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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その111

個人的経験:
名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その111_b0083728_13473361.jpgシラーのバラードの、
大作二篇を収めた
CDとして、
スウェーデンの
人気レーベル、
BISから出ている
ものを発見した。
ここでも伴奏には、
古い時代の
フォルテピアノが
使われている。

このCD、しかし、シラーで集めたものではなく、
意表をついて、「Water in songs by Franz Schubert」と題され、
水の主題にテーマを当てたものとなっている。
「潜水者」はともかく、友情を主題とした「人質」が、
いくら河を泳ぎ渡るシーンがあるからと言って、
このタイトルでまとめられると、ちょっと首を傾げたくなる。

そもそも、解説を読んでも、
この作品における、水の役割などについては、
ほとんど書かれていない。

が、この2大作を並べて聞けるCDとして、
私はかなり聞き込んだ。演奏も、このレーベル特有の録音もよい。
1999年の録音で、ドイツの教会での収録。

バリトンのKooijも、ピアノのDoeselaarも、
発音すら分からないが、アムステルダムで勉強した人のようで、
私の「ます」体験が、アムステルダム五重奏団から、
始まったことからしても、実はポイントが高いのであった。
(写真を見ると、かなりのベテランに見える。)

オランダは古楽復興の地であるが、ここでも、
1835年のグラーフピアノが使われている。
前回のシュタイアーのピアノが1815年のものだったので、
20年の差異ゆえか、響きが豊かなのも嬉しい。
が、シューベルト死後の年代ゆえ、歴史考証はシュタイアーの方が上か。

表紙デザインは、爽やかな水の流れと水草の写真で、
五重奏曲「ます」のデザインにした方がよいような感じ。
S.Jonssonによる、Svagt strommande vattenとあるが、
何のことやらわからん。
いずれにせよ、このCDの収録曲にこうした感じのものはない。

嘘だと思われたら、以下の曲目を見て頂きたい。

1. 海の静寂 D216(ゲーテ)→死んだような海
2. 潜水者 D111(シラー)→ひきずりこんでおぼれさせる海
3. 水の上で歌う D774(シュトルベルク)→夕暮れの湖
4. 海辺にて D957-12(ハイネ)→不気味な海
5. 舟人 D536b(マイヤーホーファー)→恐ろしい川
6. ドナウ川の上で D553(マイヤーホーファー)→大きな川
7. 湖上にて D543b(ゲーテ)→山に囲まれた風光明媚な湖
8. 人質 D246(シラー)→洪水の川

プロデューサーが、シューベルトと水をテーマにするから、
と、適当にデザインに発注したという感じである。
デザインは、そういわれても困るなあ、と、
「ます」のレコードでも買ってきて、真似して作ったのではあるまいか。

あるいは、BISで、「ます」のCDを作る時の候補のあまりがあったから、
それを流用したのかもしれない。
最悪の空想は、会社に転がっていた、
この写真をプロデューサーが見て、そうだ、水にちなんだ曲で行こう、
と、本末転倒企画が出来たというもの。

いずれにせよ、このジャケットで、気に入って買った人は、
かわいそう。まったく、こんな感じの曲は出てこないのだから。

そんないきさつとは関係なかろうが、
このCD、シューベルトの曲集には珍しく、
ドイッチュ番号は全く書かれていない。

リストじゃあるまいし、実はこれまた、ふざけるなの世界。
上の一覧は私が調べて書いたものだ。

が、それ以外は、満足度は低くない。
そもそも、「潜水者」で、壮絶なピアノ間奏曲が現れて、
のけぞってしまった次第。いったいこれは何だ?
とにかく、渾身の雄弁な音楽である。

