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クラシック音楽への愛と悲しみの日々
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その286

b0083728_10153225.jpg個人的経験:
私としても、
いい加減にしたいのだが、
アシュドルバーレ伯爵の
快適な邸宅のパーティから、
なかなかお暇できずにいる。
何と言っても、
ロッシーニの権威として、
日本でも人気の高い、
ゼッダ指揮のものがあるとすれば、
無視して素通りすることが出来ない。
マドリッド王立劇場2007と、
銘打たれたDVD二枚組。
セットが立派で、美男、美女のモデルを、
あちこちに配したこの演出は、
晴れ渡った南国の別荘のようにも見え、
さらに快適な空間を生み出している。


登場人物は、一階二階を自由に行き来して、
庭で寛ぎ、テーブルで飲み食いし、
プールに浮かんで、まざしく夏のバカンス。
こんな邸宅に泊めていただけるなら、
是非、私もアシュドルバーレ伯爵のお友達になりたい。

オペラ「試金石」(ロッシーニ作曲)の今回のものは、
マドリッド王立劇場管弦楽団、合唱団の演奏。
2007年4月のライブ。
ゼッダの指揮のロッシーニでは、
すでに、この前のオペラに当たる、
「ひどい誤解」を聴いたが、
あれは、2001年の収録であった。

このDVDの解説は、ゼッダ自身が書いているが、
前に聴いたナクソスのCDの
Bernd-Rudiger Kernという人同様、
スタンダールへの反論がしっかり書き付けられていて、
ちょっとがっかりした。

「この作品が、ロッシーニのオペラ・ブッファの最高傑作とした、
スタンダールの熱狂に賛成することは難しい。」
と、解説の中頃に書かれているのである。

私は、偉大な文豪の言葉通りに、
ロッシーニの傑作と信じて、満足して聴いているのに、
何故、これらの解説を書く人は、
わざわざそれを否定して、
私の聴く気をなくさせようとするのだろうか。

が、良く読んでみると、今回のものは、ちょっと違うようである。

「また、『オペラ・ブッファ』という言葉にも、
賛成することは困難である」と、
続けて書かれているからである。

そう来たか。
どうやら、ロッシーニの傑作であることに、
異議を唱えているわけではないようだ。
スタンダールの「オペラ・ブッファ」という表現が、
この指揮者には気に入らないようなのだ。

では、その言い分を聞いてみたい。

「確かに主題はコミカルだが、伝統的なイタリアの、
オペラ・ブッファとは全く異なるものだ」とある。
ゼッダは、もっと雄大な視点で、
この作品を捉え直そうとしているようだ。

「コミック・オペラには、
ステレオタイプの登場人物がいて、
少ないバリエーションの月並みな喜劇を演じ、
その本来の、
人々を楽しませ、明るくするという目的に対し、
疲弊しきっていた。
それがロッシーニによって新しい生命を得て、
『絶対のコメディ』というコンセプトに向けて、
息を吹き返した。」

ということで、何だかよく分からないが、
壮大な論点である。
この無名のオペラに、新しい光が投げかけられた感じ。
が、その新コンセプトとは何なのか?

「それは、モラルの抑圧なき逸脱の夢
(アルジェのイタリア女、新聞、オリー伯爵)や、
潜在的に破壊的な社会諷刺の練習
(試金石、イタリアのトルコ人、チェネレントラ、
セビリャの理髪師、ランスへの旅)で、
喜劇のテーマに、シリアス、またはセミ・シリアスな糸が、
素晴らしい結合によって結ばれている。
どたばたのユーモアから甘い優しさまで、
辛辣な皮肉から真に高貴な感傷まで、
すべてのものがロッシーニの奇蹟の天才によって、
絶妙なハーモニーの中に溶け込んでいる。」

