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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その113

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その113_b0083728_836636.jpg個人的経験:
ヴァーコーの歌った、
シューベルトの歌曲集、
「水にちなむリート集」では、
BIS盤でKooijiが歌わなかった、
マイヤーホーファーの
「ウルフルーの魚釣り」が聴ける。

この曲は、「ドナウの上で」と、「舟人」と共に、
作品21を構成するものである。


フィッシャー=ディースカウなども、
この二曲はセットでよく歌ったようだが、
「ウルフルーの魚釣り」は外している。
そうなると、少し、この曲が気になってきた。

ヴァーコーのCD、日本でも90年に発売されている。
ハイペリオンのシューベルト歌曲全集は、
非常に素晴らしいシリーズであったが、
40巻にも及ぶ大作のうち、半分にも行かないうちに、
日本盤発売は中断してしまった。
これは、ひょっとしたら、このヴァーコー盤あたりで、
多くの日本の聴衆は途方に暮れたからではなかろうか。

というのも、第一巻が、ジャネット・ベイカーという大物で、
ゲーテとシラーによる歌曲集という売れ筋を収めたのに対し、
第二巻がこのヴァーコー。
歌い手の知名度でも、曲目のマイナーさでもかなりの落差があった。
さらに、詩人別のシリーズかと思ったら、主題別という切り口で出た。

が、歌い口は甘くて自然、とても素直に楽しめる演奏。
ジャケットも、新緑が眩しくて点在する岸辺の花も美しい。
ナイーブな情感は、多くの曲目にぴったりの雰囲気である。

ちなみに曲目は、以下の13曲である。

1. 漁夫の歌 D351(ザーリス-ゼーヴィス詩)
「漁師の仕事は不屈の勇気、財産は水の幸」と、
ごく当たり前のことを民謡調でシンプルに歌うもの。

2. 同上 D562(第三作)
これは、少し叙情的になっている。
あらくれ男の感じは薄まっている。
子守歌になった感じ。
ザーリスーゼーヴィスは、ゲーテとも交流があった、
フランスの将校であったそうだが、シューベルトより、
6年長生きしている。

3. 漁師の歌 D881(シュレヒタ詩)
「漁師は心配や悲しみに煩わされない、
夜も明けぬうちに心も軽く舟を出す」
と爽快なものだが、
ドイッチュ番号からも円熟の作であると分かる。
この曲は作曲当時から人気のあるもので、
すぐにフォーグルが広め、プライなども愛称した有名な曲。
詩人のシュレヒタ男爵は、作曲家の幼馴染みだったらしい。

4. 水鏡 D639(同上)
「漁師が橋の上で恋人が来ないでいらいらしている」
という漁師らしからぬ風情。
が、まるで、漢詩のように鮮やかな情景。
「彼女はライラックの影で覗き、
彼女のリボンが水鏡に映った」という内容。
シューベルトの曲は、非常に簡潔なもの。

5. 冥界への旅 D526(マイヤーホーファー詩)
これは、マイヤーホーファーの合作に相応しい、
「忘却とは二重の死ということだ」という、
冥府の岸辺での絶唱。
第二節、「ここでは太陽も星も輝かず」という詩句では、
少々、中だるみの感があるが、
「いつこの苦しみは果てるのか、いつ?」
という絶望の後で、冒頭の素晴らしいメロディが戻って来る。

6. 至福の国 D743(ゼン詩)
ゼンは、危険人物として官憲に捉えられた、
シューベルトの学友として有名。
「私は人生の大海を進んで行く」という、
いかにもこの詩人らしい勇壮な行進曲である。
「水が大地に砕ける場所なら、
どこにでも降り立ってやる」と、勇ましいが、
1分程度の小品である。
が、シューベルトはこの人の詩には、
2曲しか曲を付けていないので、
二人の関係を探るときには貴重なものである。

7. 春の小川で D361(ショーバー詩)
「春の小川は楽しそうに流れるが、私の心は悲しい」
と歌われる感傷的なもの。
ショーバーは、マイヤーホーファーに続いて、
シューべルトが同居した友人。

8. 流れのほとりで D766(ゲーテ詩)
これも短く、新潮文庫には、
ゲーテ20歳の詩として紹介され、
そこでの訳詩「川辺にて」は、このようになっている。
「流れ行け、いとしく懐かしき歌よ、
忘却の海原へ流れ行け!
心を空になれを歌うわらべもなし、
花の盛りのおとめにも歌われじ。
なれはわが恋人をのみ歌いき。
されど今かの人はわが真心を嘲る。
わが歌は流るる水に記されぬ。
さらば水と共にぞ流れ行く。」

