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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その387

b0083728_21255775.jpg個人的経験:
ノリントンという
イギリスの指揮者は、
様々なレーベルからの、
その膨大な録音数からして、
かなりの大物であるはずだが、
もともとは歌手であり、
さらには合唱団を創設しての、
古い音楽の専門家だったし、
オリジナル楽器を用いた、
オーケストラの創設者でもあり、
異質な音楽家のイメージが強い。


が、ベートーヴェンの交響曲全集や、
ブラームスの交響曲全集などを、
これまで2回も完成させ、
ブルックナー、マーラーなど
独墺系の大家の大作もものともせず、
シューベルトの「大ハ長調」なども、
私が知っている限りでも、
2度にわたって録音している。

ありがたいことに、
定期的にNHK交響楽団に客演して、
我が国を大事にしてくれていて、
また、そこでも好評を博している。

このように今では、
通常のオーケストラを指揮して、
ユニークな演奏を聴かせているが、
様々な経歴ゆえ、
あるいは病魔と闘ったせいか、
もう80歳にもなろうというのに、
巨匠として認められるまでには、
かなりの時間を要したようだ。
そもそも、そのフレッシュな演奏は、
巨匠という言葉の持つ、
重々しさはないのであるが。

そんなノリントンが、1990年代後半に、
母国の作曲家、ヴォーン=ウィリアムズを、
デッカ・レーベルに集中的に録音した時のCDには、
「サー・ロジャー・ノリントンによる紹介」
という一文が冒頭に掲載されていて、
実は、これが、非常に味わい深い。

数多くの作曲家を取り上げて来た、
この多才な音楽家の言葉として、
特に、共感を呼ぶものである。

「遂に、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズの
交響曲集を録音できる機会を得た、
私にとって、これは素晴らしいことだ。」

という冒頭の一語からして重い。

ヴォーン=ウィリアムズの交響曲は、
まだまだ、録音しても売れない、
という現状を捉えているようにも思え、
当時、還暦を越したノリントンが、
自分が歩いて来た道を、
改めて噛みしめた言葉にも思える。

作曲家も、自分も、ようやく、
受け入れられるようになった、
という安堵感も木霊のように響いている。

「最初の3曲は、生涯を通じての付き合いであり、
他の6曲は、私の成長と共に現れた。
『第6』の初演が放送された時、
家族揃って聴いていた。
それは、私たちにとって、
その年の大きな音楽イベントであった。」

このように、ヴォーン=ウィリアムズの音楽に対し、
家庭の中のイベントとして暖かく想起し、
実体験に裏打ちされた愛情を、
そのままに表明した音楽家の指揮で、
これらの交響曲を聴けるのは、
何か、大切なものを受け継ぐような有難さがある。

ヴォーン=ウィリアムズの「第6」の、
これまた、英国での位置づけを、
このエピソードは、我々に対しても、
生々しいリアリティを持って迫る。

それだけではない。
実際に作曲家に会った体験談も貴重だ。
ヴォーン=ウィリアムズは、
1958年まで生きていたので、
1934年生まれの人であれば、
その晩年の姿を、思春期から青年期の、
多感な時期に瞼に焼き付けることが出来た。

しかし、そんなエピソードは、
あまり語られるのを聴いた事がない。

「それから、ボールトやバルビローリの指揮で、
他の交響曲を聴き、
遂に私自身が、
オックスフォードのシェルドニアン劇場で、
彼自身の指揮で演奏することとなった。
彼に会った時、
私は彼の学生のような気さくさに、
アットホームな雰囲気を感じたが、
同時に、彼の持つ力、
彼の思慮深い厳粛さ、
理想を求める集中力も感じたのであった。」

前回、このブログでは、
ノヴェッロ・ショート・バイオグラフィーの、
オッタウェイ著、「ヴォーン=ウィリアムズ」を、
途中まで読んだが、
ノリントンの回想は、先の伝記の後半を、
うまく補足するような内容となっている。