とにかく、ゼッダは、この作品を画期的なものと捉えているようだ。

「『試金石』は、伝統的な笑劇カリカチュアで、
(アシュドルバーレが変装した、
怪しげなトルコ人が『シジララ』を繰り返し、
耐え難く下手な詩人パキュービオが登場するなど)
高尚な感傷(友人、ジョコンド)、
気まぐれな女性達(ドンナ・フルヴィア、バロネス・アスパージア)、
そして、仕事熱心ながら、
無遠慮な金銭目当てのジャーナリスト(マクロビオ)などと、
結合されている。
女性の主役、クラリーチェは、
これまでのオペラ・ブッファにおける、
迫力のないお転婆娘とは異なる、
知性と落ち着きで演じている。」

確かに、ここに出て来る登場人物が、
非常に生き生きとしていることは、
私も認めるし、彼等が大きな枠組みの中で、
これらの複雑な要素がしっかりと
まとめられているのも魅力である。

ゼッダは、「試金石」は、
単なる「オペラ・ブッファ」ではなく、
時代を進めた革命的ドラマである、
と言っているのである。

「天真爛漫な基本プロットと、ほとんど3時間に及ぶ、
もっと複雑な状況にも耐えるような陶酔的活力、
豊かな音楽の見事な構成のアンバランスについても、
考えてみるべきであろう。」

これについては、私も何も否定しない。
こんなにも沢山の演奏を聴いたが、
やはり、音楽に勢いと独特の美しさがあるのが魅力だ。
どのナンバーを聴いても、心ときめく瞬間があるが、
それは、ある時は楽しく、ある時はシックに響く。

以下、ちょっと、脱線したような解説が続く。

「『試金石』というタイトルは、
昔、金を分析するのに用いられた、
酸にも耐える固い石フリントのことである。
オペラの中では、
クラリーチェのアシュドルバーレへの誠実さをテストする意味で、
パトロンを失い、主人が貧乏になるというニュースである(第1幕)。
第2幕では、アシュドルバーレの、
クラリーチェへの愛の堅牢さをテストする企みの計略で、
結婚の最終拒絶をアナウンスしに帰って来ている、
クラリーチェが男装して演じる架空の兄が現れる。」

このあたりの解説は何度も読んだが、
クラリーチェの兄は架空だったのか。

「この理由からトルコ人に変装したアシュドルバーレの登場は、
純粋なコメディア・デ・ラルテの過度の笑劇風で、
筋の現実的なトーンと強烈なコントラストをなす。」

確かに、第1幕では、このあたりが強烈な山場であろう。
他愛ない会話の連鎖のようなものに、
ここで、いきなり大きなドラマが現れる。
あるいは、ここに来て一斉に、
これまで勝手にやっていた個性的な主人公たちが、
同じ運命に遭遇する、という感じであろうか。

「一方、クラリーチェとアシュドルバーレの愛の戦いは、
コミック・オペラに出て来る、多くの結婚嫌い同様、
優雅に飾り立てられた戦いであって、
誠実な感情に自信のある女性は、
ゴルドーニの良く知られたコメディの、
状況やキャラクターを想起させる。」


このように説明されると、この「試金石」というオペラ、
単純に「オペラ・ブッファ」の代表作と考えていた事が、
非常に恥ずかしくなって来るではないか。

この解説は、先のオペラの題名列挙もそうだったが、
別の作品に脱線する欠点がある。
以下の文章も、もともとはコンマが一つしかなく、
分かりにくかったのを、二分割して見た。

「『試金石』の構成とセミ・シリアスなアプローチは、
音楽劇の中のオリジナルなジャンルの最初のものである。
部分的に補足されてフランス語がつけられ、
『オリー伯爵』と改作された、
ロッシーニの最後のイタリア語オペラ、
『ランスへの旅』に奇妙なほど似ている。」

ということで、ここでも、ここから、
「ランスへの旅」の話に行ってしまっているが、
それよりも、この「試金石」の特徴が書かれた部分が読みたいので飛ばす。

「ハッピーエンドは、主役の女性が、
短い簡潔な句を発するだけでロッシーニ・スタイルである。
『ルシンドは帰っていません。私はクラリーチェです。』
同様に印象的なのは、アシュドルバーレのリアクションで、
『今まで、女性を良く思ったことはないが、
今日、私は、彼女らを尊敬することを学んだ。』」