不実な女性への報われぬ恋の思いから、
さっさと逃れ去ってしまいたいのだろう。

音楽は、単純ながら気が利いている感じ。
粋な曲想の一筆書きという感じ。
ピアノの後奏がしゃれている。
フィッシャー=ディースカウも、
この曲は、終末的な気分が濃厚な、
円熟期におけるもっとも素朴なリート、
と評している。

9. 河 D565(作詞者不詳)
「しかし求めるものは決して見出せず、
いつも憧れを抱いて猛り下る」と、
自分の生命を川の流れになぞらえている。
この詩は、シュタッドラー作とも、
シューベルト自身の作とも言われるらしい。
石井不二雄訳では、このようになっている。
「僕の生命がうめきながら流れてゆく、
渦巻く波に高まり沈み、
荒々しく高い弓なりに
ここで飛出すと思えば、かしこで深く落込む。

静かな谷間を、緑の野を
かすかに震えながらざわめき流れる。
やすらぎと静かな世の中を求めながら、
静かな生活の喜びを覚える。

しかし求めるものは決して見出せず、
いつも憧れを抱いて猛り下り、
不機嫌に絶え間なく流れてゆく。
楽しく快活になることは決してない。」

このような苛烈な内容ゆえ、
当然ながらかなり火急を告げる曲想である。
激しい欲求不満をそのままぶつけた感じ。

学友、シュタッドラーとの別れに際して、
この曲が1817年の夏に成立したとしているが、
シュタッドラーは、後に、「ます」の成立に大きく関わる人。

しかし、詩を読むと、友人の旅立ちへのはなむけには、
「楽しく快活にはなれない」と予言するあたり、
あまりにも相応しくない内容ではあるまいか。
これは、詩を書いたのが、シュタッドラー自身でなければ、
許されないような気がするが、いかがだろうか。

この落ち着きのない曲は、短いが、斬新な作品は、
グレアム・ジョンソンの解説でも、下記のように書かれている。
「知らなければ、この曲を聴いて最初に心に浮かぶ作曲家は、
シューベルトではない。
嵐のような動きは、シューマンやブラームスの、
もっとロマンティックな幻想を想起させる。
興味深いことに、この曲の手稿はブラームスが所持しており、
1876年に出版を進めた。
その現代性は、まるで、その年に書かれたようにも思える程だ。
(偶然ながら、和声の圧縮と密度と、
絶え間ない16分音符の点では類似していながら、
別の土壌から、もう一つの歌曲が同時期に現れている。
フォーレの『ネル』である。)」

このように、極めて前衛的な曲として、ジョンソンは捉えている。
ちなみに、「ネル」は、ド・リールの詩で、
フォーレの歌曲では有名なもの。
同名の女性に愛を求める歌である。

この詩人の詩では、「イスファハーンのばら」なども有名だが、
さすがに、詩を見ると、シューベルトの時代より難解。
粟津則雄訳で、第一節では、こんな感じ。
「明るい陽の光を受けた、おまえのの真紅のばら、
おお六月、酔いしれたきらめきよ、
私にもかたむけておくれ、お前の黄金の盃を、
私の心も似ているのだ、おまえのばらに。」

それから、今回は、下記の3曲の、ジョンソンの解説を読んでみたい。

10.ドナウの上で D553(マイヤーホーファー詩)
この曲の内容は、すでにこのブログで説明したが、
ドナウ川から見える廃墟に、諸行無常を見るもの。
ジョンソンの解説は、こうある。

「詩人マイヤーホーファーは、ここで、
典型的なペシミスティックなムードである。
最初は、日没迫る雰囲気を持った単純な舟歌と思える。
ピアノの動きも、同様に浮世のはかなさを歌った、
モーツァルトの『夕べの想い』を思い起こさせる。
松の不気味な茂みに言及するや、水の音楽は左手に託され、
右手のトレモロは、優しくミステリアスに、
さらさらと音を立て始める。
真ん中の節では、歴史的な情景を描き、
シューマンのアイヒェンドルフのリーダークライスのいくつか、
そして同じ作曲家のハイネの詩による『山々や城が』を想起させる。
これは、ドナウの川旅と好一対のラインを題材としている。」