この伝記は、作曲家の後半生は、
かなり急ぎ足で書いている感じで、
1953年に80歳を超えて再婚した後は、
十数行しか割かれていないのである。

ノリントンの次のような回想は、
この十数行に、みごとな花を添える。

「最後に私がヴォーン=ウィリアムズと会ったのは、
彼の心温まるオペラ、『恋するサー・ジョン』を、
BBCで録音した時であった。
(これは私のプロの歌手としての最後の仕事となった。)
私は、この80歳の作曲家が、
すべての女性キャストにお休みのキスをする元気さや、
地下鉄でさっさと帰る気取らなさが嬉しかった。
これは、一人の男である作曲家を理解する、
重要な手がかりであった。
彼は情熱的で理想主義者であった。
自然な社会主義者であり、
大衆と共にあった。」

ノリントンの言葉はまだ続くが、
このあたりで、ノヴェッロの伝記の後半に戻ろう。

「今や、作曲家は50代になって、
これまでよりさらに活動が充実してきた。
作曲に集中するのに、
妬まれるほどの許容力の他に、
彼は、異なる方面に、
自身のエネルギーを向ける能力があった。
夫人の病気による必要性から、
ロンドンからドーキングに引っ越す決断によって、
ただ、バッハ合唱団の指揮は1928年に諦めた。
しかし、まだ10年以上、
R.C.M.での授業は続けた。
偉大な教師ではなかったが、
彼はパリーの精神を引き継ぎ、
学生たちに、自分に忠実であることを奨励した。
その初期の生徒の一人に、
ゴードン・ジャーコブがいてこう言った。
『彼は、音楽における天性の詩人で、
職業的技法と技術優先を嫌っていた』。
彼は年を取るにつれ、
彼は、表面上の滑らかさを加える、
こうした能力は必要がないと気づくようになった。
そして、後年の生徒はよく検査をされた。
ジャーコブについても、ヴォーン=ウィリアムズは、
『技法にかけては、
私より彼が知らなかった事はなく、
彼に教えることは何もなかった。
以来、私はオーケストレーションにおいて、
彼のアドヴァイスを受けた。
実際、私は、作曲家の技術において、
何かちょっとでも工夫したかったからね。』
と明かしている。
2つの心が出会う時、何かが起こり、
ヴォーン=ウィリアムズにとって、
教える事も、学ぶことも、常に実りある関係であった。」

これは驚くべきエピソードだと思った。
この作曲家は大家になってからも、
何の気取りもなく、
謙虚に学ぶ姿勢を保っていたのである。

もちろん、そうした気さくさは、
副作用もあったのであろう。

「ある者にとっては、疑いなく、
彼のアプローチは好感を与えるとともに、
失望でもあった。
絶対的な権威者を求める生徒には、
自分自身による判断を促した。
彼が全く寛容でなかったただ一つのものは、
生徒からであれ、同僚からであれ、
わざとらしい芸術性を感じた時であった。
そうした一例となる
ウォルフォード・デイヴィスに関する逸話があった。
デイヴィスは一度、こう言った。
『レイフ、この荘厳なメロディは、
私自身、祈りながら書いたのだよ』。
その答えは、
『君が聴いた私の新作交響曲は、
キッチンのテーブルで書いたけどね。』
キッチン・テーブルとは、音楽における詩人の、
抗弁や保護手段であろうか。
一部はおそらく、後年、ほとんど伝説になる、
ぶっきらぼうさは、
一般に考えられているより、
その内気や神経質を隠すためのものであった。
彼が『めかし屋』と呼んだ、
気取りやエリート意識への彼の敵意の見せ方には、
洗練されたものは何もなかった。」

