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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その220

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その220_b0083728_0255371.jpg個人的経験:
歴史的ピアノおたくの
オールト先生のCD、
由緒正しい楽器で演奏しただけ、
と思ったら大間違い。
ショパンの作品に至っては、
何と、フランスのプレイエルと、
エラールのピアノで、
弾きわけられている。
やはり、これを聴いてからでないと、
このセットを扱ったことにはなるまい。


作品9と作品15と作品32と作品62と72は、
CD1で、ショパンが好きだったプレイエル(1842)で弾かれ、
作品27、作品37、作品48と作品55は、
CD2で、よりパワフルなエラール(1837)で弾かれている。

何故、このように分けたかは、
曲想によるものらしく、
後で、少し、その辺りの解説がある。

このブログでは、シューベルトの事を書きたいのに、
今回、ショパンまで暴走してしまうが、
このCDセットの解説には、
フンメルの事も出て来たので、
脱線も、
何とか許容範囲に収まるとしよう。

ショパンの音楽は、
もうずっと昔から愛聴していたものだが、
シューマンやリストとの交流の中で、
一人だけ、熱くロマン派してる感じがせず、
気取った俺様のようなパーソナリティがちらついて、
どうも素直になることが出来ない。

また、ショパンの作品は、
表層的な表現で聞かされる事が多いのも問題だ。

近年では、妙に弱音に終始したり、
やたらテンポを遅くしたりして、
新機軸を狙った演奏も増えているが、
本当に、ショパンとはそんな音楽か?
などと首を傾げて退屈したりする場合があったりする。

往年のショパン弾きしか、
ショパンの様式は再現できない、
などと言う人に、
私も時々賛成したくなることがある。

最近、感動したのショパンは、
ルービンシュタインが復刻されて、
音が良くなったCDだったりもする。

とはいえ、乗りかかったCDボックスである。

そもそも、ヴィーン式と英国式のピアノについて、
なんだかんだと考えながら読んで聴いておいて、
プレイエル、エラールといったフランス式について、
全く読まず聴かずにいるのは、どうも座り心地が悪い。

今年はショパンの生誕200年でもあるし、
いっそ、それにちなむのも良いだろう。

このCDセット、外箱は白鳥デザインだが、
各CDは紙ジャケットに収められている。
これらは全て花を描いた油彩の写真でまとめられている。
どれも古い静物画の一部を拡大したもので、
非常に大味だが、花の香りがむせかえるようである。

これがパリのサロンの香りと言われれば、
ちょっと違うような気もするが。

このブリリアントのCD、
非常に廉価ながら、解説が手抜きでないのが嬉しい。

では、ショパンについて書かれた部分を読んで見よう。

「ショパン:
(1842年のプレイエルと1837年のエラール、
エドウィン・ベウンクのコレクション)
その生涯の終わりにかけて、
ショパンはいくつかの楽器を自由にできた。
『私はピアノを3台持っています。
私のプレイエルに加え、
ブロードウッドとエラールを持っていますが、
ここのところ、自分の楽器しか弾けないでいます。』
(1848年5月13日の手紙より)
ショパンの何人かの生徒や同時代者は、
ショパンのプレイエルへの偏愛を証言している。
ピアニストで教師、音楽ライターでもあった
マーモンテル(1816-1898)は、
ショパン自身の言葉を引用している。
『私が最高の状態にない場合、
指もしなやかにすばやくは動かない。
鍵盤を自由に意志のとおりに出来ず、
キーのアクションやハンマーを思い通りに制御できない時、
私は、エラールの明解で明るく、出来合いの音色を好む。
しかし、私が疲労無く、ここぞという時には、プレイエルが良い。
心の内奥の考えや感情の表現が、より直接的に出来、
よりパーソナルな感じで出来る。
私の指が、そのままハンマーにつながって、
私自身の感覚や目的とする効果を、
正確に、信頼厚く翻訳してくれる。』
現代のピアノに慣れた21世紀の聴衆には、
二つの楽器の特徴的な音質は、
どちらも同様に変わったものに思えるが、
ショパンの時代には全く異なるものと考えられていた。
同時代のピアノ技術者モンタールは、
プレイエルについて、こう書いている。
『ハンマーの衝突は、
音響が純粋、明解に、
激しくさえ感じられるように計算されており、
中心は非常に固く、
柔らかく弾性のある皮でハンマーは注意深く包まれ、
柔らかくビロードのような音を生み、
鍵盤への圧力によっては、
重量感や輝かしさが得られる。』
リストもまた、
ショパンが、『その銀色の少し曖昧な音色や、
タッチの軽さゆえに』、
特にプレイエルを好んだと書いている。」