この「山々や城が」は、シューマン作曲の、
作品24の「リーダークライス」第七曲で、
「鏡のように澄んだラインをぼくの船は帆をかけて行く」
と歌われるから、まさしく、
「ドナウの上で」と同様の状況。

「でも僕は知っている。うわべは晴れやかでも、
その底には死の暗黒を秘めていることを」
という詩句は、まさしくマイヤーホーファーに通じるもの。
ただし、それを恋人になぞらえるあたりがハイネ風か。
シューマンの音楽は、帆をかけて進む感じより、
ボートを漕いでいる感じで、「ドナウの上で」にも、
確かに似ている。

しかし、ジョンソンのこの解説、
一曲聴くだけでも、モーツァルトから、シューマンまでを、
想起しなければならないので、大変な作業となる。
詩人もアイヒェンドルフやハイネを連想しなければならぬ。

さて、曲の解説に戻ると、
「死に絶えた英雄たちの偉業は、
左手のトリルで遠い昔の栄光の余韻を、
水中で響かせる。
同じ月に書かれた『羊飼いと馬上の男』(D517)と同様、
シューベルトは、これをこうしたトリルを歴史的な様式として用いている。
これは、いにしえの吟遊詩人にちなんだものだ。
こうした轟きについて、ジョン・リードは、
D960のピアノソナタの第一楽章の左手のトリルの
前触れのように思われることを指摘している。」

最後のソナタまで取り出されると、
ううむ、そうかなあ、という感じがしないでもない。

「この歌曲が、他の曲からの多くの引用に満ちているように、
その詩句から多くのほのめかしを感じ、
このドナウの旅のイメージや光景はすべて崩壊と死を表している。
曲の終わりは、まったく寂しく、人間の営みや運命の脆さの如く、
日没のように声は落ち込んでいく。
後奏の和声の変化は、『夜と夢』の後奏の短調バージョンのようで、
ここでは、悪夢や目が覚めてしまうようなうなされ方を表している。
マイヤーホーファーは、しばしば、古代の杖を使って、
自分の生きた時代を打ち据えたが、
ここでは、オーストリアの、日の光の下に、広く寓話を展開してみせた。
シューベルトは詩人の波長に感応し、認識し、
別の名では三途の川と呼ばれる川の色で彩った。
この歌曲は、1817年のマイヤーホーファー歌曲の傑作、
『冥府への旅』と対を成すものである。」
「冥府への旅」については、このCDでも聴けるのでありがたい。

11.舟人 D536(同上)
「この曲をシューベルトは1817年初頭に書いていたが、
後に、マイヤーホーファーが編集していた、
英国の少年雑誌風の、青年教養寄稿誌の中で発表された。
ヴィクトリア朝の価値観にマッチした、
ビーダーマイヤー期のモラルに基づく、
男らしい行動を取ることによって、
この歌の舟人は、勇気ある若者を演じている。
英国の少年誌の英雄は、シューベルトの時代の、
ドイツの高まるナショナリズムにマッチしていた。
Wyndham Lewisは、それを、
『人跡未踏の森、死の沼地を行き、
ラテン系の悪者を撃退する
経験と思想がぎゅうぎゅう詰まった、
屈強な北方人』と、表現した。」
このような時代背景や当時の雰囲気の説明は、
なかなか東洋にいると情報も少なく、
ほほう、と関心させられる。

確かに、この曲は、こうした詩の内容である。
「風の中、嵐の中で川を行く。
降りそそぐ雨で衣服はぐしょぬれだ。
私は力強く波に櫂の鞭を当て、
晴れた日の来ることを願う。

波浪があえぐボートを押し流し、
渦が、岩がボートをおびやかす。
石塊が岩壁から転げ落ち、
樅の木のため息が幽霊のうめき声のようだ。

こうなることになっていたのだ、
私の望んだことなのだ。
私は快適に過ぎてゆく人生を憎むのだ。
そしてたとえ波浪があえぐボートを呑み込んでも、
それでも私は自分の道を讃え続けることだろう。

