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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その255

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その255_b0083728_154927.jpg個人的経験:
強烈な個性によって演奏された
LPやCDというものは、
時に、作品のイメージを歪曲し、
カラスが録音した一連のものなどは、
みんな白黒写真の世界に
閉じ込められてしまっている。
例えば、「夢遊病の女」なども、
実際は、こんなイメージかもね、
というのが、このNUOVA ERAの
CDデザインなどから、見て取れる。


このCDは、「FIRST AUTOGRAPH VERSION」とある。
それとこれとは、話が別かもしれないが、
そんな表記からも、こっちが正しい、という感じがしなくもない。

とにかく、今回のCDは、「夢遊病の女」という、
ベッリーニの作品の中でも、
明るく、田園的な晴朗さが満ちた作品に、
まさしくふさわしい表紙デザインとなっていて、
好感が持てるものである。

しかし、このデザインの出所は明らかではない。

私もずっと気づかずにいたのだが、
何故、窓の上に白衣の女が立っているのか?
これはひょっとして、このオペラとは関係ないものでは?
「夢遊病の女」のストーリーを、
今回、詳しく知ってしまった今、
このデザインは限りなく不自然に思えて来た。

Art Directionとして、Maria Cristina Salaとあるが、
デザインした人の名前だろうか。
まさか、この絵の作者?

イタリアのCDにふさわしく、
このあたりの配慮不足が悲しい。
初稿による演奏として、
どこに耳を澄ませて良いのかも、
実は、よく分からない。

ジュリアーノ・カレッラという指揮者が、
アミーナにCIOFIというソプラノ、
エルヴィーノにモリーノというテノールを迎えて、
1994年に録音したもの。

イタリア国際オーケストラ?
合唱はブラスティラバ?
よく分からないが、
XXdella Valle d'Itria音楽祭協賛とある。

この音楽祭、立派なホームページもあるが、
イタリア語でさっぱりわからない。

しかし、このCD解説の方は、英訳もあるので勉強になった。

まったく、シューベルトにも、
「ます」にも無関係な方向に
脱線しているように見えるが、
このCD解説を読んでいると、
シューベルトにも関係する一節が出てくるのである。

また、シューベルトの同時代人として成功した人の作風が、
いったいどんなものであったかも分析されている。
(シューベルトと比較しているわけではないが。)

FRIEDRICH LIPPMANNという人が、
「『夢遊病の女』に関するノート」と題して、
かなり長文の論文を載せているが、
ということで、これは、非常に読み応えがあるものだ。

「『夢遊病の女』の初演時リブレットには、
単に『メロドラマ』と書かれていて、
このオペラは一般には、
シリアス・オペラに属すると考えられている。
しかし、いくつかの見地からは、
これは、セミ・シリアス・オペラに近いものだ。
スイスの村の健康的な空気の中、
貴族のロドルフォ侯を除いては、
シンプルな人々が住んでいる。」

よし、分かった。となった次に、
シューベルトの研究で知られるアインシュタインが、
シューベルトが好きだったオペラを例に出していた事が、
さりげなく書かれている。

「アルフレッド・アインシュタインは、
同様にフランス文学を元にした、
ワイグル作曲、1809年の『スイスの家族』と、
この作品の主題上の類似について述べている。」

この部分は、私にとっては嬉しかった。
シューベルトがあと3年生きて、
イタリアに行っていれば、
このベッリーニにも感心したのではないか、
などという妄想が出来るからである。

が、すぐに、この話は終わってしまうのが、
残念至極である。

「しかし、このベッリーニとロマーニによるオペラは、
パイジェルロによる、
Nina,ossia La Pazza per Amoreなど、
19世紀初頭のセミ・シリアス・オペラの
重要なモデルを代表する他の作品にもっと近く、
部分的には、シリアス・オペラにも近い。
そこには共通の特徴があるばかりか、
(指輪や花が、両オペラでは、同様に、
愛の象徴として重要な役割を担う)
特に、二人の主要な女性が、
超自然的な変わり種になっている点に見られる。」

19世紀初頭と書きながら、パイジェルロ作品は、
1789年のものだとあるのがややこしい。

「1800年頃、あるいは、
この世紀の最初の何十年か、
夢遊病は頻繁に舞台上で見られた。
我々は、多くの作品を上げることが出来る。
1797年、ストックホルムでの、
ピッチーニによる1幕のコミックオペラ、
1800年、ヴェニスにおける、
ピアーによる1幕の喜劇、
1824年、ミラノにおける、
カラーファによるセミ・シリアス・オペラ、
さらにこのリブレットは、部分的改変を受け、
リッチ。ペルジャーニによっても作曲されている。
1822年、ベルリンにおける、
ブルム作曲のジングシュピール『夜のさすらい』など。
ロマン主義は、人間の心の不合理、
狂気、憂鬱、夢遊病などを幅広く取り上げた。」

