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クラシック音楽への愛と悲しみの日々(一枚のLP、CDから「書き尽くす」がコンセプト)
by franz310
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名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その204

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その204_b0083728_2218758.jpg個人的経験:
リタ・シュトライヒの歌う、
アリャビエフ作曲の
「夜鶯」を聴きながら、
彼女がシベリア出身であったこと、
アリャビエフが、同様に、
シベリアの人であった事に、
ついつい、思いを馳せてしまった。
このロシアの作曲家は、
1787年生まれというから、
シューベルトの同時代人である。


橋口久子という人の訳によると、
この歌曲はこのような内容のものらしい。

「うぐいすよ、私のうぐいす
美声の鳥よ、
おまえはどこへ飛んでいく?
夜通しどこで鳴くのかい?
うぐいすよ、わたしのうぐいす
美声の鳥よ

飛んでいけ、私のうぐいす、
どんなに遠くまでも、
青海原の上、
異国の岸辺までも。
うぐいすよ、私のうぐいす
美声の鳥よ

おまえが訪れるどんな国でも、
どんな村や町でも、
どこにも見つかりはしまい
私ほど不幸せな者は!
うぐいすよ、私のうぐいす
美声の鳥よ」

改めて見て見ると、かなり大人の歌である。
また、エキゾチックな小唄と思っていたが、
意識すると、かなり、ロッシーニ風でもある。

そういった意味で、シューベルトの時代を、
忍ばせる何かがあることは確か。
それを民謡調が、ほぼ、覆い隠しているが。

同様に自然界になぞらえた、
シューベルトの「ます」同様、
自然の中における自由さが、
詩の基調となっているが、
結局は男女の関係がほのめかされている点も、
こじつければ共通点とも言える。

このアリャビエフ、一説によると、
この時代にあって日本人に会った、
数少ない西洋人の一人である可能性がある。

井上靖の小説、「おろしあ国酔夢譚」に、彼の名前は出ている。
この小説家は、平成の初めに亡くなったので、
もう没後長い歳月を経ているが、
近年では、「風林火山」が、
大河ドラマに取り上げられたりもしているので、
なおも、読み継がれている人気作家と言っていいのだろう。

しかし、多くの歴史小説で知られ、
終戦後の風俗などを留めた恋愛小説などが、
絶版になっているのは残念なことだ。

時折、古書店で見つけて購入して読んでみると、
昭和の良き時代を彩った、活力と品位がある、
魅力的な人間像が眩しく、
懐かしい感情がこみ上げて来る。

良い時代が失われてしまった事が、
改めて思い出されると共に、
なおも生き続けるものに対しても、
ふと、思い至るものがあったりする。

さて、この「おろしあ国酔夢譚」であるが、
映画化もされたので、かなり人口に膾炙した作品のはずである。

1782年、つまり、シューベルトもアリャビエフも生まれる前、
伊勢を出航した帆船神昌丸が駿河沖で難破、八ヶ月の漂流のうちに、
アリューシャン列島に漂着、船長の光太夫一行は、
極東経営を検討中のロシア人によって捉えられてしまう。

光太夫は、この捕虜生活のうちに、
ロシア語の習得に励み、最後には、
シベリアを横断して、ロシアの首都にまで足を伸ばし、
エカチェリーナ二世に帰国嘆願を申し出た。

アリューシャン列島からカムチャッカ半島へ、
半島をこれまた横断、さらにオホーツク海を渡る、
というだけでも、恐ろしい道のりである。

オホーツクからは大陸を横断、
バイカル湖沿岸のイルクーツク、オビ川流域のトボリスクを経て、
モスクワ経由でペテルブルクに到る。

こうした漂流民は、断続的にあったようで、
何と、1760年代にはモスクワ街道という、
大陸横断道路が出来ると共に、
イルクーツクの街は商業で賑わい、
そうした漂流民たちに、
日本語学校まで作らせていたという。

