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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その384

b0083728_223898.jpg個人的経験:
ヴォーン=ウィリアムズの、
「第6交響曲」と言えば、
表題もメロディもない音楽、
という印象が強くて、
ちょっと苦手な作品だったが、
バルビローリのライブを聴いて、
少し、興味が出て来た。
特に、第1楽章の緊張の中、
浮かんでは消える、
田園情緒風の情感が忘れがたい。
それが、無残に引き裂かれる
「戦争交響曲」かもしれぬ。



エルガーの交響曲で、引き締まった、
充実の限りを尽くした演奏を聴かせてくれた、
ハンドリーが、演奏したCDが、
HMVクラシックスから安く出ていたが、
これで、もう少し復習してみたい。

一度、苦手意識を持った音楽作品に、
何とか、見直しの機会を与えてくれるのは、
演奏者への信頼が何よりだ。
こうした機会に、復習しておかなければ、
二度と、聞き直す機会はないかもしれない。

うまい具合に、これまた、あまり聞きたくない、
「第4交響曲」も含まれているではないか。
ロイヤル・リヴァプール管弦楽団の演奏。

ハンドリーは、エルガーの長大な交響曲を
素晴らしい演奏で紹介してくれたから、
この難解な作品を分かりやすく聴かせてくれるに相違ない。

私は、昔、ボールトだかのCDで、
これらの曲のカップリングのものを
持っていたような気がするが、
手放してしまったようだ。

この豪快で、ダイナミックレンジが広く、
音響効果が重要な音楽を聴くには、
録音も今一つだったかもしれない。

今回聴くCDの表紙は、
サミュエル・パルマ―(1805-1881)作、
「ティンタジェルの城」という絵画で飾られているが、
前に聞いた同じハンドリーのCDは、
ジョン・モグフォード(1821-1885)作、
「ティンタジェルの日没」という絵画が表紙だった。

しかも、この二人の描いた絵画のタッチは、
やたら似通っている。
よほど、ハンドリーはティンタジェルが好きなのか、
19世紀にはティンタジェルの主題が流行ったのか、
いろんな妄想が沸いてくるが、
ここでは深追いしない。

ヴォーン=ウィリアムズより10歳ほど若い、
アーノルド・バックスの交響詩に「ティンタジェル」というのがあり、
これは、かなりの傑作であった。
が、それは、このCDとは何ら関係がないように思える。

実は、バックスは1919年にこの作品を書いたのだが、
このコーンウォールの城を訪れた時、
ハリエット・コーエンという女流ピアニストを伴っていた。
このような廃墟をはるばる訪れるのであるから、
むろん、彼らは愛し合っていた。

ヴォーン=ウィリアムズは、
何と、生涯を通じてこのピアニストと親密な関係にあったそうで、
1931年のコーエンのアメリカ・ツアーに際しては、
「アメリカの人があなたを愛しすぎて、
あなたは帰ってこないのではないか」などという、
悩ましい手紙を書いているらしい。

彼が書いたピアノ協奏曲は、
あまり知られていない作品だが、
コーエンに捧げられており、
1933年の作品である。

そして、今回、聴く第4交響曲は、
1931年から1934年にかけて作曲されている。
作曲家は、1872年の生まれであるから、
コーエンにのろけたのは、
60歳の頃ということになる。
ちなみにコーエンは、1895年の生まれであるから、
30代後半の女盛りである。
(逆に、バックスは初心な20代前半の彼女を連れ歩いていたのか。)

このコーエンというピアニスト、
バルトーク、アイアランド、ブロッホといった、
多くの作曲家に愛されたようだが、
写真で見ると、気位の高そうな風貌で、
実力もあったのか、40代で早々と、
デイムの称号を受けている。

話がそれすぎたが、
今回のCD、そのような「煩悩じいさん」たる、
ヴォーン=ウィリアムズに思いを馳せて聴くと、
かなり、興味もわいてくるというものだ。

私は、作曲家のこうした一面を知らずにいて、
ラヴェルの弟子でありながら、
師のような色彩的な音楽は書かず、
頑なに民謡や中世の音楽を調べながら、
田園情緒に浸りつつ、90歳近くまで長生きした作曲家、
みたいなイメージで満足していた。

コーエンに関する逸話や手紙は、
このようなイメージを一撃で破壊してくれた。
ティンタジェルつながりで、いろいろ調べた結果である。
ちなみに、ティンタジェルは、アーサー王伝説にからみ、
必然的に「トリスタンとイゾルデ」の愛の隠れ場を想起させる。

