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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その390

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その390_b0083728_19463641.jpg個人的経験:
最近、名曲なら何でも指揮して、
何のスペシャリストか
だんだん分からなくなっている
ロジャー・ノリントンであるが、
ベートーヴェンやブラームスでは、
二度も交響曲全集を作っているのに、
シューベルト以降については、
つまみ食い的な記録しか残っておらず、
これまた、悩ましい感じである。
ノリントンの方が選んでいるのか、
CDを作ったり売ったりする方が、
これは、売れないと判断しているのか。


今回、ここに聞く、シューベルトの交響曲集も、
「4番」、「5番」、「6番」、「未完成」だけと、
ちょっと微妙な選曲で、
「未完成」以前の作品では、よく演奏される
「3番」などは含まれていない。

かつての主兵、ロンドン・クラシカル・プレイヤーズの演奏。
おそらくEMIから出ていたものをまとめ直して、
ヴァージン・レーベルから、
2枚組の廉価盤として出されたもので、
ロマンティックな風景画が表紙にあしらわれている。

「ライン川の眺め」という、
W.Klunenbrosch(クルーネンブロシュ)
という人が1853年に書いたものとあり、
シューベルトよりもシューマンの時代に近い作品だ。

川が大きく湾を作り、
山上の城には旗がたなびき、
澄んだ川面には風景が映って、
船なども浮かんでいる。

手前では、村娘みたいなのが、
黒衣の男にブドウを売ろうとしているが、
妙に意味有り気な情景で、
シューベルトというよりも、
シューマンに近い時代の作品ゆえ、
実は、何か秘めたメッセージがあるのだろうか。

というのも、何ともビーバーマイヤー風で、
描写の質そのものは、稚拙とも言えるので、
そんな事よりも描き出したかったものがあるのではないか、
などと憶測した次第である。

何か頭の上に乗せて運んでいる、
少し向こうの女などは、やたら小さくて、
遠近法もめちゃくちゃである。
川岸になびく草が、手前と同じ長さなので、
実にヘンテコである。
ポーズも投げやりである。

その向こうにある建物も、
書割みたいにうすっぺらである。

しかし、山間の街はずれならではの、
空気の爽やかさだけはよく描き出されていると思う。

が、そんな事が描きたいのなら、
手前の男女は描く必要はなかった。
ということで、堂々巡りのように、
いったい、この絵は何なんだ、という事になる。

その男女の様子を、だらしなく座ったまま、
無表情で見ている、左側の女は何なのだ。

このW.Klunenbroschという画家について
非常に気になって来るのであるが、
ネット検索しても、
この絵を描いたとされる人、
としか出てこない。
これは、いったいどういうことだろうか。

ということで、この絵が気になり過ぎて、
シューベルトどころではない。
せめて、ドナウの風景にして欲しかった。

さて、ノリントンの話に戻すと、
彼が、このCDのための録音を行ったのは、
1988年から90年と、ものすごく昔である。

彼は、同時期に、すごいスピードで、
ロマン派の有名な交響曲を録音していて、
シューベルトにばかり、
かまけている時間はなかったのかもしれない。

つまみ食い的な録音が多く、
典型的なのは、ブルックナーで、
「第3」だけが録音された。

最近、シューマンは全集が出たようだが、
それまでは、3番と4番だけが録音されていた。

そんな中、彼は病魔に倒れ、
復活して、彼は、いち早く、
シューベルトの「グレート」を再録音したので、
この曲については高く評価していることは伺える。

事実、CDにおいても、
妙に熱い演奏を聞かせていることは、
この前、確認することが出来た。

その一方で、ノリントン自身の言葉ではないが、
彼が再録音した「グレート」のCD解説には、
「未完成」などは、失敗作、と書かれていた。

いったい、彼にとって、シューベルトは、
どんな作曲家なのか、妙に気になって来た。
というのも、最近、この指揮者は、
3度目の「未完成」を録音したというのである。

私は、それをネットで注文したが、
まだ届いていないので、
彼の第一回録音を聴いてみる。

ただし、このCDは、最初に書いたとおり、
廉価盤として再発売されたものなので、
ノリントンのCD特有の、
リッチな解説がついていないのが残念である。

解説はMark Audusという人が書いて、
饒舌なノリントン自身の言葉が読めないのは、
ノリントンの指揮したCDの楽しみの、
多くの部分が奪われた感じである。
かなり、物足りなさが残る商品といえる。