光太夫たちは、この街に1790年に到着。
恐ろしい道すがら、仲間は次々に死んでいる。

そのような状態で、ようやく、到着した、
人が住める街がイルクーツクであった。
彼らは、そこで、今では閉校になっている
日本語学校の再開を命じられる。

国を出て8年が経っている。
実際、一行のうちには、現地での生活に快適を覚え、
その求めに応じるものも出ていた。

しかし、光太夫は、まだ帰国の方策を考え続けている。
ここで、博物学者のラックスマンと出会ったのが、
彼らに光明を与えた。
ラックスマンは日本に興味を持っており、
光太夫と一緒に日本探検がしたかったからである。

「帰国願いが都には届かないで、
途中で握りつぶされている」というのが、
ラックスマンの推測であり、
「この上はお前自ら上京して、
直接皇帝陛下に嘆願する方法しかあるまい。
陛下にお目にかかるのは容易なことではないが、
わしが万事取り計らってやる。」
これが彼の提案であった。

1791年、彼らはペテルブルクに向かって出立した。
そして、モスクワとの中間地点、
西シベリアの行政、軍事、宗教的中心とされる、
トボリスクに到着した。

ここでの描写は、まるで、今回取り上げる、
このCDの表紙のような感じである。
「この町では、朝夕牧夫が家畜の群れを追い立てて通る光景が見られた。
牧夫や家畜たちの吐く息の白いのが光太夫には珍しい見物であった。」
この「ロシアの農民」という絵画は、
Venetsianovという画家のものであるらしい。
可愛らしい少女が、両手にそれぞれ馬を引いている。
帽子はかぶっているのに、足は裸足なのが奇妙であるが、
帽子と着衣の新鮮な紅色が美しい。
これと同じ色でCDのタイトルが入っている。

さて、ここからが本題だが、この小説の第五章には、
このような出来事が印されている。

「知事はア・ウェ・アリャビエフという人物であった。
学問や芸術が好きで、この町に初めて劇場を建て、
印刷所を作ったことを何よりの自慢としていた。
毎夜知事の邸宅には、この町の数少ない知識人が招かれて、
一つのサロンを作っていた。
光太夫はラックスマンに連れられて、
この知事の家の夜の集まりに顔を出した。」

何と、18世紀ロシアのサロンに出入りする日本人!

「そこで二人の人物に注意を惹かれた。
一人は優れた作曲家として知られている知事の息子であり、
一人はこの国の有名な思想家で、
シベリアへの追放途上にあるラジシチェフという中年の貴族であった。
どちらもこれまで見たことのない型の人物であった。
作曲家の方は口を開くと人の悪口だけが飛び出した。」

このように、トボリスク知事の息子として、
わがアリャビエフが登場した、
と、小説を読んだ時には思っていたのだが、
この年が、1791年だとしたら、
実は、作曲家はまだ4歳の小僧である。

井上靖は、むしろ、ラジシチェフを書きたくて、
ついでにアリャビエフを登場させたのだろう。
「ラジシチェフは1749年にモスクワの貴族の家に生まれ、
七歳までサラトフ県にある父の領地で過ごし、
後にモスクワで学び、十五歳の時にペテルスブルクに移って、
一時その地の幼年学校に席を置いた」などと、
特に必要ない説明をしたあと、
この人が農奴制の反対者で、四つ裂きの刑を宣告され、
その後、減刑されて、シベリアのイリムスクに流される途上にあった、
という事を続けている。

この人は種痘の実践者でもあり、
ロシア革命思想の先駆者でありながら、
最後は1802年に自殺したという略伝が、
ざっくり記されている。

一方、作曲家のアリャビエフはこれ以降、登場しない。
研究熱心な井上靖のことであるから、
アリャビエフについては研究し、
おそらく、有名なガリ・クルチのレコードも聴いたことであろう。

名曲・名盤との邂逅:1.シューベルトの五重奏曲「ます」その204_b0083728_22183499.jpgこのガリ・クルチについては、
あらえびすが、「名曲決定盤」の中で、
このように紹介している。
「二十世紀の初頭、
コロラチュラ・ソプラノの人気は、
テトラツィーニが一人占めであったが、
ガリ-クルチがローマから
アメリカに乗り出すようになってから、
完全にその人気を奪われてしまった。」
と書いているから、
今から100年前の大家であった。