どうやらプレイエルという楽器は、
非常に繊細なもので、
ちょっとしたニュアンスの違いが表現しやすいもの、
エラールはもう少し、八方美人的で、
現代的なものだったものと思える。

このCDでプレイエルを聴くと、
何となく、響きの浅い、
うすっぺらな板を叩いているような感じがする。

エラールは、残響が豊かで、
一聴すると、現代のピアノと変わらない。
どう考えても、エラールが進化形、
と思えるのだが、そうとも言い切れないようだ。

「ショパンがプレイエルを好んだことは、
彼の弟子、ウィルヘルム・フォン・レンツが、
後年書いた事によっても知ることが出来、
彼は、1872年に、
『ショパンは他の楽器は弾かないと言われていた。
フランス製の中では、それは最もタッチが軽かった。
私のエラールより、楽器がはるかに良く反応した。』
と書き、それに加え、レンツは、
セバスチャン・エラール製のピアノは、
リスト、ヘルツ、ベルティーニに最も合い、
プレイエル製のピアノは、
ショパン、カルクブレンナー、ヒラーの理想であった』、
フィールドのロマンスを歌わせたり、
ショパンのマズルカを快く響かせるにはプレイエルが必要で、
大演奏会にはエラールが必要である、
と言っている。
『このリストとショパンのスタイルの違いは、
演奏における、内向的なスタイルと、
外向的なスタイルの違いや、
フランスのサロンと、コンサートホールの違いと、
言えるかもしれない。
ショパンはエラールについて、端的に言っている。
『殴ってもぶつけても、全く違いはない。
音は常に美しく、その豊かに共鳴する音響によって、
耳はそれ以上のものを捉えることが出来ない。』」

ということで、エラールの豊かな響きでは、
表現しつくせないものを、
ショパンは望んでいたということだ。

それにしても、オールト教授は、
これでもかこれでもかと、楽器の違いを書いてくれる。
ショパンはブロードウッドも持っていたはずだが、
これは何が違うのかも知りたいところだ。
ところが、これについては、
すでにフィールドで使ったせいか、
もう、ショパンでは出てこないので、
期待してはいけない。

「エドウィン・ベウンクのコレクションから、
美しい1837年製のプレイエルと、
1842年製のエラールを使って演奏してみて、
以上述べたこれらのことは全て正しいと感じた。
この録音を始めるに当たって、ショパンが、
『敏感に、疲れさせずに指を動かす準備をして』弾くべし、
と言ったように、ピアノを語らせ、歌わせるために、
プレイエルを美しく響かせるためのあらゆる努力をした。
1770年から1850年の
ヴィーン製ピアノを弾くのに慣れた人は、
プレイエルはエラールより理解しやすいだろう。」

ここで、何と、プレイエルはフランスの楽器ながら、
むしろ、ヴィーンの伝統を保っているような言葉が出てくる。

とすると、ショパンの好みは、
ヴィーン式に近いということになる。
シューベルトとショパンは、
意外に近いところにいるのだろうか。

「この驚くべき特徴について、
ショパンの弟子の、エミーリエ・フォン・グレッチェは、
こうコメントしている。
『ショパンが彼の美しいピアノで弾くのを聴くと、
ヴィーンの楽器に似たニュアンスになりました。
私の豊かでかっちりとしたエラールで出来ることが、
ショパンのピアノではぶっきらぼうで、
醜くなりました。』」

恐ろしく手間のかかる楽器のようだ。
オールトが4枚組CDのうち、
プレイエルで弾いたのは1枚だけなのは、
こうした理由もあるのだろうか。

何しろ、プレイエル作曲の「夜想曲」も、
前回、紹介したように、エラールで弾いているのである。
やはり、華奢な印象だけあって、
簡単にバランスが破綻するのだろう。

「しかし、リストが言った、
プレイエルのヴェールのかかった響きは、
ヴィーンのピアノフォルテとも、
異なるスタイルで弾かないと、
姿を現すことはない。
多くの報告と共に、ショパンの弟子の
アドルフ・グートマン(1819-1882)
による、こんな記述もある。
『ショパンは基本、非常に静かに演奏し、
たまにしかフォルテッシモを出さなかった。』
そして、騒々しく弾いたり、
リストのように、『桟敷席に向かって弾く』と、
音のしなやかさは簡単に損なわれてしまう。」

CDなどで一人聴く「夜想曲」は、
別に、桟敷席に届く音量である必要はない。
プレイエルの響きを、もっと味わってみないといけない。

「それゆえに、プレイエルは、
楽器が歌うことも、
楽器が息を接ぐことも出来ない、
ドラマティックな領域に、
楽器を駆り立てないようにするべきで、
楽器自身を語らせれば、
『夜想曲』にぴったりな楽器なのである。」

