名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その398 |
個人的経験: 1936年に録音され、 当時の人々を驚かせ、 その後のスタンダードとなった トスカニーニのベートーヴェン。 パールや、ナクソスのCDで、 リマスタリングを担当したのは、 どういうわけか同じエンジニア、 オバート=ソーン氏であったが、 音質に明らかな違いがあって 驚いてしまった。 機材や原盤が違うのだろうが、 演奏のイメージも変わるのには困った。 しかも、ナクソスの 日本語ホームページを見て、 さらにびっくりした。 ナクソスは、「復刻エンジニアの第一人者」、 オバート=ソーンと契約しているが、 「音響復刻技術の発達」によって。 同じ人が、前に行った復刻より、 「良い音がする場合がある」と書いてあるではないか。 やはり、音が違うのは間違いではなかったようだが、 トスカニーニの「第7」(36年)に関しては、 ナクソスの勝ちという感じはしなかった。 ナクソスの復刻がどうかという以前に、 トスカニーニの36年の「第7」から、 いったい、多くの人は何を聞き取って来たのだろうか。 オーケストラの華やかさを全面に押し出した、 この曲は、ショーピース的な側面もあって、 ベートーヴェンの交響曲では珍しく、 初演時から成功したものであったとされる。 野村あらえびすの時代から、 この曲は、「不思議な情熱を持った曲」、 「奔放な表現を要するもの」とされており、 言外に、どんな理由で、ベートーヴェンが、 こんな興奮した音楽を書く必要があったのだろう、 というような疑問が感じられるが、 私も、そういう意味の「不思議」さには共感できる。 あらえびすは、さらに、 「この曲の奔騰する美しさは、 トスカニーニの表現を以て 第一とすべきである」と書いているが、 この録音から感じられるのは、 「奔放」とか、「不思議さ」からは、 かなり遠いものではないか。 トスカニーニには、この3年後、 NBC交響楽団とライブで、 ベートーヴェン・チクルスをやっているが、 そちらの演奏の方が新しいせいか、 あるいはオーケストラが変わったせいか、 もちろん、ライブのせいもあるだろうが、 あらえびすが、36年盤に対して書いた、 「燃え上がる焔のような激しさ」が、 生々しく記録されている。 私は、「36年盤」から、どうやったら、 「奔放さ」、「奔騰する美しさ」や、 「燃え上がる焔のような激しさ」が聞き取れるのか、 むしろ、それがよく分からなくなってきた。 「激しさ」よりも、「均衡」とか「抑制」が、 感じられてしょうがないのである。 もちろん、この演奏のしなやかで、 晴朗さすら感じられる古典的な格調によって、 私は、これらのCDで聴ける音楽を、 否定することはできないのだが。 そこで、改めて、1991年に出た、 RCAビクターの遺産を引き継ぐ、 BMGの「トスカニーニ・コレクション」の 同じ曲を聴いてみることにした。 このBMGの「トスカニーニ・コレクション」は、 82枚にも及ぶ、トスカニーニの録音の集大成で、 いっかつで買っても中古では、かなり安く入手できる。 ただし、私は、数えるほどしか持っていない。 これは、日本で出た、30タイトルの 「トスカニーニ・ベスト・コレクション」や、 20タイトルの「エッセンシャル・コレクション」の、 もとになったものと思われるが、 私の印象では、日本で出たものより、 音が自然なような気がしている。 表紙は、トスカニーニの 指揮姿の写真をベースにしていて、 白黒を基調にしていて、シックで悪くない。 解説もそこそこしっかりしていて、 「ベスト・セレクション」にあるような、 いい加減なものではない。 この「トスカニーニ・コレクション」で聴くと、 ざらざらノイズが目立つ代わりに、 アタックの強靭さなどが、 ナクソスやパール盤より、 再現されているような気がしてきた。 解説も読んでみると、こんな事が書かれていた。 「トスカニーニ/フィルハーモニックの録音の中で、 ベートーヴェンの『第7』は、 もっとも高く評価されたものだ。 これは、マエストロの解釈のスタイルの、 ほとんどすべての美徳が表された演奏である。 常にぴんと張った彼の手綱さばきによって、 成し遂げられた劇的な緊張に至る、 フィナーレの統御されつくしたドライブがある。」 私は、どちらかと言うと、 曲の冒頭で、だんだん高まって行く、 感興のようなものを期待していたが、 この解説によると、 フィナーレこそが最初に語られるべきもののようである。 