ということで、解説には何が書いてあるかを見てみよう。

以下のように各曲概観方式で、
前回のハルモニア・ムンディ盤と同様。

書いているのは、Lodewijk Meeuwsenという人で、
これまた発音も想像できない。

「シューベルトにとって、
音楽を補足するような言葉に対してであれ、
または補足しない言葉に対してであれ、
その作曲の領域をラディカルに押し広げた時期は、
1815年頃のことであった。
それと同じ年のこと、
ずっと、いかに音楽と言葉を結合させるかを語り合って来た、
ベルリン出身の作曲家ツェルターに対し、
ゲーテは、二つの要素の完璧な結合、つまり、
『身体(詩)に、立派なコート(音楽)をフィットさせる』こと、
について書き送っている。
ほとんど同時期にシューベルトにとっても、
このコートが、すでに小さすぎるようになっていたという事実は、
彼の音楽的、文学的天才の爆発的な拡大や、
まさしくそのゲーテと、
また、同じワイマールの仲間、シラーによる
疾風怒濤期の詩作における、
ものすごい感情の増幅によっても、
説明できるものだ。
このCDにおける『水の歌』の選曲は、
このような文脈から見るとき非常に興味深いものになる。」
「このような文脈」とは、詩に相応しい、
音楽の関係ということであろう。

「シューベルトが、
ゲーテやシラーの偉大なバラードを歌曲の素材に選んだことは、
ゲーテが好んでいた民謡という音楽形式を破壊するという、
彼の意図を明らかにするものだ。
『糸を紡ぐグレートヒェン』の伴奏に登場する糸車は、
一度だけよろめくが、古くからの伝統の和声の土台に則っており、
音楽形式の上でのみ革命的と言える。
有節形式は放棄され、曲は通して作曲されている。
ゲーテにもこれは受け入れられず、
『私の歌から、彼は新しい歌を作った』と言った。
『海の静寂』では、シューベルトはゲーテの原則に忠実であるように見え、
まばらなアルペッジョの和音が、『死の恐ろしい静寂』という歌詞の、
抑制された雰囲気を強調している。
最もデリケートな和声の変化は、次第に大胆になり、
『恐るべく広大な場所で』における、
ニ長調への転調においても、
このムードが解決されることはない。
このたった1ページ、32小節の中で、
シューベルトは完全なる不動の状態に献身し、
特に自然の恐るべきイメージを展開してみせる。
それと対をなす『楽しき航海』によって、
ゲーテは、『アイオロスは、恐ろしい足かせを緩める』
ことによって、我々を鬱陶しさから解き放つはずだったが、
シューベルトはこれには音楽を付けなかった。
詩人はこれらの2つの詩が、
必ずセットになるように願っていたのにもかかわらず。
しかし、ベートーヴェンは、
合唱曲『静かな海と楽しい航海』によって、
ゲーテの要求を満たした。」

この「海の静寂」は、フィッシャー=ディースカウも、
「天才的な作品」と書いており、
1815年のゲーテ歌曲の最も注目すべき歌曲としている。

伴奏や転調に対しても、「詩との完全な一致」があるとし、
「風の静けさと重苦しい気分がこれほど明快で、
自然な効果をもたらしながら表現されたことは、
これからのちの作品にもない」と激賞している。
シューベルトは18歳。恐るべき18歳である。

「シューベルトが、この『海の静寂』と比べると、
巨大な、シラーのバラード『潜水者』と『人質』を、
ほとんど同時に取り組んでいた事実には、
驚かされずにはいられない。
これらは、ゲーテとシラーが、バラードを競い合うことによって、
わだかまりを棄てたバラードの年、1797年に書かれたが、
1814年に、17歳のシューベルトは、『潜水者』に取り組んだ。
この詩を逐次的に音の絵画を、想像を絶する統一性で仕上げたが、
この27節は、生き生きとした効果の百科全書的な要約で、
多様性と独自性において空前のものである。
この莫大な分量にもかかわらず、質を損なうことなく、
シューベルトは使い古した装飾に埋没することはなかった。
この年、シューベルトは、ピアノ独奏曲を書かなかったが、
この『潜水者』の伴奏ピアノ部は、標題音楽的にも単純な仕事ではなかった。
例えば、文脈からは不自然だが、
ピアノの間奏曲における下降するため息の音形の上に現れる、
『哀れむように』と書かれた部分は、並外れており、
ほとんど内容は交響的でさえある
テンポ変化の非常に細かい支配や、
レチタティーボとアリオーソの交代によって、
シューベルトはこの巨大な作品をセグメントに分割し、
それによって構成感を与えている。」
ということで、ここで「交響的」と書かれているのが、
私が驚いたピアノ間奏曲のことか?