「この人の声は純粋で清澄な上、
不思議な輝きと潤いがあり、
情味と魅力においては、
旧時代のあらゆるソプラノを
圧倒したばかりでなく、
年齢のハンディキャップさえなければ、
ダル・モンテといえども歯がたたなかったはずである。」
などと激賞された人であった。

「楽器のように均勢のとれた非常に表情的な声は、
ガリ-クルチの強みで、その上、声量も相当あり、
若い頃はなかなか美しくもあったらしい。」

ただし、アリャビエフに対する言及はない。
一方、このようなガリ-クルチに、
前回のシュトライヒは比べられたことを思い出そう。

あらえびすによると、
「やはり『ソルヴェイクの唄』と『聴け雲雀の歌声を』を
採らなければなるまい。これは電気の初期のレコードだが、
あらゆるレコードのうちで一番売れるそうだ。
十年間に恐らく何万枚と売っていることだろう」とあり、
ガリ-クルチの人気については想像できるが、
これと同様の現象がシュトライヒにおいても起こったのだろう。

前回の解説にはそうあった。

私は、このガリ-クルチのLP(SPの復刻)を聞きなおし、
ポンセの「エストレリータ」などからも、
強烈なイメージを受けた。
かなり、古い人のイメージだが、
ポンセとなると、ちょっとナウである。

今回、この人の歌で、「夜鶯」を聞き直してみると、
いくぶん速いテンポで、
小技を要所に効かせるだけで、特に思い入れもなく、
さらっと歌っているような感じであった。

このような大家の歌ったレコードであるから、
井上靖の周辺にも、アリャビエフを聴かせた人もいただろう。

とはいえ、井上靖の小説を読む限り、
この美術評論家でもあった人は、
あまり音楽について、
興味を持っていなかったような気がしている。

絵の展覧会や画家は頻繁に登場人物となるが、
音楽会が出て来たり、音楽家が登場したりすることはなく、
音楽好きの青年が、「レコード音楽」を部屋で聴く程度である。

それが、ガリ-クルチだったりすれば面白かろうが、
音楽で失意の女性を慰める小説の展開からすると、
もっと新しい音楽のイメージであった。

さて、光太夫は、この後、エカチェリンブルク、
カザン、ニジノゴロドで半日休息したが、
後は昼夜兼行でモスクワに向かったとされている。

前回聴いた、シュトライヒが生まれた、
バルナウルの近くの都市、ノヴォシビルスクは、
バイカル湖近くで、ラックスマンと会ったイルクーツクと、
アリャビエフの父が知事をしていたトボリスクの間に位置するが、
井上靖は、この間の町々についてはすっ飛ばしている。

「大森林にはいると、
永遠にそこから出られないのではないかと思うほど
何日も何日も大森林の中の旅が続き、
樹木の一木もない大雪原へ出ると、
またそこの旅が何日も続いた。」

そんな描写だけであるが、日本の南北縦断くらいの距離がある。
それにしても、リタ・シュトライヒの一家も、
ものすごい所からベルリンに来たものである。

さて、井上靖が、「おろしや国酔夢譚」の中で、
これ以上は書かなかった、アリャビエフについて、
今回のCDでは知ることが出来る。

アリャビエフの「ピアノ三重奏曲 イ短調」を、
高名なボロディン・トリオが演奏してくれている(世界初録音)。
シャンドスから出ている。
その解説を見ればよい。

一聴して、第3楽章(終楽章)が、
ものすごく異国情緒を感じさせ、
彼の代表作、「夜鶯」的と言えるだろう。
アレグレットとだけあるが、
跳躍するようなフレーズが出て、
いかにも民謡の変形調である。
しかし、この楽章が一番長く

第1楽章は、7分10秒、
「乙女の祈り」に似た物憂い序奏があって、
意味深な感じがするが、
だんだん、三つの楽器が大きな表情を見せるにつれ、
いきなり、ピアノが駆け巡るパッセージが現れる。
これはもうほとんどフンメルではないか、
といった展開となる。

