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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その126

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その126_b0083728_1211222.jpg個人的体験:
前回、画家のベックリンが描いた
絵画作品をあしらったCDを
二枚紹介したが、
この人は、世紀末のドイツで
大変もてはやされたという記述が
印象に残った。
ただし、この画家、日本では、
まとまった画集が出た記憶もなく、
時折、レコード、CDの表紙になって、
その方面の方が、
あるいは、知名度が高いかもしれない。

それに加えて、何と、「ベックリン交響曲」なる作品もあって、
STERLINGというレーベルから出ている。

作曲したのはフーバー。
スイス音楽界の重鎮で、最も成功した作曲家だったらしい。
1852年生まれなので、チャイコフスキーとマーラーの、
間に挟まった世代である。

「フーバーは、自ら、ブルジョワの音楽家と考えており、
北方ドイツから来た重厚なロマン主義に、
南方の明るさ、快活さや官能性を混ぜ合わせている。
シューマン、ヴァーグナー、ブラームスの道を参考にしながら、
R・シュトラウスやドビュッシーにも影響を受けている。
彼はシューマンとその詩、自然と共にある音楽観、
つまり世界観を理想としていた。
その伝記作者、Edgar Refardtとの1898年の会話の中で、
彼はメンデルスゾーンのような古典を日々の糧と形容し、
シューマンは砂糖をかけた果物と表現した。
このようにフーバーは、世紀の変わり目のスイス音楽界の代表となり、
その作品は、8つの交響曲、ピアノとヴァイオリンの各協奏曲、
5つの歌劇、宗教曲、室内楽、ピアノ曲、
合唱曲や沢山の歌曲などを含む。」

「フーバーの作品にアカデミックな厳格さを求めてはならず、
初期においては批評家たちを苦しめた、
詩的で自発的な自然さがその音楽を支配している。
彼の感情の頻繁に変化する嵐のような生々しさが、
こうした因習的な嗜好にとってはあまりにもモダンで、
衝動的に見えたのである。
彼のスイスに対する結びつきは強く、
故郷やその自然に対する愛情は、
テル、ベックリン、スイス交響曲や、
ルツェルン湖のレントラーのような作品のテーマとして描かれた。
フーバーは、19世紀を通じて男声合唱ばかりが書かれていた、
スイスの音楽やその歴史に対する果断な変革者であった。
典型的にスイス的なものとは、言葉で表すよりも、むしろ、
エモーショナルなものだが、Karl Nefはそれを、
和音を鳴り響かせることと表現し、アルペンホルンなどの響きを例にした。」

このような人物、フーバーはしかし、
非常に自己批判の厳しい人だったようで、
厳しい出版前の審査によって、
20ばかりの作品が残っただけだと言う。

彼は書簡で、こう書いているらしい。
「芸術作品を創造するには、知性より心情が必要です。
人生もまた偉大な芸術作品であって、
それゆえに私もまた知性よりも心情を大切にしてきましたが、
がっかりしたでしょうか。
芸術は永遠の若さを持ちますが、芸術家もまた、
永遠の若さの中にあるのです。」

解説では、ここで収録作品の紹介に入るのだが、
非常に怪しい記述があるので後回しにする。

その後、フーバーの生い立ちの話になるが、
よく書いてあり、このCDでフーバーを復活させようという、
高い志を買った。
Hansjorg Lengerという人の執筆で、英訳はAbdrew Bernettとある。