次が、これまで二度、取り上げた「人質」について。
メロスという固有名詞すら出てこない内容。
水のテーマはどうなったのだ?
「『人質』からの20節への付曲においても、
シューベルトは、レチタティーボやアリオーソといった、
カンタータの様式を借りている。
30にも及ぶ記号は、物語の叙事詩的な全域を設計し、強固にしている。
友情や忠節、死などが、その重要なテーマとして登場するが、
これらがシューベルトを、この詩に惹き付けさせたものだったに違いない。
1814年から1815年にシューベルトに現れた創造力の爆発は、
単純な有節歌曲の後任としてのドイツ歌曲の創作の新時代をもたらした。」
シラーの大曲2曲に関しては、あまり情報量のない解説である。
演奏も18分54秒もかけて、この曲の壮大な構想を描き出している。
バリトンとあるが、録音がクリアなせいか、
アレンほど、重々しいもこもこした感じはない。

それからマイヤーホーファーの2曲。
「同じ家を5年もシェアしていた、親密な友人、マイヤーホーファーについては、
シューベルトは、その陰気で秘密主義の性格をよく知っていた。
彼は古典主義者として一般には評判が高く、
彼の詩において、たびたび古典時代のメランコリックな憧れを吐露した。
自由な思想家としての民主主義的な詩人であるとともに、
国家の監査役、検閲官であった彼の矛盾に満ちた人生は、
最終的に彼を自殺に追い込んだ(二度目の試みで)。
一見、いくぶんありふれた『死の象徴』である、
『ドナウの上で』の詩の背景に反して、
その儚さの主題を超える側面を獲得した。
この作品を作曲するにあたり、
詩の感情や情緒を虫眼鏡で検査せよ、
しかるのちに声のイメージを膨らませよ、という、
E.T.A.ホフマンの歌曲作曲家の勧告を、
シューベルトは、ひどく気にしていたようだ。
劇的要素を盛り上げる繰り返し、
あらゆる不幸を背負ったモチーフなど、
個人的な拡張を伴う、
豊かなディテールの音楽語法を駆使して、
シューベルトは、この作品に黙示録的な世界を与えた。
マイヤーホーファーは実際、
彼もしばしば、シューベルトの解釈や付曲によって、
自身の詩をより良く理解するようになった、とも言及している。」
この詩は、ドナウ川に揺られているというよりも、
静かな湖面に漂うような優雅さで始まる。
しだいに、テンポが速くなるが、これは、
急流下りになるわけではなく、
感情の高ぶりによるものと思われる。
実際、「波の鏡に小舟が浮かんでいる」という描写であり、
波立つのは、「森は妖怪のごとくざわめき」という部分である。
このあと、対岸だかに見える古城の歴史に思いを馳せる部分があるが、
最後の節では、
「悲しくも草やぶがはびこって、
信仰の伝説も力を失った」と歌われる部分では、
冒頭のメロディがしみじみと儚さを歌い、
最後に、
「時代と同じく、波が没落をうながしている」
と唐突なこじつけ的な結論となる。
枯葉が散って行くような音形が、虚無の中に消えていく。
「つわものどもが夢のあと」と同様の情感が、
一気に退廃的な人生観に雪崩落ちていく。
「それは人間の業がすべて沈んでゆくからだ。」
という見方で一貫している詩なのである。

