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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その322

b0083728_23112593.jpg個人的経験:
ロッシーニのオペラ
「タンクレーディ」は、
200年前の欧州を、
席巻したにも関わらず、
その後、急速に忘れられ、
二十世紀も残り少なくなって、
ようやく、再評価された。
この素晴らしい作品の
再発見に力あったのが、
マリリン・ホーンである。


ありがたい事に、この傑作を、
この偉大な歌手が、1983年に録音したCDを、
我々は手にすることが出来る。
しかも、ライブである。
聴衆が、真剣に聴き入り、
熱狂的な拍手で応えている様子が、
手に取るように分かる、生々しい記録でもある。

黒を基調にした渋いデザインは、
何だかシンプルかつストレートで強烈だ。

例えば、相澤啓三という評論家が書いた、
「オペラの快楽」(1992、JICC出版局)では、
ロッシーニのオペラ・セリアの代表作として、
「セミラーミデ」、「マホメット二世」などと共に、
この作品を挙げ、さらに、ホーンのCDを挙げ、
「圧巻」と書いている。

「ホーンのリズム感溢れる華やかで生き生きした
コロラトゥーラはその堂々たる騎士振りを目にすれば
ますます圧倒的な迫力を発揮する」といって、
ホーンの舞台を映像記録したものがあることも示唆しているが、
これはどうすれば手に入るのであろうか。

それはともかく、かつては、
CBSソニーから国内盤も出ていたこのCD、
なかなか再発売されないので、
中古で見つけて来たのだが、
私の入手したものは、
1985年のオーストリア盤である。
イタリアのFONIT CETRAが、
CBSと共同制作したと書かれており、
権利関係がややこしいので、
再発売されないのだろうかと考えた。

アメナイーデにはレッラ・クベルリが入り、
アルジーリオは、エルネスト・パラッチオが歌っている。
ラ・フェニーチェ劇場のオーケストラを、
ヴァイケルトが振っている。

マリリン・ホーンと言えば、
文字通り警報のような声を連想していたが、
もっと、ひしゃげたような感じで、
高く舞い上がるような声ではない。
それが第一印象。

登場の「おお祖国よ」や、
アリアの「ディ・タンティ・パルピティ」でも、
上から圧力がかかっているような感じで、
狭い隙間から絞り出されるような質感だ。

声の質に微妙な陰影を持っていることもあり、
その技巧による声の密度が、
きわめて凝集された感じを与える。

登場時はあまりそうした事も感じなかったが、
だんだん、物語が進行し、声にも熱を帯びて来る。
特に、私は、アメナイーデとの二重唱での、
纏綿たる濃密な声の絡まり合いには、
我を忘れて聴き入ってしまった感じである。

クベルリは、コッソットがタンクレーディを歌った、
フェッロ(フェルロ)指揮のものでも、
同じ役柄を担当していた。

コッソット盤は、スタジオ録音だったのだろうか、
それに比べると、何だか火照ったような緊張感がみなぎり、
この録音、そんな意味でも鬼気迫って圧巻である。
コッソットのものは、もっと古典的な明晰さを持っていた。

序曲の序奏からして、フェッロの指揮は、
落ち着いて粛々と事を運んでいる感じだが、
こちらのヴァイケルトは、叩き付けるような気迫がある。

リズムの刻みも、アタックが激しく、
このオペラの内容にふさわしく深刻な感じである。
スワロフスキー門下で、オーストリアの人らしい。

この序曲について、スタンダールは、
「騎士タンクレーディの名にふさわしい音楽」として、
「優美と繊細に満ちている」と書いた。
この序曲は、しかし、「試金石」の転用品である。

さて、スタンダールの論評に従って、
このCDを少し聴き進んでみよう。

この文豪にして音楽評論家は、
序曲には感心しているが、
続く合唱については、
耳に快いが、「力強さ」には不足する、として、
中世の騎士の感じがしないことを指摘している。

「血気盛んな中世の感じがするだろうか」
と書いているが、当時の感覚も、
我々とそう変わらなかったのだろうか。
これは私も感じる点ではある。

が、このCDの演奏は、
かなり力が入っているせいか、
他の演奏よりも血気盛んな感じがする。

続く、アメナイーデ登場のシーンについては、
スタンダールは共感していて、
「騎士道が華やかな時代の若い王女にふさわしい、
高貴で飾り気のない優雅さを、
彼以前の音楽がこれほど完璧に表現したためしはない」
と書いている。

このCDの演奏は、きびきびとして、
緊張感を保ちながら進んで行く。

しかし、このフランス人はうるさいのである。
続く、アメナイーデのカヴァティーナ、
「なんと快くわたしの心に」は、
装飾音がこぎれいすぎるだの、
憂愁に欠けるだの、小姑のようにうるさい。

