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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その82

b0083728_23234694.jpg個人的経験:
前々回、ヨアヒム編曲の、
「交響曲ハ長調」について、
書いてみたが、
最初の入手したのが、
この管弦楽版だったのに、
その後、しばらくして、
ブレンデルの廉価盤LPが出て、
むしろ、ピアノ連弾版の方を、
よく聴くようになった。

このブレンデル盤、
廉価で充実した商品ラインナップで有名な、
VOXから入手可能で、VOXBOXという、
3枚組CDで出ている。
ここには、うまい具合に、
これまで、何度か話題にしてきた、
リスト編曲の「さすらい人幻想曲」も入っている。

ちなみに、3枚の中には、代表的な連弾曲が三曲収められており、
前回、管弦楽版を紹介した、最高傑作とされる幻想曲へ短調も、
「人生の嵐」と題されたアレグロ(D.947)も2枚目にある。

3枚目の最後に、例のリスト版の「さすらい人幻想曲」があり、
あとは、原曲の「さすらい人幻想曲」や「即興曲」や「楽興の時」など、
ソナタ以外のシューベルトのピアノ名曲集といった趣きである。

CDケースのデザインも、シューベルトの顔がどーんと載せられて、
いかにも、シューベルトの音楽を聴く人ならこれを買えっという、
直接的なものになっている。
ブレンデルの顔が大写しになっているものよりずっと良い。

このピアノ連弾曲集と、リスト版の「さすらい人幻想曲」の解説が、
収録順とは異なり、都合よく続けて書かれているので、
今回は、それを見ていくことにしよう。

まずは、「幻想曲へ短調 作品103(D.940)」から、
「四手ピアノのためにこれまで書かれた最高の作品は、
おそらくシューベルトによって作曲されたものであろう。
コンサートホールの要求に沿った厳格な作品以上に、
家庭における親密な音楽演奏の喜びに相応しいこの種の音楽に、
愛情を持って手を尽くした作曲家は他にいない。
幻想曲へ短調は1828年の4月に書かれ、
1824年の、ジェリズでの楽しい日々の思い出のために、
エステルハージの令嬢、
後のクレンヌヴィル伯爵夫人に献呈された。」

この記述には、補足はいらないだろうか。
シューベルトが1824年に、エステルハージ家の、
ピアノ教師として、夏の別荘のあるジェリズに招かれ、
二人の令嬢を教えたが、カロリーネを思慕したとされる事。
また、カロリーネが結婚してクレンヌヴィル婦人となったのは、
シューベルトの死後16年もたった1844年のことであった。
従って、後のクレンヌヴィル伯爵夫人に献呈されたというより、
独身のカロリーネ・エステルハージに献呈されたのである。

「先に書かれた『さすらい人幻想曲』と同様、
ソナタの4つのパートが一つにまとめられ、
シューベルトが書いた最も悲愴な語法を含み、
近づいてくる死期の予感が感情の力を打ち砕く。
ショパンを予告する、忘れがたい悲歌風の第一主題に、
より断定的な主題が続く。
壮大なレチタティーボの形の緩徐楽章は、
ほとんどイタリア風メロディの優美さで、愛を告白する。
たくましいスケルツォの後、開始のテーマが再現し、
力強い主題は今回はパワフルなフガートに展開され、
胸を引き裂くような終結部を導く。」

こうした野心的な傑作が、死の年に突然出現し、
4年前の日々を追想して、カロリーネに捧げられたというのも、
様々な推測を呼んで仕方がない。

この20分ほどの曲も、
かつて、「グラン・デュオ」と同じLPに入っていたもので、
久しぶりの再会となった。

CDでは、さらに収録が可能ということであろう、
同じ2枚目のCDに、
「人生の嵐」というアレグロの断章が入っている。
この奇妙な題名ゆえか、この曲もよく演奏される部類である。

「アレグロ イ短調、作品144(D.947)『人生の嵐』」
と書かれているが、Dナンバーで明らかなように、
これまた最晩年の作品である。

「この曲はシューベルトの死のわずか半年前に書かれ、
ハ長調の『大交響曲』と、変ホ長調ミサ曲にはさまれた時期である。」
これまで、最初、ディアベリ社から作品144として出版され、
仮に『人生の嵐、性格的アレグロ』と題された。」

ちょっと、待った、そうは言っても、
演奏に11分もかかるこの曲の解説がこれだけ?
アインシュタインなどの本を読んでも、この曲は、少し空疎で、
何か続く楽章の構想の萌芽を暗示するものがある
と書いてあるだけである。
たまたま、アインシュタインの本を見ると、
先の「幻想曲」の解説も同じようなことが書かれており、
解説者は、この有名な著作をぱくったものと思われた。