だから、水の無力な怒りよ、猛れ、
胸からは幸せの泉が湧き出でて、
身体中をさわやかにする、おお男らしい胸板を持って
嵐に立ち向かう至上の喜びよ!」

こんな詩を書いたにもかかわらず、
マイヤーホーファーは自殺した。
逆に、こうした生き方をしたからとも言える。
とにかく、異常な高ぶりである。
解説はこう続く。
「人生の嵐をコントロールするのに、
この情景は、勇敢な英雄的側面、大胆でかっこ良いもの、
つまり、この詩人も作曲家も持てなかったもの、
しかし、かくありたいと願ったものを描写している。
マイヤーホーファーが願ったセルフイメージ、
ギリシア古代に対する熱狂的偏愛が、
もう一つの手がかりとなっている。
彼は、詩の中で、聖なるベルトをはめるに相応しい英雄として、
自身を描いた。
この詩において、望みが達成される幻想は、
シューベルトなら、もっと傷つきやすい主人公を描くであろうと、
詩を読んだ時に感じる、我々の予想を裏切っている。
しかし、これはこれで、疑いなく立派な効果的楽曲であり、
アインシュタインが言うように、一瞬にして、
よく作曲された歌である。
同じ年の『河』で、詩人の人生は、気まぐれにふらつく、
水に対比されるようなものだったが、『舟人』の中では、
暴れて力強いにもかかわらず、舟人の進路を変えるには至らない。
人は従順な自然の上に立っている。」
ここの部分、「河」は、マイヤーホーファーの作ではないので、
ちょっと、混乱している感じを受ける。
両方とも、1817年の作曲ではあるが。

「『櫂の鞭を当て』のあたりでの、
和声の粉砕は、特別に素晴らしく、
水を表すもう一つのピアノ音形が現れ、
このとき、人間の意思の力が、荒業で力強く制御する。
シューベルトは、この曲の作曲に非常な努力をしており、
この有名なマイヤーホーファー歌曲では、
その作曲過程において、単純な描写を越えた何か、
開発と挑戦が行われたとみるべきである。
これらの詩句が彼らに意味のあるものだったとしたら、
それは、彼が軽蔑していた社会の構成に関し、
マイヤーホーファーが戦っていたからである、というのは、
Walter Mittyの空想であるが、
マイヤーホーファーは大胆な舟人などではなく、
その衣装を着ていただけである。
彼はあえて、彼の時代の不条理や偏狭に対して、
オープンな立場に立っていたのではなく、
帝国検閲署の役人という最も権威的な勤めに、
のちには注力した。
革命的な気質を持ったマイヤーホーファーのフラストレーションは、
現代の我々には明確だが、彼の心を蝕んだ憤りは、
同時代人には隠されていた。
この詩のような破壊的な詩を書くことは、
逃避であり解放を意味していた。」

12.ウルフルーの魚釣り D525(同上)
これが、大いに気になる一曲。
何故、Kooijiは、この曲を取り上げなかったのか。
ウルフルーとはいったい何か。

詩を見てみると、あの有名な歌曲「ます」と、
同様のシチュエーションである。
第二の「ます」とでも呼んでよいものだ。
作曲された年からすると、「ます」前夜の「第ゼロのます」。

しかし、マイヤーホーファーの詩は、
むしろ、人間界との対比を強調し、シューベルトの曲想も、
爽快感はまるでなく、何か焦燥感に溢れ、不安定である。
したがって、ここから、あの名作が湧き出てきたものではない。

詩は、こういったもの。(石井不二雄訳)
「針が引き、竿がしなう、
だが簡単に飛び出してしまう。
わがままなおまえたち水の精は、
漁師にごちそうを与えない。
彼の利口な頭も何の役に立とう、
魚たちは跳ねまわり馬鹿にする。
彼は岸辺にじっと立ったまま、
水の中へは入れない、土が彼を引き留める。」

このような第一節は、「ます」の第二節、
「漁師が一人釣竿を手に、
岸のそばにやってきて、
冷たいまなこで
魚の泳ぎを見守った。
水がこんなに澄んでれば、
と僕は心に考えた、
よもやますも釣針に
かかることはあるまいな。」
と、ほとんど同じ情景である。

この前に、「ます」には、
元気な魚がきれいな水に泳ぐ情景が、
この後には、釣り人が水を濁らせて、
ますを釣り上げて、見ていた「僕」は、
むかっ腹を立てて、その漁師を睨んだ、
という節が来て終わる。

ところが、このマイヤーホーファーの詩では、
以下が続いて、まったく人間は無力なのである。
「滑らかな水面が渦を巻き、
鱗の連中が動き回る、
彼らは身体を喜ばしげに
安全な水の中で動かす。
マスはあちこち動き回るが、
漁師の釣針は空のままだ、
マスは自由の意味を感じており、
漁師の昔ながらの策略は実らない。」

おっと、この最後の2行は、この時代、
イエローカードに近い表現。
マスは自由の意味を感じている!
とはいえ、書いてあることは、
まるで、「ます」の第一節そのままのようだ。