ぜひ、その毒舌の例を書いて欲しかったが、
それ以上に以下の記述は味わい深い。

「自身の作品への態度も、際立って実務的、
かつ現実的なものであった。
彼は常に、自らの体験の光に導かれ、
自身の、あるいは他人の作品を、
改訂するかどうかを考えており、
しばしば、そうした。
作曲家-指揮者として、彼は非常に公平で、
彼のコメントは、常に変わらず、
テンポ、強弱法、フレージング、音の重み、
といった純粋に技術的な事柄に限られていた。
オーケストラは詩的な指示や、
個人的な啓示を期待しても無駄だった。」

これはこれで、一つのやり方だが、
エルガーのように、オーケストラは、
作曲家直伝の秘話を聴きたかったに違いない。
私も、そんな話を読んでみたいものだが、
どうやら期待できそうにない。

「1920年代の半ばから終わりにかけて、
『Flos Campi』、
『Sancta Civitas』、
そして『海を目指す者』といった、
3つの非常に違った作品で、
ヴォーン=ウィリアムズの幻視の力は、
深まり、増幅された。
そして、バレエ『ヨブ』(1930)では、
悪魔という重要な存在が、
さらなるスタイルの拡大を導いた。
この新しい悪魔的な傾向は、
『第4交響曲』に直接受け継がれた。
1935年、この交響曲は、
民謡収集家、田舎の休日派、
それからすべての、(誤って)田園情緒を、
安息の逃げ道にしていた連中を追いやってしまった。
同時に、それは、ずっと、この作曲家を見下していた、
多くの『モダニスト』の賞賛を得た。
力強い不協和音の利用、いわゆる音階和声の放棄、
多調に向かう傾向、
こうしたものが示唆する特徴が、
ヴォーン=ウィリアムズを時の人にした。
しかし、実際は、彼は、ずっとこれまでと同じであって、
無所属であった。
1932年、ペンシルヴァニアの、
Bryn Mawr大学で行われた講義
(『ナショナル・ミュージック』として出版された)
の中で、流行や好みを楽しんだだけ、
といった心情を語っている。」

このように、彼の、創作の霊感は、
ある意味、謎に包まれている。

「この独立不羈の精神は他の面でも見られた。
1934年にエルガーが亡くなると、
ヴォーン=ウィリアムズは、
国王の音楽師範の地位を継ぐよう誘われたが、
少し前に、ナイトの叙勲を拒んだように、
彼は、これを辞退した。
翌年、彼は、彼はメリット勲位を受けたが、
これは、彼が官庁から受けた唯一の栄誉であった。
単なる「ミスターや、お好みならドクター」
であることは、(天路歴程の)バニヤン、
(ヨブの)ブレークや、
(海の交響曲の)ホイットマンに連なる芸術家であれば、
また、サリー州の自治体で合唱を楽しむ者にとっては、
自然なことであった。
彼は、ホルストのように、
いかなる形での上流崇拝を嫌うばかりか、
社会的なエリートという罠に想像力が奪われ、
プレッシャーにさらされることを彼は知っていた。」

こう書かれると思い出すのが同僚、バックスのケースだ。
Master of the King's Musickという肩書を得てから、
バックスはほとんど作品を書くことが出来なくなった、
などと言われている。

「グスタフ・ホルストの死は、辛い打撃であった。
『私が思うただ一つの事は、
彼なしにどう行けば良いのか、
何をすれば良いのかということだ。
すべての事が彼に帰結し、
グスタフなら、どう考え、助言し、
行動するかということだ。』
これは彼の友人の未亡人に宛てた手紙にあるもので、
ホルストとヴォーン=ウィリアムズの関係を、
良く物語っている。
彼らの人生は創造の世界でも、
実際の多くの音楽活動を通じても、
織り合わされていた。
ヴォーン=ウィリアムズは、
モーレイ・カレッジにおける事業や、
セント・ポール女子校、
Whitsuntideシンガーズでの仕事などで、
ホルストに関与していた。
ホルストのヴォーン=ウィリアムズの
作曲への影響は、
この十年あまりにわたり、
かなりのもので、
ホルストは、この分野で、
彼の指導者であり良心であった、
オーケストラのテクスチャーにとどまらず、
『ヨブ』や『第4交響曲』に明らかなように、
音楽のスタイルにおいても影響は大きかった。
ある人々は、『5つのチューダー王朝の肖像』(1936)や、
『音楽へのセレナード』(1938)、
『第5交響曲』(1938-43)など続く作品で、
ヴォーン=ウィリアムズが、
初期の様式に『復帰』しているのは、
ホルストの死に直結した問題だと示唆している。」