「作曲家の父、ヨーハン・フーバー(1817-1902)は、
Eppenbergの教師として働いていて、1854年からは、
事業を営み、Schonenwerdの教会の合唱指揮者をしていた。
彼は小柄で物静か、生真面目で、
柔らかく親しみやすい物腰の人物で、
思慮深い話しぶりであったが、
母親のマーリエ(1818-1904)は、
反対に大柄で、堂々とした快活な人で、
魅力的な眼と話しぶりであった。
1852年7月28日に二人には息子、ヨハンが生まれ、
Shonenwertの魅力的な受禄聖職者用の修道院の中の家で、
手厚く保護されて成長した。
最初のピアノと音楽のレッスンを父親から受けた後、
7歳のヨハンは、Aarau合唱団の指揮者で、
後にNeuenburgの音楽監督となった、
Eduard Munzingerの下での勉強を始めた。
3年後、フーバーは、St.Ursの神学校で学びはじめたが、
ここでは、裕福ではない家庭からの才能ある少年たちが、
声変わりするまで、特に宗教音楽の音楽教育を受けられるのだった。
10人の少年が日課で3回、礼拝のために歌うのだが、
彼らは神学校で、後にベルンの音楽監督となる、
Carl Munzingerから、ピアノと音楽基礎の教育を
受けることができた。
フーバーはピアノ熱中し、すぐにベートーヴェンの『悲愴ソナタ』、
出版されたばかりのブラームスの『パガニーニ』変奏曲、
リスト編曲のヴァーグナーの『タンホイザー』を弾くようになった。
この学校を卒業するまでに、
教会の礼拝のためのオルガン奏者になるよう求められていたが、
彼はまた、男声合唱団に入ってその伴奏を務めていた。
父親とこの学校の僧正は、教会音楽家の修行をすることを望んだが、
ヨハンはCarl Munzingerの勧めもあって、
自由な音楽家の道を選ぶべく、1870年、ライプチヒ音楽院に向かった。
彼はピアノと室内楽、作曲や合唱を、
カール・ライネッケ(1824-1910、ゲヴァントハウスの監督)に学び、
エルンスト・フリードリヒ・リヒター
(1808-1879トマス教会カントール)に音楽理論を、
オスカー・パウル博士(1836-1898)に音楽史を学んだ。
ピアノはRobert PapperitzとErnst Ferdinand Wenzel
(クララ・シューマンの父、ヴィークの優れた弟子)についた。
まだ、学生の頃からフーバーは(流行りからハンスと名乗り)、
未完成の変ホ長調交響曲を含む、
現在はほとんどが失われた様々な音楽を書いていた。
変ロ長調のヴァイオリン・ソナタは1872年5月15日に、
ゲヴァントハウスで演奏され、教授連に賞賛された。
彼は引き続き室内楽を書き、1873年には、
ピアノと管弦楽のための小協奏曲を書き、
これは1874年5月19日に、彼の卒業試験として提出された。」
なんだか、それほど重要とも思えない作品の初演日まで列挙されると、
だんだん、嫌気がさしてくるが、興味がある人には貴重な研究用資料になろう。
そこまで、フーバーに惚れ込んだ解説になっている。

「彼のメンデルスゾーン、シューマンに連なる保守的な立場に対し、
ライネッケは、もっと先を行くよう激励し、
リストやヴァーグナーに、直ちにもっと影響されるようになった。
1872年、ライネッケは、このように批判した。
『フーバーが大規模な作品で成功できないのは、
その技量の限界のみならず、
そのバランスを欠いた傾向にある』。
後に有名な音楽学者となるHugo Riemann(1849-1919)、
Otto Klauwell(1851-1917)らの友人らと、
フーバーは、伝統的音楽とモダンな音楽の両方に魅了されるようになった。」
おっと、このリーマンというのは、
レーガーにバッハやブラームスを叩き込んだ人ではないか。
フーバーとレーガーにはこんな繋がりもあったのか。

この後、フーバーはいろいろな成功を、
ピアニスト、指揮者として収めるが、
音楽学校のポストなどを蹴り、
指揮者になりたいと考える。
ライネッケは彼をもっとも優秀な生徒と考え、
Wenzelはそのピアノ技量を学生の域を超えているとした。

さらに、早くから、自作を聴くことを好まない性分も明らかになった。
1870年代の彼のことが、延々数十行以上続くので、
だんだんいらいらしてきた。
この人は1852年の生まれで、
レーガーより長生きして1921年まで生存していたのに、
20代の話からさっぱり先に進まない。