最後の節は、次のようなもの。

ここで、私は、美しい自然を表現した、
広々とした音楽を期待したいが、
何だかルーチンで、前節と同じメロディが繰り返されるのみ。
少しがっかりである。
というか、有節歌曲なのである。
何ゆえに、この曲を、さっきの名作2曲と抱き合わせたのかは、
分からないが、3曲束にして、
(つまり、一曲、どうしようもないものを滑り込ませて、)
出版社にふっかけたということはなかろうか。

「大地はすばらしく美しい、
だが、そこは安全ではない。
氷った山々が嵐を送り出し、
雹や霜が襲って
一撃で、また一押しで、
黄金に実る穀物も満開の薔薇も駄目にする。
柔らかな屋根の下にいる魚たちには、
陸の嵐も追っては来ない。」

完全に人間と魚は分断されたままである。
ウルフルーが何かは、詩からは読み取れない。

では、ジョンソンの解説には、どうあるか。
「『ドナウ河の上にて』、『舟人』、『ウルフルーの魚釣り』は、
作品21として、1823年に一緒に出版された。
この頃までに、シューベルトのマイヤーホーファーの詩への付曲は、
ほとんど終わっており、実際、1820年の終わりには、
詩人と作曲家は不仲になっていたらしい。
したがって、この、一緒に暮らしていた頃の歌曲集の、
マイヤーホーファーへの献呈は、
シューベルトからの仲直りの贈り物だったのかもしれない。」

実は、このブログ、迷走気味で、
マイヤーホーファーとの共同生活については、
とちゅうまで書いたところで、脱線している。
「ます」の五重奏曲が書かれた頃のことを調べるためだったのだが、
そろそろ、もとに戻さなければなるまい。

「1823年の夏、作曲家は友人を必要としていた。
彼は病魔の犠牲となり、のちに病院で過ごすことになる。
彼は昔の歌を見直して、出版するために選定を行ううちに、
6年前に作曲した『ドナウ河の上で』に、死の運命の予兆を見た。
1823年5月には、シューベルトは、こんな一節を含む、
マイヤーホーファー風の詩を書いている。
『我が命を取れ、肉を血を、
全てをレーテーの流れに投げ込め』
この作品21の三曲は、その詩人や声の音域のみならず、
水に関して統一されており、当然、このディスクのテーマに合致する。
これらは、『低音のためのマイヤーホーファーによる三つの漁師の歌』
と題されている。
『ウルフルー』をオーデンの詩『穏やかな湖沼の魚』を予言しており、
ここでは、人間は獣や鳥など生き物に羨望の目を向ける。
この地上では人間には安らぎはなく、マイヤーホーファーの釣り人は、
魚たちの水中での安全に憧れる。
あまりにもヴィーン的な魅惑と悲哀の混合であるこの音楽は、
少し肩をすくめ、ため息をついて、苦笑いをするようなもので、
マイヤーホーファーの詩で唯一、田舎の労働者を描いたものだ。」

このように、ちょっと、この曲は、
理由有りのような扱いである。
やはり、少し単調な繰り返しの多い歌という感じだからか。

さて、下記のように、ウルフルーは漁師の名前であるらしい。
「ウルフルーは、『漁夫の歌』や、『漁師の歌』の、
名もなき同僚よりは明快なキャラクターを持つ。
英雄でも有能な漁師でもないが、自意識を持ち困難を切り抜ける人で、
愉快なマイナス思考のシェークスピア風の道化である。
もっと歌い手に賞賛されるのは、バイロン風の『舟人』で、
ここには、1817年のシューベルトの、音楽的自信が表明されている。
しかし、『ウルフルーの魚釣り』の黙想は、
1823年夏のシューベルトの、打ちひしがれた世界観の、
ほろ苦いパラドックスを反映しているようだ。」

が、作曲は、1823年ではなく、1817年なのである。
このように、この歌曲、何だかよく分からない問題作として、
宙ぶらりんな感じ。さすがのジョンソンも、これ以上、言えなかったか。

このCD、最後に、前回取り上げた、
13.潜水者 D111(シラー詩)が来る。
前回取り上げた、この大曲だけは、大海原を舞台にしているので、
このCDの表紙写真から想像されるものとは違う。

得られた事:「水中で『ます』の泳ぐ様は、複数の詩人にとって、生き生きとした自由な世界の象徴であった。」
by franz310 | 2008-03-09 08:36 | シューベルト
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