ヴォーン=ウィリアムズは、ホルストに導かれ、
新しい表現様式を手に入れ、
盟友亡き後は、道を見失ったとも読める。

「この観点に関しては確かに何かありそうだが、
回帰とはあまりに限定した見方である。
なぜなら、この作曲家が、
一貫した発展を妄信した人、
といった見方を、
我々はできないからである。
1910年あたりから、
彼は様々な表現方法に対しオープンであり、
最もふさわしい想像的形式を使ってきた。
カンタータ『Dona Nobis Pacem』
(「私たちに平和を与えよ」(1936))
のような機会音楽には特に、このことが言える。
実は、これは、ずっと初期の、
ホイットマンの詩による
『二人の老兵への哀歌』への付曲が、
いささか危なっかしく様式を揃えて、
組み込まれたものである。
『Dona Nobis Pacem』は、
フッダースフィールド合唱協会の
100周年のために作曲されたが、
同時に『時世のミサ』でもある。
これは、賢明な民衆みんなが感じていた、
怒りや焦燥を、30年代の痛みを伴う進展に対する、
ヴォーン=ウィリアムズの共有のようなものである。」

私は、ナチスとヴォーン=ウィリアムズの関係を、
これを読むまで知らなかったが、
下記のような顛末があったようだ。

「1937年、ハンブルグ大学が、
シェークスピア賞で、彼を讃えようとした際、
彼は特有の露骨さで答えた。
『私は、現在のドイツの政権の
すべてと戦うことを目的とする
英国社会に、単に、
属しているだけではありません・・
私はこの素晴らしい賞を、
良心の満足を無視してまで、
受け入れることができません。
受け取ることによって、
自身の意見の自由な表現が、
阻止されていることすら、
感じなくなるような賞を。』
賞金はドイツから持ち出せなかったので、
彼は、うまくいかなかったものの、
ユダヤ人亡命者のための、
クエーカー教の福祉基金に寄付しようとした。
1939年初頭、さらに異なる領域の栄誉が転がり込んだ。
ナチスによって、彼の音楽は禁止された。
これはドーキングの亡命者委員会のメンバーに、
彼の存在を知らしめた。」

勲章は拒否しながら、賞金は貰おうというのも、
使い方はともかく、ヘンテコな感覚である。
が、ドイツでヴォーン=ウィリアムズが、
演奏できなかったのであれば、
バルビローリが、マーラーなどと同様、
戦後のドイツで、自国の作曲家を、
取り上げようとした歴史的意味がよく分かった。

「戦争中、亡命資金や畑仕事から、
外国人収容者の解放のための内務省委員の仕事まで、
彼は、出来り限り、戦争と向き合っていた。
ナショナル・ギャラリーの
ランチタイム・コンサートの立ち上げに協力し、
音楽芸術奨励のC.E.M.Aや、
音楽活動を続ける組織のために多くの時間を割いた。
1943年、新音楽推進委員会が設立されると、
V.W.は自然に総裁に選出された。
若い世代の音楽家と、
音楽愛好家一般の両方と交流可能だということで、
これまでに、彼は家父長的な存在となっていた。
ヴォーン=ウィリアムズを、
英国第一の音楽市民であるという見方は、
彼の戦時中を代表する作品、
『第5交響曲』として結実したように見える。
彼の英国気質のみならず、
彼の初期の作品にあった、
もっとも価値ある気品ある部分が、
ここに統合されている。
彼は、この時、70歳を超えており、
バニヤンによる未完のオペラ『天路歴程』に基づき、
深くキリスト教的含蓄に富む、その精神性からも、
多くの人々は、当然、これは、
彼の最後の交響曲だと考えた。」