このように、プレイエルという楽器を、
何とか使いこなして、その美感を表現しつくそうとした、
努力の結晶のような録音ということで、
このCDは、大変、貴重なものと思えて来た。

最初、何となく気になったぺらぺら感も、
こんな解説を読みつつ鑑賞していると、
それがそれで得難い特質と思えて来る。
音響を聴いてはならない。
何か、語られていることを聞き取る、
というのも、なかなか努力がいる聴き方である。

甘美なことで有名な「作品9の2」で、
オールト先生の自由な装飾や、
思い切ったテンポ・ルバートにうっとりとして、
美女と口ずさむ睦言などを妄想してみた。
確かに、人の声というものは、
エラールのように響き渡るものではない。
そんな感じがして来た。

そう言えば、シューベルトも、
楽器を人の声のように歌わせるのが好きだった。

同じような乗りで、
作品15の3(トラック7)や作品32の1(トラック8)など、
内省的な音楽に耳を澄ませると、
非常に、心落ち着くことは確か。

という事を勝手に考えて、
次の一節を読むと、
どうして良いか分からなくなるではないか。

何と、今度は、エラールこそが、
夜想曲を弾くべき楽器と書かれているではないか。
いったい、どっちなんだ。

「私がショパンの二枚目の夜想曲と、
彼の同時代者の夜想曲の録音に使った、
1837年のエラールが難なく出せる美しさは、
夜想曲を歌わせるのに必要なものに他ならない
その優美でメランコリック、
温かくロマン的な音色ゆえに、
まずは容易に夜想曲を奏でることが出来る。」

慌ててCDを取り替える。
こちらにも、夢見るように美しく、
有名な「作品27の2」が入っている。
これを聴いていると、人の声が、
どうこうというより、リッチな雰囲気だな、
などと考えてしまう。

が、次を読むと、オールト先生は、
ここでも大変な努力をしていることが分かり、
非常に恐縮してしまった。

「事実、ショパンは、エラールについて、
『音響は常に美しく、
たっぷりとした響きである。
それゆえに、
耳はそれ以上のものを求めない』
と書いている。
しかし、美しい音色以外に関しては、
実際、ショパンが要求した、
異なる色彩、ムードの変化を作り出すには、
非常な努力を要する。
ショパンの何人かの弟子が証言したように、
まず第1に、プレイエルと比べ、
エラールのタッチは重く、柔軟性に欠ける。
ウィルヘルム・フォン・レンツは、
1872年に、再度、
『プレイエルは私のエラールよりすぐに反応する』
と書いている。
しかし、エラールにはある質感がある。
それは現代の演奏家に親しい楽器と同じものであり、
それゆえに、現代の音楽生活にフィットするものである。
エラールのピアノは、非常に外向的で、
レンツの言葉では、
『エラールのピアノの明るい音色には限界がなく、
プレイエルのメロウな音色と比べ、
明解で鋭敏、異なるもので、
大ホールの端までその音色は減衰しない』。」

どうやら、オールト教授は、ここでは、
今度は、油絵の具で山水画を描くような、
細心の努力をしているようなのだ。

「夜想曲作品32の2、48の1、55の1は、
特に、美しい1837年のエラールによって、
プレイエルでは到達不能な、
ある種の壮大さを獲得する。」

ということで、作品32や48、55は、
エラールで弾かれているのかな、
と思うと大間違い。
作品32はプレイエルで弾かれている。

とにかく、作品48の1は、聴いて見よう。
CD3のトラック5に入っている。

これは、もはやバラードとでも呼びたくなる、
低音を響かせてニヒルに歌う、重厚な作品である。
これは、中間部で静かな、押し殺したような表現から、
階段を駆け上るような劇的表現に続く作品で、
確かに桟敷席を意識した作品であろう。
この後、テンポが速まって、
胸をかきむしるメロディが切れ切れに歌われるが、
もうこれなどはメロドラマの場面。
確かに、この曲は、エラールで聴くべしである。

では、作品55の1はどうか。
これは同じCDのトラック7である。
この作品は、内省的な、うらぶれたような、
ちょっとグレたような、斜に構えた放浪の主題ゆえに、
いくぶん地味な作品と思っていた。

何故、この作品がエラールにふさわしいのか。

などと思って聴いていると、
中間部で、これまた階段駆け下り状の、
狂乱の場が現れるのだった。
コーダも、何だか技巧見せつけ系である。

こうした劇的対比が出ると、
確かにプレイエルよりエラールだ、
という感じもする。

では、ここで、エラールで聴くべしとされながら、
何故か、プレイエルで弾かれている、
作品32の2を聴いて見よう。
これはショパンの1枚目
(この4枚組のCD2)のトラック9である。