このようなイメージは、
隠者のようなバックスにはふさわしいが、
頑固一徹な感じで9曲の交響曲を生涯をかけて並べ、
功成り名を上げたヴォーン=ウィリアムズには、
ちょっと不釣り合いだと思っていた。

このCD、ブックレットもぺらぺらな廉価盤であるが、
アンドリュー・バーン(Andrew Burn)という人が書いた、
解説がついている。

この中に、私の好きな一節も出てくる。

「『この曲が好きかどうかはわからないが、
私が書きたかった曲ではある』は、
ヴォーン=ウィリアムズの『第4交響曲』に対する意見である。
この音楽は、1931年から34年にこみ上げてきたもので、
主に怒りと不協和音を性格として持つものに仕上がったが、
音楽的構成が熟達したものである。
ある人は怒りを表すべき外的要因を見出し、
ボールト指揮BBC交響楽団によって
1935年に行われた初演のすぐあと、
ファシズムの不吉な台頭、
来たるべき衝突を憂えたものと考えた。
一方で、作曲家は、この作品は、
『タイムズ』に書かれた、
典型的なモダンな交響曲に関する記事に
張り合うように書かれたものだと主張している。
しかし、この作品が、真の説得力を越えた何かや、
内的な音楽的ダイナミズムの創意を反映しているにせよ、
この作品は、決断力あり、心温かく、
ユーモアと自己省察の人、それでいて怒りに駆られやすい、
ヴォーン=ウィリアムズその人の個性を表している。
すぐにこの事に気づいた人は少なく、
ある洞察力ある友人は、
『スケルツォには、君の嫌な一面が出ている』
と書き送った。」

この部分に、私は非常な興味を覚えた。
もちろん、その人が作った音楽であるのだから、
その人となりが出てもおかしくないが、
嫌な所が出る部分が興味深い。

が、チャイコフスキーは、
音楽からして神経質で、ねちねちしていそうだし、
モーツァルトは一面軽薄であり、
シューベルトは、いささか、無頓着かもしれない。

この解説で知った、
作曲家の性格の弱点が、図らずも浮き出た
とされるスケルツォを聴いていると、
田園情緒に逃避せずにはいられなかった、
この作曲家の弱さみたいなものが感じられる。

「密度とエネルギーに満ちたオープニング以外は、
この交響曲には数多くの情緒豊かな瞬間がある。」

確かに、この交響曲は、最初の絶叫からして、
聴きたくなくなる感じの音楽である。
が、それを耐えるべし、と解説者は言いたいのであろう。
以下、解説者が書き上げた、「情緒豊かな」部分を中心に、
聴いて行こうではないか。

Track1.第1楽章、アレグロ:
「第1楽章の凝縮された情熱的な第2主題、
第3の主要主題の展開によるその謎に満ちた終わり方」
が聴きどころだとある。

怒りのやりどころを探すような主題で始まり、
警告のような音形が出る冒頭は、
私にとっては、
とばっちりがこちらに来ないか、
などと祈るばかりの音楽である。

第2主題は、リズミックな木管に乗って、
弦楽が歌うなだらかなものだろうか。
これは、非常にヴォーン=ウィリアムズ的で、
これだけ聴けば、非常に美しい。

第3主題は金管による勇ましいものであろうか。
進軍を表すように勇壮だが、
どこか悲壮感に溢れている。

このように、かなりいろんな材料が詰め込まれた交響曲で、
各部各部は非常に魅力的な瞬間を持っているが、
冒頭の凶暴な動機が現れては、台無しにしていく。

そんな中、蘇ってくるメロディも高潔であり、
よく聞くとかけがえのない瞬間を持っているが、
何故か最後は、まどろむような、
あるいは空中を浮遊するような静寂の中に消えて行く。
たしかに謎に満ちている。

Track2.第2楽章、アンダンテ・モデラート:
この悲しげなメロディは、虚無感を交え、
かなりショスタコーヴィチ的である。
この静かな楽章が、この曲の中では一番長く、
凶暴なテーマも現れず、聴きやすい。
ここに何か核心的なものがあるのだろうか。
延々と、続くモノローグのような音楽で、
解説には、
「悲しみが織り込まれた悲歌」とある。

確かにそうなのだが、何だか悪夢のような音楽で、
悲しみより、恐怖とか慟哭に近い。
ショスタコーヴィチが好きな人は聞くべきである。

ちなみに、1930年代というと、
ショスタコーヴィチは、後半になって、
ようやく、第4、第5の傑作に手が出る感じ。
ヴォーン=ウィリアムズは、むしろ、先達なのであった。