このような感覚も、この本を読んで知った。
私たちは、最初からV.W.の交響曲は、
ベートーヴェン同様9曲と知っているが、
確かに、70歳を超えた人が、
瞑想的な大作を披露したら、
そんな感覚に捕われても不思議はない。

「しかし、作曲家はすべての先入観を打ち砕き、
さらに4曲の交響曲が続いた。
そして、『第6』(1944-7)は、
前作の精神的基盤に、
完全に挑戦するものに見えた。
異常なエピローグは、まったくの空虚、
生命なき虚無の世界に見えた。
これがヴォーン=ウィリアムズにとっても、
どのように響くものであったかは明らかだ。
彼は、決して、信仰を公言する、
キリスト教徒ではなかったことも。
(ウルズラ・ヴォーン=ウィリアムズの
『バイオグラフィー』29ページ参照。
『彼は、チャーターハウスやケンブリッジでの、
最後の何年かは、無神論者であった。
彼は後に、楽観的な不可知論者となったが。
彼は、信仰を公言したキリスト教徒ではなかった。』)
表現の性格はまったく異なるとはいえ、
『第5』と『第6』交響曲は、
予兆、予言の音楽である。」

この一節は、名言であろう。
簡潔にこれらの兄弟作の共通点を言い当てている。
音楽の様式は全く異なるが、
背景にある作曲家の精神は同じなのである。

「ホイットマンが『広大な比喩』は、
『すべてを繋ぐ』と書いたように、
普遍的真実を忘我的に感得しようとする
彼の探求において、ヴォーン=ウィリアムズは、
『宗教的な』芸術家であるが、
彼の探求は、人間の経験に向かうもので、
宗教学な意味合いのものではない。」

このあたりから、伝記の記載は、
簡潔に飛ばし気味となる。

「彼の最後の10年は、
輝かしく行動的であった。
戦争中、彼は映画音楽に新しい刺激を得た。
その彼の最もすぐれた映画音楽は、
『南極のスコット』(1948)で、
彼の様式に印象的な刻印を残し、
色彩的に楽しく、
彼が、『フォーンズ』、『シュピールズ』と呼んでいた、
特にはっきりしたピッチの打楽器が、
最後の色彩を決め、これらは、
彼の最後の3つの交響曲を彩ることになる。」

私は、常々、彼の「第4交響曲」などは、
もっと打楽器がさく裂すればいいのに、
などと考えていたので、
ヴォーン=ウィリアムズ自身も、
時代の流れと、自作を比較して、
そんな楽器の不足を発見したのであろう。

「これらの3曲の交響曲は、
第4から第6に比べると、
もっと気楽な、もっと奇抜なもので、
そんな理由から、
特に『第8』などは大騒ぎするフィナーレゆえに、
安易に過小評価されてきた。
『第8』のカヴァティーナ、
『第9』の多くのページには、
老年に対する洞察があり、音楽的にユニークである。
『第7(南極交響曲)』は、
その多くの印象的なパッセージに関わらず、
交響的というより描写的で、
これらの中では、もっとも成功しなかった。
彼は聴覚が衰える中、自作の指揮を続け、
プロムス、チェルトナム(Cheltenham)音楽祭、
3つの合唱団の顔として出演を続けた。」

