名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その22 |
個人的経験、演奏、デザイン、解説比較: アマデウス四重奏団。 私の心に、暖かい灯をともすのは、 畏敬すべきブタペストでも、 本場もののバリリでも、 コンツェルトハウスでもない。 この団体の演奏した「ロザムンデ」の四重奏曲や、 ブラームスの「クラリネット五重奏曲」がなければ、 中学生だった私のコレクションは、とても寂しいものになっていただろう。 シューベルトの四重奏曲、「ロザムンデ」の裏面は、 同じ作曲家の第九番、ト短調だった。 この曲の終楽章が持つ、疾駆していくような焦燥感は、 聞くたびに、懐かしいあの頃を思い出させる。 これを聴いていた私は14歳であったし、 作曲家は、この曲を作った時、まだ17歳か18歳だったはずだ。 しかし、この団体は、決して若書きとしては扱わず、 作曲家の青春のエネルギーを汲み取り、 立派なモニュメントとして描き上げていた。 この作品はレコードが少ないにもかかわらず、 アマデウス四重奏団の演奏は、あれ以来、日本では復刻されていないのではないか。 非常に色彩的で、推進力に富むものだったのに。 また、こんなことも思い出す。 グラモフォンが出していた、 この団体のモーツァルトとベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集。 この分厚い、高価なセットが、レコード屋に並べられているのを見ると、 高嶺の花を仰ぎ見るような、厳かな気持ちに打たれたものである。 その格調高い装丁で、ひときわ目を引くものであった。 だから、この、モーツァルトの名前を冠した四重奏団が、 ヴィオラのシドロフの死去に伴い、87年に、 40年もの長きにわたる活動に終止符を打った時、 私は、大きな喪失感を感じずにはいられなかった。 そして、シドロフ以外のメンバーが、その後、来日し、 日本の四重奏団との混成でコンサートを開いた時、 私は、有無を言わさずチケットを入手した。 そんなこともあって、この団体の名前がついていれば、 かなり許容範囲が広がってしまう。 「ます」の五重奏曲の演奏、欧米では、 このアマデウス+メニューインのレコードが、 かなり愛好され、普及しているのではないだろうか。 というのは、この「死と乙女」以外にも、いろいろな曲と組み合わされて、 いくつかのCDが、すでに出回っているからである。 たとえば、メニューイン女史が、 今度は、このアマデウス四重奏団ではなく、 兄のユーディや、名チェリスト、ジャンドロンと組んで録音した、 シューベルトの「ピアノ三重奏曲集」と一緒にした二枚組のCDもフランス盤で安く出た。 これは、あのオランダ製のものよりも、はるかに魅力的な商品となっている。 そもそも、あの激しい緊張感に支配された「死と乙女」との組合せでないのがよい。 シューベルト晩年の2曲の三重奏曲は、いずれも大作で、 素晴らしい叙情と、深い感情の発露によって、必聴の名品である。 より伸びやかで、叙情的な第一番。 そして、作曲家が、壮大な構想の中に、 孤独な心情吐露を織り込んだ第二番。 演奏も共感に満ちていて、どちらも第二楽章では涙が誘われる。 「死と乙女」のような、凝集とは別の、もっと多様な感情が聞き取れる点で、 「ます」のカップリングには、よりふさわしいと思われる。 さらに、ジャケットのデザインがしゃれているのもよい。 シューベルトの音楽に比べると、おそらく時代も国も少し違って、 格段に軽薄なものではあるが、ひょっとすると、 このような雰囲気で演奏されたこともあるかもしれない。 きれいな演奏家が持っているのがギターではなく、ヴァイオリンならよかったのに。 解説もあり、録音時のデータもちゃんとついているのはありがたい。 導かれること:「同じ団体の、全く同じ演奏であっても、組み合わせの曲目次第で、また買ってしまうことがあるが、これを無駄とは思わずに、ぜひとも、それを機会に、デザインや解説の違いを吟味して差異を楽しむべし。」 |
by franz310
| 2006-06-05 22:55
| 音楽
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