ピアノの高音から低音までを駆け巡り、
ハイドンやモーツァルトとは、明らかに違う精神がある。
弦楽器が大きなため息のような楽節を出したりすると、
ピアノは伴奏に徹し、何だか不思議な緩急自在な幻想曲となる。

初録音ということからか、
さすがのボロディン・トリオも、
何だか、どう向き合ってよいか分からない、
といった風情がなくもない。

第2楽章は、4分49秒で短い。
歌謡的な楽章で、アダージョである。
ピアノのさざ波に乗って、
ヴァイオリンが叙情的な歌を奏でる。
チェロも歌を歌って、古典派の伴奏風ではない。
しかし、フンメル風のような気はする。
何だか蜃気楼のような、夢想的なもので、
推進力がないので、ただ耳を澄ますような表現しかできない。

第3楽章は、その点、明快なアクセントがあって、
民族舞踊風なので、もっとじゃかじゃかやっても良いかもしれない。

さて、Marie-Claude Beauchampの書いた解説には、
この曲の解説は充実しておらず、
もっぱら、アリャビエフを取り巻く状況について述べている。
「19世紀初頭、
ロシア知識人層は、三つの重要な出来事に揺り動かされた。
まず、フランス革命であり、その民主的な関心は、
1825年のデカブリストの乱にまで達した。
第2にナポレオン戦争で、国民意識を高め、
最後に、西欧からのロマン主義運動の到来があった。
この熱狂がアリャビエフの生涯にわたって木霊している。
1787年、トボリスクに生まれ、ナポレオン戦争の前線に従軍、
ペテルスプルクに住み、デカブリストと交際した。
1828年、証拠なき殺人罪で、シベリア流刑となる。」

このように、アリャビエフは、
ロシアのロマン主義の走りのような生涯であったようだが、
シューベルトが生まれる10年前に生まれ、
シューベルトが亡くなった年に、追放刑に処されていて、
その生涯は、さながら小説のようなものだったであろう。

アリャビエフは、シベリアを下りながら、
幼い日に見た、極東の異人のことを思った、
などというオチはいかがだろうか。

先に、井上靖の小説で、ラジシチェフという思想家が出て来たが、
まさしく、それと同様の人生を、この作曲家は送っている。
しかし、アリャビエフの音楽家としての活躍は、
実際は、ここからだったということだろうか。

「彼は彼の地に1832年まで住んだが、
療養のためにコーカサスへの転地は認められ、
南方にいる間に、アリャビエフは民族音楽に目覚め、
民謡を採取し、これらは彼の作品を彩ることとなる。
アリャビエフは様々なジャンルの作品に手を染め、
管弦楽曲、合唱曲、舞台音楽、室内楽に加え、
彼は200曲の歌曲を書いた。
デカブリストのAnton Delvigの書いた詩による、
歌曲『ナイチンゲール』は、何とかレパートリーに残っている。
1950年にモスクワで出版された、
アリャビエフの『トリオ イ短調』は、
初期ロマン派期におけるロシア最高の室内楽の一つとさせる。」

これだけの解説では、作曲の時期もわからず、
その後の作曲家の生涯も伝えず、
非常に物足りないが、
「夜鶯」以外のアリャビエフが聴けるのは大変貴重である。

また、冒頭に掲げた詩が、
デカブリストの作というのは本当だろうか。
ものの本には、ロシア民謡ともある。

初期ロマン派といっても、
シューベルトのような内省的なものではなく、
ロマン主義と聴いて思い描く、精神の奥底を追求する風でもない。
やはり、ピアノの名技的な点が前に出た、
フンメル風としか言いようが思いつかない。