確かに、この簡潔な言い回しは、
シャトレ座の演奏でも、妙に心に残っている。

ここから、解説は、このオペラの見所集みたいになっている。

「パキュービオのアリア、『ミシシッピの尊大な影』
(取り立て人に扮したアシュドルバーレのシーンが、
彼が取り当てを強要する時の発音で、
オペラを『シジラーラ』と命名し直したのと同様、
ミラノで勝利を収めた)は、
100年にも及ぶロッシーニのオペラの忘却を生き延び、
今日までしばしば言及されて来たものである。
同様にポピュラーなのは、木霊と共に登場する、
クラリーチェの入場、
それから、第2幕の雷雨で、ロッシーニの初期の作品から見られ、
何度も何度も、シリアスなものでも、コミカルなものでも使われた。」

どのシーンも、すぐに目に浮かぶような、
極めて印象的なものだ。
しかし、これらのシーンによって振り回される感情の幅は、
確かにゼッダが言うように、
新しく生命が吹き込まれたコメディと言うにふさわしい。

楽しいシーン、優美なシーン、
迫力のあるシーンを、ここでゼッダは取り出している。

「『試金石』は、さらに、レチタティーボ・セッコの、
拡大された利用によって特徴付けられ、
アシスタントに任せた後年のものとは違って、
これらはほとんどロッシーニ自らが書いた。
(第1幕の大部分は彼自身のもの。)」

何と、では、「試金石」の第1幕は、
かなり貴重な例ということになる。

「初演のため、物語の説明の補助用で、
リブレット作者に送られた、
ミラノで印刷されたリブレットは、
いくぶん多くの詩句を含んでいる。
豊かで寛大なホストにたかって、
彼らの余暇時間を楽しむ、
登場人物たちの間の会話による、
些細なストーリーを補強説明するために、
テキストが多く必要になっている。」

確かに、このオペラは、強烈な個性のバラバラの楽曲を、
強引に寄せ集めた作品という感じがある。
マーラーの交響曲みたいな感じだろうか。

そう思うと、ゼッダは別の例を挙げて来た。
マーラーのライヴァルで盟友でもあった、
リヒャルト・シュトラウスである。

「つまり、『試金石』は、『問題のオペラ』のはしりであり、
特に、今日、有名になった、
『カプリッチョ』と『インテルメッツォ』によって、
R・シュトラウスが、彼の最高のサポーターとなるような、
そうした新しいオペラの祖先である。」

以下、この解説の締めくくりはまことに力強い。

「もう一度言おう。ロッシーニは、未来を予測し、
過去の扉を、何の惜しみもなく、一度に締め切ったことで、
我々を驚かせるのである。」

こうした解説を読んで、今回、再発見したことがあったとすれば、
ロッシーニは強烈な革命児であったということだ。
前回の解説では、それを戯画化という言葉で、
矮小化していたかもしれないが、
今回の解説では、そうした要素は、
もっと大きな世界観の一部として読み直せる。

後年のロッシーニはかなり謙虚な振る舞いが目立ったようだが、
マーラーと同様、20歳のロッシーニは、
私のオペラには全てが書き込んである、
とでも言うかもしれない。

さて、このDVD、表紙を見ても明らかだが、
演出は、プール付きの豪邸が舞台という、
現代風でかなり洒落たものだ。

パリ、シャトレ座のものも、
プール付き豪邸であったが、
あれは、2007年1月のものだった。
演出を手がけたピッツィは、
3ヶ月前のシャトレ座の演出を見てどう思っただろうか。

ピッツィのインタビューも、
このDVDには特典映像として出て来るが、
見たところ、ゼッダと同様、かなりの年配である。

頭ははげているのか、かなり短く刈り込み、
口ひげとあごひげが白い。

が、この人は、この道のプロであるばかりか、
ロッシーニについての意見も熱いのでびっくりした。
「1812年はロッシーニにとって重要な年でした」
などと語り出す演出家は想像していなかった。