このように書かれると、オペラというのは、
知らない作曲家もばかすか書ける代物なのだなあ、
と改めて感じ入ってしまった。
シューベルトは全身全霊をかけて、
この分野に取り組んだが、それも当然、
と思えると同時に、歴史に残るものは、
ほんのわずかしかないことに思いを馳せる。

「パイジェルロの『ニーナ』も、
ベッリーニの『夢遊病の女』も、
ハッピーエンドである。
田舎が舞台であることは、
少なくともイタリアにおいては、
ヴェリズモ出現までは、
自動的に、悲劇的色彩の出来事が防止された。
ジョヴァンニ・ヴェルガの小説、
『カヴァレリア・ルスティカーナ』まで、
イタリアにおいては、田園地方でも、
中産階級でも悲劇はなかったのである。
単純な民衆の世界でも、『夢遊病の女』や、
ロッシーニの『どろぼうカササギ』、
さらに、後のドニゼッティ作曲、
『シャモニーのリンダ』のような、
ややこしいことになる問題は現れたが、
これらが悲劇に到ることはなかった。
雰囲気が血なまぐさい情景を許さなかった。
物語を支配するコンセプトは、
アミーナやエルヴィーノが死ぬ可能性のない、
単純なものになった。
かすかなイロニーが、幽霊の物語や、
小作農のコーラス『Qui la selva』に見られる。
コミカルな天真爛漫さによって、
彼らは、アミーナを思って介入する時の
伯爵がせき立てられる時に反映されている。
『彼の心に触れる言葉は何だろう。
あなたのすばらしさ!大胆すぎる。
ああ、伯爵様、かわいそうなアミーナは、
今まで、村の名誉でして・・』
リブレットにおいて、
伯爵が旅館でリサに対してとる、
典雅なふるまいは、
18世紀の喜劇や、
セミ・シリアス・オペラを想起させる。
これは、我々が先に指摘した、
後年のジャンルとの類似性を確実にする。
18世紀イタリアの余韻の議論は、
フランチェスコ・デグラーダが、
下記のような詩、
『私は、彷徨うそよ風に憧れる、
あなたの髪、あなたのヴェールを弄ぶ。
太陽が、あなたの上からにらみつけようとも、
川の流れがあなたの姿を映そうとも』
が、18世紀の牧歌に我々を運び去るのを
最近、特筆している事実にも通じている。
デグラーダは、これらの詩句に、私たちは、
『当時の批評家にもたちまち見破られ、
記録された、時代遅れの理想郷の再訪、
メタスタージオの甘美さへの傾倒、
に連なるスタイルで表現された、
高遠で叙情的な情状酌量』
を見い出すと書いて、正鵠を射ている。」

何だか難しいが、とにかく、このベルカント期のオペラには、
18世紀の伝統が残っており、それは、
同様に、田園の理想郷を求めたものだと言うことか。
そこでは、何でもあり、ということなのだろう。

