名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その47 |
個人的経験: 今回のレコードは、 30cmのLPであるが、 前回と内容は同じ。 ただし、 ドイツ・グラモフォンの 廉価盤レーベル、 ヘリオドールに移行して、 おそらく70年代に 再発売されていたものである。 私は、このジャケットは、 昔、何度か見たことがあり、 今回、中古店で再会して、 たいへん懐かしい感じがした。 前回のジャケットは、絵画があしらわれていたが、 今回は、清冽な渓流の写真となっている。 もちろん、前回のものも高踏的であるが、 個人的には、こちらの方が、音楽の感じを 表わして、好ましいように思える。 もちろん、これくらいの歴史的録音となると、 演奏家の演奏風景であってもよいが、 見慣れているので、これで差し支えない。 初心者に勧めるには、ちょうどよいレコードの体裁である。 解説は、特に書き換える必要を感じなかったのか、 まったく同じ内容で、過不足なく曲に案内してくれている。 しかも、今回のLPは、10インチ盤から30cmに拡大されたせいか、 より、音に伸びやかな余裕があるような気がする。 しかも、録音が1959年と明記してあるのが好ましい。 しかし、今回、のけぞったのは、契約の関係で謎の団体であるべき、 「シューベルト弦楽四重奏団」の下に、 以下のような個人名が、しっかり?付されている点である。 アントン・カンパー(第1ヴァイオリン) エーリッヒ・ヴァイス(第2ヴァイオリン) ルートヴィヒ・バインル(ヴィオラ) ヨーゼフ・ヘルマン(チェロ) 第2ヴァイオリン以下が、 ずれて表記されていることは、言うまでもなかろう。 シューベルトのこの曲に第2ヴァイオリンは必要なく、 代わりに、コントラバスが使われるからである。 このメンバーは、 アントン・カンパー(第1ヴァイオリン) エーリッヒ・ヴァイス(ヴォオラ) フランツ・クヴァルダ(チェロ) ヨーゼフ・ヘルマン(コントラバス) という1950年録音のウェストミンスター盤の「ます」と、 ほぼ同じ陣容である。 したがって、一般に「ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団」と、 呼ばれている団体の演奏と言って差し支えないだろう。 この団体の年譜を見ても、1957年に、 クヴァルダがバインルに替わっているとあるので、 楽器は間違っていても、信頼できるデータと見た。 したがって、正真正銘、コンツェルトハウスの「ます」だと言える。 50年のピアノがスコダであったが、今回は、デムスであるが、 この二人は、時に連弾を楽しんだりしている盟友同士、 ウィーンの音楽家で固められた、本場物の、 しかも、一流の奏者たちによる演奏なのである。 実際、ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団は、 60年に来日して熱狂的な歓迎を受けたようだが、この時のメンバーの、 ヴィオラもチェロも、上記ヴァイス、バインルだったのだから。 録音が行われている59年という年は、 非常に、意味深い年であると感じられる。 このスコダが、同じウェストミンスター・レーベルに、 「ます」をステレオで再録音した1958年には、 カンパーたちには、何故かお呼びがかからなかった。 代わりに、登場したのは、バリリ四重奏団である。 この時のことを回想してのスコダの談話が、 ウェストミンスター盤のCD(ユニバーサルから出てるもの)に載せられていて、 「これらの新技術(改良された磁気テープ、プレス技術、そしてステレオ) を駆使してウェストミンスターのヒット・ナンバーだった「ます」を 再録音することになったのです。 しかし、コンツェルトハウス弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者だった アントン・カンパー氏はすでに高齢でもあり、 …バリリ弦楽四重奏団と組むことになりました」 とある。 高齢だから、といって外されていたカンパーは、 さらにメジャーな、グラモフォンから声がかかって、 さぞかしはりきったことであろう。 アメリカ人3人が集まって、戦後の復興下の状況にあったウィーンに、 最新のテープレコーダーを持ち込んで、49年から録音を始めた、 新興レーベル、ウェストミンスターにとって、 「ます」は、発足時の起爆剤となった演目である。 単に、ステレオになったから、というばかりでなく、58年の「ます」は、 このレーベルの存続をかけたプロジェクトであったと思われる。 実際、このレーベルは、ステレオ時代に入って経営が悪化。 やがて、創設者たちは、この会社を売り払うこととなる。 このレーベルは、1950年代に走り去った彗星の如きものであった。 LPに始まり、ステレオで終わったと概説することも出来よう。 このレーベルで活躍していた、3つの偉大な弦楽四重奏団のうち、 アマデウス四重奏団は、名門グラモフォンに正式移籍し、 残る二つのウィーン・フィル母体の団体のうち、 若いバリリ四重奏団は、バリリの腕の故障から、第1ヴァイオリンを、 ボスコフスキーに代えて、ウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団となり、 やはり、名門のデッカに移籍して活動を続けた。 このバリリ引退が例の59年のことである。 バリリ四重奏団は、57年に来日して好評を博し、 再来日が予定され、チケットまで発行されていたにもかかわらず、 それが不能になって嘆いたファンも多かったようだ。 また、同じ59年、「すでに高齢」であったカンパー以外の、 コンツェルトハウスのメンバーは、 ウィーン・フィルのコンサートマスター、ヴェラーを迎えて、 ヴェラー弦楽四重奏団を、組織することとなる。 ヴェラーは20歳だったという。 この団体もまた、デッカから名誉に満ちた録音を残していくこととなる。 そもそも、コンツェルトハウス四重奏団が残した、 ウェストミンスターの名盤のうち、手元にあるものを概観すると、 シューベルトの弦楽四重奏曲全集が50年頃、 ベートーヴェンの「ラズモフスキー」が51年、 ハイドンが54年頃、ブラームスも51~54年頃と、 日本発売が50年代後半であるとはいえ、 こう見ていくと、すでに前半に活動を停止していた団体のようにも見える。 カンパー自身は、67年まで活動を続けていたようだ。 しかし、その10年前に、すでに高齢とされていて、 かつての仲間は、ヴェラー四重奏団と名乗ってみたりして、 さぞかし、寂しかったのではなかろうか。 60年、62年の来日で、いくつかのレコードを残したが、 第2ヴァイオリンの席には、ヴェラーが入っている。 しかも、この時点で、ヴェラー四重奏団は、すでに創設されていたのだ。 そんな事を考えながら、 この、59年録音の「シューベルト四重奏団」の演奏を聴くと、 偽名を使ってではあるが、白羽の矢を立てられた、カンパーの気持ちが、 水を得た魚の如き、「ます」となって、私の心に飛び込んでくる。 風雲児、ヴェラー抜きでの、 束の間の平和の記録だったのかもしれない。 正確な時間関係は分からないが、 デムス(ピアノ)と、ヴェラー弦楽四重奏団による「ます」 となっていた可能性だってあったわけだ。 得られる事:「ウィーンの四重奏団の伝統は、首のすげ替えの連続でもある。」 |
by franz310
| 2006-12-02 23:25
| 音楽
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