シャトレ座の演出のソランが、
僕はよくクラシックは分からない、
と言っていたのとは正反対である。
まあ、それゆえに、ロッシーニの革命的な作品に、
ふさわしい演出が出来たのであるが。

それとは違ってピッツィはかなり語る。
ゴルドーニの影響についても言及し、学究肌と見た。
当時のスカラ座はリアリティを重視したが、
ロッシーニは、そこに、
アイロニーと詩的センスを付加したと言っている。

このあたりで、ようやく演出上の話に入る。
いろんな事が起こるが何も起こらないゲーム、
スペクタクルを演出効果にしなければならない、
と書いている。

登場人物は、みな、何をしていいかわからない、
「無為」の人たちだ、とまで言っている。
しかも、我々が日常で出会うような人々だと言うのである。
シューベルトの時代が、妙に身近になるような発言である。

ゼッダ同様、この人もまた、ロッシーニに現代を見ていた。
だから、こうした演出は必然だったのだなあ、と感心。
食べたり飲んだりするだけの押しかけ客。

マクロビオが最も興味深い人物として上げられており、
現代にもいるような人として、再創造されている、という。

確かに、彼等のすることは、すべてが無目的だ。
これは、どうやら、シャトレ座の方も気づいていたようで、
内容を見てみると、テニスのラケットを振り回すシーンもあり、
食卓を囲むシーンもあり、気になる共通点がある。

しかし、実際に水に入る点でも、
かなり大がかりなセットを用意したという点でも、
こちらの方が本格的である。
何と、彼は、こんな感じの別荘を、
実際に何年か持っていたというのである。

ピッツィは、70年代に作られたヴィラを想定し、
当時見たことのある人を思い出しながら、
彼等がロッシーニの主人公に似ていると考えた。
「試金石」が演じられるのに、
理想の大道具は1970年代の別荘だというのである。
「Roman Dolce Vita」、何も計画せず、カジュアルなスタイル。
「Castel Gandolfo」にある、ピッツィの家にも、
見られるようなものを配しているらしい。

成る程、だから、何となく、既視感を感じてしまうのかもしれない。
何と、小道具まで、彼が持っているものだというこだわりだ。
衣装もまた、記憶にあるものだという。
ピッツィは、それを楽しみ、わくわくしながら再構成した。

それにしても、1970年代とは、
イタリア人にとってどんな時代だったのか。
我々、音楽ファンにとっては、アナログがデジタルになる前、
そう考えると、イタリア人も、
日本人同様、昭和の感じを持っている可能性がある。

シャトレ座のものは、DVD1枚に、
2幕すべてが入っていたが、今回は2枚に分かれている。
まず、1枚目から聴いて見よう。

Track1.ロッシーニを紹介して、日本でも好評を博している、
ゼッダの指揮姿は、序曲から確認することが出来る。
非常にオーソドックスな感じで、指示は克明。
テンポも悠然としている。

Track2.アシュドルバーレ伯爵のプール付き邸宅。
客人が、庭のテーブルで飲み食いしたり、
プールサイドで遊んだりしている。

成る程、ピッツィは、これを40年前の光景として再現したのか。
確かに私にも、懐かしい風景だ。

二階のバルコニーから、ガウンを着た伯爵が姿を現す。
ポロシャツで短パンのパキュービオ(パオロ・ボルドーニャ)が、
自分の詩を披露して歩くと、みんな難を逃れて行く。
パキュービオは、表紙のずぶ濡れの人である。

Track3.アスパージアはブリオリ、
ドンナ・フルヴィアはビッチーレという歌手が受け持っているが、
声はそれほど期待を裏切らなくてよかった。
フルヴィアはかなりふくよかである。