いや、確かに、このBMG盤で聴くと、 フィナーレでは、トスカニーニの興奮した唸り声と共に、 するどいリズムの切り込みから、 次第に高揚して行く音楽の確かな足取りが小気味よく、 気迫と集中で煽り立てられていく様子が、 より明確に感じられるのである。 この解説は、Mortimer H.Frankが 書いたものだが、このように続く。 「そして、ここでは、 きびきびとした推進力によって、 第1楽章が長短短のリズム構成で鮮やかに描かれ、 その表現力を豊かにしている。」 長短短の話が出たので、 リズムパターンを気にして聴いてみると、 序奏部は、たたたた・たー、たたたた・たーと、 背景から、後にシューベルトが影響を受けそうな、 音形の集積が聞こえてきて興味深かった。 解説にあるように、第1楽章は、きびきびと、 むしろすいすいと描かれて行く方が目立つ、 とてもなだらかな音楽であって、 尖がっているリズムよりも、 リズムをしなやかに歌わせている感じが強い。 「また、第2楽章と第3楽章のトリオは、 しばしば、テンポが正統的ではないと言われ、 これらは、当時の慣習よりも速く演奏されている。 疑いなく、これらの特徴は、 1930年のフィルハーモニックのヨーロッパ・ツアーで、 トスカニーニがこの曲を演奏した時、 欧州の聴衆を驚かせたものである。」 第2楽章は、十分、慟哭する感じで、 今日的には早すぎるとは思えず、 トリオは、素っ気ないので、 速すぎるように感じてもおかしくない。 このように、速いテンポで、 きびきびと演奏されているのは分かるが、 「燃え上がる焔」を感じるまでにはいかない。 そんな私の感じ方を代弁してくれるように、 この解説は、こうも書いてくれている。 「のちのトスカニーニの録音と比べても、 この録音は、多くの点で異なっている。 彼の4種類のNBC交響楽団との、 放送録音と比べても、軽めで、音がよりまろやかで、 第1楽章では、リズムに柔軟性があり、 (再現部直前のリタルダンドのように) アレグレットはいくぶんゆっくりで、 終楽章はたっぷりと演奏されている。 とはいえ、テクスチャーの明解さ、 推進力やどんどん増大する力など、 後年の彼の解釈に刻印されているものは、 ここでも同様に聞き取れる。」 そして、最後に括弧書きで、 「この再発売では、 第1楽章の導入は、 より推進力があり、良い録音の、 第2テイクを使っている。 すべてではないが、 過去、多く発売されたものは、 トスカニーニの好みを無視していた。」 と、記載してある。 このあたりは、前回、ナクソスのCD解説で、 読んだものと同じである。 この演奏のピュアなコンセプトや、 ノイズも厭わず、ストレートな音質を、 より追及した姿勢からすると、 このような選択は十分、妥当性が感じられる。 が、総じて、腹に響く低音があまり感じられない。 これは、この時期のトスカニーニの特徴なのか、 録音上の制約なのかは結局、判然としなかった。 さすがに51年、カーネギーホールにおける、 NBC交響楽団との放送録音とされる、 有名で、広く流通した演奏では、 いきなりズーンと来る低音が聴ける。 (97年にBMGジャパンから出た、 トスカニーニ・ベスト・コレクション) このCDでは、「厳格なる情熱」という言葉で、 演奏の特徴が述べられているが、 低音が響くのはともかく、 高音も刺激的な音響が多く、 演奏がどうかを語る前に、 全体として下品な印象を残す録音となっている。 第2楽章も声を張り上げるような盛り上がりが、 微妙なテンポの揺れを伴いながらの、 精妙な息遣いをかき消してしまう。 ヒステリックなまでに盛り上がろうとする気配に、 耐えがたくなってCDを止めてしまった。 「燃え上がる焔」ではなく、 アクセルを踏みっぱなしのエンジンみたいに、 いかにも戦後のアメリカ文化を象徴し、 人工的なゴージャス感に疲れてしまう。 つくづく、ニューヨーク・フィルの録音を、 よい音で聴きたいものである。 一方、ニューヨーク・フィルとの、 貴重な演奏を集めた、 先のBGMのCDでは、 続くハイドンの「時計」交響曲なども、 序奏から雰囲気が豊かで、繊細さすら感じさせ、 ついつい、引き込まれてしまう。 1929年と、ずっと古い録音ながら、 木管が軽やかに舞う空気感も良い。 なお、ハイドンのこの曲も、 トスカニーニは、戦後に再録音しているが、 強奏になると、たちまちやかましくなって、 いかにも、放送用の狭いスタジオで録音された感じ。 この曲は、悪名高い8Hスタジオより狭い、 3Aスタジオでの録音とのこと。 経費の節約でもあったのだろうか。 ひょっとして、トスカニーニの戦後の録音の、 息苦しい感じは、こうした商業主義の影響を、 間接的に受けているのではあるまいか。 貴族的なおおらかさが、 ニューヨーク・フィル時代にはあった。 