「『夢遊病の女』のスコアには、
高い質の音楽的着想が溢れかえっている。
この作品は、『ノルマ』や、『清教徒』と並んで、
ベッリーニ最高の作品の一つと、
まさしく評価されている。
ここには、彼の初期の作品、
『ザイーラ』や、『カプレーティとモンテッキ』
にはまだ見られた、何か、成功していない部分、
月並みと表現できる部分は皆無である。
スコアは、ドイツ・ロマン派が、
『Stimmung(ムード)』と呼んだもので火照っている。
ベッリーニのスタイルは、
ここでは、彼のデリケートで悲劇的で、
その言葉の最良の意味での通俗的なタッチで
展開されている。
このオペラでは、我々は、
『ノルマ』における、
『恐れることはない、裏切り者!』や、
『異国の女』における、
『Or sei pago』のように、
情熱のたぎりのようなものを探しても無駄である。
『夢遊病の女』のみを考えると、
ベッリーニを『優しく悲歌的』と評価することが出来よう。
しかし、これは、彼の全オペラを概観すれば、
間違った定義である。
優しく、デリケートな、通俗的なフィーリングが、
『夢遊病の女』を支配しているという事実は、
他のベッリーニ・オペラのどこにも見られない、
スタイルとムードに統一を与えている。
通俗性という見地でも、
『異国の女』の対応部分にリンクする序奏部など、
ベッリーニは新しい重要さを見いだしており、
ベッリーニはおそらく、ロッシーニの、
『ウィリアム・テル』(1929)の合唱を、
想起していたのだろう。
ドニゼッティも、特に、『愛の妙薬』(1832)で、
同様の経路を通った。
『カプレーティ』で、すでにベッリーニは、
『異国の女』の多くに見られた、
音節的、修辞的なスタイルから一歩進めていたが、
『夢遊病の女』では、明らかに長足の進歩を遂げた。
批評家たちはすぐにこれを捉えた。
Ecoのジャーナリストは、1831年3月9日に、
『巨匠は、少なくともこのオペラでは、
レチタティーボと歌の間にある、
いわゆる劇的と言われる音楽システムを放棄している』
と書いている。
この批評家は、たぶん、
ロッシーニの『装飾された歌』の反対を代表する、
『異国の女』における、
音節的なメロディのことを言っているのであろう。
『異国の女』のいくつかのメロディは、
実際は、一つのメリスマもない。
1831年、表現力に成熟を迎えたベッリーニは、
今一度、それらを総動員させた。
ベッリーニはもはや、
ロッシーニの代わりのさらなる限界の
地位を求める必要は感じなかった。
『夢遊病の女』の特徴は、しかし、
ロッシーニ風の『装飾された歌』への、
回帰のようなものであるはずがなかった。
ベッリーニは中道を歩くことが出来た。
アミーナのカヴァティーナのカバレッタや、
アミーナとエリヴィーノの第2デュエット
(アンダンテ・アッサイ・ソステヌート)でも、
パスタやルビーニなど、技巧と表現力を兼ね備えた、
二声のための、いくつもの拡張されたメリスマを書くことを、
ベッリーニがいかに楽しんでいたかを、感じることが出来る。
彼は、すでに『異国の女』の様式から遠く離れ、
そのスタイルは高度で、よりデリケートなものとなった。
ヴェルディは、ベッリーニを、特に、
素晴らしく幅広いメロディを書く作曲家として、
称賛していた。
1898年5月2日、彼はCamille Bellaigueに、
こう書いている。
『彼の最も知られていないオペラでも、
それまで誰も書いたことのないような、
長い長い長いメロディがあります。』
これらの『長いメロディ』の中にあって、
最も我々を捉えるのは、アミーナの、
『Ah! non credea mirarti(ああ、花よお前がこんなに早く)』
(彼女の最後のアリア、最初のセクション)である。
最初の休止は歌の11小節まで現れない。
(この変則的な11小節というのは、
第4節の繰り返しによって生じ、
1-3節の4小節の構造を放棄したことによる。)」

このように、ベッリーニのメロディの特徴に、
長いメロディだということが上げられていることは、
覚えておくことにしよう。

「ベッリーニは、ここでバー10/11まで、
ドミナントの主音の上に強調されたカデンツァを抑え、
和声の処理を伴いながら、
大きな流れを生み出している。
ベッリーニはメロディのリズム変化に鋭く注意を払い、
同じリズムで繰り返される小節はない。
11小節でメロディが終わる時、
我々は、そのメロディの幅広さを称賛せずに居られない。
しかし、オーボエがハ長調のメロディを奏すると、
エルヴィーノが歌う後半、そのコントラストは、
驚くべき効果をもたらす。
アミーナはそれから、ここでも、それから後でも、
イ短調に戻り、エルヴィーノはハ長調でこの主題に応える。
メロディのスパンはさらに長く引き延ばされる。
19小節から36小節まで、1小節から19小節ほど、
エキサイティングではないかもしれないが、
このハ長調が持続するメロディのスパンも
また素晴らしいものである。」

ということで、メロディが長く続く以外にも、
こまめに変化するリズムや調性の対比にも、
興味を持たなければならない。

「アミーナのアリアへのエルヴィーノの音楽的挿入は、
おそらく、この作曲家一人による発案であろう。
ロマーニは、エルヴィーノの言葉を、
アミーナの2連の後に置いており、
事実、ベッリーニは、これらの言葉を、
次のセクションの最初に置き、
レチタティーボのようにした。
アミーナのアリアの間中、
エルヴィーノを黙らせておくと、
彼が求めていた、真にふさわしい表現と、
相容れないことになった。
そして、ベッリーニは、彼に、
美しいフレーズ、『もう、僕は耐えられない』を、
アリアの中に入れて、彼女をメロディの頂点に高めた。
『ああ、花よお前がこんなに早く』は、
恋人たちの間の、書かれざる音楽的対話だとすれば、
エルヴィーノの第2幕のアリアで、
1830年頃、ベッリーニが獲得した
自由さの典型的処理である相対する音楽形式で、
真の対話に出会う。
最初の部分で、前奏曲のように、
ホルンが短調のメロディが演奏されると、
アミーナは、先に始めていたレチタティーボで、
テレサと会話を続けるが、
傍らにエルヴィーノが立つのを見る。」

