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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その372

b0083728_211831.jpg個人的経験:
2013年の聖週間である。
前回は、「枝の主日」のミサなる
グレゴリオ聖歌集を聴いた。
今回は、「過越の三日間」に
突入していることから、
かなり途方に暮れている。
最後の晩餐の聖木曜日、
イエスが十字架にかけられるのは、
翌日の聖金曜日、
そして墓の中での聖土曜日が続く。


とにかく、復活祭前に慌ただしく受難が起こるのである。
復活するためには、死ななければならぬ、
という、当然でありながら、恐るべきパラドックスが、
凝縮された一週間になっている。

金澤正剛著の「キリスト教と音楽」
(音楽之友社)にも、
「この三日間はキリスト教にとって
もっとも重要な行事が続く期間で、
音楽においてもさまざまな名曲が生みだされています」
とあるように、
まじめに、この時期にのみ、
この時期用の音楽を聴いていたら、
身が持たなくなってしまう。

キリストが受難した時なので、
受難曲が演奏されるのをはじめ、
シュッツやハイドンなどが書いた、
「十字架上の七つの言葉」などがある。
「聖週間のレスポンソリウム」などもある。

さらには、なぜ、それが関係するのか、
門外漢には、ちんぷんかんぷんとなる、
「エレミアの哀歌」なども、
この時期用の作品だということである。

前に紹介したルーラント指揮の
「グレゴリオ聖歌」でも、
この哀歌は、聖週間のための音楽に分類されていたから、
(ルーラントが勝手に分類しただけであろうか)
エレミアの哀歌が重要な礼拝用の作品であった事は、
事実のようである。

それにしても、
旧約聖書に分類される
この「エレミアの哀歌」が、
何故、新約聖書の主人公たる
イエスの受難と関係するのだろう。

旧約聖書を信じつつ、
イエスをキリストと認めない
たとえば、ユダヤ教のような宗教の方々は、
いったい、この一方的な侵害を、
どう受け止めるのか、
心配になったりするほどである。

「エレミアの哀歌」といえば、
イギリスのタリスが作曲したものを、
録音したCDが話題になった事もあったから、
多くの音楽愛好家が知っている名前であるが、
まさか、このイースターに先立つ、
聖週間に聴かれるべき音楽だなどと、
ちゃんと認識した人は、
日本では一握りの人だったのではないか。

たとえば、1992年に音楽之友社から出た、
皆川達夫著「ルネサンス・バロック名曲名盤100」には、
ヒリヤード・アンサンブルのこの名CDが取り上げられ、
「磨き抜かれたアンサンブル」と書かれているが、
「旧約聖書にしるされた予言者エレミアのい言葉によって
イェルサレムの荒廃を嘆き、
神を信じる人々が正しい信仰に
たち戻るようにすすめる作品です」と書かれているのみ。

もちろん、英国国教会では、
聖週間にこれを歌う風習はなかったという説や、
反対に、劣勢になった少数のカトリックの人たちが、
これを歌ったのではないか、という説もあるようなので、
ややこしいキリスト教教会歴の話は、
あえて書かなかったのかもしれない。

あと、ややこしいのが、
フランスで大発展することになる、
「テネブレ」という、
完全に「聖週間」用の音楽が、
これまた、内容が「エレミアの哀歌」であることだ。

「テネブレ」とは、暗闇の事で、
聖書朗読を意味する「ルソン」と組み合わせた、
「ルソン・ド・テネブレ(暗闇の中の聖書朗読)」
の略語である。

キリストの受難が、
だんだん暗くなる儀式となり、
暗闇の朗読となった模様。

ここで朗読されるものが、
聖書の中から、特に、「嘆き」に満ちた、
「エレミアの哀歌」であったということである。

日本聖書協会の「聖書」をひもとくと、
「エレミア書」に続いて、
「哀歌」全5章が収められている。

聖書という大著の中で、この部分は、
それほど長くなく、全5章。
第1章は22節(2.5ページ)
第2章は22節(2.0ページ)
第3章は66節(2.5ページ)
第4章は22節(1.5ページ)
第5章は22節(1.0ページ)
と、かなり長さが不均一である。