さて、我らが「グラン・デュオ」であるが、
「ソナタ ハ長調 作品140(D.812)『グラン・デュオ』」
と題されており、解説の書き出しには、「グラン・デュオ」ソナタと書かれている。
LPでは、正直な直訳で「大二重奏曲」と書かれていたと思うが、
「大二重奏曲」ソナタと書くと、少し座り心地が悪いので、この路線で続ける。

「この『グラン・デュオ』ソナタは、1824年、ジェリズで書かれ、
大きな構想で書かれた4楽章のソナタで、
シューベルトの野心作の一つである。」
エステルハージも困った場所に別荘を持ったもので、
「ジェリズ」と訳す人もいれば、
アインシュタインの訳書では、「ゼレチュ」と書かれ、
私などは、何かで読んで「ツェリス」と書いていたし、
他の本では「ジェリッツ」とされている。
したがって、どう書いていいか分からないが、ここでは、
「友人たちの回想」に合わせた。

「この構想があまりに印象的で、書法も力強く、
多くのシューベルトの研究家が、
翌年ガシュタインでシューベルトが書いたとされる、
最新の交響曲のピアノアレンジでないかと考えて来た。
しかし、シューベルトはこれまで交響曲を、
ピアノ四手のためにスケッチしたことは一度とてなく、
多くの部分が非常にピアニスティックな書法で、
オーケストラで演奏するとやっかいな問題となる。
多くの論議があったが、ヨアヒムは、
いささか退屈でシューマン的なオーケストレーションを行い、
『ガシュタイン交響曲』とタイトルをつけた。」

この一節は、なかなか悩ましい。
これまでスケッチしたことはない、とあるが、
この曲は、スケッチではないし、ジェリズにいて、
ピアノ四手作品を書く立場にいたことが無視されている。
さらに、シューベルトは、序曲などでは、
管弦楽版以外に四手ピアノ版を残しており、
ヨアヒム編曲に「ガシュタイン交響曲」と書いたというのも初耳である。
ヨアヒムがこれを編曲したのと、
シューベルトの幻の交響曲の研究が始まったのは、
時期がこの記述とは反対で、ヨアヒム編曲が先なのである。
あるいは、そうした楽譜も出たかもしれないが、この書き方だと、
ヨアヒムが詐欺師に見えるではないか。
さらに、名手が編曲すると、
あたかもその楽器のために書かれたかのように響くのは周知のとおりで、
連弾バージョンのピアノ的な書法ゆえに、
交響曲の構想がないとは言い切れないのではないか。

ブラームスなどは交響曲のピアノバージョンを残したが、
こちらの方がすっきりして、よく分かるという人もいる。

が、先のアインシュタインなどは、
この曲に交響曲の構想を聞くことは、
もっての他であると、その著書の中で連呼しており、
シューベルトが書きたかったのは、
厳粛な音楽のピアノ編曲ではなく、
大規模でまじめな娯楽音楽であると言い切っている。

そのあたりをいろいろ空想しながら聴ける我々は、
幸福なのかもしれない。

「それはともかく、
シューベルトが到達した高いランクの作品である。
最初の楽章は、似通った二つの主題から、非常に叙情的で、
イ長調の緩徐楽章は、
時に、ベートーヴェンの第二交響曲のラルゲットを想起させるが、
この作品はシューベルトが好んでいた作品であると同時に、
ベートーヴェンの中では最もシューベルト的な作品である。」
これはよく書かれることだが、そうであろうか。
シューベルトの緩徐楽章に現れる何かを宣告するような、
激しい楽想はベートーヴェンにはない。

「男っぽく、たくましいスケルツォは、健康的で明るいが、
最もロマンティックなシューマンを思わせるトリオを有する。」
この部分は、前回説明したとおりである。
「終楽章は楽想が爆発し、
ドラマとコメディが比類なき手法で織り込まれ、
この偉大な作品の有終の美を飾る。」

シューベルトの作品のうち、高いランクを占めるということは、
ここにも明らかであるが、
常に、ベートーヴェンやシューマンと比較されて、
かえって損しているのではなかろうか。
非常に独創的な大曲であるにもかかわらず。

改めて、この「グラン・デュオ」を聞いてみたが、
ブレンデルとクローシェの演奏で、記憶の中の演奏以上に、
素晴らしく聞き入ってしまった。
シュナーベルやカーゾンを思わせる、
禁欲的なまでにきれいなピアノの音が印象的で、
他の多くのライヴァルの演奏が、
何だかふやけた演奏に聞こえるほどである。

b0083728_232649.jpgただし、管弦楽版で、
丁寧で陰影に富む演奏を
聞かせたエッシェンバッハは、
ドイツの誇る
新星ピアニストとしても
鳴らしただけあって、
連弾版でもフランツと一緒に
この曲を録音している。
これまた、最近では
廉価盤で出ているのが嬉しい。
解説は適当でジャケットはそこそこ。