が、スタンダールが言う、
「追放されて今はいない恋人を想うのだから」
という観点からは、
十分、納得できる見解である。

しかも、スタンダールは、さらに、
悲しい音楽だとお客が退屈するとか、
憂愁を伴う愛情を描くには若すぎた、
という、分析まで行っているのである。

このCD、クベルリの歌は、
よく通る美しい声で、ほれぼれする。

しかし、「悲しい音楽を書くとお客が退屈する」
という意見はいかがだろうか。
明らかに、フェラーラ版では失敗する、
という当時の雰囲気を表していないだろうか。

スタンダールは反対に、
タンクレーディ登場のシーンには、
好意を持っていたようである。

到着シーンを、
「オーケストラは『劇的なハーモニー』でもって
壮大に盛り上げる」と書いており、
続く、「おお祖国よ」のレチタティーボを、
「崇高で心を打つ」と書いている。

先にも書いたように、
このCDでのホーンの歌は、
英雄らしく高らかに舞い上がるものではなく、
押し殺したように、渋く押し出される歌である。

スタンダールは、アリアなどに使われるフルートを、
「悲しみのまじった喜びの表現に合っている」
と書くばかりか、
「絵の中で着衣の大きな襞が
ウルトラマリンで表現された場合に似ている」
と妄想をふくらませている。

ホーンの歌うアリアは、声の質からして、
派手な感じはしないのだが、
小刻みに装飾を神経を使って施しており、
すこし、危なっかしい感じすらするが、
これがロッシーニらしさという事であろうか。

コッソットのCDでは、
この「ディ・タンティ・パルピティ」は、
朗々と滑らかに歌われ、
まるで、歌のお姉さんのように聞こえ、
ホーンのギアチェンジを繰り返しながらの、
アリアとは別物のように思えて来た。

だから、コッソット盤の解説を書いた、
高崎保男氏は、
「ヴァレンティーニやホーンほど華麗な
カント・フィオリートを用いていない」と書き、
相澤啓三氏は、
「コッソットはロッシーニ歌いではない」
と書いているのであろう。

確かにここまで聴いて来ると、
何となく、コッソットの歌では、
炭酸が抜けたロッシーニのように思う聞き手がいても、
おかしくはないと思った。

聴き所である、アメナイーデと、
タンクレーディの二重唱
「貴方を取り巻くこの大気は」
(CD1のTrack12)などでも、
ホーンのCDで、高揚感を持って、
凝集する音楽に眩惑されたのは、
こうした点で大きな違いがあったのである。

声が持っているエネルギーの密度が違う感じである。
3分すぎの、「私には何と辛いことだろう」なども、
糸と糸の寄り合わせ方が全く異なる。
ジグザグのラインが織り合わされている感じが、
ホーンのCDでは感じられ、
コッソットのものでは、
二つの声のラインが並列で並んでいるだけである。

さて、このホーンのCDは、3枚組かつ箱入り仕様で、
かさばる割には、解説にはたいしたことは書かれていない。

しかし、聞き所をびしっと書き連ねていただき、
そのあたりは、かなり具体的なので嬉しかった。

シカゴ大学のフィリップ・ゴッセットが書いている。
「1813年2月6日、ヴェネチアの、
ラ・フェニーチェ劇場で初演された『タンクレーディ』は、
ヨーロッパに旋風を巻き起こした。
スタンダールは、このオペラをロッシーニの、
最高の到達点とした。
この作品の人気は、半世紀後のヴァーグナーが、
『マイスタージンガー』の仕立屋の合唱に、
タンクレーディの伝説のカヴァティーナ、
『ディ・タンティ・パルピティ』を選ばずにいられなかった。
『タンクレーディ』は、
1810年頃のイタリア・オペラの
伝統の枠から、決定的に出てはいなかった。
それが、実際に革命的になったのは、
ロッシーニが、初演の数ヶ月後、
フェラーラで再演させた時に、
悲劇的フィナーレを加えたからであるが、
この版での初演後、彼はオリジナルの、
ハッピーエンドに戻してしまった。
伝統を破るアリオーソは、
ヴォルテールの原作の劇に従ったもので、
アメナイーデの無実を知りながら、
静かな弦楽の伴奏を伴って、
タンクレーディは傷によって死ぬものである。
フェラーラの聴衆は、
この例外的なエンディングに当惑し、
もともとのエンディングにすぐに戻された。
10年にもならないが、
イタリア統一運動の愛国者であって、
文学者であり、タンクレーディを最初に歌った、
アデライーデ・マラノッテの愛人でもあった、
ルイジ・レッキの後継者が、
レッキの書類の中から、ロッシーニの自筆譜を発見した。」

