最初のコンサートを行った。 故国を離れ、1945年、46年のシーズンからは、 ボヘミアやシュレジエンからの亡命者によって構成され、 すぐに有名になった、バンベルク交響楽団で新しい出発をした。 さらに南に移動し、1949年にはさらに南に移動、 ミュンヘンにオイゲン・ヨッフムが創設した、 バイエルン放送交響楽団でも、彼らは第1奏者を務めた。 ルドルフ・ケッケルトは、主要なヴァイオリン協奏曲を演奏し、 ピアノのパートナーのマグダ・ルイとソナタのリサイタルを開き、 アウグスブルクのレオポルド・モーツァルト音楽院で、 教授として長い間、指導に当たった。 第2ヴァイオリンのヴィリー・ブーフナーの死によって、 四重奏団は危機を迎えたが、ケッケルトの息子で弟子でもあった、 ルドルフ・ヨアヒムがその空席を埋めた。」 このように、ケッケルトは、どうやら、 現在のチェコ領内に生まれながら、 大戦の混乱によって、亡命を余儀なくされた人と言うことが分かる。 プラハ音楽院の同級生が、 ラファエル・クーベリックということで、 どんな世代の人かは分かる。 クーベリックは、1914年生まれなので、 前に取り上げたシュトループより一回りほど若い。 が、1939年に創設したということなので、 1936年創設のシュトループ四重奏団と、 同時代の団体と考える事も出来る。 このバイエルン放送交響楽団は、1965年に来日して、 クーベリックが指揮、ブルックナーの「第8」を皮切りに、 ベートーヴェンの「田園」、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」、 モーツァルトの「ハフナー」、ヒンデミットの「交響的変容」、 フランクの「交響曲」、 さらに、シューベルトの「未完成」、 ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から、「前奏曲と愛の死」、 ドヴォルザークの「新世界交響曲」、 といった魅力的な曲目を披露したようである。 しかし、クーベリックのような、 作曲、指揮、ヴァイオリンにも才能があった同窓生というのは、 困ったものだ。 父親からして世界的ヴァイオリニストという名門。 さて、その来日時のメンバー表を見ると、 各セクションのトップに、 先に出て来たメンバーの名前が見える。 「第1バイオリン ルドルフ・ケッケルト ビオラ オスカー・リードル チェロ ヨーゼフ・メルツ」 第2ヴァイオリンのブーフナーの名前は見えないが、 まさしく、こうした形でも、彼らは来日していたようだ。 しかし、ケッケルト四重奏団が日本で広く知られることはなかったようだ。 この四重奏団、それからも活躍していたようなのだが。 「1982年まで、それほどの疲れは見えなかったものの、 旧ケッケルト四重奏団はリタイアし、ルドルフ・ヨアヒムが、 後を継いで、新ケッケルト四重奏団となった。 その40年の間、彼らは5大陸を演奏旅行し、 王侯貴族の前でも、若い人たちの立ち席の前でも演奏した。 ビュルツブルクのモーツァルト・フェスティバルや、 ザルツブルク、ルツェルンのフェスティバルに参加して、 ベートーヴェンを輝かしく全曲演奏し、録音活動をし続けた。 20世紀中盤には、ケッケルト四重奏団は、 ドイツを代表する四重奏団となっていた。」 ということで、一般的評価は、日本での扱いと雲泥の差であった模様。 「そのレパートリーはヴィーンの3大家に19世紀ドイツもの、 さらに、隣国チェコのスメタナ、ドヴォルザークなどが占めた。 また、調性の残る音楽とはいえ、 ヒンデミット、クルシェネク、Zillig、Holler、Bialas、 アルベルト・ヒナステラの近代物の初演も行っている。 音色には活力があり、豊かで感覚的、いささか大げさだが、 弱くはなく、凝りすぎたものでも気取った正確さを狙ったものでもない。 リーダーであるルドルフ・ケッケルトのレガート奏法には華と説得力がある。 Eger地方の村の鍛冶屋の息子であるヨーゼフ・メルツは、 逞しい低音の基礎を築き、ソロでは自然に力強い音楽を奏でる。 当然のことながら、正確さが基本にあって、 集中の不足やのんびりしたところは許されていない。 チームワークやバランス感覚が、ほとんど即興的な自由さで、 各演奏会で音楽をすることの喜びを引き出して行く。 ケッケルト四重奏団は、 ことさら内省的でも知的でもなければ、 唯美主義でもなく、 彼らはただ、弦を使って、 人生を表明している。」 すごい表現である。人生を表明する四重奏団。 また、ここで、彼らの出自、ボヘミアのことが出てくる。 