「おろしあ国酔夢譚」の光太夫は、
アリャビエフに会ったかもしれないが、
この曲を聴くには、まだ40年を待つ必要があっただろう。

なお、光太夫は78歳まで生きていたというから、
ちょうど、彼が亡くなる頃に、
この作品は産声を上げたのかもしれない。

光太夫は、10年の年月を異国に彷徨い、
何とか女帝の許しを得て帰国するが、
鎖国下の日本の処置は厳しかった。

ラジシチェフやアリャビエフも犯罪者として追放されたが、
光太夫もまた、そのような扱いを受けたまま、
余生を監視下に置かれたのである。

さて、このCDの前半には、名作、
チャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出」が収められていて、
むしろ、アリャビエフは付録である。

解説も、こちらは3倍くらいある。
「『あなたは私に、かつて、ピアノ三重奏曲を書くように、
と言ったことを覚えていますか。そして、私が、
この編成が好きではない、と言ったことを。』
1881年12月、ローマから、
ナダージェダ・フォン・メックに宛てた手紙の一節である。
同じ手紙で、チャイコフスキーは、この裕福なパトロネスに、
ある意味、彼女を喜ばせるために、
またある意味、これらの編成の困難さを克服するために、
この編成を試みようとしている旨を書いている。
しかし、これはすべてが真実ではない。
10ヶ月も前に、ニースにいたチャイコフスキーは、
出版者のユルゲンソンから、
高名なピアニストでモスクワ音楽院の創設者であった、
ニコライ・ルビンシュタインが、パリで亡くなったという、
悲しい知らせを受け取っていた。
1854年に母親を亡くす以前から、
チャイコフスキーは死の理不尽さを知っており、
今度、それは、彼から、
気むずかしいが、忠実であった友を奪ったのである。
この痛々しい喪失に対して、ルービンシュタインの芸術への、
讃辞を込めて、このピアノ三重奏曲は書かれたのである。
『ある偉大な芸術家の思い出に』、献呈されたこのトリオは、
1882年の最初の二ヶ月に熱狂的な状態で作曲された。
それは二つの楽章からなり、
最初の楽章は、『Pezzo elegiaco』と題され、
巨大な不規則なソナタ形式で書かれていて、
次の楽章は、さらに二つの部分に分かれている。
パートAは、主題と11の変奏からなり、
パートBは、12番目の変奏曲と、
終曲、コーダを兼ねている。
チャイコフスキーをニコライ・カシューキンは回想して、
第2楽章のテーマは、1873年に、
彼がルービンシュタインと一緒に、
モスクワ近郊で過ごした際、
土地の農民が歌い踊った時の記憶によるものだという。」

ということで、この曲も、
このCDの表紙絵画に近いものがあるかもしれない。

「このトリオは、モスクワ音楽院の私的な会合で、
ルービンシュタインの一回忌、
1882年3月23日に初演された。
この時、チャイコフスキーは海外にいたが、
第2回めの演奏には立ち会って、大規模な改訂を行った。
公式な初演は、1882年10月30日、
モスクワで行われ、聴衆には好評だったが、
批評は冷たかった。
作曲家に乞われるがままに、
タニェーエフのピアノ、Jan Hrimaryのヴァイオリン、
ウィリアム・フィッツハーゲンのチェロで、
この曲は何度も演奏された。
チャイコフスキーの悲劇的な三重奏曲は、
彼の生前から人気を博し、
1893年11月には、モスクワとペテルブルクで、
作曲家の記念コンサートが催された際にも取り上げられ、
作曲家は賞賛を受けている。
チャイコフスキーの最高の成果ではないものの、
彼の作品の重要な部分を占め、
最もポピュラーなチャイコフスキーの室内楽となっている。
1942年に、Leoniede Massineが、
プーシキンの詩による『アレコ』という、
彼の交響的バレエにこの曲をオーケストレーションして使ったが、
彼によると、チャイコフスキーのこの曲は、
この詩におけるジプシーの雰囲気に完全にマッチしているという。」

というような事が書かれている。
ただし、この曲は今回のメインテーマではないので、
深追いはしない。

得られた事:「『ナイチンゲール』の作曲家アリャビエフによって、我々日本人はユーラシア大陸を横断し、シューベルトの時代を夢想できる。」
by franz310 | 2009-12-12 22:29 | 古典
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