このあたりの話は、これまでも読んで来た通りである。

「様々な意味で『タンクレーディ』は、
ロッシーニの同時代者に衝撃を与えた。
音楽的、ドラマ的な効果を導く、
確信と、正確さ
目的に向かう絶対的明晰さを、
彼等は、この作品の中に見た。
オーケストレーションは簡素で、
時に室内楽的で、楽器の効果が正確に計算されている。
セッコ・レチタティーボがなおも、
形式的にオペラを分割しているが、
各ナンバーは緊密で、内容的にも、
優美な叙情と強いドラマティックなアクションが、
巧妙にバランスされている。
メロディラインは、声の機敏さを示しつつ、
純粋な美しさをブレンドしている。
他の作曲家たちも同様の方向に向かっていたが、
これらの性向と、
新しいイタリア・オペラが新しい力を得ることとなる
確立されたモデルが、
魔法のように調和したのが、
この『タンクレーディ』であった。」

これまでも様々な解説を読んできたが、
このように、タンクレーディが決定的な傑作であることを、
ここまで明記したものはなかったのではないか。

「『タンクレーディ』は、古典的な純粋さと
バランスを持ち、声がその効果を発揮しながら、
すべてを圧倒することはない。
誰も予想しないような状況で、
素晴らしく感動的な瞬間が訪れる。」

このように書きながら、
より具体的な聞き所が紹介されていく。

あとで使いやすいように、番号を付けて見てみよう。
聴き所1.
「第2幕で騎士たちは、
タンクレーディが
オルバッツァーノを倒したことを
デリケートな合唱、
『人々よ勝利者に喝采を』
(CD3のTrack4)で祝う。
まずそれは、木管だけで始まり、
群衆が集まって来ることを暗示して、
全オーケストラが入って来る。
タンクレーディが入って来ると、
ムードが変わる。
彼は、弦楽の伴奏に乗って、
愛らしいフレーズ『栄光への賛美は』で、
複雑な心情を歌う。
この進行は彼を勝利へと推し進めるが、
これは一面でしかなく、もっと精緻なもので、
誇張なしにオペラの世界で、
劇的に音楽的な真実を扱っている。」

聴き所2-1.
「同様に感動的なのは、
第1幕のフィナーレのアンダンテ
(CD2のTrack6)で、
アメナイーデに対しての、
非難の合唱が小さくなる中、
四つの独唱者と木管が和音を保持している。
そして、同じ和音が、
デリケートなアンダンテ、
オーボエ、クラリネットと、
二つのバスーンで軽く伴奏された、
独唱者による四重唱によって、
真実のパトスのパッセージを導く。」

「多くの細部が、このフィナーレでは、
賞賛に値する。」
とあるように、このフィナーレは聴き所満載である。

聴き所2-2.
「ロッシーニによって、その音色が、
少しずつ変えられて繰り返される
オーケストラのフレーズと共に、
アメナイーデの激しい嘆願(CD2のTrack5)。」

聴き所2-3.
「最後のストレッタに先立つのは、
突然、スタッカートの弦楽と、
オーボエとクラリネットの虚ろな響きで伴奏され、
(バスはピッツィカート)関係短調で現れる、
美しい『これまでに、こんな恐ろしい苦痛を』
(CD2のTrack6の4分あたり)である。」

この部分、アメナイーデとタンクレーディのデュオに続き、
アルジーリオとオルバッツァーノのデュオが現れ、
素晴らしい緊張感で聴かせるが、
ピッツィカートの効果は強烈である。
また、クラリネットたちは、
最初のデュオでは現れない。

「異常なほどの『タンクレーディ』の
プリマドンナの離れ業をもって、
オペラ全体を貫く驚嘆すべき、
ロッシーニの芸術性を見失ってはならない。
また、ロッシーニが、ベル・カントを、
この最初の成熟したオペラ・セリアの中心に
持って来なかった、というのも間違いである。
『タンクレーディ』は、
リアリスティックなドラマではなく、
そう判断するのも間違っている。
二つの長いデュエットをもってしても、
アメナイーデが、恋人に、
無実を説明できないことは、
論理的に受け入れられるものではない。
(この問題は、ヴォルテールからある。)
しかし、彼のオペラでは、
特にこれらの二重唱では、
緊密なドラマティックなロジックを追い求めてはいない。
彼は、自身の音楽で、
効果的に息を吹き込めるキャラクターを求め、
そのように、アメナイーデの苦しみを描き、
恋人の騎士のほろ苦い感情を描いた。

聴き所3-1と3-2.
「彼等のデュエットは、このオペラのハイライトに属する。」
(CD1のTrack12、CD3のTrack7、8)。

前者については、コッソット盤と先に比較して書いたが、
また、私が、このホーンのCDで最初に陶酔したのも、
ここであった事を繰り返しておきたい。
ライブのせいかもしれないが、
ジグザグに織り合わされた声の織物の見事さもあって、
ものすごい高揚感である。