これを「過越の3日間」で歌うので、
かなり難しい配分だと思っていたが、
そのあたりは現実的な解決で対策されていた。

1日目は、第1章第1節から第14節、
(したがって、第1章第15節以下は省略)。

2日目は、第2章第8節から第15節と、
(したがって、第2章も第16節以下は省略)
第3章第1節から第9節で途中まで。

3日目は、第3章第22節から第30節と、
(第3章も第10節から21節、30節以降省略)
第4章第1節から第6節と、
(第4章は第7節から第22節なし)
第5章第1節から第11節が歌われる。
(したがって、第5章は後半ばっさりなし)。

1日目、2日目、と書いたのは、
事情が込み入るからで、
本来は「過越の3日」に相当するのだが、
朝早すぎるお祈りが、
前の日にまでさかのぼり、
1日繰り上がって、
水曜日から始まるようになっている。

よって、本来は木、金、土のためのものが、
水、木、金曜のためになっている。

この歌詞に対して、大量のフランスの作曲家が、
独唱による「ルソン・ド・テネブレ」を書いた。
それを利用して、日本の演奏家たちが、
1990年代に美しい3枚のCDを残している。

第1日(聖水曜日)用:
グレゴリオ聖歌(CD第1集)
クープランの第1(CD第1集)
グフェの第1(CD第2集)
ランベールの第2(CD第1集)
クープランの第2(CD第1集)
フィオッコの第2(CD第3集)
ドラランドの第3(CD第1集)
フィオッコの第3(CD第3集)

第2日(聖木曜日)用:
グフェの第1(CD第3集)
ローゼンミュラーの第2(CD第3集)
フィオッコの第3(CD第3集)

第3日(聖金曜日)用:
ニヴェールの第1(CD第2集)
グフェの第1(CD第2集)
ランベールの第2(CD第2集)
グフェの第2(CD第2集)
ニヴェールの第3(CD第2集)

ということで、朗読されるべき、
9つの「ルソン・ド・テネブレ」は、
すべてそろっているということだ。

第2集(1992年秋川キララホール録音)の方が、
先に、3日目を押さえているのは、
何だか変な感じもするが。
(第3集は、1993年松本ハーモニーホール。)

たとえば、クープランなどは、
第1日の第3テネブレも書いているが、
それは2重唱用なので、ここでは取り上げられていない。

何故、かくも美しい、すぐれた録音が、
この、日本で生まれていたのだろうか。
そんな事を考えてしまう力作ぞろいである。

悪い言い方をすれば、
バブル期の申し子のようなもの、
かもしれぬ。

そもそも、「ミサワホーム総合研究所」が、
何故、CDを出すの?
「MISAWA Classics」って何?
という感じだが、経済に余裕があれば、
こうした文化貢献も出来たのだろう。

そもそも、表紙からして二枚重ねで、
一枚目の絵画の上に半透明の紙が敷かれ、
そこに演奏者名やタイトルが印刷されている。

日本の古楽界の草分けともされる、
故大橋敏成氏が監修し、ヴィオラ・ダ・ガンバを担当。
どの選曲も「解説」も、最高級のこだわりを感じる。

1枚目のもの(1989年石橋メモリアルホール)
を取り上げると、
今井奈緒子のポジティブ・オルガン、
芝崎久美子のハープシコードを背景に、
新久美という人がソプラノを担当。

空間を生かした素晴らしい録音で、
「Stereo」誌付録の
「コンパクト・ディスク・カタログ ’91」
では、「新久美のデビュー盤」とあり、
CD録音評9.0点で「BR」マークがついている。

寸評は、「わが国におけるバロック歌唱法の
第一人者として活躍が期待されている
新久美の美しい歌唱を収めた一枚。
その透明でまっすぐにのびる歌声は、
官能的な香気を放つ音色の魅力をそなえて、
聴くものを魅了する」と書かれて、
推薦盤となっている。