そういえば、レーガーを驚かせたのも、ボヘミア四重奏団だった。 このCDにも入っている弦楽四重奏曲嬰へ短調作品121は、 「心からの友情を込めて、ボヘミア四重奏団へ』と書かれて、 彼らに献呈されたものである。 はたして、ケッケルトらは、 こうした経緯をどのように捉えていたのだろうか。 意識した選曲か否か。 「彼らのボヘミア出自は、その演奏を特徴付け、 その自発的なスタイルで知られることになる。」 ということは、当時のドイツの四重奏団は、 何か四角四面の計算されたスタイルだったように感じられるが、 確かに、シュトループ四重奏団などのスタイルは、 自発性ではあろうが、妙にかっちりかっちりしたものだった。 同時期に創設されながら、 戦後長く命脈を保ったのは、そうしたスタイルが受け入れられたから、 という感じの記述が続く。 「音楽の美しさと気品に対し、楽観的に身を委ねた彼らの演奏は、 戦後早い時期にどこででも受け入れられた。 旧ケッケルト四重奏団は、直感のマジックの大家であり、 室内楽が高尚に過ぎると思っている人以外、 ベートーヴェンの作品74に始まり、 バルトーク直後に終焉した王国を信じる者は誰も、 その音楽作りに抗しきれなかった。 ケッケルトのドヴォルザークやスメタナを別にしても、 それはおそらく、弦楽四重奏のえり抜きの芸術であり、 その基本とでも言えるものであろう。 ケッケルト四重奏団の録音に触れることによって、 20世紀中盤における音楽イベントを確認し、 味わうことが出来るのである。」 このように、ケッケルト四重奏団のような、 より自由で伸びやかなスタイルの演奏が、 戦後の音楽嗜好に受け入れられて行ったことが書かれている。 が、一方で、この筆者は、ケッケルトの演奏は自由気ままなものではなく、 芸術におぼれたものでもなく、ひたすらに人生を表出したものだと書く。 しかし、内省的というよりは楽天的であるとも書く。 このCDのデザインは、いかにもそうした団体の面影を伝えるものであろう。 単なる演奏風景でありながら、幾分下向きのケッケルトの面持ちが、 音楽に何かを託している感じである。 とにかく、選曲が渋いので、いったいどこで、 何に耳を澄ませればいいのか悩ましい選曲であるから、 演奏の少ないレーガーで比較してみよう。 この欄でも、この弦楽四重奏曲第五番は、 ベルン四重奏団や、マンハイム四重奏団で聞いて来た。 演奏時間を比較すると、 ベルン マンハイム ケッケルト 第一楽章 12.04 11.41 11.59 第二楽章 4.55 4.12 5.14 第三楽章 11.16 11.37 10.05 第四楽章 9.47 8.47 9.20 という風に、両端楽章はベルンとマンハイムの中間で、 第二楽章と第三楽章は、差がつかない方向にシフトしている。 弦楽四重奏曲第四番の比較時は、 新星堂のモノラルの演奏を行ったが、 さすがに1974年のステレオ録音ともなると、 ベルン、マンハイムのデジタル録音と比べても、 音質故に不利ということはない。 ケッケルト四重奏団の演奏、第一ヴァイオリン主導型と思えるが、 老ケッケルトが、しなやかな歌いぶりで、無理な楽想の変転を強いずに、 じわじわと曲想を盛り上げて行くところが見事である。 レーガーと同じ時代から生きている演奏家の、 老巧な音楽作りであろうか。 マンハイム、ベルンは、おそらく40歳代後半か50代はじめの録音。 したがって、と言うべきかどうか分からないが、 マンハイム盤などは、少々、聞いていて疲れる感じ。 第二、第三楽章の緩急の対比を一番、際だたせているのもここ。 第二楽章など、めまぐるしく飛ばしまくる上、音量変化も大きい。 いろんな楽器の掛け合いも挑発的。 第三楽章では、失速寸前まで引き延ばしている。 ベルンは最初に聞いた演奏ゆえに、私には、基準のような感じ。 豊かな低音に支えられ、立体的に構成した空間の印象が新鮮であるものの、 第一楽章展開部で騒然として、絶叫が入る場合もある。 ケッケルト盤には、そうした要素はなくて、 ある意味、穏やかに流れていくような感じ。 しかし、逆の見方をすると、覇気に不足し、 ケッケルトに依存して、空間的な広がりより、 時間を紡ぎ出すのに専念した演奏に聞こえる。 問題の第一楽章展開部でも、ケッケルト一人が興奮し、 みんなが一斉に騒然していないので、煩さが少ない。 これは、自発性がない、という言い方も出来ようが、 音楽をエンジョイしようとしている感じはある。 興奮はケッケルトに任せて、 その効果はしっかりバックでフォローします、 という美学とも思える。 従って、ソロで歌う所では、しっかり各奏者の音色が堪能できる。 