なお、同じ作品32でも作品32の1は、
前述のように、睦言のようにも聴けるので、
プレイエルがよい。

牧歌的に野山を明るく駆け巡る感じの楽想で、
別に、タイトルが「夜想曲」でなくても良い感じだが、
だんだん今日の午前中の空模様のように、
陰りも見えて来たりして、どうも、
追い立てられているような気分になってくる、
まったく落ち着かない夜の調べである。

オールト先生のつけた装飾がまた、
様々なとりとめのない印象を振りまいて行く。

無理矢理、最後は、眠るように終わるが、
確かに指の動きをデモンストレーションする、
ショウピースのような感じの曲。
そう考えると、当然、エラールの方が良いのだろうか。

この後、晩年の境地を感じさせる、
「作品62」が収録されている。
これなどは、いかにも、語りかけるようなメロディが、
心に染みるものであるから、
プレイエルで聴きたいものだ。

響きが浅いので、
かなり微妙なニュアンスで勝負しないとダメで、
確かに、オールト先生も苦心惨憺、
というか、細心の注意で神経を使っているのがよく分かる。
それだけ、ダイレクトに訴える楽器と言うべきなのだろう。
確かに、ショパンという作曲家の魅力は、
こうした、ちょっとした語り口の中に、
そっと心情を垣間見せるようなところに魅力がある。

最後に、オールト先生は、
これらの録音で、楽譜通りではない弾き方をした事について、
弁明を試みている。
これは大変参考になる。

「私がフィールドの夜想曲を録音した時、
ショパンがフィールドの作品を演奏した時に行ったように、
いくつかの曲は自由に装飾してよいと感じ、
繰り返しの変奏も行った。
このことは、弟子のカロル・ムクーリ(1821-1897)が、
『ショパンは、
フィールドの夜想曲を弾く時、
最も美しい装飾を即興的につけるのを、
ことさら好んだ』と言っていることから分かる。
さらに、レンツもミクーリも、
ショパンは自身の作品にも装飾をつけたと言っている。
(作品9も1、2、作品15の2などは記譜されている)
また、あるときは、彼の弟子によって、
異なるフィオリトゥーラが加えられているし、
(夜想曲作品9の2では、それらの二つを採用した)
私もまた動機の再現時には、
いくつかの夜想曲で小さなフィオリトゥーラを加えた。
(作品9の2、作品32の2、嬰ハ短調遺作)」

こうした事は、ちゃんと書いてもらわないと、
なかなか素人には分からずに、
何だか違うぞ、という事になりがちである。

解釈の違い、などと、仰々しく考えると間違いで、
単に楽譜の違いということかもしれないのである。

「死後に発表された嬰ハ短調は、
手稿からの版で録音したが、
ここでは、主部が2/2拍子に対し、中間部が、
ポリメトリカル(右手は3/4拍子で、左手は2/2拍子)で記譜されている。
この夜想曲はすべて4/4拍子で記譜された版もある。
私はこのポリメトリカルなパッセージを、
ショパンが、夜想曲を演奏する時には、
間違いなく使ったはずのルバートに、
似ているものと考えた。
この精神にて、私は他の夜想曲でも、
私がリズミカルな伴奏の上で、
メロディが自由に歌うべきだと感じた時、
ルバートを使った。」

この嬰ハ短調は、ショパンの1枚目、
つまりCD3の最後に入っている(Track12)。
これは先年、某局のTVドラマ、
「風のガーデン」の主題歌になって有名になったものだが、
この解説には、緒形拳や平原綾香は当然出てこない。

この曲は「遺作」とされているが、
1830年の作品とされ、
ショパンの夜想曲としては最初期の作品である。

主題歌となるくらいなので、
非常に歌謡的であるが、
中間部では変化がついて、
一転、ピアニスティックな表現が
見られると思っていた。

しかし、この演奏では、
ポリメトリックにこだわったのか、
不思議な浮遊感はあるとは言え、
中間部の表現はかなり素朴。
ショパンの肉声には、こうした解釈が近いのかもしれない。

逆に、シンプルすぎるので、
あるいはプライベートにすぎるので、
ショパンは、出版を見合わせていたのだろうか。

ショパンの姉のルドヴィカが、
持っていたのを、ショパンの死後、
出版したものという。

先の中間部は、ピアノ協奏曲第2番の一節に似ており、
自作の使い回しと言われたくなかったので、
あえて、出版しなかったのかもしれない。

それにしても、こうした学究的アプローチは、
何だか、ショパンを身近にするな、
と考えたりした。

得られた事:「プレイエルで聴いた後、モダン楽器で聴くショパンは、ヴィブラートがかかりっぱなしの声のような違和感があった。」
「睦言を妄想するには、ヴィーン式に近いプレイエルである。」
by franz310 | 2010-04-04 00:26 | 音楽
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