オルガン奏者や個人教授などをしながら作曲も続けたが、
「力強い流れ」や「音色や強いられない自然さ」
「詩的で高貴、深い感情」、「個性的な道の発見」
などを賞賛される一方で、
バーゼルの音楽学校の校長からは、
「和音は聞きづらく、自然主義が支配していて、
才能はあるかもしれないが、不協和音だらけである」
と酷評された。

かなりすっとばしたが、次のように、まだ、1870年代の話が続いている。
「1874年12月、
バーゼルでシューマンの『コンツェルトシュティック作品92』
を演奏した後、
フーバーは、ここで、作曲家の道を歩むべく、
1877年、この街に引っ越した。」
それから、August Walter(1821-96)に師事して、
ピアノ協奏曲第一番作品36を1878年に作曲。

ずっとはしょったが、
まだ、26歳の頃の話が続いている。疲れた。

あと44年の話は、1ページで語られるようだ。
1880年にヴァイオリン協奏曲作品40を書いた。
とあって、ようやく80年代の話になるが、
まだ20代である。
同じ年、彼は、バーゼルの有名な歌手、Ida Potzondと結婚した。

1881年、「テル交響曲」(ウィリアム・テルであろう)作品63を書き、
リストに賞賛され、有名になって、ライプチヒからも新作の委嘱が来る。
アルザス地方とも関係ができる。

アルザスといえば、ドイツとフランスの係争地帯であるが、
どうやら、ドイツ系にどっぷりという感じのフーバーは、
フランスとの関係もありそうだ。

そんなこんなで、バーゼルの彼の個人教授の弟子は増え続け、
音楽大学ができる。
1992年、ゴットフリート・ケラーの原作による、
「Schweizer Festspiel zur Kleinbasler Gedenkfeier」の作曲によって、
その人気は一段と高まり、
1901年の二番目の野外劇、「1501年バーゼルのスイス参加記念祭」
によって国民的英雄となった。
そして新音楽監督となり、スイス人だけでなく、多くの後進も育成した。
ブラームスやブゾーニが頻繁に訪れ、
ダルベール、R・シュトラウス、フィッツナー、レーガーなどと交遊し、
1920年にはサン=サーンスがナイトに推薦した。

ここでも、唐突にフランスの作曲家の名前が出る。
強力なドイツ音楽からの独立という点で、
何らかの親近感があったかもしれない。

しかし、1918年には重い糖尿病でリタイアし、
Locarnoで治療に専念、ここでは主に教会音楽が書かれたが、
肺炎の悪化で1921年に死去、Vitznauに葬られた。

ということで、こんな生涯を送った人の、
「ベックリン交響曲」で、解説にはこうある。

「1897年、バーゼルはそこで生まれた有名な画家、
アーノルト・ベックリン(1827-1901)の70歳を記念して、
大きな展覧会を催し、ベックリンメダルとベックリンストリートで祝った。
1897年10月23日からは、
これまたこの市で有名な作曲家、ピアニストで指揮者、
音楽院長でもあるハンス・フーバー博士によって、
ベックリンの絵画に霊感を受けた野外劇が催された。
展覧会は、『Sieh’,es lacht die Au』、『プロメテウス』、
『愛の春』など、ダルムシュタッドのマキシミリアン男爵のコレクションにより、
85点の展示物からなった。」