第2楽章のような静かな部分は、 このスタジオでも悪くはないが、 第3楽章のような、てきぱきした部分では、 ぎらぎら感が出てしまう。 トスカニーニが目指したとされる、 室内楽的な表現の部分なら、 狭いスタジオなら、むしろ好ましいはずだが、 指揮者はともかく、 時代は、そこまで成熟していなかったのだろう。 さて、パールのCDで、 オバート=ソーンが書いていた事を、 読み終えてしまおう。 「ベートーヴェンを録音してすぐに、 トスカニーニとフィルハーモニックは、 ブラームスの『聖アントニー』変奏曲に取り掛かった。 これは、ネヴィル・カーダスが、 BBC交響楽団との他のブラームス演奏(『第4』) で、絶賛してから10か月後の記録となっている。 『彼は、もっとも満足のいくブラームスを聴かせてくれた。 雄弁かつ率直、そのバランスされたラインの美しさ、 そしてエネルギーに満ちている。 それでいて、常に人間的で多面的である。 これは男性的なブラームスであると同時に、 人生における優しさを愛するブラームスである。』 こうした質感は、この作品56aについても言え、 恐らく、マエストロによる、 この最初のブラームス録音の素晴らしさは、 明るさ、透明さ、解釈の流れにあって、 当時のブラームス演奏家たちの多くに見られる、 退屈にリズムが変化するような、 ブラームスへのアプローチではない。」 このトスカニーニによるブラームスは、 私は素晴らしいものと断言せずにいられない。 交響曲を書く前の試作品のように語られてきた、 この大変奏曲に、これほどの愛情をこめて演奏したのは、 初めて聴いたような気がするのである。 木管楽器などの寂しげな風情や、 機動的に動く弦楽器群の精妙さなど、 表現の上で聴くべき所が満載で、 録音も立体感や生き生きとした立ち上がりが素晴らしい。 唯一の難点は変奏曲ごとにトラックが振られていない点で、 BMGのトスカニーニ・コレクションでは、 その点、変奏曲ごとのトラックに加え、 変奏曲ごとの解説まである。 これは、やはり、 Mortimer H.Frankが書いたもの。 この人は、生粋のニューヨーカーで、 トスカニーニの演奏に若い頃から心酔し、 音楽評論の道に入った人で、 ニューヨーク市大学の名誉教授の肩書を持つらしい。 「ブラームスの『ハイドン変奏曲』は、 トスカニーニお得意の演目。 長年にわたり、彼のコンセプトは変わらず、 演奏の違いは、もっぱらバランス上のものか、 第7変奏(Track14)の第2のリピートが あるかどうかの違いである。 多くのマエストロの現存する演奏の中でも、 1936年の録音は、その音響の豊かさ、 オーケストラの技量の魔術、 後年の演奏では、ここまで強調されていない、 いくつかの劇的な対比によって傑出している。 特に目覚ましいのは、 第6変奏のホルンの豊かさや、 第5変奏の跳ね回るユーモア、 さらには、パッサカリア終曲の開始で、 低音弦が歌いだす時の 異常なまでの壮大さである。 同様に、素晴らしいのは、 このパッサカリアに対する、 トスカニーニのしなやかさである。 たとえば、誇らしげな結尾の主題爆発での、 わずかなリズムの弛緩や、 いかに、かように微妙な脈動の変化が、 この主題が古典的な変奏の過程を経て、 素晴らしく変容したかを強調しているか、 が注目される。」 トスカニーニの後年の録音は、 日本でも廉価盤で大量に出回ったので、 「ハイドン変奏曲」の1952年の録音も、 簡単に入手することが出来る。 最初から、このNBC交響楽団との演奏で失望するのは、 痩せた音で、割れ気味になるオーケストラの音響で、 新しい録音だけに、明るく色彩的ではあるが、 乾いていて堅苦しく、1936年盤で聴けた、 魔法のようなひらめきが捉えられていない点であろう。 やたら、威勢よく鳴っていて、 微妙な節回しも慌ただしく落ち着きがない。 したがって、前述の第5変奏も、 機動戦車部隊みたいであり、 第6変奏もこのスピードで鳴る事が重要、 みたいな一過性のアプローチに聞こえる。 ニューヨーク・フィルの録音には、 もののあわれの風情があったのだが。 最後のパッサカリアは、 NBCの録音でも、ためらいがちに始まるが、 すぐに絶叫気味の力技がさく裂するので、 聴いていて、しみじみできない。 それどころか、リズムが先走って、 混乱、錯綜の様相さえ示すのはいかなることか。 爆発するような主題回帰も唐突で、 この演奏では、何度も聞き直す気にならない。 さて、これまで、4回に分けて読んできた、 パール盤の解説は以下のように語り終えられている。 「RCAビクターは、ベートーヴェンとブラームスに、 2つのフル・セッションを用意していたが、 すべて順調に行ったため、 2日目には時間が余った。 