解説は、次のように始まっている。
「彼の生前、シューベルトは、
主に、歌曲、ピアノ曲、室内楽の
傑出した作曲家として知られていた。
早すぎた死の時までに、
彼は7曲の完成された交響曲と、
6曲の、様々な段階でのこされた、
さらなる6曲を残していたのに、
彼の最も親しい友人たちですら、
その交響曲については、
あまり知らなかった。
後世の人の方が、これらの作品を大事にして、
今や、レパートリーの中でも、
最も好まれるものになっている。
シューベルトの最初の6曲の交響曲は、
ベートーヴェンの最初の8曲が、
すでによく知られるようになってから書かれたが、
シューベルト風の際立った抒情性はあっても、
それらはもっと以前の古典的なモデルに、
先祖がえりしている。」

まあ、初期の交響曲の解説は、
こんなものになるだろうが、
逆に、シューベルトの場合は、
これらの作品の方が、学校のオーケストラや、
有志によるオーケストラで演奏されていた。

第4交響曲が二枚組のCD1の最初に入っている。
解説には、こうある。

「第4交響曲(1816)に、
『悲劇的』というタイトルを加えたのは、
シューベルト自身だが、
ハ短調というベートーヴェン風の調性でありながら、
それは、悲劇的というより、興奮や哀愁のムードで、
ハイドンやモーツァルトの
短調で書かれた『疾風怒濤』交響曲に近い。」

これも良く書かれることで、
私は、このような解説を読むたびに、
書いている人は、
シューベルトが、正しいドイツ語を知らなかった、
と言いたいのか、
などと、いつも問い詰めたくなる。

あるいは、「悲劇的」という題など、
真に受けてはいけませんよ、
とでも言いたいのだろうか。

作曲家が書いた事を実践せよ、
と主張しているノリントンも、
このような意見と同じなのだろうか。

彼なら、当時の「悲劇」というのは、
現代の悲劇とは異なるものであった、
などと書くのだろうか。

初期の交響曲で、唯一、短調で書かれた、
この作品は、少なくとも悲愴な雰囲気を持ったものであり、
異常に神経質とも言え、内省的で、やけっぱちな面もあり、
ハムレットのように、悲劇を引き起こす可能性はある。

「開始部のゆっくりとした序奏は、
モーツァルトの『不協和音』四重奏曲を想起させる。」
と続くが、確かに、似た雰囲気である。
が、こうした解説は、
いかにも、背伸びした若者が、
仕方なく、巨匠の作品をぱくりました、
と書いているように見えて情けない。

実際には、この魅力的な序奏の先頭には、
ばーんという大げさな一撃があり、
主部に移行してからも、
ティンパニを打ち鳴らしながらの、
英雄的なメロディが流れ、
爆発的な絶叫がある。

第2主題も、透徹した雰囲気を持ち、
シューベルトが、この楽章だけでも、
何らかの闘争を描いていると考えて良さそうだ。

「不協和音」の例だけを上げてお茶を濁すのは、
木を見て森を見ずの解説と言わざるを得ない。

ノリントンの指揮は、
弦楽の透明度が高いので、管楽器の分離が際立ち、
ティンパニの強打にもインパクトがある。
コーダなどは、壮絶な表現ですらある。

第2楽章は、闘争の後の憩いのような開始だが、
途中から、葛藤するようなフレーズが現れる。
解説には、
「続くアレグロや、この曲のいたるところで、
シンコペーションや絶え間ない内声の動きが、
不安感をかき立てている。」
とあるが、ここにあるように、
全編を通じて、非常に苦悩を背負う姿勢がある。