驚いたのは、管弦楽版と同様、細部まで表情にこだわった、
非常に複雑な味わいの演奏になっていることである。
これはこれで、管弦楽にまで拡大したくなる演奏だ。
4枚組で、まだまだ清聴すべきだが、
ブレンデルのCDに戻ろう。

次に、珍曲の部類になるであろうか、
シューベルトより十何歳か若いリストが、
憧れの先輩の作品に、オーケストラ伴奏をつけた、
「さすらい人幻想曲」、これは、解説が少し凝っていて、
これを読めば、この編作の魅力も分かるというものだ。

「シューベルト-リスト:さすらい人幻想曲。
シューマンと共に、フランツ・リストは、
ロマン派の時代の音楽人に、シューベルトの天才を喚起したことで、
最も貢献があった人である。
シューマンは、亡くなったばかりの作曲家の『天国的な長さ』を、
彼の雑誌、『新音楽時報』で擁護したが、リストは、
超絶技巧の演奏家として、
また編曲者としての総ての能力を振り絞って、
シューベルトを広く知らしめた。」

ここでも、高踏的な言い回しが気になるが、シューマンは、
優れたシューベルト論を書き連ねたものの、必ずしも、
その長さだけを擁護したわけではない。

「私たちは19世紀が、作品への忠実さなどからは離れ、
もっと異質の演奏が好まれた時代であったことを思い出す必要があろう。
パガニーニに代表される魔性のヴィルトゥオーソが、作品や聴衆を、
自分の好みや人を魅了する才能に従わせた。
今日、こうした作品を過小評価するのは残念なことである。
シューベルト自身、パガニーニのアダージョの演奏を聞いた後で、
『天使が歌っているのを聴いた』と言ったことを思い出そう。
この時代、華麗な演奏を通じて、音楽を知ったのである。
今日、しばしば、音楽の名のもとに、
技巧的な完璧さを偏重するのとは違って。
リストによる、シューベルト歌曲の無数の編曲によって、
シューベルトの名前は、広く知られ、正しく理解されるようになった。」

これは事実で、リストはシューベルトの伝記の編纂まで手がけたのであるから、
非常に真剣なシューベルトの信奉者であったことはいくら強調しても、
しすぎることにはなるまい。

「そんなリストが『さすらい人幻想曲』に非常な関心を持ったことは、
驚くには当たらない。
ピアノの書法からも、作品の形式からも、
彼の作品の目標に強い類似性を持ち、
Sir Donald Toveyに到っては、『すべての交響詩に先立ち、
そのいずれよりも優れた作品』と称揚しており、
『シューベルトはまったく交響詩を書いている自覚はなかったが、
リストが試みた総ての点に到達しており、全編を通じた変容においても、
それは言える』と書いた。」
Toveyは、以前、ヨアヒムの「グラン・デュオ」を賞賛した人ではなかったか。
この人は、シューベルトの管弦楽化賛成派ということであろう。

「リスト編曲の『さすらい人幻想曲』は、二曲知られている。
このピアノとオーケストラのもののほかに、
彼は演奏困難ではない変容を含むピアノソロ版も出版している。」
リストのような超絶技巧の持ち主が、
困難ではない変容を書いたとも思えないが、
そう書いてある。

「第一版で『シンフォニック・トランスクリプション』と題された、
オーケストラ付きのこのヴァージョンは1851年頃のものである。」
先に、すべての交響詩に先立ち、という一節があったが、
1951年であれば、すでに何曲か交響詩を手がけていそうな次代である。
とはいえ、交響詩に熱中し出した頃と考えて良いだろう。
ヨアヒムの編曲が出るわすか4年前、リストは40歳なので、
決して、ヨアヒムの作品のような若気の到りではないようだ。

「ここでのリストの仕事は、『さすらい人幻想曲』本来の、
オーケストラ的な響きを白日のもとにさらしたものにすぎない。
もちろん、ピアノ・パートは、価値あるものであるとはいえ。
オリジナルの構成は、第二部へ移行する際のカデンツァの増幅以外は、
原作通りである。」
確かに、ほとんど原作通りにしてあるという点からも、リストとしては、
シューベルトが、すべてをやりつくしていると思ったということであろう。
とすると、さっきのピアノ・ソロ版の難しくない変容とは、
蛇足のような変奏をつけた、と読むべきなのだろうか。