そうした行き方ゆえか、このレーガーは、 非常に分かりやすい。 第一ヴァイオリンだけを聞いていればいいので、 心強い道標があるような印象だ。 が、動きの速い第二楽章などは、中庸化されて、 幾分、ショスタコーヴィチ的な動きのおもしろさに欠ける。 こうしたひねくれた楽章では、 ベルン四重奏団の抽象絵画のような構造感が威力を発揮し、 弱音時の神秘的な雰囲気などは、 ケッケルトからは絶対に聴けないような気もする。 第三楽章でも、ベルン盤は張り詰めた空気の温度が冷たい。 ケッケルト盤は、ケッケルトが一人、 かっかしてリードしている分、歌が熱い。 とはいえ、これはこれでストレートに胸に響く音楽になっている。 前述のように、マンハイム盤のようにまで引き延ばされると、 歌の感覚は希薄になる。 第四楽章は、マンハイム盤もここでは、前の楽章から一転して、 ちょこまかと動き回っているが、これがややうるさく感じられる。 この楽団の演奏、あまり不満はなかったが、 老巧なケッケルトの後で聞くと、妙に騒がしい印象が残る。 楽器の交錯も、とって付けたような無駄な動きに思えて来る。 一方、ベルン盤は線が細いが、 そのあたりは、一つの楽器のようになって、 例の卓越した幾何学的バランス感覚で面白く聞かせている。 この第四楽章、軽妙な弓裁きから始まる音楽ゆえ、 冒頭から、真意がどこにあるか計りかねる。 ケッケルト式の自由に歌い継ぐスタイルは、 安心して水先案内人に身を委ねておればよい。 いったい、レーガーは、どのような演奏を想定していたのだろうか。 これら三つの演奏を聴いていると、 ベルン盤が一番、四つの楽器の可能性を追求しているような気がするが、 人生を語っているのは、おそらくケッケルトだろう。 しかし、レーガーがこの曲を書きながら、 何を思っていたかはよく分からない。 このCDでも、レーガーの曲そのものの解説は、 作曲の時期が下記のように記してあるだけで、 特に見るべき物はない。 「1911年、『薔薇の騎士』初演の年、 これがなくとも、すでに過負荷の状態であった。 マイニンゲンの高名な宮廷オーケストラを監督することになり、 作曲の時間はほとんど残されていなかった。 そこで唯一、生まれたのが、 彼の5番目の、そして最後の四重奏曲、 作品121嬰へ短調である。 構成では、作品109に類似のものだが、 絶え間なく転調される材料で、 複雑な対位法を開拓している。 特に第一楽章やアダージョでは、調性の限界まで行っている。 しかし、すでに当時はシェーンベルクはこれを超えていた。 レーガーの好んだ嬰へ短調で書かれたスコアでは、 人に媚びを売るものは拒絶され、 ベートーヴェンやブラームスの機能和音を超えて、 四つの楽器による音楽作りがどこまで拡張できるかの、 探索が行われている。」 マイニンゲンの監督就任前の、その期待と不安が交錯する時期だが、 そんなものが音楽になるとは思えない。 さて、ケッケルト盤、レーガーでは、 いくぶん、昭和の演歌風であったが、 ハイドンの四重奏曲などを聞くと、 各楽器の歌の受け渡しが精妙で、 決して、ケッケルトが一人で泣き叫ぶ団体ではないことが分かる。 暖かなヴィオラの音色にも、豊かなチェロの響きにも、 ケッケルト同様の、生き生きとした血の流れが感じられる。 この作品は、ハイドン晩年らしく、完成度の高い力作ながら、 あまり演奏されないものである。 それは、交響曲的な構想の広がりゆえ、 とのことだが、ケッケルトのような演奏で聞くと、 この雄大な構想の中で、各奏者が十分に羽を広げて羽ばたき、 さすが円熟期の作品と思える。 シューベルトの演奏でも、 ケッケルトが歌いまくる感じで、 美しいヴァイオリンの音色が冴えるが、 危機の時代の作品であるゆえに、 これはもう少し、低音の不気味さや主張が必要のような気がした。 が、音楽としては、非常に美しい仕上がりになっている。 ここでは、シュトループが聞かせたような、 かちっ、かちっと止めて行くような演奏方法はない。 むしろ、ブタペスト四重奏団の1934年の録音などで、 ロイスマンが悠々と歌い継いでいるのに近い。 1934年といえば、ケッケルトが四重奏団を結成する少し前である。 このあたりの音楽美学が、ケッケルトの基本にあったとしてもおかしくはない。 得られた事:「戦後ドイツの気分は、ケッケルト四重奏団のひたむきな歌に共感した。」 |
by franz310
| 2008-08-23 23:52
| 音楽
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