ということで、シューベルトの「プロメテウス」から脱線して来て、
ここで一応、ここでまた、「プロメテウス」が登場して、
何となく、まとまりがついて安心した。

「健康を害し、その配慮からベックリンは1892年から、
フィレンツェに住んでいたが、
息子のカルロと兄弟のヴェルナーをこの祝祭に、
代表として参加させた。
シュナイダーによると、ベックリンは、
音楽精神の画家であって、特に、
ベートーヴェン、シューベルト、バッハ、モーツァルトを好んでいた。
また、グルックの『精霊の踊り』を自身で弾いて、
感動して涙を流すほどだった。
ショパンとヴァーグナーは嫌いで、
バイロイトの『パルシファル』のステージデザインを拒絶している。
ベックリンの絵画の多くが、音楽に霊感を与えており、
交響詩『死者の国』を書いたワインガルトナーを別にしても、
多くの絵画が書かれ、レーガーの『4つの音詩』、ラフマニノフの『死の島』が、
レパートリーに残っている。
彼の同時代のCorinth、Thoma、フォイエルバッハと同様、
彼の絵画への興味も長続きしなかった。
彼らは、後期ロマン派の作曲家同様、
印象主義によって忘れ去られた。
それはまるで、世紀末の多産が消化しきれなかったようなものだ。
幸い、こうしたものが広く人々に再発見されつつある。
ハンス・フーバーもまた、再発見を待っており、
彼はベックリンを尊敬し、多くの絵画を賞賛していた。
1897年のベックリン祭とその展覧会に魅せられて、
彼の第二交響曲ホ短調が作曲された。
オリジナル版は、1898年の3月20日に登場し、
ヴァーグナーのパルシファル第三幕の『聖金曜日の音楽』の、
引用を含む。
(パルシファルがクンドリーに、
『あなたの涙も恵みの露となったのです。
あなたは泣いている。
ご覧なさい!
野原は微笑んでいるのです』という。)」

非常にややこしい。
この「ご覧なさい!野原は微笑んでいるのです」は、
前述のベックリン展に出た、『Sieh’,es lacht die Au』のことである。
しかも、この絵画が、このCDの表紙になっている。
ベックリンはヴァーグナーが嫌いで、
「パルシファル」のステージ画も断ったのではなかったか?
しかも、フーバーは、ヴァーグナーのファンときている。
ベックリンは、こんな曲を書かれて嬉しかったとは思えない。

この絵画、無垢の少女が、吟遊詩人か何かに、
花びらのようなものをかざしているようだが、
いったい、何なのだろう。
ベックリンの絵画は、この思わせぶりが魅力であるとはいえ、
何やら背景もありそうで、滅多なことは言えない。
が、ヴァーグナーの楽劇で、パルシファルが語る、
「草原が今日はなんと美しく見えることでしょう。
私はかつて不思議な花に出会い、
その花は情欲をもって我が頭にまといついたが、
このようにやさしい茎や花は
私は見たことがないのです。
すべてが無邪気にやさしく匂い、
親しげに私に語りかけます」
という情景だろうか。
左半分が暗くて、よく見えない。

解説に戻ると、
「各楽章は、
1. 春の目覚め
2. 輪舞(ベックリンの好きな『精霊の踊り』から)
3. 春と愛
4. 終曲、ベックリンの絵画による変容
という副題があった。
が、最初のリハーサルで、フーバーはこれを撤回、
改訂に入った。全体のタイトルも各楽章のタイトルも削除、
第一楽章のゆっくりした序奏も取っ払ってしまった。
中間部をのぞき、第二楽章も書き直し、
終楽章の3つの部分も消してしまった。
この交響曲はフーバーの友人、
フリードリヒ・へーガー(1841-1927)の指揮で、
1900年、6月2日にチューリヒで初演されたが、
これは、第一回スイス作曲家フェスティバルの、
勝利のクライマックスとなった。」

紆余曲折があったようで、さすが、自己批判の人。
単なる流行便乗男ではなかったようだ。

「たちまち、この作品は『ベックリン交響曲』として、
知られるようになり、
ドイツでもミュンヘンでワインガルトナーが、
ニキシュがベルリン・フィルを振って成功させ、
R・シュトラウスやF・シュタインバッハらも演奏して、
多くの機会に演奏されるようになった。」

ベックリンの死の前年であるが、いったい、画家は何と思ったのだろう。
また、1900年という年は、どう考えればいいだろう。
ブルックナー、ブラームス、チャイコフスキーは亡くなっており、
ドヴォルザークは活動を終え、
マーラー、シベリウス、ニールセンが台頭してきた時代。
が、フランスの巨匠たちの黄金期、
フランク、サン=サーンスはもとより、
ダンディ、ショーソン、デュカスらの傑作群から比べても遅い。
しかし、エルガーよりは早い。