「しかし、リストのイマジネーションがこのモデルの上で炸裂し、
リスト的なパトスで覆われた編曲を見ることは、何と興味深いことであろうか。」
この一節に、興味は尽きると言っても良いだろう。
リストは、完全にこの作品と同化し、
酔いしれ、気も狂わんばかりに興奮している。
ヨアヒムの作品が、むしろ、シューベルトを前に出そうとしているのに対し、
このリストの作品は、
できれば、この曲を書いたのは、自分であればよかったのに、
そう言い出しそうな勢いですらある。

「このヴァージョンは、シューベルトの傑作を改良したものと、
考えるわけにはいかないが、二つの時代と二つのスタイルの、
刺激的な対面であると考えることは出来よう。
もしその本質的な価値について、証明が必要とあれば、
チェルニーが巨匠の作品と賛嘆し、ビューローやブゾーニも、
熱狂的に演奏したという事実がある。」
チェルニーが、何時、そう言ったのかは未確認だが、
ベートーヴェンの最高の協奏曲「皇帝」を初演した人である。
それと等価の判断を下したのだろうか。
ビューローもブゾーニも、ピアノの名匠である。

確かに珍品だが、古くは、カーゾン、ブレンデルの後では、
ボレットなどが録音しており、リストを好きなピアニストは、
手を出したくなるもののようだ。

曲頭の序奏がオーケストラでじゃんじゃかと始まると、
いかにもキワモノの印象が頭をかすめるが、
シューベルトは、これを否定しないかもしれない。
何故なら、確かに、そうした効果を響かせる名人芸が、
この作曲家には珍しく追求されているからである。
第三部の最初も同様。

第二部の「さすらい人」のテーマがしみじみと流れるところなど、
リストは、何も手を下せないでいる。
やがて、チェロの独奏や、
ホルンの独奏が、美しいテーマを彩るが、
ピアノは、その花園の中で冴え冴えと音色をきらめかせ、
完全に、このピアノの大家が、
陶酔して弾いている様子が目に見えるようだ。

この名技的な作品は、原曲からして、多くの人が多くの事を言っている。
例えば、シューベルトには珍しく演奏会用を意識した、
内容の薄い作品であるとか、
(アインシュタインなどは、これをシューベルト自身が反省して、
次のソナタに着手したという説まで書いた)
「未完成交響曲」が放棄されたのは、
金になるこの作品を優先させたからだとか、
いかにも、拝金主義の産物という風に取られた傾向が強い。
私も、何となくそう思っていた。

現代でも、ウゴルスキのようなピアニストは、
この曲は客受けが良いから演奏してきたが、
もう弾かない、などと発言したりしている。

しかし、今回、このリストの熱狂を改めて味わうに及び、
何か、この曲には、そんな風に片付けるわけには行かない、
何かがあるような気がしてきた。
それを聞き取るべく、私は、何度もこのリスト版を繰り返して聴いたが、
聞き飽きないということだけでも収穫であった。

そもそも、この「さすらい人幻想曲」そのものが、
「ます」の五重奏曲と同様、自身の歌曲の変容の姿なのである。
歌曲で掘り当てた鉱石を、磨き上げたシューベルトならではの器楽曲。
これをよく聴くことによっても、この作曲家の世界観が見えるはずだ。
あの五重奏でも、歌曲「ます」からの変奏こそが、
その全体の精神となっていたように、
この幻想曲でも、この歌曲のメロディこそが魂であって、
第二部の長大なアダージョで、私たちは、完全に開かれた、
この歌曲の地平を見るのである。

ブレンデルのピアノもこの時代(1950年代)は、
爽やかに聞こえる。
オーケストラは、ギーレン指揮のウィーン・フォルクスオパー。
ブレンデルはこの後、飛躍して大ピアニストに列せられたが、
難しいことを書いたり言ったりして、こういった曲は弾かなくなった。

大成したブレンデルの弾く「ます」のピアノ五重奏曲が、
私には、まったく楽しめないことは、すでに書いたとおりである。

ただ、十年くらい前であろうか、
シェーンベルクの協奏曲を録音した際、
30-40年ぶりに、このギーレンと競演していたことを思い出した。
この「さすらい人幻想曲」での競演を、彼らは思い出したであろうか。

それにしても、19世紀の名技性は、こうした技巧曲を歓迎したが、
前述の「グラン・デュオ」のような、二人がかりのピアノ曲などは、
一気に吹き飛ばしてしまったであろう。
二人でやることを、超人的な一人がやってしまう世界であっただろうから。
いかにも、「功罪」という言葉を思い出させるCDであった。

得られたこと:「リストの『さすらい人幻想曲』の編曲は、その芸術の頂点の一つであって、この編曲から、原曲の意味を改めて聴きとることが出来る。」
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by franz310 | 2007-08-04 23:36 | シューベルト
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