「『舟人』こそは、シューベルトによって、
同じ年である1817年、『ドナウの上で』の後に書かれたということは、
とても想像できない。
ここでは、人生の難関をシューベルトもマイヤーホーファーも、
ものともしておらず、16分音符の音形は、
じめじめした惨めさを振り払い、
向こう見ずな自信で、人生と格闘するよう導いている。」
確かに、この曲の詩は、
とても自殺するような人の言葉とは思えない。
石井不二雄訳では、
「風の中、嵐の中で川を行く、
降りそそぐ雨で衣服はぐしょぬれだ。」
という、気が滅入るような言葉で始まり、
第二節では、
「渦が岩がボートをおびやかす。
石塊が岩壁から転げ落ち、
樫の木の溜息が幽霊のうめき声のようだ。」
ともう、むちゃくちゃ、
さっさと陸に上がれと言いたくなる。
いったい、マイヤーホーファーは、
どんな経験からこの詩を構想したのだろうか。
もっぱら、シューベルトの友人という形でしか知られていない、
この詩人にも、きっと、様々なドラマがあったのだろう。
次の節がまたすごい。
「私の望んでいたことなのだ。
私は快適に過ぎていく人生を憎むのだ。」
とある。
最後は、「嵐に立ちむかう至上の喜びよ!」と、
叫ばれ、まったく、憂鬱な詩人の姿はない。
音楽も民謡のような朴訥な単純さを貴重とし、
妙にあっけらかんとした歌い口と、
執拗なリズム反復が格闘というより、
能天気の領域にまで踏み込んでいる。
シューベルトの中では異質な曲と見た。
同じ、「舟人」でも、シュレーゲルの詩につけたものとは、
かなり趣きが異なる。
このシュレーゲルの「舟人」についても、
今後、触れる機会があるだろう。

さて、これら二曲のマイヤーホーファー歌曲は、
作品21-1と21-2という対をなして出版されたようだ。
ゲーテが、「海の静寂」と「楽しい航海」を書いたのと、
張り合った結果の陰画なのであろうか。

このCDでは、あえて、この1と2の順番を入れ替え、
単純な「舟人」を先に持って来て、
より深い意味を感じさせる「ドナウの上で」を、
ぶち壊さないようにしたものと思われる。
ちなみに、フィッシャー=ディースカウは、これら2曲を、
「彼の技術のすべてを注ぎ込んだ」、「大胆な生の力が独創的」と、
好意的に表現している。

気になるので、改めて、ゲーテの詩を持ち出してみよう。
「楽しい航海」はシューベルトが曲をつけていないので、
新潮文庫の高橋健二訳で見てみよう。
ここでは、「海の静けさ」と「幸ある航路」とされていて、
格調高く文語調、シューベルトの歌詞対訳にこれがついていたら、
どんな感じになるだろう。石井不二雄訳と並べてみよう。
「海の静けさ」は、こんな感じ。
高橋訳:
「深き静けさ、水にあり、
なぎて動かず、わたつうみ。
あまりになげる海づらを
ながむる舟人の憂い顔。
風の来たらん方もなく、
死にもや絶えし静けさよ!
果てしも知らぬ海原に
立つ波もなし見る限り。」

石井訳:
「深い静寂が水を支配し、
海は動きなく安らいでいる。
そして船頭は心配そうに
鏡のような水面を見回している。」
という感じ。

「幸ある航路」は、高橋訳では、
「霧裂けて
空あかるみ
風の神、
障りの結ぼれを解く。
風そよぎ出で
舟人は勇み立つ。
急げ、いざ急げ!
波は分かたれ、
近づくや遠方、
早や陸の身ゆるよ!」
となっている。
先の解説で、「アイオロスは、」とあったが、
これは三行目に相当するのだろう。

確かに、静と動、対をなすべき詩となっている。
マイヤーホーファーやシューベルトは、
おそらく海を見たことがなく、
ホームグランドのドナウ河にて、
同様の一対を構想したのかもしれない。
それは、ゲーテの古典性から逸脱しているが、
妙に身近な感情吐露にも見える。
フィッシャーディースカウによると、
さらに、「ウルフルの魚釣り」という作品がまとめられ、
マイヤーホーファーに捧げられているとある。
この「ウルフル」とは、有名な「ます」と同様、
漁師と、水中で自由に泳ぎまわる魚(鱒)の駆け引きを歌ったが、
陸地に縛り付けられた人間の悲しさを強調したもの。
残念ながら、このCDでは聞かれない。
フィッシャー=ディースカウも、この曲には冷淡である。