上手い具合に、ちょうど、ここは、
CD2のトラック6で分けられている。
ピッチカートで始まり、弦が揺れ、
ホルンの悲しげなメロディが印象的なのですぐ分かるが。

「『見て、お母さん、彼は打ちひしがれて悲しそう。
たぶん、彼は、まだ私を愛している。』
エルヴィーノが彼のアリアの第1節を歌うと、
アミーナは落胆した恋人にこう言う。
『ここよ、私は、エルヴィーノ。』
エルヴィーノ『よくもぬけぬけと。』
アミーナ『ああ、落ち着いて。』
エルヴィーノ『どっか行け、偽物め。』
アミーナ『信じて私を、私は悪くないの。』
エルヴィーノ『俺の慰めを全部取っていったんだ。』
アミーナ『無実よ、誓うわ。』
エルヴィーノ『行け、恩知らずめ。』
そして、今、ロマーニのリブレットでは、
こんなには長くない、この興奮した対話の後、
エルヴィーノは、彼のアリアの第2節
『俺の痛みを考えて見ろ』を続ける。
このように、アリアの形式で、対話の場所を用意した。」

ここで、エルヴィーノは、
二つアリアを歌っているのではなく、
アリアを歌い始め、それをかき立てるような対話があって、
さらにアリアが高まって行くことを書いているのであろう。
なるほど。

「さらに、アリアの典型的なメロディパターンは、
最高の意味でのカンタービレで、
レチタティーボにも浸透している。
これはベッリーニだけが到達したものではなく、
ロッシーニがすでにいくつかの例を作っており、
『ナポリ楽派』の後期作品でも、
この技術は知られていた。
ベッリーニはしかし、アリオーソの部分の、
数や叙情性を増し、レチタティーボに織り込んだ。
一聴しただけでは、あるシーンなどは、
レチタティーボがカンタービレに満ちているために、
レチタティーボがどこで終わって、
アリアやデュエットがどこで始まったか分からない。」

こう書かれると、同時代人のシューベルトが書いたオペラなどは、
ここはレチタティーボ、ここはアリア、
と杓子定規に分かれていた印象しかなく、
ベッリーニに脱帽である。

「『夢遊病の女』では、
最初の幕で、エルヴィーノが現れる所で明らかであるが、
アミーナの恋人が、音楽的には、レチタティーボ、
『許してくれ、恋人よ、この遅刻を』と、
さらに4小節を同様のスタイルで歌う。」

このCDでは、この部分はCD1のトラック3なので、
すぐに確認できるが、解説にもそう書いてくれればいいのに。

「しかし、彼の歌はアリオーソに代わり、
それはアリアと見まがうほどのカンタービレに満ちている。
彼の歌は、幅広いカデンツァで閉じられる。
エルヴィーノのアリオーソで伴奏していたオーケストラは、
さらに彼のアリアでもしばしば使われる、
分散和音である。」

確かに、ゆらゆらゆらゆらと、悩ましい伴奏が付いている。

「概して、しかし、ベッリーニは、このオペラでは、
彼の他の作品、例えば、カプレッティやノルマ、清教徒より、
アリオーソを慎重に混ぜ込んでいる。」

ということで、この解説は、いろいろと示唆に富む。
ベッリーニのオペラでは、レチタティーボもアリオーソも、
カンタービレに満ちていて、精妙に仕上げられている模様。

「小さな、ほんの小さな、官能的な間合いが、
ベッリーニのスタイルの基本をなしていて、
彼のすべてのオペラで、こうしたタイプのメロディが聞き取れる。
例えば、1828年のオペラ、『ビアンカとフェルナンド』の、
第2幕のフィナーレのメロディ、『Deh! non ferir』や、
ノルマの祈り『清き女神』を思い出せば良い。」