「レコード芸術」でも準特選盤の栄誉を得ている。
私も、実は、このCDを聴いて、
この「ルソン・ド・テネブレ」に陶酔した一人である。

が、先の寸評の最後にある、
「『エレミア哀歌』集という
プログラム選定も成功している。」
という一言に関しては、
少し、悩ましい事を感じている。

先ほどから書いているように、
この「エレミアの哀歌」は、
栄光の都、エルサレム陥落の後、
そこに広がる光景を嘆くものなのだ。

様々な作曲家が書いた、
「テネブレ」のアンソロジーとしての
「選曲」は素晴らしいが、
何と、美しすぎる歌唱であろう。

この「エレミアの哀歌」、手を変え、品を変え、
かつては栄えた都を嘆くばかりなので、
どこを取っても同じような感情の歌となる。

したがって、これらの作品からは、
痛切な悔恨とか痛みとか、
もっと言えば慟哭とか悲哀を
聞き取りたいような気もするが、
この演奏は超俗的で、それを突き抜けたところにある。

では、内容を見て行こう。

Track1.グレゴリオ聖歌より第1ルソン。
これは、ルーラントのCDでも男声合唱で歌われていたが、
ここでは、ソプラノの一本の声だけで歌い継がれる。
まったく異なる清澄な音楽である。

「やもめになってしまったのか
多くの民の女王であったこの都が」
とか、
「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる」
とか、
「友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった」
などなど、気が滅入る内容。

このような内容が、このような声で歌われると、
天上からの啓示のような効果となる。

後半には、こうした惨状も、
自分たちの行いのせいだと歌われる。

「主は懲らしめようと、
敵がはびこることを許し、
苦しめるものらを頭とされた。」

Track2.
クープランの作品で、先の聖歌と同じ歌詞。
「神秘的な啓示」とは、まさしく、
こんな助奏を差して言うべきであろう。
オルガンとガンバが、舞い降りる天使の光となる。

「エレミアの哀歌ここに始まる」という、
新久美の声も同様に天上の使者である。

「人に溢れていたこの都が」の、
エルサレム荒廃の部分も、
清澄な天使の声で解説される。

伴奏の超俗的な雰囲気がまた、
天上からの鳥瞰図のようなイメージを与える。

この「エレミアの哀歌」には、
その1、その2みたいな、
「アレフ」、「ベート」という部分も歌われるのだが、
ここには装飾が施されていて、
これがまた、天上的で、
この部分が来るごとに天使は旋回し、
その住処にいったん戻る感じである。

「夜もすがら泣き、頬に涙が流れる」
という所では、さすがに悲痛な響きを聴かせ、
「友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった」
では、さらっと説明している感じ。

「捕囚となって異国の民の中に座る」という部分も、
むかし、むかし、こんな事があったようです、
と報告されているだけに聞こえ、
まったく、慟哭の音楽ではない。

「シオンの城門は荒廃し、乙女らは嘆く」
の部分は、切迫感を増し、
喘ぐような気配を見せるが、
踏みとどまって、地上の少し上を旋回して上って行く。

「主は懲らしめようと、
敵がはびこることを許し」の部分は、
いくぶん、厳粛に受け止める感じ。
「彼女らの子はとりことなり
苦しめる者らの前を、
引かれていった」の部分は、
さすがに胸を打つ。

最後は、「エルサレムよ、立ち帰れ、
あなたの神、主のもとへ」の歌詞で結ばれる。
この部分は、長く長く引き伸ばされ、
神妙かつ、教訓的なものが、
ある種の無常感と共に胸に浸透してくる。

Track3.
ランベールの作品で、第2ルソン。

ランベールは、クープランより、2世代ほど前の人。
「宮廷歌謡作曲家」だと書かれている。
ルイ14世の楽長だという。
グレゴリオ聖歌を装飾した作風だという。

ここから2曲は、オルガンに代わって、
チェンバロが入って、少し、人間的になるが、
やはり、この世ならぬ世界に導きいれられる。

「栄光はことごとく
おとめシオン(エルサレムの歴史的地名)を去り」
とあるように、
エルサレムが寂れてしまった事を歌う。

「苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を
助ける者はない。」
と、かつての住民の苦難を歌うが、
「絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている」と、
怒りをぶちまけたくなるような内容ながら、
さわやかに説明されている。

ランベールも、クープラン同様、
あくまで、上品な説明である。

「エルサレムは罪に罪を重ね、
笑いものになった」とか、
「重んじてくれた者にも軽んじられる」とか、
自虐的この上ない。
人間不信になりそうな内容ながら、
それを表に出すことはない。