さて、このCDにはあと3曲、名作が収録されている。
それを解説に見ていこう。
「シューベルトは1817年には、
ゲーテが、1775年、チューリッヒ湖で、
シュトルベルク伯爵と一緒に、
舟遊びをしたことを知っていたに違いない。
ベルリン社交界の花形、リリー・シェーネマンに魅せられ、
彼女から離れるためのスイス旅行であった。
最初の節からして、湖面を浮かぶ舟歌で漂い、
ゲーテは断固として彼の夢を追い払おうとする。
『消えろ、夢よ、どんなに輝かしくとも』。
6/8拍子は2/4拍子に即座に変わり、
シューベルトはゲーテを地上に戻す。
最後の節でも彼は詩人に警告を続けようとするかのようだ。」

曲調は明るく開放的で、遠く逃げ出した旅人の、
高揚した気分を余すことなく描きだしている。
波間に漂う小舟のリズムに、
「雲をかぶり空にそびえる山々」、
「波の上の無数の光が星のように漂う」と歌われ、
とても気持ちが良い。
「ここにも愛と生活はある」という絶唱では、
親密な曲想が愛らしい。
が、この後、音楽は緊迫感をまして終わるので、
先の解説者は、「警告を続ける」と書いたのだろうか。

ところで、先の高橋健二訳の「ゲーテ詩集」でも、
「リリー・シェーネマンに」という詩が収められている。
「やさしい谷間に、雪におおわれた丘に、
あなたの面影はいつも私の身近にありました。」
と直裁に歌われるもの。
しかし、この本、詩の背景がほとんど書かれていないので、
このCDの方が、ずっとゲーテ理解に近づけるような気がする。

CDの解説は、それから、
リストのピアノ編曲でも知られる「水の上で歌う」に移る。
演奏、収録順とまるで違うのが気になる。
「彼が作った、『水の上で歌う』と同様、
いささか訳の分からない詩人がシュトルベルクである。
シューベルトは、音楽素材とそれとぴったり合った形式を選び、
このそれほど優れているとは思えない詩に、
いつも以上の力を入れており、
結果として天才的な最高傑作が生まれた。
ピアノの波立つ動機、長調から短調へのシフト、
原調である変イの選択などすべてが、
すべての作品の中で、
絶対的な叙情性という意味で、
最高点を形成することとなった。」
この詩は、小舟の上で夕日を眺め、
自然観照しているようなものなのだが、
最後に、「私自身も光の翼に乗って、
移り行く時から去って行こう」と歌われたりするので、
Puzzling(わけのわからない)というのも分かる。
先ほどまでの作品は、1815年とか17年の作品だったが、
この曲は1823年の作品。

「このプログラムで、各曲は、水の動きの動機を含んでいるが、
ハイネの詩による1828年の『海辺で』では、
オープニング・バーにおいて、
シューベルトは波の音を完璧に捉えることに成功している。
彼は、詩人の効果的な言葉遣いを、
美しく刻まれたメロディラインに移し変え、
レチタティーボでドラマ性を強調している。
ハイネの隠された皮肉は音楽には現れず、
『涙』という言葉には、時代遅れの装飾すら見つけられる。
シューベルトの死後、相続人は、
ハイネやレルシュタープの詩による未出版の作品を、
『白鳥の歌』として出版した。
『海辺にて』を含む14の歌曲は、それぞれの関連性はなく、
歌曲集として捉えることは出来ない。」
この最後の一節は、「白鳥の歌」を分解して、
ここに取り上げた釈明だろうか。
みんな知っているので、書く必要はない内容。
むしろ、最晩年のシューベルトが、18歳のシューベルトと、
水の捉え方がどうなったかを書かないと、
この文章は解決しないと思うのだが、いかがだろうか。

得られた事:「『ます』の歌曲や五重奏曲を書く、何年も前から、シューベルトにとって水は重要な主題であった。」
by franz310 | 2008-02-24 13:55 | シューベルト
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