トスカニーニは個人的に、 残った時間で、 2曲のロッシーニの『序曲』を 録音することを希望した。 (『セミラーミデ』はとっさの思いつきに見え、 12分を12インチの4面にたっぷりと収めてある。) 6面のうち、1面のみが録り直しされたが、 何年もかかって、これほどまでに、オーケストラは、 マエストロの要望に沿えるようになっていた。 それに引き替え、 このコレクションの最後に収めた、 『セヴィリャの理髪師』序曲は、 1929年11月21日のものだが、 録音中に5回のセッションを必要とされた。 そのため、ユーモアをたたえながら、 自然な響きを持っている。 7年後のロッシーニ録音を比較して聴くと、 フィルハーモニックとの時代を経て、 トスカニーニの解釈アプローチにも、 明らかな進化が見られるのが良くわかる。 後の録音の方がずっと微妙で、 明白な修辞的な手段に依存していない。 全体的なコンセプトが流れるようである。 一方で、初期の録音では、 幅の広い歌うような線が、 当時のオーケストラの習慣での 弦でのポルタメントの使用が、 心に触れ、輝かしい完璧さの 1936年のシリーズにはない、 自然な魅力を垣間見せる。 1929年の時点で、 ブラームスの『変奏曲』や、 『ジークフリート牧歌』などが残されたら、 さぞかし、後年のものとは違ったものになっただろう、 と推測すると楽しい。 いかなる場合においても、 フィルハーモニックの録音は、 トスカニーニの芸術の鑑賞や、 当時の聴衆や 多様なバックグランドを持つ音楽家たちから、 何故、それほどまで彼が尊敬されたかを 理解するのに絶対的に重要な グループをなすものである。 後の、より高忠実度をもつ、 NBCの録音以上に、 彼の力の絶対的な頂点や、 10年を超す共演で得られた 第1級のアンサンブルとの境地を、 これらの録音は示している。 これらの録音のほとんどが、 これまで30年にわたって、 一般には手に入りにくかったり、 手に入ったとしても単発だったのは、 信じがたい事である。 パールによるこれらのCD登場で、 こうした状況は正されることになり、 アルトゥーロ・トスカニーニの、 並外れた力を、後世にまで、 正しく伝えることが出来た。」 BMGジャパンから出ていた、 トスカニーニ・ベスト・セレクションに続く、 トスカニーニ・エッセンシャル・コレクションからも、 ベートーヴェンの「第7」、ハイドンの「時計」など、 ニューヨーク・フィルの演奏が出ているが、 リマスタリングを行ったのが誰か分からず、 たまに中古で見かけても、購入には至っていない。 そもそも、BMGファンハウスの時代になって、 20世紀の終わりに出た、 「不滅のトスカニーニ」シリーズでは、 先の「トスカニーニ・コレクション」を否定し、 「前回より良好な状態のマスターテープを発見した」とか、 「前回のものは概して硬く、メタリックで、 しかも厚みのないサウンドであった」とか、 無責任な能書きが書き連ねられているのである。 ここでは、トスカニーニの孫までを駆りだして、 正統性を主張しているが、 「かつて出していた商品はすべて嘘の音でした」、 と謝っているのがすごい。 とはいえ、ワルターの録音などは、初期のCDの方が良い、 という伝説もあって、 何が何だか分からないのが、この世界である。 そもそも、「不滅のトスカニーニ」シリーズには、 ニューヨーク・フィルとの録音は含まれていなかった。 確かに、「20bitリマスタリング」 と強調しているだけあって、 きめ細かい感じはするが、 音源が遠ざかって、 無理に彩色したような印象が出た。 ダイナミックレンジはやはり狭く、 金管などが割れ気味なのは同じで、 最悪なのは、表紙デザインが手抜きであることだった。 その点、ほとんど満足する音質のものはないのだが、 BMGジャパンの「ベスト・セレクション」や、 「エッセンシャル・コレクション」は、 オリジナル・ジャケットを使用していて、 眼で見る楽しみは100倍も大きい。 得られた事:「トスカニーニ、ニューヨーク・フィルの録音で、ただ、足して欲しいのは、腹に響く低音であるが、彼の場合、新しい録音になると、低音と引き換えに、ぎらぎら音がついて来る場合がある。」 「ナクソスはパールなどのリマスタリングより、良い場合がある、と書いているが、例外もあり、BMGは、過去の自身の復刻を完全否定しているが、過去の復刻も悪くなく、ナクソスより良い場合もある。」 |
by franz310
| 2014-01-12 23:21
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