Track4.マクロビオとジョコンド登場。
ここで、二人は白い運動服か、
いきなりテニスラケットが持ち出される。

これも無為の人たちが、
いかにもしそうな行動の典型とされた。

マクロビオは、幾多の詩人も、
新聞の記事で簡単に吹き飛ばされる、
と歌い上げる。
吹き飛ばす動作がラケットの一振りなのである。

新聞を開きながら、こんなものは、
何の関心も起こさない、とジョコンドは反論する。
マクロビオは白髪混じりのスパニョーリという歌手、
ジョコンドは、何となく好青年である。
ヒメネスという歌手が受け持っている。
テニスをしながら、いろいろ論争している。

ここまで聴いて思ったのだが、
会場のせいか録音のせいか、
声に伸びやかさが足りず、いくぶん、
広がりに欠ける音響である。

あるいは、歌手の実力であろうか。

Track5.美しいホルンに導かれ、クラリーチェ登場。
トドロヴィッチという人だが、ぴらぴらの付いた、
ピンクの花柄のワンピースを着たベテランという感じ。
もう少し若い方が良いに決まっているが気品はある。

木霊の役のアシュドルバーレは、二階で健康器具を使っている。
このあたりから、ひねくれた二人の恋人の駆け引きが始まる。

Track6.いきなりアシュドルバーレ伯爵は、
上半身裸になって、二階でカヴァティーナを歌い出す。
マルコ・ヴィンコという人。なかなか渋い顔をした人。
プールサイドで、クラリーチェが聴いている。
後半では、ゆったりしたパジャマみたいな服を上半身に羽織って、
庭で歌い出す。
何とレチタティーボでの二人の会話は、電話越しである。

Track7.彼等のデュエットは、
そのまま電話の受話器を持って行われる。
オーケストラが、軽妙なリズムでドライブする。
ようやく乗って来たのか、
クラリーチェは、受話器を持ってごろごろしながらも、
悩ましい声を響かせて良い。

電話ごしという演出、
素直になれない、二人の関係を暗示していて、
妙に生々しい感じもしてきた。
いきなり夜になったのだろうか、
邸宅は闇に覆われ、両サイドにいる、
恋人たちだけがスポットライトを浴びている。
もどかしい感じが良く出ている。
歌い終わって拍手の時は、
また、明るくなって、プールに人が戻って来ている。
憎い演出だったということか。

しかし、DVD1では、この部分の詩情が際だっている。
コード付き電話がまた、おそらく、ピッツィのこだわりと見た。
懐かしい昭和、いや、1970年代へのオマージュであろう。

Track8.これは、表紙になったシーンで、
このふくよかな女性は、ドンナ・フルヴィアだったのである。
シャトレ座のラウラ・ジョルダーノを見た後では、
イメージが違いすぎるが、
主役はパキュービオのボルドーニャである。
プールに入ったドンナ・フルヴィアの前で、
さまざまな声色を駆使して、
有名な「ミシシッピの歌」を歌う。

「ミシシッピの尊大な小さな影よ、
恥ずかしがらないで、しばしとどまって下さい。
できません、いやです。
影が答える。
私は赤いボラ。それで十分でしょ。
すると、他のが答える。
君はカマスだボラじゃない。
そこで騒ぎが生じ、あるものは泣き、あつものは騒ぐ。
お嬢さん、あなたはカマスだ。
いや、ボラよ。
小さな影よ、しばしとどまって下さい。
ちょっと、そこにいて下さい。
そんな風に言わないで。」

ボルドーニャは、こうした詩の、
会話の内容に合わせ、声色を変えながら、
プールの回りを踊り歩いて、
フルヴィアを楽しませ、
最後は、プールに墜落して拍手喝采となる。

Track9.ジョコンドとクラリーチェの会話に、
マクロビオや伯爵が入って来るレチタティーボ。
シャトレ座の演出ではテーブルを囲んでいたが、
ここでは、果物が置かれたテーブルの横で、
四重唱が繰り広げられる。