最後は、やはり、反省の言葉が続く。
「彼女は行く末を心に留めなかったのだ」
とか、
「ご覧ください、主よ、
わたしの惨めさを、敵の驕りを」
と、自ら歌いあげて、
深く内省を促している。

最後の「エルサレムよ」は、
つわものどもは夢のあと、
みたいな虚脱感で終わる。

Track4.
クープランの「第2ルソン」。
「その6」を表す「Vau(ヴァブ)」が歌われるが、
これまた、長く引き伸ばされて装飾され、
恐ろしい美しさである。

「栄光はことごとく去り」という言葉を導き、
はるか、昔を思い起こすような天空を滑るような
無重力感で、我々を、遠くに連れ去ってしまう。

「疲れ果てても追い立てられる」の部分は、
その流れで、昔の話の説明調。

「彼女の民を助ける者はない。」
の部分は、助けの手を差し延ばすような、
同情の念や悲痛さをにじませ、泣ける。

「絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている」
のレチタティーボは、感情移入はない。

「罪に罪を重ね、笑いものになった」
は、レチタティーボで、反省を強いるような、
厳しめの声が聴ける。

「彼女は行く末を心に留めなかったのだ」
の部分は、なんて事をしてしまったのでしょう、
といった、痛恨の情をにじませており、
「ご覧ください、主よ、
わたしの惨めさを、敵の驕りを」
の部分は、独白調となっている。

エンディングの「エルサレムよ」には、
神に対する懇願のような切実さがある。
クープランであるが、第1ルソンと異なり、
チェンバロが入っている。

Track5.
ドラランドの第3ルソン。
ここでは、オルガンとガンバになる。
ドラランドは、ルイ14世治世後半の最大の
王室音楽家だという。

わたしは、この人の音楽は、
この太陽王の時代を反映して、
じゃんじゃか風だと思っていたが、
娘のためのこの作品は、
インティメートな雰囲気が強い。

「宝物すべてに敵は手を伸ばした。」
「異国の民が聖所を侵すのを見た。」
といった内容。

ふと、イエスがエルサレムの神殿で、
怒り狂ったシーンを思い出した。
彼の怒りは、こうした過去を知る男の、
相も変らぬ人々に対する怒りであったかもしれぬ。

されるがままの無力さが、
このふわふわした伴奏にも感じられる。

ソプラノも、力なく、漂うばかりで、
なすすべがない感じが良く出ている。
さすが、第一人者で、きめ細かい配慮がなされている。

「民はパンを求めて呻く」という、
惨めさが出た音楽で、
「主がついに怒って私を懲らしめる痛みを見よ」
と、またまた自虐的な言葉が後半に出る。

「エレミアの哀歌」は、前半は苦々しい現実描写、
後半は、「ああ、これも自分たちのせいだ」という自虐、
というパターンが繰り返されている。

次に、序奏があって、神秘的な啓示が来る。
「わたしを引き倒し、病み衰えさせる」と歌われるが、
比較的わかりやすい民謡のようなメロディで描かれる。

最後の節(その14、Nun(ヌン))も、
「わたしの罪は御手に束ねられ、くびきとされる」
と、
ぼこぼこにばかりされる様が、
さらに増していくが、
同情の影を滲ませつつも、
比較的、淡々と歌われている。
「刃向うこともできない敵の手に引き渡された」
という部分など、完全におとぎ話風で、他人事になっている。

解説によると、前半はガヴォット、
後半はメヌエットとある。なるほど。

最後の「エルサレムよ、立ち帰れ」の部分では、
オルガンの浮遊感の中に、
内省的な声楽が戻って来る。
この部分は、まことに神妙な音楽となる。
半音階のシャコンヌだという。

ということで、このCDは、
第1印象のように、蒸留水的なものではなく、
歌詞を聴きながら、耳を澄ませると、
曲や歌詞ごとに、細かい配慮がなされた、
すぐれた模範を聞き取ることが出来る。