それが「疾風怒涛」だ、
と言われれば、それまでであるが。

この曲の解説は、以上で終わりであるが、
終始、不安感をかきたてるのであれば、
十分、悲劇的と言えるような気がする。

第2楽章、ノリントンは、憩いと憧れ、
こみあげる不安を交錯させて、
とても表情豊かな音楽を作り出している。
この楽章のエンディングは、
木管が重要な役割を果たすが、
その効果も鮮やかである。

続いて、粗暴とも言える、
やけっぱちな第3楽章の、
全然優雅ではないメヌエット、
焦燥感をもって、破滅に向かうような終楽章が来る。

ノリントンは、第3楽章のトリオを、
かなり速めに演奏し、緊張を保っている。
第4楽章でも、内声部の、不気味な動きを際立たせ、
脈動、律動する感じを大切にしている。
ティンパニの打ち込みも鮮烈である。

ばーん、ばーんとさく裂するような、
金管群も存在感があり、
木管の軽妙な動きも異質なものを感じさせる。

このように聴いてくると、
ハイドンやモーツァルトにはなかった世界であり、
私は、「悲劇的」というタイトルで問題なしと見る。

「第4」の次には、「第6交響曲」が収録されているが、
解説では、CD2の最初に入っている、「第5」が来る。
「シューベルトの初期の交響曲で、
最もポピュラーなものである、
『第5』(1816)は、
天才の火花の四つの音符が、
メイン・テーマを開始するカーテンを開く。」

この解説は、聴きたいという気持ちを引き立てるので、
大変、良いと思うし、うまい言い方だと思う。

「作品に漲る魅惑の一部は、
フルート一本、各一対の、
オーボエ、バスーン、ホルンに限定された木管を伴う、
室内楽風のスコアに基づく。」

実際、この曲は、フルートの音色が、
冒頭から非常に印象的なものである。

このような楽器の分離は、
ノリントンが得意とするところで、
この演奏でも、まるで、空に描かれた虹のように、
フルートのひなびた音色が、
要所要所で舞い上がる。

この曲は、多くの大指揮者が演奏してきたものだが、
それらと比べて、すっきりした編成で、
速いテンポで飛ばして行く。
コクもあってキレもある感じだが、
ちょっと落ち着かない感じもあるかもしれない。

休日の朝の音楽と言えば、
ハイドンを想起してしまうが、
それよりもずっと天国的で、自然である。

「モーツァルト風の均衡と創意が、
シューベルト特有の
大胆な和声の寄り合わせと組み合わされている。」

解説は、これで終わっていて、
どの曲も、一部の事にしか触れられていない。

第2楽章も、穏やかで優美な音楽で、
まるで、故郷に帰って来たような懐かしさを感じるが、
ノリントンの指揮では、変幻自在の音楽つくりが、
潜んでいた不安感を抉り出す感じ。

中間部の内省的な音楽が、妙に身に染みて痛い。
ここでも、第4交響曲同様、
ざわざわと落ち着かない内声部の動きが強調されている。

確かに、シューベルト自身の心情は、
こんな感じだったかもしれないが、
まさか、それを表現しようとして、
この曲を書いたわけではないだろう。

第3楽章も、少し、
しかめっ面のシューベルトになっている。
青春の希望に満ちた交響曲として、
これまで大家が取り上げて来た作品であるが、
「悲劇的」同様、何か、強烈な焦燥感を漲らせている。

トリオなども、ぶっきらぼうで、
これまでの演奏では、自然に抱かれるような、
優しさがあったはずだが、
畳み掛けるように演奏されて、
都会の孤独に立ち尽くすシューベルトになっている。

終楽章は、ラヴェルのピアノ協奏曲のように、
「お開き」の終楽章という位置づけであろうか。

が、ここでも、主テーマこそ、
明るい微笑みが感じられるが、
曲が進むと、何だか苛立たしげな表現が錯綜し、
まったくもって、
疾風怒濤の音楽になってしまっているではないか。