思い出せ、と言われても、
「ノルマ」なら、まだしも、
「ビアンカとフェルナンド」までは分からない。
ノルマの『清き女神』は、前回のカラスのCD、
「カラス イン ポートレート」にも入っていた。
息も絶え絶えの感じが出ていて、切々たるものである。

カラスは、これを得意にしていたようで、
58年のパリのコンサートで歌う映像も残っている。

「『夢遊病の女』の中では、
特に、『ほら、この指輪』における、
小さな、非常に小さなインタヴァルによる進行は、
魅力的な甘美さを生み出している。」

これは、エルヴィーノがアミーナに指輪を渡す時の、
アリアで、このCDでは、Track4で聴ける。

訥々と、胸に迫る感じを出したもの。

ということで、ベッリーニの必殺技が、
この小休止作戦だということが分かった。

「『夢遊病の女』には、
メロディの思い切ったジェスチャーも見られ、
第2幕のエルヴィーノのカヴァレッタに一例が見られる。
最初から、六度の跳躍があり、
基音の三度上まで飛び、
これは多くのオペラに見られる、
メロディの特徴となっている。
しかし、激しいロマン的衝動を表現するには、
これでは足りず、この三度から主題は、
さらに基音の六度上まで跳躍する。」

なるほど、めちゃくちゃな音の跳躍が、
オペラ的メロディの特徴だったか。

この二幕のカヴァレッタとは、
二枚目のトラック7あたりのことであろうか。

また、以下の部分はこのCDでは二枚目の、
トラック2で聴ける。

「第1幕のフィナーレの
『D'un pensiero e d'un accento(私の想い、私の心)』の
アンサンブルのメロディもまた、
小さな優しいインターバルをおいて進む。
12/8拍子というリズムも、ソフトな効果を出している。
音響が緊張を高めるクライマックスは、
アミーナによって最初に歌われるメロディが、
他の人たちが歌う瞬間に続く。
このクライマックスの効果は、
ベッリーニの最も特徴的なものの一つだが、
私たちはそれほどの注意を払わずにいてしまう。
『ノルマ』(『清き女神』、しかし、さらには、
第2幕のフィナーレ)において、
『テンダのベアトリーチェ』において、
また、『清教徒』において、
ベッリーニはさらにこの音響効果を強調し、
実際、ヴァーグナー(トリスタンとイゾルデ!)
に大きな影響を与えた。」

このように、この解説は、うまい具合に、
ベッリーニが後世に与えた影響についても、
触れて行く。

しかし、ドイツ・ロマン派の極限のような、
「トリスタン」までが登場するとは思わなかった。

「幽霊の物語『暗い空に』(CD1のTrack6)において、
我々は言葉『I cani stessi』の量の増強された強調に気づく。
メロディの進展と共に、クレッシェンドを効かせるもまた、
ヴァーグナーに見られる手法である。」

この合唱は、幽霊が出ると歌うところだが、
軽いリズムで揺れるようで、
まったく内容と音楽が一致していないように聞こえるが。

この「I cani stessi」は、幽霊が来ると歌う合唱に、
ロドルフォその他が絡んだ後、
再び合唱になった時に現れる。
犬たちも皆、伏せてしまって吠えない、
などと歌われるところ。
何だか内容はしょぼいが、
音楽が増強されて行くところは、
確かに素晴らしい効果を発揮している。

「ベッリーニを語る時、
しばしばヴァーグナーの名前が登場するのは、偶然ではない。
ヴァーグナーはシチリアの作曲家から多くを学び、
これを公言していた。
それは若い頃のみならず、
リガで『ノルマ』を指揮した時も、
当時書かれたものの中で、それを称賛している。
後年も、彼はベッリーニへの信奉を温かく語っている。
ベッリーニのオペラを引用して、
ヴァーグナーは、1877年から78年、
ザイドルに書き送っている。
『その単純さ、真実の情熱、感情、
正しい解釈をするだけで、素晴らしい効果を発揮する。
私に関して言えば、これらのものから、
多くを学び、私のメロディ作りに貢献している。
これはブラームスの一派には、
これらの教えはなかった。
そして、年配のフロリモに対して、
1880年、ナポリで、彼はこう認めている。
『ベッリーニは、私の最も好きな作曲家の一人です。
彼の音楽は心そのもので、親密に言葉を結びつけます。』
『心そのもの』は、『夢遊病の女』にぴったりフィットする。」

得られた事:「ベッリーニの必殺業、長大なメロディ、カンタービレに満ちたレチタティーボ、小休止の連発、跳躍による感情の増幅。」
by franz310 | 2010-12-11 15:53 | 古典
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