それが教科書的にならず、
天上の憧れに昇華されている点が、
稀有のものを感じる。

さらに、この「エレミアの哀歌」の、
「彼女」という主人公は、
エルサレムそのものなのであった。

つまり、枝の主日を境に、
この町に踏み込んだイエスは、
彼女を救出する使命を帯びていたとも言える。

繰り返し歌詞に見られたように、
一度は蹂躙されつくした、
エルサレムの街に、
イエスは踏み込んで行ったのだが、
もちろん、時代的には隔たりがある。

エレミアが嘆いたのは、紀元前598年の、
第一回バビロニア捕囚のあたりであろうから、
ローマに支配されたイエスの時代とは、
600年の隔たりがある。

21世紀の日本人が戦国時代を回顧し、
かつての名城に思いを馳せるようなものである。

このエレミアの時代、
隣国の大国であった、
バビロニアのネブカドネザル王は、
エジプトを破った余勢を駆って、
ユダ国に攻め入り、
神殿や宮殿の財宝すべてを奪い去り、
王族、貴族、すぐれた労働者を、
バビロニアに連れ去ったので、
貧しいものだけが残されたという。

エレミアの「哀歌」のうらぶれた情景は、
このような背景を想定すればよいのだろう。

また、このような大国に挟まれた、
狭い国土の栄枯盛衰は、
現代の我々にも何らかの感慨を与えずにはおかない。

中公新書の「聖書」(赤司道雄著)に、
エレミアのような預言者の活動を、
こう総括された一文がある。

「預言者の思想の第一の基本的特色は、
この選民信仰にたいする
アンティ・テーゼということである。
選ばれた民の信仰は、
神ヤハウェよりの助けをつねに期待する。
これにたいして預言者は、
イスラエルの滅亡を説いている。」

旧約聖書の全編を覆う選民思想は、
最後に並べられた預言者の言葉で覆される形である。
おそらく、これらの預言者の章がなければ、
聖書は、我々とは無関係の
民族史になっていたかもしれない。
あるいは、イエスも登場しなかったかもしれない。
少なくとも、世界宗教にはならなかったであろう。

先の「聖書」には、こうある。

「アモス以降、ホセア、イザヤ、
ミカ、エレミア、エゼキエルなどによって、
預言者のイスラエル、ユダへの批判は
受け継がれていくが、
当然預言者の苦言は、
施政者および一般の民衆の反発を買う。」

施政者のみならず、民衆まで怒るのは、
一般民衆の腐敗した、
神に背く生活をも批判したからである。

この後、エレミアの悲痛な言葉として、
下記の部分(エレミア書)が引用されている。

「主よ、汝が私を欺かれたので、
私はその欺きに従いました。
・・・私は一日中もの笑いとなり、
人は皆私をあざけります。
それは、私が語り呼ばわるごとに
『暴虐、滅亡』と叫ぶからです。
主の言葉が一日中わが身のはずかしめと
あざけりになるのです。」

神に対して恨み言の言葉を連ね、
「滅亡」を語るエレミアの言葉を、
キリスト受難の前後に読みふけるというのは、
「復活祭」のためのジャンピング・ボードなのだろうか。


また、「奴隷となってしまった」、
エルサレムを救おうとし、
再び、受難に遭遇したイエスを、
こうした歌で「過越の3日」に偲ぶのは、
確かに意味のあることにも思えて来た。

20年前に素晴らしいCDを残し、
大橋敏成氏は、10年ほど前に亡くなったとあるが、
ハープシコードの芝崎久美子という人も、
わたしと同世代だったようだが、
今年のはじめに亡くなっていた。
新久美という歌手は、いったいどうなったのだろう。

得られた事:「エレミアの哀歌は、エルサレムの街を擬人化し、主人公とした物語となっており、エルサレムに入城後に受難するイエスを偲ぶのにふさわしい。」
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by franz310 | 2013-03-30 21:02 | 古典 | Comments(1)
Commented by ナカガワ at 2014-08-12 11:05 x
新さん大橋先生の活躍した上野学園近く住んでおり、聴く機会に恵まれた者です。語り継いでいただきうれしく思います。コンサートではクープランの第3ルソンも演奏されたのですが、CDとして残っておりません。それともし機会がありましたら、MAシャルパンティエの金曜日の第3ルソン(H95)をお勧めします。クープランの第3に劣らない美しさと思います。
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