第1楽章で虹を描いていたフルートは、
何だか、檻の中に閉じ込められてしまった感じ。

第4が春に作曲されたのに対し、
むしろ、この交響曲は、10月の音楽だった。

「第6交響曲」も「第4」と同じ、
じゃじゃーん系の序奏を持っている。
CD1の後半、「第4」に続いて収録されている。

「時として、『小さな』ハ長調と呼ばれる、
『第6交響曲』(1817-18)は、
シューベルトの新境地の模索を見せている。
まごうことなく、未だ古典的であるとはいえ、
ベートーヴェンやロッシーニ(ヴィーンではやっていた)
の影響が見える。」

これは、良く書かれる事であるが、
確かに、ばーんばーんと威勢の良い音楽である。

時として、単に、ロッシーニの影響で、
単純明快であることばかり語られる音楽であるが、
下記のポイントは、あまり注意して考えた事がなかった。

「独立した木管楽器の書法は新基準に至り、
シューベルトは第3楽章に初めて、
『スケルツォ』と記した。」

確かに、序奏部からして木管アンサンブルが、
独特の効果を見せていて、
何と、第1楽章のメインテーマまでが、
この編成で歌いだされる。

ノリントンの指揮では、
いつもながら、すっきりと風通しよく、
弦楽と管楽器の描き分けが美しい。

第2楽章は、中間部で、どんちゃら始まるので、
いや、それ以前に、
弦楽でひそひそ話風に始まる主題からして、
ロッシーニのオペラの一場面を見る感じがする。

ティンパニもどかどか鳴って、
この曲で、軽妙なアリアを歌わせるだけで、
シューベルトはヒットするオペラを書けたかもしれない。

ノリントンはそういえば、
ロッシーニも得意とする指揮者だった。

一つ一つの楽節の息遣い、間の取り方、表情など、
ものすごく、ツボを押さえた演奏だ。
ロッシーニが完全に憑依した音楽になっている。
舞台の上のパントマイムすら目に浮かぶようだ。

これには、私は、完全に参ってしまった。
ロッシーニ風という言葉が、
完全に納得されてしまった。

第3楽章も、めくるめく音楽で、
劇場用の音楽でないことが惜しまれる。
ロッシーニの喜劇で起こる、ぺてんや陰謀の、
やばい雰囲気が、完全に、ここで再現されている。
ロッシーニも、交響曲の作曲をするなら、
こんな曲を書いて、聴衆にあっかんべをして見せたかもしれない。

トリオの、意味有り気なリズムの刻みも、
舞台上の俳優の一挙手一投足を見ているような感じである。
リズミカルに、テンポよく、場面が転換する。
木管楽器のコミカルな響きが、
この場面が、秘密の場面で、聴衆にだけ見せてあげる、
という感じを出している。

この交響曲は、初期の6曲の中では、
むしろ、単純なものだと考えていたが、
これはかなり高度なパロディである。

終楽章でも、ロッシーニ風の、
ひそひそと、種明かし、緊迫した一瞬に、
大団円風の雄大さが交錯していて、
これは、魔法と想像力に溢れた交響曲だと得心した。

さすが、シューベルトは、
ロッシーニの毒に当てられて、
ただ、模倣したわけではない。
みごとに、その管弦楽法の効果を会得し、
声や演技なしで、ロッシーニの音楽で、
くり返されている人間の営みを描き出してみせた。

「第6につづいた
シューベルトの交響曲の創作の試みは、
満足できるものではなかった。
『未完成』に先立つ2曲は完成されなかった。
その間、シューベルトは、
ゲオルグ・フォン・ホフマンのメロドラマによる、
『魔法の竪琴』の音楽を書いた(1820)。
舞台のための音楽は、常に、シューベルトに、
少ししか成功をもたらさなかったが、
この序曲は彼の作品の中で、
最も洗練され華麗なもののひとつである。」