何だか箸みたいなものを束ねたり、
ばらばらにしたりしているが、
占いであろうか。
みんなオシャレなカジュアルな服装で、
豪華な邸宅の庭に寝そべったりして、
いかにも気楽なひとときを演出している。

ここからは、伯爵がみんなをペテンにかけるシーン。
そこに、イケメンのファブリツィオ(伯爵の召使い)が現れ、
謎の手紙を置いて去ると、
伯爵は青ざめ、他の3人は、神妙なアカペラを歌う。
このあたりのロッシーニの指示については、
解説にも少し出ている。

伯爵はショックのあまり、
オーケストラ・ピットのあたりまで歩き回り、
家の中に飛び込んでしまう。

Track10.拝金マクロビオのアリアである。
オーケストラが楽しげな伴奏を奏でる中、
マクロビオが汚職の数々をおもしろおかしく歌うので、
きわどい服装の女達の嬌声が響きわたる。

この嬌声も、妙に空虚だ。
心の中では、笑っていない感じ。
ピッツィの演出が、こうした点にも生きているのか、
何をして良いか分からず、
とりあえず笑っておこうと、
閉塞感さえ感じさせる。

指揮者から棒を取り上げたりして、
スパニョーリは頑張っているが、
ちょっとテンポに緊張感がない。

シャトレ座の演奏の方が勢いがあって、
一気に聴かせる感じだった。
これは、ゼッダのせいか。

Track11.合唱団が、伯爵が出て来ない事を心配する。
このあたりに群衆として登場するモデル風の女性がゴージャスだ。

合唱団としては男性合唱を想定しており、
彼女らは歌わないので、悩ましく長い素足を見せた、
後ろ姿だけが点景のように使われている。

ピッツィは、この作品を本当に愛しているに違いない。
こうしたこだわりには、過ぎし日に、
遠い眼差しを向ける彼の表情が見えるようだ。

Track12.伯爵の友人、ジョコンドと、
クラリーチェが語り合っているのを見て、
マクロビオが、アンジェリカとメロードの歌を歌う。
それに合わせて、ジョコンドたちは踊り出す。

すると、テンポが変わって、
アスパージアとドンナ・フルヴィアたちが、
伯爵が財産を失ったことを騒ぎ出す。
私は、取り立てが「日本から来たのでは」と、
パキュービオが言うシーンが好きだ。

トルコ人に変装した伯爵が、
ナチスの親衛隊みたいなのを引き連れて、
あちこちを歩き回って、すべてを差し押さえろ、
(シジララ、シジララ)と歌う有名なシーン。

Track13.各部屋が親衛隊に差し押さえられる中、
クラリーチェが優しい歌を歌う。
先ほどまでの、馬鹿騒ぎの後で、
ジョコンドが、これこそ「試金石」と歌う。
おしゃれな服を着て現れた伯爵は、
親衛隊に見つかり、
校舎の裏ならぬ、木立の向こうに連れ込まれ、
身ぐるみ剥がれて、パンツ一丁になってしまう。

ジョコンド、クラリーチェ、伯爵が、
小さく身を寄せ合っている中、
騒々しい女たち、マクロビオ、ジョコンドは、
いそいそと出立の準備をして、
いかにも冷たく軽薄な感じである。

ただし、持ち物はきらびやかで、
彼等の唱和する声の美しいこと。

Track14.召使いのファブリツィオが、
証書を見つけて来て、すべて解決のシーン。
伯爵はようやく服を返してもらい、それを着て、
客人たちも、召使いたちも集まって来る。

ロッシーニらしい、早口のアンサンブルが素晴らしい効果を上げる。
ようやく、演奏者達のエンジンもかかって来た感じであろうか。
舞台全体の視覚効果も美しい。

得られた事:「ゼッダが現代につながる『問題のオペラ』と位置づけたこの作品に、演出家は、おそらく高度成長期、1970年代へのオマージュを捧げた。」
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by franz310 | 2011-07-24 10:20 | ロッシーニ
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