問題作ぞろいの戦争交響曲群に比べ、
晩年の3曲は、今一つ、
ピンとこない作品群だが、
これを読んで、妙に関心が掻き立てられた。

一方、作曲家の作曲以外の活動の方は、
元気なのは良いが、後進の活躍を阻害していないか、
いささか心配になる記述である。

そうこうしているうちに奥さんの方が、
限界となったようだ。

「アデリーン・ヴォーン=ウィリアムズは、
長年、関節炎で不自由な暮らしをしていたが、
1951年、80歳で亡くなった。
1953年、作曲家は、
親しく家族の友人として付き合ってきた、
ウルズラ・ウッドと再婚し、
リージェント・パークの
ハノーバーテラスに移り住んだ。」

Hanover Terraceを、
地図検索すると、
ロンドンの北部、動物園もある大きな公園、
クイーン・メアリーズ・ガーデンなどもある
リージェント・パークに
隣接した場所が出て来るが、
こんな都会の真ん中のような場所に、
81歳の老作曲家が住んだのだろうか。

それまでは、ロンドンの南方、
郊外の田舎町ドーキングに住んでいたのだから、
湘南とか相模ナンバーの車の走る場所から、
いきなり上野あたりに出て来た感じを連想した。

「ロンドンの文化生活が再度、
彼の身近なものになった。
30年代から、久しく経験しないものであった。
音楽会やオペラ、映画や特にお好みの演劇は、
いささか難聴で楽しみを妨げられたが、
多くの友人たちには、
彼が年を取るより、むしろ若返ったように見えた。
彼はさらにアメリカに足をのばし、
カーネル大学で講義を行い、各地を旅行した。
イタリアやギリシャで休暇を過ごし、仕掛品があった。
1958年8月の夜、
眠っている間に、彼が突然死んだ時、
その真実は把握するのが難しかった。
彼が想像できたより、はるかに多くの人々にとって、
V.W.なき英国音楽は痛ましく戸惑いを感じるものだ。
公共の舞台を満たす他の音楽家もいるが、
彼自身はかけがえのない存在である。
ある時代は終わり、その欠落は埋められていない。」

以上で終わり。
かなり余韻の短い記載なので、
私が、ノリントンの回想を補足したかった意味を、
ご理解いただけたものと思う。

ノリントンのCD解説は、
「これらの録音で、音楽の表層の下を探り、
この傑出した作曲家の火と情熱とを、
掬い上げることが出来れば、と思う。
彼は私が会った中で最大の人物であった。」
という熱意で締めくくられている。

私は、ヴォーン=ウィリアムズが、
極めて即物的に音楽を語った事を読んで、
このノリントンという指揮者に通じるものを感じた。

この指揮者の膨大なレパートリーも、
ひょとしたら、そうした実務的手腕によるのかもしれない。

彼は、マーラーだろうがベートーヴェンだろうが、
身もだえして苦悩することはなく、
極めて明確な立体感で、風通し良く、
充実した音楽を鳴り響かせる。

今回聴くのは、ヴォーン=ウィリアムズの問題作、
「第4」と「第6」を収めたCDである。

ちなみに、見たこともない変わった体裁で、
RWVの銀文字はケースに印刷されており、
このパワフルな交響曲に似合わず、
赤い花咲く牧場の写真があしらわれている。
が、曲想を暗示してか、赤い部分には、
たくさんの傷状の模様が施されている。

演奏は、この難解な作品を、分かりやすく、
上質の肌触りで聴かせてくれており、
金管がさく裂するところでも、
絶叫にならず輝かしく、
木管が浮かび上がるところなども、
爽やかで効果的、
リズム感もノリノリノリントンで、
実演で聴いたこの指揮者の特徴が確認できる。

スケルツォ楽章など、非常に心地よい。

が、この路線では、これらの問題作の背後に込められた、
何らかの情念へのヒントは手薄にならざるを得ない。

得られた事:「指揮者ノリントンが、今まで会った最高の人物と書くヴォーン=ウィリアムズは、人々と語らうことが出来るような音楽を書こうとした理想主義者であった。」
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by franz310 | 2013-08-15 21:27 | 現・近代 | Comments(0)
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