Track3.第3楽章、スケルツォ:
これこそ、友人が見出した、
ヴォーン=ウィリアムズの嫌な側面で、
確かに、意地悪そうで、いじけ虫みたいな音楽。
これまた、ショスタコーヴィチ的であるが、
ショスタコなら、もっと、どんぱちやりそうだ。
そうだ、ヴォーン=ウィリアムズは、
もっとめちゃくちゃにやればよかったのだ。
ティンパニが連打されているが、
ショスタコなら、打楽器奏者が、
あちこちを歩き回ったり、立ったり座ったりする音楽にして、
もっと聴衆の喝采を浴びたことと思う。

解説には、
「おどけたようなスケルツォのトリオ部のユーモア」
を聴きどころに上げているが、
これにも同感である。

Track4.第4楽章、終曲:
「ブラスのコラールから不協和音を積み上げて、
クライマックスを築く、エピローグのフガート」を聴けとある。

スケルツォから流れ込むピエロのような音楽である。
ショスタコーヴィチなら、スターリンの肖像だ、
とかいう説で、もっとみんなの注目を集めただろう。

戯画的で、無窮動風で堂々巡りみたいな音楽が、
だらだら続くが、何だか様々な音形が交錯して面白い。

そんな中で、6分くらいで、コラール風のラッパ出た。
かなり錯綜感ある展開で、このあたりの交通整理は大変そうだが、
さすが名手、ハンドリーは、落ち着いてさばいて行く。
小太鼓もさく裂が続き、ショスタコもかくやの大混乱を、
ばん、と締めくくる。
もっと、意味ありげに長々とやれば、
もっと日本で人気が出たはずだ。

ショスタコーヴィチの場合、本人のパーソナリティが、
恐怖の時代にパッケージされていて、
ちょっと良くわからない感じになって、
ある意味、得をしている。

次は、第6交響曲。
「ヴォーン=ウィリアムズのキャリアを通じて、
その交響曲が何を意味しているかを、
批評家たちは探っている。
『第6交響曲』は、
核戦争の恐れが予告されたものと予想された。
しかし、作曲家は、これを激しく否定、
苛立たしげにコメントしたのは、
『単に書きたいものを書いただけ』。
1944年から1947年にかけて作曲され、
緊密な構成で書かれ、楽章間はつながっていて、
長調と短調の緊張関係を追及していて、
あいまいな4thのintervalがエネルギーを増している。
再びボールト指揮のBBC交響楽団による、
1948年の初演で、この交響曲は好評を博した。」

ボールトは、このように、ヴォーン=ウィリアムズと、
最も緊密な関係で結ばれた指揮者であったようだが、
ハンドリーはボールトの影響で指揮者になった人である。

Track5.アレグロ:
「長調と短調の和声の諍いがつばぜり合いし、
第1楽章は、狂乱じみた活気に突入する。
テンポの変化を伴って、対照的な楽想が現れ、
第1のものはぎこちなくトランペットで、
第2のものは民謡風な抒情的なものがヴァイオリンに出る。
ドラマの展開が静まると、
民謡風の主題が晴朗な弦楽で回帰するが、
交響曲の冒頭のように押しつぶされ、
主要な不協和音がかえってくる。」

序奏は粘りがある方が「第6」と、
「第4」と、ほとんど同じのような感じ。

最初から荒れ狂っているので、
第4交響曲と似たような作品だと思っていたが、
第4は勇ましい第3主題まであるので、
実は、かなり違う内容だと考えるべきだろう。

気合いの入りまくった演奏で、
アタックがものすごい。
音の塊の投げつけられ方も、
しかも、ぐちゃぐちゃしておらず、
スマートな感じなのが良い。

解説に書かれたように、
丁寧に聞き直してみると、
第1主題は、よっぱらったような、
千鳥足の音楽で、「第4」のような、
シリアスさはない。

第2主題は、共に田園的だが、
「第6」の場合、どれもこれも、
「第4」よりも自由で即興的、
アメリカナイズされた音楽に聞こえる。

気難しいのは、序奏だけである。

この開放的でのどかな広々とした、
第2主題が、序奏のテーマが蹂躙する様は、
いかにも不気味である。

Track6.モデラート:
「緩徐楽章は、不吉な三拍子で、
忍び歩く半音は寒々として脅迫的である。」
居丈高なブラスのファンファーレのような楽想は、
次の部分の基礎となる。」