クベルリの声が落ち着いて来たせいか、
ホーンとの二重唱が、妙に均質な織物に仕上がっており、
その質感が妙に上質に思えるのである。

後者も、前半は高揚感とは異なる切り口であろうが、
沈潜するような幻想的な無重力感がぐっと来る。
後半は、解放的な表現となるが、歌が進むに連れ、
凝集力が増してすごい迫力になっている。

「このスコアの最大の栄光は、
確かに、第2幕の、
アメナイーデとタンクレーディの
二つのグランシェーナである。」
とあるから、これらもそれぞれ聴き所であろう。

聴き所4.
「アメナイーデの牢獄のシーンは、
ロッシーニが書いた最も深い音楽に思え、
特に、オープニングのシェーナ
(その精巧な感動的なオーケストラの前奏によって)、
(CD2のTrack13)
オープニングのカヴァティーナ、
『いいえ、死は決してそんなに』
(CD2のTrack14)で、
この中で、彼女は、
恋人を裏切ることよりも、むしろ死を願う。
ロッシーニは、メロディを、
イングリッシュ・ホルンの強烈な独奏で伴奏させた。」

ひしひしと迫り来る死をぞくぞくと暗示し、
冷たい牢獄の湿っぽい空気まで感じさせる、
素晴らしい描写となっている。
このCDのクベルリの澄んだ声も、
緊張感を孕んで、空気を切り裂いて行く。

しかし、これより5年早い時期に録音された、
同じクベルリが歌ったもの(フェッロ盤)の方が、
さすがに声そのものの瑞々しさでは有利である。

聴き所5.
「しかし、素晴らしいのは他でもない。
素晴らしいのはタンクレーディの、
『グランシェーナ』である。
もっとも単純にして、
その英雄の感情に深く探りを入れ、
ソラミールを確固と(華々しく)戦場で倒した後、
くっきりと忘れがたいメロディを与えた。」
(CD3のTrack22.)

私は、このフィナーレが、
確かに実験的であることは認めるが、
そんなに感動的とも思えないのだが、
マーラーの交響曲のような、
壮大な日没のようなものを期待しすぎであろうか。

「これら二つのソロのシーンで、
誰でも、このオペラが当時のヨーロッパの
音楽シーンに与えた威力を理解することが出来る。」

「二つの美しいアリアにもかかわらず
(内的な葛藤の後、娘を断ずるシーンが特に忘れがたい
第2幕のオープニング)、
アルジーリオは、いくぶん、造形に欠ける。」

聴き所6.
「彼の輝かしいタンクレーディとの二重唱
(CD2のTrack17、18)は、
しかし、このスタイルの好例で、
ベッリーニが『清教徒』の『ラッパの響き』が、
その高まった一例となっている。」

アルジーリオは、このホーンのCDでは、
少し存在感がないような気もする。
それを補って余りあるのが、
マリリン・ホーンの声の超絶的な装飾で、
天高く龍のように舞い上がっている。

「これらの音楽では、声楽の技巧は、
単に、それに注意を惹き付けるためだけではなく、
感情表出に使われている。
ロッシーニがオリジナルで書いた音符以外にも、
一緒に仕事をした歌手たちのために、
カデンツァや変奏を書いたのは事実である。
現代の歌い手が、ロッシーニの装飾をそのまま歌うか、
自身の版を歌うかに関わらず、
それは感情表出でなければならない。
それが適切に適用された時、
重要で絶対に権威的な次元を、
ロッシーニのスコアに付け加えたことになる。」

このような事まで考えて、このCDの演奏者たちは、
公演に臨んでいるのであろうか。

「後年、ロッシーニの音楽は、
『湖上の美人』の初期ロマン主義や、
『セミラーミデ』の新古典主義の壮大さ、
『ウィリアム・テル』の歴史主義に、
彼を誘う。
これら全てを通じ、
『タンクレーディ』の古典芸術へのノスタルジアは、
スタンダールの言う、
『処女の素直さ』の一例である。
『タンクレーディ』は、
『青春』、『感傷』、『活力』を示しており、
ロッシーニはこうした前代未踏の境地を、
再び完全に捉えることは出来なかった。」

聴き所は、結局、登場シーン以外の、
タンクレーディとアメナイーデの重唱と、
大きなソロの部分ということになりそうだ。

得られた事:「ロッシーニの声の装飾によって、デュエットの高まりが上質な織物のような得も言われぬ効果を発揮する。」
「ロッシーニの時代、悲しい音楽は退屈だと思われていた。」
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by franz310 | 2012-03-31 23:12 | ロッシーニ
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