ということで、様式が時代遅れと言っても10年くらいかもしれない。

「燃え立つようなファンファーレの動機で、
ホルンが第一楽章を開始するが、
(どの楽章もホルンで開始される)
これは交響曲のメインテーマ(ベックリン動機)に引き継がれ、
これはまずヴィオラで奏され、
アルペンホルンの呼び声のように、
この作品全体に行き渡る。
これは何度も何度も繰り返され、
オーケストラの各楽器に受け継がれて、
他の動機とも組み合わされる。
色彩的で雰囲気豊かな展開のあと、
穏やかなコーダが続く。」
ということで、この楽章、撤回されたものの、
当初、「春の目覚め」と題されていたというが、
もっと、激しい音楽。「春」というより、
燃えさかる夏のような楽章に聞こえる。

木管による第二主題も夕暮れ時の情感を忍ばせて、
非常に美しい。
私は、先ほどからフランスにこだわったが、
ラロやダンディ、あるいはデュカスの交響曲と共通する真摯さと、
詩情を感じる。
この作曲家たちの作品も滅多に演奏されないが、
フランクやサン=サーンスの交響曲などは演奏回数を半減させてもいいから、
このフーバー作品を含め、ラロやダンディ(特に「第二」)、デュカスは、
もっと、演奏されるべきではなかろうか。

この切羽詰まったような力強い表現や色彩感は、特に晩年のラロを思わせ、
モニュメンタルな広がりや、伸びやかな詩情ではデュカスを思わせる。
全曲42分のそこそこの大作で、第一楽章は12分。

「マイルドな」と表現されたコーダは、
ティンパニの連打の中に、日没の静寂が訪れる雰囲気でこれまた美しい。

第二楽章は粗野なコーダで、これまた聴き応えある、
野趣あふれる楽章で、当初の「精霊の踊り」などではなく、
「ワルプルギスの夜」さながらである。

今回、私が怪しい一文を見いだしたのもこの部分で、
解説にはこんなことが書いてある。
理解が間違っていたら教えてほしい。

「第二楽章のスケルツォは、野性的なバッカスの祭典の狂気の音楽で、
活力にあふれたディオニソス的な音楽である。
ここではベックリン動機は、中間部にみだらで粗野な性格で現れる。
本当かどうか分からないが、ベックリン自身の官能性、
チューリヒにおけるゴットフリート・ケラーとの、
酔っぱらった会合がこの楽章のインスピレーションになったという事を、
聞き手に想起させる。」

いったい、この「well-libricated」なミーティングとは何か。
なぜ、急に、ここで、唐突に小説家、詩人のG・ケラーが出てくるのだろうか。
この有名な画家と文学者はチューリヒで何をやっていたのか。
音楽愛好家にも、ディーリアスのオペラで知られる、
ケラーは、調べて見ると、1819年の生まれ、
ベックリンとは10歳と離れていない。

第三楽章は、当初、「春と愛」と題されたというが、
これはその名残を感じる。
まるで、蜃気楼の中のような神秘的なアダージョで、
水彩で描かれたような、一幅の音画となっている。
いまいち、全体の構成感はわかりにくいが、
時折、ヴァイオリン独奏やハープの音色がきらめく。
雲の流れのようなものも見えるようである。
だんだん音楽は盛り上がって、スイスの雄大な眺望を空想しても良さそうだ。
これを聴くと、このCDの表紙に、
「A Great Discovery!!」と書かれ、
「ROMANTIKER SUISSE」と特筆してあるのも理解できる。

「第三楽章で、クラリネットが夢見るような聖歌
聖金曜日の音楽の春の雰囲気を思い出させる。」
こう書くと身も蓋もないが、確かにヴァーグナーの、
「パルシファル」の聖金曜日の音楽の雰囲気といえば、
内容は予想できる。
これまで書かれた内容から察するに、
ここで、CDの表紙のデザインを見て、思いを馳せるべきなのか。
しかし、この絵画、春にしては、
木々は茶色、吟遊詩人の足下も茶色。
微妙。よく分からない。
少女は、秋の紅葉を差し出しているようにも見える。