この序曲は、この二枚組の最後に収められているが、
ノリントンは、シュトゥットガルトでも、
これをすぐに再録音したから、
この曲が好きなのであろう。

「ロザムンデ序曲」として知られるものだが、
これを何度も演奏して録音した指揮者は、
そんなにいないのではないか。

序曲に相応しく、ノリントンの指揮による演奏は、
思いっきりが良く、豪壮で軽妙。
速めのテンポで飛ばすが、
長いオペラなどが続く場合、
いかにも、こんな感じで幕が開くのかもしれない。

劇場でのリアリティが感じられる演奏で、
そう思って聴かないと、
せっかちな演奏に思えるだろう。

録音も、陰影が乏しく、
この曲だけを聴くには、
別に、この演奏である必要はない。

このような前提で聴かないと、
ノリントンの指揮は、悩ましいものも多く、
だいわ文庫の「クラシック名曲名盤独断ガイド」でも、
「未完成交響曲」の「ワースト演奏」に挙げられている。
「直線的な演奏」と断じられている。

以下、「未完成」についての解説である。

「『未完成交響曲』に先立つ、
シューベルトの初期の作品は、
この作品ほどの規模と凝縮を持つものはない。
この作曲家の最も重要な、
交響曲のトルソである。
『梅毒』の症状の始まりが、
この作品を完成させなかった原因かもしれないが、
しかし、シューベルトは、
単に、この完成された2つの楽章に、
続けることが出来ないと考えたのかもしれない。
この作品の調性『ロ短調』からして、
当時のオーケストラの作品には例外的で、
トロンボーンの追加によって、
深刻な響きをもたらし、
驚くべき開始部の深さから、
2つの楽章の激情的な頂点を経て、
ほとんど諦めるような微妙な終結まで、
作品は幅広い表現力を探求している。」

この解説は、この作品の聴きどころや、
特徴が要領よくまとめられていて悪くない。

このCDの演奏、
私が聴いた感じでは、ノリントンにしては、
たっぷりとした息遣いを感じさせ、
「グレート」の時のような意外さはなかった。

かといって、ワルターのような、
どっぷりロマン派であるはずはなく、
解説にあるような、病気の影響で、
後が書けません、というような危機感のあるものでもない。

ノリントンの行き方であれば、
当時はこんな編成で、
こういう美学で書かれたはずだから、
こんな演奏がいいでしょう、みたいな感じだろう。
当時のオーケストラの楽員や聴衆が、
納得したであろうような演奏を、
心がけているはずである。

古典的にすっきりさせることを優先しそうで、
それが「直線的な演奏」と書かれる理由と思われるが、
第1楽章など、じっくりと、論理的に、
圧倒的なクライマックスを築いており、
美学こそ古典的かもしれないが、
壮大な構想で組み立てられた、
立派な作品、という感じをちゃんと引き出している。

再現部なども、
主題が、息づくようなフレージングで処理されており、
コーダも、表情は豊かで、
作曲当時の基準では、
十分にぶっとんだ作品であった事が理解できる。

第2楽章が、むしろ、直線的と言われる所以かもしれない。
歯切れよく、かなりあっさりと進んでいく。
しかし、「グレート」の演奏でも、
緩急の差は、古典の時代は少なかった、
と主張する彼の事であるから、
あまりに美しい楽章であるからと言って、
これだけを、嫋々と演奏するわけにはいかないだろう。

その代わり、第2主題などは、
出来る限りの表情を付けており、
クライマックスとの対比が痛い。

ベートーヴェンの交響曲が超前衛だったとしても、
このあたりの表現は、それをさらに先に進めた、
破格の音楽であることは、よく分かる。
むしろ、これは、それを伝えるための演奏のはずである。

得られた事:「ノリントンの指揮で聴くと、典雅な『第5』は、疾風怒濤の感情を秘め、明朗な『第6』は、ロッシーニが演技と声で表して来た、人間存在の多面的なリアリティが管弦楽だけで描かれていることが分かる。」
by franz310 | 2013-09-29 19:46 | シューベルト
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