この「ファンファーレ音形」とは、
ファンファーレというには寸詰まり感の強いもので、
ぶすぶすと燻った爆発間際のエンジンのようだ。

その後、むにゃむにゃと意味不明の、
瞑想的、というか、虚脱感に満ちた部分が来るが、
このような状態から、
以下のような恐怖の表現がこみ上げてくると、
完全にショスタコーヴィチの音楽そのものである。

「ファンファーレの音形と組み合わされ、
持続リズムがかえってくると、
4回の凝集したクライマックスが来る。
痛切なレクイエムのような効果を持つ、
コール・アングレが出て、
全てが終わって残っているのは、
無味乾燥の感情の抜け殻である。」

小ファンファーレは、冷酷無比な、
機銃掃射みたいにも思える。
したがって、残っているのは死体の山、
無味乾燥だけが残ってもおかしくはない。
コール・アングレは、
そこから這い出して来た霊魂のような響き。

Track7.スケルツォ、アレグロ・ヴィヴァーチェ:
「スケルツォは嘲笑の調子のもの。
クロス・リズムで対位法的な素材が、
次々と起こる大混乱を繋ぎとめている。」

先の掃討戦の後、この諧謔味は、
まるで笑えない。

「トリオは、オーケストラの前を、
テノール・サクソフォンが顔をしかめて通り過ぎ、
残忍なジャムセッションのようだ。」

とにかく、まったく人間味の感じられない大騒ぎで、
それでも足りないとばかりに、
耳をつんざく不協和音や打楽器のさく裂は、
まったくもって、精神衛生上よろしくない。

ショスタコーヴィチでも、
一連の戦争交響曲で、
ここまで残忍な描写はしなかったのではいか。

Track8.エピローグ、モデラート:
「初演の後で多くの意見が出たのは、
ミステリアスなエピローグのせいだ。
ヴォーン=ウィリアムズが述べた、
『テーマの呼吸』と呼んだ、
静止した不思議な景観の上を縫うように進む、
全編ピアニッシモである。」

この楽章は、この猛暑の夏に聞くのは、
辛い音楽である。
扇風機の音にかき消されて、
良く音楽が聞き取れない。
おそらく、音楽プレーヤーで、
電車に乗っていても、
カーステレオで高速を走っていても、
何も聞こえないのではないか。

「テーマの呼吸」は、
まるで雲の上の傍観者のように、
荒涼たる風景の上から鳥瞰していく。

このような楽章が、全曲で一番長く、
しかも、下記のような意味深、
あるいは思わせぶりな寸言が添えられているのだから、
もうかなわんと言いたくなる。

「この異常で独創的な楽章に、
音楽外の視点が何か手がかりがあるとすれば、
ヴォーン=ウィリアムズがマイケル・ケネディに示唆した、
『我々は夢と同じ素材でできている。
そして我々のちっぽけな人生は眠りと一緒に回っている。』
という、『テンペスト』において、
プロスペローが最後に語る言葉だけだ。」

ドミトリ・ショスタコーヴィチ(DS)と、
ヴォーン=ウィリアムズ(VW)の交響曲を比較すると、

1934年、VW:第4交響曲
1936年、DS:第4交響曲
1937年、DS:第5交響曲
1939年、DS:第6交響曲
1941年、DS:第7交響曲
1943年、VW:第5交響曲
      DS:第8交響曲
1945年、DS:第9交響曲
1947年、VW:第6交響曲

という関係である。

ショスタコーヴィチの「第4」が
「戦争交響曲」でないように、
ヴォーン=ウィリアムズのそれも、
「戦争交響曲」ではなかったのに、
聴衆が誤解したせいで、
先に、ショスタコーヴィチの方が、
本格的な「戦争交響曲」を書きならべ、
敷き詰めてしまった感じがある。

勇ましい音楽も、虚脱の音楽も、
もはや書く意味はなくなり、
残された音楽は廃墟になるしかなかった。

今回、ヴォーン=ウィリアムズの、
「第4」と「第6」の2曲を聴き比べて、
私は、下記のような印象を持った。

得られた事:「ヴォーン=ウィリアムズは、私小説的な『第4交響曲』を聴衆に間違って解釈され、『第6』をやけっぱちの返礼のように作曲した。」
「あるいは、『第4』には、誤解から守るべき理由があった。」
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by franz310 | 2013-07-13 22:04 | 現・近代
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