さて、いよいよ、直接的にベックリン的な最終楽章。
ベックリンの絵画による「変容」って何なんだ。
どっひゃー、第四楽章の冒頭は壮大なオルガン付き。
「カラフルな第四楽章は英雄的で聖典のような、
序奏がソロ・クラリネットの『ベックリン動機』に先立つ。
ベックリンが、展覧会で、
彼の絵画の前を見ながら歩いているような感じを受ける。」
ということで、スイス版「展覧会の絵」も兼ねているわけである。
ここでのクラリネット独奏によるベックリン動機を聞くと、
確かにアルペンホルンのような印象を受ける。

「変容、むしろ性格的変奏曲は、
各絵画の内容の描写ではなく、
それらを見ながら芸術家の感情が変化していく様を表している。
絵画を見て行くうちに、
静けさや激しさの間を変化し、
『海の静けさ』から、『バッカナール』の急速なワルツに至るまで、
絶え間ない増強がなされ、驚異的な神格化がなされていく。
この変容は、各変奏にトラックがついていて、
とても親切で助かる。
「海の静けさ」:不気味な沈黙である。37秒。
「プロメテウス」:この部分も48秒しかないが、
私の印象では、鷲が飛来し、プロメテウスの肝臓をついばむ感じ。
本当にベックリンの絵画がその場面かどうかは未確認。
「ニンフ」:2本のフルートとハープが牧歌的。1分22秒。
「夜」:幅広いチェロの音が広がって、夜の雰囲気たっぷり。1分33秒。
「波の戯れ」:木管が旋回して、神秘的な音楽。1分31秒。
「ヴァイオリンを弾く隠者」:ヴァイオリンとオルガンの独奏で大変美しい。
これはレーガーもテーマにしていたが、美しさでフーバーの勝ち。
1分46秒。
「死者の国」:スケルツォ的な軽妙な動きで楽しげだが、どんな絵だ?
59秒。
最後は、「愛の春」(55秒)と、
「バッカナール」で、壮大な光景が現れ、
強引に視野が開かれる。

「ベックリンの英雄的な人となりと作品が、
交響曲の両端楽章の導入部に反映されている。」
とあるが、
確かに、随所に、非常に剛毅。
不屈の独立国スイスの精神を思わせる。
特に、「愛の春」のあたりは、オルガンも鳴り響きすごい迫力。
これが、最後の軽妙な「バッカナール」に続くが、これは、
3分以上もかけて、快活なクライマックスへと盛り上がって行く。
レーガーの「ベックリンの音詩」でも最終楽章はバッカナールであった。

オルガンが壮大に鳴り響く、
スペクタクル超大作は、R・シュトラウスの「アルプス交響曲」を、
サン=サーンスの「オルガン交響曲」風味に仕上げたものにも見える。
これは実演で聴くと盛り上がりそうだ。
行け行けフーバー!
という感じ。
とても聴き応えがあり、変化に富んだ楽しい作品であった。
単に、流行便乗型のお祭り人間かと思ったフーバーであったが、
この作品には、とても、共感できるものがある。

見てきたように解説もよく、絵画をあしらった表紙も、
作品に関係していて、美しくかつ参考になる。

が、作曲家は、例の自己批判癖が出たのか、
「これはベックリンとは無関係に、
単にホ短調交響曲として聴いて欲しい」と言っているらしい。
確かに、ベックリンを知らずとも、十分魅力的な作品と見た。

この曲の他、このCDには、より明るく快活な、
「交響的序奏」と「コメディー序曲作品50」が収められているが、
力尽きたので、ここで終了。

得られた事:「スイスの作曲家フーバーの『ベックリン交響曲』では、知られざる作曲家再発見の喜びを感じた。」
その2:「スイスの画家、ベックリンはシューベルトも好きだったようだが、それに関係する絵画はないのだろうか。」
「ベックリンは音楽愛好家には有名だが、まだまだ日本では未知の画家である。」
by franz310 | 2008-06-08 12:11 | 音楽
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